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「自信」なくてもいいと思うのです



「自信」というと、当然のように「私は〇〇ができる」と言うことが前提になっているわけですけど、この「私は〇〇ができる」は、私には本当の「自信」だとは思えないわけです。

だって、「できなく」なれば消えてしまうわけですから、それほどしっかりした「自信」とも言えませんよね。

ところが、それに反して「できなく」ても平気で「自信がある人」もいるわけですね。
たぶん、そういう人は、常に肯定され続けて育った人なんでしょうね。

だから、彼らには、「自信」の失くし方が解らないんだと思うわけですね。
「できても」「できなくても」肯定されてきたから、どうして「自信」を失う人が居るのかが理解できないのでしょうね。

そして、たいていの場合、この「できなくても平気」な人が「できる」ようになるのです。
まぁ、無条件に最初から「自信」満々なんで、実力を発揮しやすいわけですよね。

こう書いてくると「やっぱり自信があった方がいいんじゃないか?」ということに成りそうですけれど
じつは、この無条件の「自信」も続かないわけですね。

だって、人からもらったものですから、それに、その「自信」をくれた人たちは、先に居なくなってしまいますから、そこから先は、だんだん枯渇してくるわけです。

それでも「自信」ありげにしている人は、虚勢を張ってごまかしているんでしょうね。


だから、もう、そんな頼りにならない「自信」なんて無くてもいいと思うわけです。
『「自信」が有っても無くても、たいした問題じゃないと思いますね』
と思えれば、それが本当の「自信」かな?などと思うのです。


ただ、なかなかそう思えないのが、問題なわけなんですけどね。





理想的な通貨(妄想です)



タイトルの通り、私の妄想なので現実味のない話になりますけれど、私は、全てのものに期限があればいいと思っているのです。


例えば、お金の価値とか、金(ゴールドの方ですね)や宝石とか、土地とか、とにかく、ありとあらゆるものの価値に期限が付けられたら、すごくいいんじゃないかなと思っているわけです。

なぜかと言えば、世の中に「絶対的なもの」というのは無い方がいいいんじゃないかと思うんですね。
というよりも、「絶対的なもの」なんて本当は無いと思うんですよね。

ところが「無期限の価値」というのは「絶対的なもの」に成ってしまうんですね。
そうなると、人間がそれに蹂躙されてしまうと思うわけです。
「お金」なんて典型的ですよね。

でも、その「お金」に期限が設定されていたらどうでしょうか?

期限が来れば価値がなくなる(または、徐々に減少する)としたら、もう絶対的ではなくなるわけですよね。
そして当然、価値が在る(高い)内に使おうとするから、消費が拡大するわけです。
それから、価値を代々受け継ぐことができなくなりますから、極端な貧富の差もなくなるかもしれないですよ。

お金に限ったことでもなくて、土地なんかも期限があれば有効活用される率は高くなるような気がしますね。
それにバブル経済というのが、無くなると思いますね。

つまり投機ということができなくなるわけですね。

それから、お金を早く使わないとならなくなれば、いつも、人が欲しいものを見つけようとしますから、とても好奇心旺盛な世の中になるんじゃなでしょうか?

そして、どうせお金を残してもしょうがないわけですから、高くても本当にいいものを買うようになるでしょうね。
安物を買って、お金を残しても意味ないですからね。

つまり「悪貨は良貨を駆逐しなくなる」わけですね。


「おぉ、いいことばっかりじゃないですか」
問題は、実現できないということだけですね。

だから妄想なんですけどね。


でも、こんなような考え方を少しでも基盤において、政治や経済を回していってほしいですねぇ。

それに、現在のあらゆる技術を駆使すれば、それに近いこともできるのかもしれないと思います。
実は、デジタル技術やインターネットというのは、こんなことを達成するために生まれたものではないのかなと。

それに気づかないで、見当違いのところでウロウロしているのかもしれないなと。

まぁ、そんな風にも思っております。
いや、 そんな風に妄想しております。

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※追記

この「期限付きの通貨」と言うのは、よくネット上で流通しているポイントやコインのようなものとは違います。

そういうことが出来るかどうかは、まったく抜きの話としてですが、「国が発行する通貨」と言うことです。
さらに言えば、世界全体の「通貨」に対する概念の問題でもあります。

いくら、「期限付きの通貨」があっても、他のところで「無期限の通貨」も流通していれば、どうしたって、そちらに食われてしまいます。
だから、「通貨」というものは「期限があるものなんだ」ということが、概念として確立されなければ、意味をなさないわけです。

まぁ、そうなると、まさに「妄想」ですけどね。


※2019年5月に再度追記

上に書いた通り、「妄想」ですから、実現性は限りなくゼロに近いわけですが、実を言うと、これと同じようなことが「核兵器の廃止」にも言えるという考え方をすると、少し違う展開も見えてきます。

つまり、「核兵器」と言うのは「最終兵器」でもあり「絶対兵器」でもあるわけですから、「軍事」に関しては、ここで言う「絶対的な価値」に近い意味を持っているとも言えるわけです。
その「核兵器の廃止」に関しては、かなり進められてきていますし、実際には、「核兵器」を持っている国も、それを使うことは出来なくなりつつありますから、実質的には、『核兵器は廃止された』といってもいいようなところもあると思います。

そう考えると、「無期限の通貨」を禁止することも、不可能とは言えないような気もしてくるわけです。
「核兵器の廃止」と同じように、世界の国が集まって、「無期限の通貨」には社会経済を破綻させるような性質があるから、『「無期限の通貨」を流通させるのは、もう、止める方向にもっていこう』という取り決めをして、その取り決めを破った国は世界経済の中で締め出しを食らうような状況を創り出せば、きっとそうなると思います。

そうなれば、あとは「期限付きの通貨」を、どうやったら流通させることが出来るのか?という問題だけですね。
それは、きっと、だれか「エライ人」が考えてくれるに違いありません。

ぜひ一度、そんな世の中に住んでみたいもんですね。

「人間性への愛着」



私はどうも「完全なもの」よりも「不完全なもの」の方に惹かれてしまう傾向があるようです。
そして、それは、一言で言えば、「人間的なもの」ということなんだと思います。

矛盾した言い方になってしまうのですが、「不完全なものの中の完全性」とでもいうような、「崩れ具合が完璧」みたいなのがあると思ってしまうわけなのです。

それから、どうも「完全無欠」なものと言うのが好きになれないと言うのもあるわけです。

いずれにしても、そこに「人間性」が見えてきたときにこそ感情移入できるわけですね。

ただし、この「人間性」というのは「人間賛美」の対象となるようなものではなく、もう少し「不完全性」を強調した意味での、弱くて、さほど美しくもないような「泥臭い人間性」なわけです。

そして、そういう冴えない感じのものが、時として美しく見えたりするのに惹かれるのだと思います。
つまり、私は、そこに「人間への賛美」ではなく「人間への愛着」を感じているのだと思っているわけです。

「愛着」だから、それ程いいものである必要もないのかなと。

まぁ、そんな風に思っております。







「組織」には意思があると思うのです



ある法則や規則に基づいて集団が形成されれば、それを「組織」と呼ぶことができるのかと思います。
社会性を持った動物や昆虫などもいますから、人間には限らないのでしょうが、まぁ、一応、ここでは人間の「組織」ということで。


そこで、よく感じてしまうのは、「組織」の実態は、それを形成している個々の人間なわけですが、その個々人の意志や意向と、一致しているとは思えないような「組織の意思」と言うものが、「個人の意思」とは別個に、かなり独立した形で、存在しているということなのです。

もちろん「組織」を形成している「個人の意思」が、全く反映しないわけではないと思いますが、複数の「個人の意思」が集団内で統合されて一つの決定や判断になっていく過程で、それが、「組織の意思」に成り変わっていくのかなと。

そして、さらには、その「組織の意思」が「個人の意思」とは、全く別の方向性を持ってしまうことも、しばしばあるように思うのです。


国家や会社などの公的なものから、家族や友達のグループなどの私的で少数のものまで含めて、ありとあらゆる「組織」において、この「組織の意思」が働いていて、それが、その構成員である一人一人の「人間の意思」を無視して、決定や判断を下しているとしたならどうなんでしょう?

「個人の意思」が無視されるわけですから、当然不満が出るでしょう。
そして何よりも、そこに本来の「意思」はないということが問題に成って来るわけです。


「組織の意思」と言っても、それは「誰かの意思」ではないので、そこには「意思」としての方向性や統一感は、もともとないわけです。

だから、「組織」内での話し合いの結果「???・・・」という感じの、意味がわからないような結論が導き出されてしまうことが、よくあるのでしょうね。

そして、これが言いたいのですが、ひとたび「組織」によって下された結論となったものは、「個人の意思」で翻すことが難しくなってしまうということなのです。

たとえ、それが、、誰にも望まれていない結論だったとしても「組織」が下した判断には、従わなければならなくなってしまうわけです。

ある法則や規則に基づいて形成されたのが「組織」ですから、その法則や規則に従わねばならなくなるということですね。

これは、おそらく民主主義が抱えている決定的な問題ではないのかなと。
なぜなら、この場合「多数決」や「話し合い」はあまり役に立たないからです。

もちろん、それらのやり方が功を奏することもあるでしょうが、意外と、それらが〝困った結論"を導き出してしまうことも多いということですね。

これらのようなケースでは、大抵「まぁ、みんなで決めたことだから」と言って諦めるというのが、常套手段になってしまっているのが現実でしょう。


これに対して、どうすればいいのかは、そう簡単に思いつきませんが、取り敢えず、この「組織の意思」と言うものが独立したものとして存在して、それが自分たちの意思とは無関係に勝手な結論を突き付けて来ることがあるということを、忘れずに意識していることだけはできることなのかなと。

とにかく、政治や世界の情勢なんかを見聞きするたびに、いやいや、もっと身近な夫婦喧嘩や、親子や友達同士の間の諍いなどにおいても、これは、いったい「誰の意思」に基づいてこんなことに成ってしまったのだろう?ということがとても多いように思ってしまうわけなのです。

そして、それが、もしも実体のない「意思」によって仕向けられてしまっているものだとしたら、こんなに、バカバカしいことは無いんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけですね。





「自信」について



「自信」と言う言葉について、それは自分で勝ち取るものだという考え方と、それは人から与えられるものであるという考え方があるように思うのです。

「自信」は自分で獲得するものであるとした方が、納まりがいいように思うのですけれど、「自信」の中でも、絶対的な「自信」みたいなものと言うのは、自力では獲得できないように思うのです。

やはり、普通は誰でも人から褒められれば「自信」が付きますし、貶されたり、相手にもされなかったりすれば、それは徐々に失われていくわけです。

そんな中でも揺るがない「自信」と言うのは、なかなか自分では養えるものではないように思います。

それが天性のものなのか、幼いうちに、どこかで与えられたものなのかはわかりませんが、そういう絶対的ともいえる「自信」を持った人というのも、確かにいるのだと思います。

でも、私はそういう「スーパーな人」よりも、「ごく普通の人」の方により興味があるので、やはり、「自信」はその都度与えられるものであるという方の説を取ってしまうわけなのです。

まぁ、私自身が何を言われても動じない「自信」なんて持ったことがないということですね。

私がやっと持っていられるのは『できなくてもいいじゃないか』という「自信」と言えるのかどうかも、怪しいような感じの「自信」ですけれど、普通の人間が、自力で自分に与えられる「自信」はこれぐらいしか無いと思うのです。

これぐらいだったら、その都度人から与えられなくても自前で何とかまかなえそうな気がします。


だいたいが「できる」「できない」で人の価値を判断し過ぎるように思うのです。

何かができても偉いとも思いませんし、何かができないからと言って、その人をダメだとも思いませんが、どうしても、そこに価値基準が偏ってしまうので、「できる」と「自信」も付くけれど「できない」と評価されないから「自信」も失う。

当たり前と言ってしまえば、それまでなんですけれども、そこで、人間性が抜け落ちてしまう傾向があるように思うのです。

だから、私は『自分はすごく悪い人間ではないし、それぐらいで十分だから、できなくてもいい』と思っているわけです。

それ以上に立派な人間になりたいとは思いませんし、そういう立派な人と言うのは、居ると言われてはいますが見たこともないし、成れるとも思いませんから、このぐらいで十分だというのは、私にとってはやはり「自信」の一種なわけです。

そして、そういう「自信」も、わたしは結構好きです。



討論する習慣



日本人は議論や討論が苦手だとよく言われますけれど、確かに、もう少し本質的な話をするような習慣があった方がいいのではないかと思うわけです。

また、『何も考えない人間が多すぎる』というのもよく言われますが、実は、それも初めから考えないのではなくて、ある程度のことを考えていても、その考えを人と議論したり討論したりして発展させる機会がないから、一つの考えから変化することがなくて、平滑で一辺倒な考えに留まっているために、何も考えていないように見えてしまうのではないのかなと。


やはり、自分だけの思考回路の中で考察を展開していけば、当然、同じ様なパターンの考え方しか出てこないわけです。

だから、小さな子供のうちにとは言いませんけれど、ある程度若い段階から、討論を習慣づけた方が良いのではないのかなと。

小学校高学年ぐらいでも、真面目に話をさせたら結構話すんじゃないかと思うわけです。
そうやって習慣になっていれば、大人になって何も考えないとか議論できないとかということも少なくなるのじゃないのかなと。


人間って、やっぱり教わったことはやるけれど、教えられてないことはやらない性質のある生き物だと思うわけです。

議論の内容は教えられないかもしれませんけれど、その場を作ることはできるのではないのかなと。


こういうことを教育関係者の人に言ったら、『今の学級崩壊したようなクラスでそんなことは到底無理!』とか、『そんなことしても誰もまともな話なんかするわけがないよ』と言う答えが返ってきそうなんですけど、実際は、意外な子供が意外な話をし始めたりすることだってあるのじゃないかと思うのです。


こどもに限らず、習慣として議論や討論をしていない人が、いきなりそういうことをすると、どうしても、ただの言い争いになってしまうと思うのです。

なんとか相手の理論の弱点や矛盾点を見つけ出して、足をすくってやろうとしたり、自分の説をまくし立てて、相手をやり込めようとしたりしてしまうわけですね。

でも、それは議論でも討論でもないと思うのです。


やはり、主張が異なっていても、そこに話の展開が生まれなければ討論の意味がないわけです。

話が発展していったり変化していったりすることで初めてプラスに成るわけで、ただ、相手の論を打ち砕いたり、、自分の言い分を通したりしたのでは、一人で考えたことから大して変わっていないということに成ってしまうわけです。

自分の主張を述べながら、相手の主張にも耳を傾け、その中で議論を展開するには、慣れるしかないと思うのです。

でも、教育の場に限らず、そんな場所ってほとんどないと思うわけです。
場所と言うよりは、そういう空気がないのかもしれません。

一人でそんな雰囲気を醸し出してもあまり意味がないので、誰もそういうことはしなくなっていくのでしょう。


でも、もっと自分の内側にある話を、人に対して出していけるようになった方がいいような気がするわけです。
子供の場合と同じで、意外な人が面白い話を持っているということはよくあることかなとも思います。


それから、案外いいストレスの解消法に成るような気もするのです。
自分のうちにあるものを外に出すということは、最高のストレス解消に成るはずなわけですから、それが、言い争いになったり、単なる愚痴のように成ってしまわない限り(まぁ、それでもいいのかもしれませんが)、きっと、かなり発散できるのではないかと思うわけです。

そうなると、これからのストレス解消法は、カラオケじゃなくて議論や討論かなと。
そういう日常の中に、もう少し真剣に話す「場の空気」があればいいんじゃないのかなと。

そんな感じもあるんじゃないのかなと思ったりしています。



事実は曲げられないということ



『事実を捻じ曲げることはできない!』と言うと、『はい、それは確かにそうでしょうね』ということに成って、そこで話が終わってしまうわけですけれど、『現実には、事実は捻じ曲げられているのではないのか?』と言う疑いを完全に断ち切るのは、簡単ではないわけなのです。

現実の世の中を見渡せば、情報操作や捏造された報道、独り歩きした噂話の類まで、いろいろな種類の「捻じ曲げられた事実」が沢山あるわけです。

でも、やっぱり『事実は曲げられない!』と、私は思うわけなのです。

現在の世の中では、マスコミやインターネットと言う、確保された中立性を持たないシステムが、社会に流通する情報のほとんどを、配信しているといってもよいと思うわけですが、そこに、「道理」や「法則」があるとは限らないわけですし、それらのシステム自体は、ほとんど何の審査機能も持たないわけですから、そこに、何らかの「正しい」があるとしても、それは何らかの既成概念のようなものだと言わざるを得ないわけなのです。

そんな中で、どうして『事実は曲げられない!』と言うのかと言えば、「事実」は、情報でも、それによる人の認識でもなく、厳然とそこに既にあるものだからなんですね。

つまり、操作された情報や、それに振り回された人の認識と言うのは、「事実」とは無関係のもので、「曲げられている」のは、「事実」ではなくて、人の認識や判断なわけです。


童話の「裸の王様」で、民衆の意識をコントロールして、『王様は素晴らしい衣装をお召しになっておられるぞ!』と言わせることはできても、『王様が裸だ』という「事実」は変えられないように、やっぱり「事実」は変えられないわけなのです。

そして、そこで王様の着てもいない服を褒めそやしている人たちは、実際に、見た服を褒めているわけでも、本当にそれを美しい服だと思っているわけでもなくて、と言うより、見ていないものを褒めることなどできるはずもないのですから、ただ単に、その場の流れに調子を合わせているだけで、彼らの中の「事実」も、本当は『王様は裸だ!!』なのだと思うわけです。

でも、このことを芸術の話に置き換えると、さらにおかしなことに成ると思うのです。

芸術においても、このような「曲げられた事実」ならぬ「曲げられた認識」は存在すると思いますけれど、芸術の目的自体が、何らかの意味で「真実」を追究することだとするのであれば、それは根底からおかしなことに成ってしまうわけです。

「事実」をより厳しく追及していって、「真実」に迫ろうとするのが芸術であると、私は思っておりますが、その芸術が、「事実」すら見ようとしないのであれば、そこに何の意味も無くなってしまうわけです。

王様が裸に見えたら、「王様は裸であるということ」が「事実」であり、その「事実」は曲げられません。

そして、表現においては、それについて、『王様は裸だ』と言うのが「事実を表現すること」なわけです。
だから、それも曲げることは出来ません。


ですから、「裸の王様」を見たときに、その衣装を褒めちぎっているような人を見かけたら、『でも、王様、服着てませんよね?』と言ってみてください。
それが、どんなに当たり前のことでも、それを言うと、きっと、非常にあからさまに嫌な顔をされます。

なぜなら、その人たちも「事実」を曲げることができないから。


私は、そういう風に判断しています。



人生で、回数が決まっていること



ある時、ふとしたことで思ったのですが、人生の中で、食事の回数はだいたい決まっているなと。
だとすると、一回美味しくない物や食べたくない物を食べると、結果的に、おいしいものを食べる回数が一回減ってしまうわけで、それを意識するようになってからは、私は極力、食べたくないものは食べないようにしているわけなのです。
(私はほとんど嫌いなモノがないので、これは「好き嫌い」の話ではありません)


でも、これはよくよく考えると食事に限らず、いろいろなことに言えているようにも思うわけです。

例えば、寝る回数や風呂に入る回数などかなりのことについて、回数がだいたい決まっているようにも思えるわけです。


私の場合は、食べ物に対する執着心が強いので、さほど美味しくもないものを仕方なく食べるところまではギリギリ我慢できても、それで美味しいものを食べる回数が一回分減ってしまうのだと思ったとたんに、それは、もう我慢できる範囲ではなくなってしまったわけですね。


今のところ、食事以外で、具体的にやっていることは無いのですけれど、このような考え方で、「その一回」を大事にできるようになっていければ、人生が充実していくのかもしれないですね。

私は、『いまさら充実しなくてもいいよ!』とは、まったく思わないので、生きている限りは、「その一回」を意識していくのだと思います。


そして、生きることの話から正反対の側に話は飛びますが、死ぬときには、いい死に方をしたいと思うのです。

どういうのがいい死に方なのかは、わかりません。


でも、回数だけはわかっています。

死ぬ回数は一回です。



輪廻転生という考え方もあるでしょうが、私は、「限られた時間」・「限られた回数」・「限られた分際」に閉じ込められた「限られた人生」を生きているという意識で考えております。


何度も生まれ変われると思ってしまうと、たぶん、私のような人間は『じゃあ、また次の機会に』となってしまうと思いますから。

実際、「限られた人生」の中でさえ、『まっ、それは、また明日』ということが多いし。


『はい、今やれることをやりましょう』

『できないことはできません』

と言う風に思っています。




「健康」について



何かにつけて、「健康」の大切さが身に染みている今日この頃なわけです。


「健康」が大事なのは当たり前のことなのかもしれませんが、人間の場合「体の健康」と「心の健康」の両方に気を配らなければならないので、そこの所が特に難しくなっているように思うわけです。


ただ、言葉の上で「健康」と言ってしまうと、「完全な状態」が「健康」で、「不完全な状態」は「不健康」のようになってしまうのですけれど、「完全な状態」などは、ほとんどないわけですから、実際は、「不完全な状態」の中での健康を「健康」と言っているわけなのでしょう。

「一病息災」みたいな感じですか?

でも、実体としては「二病」でも「三病」でも「息災」であればいいように思うのです。


「息災」って何なんだかよくわからない言葉なわけですが、それでも、取り敢えず「息災」ならいいんじゃないの?と言うところですかね。


重い病気の人に関しては、可哀相だと思うのもかえって失礼なようにも思いますし、逆に、そう思わないのも非道なことのようにも思えて、そこの所の判断は付きませんけれど、少なくとも、かなり重い病気の人の中にさえ「息災」はあるのだと思うわけです。


そして、「体の病気」についても「心の病気」についても言えることだと思いますけれど、病気であることを自覚していることは、とても「健全なこと」のように思うわけです。
もっとも「病的」なのは、「病気」を自覚できないことだと思うのです。

そして、そこには「息災」はないように思います。


自分の「病気」を自覚できている人と言うのは、どこか「健康」な気がしてしまうのです。
それは、ただ「頑強」ではないというだけで、「健康」に近いのかなと。
そんな風に思ってしまうわけなのです。


「病気」と言うのは、完全に克服しなくても、自覚して把握してしまうと「病気」とは言い切れなくなってしまうようなところもあると思うわけですね。


もともと、全ての命は、生まれた瞬間から「死」に向かっているとも言えるわけで、「病気」があってもなくても はじめから「余命〇〇年」なのだと思うのです。

ただ、若いうちはその「〇〇年」が長いと思っているというだけのことなのでしょう。


だから、どんなに健康な人でも生まれたときには、もう「余命100年ぐらい」なわけで、その人が50歳なら「余命50年ぐらい」なわけです。

それと「余命3年」というのとが、どれほど違うことなのかはわかりませんけれど、少なくとも、みんな”期限付きの人生”を生きているのは同じなわけなのです。


つまり、全ての人が「余命〇〇年」の「病気」の人生を生きているとも言えるし、逆に、全ての人が、”不完全な”「健康」の人生を生きているとも言えるわけです。


だから、そういう感じで「病気」を把握してしまうと、あとは人生の期間が長いか短いかと言うだけの問題なわけです。


人生の長さは絶対的なことでもないと思いますけれど、「健康」を大切にしていないと、「病気」を把握することもできないので、やっぱり「健康」は大切にする方がいいのかなと。


そう思う、今日この頃なのであります。



一気圧のプレッシャー



普通に地球上で生活していると、いつも”一気圧のプレッシャー”がかかっているわけです。

でも、これは「大気圧」だけのことでもないように思われるわけなのです。
世の中にはもう一つ、社会がかけている”一気圧のプレッシャー”もあるのかなと。


みんな、生まれてこの方ずっと”一気圧のプレッシャー”を受けていますから(高地民族とかいう話は置いといて)、それをあえて意識する人はほとんど居ないわけです。

情報として、「大気圧」と言うものを知っているから理解できますけれど、それが無ければ、たぶん自分に四六時中「圧力」がかかっているなんて考えないと思うのです。


それと同じように、いつも社会から受けているのに、全く意識されなくなってしまっている「圧力」と言うのがあると思うわけです。


「社会」は、常に「時代」が指し示している方向へと流れていくものだと思うのです。
そして、その流れの水圧が、「社会の中にいる人間」にはかかっていると思うわけです。


でも、はじめから「社会」の中で生まれて「社会」の中で育つわけですから、「大気圧」と同じで、流れの中にいることも、その流れの水圧によって流されていることも、意識することすら無いわけです。

そういう”一気圧のプレッシャー”が時として、「社会」に生活している人間を、知らず知らずのうちに蝕んでいるように思えるのです。


それが”一気圧のプレッシャー”である間はまだいいのですけれど、いつの間にか「高気圧」に包まれていたり、「低気圧」が張り出して来たり、ということがあるわけです。

でも、普段から全く意識されていませんから、そういう「気圧変動」になかなか気が付かなかったりするわけなのです。
それで蝕まれてしまうのだと思うのです。


ひょっとしたら、この”一気圧のプレッシャー”から逃れることを、「自由」と言うのかもしれないなと、そんな風にも思うのですが、人は「社会」の中でしか生きられないとも思いますから、逃れる術はないとも思ってしまうわけなのです。

唯一出来そうなことと言えば、この”一気圧のプレッシャー”を感じながら生きてゆくことでしょうか。
それは、「自由」への”まなざし”を持って生きることでもあると思います。


叶わぬ「自由」を望みつつやっていくというのも、悪くはないのかなと。


そんなことで、一応納得したような感じ。




「持論」を持つこと



「持論」を持っている人の話には、ついつい引き込まれてしまうわけなのです。

世の中に、これだけいろいろな情報が溢れていても、その人にしか語れないような、独特な言葉と言うのがあると思うのです。


そういった、いわゆる「持論」と言うのは、「ある種の自己満足」だったり、「勝手な思い込み」だったりすることもよくあるわけです。
それに、なんと言っても、”何の役にも立たない”場合が非常に多いわけです。

それなのになぜか、「持論」や「持論を展開する人」には、惹きつけられてしまうわけなのです。


たぶん、それは、その人が丸ごと出てしまっているような、そういう人間的な雰囲気に、惹きつけられて『おもしろい』と思ってしまうのです。


本に書いてあるような”マトモ”なことだと、言っていることが正しくて役にも立つ場合でも、自分がもともと興味のあることでない限り、引き込まれるということは、めったにないわけですけれど、「持論」的なものに出会うと、けっこう理屈が”デタラメ”でも、私は、ついつい引き込まれて、聞かされてしまうのです。


それは、その話の内容が独創的ですごく面白いからとか、ユニークで、今までに一度も聞いたことも無いような話だから、と言うのではなく、内容的にはありふれた話でも、その人独自の視点みたいなものがあって、『その話の中で、なんであえてそこにこだわりますか?』と言うような、その人にしか醸し出せない雰囲気にやられてしまうわけです。

だから、その話が”デタラメ”でも気にならないわけです。
むしろ、”デタラメ”な方が面白いことが多いくらいです。


もちろん、その「持論」を、何らかの権力を笠に着て振りまわすというのは論外ですが、そういう人が振りまわすのは、往々にして「持論」ではなく、教科書に載っているような話なのです。

だから、まったく惹きつけられません。

”デタラメ”な「持論」の方が、よっぽどいいです。


そして、できることなら、みんなが、それぞれの「持論」を持つようになればいいと思います。

教科書に載っていることを言っていれば”ツッコマレなくて”安心だから、みんなが教科書の中に”ヒキコモッテ”しまって、本当は心の中に持っているはずの”デタラメ”な「持論」を隠してしまっていると思うのです。

人から見たら”ツッコミどころ満載”の「持論」こそが、本当のその人の「丸ごとの姿」で、その人にしか語れない言葉だと思うのです。


教科書に載っていることは、学校で学ぶだけでもう十分なので、みんなで”身勝手でデタラメな”「持論」を展開したらいいんじゃないのかなと。


そういう世の中って、なかなか無いけど、けっこうイイんじゃないのかなと。

『いや、良くはないか?』

『いやいや、良くないところがイイんじゃないですか?!』


そんな風に思います。




「精神」は受け継がれることで生き続ける



他の記事で「精神世界」は「劣化しないんじゃないか?」ということを書いたんですが、正確には、「精神」は受け継がれなくなったときに「劣化」するのだと思います。


「精神世界」は物質ではないので、時間とともに「劣化」することは無いと思っているわけです。

ただし、それは、その「精神世界」の所有者本人の存在を前提にしてのことであって、本人亡き後に、その「精神」が受け継がれなくなれば、それは希薄になって最終的には消えてしまうのだと思います。


逆に言えば、「精神」は受け継がれる限り”無期限”で存在し続けるということになるわけです。
そして、そういう長らく受け継がれた「精神」と言うものには、計り知れないほどの量の情報が内包されているのだと思うのです。

だから、何かを”受け継ぐこと”によって、得られるものが、唯一人間を推し進めることが出来るものなのかなと。

そして、「精神」が受け継がれることで、「物質」が”滅びていく様”が美しくなるのかなと。


じつは、「受け継がれる精神」と「滅びゆく物質」の二つだけが、この世にあって、美しいものなんじゃないか?とすら思うわけです。


だから、その二つが一体となったものは、さぞ美しいに違いないと思うわけですね。
そういうのを目指したら、「芸術」に成るんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「その人にしか出来ない仕事」



前に書いた記事の中で、『仕事は誰にでもできるものだ』と書いたのですが、それは『だから、それでいいのだ』と言うこととも違うわけなのです。


それは、あくまでも、現在、一般的に言われている「仕事」について言ったわけで、本当は「その人にしかできない仕事」と言うのがいいと思ってもいるわけです。


ただ、そういう「職人仕事」と言うのは、組織の中での「仕事」とは相容れないものなので、現在の、組織化した社会においては、意味が希薄になってしまって、そうした「職人仕事」は、特殊なものと言う印象が強く、一般的とは言えなくなっているわけです。

出来うることならば、そういった「その人にしかできない仕事」が一般的なものになって、「ごく普通の仕事」=「その人にしかできない仕事」であって欲しいとは思うのですが、それには、まず「社会の効率化」と言う考えを捨てる必要があると思うわけです。

そして、そのためにも、”現在形の”『仕事ができる』を止めた方がいいように思うということなのです。


もう、人間は効率を犠牲にしても十分”楽して”やっていけるように思うのです。
例えば、貧富の差を均等にならしたとすればですね。

そんな中で、みんなが一つずつ「その人にしかできないこと」を持っているというのは、とても豊かなことなんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っているわけです。




人間は最終的に孤独なのか?



『人間なんて、最終的には孤独なものだ』と言う話はよく聞くわけです。
そして、その通りだとも思うわけなのです。


当然、死んでゆくときは一人ですし、その人がどのような人生を歩んできたのかも、あまり関係なくなってしまうという感じもするわけです。
だから、当然、最後には孤独であることに間違いないと思うのです。


でも、このところ『そうでもないのかな?』とも思っているわけです。


今言ったように、孤独であるということは、間違いのない事実なわけですけれど、反面、それとは逆の方向から考えて、『人間は完全に孤独になれるのか?』と言う疑問が出て来たのです。

そして、『完全に孤独になるということもできないのだろう』と思うわけです。
それもまた、事実に違いないように思えるというわけです。


人間は、社会の中でしか生きていけないものだと思いますので、社会から隔絶した暮らしをしようとしたとしても、それは、そう簡単にはできないようになっているわけです。


そう考えると、まぁ、あえて社会とのつながりを断って生きたい、または、死にたいということでない限り、そう簡単に孤独にはならないようにも思えてくるわけなのです。


結局、孤独なのか孤独じゃないのか、そのどっちなのかはわかりませんけれど、たぶん、その中間なんじゃないのかなと。
だったら、あえて孤独と言うほどでもないのかなと。


これからは、『人間は、所詮死んでいくときには孤独だから』と言う意識を持つのは、止めてしまおうと思うのです。


私は、孤独ほど恐ろしいものはないと思っていますので、これは、とてもうれしい感覚で、これに気が付いてとても良かったと思っております。

だって、孤独になろうとしても、そう簡単にはなれないということですから、私のように、孤独を恐れている人間が、孤独になるはずもないということなわけで、だったら、かなり安心していいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「適正価格」について



前の記事で、「文化」にも「適正価格」があるのではないかと書いたわけですが、これは、他の物にも言えることだと思うわけなのです。


このところ、景気が良くないせいか、商品の価格が低めに設定されている店が多いと思うのです。

私のような貧乏人にとっては、ありがたいことなわけですけれど、反面、『こんな価格で売るためには、どんなコスト削減をしているのだろうか?』と考えると、到底いい原料を使っているとも、手間のかかる製造工程を踏んでいるとも思えないわけなのです。


それでも、やっぱり同じ種類の商品の中で一番売れるのは、一番値段が安いものなわけで、それは、ほぼ鉄則と言ってもいいわけです。

つまり、結果的に消費者は品質の低い商品を買う羽目になってしまうわけです。

もちろん、高品質、高価格の商品を買えばいいわけですけれど、そちらは、たくさんは売れませんから、どうしても品質以上に割高になってしまうわけなのです。

そうなると、安いものを買った場合も、高いものを買った場合も、どちらも「適正価格」とは言えないわけです。


大多数の人が満足する品質と言うのがあると思うわけです。
そして、それを製造するのに適正なコストと言うものもあると思うのです。

更には、そこに上乗せされる利益についても「適正」があると思うわけなのです。

つまりは、そういった、
「大多数の人が買うことができて」
「大多数の人が満足できて」
「大多数の企業が製造することが出来て」
「大多数の企業が順当に運営していくことが出来る」
ような、言ってみれば、一番”マットウな”商品が、ほとんど市場から締め出されてしまっているわけです。


要するに、もう、価格競争の時代ではないと思うのです。

何かしらの”公”な機関がなるべく多くの品物について、「適正価格」を決めて、その中での品質や、コスト削減で、競争していくべきだと思うわけです。


そうすれば、値段が同じなわけですから、当然、消費者は品質のいいものしか買わなくなるわけです。

だから、コスト削減といっても、品質を落とすようなやり方をすれば、あっという間に売れなくなってしまうでしょう。

つまり、高品質なものを作った企業の製品が売れて、そこで、なおかつ品質を下げずにコストを下げられれば、その分だけは利益が増すというわけです。


もともと「自由競争」とか「自由経済」とは言ってきましたけれど、実際には、なんだってほとんどのものが、より大きな企業の独占状態だったわけで、より小さな企業が入り込めるのは、大きな企業が見落とした”チッチャイ隙間”だけだったわけで、ちっとも「自由」なんかじゃなかったと思うのです。


だったら、「不自由になってしまった自由」を規制する枠組みがあってもいいと思うのです。
その中で、生産者も消費者も双方が「???」にならない範囲で出来る「品質の競争」が展開されるようになればいいのかなと。


もともと、日本は「物づくり」には長けていたわけですから、そういう「品質の競争」が展開されるようになれば、世界に対しても、力を発揮できるんじゃないのかなと。

これは、日本だけが有利になるとかいうことでもなくて、世界経済の中で見ても、「資本主義経済」や「自由主義経済」の行き詰まりのなかで、誰も根本的な打開策を考えようとしてこなかったと言う事実があるわけです。


「自由」と言う言葉が「ご神託」のようになってしまって、それに対する解釈を、柔軟に”時代に対応した”ものに変化させることが出来なかったことで、”落とし穴”が出来上がってしまっているのだと思うわけです。

そして、そういう”落とし穴”を塞がないで、その場だけを乗り切るための経済政策ばかりを展開し続けてきたわけです。


別に、他国と比べてどうということではなく、日本の本来の特性が生かされているようには到底思えない状態が、もう、ずいぶん長く続いてしまっているように思うわけなので、そろそろ、あるべき姿に帰ってもいいんじゃないのかなと。


そして、それは世界中のあらゆる国々で同じことが言えるのじゃないかなと。

そういうことが言いたいわけなのです。


いや、違います。
本当に言いたいのは、「経済」のことなんかじゃないわけです。

ただ単に、「いいものを作ろう」という純粋な気持ちでもって、『物を作る』っていうだけのことなわけです。

そういうことが、世界中から消えていきつつあるように感じてしまうので、何とか取り戻せないのかなと。


そう思って言ってみたわけですね。





「助け合うこと」は、もう「人間の習性」だと思うのです



「助け合い」とか「思いやり」とかという話になると、そういうことを、かなり強い口調で否定する人が居たりするわけです。


そういう人たちの主張で、多いのは、『そういうのは偽善だ』とか、『そんなことをしても相手のためにもならない』とか、『弱肉強食や自然淘汰と言った摂理に反している』といったものだと思うわけです。

要するに、「助け合い」や「思いやり」は”不自然な”行動で、それらをしない方が、よほど”自然な”ことだと言っているのだと思うわけです。


でも、時として、そういう人たちの行動が、とても”無理している”ように見えるときがあるわけです。
実際には、「助け合い」や「思いやり」も、もう、とっくに「人間の習性」になっているのだと思うのです。

それらは、「弱肉強食」や「自然淘汰」と対等なぐらいに、「人間の習性」として浸み付いてしまっているのだと思うわけです。

だから、それらをあまり頑なに避けようとすると、かえって無理をしているように見えてしまうのかなと。
(しかも、これは「助ける側」だけではなく、「助けられる側」の人にもよくあります)


だから、「助け合わない」とかえって”不自然に”なるような時だけでも、

「助け合って」いけたらいいんじゃないかなと。


そんな程度でも、ずいぶん”ギスギス”した感じがなくなるように思うのですが、

どんなもんなんでしょうか?



「エンターテイメント」の「嘘」はどこまで許されるのか?



「エンターテイメント」は時と場合によって、「嘘」を許されている文化だと思うわけです。 

ところで、その「嘘」はどこまでが許容範囲なのでしょうか?


例えば、時代劇で「剣豪」を演じる役者に、”本物”の剣の達人であることを求める人は少ないでしょう。
まして、殺陣のシーンで”本物”の日本刀を使わなければダメだと思っている人はほとんどいないでしょう。

でも、時代劇でもボクシングの映画なんかでも、あまりにも主人公が弱そうに見えてしまうと、どうしてもコントのようになってしまうわけです。

要するに、演劇においては、ほとんどの人が「嘘」でもいいから、”強そう”に見せてほしいわけです。


一方、同じ「エンターテイメント」でも、スポーツの世界では(スポーツをエンターテイメントだと仮定しての話ですが)、「嘘」はほとんど許されないものになっているわけです。

八百長はもちろんのことですが、弱い相手ばかりを選んで対戦していたりするというパターンも、それに気が付いてしまうと、見る側としては、かなりガッカリさせられるわけです。

ここでは、演劇とは違って、”強そう”ではなく”本当”に”強い”ことが求められているわけです。


そうなると「嘘」の許容範囲がどこまでなのかがわかり難くなってくるわけですけれど、実際には、これはかなり流動的なもので、その「エンターテイメント」を「ファンタジー」に置き換えられるかどうかで、見方がまったく違ってきてしまうものなのだと思うわけです。

つまり、時代劇においては、見る側においても、演じている側においても、ほぼ完全に、「エンターテイメント」が「ファンタジー」に置き換えられているわけです。


ちょんまげの人が町なかで刀を振り回しているというだけでも、現代人にとっては十分に「ファンタジー」なわけで、誰一人、”本物”の「切り合い」を見たことなどないわけですから、もともと「本当」か「嘘」かなんて誰にもわからないわけです。

でも、いくら演技とわかってはいても、ボクシングの映画なんかだと、”本物”も見ていますから、”本当に強い”のがどんな感じかがわかってしまうわけです。

だから、かなり”本物”に近い「作り込み」をしないと、「ファンタジー」への置き換えが成り立たなくなってしまうわけです。
感情移入しにくくなってしまうわけですね。


このことは「プロレス」を見ればわかり易いと思うわけです。

一方に、「プロレス」を目の色を変えて応援する人が居るのに、もう一方には、『あれはインチキですよ』と言って、相手にしない人が居るわけですけれど、これは、「プロレス」を「ファンタジー」として見ている人と、「スポーツ」として見ている人の違いが出ているのだと思うのです。

どちらかが正しいというようなものでもないと思いますけれど、観点が違ってしまっているので、この両者の話は成り立たないと思うわけです。

言ってみれば、片方が『座頭市ってカッコイイよね』といっている時に、もう片方は、『目が見えないのに、あんなに強いのはおかしい』と言っているようなものですから、この話がかみ合うことは無いわけです。


と言うわけで、「エンターテイメント」の「嘘」は、

それを「ファンタジー」に置き換えることが出来たところまでが、許容範囲なのかなと。


そんな感じですね。




「人間らしさ」とは?



現在、最も重要視するべきものと言えば、「人間らしさ」だと思うのです。
そして、現在、最も軽視される傾向にあるのも、また「人間らしさ」ではないかと思うわけなのです。


ところで、この「人間らしさ」とは、いったい何なのでしょうか?


「人間らしさ」即ち、「人間が最も人間である部分」とは、人間の中のどの部分なのか?ということです。


私はこれを、「論理的な思考」または「ヘリクツ」だと思っております。
そして、これらが高じると「迷い」に成るのだと思います。


「論理」や「理屈」が「人間らしい」ことだと言うと、『それはおかしいだろう』と思う人もいるでしょう。

確かに一般的には、「人間らしい」と言うときに、「論理」や「理屈」とは逆のイメージがあるように思うわけです。
つまり、「人情」や「喜怒哀楽」のような感情的で非論理的ともとれるものを指して、「人間らしさ」とか、「人間性」と言っていることが多いような気がします。

もちろん、そういうのも「人間らしさ」だと思います。

ただ、感情は他の動物にもありますから、「人間の最も人間である部分」とは言えないようにも思うわけです。


そこで、人間だけが持っている特徴とは?ということになってくるわけです。

そして、それは多分、「言葉」を持っていることなのではないかと思うのです。
もう少し正確に言うと、「言葉」によって”論理を積み上げる”ことが出来るということなわけです。

この「論理の構築」と言うのが、人間固有の性質、即ち「人間らしさ」だと思うわけです。


まぁ、こういうのなんかも正に「ヘリクツ」な感じですけれど、「論理」=「人間らしさ」だけでも無理があるのに、なんで、「ヘリクツ」が付いているかと言うと、すべての「論理」が不完全なわけですね、何せ”人間のやること”ですから。
つまり、その「不完全な理屈」の典型が「ヘリクツ」ということになるわけです。
と言うところで、「人間らしさ」に戻って来るという風になっているわけです。


そして、「人情」や「感情」も、実は、結構この「不完全な論理的思考」によって生み出されているような気もするのです。
と、こういうような「ヘリクツ」が、とても「人間らしい」ことのような気がするというわけなのです。


役には立ちません。
むしろ、かなり”ウットーシイ”です。


でも、これが、いま現在、最も重視されるべきものだと思っているわけです。


現在は、なんでも「効率主義」ですけれど、こういうところで、適度に効率を落としていった方が、むしろ”効率的”だと思うのです。

「効率主義」に着いて行けないわけです。
「人間らしさ」がですね。


人間が作り出した「効率主義」に「人間らしさ」が置いて行かれてしまうわけです。

ところが、「人間」は「人間らしさ」が無いと息ができないわけです。
だから、「効率」も上がりません。


ほんとうは、「効率」なんてどうだっていいんですが、と言うか「効率」はいいに越したことはないわけですが、それよりなにより、生き難くくてしょうがないわけです。

昔の方が、随分「人間らしさ」が重視されていたと思うのです。
この辺は少し巻き戻した方がいいのではないのかなと。


そんな風に思っています。




「向いていること」に「向いてないひと」



人には、「向き・不向き」と言うのがあると思うわけですけれど、実は、その「向いていること」に「向いてない人」と言うのも結構いたりするのかなと思うのです。

つまり、「向いていること」と「やりたいこと」が一致しないケースですね。


この二つが一致している人は幸せだと思うのです。
でも、そういうケースは意外と少ないのかも知れないなと思ったりもするわけです。


人間と言う生き物は、人から褒められたり、人より自分の方が上手くできたりすると、それが得意だと意識するようになって、それを好きになることが多いわけです。

そして、そのまま、それをやって行きたいと思った人は、「向いていること」に、そのまま「向いているひと」なわけです。

でも、人から褒められたり、人と比べて上手くできたりと言うことで、いい気分になる時期を過ぎて、ふと、『自分はこれが本当にやりたいのか?』と考えたときに、『これがやりたかったんじゃなくて、人から褒められたから気分がよかっただけだったんだ』と思った人は、「向いていること」に「向いてないひと」ということになるわけです。

そして、『じゃあ、本当にやりたいのは何なのか?』と考えて、たどり着くところが、「向いていること」(得意なこと)とも限らないわけです。


もちろん、敢えて「苦手なこと」をやる必要はないでしょうが、「やりたいこと」の方を優先した方がいいのでしょう。

「向いていること」を得意だというだけでやっていると、人から褒められることは多いでしょうが、そういう「人から受けること」を抜きに考えると、あまり心に残るものはないように思います。


だったら、「向いていること」に「向いてないひと」が、もっとたくさん居てもいいんじゃないかなと。

その人は「向いているひと」に敵わない部分が出て来ると思いますが、それでも、その人のやることは「向いているひと」にはできないことなのだと思います。

たぶん、そういう人が居る事にも、何かの意味があるのでしょう。
その意味は、世間一般にはわかりにくいかも知れないけれど、本人と、身近な人には良くわかることなのだろうなと。


そんな風に思います。
(『あぁ、自分か?』)




「娯楽」は多い程いいのか?



「娯楽」は、人間にとって必要なものだと思うわけです。
やはり、「娯楽」が一切なくなってしまうと、殺伐として”心がスサンデ”きてしまうのだと思います。

でも、それは”多い程いい”のでしょうか?


「昔は娯楽が少なかったから」などと言うとき、『娯楽は多い方がいい』と言う前提で言ってしまったりするわけですけれど、『本当に娯楽って多いほどいいのか?』と考えることが少ないわけです。

でも、最近になって多種多様な「娯楽」がある割には、『”楽しさ”は増えているのだろうか?』と思うときがあるわけです。

そこで、『娯楽は多い方がいいのか?』
いや、それ以前に『娯楽というのは増やせるものなのか?』と考えるわけなのです。


実は、「娯楽」や「楽しさ」は増やしたりできないんじゃないのかなと。

実際、若いころを振り返って『昔は娯楽が少なかったからねぇ』と語る人は、いつも決まって、懐かしそうな目をしているわけです。
そういう人が、「娯楽の海」の中を泳いでいるような今の子供や若者を見て、心の底から、羨ましそうにしているのを、あまり見ない気がします。


本当に「娯楽」や「楽しみ」が増えているならば、それらが少ない時代に生まれたことを”損した”と思うでしょうし、そのことが顔に出るはずだと思うのです。


要するに、その時代、「娯楽が少ない」ということ自体が、一種の「娯楽」だったということなんじゃないのかなと。
そして、それは十分に”楽しくて”、十分に「すばらしい娯楽」だったということなのだと思うのです。


つまり、「娯楽」の種類を増やすことは出来ても、「娯楽」や「楽しみ」の量を増やすことは出来ないのかなと。

そして、もしかしたら、「娯楽が少ないこと」っていうのは「究極の娯楽」だったりするのかなと。


そんなことを思いました。





「アタマがイイ」と言われる「頭の良さ」



『あの人は頭がいいよね』と言うときの「頭の良さ」が、言う人によって随分違うなと感じることがあるわけです。


まず、学歴偏重系の人ですが、もうそろそろ、そういう人もそんなには居なくなったのだろうと思うと、まだまだ、けっこう居るみたいですね。

さすがに、高学歴=”エライ”という人は少なくなりましたけれど、「アタマがイイ」となると、俄然と学歴偏重色が強く出てきます。
要するに、その人たちは「勉強ができる」ということを、「アタマがイイ」の基準にしているわけです。


それから、「頭の回転が速い」ということを、「アタマがイイ」の基準にしている人も、かなりの数で居るようです。
日常会話の中で、気の利いた言葉を即座に返せる人が、「アタマがイイ」と言われることは、とても多いわけです。


あとは、リクツ屋系ですね。

何かにつけて、妙に回りくどい説明をしてみたり、小難しくて解りにくいことに限って、『これは解り易かった』と言うようなタイプですね。
そういう人を「アタマがイイ」と言っている人は、「論理性」を「アタマがイイ」の基準にしているということなのでしょう。


ほかにも、いろいろな「アタマがイイ」があると思いますけれど、いずれにしても、どのタイプの「アタマがイイ」なのかによって、随分、その「頭の良さ」が違っているわけです。


そこで思うことは、上に挙げたような「アタマがイイ」人たちは、確かに、何らかの「頭の良さ」を持っているのだと思うわけですが、そこから外れた「アタマがイイ人」も居るんじゃないかということなわけです。


高学歴ではなくて、口下手で、リクツ屋でもない人で、それでも「アタマがイイ人」なんて沢山居るような気がするのです。
いや、むしろ本当に「頭がいいこと」と言うのは、そういう人が持っている「頭の良さ」なんじゃないのかなと。


つまり、それは「思慮深さ」なのではないかと思うわけです。

当たり前と言えば、当たり前のことなんですけれど、その当たり前のところが抜けているように思われるわけなのです。


これが、いつごろからの傾向なのかはわかりませんけれど、いわゆる表面上の「アタマがイイ人」だけが「アタマがイイ」と言われて、その「表面的な頭の良さ」を持っていないと「アタマがイイ」とは言われなくなってしまっているように思われるわけなのです。

これは、世の中全体が表面的になっているからだと思うわけです。


表面だけが重視されて、「本質」や「核(コア)」の部分は無視されているわけです。
無視されるだけでなく、そういうものを「重い」・「メンドクサイ」こととして排除しようとする傾向もあるわけです。

でも、「表面的」で「軽い」、「メンドウがない」ことを、「アタマがイイ」と言うのにはチョット無理があるのではないのかなと。


それじゃ、何も考えていないのと大差ないでしょ。
それが、「今のニッポンのアタマがイイ」なのですかと。


そんなことを言いたくなってしまうわけなのです。




「なぜか心に残ってしまうもの」



『感動した』とか『とても印象深かった』とかいうことではなく、何の気なしに見たものや聞いたものが、その後、長い年月の間、”ミョーに”ずっと頭の中に残っているということがあると思うのです。


たぶん、誰にでもそういうことがあるんだろうなと思っているんですが、どうなんでしょうか?
それはともかく、いくら考えても「それが残っている理由」が思いつかないわけです。


例えば、とくに好きなわけでもなかったテレビ番組の中の一コマとか、ドラマのセリフ、友達との会話、コマーシャルのフレーズなど、ジャンルにも内容にもほとんど関係なく、つまり、”まったく理不尽に”しかも長期間、心に残っていることがあるわけなのです。


私の場合、学生時代に学食でスパゲッティをたのむと、学食のおばさんが「スパゲ~」と言っていたのが、どうしても頭から消えてくれません。

『絶対理由なんかない!』と思います。

それから、時代劇のドラマで、菅原ブンタさんが言っていた『~が、なじょする』と言う何処かの方言のセリフが消えません。
何のドラマかも覚えていませんし、どういうシーンかも覚えていません。
第一、その時代劇は多分その回の放送しか見ていないわけです。

これなんかも、何故だか全くわかりません。


他にも、すごく短い期間しか流されなかった(2~3回見たくらい)コマーシャルなんかでも、消えないものがありますし、こういうのを挙げたらきりがありません。


その反面、すごく好きだったものや、何度も繰り返し見たものなんかでも、「コロッ」と忘れてしまうものもあったりします。
しかも、そのまま思い出せなくなるなんて言うのもあったりします。


さて、何が言いたいのかと言うと、『「心に残る」って、いったいどういうことなの?』ということなわけです。


まったく人間と言うのは、ミョーな感じで複雑にできていますから、『この感動は一生涯忘れないだろう』というようなことを考えてみたら、はじめからよく覚えていなかったりすることもありますし、どうでもいいようなことを何十年も覚えていたりするわけです。

私は「絵」を描いていますから、どうせなら「人の心に残るようなもの」をと思うわけです。
それが第一の目的ではないにしても、やっぱり「気にも止められないようなもの」よりは、「心に残るもの」ということはあるわけです。

ところがですね、こういう理不尽な「心に残る」があるということはですよ、頑張って描いても『スパゲ~』に勝てないわけです。

いえ、勝ち負けではないんですよ。
そんなことは決して思っていませんよ。

でもね、負けたくない相手というのはあるわけですよ。
私の場合、『スパゲ~』には負けたくなかったわけですね。

それなのに方策がないわけですよ。
この「理不尽さ」、この「無根拠さ」、この「執拗さ」に対抗する手段が思いつかないわけです。


そこで、「いっそのこと、自分がそっち側に行けないのか?」と思ったわけです。
何の根拠もなしに理不尽に「人の心に残る」側にですね。

でも、よく考えたら理不尽な”残り方”はしたくありません。

それでも「心に残るもの」と「心に残らないもの」はどこで決まるのだろうなと。


そんな風なことを、いま取り敢えず”考え中”です。



「曖昧さ」という機能



随分前からですけれど、「ファジー」と言う言葉があるわけです。


「曖昧な」ということなのでしょうか?

言葉の意味はよく知りませんけれど、なんとなく、本来は「曖昧」ではない”ハズ”のことにおいての「曖昧さ」を指して「ファジー」と言っているように思うわけです。


要するに、コンピューターのような、「曖昧さが無いこと」が”ウリ”でもあり、その反面「融通が利かない」という感じがあったものに、
敢えて「曖昧さ」を取り入れて、人間との馴染みを良くしようとしたということだと思うわけです。


そして、これもなんとなくですが、コンピューターが「ファジー」に成りだしてから、もともと「曖昧」であった”ハズ”の人間が「ファジー」じゃなくなってきているように感じるのです。

どちらかと言うと、実際に人間が「ファジー」じゃなくなったというよりも、「ファジーじゃない人間」が求められているということでしょうね。

要するに、「カチッ」とした人間が求められているような、そんな感じがするわけです。
「間違える人」や「揺れ動く心理」を、一段低いものとして扱う傾向があるように思うわけですね。


私は、「迷うこと」が究極の「思考」でもあり、最良の「人間性」でもあると思っていますので、「迷わない人」を高く評価しようとは思えないのです。

「迷わないこと」は、一つの「能力」ではあると思いますけれど、機械に置き換えることが出来る「能力」でもあるわけです。


人工知能がここまで発達してきたわけですから、そういうのはそちらに任せて、人間は、もっと「迷う」方向に向かっていいんじゃないかと思うわけです。


そして、そういう「迷い」からこそ、本当の「個性」も見えてくるように思っています。

この「曖昧さ」と言う機能こそが、人間の可能性を広げるものだと思っているわけです。


「迷い」と言う状態はパソコンにとっては「バグ」や「フリーズ」に当たるものだと思うのです。
つまり、「曖昧」な機能は「バグ」を起こしやすいでしょうし、「迷え」ば「フリーズ」してしまいます。

要するに、コンピューターは、複雑な「曖昧さ」である「迷い」を処理できないわけです。


人間は「迷っても」完全に機能停止したりはしません。
つまり、人間は「迷い」続けられるわけです。


たぶん、今の原理に基づいたコンピューター・システムがいくら進化しても、「迷い」続けることが出来るようには成らないような気がします。


さらに、人間は、その「迷い」から、極めて強引に、そして時には適当に、とても「個性的な結論」を導き出すことがあるわけです。

そういう時に現れて来るのが本当の「人間の個人性」なのだと思っています。


だから、コンピューターは「ファジー」じゃなくてもいいから、人間においてこそ「曖昧さ」と言う機能を大切にしていった方がいいんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「現実」と「真実」の関係



私は「真実」と言う言葉を、わりとよく使うのですけれど、「真実」と言う言葉は、人によって随分違う意味で使われていることもあるように思うわけです。


「本当のこと」を「真実」とする考え方もあるでしょうし、「現に起きていること」を「真実」とする考え方もあるのでしょう。
それから、「哲学的な真理」を「真実」だと考える人もいるのだと思います。


さて、私が考える「真実」は、「本当のこと」や「現に起きていること」とはだいぶ違います。

それらは、私の中では「現実」に成ります。
そして、「現実」に隠されているところに「真実」があるという考え方を持っているわけです。


でも、だからと言って「現実」が「真実」でないというわけではなくて、「現実」も「現実」と言う「一つの真実」ではあるわけです。


例えば、「本当のこと」でないことは「嘘」(虚構)ということに成りますが、それも「嘘」と言う「真実」ではあるわけです。

それと同じように「現に起きていること」でないことも、そういうことが「真実」であると考えることもできるわけなのです。


『それじゃ、なんでも真実じゃないか』ということになってしまうわけですが、そう言うわけでもなくて、「嘘」は「嘘」と言う意味では「真実」ですが、「本当」と言う意味では「真実」ではありません。

当たり前ですけど、そういうことです。


要するに、私は、「真実」を”相対的なもの”と考えるわけです。


「哲学的真理」を「絶対的な真理」と捉えるのであれば、それとも一致しないのかもしれません。
(私は、こちらも相対的なものと考えてしまうわけですが)


つまり、「一つの視点」につき、各々「一つづつの真実」があるということに成ります。


「真実」とは、「そこにあるもの」ではなくて、「そこに見出されるもの」だと思っています。
そして、その時に「真実」を隠してしまうのが「現実」ということです。


「現実」には”実質的な力”がありますから、それを無視することは出来ないわけです。
そこで、「真実」が見えにくくなってしまうわけです。


そして、先ほど述べた様な「~と言う意味での真実」というのをすべて取り除いたあとに残るのが、「その人にとっての真実」だと思っています。


要するに、私はその「その人にとっての真実」を「真実」と呼んでいるということです。
どちらかと言うと、「~呼びたい」に近いかもしれませんけどね。


ここで、全ての人は「真実」を体現しているとも言えるわけです。

例えば、「嘘」をつくことは出来ますが、それは「嘘と言う、真実」を体現してしまってもいるわけです。
ただ、本人がそれを見つけ出していないということなのでしょう。

だから、「その人にとっての真実」には成っていないわけです。


もし、自分が「嘘」をついているという「真実」と同時に、それを自分が体現してしまっている、即ち『嘘つきです」』と告白してしまっていることを、見つけ出してしまったら、きっと、ほとんどの人が止めると思います。


でも、そこで『嘘にまんまと騙される人も居る』と言う「現実」が「真実」を隠してしまうわけです。
それで、すぐそこにある「真実」が見えなくなってしまうわけなのです。

だから、「嘘」をつくことをやめない人もいるわけですよね。


それから、これは私の感じ方なのですが、『自分のありのままの姿を受け入れる』と言うのとも少し違います。
『受け入れる』ではなくて、『見出す』と言う感覚でとらえています。

つまり、”受け身”ではなくて、自己の”働きかけ”によるものということです。


これは「芸術」や「創作」と結び付けて考えるからかもしれませんけれど、”受け身”で捉えることが出来るのは「~と言う意味での真実」までなのではないかと思うわけです。


以上のことを持ちまして、

『「真実」を見出していこう!』と思っているわけです。


ところが、すぐそこにあるはずの、そして自分が勝手に決めることができるはずの「自分にとっての真実」が、そう簡単には見出せません。


まったく、人間の目と言うのはどこまでクモっているのでしょうか?
『ほら、そこにあるじゃないか!目を開けて見ればいいだけなんだよ!!』


まったくもって、そんな風に思ってしまうわけなのです。




「企業」の「公益性」



「企業」と言う言葉はあまり好きではありません。
どうしても、「儲け主義」と言う印象があるわけですね。


「企業」は「金儲け」のための機関なわけですから仕方ないとは思うのですけれど、「ガメツイこと」や「気前がよくないこと」、時には「ずる賢いこと」でさえ、「企業」の名の下に行われると「OK」になってしまうというのが納得できないわけなのです。

資本主義経済とはそういうものなのだと言われても、やはり、”腑に落ちない”部分は変わらないわけです。


そして、それは、「公益性」を示してくれる「企業」が少ないからだと思うのです。

「ガメツサ」や「ずる賢さ」はあるのに「公益性」は無い、つまり、自分のためには、とてもよく働くけど、人のためには、働かないということです。


現在は、「企業」は「金儲け」のための機関と言う感じになってしまっていますけれど、本来は「公益性」というのが「企業」の重要な要素だと思うのです。

つまり、「金を儲けること」よりも「金を循環させること」が企業の最も重要な役割だと思うわけです。

そして、それは「人のために働くこと」なわけです。


「企業」が金を循環させる過程で、そこに関わった人間に幸福がもたらされるというのが、本来の「資本主義の理念」だと思うわけです。


『そんな人のいいことを言っていたら、会社なんてみんな潰れちゃうよ』と言われるでしょうが、そういう状況がよくないと思うわけです。

”人のいい”ことを言っているような「企業」こそ生き残れるようにする方がいいと思うのです。


現在の「ガメツクテ」「ずる賢い」ような「資本主義」は誰のためにも成っていないように思います。

もう少し”人がいい”ような「資本主義」もあっていいように思ってしまうわけなのです。


そういう”ギスギスしていない”「資本主義」があれば、みんな、今より「資本主義」が好きに成るんじゃないのかなと。

今は、代わるものがないから”指示しているフリ”をしているだけなんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。





「本当の自分」



人間というのは、つくづく「本当の自分」を見ようとしないものだなと思うわけです。

そして、これは人間の最大の特徴である「言葉で考える」ということに依るところが大きいのだと思っているわけです。


「言葉」には「世界を二分する」という性質があるわけですね。

「A」といえば「A」と「Aでないもの」に「世界が二分され」ます。
その「二分割」を重ねていけば、そのたびに「世界が細分化」されていくわけです。

コンピューターのような、おそらく動物の脳よりもはるかに単純な機械が、動物や人間のように記憶したり判断したりできるのも、たぶん、このような「二分割」の積み重ね、即ち二進法による判断を使っているからなのでしょう。

そして、往々にして人間は、この性質に振り回されてしまうから、「本当の自分」を見ようとしなくなるのだと思っているわけです。

コンピューターには都合がいい「二分割」が、人間にとってはあまり都合よく働いてくれない時があるようです。


ほとんどの場合、「本当の自分」は世の中のどこかしら中庸にあるはずです。

例えば、「頭がいい」と言う言葉で、「頭がいい」と「頭がよくない」に「二分割」されたたとき、実際は、ほとんどの人がその中間に位置しているはずです。

でも、言葉の上では、その「中間」が表示されないわけです。
だから、「頭がいい」のか「頭がよくない」のかと言う、二者択一を迫られているような錯覚に陥ってしまい、「頭がよくない」方の自分を認めたくないがために、「頭がいい」方の自分しか見なくなってしまうわけです。


これは「頭がいい」ということに限らず、その人が認めたくない自分は見なくなり、認められる範囲の自分しか見なくなってしまうということです。
(当然、「頭がいい」方の自分を認められない人もいるわけです)


でも、実際には、ほとんどの場合「本当の自分」は、認めたくない範囲にもハミダシテいるわけです。

しかし、これは錯覚に基づいているわけです。
本当は、世界は「二分割」されているわけではなく、はじめから、「中間」も存在しているわけです。
ただ単に、言葉で表されている範囲で「二分割」されているだけです。

人間は機械じゃないんだから、無理にどちらか一方を選択しなくてもいいと思うのです。
機械は単純に出来てますから、「二分割」じゃないと処理できないというだけなんだと思うのです。

その「二分割」を積み重ねていくことでしか「中間」を生み出せないわけです。


でも、人間はけっこう複雑にできてますから、はじめから「中間」を把握する能力があるわけです。

だから、せっかくある能力を使って曖昧な領域を見て行ったらいいんじゃないかなと。
じっくりと自分をよく見て「中間」の中から「本当の自分」を見つけ出せばいいと思うわけです。

だいたい、人間はほとんどの場合「普通の人間」なんだし、どこか一部分が「極」にあるような人でも、他の部分は意外と「普通」だったりするわけです。
そして何よりも、どちらか一方の「極」に偏っていることよりも、「両極」を併せ持っていること、つまり「バランス」が重要なんだと思うわけです。

たとえ、その一方の「極」が「悪」であったとしても、対極する「善」を併せ持っていればいいわけです。


だから、もう、認めたくない「自分の中の反対の極」を隠す必要はないんじゃないのかなと。

そういう「人の本当の姿」にこそ、何か惹きつけられるものが潜んでいるようにも思うわけで、それを隠すなんて、何の意味もないことのように思えてくるわけです。

現在の世の中で”良い”とされていることが”イイ”と言う時代はもう過ぎてしまったように思うのです。そういう殻を捨てて「素(す)」の状態でいられるようになれれば、けっこう”イイ”んじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「あやまる」の種類



「あやまる」と言うのは、一つの文化だと思っています。
そして、その「あやまる」にも種類があるように思うわけです。


前にも、ここで書いたことがあるのですが、「あやまる」と言うことには、その国や地域の文化的な特徴がよく出ていると思うのです。
でも、その文化的な違いとは、また違って、「あやまる」には種類があると思っているわけです。


これは、よくある「謝罪会見」と言うのを見た時に感じたことなんですけど、「謝罪会見」を見て、いつも思うのは、『かえって、イメージ悪くなったんじゃない?』と言うことなのです。

墓穴を掘るっていうんですか?

一生懸命謝れば謝るほどイメージが悪化していくという感じになってしまうことがとても多いと思うわけです。
そして、それは「あやまる」の種類を把握できていないことに因るんじゃないかと思うわけです。


「あやまる」には、大きく分けて三つの種類があると思っています。

一つ目は、「挨拶」のような「あやまる」で、これは、たいして悪くなくても謝ったり、謝られたときに謝り返したりするような、言ってみれば、「社交辞令的あやまる」です。

前に書いた記事では、この「社交辞令的あやまる」について、もっと見直されていいんじゃないかと言うようなことを書きました。


二つ目は、謝る側のための「あやまる」で、謝られる側に対して謝ってはいるわけですが、謝る側は謝られる側のことよりは、自分の側のことを心配しているというパターンです。
つまり、その「あやまる」は「自己保身的あやまる」ということになるわけです。

ついつい本音が出てしまうという感じなんでしょうか。
要するに、これが「謝罪会見」を最悪のものにしてしまっているということです。


そして、三つ目が謝られる側のための「あやまる」なんですが、これは、「あやまる」だけでは成立しない場合が多いわけです。
謝られる側と言うのは、何かしらの被害を受けているわけですから、それを解消してもらわなければ納得しないわけです。

ところが、ほとんどの場合「あやまる」だけでは何も解消されないわけですから、実際に何をどう弁財するかとか、その後どのような行動をとるかということにかかってくるわけで(例えば、同じような過失を繰り返さないようにするということですね)、「あやまる」こと以上に、そちらが重要になってくるわけでしょう。

要するに、これが、本物の「あやまる」で、「誠心誠意あやまる」ということになるわけですね。


ところが、企業などが「謝罪会見」を開くような場合と言うのは、ほとんどの場合、そこには「取り返しのつかない過失」があるわけで、弁財するにしても、その代価の大きさが計り知れないくらいに大きい場合もあるわけです。

そこで、企業としては出来る限り損失を少なくしたいわけですから、どうしても、「自己保身的あやまる」になってしまうわけです。
一言で言えば”守りに入る”わけですね。

これでは、謝られる側が納得するわけがないでしょう。


こういう「あやまる」の種類が把握されるようになれば、いくらなんでも、現在のような「自己保身」が”見え見え”の「謝罪会見」は無くなるんじゃないかなと。


そして、「誠心誠意あやまる」ことを考えたら、つまり、相手の望むように弁財することが如何に大きな代償を伴うかを考えれば、二度と「同じ過ち」を繰り返さなくなると思うのですが、いつも、あやふやな「あやまる」で乗り切ってしまうために、何度も同じような過失を繰り返してしまうのでしょう。

と言うわけで、「あやまる」と言う文化は、もっとよく考えられていいんじゃないのかなと。


そんなことを考えてみました。


人間は”三つが限度”なのかな?



何かにつけて、人間には限界と言うものがあるわけですが、その限界と言うのは意外なほどすぐそこにあって、要するに、たいしたことは出来ないというのが実態なわけなのです。


そこで、思うことなんですけど、『人間は”三つが限度”なのかな?』と言うことを感じるわけなのです。

例えば「大・中・小」とか「松・竹・梅」とか、三つで区切ると、人間がそれを把握しやすくなるような気がするわけです。


これは、風景画を描くときに使われる「遠景・中景・近景」と言うのから思いついたんですが、いろいろなことを三段階で捉えたり表現したりすると、わかり易くなったり、やり易くなることがとても多いということに気が付いたわけです。

それで、いろいろなことを、ことあるごとに、これに当てはめて考えてみるわけですけれど、実際、二段階だと落差が大きすぎて埋めにくいし、四段階以上に成ると、細かくなりすぎてかえって掴みにくくなってしまうと言うことがあるわけです。


これは、いよいよ、『人間は”三つが限度”なのかな?』と考えるわけです。

『おい、おい、たった三つかよ、人間!』と思うのですが、やはり、人間の限界は、意外なほどに、すぐそこにあるんだなと。


そんな風に思うわけなのです。




「人間の醜さ」を見続けること



人間は過去において、さまざまな「醜いこと」を行ってきたわけです。
そして、それらは今だに続いているようにも思えるわけです。


それでも、なんとなくですけど、人間がそれらの「醜いこと」から、これから先、徐々に抜け出していけるんじゃないかと言う”兆し”が見えてきていると思っているわけです。

 ※それは、「昔ながらの醜さ」から「新しい醜さ」への移行にすぎないのでしょうが、
  その「変化」には、意味があると思うわけですね。

これは「希望的な観測」なのかも知れませんけれど、私は、人間が過去の時代よりは”愚か”ではなくなっていくような気がするわけです。
(実際、人間は「文明」や「文化」を創り出したわけですし、それを完全否定できる人は、あまりいないと思いますので)


きっと、「差別」はなくなっていくと思っていますし、「戦争」のような「殺し合い」もなくなっていくように思います。
実際、これらについては、すでに歴史の中でのピークを過ぎているのではないかとも思います。

また、もう少し小さな視点で見ても「犯罪」や「イジメ」や「各種ハラスメント」なんかも(これらは、まだピークを登りきってすらいませんが)、将来的には「無効化」されていくように思っているわけです。


ただ、歴史のサイクルはとても長いので、それがいつになったら実現することなのかはわかりません。
それでも、きっと、いつかはそんな風になるんだと思います。


少なくとも、現在日本で生活している限りにおいては、「平和」と言ってもいいように思うのです。

もちろん、その「平和」の内容については、『こんな平和でいいのか?』と言いたいことは沢山あるわけですけど、それでも、『いま、日本は平和じゃないのか?』と言われれば、『いえ、確かに平和ではあります』と答えるのでしょう。


でも、そこで、その「平和」の中にあってこそ、「人間の醜さ」を見続けていくことは重要なことに成っていくんじゃないかと思っているわけです。


つまり、豊かな食糧に囲まれている時こそ、『今、昔のような飢饉が起きて食料の供給が途絶えたら、この隣人たちはどこまで醜くなるのだろうか?』というような問いを、そして、自国において戦争が起きていない時にこそ、『今、人が殺し合うような事態が発生した時に、百人のうち何人までが、人を殺さずにいられるのだろうか?』と言うような問いを持ち続けることは、「醜いこと」を無効化して行くうえで、とても重要なことだと思っているわけです。


人は「差別」がなくなれば「差別」をする「人間の姿」を見ようとしなくなります。

人は「戦争」がなくなれば「殺し合い」をする「人間の姿」を見ようとしなくなります。

要するに、それらが自分たちの中にある「醜さ」を見せつけて来るのです。
だから、せっかく平和になったのに、なんでわざわざそんな「醜さ」を引きずっていなければいけないのかと苛立つわけです。

そうして、喉元を過ぎたころに、また同じ「醜いこと」を行ってしまうということを繰り返して来たわけです。


これは「自分の中の醜さ」を認めてしまえばいいことなのだと思うのです。
実際には、その「醜さ」は大したものでもなくて、「小さな醜さ」なのだと思います。
それが、周囲の状況によって増幅されて「醜いこと」を行うに至るわけです。


だから、それを増幅しないようにするのがいいと思うわけです。
平和な時に、そんな「人間の醜さ」を見ていれば、周りが平和なだけに、それはとても非道なことに見えますから、

そんな風にはなりたくないと思うでしょう。


そう思っていることで、「醜いこと」から少し離れられるかもしれません。

そんなことが繰り返されていって、いつかはきっと「醜いこと」が少なくな成って行くんではないのかなと。


そういうことを考えてみたりもするわけです。



「無駄」の価値



「無駄」っていうことは、要するに価値が無いことなわけです。
でも、その『価値が無い』は、常に『まったく価値が無い』だとは限らないと思うのです。


つまり、時には「無駄」が価値を持つということです。

例えば、「ゆとり」だって「遊び」だって見方によっては「無駄」なわけですけど、そういう「無駄」も必要なわけです。
そして、もう少し、その「無駄の価値」の範囲を広げていった方がいいんじゃないかと思うのです。


世の中の工業化が進んできたのに合わせて、「無駄」は削られる一方で、その領域が狭くなりすぎてしまっているように思うのです。

昔の、建築や家具なんかを見ても、全く必要ない所にまで、手の込んだ装飾がしてあったり、意味もなく精密にできているものなんて言うのも、珍しくもなく普通にあったりするわけです。


そういう作り手側の遊び心が、使う側の心もどこかで癒していたりしたのだと思います。

それを「価値のあるもの」としてではなく、あくまでも、「無駄」として”愛する気持ち”がいいんじゃないかと思うわけです。


例えば、『ダメだなぁ、これ』っていうようなものが、何年かしてみて、『あれ?これって実はいいんじゃないの?』っていうことがあるわけですよね。

今は、そういう「ダメ」を「無駄」として、はじめの段階で全部切ってしまっているわけです。
そうなると、数年後の『あれ?いいんじゃないの?』はなくなってしまうわけですね。


それで、作為的に作られた「イイモノ」しかなくなってしまっているわけです。

実は、最初「無駄」だったものが、「イイモノ」に成る過程が必要なんじゃないかと思うんですよね。
その「イイモノの部分」が発見されるという感じでしょうか?

それに、もし「無駄」のまま終わっても、「愛すべき無駄」っていうのも”有り”なんじゃないかなと。

そんな風にも思うわけです。


それ以前に、「愛されないけど、価値だけはあるモノ」が嫌いです。





「命の重さ」と「精神の重さ」



「命の重さ」が、重いということは言うまでもないことなのでしょうが、それは「精神の重さ」と比べた場合どちらが重いんでしょうか?


例えば、人間としての「誇り」とか「尊厳」みたいなものと比べた場合に、「命の重さ」は、それらよりも重いのでしょうか?


それは、何も「誇り」や「尊厳」ほど大げさなことでなくても、その人の「好み」や「やりたいこと」のような、ごく日常的なことについても、同じことが言えるのだと思うわけですけれど、そういう、その人の「精神活動」の部分と、その人の「命」を秤にかけた場合、どちらが重くなるのかなと思うわけです。


例えば、すごくグルメな人が、医師に食事制限を命じられている場合、その人が、それで寿命が少しぐらい短くなってもいいから、食べたいものを食べようと思うことは、「命」を軽視していることに成るのでしょうか?

これは、お酒やたばこについても同じようなことがいえるのでしょう。


まぁ、実際は、医師の食事指導を守ったからと言って、長生きするとも限りませんし、酒やたばこを一切やらなかったとしても、それで長生きが保障されるわけでもありませんから(実は、私はこういう常識はほとんど信じていないんですけどね)、仮に、それで確実に長生きできるんだとしたらと言う仮定での話ですけどね。


こういうことには、そうそう結論は出せないんだと思いますけど、ただ、今は「命の重さ」が重視されるあまりに、「精神の重さ」が、捨てられ過ぎてしまっているように思うわけです。

つまり、「命の重さ」が重いのは言うまでもないことだとしても、「精神の重さ」もそれに見合うぐらい重いものなんだと思うわけです。


基本的には、好きなことをして生きて行って、その最期に死んだ時がその人の寿命なんじゃないかと思うわけです。

むしろ重要なのは、それが本当に、その人にとっての「好きなこと」や「やりたいこと」なのか?と言うことの方なんじゃないかと思うのです。


例えば、『酒を飲んでいる』のか『酒に飲まれている』のか、と言ったことですね。
好きな酒を『旨いなぁ』と言って飲んでいるのと、依存症のような状態で、美味いも不味いもなく飲んでいるのとは全く違うことでしょう。

それはともかくとして、もう少し「人間の精神」が重視されて、さらには、それが解放されて行ってもいいように思うわけです。


社会が作り出した「道徳」や「規律」は、理由があって出来上がってきたものでしょうから、それを守ることも大事なんでしょうが、「個人の精神」はそれに匹敵する程のものだとも思いますから、もう少し重要視されるように成ってもいいんじゃないかと思うわけなのです。


その「道徳」や「規律」を象徴しているのが、「命の重さ」なんだと思うわけです。
そして、「個人」を象徴しているのが「精神の重さ」なんでしょう。


どちらが重いかと言うよりは、『どちらも重いから、偏ってきたら戻す』と言いうことかなと。


そんな風に思います。


「基本」は「初心者向き」ではないと思うのです



何においても、初心者は先ず「基本」からということになっているわけですけれど、これは本当に、いいやり方なんだろうかと思うことがあるわけです。


本当は、「基本」っていうのは一番難しいものなんじゃないかと思うわけです。


確かに、「基本」とされていることは、初心者にも手が出しやすいような、一見すると簡単に見えることが多いわけですけれど、実は、その道を極めた人が最後に辿り付くものも、また「基本」に違いないのです。


ですから、何においてもまず「基本」からと言う考え方は、むしろ、一番高度なものを、初心者に突き付けてしまっているとも言えるわけで、意外と、初心者がその分野に入って行き易くなっていない場合もあるように思えるのです。


むしろ、その分野の中で、いちばん面白そうに見える部分、要するに、子供がやりたがるような部分ですね、そういうところから入って行った方が、本当は入って行き易いんじゃないかなと思うわけです。


日本的(東洋的?)な考え方では、なんでも「修行」と考える傾向がありますから、真っ先に面白そうなことをやるというのが、否定的に捉えられてしまうことが多いように感じるわけです。

でも、どっち道、出来やしないわけです。
所詮、初心者が、そう簡単に面白いことなんかできるはずないんですから、最初に面白そうなことをやろうとして、当然出来なくて、それでも、どうしてもやりたいから夢中になってやろうとする、その結果、上達するっていうのがいいんじゃないかと思うわけです。


そして、最後にたどりつくのが「基本」だったりするということなんじゃないかと思うわけです。
さらには、それこそが「修行」でもあると言うこともできるんじゃないでしょうか?


だから、「基本」=「入り口」と言う考え方ではなくて、「基本」=「出口」的な考え方でもいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「長生き」について



「長生き」することは、無条件に”エライ”ことのような気がする”今日この頃”なわけです。


昔は、「長生き」することが特にエライことだとも思わなかったんですけど、今は、「長生き」な人を見ると『エライ!』と思ってしまうわけなのです。


とは言っても、「強欲な年寄り」なんて言う人を見ると、やっぱりガッカリはしますけどね。

でも、”普通”くらいなら十分に『こんなに長く生き続けて、エライなぁ』と思ってしまいますねぇ。
まして、「長生き」していて、しかも、ちょっとでも”イイ人”だなって思えたら、もう、それだけで「大尊敬」ですね。


なにが”エライ”って「生きること」だと思いますねぇ、最近は。

それを、人より何十年も長く続けている人は、”エライ”でしょう。やっぱり。


なんでだかはわかりませんけどね。
でも、今はそうとしか思えなくなりましたね。


そういうわけで、『長生きはエライ!!』
と思っています。




「忘れること」



『人間は「忘れること」で生きていける』と言う話を、どこかで聞いたことがあるわけです。
(どこで聞いたのかは忘れてしまいましたが)


これを聞いたときは、確かにそうだなと思いましたし、実際、過去の全ての「記憶」がいつも頭の中で渦巻いていたら、『とてもじゃないけど、生きていけないだろうな』と思うわけですよね。


これとはちょっと違う話なんですけど、最近になって、「忘れること」っていうのは、「記憶が消えてしまうこと」とは違うんじゃないかと思うように成ってきたわけです。


そして、今に至っては、『本当は、人間の「記憶」が消えてなくなってしまうことは、ほとんど無いんじゃないのか?』とすら考えるように成りました。

『そんなことは無いだろう』と思っていたんですが、例えば、忘れていると思っていたことを、突然『ポンッ!』と思いだすことっていうのがあるじゃないですか?
それから、それとは逆に忘れているハズがないことを「ど忘れ」することもありますよね。


そういうことっていうのは、「記憶」が「不活性」な状態に成っていることと関係があるんだと思うわけです。

つまり、「忘れること」と言うのは、「記憶が消えてしまうこと」ではなくて、「記憶」が「不活性」な状態に成っているんだと思うわけです。


まぁ、たぶん、こういうことは「脳科学」なんかでは、説明されていることなんだと思うんですが(本を読んだりしたわけではないので、よくわかりませんけど)、それを、自分なりにナントナク実感できたということだと思います。


そこで、考える事なんですが、「記憶」と言うものは、一般的に考えられているよりも、ずっと「ハードウェア」なものなんじゃないだろうか?という感じがするんですね。

つまり、人間の「記憶」も、「記録」が刻まれたテープやフィルムと同じようにかなり「物質的」なものなんじゃないかということですね。

そして、それは「脳科学」なんかで説明されているような、デリケートで複雑なシステムではなくて、もっと、単純で頑丈なもののような気がしてしまうわけです。

脳と言うよりも、骨や筋肉と同じような感覚で捉えるべきものなんじゃないかと思えて来るわけですね。
(骨や筋肉だって複雑なんでしょうけど)

さらに言うと、そこが「記憶」と「思考」の”分かれ目”でもあるんじゃないかなと。


もちろん、「記憶」だって、脳で行われることなんでしょうが、「丸暗記」であればあるほど、それは「身体的」なものに近くなっていくんじゃないかと思うわけです。


つまり、脳内で本当の意味で「ソフトウェア」的に、「精神的」な作業として、行われているのは「思考」であって

「記憶」は、それとは根本的に違う「仕組み」で行われている、「身体的(物質的)」な作業なんじゃないかと思うわけです。


要するに、「記憶」は、場所としては脳内で行われる作業であっても、脳を、より「身体的」に使った作業なんじゃないかなと。
そして、「身体的」であるからこそ、頑丈で消えにくいんじゃないかと思うわけです。


よく、スポーツでは『体で覚えろ』と言われますけど、あれなんかも、脳を「身体的」に使っているんだと思うんですね。

要するに、反復練習することで、「思考」を通さずに反射的に反応出来る回路を脳内に作っているんでしょうね。
「記憶」にも、それと似た「身体性」があると思うわけです。



それで、何が言いたいかと申しますと(前置きが長い!)、いわゆる「認知症」についてなんですね。


「認知症」の人と言うのは、脳の機能が低下してしまって、記憶力や思考能力が衰えてしまっているということに成っているわけです。

でも、もともと「記憶」と言うものが「身体的」な作業であるならば、その機能低下と言うのには、「運動不足」のような性質があるんじゃないかと思うわけです。

また、「論理思考」についても、生活に必要な最低限の「論理思考」などは、「思考」と言うよりも、むしろスポーツの「反復練習」と同じように、この「身体的」な作業に入るという可能性もあるんじゃないかと思うわけです。


つまり、言われている「脳の委縮」みたいなものは、筋肉や骨格で言えば、「運動不足」で衰えている状態であって、歩いたりするような、日常の動作ができなくなるほどの機能障害と言うほどではないケースもけっこう多いんじゃないかと思うんですね。


違うのは「脳細胞は再生しない」と言われていることなんでしょうか?


でも、人間の脳は、むしろ大き過ぎるくらいですし、現代人は、その肥大化した「脳」に拘束されているとも言えるわけですから、多少の「萎縮」は、実は、そんなに大きな問題でもないような気もするんですね。


そういう「機能障害」とまでは言えないものまで、ほぼ同列に「認知症」とされてしまっているように思います。


症状の進行度合いとしては捉えられているんでしょうが、それが、ちょっと極端に単純化されていると思うんですよね。


「単なる運動不足」と「筋肉が委縮してしまう難病」みたいなものが、ダイレクトにつながってしまっているような違和感があるわけですね。

実際に、「認知症」で「記憶」が曖昧に成ったり、たった今やっていたことを忘れてしまったりする人が、昔の「記憶」や自分の好きなことについてはよく覚えていたりすることはよくあるでしょうし、また、「認知症」で意味のつながらないような話をしている人が、時として、思考的な水準の高い話にも対応できることもあるなんて言うことも聞いたことがありますし、「認知症」=「全体的な脳機能の低下」でもないような気がするわけです。


これは、私の勝手な憶測ですけれど、そもそも「認知症」と言うのは、「脳の身体的な使用」に関する「機能の不活性化」ではないかと思うのです。

つまり、必ずしも、本当の脳機能、すなわち「精神活動」における機能低下ではなく、むしろ、「身体的な活動」における機能不全に近い症状なのではないかと思うわけです。

ただ単に、その「身体的な活動」の場が「脳内」であるということなんじゃないのかなと。



そして、解り難くなって申し訳ないんですが、ここで話が一番初めの所に戻ります。


『人間は「忘れること」で生きていける』と言うところですね。

要するに、現在の高齢者の置かれている環境が、『忘れないと生きていけない!』ということなんじゃないですか?』と言いたいわけです。


つまり、現在の高齢者は脳機能全体が低下したことで「認知症」に成っているというよりも、むしろ、『忘れないと生きていけない』から、敢えて、「忘れること」=「記憶の不活性化」を選択しているんじゃないかと思うのです。

つまり、脳機能の一部を「不活性化」することで、「生きて行ける」ようにしているということですね。
そうやっているうちに、知らず知らずに「運動不足」に成って、「脳の身体的な使用に関する機能」が、急激に低下して行ってしまうというパターンが、実は、一番多いんじゃないかと言う気がするんですね。


これは、高齢者が、それを”ワザト”やているという話ではありません。
無意識のうちに、そういう状態に追いやられているということだと思います。


要するに、現在の高齢者が尊敬されていないということだと思います。
(身近な人からの尊敬と言うよりも、「社会一般」が高齢者を尊敬していないということですね)
それで、高齢者が人間としての尊厳をもって生きていける領域が狭くなってしまっているわけです。
だから、「脳を不活性化して」、「ギリギリの尊厳」を保とうとしているんじゃなかと思うのです。


それは、正しい選択とは言えないのかも知れません。
それによって、さらに”痴呆扱い”されてしまうわけですから。

でも、人間としての尊厳を与えられない人間と言うのは、往々にして、そうした”自暴自棄”な間違った判断を下してしまうものなのかも知れません。
(これも、意識してと言うことではなくてですね)


例えば、「社会的な差別」や「社会的な貧困」などのような、自分の力だけで抜け出すのが困難な問題を負わされた人は、『その環境の中でも最善を尽くす』という人と、「犯罪」や「依存症」のような”自暴自棄”に陥ってしまう人の両極に分かれてしまうものでしょう。
そういう時に、自暴自棄になるのは、むしろ当然の結果であって、それを責めることには意味がないと思うわけです。


もちろん、高齢者の場合は、それだけではないのだと思います。

年を取っていますから、当然、身体的に衰えているわけですし、それと同じように、身体の一部としての「脳」も衰えてはいるのでしょう。

でも、それだけだとも思えない兆候がたくさんあることも事実なんじゃないかと思うわけです。


そこで、またまた、話は変わりますが、「サヴァン症候群」と言われる人が居ますけれど、これもよくは知りませんが、彼らは、おそらく、「記憶」などの能力が突出してすぐれているというよりは、「記憶を不活性化する為のシステム」が機能していないのだと思います。

要するに、いつも過剰なまでに「活性化」した状態にあるわけでしょうね。

 
つまり、人間の「脳機能」は完全に「活性化」されれば、一般人の能力でも「サヴァン並」なのかも知れないということです。

また、それとは逆に、どんなに優れた能力を持っていても、それが「不活性化」されてしまえば、いわゆる”ボケた”ようにしか見えないでしょう。

そういうのが「認知症」と呼ばれているものなのではないかと思うわけです。


いずれにしても、全ての人が年を取るわけですから、年寄りが幸せでない社会と言うのは、全ての人が「いい死に方」ができないということです。


生きている時はともかくとして、全般的に「死ぬ時は不幸」と言うのはどんなもんなんでしょうね?


出来れば、自分が年寄りに成る前に「年寄りを尊敬すること」をおススメしたいですね。
やっぱり、自分が年を取ってから「尊敬しろ」と言ったんでは、自分の都合だけで『年寄りを尊敬しろ!』と言っていることに成ってしまいますからね。

それじゃあ、いくら『尊敬しろ!』と言っても尊敬されませんよね。

いま、そういう「悪循環」が起きているんじゃないでしょうか?


そんな風に思ってしまうわけなのです。




「ブナン」と「マシ」



「ブナン」や「マシ」というと、両方ともあまりいいイメージがないと思いますけど、この二つには意外と大きな違いがあると思うわけです。


「ブナン」の方は、何かをする前に危険性の少ない方の選択肢を選ぶことで、「マシ」の方は、最終的に、それほど悪くはないけど良くもないという結果になってしまったということだと思うわけです。

つまり、「ブナン」は”チャレンジ”してないわけですね。
それに対して、「マシ」は、なんとなく”チャレンジ”している印象があるわけです。
「全力を尽くした感」が無くもないと思うんですね。

一所懸命やったんだけど、なんか”パッとしなかった”っていうんですか?
それで、どこか”不完全燃焼”ではあるんですけど、反面、どこか「やるだけはやった」っていう”晴れやかさ”もあったりするんじゃないかと思うわけです。

そんなところから、常に「マシ」を”良し”とする習慣を身に着けようと思っております。
(やるだけやった結果の”マシ”ということですけどね)


はじめから「マシ」を狙っちゃいけないと思うんですけどね。
それじゃ「ブナン」になっちゃいますからね。


でも、一所懸命にやって「マシ」ぐらいだったら、

『まぁ、いいんじゃないの?』

と、いつも思うようにしようかなと。

そんな風に思っています。






「職業」じゃない「シゴト」



【職業:専業主婦】とか 【職業:学生】とかっていうのに、ちょっと引っかかりがあるという人は、私だけでもないんじゃないかと思うわけです。


昔から思っていたんですけど、「専業主婦」とか「学生」って「職業」なんですかねぇ?
もし、そうだとしたら「主婦」は「家庭」に、「学生」なんて「学校」に就職したって話になりますけど(それは先生でしょ!)、そうなんでしょうか?


まぁ、そういうのはヘリクツなんでしょうけどね。
でも、「職業」ではない「シゴト」っていうのが、あってもいいんじゃないかっていうことが言いたいわけなんですね。

要するに、無理して何でも「職業」にしなくてもいいんじゃないかということですね。


「職業」っていう言葉をどう考えるかにもよりますけど、”収入がある”ということで考えれば、「主婦」や「学生」は外れてしまうわけですし、”本業とするところ”と考えれば、該当するように成るということなんでしょうか?


でも、一番わかり易い「職業」の解釈からすると、「収入を得ている仕事」ということなんだと思うわけです。
「主婦」や「学生」は、ただ単にメンドウだから、強引にそこに押し込まれていただけなんじゃないのかなと。


まぁ、ちょっと前までなら、「専業主婦」や「学生」ぐらいしか、そういう立場の人が居なかったでしょうし、そういう人たちも区別がしやすかったでしょうから、「専業主婦」と「学生」は「職業」に含めましょう、ということで問題なかったんだと思います。


でも、このところ、こういう「職業」じゃない「シゴト」の種類が、随分増えているんじゃないかと思うわけです。


私なんかもそうなんですけど、「創作活動」は収入のことを考えてやっているわけではないので、「職業」と言われても答えられるものがないんですが、意外と、それなりの「シゴト量」はコナシテいるんじゃないかと自分では思っているわけです。
(効率は良くないですけど)


他にも、「ボランティア」なども、そういう「職業じゃないシゴト」なんだと思います。
これなんかも、昔と比べるとかなり種類が増えたんじゃないかと思いますし、身内の介護をしていて「職業」に就けなくなっている人など、何らかの理由で、「職業」を休業中の人も増えているんだと思うわけです。

そういう人たちなんかは、「職業」を持っていた時よりも、よっぽどハードに「シゴト」をしているケースも多いんじゃないでしょうか?


それから、こういう「ブログ」を書く作業っていうのも、一種の「シゴト」ではあるのかも知れませんね。
まぁ、これなんかも「収入」を目指してやっている人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょうが、どっちにしても、何かしらの「シゴト」であるとは言えるんじゃないかと思います。


で、何が言いたいかと言うとですね。
このジャンルに名前がないわけです。

それでいつも、「職業」で困るわけですね。
どういう風に言っても、正しく伝わる気がしないわけですよね。


だから、誰かに、この「職業じゃないシゴト」の名前を付けてもらいたいと思っているわけです。

評論家でも、コピーライターの人でもいいですけど、なんかイイ名前を付けてほしいんですね。
『そうそう、自分がやってることって、そういうことなんだよね!』っていうようなヤツですね。


『「職業」ではないですが、「〇〇」として、これをけっこう一所懸命にやってますよ』

と言えるようにしてくれるとウレシイなと。


そんなことを思っています。





「話」には「層」がある



「話」には「層」があると思うのです。
一つの「話」をしている時には、本来、一つの「層」の中で「話」をしている”ハズ”なんだと思うわけです。


例えば、「冗談」を言っている時には、「冗談」と言う「層」で言っているわけで、それに対して、誰かが、「冗談」以外の「層」で言葉を返すと、それが「冗談」として成り立たなくなってしまいます。


それと同じように、どんな「話」にも、それぞれ、その「話」に見合った「層」があって、それを無視すれば、その「話」はほとんど意味をなさないものに成ってしまうわけなのです。


ところが、とりわけ議論の場においては、この「話の層」をしっかりととらえて「話」を進めていくのが、なかなか難しいわけです。

そして、この「話の層」を外してしまうと、あっという間に、「不毛な言い争い」になってしまうということですね。


そうならない為には、どちらもお互いに「共通の層」に合わせて、「話」をしようとする気持ちが必要になってくるわけですけれど、議論の場においては、相手を論破しようという考えが出て来てしまい勝ちですから、むしろ、「相手の層」に合わせないようにしてしまうわけですね。

つまり、相手の足をスクオウとするわけですね。


でも、これは全くの本末転倒で、それだったら、はじめから議論なんてしない方がいいくらいかも知れません。

それは、相手の矛盾点を指摘し合っているだけで、その「言い争い」に「内容」と言えるものはあり得ません。


人間の言うことには、必ず「矛盾」が含まれていますから、それを指摘することはそれほど難しくはないでしょうが、「話の層」を外して、「矛盾」を指摘することは、「批判のための批判」であって、「実質的な意味を持った批判」とは言えないでしょう。


この「話の層」を外すことや、「話の層」をコロコロと変えて相手を撹乱することを、巧みなディベートだと言ってしまっている傾向があるように思いますが、そういう「言い争い」は、常に全くの不毛です。


「共通の層」に合わせて「話」をしつつ、そこで生まれた「批判」にこそ、価値があるのだと思っています。


「議論」をするには、先ず、「共通の層」の中で「話」をするということが大前提であって、そのうえで、「話」に参加する人が、共有できる「話の層」をしっかりと決めてから「話」を進めることが必要になってくるわけです。

そうすることで、その「話」の本当の内容がどんなものなのかが見えて来るんだと思います。

現在、ディベートにおいて巧者と考えられている人には、まったく「内容」の無い「話」しかしていない人が、かなりいるように思えるわけですが、そういうことが、世の中をツマラナイものにしていることは間違いないことかと思われますので、「話の層」は守った方がいいんじゃないのかなと。


そんな風に思います。





「世間の基準」と「自分の基準」



「世間の基準」と「自分の基準」が一致していることってあるんでしょうか?

実際には、これは”ほとんど無い”と思うんですよね。


例えば、「いま流行って”イル”もの」を、もともと自分が好きな人っているんでしょうか?

もし、そうだったら、その人は、もしも、それが流行って”イナクテモ”それが好きなはずなんですけど、「いま流行って”イル”もの」が好きな人は、「いま流行って”イナイ”もの」は好きじゃないんだと思うんですね。

逆に、「いま流行って”イナイ”もの」が好きになるような人は、「いま流行って”イル”もの」を好きにならなかったりするんじゃないかと思うわけですね。
要するにややヒネクレテいるんでしょうね。


まぁ、その「ヒネクレ」の部分は抜きにしても、やはり、「世間の基準」と「自分の基準」が一致することって、そうそうあることじゃないんだと思うんですね。

だから、私は「世間の基準」と「自分の基準」が一致していると思ったときには、自分が「世間の基準」に「自分の基準」を合わせているんだなと思うようにしているんですね。


そうして、「それでもいいや」と思うことについては、そのままにして、『いや、これについては自分の基準でやりたい』と思うことについては、出来るだけ「世間の基準」を排除するようにしています。


「自分の基準」でやってると思っていたことが、「世間の基準」でやらされていたことだと思うと、相当”ソン”した気に成るので、そんな風にしています。


でも、「それでもいいや」の方のことについては、ぜんぜん”ソン”した気にならないし、むしろ”トク”したぐらいに思うこともあるので、『坊主じゃないけどマルモウケだな』と。

そんな風に思います。





「人間の本能」と「社会の本能」



このブログでも何度か書いていることなんですが、「社会」や「組織」などの人間の集団には、ある種の「意思」が存在すると思うのです。

つまり、人が集まると一人一人の「意思」とは違う、全体の「意思」が生まれて来るということですね。

   ※2014年6月15日・2015年1月14~15日などの記事で書いています。


そう考えると、人間に「本能」があるように、「社会」にも「本能」が発生するんじゃないかと思えてくるんですね。


一人一人の「人間の本能」は、遺伝子などに組み込まれて受け継がれているということに成っているわけですけど、「社会の本能」は、情報や書物によって受け継がれているんだと思います。

まぁ、実際には、それらの情報に触れなければ、なにも伝達されないわけですから、それを先天的に受け継がれた「本能」と同じように考えるのは、厳密に言えば、「間違い」なんですけどね。


でも、「現代社会」においては、「その社会」に生まれた人は「その社会の情報」に触れずに育つことは、ほとんど不可能と言ってもいいくらいなわけです。

だから、それは選択の余地がないこととも言えるわけですし、それらの情報の多くは、ずいぶん前の世代から受け継がれているようなものなんでしょうから、「社会」を生き物のように考えた場合、それが先天的に受け継がれたものであるとも言えなくもないわけです。


いわゆる「お国柄」みたいなものによって、そこに住む人の「嗜好」がずいぶん違ったりすることがあると思いますけど(例えば、「異性」についての「嗜好」なんかですね)、、ある国では、太めの人がモテて、違う国では痩せていないとモテないなんていうパターンがありますよね。

そういうパターンには「その時代の流行」に近いものと、「時代を超えた伝統的」なものがあると思うのです。
その「時代を超えたもの」の方を「社会の本能」として捉えたら面白いんじゃないかと思うわけですね。

こういった「嗜好の違い」は、「食べ物」や「色」などいろんなところに出ていると思うんですが、ほとんど、「個人の嗜好」とは言えない場合も多くて、そういう場合は「社会の嗜好」なんだと思います。


つまり、「個人的な好み」を差し置いて、ある種の「逆らえない欲求」が生み出されているわけですね。
これは「本能的な欲求」にかなり近いものなんじゃないかと思うわけです。


そこで、これも前に書いたことなんですが、そういう「集団の意思」と言うものが、そこに属している「個人の意思」を完全に無視して暴走することがあると思うんですね。


よく、会社で会議なんかをやると、「みんなで話し合って決めたこと」のハズなのに、「誰も望んでいなかったこと」が結論になってしまうことがあると思うんですね。

しかも、そういう時の「結論」は大抵トンチンカンです。


そういうのは、「集団の意思」なんだと思いますね。
これは、必ずしも話し合いが不十分だったからとか、意思の疎通が取れていなかったからということではなくて、時には、話し合えば話し合うほど方向がズレてしまうということもあるんじゃないでしょうか?

つまり、話し合うたびに「集団の意思」が強化されていって、「個人の意思」が抵抗できなくなっていくということでしょう。


そうなると、「社会の本能」については、どうなのか?
要するに、「社会の本能」が「人間の本能」を圧迫していることもあるんじゃないか?ということですね。


なんだか、そういうこともありそうですね。


そもそも、「現代社会」においては、何が「本能」で、何が「本能」じゃないのかっていうことが、意外と見え難い状態になっているんじゃないかと思うんですね。


例えば「食欲」にしても、いま何が食べたいのか?っていうことが、今の時代は、とても解り難い状態なんだと思うわけです。

寿司屋さんに行って『なんでも好きなものを注文していいよ』と言われたら、「遠慮すること」を抜きに考えた場合、大抵の人が、まず、値段の高いものから頼むでしょう。


少しでも「トクしたい」という「欲」が働くわけですね。
「食欲」ほど「根源的な欲求」ではないにしても、この「トクしたい」と言う「欲」はかなり「本能的な欲求」と言えるでしょう。

「食欲」が「人間の本能」で、「トクしたい」が「社会的な本能」ということですね。

そこで、「人間の本能」が「社会の本能」に邪魔されて、何が本当に食べたいのかが解り難く成るわけです。


まぁ、そんなにアサマシイ人ばかりでもないでしょうが、そういう「人間の本能」なのかどうかがはっきりしないような「欲求」はほかにもたくさんあります。


今なら「ダイエット志向」がありますね。

何かにつけて、『太るものは食べたくない』という、一体どこから出てきたんだかわからない「欲求」が「人間の本能」である「食欲」を圧迫していることがよくあります。


それから「健康志向」もありますね。

『体に悪いものは食べたくない』
『体にいいものなら少しくらい不味くてもいい』

こういうのも「人間の本能」が圧迫されているような気がしますね。


こういう時には、「社会の意思」や「社会の本能」が関係しているんじゃないかと思うんですね。


それで何が言いたいかと言うと、『「社会の意思」や「社会の本能」に惑わされずに、「人間の意思」「人間の本能」に目覚めよう!!』ということなんですね。


これも前に書いたんですけど、人間と言うのは、「個人」では、おおむね「正しいこと」をする生き物なんだと思うんですが、「集団」や「組織」に成ると、おおむね「間違ったこと」をする生き物なんだと思うのです。
と言うよりも、そういう性質を持っているのは「社会という生き物」なのかも知れませんね。


その上、「個人」なら間違っても、被害の規模が小さいですけど、「集団」の間違いは取り返しのつかないことに成ることがあるので、やっぱり、「人間の本能」つまり「個人の意思」に従って行動した方がいいんじゃないのかなと。


そして「自分の人間としての本能」が何を求めているのかを、出来るだけ、見極めていった方がいいんじゃないかと思いますね。


まぁ、「集団」が「個人」にとっても有益な判断を下してくれれば、そんなこと考えなくてもいいんでしょうけどね。

「社会」のどこを見渡しても、いろんな意味で”期待ウス”な感じですね。


たぶん、一人一人は、みんなそれなりにイイ人なのにねぇ。

なんで群れると『えっ?!』っていうことが起きてしまうんですかねぇ。
(群れていない人でも、「社会」を意識しすぎるとそうなりますね)


と、そんな風に思うのです。




「変わること」とは「変わり続けること」



人と言うものは、たいてい、人生の中のある時、自分が「変わって進歩した」と思っているんでしょうね。

自分のことを、『全然進歩していないなぁ』と思える人って、そんなに居ないように思います。
”言うだけ”の人は結構いるかもしれないですけどね。


でも、これが「変わり続けること」と言う話になると、『変わり続けていますよ』と言い切れる人は、これもまた、そんなには居ないように思うわけです。


そこで、思うことなんですけど、いま現在、「変わり続けていないもの」を『変わった』ということに意味があるのか?と言うことなんですね。

「前は、〇〇だったけど、今は△△だ。」と言うときに変わったということに成るわけですが、「前」と「今」が違うことに、どれほどの意味があるのか?ということですね。

何か「一つの目標」に向かっているという前提であれば、「前」よりも「今」が、その「目標」に近ければ、意味があるということに成るのでしょう。
それを「進歩」と言うわけですね。

でも、そういう「一つの目標」に向かっているということでないのであれば、「前」と「今」が違うということには、それほど意味がなくなってしまうんだと思うわけですね。

要するに、「進歩」ということ自体がほぼ無いということですね。


そして、そういう考え方をした場合、下から上へ登ろうとして「変わること」ではなくて、同じ平面上で、動き続けることとしての「変わり続けること」の方が、意味が大きいということに成るんじゃないかと思うのです。


何かのきっかけで『変わった』と言う話を聞くことが、けっこうありますけど、せっかく『変わった』のに、その場で止まってしまったら意味ないんじゃないですか?と言うケースが多いように思うわけです。


「一つの目標」に向かうことに、あまり意味がないという前提で言えば、現在「変わり続けていること」にしか意味はないと思うわけです。
つまり、その「方向性を持ったエネルギー」にこそ、意味があるわけで、いくら「前」と「今」が違っていても、「止まっているモノ」には、そういう「方向性を持ったエネルギー」は、もうなくなってしまっているわけです。


そもそも「変わること」というのは、そういうことなんじゃないかと思うんですよね。

その「エネルギー」のことを指して言っている言葉なんだと思うわけですね。


それで、『あの時から変わった』と言う人が居ると、『それで、今はどうなんですか?』と聞いてしまうわけですが、たいてい、すごく嫌な顔をされます。


止まっている時に、自分が「止まっていること」を認めないで、過去に「変わったこと」について語っていると、もう、それ以降は、変われなくなってしまうと思うんですね。


だから、いま停滞している時は、取り敢えず『自分は今止まっているけど、動きたいんだ!』と思うことがイイんじゃないかなと。
(いや、『動きたくないんだ!』でもいいんだと思いますよ)


そんな風に思っています。




「不便さ」考



「不便さ」が好きなんですねぇ、私は。
これには時として困ることもありますけど、直りませんねぇ、ぜんぜん。


なんで「不便さ」が好きになったんでしょうねぇ、わかりません。
さらに、いつから好きになったのかもよく覚えていないんですねぇ、自分のことなのに。


気が付いたら好きになってたんですねぇ、「不便さ」が。


いえ、「便利さ」が嫌いってわけじゃないんですよ、ぜんぜん。
と言うより『大好きです!』
「便利さ」も好きなんですねぇ、とっても。


ただね、「便利すぎる」っていうのが、チョット・キライなだけなんですね。
それで、「便利すぎるモノ」が、どんどん増えて来るもんだから、いつの間にか「不便さ」が、気持ちよく感じるようになってきてしまったんじゃないかと思うんですね。


正直言って、「不便さ」は、とてもイラつくんですね。
それなのに、また、その「不便さ」の方を選んでしまうんですねぇ、懲りずに。

そうやっていると、「不便さ」にだんだん慣れてきて、吸収してしまうんですね。
それで、妙な愛着みたいなものが出て来るんですね。

そこからは、もう手放せなく成ります。


自分がそんなだから言うわけじゃないんですけど、「不便さ」って、けっこう、これから見直されていくんじゃないかと思ってるんですよね。


なんて言うか「便利さ」って、ツマンナイっていう感じはあると思うんですね。
「飽きる」って言ってもいいと思いますけまぁ、要するに「フツー」なんでしょうね。


私は、人間については、「普通」なことこそオモシロイと思っているんですね。
つまり、人間は十分複雑ですから、「普通」ぐらで丁度いいっていうことなんでしょう。


でも、「物」については、「フツー」っていうのが、どうも、オモシロクはないんですね。

「物」は人間ほど複雑でもないですから、「ただ単に便利なもの」はオモシロクないんだと思います。


だから、「不便さ」を”ウリ”にするものがもっとあってもいいと思うわけです。
「不便だけど上質なモノ」がもう少し流通してほしいですね。


そんなことで、世の中が少しは豊かになるなら、イイんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。





「怒る人」と「チッチャイ自分」



「怒る人」って居ますよね。
いや、ちゃんとした理由があって怒るっていう話じゃなくてですね。
どちらかと言うと、ほとんど初めから怒っているというか、『怒るぞ!』っていう構えで生きているような人ですね。

短気な人っていうのとも、ちょっと違います。


要するに、そういう人っていうのは、『自信が無い』んだと思うんですね。

大抵の場合、むしろ「できる感じ」にしていたり、「強そう」にしていたりして、「自信満々」に見えるので、まさかこの人が『自信が無い』なんて、有り得ないんじゃないか?というように見えるんですけど、実を言えば、その「できる風」や「強そう」こそ『自信が無い』証拠でもあるわけですね。


実際、「できる風」や「強そう」をことさらに強調する人は、ほとんどの場合、心の底に臆病な「チッチャイ自分」を持っています。
と言っても、実は、この「チッチャイ自分」は誰の中にも居るんだと思います。

ただ、その「チッチャイ自分」が居ることを認めてあげる人と、そういう「チッチャイ自分」が許せなくて、いつもイライラしている人が居るんだと思います。

「チッチャイ自分」が認められない人は、だいたい完全主義的な人ですね。
つまり、自分の中の「不完全性」や「弱さ」が認められないんですね。
自分の中に、そういう弱い所やダメな所があるのが許せなくて、いつも苛立っているんですね。

だから、「芸術」なんかをやろうという人には、わりと多いんじゃないかと思いますね。
(そうとも限りませんか?)

まぁ、私なんかも、元々はどちらかといえば、そっち寄りだったような気がします。
今は、少し”マシ”かな?っていう所ですね。


ただ、私の場合、「チッチャイ自分」を認めたところから、「芸術」に向き合えるように成ったような気もしますから、「完全性」を捨てたことでかえって”楽”になったのかも知れません。


いずれにしても、イライラする所まではいいとしても、大抵の場合は、そこで止まっていなくて、そういう自分の中の「ダメ」を、正当化しようとしてしまうわけですよね。

「自己正当化」ですね。


そうなると、もう、後は、それを『ヒトノセイにする』更には、自分がイライラしていることも『ナニカノセイにする』ということに成って、それで、いつも初めから怒っているわけです。

でも、残念ながら怒っても、なんにもならないんですね。
まぁ、それでまたイライラするわけですけどね。


けっきょく、死ぬまでには「チッチャイ自分」を許してあげないとならないんじゃないですか?
と言うよりも、死ぬ時までに、そういう「自分の弱さ」を認められなかった人は、やっぱり不幸だと思いますね。

不幸と言うよりも、「幸せじゃない」ということでしょうね。


それを「すごく不幸なこと」だとは思いませんけど、「幸せじゃない」と思いますねぇ。

その人が生きてきたことが、全部「白黒写真」みたいに、「色のない世界」になってしまうような気がするんですね。
(いや、モノクロ写真が悪いって話じゃなくて、「例え」ですけどね)


この「チッチャイ自分」に限らず、自分のことが、少しでもわかってから死にたいですね。


そして、この「チッチャイ自分」を認めてやると、そこから、やっと少しづつ「自分の中」を見ることが出来るように成るんじゃないかと思いますね。

それまでは、自分の中を見ると、いつも絶対に見たくない「チッチャイ自分」がそこに居ますから、どうしても見なくなってしまうわけですね。


だから、自分が「怒る人」に成ってるなっていう人は、自分の中の「チッチャイ自分」を許してあげてもいいんじゃないですか?


その子は、とても小さくて弱いので、あなたに怒られて、いつも泣いています。

それが、あなたの姿です。

怒っているのは、あなたなんかじゃなくて、他の誰かです。

追い出すならそっちを追い出さないと、「チッチャイ自分」を追い出すことは、けっして出来ません。

だって、それが本当のあなたですから。


と言う風に、いつも自分に言っています。

 ※確か、何かの本で、こんなことが書いてあったのを読んだと思います。
  よく覚えていないので、自分の言葉も混ざってしまってますけど。




「究極の快楽主義者」



「快楽主義者」と言うと、一般的には、取り敢えず「楽しいこと」や「好きなこと」を好んで、「辛いこと」や「嫌なこと」を好まない人のことを言う場合が多いと思うのですが、最終的には、「快楽」に溺れて「破滅的な末路」をたどるというようなイメージもあるんじゃないかと思うわけです。

でも、その結果、「辛いこと」や「嫌なこと」を強いられることに成るんだとしたら、『それって、本当に快楽主義なんでしょうか?』と思ってしまうわけなのです。


少なくとも、ほとんどの場合、「破滅的な末路」とまでは言えない場合でも、『あぁ、このままやっていると、結果的に苦しくなって行くんだろうな』ということぐらいは、どこかの時点で、本人にもわかっていると思うんですけど、それでも、「目先の快楽」を追い続ける人のことを、果たして「快楽主義者」と呼べるのだろうか?と言う疑問が出て来るわけです。

もしも、本人が十分に「辛いこと」や「嫌なこと」に成ると自覚していながらも、そこに向かって行くのだとしたら、それは「快楽主義」ではなくて、単なる「破滅型」ということなんじゃないかと思うわけですね。


そこで、「真の快楽主義者」とはどんな人なのかということに成るわけです。


「真の快楽主義者」とは、「最終的な結果」を「楽しいこと」や「楽なこと」に持っていこうとする人なんじゃないのかなと。

少なくとも、「最終的な結果」が予測された時点で、それに合わせて行動を修正する人が、「真の快楽主義者」なんじゃないかと思うわけです。


例えば、美味しいものをたくさん食べるという「快楽」は、毎回、お腹がすいてから食べれば、長続きできますけど、お腹がすいていないうちに食べていれば、どんなものも美味しく感じなくなってしまいますから、結果的に美味しいものが食べられなくなってしまうということですね。


これは、他のどんなパターンにも、だいたい当てはまっていて、適度な「苦痛」や「我慢」がないと「快楽」は継続できないんじゃないかと思うのです。


そして、その「苦痛」や「我慢」を、「快楽」のための「過程」として「楽しいこと」と捉えたり、「快楽」を増幅するための手段として捉えたりする人こそが、「真の快楽主義者」の中でも、更に「究極の快楽主義者」なんだと思うわけです。


例えば、のどが乾くまでジッと待ってから、良く冷えた飲み物を飲むときに(なんか、「例え」がかなり地味ですが)、その「ジッと、待っている時がとても楽しい」と思えるというようなことですね。
(まぁ、『遠足に行く前の日が一番好き』って言うことですね)

ただ、ここでハマリすぎてはいけないわけです。
あくまで、「修行」ではなく「快楽主義」ですから、「快楽」を追究していかないと、モトノモクアミですよね。

だから、その辺の所を、どのぐらい我慢するのが、一番キモチイイのか?と、バカバカしいくらいに真剣に研究したりするような、そういう人ですね。

出来ることなら、そんな「究極の快楽主義者」に成りたいなと。


そんな風に思うわけなのです。


「動物の自信」と「人間の自信」



「自信」と言うと、一般的には「自分には〇〇が”できる”と確信していること」ということに成っているわけです。
でも、実は、この「〇〇が”できる”型」の「自信」と言うのは、「動物の自信」なんじゃないかと思うわけです。


たとえば、「サル山」のボス猿」は、常に「自信満々」ですよね。

それは、おそらく『オレ様は〇〇ができる』と思ってるんですね。
人間でも、そういう「お山の大将」系の人は、けっこうたくさん居るんだと思いますけど、どうも、これを「人間の自信」だとは思えないわけなのです。


一方、それとは反対に、いかにも頭の良さそうな人に、「それはわかりませんね」とか「そういうことは全然知らないんですよ」なんてミョウにキッパリと言われてしまうと、『この人は相当自信があるんだな』と感じてしまうことがあったりしますよね。

これは「〇〇ができない型」の「自信」ですね。


ただ、これは正確には、「〇〇ができないと”言う”自信」で、大抵の場合は、「他のナニカができる」という「自信」が裏付けになっているわけです。

だから、結局はこれも、「〇〇ができる型」の変形なんだと思うんですね。


それでも、やっぱり、『〇〇ができない』と言う言葉を使うことで、随分、「知的」な感じがしてくるというのはあるんじゃないでしょうか?


つまり、「〇〇ができる型」の「動物の自信」と比べると、「知性的」或は「精神的」な感じがする分だけ、「人間らしく」見えるのでしょうね。

「動物の自信」は「身体的」や「肉感的」ということに成るんででしょうか。
これは、どちらが上ということでもありませんが、人間はやはり「人間らしく」の方が合ってるんじゃないかと思いますので、

「人間の自信」を持つようにした方がいいんじゃないのかなと。


その場合の「人間の自信」は、やっぱり「〇〇ができない型」の「自信」に成ると思うわけです。
この場合は、先述の「裏付けのある自信」ではなくて、裏付けがなくても、『〇〇ができないことに自信を持つ』ということですね。

言ってみれば、「何もできないということの自信」ですね。

それは、言い換えれば、「自分の存在自体に対して自信を持つ」ということに成ります。
だから、もっと正確に言うなら、「”できる”・”できない”に関係ない自信」ですね。

つまり、「外から与えられた自信」ではなくて、自分の中で、「自家発電」のように創り出された「内なる自信」ですね。


それが、たぶん最も「精神的な自信」なんじゃないかと思うわけですね。


そして、それは、最も強い「自信」でもあるんだと思います。

「外から与えられた自信」は「外の状況」によって、左右されてしまいますが、「内なる自信」はそれほど、変化することがないと思いますし、何より、「人間」に合っていますからね。


だから、今、「自信」がある人もない人も、「動物の自信」に頼らず、前もって、「人間の自信」を自分の中に創っておいた方がいいんじゃないかなと。

そのうち、もしかしたら必要になるかも知れませんよ。


そういう風に思います。




「快楽物質」と「異常性」



「気持ちいいこと」は、とてもいいことだと思うのですが、そういう「気持ちいい時」には、人間の脳内に「快楽」を生み出すような物質、いわゆる「快楽物質」が出ていると言われているみたいですね。
(詳しいことはわかりませんけど)


たとえば、「パチンコ」にハマってしまう人は、「大当たり」したときに、脳内に「快楽物質」が出ているらしいです。
そして、その「快楽」を求めて、また、「パチンコ屋」に吸い込まれていくということに成るわけです。


おそらく、「依存性」のあるもの全般で、同じようなことが起きているということなんでしょうね。
さらに言えば、その「依存的に成った快楽」が「異常性」に結びついていくこともあるわけです。


たとえば、「快楽殺人犯」や「性的犯罪者」などは、おそらく、犯行時に「快楽物質」が出ていて、そのために、常人には「快楽」と感じられないようなことを「快楽」と感じてしまい、犯行を繰り返してしまうのでしょう。


「精神的」と言うよりも「物質的」ですから、抵抗できないんでしょうね。


まぁ、彼らのような人は、何らかの「病的な異常性」を持った人なんでしょうから(サイコパスのような)、それを、一般的な人間に当てはめて考えるのには、無理があると思いますけど、「異常性」の一歩手前の「依存性」の段階までだと、確実に一般人にもあるものだと思います。


「快楽物質」が出ることで、人が幸せになるのはいいことなんでしょうが、それが、こういった「異常性」と、隣りあわせのものだとは、やっぱり思いたくないですよね。


そこで、「快楽」と「異常な快楽」の間に、なんとか線を引きたいと思うわけですね。


おそらく、「異常」の一歩手前の「依存」が、その境界線に成るんだと思います。

純粋に、「やりたいから、やっている」ことが、いつの間にか、「やりたい・やりたくない」に関係なく「やらずにはいられなく」成った時点で「依存」に成るわけですが、その時点からは、「純粋な快楽」と言うよりは、ただ単に「快楽物質」が出ているだけと言う状態なんだと思います。

つまり、「快楽」であって「快楽」じゃない、「快楽物質」に、身も心も乗っ取られた状態に成っているということなんでしょうね。

こういう「依存」の状態が、「快楽」と「異常な快楽」の間の、一つの境界線に成るんだと思うわけです。


それから、もう一つの境界線としては、人との「共感」が考えられると思うのです。


いわゆる「サイコパス」と言われる人は、脳の機能の中の「人と共感する部分」が欠如していると言うのを聞いたことがあります。

こういうのも一種の「病的なもの」でしょうから、一般的な人とは違う話なんでしょうが、ごく普通の人の中にも、「共感」を無視した行動をとる人は結構いるようなので(そういう人は、「共感」できる能力があるのに「共感」しようとしないということですから、タチ悪いですよね)、そういう人については、「共感」が「快楽」と「異常な快楽」の境界線になってくるんじゃないかと思うわけです。

 ※ただし、「サイコパス型の脳」を持っている人でも、必ずしも「犯罪性」や 
  「非道徳的な行動」などからは、離れた立場をとり続けられる人も、それ
  なりに居るようですから、そうなると、それを「病的」と扱うことには、問題
  もあるかもしれません。
  ただ、ここでの話とはあまり関係ありませんから、そこは飛ばします。

と言っても、人間は誰でも「人と違う嗜好」を持っているわけですし、そちらの方が、むしろ本来の姿なんでしょうから、その「嗜好」が「異常性」の片鱗を持っていることは、決定的な問題でもないんじゃないかと思うのです。


それよりも、いっさい人と「共感」しようとしないことで、「本来の快楽」には、「快楽物質」が分泌されなくなって、「異常な快楽」にばかり、「快楽物質」が分泌されるようになって、その「異常な快楽」が膨らんで、その他のことを押しつぶしてしまうことによって、境界線を越えて、「異常性」の側に行ってしまうということとの方が問題なんじゃないかと思うわけです。

けっきょく、これも「快楽物質」に操られてしまっていますね。


まぁ、いずれにしても、「快楽物質」によって「快楽」が”与えられる”ということでもないんじゃないのかなと思うんですね。
そういう受動的な考え方が、”ちょっと違う”んじゃないかと思うわけですね。

「快楽物質」が出るから「快楽」を感じるんだという考え方よりも、人間が、自分の心(脳)の中に、「快楽」を生み出したときに、その結果として、「快楽物質」が出て来るんだという考え方の方が、「本当の快楽」に近いような気がしますね。

「本当の人間の快楽」ですね。


そもそも、人間は、「文化」や「文明」を発展させて行く過程で、「快楽」を発展させて来たんだと思うのです。


たとえば、人間に限らず、動物は食べることで「快楽」を感じるわけですが、そこで、人間は料理を創作するという「文化」を持ったことによって、「食べる」と言う行為の中に、「よりおいしくして食べる」と言う、「新たな快楽の領域」を創り出しているわけです。

こういったことは、他のあらゆる「文化」や「文明」についても言えることですから、いまや、「本当の人間の快楽」は、「食べる」と言うだけの「単純な快楽」のようなものではなくなっていて、もっと精神的な満足を求めるようなものに成っているんだと思うわけです。


でも、もちろん、物質的にも満足したいわけですから、その両方が求められるわけですけどね。
ただ、「文化」や「文明」が進むのと並行して、人間自身が創り出した「精神的な快楽」の比重が大きくなってきたということなんでしょう。


そういうわけで、「快楽物質」に乗っ取られて感じる「快楽」なんて、もういりません。
「そういう快楽」には、少し飽きてしまいました。
これからは、「快楽」を自分で創り出していきたいのです。

それこそが「いま、一番気もちいいこと」なんじゃないでしょうか?


そんな風に思います。




「人が美しく見える時」と「人が醜く見える時」



『人間と言うのは美しいものだなぁ』と、つくづく思うときがありますけど、逆に、『人間とはなんと醜いものか』と思うときもあったりします。


『美しいものだなぁ』の時は、涙が出るほどうれしく成りますが、『なんと醜いものか』の時には、涙を流すほどの気力も削がれて、堪えらえないほど悲しく成ります。


そこで、「人が美しく見える時」と「人が醜く見える時」とは、どんな時なのかと考えてみたわけです。


つらつらと考えてみたところ、私の場合は、「人が美しく見える時」は、人の中に「自己犠牲」を感じたときです。
そして、「人が醜く見える時」は、人の中に「自己保身」が見えたときですね。


ただ、「自己犠牲」と言っても、「キリストが人々の罪を背負って磔刑に成る」みたいな悲壮な感じじゃないです。

道に迷っている人に、「丁寧に道を教えてあげる人」くらいで十分美しいと思ってしまいます。
(こういうのが意外と少ないです)
そして、そういう人を見かけただけでも涙が出るくらいに嬉しく成ります。

何故なのかは、よくわかりません。


また、「自己保身」の方も、それほど厳密ではなくて、普通レベルで「自分優先」なぐらいは、だいたい「OK」です。
でも、「自己保身のために他人を踏みつけにする人」を見ると、本当に悲しくて堪えられなくなります。

これも、何故なのかはわかりません。


私のことはともかくとして、「自己犠牲」が美しく見えて、「自己保身」が醜く見えるのは、たぶん、「人間の本質」と関係があると思うわけです。


つまり、「自己犠牲」は「人間の本質」の中心に近い所のもので、「自己保身」は「人間の本質」から外れたものなんじゃないかと思うわけですね。


これは、このことに限った話でもありませんけど、「本質」を得たものは”美しい”と思いますし、「本質」から外れたものと言うのは”美しくない”と思うのです。


ただ、ここで人間特有の「難解さ」が出てきます。
つまり、「自己保身」の方が、「動物としての人間」の「本質」には近いということがあるわけです。
当然、「自己犠牲」は「動物としての人間」の「本質」からは外れています。

つまり、純粋に「人間としての人間の本質」と、「動物としての人間の本質」が、逆転しているわけですね。


人間は、人間である前に動物であるとも言えますから、この「動物としての人間の本質」を優先したとしても間違いではないのかも知れません。
だから、『そういうのは偽善だ!』という人がいたりするんでしょうね。

でも、それでは「人間」が「人間」に成った意味が無く成ってしまうんじゃないでしょうか?
だとすれば、やはり、純粋に「人間としての人間の本質」に従った方が”人間らしい”んじゃないのかなと。


それから、ここにはもう一つ「言葉の仕掛け」が潜んでいるわけです。

そもそも、「美しい」とか「醜い」と言う言葉自体が、「動物としての人間」ではなく「純粋に人間としての人間」が生み出したものだということです。

だから、当然「美しい」や「醜い」について言う場合、純粋に「人間としての人間の本質」を基準に考える必要があるわけです。
当然、それは「偽善」についていうときにも同じことが言えるわけですね。


取り敢えず、こんなことで、「自己犠牲」と「自己保身」が、私にとっての「美しい人」と「醜い人」の基準になっているようです。


なんとなく、最近「自己保身的な人」が多いような気がします。

『動物に逆戻りしちゃうんですか?』

『たぶん、それは出来ないと思いますよ』

『進化は前にしか進めないので』


そんな風に思っています。


 ※「進化」は「戻る」という選択をしないらしいです。
  「退化」は「無駄に成った機能を失うという形の進化」であって、「戻る」ではない
  らしいです。
  だから、「進化論」においては、「人間」が「その前の段階」に「戻る」ことはない
  ようです。

  もしも、「人間」が「戻る」ことが出来るとすれば、それは、「進化論」とは無関係
  に、「人間」が「歴史から学ぶこと」が出来るようになるしかないんじゃないかと思
  います。
  「人間」は、過去において、まだ、一度も「歴史から学んで戻ること」を選択したこ
  とはないんじゃないでしょうか?

「性善説」・「性悪説」・「性人説」



「性善説」と「性悪説」と言うのがありますけど、どっちが本当なんでしょうね。
たぶん、どんなに議論しても結論は出ませんよね。


要するに、それだけ「人間」と言うものは、「善」と「悪」の間でいつもウロウロしているものなんだと思うわけです。


「性善説」と「性悪説」のどちらか一方を選ぶのは難しいと思いますし、それを強引に選ぶことに、それほどの意味はないように思いますけど、この「善」と「悪」の間に居るのが「人間」なんだと言う考え方には、けっこう意味があるんじゃないかと思っているわけです。

「性人間説」=「性人説」ですね。
(私が勝手に言ってるだけですけど)


つまり、「善」と「悪」のどちらか一方と言うと、どちらを選んだ場合でも必ず「矛盾」が出てきますけど、両方の間で、ウロウロしているということだと、一応「矛盾」はないわけです。


それから、こういう「中途半端さ」と言うのは、とても「人間的」なことであって、人間にとって、実は「かなり心地よいこと」なんじゃないかと思うわけですね。

ただ、残念ながら「チョットカッコワルイ」と言うだけのことなんじゃないかと思います。


その「チョットカッコワルイ」に目をつぶれば、これは、”ラク”だと思いますよ。
なんせ、”ドッチデモイイ”んですからね。

少しくらい”ワル”くてもいいし、もちろん”イイ”に越したことは無いでしょうから、どう転んでも「ノー・プロブレム」なわけで、言うことなしです。


ただし、ここで「なんでもありなのか?」と言うと、そうではなくて、「人間性」の範囲内に限って、「善」と「悪」のどちらでもいいということに成るんだと思います。

つまり、「ワルい」と言っても「ワル過ぎ」ては、「人間的」で無く成ってしまいますし、あまり、無理して「イイ人」になろうとするのも、ある意味で「人間的」じゃないっていうことですね。


「イイ:ワルイ」と言うよりも「人間の本質」が、そういうところなんじゃないか?ということですね。

つまり、「善」に成りきることも出来ないし、「悪」に徹することもできない、それに、根本的に「善」でもないし、根本的に「悪」でもないと言うのが「人間の本質」なんじゃないでしょうか?


まぁ、もっとも単純に言うと、「人間の本質」は「人間であるということ」でしかないということなんだと思います。


そして、この「チョットカッコワル」くて、中途半端な「人間性」と言うものを、「見栄」を捨てて、”受け入れること”が「人間の心」を解放して、限りなく自由にするように思うのです。


たったそれだけのことで、そんなに自由になれるわけないだろうとも思うんですけど、「そうならない理由」が思いつきません。


でも、なかなか「見栄」を捨てることは出来ないんですね。
だから、どうしても「イイ人」になろうとしたり、「ワル」ぶったりするんですね。


だから、なかなか解放されないんですね。
と言っても、ここも「中途半端」でいいわけでしょうから、そんなところで、いいんじゃないのかなと。


一応そういうことに成っております。私の中では。



「下から上」は見えるけど「上から下」は見えない



とかく「社会」と言うものは、自分と違う階層のことは見えにくいものなんだと思うわけです。
なかでも、「下から上」は、少しくらいなら見えるけれど、「上から下」は、ほとんど何も見えないというのが現実なんじゃないでしょうか?


つまり、「一般庶民」は「エライ人たち」のことが、時々垣間見えることがあるけれど、「エライ人たち」からは、「一般庶民」のことは、まったくと言っていいくらいに見えていないということですね。

だから、「エライ人たち」は、よく「一般庶民」から見ると”トンデモナイ”と思うようなことを言い出すんでしょうね。


と言っても、これは、昔に比べれば、だいぶ良く成ったんじゃないかとも思います。

「格差」のギャップが小さく成って来たんでしょうね。
希望的観測を少し多めに入れて言うと、もう少しで必要な程度の「社会的フラット」に成るような気がします。

まぁ、あくまでも、『数百年後に、そうなればいいなぁ』と言う話ですけど。


でも、せっかく「社会」が「一応フラット」になっても、まだ、それを受け入れられない人が居るんですね。
しかも、実に、たくさん居るんですねぇ。


もう、とっくに「上も下もない世の中」になっているのに、「上から下」が見えないという”フリ”をするんですね。
これは”卑怯”ですね。

それから、こういうことを批判すると、「ネガティブ」と言う烙印を押される傾向がありますけど、その手の「ポジティブ」も、また、”アサハカ”としか見えませんね。

『「批判すること」を批判すること』ほど意味のないことはありません。

それは、「権力」にヘツラッテいる自分の姿を見ないようにして、「自己正当化」しているにすぎないですね。
つまり、これもやっぱり「見えない”フリ”」ということですね。


それはともかく、「社会」がかなり「フラット」に成っていても、「自分がエライと思っている人」にとっては「フラット」になったら困るので、勝手に自分の頭の中に「社会的な階層」を設定して、その階層の中で「下」のことは「見えないこと」にしてしまうわけです。

そうした「バーチャル・ヒエラルキー」=「妄想上の階層」というのは(これは、私が勝手に言っているだけですから、ほかで使うと恥をかきます)、正攻法ではなかなか崩せません。

一種の「自己洗脳」・「自己催眠」のような状態ですから、それを解かないと崩れないわけですね。

まして、「社会」も、それをあえて突き崩そうと言う努力をしていませんから、「洗脳」や「催眠」が一層強固なものになって行ってしまう傾向があるわけですね。


カルト宗教に「洗脳」された人を見ればわかりますが、そこで「ポジティブ」だの「ネガティブ」だの言っても意味がありません。
とにかく、「手段を選ばない」ぐらいの覚悟で、徹底的に「否定」することで、「洗脳」された頭から「教祖』や「教理」を追い出さないと、その人の人生は、乗っ取られて潰されてしまうわけです。


まぁ、それと同じくらい「バーチャル・ヒエラルキー」は強固だということですね。
だから、絶対と言ってもいいくらいに「自浄作用」には期待できません。

これは周りの人も迷惑でしょうが、「カルト宗教」の場合と同じように、本当に破壊されてしまうのは「当人の人格」です。


やはり、「社会制度」や「教育」で、ある程度の強制力をもって、その辺のところを修正していくしかないように思います。


これを、強制的で「自由じゃないこと」のように考えるのは、チガウと思いますね。

人間と言う生き物は、「教育」や「学び」によって、「成体」になる「生き物」なんだと思うわけです。

だから、その「教育」を放置して、「なるように成る」或は、「自発的に学ぶ」と言う考え方だと、誰も「成人」=「成人間」に「羽化」できなくなってしまうということです。

 ※もしも、「人間」が、完全に「原始」に戻って、もう一度「動物として生きる」
  という選択が許されるのであれば、「教育」を否定できるのかもしれません
  が、そうでなければ、けっきょくは、ナニカが「教育」されてしまうわけです
  から、そのナニカが刷り込まれてしまうわけです。
  だとしたら、現在のように「社会にとって都合がいい情報」だけが刷り込ま
  れるよりは、「人間にとっての都合を優先した情報」を刷り込んでいった方
  が、少しマシなんじゃないかと思います。

こういうのを「自由」とは言わないですね。
まったくチガイますね。


そこから生まれるのは、”動物的”な「無軌道」や「ワガママ」であって、”人間的”な「自由」では有り得ないですね。


現在、「イイ学校を出た人」が「頭がイイ」と思っている人が山ほど居ますね。
「社会的な地位が高い人」を「エライ人」だと考えている人なんかも、大多数と言えるでしょう。

逆に、心底からそう思っていない人なんて、ほんの一握りしかいないんじゃないでしょうか?
(言うだけの人は沢山居るんですけどね)

そういうのが、現在の【「放置」と「自由」を取り違えた教育】がモタラシタモノだと思います。


やはり、「教育」に「人間が指し示した方向性」が与えられなければ、それを「教育」と呼ぶ根拠すらなくなってしまうわけで、その「単なる放置」を「自由な教育」と言っていたら、「人間」は「類人猿」に戻って行ってしまうんじゃないでしょうか?

本当に「サル」に戻れるならいいんでしょうが、「服を着て自分をお.利口だと思いこんでいるサル」というのは、ミジメなだけだと思いますよ。


「類人猿」までは戻らない(戻れない)としても、ウワッツラだけ「ホモ・サピエンス」でナカミが「北京原人」だと、”チョット悲しい”ということでしょうね。
(「北京原人」が、分類上「類人猿」に近いのか、「人類」に近いのかは知りませんが)


最低限「人間がホモ・サピエンスに成れるだけの枠組み」を与えるのが、「教育」の役目だと思いますがどうなんでしょうか?
「ホモ・サピエンス」は「知性あるヒト」みたいな意味だったとおもいます。

「自分がエライんだぞ!と思いこんでいるヒト」は、「知性あるヒト」では無いような気がしますね。


こういったことは、おそらく経済や、産業にもプラスに作用するんだと思います。

産業や、経済が行き止まった感じがある現在に置いて、もう少し、発展しようとするならば、こういうところを攻めるしかないんじゃないのかなと。

「やや後退しながらの発展」ということに成るんでしょうけどね。


まぁ、本当は「経済」なんて、どうでもいいことなんだと思うんですけどね。
結果的に「人間」が気持ちよく暮らせる世の中なら、「経済」もある程度、循環していくということじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




スポーツは本当に体にいいのか?



一般的に、「スポーツ」は体にいいということに成っているわけですけど、必ずしも、「スポーツマン」が長生きだったり、病気をしなかったりということでもないようですし、また、「スポーツ」をやっている人の方が短命だという説なんかも聞いたことがあるくらいですから、『本当に、スポーツって体にいいの?』と思ってしまうわけなのです。


本当は、「体にいい」のは「運動」であって、「スポーツ」じゃないんじゃないかと思うんですね。
ほとんど同じものと考えられている「運動」と「スポーツ」が、実は、だいぶ違うんじゃないか?ということなんですよね。


「運動」と「スポーツ」の違いを端的に言えば、「競技性の有無」ということでしょう。
要するに、「運動」の中で「競技性のあるもの」を「スポーツ」と言っているんだと思うわけです。


実際は、「スポーツ」だって、適度にやっていれば、それなりに「体にいい」んでしょうね。
でも、「競技」に成ると、人間って必ずやりすぎてしまうんですね。
それで、「競技性」のない「運動」の方が「体にいい」んじゃないかと思ってしまうわけなんですね。


ここから先は、私の勝手な持論ですから、参考にしないようにお勧めしておきます。

『するわけない?!・・・なるほど』


本当に「体にいい運動」のレベルは、一般的に考えられているよりもずっと低いんじゃないかと思うのです。

たとえば、「ジョギング」なんかで言うと、もっぱら「~キロ」と言う単位でしか語られませんけど、「~百メートル」でも、いや、それどころか「~十メートル」でも、いいくらいなんじゃないかと思うんですね。


そう言うと、『いくらなんでも、それじゃあ何の効果もないんじゃないの?』と言われるかもしれませんけど、じゃあ、実際に『この前50メートル走ったのはいつのことだろうか?』と考えると、「数年前」だったり、ことによると「十年以上前」だったり、ということに成るわけで、その間、毎日「50メートル走っていた人」と比べたら、きっとスゴイ差がついているんじゃないかと思うわけですね。


まぁ、そんな感じで、「ホントニチョットの運動」が一番「体にいい」んじゃないかと思うんですが、「スポーツ」だと、これは難しいですよね。
「5分で終わるスポーツ」って、なかなか無いですからね。


これは、特に「スポーツ経験者」にとって、意外と難しいことだと思うんですね。
つまり、この「ホントニチョット」をキープするのが、意外とできないわけですよね。
どうしても、ヤリスギテしまうんですね。


「スポーツ寄りの人」は、ヤリスギテしまうし、「アンチ・スポーツ寄りの人」は、ゼンゼンヤラナイになってしまうわけです。
それで、なかなか「ホントニチョット」がキープできないんでしょうね。


と言っても、『そんなに健康になってどうするっていうんだ?』と言われれば、『いえ、べつにどうもしませんけど』としか言えないんですけどね。


ただ、私の場合、「長生き」が近年の一つの目標になって来ているので、こういうことを考えるということなんですね。

まぁ、「どうせ長生きするなら健康で長生きしたいなぁ」ということですね。


誰でもそんな風に思ってるでしょうけどね。
私も人並みに、そんな風に思っているというわけです。




「人間のスペック」



パソコンの性能を表すときに、「スペック」と言う言葉を使うことが多いみたいですね。
「容量」みたいな意味なんでしょうか?

その辺はよくわかりませんけど、要するに「性能」を数字に置き換えてわかりやすくしているということでしょう。


現代社会に置いては、この「スペック」に当たるものが、「人間」に対しても当てはめられるケースが多くなっているように思うわけです。

つまり、「人間」が「性能」で判断されているということですね。

『それは、「高機能化した社会」に置いてはある程度仕方ないことなんだ』という考え方もあるかもしれませんけど、結果的に「人間」が「人間的」に暮らせるための「高機能化した社会」なわけですから、「高機能」を優先して「人間」を切り捨ててしまっては、本末転倒なわけで、「社会の機能」を少しぐらい低下させることに成るとしても、やはり、「人間」を「性能」で判断するようなことはあってはならないんじゃないかと思うわけです。


増して、「性能」や「容量」を数字に置き換えた「スペック」のようなもので、「人間」を判断しようとすることには、まったく無理があって、本当の意味での「人間の性能」を完全に否定することにつながっていると思うわけです。


本来、「人間の性能」は、到底、数字に置き換えて測れるようなものではなく、あまりに複雑であるために、「人間の性能」でありながら「人間」にはとても判断がつかないようなものであるわけですから、それを、「人間」が軽々に判断してはならないのではないでしょうか?


それは、「犯罪者を断じる」などの必要最低限の範囲にとどめておくべきであって、それ以上の範囲に広げるべきではないように思います。


それなのに、現代社会に置いては、「人間の性能」を「スペック」的な数値に置き換えて判断しようとする傾向が強まる一方ですね。


「学歴社会」に始まって「資格」や「収入」や「職歴」など、ありとあらゆる「スペック」にガンジガラメにされているように見えますね。


そもそも、こんなにもガンジガラメに縛られた状態で「高機能化した社会」と言えるんですかね。

技術の進歩などを抜きに考えた純粋な「社会の機能」だけで言うと、むしろ、数十年前、いや、百年以上前の社会の方が機能的だったような気がしてくる時がありますね。

と言うよりも、「アリ」や「ハチ」の「社会」の方がはるかに「機能的」なんじゃないかと感じるわけですね。
彼らは絶対に「足の引っ張り合い」をしませんからね。


「人間のスペック」がそういう「足の引っ張り合い」に使われることも多いんじゃないでしょうか?


パソコンを選ぶときに、当然「スペック」のデータを見ますよね。

それで、「ハイ・スペック」=「高機能」  「ロー・スペック」=「低機能」ということに成るんでしょうね。

誰だって、「低機能」なものなんて欲しくないですよね。
(まぁ、ほとんどの場合、予算との折り合いをつけて決めることに成るんでしょうけどね)

そこで、「自分に必要な機能」や「そのためのスペック」がどんなものなのか?ということが抜けてしまうことがあるんですよね。


つまり、「スペック」に足を引っ張られて、「自分に必要なこと」を見失ってしまうわけですね。


こういうことが、実際の「人間」にも起きていますね。


人間同士が足を引っ張り合うのは最も悲しいことなんじゃないでしょうか?
そういう社会であってほしくはないですね。

『そんなことなら、いっそのこと「アリ」や「ハチ」に生まれたかった』

そうは言いませんけどね。
「人間」が好きなんで。
(「人間好き」なのに、どうして「好きな人間」がこんなにも少ないのだろう?)


「人間性」っていう言葉が、ひどく古臭く聞こえる時があります。
あまりに、現実とかけ離れていて、”嘘くさく”聞こえるんですね。

そんなハズないんですけどね。


『だって、みんな「人間」なんじゃなの?』

そんな風に思っています。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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