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「自信」なくてもいいと思うのです

「自信」というと、当然のように「私は〇〇ができる」

と言うことが前提になっているみたいなんですけど、

この「私は〇〇ができる」は、

私には本当の「自信」だとは思えないわけです。


だって「できなく」なれば消えてしまうわけですから、

それほどしっかりした「自信」とも言えませんよね。


ところが、それに反して「できなく」ても平気で「自信がある人」もいるわけですね。

たぶんそういう人は、常に肯定され続けて育った人なんでしょうね。

彼らにはおそらく、「自信」の失くし方が解らないんだと思うんですよ。


「できても」「できなくても」肯定されてきたから、

どうして「自信」を失う人が居るのかが理解できないのでしょうね。


そして、たいていの場合、この「できなくても平気」な人が「できる」ようになるのです。


まぁ、無条件に最初から「自信」満々なんで、実力を発揮しやすいわけですよね。

こう書いてくると「やっぱり自信があった方がいいんじゃないか!?」と成りそうですけれど

じつは、この無条件の「自信」も続かないわけですね。


だって、人からもらったものですから、

それに、その「自信」をくれた人たちは、先に居なくなってしまいますから、

そこから先は、だんだん枯渇してくるわけですよ。

それでも「自信」ありげにしている人は、虚勢を張ってごまかしているわけですね。


だから、もう、そんな頼りにならない「自信」なんて無くてもいいと思うのですよ。

「自信」が有っても無くても、たいした問題じゃないと思いますね。

と思えれば、それが本当の「自信」かな?などと思うのです。


ただ、なかなかそう思えないのが、問題なわけなんですけどね。





理想的な通貨:(妄想です)

タイトルの通り、私の妄想なので現実味のない話になりますけれど、

私は、全てのものに期限があればいいと思っているのです。


例えば、お金の価値とか、金(ゴールドの方ですね)や宝石とか、土地とか、

とにかく、ありとあらゆるものの価値に期限が付けられたら、すごくいいんじゃないかなと思っているわけです。

なぜかと言えばですね、世の中に「絶対的なもの」というのは無い方がよいのじゃないかと思うんですね。

というよりも、「絶対的なもの」なんて本当は無いと思うんですよね。

ところが「無期限の価値」というのは「絶対的なもの」に成ってしまうんですね。

そうなると、人間がそれに蹂躙されてしまうと思うわけです。

「お金」なんて典型的ですよね。


でも、その「お金」に期限が設定されていたらどうですかね。

期限が来れば価値がなくなる(徐々に減少する)としたら、もう絶対的ではなくなるわけですよ。

そして当然、価値が在る(高い)内に使おうとするから、消費が拡大するわけですよね。

それから、価値を代々受け継ぐことができなくなりますから、極端な貧富の差もなくなるかもしれないですよ。

お金に限ったことでもなくて、土地なんかも期限があれば有効活用される率は高くなるような気がしますね。

それにバブル経済というのが、無くなると思うのですよ。

つまり投機ということができなくなるわけですね。


それから、お金を早く使わないとならなくなれば人が欲しいものをいつも見つけようとしますから、

とても好奇心旺盛な世の中になるのじゃないのかなと。

そして、どうせお金を残してもしょうがないから高くても本当にいいものを買うようになるでしょうね。

安物を買って、お金を残しても意味ないですからね。

つまり「悪貨は良貨を駆逐しなくなる」わけですね。


「おぉ、いいことばっかりじゃないですか」

問題は、実現できないということだけですね。

だから妄想なんですけどね。


でも、こんなような考え方を少しでも基盤において、政治や経済を回していってほしいかなと。

それに、現在のあらゆる技術を駆使すれば、それに近いこともできるのかもしれないですしね。

実はデジタル技術やインターネットというのは、こんなことを達成するために生まれたものではないのかなと。

それに気づかないで、見当違いのところでウロウロしているのかもしれないなと。


まぁ、そんな風にも思っております。

間違えました。 そんな風に妄想しております。





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「本能」と「欲望」の違い

「本能」と「欲望」は、ときには似たようなものとして扱われることがありますけど、

実はかなり違うものだと思うのです。

それから、「欲望」は「本能」の中の一つ、というのも少し違うように思うわけなのです。


「本能」は人間(ほかの動物でも)が、生まれながらにして既に与えられている、

情報やそれに基づいた「衝動」といってよいのかと思うのですけれど、

「欲望」の方はというと、「本能」のような人間がもともと与えられている「衝動」を元にはしているけれど、

その「元になっている衝動」を、後天的な自己の「意図」や「意識」によって、

塗り固めて行った末に出来上がったものだと私は考えています。

そして、さらにはその塗り固めた方の要素こそが「欲望」の本質であると考えるわけなのです。

まぁ、あくまで私の考えですけれどね。


当然塗り固めたものが腐敗しているものであれば、

最終的には芯にあった「衝動」までも腐ってしまうわけなのです。

それがいわゆる「欲に溺れた」状態なのかなと。

ただ、よほど腐りきった状態でなければ、そこまではいかないので、

中心に残っている「衝動」(これはほとんど「本能」に基づいていますから)

と同じように扱ってしまいがちなわけなのです。


例えば食欲は「本能的」ですけれど、「食べ物を手に入れよう」と言うのは「欲望」が塗られているというわけです。

でも、この時点では、区別されにくいわけです。(ほとんどその必要もないので)

そこで更に、人のものを奪ってでもそれを手に入れようとすれば、その「欲望」が腐敗しているわけですね。

ここでかなり区別されるようになって来るわけです。

それでも、こういうことを言うと『世の中は「弱肉強食」なのだからそれを悪く言うのはおかしい』

というようなことを言う人がよく現れて出て来るわけですが、

それがまさに「本能」と「欲望」が混同されているということではないのかなと。

しかも、言われた側の人も同じように混同している場合は、

なんとなく釈然としないながらも、認めさせられてしまうことにもなるわけなのです。

そうやってまた、この『「弱肉強食」だから悪くはない』という説が、

社会の中で強化されていってしまうというわけなのです。


でも、これは大自然の摂理のようなものであってライオンは「意図」や「意識」でもって

シマウマを襲っているわけではないわけです。

つまり、ここでは「本能」に近いものしか使われていないのです。

人間には、これはあり得ないと思うんですよ。必ず「意識」が入ってしまうわけですね。

「智」を持ってしまっているということでしょうか。

だから、こちらは「欲望」と言わざるを得ないわけなのです。


それ以前に、「あんた、いつから大自然の中のライオンになったんだよ?」っていう感じですか。

さらに言えば、

「どっちかって言えば、おまえライオンじゃなくてハイエナだろ!」っていうときもあったりしますね。


いずれにしても、「欲望」は人間が「智」を持つが故のものなわけですから、

その「智」を使えば「欲に溺れる」ようなことには成らないのかなと。

ただし、こういうことをいちいち人に言うととても嫌がられます。

あしからず。

  ※ここで言うハイエナとは食物連鎖の中での順列を示すために用いたもので、
    ハイエナが嫌いなわけではありませんので、こちらも、あしからず。



「人間性への愛着」

私はどうも「完全なもの」よりも「不完全なもの」の方に惹かれてしまう傾向があるのです。

それは一言で言えば「人間的なもの」ということなのかもしれません。


矛盾した言い方になってしまうのですが、「不完全なものの中の完全性」とでもいうような、

「崩れ具合が完璧」みたいなのがあると思ってしまうわけなのです。

それから、どうも「完全無欠」なものと言うのが好きになれないと言うのもあるのです。


いずれにしても、そこに「人間性」が見えてきたときにこそ感情移入できるわけですね。

ただし、この「人間性」というのは「人間賛美」の対象となるようなものではなく、

もう少し「不完全性」を強調した意味での、弱くて、さほど美しくもないような「泥臭い人間性」なわけです。

そして、そういう冴えない感じのものが、時として美しく見えたりするのに惹かれるのだと思います。


そして、私はそこに「人間への賛美」ではなく「人間への愛着」を感じているのだと思っているわけです。

「愛着」だから、それ程いいものである必要もないのかなと。

まぁ、そんな風に思っております。



「組織」には意思があると思うのです

ある法則や規則に基づいて集団が形成されれば、それを「組織」と呼ぶことができるのかと思います。


社会性を持った動物や昆虫などもいますから、

人間には限らないのではないのかなとも考えるわけですが、

まぁ、一応、ここでは人間の「組織」ということで。


そこで、よく感じてしまうのは、「組織」の実態はそれを形成している個々の人間なわけですが、

その個々人の意志や意向と、一致しているとは思えないような「組織の意思」と言うものが、

「個人の意思」とは別個に、かなり独立した形で、存在しているということなのです。

もちろん「組織」を形成している「個人の意思」が、全く反映しないわけではないと思いますが、

複数の「個人の意思」が集団内で統合されて一つの決定や判断になっていく過程で、

それが、「組織の意思」に成り変わっていくのかなと。

そしてさらには、その「組織の意思」が「個人の意思」とは

全く別の方向性を持ってしまうことも、しばしばあるように思うのです。


国家や会社などの公的なものから、家族や友達のグループなどの私的で少数のものまで含めて

ありとあらゆる「組織」において、この「組織の意思」が働いていて、

それが、その構成員である一人一人の人間の意思をある意味で無視して、

決定や判断を下しているとしたならどうなんでしょう?


「個人の意思」が無視されるわけですから、当然不満が出るのでしょう。

そして何よりも、そこに本来の「意思」はないということが問題に成って来るわけなのです。


「組織の意思」と言っても、それは「誰かの意思」ではないので、

そこには「意思」としての方向性や統一感は、もともとないわけです。

だから、「組織」内での話し合いの結果「??・・・」という感じの

意味がわからないような結論が導き出されてしまうことがよくあるのでしょうね。


そしてこれが言いたいのですが、ひとたび「組織」によって下された結論となったものは

「個人の意思」で翻すことが難しくなってしまうということなのです。

たとえ、それが、明らかに間違っていても「組織」が下した判断には

従わなければならなくなってしまうわけです。

ある法則や規則に基づいて形成されたのが「組織」ですから、

その法則や規則に従わねばならなくなるわけなのです。


これは、おそらく民主主義が抱えている決定的な問題ではないのかなと。

この場合「多数決」や「話し合い」はあまり役に立たないわけです。

もちろん、それらのやり方が功を奏することは多いのでしょうが、

意外と、それらが〝困った結論"を導き出してしまうことも多いのかなと。

これらのようなケースでは、大抵「まぁ、みんなで決めたことだから」と言って

諦めるというのが、常套手段になってしまっているのが現実でしょう。


これに対して、どうすればいいのかは、そう簡単に思いつきませんが、

取り敢えず、この「組織の意思」と言うものが独立したものとして存在して、

それが自分たちの意思とは無関係の勝手な結論を突き付けて来ることがあるということを、

忘れずに意識していることだけはできることなのかなと。


とにかく、政治や世界の情勢なんかを見聞きするたびに、

いやいや、もっと身近な夫婦喧嘩や、親子や友達同士の間の諍いなどにおいても、

これは、いったい誰の意思でこんなことに成ってしまったのだろう?

というのがとても多いように思ってしまうわけなのです。


そして、それが、もしも実体のない「意思」によって仕向けられてしまっているものだとしたら、

こんなに、バカバカしいことは無いんじゃないのかなと。

そんな風に、思ってしまうわけなのです。





「自信」について

「自信」と言う言葉について、それは自分で勝ち取るものだという考え方と、

それは人から与えられるものであるという考え方があるように思うのです。


「自信」は自分で獲得するものであるとした方が、納まりがいいように思うのですけれど、

「自信」の中でも、絶対的な「自信」みたいなものと言うのは、自力では獲得できないように思うのです。

やはり、普通は誰でも人から褒められれば「自信」が付きますし、

貶されたり、相手にもされなかったりすれば、それは徐々に失われていくわけです。

そんな中でも揺るがない「自信」と言うのは、なかなか自分では養えるものではないように思います。

それが天性のものなのか、幼いうちに、どこかで与えられたものなのかはわかりませんが、

そういう絶対的ともいえる「自信」を持った人というのも、確かにいるのだと思います。


でも、私はそういう〝スーパー"な人よりも、ごく普通の人の方により興味があるので、

やはり、「自信」はその都度与えられるものであるという方の説を取ってしまうわけなのです。

まぁ、私自身が何を言われても動じない「自信」なんて持ったことがないということですね。


私がやっと持っていられるのは「できなくてもいいじゃないか」という

「自信」と言えるのかどうかも、怪しいような感じの「自信」ですけれど、

普通の人間が、自力で自分に与えられる「自信」はこれぐらいしか無いと思うのです。

これぐらいだったら、その都度人から与えられなくても自前で何とかまかなえそうな気がします。


だいたいが「できる」「できない」で人の価値を判断しすぎるように思うのです。

何かができても偉いとも思いませんし、

何かができないからと言って、その人をダメだとも思いませんが、

どうしても、そこに価値基準が偏ってしまうので、

「できる」と「自信」も付くけれど「できない」と評価されないから「自信」も失う。

当たり前と言ってしまえば、それまでなんですけれども、

そこで、人間性が抜け落ちてしまう傾向があるように思うのです。


だから、私は「自分は悪い人間ではないから、それぐらいで十分だから、できなくてもいい」

と思っているわけです。

それ以上に立派な人間になりたいとは思いませんし、

そういう立派な人と言うのは、居ると言われてはいますが見たこともないし、成れるとも思いませんから、

このぐらいで十分だというのは、私にとってはやはり「自信」の一種なわけです。


そして、こういう「自信」も結構好きです。



「協調」と「妥協」

「協調」することと「妥協」することは、ずいぶん違うことだと思うのです。


二つの意見が、一致せずに対立したとき必要とされるのが「妥協」と言われるわけですけれど、

実は本当に必要なのは、「協調」なのではないのかなと。

個人的な解釈ですが、私は、「妥協」と言うのは「重要でないことを適当にやること」だと思っているのです。

それに対して「協調」は、二つの意見を、お互いに理解して尊重し合った上で、

調整していくことだろうと思うのです。


重要でないようなことには、「妥協」で十分だと思うわけです。

自分に対して「妥協」した場合でも、相手に対して「妥協」した場合でも、

重要なことでなければ、適当に折れても大した問題にはならないように思うわけですね。


でも、これが重要なことに対してだと、「妥協」では不十分になってくることが多いと思いますね。

自分で納得していないのに「妥協」してしまったり、

相手の言うことを理解してもいないのに、面倒臭くなって「妥協」してしまったりすると、

多かれ少なかれ、あとになってから、たいてい後悔することに成るのかなと。


やはり、そんなときには、とても面倒なわけですが、

相手の意見を理解できるまで聞き、自分の意見も伝わるまで言い続けると言う、

かなり遠回りな方法が必要になってくるように思うのです。

しかも、それからさらに理解し合った意見を調整する必要があるわけですから、

こういう「協調」には、相当の労力を要するわけですよね。


その結果として、通常「妥協」が使われてしまうのだと思うのですけれど、

ここでの「妥協」が、それ以上に大きな後悔や労力を生む場合が多いので、

重要なことには、「急がば回れ」で「協調」を使った方がいいように思っているわけですね。


そして、もう一つ言えることは、「妥協」は何も生み出さないけれど、

「協調」は、何かを生み出す可能性があるということかなと。

「妥協」はどちらかが一方的に折れるだけですから、何かを生み出すことは、まずないと思いますが、

「協調」して、二つの意見がうまくかみ合ったときには、新たなものが生まれる可能性はあると思うわけです。

そんなにうまくいくことばかりではないにしても、

「協調」の結果の結論と言うのは一つの進歩ではあるように思うのです。


ここでの、問題は「協調」する気がない人と言うのが居ることなわけですけれど、

そんな人に対して「妥協」したとしても、いい結果が得られることは無いのでしょう。


それにしても、世の中が「妥協させる人」と「妥協させられる人」に分かれてしまっているように思うのです。

「協調する習慣」が、もっとあってもいいのではないのかなと。

そんな風に思っているわけなのです。




討論する習慣

日本人は議論や討論が苦手だとよく言われますけれど、

確かにもう少し本質的な話をするような習慣があった方がいいのではないのかと思うわけです。


また、「何も考えない人間が多すぎる」というのもよく言われますが、

実はこれも、初めから考えないのではなくて、ある程度のことを考えていても、

その考えを人と議論したり討論したりして、発展させる機会がないから

一つの考えから変化することがなくて、平滑で一辺倒な考えに留まっているために

何も考えていないように見えてしまうのではないのかなと。


やはり、自分だけの思考回路の中で考察を展開していけば、

当然、同じ様なパターンの考え方しか出てこないわけなのです。


だから、小さな子供のうちにとは言いませんけれど、

ある程度若い段階から、討論を習慣づけた方が良いのではないのかなと。

小学校高学年ぐらいでも、真面目に話をさせたら結構話すんじゃないかと思うわけです。

そうやって習慣になっていれば、大人になって何も考えないとか議論できないとか

ということも少なくなるのじゃないのかなと。


人間って、やっぱり教わったことはやるけれど、

教えられてないことはやらない性質のある生き物だと思うわけです。

議論の内容は教えられないかもしれませんけれど、

その場を作ることはできるのではないのかなと。


こういうことを教育関係者の人に言ったら、

「今の学級崩壊したようなクラスでそんなことは到底できない」とか、

「そんなことしても誰もまともな話なんかするわけがない」

と言う答えが返ってきそうなんですけど、

実際は、意外な子供が意外な話をし始めたりすることだってあるのじゃないかと思うのです。


こどもに限らず、習慣として議論や討論をしていない人が、いきなりそういうことをすると

どうしても、ただの言い争いになってしまうと思うのです。

なんとか相手の理論の弱点や矛盾点を見つけ出して、足をすくってやろうとしたり、

自分の説をまくし立てて、相手をやり込めようとしたりしてしまうわけですね。

でも、それは議論でも討論でもないと思うのです。


やはり、主張が異なっていても、そこに話の展開が生まれなければ討論の意味がないわけです。

話が発展していったり変化していったりすることで初めてプラスに成るわけで、

ただ、相手の論を打ち砕いたり自分の言い分を通したりしたのでは、

一人で考えたことから大して変わっていないということに成ってしまうわけです。


自分の主張を述べながら、相手の主張にも耳を傾け、

その中で議論を展開するには、慣れるしかないと思うのです。


でも、教育の場に限らず、そんな場所ってほとんどないと思うわけです。

場所と言うよりは、そういう空気がないのかもしれません。

一人でそんな雰囲気を醸し出してもあまり意味がないので、

誰もそういうことはしなくなっていくのでしょう。


でも、もっと自分の内側にある話を、人に対して出していけるようになった方がいいような気がするわけです。

子供の場合と同じで、意外な人が面白い話を持っているということはよくあることかなとも思います。


それから、案外いいストレスの解消法に成るような気もするのです。

自分のうちにあるものを外に出すということは、最高のストレス解消に成るはずなわけですから、

それが、言い争いになったり、単なる愚痴のように成ってしまわない限り
(まぁ、それでもいいのかもしれませんが)、

きっと、かなり発散できるのではないかと思うわけです。


これからのストレス解消法は、カラオケじゃなくて議論や討論かなと。

そういう日常の中に、もう少し真剣に話す「場の空気」があればいいんじゃないのかなと。


そんな感じもあるんじゃないのかなと思ったりしています。




事実は曲げられないということ

「事実を捻じ曲げることはできない!」と言うと、

「はい、それは確かにそうでしょうね」ということに成って、

そこで話が終わってしまうわけですけれど、

実際には、「事実は捻じ曲げられているのではないのか?」

と言う疑いを完全に断ち切るのは、簡単ではないわけなのです。


現実に、世の中を見渡せば、情報操作や捏造された報道、独り歩きした噂話の類まで、

いろいろな種類の「捻じ曲げられた事実」が沢山あるわけです。


でも、やっぱり「事実は曲げられないよ!」と、私は思うわけなのです。


現在の世の中では、マスコミやインターネットと言う、確保された中立性を持たないシステムが、

社会に流通する情報のほとんどを、を循環させているといってもよいと思うわけですが、

そこに、「正義」や「正しい」があるとは限らないわけですし、

それらのシステム自体は、ほとんど何の審査機能も持たないわけですから、

そこに、何らかの「正しい」があるとしても、

それは偶然に頼ったものだと言わざるを得ないわけなのです。


そんな中で、どうして「事実は曲げられない!」と言うのかと言えば、

「事実」は、情報でも、それによる人の認識でもなく、

厳然とそこに既にあるものだからなんですね。


つまり、操作された情報や、それに振り回された人の認識と言うのは、

「事実」とは無関係のもので、「曲げられている」のは、

「事実」ではなくて、人の認識や判断なわけです。


童話の「裸の王様」で、民衆の意識をコントロールして、

「王様は素晴らしい衣装をお召しになっておられる」と言わせることはできても、

「王様が裸だ」という「事実」は変えられないように、

やっぱり「事実」は変えられないわけなのです。


そして、そこで王様の着てもいない服を褒めそやしている人たちは、

実際に、見た服を褒めているわけでも、

本当にそれを美しい服だと思っているわけでもなくて、

と言うより、見ていないものを褒めることなどできるはずもないのですから、

ただ単に、その場の流れに調子を合わせているだけで、

彼らの中の「事実」も、本当は「王様は裸だ!!」なのだと思うわけです。


でも、このことを芸術の話に置き換えると、さらにおかしなことに成ると思うのです。

芸術においても、このような「曲げられた事実」ならぬ「曲げられた認識」は存在すると思いますけれど、

芸術の目的自体が、何らかの意味で「真実」を追究することだとするのであれば、

もうそれは根底からおかしなことに成ってしまうわけです。


「事実」をより厳密に追及していって、

「真実」にまで到達しようというのが芸術であると、私は思っておりますが、

その芸術が、「事実」すら見ようとしないのであれば、

そこに何の意味もないわけです。


王様が裸に見えたら、「王様は裸だ」と言うのが「事実」なわけです。

そして、それは曲げられないのだということです。


ですから、「裸の王様」を見たときに、

その衣装を褒めちぎっているような人を見かけたら、

「でも、服着てませんよね」と言ってみてください。


それが、どんなに当たり前のことでも、

それを言うと、きっと、非常にあからさまに嫌な顔をされます。

なぜなら、その人たちも「事実」を曲げることができないから。


私は、そういう風に判断しています。



人生で、回数が決まっていること

ある時、ふとしたことで思ったのですが、人生の中で、食事の回数はだいたい決まっているなと。

だとすると、一回美味しくない物や食べたくない物を食べると、

結果的においしいものを食べる回数が一回減ってしまうわけで、

それを意識するようになってからは、極力、食べたくないものは食べないようにしているわけなのです。
(私はほとんど嫌いなモノがないので、これは「好き嫌い」の話ではありません)


でも、これはよくよく考えると食事に限らず、いろいろなことに言えているようにも思うわけです。

例えば、寝る回数や風呂に入る回数などかなりのことについて、

回数がだいたい決まっているようにも思えるわけです。


私の場合は、食べ物に対する執着心が強いので、

さほど美味しくもないものを仕方なく食べるところまではギリギリ我慢できても、

それで美味しいものを食べる回数が一回分減ってしまうのだと思ってしまったら、

それは、もう我慢できる範囲ではなくなってしまったわけですね。


今のところ、食事以外で、具体的にやっていることは無いのですけれど、

このような考え方で、「その一回」を大事にできるようになっていければ、

人生が充実していくのかもしれないですね。


私は、「いまさら充実しなくてもいいよ!」とは、まったく思わないので、

生きている限りは、「その一回」を意識していくのだと思います。


そして、生きることの話から正反対の側に話は飛びますが、

死ぬときには、いい死に方をしたいと思うのです。

どういうのがいい死に方なのかは、わかりません。


でも、回数だけはわかっています。

死ぬ回数は一回です。



輪廻転生という考え方もあるでしょうが、

私は、「限られた時間」・「限られた回数」・「限られた分際」に閉じ込められた

「限られた人生」を生きているという意識で考えております。


何度も生まれ変われると思ってしまうと、

たぶん、私のような人間は[じゃあ、また次の機会に」となってしまうと思いますから。

実際、「限られた人生」の中でさえ

「まっ、それは、また明日」ということが多いし。


「はい、今やれることをやりましょう。」

「できないことはできません。」

と言う風に思っています。




「かえって、めんどくさい」というパターン



「かえって、めんどくさい」と言うのがよくあるわけなのです。


何かしている人に、「このやり方の方がいいですよ」なんて言うと、

よく「かえって、めんどくさい」が返ってくるわけです。
(と言っても、私自身もよく言っていますけどね)


本当に「めんどくさい」ことならわかるのですが、

あきらかに簡単で「めんどくさくない」ときでも、

やっぱり「かえって、めんどくさい」と言う答えが返って来るわけです。


慣れないやり方が「めんどくさく」感じるというのもあるかもしれませんが、

どちらかと言うと、「人から言われるとやりたくなくなる」という感じなわけです。

そういうときの人の表情が、きまって「意地っ張りな顔つき」になっています。


でも、それだと、いつ進歩するんですかね?

人間は、人から言われたことをヒントに進歩することがほとんどだと思うのですが、

「人から言われるとやりたくなくなる」だと、かなり機会が減ると思うわけです。


そんなに「意地っ張り」ならば、とりあえず人に言われたやり方でやってみて、

その後、もっといい方法を編み出して教えてくれたらとても役に立つと思うんですが、

「かえって、めんどくさい」と言ってそこで終わってしまえば、

お互いに、なんの役にも立たないわけです。


だから、「かえって、めんどくさい」は、

本当に「めんどくさい」とき以外は使わないでほしいなと。

そんな風に思いますです、ハイ。



政治の力量

政治を行っている政治家も、その政治家を選んでいる国民も、

現代の「政治の力量」を少し大きく見積もり過ぎているように思うわけです。


現在、「政治の力量」は、一般的に考えられているよりも遥かに小さいのではないかと思うわけです。

本当は、そんなことじゃいけないのかも知れませんけれど、

期待し過ぎなんじゃないのかなと思ってしまうわけです。


新しいタイプの政治家が現れたり、大物政治家が新党を立ち上げたりするたびに、

国民の期待を集めるということがあるわけですけれど、

考えてみれば、歴史を遡ってどこまで行っても、

政治はいつも、権力闘争と、腐敗を繰り返していたわけで、

それが今さらクリーンな政治が実現されるとは到底思えないわけです。


また政治家の側も、財政改革だとか行政改革などと言う、できもしないようなことを、

いつも追い求めているように思うわけです。


実際には、政治がその国を発展させたり、その国の地位を向上させたりしてきたのは、

ほとんどの場合(すべての場合と言ってもいいのかもしれませんが)、

戦争や植民地政策・外交などにおいて、上手く立ち回った場合であって、

要するに、他国の犠牲のもとに成り立っている発展であったと考えるべきだと思うのです。


それらの不均衡を前提にした政治からようやく脱却しつつある現在、

露骨な形で他国の犠牲を強いるような政策は、とれなくなっているわけで、

そうなるとできることが限られてくるわけです。


だから、現在の「政治の力量」は、考えられているよりもかなり小さくて、

ほんの些細なことをするのが、精いっぱいなのではないのかなと。


だから、政治には、今考えられているよりもずっと小さなことを、期待した方がいいように思うわけなのです。

その小さなことを基礎にして、もっとスケールの大きな政治が行われるようになれば、

それは素晴らしいことなのでしょうが、

そういうことを期待できるようになるのは、かなり先のことのような気がします。


それにしても、毎回毎回、目先が変わるたびに、

よく期待できるよなと

どうしても、そう思ってしまうわけなのです。




「健康」について

何かにつけて、「健康」の大切さが身に染みている今日この頃なわけです。


「健康」が大事なのは当たり前のことなのかもしれませんが、

人間の場合「体の健康」と「心の健康」の両方に気を配らなければならないので、

そこの所が特に難しくなっているように思うわけです。


ただ、言葉の上で「健康」と言ってしまうと

「完全な状態」が「健康」で、「不完全な状態」は「不健康」のようになってしまうのですけれど、

「完全な状態」などは、ほとんどないわけですから、

実際は、「不完全な状態」の中での健康を「健康」と言っているわけなのでしょう。


「一病息災」みたいな感じですか?

でも、実体としては「二病」でも「三病」でも「息災」であればいいように思うのです。


「息災」って何なんだかよくわからない言葉なわけですが、

それでも取り敢えず「息災」ならいいんじゃないの?と言うところですかね。


重い病気の人に関しては、

可哀相だと思うのもかえって失礼なようにも思いますし、

逆にそう思わないのも非道なことのようにも思えて、

そこの所の判断は付きませんけれど、

少なくとも、かなり重い病気の人の中にさえ「息災」はあるのだと思うわけです。


そして、「体の病気」についても「心の病気」についても言えることだと思いますけれど、

病気であることを自覚していることは、とても「健全なこと」のように思うわけです。

もっとも「病的」なのは、「病気」を自覚できないことだと思うのです。

そして、そこには「息災」はないように思います。


自分の「病気」を自覚できている人と言うのは、

どこか「健康」な気がしてしまうのです。

それは、ただ「頑強」ではないというだけで、

「健康」に近いのかなと。

そんな風に思ってしまうわけなのです。


「病気」と言うのは完全に克服しなくても、

自覚して把握してしまうと「病気」とは言い切れなくなってしまうようなところもあると思うのです。


もともと、全ての命は、生まれた瞬間から「死」に向かっているとも言えるわけで、

「病気」があってもなくても はじめから「余命〇〇年」なのだと思うのです。

ただ、若いうちはその「〇〇年」が長いと思っているというだけのことなのでしょう。


だから、どんなに健康な人でも生まれたときには、もう「余命100年ぐらい」なわけで、

その人が50歳なら「余命50年ぐらい」なわけです。

それと「余命3年」というのとがどれほど違うことなのかはわかりませんけれど、

少なくとも、みんな”期限付きの人生”を生きているのは同じなわけなのです。


つまり、全ての人が「余命〇〇年」の「病気」の人生を生きているとも言えるし、

逆に、全ての人が、”不完全な”「健康」の人生を生きているとも言えるわけです。


だから、そういう感じで「病気」を把握してしまうと、

あとは人生の期間が長いか短いかと言うだけの問題なわけです。


人生の長さは絶対的なことでもないと思いますけれど、

「健康」を大切にしていないと、「病気」を把握することもできないので、

やっぱり「健康」は大切にする方がいいのかなと。


そう思う、今日この頃なのであります。



人に期待すること

人に期待すると、その期待を裏切られたときに、辛い思いをしたり、腹が立ったりするから、

人に期待しない方がよっぽどいい、という考え方があるわけです。

でも、期待しないのって、かなり難しいのではないのかなと思ってしまうわけなのです。


人間は、人に期待してしまうものだと思うのです。


もし、期待しないでいられるほど強い人が居るのなら、

おそらく、期待を裏切られたことぐらいは、屁でもないでしょう。


それから、人に一切期待しないと言うのは、とても冷たいことのように思ってしまうわけです。

感情を無理に”抑圧”しているように思えてしまうのです。


たぶん、そんな風に考える人と言うのは、

ナイーブな人で、傷つきやすいのだと思うわけですけれど、

そうであればなおのこと、

一切期待しないなどと言う無感情で冷たいことは出来ないように思うわけなのです。


だから、人に期待するときには、相手をよく見て期待するというのがいいのかなと。

と言っても、「期待に応えてくれる相手かどうか」を見るのではなくて、

その人になら「期待を裏切られてもいいと思えるかどうか」を、よく見極めるのがいいと思うのです。


先ほど、人間は人に期待してしまうものだと言いましたけれど、

実は、人間は、嫌いな人や全く感覚の合わないような人には、

ほとんど期待しないで居られるとも思うのです。


やはり、自分の好きな相手や同じ感覚を持っていると思っている人には、

ついつい期待してしまうのだと思うわけです。


だから、そういう人には期待した方がいいように思うわけです。

そういう人になら、期待を裏切られても、そんなに腹も立たないのかなと。


もしも、相手に悪気が無いのに結果だけが悪かったという場合であれば、

”期待を裏切られた”側と同じぐらいに、

”期待に応えられなかった”側も傷ついているかもしれないわけですから、

それは悲しい結果ではあっても、「もう、こんなやつには期待しない」ではなく、

「もう一度、この人に期待してみよう」と思えるのではないのかなと。


また、もしも、その人が自分の思っていたような人ではなくて、

自分を深く傷つけるような裏切り方をしたのであれば、

即、「嫌いな人リスト」行きなわけです。


人に期待することは、その人に対する評価をあらわしていると思うのです。

だから、期待しないということは、その人の評価が「0」であると言っていることに成ってしまうわけなのです。


人に期待することは、好きな人を高く評価するというとても人間的なことなのかなと。

それは、とても温かみのあることなのではないのかなと。


人に期待したり、人から期待されたりすることがなくなってしまったら、
 
かなり無味乾燥な世の中になってしまうのかなと。


そんなに、傷つくことを恐れなくても生きて行けるような世の中になればいいんですけど、

それでも無味乾燥なよりは、いいのかもしれないのですから、

こんな世の中であっても、期待し合って生きてゆくというのもありなのかなと。


そんな風に思っているわけです。



一気圧のプレッシャー

普通に地球上で生活していると、いつも”一気圧のプレッシャー”がかかっているわけです。

でも、これは「大気圧」だけのことでもないように思われるわけなのです。


世の中にはもう一つ、社会がかけている”一気圧のプレッシャー”もあるのかなと。


みんな、生まれてこの方ずっと”一気圧のプレッシャー”を受けていますから、
(高地民族とかいう話は抜きにですね)

それをあえて意識する人は居ないわけです。


情報として、「大気圧」と言うものを知っているから理解できますけれど、

それが無ければ、たぶん自分に四六時中「圧力」がかかっているなんて考えないと思うのです。


それと同じように、いつも社会から受けているのに、

全く意識されなくなってしまっている「圧力」と言うのがあると思うわけです。


「社会」は、常に「時代」が指し示している方向へと流れていくものだと思うのです。

そして、その流れの水圧が、「社会の中にいる人間」にはかかっていると思うわけです。


でも、はじめから「社会」の中で生まれて「社会」の中で育つわけですから、

「大気圧」と同じで、流れの中にいることも、その流れの水圧によって流されていることも、

意識することすら無いわけです。


そういう”一気圧のプレッシャー”が時として、

「社会」に生活している人間を、知らず知らずのうちに蝕んでいるように思えるのです。


それが”一気圧のプレッシャー”である間はまだいいのですけれど、

いつの間にか「高気圧」に包まれていたり、

「低気圧」が張り出して来たり、ということがあるわけです。

でも、普段から全く意識されていませんから、

そういう「気圧変動」になかなか気が付かなかったりするわけなのです。

それで蝕まれてしまうのだと思うのです。


ひょっとしたら、この”一気圧のプレッシャー”から逃れることを

「自由」と言うのかもしれないなと、そんな風にも思うのですが、

人は「社会」の中でしか生きられないとも感じていますから、

逃れる術はないとも思ってしまうわけなのです。


唯一出来そうなことと言えば、

この”一気圧のプレッシャー”を感じながら生きてゆくことでしょうか。

それは、「自由」への”まなざし”を持って生きることでもあると思います。


叶わぬ「自由」を望みつつやっていくというのも、

悪くはないのかなと。


そんなことで、一応納得したような感じ。




「持論」を持つこと


「持論」を持っている人の話には、ついつい引き込まれてしまうわけなのです。

世の中に、これだけいろいろな情報が溢れていても、

その人にしか語れないような、独特な言葉と言うのがあると思うのです。


そういった、いわゆる「持論」と言うのは、

「ある種の自己満足」だったり、「勝手な思い込み」だったりすることもよくあるわけです。

それに、なんと言っても、”何の役にも立たない”場合が非常に多いわけです。


それなのになぜか、「持論」や「持論を展開する人」には、

惹きつけられてしまうわけなのです。


たぶん、それは、その人が丸ごと出てしまっているような、

そういう人間的な雰囲気に、惹きつけられて「おもしろいな」と思ってしまうのです。


本に書いてあるような”マトモ”なことだと、言っていることは正しくて役にも立つのに、

自分がもともと興味のあることでない限り、引き込まれるということは、めったにないわけですけれど、

「持論」的なものに出会うと、けっこう理屈が”デタラメ”でも、

私は、ついつい引き込まれて、聞かされてしまうのです。


それは、その話の内容が独創的ですごく面白いからとか、

ユニークで今までに一度も聞いたことも無いような話だから、と言うのではなく、

内容的にはありふれた話でも、その人独自の視点みたいなものがあって、

「その話の中で、なんであえてそこにこだわりますか?」と言うような、

その人にしか醸し出せない雰囲気にやられてしまうわけです。


だから、その話が”デタラメ”でも気にならないわけです。

むしろ、”デタラメ”な方が面白いことが多いくらいです。


もちろん、その「持論」を、何らかの権力を笠に着て振りまわすというのは論外ですが、

そういう人が振りまわすのは、往々にして「持論」ではなく、

教科書に載っているような話なのです。

だから、まったく惹きつけられません。


”デタラメ”な「持論」の方が、よっぽどいいです。


そして、できることなら、みんながそれぞれの「持論」を持つようになればいいと思います。

教科書に載っていることを言っていれば”ツッコマレなくて”安心だから、

みんなが教科書の中に”ヒキコモッテ”しまって、

本当は心の中に持っているはずの”デタラメ”な「持論」を隠してしまっていると思うのです。


人から見たら”ツッコミどころ満載”の「持論」こそが、

本当のその人の「丸ごとの姿」で、その人にしか語れない言葉だと思うわけなのです。


教科書に載っていることは、学校で学ぶだけでもう十分なので、

みんなで”身勝手でデタラメな”「持論」を展開したらいいんじゃないのかなと。


そういう世の中って、なかなか無いけど、けっこうイイんじゃないのかなと。

『いや、良くはないか?』

『いやいや、良くないところがイイんじゃない?!』


そんな風に思います。




「精神」は受け継がれることで生き続ける

他の記事で「精神世界」は「劣化しないんじゃないか?」ということを書いたんですが、

正確には、「精神」は受け継がれなくなったときに「劣化」するのだと思います。


「精神世界」は物質ではないので、

時間とともに「劣化」することは無いと思っているわけです。


ただし、それは、その「精神世界」の所有者本人の存在を前提にしてのことであって、

本人亡き後に、その「精神」が受け継がれなくなれば、

それは希薄になって最終的には消えてしまうのだと思います。


逆に言えば、受け継がれる限り”無期限”で存在し続けるということになるわけです。

そして、そういう長らく受け継がれた「精神」と言うものには、

計り知れないほどの量の情報が内包されているのだと思うのです。


だから、何かを”受け継ぐこと”によって、

得られるものが、唯一人間を推し進めることが出来るものなのかなと。


そして、「精神」が受け継がれることで、

「物質」が”滅びていく様”が美しくなるのかなと。


じつは、「受け継がれる精神」と「滅びゆく物質」の二つだけが、

この世にあって、美しいものなんじゃないか?とすら思うわけです。


だから、その二つが一体となったものは、さぞ美しいに違いないと思うわけですね。

そういうのを目指したら、「芸術」に成るんじゃないのかなと。

そんな風に思っています。




「その人にしか出来ない仕事」

前に書いた記事の中で、「仕事なんて誰にでもできるものだ」と書いたのですが、

それは「だから、それでいいのだ」と言うこととも違うわけなのです。


それは、あくまでも、現在一般的に言われている「仕事」について言ったわけで、

本当は「その人にしかできない仕事」と言うのがいいと思ってもいるわけです。


ただ、そういう「職人仕事」と言うのは、

組織の中での「仕事」とは相容れないものなので、

現在の、組織化した社会においては、意味が希薄になってしまって、

そうした「職人仕事」は、特殊なものと言う印象が強く、

一般的とは言えなくなっているわけです。


出来うることならば、そういった「その人にしかできない仕事」が一般的なものになって、

ごく普通の「仕事」=「その人にしかできない」

であって欲しいとは思うのですが、

それには、まず「社会の効率化」と言う考えを捨てる必要があると思うわけです。


そして、そのためにも、”現在形の”「仕事ができる」を止めた方がいいように思うということなのです。


もう、人間は効率を犠牲にしても十分”楽して”やっていけるように思うのです。

例えば、貧富の差を均等にならしたとしてもですね。


そんな中で、

みんなが一つずつ「その人にしかできないこと」を持っているというのは、

とても豊かなことなんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




人間は最終的に孤独なのか?

「人間なんて、最終的には孤独なものだ。」と言う話はよく聞くわけです。

そして、その通りだとも思うわけなのです。


当然、死んでゆくときは一人ですし、

その人がどのような人生を歩んできたのかも、

あまり関係なくなってしまうという感じもするわけです。

だから、当然、最後には孤独であることに間違いないと思うのです。


でも、このところ「そうでもないのかな?」と思っているわけです。


今言ったように、孤独であるということは、間違いのない事実なわけですけれど、

反面、それとは逆の方向から考えて、

「人間は完全に孤独になれるのか?」と言う疑問が出て来たのです。

そして、「完全に孤独になるということもできないのだろう」と思うわけです。

それもまた、事実に違いないように思えるというわけです。


人間は、社会の中でしか生きていけないものだと思っておりますので、

社会から隔絶した暮らしをしようとしたとしても、

それは、そう簡単にはできないようになっているわけです。


そう考えると、

まぁ、あえて社会とのつながりを断って生きたい、または、死にたいということでない限り、

そう簡単に孤独にはならないようにも思えてくるわけなのです。


結局、孤独なのか孤独じゃないのか、そのどっちなのかはわかりませんけれど、

たぶん、その中間なんじゃないのかなと。


だったら、あえて孤独と言うほどでもないのかなと。


これからは、「人間は、所詮死んでいくときには孤独だから」

と言う意識を持つのは、止めてしまおうと思うのです。


私は、孤独ほど恐ろしいものはないと思っていますので、

これは、とてもうれしい感覚で、

これに気が付いてとても良かったと思っております。


だって、孤独になろうとしても、そう簡単にはなれないということですから、

私のように、孤独を恐れている人間が、

孤独になるはずもないということなわけで、

だったら、かなり安心していいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「適正価格」について

前の記事で、「文化」にも「適正価格」があるのではないかと書いたわけですが、

これは、他の物にも言えることだと思うわけなのです。


このところ、景気が良くないせいか、

商品の価格が低めに設定されている店が多いと思うのです。


私のような貧乏人にとっては、ありがたいことなわけですけれど、

反面、「こんな価格で売るためには、どんなコスト削減をしているのだろうか?」

と考えると、到底いい原料を使っているとも、

手間のかかる製造工程を踏んでいるとも思えないわけなのです。


それでも、やっぱり同じ種類の商品の中で一番売れるのは、

一番値段が安いものなわけで、

それは、ほぼ鉄則と言ってもいいわけです。


結局、消費者は品質の低い商品を買う羽目になってしまうわけです。


もちろん、高品質、高価格の商品を買えばいいわけですけれど、

そちらは、たくさんは売れませんから、

どうしても品質以上に割高になってしまうわけなのです。


そうなると、安いものを買った場合も、高いものを買った場合も、

どちらも「適正価格」とは言えないわけです。


大多数の人が満足する品質と言うのがあると思うわけです。

そして、それを製造するのに適正なコストと言うものもあると思うのです。

更には、そこに上乗せされる利益についても「適正」があると思うわけなのです。


つまりは、そういった、

「大多数の人が買うことができて」

「大多数の人が満足できて」

「大多数の企業が製造することが出来て」

「大多数の企業が順当に運営していくことが出来る」

ような、言ってみれば、一番”マットウな”商品が、

ほとんど市場から締め出されてしまっているわけです。


だから、もう、価格競争の時代ではないと思うのです。


何かしらの”公”な機関がなるべく多くの品物について、

「適正価格」を決めて、その中での品質や、コスト削減で、競争していくべきだと思うわけです。


そうすれば、値段が同じなわけですから、

当然、消費者は品質のいいものしか買わなくなるわけです。

だから、コスト削減といっても、品質を落とすようなやり方をすれば、

あっという間に売れなくなってしまうでしょう。


つまり、高品質なものを作った企業の製品が売れて、

そこで、なおかつ品質を下げずにコストを下げられれば、

その分だけは利益が増すというわけです。


もともと「自由競争」とか「自由経済」とは言ってきましたけれど、

実際には、なんだってほとんどのものが、より大きな企業の独占状態だったわけで、

より小さな企業が入り込めるのは、大きな企業が見落とした”チッチャイ隙間”だけだったわけで、

ちっとも「自由」なんかじゃなかったと思うのです。


だったら、「不自由になってしまった自由」を規制する枠組みがあってもいいと思うのです。

その中で、生産者も消費者も双方が「???」にならない範囲で出来る

「品質の競争」が展開されるようになればいいのかなと。


もともと、日本は「物づくり」には長けていたわけですから、

そういう「品質の競争」が展開されるようになれば、

世界に対しても、力を発揮できるんじゃないのかなと。


これは、日本だけが有利になるとかいうことでもなくて、

世界経済の中で見ても、

「資本主義経済」や「自由主義経済」の行き詰まりのなかで、

誰も根本的な打開策を考えようとしてこなかったと言う事実があるわけです。


「自由」と言う言葉が「ご神託」のようになってしまって、

それに対する解釈を、

柔軟に”時代に対応した”ものに変化させることが出来なかったことで、

”落とし穴”が出来上がってしまっているのだと思うわけです。


そして、そういう”落とし穴”を塞がないで、

その場だけを乗り切るための経済政策ばかりを展開し続けてきたわけです。


別に、他国と比べてどうということではなく、

日本の本来の特性が生かされているようには到底思えない状態が

もう、ずいぶん長く続いてしまっているように思うわけなので、

そろそろ、あるべき姿に帰ってもいいんじゃないのかなと。


そして、それは世界中のあらゆる国々で同じことが言えるのじゃないかなと。

そういうことが言いたいわけなのです。


いや、違います。

本当に言いたいのは、

「経済」のことなんかじゃないわけです。


ただ単に、「いいものを作ろう」という純粋な気持ちでもって、

「物を作る」っていうだけのことなわけです。


そういうことが、世界中から消えていきつつあるように感じてしまうので、

何とか取り戻せないのかなと。


そう思って言ってみたわけですね。





「助け合うこと」は「人間の習性」だと思うのです

「助け合い」とか「思いやり」とかという話になると、

そういうことを、かなり強い口調で否定する人が居たりするわけです。


そういう人たちの主張で、多いのは、

「そういうのは偽善だ」とか、

「そんなことをしても相手のためにもならない」とか、

「弱肉強食や自然淘汰と言った摂理に反している」

と言ったものだと思うわけです。


要するに、「助け合い」や「思いやり」は”不自然な”行動で、

それらをしない方が、よほど”自然な”ことだと言っているのだと思うわけです。


でも、時として、そういう人たちの行動が

とても”無理している”ように見えるときがあるわけです。


実際には、「助け合い」や「思いやり」も、

もう、とっくに「人間の習性」になっているのだと思うのです。

それらは、「弱肉強食」や「自然淘汰」と対等なぐらいに、

「人間の習性」として浸み付いてしまっているのだと思うわけです。


だから、それらをあまり頑なに避けようとすると、

かえって無理をしているように見えてしまうのかなと。
(しかも、これは「助ける側」だけではなく、「助けられる側」の人にもよくあります)


だから、「助け合わない」とかえって”不自然に”なるような時だけでも、

「助け合って」いけたらいいんじゃないかなと。


そんな程度でも、ずいぶん”ギスギス”した感じがなくなるように思うのですが、

どんなもんなんでしょうか?



「エンターテイメント」の「嘘」はどこまで許されるのか?

「エンターテイメント」は時と場合によって、「嘘」を許されている文化だと思うわけです。 

ところで、その「嘘」はどこまでが許容範囲なのでしょうか?


例えば、時代劇で「剣豪」を演じる役者に、

”本物”の剣の達人であることを求める人は少ないでしょう。

まして、殺陣のシーンで”本物”の刀を使わなければダメだと思っている人はほとんどいないでしょう。


でも、時代劇でもボクシングの映画なんかでも、

あまりにも主人公が弱そうに見えてしまうと、

どうしてもコントのようになってしまうわけです。


要するに、演劇においては、ほとんどの人が「嘘」でもいいから”強そう”に見せてほしいわけです。


一方、同じ「エンターテイメント」でも、スポーツの世界では、
(スポーツをエンターテイメントだと仮定しての話ですが)

「嘘」はほとんど許されないものになっているわけです。

八百長はもちろんのことですが、

弱い相手ばかりを選んで対戦していたりするというパターンも、

それに気が付いてしまうと、見る側としてはかなりガッカリさせられるわけです。


ここでは、演劇とは違って、”強そう”ではなく”本当”に”強い”ことが求められているわけです。


そうなると「嘘」の許容範囲がどこまでなのかがわかり難くなってくるわけですけれど、

実際には、これはかなり流動的なもので、

その「エンターテイメント」を「ファンタジー」に置き換えられるかどうかで

見方がまったく違ってきてしまうものなのだと思うわけです。


つまり、時代劇においては、

見る側においても、演じている側においても、

ほぼ完全に、「エンターテイメント」が「ファンタジー」に置き換えられているわけです。


ちょんまげの人が町なかで刀を振り回しているというだけでも、

現代人にとっては十分に「ファンタジー」なわけで、

誰一人、”本物”の「切り合い」を見たことなどないわけですから、

もともと「本当」か「嘘」かなんて誰にもわからないわけです。


でも、いくら演技とわかってはいても、

ボクシングの映画なんかだと、”本物”も見ていますから、

”本当に強い”のがどんな感じかがわかってしまうわけです。

だから、かなり”本物”に近い「作り込み」をしないと

「ファンタジー」への置き換えが成り立たなくなってしまうわけです。

感情移入しにくくなってしまうわけですね。


このことは「プロレス」を見ればわかり易いと思うわけです。

一方に、「プロレス」を目の色を変えて応援する人が居るのに、

他方には、「あれはインチキですよ」と言って、相手にしない人が居るわけですけれど、

これは、「プロレス」を「ファンタジー」として見ている人と、

「スポーツ」として見ている人の違いが出ているのだと思うのです。


どちらかが正しいというようなものでもないと思いますけれど、

立ち位置が違ってしまっているので、この両者の話は成り立たないと思うわけです。


言ってみれば、片方が「座頭市ってカッコイイよね」といっている時に、

もう片方は、「目が見えないのに、あんなに強いのはおかしい」と言っているようなものですから、

この話がかみ合うことは無いわけです。


と言うわけで、「エンターテイメント」の「嘘」は、

それを「ファンタジー」に置き換えることが出来たところまでが、許容範囲なのかなと。


そんな感じですね。




「人間らしさ」とは?

現在、最も重要視するべきものと言えば、「人間らしさ」だと思うのです。

そして、現在、最も軽視される傾向にあるのも、また「人間らしさ」ではないかと思うわけなのです。


ところで、この「人間らしさ」とは、いったい何なのでしょうか?


「人間らしさ」即ち、「人間が最も人間である部分」とは、

人間の中のどの部分なのか?ということです。


私はこれを、「論理的な思考」または「ヘリクツ」だと思っております。

そして、これらが高じると「迷い」に成るのだと思います。


「論理」や「理屈」が「人間らしい」ことだと言うと、

「それはおかしいだろう」と思う人もいるでしょう。


確かに一般的には、「人間らしい」と言うときに、

「論理」や「理屈」とは逆のイメージがあるように思うわけです。

つまり、「人情」や「喜怒哀楽」のような感情的で非論理的ともとれるものを指して、

「人間らしさ」とか、「人間性」と言っていることが多いような気がします。


もちろん、そういうのも「人間らしさ」だと思います。

ただ、感情は他の動物にもありますから、

「人間の最も人間である部分」とは言えないようにも思うわけです。


そこで、人間だけが持っている特徴とは?ということになってくるわけです。


そして、それは多分、「言葉」を持っていることなのではないかと思うのです。

もう少し正確に言うと、「言葉」によって”論理を積み上げる”ことが出来るということなわけです。

この「論理の構築」と言うのが、

人間固有の性質、即ち「人間らしさ」だと思うわけです。


まぁ、こういうのなんかも正に「ヘリクツ」な感じですけれど、

「論理」=「人間らしさ」だけでも無理があるのに、

なんで、「ヘリクツ」が付いているかと言うと、

「論理」が不完全なわけですね、何せ”人間のやること”ですから。

と言うところで、「人間らしさ」に戻って来るという風になっているわけです。


そして、「人情」や「感情」も

実は、結構この「不完全な論理的思考」によって生み出されているような気もするのです。

と、こういうような「ヘリクツ」が、

とても「人間らしい」ことのような気がするというわけなのです。


役には立ちません。

むしろ、かなり”ウットーシイ”です。


でも、これが、いま現在、最も重視されるべきものだと思っているわけです。


現在は、なんでも「効率主義」ですけれど、

こういうところで、適度に効率を落としていった方が、むしろ”効率的”だと思うのです。

「効率主義」に着いて行けないわけです。

「人間らしさ」がですね。


人間が作り出した「効率主義」に「人間らしさ」が置いて行かれてしまうわけです。


ところが、「人間」は「人間らしさ」が無いと息ができないわけです。

だから、「効率」も上がりません。


ほんとうは、「効率」なんてどうだっていいんですが、

と言うか「効率」はいいに越したことはないわけですが、

それよりなにより、生き難くくてしょうがないわけです。


昔の方が、随分「人間らしさ」が重視されていたと思うのです。

この辺は少し巻き戻した方がいいのではないのかなと。


そんな風に思っています。




「向いていること」に「向いてないひと」

人には「向き・不向き」と言うのがあると思うわけですけれど、

実は、その「向いていること」に「向いてない人」と言うのも結構いたりするのかなと思うのです。


つまり、「向いていること」と「やりたいこと」が一致しないケースですね。


この二つが一致している人は幸せだと思うのです。

でも、そういうケースは意外と少ないのかも知れないなと思ったりもするわけです。


人間と言う生き物は、人から褒められたり、人より自分の方が上手くできたりすると、

それが得意だと意識するようになって、それを好きになることが多いわけです。


そして、そのまま、それをやって行きたいと思った人は、

「向いていること」に、そのまま「向いているひと」なわけです。


でも、人から褒められたり、人と比べて上手くできたりと言うことで、

いい気分になる時期を過ぎて、

ふと、「自分はこれが本当にやりたいのか?」と考えたときに、

「これがやりたかったんじゃなくて、人から褒められたから気分がよかっただけだったんだ」

と思った人は「向いていること」に、「向いてないひと」ということになるわけです。


そして、「じゃあ、やりたいのは何なのか?」と考えて、

たどり着くところが「向いていること」(得意なこと)とも限らないわけです。


もちろん、敢えて「苦手なこと」をやる必要はないでしょうが、

「やりたいこと」の方を優先した方がいいのでしょう。


「向いていること」を得意だというだけでやっていると、

人から褒められることは多いでしょうが、

そういう「人から受けること」を抜きに考えると、

あまり心に残るものはないように思います。


だから、「向いていること」に「向いてないひと」が居てもいいんじゃないかなと。

その人は「向いているひと」に敵わない部分が出て来ると思いますが、

それでも、その人のやることは「向いているひと」にはできないことなのだと思います。


たぶん、そういう人が居る事にも、何かの意味があるのでしょう。

その意味は、世間一般にはわかりにくいかも知れないけれど、

本人と、身近な人には良くわかることなのだろうなと。


そんな風に思います。



「娯楽」は多い程いいのか?

「娯楽」は人間にとって必要なものだと思うわけです。

やはり「娯楽」が一切なくなってしまうと、殺伐として”心がスサンデ”きてしまうのだと思います。

でも、それは”多い程いい”のでしょうか?


「昔は娯楽が少なかったから」などと言うとき、

「娯楽は多い方がいい」と言う前提で言ってしまったりするわけですけれど、

「本当に娯楽って多いほどいいのか?」と考えることが少ないわけです。


でも、最近になって多種多様な「娯楽」がある割には、

「”楽しさ”は増えているのだろうか?」と思うときがあるわけです。

そこで、「娯楽は多い方がいいのか?」

いや、それ以前に「娯楽っていうものは増やせるものなのか?」と考えるわけなのです。


実は、「娯楽」や「楽しさ」は増やしたりできないんじゃないのかなと。

実際、若いころを振り返って「昔は娯楽が少なかった」と語る人は、

いつも決まって、懐かしそうな目をしているわけです。


そういう人が、「娯楽の海」の中を泳いでいるような今の子供や若者を見て、

心の底から、羨ましそうにしているのを、あまり見ない気がします。


本当に「娯楽」や「楽しみ」が増えているならば、

それらが少ない時代に生まれたことを”損した”と思うでしょうし、

そのことが顔に出るはずだと思うのです。


要するに、その時代、

「娯楽が少ない」ということ自体が、一種の「娯楽」だったということなんじゃないかなと。

そして、それは十分に”楽しくて”、十分に「娯楽」だったということなのだと思うのです。


つまり、「娯楽」の種類を増やすことは出来ても、

「娯楽」や「楽しみ」の量を増やすことは出来ないのかなと。


そして、もしかしたら、「娯楽が少ないこと」っていうのは「究極の娯楽」だったりするのかなと。


そんなことを思いました。





「アタマがイイ」と言われる「頭の良さ」

「あの人は頭がいいよね」と言うときの「頭の良さ」が、

言う人によって随分違うなと感じることがあるわけです。


まず、学歴偏重系の人ですが、

もうそろそろ、そういう人もそんなには居なくなったのだろうと思うと、

まだまだ、けっこう居るみたいですね。


さすがに、高学歴=”エライ”という人は少なくなりましたけれど、

「アタマがイイ」となると、俄然と学歴偏重色が強く出てきます。

要するに、その人たちは「勉強ができる」ということを

「アタマがイイ」の基準にしているわけです。


それから、「頭の回転が速い」ということを

「アタマがイイ」の基準にしている人も、かなりの数で居るようです。

日常会話の中で、気の利いた言葉を即座に返せる人が

「アタマがイイ」と言われることは、とても多いわけです。


あとは、リクツ屋系ですね。

何かにつけて、妙に回りくどい説明をしてみたり、

小難しくて解りにくいことに限って、「これは解り易かった」と言うようなタイプですね。

こういう人を「アタマがイイ」と言っている人は、

「論理性」を「アタマがイイ」の基準にしているということなのでしょう。


ほかにも、いろいろな「アタマがイイ」があると思いますけれど、

いずれにしても、どのタイプの「アタマがイイ」なのかによって、

随分、その「頭の良さ」が違っているわけです。


そこで思うことは、上に挙げたような「アタマがイイ」人たちは

確かに、何らかの「頭の良さ」を持っているのだと思うわけですが、

そこから外れた「アタマがイイ」人も居るんじゃないかということなわけです。


高学歴ではなくて、口下手で、リクツ屋でもない人で、

それでも「アタマがイイ人」なんて沢山居るような気がするのです。


いや、むしろ本当に「頭がいいこと」と言うのは、

そういう人が持っている「頭の良さ」なんじゃないかなと。


つまり、それは「思慮深さ」なのではないかと思うわけです。

当たり前と言えば、当たり前のことなんですけれど、

その当たり前のところが抜けているように思われるわけなのです。


これが、いつごろからの傾向なのかはわかりませんけれど、

いわゆる表面上の「アタマがイイ人」だけが「アタマがイイ」と言われて、

その表面的な「頭の良さ」を持っていないと

「アタマがイイ」とは言われなくなってしまっているように思われるわけなのです。


これは、世の中全体が表面的になっているからだと思うわけです。


表面だけが重視されて、「本質」や「核(コア)」の部分は無視されているわけです。

無視されるだけでなく、

そういうものを「重い」・「メンドクサイ」こととして排除しようとする傾向もあるわけです。


でも、「表面的」で「軽い」、「メンドウがない」ことを

「アタマがイイ」と言うのにはチョット無理があるのではないのかなと。


それじゃ、何も考えていないのと大差ないでしょ。

それが、今の「ニッポンのアタマがイイ」なのですかと。


そんなことを言いたくなってしまうわけなのです。




「なぜか心に残ってしまうもの」

「感動した」とか「とても印象深かった」とかいうことではなく、

何の気なしに見たものや聞いたものが、

その後、長い年月の間、”ミョーに”ずっと頭の中に残っているということがあると思うのです。


たぶん、誰にでもそういうことがあるんだろうなと思っているんですが、どうなんでしょうか?

それはともかく、いくら考えても「それが残っている理由」が思いつかないわけです。


例えば、とくに好きなわけでもなかったテレビ番組の中の一コマとか、

ドラマのセリフ、友達との会話、コマーシャルのフレーズなど

ジャンルにも内容にもほとんど関係なく、

つまり、”まったく理不尽に”しかも長期間、心に残っていることがあるわけなのです。


私の場合、学生時代に学食でスパゲッティをたのむと、

学食のおばさんが「スパゲ~」と言っていたのが、どうしても頭から消えてくれません。

”絶対理由なんかない!”と思います。


それから、時代劇のドラマで菅原ブンタさんが言っていた

「~が、なじょする」と言う何処かの方言のセリフが消えません。

何のドラマかも覚えていませんし、どういうシーンかも覚えていません。

だいいち、その時代劇は多分一回しか見ていないわけです。

これなんかも、何故だか全くわかりません。


他にも、すごく短い期間しか流されなかった(2~3回見たくらい)コマーシャルなんかでも

消えないものがありますし、こういうのを挙げたらきりがありません。


その反面、すごく好きだったものや、何度も繰り返し見たものなんかでも、

「コロッ」と忘れてしまうものもあったりします。

しかも、そのまま思い出せなくなるなんて言うのもあったりします。


さて、何が言いたいのかと言うと、

『「心に残る」って、いったいどういうことなの?』ということなわけです。


まったく人間と言うのは、ミョーな感じで複雑にできていますから、

「この感動は一生涯忘れないだろう」というようなことを

考えてみたら、はじめからよく覚えていなかったりすることもありますし、

どうでもいいようなことを何十年も覚えていたりするわけです。


私は「絵」を描いていますから、どうせなら「人の心に残るようなもの」をと思うわけです。

それが第一の目的ではないにしても、やっぱり「気にも止められないようなもの」よりは、

「心に残るもの」ということはあるわけです。


ところがですね、こういう理不尽な「心に残る」があるということはですよ、

頑張って描いても「スパゲ~」に勝てないわけです。

いえ、勝ち負けではないんですよ。

そんなことは決して思っていませんよ。

でもね、負けたくない相手というのはあるわけですよ。

私の場合、「スパゲ~」には負けたくなかったわけですね。


それなのに方策がないわけですよ。

この「理不尽さ」、この「無根拠さ」、この「執拗さ」に対抗する手段が思いつかないわけです。


そこで、「いっそのこと、自分がそっち側に行けないのか?」と思ったわけです。

何の根拠もなしに理不尽に「人の心に残る」側にですね。


でも、よく考えたら理不尽な”残り方”はしたくありません。

それでも「心に残るもの」と「心に残らないもの」はどこで決まるのだろうなと。

そんな風なことを、

いま取り敢えず”考え中”です。



「偶然」の必要性

ずいぶん前にテレビで見た番組の中で、スピリチュアルの「エハラさん」が

「世の中に偶然はないんですよ。偶然に見えていることもすべて必然なんです。」

と言っていたことがあったわけです。


それを聞いたときは、「なるほど、そういう考え方もあるよね」と思ったのですけれど、

その後どうも、「偶然」が”必要”に感じることがあるわけです。


要するに、「それは”酷”だろう」と感じる時があるわけです。


たとえば、家のローンを払うためや、自分以外の人が作った借金を返すために

条件が悪い仕事を続けている人なんてたくさんいると思いますけど、

そういう人たちにとっては”その状況”は「偶然」であって欲しいのじゃないかと思うわけです。


もし仮に「必然」であったとしても、それを「必然」と言ってしまったら”気の毒”に思うことがあるわけです。

そこは「間が悪かったんだね」とか「たまたま、そんなことに成ってしまっているだけだよ」

という「偶然」が”必要”なんじゃないかと思うわけです。


いや、確かに、それを「必然」ととらえて毅然とした姿勢を持っていられる人は立派だとは思うのです。

そして、そのほうが、よりいいのかもしれません。

例えば、それも一つの”人生修行”であるというような考え方ですね。


でも、そういうには”アマリニモ”なケースをよく目にするわけです。

「これはもう偶然でいいんじゃないか?」というような状況を見るにつけ、

そういう人の為にだけでも、「偶然」を残しておいてあげられないものなのかと思ってしまうわけなのです。


これは必ずしも「依存」ではないと思うのです。

「依存」というのは何かに”溺れた”状態だと思うわけです。

そして、「刺激」が強いものほど「依存」を生みやすいのだと思っています。

「偶然」にそれほどの「刺激性」はないと思います。

少なくとも、「偶然」と「必然」の「刺激性」にそれ程の差はないでしょう。


それから、すべてが「必然」であるというのが事実であったとしても、

その全てを人間が把握できないのも事実なわけです。

もともと、「必然」であることが把握できない時に、それを「偶然」と言っているのだと思うのです。

ですから、人間が把握できないような「必然」のことを

「偶然」と言っても差支えないんじゃないかと思うわけです。


こういう時に「科学的に証明できないから」と言う理由で”すべて”を片付けてしまうのは、

ツマラナイことだと思っていますが、

全てを「必然」であるとする考え方も、

それと同様に何かの法則に基づいていることをもって

「”すべて”必然である」と言っているわけです。


だから、もしも、「必然」の方が「道理」だったとしても、

その「道理」で「”すべて”の偶然」を片付けてしまわないで、

「偶然」も少しは取っておいていいんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。





人間は他の動物より幸福なのか?

「人間は他の動物よりも幸福なのか?」という問題があるわけです。

「どこに?」 

「はい、私の中に」


「人間は他の動物よりも偉いのか?」だったら、

まぁ、「そんなこともないでしょう。」ということに成るような気がするんですけど、

「~幸福なのか?」だと、かなり難しくなるような気がするわけです。


陽だまりでゴロゴロしている猫なんかを見ていると、

つくづく、「人間は他の動物よりも幸福なのか?」と考え込んでてしまうわけなのです。

それから、ノミ取りをしてもらっているサルなんかにも、

とても「幸せ度」では太刀打ちできない気がしてくるわけです。


もちろん、彼らの「幸福」と人間の「幸福」が同じとは限らないわけですが、

どうも、人間の「幸福」は他人との比較を基準にしているものが多いように思われるわけなのです。


他人より「お金持ち」だから「幸福」とか、

他人より「成功している」から「幸福」とかですね。

ゴロゴロしている猫には、それが全く見あたらないわけですよね。

一言で言えば、その瞬間「何も考えていない」ように見えるんですね。


人間だって、本当は”ゴロゴロしている”だけで「幸福」な筈なんですけどね。

それじゃ満足できなくなっているわけです。


それは悪いことじゃないような気もするんです。

向上心みたいなものですか?


何も考えずに”ゴロゴロしたい”と思う反面、

それでは、すぐに飽きてしまって満足できなくなるということで

「幸福」を遠ざけてしまっているような気もします。


そもそも、猫やサルと人間を「比べて」しまっているわけですし、

そういう「比べること」から離れたいなと思うわけです。


さて、「比べること」を取り除いてしまったら、

「何が残るのでしょうか?」  

「こんな私に」


と言う感じです。


「曖昧さ」という機能

随分前からですけれど、「ファジー」と言う言葉があるわけです。


「曖昧な」ということなのでしょうか?

言葉の意味はよく知りませんけれど、

なんとなく、本来は「曖昧」ではない”ハズ”のことにおいての「曖昧さ」を指して

「ファジー」と言っているように思うわけです。


要するに、コンピューターのような、「曖昧さが無いこと」が”ウリ”でもあり、

その反面「融通が利かない」という感じがあったものに、

敢えて「曖昧さ」を取り入れて、人間との馴染みを良くしようとしたということだと思うわけです。


そして、これもなんとなくですが、コンピューターが「ファジー」に成りだしてから、

もともと「曖昧」であった”ハズ”の人間が「ファジー」じゃなくなってきているように感じるのです。


どちらかと言うと、実際に人間が「ファジー」じゃなくなったというよりも、

「ファジーじゃない人間」が求められているということでしょうね。


要するに、「カチッ」とした人間が求められているような、そんな感じがするわけです。

「間違える人」や「揺れ動く心理」を、一段低いものとして扱う傾向があるように思うわけですね。


私は、「迷うこと」が究極の「思考」でもあり、最良の「人間性」でもあると思っていますので、

「迷わない人」を高く評価しようとは思えないのです。

それは、一つの「能力」ではあると思いますけれど、

機械に置き換えることが出来る「能力」でもあるわけです。


人工知能がここまで発達してきたわけですから、そういうのはそちらに任せて、

人間は、もっと「迷う」方向に行っていいんじゃないかと思うわけです。


そして、そういう「迷い」からこそ、本当の「個性」も見えてくるように思っています。

この「曖昧さ」と言う機能こそが、人間の可能性を広げるものだと思っているわけです。


「迷い」と言う状態はパソコンにとっては「バグ」や「フリーズ」に当たるものだと思うのです。

つまり、「曖昧」な機能は「バグ」を起こしやすいでしょうし、「迷え」ば「フリーズ」してしまいます。

要するに、コンピューターは、複雑な「曖昧さ」である「迷い」を処理できないわけです。


人間は「迷っても」完全に機能停止したりはしません。

「迷い」続けられるわけです。


たぶん、今の原理に基づいたコンピューター・システムがいくら進化しても

「迷い」続けることが出来るようには成らないような気がします。


さらに、人間は、その「迷い」から、極めて強引に、そして時には適当に、

とても「個性的な結論」を導き出すことがあるわけです。

そういう時に現れて来るのが本当の「人間の個性」なのだと思っています。


だから、コンピューターは「ファジー」じゃなくてもいいから、

人間においてこそ「曖昧さ」と言う機能を大切にしていった方がいいんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「現実」と「真実」の関係

私は「真実」と言う言葉をわりとよく使うのですけれど、

「真実」と言う言葉は、人によって随分違う意味で使われていることもあるように思うわけです。


「本当のこと」を「真実」とする考え方もあるでしょうし、

「現に起きていること」を「真実」とする考え方もあるのでしょう。

それから、「哲学的な真理」を「真実」だと考える人もいるのだと思います。


さて、私が考える「真実」は、「本当のこと」や「現に起きていること」とはだいぶ違います。

それらは、私の中では「現実」に成ります。

そして、「現実」に隠されているところに「真実」があるという考え方を持っているわけです。


でも、だからと言って「現実」が「真実」でないというわけではなくて、

「現実」も「現実」と言う「一つの真実」ではあるわけです。


例えば、「本当のこと」でないことは「嘘」(虚構)ということに成りますが、

それも「嘘」と言う「真実」ではあるわけです。

それと同じように「現に起きていること」でないことも、

そういうことが「真実」であると考えることもできるわけなのです。


「それじゃ、なんでも真実じゃないか」ということになってしまうわけですが、

そう言うわけでもなくて、「嘘」は「嘘」と言う意味では「真実」ですが、

「本当」と言う意味では「真実」ではありません。

当たり前ですけど、そういうことです。


要するに、私は、「真実」を”相対的なもの”と考えるわけです。


「哲学的真理」を「絶対的な真理」と捉えるのであれば、それとも一致しないのかもしれません。
(私は、こちらも相対的なものと考えてしまうわけですが)


つまり、「一つの視点」につき、各々一つづつの「一つの真実」があるということに成ります。


「真実」とは、「そこにあるもの」ではなくて、「そこに見出されるもの」だと思っています。

そして、その時に「真実」を隠してしまうのが「現実」ということです。


「現実」には”実質的な力”がありますから、それを無視することは出来ないわけです。

そこで、「真実」が見えにくくなってしまうわけです。


そして、先ほど述べた様な「~と言う意味での真実」というのをすべて取り除いたあとに残るのが、

「その人にとっての真実」だと思っています。


要するに、私はその「その人にとっての真実」を「真実」と呼んでいるということです。

どちらかと言うと、「~呼びたい」に近いかもしれませんけどね。


ここで、全ての人は「真実」を体現しているとも言えるわけです。

例えば、「嘘」をつくことは出来ますが、

それは「嘘と言う、真実」を体現してしまってもいるわけです。

ただ、本人がそれを見つけ出していないということなのでしょう。

だから、「その人にとっての真実」には成っていないわけです。


もし、自分が「嘘」をついているという「真実」と同時に、

それを自分が体現してしまっている、即ち「嘘つきです。」と告白してしまっていることを、

見つけ出してしまったら、きっと、ほとんどの人が止めると思います。


でも、そこで「嘘にまんまと騙される人も居る」と言う「現実」が「真実」を隠してしまうわけです。

それで、すぐそこにある「真実」が見えなくなってしまうわけなのです。

だから、「嘘」をつくことをやめない人もいるわけですよね。


それから、これは私の感じ方なのですが、

「自分のありのままの姿を受け入れる」と言うのとも少し違います。

「受け入れる」ではなくて、「見出す」と言う感覚でとらえています。


つまり、”受け身”ではなくて、自己の”働きかけ”によるものということです。


これは「芸術」や「創作」と結び付けて考えるからかもしれませんけれど、

”受け身”で捉えることが出来るのは「~と言う意味での真実」までなのではないかと思うわけです。


以上のことを持ちまして、

『「真実」を見出していこう!』と思っているわけです。


ところが、すぐそこにあるはずの、

そして自分が勝手に決めることができるはずの「自分にとっての真実」が、

そう簡単には見出せません。


まったく、人間の目と言うのはどこまでクモっているのでしょうか?

「ほら、そこにあるじゃないか!目を開けて見ればいいだけなんだよ!!」


そんな風に思ってしまうわけなのです。




「企業」の「公益性」

「企業」と言う言葉はあまり好きではありません。

どうしても、「儲け主義」と言う印象があるわけですね。


「企業」は「金儲け」のための機関なわけですから仕方ないとは思うのですけれど、

「ガメツイこと」や「気前がよくないこと」、時には「ずる賢いこと」でさえ、

「企業」の名の下に行われると「OK」になってしまうというのが納得できないわけなのです。


資本主義経済とはそういうものなのだと言われても、

やはり、”腑に落ちない”部分は変わらないわけです。


そして、それは、「公益性」を示してくれる「企業」が少ないからだと思うのです。

「ガメツサ」や「ずる賢さ」はあるのに「公益性」は無い、

つまり、自分のためにはとてもよく動くけど、人のためには動かないということです。


「企業」は「金儲け」のための機関と言う感じになってしまっていますけれど、

本来は「公益性」というのが「企業」の重要な要素だと思うのです。

つまり、「金を儲けること」よりも「金を循環させること」が企業の最も重要な役割だと思うわけです。


そして、それは「人のために動くこと」なわけです。


「企業」が金を循環させる過程で、そこに関わった人間に幸福がもたらされるというのが、

本来の「資本主義の理念」だと思うわけです。


「そんな人のいいことを言っていたら、会社なんてみんな潰れちゃうよ」と言われるでしょうが、

そういう状況がよくないと思うわけです。


”人のいい”ことを言っているような「企業」こそ生き残れるようにする方がいいと思うのです。


現在の「ガメツクテ」「ずる賢い」ような「資本主義」は誰のためにも成っていないように思います。

もう少し”人がいい”ような「資本主義」もあっていいように思ってしまうわけなのです。


そういう”ギスギスしていない”「資本主義」があれば、

みんな、今より「資本主義」が好きに成るんじゃないのかなと。

今は、代わるものがないから”指示しているフリ”をしているだけなんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。





「本当の自分」

人間というのは、つくづく「本当の自分」を見ようとしないものだなと思うわけです。

そして、これは人間の最大の特徴である

「言葉で考える」ということに依るところが大きいのだと思っているわけです。


「言葉」には「世界を二分する」という性質があるわけです。

「A」といえば「A」と「Aでないもの」に「世界が二分され」ます。

その単語を重ねていけば、そのたびに「世界が細分化」されていくわけです。


コンピューターのような、おそらく動物の脳よりもはるかに単純な機械が、

動物や人間のように記憶したり判断したりできるのも、

たぶん、このような「二分割」の積み重ね、即ち二進法による判断を使っているからなのでしょう。


そして、往々にして人間は、この性質に振り回されてしまうから、

「本当の自分」を見ようとしなくなるのだと思っているわけです。

コンピューターには都合がいい「二分割」が、

人間にとってはあまり都合よく働いてくれない時があるようです。


ほとんどの場合、「本当の自分」は世の中のどこかしら中庸にあるはずです。

例えば、「頭がいい」と言う言葉で、「頭がいい」と「頭がよくない」に「二分割」されたたとき、

実際は、ほとんどの人がその中間に位置しているはずです。


でも、言葉の上ではその「中間」が表示されないわけです。

だから、「頭がいい」のか「頭がよくない」のかと言う、二者択一を迫られているような錯覚に陥ってしまい、

「頭がよくない」方の自分を認めたくないがために、「頭がいい」方の自分しか見なくなってしまうわけです。


これは「頭がいい」ということに限らず、

その人が認めたくない自分は見なくなり、

認められる範囲の自分しか見なくなってしまうということです。


そして、ほとんどの場合「本当の自分」は

認めたくない範囲にもハミダシテいるわけです。


でも、これは錯覚に基づいているわけです。

実際には、世界は「二分割」されているわけではなく、

「中間」も存在しているわけです。

ただ単に、言葉で表されている範囲で「二分割」されているだけです。


人間は機械じゃないんだから、無理にどちらか一方を選択しなくてもいいと思うのです。

機械は単純に出来てますから、「二分割」じゃないと処理できないというだけなんだと思うのです。

その「二分割」を積み重ねていくことでしか「中間」を生み出せないわけです。


でも、人間はけっこう複雑にできてますから、はじめから「中間」を把握する能力があるわけです。

だから、せっかくある能力を使って曖昧な領域を見て行ったらいいんじゃないかなと。

じっくりと自分をよく見て「中間」の中から「本当の自分」を見つけ出せばいいと思うわけです。


だいたい、人間はほとんどの場合「普通の人間」なんだし、

どこか一部分が「極」にあるような人でも、他の部分は意外と「普通」だったりするわけです。

そして何よりも、どちらか一方の「極」に偏っていることよりも、

「両極」を併せ持っていること、つまり「バランス」が重要なんだと思うわけです。

たとえ、その一方の「極」が「悪」であったとしても、

対極する「善」を併せ持っていればいいわけです。


だから、もう、認めたくない「自分の中の反対の極」を隠す必要はないんじゃないのかなと。

そういう「人の本当の姿」にこそ、何か惹きつけられるものが潜んでいるようにも思うわけで、

それを隠すなんて、何の意味もないことのように思えてくるわけです。


現在の世の中で”良い”とされていることが”イイ”と言う時代はもう過ぎてしまったように思うのです。

そういう殻を捨てて「素」の状態でいられるようになれれば、

けっこう”イイ”んじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「あやまる」の種類

「あやまる」と言うのは、一つの文化だと思っています。

そして、その「あやまる」にも種類があるように思うわけです。


前にも、ここで書いたことがあるのですが、

「あやまる」と言うことには、その国や地域の文化的な特徴がよく出ていると思うのです。

でも、その文化的な違いとはまた違って、「あやまる」には種類があると思っているわけです。


これは、よくある「謝罪会見」と言うのを見た時に感じたことなんですけど、

「謝罪会見」を見て、いつも思うのは、

「かえって、イメージ悪くなったんじゃない?」と言うことなのです。


墓穴を掘るっていうんですか?

一生懸命謝れば謝るほどイメージが悪化していく

という感じになってしまうことがとても多いと思うわけです。


そして、それは「あやまる」の種類を把握できていないことに因るんじゃないかと思うわけです。


「あやまる」には、大きく分けて三つの種類があると思っています。


一つ目は、「挨拶」のような「あやまる」で、

これは、たいして悪くなくても謝ったり、謝られたときに謝り返したりするような、

言ってみれば、キサクナ「あやまる」です。

前に書いた記事では、この「あやまる」について、

もっと見直されていいんじゃないかと言うようなことを書きました。


二つ目は、謝る側のための「あやまる」で、

謝られる側に対して謝ってはいるわけですが、

謝る側は謝られる側のことよりは、自分の側のことを心配しているというパターンです。

ついつい本音が出てしまうという感じなんでしょうか。

要するに、これが「謝罪会見」を最悪のものにしてしまっているということです。


そして、三つ目が謝られる側のための「あやまる」なんですが、

これは、「あやまる」だけでは成立しない場合が多いわけです。

謝られる側と言うのは、何かしらの被害を受けているわけですから、

それを解消してもらわなければ納得しないわけです。


ところが、ほとんどの場合「あやまる」だけでは何も解消されないわけですから、

実際に何をどう弁財するかとか、その後どのような行動をとるかということにかかってくるわけで、
(例えば、同じような過失を繰り返さないようにするということですね)

「あやまる」こと以上に、そちらが重要になってくるわけでしょう。


ところが、企業などが「謝罪会見」を開くような場合と言うのは、

ほとんどの場合、そこには「取り返しのつかない過失」があるわけで、

弁財するにしても、その代価の大きさを判断するのが難しく成るわけです。


そこで、企業としては出来る限り損失を少なくしたいわけですから、

どうしても、謝る側のための「あやまる」になってしまうわけです。

一言で言えば”守りに入る”わけですね。


これでは、謝られる側が納得するわけがないでしょう。


こういう「あやまる」の種類が把握されるようになれば、

いくらなんでも、現在のような「謝る側のため」が”見え見え”の「謝罪会見」は無くなるんじゃないかなと。


そして、謝られる側のための「あやまる」のことを考えたら、

つまり、相手の望むように弁財することの損失の大きさを想像したらですね、

二度と「同じ過ち」を繰り返さなくなると思うのですが、

いつも、あやふやな「あやまる」で乗り切ってしまうために、

何度も同じような過失を繰り返してしまうのでしょう。


と言うわけで、

「あやまる」と言う文化は、もっとよく考えられていいんじゃないのかなと。

そんなことを考えてみました。


人間は”三つが限度”なのかな?

何かにつけて、人間には限界と言うものがあるわけです。

そして、その限界と言うのは意外なほどすぐそこにあって、

要するに、たいしたことは出来ないというのが実態なわけです。


そこで、思うことなんですけど、

「人間は”三つが限度”なのかな?」と言うことを感じるわけなのです。


例えば「大・中・小」とか「松・竹・梅」とか三つで区切ると、

人間がそれを把握しやすくなるような気がするわけです。


これは、風景画を描くときに使われる「遠景・中景・近景」と言うのから思いついたんですが、

いろいろなことを三段階で捉えたり表現したりすると、

わかり易くなったり、やり易くなることがとても多いということに気が付いたわけです。


それで、いろいろなことを、ことあるごとに、これに当てはめて考えてみるわけですけれど、

実際、二段階だと落差が大きすぎて埋めにくいし、四段階以上に成ると、

細かくなりすぎてかえって掴みにくくなってしまうと言うことがあるわけです。


これは、要するに「人間は”三つが限度”なのかな?」と考えるわけです。


「おい、おい、たった三つかよ、人間!」と思うのですが、

やはり、人間の限界は、意外なほどに、すぐそこにあるんだなと。


そんな風に思うわけなのです。


「人間の醜さ」を見続けること

人間は過去において、様々な「醜いこと」を行ってきたわけです。

そして、それらは今だに続いているようにも思えるわけです。


それでも、なんとなくですけど、人間がそれらの「醜いこと」から

これから先、徐々に抜け出していけるんじゃないかと言う”兆し”が見えてきていると思っているわけです。


これは「希望的な観測」なのかも知れませんけれど、

私は、人間が過去の時代よりは”愚か”ではなくなっていくような気がするわけです。


きっと、「差別」はなくなっていくと思っていますし、

「戦争」のような「殺し合い」もなくなっていくように思います。

実際、これらについては、すでに歴史の中でのピークを過ぎているのではないかとも思います。

また、もう少し小さな視点で見ても「犯罪」や「イジメ」や「各種ハラスメント」なんかも、
(これらは、まだピークを登りきってすらいませんが)

将来的には「無効化」されていくように思っているわけです。


ただ、歴史のサイクルはとても長いので、それがいつになったら実現することなのかはわかりません。

それでも、きっといつかはそんな風になるんだと思います。


少なくとも、現在日本で生活している限りにおいては、

「平和」と言ってもいいように思うのです。

もちろん、その「平和」の内容については、

「こんな平和でいいのか?」と言いたいことは沢山あるわけですけど、

それでも、「いま、日本は平和じゃないのか?」と言われれば、

「いえ、確かに平和ではあります。」と答えるのでしょう。


でも、そこで、その「平和」の中にあってこそ、

「人間の醜さ」を見続けていくことは重要なことに成っていくんじゃないかと思っているわけです。


つまり、豊かな食糧に囲まれている時こそ、

「今、昔のような飢饉が起きて食料の供給が途絶えたら、この隣人たちはどこまで醜くなるのだろうか?」

また、自国において戦争が起きていない時にこそ、

「今、人が殺し合うような事態が発生した時に、百人のうち何人までが、人を殺さずにいられるのだろうか?」

と言うような問いを持ち続けることは、

「醜いこと」を消し去って行くうえで、とても重要なことだと思っているわけです。


人は「差別」がなくなれば「差別」をする「人間の姿」を見ようとしなくなります。

人は「戦争」がなくなれば「殺し合い」をする「人間の姿」を見ようとしなくなります。

要するに、それらが自分たちの中にある「醜さ」を見せつけて来るのです。

だから、せっかく平和になったのに、

なんでわざわざそんな「醜さ」を引きずっていなければいけないのかと苛立つわけです。

そうして、喉元を過ぎたころに、

また同じ「醜いこと」を行ってしまうということを繰り返して来たわけです。


これは「自分の中の醜さ」を認めてしまえばいいことなのだと思うのです。

実際には、その「醜さ」は大したものでもなくて、「小さな醜さ」なのだと思います。

それが、周囲の状況によって増幅されて「醜いこと」を行うに至るわけです。


だから、それを増幅しないようにするのがいいと思うわけです。

平和な時に、そんな「人間の醜さ」を見ていれば、

周りが平和なだけに、それはとても非道なことに見えますから、

そんな風にはなりたくないと思うでしょう。


そう思っていることで、「醜いこと」から少し離れられるかもしれません。

そんなことが繰り返されていって、

いつかはきっと「醜いこと」がなくなって行くんではないのかなと。


そういうことを考えてみたりもするわけです。



「無駄」の価値

「無駄」っていうことは、要するに価値が無いことなわけです。

でも、その「価値が無い」は常に「まったく価値が無い」だとは限らないと思うのです。


つまり、時には「無駄」が価値を持つということです。

例えば、「ゆとり」だって「遊び」だって見方によっては「無駄」なわけですけど、

そういう「無駄」も必要なわけです。


そして、もう少し、その「無駄の価値」の範囲を広げていった方がいいんじゃないかと思うのです。


世の中の工業化が進んできたのに合わせて、

「無駄」は削られる一方で、その領域が狭くなりすぎてしまっているように思うのです。


昔の、建築や家具なんかを見ても、

全く必要ない所にまで、手の込んだ装飾がしてあったり、

意味もなく精密にできているものなんて言うのも、珍しくもなく普通にあったりするわけです。


そういう作り手側の遊び心が、使う側の心もどこかで癒していたりしたのだと思います。


それを「価値のあるもの」としてではなく、

あくまでも、「無駄」として”愛する気持ち”がいいんじゃないかと思うわけです。


例えば、「ダメだなぁー、これ」っていうようなものが

何年かしてみて、「あれ、これって実はいいんじゃないの?」っていうことがあるわけですよ。


今は、そういう「ダメ」を「無駄」として、はじめの段階で全部切ってしまっているわけです。

そうなると、数年後の「あれ、いいんじゃない?」はなくなってしまうわけですね。


それで、作為的に作られた「イイモノ」しかなくなってしまっているわけです。


実は、最初「無駄」だったものが

「イイモノ」に成る過程が必要なんじゃないかと思うんですよね。

その「イイモノ」の部分が発見されるという感じでしょうか。


それに、もし「無駄」のまま終わっても、

「愛すべき無駄」っていうのも”有り”なんじゃないかなと。

そんな風にも思うわけです。




「命の重さ」と「精神の重さ」

「命の重さ」が、重いということは言うまでもないことなのでしょうが、

それは「精神の重さ」と比べた場合どちらが重いんでしょうか?


例えば、人間としての「誇り」とか「尊厳」みたいなものと比べた場合に、

「命の重さ」は、それらよりも重いのでしょうか?


それは、何も「誇り」や「尊厳」ほど大げさなことでなくても、

その人の「好み」や「やりたいこと」のような

ごく日常的なことについても、同じことが言えるのだと思うわけですけれど、

そういう、その人の「精神活動」の部分と、

その人の「命」を秤にかけた場合、どちらが重くなるのかなと思うわけです。


例えば、すごくグルメな人が、医師に食事制限を命じられている場合、

その人が、それで寿命が少しぐらい短くなってもいいから、

食べたいものを食べようと思うことは、「命」を軽視していることに成るのでしょうか?

これは、お酒やたばこについても同じようなことがいえるのでしょう。


まぁ、実際は、医師の食事指導を守ったからと言って、長生きするとも限りませんし、

酒やたばこを一切やらなかったとしても、それで長生きが保障されるわけでもありませんから、
(実は、私はこういう常識はほとんど信じていないんですけどね)

仮に、それで確実に長生きできるんだとしたらと言う仮定での話ですね。


こういうことには、そうそう結論は出せないんだと思いますけど、

ただ、今は「命の重さ」が重視されるあまりに、

「精神の重さ」が、捨てられ過ぎてしまっているように思うわけです。


つまり、「命の重さ」が重いのは言うまでもないことだとしても、

「精神の重さ」もそれに見合うぐらい重いものなんだと思うわけです。


基本的には、好きなことをして生きて行って、

その最期に死んだ時がその人の寿命なんじゃないかと思うわけです。


むしろ重要なのは、それが本当に、その人にとっての「好きなこと」や「やりたいこと」なのか

と言うことの方なんじゃないかと思うのです。


例えば、「酒を飲んでいる」のか「酒に飲まれている」のか、と言ったことですね。

好きな酒を「旨いなぁ」と言って飲んでいるのと、

依存症のような状態で、美味いも不味いもなく飲んでいるのとは全く違うことでしょう。


それはともかくとして、もう少し「人間の精神」が重視されて、

さらには、それが解放されて行ってもいいように思うわけです。


社会が作り出した「道徳」や「規律」は、理由があって出来上がってきたものでしょうから、

それを守ることも大事なんでしょうが、

「個人の精神」はそれに匹敵する程のものだとも思いますから、

もう少し重要視されるように成ってもいいんじゃないかと思うわけなのです。


その「道徳」や「規律」を象徴しているのが、「命の重さ」なんだと思うわけです。

そして、「個人」を象徴しているのが「精神の重さ」なんでしょう。


どちらが重いかと言うよりは、「どちらも重いから、偏ってきたら戻す」と言いうことかなと。

そんな風に思います。


「基本」は「初心者向き」ではないと思うのです

何においても、初心者は先ず「基本」からということになっているわけですけれど、

これは本当に、いいやり方なんだろうかと思うことがあるわけです。


本当は、「基本」っていうのは一番難しいものなんじゃないかと思うわけです。


確かに、「基本」とされていることは、初心者にも手が出しやすいような、

一見すると簡単に見えることが多いわけですけれど、

実は、その道を極めた人が最後に辿り付くものも、また「基本」に違いないのです。


ですから、何においてもまず「基本」からと言う考え方は、

むしろ、一番高度なものを、初心者に突き付けてしまっているとも言えるわけで、

意外と、初心者がその分野に入って行き易くなっていない場合もあるように思えるのです。


むしろ、その分野の中で、いちばん面白そうに見える部分、

要するに、子供がやりたがるような部分ですね、

そういうところから入って行った方が、本当は入って行き易いんじゃないかなと思うわけです。


日本的(東洋的?)な考え方では、

なんでも「修行」と考える傾向がありますから、

真っ先に面白そうなことをやるというのが、

否定的に捉えられてしまうことが多いように感じるわけです。


でも、どっち道、出来やしないわけです。

所詮、初心者が、そう簡単に面白いことなんかできるはずないんですから、

最初に面白そうなことをやろうとして、

当然出来なくて、

それでも、どうしてもやりたいから夢中になってやろうとする

その結果上達するっていうのがいいんじゃないかと思うわけです。


そしてその結果、最後にたどりつくのが「基本」だったりするということなんじゃないかと思うわけです。

さらには、それこそが「修行」でもあると言うこともできるんじゃないでしょうか?


だから、「基本」=「入り口」と言う考え方ではなくて、

「基本」=「出口」的な考え方でもいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「長生き」について

「長生き」することは、無条件に”エライ”ことのような気がする”今日この頃”なわけです。


昔は、「長生き」することが特にエライことだとも思わなかったんですけど、

今は、「長生き」な人を見ると、ほとんど無条件に「エライ!」と思ってしまうわけなのです。


とは言っても、「ゴウヨクな年寄り」なんて言う人を見ると、やっぱりガッカリはしますけどね。


でも、”普通”くらいなら十分に

「こんなに長く生き続けて、エライなぁ」と思ってしまいますねぇ。

まして、「長生き」していて、しかも、ちょっとでも”イイ人”だなって思えたら、

もう、それだけで「大尊敬」ですね。


なにが”エライ”って「生きること」だと思いますねぇ、最近は。

それを、人より何十年も長く続けている人は、

もう、無条件ですねぇ。

”エライ”でしょう。やっぱり。


なんでだかはわかりませんけどね。

無条件ですから。

でも、今はそうとしか思えなくなりましたね。


そういうわけで、「長生きはエライ!!」

と思っています。




「忘れること」

『人間は「忘れること」で生きていける』と言う話を、どこかで聞いたことがあるわけです。
(どこで聞いたのかは忘れてしまいましたが)


これを聞いたときは、確かにそうだなと思いましたし、

実際、過去の全ての「記憶」がいつも頭の中で渦巻いていたら、

「とてもじゃないけど、生きていけないだろうな」と思うわけですよね。


これとはちょっと違う話なんですけど、

最近になって、「忘れること」っていうのは、

「記憶が消えてしまうこと」とは違うんじゃないかと思うように成ってきたわけです。


そして、今に至っては、

『本当は、人間の「記憶」が消えてなくなってしまうことは、ほとんど無いんじゃないのか?』

とすら考えるように成りました。


私も「そんなことは無いだろう」と思っていたんですが、

例えば、忘れていると思っていたことを

突然「ポンッ!」と思いだすことっていうのがるじゃないですか?

それから、それとは逆に忘れているハズがないことを「ど忘れ」することもありますよね。


そういうことっていうのは、

「記憶」が「不活性」な状態に成っていることと関係があるんだと思うわけです。

つまり、「忘れること」と言うのは、「記憶が消えてしまうこと」ではなくて、

「記憶」が「不活性」な状態に成っているんだと思うわけです。


まぁ、たぶん、こういうことは「脳科学」なんかでは、説明されていることなんだと思うんですが、
(本を読んだりしたわけではないので、よくわかりませんけど)

それを、自分なりにナントナク実感できたということだと思います。


そこで、考える事なんですが、

「記憶」と言うものは、一般的に考えられているよりも

ずっと「ハードウェア」なものなんじゃないだろうか?という感じがするんですね。

つまり、人間の「記憶」も、「記録」が刻まれたテープやフィルムと同じように、

かなり「物質的」なものなんじゃないかということですね。


そして、それは「脳科学」なんかで説明されているような

デリケートで複雑なシステムではなくて、

もっと、ずっと単純で頑丈なもののような気がしてしまうわけですよ。

脳と言うよりも、骨や筋肉と同じような感覚で捉えるべきものなんじゃないかと思えて来るわけですね。
(骨や筋肉だって複雑なんでしょうけど)


さらに言うと、そこが「記憶」と「思考」の”分かれ目”でもあるんじゃないかなと。


もちろん、「記憶」だって、脳で行われることなんでしょうが、

「丸暗記」であればあるほど、それは「身体的」なものに近くなっていくんじゃないかと思うわけです。


つまり、脳内で本当の意味で「ソフトウェア」的に、

つまり「精神的」な作業として、行われているのは「思考」であって

「記憶」は、それとは根本的になにか違う「仕組み」で行われている

「身体的(物質的)」な作業なんじゃないかと思うわけです。


要するに、「記憶」は、場所としては脳内で行われる作業であっても、

脳を、より「身体的」に使った作業なんじゃないかなと。

そして、「身体的」であるからこそ、頑丈で消えにくいんじゃないかと思うわけです。


よく、スポーツでは「体で覚えろ」と言われますけど、

あれなんかも、脳を「身体的」に使っているんだと思うんですね。

反復練習することで、「思考」を通さずに反射的に反応出来る回路を脳内に作っているんでしょうね。

「記憶」にも、それと似た「身体性」があると思うわけです。



それで、何が言いたいかと申しますと、(前置きが長い!)

いわゆる「認知症」についてなんですね。


「認知症」の人と言うのは、

脳の機能が低下してしまって、記憶力や思考能力が衰えてしまっている

ということに成っているわけです。


でも、もともと「記憶」と言うものが「身体的」な作業であるならば、

その機能低下と言うのには、「運動不足」のような性質があるんじゃないかと思うわけです。

また、「論理思考」についても、生活に必要な最低限の「論理思考」などは、

「思考」と言うよりも、むしろスポーツの「反復練習」と同じように、

この「身体的」な作業に入るという可能性もあるんじゃないかと思うわけです。


つまり、言われている「脳の委縮」みたいなものは、

筋肉や骨格で言えば、「運動不足」で衰えている状態であって、

歩いたりするような、日常の動作ができなくなるほどの機能障害と言うほどではないケースも

けっこう多いんじゃないかと思うんですね。


違うのは「脳細胞は再生しない」と言われていることなんでしょうか?


でも、人間の脳はむしろ大き過ぎるくらいですし、

現代人は、その肥大化した「脳」に拘束されているとも言えるわけですから、

多少の「萎縮」は、実はそんなに大きな問題でもないような気もするんですね。


そういう「機能障害」とまでは言えないものまで、

ほぼ同列に「認知症」とされてしまっているように思います。


症状の進行度合いとしては捉えられているんでしょうが、

それが、ちょっと極端に単純化されていると思うんですよね。


「単なる運動不足」と「筋肉が委縮してしまう難病」みたいなものが、

ダイレクトにつながってしまっているような違和感があるわけですね。


実際に、「認知症」で「記憶」が曖昧に成ったり、

たった今やっていたことを忘れてしまったりする人が、

昔の「記憶」や自分の好きなことについてはよく覚えていたりすることはよくあるでしょうし、

また、「認知症」で意味のつながらないような話をしている人が、

時として、思考的な水準の高い話にも対応できることもあるなんて言うことも聞いたことがありますし、

「認知症」=「全体的な脳機能の低下」でもないような気がするわけです。


これは、私の勝手な憶測ですけれど、

そもそも「認知症」と言うのは、

「脳の身体的な使用」に関する「機能の不活性化」ではないかと思うのです。

つまり、必ずしも、本当の脳機能、すなわち「精神活動」における機能低下ではなく、

むしろ、「身体的な活動」における機能不全に近い症状なのではないかと思うわけです。

ただ単に、その「身体的な活動」の場が「脳内」であるということなんじゃないのかなと。



そして、解り難くなって申し訳ないんですが、ここで話が一番初めの所に戻ります。


『人間は「忘れること」で生きていける』と言うところですね。


要するに、現在の高齢者の置かれている環境が

「忘れないと生きていけない」ということなんじゃないですか?と言いたいわけです。


つまり、現在の高齢者は脳機能全体が低下したことで「認知症」に成っているというよりも、

むしろ、「忘れないと生きていけない」から、

敢えて、「忘れること」=「記憶の不活性化」を選択しているんじゃないかと思うのです。

つまり、脳機能の一部を「不活性化」することで、「生きて行ける」ようにしているということですね。

そうやっているうちに、知らず知らずに「運動不足」に成って、

「脳の身体的な使用に関する機能」が、急激に低下して行ってしまうというパターンが

実は、一番多いんじゃないかと言う気がするんですね。


これは、高齢者が、それを”ワザト”やているという話ではありません。

無意識のうちに、そういう状態に追いやられているということだと思います。


要するに、現在の高齢者が尊敬されていないということだと思います。
(身近な人からの尊敬と言うよりも、「社会一般」が高齢者を尊敬していないということですね)

それで、高齢者が人間としての尊厳をもって生きていける領域が狭くなってしまっているわけです。

だから、「脳を不活性化して」、「ギリギリの尊厳」を保とうとしているんじゃなかと思うのです。


それは、正しい選択とは言えないのかも知れません。

それによって、さらに”痴呆扱い”されてしまうわけですから。

でも、人間としての尊厳を与えられない人間と言うのは、

往々にして、そうした”自暴自棄”な間違った判断を下してしまうものなのかも知れません。
(これも、意識してと言うことではなくてですね)


例えば、「社会的な差別」や「社会的な貧困」などのような

自分の力だけで抜け出すのが困難な問題を負わされた人は、

「その環境の中でも最善を尽くす」という人と、

「犯罪」や「依存症」のような”自暴自棄”に陥ってしまう人の両極に分かれてしまうものでしょう。


もちろん、それだけではないのだと思います。

年を取っていますから、当然、身体的に衰えているわけですし、

それと同じように、身体の一部としての「脳」も衰えてはいるのでしょう。

でも、それだけだとも思えない兆候がたくさんあることも事実なんじゃないかと思うわけです。


そこで、またまた、話は変わりますが、「サヴァン症候群」と言われる人が居ますけれど、

これもよくは知りませんが、彼らは、おそらく「記憶」などの能力が突出してすぐれているというよりは、

その「能力を不活性化する為のシステム」が機能していないのだと思います。

要するに、いつも過剰なまでに「活性化」した状態にあるわけでしょうね。

 
つまり、人間の「脳機能」は完全に「活性化」されれば、

一般人の能力でも「サヴァン並」なのかも知れないということです。

また、それとは逆に、どんなに優れた能力を持っていても、

それが「不活性化」されてしまえば、いわゆる”ボケた”ようにしか見えないでしょう。

そういうのが「認知症」と呼ばれているものなのではないかと思うわけです。


いずれにしても、全ての人が年を取るわけですから、

年寄りが幸せでない社会と言うのは、全ての人が「いい死に方」ができないということです。


生きている時はともかくとして、

全般的に「死ぬ時は不幸」と言うのはどんなもんなんでしょうね?


出来れば、自分が年寄りに成る前に「年寄りを尊敬すること」をおススメしたいですね。

やっぱり、自分が年を取ってから「尊敬しろ」と言ったんでは、

自分の都合だけで「年寄りを尊敬しろ!」と言っていることに成ってしまいますからね。

でも、それじゃあ、いくら「尊敬しろ!」と言っても尊敬されませんよね。

いま、そういう「悪循環」が起きているんじゃないでしょうか?


そんな風に思ってしまうわけなのです。




「ブナン」と「マシ」

「ブナン」とか「マシ」っていうと、両方ともあまりいいイメージがないと思うんですけど、

この二つには違いがあると思うわけです。


「ブナン」の方は、何かをする前に危険性の少ない方の選択肢を選ぶことで、

「マシ」の方は、最終的に、それほど悪くはないけど良くもない

という結果になってしまったということだと思うわけです。


つまり、「ブナン」は”チャレンジ”してないわけですね。

それに対して、「マシ」は、なんとなく”チャレンジャー”な印象があるわけです。

「全力を尽くした感」が無くもないと思うんですね。


一所懸命やったんだけど、なんか”パッとしなかった”っていうんですか?

それで、どこか”不完全燃焼”ではあるんですけど、

反面、どこか「やるだけはやった」っていう”晴れやかさ”もあったりするんじゃないかと思うわけです。


そんなところから、常に「マシ」を”良し”とする習慣を身に着けようと思っております。
(やるだけやった結果の”マシ”ということですけどね)


はじめから「マシ」を狙っちゃいけないと思うんですけどね。

「ブナン」になっちゃいますからね。


でも、一所懸命にやって「マシ」ぐらいだったら、

「ソートーなモン」なんじゃないの?

って、いつも思えるように、

「ただいま修行中」です。


まぁ、このブログなんかも

「ソートーなモン」だなと。


そういう風に思おうと思います。

でも、”マシ”にも届いていない場合はどうすればいいんでしょうね?


「まぁ、いいか?」

と言う風に思おうと思います。


「職業」じゃない「シゴト」

【職業:専業主婦】とか 【職業:学生】とかっていうのに、

ちょっと引っかかりがあるという人は、私だけでもないんじゃないかと思うわけです。


昔から思っていたんですけど、「専業主婦」とか「学生」って「職業」なんですかねぇ?

もし、そうだとしたら「主婦」は「家庭」に、

「学生」なんて「学校」に就職したって話になりますけど(それは先生でしょ!)どうなんですか?


まぁ、そういうのはヘリクツなんでしょうけどね。

でも、「職業」ではない「シゴト」っていうのが

あってもいいんじゃないかっていうことが言いたいわけなんですね。

要するに、無理して何でも「職業」にしなくてもいいんじゃないかということですね。


「職業」っていう言葉をどう考えるかにもよりますけど、

”収入がある”ということで考えれば、

「主婦」や「学生」は外れてしまうわけですし、

”本業とするところ”と考えれば、

該当するように成るということなんでしょうか?


でも、一番わかり易い「職業」の解釈からすると、

「収入を得ている仕事」ということなんだと思うわけです。

「主婦」や「学生」は、ただ単にメンドウだから、強引にそこに押し込まれていただけなんじゃないのかなと。


まぁ、ちょっと前までなら、「専業主婦」や「学生」ぐらいしか、

そういう立場の人が居なかったでしょうし、

そういう人たちも区別がしやすかったでしょうから、

「専業主婦」と「学生」は「職業」に含めましょう、ということで問題なかったんだと思います。


でも、このところ、こういう「職業」じゃない「シゴト」の種類が、

随分増えているんじゃないかと思うわけです。


私なんかもそうなんですけど、

「創作活動」は収入のことを考えてやっているわけではないので、

「職業」と言われても答えられるものがないんですが、

意外と、それなりの「シゴト量」はコナシテいるんじゃないかと自負しているわけなんですよね。
(効率は良くないですけど)


他にも、「ボランティア」なども、そういう「職業じゃないシゴト」なんだと思います。

これなんかも、昔と比べるとかなり種類が増えたんじゃないかと思いますし、

身内の介護をしていて「職業」に就けなくなっている人など、

何らかの理由で、「職業」を休業中の人も増えているんだと思うわけです。

そういう人たちなんかは、「職業」を持っていた時よりも、

よっぽどハードに「シゴト」をしているケースも多いんじゃないでしょうか?


それから、この「ブログ」を書く作業っていうのも、一種の「シゴト」ではあるのかも知れませんね。

まぁ、これなんかも「収入」を目指してやっている人もいるでしょうし、

そうでない人もいるでしょうが、

どっちにしても、何かしらの「シゴト」であるとは言えるんじゃないかと思います。


で、何が言いたいかと言うとですね。

このジャンルに名前がないわけです。


それでいつも、「職業」で困るわけですね。

どういう風に言っても、正しく伝わる気がしないわけですよね。


だから、誰かに、この「職業じゃないシゴト」の名前を付けてもらいたいと思っているわけです。

評論家でも、コピーライターの人でもいいですけど、なんかイイ名前を付けてほしいんですね。

「そうそう、自分がやってることって、そういうことなんだよね!」っていうようなヤツですね。


『「職業」ではないですが、「〇〇」として、これをけっこう一所懸命にやってますよ。』

と言えるようにしてくれるとウレシイなと。


そんなことを思っています。





「話」には「層」がある

「話」には「層」があると思うのです。

一つの「話」をしている時には、

本来、一つの「層」の中で「話」をしている”ハズ”なんだと思うわけです。


例えば、「冗談」を言っている時には、「冗談」と言う「層」で言っているわけで、

それに対して、「冗談」以外の「層」で言葉を返すと、「冗談」として成り立たなくなってしまいます。


それと同じように、どんな「話」にも、それぞれ、その「話」に見合った「層」があって、

それを無視すれば、その「話」はほとんど意味をなさないものに成ってしまうわけなのです。


ところが、とりわけ議論の場においては、

この「話の層」をしっかりととらえて「話」を進めていくのが、なかなか難しいわけです。

そして、この「話の層」を外してしまうと、

あっという間に、「不毛な言い争い」になってしまうということですね。


そうならない為には、どちらもお互いに「共通の層」に合わせて、

「話」をしようとする気持ちが必要になってくるわけですけれど、

議論の場においては、相手を論破しようという考えが出て来てしまい勝ちですから、

むしろ、「相手の層」に合わせないようにしてしまうわけですね。

つまり、相手の足をスクオウとするわけですね。


でも、これは全くの本末転倒で、

それだったら、はじめから議論なんてしない方がいいくらいかも知れません。
(それでも、しないよりはいいかも知れませんけどね)

それは、相手の矛盾点を指摘し合っているだけで、

その「言い争い」に「内容」と言えるものはあり得ません。


人間の言うことには、必ず「矛盾」が含まれていますから、

それを指摘することはそれほど難しくはないでしょうが、

「話の層」を外して、「矛盾」を指摘することは、

「批判のための批判」であって、「実質的な意味を持った批判」とは言えないでしょう。


この「話の層」を外すことや、「話の層」をコロコロと変えて相手を撹乱することを、

巧みなディベートだと言ってしまっている傾向があるように思いますが、

そういう「言い争い」は、常に全くの不毛です。


「共通の層」に合わせて「話」をしつつ、

そこで生まれた「批判」にこそ、価値があるのだと思っています。


「議論」をするには、

先ず、「共通の層」の中で「話」をするということが大前提であって、

そのうえで、「話」に参加する人が、共有できる「話の層」をしっかりと決めてから

「話」を進めることが必要になってくるわけです。


そうすることで、その「話」の本当の内容がどんなものなのかが見えて来るんだと思います。

現在、ディベートにおいて巧者と考えられている人には、

まったく「内容」の無い「話」しかしていない人がかなりいるように思えるわけですが、

そういうことが、世の中をツマラナイものにしていることは間違いないことかと思われますので、

「話の層」は守った方がいいんじゃないのかなと。


そんな風に思います。





「人間性」って何?

このブログで、何回か書いていることですけど、

私は、「人間性」と言うものはとても大事だと思っているわけです。

と言うよりも、「人間性」が「100」で、他は「0」だと思っているんですね。


ところで、「人間性」って何なんだ?ということです。


まぁ、あくまで私が勝手に考える「人間性」ですけどね。

要するに「人間らしさ」だと思うんですね。

「うーん、当たり前だ。」


でも、「人間らしいこと」っていうのは、けっこう複雑なことだと思うんですね。

人間以外の動物は、かなりの部分で本能に忠実に生きていますから、

「迷い」がない(少ない)わけですよね。

ところが、人間はいつも迷っているんですね。

「本能」と「理性」とか、「善」と「悪」とか、「理想」と「現実」とか、

いろんなところで、引っかかってしまうわけですね。


いつも二つの間で「迷う」わけですよね。

それで結局、それこそが人間の最大の特徴になっているんだと思うんですね。

つまり、「人間らしさ」=「人間性」っていうのは、

何かと何かの間で、フラフラと揺れ動くことなんじゃないかと思うわけです。


そんなものが大事なのか?と言われるんでしょうけど、

私は大事だと思うんですね。

と言うより、最初に言ったように「100対0」で大事だと思うわけです。


「迷いがないこと」はいいことのようですが、

実は、”何かを切り捨てている”ということでもあるわけです。


人間は、選択の余地なく、常に「二極の間」に立たされています。

これは、おそらく言葉(論理)を持っているからだと思います。

そこで、「迷わない」ためには、そのどちらかを切り捨てなければならなくなるわけですね。

ところが、人間が立たされている位置は、「二極の間」であることに変わりがありませんから、

どちらかを「切り捨てること」は、「人間らしさ」の半分を切り捨ててしまうことに成るわけです。


そこで、「二極の間」に立ちながら、その間で「迷い」つつも、

そのどちらも捨てずに「両立を目指すこと」、

これが、現在考えられるところの「人間性」なんじゃないかと思うわけですね。


ただし、残念ながら、この「両立」は達成されることはほとんどありません。

ほとんど無理なんですね。

それでも、それを目指すのが「人間らしいこと」なんじゃないかと思うんですよね。


そして、これは誰でも普通にやっていることなんだと思います。

例えば、「いいことをしよう!」と思ったとして、

当然、「いいことをするのは大変である」ということが出て来るでしょうね。

でも、みんな「なんとか”ラク”していいことをしよう」としますよね。

それが普通なんだと思いますけどね。

出来るわけがないです。

でも、またやろうとしますよね。

そういうのを「人間らしい」と思います。


ダイエットしようとするとしますよ。

ほとんどの人が「美味しいものをたくさん食べながら痩せよう」としますよね。

出来ないのはわかってるんでしょうね。たぶん。

でも、絶対に凝りませんね。

完全に「人間らしい」ですね。


そういうことだけじゃなくて、

いつも、人間は「出来もしない両立」を目指して「迷い」ながら、

奮闘しているわけですね。

そういう姿こそが、とても大事なんだと思うんですね。


割り切って、「迷い」を捨ててしまうことは、効率的ではありますし、

ある意味”ラク”なのかも知れませんが、

決して「人間としていいこと」ではないと思いますね。


結果的に何かを達成することなんて、大したことでもないと思うんですね。

まず、「人間らしいこと」があってのことですから、

「達成」のために「人間性」を捨ててしまったら、

一体何のための「達成」なのか?ということに成ってしまうと思うんですね。


そういうわけで、「達成しないこと」を「達成しよう!」と言うのが、

「人間らしさ」=「人間性」かなと。


そういう”変”な結論に到達いたしました。






「世間の基準」と「自分の基準」

「世間の基準」と「自分の基準」が一致していることってあるんでしょうか?

実際には、これはほとんど”無い”と思うんですよね。


例えば、「いま流行って”イル”もの」を、もともと自分が好きな人っているんでしょうか?

だったら、その人は流行って”イナクテモ”それが好きっていうことに成るわけですけど、

「いま流行って”イル”もの」が好きな人は、「いま流行って”イナイ”もの」は好きじゃないんだと思うんですね。

逆に、「いま流行って”イナイ”もの」が好きになるような人は、

「いま流行って”イル”もの」を好きにならなかったりするんじゃないかと思うわけですね。

要するにややヒネクレテいるんでしょうね。


まぁ、その「ヒネクレ」の部分は抜きにしても、

やはり、「世間の基準」と「自分の基準」が一致することって、

そうそうあることじゃないんだと思うんですね。


だから、私は「世間の基準」と「自分の基準」が一致していると思ったときには、

自分が「世間の基準」に「自分の基準」を合わせているんだなと思うようにしているんですね。


そうして、「それでもいいや」と思うことについては、そのままにして、

「いや、これについては自分の基準でやりたい」と思うことについては、

出来るだけ「世間の基準」を排除するようにしています。


「自分の基準」でやってると思っていたことが、「世間の基準」でやらされていたことだと思うと、

相当”ソン”した気に成るので、

そんな風にしています。


でも、「それでもいいや」の方のことについては、

ぜんぜん”ソン”した気にならないし、むしろ”トク”したぐらいに思うこともあるので、

「坊主じゃないけどマルモウケだな。」

そんな風に思います。





「人間の本能」と「社会の本能」

このブログでも何度か書いていることなんですが、

「社会」や「組織」などの人間の集団には、ある種の「意思」が存在すると思うのです。

つまり、人が集まると一人一人の「意思」とは違う、全体の「意思」が生まれて来るということですね。

   ※2014年6月15日・2015年1月14~15日などの記事で書いています。


そう考えると、人間に「本能」があるように、

「社会」にも「本能」が発生するんじゃないかと思えてくるんですね。


一人一人の「人間の本能」は、

遺伝子などに組み込まれて受け継がれているということに成っているわけですけど、

「社会の本能」は、情報や書物によって受け継がれているんだと思います。


まぁ、実際には、それらの情報に触れなければ、なにも伝達されないわけですから、

それを先天的に受け継がれた「本能」と同じように考えるのは、

厳密に言えば、「間違い」なんですけどね。


でも、「現代社会」においては、

「その社会」に生まれた人は「その社会の情報」に触れずに育つことは

ほとんど不可能と言ってもいいくらいなわけです。

だから、それは選択の余地がないこととも言えるわけですし、

それらの情報の多くは、ずいぶん前の世代から受け継がれているようなものなんでしょうから、

「社会」を生き物のように考えた場合、それが先天的に受け継がれたものであるとも言えなくもないわけです。


いわゆる「お国柄」みたいなものによって、

そこに住む人の「嗜好」がずいぶん違ったりすることがあると思いますけど、

(例えば、「異性」についての「嗜好」なんかですね)

ある国では、太めの人がモテて、

違う国では痩せていないとモテないっていうパターンがありますよね。


こういうパターンには「その時代の流行」に近いものと、

「時代を超えた伝統的」なものがあると思うのです。

その「時代を超えた」の方を「社会の本能」として捉えたら面白いんじゃないかと思うわけですね。


こういった「嗜好の違い」は、「食べ物」や「色」などいろんなところに出ていると思うんですが、

ほとんど、「個人の嗜好」とは言えない場合も多くて、

そういう場合は「社会の嗜好」なんだと思います。


つまり、「個人的な好み」を差し置いて、ある種の「逆らえない欲求」が生み出されているわけですね。

これは「本能的な欲求」にかなり近いものなんじゃないかと思うわけです。


そこで、これも前に書いたことなんですが、

そういう「集団の意思」と言うものが、

そこに属している「個人の意思」を完全に無視して暴走することがあると思うんですね。


よく、会社で会議なんかをやると、「みんなで話し合って決めたこと」のハズなのに、

「誰も望んでいなかったこと」が結論になってしまうことがあると思うんですね。

しかも、そういう時の「結論」は大抵トンチンカンです。


そういうのは、「集団の意思」なんだと思いますね。

これは、必ずしも話し合いが不十分だったからとか、

意思の疎通が取れていなかったからということではなくて、

時には、話し合えば話し合うほど方向がズレてしまうということもあるんじゃないでしょうか?

つまり、話し合うたびに「集団の意思」が強化されていって、

「個人の意思」が抵抗できなくなっていくということでしょう。


そうなると、「社会の本能」については、どうなのか?

要するに、「社会の本能」が「人間の本能」を圧迫していることもあるんじゃないか?ということですね。


なんだか、そういうこともありそうですね。


そもそも、「現代社会」においては、

何が「本能」で、何が「本能」じゃないのかっていうことが、

意外と見え難い状態になっているんじゃないかと思うんですね。


例えば「食欲」にしても、いま何が食べたいのか?っていうことが

今の時代は、とても解り難い状態なんだと思うわけです。

寿司屋さんに行って「なんでも好きなものを注文していいよ」と言われたら、

「遠慮すること」を抜きに考えた場合、大抵の人が、まず、値段の高いものから頼むでしょう。


少しでも「トクしたい」という「欲」が働くわけですね。

「食欲」ほど「根源的な欲求」ではないにしても、

この「トクしたい」と言う「欲」はかなり「本能的な欲求」と言えるでしょう。


「食欲」が「人間の本能」で、「トクしたい」が「社会的な本能」ということですね。

そこで、「人間の本能」が「社会の本能」に邪魔されて、

何が本当に食べたいのかが解り難く成るわけです。


まぁ、そんなにアサマシイ人(ハイ、私です!)ばかりでもないでしょうが、

そういう「人間の本能」なのかどうかがはっきりしないような「欲求」はほかにもたくさんあります。


今なら「ダイエット志向」がありますね。

何かにつけて、「太るものは食べたくない」という

一体どこから出てきたんだかわからない「欲求」が

「人間の本能」である「食欲」を圧迫していることがよくあります。


それから「健康志向」もありますね。

「体に悪いものは食べたくない」

「体にいいものなら少しくらい不味くてもいい」

こういうのも「人間の本能」が圧迫されているような気がしますね。


こういう時には、「社会の意思」や「社会の本能」が関係しているんじゃないかと思うんですね。


それで何が言いたいかと言うと、

『「社会の意思」や「社会の本能」に惑わされずに、「人間の意思」「人間の本能」に目覚めよう!!』

ということなんですね。


これも前に書いたんですけど、

人間と言うのは、「個人」では、おおむね「正しいこと」をする生き物なんだと思うんですが、

「集団」や「組織」に成ると、おおむね「間違ったこと」をする生き物なんだと思うのです。

と言うよりも、そういう性質を持っているのは「社会という生き物」なのかも知れませんね。


その上、「個人」なら間違っても、被害の規模が小さいですけど、

「集団」の間違いは取り返しのつかないことに成ることがあるので、

やっぱり、「人間の本能」つまり「個人の意思」に従って行動した方がいいんじゃないのかなと。


そして「自分の人間としての本能」が何を求めているのかを、

出来るだけ、見極めていった方がいいんじゃないかと思いますね。


まぁ、「集団」が「個人」にとっても有益な判断を下してくれれば、

そんなこと考えなくてもいいんでしょうけどね。

「社会」のどこを見渡しても、いろんな意味で”期待ウス”な感じですね。


たぶん、一人一人は、みんなイイ人なのにねぇ。

なんで群れると「えっ!!」っていうことが起きてしまうんですかねぇ。
(群れていない人でも、「社会」を意識しすぎるとそうなりますね)

そういうのは、「モッタイナイなぁ」


と、そんな風に思うのです。




「変わること」とは「変わり続けること」

人と言うものは、たいてい、人生の中のある時、自分が「変わって進歩した」と思っているんでしょうね。

自分のことを、「全然進歩していないなぁ」と思える人って、そんなに居ないように思います。

”言うだけ”の人は結構いるかもしれないですけどね。


でも、これが「変わり続けること」と言う話になると、

「変わり続けていますよ」と言い切れる人は、これもまた、そんなには居ないように思うわけです。


そこで、思うことなんですけど、

いま現在、変わり続けていないものを「変わった」ということに意味があるのか?と言うことなんですね。


「前は、〇〇だったけど、今は〇〇だ。」と言うときに変わったということに成るわけですが、

「前」と「今」が違うことに、どれほどの意味があるのか?ということですね。


何か「一つの目標」に向かっているという前提であれば、

「前」よりも「今」が、その「目標」に近ければ、意味があるということに成るのでしょう。

それを「進歩した」と言うわけですね。

でも、そういう「一つの目標」に向かっているということでないのであれば、

「前」と「今」が違うということには、それほど意味がなくなってしまうんだと思うわけですね。

要するに、「進歩」ということ自体が「無いに等しい」ということですね。


そして、そういう考え方をした場合、

下から上へ登ろうとして「変わること」ではなくて、

同じ平面上で、動き続けることとしての「変わり続けること」の方が

意味が大きいということに成るんじゃないかと思うのです。


何かのきっかけで「変わった」と言う話を聞くことが、けっこうありますけど、

せっかく「変わった」のに、その場に止まってしまったら意味ないんじゃないですか?

と言うことが、多いように思うわけです。


「一つの目標」に向かうことに、あまり意味がないという前提で言えば、

現在「変わり続けていること」にしか意味はないと思うわけです。

つまり、その「方向性を持ったエネルギー」にこそ、意味があるわけで、

いくら「前」と「今」が違っていても、「止まっているモノ」には、

そういう「方向性を持ったエネルギー」は、もうなくなってしまっているわけです。


そもそも「変わること」というのは、そういうことなんじゃないかと思うんですよね。

その「エネルギー」のことを指して言っている言葉なんだと思うわけですね。


それでもって、「あの時から変わった」と言う人が居ると、

「で、今はどうなんですか?」と聞いてしまうわけですが、

たいてい、すごく嫌な顔をされます。


止まっている時に、自分が「止まっていること」を認めないで、

過去に「変わったこと」について語っていると、

もう、それ以降は、変われなくなってしまうと思うんですね。


だから、いま停滞している時は、

取り敢えず「自分は今止まっているけど、動きたいんだ!」と思うことがイイんじゃないかなと。


そんな風に思っています。




「不便さ」考

「不便さ」が好きなんですねぇ、私は。

これには時として困ることもありますけど、直りませんねぇ、ぜんぜん。


なんで「不便さ」が好きになったんでしょうねぇ、わかりません。

さらに、いつから好きになったのかもよく覚えていないんですねぇ、自分のことなのに。


気が付いたら好きになってたんですねぇ、「不便さ」が。


いえ、「便利さ」が嫌いってわけじゃないんですよ、ぜんぜん。

と言うより「大好きです!」

「便利さ」も好きなんですねぇ、とっても。


ただね、「便利すぎる」っていうのが、チョットキライなだけなんですね。

それでもって、「便利すぎるモノ」が、どんどん増えて来るもんだから、

いつの間にか「不便さ」が、気持ちよく感じるようになってきてしまったんじゃないかと思うんですね。


正直言って、「不便さ」は、とてもイラつくんですね。

それなのに、また、その「不便さ」の方を選んでしまうんですねぇ、懲りずに。


そうやっていると「不便さ」にだんだん慣れてきて、吸収してしまうんですね。

それで、妙な愛着みたいなものが出て来るんですね。

そこからは、もう手放せなく成ります。


自分がそんなだから言うわけじゃないんですけど、

「不便さ」って、けっこうこれから見直されていくんじゃないかと思ってるんですよね。


なんて言うか「便利さ」って、ツマンナイっていう感じはあると思うんですね。

「飽きる」って言ってもいいと思いますけど、

まぁ、要するに「フツー」なんでしょうね。


私は、人間については、「普通」なことこそオモシロイと思っているんですね。

つまり、人間は十分複雑ですから、「普通」ぐらで丁度いいっていうことなんでしょう。


でも、「物」については、「フツー」っていうのが、

どうも、オモシロクはないんですね。

「物」は人間ほど複雑でもないですから、

「ただ単に便利なもの」はオモシロクないんだと思います。


だから、「不便さ」を”ウリ”にするものがもっとあってもいいと思うわけです。

「不便だけど上質なモノ」がもう少し流通してほしいですね。


そんなことで、世の中が少しは豊かになるなら、イイんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。





「怒る人」と「チッチャイ自分」

「怒る人」って居ますよね。

いや、ちゃんとした理由があって怒るっていう話じゃなくてですね。

どちらかと言うと、ほとんど初めから怒っているというか、

「怒るぞ!」っていう構えで生きているっていうよな人ですね。

短気な人っていうのとも、ちょっと違います。


要するに、そういう人っていうのは、「自信が無い」んだと思うんですね。


大抵の場合、むしろ「できる感じ」にしていたり、「強そう」にしていたりして、

「自信満々」に見えるので、

まさかこの人が「自信が無い」なんて、有り得ないんじゃないか?

というように見えるんですけど、

実を言えば、その「できる風」や「強そう」こそ「自信が無い」証拠でもあるわけですね。


実際、「できる風」や「強そう」をことさらに強調する人は、

ほとんどの場合、心の底に臆病な「チッチャイ自分」を持っています。


と言っても、実は、この「チッチャイ自分」は誰の中にも居るんだと思います。

ただ、その「チッチャイ自分」が居ることを認めてあげる人と、

そういう「チッチャイ自分」が許せなくて、いつもイライラしている人が居るんだと思います。


「チッチャイ自分」が認められない人は、だいたい完全主義的な人ですね。

つまり、自分の中の「不完全性」や「弱さ」が認められないんですね。

自分の中に、そういう弱い所やダメな所があるのが許せなくて、

いつも苛立っているんですね。


だから、「芸術」なんかをやろうという人には、わりと多いんじゃないかと思いますね。
(そうとも限りませんか?)

まぁ、私なんかも、元々はどちらかといえば、そっち寄りだったような気がします。

今は、少し”マシ”かな?っていう所ですね。


ただ、私の場合、「チッチャイ自分」を認めたところから、

「芸術」に向き合えるように成ったような気もしますから、

「完全性」を捨てたことでかえって”楽”になったのかも知れません。


いずれにしても、イライラする所まではいいとしても、

大抵の場合は、そこで止まっていなくて、

そういう自分の中の「ダメ」を、正当化しようとしてしまうわけですよね。

「自己正当化」ですね。


そうなると、もう、後は、それをヒトノセイにする、

更には、自分がイライラしていることもナニカノセイにする、ということに成って、

それで、いつも初めから怒っているわけです。


でも、残念ながら怒っても、なんにもならないんですね。

まぁ、それでまたイライラするわけですけどね。


けっきょく、死ぬまでには「チッチャイ自分」を許してあげないとならないんじゃないですか?

と言うよりも、死ぬ時までに、そういう「自分の弱さ」を認められなかった人は、

やっぱり不幸だと思いますね。


不幸と言うよりも、「幸せじゃない」ということでしょうね。


それを「すごく不幸なこと」だとは思いませんけど、

「幸せじゃない」と思いますねぇ。

その人が生きてきたことが、全部「白黒写真」みたいに、

「色のない世界」になってしまうような気がするんですね。
(いや、モノクロ写真が悪いって話じゃなくて、「例え」ですけどね)


この「チッチャイ自分」に限らず、

自分のことが、少しでもわかってから死にたいですね。


そして、この「チッチャイ自分」を認めてやると、

そこから、やっと少しづつ「自分の中」を見ることが出来るように成るんじゃないかと思いますね。

それまでは、自分の中を見ると、いつも絶対に見たくない「チッチャイ自分」がそこに居ますから、

どうしても見なくなってしまうわけですね。


だから、自分が「怒る人」に成ってるなっていう人は、

自分の中の「チッチャイ自分」を許してあげましょう。


その子は、とても小さくて弱いので、あなたに怒られて、いつも泣いています。

それが、あなたの姿です。

怒っているのは、あなたなんかじゃなくて、他の誰かです。

追い出すならそっちを追い出さないと、

「チッチャイ自分」を追い出すことは、けっして出来ません。

だって、それが本当のあなたですから。


と言う風に、いつも自分に言っています。

    ※確か、何かの本で、こんなことが書いてあったのを読んだと思います。
     よく覚えていないので、自分の言葉も混ざってしまってますけど。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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