§【芸術の20世紀 喪失宣言】及び【真術の紀元 宣言】§                                                                                                             一現代美術(現代アート)・残された最後の提案一           

 
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       目次
      
      はじめに
    Ⅰ.【芸術の20世紀 喪失宣言】
     ⑴宣言文
     ⑵宣言の根拠
      1.≪芸術の20世紀≫は喪失していた
      2.21世紀以降の未来へ向けて、新たな芸術を創造することが可能な時代環境
       を改めて設定し直す必要がある
      3.現状に至って、時代を喪失させることが最良の策と判断した
      4.100年回帰の根拠
      5.年代区分のまとめ
     ⑶具体的な≪喪失≫について
      1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと/「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう
      2.各現場で実行できそうなこと
       ①教育の場において
       ②美術館において
       ③マスメディアにおいて
       ④≪喪失≫の定期的な見直し
       ⑤私たち自身において/一人の意識において
    Ⅱ.【真術の紀元 宣言】
     ⑴宣言文
     ⑵新たに区別された≪真術≫について
      1.≪真術≫を区別する理由
      2.≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義
     ⑶≪真術≫の不可能性
      1.≪真術≫は不可能なのか?
      2.≪真術≫に残された可能性
      3.≪真術≫における「迷い」について/「迷い」の時代へ
    Ⅲ.【この「宣言」の原点】/芸術の果たすべき責任
     ⑴芸術は「非生産的」であり「唯一無二」である
       おわりに 
     「20世紀の担い手」たちへ
     「21世紀の人」たちへ



はじめに

     
      はじめに


「20世紀」が半ばを過ぎたころ、1960年に生まれました。

と言っても、親からそう聞いただけでわたしの記憶ではありません。


30歳になる頃まで芸術や美術に関わる機会はありませんでした。

それから20年ほども経ちましたが、

いまだに、なぜ芸術に関わりを持つことになったのか、よくわかりません。


一年ほど前から、

「もっと芸術の奥深くへ向かって行かねばならない」

そういう圧力が自分の中で膨らみ続けています。


団体や組織には属していません。

芸術に関する個人的な活動歴と言えるものはなんにもありません。


この宣言文は、その「わたし」が書きました。


初めに、わたしはこの「宣言」に書いてあるようなことが、まったく普通のことに成った時に、

人間と言う動物が、少しだけ本当の人間に近づくことが出来るんだと思っています。

いつ、そうなるのかはわかりません。

でも、いつの日にか、間違いなく、この「宣言」に書いてあることが「あたりまえ」に成るでしょうし、

それは、今も少しづつ進行していることだと思っています。


そして、どうやら、この考えが私の中では揺るぎないようなのです。


芸術に限ったことでもないのです。

社会全体に関することだと思っているのです。


芸術や哲学には社会の方向性を指し示す義務があると思うのです。

ただの娯楽であることは許されないのです。

芸術や哲学に関わる者は好むと好まざるとにかかわらず、その責任を負わされているのです。


もし、そんな風に思う方がいらっしゃれば、是非この「宣言」を読んでみてください。

きっといいと思います。


もし逆に、「娯楽でいいじゃないか」「おもしろければいいだろ」という方がいれば、

特におすすめはしません。

その人はすすめなくても、きっとこれを読んでしまうでしょうから。


でも、なかには「そんなことを言われたからって読まないよ」という人はいるのでしょう・・・


・・・私たちはあなたを置いて行くしかありません。



きっと、今にこの「宣言」に書いてあることが「あたりまえ」に成って、

その一時、日本は芸術の中心地になることでしょう。


いえ、その時には、きっと、すべての国、すべての人の中に、

一つづつの「芸術の中心」が生み出されていることでしょう。











【芸術の20世紀 喪失宣言】 ⑴宣言文


    ⑴ 宣言文


『≪芸術史上の20世紀≫を≪喪失の世紀≫と解し、1914年~2013年の100年間を芸術史から消去し、

 われわれは時代を100年回帰し2014年(本宣言発表時)をもって芸術史に於ける

 ≪新生芸術の20世紀元年≫とすることをここに宣言する。』


 ※以下において、「芸術」とある場合、主に美術を想定しいる。
  しかし概念としては芸術全般にも当てはめることができると判断し、
   単に「芸術」としている。
 ※以下において、「われわれ」または「我々」とある場合、本宣言の宣言者と賛同者を指す。
  但し本宣言を発表する時点での現実の賛同者はまだいない。


 


 ⑵宣言の根拠                        1.≪芸術の20世紀≫は喪失していた

以下に、この「宣言」を発表する理由を挙げる

1. ≪芸術の20世紀≫は喪失していた

20世紀の芸術において、私が第一番に思うことは、

~イズム・~イスト・~主義・~派、さらに、それらそれぞれにポスト~・ネオ~、

そしてそれらの複合型と数え上げたらきりがないくらいの主義主張やスタイルが

次から次へと生み出されていったということだ。

そしてそれらは概して短命で、次に替わるものが現れたとたんに古臭く感じられ置き去りにされた。

(私がリアルタイムで体験したのは世紀の後半の数十年であり、
 また私はその大半で芸術とのかかわりを持ってはいなかったのだが)


そして今、21世紀に入って13年が経過し、20世紀を振り返った時「あれはなんだったのか?」

という思いを打ち消すことができない。

書物などで知ったことも含めてどうしても釈然としないというのが本音であり、

それら「流行り廃り」としか言いようのない

「~イズム」(その他諸々)と「芸術」という言葉が全く一致しないのだ。


私自身が芸術とのかかわりを持つ以前から、その違和感はあったのかもしれないが、

「まぁ、そんな時代なのかな」と言う程度に漠然と考えていたように思う。


もちろん≪芸術の20世紀≫においても巨匠といわれる人は沢山いるわけだが、

彼らの作品を見ると必ずと言っていいほど

「感性」の前に「理性」が働かされてしまうような、歪んだ感覚にとらわれてしまう。

常に先に頭で考えさせられてしまうのだ。

その「~させられてしまう」が違和感の原因なのだと思う。


しかし、ここで個々の作家や「~イズム」を批判するつもりは全くない。

それをすると話がわかりにくくなってしまうし、この宣言とも無関係なので、

ここでは≪芸術の20世紀≫という「時代」が提供し続けた「芸術」は、

私の中の芸術と(そして恐らくかなりの数の人の中の芸術とも)

一致しないと言うことにとどめておこう。

これは日本人に限ったことでも特定の世代に限ったことでもないと、

私は感じている。(地域や世代による差は意外と少ないのではないだろうか)


※以下本論稿全体を通じて、作者・作品・団体・主義・流派などにおける固有の名称を、
 例として挙げて説明することは極力避けている。
 具体例を示さないことで、より純粋な論旨を伝えたかった。
 「印象派」の名称のみ、一つの時代区分として使用している


そしてここからが大事なのだが、実は私の違和感など大した問題ではない。

現代美術が芸術として優れているかどうかの議論はここでは避けたい。

実際、私自身も20世紀の芸術の中で好きなものもないわけではない。
(結構あるといってもいいかもしれない)

また、少なくとも20世紀美術を愛する人たちもかなりの数でいるわけだから、

そこにケチをつける必要などはないし、そんなことがしたいわけではないのだ。


ただ一点に絞って言いたいことは、

「≪芸術の20世紀≫が残した芸術は後世につながるのか?」

=「現状を尊守していって未来に大輪の花が開くときが来るのか?」ということなのである。


現在のめまぐるしく「流行り廃り」のように移り変わってゆく状況の中で、

それは期待できないというのが私の結論であり、この未来とのつながりという点を考えた場合

≪芸術の20世紀≫は空転していたと言わざるを得ないのである。

いや、むしろもう一段強い表現で言わせてもらいたい。


「それは喪失していた」と。

「≪芸術の20世紀≫という時代そのものがはじめから存在していなかった」と。















2. 21世紀以降の未来へ向けて、新たな芸術を創造することが可能な時代環境を改めて設定し直す必要がある

 
 現代という時代が所有している芸術理念について考えると、

20世紀初頭から連綿と続けられてきた破壊・挑戦・錯綜・妥協・放置、等々

ありとあらゆる要素が前述の芸術の空転を助長し、混迷を深める方向に作用してしまった結果、

それは本来あるべき姿を失ってしまっていると言わざるを得ない。

また、その状況がその都度修正された形跡はほとんど見られない。


ここで、「20世紀」に「芸術」の場で起きた出来事の「私なりの解釈」をまとめておく。


「19世紀」から「20世紀」にかけて起きた

「科学の進歩」「技術革新」「情報の高速化」「宗教的世界観の変動」という、

その時代の人々の常識を覆すような出来事の連続に直面して「芸術」も変革を求められていた。

「印象派」がきっかけとなって、

「より斬新な」「より独創的な」「より画期的な」という『20世紀の急進』が起こる。

しかし、人々はまだ「革新」を受け入れる準備ができていなかったために、

一つのスタイルを処理しきれないうちに

次から次へと新しいスタイルを提示され続け、『混迷』に陥ってしまう。


一方、「創作者」の側では『混迷』に陥っている鑑賞者たちに気付く余裕が全く無く、

「誰が一番新しいか」「誰が一番独創的か」といった「先頭争い」に血眼になってしまっていた。

その結果、本来は手段であるべき「手法的な革新」が目的化してしまい、

本来の目的を見失い「創作者」もまた『混迷』に陥ってしまった。


そして、この双方の『混迷』において様々な「誤り」が生み出され、

しかもその「誤り」がろくに吟味されないまま、とりあえず「正しい」とされてしまった。
(皆が『混迷』の中にいたので吟味するものがいなかったため)

さらには、それが一定の時を経てもなお修正されなかったために、

既成事実化して「正統」にまでなってしまう。

ここで、これらの「誤り」がさらに絡まり合って「塊」になり、

がんじがらめに「20世紀」とその時代の人を縛り付けるようになったのである。


この「誤りの塊」を、ここでは『20世紀の誤謬』と呼ぶことにする。


また、『混迷』の方も単独の『混迷』のままには留まらず

『混迷』が『混迷』を生むという「渦」を巻くようになり、

それに抵抗したり修正したりしようとするものをすべて飲み込んでしまうような求心力を持った

『混迷の渦』に成っていく。


そんな混沌とした状態の中で『20世紀の急進』は、

さらに過激になり世紀の半ばまでの社会的激動とも連動し、

「より奇抜な」「より破壊的な」「より破滅的な」と短絡的な路線をとるようになっていき、

最終的には「新しければ何でもいい」「変わっていればそれだけでいい」

「なんでもあり」となって現在に至っている。


これがわたしの≪芸術の20世紀≫の解釈だ。


※『20世紀の急進』:20世紀において、人々の心の準備ができていないうちに起きた、
          あまりに急激で高速な意識変革の波状的な連続をここではこう呼んでいる
※『20世紀の誤謬』:古典から続く歴史の中で、芸術という概念が正当に規定されることはなかった。
          (芸術という概念はすでに正しく規定されていると思い込まれていたのだろう)
          その状態を改めることができていなかった20世紀初頭に置ける、
          あまりに急進的で革新的な試行錯誤の連続が生み出した
          ”がんじがらめの誤りの塊 ”をここでは「20世紀の誤謬」と呼ぶ。


上に述べたようなことが、振り返る間もなく次々と連続して起きた結果、

現代における芸術理念は極めて曖昧で、色も形も弱々しく、漠然とした物になってしまった。


このような脆弱な理念を基盤に、新たな芸術を展開することができるとはとても思えない。

確かな芸術理念を新しい時代の基盤として一刻も早く打ち立てなければならない。


2014年現在の「芸術の時代」=「芸術の今」を見渡すと、すべての人が本来の拠り所を失って

どこかしらに逃げ込んで「ヒキコモッテ」しまっているように見える。

何らかの技法やスタイル(古典技法や〇〇派風、〇〇主義的、本人のオリジナルも含めて)

に安住の地を見出している人、

「自分の中の芸術はもう完結した」または「芸術などもうどうでもいい」という

「諦めの小箱」に自分をしまい込んでいる人、

自分がうまく表現できないのは「自分の才能が足りないからだ」という

「自虐的な伝説」に嵌り込んでしまっている人、

教育の場で若い感性を育てることには力を入れず、

自分の感性をくすぶらせることに力を入れている人等々、

それぞれ逃げ場所を見つけ出してそこに逃げ込んでいるように見えてしまうのだ。


もちろん、もともとそこが「自分本来の居場所」である人もそれなりに居るのだろう。

その人たちにとっては、問題はそれほど大きくはないだろう。


しかし、本来そこにいるべきではない人も、

かなりの数でそれらの場に逃げ込んでいるように思える。

皮肉で言っているわけではないし、その人たちを馬鹿にしようというのじゃない。

と言うより、私自身もまだ、そうした場のどこかに居ることに変わりはない。

私が言いたいのはあくまで今の状況のことだ。


この状況は厳しすぎる。頑丈で健全な人にとっては、どうと言うほどのことでもないのだろう。

だが、少なくとも繊細で鋭敏な感性にとっては耐えられるわけがない。

だからみんな逃げ込んでいるのだろう。

これは、決して特殊な才能について言っているのではない。

「芸術の先端を目指すこと」、「芸術を極めんとすること」、

それ自体が、繊細で鋭敏なことだということだろう。


逃げ込んでいる人たちの中にはきっと「本当の芸術家」がたくさんいるに違いない。

彼らを責めるつもりなど毛頭ない。


でも、彼らにも気が付いてほしい(と言うより認めてほしい)、

自分たちが居る「芸術の表層のごく狭い片隅」、

その奥行のない貼り付けられた表面上で、「自分たちがやっていることが何なのか」

そして気が付いたなら、何が自分たちをそんな場所に貼り付けたのかということを理解して、

それを消し去る準備にかかってもらいたい。


もう現時点においては、そんなに悠長なことを言っていることに何の意味もないし、

置いて行きたい人なんて誰もいないのだから。


我々はもう待っていてはいけない。

我慢する必要もない。何かしなければ何も起きない。


「いつの時代もこんなもんだったんじゃない?またそのうちに良く成るんじゃない?」

断言する。

「違う。」  「成らない。」


「これが今の時代なんだから、それを受け入れるべきなんじゃないの?」

断言する。

「違う。」  「受け入れてはいけない。」


現在進行形の芸術をどんなに過激に奇抜に(な風を装って)、

いじくりまわしても空虚な音が「カラカラ」と響くだけだろう。


コンテンポラリーアートがすべて空虚だと言っているのではなく、

立っている地平(時代)の軸がずれていると言いたいのだ。


中には「空虚」から抜け出している者もいるのだろう。

しかし、彼らは抜け出すのに力を使いきってしまい必ずや疲弊してしまっている。

しかも評価されない。


評価されるのは「空虚」なものの方だから。

「時代」が「空虚」を選ぶから・・・・必ず。


もうここに、この時代に立っていてはいけない。

私たちは臆病な穏健主義者ではないはずだ。

『20世紀の急進』に嫌というほど叩き込まれたチャレンジャー精神は、

好むと好まざるとにかかわらず私たちの中に生きているはずだ。


どうなってしまうかはわからない。

どこへ行ってしまうのかもわからない。


しかし船を漕ぎ出す時が来ているのは明らかだ。

そして我々は、きっとそうするだろう。


なぜなら、そうせざるを得ないのだから。













3.現状に至って、時代を喪失させることが最良の策と判断した

 本来ならば、過去に形成された混迷の原因を一つ一つ解き明かし、

そこに明確な解釈を加え、全ての要素についての説明がなされた上で、

新たに理念を構築するべきなのであろう。

しかし、過去の例を見れば明らかだが、そのやり方は更なる混迷の種にしかならない。


そもそも我々は≪芸術の20世紀≫を≪喪失の世紀≫と名付けようとしているわけだが、

それはあくまでも「喪失させるべき時代を呼ぶための名」であり、

「20世紀の個々の芸術家を揶揄するための名」ではない。


いや、むしろ彼らの構築した世界が確固たるものであったがために、

今、我々は”喪失させる必要 ”に迫られているのであり、

そこに対する一定の評価を示すものですらある。


彼らの築いた”確固たる世界 ”の中に含まれている「20世紀の誤謬」を、

抽出して修正するには、精度の高い厳密な理論をもって

”確固たる世界 ”を切り崩さなければならず、それは結果的に難解な説明にならざるを得ない。

その結果、その説明自体が新たなる混迷の種になってしまうのである。

また、その修正者自身も20世紀に身を置いて説明してきたため

「20世紀の誤謬」を完全に避けることは困難であり、

その説明の中にもまた「20世紀の誤謬」が含まれてしまうという連鎖を生んでしまうのである。


以上のことから、≪芸術の20世紀 喪失≫によって時代を100年回帰し、

現在の混迷を抜け出し、新たなる芸術理念の構築を可能にするための

「誰にも踏み荒らされていない新たな舞台」を設置することを提言する。


「20世紀の信奉者」と私が呼ぶ、現代美術を愛する人たちにとって、

この「宣言」は「20世紀美術に対する冒涜」と感じられるかもしれない。


しかし≪新生20世紀の芸術≫が「誰にも踏み荒らされていない真っ白い舞台」の上で、

思う存分自由に独自の世界を紡ぎだして行くさまを、思い浮かべてみてほしい。

それは即ち、もう一度20世紀美術が刻々と生み出されて行く様子を

リアルタイムで再体験できるということであり、

その場に立ち会うことの歓喜を想像していただければ、

これが冒涜などではないことが理解していただけるのではないだろうか。


私としては、「彼らの中の20世紀」にも勝るような

≪新生芸術の20世紀≫が訪れるであろうことを大いに期待している。

それは、我々現代の人間とその後の未来の人々が、

いかに自己の芸術や人生に責任を持った態度をとって行くかという

ことにかかっているのだろう。
(芸術に限らずあらゆる場面で)


※「20世紀の信棒者」:「現代美術」が持っている「それを受け入れる者と受け入れない者が
               はっきりと分かれてしまう」という性質から、それを肯定する側の者は、
               より熱心な「擁護者」とならざるを得ない。
               ここでは、そういう人たちを「20世紀の信棒者」と呼んでいる









4.100年回帰の根拠

 
 100年回帰の根拠といえば「現在、芸術の世界には依って立つ足場がない」ということである。


現在、我々は、皆等しく「芸術の混迷の渦」に飲まれ溺れかけている。

20世紀において加速度的に多様化する時代の要求に振り回され続けた結果、

私たちはすでに確固とした規範を失ってしまった。

規範を失ったなか(足場のない状態)で生き残るためには、

とりあえず「目の前にある藁を掴んで息を継ぐ」しかない。

それが、今の私たちの状態ではないだろうか。


現代の芸術においては「目の前の藁を掴んでやっと息を継いでいる」

としか思えないものが主流を占めている。

それより少しましなものでも、やや安全な場所を確保して息をしているに過ぎず、

現状において普遍性を持った創作が可能だとは思えない。


これは個々の力量や努力の問題ではなく、時代が普遍性を求めていないのである。

現代という「時代の力」(=混迷の渦の求心力)は約1世紀の間強化され続け、

その求心力は個人の力を遥かに凌駕し、

唯一の対抗手段である団結をも、それが結束する前に押し流してしまうほどになってしまっている。

もはや時代の求めていないものを創るには

他の時代へタイムスリップすることを置いて他に方法はない。
(少なくとも、私には他の方法が思いつかない)


歴然とした規範が在り「芸術とは?」の問いに誰もが近しい内容の答えを返すことができた時代に回帰し、

(歴然とした規範とは、芸術について全ての人が完全に把握できているとか、意見が皆一致していると言うこと
ではなく、概ねの人が、概ね把握しているような、つまり時代的な芸術概念が確立されていることを指す)

確かな足場を取り戻した上で、その時代の観点によって改めて芸術というジャンルの概念を問い直し、

確実で正当な把握がなされたことを確認してから、前に進むべきである。


「回帰」した後においては、前述の「歴然とした規範」とは違い

「急進」を乗り切れるだけの用意周到な把握が必要になるだろう。

「急進」は、また起こるだろうし挑戦的であればあるほど急進的にもなるわけだから、

それを恐れていては本末転倒になるだろう。


もともと「急進」が問題なのではなく、しっかりした検証が全くなされなかったこと、

それどころかそういった気構え自体がなかったことが問題だったのだから

慎重な準備さえしてあればよかったのだと思う。


そこで、荒波に対する守りとして船が錨をおろすように、

仮に「急進」に流されそうになっても「堅固な基準」という

錨をたどれば、また元の場所に帰れるようにしておく必要がある。


また、思いもよらない視点を持った「急進」が現れてくることを想定して、

常に違和感や疑問を感じた場合は
(核心を突いた芸術は違和感を伴う場合があるが、
この場合はそれとは違って何度振り返っても払拭できないような違和感)

とにかく「堅固な基準」に帰って考え直すという姿勢を持っていた方がよいのではないだろうか。


さて、本来芸術に関して歴然とした規範があった時代とは、印象派以前と言うことかもしれない。
(それ以前は既成の規範が破壊されるまでのことまでは無かっただろう)

しかし、19世紀の産業革命・地動説(神的世界の瓦解)・科学の躍進・写真技術の発明・光学的研究などを、

もう一度繰り返すことにはさほど意味がないだろう。

それらは主に科学や産業技術の分野での出来事であるし、

印象派もまたこれらの影響から派生したということは

すでに明らかにされているといって差し支えなかろう。

印象派が遺した芸術に関してもまた、ここでの必要に充分な研究がすでになされており、

それらは一般にも浸透しているといってよいだろう。


だから印象派を、もう一度やり直すというのにも全く意味を感じない。


そして何よりも、そこにおいては「20世紀の誤謬」に当たるものが含まれている形跡が見当たらないのだ。

つまり、印象派は「混迷」を生み出してはいないし、それまでの既成概念に一石を投じただけで、

目まぐるしい「急進」の状態はまだなかったと考えられる。


また、そもそも「20世紀の誤謬」が生まれてしまった原因は、芸術の概念規定が曖昧だったこと自体でもなく、

その状態のまま「20世紀の急進」へ突入してしまった所にある。

つまり、「急進」と「準備ができていない曖昧な状態」が組み合わさったことで、

「混迷」が渦を巻きだしたのだろう。


もともと古典の時代から芸術の概念規定は曖昧であり続けていたわけで、たまたまそこに混乱の種が

持ち込まれることが少なかったがために、規範が崩れてしまう前に、

曖昧なままなんとなく修正されていたのだろう。


この曖昧さが問い直されたことはあったのだろうが、

常にキリスト教的な思想(封建思想と言ってもいいかもしれない)

が許す範囲に限っての修正であったので、一元論的な観点しか持たなかった。

そのままの概念規定では、キリスト教的な規範が弱くなり極端な多元論に走った(なんでもありの)

「20世紀の急進」を誤りを犯さずに乗り切ることができるわけもなく、

当然の結果として徐々に誤りが誤りを生むという渦を巻き始め「混迷の渦」が形成され、

それを修正しようとした者たちは「20世紀の急進」のスピードについて行けず

修正者自身も混迷の種にされてしまう形で折り重なるようにして

「誤りの塊」と化して「20世紀の誤謬」が生み出されてしまったのだ。


やや話が逸れるが「それならばなぜ20世紀の巨匠たちは巨匠たり得たのか?」

という疑問が出てくるかもしれない。

それを可能にしたのは同時代の人々が強く求めていた「天才神話」(後述)であったと思われる。

彼ら巨匠たちは皆、なんらかの形で大衆に「天才神話」を提供し、その見返りとして巨匠の地位を

与えられたのではないだろうか。


『「天才」であったから「天才神話」が築かれた』のか

『「天才神話」を提供したから「天才」と呼ばれた』のか、

私は後者だと思う。

彼らが秀でた能力を持っていたことを否定するつもりはない。

ただ、20世紀においては「天才神話」を渇望する民衆心理の影響力の方が作家個人の力よりも

はるかに大きかったということが言いたいのだ。


また、彼らは「20世紀の誤謬」がまだ完全に凝り固まってしまう以前の時期までに、

巨匠としての立場を確立していたということも一つの要因だろう。

そしてその後、彼らは確立された巨匠の立場に居ながら、

常人を超えるエネルギーでその立場を守り抜いたのだろう。
(マスコミという巨大なエネルギーが働いたことも含めて)


※20世紀の巨匠たちを揶揄するつもりではなく「実は彼らも時代に飲み込まれていた」のではないかと言いたい(私が論じているのは「20世紀」という時代であり、それは、その時代にあった全てのものを含めた意味での「20世紀」であるから、彼らに関する論説はすなわち「20世紀」に関する論説である。このことは、彼らが時代の代表者であったことを意味している)


以上の考えから、回帰すべき時代は「20世紀の急進」へ向けての準備期間と推察され、

「混迷の渦」がまだはっきりとは形成されていなかったであろう、20世紀初頭ではないだろうか。


1900年に回帰することも考えたが、この宣言を発する2014年からちょうど100年間遡るという意味で

1914年に回帰することとした。

(観念の中でのタイムスリップであるから、年次の正確さよりもイメージし易くすることを重視した)










5.年代区分のまとめ

 ここで年代の流れが入り組んだ形になってしまったので一応整理しておく。


1800年~1913年=前世紀

1900年~1913年が19世紀なのか20世紀なのかがわかりづらいので、
この114年間を前世紀と呼ぶことにする。


1914年~2013年=≪喪失の世紀≫

【芸術の20世紀 喪失宣言】において、我々がいま正に、観念の中で消去しようとしている100年間。


2014年~未来=≪新生芸術の20世紀≫

20世紀をもう一度やり直す形を取りたかったのと、「旧20世紀」を観念の中から払拭するために、
「こちらが本来あるべき姿の20世紀だ」という意味で、敢えて20世紀と名付けた。










 ⑶具体的な≪喪失≫について                1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと/ 「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう

 さて、我々は≪芸術の20世紀 喪失≫及び≪芸術の100年回帰≫に向けて

船を漕ぎ出す決意を固めたわけだが、それには具体的に何をすればよいのだろうか。

以下に、現在の時点で想定される範囲の具体的な手順を記しておく。

ただ、ここでも予想外の事態は発生してくるであろうから、

当然その都度内容を修正していかねばならないだろう。

 

1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと /  「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう


ここまで≪芸術の20世紀≫から脱出することばかり書いてきたが、

≪芸術の20世紀≫から学んだこともいくつかある。

≪喪失≫の手順のはじめの一歩として、消去するべき世紀からの教訓を確認しておきたい。


まず挙げておきたいのが「挑戦する姿勢」である。

≪芸術の20世紀≫は挑戦し続けた世紀でもあったと思う。

振り返ると、常に何かに駆り立てられるように挑戦と破壊を繰り返していたように見える。

それこそが「20世紀の急進」を生み出した原因の一端でもあったわけだが、

結果的に「混迷の渦」になり、100年後の私たちを身動きのできない状態にまでしてしまったことは

やはり肯定できないが、その「挑戦する姿勢」と「勇気」には素直に敬服する。


そして今、未知への船出をしようとしている我々は、

ここで学んだ「挑戦する姿勢」と「勇気」をさらに増幅させて、

より大きなチャレンジに臨まなければならない。


「彼らにもできなかったことを成し遂げるよう」求められていることを、私は感じている。

あらゆるものに挑戦し続けた彼らができなかったこととは、時代の要求に逆らうことではないだろうか。

なぜなら≪芸術の20世紀≫において時代の要求に逆らうことは、即ち時代から抹消されることを意味し、

それをした者は必ず歴史から消えているからだ。

時代の要求を拒絶したがために消去された者たちの悔恨の念を心に抱きつつ、

いま、私たちはその時代を消去しようとしているのだ。


「消去される側」であった個々の「人間」とその「思念」が、逆転して消去する側であった「時代」を

消去できるか否かは、われわれ一人ひとりの「挑戦する姿勢」と「勇気」にかかっている。

だからこそ、≪芸術の20世紀≫の持っていた「挑戦する姿勢」と「勇気」をもって、

≪喪失≫へ向けてのはじめの一歩としたい。


そしてもう一つ、≪芸術の20世紀≫から学んだこととして

先にも触れた「天才神話」の崩壊を挙げておきたい。

より正確に言うなら、

すでに100年以上前に崩壊し形骸化していた「天才神話」からの脱却と言えるだろう。


これは「20世紀の誤謬」の中でも≪芸術の20世紀 喪失≫後にも根強く現れてきそうなものの筆頭に

挙げておくべきものだと思っている。

これを排除できないと、きっとまた「誤謬」にはまりこんでしまうだろう。


まず、≪天才≫とはそもそも何なのだろうか。

もっとも単純に言えば、「子供なのに大人のような(大人以上の)ことができる(できた)者」と言えるだろう。

≪天才≫=「子供」ではないが≪天才≫の典型が「子供」なのである。

実際、大人になってから頭角を現した者が≪天才≫の名で呼ばれることはあまりないが

(あっても大抵の場合「実は彼は子供のころから凄かった」というのが付いていたり、

また若いうちに死んでしまった者をあとから「天才」と呼ぶ場合なども多い)、

少なくとも、「子供」だと簡単に「天才」と呼ばれる傾向は間違いなくあるだろう。


しかし、現代の芸術において子供のうちに何ができたかということに、大した意味があるとは思えない。

これはもともと古典の時代に一元論的な意味において、
(一神教であるキリスト教の影響力が強かったためだろう)

類稀なる才能を持った者を取り上げて≪天才≫の名で呼んでいたことの名残りであり、

現代(20世紀以降)の多元論化した芸術観においてはほとんど無意味だとしか言いようがない。


要するに一つの目標に向かって頂点に近づいた者こそが≪天才≫であり、さらに幼くして登りつめた者が

≪神童≫であったわけだから、一つの目標を設定すること自体が無意味になった現代において、

≪天才≫という言葉はただの宣伝文句に過ぎないのである。


言い換えれば、「≪天才≫の時代は終わった」

いや、「それは100年以上も前にとっくに終わっていた」ということだ。


以上のことから、今後この≪天才≫の文字に踊らされてはならない。


都合よく宣伝に利用されたこともあるが、

それ以上に一般の心理の中に≪天才≫待望論のようなものがあったことによって、
(現在に至ってもまだ変わっていない)

「天才神話」が形成され易い土壌が作り上げられてしまったように思う。


おそらく、神的世界観の崩壊がまだ受け入れられていない時期に
(完全に崩壊していたわけではないが、その絶対性は崩壊していた)

「20世紀の急進」に晒された人々が、心のよりどころを失った不安を補うべく

「神の子」(神童)である「天才」と言う「象徴」に、

既存の宗教における「神」と同質の「絶対的な価値」を見つけて、

そこに漠然とした安心感を抱いてしまい、それを「神話化」し、知らず知らずのうちに強固なものとし、

自ら築いた「神話」の中で踊らされるという結果に至ったものと思われる。


≪芸術の20世紀≫において、既存の宗教的道徳観を破壊したり嘲笑したりすることを「斬新」と言い、

そのような芸術を「天才」による「傑作」としながらも、

その「天才」には既存の宗教的「神話」を重ね合わせて

安心するという、矛盾した状況があったのは確かなことだろう。

ましてその矛盾を認めたくないがために「神話」にすがりついて「天才」や「傑作」を偶像化したとなると、

もうそれは滑稽と言われても仕方がない。


またその滑稽さに気付いていた者も気付いていなかった者も、その「時代の要求する滑稽」に

逆らうことはできなかったのだろう。


この事に限って言えば、まだ見えない先の時代を見据えていなければならないはずの芸術家が、

今という目に映っている時代しか見ていなかったという点で、20世紀の巨匠たちは批判されるべきであろう。


しかし、巨匠たちを批判している暇はない。

もはや我々は「神話」の崩壊にいちいち動揺する必要はないのだ。

実は私たちはとうの昔にそれらの不安から抜け出している。

それなのに形骸化した≪天才≫だけがお決まりのセリフのように使われ続けてているのは

「バカバカしい」としか言いようがない。


ここで明言しておきたい、≪新生芸術の20世紀≫においては、

≪天才≫も≪凡人≫も≪普通の人≫も全く関係ない。

そしてあえて付け加えるが、幼少期に高い能力を示したということも全く無意味である。

今後も「~才にして~が凄い」はさんざん現れるだろうが、それらはすべて「ステージママ・パパ」によって

プロデュースされた「子供という商品」もしくは、「ややスケールの大きい親バカ」のどちらかである。

そして何より悲しく思うのは、その子たちがどんな感性を持っていたとしても、その感性は、その幼い時期に

ひどく傷つけられてしまうだろうということだ。

現時点においては、能力の高さではなく能力の限界に近づくことに芸術の価値があると考えるべきである。

(幼児に能力の限界に近い作業をさせることは、私には不適切なこととしか思えない。
また場合によっては危険ですらあるかもしれない)


以上、二つの≪芸術の20世紀≫から学んだことを挙げたが、

≪喪失するべき世紀≫のことをはじめに書くのは矛盾していると言われれば認めざるを得ない。


しかし、≪喪失≫といっても実際に消えてなくなるわけではないから、

必ず観念の中にそれらの断片が残り、ときによって顔を出してくるだろう。

だからこそ先回りして、ある程度予見される事態に対処できるような「癖」をつけておく必要がある。

そして実は、この「先回りできること」が≪100年回帰≫の最大の利点なのである。

但し、当たり前だがこれをあまり多用すると≪喪失≫の意味がなくなってしまう。

そこで、最も活用できそうな「挑戦する姿勢」と、逆に最も警戒すべき「天才神話」の二つを挙げたわけだ。

 










2.各現場で実行できそうなこと

もちろん、すべては観念の中で≪芸術の20世紀≫を消し去ることから始まるわけだが、

これは個々の人たちの頭の中で行ってもらう作業なので、説明は不要かと思われる。

慣れないうちはどうしても「○○のような作風」などと

20世紀の巨匠の名を頭に浮かべてしまったりすると思うが、そこは慣れの問題だろう。


ここでは、観念上のこと以外(つまり具体的なこと)で、できそうなことを挙げておきたい。

これも随時追加(添削)することになるだろう。


そして、もしこの「宣言」に賛同していただける方がおられるのであれば、これらのことを各人がそれぞれの

お立場において、実践または広報していただきたい。
(広範囲にと言うよりはご自分の周りの人の意識に働きかけるという意味で)


それから、わたしが言うのはおこがましいのだが、

これらの活動における方法論に関しては各人の自由な判断にお任せいたしたい。

わたしとしてはどんなに小さな単位での活動であろうと必ずや一定の成果があるものと思っているので、

どのようなやり方でも、良いと思うものがあれば積極的に試してみていただきたい。

きっとそれがこの「宣言」にとって最良の結果の一つをもたらしてくれるに違いないだろう。

ただ、各人の中での「意識改革」が常に最重要な課題であるということだけは言っておくべきなのかもしれない。


これについてもう少し付け加えるならば、現在形の考え方では時代の流れを変えるには「メディアによる

広範囲な宣伝力」を活用し、一気に「時代の中心」に踊り出て、「時代の先端」を牽引し、一大「ムーブメントを

巻き起こす」ことが効率的なのだろうが、これらの大容量の一方向への情報の流れを作り出すやり方こそが、

いま私が「喪失」しようとしている「20世紀」を象徴するものであり、また、「20世紀の誤謬」を

創り出した一因でもある。


従って、私はこれらのものを特に重視しようとは思わないし、逆にとくに拒絶しようとも思わない
(強い拒絶は注目に等しいから)。

私が重視しているのは「人の意識」である。

一人の「人の意識」が変わることこそが、いま私が考えている最大の変革であり、

また、その最良の姿である。

現時点での私の考えでは、一人の「人の意識」が変わることは

時代の「すべての意識」が変わることに等しい価値があり、

さらに言うなら、一人の「人の意識」が変わった時点で

「時代が変わった」といってもいいほどなのである。


つまり「時代」というものは常に流れていて、

言ってみれば止まることなくいつも変革し続けているわけだから、

一人目が変わった時が時代の変革の最先端の瞬間ということであり、

その後変わって行く時代の最初の点なのである。

確かに、その点が増えていって時代を埋め尽くすような勢いになれば

「時代が変わった」と言われるのであろうが、

実は、それは単に「数量的」なことであって、私が問題にしているのは「質的」なことであるから、

あまり関係があるとは思わないのである。

あくまで一人目の人にとっては自分が変わった瞬間が「変革の時」であって、

その時から彼の中では「時代が変わって」いるのである。


当然それは何人目であっても同じことであり、一人の変革には一人分の価値があって、

その「一人分の価値」は時代の全てを含む「時代の価値」に等しいのである。

そしてまた、この一人の「人の意識」の変革が「一時の気まぐれ」や「単なる勘違い」でもない限り、
(そういうものを「変革」などとは言わないと思うが)

きっと、少なからず時代はその「人の意識」によって動かされてゆくことに成るのである。


それはおそらく「数量的」な力によってではなく

「質的」な力によって動かされることに成ると、私は思うのである。

従って、各人においてはこの「宣言」を多くの人に広めることではなく、

自身の中で如何なる「質」をもって解釈し、

また自己に取り込むかということに最大限のエネルギーを注いでもらいたい。


少し話がそれてしまったが、以下に具体的な行動について記しておく。


①一番難しそうなところからいくことにしよう。

教育の場に取り入れてもらいたい。

史実を変える(一時的にせよ)というのは難しいとしても(その必要があるわけでもない)、

芸術史における20世紀という時代の持つ特殊性をこの≪喪失≫とともに説明してほしい。

少なくとも我々のような≪20世紀の芸術≫という

「混迷の渦」から抜け出そうとした者がいたことだけは伝えてほしいものだ。

そして若い世代が芸術について考えるきっかけになってくれればとてもうれしく思う。
(こんなことをやったやつがいるのかと)



また、せめて教育の現場において子供や若者の『「20世紀の芸術」がわからない』という純粋な疑問に、

「ごまかし」や「定説」で対処するのだけはやめていただきたい。

「わかろうとせずに感じろ」や「先入観や常識で見るからわからない」も止めていただきたい。

きっと一層わからなくなるだけだから。

その時、子供たちに対して言えることとして、

私が提案できるのは「取りあえず20世紀を抜いて考えてみよう」

と言うことしかないのだが、いかがだろうか。


実際は、現場の教育者の方もこのやり方でかなり救われる部分があるのではないだろうか。

教育者の方々御自身も、嘘はつきたくないだろうし、

教科書に載っている≪20世紀の芸術≫を独断で否定することも許されないだろうし、

でも子供の疑問にも答えてはやりたいだろうし、これらを満たそうとすれば、

とくに芸術に興味があるとも限らない小・中学生(とは限らないが)に、「非常識なほど難解な論説」を

くり広げなければならなくなるのは間違いないだろう。


でも、もし、わからないのが「20世紀」だったら、

「そこは特殊な時代で君たちがわからないのは普通のことだから一時的に抜いて考えてみよう」

というやり方で、

子供たちの心に緩衝地帯を作ることができるかもしれない。

それは嘘でもないし独断でも偏見的な意見でもないだろう。

そして何より難解な部分は何もないのではないだろうか。


もしも説明するのならば「芸術」は抜いて「時代」のほうを説明すれば、

それほど複雑な説明にもならないと思うのだが、どうだろうか。


たとえば、『「激動の時代」の中で、人々の常識感がひっくり返されるようなことが繰り返し起きたために、

感受性の強い芸術家がそれを強調した形の表現手法をとった。』という感じでも十分かと思われる。

こんな捉え方をすることで、

「なるほど、色々なことがあったから天才たちも考え過ぎてしまったのか」と思えれば、

天才たちを身近に感じられて

「そうか天才たちも、わからなくなっちゃったから、わからない作品ができちゃったのか」

と気張らずに考えられるようになって、

ひょっとしたら「まてよ、わからないことをそのまま作品にできるのって凄いことなのかもしれないぞ」

と考える子もいるのかもしれない。


私は「20世紀の芸術」をわかってしまうことは誤謬にはまる危険性が高いことだと思っているので、

この最後の部分をお勧めする気はないが、それがその子の自由な気持ちの流れであれば止める気もない。

少なくとも、なんとなくわかったような顔をしていなければならないよりはかなりいいと思う。

だから、もっと「20世紀の芸術」をわかりたいという子を止める理由はないし、その子たちは参考資料を

提示してやりさえすれば、きっと嬉々としてそれを調べ、何らかの結論に達するに違いない。

その資料の中にこの「宣言文」を含む論稿を加えていただければ、その子が結論に到達するまでの時間が

きっと大幅に節約されるだろう。

結果的にその子がどんな結論に到達したとしても、それはその子の立派な「自説」なのだと思う。


②美術館の展示内容や企画に配慮していただきたい。


もちろん「20世紀美術の展示をするな」などという権利はないが、あえて無理なことを言わせてもらえるなら、

サブカルチャー的なとらえ方で企画していただきたい。

もともと20世紀美術にはそういう性格(前時代的なアカデミズムに対して)があると思うので、

20世紀美術全体≒サブカルチャーは不可能ではないと思うのだがどうだろうか。


つまりその時代の中でのサブカルチャーではなく他の時代との対比におけるサブカルチャーという形で

捉える事にさほどの無理は感じないのだが、それは私だけだろうか。


それが無理なら少なくとも、企画を立てる際にはこの「宣言」のことを意識していただきたい。
(もっと無理かもしれないが)

美術館関係者の方々には是非一度この「宣言」を(仮に、で構わないので)体験していただきたい。

そのうえで、企画を立てれば新たな発想も生まれるのではないだろうか。

「もしも、今が1914年だったら」そして自分たちが「20世紀の巨匠」達に代わって≪芸術の20世紀≫を

創り出して行こうとしているとしたら、ということにワクワクしてしまうのは、これも私だけなのだろうか。

そんな「ワクワク」を企画にしていただけたら、面白いと思うのだがいかがだろうか。

(④にあることと合わせてご検討いただければ、私としてはとてもうれしく思う。)


③マスメディアにおいては、「20世紀美術の話をなるべく取り上げないで」などといっても

意味がないことぐらいはわかっているし、そんなことをしても効果はないだろう。

むしろ「20世紀芸術」の話題が取り上げられる機会が増えれば、

この「宣言」にも気が付いてもらえる可能性が高くなるわけで、

そこで「こんなことを言い出した輩がいる」ということになれば勿怪の幸いである。

ただ、この「宣言」を広める上でマスメディアの力はそれほど重要だと思っていない。

どちらかと言えば一人の人の意識の変化が波紋のように広がってゆくという広がり方が

理想的なのかもしれない。


そもそも、この「宣言文」自体がインターネット上に発表されるのだから、

それもマスメディアにおける活動の一種なのかも知れないが

個人発信(私はなんの団体にも属していない)ということで、媒体としてのマスメディア利用であり

ネットワークに既に存在する宣伝拡散力・企画力・営業力等を

利用しないということで区別して考えている。


④これは、この「宣言」が一定の期間を経て、

何らかの効果を示し具体的な変化が現れてからの話になるが、

この「宣言」の中の≪芸術の20世紀 喪失≫について、

いずれは再検証するべき時が来るのではないかと考えている。


つまり、≪芸術の20世紀≫を復活して、元の位置に戻す必要があるということだ。

そしてこの作業が行われることでこの「宣言」はその役目を終えて、完結したといえるのだろう。


私たちは「20世紀の芸術」を今よりはるかに鮮明に見通せるようになって、

それをまともに理解できるようになってから、

もう一度その時代に起きていた事の「本当の姿」をまざまざと見せつけられるべきなのだ。

ただ、何年後にそれをすればいいのか私には見当がつかない。


まったく根拠はないがとりあえず20年後の再検証とその後、5年~10年毎の再確認を提案しておく。

本当は100年間喪失していたのだから100年後の復活としたいところなのだが、時代の進む速さが違いすぎて

どうにも見当がつかないのである。

取りあえず少し早めに再検証していく方がいいかと思い20年後としてみた。

これは見直すことに成る可能性が高いのかもしれない。


ただし、なんとなく再検証がなされないままに

≪芸術の20世紀≫が本当に忘れ去られてしまうというのは良いことだとは思えない。

だから、ずいぶん先の話になってしまうのだが、

「100年後の完全復活」と「全面的な再検証」だけは固定的に考えられるべきかと思っている。


また、こうした節目(定期的な再検証)を作ることは

芸術界にとってもプラスに成るのではないかと思っている。

昨今、「ビエンナーレ」や「トリエンナーレ」という企画を目にすることがあるが、

企画の目指すところが見えてこない時がある。

その時、世界が同じ一点を見つめて、考え、議論し、気づき、振り返り、問い直す、等々

いわゆる世界共通の目標のようなものがあっての企画であれば、

人々の意識はかなり高まるのではないだろうか。

そして、その時の反応こそが本当の意味での

≪芸術の20世紀≫に対する偽りのない人々の反応なのだと、私は思うのである。


⑤ここでやっと確実にできそうなことである。

私たち自身において、観念の中で≪芸術の20世紀≫を≪喪失≫させることに成功したなら、

まず、自分の意識を1914年に据えて、その視点ですべてのものを見て、考えてもらいたい。


20世紀の巨匠たちはまだその名声を確立していない

「ただの若造」として世界のどこかにいるはずである。

印象派についてすらやっと評価が定着し世界に広まった頃だろうか。

もちろん、そこにはもっと急進的で先鋭的な者もいるだろうし、

逆にまだアカデミズムを死守しようとする者もいるのだろう。


その「急進」から「死守」までの落差はかつてないほどに大きくなっている。

そして世界はこれから起こるであろう激動を予感しているに違いない。


その世界観や時代の空気の中で「あなたは何をするのか?」

『20世紀の誤謬』に陥らずに何ができるのか?

しかも、あなた方は20世紀において出尽くしたありとあらゆる≪スタイル≫を踏襲することを許されない。

進むべき方向はもう残されていない。

それは、すべて≪芸術の20世紀≫が実験してしまった残骸である。


もちろん≪20世紀≫は≪喪失≫されたのだから、それをするのは自由だ。

でも、我々は同じ過ちを繰り返すために≪喪失≫したのではない。

それは前に進むための≪喪失≫だったはずだ。

「そこであなたはどうしますか?」

「考えてください」

「迷ってください」

「そうして何とかして見つけてください」

≪自分≫の中の≪真実≫を≪自分の心の真ん中≫を、それを見つけ出せたなら、

それはきっと、あなたの≪最高の芸術≫であるはずだ。

少なくともあなた自身はそう評価するだろうし、その確信はもう揺るがないないはずだ。

その時点であなたは、もし誰からも評価されていなくても、

立派な≪新生芸術の20世紀≫の巨匠なのだ。

そう、あなたが、「ただの若造」(年齢ではなく)だったとしてもだ。

私はそう思うし、我々の仲間もきっとそう思うだろう。


具体的な≪芸術の20世紀喪失≫についてはこれぐらいにしておこう。

書きたいことはまだまだあるが羅列していくと

私自身も意味がわからなくなりそうなのでここで止めておく。

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   ※以下、2015年6月に一部を削除して追記

最期に、これだけは言っておきたい。

≪芸術の20世紀≫が「継承できないもの」であることは、既にはっきりしているだろう。

≪芸術の20世紀≫は自ら「継承する(される)こと」を拒絶していたのだから。


「継承することは必要ない」というのは、単なる「言い訳」にしかならない。

「継承」無くして、何ができるというのか?

絵の具の顔料を世界中の鉱物や有機物の中から探し出すことから始めようというのか?


「芸術」に限らず、すべての「文化」は「継承」されることによって成り立っている。

そうやって、登って行く階段のようなものである。

このことは、誰かが、肯定しようと否定しようと、

もう間違いのない事実として認めなければならないことに成ってしまっている。


これを拒否し続けることは、

あまりに、「愚か」なことであり、あまりに「悲しい」ことでしかない。

即ち、「不毛」である。


その単なる「意地の張り合い」は「継承すべきもの」としては

あまりに「貧弱」と言うべきであろう。


しかしながら、その「貧弱な不毛」こそが、

「現在に継承されているすべて」だというのが事実である。


これを「継続」していくのか、≪喪失≫するのかは、

個人の自由だ。





 Ⅱ.【真術の紀元 宣言】  ⑴ 宣言文

 
      ⑴ 宣言文


『 芸術の中心に位置する領域にあって「真実の追究」を創作の目的とするものを≪真術≫と名付け、

  ≪新生芸術の20世紀初年≫をもって≪真術の紀元≫とすることをここに宣言する 』











⑵ 新たに区別された≪真術≫について

 1. ≪真術≫を区別する理由


宣言文にあるように≪真術≫は「真実(真理と言ってもよいだろう)の追究」という、

方向性を持つ芸術のための名称である。

敢えて、これを区別して扱うのには理由がある。


芸術の中には、心の最も深い部分(魂と言い換えることもできるかもしれない)に訴えかける領域が存在し、

そういった領域を有していることこそが芸術を芸術足らしめていることは確かなことであり、

人の心に最も深い感動を生み出すことができるのも、そういった領域にある芸術に他ならない。

そういった「芸術」の中心とも言える必要不可欠な領域に、

いま≪真術≫という名称を設定しようということなのである。


重要なはずのその領域が、これまで確固たる形で区別されて来たようには見えない。

ただ単に芸術と言った場合、芸術のどの領域を指しているのかが判然としなかった。

と言うより、これまで芸術をその中でさらに範疇わけすること自体がタブー視される傾向があったように思う。

その結果芸術の核をなす部分がどこなのかが極めて曖昧となり、芸術の本質が何なのかが

まったくはっきりしなくなってしまっている。


さらには、これと同じことが芸術の外郭についても言えていて、「20世紀」以後、芸術という概念の「枠」は

どんどん広げられ、今となっては「なんでも芸術」だし、「なんでもあり」だ。


その変容の過程で、『何をもって「芸術」とするのか』『「芸術」の中心はどこなのか』ということを追究し、

芸術の中に更なるジャンルわけをすることは「了見の狭い」「無粋なこと」とされ、排除されてきた。

それは時として「芸術」の中心から離れれば離れるほど「最先端」で「芸術的」であるかのような、

錯覚を生み出すほどになっている。


この状態をこれ以上続ければ、「芸術」は限りなく、広げられ、歪められ、薄められて、

「芸術」と他のものは区別ができなくなってしまうだろうし、

どこに本物の「芸術」が存在するのかもわからなくなってしまうだろう。

そこで今、「芸術」を明確に規定する基準を設けることと、

その中でも「芸術」の中心とする位置を決めておくことが必要となってきた。

私はそう思う。


この思いから、「芸術」を改めて現在必要な形で定義し直すとともに

「芸術」という慣れ親しんだ言葉とは別に、

私自身まだ耳慣れない≪真術≫という語を創設することを決意した。



これまでにも「純粋芸術(ファイン・アートなど)」と呼ばれる領域があり、

ここで言う≪真術≫のような性質を持った芸術の多くは

この領域に入れられてきたと言ってよいだろう。

しかし「純粋芸術」という言葉をよく考えてみると、やや矛盾した所がある。

そもそも、芸術という言葉には、既に純粋という意味合いが含まれていないだろうか?

揚げ足取りをしようというわけではないのだが、「芸術」にすでに「純粋」が含まれているため

「純粋」をつけた意味があまりないのである。


せっかく、その言葉で「芸術」の中核を規定しようとしたのに、その意図を理解しない人にとっては、

それは何の意味も持たなかったようである。

むしろ、逆にこの言葉の”仕掛け”によって、「芸術の中核からは遠い芸術」に

「芸術の中核にある芸術」と同じ市民権を与えてしまったのかもしれない。


もともと「純粋な芸術」と「純粋でない芸術」の間に境界線を引いて芸術を区分するのは難しいだろう。

後に詳しく述べるが、「純粋性が濃厚な(芸術の中心に近い)芸術」から

「純粋性が希薄な(芸術の中心から遠い)芸術まで」が

無段階に並んでいるということではないだろうか。

だからそこに、「純粋性の有無」で一線を引くことはできないし、どれにも純粋性は含まれているので

「純粋芸術」と一括りにされてしまうのである。


このような小さな”仕掛け”や”つまづき”が「20世紀」という時代には必ずと言っていいほど

「誤謬の塊」になってしまうという「20世紀の誤謬」の一例だろう。


さて、そこで、なぜ「真実の追究」が出てくるのかというと、「真実」は「純粋」なだけではなく

「純粋以外の要素を含まない純粋」だからである。

つまり、「真実」を基準にすることによって「純粋」以外の要素を排除し、

「芸術の中核にある芸術」だけを抽出して規定することができるのではないかと思っているのである。


そしてまた、「真実」こそは人間の究極の命題であり、また「芸術」が「哲学」と双璧を成して

過去から、そしておそらく未来においても永遠に求め続けるべきものだからである。

「哲学」が論理や思考によって「真実(真理)」を追究」したのに対して

「芸術」は感性によってそれをしてきた。

一言でいえば「真実」こそ「人類永遠のテーマ」なのだ。


しかし、ここで問題は、人間が「真実」に到達することは不可能だと言うことだ。

「究極の命題」であり「永遠のテーマ」であるわけだから仕方ないのだと思う。


私はこの点については受け入れるべきだと思っている。

現在「芸術」に与えられた課題の中に「不可能への挑戦」が含まれてしまっているのだと思う。

むしろ、望んで、これに対峙する姿勢が必要なのであり、

「芸術」において「安易」「簡単」「わかりやすい」を目指すことは

全く無意味なこととしか、わたしには思えない。

それらを目的とするのであれば「芸術」以外の場でやればいいと思ってしまうのは私の傲慢なのだろうか。

少なくとも私には、敢えて「芸術」の場でそれらの「安直」を要求する側の意見の方が

よほどズレているようにしか見えない。


また、作り手(創作者)の側にとっての「簡単」と受け手側(鑑賞者)にとっての「わかりやすい」は別物だ。

そして、どちらにとっても「簡単」や「わかりやすい」は最低限必要なことではあるが、それ以上は無用だ。

それは「わざわざ難しくしている」や「不必要にわかりにくい」でなければ良いと言う程度のことだろう。


それ以前に、「強烈に一発でわかる」ような≪芸術≫に出会ったとき、「簡単」「わかりやすい」などという

陳腐なセリフは出てこないのではないのか?と問いたくなってしまうのである。

要するに、「簡単」で「わかりやすい」ことよりも「本物」であることのほうがはるかに重要であり、

他のことは大した問題ではないのである。


難しければ何度でもやり直せばいいし、

わかりにくければ少し立ち止まって考えればいいだけのことなのだから。


上に述べたことを簡単にまとめておく。

「芸術」において、感動を生み出すことができる領域こそが、「芸術」を「芸術」足らしめている。

その領域では「真実の追究」が必要と考えられる。

その「真実の追究」は困難であり、安易な姿勢で理解しようとすれば誤謬に陥る恐れが高い。

そこで、その領域を特に区別して規定する必要があると判断したため、

≪真術≫というまだ誤謬にさらされていない新しい名称を設け、

より狭義の定義づけを行った。











2.≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義

 さて、≪真術≫以前に≪芸術≫という分野は、今まで正しく定義されてきたといえるのだろうか。

私はこの点については懐疑的である。


≪芸術≫という伝統ある文化につての定義づけが、

今もってなされていないなどとは考えづらいのだが、

どうやらそういうことらしい。


19世紀以前においても、漠然とした「芸術の定義」はあったのだろうが、人々の価値観の変化が

緩やかであったために、特に意識して厳しく「芸術の定義」を吟味しなおす必要はなかったのではないだろうか。
(おそらく曖昧さを残しながらも少しづつ修正されていたものと思われる)

ところが、その習慣を維持したまま、「20世紀」の急激な意識変革にさらされた人々は、「芸術の定義」を

その都度更新できずに、それはいつの間にかズルズルと曖昧になり、

後ずさりするようにその範囲を野放図に広げてしまった。


そして数十年を経て「なんでも芸術だ」「新しいことをやったもん勝ちだ」になってしまったのではないだろうか。

それまで、漠然と「技術や美的感覚に優れたものが芸術に違いない」と思っていたのに、

突然、「こんなに醜くても芸術なんですよ」

「こんなにヘタクソでも芸術ですよ」

「こんなにクダラナイモノでもあなたは芸術じゃないと証明できるのですか?」とまくしたてられて、

芸術以外の場面(科学や工業技術など)でも価値観の逆転を痛感させられていた人々は、

「やはりこれも認めるべきなのだろう」「取りあえず芸術だと言っておこう」

と思ってしまったのではないだろうか。

そして、これが最悪だったのだが

「一度言ってしまったために引っ込みがつかなくなってしまった」のである。

その後は、誰もが「時代遅れの頑固者」「新しい感性が理解できないカワイソウな人」

と思われるのが嫌で、

「芸術の定義」を明確にしなくなり、そのかわりに「気の利いたキャッチコピーのような定義」が

使われることで益々「芸術の形」を曖昧にしていった。

それらの「キャッチコピー型定義」には各々オリジナリティーがあって、

それぞれに一理あるものではあったのだと思う。

だが、それらは一人一人の意見に過ぎず、定義と呼ぶほどの普遍性を持つには至らなかった。

つまり、いろいろな人が入れ代わり立ち代わり「芸術とは何か?」について別のことを言うから、

普遍的な定義が形成されなかったのだろう。

むしろ「オリジナル」が増えてゆく度に「定義」としての普遍性が失われていったのである。

そんなところが主な流れではなかったかと思う。


せっかく≪真術≫を新設したのに、それを包括する≪芸術≫の解釈が曖昧ではあまりに心もとない。

そこで≪新生芸術≫と≪真術≫の未来のためには

普遍性のある「芸術の定義」が必要不可欠であると判断し、

今、私なりに考えられる範囲での定義を記しておこうと思う。


ただし、今のところ、これはまだ「身勝手な自説」の一つに過ぎない。

その意味では、「20世紀における定義」と同じようなものである。

だから、≪新生芸術の20世紀≫がスタートしてから、この定義が時代の規範として吟味され、

過不足があればそれを補われたのちに新たに承認されて

ゆっくりと受け入れられて行くことが望ましいだろう。

その過程においてこの仮定義を「たたき台」にして

普遍的な時代の芸術概念が固まってゆくことを期待している。


   ≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義

『 芸術とは、作者の「創作衝動」によって創作され、

  作者の「能力の限度」に応じて完成とされた創作物とその創作過程である 』

♯1つまり、純粋に創作衝動によって作られたものは芸術(の中心)に近く、他の要素によって左右されたものほど 
芸術(の中心)から遠い、そして作者の能力の限界に近いところが引き出されたものは芸術(の中心)に近く、
それより手前で、投げ出されたものは芸術(の中心)から遠い、ということである。

♯2「どんな分野(ジャンル)か」とか「どの程度の完成度か」といったことは芸術であるか否かには関係ない。
能力の低い人が自己の限界に近いところに到達したのであれば、もしも、それが完成度の低いものであっても「芸術(の中心)に近い」ということになる。ただし、「能力の限界に近いこと」が作品上に表現されていてはじめて成り立つ話なので、むしろこれは難しく、完成度を上げていく中で能力の限度も高めていく方が、むしろ確実な方法かもしれない。

※以下、「芸術に近い」=「芸術の中心に近い」・「芸術から遠い」=「芸術の中心から遠い」
※ここで「芸術に近い」「芸術から遠い」は、「芸術である度合」(以下「芸術度」と呼ぶ)を判断するための指標であり、作品や作者の優劣を判断するための基準にはならない。




「♯」以下の説明文にもあるように、この仮定義にはジャンルや完成度による基準を設けていない。

言い換えればどんな種類のものでも芸術となりうるし、極めて簡単に作られたものでも芸術と名乗ることを

許されるということである。

これは一見「20世紀」における芸術の扱われ方と似ているように見えるかもしれない。

確かに芸術という文化をより自由に広くとらえようとしたという点で似ているのだろう。

しかし、「♯」を付した説明文をよく読んでもらいたい。

ここで言うところの「芸術に近い」・「芸術から遠い」という言葉で言っていることとは

「どんなものでも芸術と言うことはできるけれど、芸術から限りなく遠いものを芸術と言って

何の意味があるのですか?」ということだ。

「20世紀」との最も大きな違いは「なんでも芸術だ」をやめて「なんでも芸術ととることも可能なのですが、

あなたはどうしますか?」に変えたところだ。

芸術か否かの判断を鑑賞者に委ねたのだ。
(それだけ真剣に「芸術」と向き合ってほしいという意味を込めて)

「20世紀の芸術」においては常に難解な芸術論が先行し、

その間、一般の鑑賞者は蚊帳の外に置かれ、専門家なる人たちが

一定の結論(場合によっては不可解な)に到達した後で、

鑑賞者はその≪天の声≫をすでに定説であるかのように

聞かされて、眩暈がして思考が麻痺した状態で「さあ、この芸術をどう判断するんだ」と迫られ、

しかたなく「すばらしい!」と言ってしまうという傾向があったように思う。

(ここで、難解であること自体が悪いことのように言われる傾向があるが、難解さは決定的な問題ではない。
一般人だってそんなに理解力が無いわけではない。実は、「上から言われる」ということが問題なのであって
「難解さ」はその理論的な矛盾や論旨の強引さをごまかす為に使われていることが多く、ほとんどと言ってもいい
ぐらいだろう。理解力が足りないのは専門家のほうだったのかもしれない)

そのような事態を繰り返さないために、この仮定義によって、上の立場から判断を下す権限を

「専門家なる人たち」から剥奪したとも言えるのである。


そして、この仮定義はもう少し正確にいうと、定義というよりも「芸術の物差し」なのだ。

この仮定義においては芸術と芸術でないものを分けるのではなく
(本来定義とはそういうものかもしれないが)、

芸術に、より近いか遠いかを計測するわけだ。

但しこの「芸術の物差し」には目盛りに当たるものはない。

当然、使う人によって、また使い方によって、違う数値を導き出す可能性がある。

現時点で私はそれでいいと思っている。

≪作者の創作衝動≫と≪作者の能力の限度≫という二つのキーワード(指標)だけで十分だと思う。

よく吟味すれば二つの言葉だけでも芸術を計ることはできるはずだ。

細かい規定を設けてしまうと、ここでもまた誤謬に陥り結果的に大きな誤りを招く可能性がかえって

拡大してしまうだろう。


むしろ二つのキーワードだけを念頭において直感的に判断していった方が大きな「ズレ」を起こさずに

済むのではないだろうか。というより、「ズレ」があっったとしても、それが「純粋な判断」の結果であれば、

むしろそれが、その時点でのその人にとっての芸術のあるべき位置ということなのかもしれない。

また、少し視点を変えてみれば、その判断が純粋なものであるか否かに関わらず、

全ての判断が「ズレ」ていると言うこともできるだろう。

要するに、「ズレ」自体が問題なのではなく、そのすべての「ズレ」た判断のなかで、

ごく一部の「ズレ」た人の意見だけが、権威のあるものとしてまかり通ってしまうことが問題なのである。


とにかく、今後は「専門家なる人たち」の判断に出会うたびに、それらも全て「身勝手な自説」に

過ぎないということを意識してもらいたい。

一般人の「自説」と何ら変わることはない、すなわち「芸術の物差し」の自分の好きなところに点を打って

目盛りにしているだけで、難しい理屈でその目盛りの点が正確な位置にあることを主張していても

その正確さとは彼らにとっての正確さであって、ほかの人にとっては無意味である。

彼らはいまだに19世紀以前の一元論の世界に居て、「正しい」があると信じているのである。
(これは前衛的な芸術を称賛している場合でも同じである)

  ※ここでの「正しい」は、事細かな部分にまで「正しい」を規定しようとすることを指している。
   最低限の基準としての「正しい」とは別のモノと考えている。

つまり、彼らは≪100年回帰≫した後の我々からですら、

さらに100年遅れているのかもしれないのだ。

彼らがここまで長く存在し続けたのは≪20世紀≫が空転していたからであり≪喪失の世紀≫の中で

真空パックされていたから、そのままの状態を続けることができてしまったのだ。

我々にはその真空パックを開封して次の時代へ進む準備ができている。

もう彼らの論に耳を傾ける必要はない。

というよりも、もう今後は彼らの言っていることの意味が解らないかもしれない。

(もともと他人が聞いても理解できないようなことしか言っていない者もいたのだから)

真空パックされていたのは皆同じだ。

違うのはそれを開封して本物の空気に触れたときに、即ち≪新生芸術の20世紀≫がスタートしてから

どう考えどう行動するかだ。



ここで、ここまでの説明を補足すると、「芸術の仮定義」においては芸術を最大限に拡大して

解釈しているのに対して「≪真術≫の定義」では芸術を最小の一点でとらえている。

つまり「芸術」は限りなく広い平面で有り、≪真術≫はその中心の一点である。

「芸術」の平面にはあらゆるものをどこにでも置くことができるが、≪真術≫では置くものは限定されないが

その場所は一点から外れることが無い。

そして「芸術」の平面上にある≪真術≫を含むあらゆる点に

それぞれ「深さを規定する軸」があると思ってもらいたい。

そこでは、中心に近いからと言って必ずしも深いとは限らないし、遠いから浅いでもない。


しかし中心に近いことは、それだけ「芸術度」が高いことを意味するから、「芸術的」であるとはいえるわけだ。

また、逆に中心から遠ければ「芸術度」は低くなるが、それは平面上の水平方向に限定した

「低い」=「中心から遠い」であって「深さ」は「深さ軸」によって規定されることに成る。

例を挙げて言うと、極めて純粋に「真実の追究」を行い、

その創作者が全力を出し切ったという軌跡が現れたような

作品があれば、それは深い領域にありさらに「芸術度」も高い≪真術≫の作品である。

また、工芸作品やエンターテイメント性の高いものなど、芸術の中心から少し離れた位置にあるものでも、

その創作者がそれぞれの位置において相応の純粋性を保ちつつ、全力を出したものであれば、

それは、「深さ」については同じように深い領域にあると言えるのである。

ただし「芸術度」においては、やはり低いと言わなければならないということになる。


そしてこれらの定義においては、実際の「芸術」をどの位置に置いてどの程度の深さにあると判断するのかは、

定義を使う各個人に任されるということになる。


本来定義とは、ある事物を規定し、明確な線を引いてその事物の範囲を限定するものだが、

この二つの定義においては「芸術」と「真術」を規定してはいるが、その線引きは確定せずに、

各個人の裁量において確定することを要求しているのである。


これは一見曖昧に見えるが、あくまで使う者が線を確定して初めて定義が有効となるはずだから、

それが確定されていない段階で定義を用いることができないわけで、

そこに曖昧さが入り込むことは無いはずである。
(他の人から見れば、それは曖昧に見えるだろうが、それは本人の中での曖昧さではない)










⑶≪真術≫の不可能性                              1.≪真術≫は不可能なのか?


   1.≪真術≫は不可能なのか?


前にも少しふれたが、≪真術≫の不可能性については、もう少し詳しく説明しなければならないだろう。

わざわざ新しい名称まで設定しておいて、いまさら言いにくいことなのだが、

≪真術≫は、とても「不可能性」が高い分野なのである。

つまり平たく言えば「何も達成できないかもしれない」と言うことなのである。


ただし、わざわざ「不可能性」というやや不自然な言葉を使うのには理由がある。


それは、完全に達成されることはないだろうが、

「近づくことはできる」し、「その近い位置にとどまり続ける」ことができれば、

何らかの成果を残すことができる可能性はあると言うことである。

それから「不可能」なことを行うという行為自体に意味があるということも含めて、

この「不可能性」という言葉を使っている。


なぜ不可能なのだろうか。

それは「真実」という≪観念≫があまりに純粋すぎて、

「完全に純粋には成れない人間」には把握することができないからだ。

言い換えると人間の純粋性は不完全だから、完全に純粋な≪観念≫を

把握する(頭に想い描くことを含めて)ことはできないので、

完全に純粋な≪観念≫である「真実」を

把握することはできないのである。


うまく説明できていないと思うが、

要するに、不完全な道具で完全なものは創り出せないということだろうか。

人間は「真実」を自明のこととして、直感的に感じ取ることぐらいはできても、

把握する(論理的に)となると「不可能」としか言いようがないのである。

把握できていないものを物質化するということは「ほとんど当てずっぽう」になってしまうのである。
(次に≪真術≫のかすかに残された可能性について述べている)

従って、≪真術≫は最も「不可能性」が高い分野だと言わなければならないのである。











2.≪真術≫に残された可能性

 
 上で述べた内容からすると、≪真術≫とはイメージ(観念)の中だけに存在する

バーチャル(仮想的)な分野で実体のある作品は存在しないということになってしまいそうだ。

そういうわけではないのだが、あくまで理論上の話になると「不可能」となってしまう。
(「できる気がしない」というのが本音のところかもしれない)


ちょっと話がややこしくなってしまうが、理論上では「真実」の物質化(表出)は「不可能」のようだが、

それに近づくことは可能かもしれないし、近いところに留まり続けることができれば、

もう少し正確な「真実」を物質として表出することができるかもしれない。


もちろん完璧には程遠いと思うが、

「これは自分にとっての「真実」である」と思えるような作品を得られることもあるのかもしれない。
(「真実の断片を集めたもの」と言った方がいいのかも知れないが)


そこにおいてのみ≪真術≫の可能性がかすかに見えてくるのである。


しかし、肝心な「真実」が見えない中で

「如何にして、それに近づきそこに留まれば良いのか?」と言うことになると、

もう正直言って途方に暮れるしかない。


しかし、そこでただ一つだけできる事がある。

それは「真実を”追究する”こと」ではなく「真実を”追究しようとする”こと」だ。

これは、やろうとしさえすれば、できることだといえるだろう。


ただ、これもまた、かなり困難なことだと言わなければならない。

目標である「真実」は見ることすらできず、それを表現するすべも確かなものは何もない、

いわば完全に手探りの状況で、常に「真実を追求しようとする」という「姿勢」を崩すことは許されない。

さらには成果の期待できないこれらの作業を

最大限のエネルギーを注ぎ込みつつ継続して行くことが求められるのである。


見返りがほとんど期待できないこの作業を、楽しいと思うことはほとんどないだろう。

しかし、この作業を繰り返す中で、その過程が作品に記録されて行くのである。

それはある意味、否が応でも記録されるだろう。

好むと好まざるとにかかわらず、記録されてしまうので、それをコントロールすることは難しい。

だからこそ「姿勢」を崩すことはできない。

「姿勢」を崩してしまえば、それが記録され不甲斐ない作品になるだろう。

しかも「姿勢」を崩さず維持し続けることができたとしても、

表現における手法はあくまで手さぐりなわけだから、

必ず成果が得られるというわけではない。


しかし、何かが記録され続ける。


ただ、その記録をコントロールして成果に導くことができないので、

とにかく作業を続ける中で、「これかな?」という記録を残して

「ちがうかな?」という記録を消していくということぐらいしかないのである。


つまり、≪真術≫においてできることは、「真実」に対峙する「姿勢」を示し、創作の過程を通してそれを

維持し続け、ひたすらそれを記録し続けることのみだということだ。


このように言ってしまうと、どうにも希望が持ちづらい感じだが、それが現実だから仕方がない。

これを受け入れることが嫌ならば≪真術≫という作業は、残念ながらあきらめるしかないのである。


ただし、過去の作品(有名作品に限らず)において、

これらの過程を通過して一定の成果を収めたと判断できるような作品はあるわけで、

それらが≪真術≫の概念に当てはまるような創作理念に基づいて制作されたか否かは

作者本人にしかわからないことかもしれないが、

少なくともそのような作品が存在するのであれば

≪真術≫の可能性を示す物的証拠となるといって差し支えないだろう。

(ここではどのような作品がそれに当たるのかについては各人の判断に任せたい。
 どんな作品をイメージしても論旨に影響はないはずだ)


それから、希望の持てそうなことがもうひとつある。

上記のような作業において「才能」や「技術」はほとんど役に立たない、

それは、まったくの「凡人」でも同じ可能性があるということでもある。

というよりも、むしろ「凡人」のほうが有利かもしれないのである。


つまり、上記のような「不可能性」の高い作業を前提とした場合、

「できること」に慣れている「才人」よりも

「できないこと」に慣れている「凡人」の方が、少しだけ有利だということだ。


「才人」は経験したことがないほどの「できない」に疲れ果ててしまうだろうし、

何よりも彼らには、ほかに行く場所がたくさんあるから、

そちらで「できるやつ」と言われた方がはるかに気持ちがいいだろう。


だから、彼ら「才人」は≪真術≫にとどまることが困難になるだろうことが予想されるわけだ。


要するに、≪真術≫に関しては、「能力」においては「凡人」でも「才人」でも大差ないのだが、

その経験における差が現れてくるということだ。


ともかく、これらの作業における「不可能性」の高さから

≪真術≫は「芸術」の中心にあるとも言えるのである。
(先にも述べたように「不可能への挑戦」は芸術の課題であるため)


今わたしに言えるのはこれぐらいだが、一応、可能性がないわけではないと思いたい。

ただ、「高すぎる目標を設定してしまったのだろうか」という「迷い」もないではない。

そして、この「迷い」について、次に述べることになる。











3.≪真術≫における「迷い」について / 「迷い」の時代へ

 前項で≪真術≫においては作者の「真実の追究」に対する「姿勢」が重要であると述べたが、

それではその「姿勢」とはどのようなものなのだろうか。


ふつうに考えると「姿勢が大事だ」と言うとき、「迷いのないきっぱりとした姿勢」を指す場合が多いだろう。

しかし、ここで求められているのは、先に述べたように「真実を追究しようとする姿勢」である。

つまり「不可能に挑戦する姿勢」と言い換えることもできる。

そしてさらに言うなら、それは「迷いの姿勢」なのである。

不可能なわけだから、当然迷わずにできるはずはないということだ。


つまり、普通に考えるのとはまったく逆に、一見、一貫性がなくはっきりしないように思われがちな

「迷いの姿勢」が重要な要素になるのである。


ただし、ここでいう「迷い」とは一般的な「迷い」とは少し違う。

それは決められるはずのことを決められずに迷ってしまうというのではなく、

決めるのが到底困難と思われるようなことについて決断を迫られた時の「迷い」であり、

さらには一つの決断を下しても、すぐにまた次の決断を迫られるという

極めて厳しい決断の連続において、揺らぐ心理の不透明感を指したものである。


それは傍から見れば、まったく「きっぱりしない」フラフラと「決断力のない」「迷いの姿勢」に

見えてしまうのかもしれない。

しかし、その内部で起きていることは、見た目とは裏腹に、極めて厳しい「姿勢」を保った状態で

一つ一つの決断を下し続けていくという作業なのだ。

だからこれをただの優柔不断や曖昧さと一緒にすることはできないのである。


こう言うと、「迷い」が急に格好良く見えて来るが、それもまた少し違うように思う。

上記のような心の動きがあるとは言え、「迷い」が「迷い」であることに間違いはない。


やはり、そこには人間の「弱さ」や「情けなさ」があるだろうし、今まで「天才」や「巨匠」と呼ばれてきた者が

必ずどこかに持っていた「自信」や「風格」は無く、どちらかと言えば「普通の人」に属する者に付き物の

「凡庸」があるのだろう。


反面、「天才」や「巨匠」には威圧的なところがあって、

上から人を押さえつけるような「偉そう」な感じもあるが、

「迷い」の渦中にある人たちにはそういうことは無いだろう。


どちらを選ぶかは自由だが、私に言えることは「天才の時代」は終わっているということと、

「迷いの時代」が来るだろうということだ。


わたしなら、どんなに「見栄えが良く」ても終わっているものは選ばない。

多少「情けない感じ」でもこれから来るものを選ぶだろう。


それに、私は「情けない感じ」のやさしさや奥深さ、そして何より「人間味」が好きなのだと思う。

そういった「人間性」こそが、「現在」を救うものだと思うし、未来を切り拓くものだとも思う。


そして、これもこれからの時代に重要度が増す(見直される)と思われる「普遍性」は

「普通の人」にこそ創り出せる物だとも思っている。


それはつまり、人間が「神」という救世主に頼っていた時代が終わり、

人間それも「普通の人間」が、

自分たち人間自身を救うべき「救世主」に成らねばならない時代がやってきたということだろう。

話がやや飛躍してしまったが、足をすくい合っている時ではないことだけは確かだ。


さてそもそも、この「迷い」と「迷いの姿勢」は何に由来して重要な要素となったのだろうか。


前述のように≪芸術の20世紀≫に置いては、

「神的世界観の瓦解」~「精神的基盤の喪失」~「既成概念の破壊」~「急進」~「混迷」

と続いたわけだが、そこで起きた「混迷」こそがこの「迷い」に当たるものだ。


つまり、本来ならば「混迷」が渦になりすべてを飲み込んでしまうようになる前に、

「迷い」が芸術の本質的な部分に関わる要素になっていくべきだったということではないだろうか。


それまで信じられていた世界観が崩壊してしまったのだから

「迷い」が発生したのは当然のことなわけで、

その事実をそのまま「時代の真実」として、表出し作品化できていれば、

力強い作品になっていたはずなのに、

まだ用意ができていなかった「20世紀」初頭の人々は「時代の本質」を受け入れきれずに、

なんとか「きっぱりとやりきってしまう」方向へもっていってしまったのである。


人々の意識が急激な変容を遂げて行く「20世紀」初頭にあって、

人々が最も見たくなかったのが、自分たちの心の中にある「不安」であり、

それを煽る「迷い」だったということかもしれない。


そしてこの「やりきってしまう」言い換えれば「新しいことをやったもん勝ち」というスタイルが

≪芸術の20世紀≫の方向性として決定づけられてしまったことで、以後100年間の空転が

生み出されてしまったということだ。


とはいえ、あまりに意識の変容の幅が大きかったために

「不安」や「迷い」から完全に目をそらすことはできずに、

どこかでそれらを求めてしまうところもあって、「不安」や「迷い」をテーマにした作品や

それらを感じさせる作品は、この時期にはむしろ多いと言えるだろう。


しかし、それらの「迷い」作品は必ず(と言っていいほど)どこかに、はぐらかすような要素

(ユーモラスだったり、デザイン的に簡略化されていたり、奇抜だったり)があって、

前面に「迷い」は出てこない。

むしろ「はぐらかし」のほうが、先に強いインパクト与えるような構成(仕掛け)になっていることが多い。


そしてこの時代において人々は驚くほど、これらの「はぐらかし」作品には寛容であり続けたのである。
(これらを「時代の傑作」とすることが結果的にはいつも受け入れられてしまった)

おそらく、これは本当に寛容であったわけではなく、

難解な理論や極端に「ヒネラレタ・コンセプト」について行く気になれずに、

面倒だから「寛容な振りをした」または「しぶしぶ寛容な態度をとった」

そしてさらに「それに対して寛容でいることで自己の内の『不安』と向き合わずにいられたのも好都合だった」

ということだったのだろう。


これらの難解な理論や「ヒネラレタ・コンセプト」を本当に好んでいる人もいたのだろうが、

それが多数派であったとはとても思えない。

そして、誰もが面倒臭がってまともに批判しなかったために、

徹底した検証がなされないまま、おそらく少数派であったと思われる、その人たちの意見が

≪芸術の20世紀≫の方向性を決定してしまったところに大きな問題がある。


ところがその反面「真実の迷い」作品は少なく、(おそらくそれは19世紀後半から20世紀初めごろには

芽を出していたにもかかわらず、その後姿を消してしまったように思える)この社会に「不安」「迷い」が

激増していたはずの時期に、それらは「はぐらかされて」しまったのである。

そして、この「はぐらかす」という態度、言い換えるなら「真実」から目をそらして見ないようにする「姿勢」が

「迷い」を「混迷」へと変化させてしまったのである。



また、この過程で「抽象化」という言葉が「はぐらかす」のに便利なアイテムとして使われてしまったことも

「真実の迷い」作品が出てこられなくなってしまった原因なのかもしれない。


「抽象」は実は「迷い」を現すために使われるべきであったと、今私は痛感している。

実際は「抽象」か「具象」かの問題ではなく、また絵画理論における「抽象」の問題でもない。

「迷う」こと自体が最も「抽象」的なことではないかと痛感しているのである。


それはともかくとして、「20世紀社会」において「迷い」が敬遠されたことは、

ある程度やむを得ないことであったと思う。

だが、それに「芸術家」が追随してしまったこととなると許容範囲を超える。


世界や事象の真の姿を見つけ出して表出するべき「芸術家」が、

「見失ってしまっている時代」の核心に目を向けず

盲目的に「時代の要求」するものを創り続けたことは、やはり批判されるべきことである。

「20世紀の巨匠」たちが、自分に「天才」の名が与えられたことが何を意味するのかを見抜こうとせずに、

それを与えた「時代のワナ」にまんまとかかって囚われ続けたこと、そして何より、この世を去る前に

「時代」における自己の立ち位置を修正できた者が全くいないことは、

悲しいことだと言わざるを得ないのである。


ここで断っておくが、上に述べたことは本来の主旨としては「20世紀の芸術家」批判でもないし

「20世紀の芸術」批判でもないし「20世紀」批判ですらもない。

実は、私は「芸術の20世紀」は、その時点では必要だったと思っている。

「巨匠たちの奮闘」があってこそ、今わたしがここで論じていられるのだと思っている。


それでは、なぜ批判的になってしまうのか?正直言えば、それは今私が困っているからに他ならない。

とにかく私には現在の状況だけは受け入れがたいし、どうしてもそれが私だけのこととも思えない。


そして現状に至った原因を考えると、そこには必ず≪芸術の20世紀≫があるのだ。

批判することが目的なのではなく、現状を改善するために言っていることだ。

彼らを讃えることで、現状がよくなるなら私はそうするかもしれない。

でも、そうは思えない。


取り敢えず「20世紀」を止めなければ何もできない。

それが今の私の気持ちのすべてだ。

わたしは、「巨匠たち」が時代に翻弄されていたことに間違いはないと思うのだが、

それは彼らのせいでそうなったのではなく、「20世紀」の「時代の力」が過去のそれとは桁違いの

大きさになってしまていたためなのではないかと考えている。


そして、その膨張しきった「時代の力」を鎮静化て、

少し小さくしてからでないと、何もできないということなのだ。


ここで、話がそれたついでに言っておきたいことがある。

それは「20世紀の巨匠」たちの影になってまったく時代の中に見えてこない、

『「真の迷い」を見つけ出していた人たち』のことだ。

彼らの名前は美術史に全く残されていないので、想像の域を出ない話ではあるが、

20世紀初頭以来のどの時代においても、きっと「真の迷い」を見つめていた人たちはいたに違いない。

しかし、彼らは時代に抹消され、おそらくほとんど芸術活動自体ができなかっただろうし、

それどころか彼ら自身が芸術に近づくことすら諦めていたのかもしれない。


私に言わせれば、彼らこそが本当の「20世紀の巨匠」と呼ばれるはずであった。

彼らは時代の要求するものを提供できない自分に失望し、芸術の場における

アイデンティティーを築くことができないまま、その場を離れたか、

自己の内に見出した「真実」と、それぞれの時代の間の溝の深さに初めから気づいてしまい

芸術に近づくことすらなかったかのどちらかだろう。

だから彼らの「真の迷い作品」は残されていないのだろう。


この「宣言」において「20世紀」を「喪失」するにあたって一番気にかかっていたのが彼らの存在だった。

実際、「巨匠」たちを「喪失」することには意外なほど抵抗を感じなかったのに、

彼らのことが頭に浮かぶと悲しい気持ちになるのだった。

そこで、なんとか彼らの存在を明らかにするすべはないのかと考えたほどだが、

それはどうにもできそうになかった。


何の評価も与えられず全く名を残すこともなく、

しかも、常に時代とのギャップに息苦しい思いをしていたであろう彼らを、

もろともに「喪失」してしまうことにどうしても抵抗があったのだ。

しかし、よくよく考えてみれば(この「宣言文」を書いたことでわかった)彼らはすでに

時代から消去されているのであり、だからこそ、その名が残らなかったのだ。

だから、今はむしろ「芸術の20世紀」を「喪失」することですでに消されている彼らのもとへ

その「時代」を送り届け、やっと彼らの時代が到来したことを彼らに知らせ、

『あなた方にとっては遅すぎたかもしれないが、もし、そこにあなたたちの居る位相があるのならば、

そこで本来あなたたちが成し遂げるべきであった「芸術」を存分に見せつけてください』

というメッセージを送りたい。



話を元に戻すと「芸術の20世紀」において現れるはずだった

「迷い」作品が現れなかったのは残念なことだが、

わたしは≪新生芸術の20世紀≫は「迷い」の時代になると思っている。

迷うことが時代の理念の一角を占めるのは正に既成概念の逆転であり、

マイナスがプラスへ転換するということである。


この発想の転換が新しい世紀の扉を開く鍵になるのだと思っている。











Ⅲ.【この「宣言」の原点】/芸術の果たすべき責任             ⑴ 芸術は「非生産的」であり「唯一無二」である

    
 最後に、ここまでの「総括」に代えて「芸術の果たすべき責任」について述べておきたい。


⑴ 芸術は「非生産的」であり「唯一無二」である


これは、この「宣言」と具体的には関係ないことなのだが、以下に述べるところが、

この文章を書くきっかけになった起点の考えであり、本論稿に通底している「根源的な精神」なのだと

言っておきたかった。

すべての疑問や衝動がここから湧き出てきたのである。


まず初めに、「芸術」は「非生産的」な分野であるということを言っておかねばならない。


ここでいう「非生産的」とは「不毛である」(無意味)ということではなく、

自質的な生産をしないということだ。

それは言い換えれば、物質的な価値を生産しないということだ。

そこで生み出されるのは専ら精神的な価値ということになる。


精神的な価値は万人に共通ではないし、「無くても我慢できる」と言うこともできる。
(実際短期間であれば我慢できるだろう)

そのために、物質的な価値を生み出すことよりも精神的な価値を生み出すことの方が

生産性が低いということは認めざるを得ないのである。

従って、それは「非生産的」だと言わねばならないのである。

ここで問題なのは、「精神的な価値」においては時と場合により

その価値が大きく変動してしまうということと、

短期間であれば「無くてもいられる」ということだ。

要するに「精神的な価値」は「物質的な価値」のような「絶対的な価値」ではないということだ。

だから、「精神的な価値」は「物質的な価値」よりも

重要度においてどうしても低い扱いを受けざるを得ないのである。


「背に腹は代えられない」ということで、これはある程度やむを得ないことだと思うが、

それが度を過ぎてくると問題も小さいとは言えないものとなる。


このことを説明するには、まず「芸術」が他の分野で代替することができない

「唯一無二」の分野であることを断っておく必要がある。


「精神的な価値」の中でも、特に「感動」の領域にまで達するような価値を提供できる分野となると、

おそらく「芸術」を置いてほかにはないと言えるだろう。

少なくとも「感動」自体を目的とする分野は「芸術」以外にはないと言うことはできるだろう。


また、これは形のあるものではないので明確な説明をすることはできないが、同じ「感動」でも

「芸術」が提供する「感動」はほかでは得られないと言っても差し支えないのではないだろうか。


そして、これらの「感動」を含む「精神的な価値」が何らかの形で損なわれると、人間は社会の中で

自己の感情の発露を失くして、何かしら困った状態に陥ることになるに違いないのである。


だからこそ、実質的(物質的)には価値の低い「非生産的」な分野であるにもかかわらず

「芸術」は重要であり、また守られるべきなのである。


なぜ守られる必要があるかと言えば、それが実利を伴わないが故に、

一時的に失われたり歪められたりしても

事実上の問題が表出するのは一定の期間を経てからであり、

それまでの間、見過ごされてしまう可能性が高いからである。


ただし守られるといっても、具体的に保護してもらう必要があるというわけではなく、

むしろ何もしない方が不自然な力が加わることがない、

という消極的な意味での保護ということになるだろう。


以上を要約すると、「芸術」は「絶対的な価値」を提供しないため

重要度においてやや低く見られることがあるが、

それを過度に続けていると人間は精神の均衡を保つことができなくなり、

社会の中で人間らしい精神活動を行うことが困難になってしまうので、

社会は「芸術」を保護する必要があるということだ。


つまり「芸術」は保護される権利があるということだが、そのことも含めて「非生産的」であるということは、

「生産的」な分野に”世話になる”ということである。

従って、逆に言えば当然のことながら、そこには責任が発生するということになってくるわけだ。


極端な話ではあるが、すべての人が「芸術家」すなわち「非生産者」であった場合、

皆、食べるものも着る者もなくなって生活が立ち行かなくなるだろう。

しかし、すべての人が「生産者」であった場合は最低限の生活には困らないのである。

そこで前者の例で言うと「生活が立ち行かなくなった」後どうするかと言えば、

恐らくすべての「芸術家」の中から有志が現れて、不本意ながらも「生産者」としての役割に

従事することになるのだろう。

そこで言えることは、残った「芸術家」たちには「生産者」側に回ってくれた人たちに対する

責任が発生するということだ。


「頼んだわけではない」は通じないだろう。

それを言う人はかなり「芸術」から遠く離れてしまっていると言わざるを得ない。

なぜなら、それを言う人は「何一つ見えていない(見ようとしていない)人」なわけで、

物事の本質を見極めるという「芸術」の根幹をなす部分が抜けてしまっているからである。


これはあり得ないような設定での話だが、現実の社会においてもこうした責任関係が

「生産者」と「非生産者」の間にはあって、

そこにおける責任を果たすべく、心してかかる者だけが

本当の「芸術家」であり、その名で呼ばれるのにふさわしい者なのだと私は思う。


また、「生産者」側に何らかの価値を提供できてはじめて対等となるのだとすれば、

その責務が果たされていない間は、そこには対等ではない力関係が存在するはずで、

それを対等に戻さないと必ずやその力関係によって作品の純粋性が損なわれてしまうのである。


だから「責任を果たす」ことを謳ってしまうと、

それが義務化して「純粋な創作」ではなくなってしまうようにも感じられるかもしれないが、

それは逆で、「責任を果たす」ことが自発的に行われる行為であれば
(少なくとも誰からも強制されることはない)

それは創作衝動の一部と看做すことができるが、

社会における不均衡な力関係というのはある意味絶対的な原理として作用してくるものだから、

むしろ「責任を回避する」事のほうが

よほど「純粋な創作(衝動)」から遠ざかってしまう原因になりうるのである。

というより「本人もその影響に気が付いていない」というような場合も含めれば、

必ずそう成ると言ってもいいだろう。


「芸術家」は、なぜ自分たちにその立場が与えられ、社会に対して自分たちが何を提供すべきなのかを

よく考えて行動することで、社会に対する責任を果たす義務があるだけでなく、

そのような「姿勢」で創作に臨むことでこそ

初めて「真実」=「芸術の中心」に近づくことができるのではないだろうか。


以上のことが、私がこの文章を書くことにおける起点となったものである。

ここを発端として湧き出てきた疑問や衝動が急速に膨らんで、もうわたしは≪芸術の20世紀≫を

受容できなくなってしまった。


そしてこのような感情を抱いている人が「他にもいるに違いない」という思いも強くなる一方だ。

現状に至っては、むしろ

「このような気持ちを一切持たないでいられる人など存在しないのではないか?」

と思っているほどだ。


もしも、『頑として≪芸術の20世紀≫を擁護する人』に出会って猛烈な抵抗や批判を受けたとしても、

その人も「何かのきっかけで『クルッ』と反転して賛同してくれるに違いない」

きっとそんな風に、今のわたしは思ってしまうだろう。

たとえ、それがどんな世代、どんな地域、どこの国の人でも。


















 おわりに                             「ふざけすぎたのではないのか?」

 
   ♯1「芸術の20世紀」の担い手たちへ


いま私は、最もストレートに問いたい。

「ふざけすぎたのではないのか?」と。

「芸術の20世紀の担い手」たちに何の作為も意図もなく、ただ単に聞いてみたい。

そしてもし、肯定の答えが返ってきたのならば、

さらに、「それならば、今、あなたは戻ることができますか?」とも。

どんな答えが返ってくるのかはわからない。

唯一予測できることは、大半の人がこれらの質問に対して

真剣な態度で答えてくれるのではないかということだ。

怒り出す人もいるかもしれないが、

それも含めて肯定する人も否定する人も、一生懸命答えてくれるような気がする。

根拠はない。

多分わたしは「芸術の20世紀の担い手」たちについて、

「きっと真面目な人たちなのだろう」と思っている。

そして、「きっと一生懸命やったからこうなったんだろう」とも思っている。

「芸術の20世紀」に、まともに向き合った結果出てきてしまった結論だったのだろう。

それはもういい。

彼らにとっても「20世紀」はもう終わったのだから。

でも、私はまだ生きている。

彼らの中にも生きている者はたくさんいるのだろう。

21世紀に入って13年が経ってしまった。


「いいのか?」

「20世紀をさんざん散らかしたまま放置してしまっていいのか?」

「その『ほったらかしの保守』は今のあなたたちの『新手の挑戦』なのか?」

「あなたたちは私の思っているような人たちではないのか?」

「いや、そんなはずはない。」

「きっとあなたたちはまた始めるだろう、あなたたちが世紀を通して続けていた『本物の挑戦』を」

「そうに違いない、そうでないわけがない。

前時代の権威や欺瞞や、その他全ての『嘘』を破壊したあなたたちが、

 その残骸を大事に保守し続けるはずがないのだから。」

「きっとあなたたちは、また、われわれを驚かせるのだろう。」

「そして、あなたたちは先に逝った者が残していった荷物を全部背負って、無謀な戦いを続けるに違いない」

「そんなことやったって誰も褒めてくれやしないのに」

「そして最後には力尽きて死んでしまうのだろう……挑戦者として」


 わたしは彼らにこれだけは言っておきたい。

『「20世紀の挑戦者」として終わってほしい』

「それが、あなたたちに最もふさわしい呼び名だから」



  ♯2「21世紀の人」たちへ


「21世紀の人」たちへ、あなたたちには問いかけようとしても、言葉が思いつかない。

何を言ってもはぐらかされてしまいそうで言うべき事がなかなか浮かばない。

あなたたちには太刀打ちできないような気もするし、

わたしの居る「ここ」よりも、遥かに先の地平に立っているように感じることもある。

わたしは「20世紀」を喪失しようとしているくせに「21世紀の」感覚も理解できないのかもしれない。

でも、あなたたちにも伝えたい、ここに述べたことを、

全部。

そして、わかってほしい、わたしの居る「ここ」が、

あなたたちの居る場所からも決して遠くはないことを、

わたしがあなたたちを理解したいと思っていることを、

そして、きっと我々は本来なら理解し合っていたということを、

だから、あなたたちにもこの船に乗っかってもらいたい。

本当は一人だって構わないんだけど、

人数のことなんかじゃなくて、

みんなで、「その時代」に行ってみたいから。


そのために、なんとか今言えることを考えた。



「そんなに一生懸命ふざけなくてもよかったんじゃないのか?」

「あなたたちにも戻る場所はあるはずだ」

「いつも面白いと思うのだけど、いつも笑いたいと思っていない時に見せられるのです。

 それを笑う心構えができていないのです。わたしには」

「戻る場所がないなら、作ればいい。新しく作った場所にだってきっと戻ることはできるはずだ」

「あなたたちを見ていると自由に見えるときと、硬直して見えるときがあるのです。」

「あなたたちに頑強なタブーを感じるのです。あなたたちはそんなに自由なのに」

「自由に見えるときはあなたたちが、真面目にしているとき」

「硬直して見えるときはあなたたちが、ふざけているとき」

「だから近くに感じるのです」

「わたしもそうだから」

「一生懸命ふざけるのをやめて、一生懸命真面目にしたら、

きっと、今よりもっと自由に成れるんじゃないでしょうか?」
 
「ふざけている方が楽しいとは思いますけど」

「一生懸命ふざけるのはもうやめようと思っているのです。私は。」

「ふざける事なんてもうどうでもいいことになってしまったから、もうそれほど楽しいとも

 思わなくなってしまったのです。飽きてしまったのかもしれません。」

「それよりも、自由になりたいのです。みんなで、世界中で、人間だけでもなくすべてのものもみんなで」

「もう、そんなに楽しくなくていいんです。自由なら」

「きっと、あなたたちもそうなんじゃないかと思うのです」

「だってあなたたちも近いような気がするから」

「自由になりたがっているんじゃないかなと」

「あなたたちにも飽きてしまっているように見えるときがあるから」 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

わたしは、「その時代」を探しに行ってみるつもりです。

わたしには、もう、ゆっくりしている理由がなくなってしまったので。

でも、本当のことを言えば、後からでもいつでも行けるのです。

行く気がありさえすれば行くのは簡単なのです。

いつも、「ここ(いま)」にあるわけですから、「その時代」は。


誰というわけではありません。

みんなのそばにあるのだと思います。

だって、もう、100年も前から「その時代」は「ここ(いま)」にあったのですから。


ただ、さらに、その100年も先のことはわかりませんので、

少しは急いだ方がいいと思いますけど。


この「宣言」が「旬」を失ってその役目を終えるまでに行ってみてください。

「その時代」に。

これを読んだ人にとっては、せっかくの機会なので。


そして、「その時代」の中で考えてみてください。


いま始まったことなんかじゃありません。

本当を言えば、始まったのは100年も前のことです。

実は、これはもう終わりかけていることなのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後に、

これを読んだ人の「人生」や「創作」の道を閉ざしている壁が、

一つでも取り払われることがあれば、少しうれしく思います。











プロフィール

Author:「ふたつ」
ご訪問いただき、
ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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