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【芸術の20世紀 喪失宣言】ー現代アートに残された最後の提案          

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    ※『芸術の20世紀 喪失宣言の説明』と言うカテゴリで、以下の
     「宣言文」の説明をしています。
     そちらと合わせてお読みになるとわかりやすいと思います。
     右側のカテゴリから選択して頂くと表示されます。

目次


      
      はじめに

    Ⅰ.【芸術の20世紀 喪失宣言】
     ⑴宣言文
     ⑵宣言の根拠
      1.≪芸術の20世紀≫は喪失していた
      2.21世紀以降の未来へ向けて、新たな芸術を創造することが可能な時代環境
       を改めて設定し直す必要がある
      3.現状に至って、時代を喪失させることが最良の策と判断した
      4.100年回帰の根拠
      5.年代区分のまとめ
     ⑶具体的な≪喪失≫について
      1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと/「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう
      2.≪喪失≫の実践について
       ①教育の場において
       ②美術館の展示内容や企画について
       ③マスメディアとの関係
       ④「宣言」の再検討
       ⑤空想上の体験  
    Ⅱ.【真術の紀元 宣言】
     ⑴宣言文
     ⑵新たに区別された≪真術≫について
      1.≪真術≫を区別する理由
      2.≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義
     ⑶≪真術≫の不可能性
      1.≪真術≫は不可能なのか?
      2.≪真術≫に残された可能性
      3.≪真術≫における「迷い」について/「迷い」の時代へ
    Ⅲ.【この「宣言」の原点】/芸術の果たすべき責任
     ⑴芸術は「非生産的」であり「唯一無二」である
       
       おわりに




はじめに

     
      はじめに


「20世紀」が半ばを過ぎたころ、1960年に生まれました。

30歳になる頃まで芸術や美術に関わる機会はありませんでした。
それから20年以上も経ちましたが、いまだに、なぜ美術に関わりを持つことになったのかは、よくわかりません。

『もしも、「芸術の中心」という場所があるのなら、そこを見に行きたい』
そういう気持ちでこの文章を書きました。


団体や組織には属していません。
個人的な活動歴と言えるものもありません。


この「宣言文」は、その「わたし」が書きました。



初めに、この「宣言文」に書いてあることは、私が言っていることと言うよりも、いま現実に起きていることだと思っています。

人類は、気が遠くなるような年月をかけて「人間」に成るために世代をつないで来たのだと思います。
そしていまに至って、ようやく人類が、これまでにはなかった「型破りな種」としての「人間」に成りつつあるのだと思うのです。

この「宣言文」には、その「型破りな種」に成りつつある「人間」を象徴する特徴として、「芸術」という「人間の行動習性」について書いてあります。
その「芸術という行動習性」が受け入れられ、まったく普通のことに成った時に、人類と言う「種」は少しだけ「人間」に近づくことが出来るのだと思っています。

ただし、これは、人間を特別扱いしようという話でも、人間の自然に対する思い上がりという話でもありません。

「人間」だけでなく、「すべての種」が「型破りな種」であるのは確かなことです。
しかし、人間にとっての「最も特別な種」が「人間」であるということは、私たちにとっては、それ以上に避けようのないことなのです。
それと同じように、「いま」を生きる者にとっては、「現在」こそが「最も特別な時代」であり、私たちは、その「現在」において「人間に起きている変化」からも、まったく逃れようがないのです。



その「変化」が、いつ収束し誰の目にも明らかな「変容」となって現れてくるのかはわかりません。
たかだか「芸術と言う人間の習性」だけに限った話だとしても、それは、われわれの想像を遥かに超えていることでしょう。

でも、それは、確かに100年以上も前から動き始めていることで、今も少しづつ進行していることなのです。

そして、どうやら、この考えが私の中では揺るぎないようなのです。
つまり、これは、私の考えたことなどではなく、すでに起きている事実であるということなのです。


芸術に限ったことでもないのです。
人間の社会全体に関することだと思っています。

芸術や哲学には、人間や社会を、人間が自ら生み出してしまう「拘束」から開放するという役割があると思うのです。
単なる娯楽であるとは思っていません。

芸術や哲学に関わる者は、好むと好まざるとにかかわらず、その役割を負わされているのだと思います。



もし、そんな風に思う方がいらっしゃれば、是非この「宣言文」を読んでみてください。
きっといいと思います。

もし逆に、『娯楽でいいじゃないか、おもしろければいいだろう』という方がいれば、特におすすめはしません。
わたしが、すすめなくても、これを読む人は居るでしょう。


それでも、なかには『そんなことを言われたって読まないよ』という人はいるのでしょう・・・・・

・・・・・私たちは、あなたを置いて行くしかありません。



きっと、今に、この「宣言文」に書いてあることが「あたりまえ」に成って、その時には、きっと、すべての国、すべての人の中に、一つづつの「芸術の中心」が生み出されているでしょう。

それこそが、わたしが見に行きたかった場所です。


いま、そこに最も近い位置に立っているのは、、あなたなのかもしれません。













【芸術の20世紀 喪失宣言】 ⑴宣言文


    ⑴ 宣言文


『≪芸術史上の20世紀≫を≪喪失の世紀≫とし、1914年~2013年の100年間を芸術史から喪失し、われわれは時代を100年回帰し、2014年(本宣言発表時)をもって芸術史に於ける≪新生芸術の20世紀元年≫とすることをここに宣言する。』


※以下において、「芸術」とある場合、主に美術を想定しいる。
しかし概念としては芸術全般にも当てはめることができると判断し、「芸術」としている。
 
※以下において、「われわれ」または「我々」とある場合、本宣言の宣言者(私自身)とその賛同者を指す。
但し本宣言を発表する時点での現実の賛同者は存在しないし、また、現実の賛同者を想定しているわけでもない。
この「宣言」に対して、少しでも共感する人がいれば、その人が、その時点で「われわれ」の一人となるだろう。


 


 ⑵宣言の根拠 1.≪芸術の20世紀≫は喪失していた


以下に、この「宣言」を発表する理由をあげる。

1. ≪芸術の20世紀≫は喪失していた

20世紀の芸術において、私が第一番に思うことは、「~イズム、」・「~イスト」・「~主義」・「~派」、さらに、それらそれぞれに「ポスト~」・「ネオ~」、そして、それらの複合型と数え上げたらきりがないくらいの主義主張やスタイルが、次から次へと生み出されていったということだ。


それらは概して短命で、次に替わるものが現れたとたんに、古臭く感じられ置き去りにされた。
そして、今、21世紀に入って13年が経過し、20世紀を振り返った時『あれはなんだったのか?』という思いを打ち消すことができない。

知識として後から知ったことも含めて、どうしても釈然としないというのが本音であり、それら「流行り廃り」としか言いようのない「~イズム」と「芸術」という言葉が全く一致しないのだ。


私自身が芸術とのかかわりを持つ以前から、その違和感はあったのかもしれないが、『まぁ、そんな時代なのだろう?』と言う程度に漠然と考えていたように思う。

もちろん、≪芸術の20世紀≫においても巨匠といわれる人は沢山いるわけだが、彼らの作品を見ると、必ずと言っていいほど、「感性」の前に「理性」が働かされてしまうような、歪んだ感覚にとらわれてしまう。

常に、先に頭で考えさせられてしまうのだ。
その『~させられてしまう』が違和感の原因なのだと思う。

しかし、ここで個々の作家や「~イズム」を批判するつもりは全くない。
それをすると話がわかりにくくなってしまうし、この宣言とも無関係なので、ここでは≪芸術の20世紀≫という「時代」が提供し続けた「芸術」は、私の中の芸術と(そして恐らくかなりの数の人の中の芸術とも)一致しないと言うにとどめておこう。

これは日本人に限ったことでも特定の世代に限ったことでもないと、私は感じている。
(本当の意味では、地域や世代による差は意外と少ないのではないだろうか)

※以下本論稿全体を通じて、作者・作品・団体・主義・流派などにおける固有の名称を、例として挙げて説明することは極力避けている。
具体例を示さないことで、より純粋な論旨を伝えたかった。


そして、ここからが大事なのだが、実は私の違和感など大した問題ではない。

現代美術が、また、その中のどのような作品が、芸術として優れているのかと言う議論はここでは避けたい。

実際、私自身も20世紀の芸術の中で好きなものもないわけではない。
(たくさんあるといってもいいのかもしれない)
また、少なくとも20世紀美術を愛する人たちも、かなりの数でいるわけだから、そこにケチをつける必要などはないし、そんなことがしたいわけでもない。


ただ一点に絞って言いたいことは、『≪芸術の20世紀≫が残した芸術は後世につながるのか?』=『現状を尊守していって未来に大輪の花が開くときが来るのか?』ということなのである。

現在のめまぐるしく「流行り廃り」のように移り変わってゆく状況の中で、それは期待できないというのが私の結論であり、この未来とのつながりという点を考えた場合、≪芸術の20世紀≫は空転していたと言わざるを得ないのである。

いや、むしろもう一段強い表現で言わせてもらいたい。

『それは時代として喪失されていた』と。

つまり、『≪芸術の20世紀≫という時代そのものが、はじめから存在していなかったのだ』












2. 21世紀以降の未来へ向けて、新たな芸術を創造することが可能な時代環境を改めて設定し直す必要がある

 
 現代という時代が所有している芸術理念について考えると、20世紀初頭から連綿と続けられてきた破壊・挑戦・錯綜・妥協・放置、等々ありとあらゆる要素が「芸術の空転」を助長し、混迷を深める方向に作用してしまった結果、それは本来あるべき姿を失ってしまっていると言わざるを得ない。

また、その状況がその都度修正された形跡はほとんど見られない。


その時期、「アヴァンギャルド(前衛)」という意識が必要であったことを否定するつもりはない。

しかし、それが初めの段階で求めていたものから大きく外れて、根拠も情熱も意識すらも薄れて行くなかで、すでに意味がなくなった破壊や逆転を惰性で繰り返すだけの「空虚な芸術の残骸」と化した後も、その虚構の連鎖を果てしなく続け、「虚構の芸術」という「意味のない世界」を創り出してしまったことを顧みることはせずに、むしろ自己を正当化して、その「意味のない世界」を「正統な芸術」として押し通してしまったことにおいては、何らかの責任が問われるべきだろう。



ここで、「20世紀」に「芸術」の場で起きた出来事の「私なりの解釈」をまとめておく。

「19世紀」から「20世紀」にかけて起きた「科学の進歩」「技術革新」「情報の高速化」「宗教的世界観の変動」という、その時代の人々の常識を覆すような出来事の連続に直面して「芸術」も変革を求められていた。

「印象派」がきっかけとなって、「より斬新な」「より独創的な」「より画期的な」という『20世紀の急進』が起こる。
しかし、人々はまだ「革新」を受け入れる準備ができていなかったために、一つのスタイルを処理しきれないうちに、次から次へと新しいスタイルを提示され続け、『混迷』に陥ってしまう。


一方、「創作者」の側では『混迷』に陥っている鑑賞者たちに気付く余裕が全く無く、『誰が一番新しいか』『誰が一番独創的か』といった「先頭争い」に血眼になってしまっていた。

その結果、本来は手段であるべき「革新」が目的化してしまい、本来の目的を見失い「創作者」もまた「混迷」に陥ってしまった。

そして、この双方の「混迷」において様々な「誤り」が生み出され、しかも、その「誤り」が、ろくに吟味されないまま、とりあえず『現代の芸術である』とされてしまった。

※ここで、「誤り」と言っているが、それは絶対的な意味での「正しさ」を想定して、それに対して「誤り」と言っているわけではない。
あくまで、『混迷の渦』に飲み込まれた状態で、何かを判断すること、それ自体を「誤り」と言っているわけで、その「判断基準を持たない判断」を強行するという「暴力的な行為」を指して「誤り」といっている。


さらには、それが一定の時を経てもなお修正されなかったために、既成事実化して「正統」にまでなってしまう。
(まさに、この時「正統としての現代美術」と言うジャンルが形成されたのである)

ここで、これらの「誤り」がさらに絡まり合って「塊」になり、がんじがらめに「20世紀」とその時代の人を縛り付けるようになったのである。

この「誤りの塊」を、ここでは『20世紀の誤謬(ごびゅう)』と呼ぶことにする。


また、「混迷」の方も単独の「混迷」のままには留まらず「混迷」が「混迷」を生むという「渦」を巻くようになり、それに抵抗したり修正したりしようとする者を、すべて飲み込んでしまうような求心力を持った『混迷の渦』に成っていく。


そんな混沌とした状態の中で『20世紀の急進』は、さらに過激になり世紀の半ばまでの社会的激動とも連動し、「より奇抜な」「より破壊的な」「より破滅的な」と短絡的な路線をとるように成り、最終的には『新しければ何でもいい』~『変わっていればそれだけでいい』、そして、最終的には『なんでもあり』となって現在に至っている。

これがわたしの≪芸術の20世紀≫の解釈だ。


※『20世紀の急進』:20世紀において、人々の心の準備ができていないうちに起きた、
          あまりに急激で高速な意識変革の波状的な連続をここではこう呼ん
          でいる。
※『20世紀の誤謬』:古典から続く歴史の中で、芸術という概念が明確に規定される
          ことはなかった。
          (芸術という概念はすでに正しく規定されていると思い込まれていた
           のだろう)
          その状態を改めることができていなかった20世紀初頭に置ける、あ
          まりに急進的で暴力的な試行錯誤の連続が生み出した”がんじがら
          めの誤りの塊 ”をここでは「20世紀の誤謬」と呼ぶ。


上に述べたようなことが、振り返る間もなく次々と連続して起きた結果、現代における芸術理念は極めて曖昧で、弱々しく漠然としたものになってしまった。

このような脆弱な理念を基盤に、新たな芸術を展開することができるとはとても思えない。
精神が宿るべき肉体を持った芸術理念を、新しい時代の基盤として一刻も早く打ち立てなければならない。



2014年現在の「芸術の時代」=「芸術の今」を見渡すと、すべての人が本来の拠り所を失ってどこかしらに逃げ込んで「ヒキコモッテ」しまっているように見える。

何らかの「技法やスタイル」または「諦め」や「自虐」など、それぞれ逃げ場所を見つけ出して、そこに逃げ込んでいるように見えてしまうのだ。


少なくとも、学生を卒業して社会に出た人にとって、「現在の芸術の場」が自由に力を発揮できる場所に成っていないのは、もう、間違いのない事実と言っていいのではないだろうか。
だからこそ、彼らはヒキコモッテしまっているのだろう。
しかし、彼らは本来そこにいるべき人なのだろうか。

もちろん、彼らの逃避的な姿勢を責めようという話ではない。
と言うより、私自身も、まだ、そうした場所のどこかに居ることに変わりはない。

私が言いたいのは、あくまで今の逃避せざるを得ない状況のことだ。


この状況が厳しすぎるのは間違いない。
だからみんな逃げ込んでいるのだろう。

逃げ込んでいる人たちの中にはきっと「本当の芸術者」がたくさんいるに違いない。
いや、それだけではない、この「芸術からかけ離れた世界」の中心にいられるような人を、私は「芸術者」とは呼ばない。
だから、逃げ込んでいる人たちを責めるつもりなど毛頭ない。

※「芸術者」:「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指す。
この三者を、完全に対等な関係として考えるために「芸術者」という言葉を使っている。
      

でも、彼らにも認めてほしい、自分たちが居る「芸術の表層のごく狭い片隅」、その奥行のない貼り付けられた表面上で、なぜ自分たちが隠れていなければならないのか、極端に狭い範囲に閉じ込められていなければならないのか。
もしも、それを認めることが出来たなら、自分をその閉じ込められた空間から解放してほしい。


もう現時点においては、そんなに悠長なことを言っていることに何の意味もないし、置いて行きたい人なんて誰もいないのだから。

もう、待っている時ではない。
我慢する必要もない。
何かしなければ何も起きない。


『いつの時代もこんなもんだったんじゃない?』
『また、そのうちに良く成るんじゃない?』

断言する。

『違う』
『成らない』

『これが今の時代なんだから、それを受け入れるべきなんじゃないの?』

断言する。

『違う』
『受け入れてはいけない』


現在進行形の芸術を、どんなに過激に奇抜に、いじりまわしても空虚な音が「カラカラ」と響くだけだろう。

コンテンポラリーアートが空虚だと言っているのではなく、立っている地平(時代)の軸がずれていると言いたいのだ。

中には「空虚」から抜け出している者もいるのだろう。
しかし、彼らは抜け出すのに力を使いきってしまい、必ずや疲弊してしまっている。
しかも、決して評価されることはない。


評価されるのは「空虚」なものの方だから。
「時代」が「空虚」を選ぶのだから・・・・
必ず。


もうここに、この場所、この時代に立っていてはいけない。
私たちは、臆病な穏健主義者ではないはずだ。

≪芸術の20世紀≫が持っていたチャレンジ精神は私たちの中にも生きている。
それを捨てる必要はないだろう。

どうなってしまうかはわからない。
どこへ行ってしまうのかもわからない。

しかし船を漕ぎ出す時が来ているのは明らかだ。
そして我々は、きっとそうするだろう。


なぜなら、そうするしか、ほかに道はないのだから。




3.現状に至って、時代を喪失させることが最良の策と判断した


本来ならば、≪芸術の20世紀≫において形成された混迷の原因を一つ一つ解き明かし、そこに明確な解釈を加え、全ての要素についての説明がなされた上で新たな理念を生み出すべきなのであろう。

しかし、過去の例を見れば明らかだが、そのやり方は更なる混迷の種にしかならない。


そもそも我々は≪芸術の20世紀≫を≪喪失の世紀≫と名付けようとしているわけだが、それはあくまでも「喪失すべき時代を呼ぶための名」であり、「20世紀の個々の芸術家を揶揄するための名」ではない。

いや、むしろ彼らの生み出した≪芸術の20世紀≫の持つエネルギーが強すぎることによって、今、我々は”喪失する必要 ”に迫られているのであり、そこで使われたエネルギーに対しては一定の敬意を示すものですらある。

しかし、それだからこそ、彼らの生み出した「芸術的世界観」の中に含まれている「20世紀の誤謬」を、抽出して修正するには、精度の高い厳密な理論をもって”その世界 ”を切り崩さなければならず、それは結果的に難解な説明にならざるを得ない。
その結果、難解さが難解さを呼ぶ形で、その説明自体が新たなる混迷の種になってしまうのである。

また、その修正者自身も20世紀に身を置いて説明してきたために、「20世紀の誤謬」を完全に避けることは困難であり、その説明の中にも、また、「20世紀の誤謬」が含まれてしまうという連鎖を生んでしまったのである。


以上のことから、その「負の連鎖」を断ち切るべく、≪芸術の20世紀 喪失≫によって時代を100年回帰し、現在の混迷を抜け出し、新たなる芸術理念の創生を可能にするための「誰にも踏み荒らされていない新たな舞台」を設置することを提案する。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ここで、「20世紀の信奉者」と私が呼ぶ、現代美術を愛する人たちにとって、この「宣言」が「20世紀美術に対する冒涜」と感じられるのかもしれないという懸念がある。

しかし≪新生20世紀の芸術≫が「誰にも踏み荒らされていない真っ白い舞台」の上で、思う存分自由に独自の世界を紡ぎだして行くさまを、思い浮かべてみてほしい。

それは即ち、もう一度「20世紀美術」が刻々と生み出されて行く様子をリアルタイムで再体験できるということであり、その場に立ち会うことの歓喜を想像していただければ、これが冒涜などではないことが理解していただけるのではないだろうか。


私としては、「彼らが信奉する20世紀」にも勝るような≪新生芸術の20世紀≫が訪れるであろうことを密かに期待している。

その≪新生芸術の20世紀≫がいかなるものに成るのかは、我々現代の人間と、その後の未来の人々が、いかに自己の芸術や人生に責任を持った態度をとって行くかということにかかっているのだろう。
(芸術に限らずあらゆる場面で)


※「20世紀の信奉者」:「現代美術」が持っているところの、『それを受け入れる者と受け入れない者がはっきりと分かれてしまう』という性質から、それを肯定する側の者は、より熱心な「擁護者」とならざるを得ない。
ここでは、そういう「熱心な擁護者たち」を「20世紀の信奉者」と呼んでいる。



















4.100年回帰の根拠

 
時代回帰の根拠といえば『20世紀以降の芸術の世界には拠って立つ足場がない』ということである。

現在、我々は、皆等しく「芸術の混迷の渦」に飲まれ溺れかけている。
20世紀において、加速度的に多様化する時代の要求に振り回され続けた結果、私たちはすでに確固とした規範を失ってしまった。

規範を失ったなか、足場のない状態で生き残るためには、とりあえず、『目の前にある藁を掴んで息を継ぐ』しかない。
それが、今の私たちの状態ではないだろうか。

現代の芸術においては『目の前の藁を掴んでやっと息を継いでいる』としか思えないものが主流を占めている。
それより少しましなものでも、やや安全な場所を確保して息をしているに過ぎず、現状において普遍性を持った創作が可能だとは思えない。

これは個々の力量や努力の問題ではなく、時代が普遍性を求めていないのである。



現代という「時代の力」=「混迷の渦の求心力」は約1世紀にわたって強化され続け、そのエネルギーは個人の力を遥かに凌駕し、そこに抵抗しようとする者を、すべて圧倒的に押し流してしまうほどになってしまっている。

したがって、現在、「芸術」と言われている領域で許されているのは、「時代の要求する芸術」であり、その「創作」である。
つまり、「時代」や「世間」に迎合したもの以外は、一切受け入れられることはない。

そして、それを、「自己表現」と言っているのである。
つまり、≪芸術の20世紀≫を肯定してきた結果、「現在の芸術の場」においては、あらゆることが逆転してしまったのだ。

その結果、「自己表現」でないものだけが「自己表現」と呼ばれるようになってしまっている。
いや、むしろ、いかに「自己表現でないもの」を創作するかを競っているような、そんな不毛な競争に勝ち残った者が芸術における自己表現者として生き残っていくという、そんな逆転の仕組みが出来上がってしまったいるというべきだろう。

この強固に仕組まれた「逆転のシステム」を、単独の「芸術者」が拒否することは不可能だ。
それを拒否すれば、「芸術の場」から離れるしかないだろう。
しかし、何らかの連携を組んで組織化すれば、結果的にむしろ時代に取り込まれることに成り、現在という時代に加担させられることにしかならない。

※「芸術者」:「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指す。
この三者を、完全に対等な関係として考えるために「芸術者」という言葉を使っている。


もはや、時代の求めていないものを創るには他の時代へタイムスリップすることを置いて他に方法はない。
この、『時代を100年間回帰する』という方法が、どれほど有効なものなのかはわからないが、少なくともほかの方法がないことだけはわかっている。

以上のことを持って、わたしは、≪芸術の20世紀≫を喪失し、その前の、まだ「芸術の場」に自由や選択の余地があった時代に回帰することを決意したのである。



この100年と言う期間については、拠りどころとなる最低限の規範が在り『芸術とは?』の問いに、誰もが奇をてらわずに答えを返すことができた時代に回帰することを前提にして決めたものであり、拠って立つ足場を取り戻した上で、改めて「現在の芸術」というジャンルを問い直し、現在「芸術」が置かれている位置を確認してから、前に進むべきであると思っている。

※拠りどころとなる規範とは、芸術について、全ての人が完全に把握できているとか、意見が皆一致していると言うことではなく、概ねの人が、概ね把握しているような、つまり時代的な最低限度の芸術概念が存在していることを指す。
それ以上の厳密な意味ではない。


さて、本来芸術に関して拠りどころとなる規範があった時代とは、印象派以前と言うことかもしれない。
厳密な捉え方をした場合、その考え方によっては、かなり時代をさかのぼらなければならなくなってしまうだろう。
しかし、19世紀以前から印象派までの時代や、その後の激動に至る以前の時期を繰り返すことにはさほどの意味はないだろう。

印象派が遺した芸術に関しても、また、ここでの必要に足るだけの研究がすでになされており、それらは一般にも浸透しているといってよいだろう。

だから印象派を、もう一度やり直すというのにも全く意味を感じない。


そして何よりも、そこにおいては「20世紀の誤謬」に当たるものが含まれている形跡が見当たらないのだ。
つまり、印象派は「混迷」を生み出してはいないし、それまでの既成概念に一石を投じただけで、目まぐるしい「急進」の状態はまだなかったと考えられる。

だから、数百年も回帰する必要は全くないだろうと考えた。


また、そもそも「20世紀の誤謬」が生まれてしまった原因は、芸術の概念規定が曖昧だったこと自体ではなく、その状態のまま「20世紀の急進」へ突入してしまった所にある。

つまり、「芸術」の概念規定が甘かったことよりも、あまりにも圧倒的な「急進」があったことによって、「混迷」が渦を巻きだしたということだ。

もともと古典の時代から、おそらく芸術の概念規定は曖昧であり続けていたわけで、たまたま、そこに混乱の種が持ち込まれることが少なかったがために、規範が崩れてしまう前に、曖昧なままなんとなく修正されていたのだろう。

この曖昧さが問い直されたことはあったのだろうが、常にキリスト教的な思想(封建思想と言ってもいいかもしれない)が許す範囲に限っての修正であったので、一元論的な観点しか持たなかった。

そのままの概念規定では、極端な多元論に走った(なんでもありの)「20世紀の急進」を、誤りを犯さずに乗り切ることができるわけもなく、当然の結果として徐々に誤りが誤りを生むという渦を巻き始め「混迷の渦」が形成され、それを修正しようとした者たちは「20世紀の急進」のスピードについて行けず、修正者自身も混迷の種にされてしまう形で折り重なるようにして「誤りの塊」と化して「20世紀の誤謬」が生み出されてしまったのだ。


そこで、「20世紀の誤謬」が生み出される直前の時期であり、この「宣言」を発表する時点からさかのぼって、ちょうど100年前の時代に回帰することを決めたわけだ。


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ここで、やや話が逸れるが『混迷の時代にあって、なぜ20世紀の巨匠たちは巨匠たり得たのか?』という疑問が出てくるかもしれない。
つまり、なぜ、巨匠たちだけが「足場を失った時代」にあって、確固たる地位を築き上げることが出来たのかということだ。

※そこで、「才能」などという言葉を持ち出して来ても意味はない。
この「宣言文」はそういった規準では書かれていないのだから。


それを可能にしたのは同時代の人々が強く求めていた「天才神話」(後述)であったと思われる。
彼ら巨匠たちは、皆、なんらかの形で大衆に「天才神話」を提供し、その見返りとして巨匠の地位を与えられたのだとわたしは思っている。

『「天才」であったから「天才神話」が築かれた』のか、『「天才神話」を提供したから「天才」と呼ばれた』のか、私は後者だと思う。
これは彼らの力量を否定しているのではない。
ただ、20世紀においては「天才神話」を渇望する民衆心理の影響力の方が作家個人の力よりもはるかに大きかったということは、今となってみれば疑いの余地すらない事実なのだ。

また、彼らは「20世紀の誤謬」がまだ完全に凝り固まってしまう以前の時期までに、巨匠としての立場をある程度確立していたということも一つの要因だろう。
そして、その後、彼らは確立された巨匠の立場に居ながら、常人を超えるエネルギーでその立場を守り抜いたのだろう。
(マスコミという巨大なエネルギーが働いたことも含めて)

つまり、実を言えば、彼らは圧倒的に「努力した人」なのである。
それを「天才神話」に仕立て上げたのが、≪芸術の20世紀≫と言う時代であったのは、もはや、間違いようのない事実なのである。
なぜなら、その時、もう「天才の時代」は終わっていたのだから。

※20世紀の巨匠たちを揶揄するつもりではなく『実は彼らも時代に飲み込まれていたのではないか』と言いたいのである。
私が論じているのは「20世紀」という時代であり、それは、その時代にあった全てのものを含めた意味での「20世紀」であるから、彼らに関する論説はすなわち「20世紀」に関する論説である。
このことは、彼らが時代の代表者であったことをも意味している。

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以上の考えから、回帰すべき時代は「20世紀の急進」へ向けての準備期間と推察され、「混迷の渦」が、まだはっきりとは形成されていなかったであろう、20世紀初頭であると判断する。

1900年に回帰することも考えたが、この宣言を発する2014年からちょうど100年間遡るという意味で1914年に回帰することとした。
(観念の中でのタイムスリップであるから、年次の正確さよりもイメージし易くすることを重視した)













5.年代区分のまとめ


 ここで年代の流れが入り組んだ形になってしまったので一応整理しておく。


1800年~1913年=前世紀

1900年~1913年が19世紀なのか20世紀なのかがわかりづらいので、
この114年間を前世紀と呼ぶことにする。


1914年~2013年=≪喪失の世紀≫

【芸術の20世紀 喪失宣言】において、我々が、いま正に観念の中で喪失しようとしている100年間。


2014年~未来=≪新生芸術の20世紀≫

20世紀をもう一度やり直す形を取りたかったのと、「旧20世紀」を観念の中から払拭するために、
「こちらが本来あるべき姿の20世紀だ」という意味で、敢えて「20世紀」と名付けた。










 ⑶具体的な≪喪失≫について                1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと/ 「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう


 さて、我々は≪芸術の20世紀 喪失≫及び≪芸術の100年回帰≫に向けて船を漕ぎ出す決意を固めたわけだが、具体的には何をすればよいのだろうか。

以下に、現在の時点で考えられる範囲の具体的な「喪失」について記しておく。
ただ、ここでも新たな発想は生まれてくるであろうから、当然その都度内容を修正していかねばならないだろう。

 

1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと /  「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう


ここまで≪芸術の20世紀≫から脱出することばかり書いてきたが、≪芸術の20世紀≫から学んだこともある。
≪喪失≫の手順のはじめの一歩として、喪失するべき世紀からの教訓を確認しておきたい。


まず挙げておきたいのが「挑戦する姿勢」である。

≪芸術の20世紀≫は挑戦し続けた世紀でもあったと思う。
振り返ると、常に何かに駆り立てられるように挑戦と破壊を繰り返していたように見える。

それこそが「20世紀の急進」を生み出した原因の一端でもあったわけだが、結果的に「混迷の渦」になり、100年後の私たちを身動きのできない状態にまでしてしまったことは、やはり肯定できないが、その「挑戦する姿勢」と「勇気」には素直に敬服する。

そして今、未知への船出をしようとしている我々は、ここで学んだ「挑戦する姿勢」と「勇気」をさらに増幅させて、より大きなチャレンジに臨まなければならない。

われわれは、「彼らにできなかったこと」を求めているのだから、当然それなりの強さを要求されるだろう。


あらゆるものに挑戦し続けた彼らができなかったこととは、時代の要求に逆らうことではないだろうか。

なぜなら≪芸術の20世紀≫において時代の要求に逆らうことは、即ち時代から抹消されることを意味し、それをした者は必ず歴史から消えているからだ。

時代の要求を拒絶したがために消去された者たちの悔恨の念を心に抱きつつ、いま、私たちはその時代を喪失しようとしているのだ。


「消去される側」であった個々の「人間」とその「思念」が、逆転して消去する側であった「時代」を喪失できるか否かは、われわれ一人ひとりの「挑戦する姿勢」と「勇気」にかかっている。

だからこそ、≪芸術の20世紀≫の持っていた「挑戦する姿勢」と「勇気」をもって、≪喪失≫へ向けてのはじめの一歩としたい。


そしてもう一つ、≪芸術の20世紀≫から学んだこととして、先にも触れた「天才神話の崩壊」を挙げておきたい。
より正確に言うなら、すでに100年以上前に崩壊し形骸化していた「天才神話からの脱却」と言えるだろう。

これは「20世紀の誤謬」の中でも≪芸術の20世紀 喪失≫後にも根強く現れてきそうなものの筆頭に挙げておくべきものだと思っている。

これを排除できないと、きっとまた「誤謬」にはまりこんでしまうだろう。


まず、≪天才≫とはそもそも何なのだろうか。

もっとも単純に言えば、『子供なのに大人以上のことができる者が天才である』と言えるだろう。
≪天才≫=「子供」とは言えないまでも、≪天才≫の典型が「子供」なのである。

実際、大人になってから頭角を現した者が≪天才≫の名で呼ばれることはあまりないが(あっても大抵の場合「実は彼は子供のころから凄かった」というのが付いていたり、また若いうちに死んでしまった者をあとから「天才」と呼ぶ場合なども多い)、少なくとも、「子供」だと簡単に「天才」と呼ばれる傾向は間違いなくあるだろう。

しかし、現代の芸術において子供のうちに何ができたかということに、大した意味があるとは思えない。

これはもともと古典の時代に一元論的な意味において、(一神教であるキリスト教の影響力が強かったためだろう)類稀なる才能を持った者を取り上げて≪天才≫の名で呼んでいたことの名残りであり、現代(20世紀以降)の多元論化した芸術観においてはほとんど無意味だとしか言いようがない。

要するに一つの目標(=正解)に向かって頂点に近づいた者こそが≪天才≫であり、さらに幼くして登りつめた者が、≪神童≫であったわけだから、一つの目標(=正解)を設定すること自体が無意味になった現代において、≪天才≫という言葉はただの宣伝文句に過ぎないのである。


言い換えれば、『≪天才≫の時代は終わった』
いや、『それは100年以上も前にとっくに終わっていた』ということだ。


以上のことから、今後この≪天才≫の文字に踊らされることは害にしか成らない。

都合よく宣伝に利用されたこともあるが、それ以上に一般の心理の中に≪天才≫待望論のようなものがあったことによって、(この点は現在に至っても全く変わっていない)「天才神話」が形成され易い土壌が作り上げられてしまったように思う。

おそらく、神的世界観の崩壊がまだ受け入れられていない時期に、(完全に崩壊していたわけではないが、その絶対性は崩壊していた)「20世紀の急進」に晒された人々が、心のよりどころを失った不安を補うべく、「神の子」(神童)である「天才」と言う「象徴」に、既存の宗教における「神」と同質の「絶対的な価値」を見つけて、そこに漠然とした安心感を抱いてしまい、それを「神話化」し、知らず知らずのうちに強固なものとし、自ら築いた「神話」の中で踊らされるという結果に至ったものと思われる。

≪芸術の20世紀≫において、既存の宗教的道徳観を破壊したり嘲笑したりすることを「斬新」と言い、そのような芸術を「天才」による「傑作」としながらも、その「天才」には既存の宗教的「神話」を重ね合わせて安心するという、矛盾した状況があったのは確かなことだろう。

ましてその矛盾を認めたくないがために「神話」にすがりついて「天才」や「傑作」を偶像化したとなると、もう、それは滑稽と言われても仕方がない。

またその滑稽さに気付いていた者も気付いていなかった者も、その「時代の要求する滑稽」に逆らうことはできなかったのだろう。

この事に限って言えば、まだ見えない先の時代を見据えていなければならないはずの芸術者が、今という目に映っている時代しか見ていなかったという点で、20世紀の巨匠たちは批判されるべきであろう。

※「芸術者」:「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指す。
この三者を、完全に対等な関係として考えるために「芸術者」という言葉を使っている。
  

しかし、巨匠たちを批判している暇はない。
もはや、我々は「神話」の崩壊にいちいち動揺する必要はないのだ。

実を言えば、私たちはとうの昔にそれらの不安から抜け出している。
それなのに形骸化した≪天才≫だけがお決まりのセリフのように使われ続けてているのは、経済的な根拠に基づいてのこととしか思えない。
それは、「芸術」とは全く無関係で無意味としか言いようがない商業的なキャッチ・フレーズに・過ぎない。
この迷信と化した伝説を断ち切らなければ、また「虚構の世界」を築き上げることに成ってしまうだろう。


ここで明言しておきたい、≪新生芸術の20世紀≫においては、≪天才≫も≪凡人≫も≪普通の人≫も全く関係ない。

そしてあえて付け加えるが、幼少期に高い能力を示したということも全く無意味である。
今後も「~才にして~が凄い」はさんざん現れるだろうが、それらはすべて「商品」としてプロデュースされた「天才」や「神童」であり、「芸術」とは無縁の商業的な分野におけるコマーシャルであって、その子は「天才」という役どころを演じさせられているだけなのだ。

そして何より悲しく思うのは、その子たちがどんな感性を持っていたとしても、その感性は、その幼い時期に、「時代の既成概念」と「商業的なオモワク」によって、ひどく傷つけられてしまうだろうということだ。

現時点においては、能力の高さではなく能力の限界に近づくことに芸術の価値があると考えるべきである。
(幼児に能力の限界に近い作業をさせることは、私には不適切なこととしか思えない。また場合によっては危険ですらあるかもしれない。)


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以上、二つの≪芸術の20世紀≫から学んだことを挙げたが、≪喪失するべき世紀≫のことをはじめに書くのは矛盾していると言われれば認めざるを得ない。

しかし、≪喪失≫といっても実際に消えてなくなるわけではないから、必ず観念の中に、それらの断片が残り、ときによって顔を出してくるだろう。
だからこそ、先回りしてある程度予見される事態に対処できるような「癖」をつけておく必要がある。

そして実は、この「先回りできること」が≪100年回帰≫の最大の利点なのである。
但し、当たり前だがこれをあまり多用すると≪喪失≫の意味がなくなってしまう。

そこで、最も活用できそうな「挑戦する姿勢」と、逆に最も警戒すべき「天才神話」の二つを挙げたというわけだ。

 











プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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