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「普通の心理」がわからなくて「芸術」は創れるのでしょうか?



いわゆる「芸術家っぽいイメージ」と言うものがあるように思うわけです。

それはどんなものかと言えば、「ブットンダ」・「イッチャテル」・「ヘン」みたいなイカレタ感じと、それとは対極的に、「スルドイ」・「フカイ」・「キュウキョク」みたいに思慮深く、一つのことにじっくりと取り組むような二種類のイメージが完全に分離していて、その中間はまったく無いので、やや無理があるんじゃないかと思うわけです。

確かに、「芸術家」にそれらの両極端な要素が同居していることはあるとは思いますが、でも、実は、それらは「芸術家」や「芸術」にとって必要不可欠なものではなく、結果的に、そんな人もいるという程度のことなんじゃないでしょうか?

それで、実は、何が必要かと言えば、それは『何でもない普通の気持ちが痛いほど理解できている』ということじゃないのかなと。

実際、創る側がいくら「ブットンダ」作品を創っても、見る側は普通の人なわけです。
だから、「芸術家」側は自分の中の「ブットンダ」や「キュウキョク」を、完全に消化して自分の血肉にしてから、それを表現する必要があって、そうすることで初めて理解されるわけで、そうでなければ伝わらないわけですよね。

今まで、随分野放しだったのじゃないのかなと。

見る側の人たち、ちょっと優しすぎたんじゃないですか?
見る側にも権利あるでしょ?
というか、普通の人の気持ちが理解できないような人に、「芸術」が理解できるとは思えないんですね。

理解できないものは創れないんじゃないですか?

「芸術家」なんて言ってますけど、結構普通の人が多いと思うわけですね。
みんな普通にしてると格好がつかないから「ゲージツカ」っぽくしてるところもあるんじゃないですか?

でも、もう、そんなに無理しなくてもいいんじゃないかと思うんですね。
もう、そんな時代でもないと思うんですよね。

私といたしましては、普通の気持ちを、もっともっと痛いほど理解しようとする努力を怠っている人の作品は「芸術」だとは思えないわけなのです。

と、そんなことを言ってみました。




「芸術の20世紀 喪失」は時代に挑戦する実験なのです



このブログのテーマである、「芸術の20世紀 喪失宣言」についての記事になります。


この「宣言」は現代という「時代」に挑戦する実験でもあるのです。

人間は、これまでの歴史の中で様々な進歩を遂げてきたわけですけれど、実は、それらの進歩や変化というのは、すべて「時代」の流れに沿ったものであったようにも思えるわけなのです。

科学が急速に進歩したのは「科学の時代」がやってきたからで、市民革命が起きたのは「民衆の時代」が巡ってきたからなんだと思うわけです。

つまり、実際には、人間が「時代」を」止めることができなかっただけで、積極的に「時代」を築いてきたとは言えないような気もするわけです。

まぁ、『後になってからは何とでも言える』と言われれば、そうなんですけれどね。
でも、実際に、人間は「原爆」も「戦争」も「差別」も「大量虐殺」ですら止められなかったわけですよね。

これから先も、きっと「原子力」とか「遺伝子操作」なんかも止めることはできないんじゃないでしょうか?

つまり、かなりの数の人が反対していようが、一生懸命止めようとしようが、必ず、「時代」の力のほうが勝ってしまうわけですね。
『だから、諦めておとなしくしていろ!』なんて言う話じゃないですよ。
もちろん、止めようとすること自体に大きな意味はあると思うわけです。
(これは、真面目に賛成している人の側にも言えることですけどね)

ただ、悲しいかな結果的には、粛々と進められていくということですよね。
これを、人間が人間の意志でやっていると言えるのでしょうか?

私には、どうしても、「時代の力」ですべてが決まっているようにしか見えないんですよね。

しかも、その時に決まっているというよりも、既に決まっていたことが、次々と現実になっていくように見えてしまうんですね。
つまり、人間は、決められた台本どうりに動かされているとしか思えないわけです。

これを続けていくのか?ということです。

もうそろそろ、人間が「時代」に逆らうときが来ているのじゃないですか?
本当の意味で、人間が「時代を築くことの責任」を負うべき時が来ているんじゃないんでしょうか?

戦争をすれば『あの時代はしかたなかった』と言い、原発が事故を起こせば、『想定外の規模の災害だった』と、これから先も言い続けて行きますか?

つまり、人間がしてきたことなのか、それとも「時代」がしてきたことなのか、というよりも、人間が、すべてを「時代」のセイにしてきたのかもしれませんね。


これは、決して、「戦争や原発に反対するか?賛成するか?」ということではなくて、『誰が時代の責任を取るのか?』ということですね。

一度試してみる価値はあると思うのです。
人間に、その責任が回ってきているように感じるわけですね。

つまり、『時代に逆行する』ということですね。
これは、人間が今までに一度もやっていないことなわけです。

過去において、人間は進歩したり発展したりしたことしかないんですねぇ。
こう言うと、イイことに聞こえますが、実は、それらはすべて「人間がやったこと」ではなくて、「人間が時代にやらされたこと」だと言えなくもないと思うわけです。

それで、その「進歩」や「発展」が限界に来ているというところがあるんだと思います。
だから、「戻ること」が必要になってきているんじゃないかと思いますね。
つまり、それこそが「時代に逆行すること」なんだと思うわけです。

でも、いきなり原発だと難しくないですか?
結局、また「時代」に押し切られてしまうんじゃないですか?

そんなところで、どうなんでしょう「芸術」なんかがいいんじゃないですかと。
人の「生き死に」や「損得」に、あまり関係ないところから始めた方がいいのかもしれないですよ。

まだ、「芸術」に「そういう力」はあると思います。


もう「天才」は「社会の重荷」だと思うのです



前の三つの記事のまとめのような話です。

前の三つの記事で、「歳をとること」・「真面目さ」・「一所懸命」が、今の日本社会では軽視されているということを書いたわけです。


『どうしてこんな風になってしまったのか?』と考えると、私の場合、必ず「天才」と言う言葉に行き着いてしまうわけなのです。

私に言わせていただければ、「天才」とは、最も”若く”して、最も”簡単に”、「何かを成し遂げることができた者」で、最も”「真面目さ」を必要としない”存在なのです。


つまり、「歳をとること」も「真面目さ」も「一所懸命」も、「天才」から遠ざかることなのだと思うわけです。


なぜ、「歳をとること」が悪いことのように言われるようになったのか?
それは、歳をとってから何かを達成する者よりも、若いうちに達成できる者の方が才能があると思われているからでしょう。

なぜ、「真面目さ」が”バカにされる”ようになったのか?
それは、才能がないから「真面目さ」でカバーしていると思われているからでしょう。

なぜ、「一所懸命」が軽視されているのか?
それは、才能が有れば簡単にできるようなことを、才能がないから「一所懸命」にやらないとできないんだと思われているからでしょう。


つまり、この三つは「天才」には必要ないものだと思われているわけなのです。
そして、この三つのどれか一つでも持っていれば、才能が無いと判断されてしまうわけです。

 ※『いやいや、天才と言うのは、実は、ものすごく努力しているものなのだよ!キミィ』
  と言う人が非常に多いわけですが、それなら「努力家」でいいんじゃないですか?
  なぜ、そうまでして、その「努力する人」のことを「天才」と呼ぶんでしょう?
  けっきょく、そういうことを言う人は『才能がある人が努力するから、すごいことが出来
  るんだ!』と信じ込んでいるというだけのことです。

  実際は、『努力した人が才能を発揮する』と言うのが本当だと思いますよ。
  「才能」はみんなに同じくらい与えられていると考えれば、「努力した人」が、それを発
  揮するのは当然だし、「努力しない天才」ほど情けないものはないというのも、また当
  然のことなわけです。


でも、現実には、この「天才」と言う言葉に、現在でも実態があるのでしょうか?

私は無いと思っています。


「天才」の条件である、”若いうちに”や”より簡単に”は、

もともと、大した意味はなかったわけですし、才能では到達できない感覚を求められて来ている現在では、「天才」には、もう、実体がないと言わざるを得ないわけなのです。
(これは、必ずしも「芸術」や「創作」などに限ったことでも無いと思います)


「天才」と言う言葉に、今でも実体があるように思えてしまうのは、人々の心の中の「天才」が神格化されて、無条件に疑われることのないの領域になってしまっているからに他ならないわけです。


ところが、その神聖な領域が、どうにも”重荷”になってしまっているわけです。

人間がどこかに向かって進もうとすると、必ずその神域を侵さねばならない状況になっているわけです。

その領域を踏み越えていかないと、何処にももう進むべき方向が無いわけです。


現在、人間がどこかに進もうとすれば、若いうちには到達できないような境地に向かわねばならないでしょうし、人間の才能を超えたところにあるような感性に近づくことが求められるのでしょうし、そのために必要なのは「才能」」ではなく、「真面目さ」や「一所懸命」なのでしょう。


極端な話、同じことでも「天才」がやったのでは「ダメ」で、「真面目に」「一所懸命に」やってこそ価値が出て来るということでしょう。


ですから、現在の、「天才」がやれば「なんでもあり」と言うのとは正反対に、「天才でないこと」にこそ価値が見出されるはずなのです。


これは大事なことだと思いますよ。


「歳をとること」・「真面目さ」・「一所懸命」を軽視しない方がいいのかなと。

それでは、どこにも行くところがなくなってしまうのかなと。


そんな風に思います。




「20世紀美術」と言う実験



「20世紀美術」においては、たくさんの主義主張が現れては消えて行き、その結果として、様々な「~イズム」と名付けられるようなものが生み出され、また、それらに基づいた作品も数多く残されたわけです。

そして、それらを主導した人たちは巨匠と呼ばれるように成り、彼らによって残された作品は名作と呼ばれるように成っていったわけです。

しかし、それは本当に「完成形」だったのでしょうか?


もともと、芸術に完成など無いとも言えるわけですから、完成度の問題ではないのですけれど、巨匠たち自身が、「実験」としてやっていたという”感じ”はないのでしょうか?

つまり、試作品だったということですね。


巨匠の作品を試作品だなどと言うと、怒る人や、ヒガンデいるんだと思う人もいるでしょうが、この点について、私には、どうしても、
彼ら巨匠たち自身が実験的な試みとして、さまざまな「~イズム」を生み出して行ったように思えてならないわけなのです。

そして、それらの「実験」から「納得のいく答え」を導き出す前に、せき立てられるようにして次の「実験」に向かって行かされてしまうような「時代の空気」があったように思うわけなのです。


そう考えなければ、あれだけの「~イズム」が現れては消えたことの説明はつかないように思うのです。


ですから、「芸術の20世紀」が、ありとあらゆる試みを行った「挑戦の時代」であったことは、間違いのない事実だと思うわけですけれど、反面、それは「実験的な習作」を積み上げては放置し続けた、「やりっぱなしの時代」でもあると思ってしまうわけなのです。

これは、決して「実験的な時代」が悪いということではありません。

それどころか「やりっぱなし」ですら悪いとは思っていません。

その時、それらが必要だったのだと思います。

「他の何か」ではダメだったのだとも思います。


ただ、それを「完成形」として扱うことには問題があるように思うわけです。


それらは、あくまで「実験」や「挑戦」としてこそ価値あるわけで、そこから何かが学ばれなければ意味がないわけです。
それらを「巨匠の名作」として”ありがたく拝んで”いるだけでは、せっかくの「挑戦」や「実験」が無駄になってしまうわけです。


そういう「時代の空気」の中で、

本人たちが最終到達点にまで達しなかったことは、やむを得ないことだったように思うのです。
それぐらい困難なことをやろうとしたということだと思います。

そして、そういう時代でもあったということなのでしょう。


でも、いま、そこに残された「試行錯誤」から学び取ることがあるのではないかと思うわけです。


それらの「~イズム」自体を「完成形」としてみた場合、それらに、今でも発表当時と同じだけの意味や価値があるとは思えないのです。

錬金術師が「金」を合成することが出来なかったのと同じで、『いろいろやってみたけど全部行き止まりだった』と言うのが現実だったように思うのです。


そして、いま、その行き止まりから何かを学び取らなければならないということなのだと思うわけです。

つまり、『「金」は決して合成することが出来ない』ということがわかったということです。


『そこからどうするか?』
ということなんでしょうね。
(随分、止まったままですけどね)


そんな風に思っています。




もう「天才」は「芸術」の領域ではないと思うのです



「天才」と言うと、「芸術」には付き物のように成っているわけですけど、実は、この「天才」というのは、もう「芸術」の領域ではなくなってしまっているんじゃないかと思うのです。


本当のことを言えば、「芸術」に限った話でもなくて、他のどんな分野においても、もう「天才」の領域は小さくなくなっているのだと思うわけです。

例えば「政治」の場において、いま「天才」は居るでしょうか?
『居ないと思います』

それは、これから先、現れて来るのでしょうか?
『現れてこないと思います』

それは、何故なんでしょうか?
『もう、そこに領域が無いからです』


かつては、「政治」の場においても、「カリスマ的指導者」と言われた人が居たわけですし、「芸術」においても、「天才」と言われる人たちが居たわけです。

しかし、それが”出現”しなく成って来ているわけです。


さらに言えば、「宗教」の場においても、時代を遡れば、「カリスマ」は、繰り返し現れて、その時、生み出された「宗教思想」が、現代の主な「宗教」や「宗派」の基盤に成っているわけです。


しかし、今後、またキリストやシャカやマホメッドのような「宗教的カリスマ」が現れたりすることがあるのでしょうか?

『無いと思います』

『なぜなら、もう、彼らの領域が無いからです』


いまの世の中に、彼らのような人間が現れたとしても、「カリスマ」や「天才」にはならないでしょう。
(狭い範囲で強く支持されることはあるでしょうが、それはいわゆる「カルト」でしょう)


確かに、彼らには人の心を動かすような”ナニカ”があったのでしょう。

しかし、その前に、世の中に、彼らを「カリスマ」として受け入れる領域があったということ無くしては、彼らが「カリスマ」と言われることも無かったのだと思うわけです。

そして、いま、その領域が限りなく小さくなっていると思うわけなのです。


と言っても、「天才」や「カリスマ」がもう現れなくなってしまって残念だという話ではありません。
むしろ、「天才」や「カリスマ」の領域が無くなりつつあるということは、人間が、そういう段階を卒業したということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、次なるステップへ向かうために、そういうものから抜け出して「新たな人間」として、道を模索するべきなんじゃないかと思うのです。


そして、そういう作業においては、「芸術」は、いち早く道を切り開いて行くべきものなんじゃないかと思っているわけです。

「芸術」には、かつて無いほどの「自由」が与えられていると思うのです。
その、言わば特権的に与えられてる「自由」を、そうしたことに向けて使う義務のようなものが、「芸術」にはあるのだと思っているわけです。

義務と言うと、ちょっと違うのかも知れませんが、どちらかと言えば、『そうせざるを得ない』と言うことなんじゃないかと思います。


世の中に「天才」の領域が無くなっているのに、その「天才」を追い求めていたんでは、「芸術」とは言えませんし、むしろ、まだその領域が残っているうちに、先駆けてその偶像を消し去ることこそが、「芸術」に与えられている役割なんじゃないかと思うわけです。

そういう意味では、かなり”遅まきながら”の感もありますけれど、そういうところに力を使って行くのがいいんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「狙った所に行かない」



どんなことでも、「狙った通り」に成ると言うのは気持ちいいもんですけど、それが、なかなかできないということに成っているわけです。


そこで、「狙った通り」に決められるような能力を持った人のことを「天才」と言っているんでしょう。

でも、もう見飽きてきているんだと思うわけです。
そういう「天才」の「狙い通り」がですね。
いくら「天才」でも、「狙い通り」では、やはり「想定内」の域を出ないわけです。

つまり、「意外性」に欠けるわけですね。
と言うか、多いのは「意外なんだけど想定内」ですね。

これからは、もう少し”失敗したい”と言う気がするんですよね。
つまり、「狙った通りに行かない」、いや、むしろ「行けない」ということかなと。

そういう「失敗」や「できない」が生み出す「本物の意外性」が必要に成って来るんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。


私の場合、それは得意です。




「天才」も努力すれば、きっと「凡人」に成れるよ!



「凡人」も努力次第で「天才」に成れるのか?と聞かれれば、『成れません、無理です!』ということに成るんでしょうけど、じゃあ、「天才」は努力次第で「凡人」に成れるのか?ということだったらどうなんでしょうね?

『ハイ!もちろん成れますよ!』ということなんでしょうね、たぶん。


でも、待てよ。
やっぱり努力しないと成れないのか?
「天才」が「凡人」に成ればいいんだから、努力なんかしなくてもいいんじゃないの?


そうはいかないんですね。

「天才」は努力しなくても、”いろいろなことが出来てしまう”んですね。
それじゃあ、「凡人」には成れません。

だから、やっぱり努力しないと「凡人」にはなれないわけなのです。


同じことが同じようにできるにしても、「努力して出来る人」と「努力しないで出来る人」が居た場合、「努力しないでできる人」の方が「天才性」が高いというようなことですね。

だから、努力すれば、その分だけ「凡人」に近づくことが出来るというわけです。


何が言いたいかと言うと、過去に置いては、「凡人」と「天才」だったら、「天才」に成ることの方に、圧倒的に価値があったんでしょうが、現在においては、そうでもなくなってきているんじゃないか?ということなんですね。
と言うよりも、「天才」では足りなくなってきているということです。

つまり、過去に置いては「天才」で十分だったのに、現在に置いては、「天才」が不十分になって来ているんじゃないか?ということなんですね。

さて、そこで「不十分なもの」を「天才」と言えるのか?っていうことに成るわけです。
それで、私は「天才の時代は百年前に終わっている」と思うわけです。

実際には百年前に終わっていたことが、今になって現れてきたということですね。


それはともかく、何が不十分に成ったのかと言うと、単純に言って”飽きてきた”ということだと思います。


今は、まだ「天才」と言う言葉に、社会全体が依存してしまっていますから、”飽きている”ことが見えにくいということなんでしょうが、そもそも、「依存」と言うのは、そういうもので、実際には、もうウンザリしているのに止められないし、自分がそういうウンザリした状態に成っていることは、見えなくなっているということでしょう。


いま、本当に求められているのは、「凡人」がどこまでやるのか?って言うことなんじゃないかと思うわけです。


人間が「宇宙の存在」を知って、その広がりには際限がないことを意識するように成ってから、また、「時間と言う軸」の不思議には
人間は到底及ばないだろうということを考えるようになってからは、人間にとって、「高さ」や「速さ」などの、それまで「良い」とされてきたものは、競い合う意味のないものに成ったんじゃないかと思います。


つまり、それらの「不思議」に比べてしまうと、「人間の高さ」や「人間の速さ」はあまりにも小さくて『競い合うほどでもないんじゃないかな?』と思ったということじゃないでしょうか。


それで、そういう「一つの頂点」に向かう「天才」と言う存在にも、”飽きてきてる”んだと思います。
「ドングリの背比べ」の「天才」だったら「天才」と呼ぶ意味がないですからね。


あと、もう一つには、『天才にも普通の人として生きる権利を与えましょう』ということがあるわけです。

「天才」であることで「早死に」しなければいけなくなりますし(実を言えば、長生きした天才は沢山いますし、早死にした凡人はもっと沢山いますけどね)、「普通じゃないこと」をやらないといけなくなりますから、ナニカにつけて、不都合なこともあろうかと思いますので、「基本的人権」の一つとして、「天才」にも「普通の人として生きる権利」が与えられるべきなんじゃないかと思うわけですね。


そんなことからも、『「天才」も努力すれば、きっと「凡人」に成れるよ!』と言いたいわけなのです。

そうすれば、もしかしたら、「超・凡人」にだってなれるかもね。
まぁ、「超」がついても、つかなくても、「凡人」は「凡人」なんですけどね。

「超越」しちゃったら、また、「天才」に戻っちゃいますからね。


まぁ、もう少ししたら「凡人の時代」に成ると思いますよ。
取り敢えず、もう、「神の時代」も「天才の時代」も終わってますからね。


『それは、いつごろ来るんですか?』

「まぁ、そのうちにね、でも、成ってからじゃ間に合わないよ!」

『ナニに?』

「いろんなこと!」

と言う風に思います。



「能力」よりも「使力」



「使力」と言う言葉なんて無いんですけど(たぶん)、つくってみました。


なんでつくったかと言うと、今の時代、どれだけの「力」を”持っているか”ということよりも、どれだけの「力」を”使えるか”ということの方が大事なんじゃないかと思うからなんですねぇ。


これは、すでにある言葉で言えば、「努力」に近いものですが、「努力」が「努力する」と言う「行動」を現すのに使われることが多いのに対して、「使力」は「持っている力を使う能力」という意味で、「やや特殊な能力である」と言う風に考えています。

つまり、「行動」と言うよりも、その「やや特殊な能力」自体を指しているわけですね。
言い換えるならば、「自己使役力」と言うようなものです。

これが大事だと思うわけです。


つまり、「どのような力を、どれだけ持っているか?」と言うことよりも、「その持っている力をどのように、どれだけ使えるか?」と言うことが大事なんじゃないかと思うわけですね。


たとえば、『努力も才能のうちだ』と言ったりしますけど、あれは、やや無理があって、「努力」と「才能」は対極的なモノだという固定観念が既に一般的になってしまっていますから、『努力も才能のうちだ』と言ってみても、結果的には「形だけ」と言うことに成ってしまうわけです。

やはり、「努力」と言う言葉だと、『それは能力ではない』と言う印象が付いて回ってしまうわけで、それを「能力の一種である」とするには無理があるような気がするわけです。


そこで、「使力」と言う言葉をつくってみたわけですが、これが、どう大事なのかと言うと、たとえば、スポーツなどで、スター・プレーヤーばかりを集めた「スーパー・スター軍団」みたいなのがありますけど、そういうチームが、必ずしも常勝ではないわけです。

おそらく、そのチームに足りないのが「使力」なんじゃないかと思うわけです。


間違いなく「能力」においては圧倒的なのに勝てないとすれば、その「能力」が使われていないということでしょう。


これまで、こういうところは「監督・コーチ」や「脇役的なプレーヤー」による「ツナギ効果」で、カバーされてきたわけですが、そういう「主役」と「脇役」を役割分担したやり方もあっていいとは思いますが、一人の人間の中に「能力」と「使力」があるというのも、考え方としてアリなんじゃないかと思うわけですね。


そして、一人の人間が、そういう「能力」と「使力」を併せ持っていることが、重要になっていくんじゃないかと思うわけです。


チーム・プレーのスポーツの場合、「脇役」の「ツナギ効果」もまた、面白さの一つになるでしょうが、同じスポーツでも個人競技の場合は、「脇役」に期待することは出来ないわけですし、スポーツ以外の個人的な分野(芸術など)においては、当然、一人の人間がやらなければならないことに成るわけですから、この「使力」と言うことを意識していくことで、「自分の能力」を最大限に引き出すことが出来れば、かなり、いいんじゃないかと思うわけですね。


とくに「芸術」においては、もはや、「能力」や「才能」でできることはネタが尽きていて、その領域がほとんど残っていないというのが現実だと思います。

そんな中で、この「使力」と言う方向性を如何に具体化できるかと言うことは、大事な鍵になっていくんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「能力がホメられる世の中」と「努力がホメられる世の中」



「能力がホメられる世の中」と「努力がホメられる世の中」だったら、どっちがイイんでしょうね。

私は「努力がホメられる世の中」であってほしいなと思っているんですね。


いや、けっして、自分に能力が無いから言っているんじゃないですよ。

『ゼッタイに違いますよ!』

『誓ってもいいですよ!!』

『1万円賭けてもいいですよ!!!』

「・・・・アンタしつこく言う割に、金額が少ないよね」

 ※私にとっては千円からが大金なので、1万円は巨額の掛け金に成ります。


とにかく、そういう個人的なことじゃなくてですね。

「能力が評価されること」には、それほど「意味」を感じないんですけど、「努力が評価されること」には、大きな「意味」があると思うわけです。

つまり、「社会的な意義」と言うことですね。


まぁ、「社会的な意義」も無ければ無いでもいいかなと思いますけど、あるならば、あってもイイと思いますから、考えてみるわけです。


どうして、「能力がホメられる世の中」には「社会的な意義」が無くて、「努力がホメられる世の中」には「社会的な意義」があると思うのかと言うと、「努力がホメられる世の中」だと、みんなが努力するようになるからですね。

すごく当たり前で単純なことだと思います。

でも、その逆に、「能力がホメられる世の中」に成ったとしても、みんなの能力が高く成るわけではありませんよね。

これも当たり前のことだと思います。
だから、「能力がホメられる世の中」には「社会的な意義」を感じないわけです。


しかも、「努力がホメられる世の中」に成った場合は、みんなが努力するようになるだけでなく、結果的に、その中から「能力を発揮する人」も出てくるわけです。

これまた、当然の成り行きですよね。


そうなれば、もう「努力がホメられる世の中」に「社会的な意義」を感じずにはいられません。


そんな感じで、私は「努力がホメられる世の中」に成ればいいなと思うわけです。

そして、このようなことから、『これまでの人生の中で、いま一番努力しているんじゃないか?』と思うほど、努力しているんですが、それが、イマイチ人に伝わらないようで、なんとなく「ラク」してるように見られがちです。


まぁ、それでもいいと思ってやっているので、『わかってくれ』とは言わないが
(こんな歌あったよね?)

努力してるのと、まったく逆のように思われてしまうのはけっこう悲しいかなと。


そんな風に思っていたりします。



そもそも、どうして「素人にはまったくわからない芸術」と言うジャンルが存在しているんでしょう?



そもそもですよ、『どうして「素人にはまったくわからない芸術」と言うジャンルが存在しているんでしょう?』

 ※ここで言う「素人」とは、「芸術」に特別な興味を持たない人のことです。
  「プロ」と「アマチュア」ということではなく、「芸術を知識で捉えていない人」という
  ような意味です。
  「芸術を自分自身の感覚だけで判断する人」と言ってもいいと思います。
  一般的な意味での興味ぐらいはあるが、敢えてそれについて詳しく調べたり、深く
  考えたりまではしないというような、「芸術」に対してごく一般的な立場にいる人を
  指しています。


こういうところをゴマカシ続けて居ていいんでしょうか?

『わからない奴にはどうせわからないんだ!』
『わかってくれる人にだけわかってもらえば、それでいいじゃないか?』
『みんなにわかるモノなんてどこにもない!』

そういうことを言っているんじゃありません。


『すべての人が好きというようなモノは存在しない』
当たり前です。

『あるモノを「ワカル人」と「ワカラナイ人」が居る』
当たり前です。

『創作者としては、わかってもらえる人が一人でも居てくれれば、それだけでも嬉しい』
全部当たり前だと思いますし、それで何の問題もないと思います。


ここで言っているのは、そんなことじゃありません。


ほとんどの素人にはまったくわからないようなモノが、なぜか専門家の間では高く評価されている、「そういう芸術」についてです。

そして、さらに言えば、「そういう芸術」が一つのジャンルになってしまっているという事実について言っているわけです。


「そういう芸術」を、今後も「芸術」と呼び続けていくのか?ということです。
言い換えれば『芸術は一般人を切り捨ててしまうのか?』ということです。

一般人を置き去りにして、「専門家」や「高尚でハイ・センスな知識人」のための芸術と言うモノになってしまうのか?


それとも、それとは反対に、「専門家」や「高尚でハイ・センスな知識人」達をケットバシテ、一般人のところに戻って行こうとするのか?

『いったい、どっちなんだ!?』ということです。


こういうことについて、いろいろと理屈をくっつけて、けむに巻いてしまうところがあると思いますけど、そういうのは全部、「そういう芸術」の側にいる人たちの「自己正当化」だと思いますね。

実際には、専門的な知識を持たない者の理解を拒んでいるような「芸術」が存在することは事実ですし、そういった「芸術」が専門家に高く評価されていることがあるのも事実です。

先端的なアートの世界においては、むしろ主流と言った方がいいんじゃないでしょうか?
「そういう芸術」が存在していること自体に問題があるというよりは、『それが主流になっている』ということに問題があると思うわけです。


要するに、「そういう芸術」をやっている人たちというのは、「一般人」を切り捨てて「専門家」や「知識人」の方を選択しているんだと思います。

そして、それが「芸術の主流」に成っているということです。


つまり、現在「芸術の世界」では、一般人に全く理解されなくても『どうってことは無い』ということです。
だからこそ、「素人にはまったくわからない芸術」というジャンルが成立しているんだと思います。


はたして、それでいいんでしょうか?


『イイわけないだろ!』と言いたいわけですね。

まぁ、『私はそう思います』ということです。


「専門家」や「高尚でハイ・センスな知識人」のための芸術を目指したい方は、『どうぞ、どうぞ』と思いますけど、やっぱり、言ってしまいますねぇ。


『アナタはそちらに行かれるんですね?』

『ワタシはこちらに参ります』

『それでは、さようなら』

と。


少し考えてみた方がイイと思います。そういうの。

「そういう芸術」ですね。


『考えるだけでも、考えてみた方がよくないですか?その辺のところ』

そんな風に思いますよ。





『どうして「天才」は、今も出現し続けているように見えるのか?』



私は、このブログの中で再三『もう天才なんて居ないでしょ?』と言っているんですけど(『そうだ、そうだ!』と言う人は誰一人いませんけど)、じゃあ、どうして「天才」が、今も出現し続けているように見えるんでしょう?


それは、人が「天才」だと思いたい人を「天才」と呼ぶからです。
しかも、「人」だけじゃなくて「マスコミ」や「社会」も同じように、それぞれ「天才」と呼びたいものを「天才」と呼んでいます。

だから、「天才」は今も出現し続けているように見えるわけです。


要するに、現在の社会全体が「天才」という言葉に依存してしまっているわけですね。
(依存させられているといった方がイイのかもしれません)


「カルト宗教」に依存してしまっている人は、その「カルト教」の実体がどんなに「神格性」と程遠いものかがわかった後も、必ず「教祖」のどこかに「神格性」を見つけ出して、その「カルト教」や他の「宗教」の中に自分の居場所を作ろうとします。

つまり、自分が「神」だと思いたいものを「神」と呼ぶように成るわけですね。

そうしないと、自己のアイデンティティが失われて、自分の存在が希薄になってしまうという不安にさいなまれ、とても堪えられないというような精神状態が出来上がってしまっているわけです。


「カルト教」のことだと、特殊な環境の下でそういう心理状態が作られてしまうように見えますが、実は、こういったことは人間の心理の中で常に起こっていることであって、決して特殊なことではないと思います。

特殊な「洗脳教育」などを受けたことで、そういう心理状態が出来上がってしまうと言うよりは、もともと、その人の心理の中にある「依存性」に、「洗脳」が滑り込まされてしまうわけです。

そして、それが「洗脳」であっても「社会的な情報」であっても「親の教育」であっても、結果的に、それらが「依存」に成ってしまえば、はまり込んで抜け出せなくなってしまうわけです。


どんな人も、必ずと言っていいほど、何らかの「論理」や「思考」などに頼って生きています。

その「論理」や「思考」が穏健なモノであるか過激なモノであるか、また、その「依存性」を本人が認識しているか否かといったことで、その「依存」の様子がだいぶ違うモノに成るということだと思います。


そして、現在は「時代」や「社会」そのものが「天才」に依存してしまっているわけです。
つまり、全ての人の心理の中に「天才」という「キーワード」が刷り込まれているということですね。


私は、「天才」は「神」の代替物だと思っています。

かつて人間は、宗教を通じて「神」を「よりどころ」としてきたわけですが、その「神」への信仰が揺らがざるを得ないような時代に成ったことで、「よりどころ」を失った人間が、その代替物として「天才」を欲するように成り、最終的には、それに依存するように成って行ったということだと思います。

 ※つまり、「神の原理」と「自然科学の原理」が整合しない部分が出てきたということです。
  実際には、強い信仰心があれば「科学」との矛盾など、どうということでも無いんでしょう
  が、やはり、普段の生活においては「自然科学の原理」に基づいて生活しているわけで、
  そこに矛盾があると「疑い」が生じてしまうわけです。
  その「疑い」が「信仰の揺らぎ」を生み出してしまうわけですね。
  つまり、強固な信仰心が築きあげられる前の段階で、「ある程度の疑い」が社会の中に
  存在するということです。
  自分が生まれる前からある「疑い」は一人の人間にはどうすることも出来ないわけですね。
  既に存在している「疑い」を無視して、「信仰」に突き進めば「盲信」に成りますし、「疑い」
  を差し挟んでしまえば、「信仰の揺らぎ」は避けられません。
  そういう状態が「現在の信仰」が置かれている状態だと思います。

  このようなことから「宗教の時代」は終わろうとしているわけですが、それは人間が「神へ
  の依存」から抜け出そうとしているということだと思います。
  ところが、一方で、「天才への依存」からは、まだ抜け出そうともしていない状態だというこ
  とです。
  でも、その時期が来ているのも間違いないことでしょうね。
  「天才」が「神」の代替物であると考えれば当然ですね。

といっても、現在に至っては社会全体が「天才」に依存してしまっていますから、こういう話を、受け入れる人はほとんどいません。

『そんなこと言ったって、「天才」は確かに居るじゃないか!』
『ほら、あのスポーツ選手を見ろ!あれを「天才」と呼ばずして何と呼ぶというんだ!!』
『あの芸術家だって見て見ろ!あんな作品を、「天才」でなくて誰が創れるというんだ!?』

ということですよね。


でも、そういうことを言っているわけじゃないんです。

「そのスポーツ選手」がスバラシイと言うことを否定しようということでも、「その芸術家」がスゴイと言うことをコケにしようということでもありません。

そうではなくて、「スゴイこと」や「スバラシイこと」の意味が違ってきているということを言っているわけです。


大昔には、地震も日蝕も雷も干ばつも、みな「神の為せる業」だったわけです。
それが、「科学」に成ったということですね。

つまり、そこは、もう「神の領域」ではなくなったということです。

そういうことが積み重ねられてきて、現在「神の領域」がほとんどなくなってしまったために、「神の時代」が終わったことを人間が受け入れようとしてきているわけです。

 ※もちろん「科学」を超越したモノとしての「神」や「絶対者」を想定することは出来ますが、
  それは、空想の領域でしかなく、まして人間にそれが把握できるということはあり得ない 
  話なわけですから。


でも、地震も雷も昔とナンニモ変わっていません。

それを人間が勝手に「神の業」と言っていたり「科学」と呼ぶように成ったりするだけです。

それと同じように、「スゴイこと」も「スバラシイこと」もナニモ変わりありませんが、それを人間が「天才」と言ったり「凡人」と言ったりするだけなのです。


ただ、「神の領域」が無くなってしまった後も、地震や雷を「神の業」と呼び続けていると、そこに「依存」が生まれて、人間はそこにはまり込んでしまい抜け出せなくなってしまうわけです。

それが「宗教のカルト化」の実体だと思います。


これと同じように、「天才」も、また「その領域」が無くなってしまっているのに、それを「天才」と呼び続ければ、必ず「依存」が生みだされて、そこから抜け出せなくなってしまうわけです。

それが、現時点での「天才」の位置ですね。


でも、その「天才」達は、どうして「天才」と言われているのか?といえば、ただ単に、「世間の要求するもの」を提示して見せたからです。

「スポーツ選手」でも「芸術家」でも、「世間の要求」に応えれば「天才」と呼ばれますし、それに応えていなければ「凡人」です。
しかも、それを最も若いうちにやってのけた人こそが「天才」と言われるわけです。


つまり、最も端的に切り詰めていうなら、「大人社会の要求に一番うまく対応できた子供」これが、現代における「天才」の真の姿です。


これは、現在マスコミが提供してくる情報をもとに判断してしまうと、非常に見えにくくなってしまうことだと思います。


たとえば、「スポーツ」で言えば、オリンピックの種目にあるようなメジャーな「スポーツ」で、『スゴイ!』といわれるような記録を立てた人は「天才」と言われますが、誰も知らない「スポーツ」や、非常に軽く扱われている「スポーツ」(たとえば「指相撲」とか、「エクストリーム・アイロン」とかですね)などで、それと同じぐらい『スゴイ!』記録を立てた人が居たとしても、その人が「天才」という言葉で語られることはほとんどありません。
(まぁ、語られたとしても誰も見向きもしませんけど)

なぜなら、世間がそれを要求していないからです。


そして、それらはマスコミの情報に乗ることはありませんから(あったとしても、シリアスな扱いを受けない)、誰にも気づかれずに、消えていくわけです。
そして、「メジャー情報」だけが大量に流されて、ますます、それらが「天才」であると信じ込まれていくわけです。

しかし、実際には「メジャー組」と「マイナー組」の本当の「天才度」は同じなハズです。

『それなら、そっちも「天才」なんだろ!だったら、やっぱり「天才」は居るってことじゃないか?』

その通りです。


ところが、そうなると、「もっとマイナーなモノ」についてはどう成るんでしょう?
たとえば、「世界で一番、石に蹴躓いたときに転ばなかった回数が多い人」とかですね。

そういうのも「天才」と呼ぶのか?ということです。


それも「天才」ということは出来なくはないんでしょうが、そうなると、全ての人が何らかのカタチで「天才」ということに成ってしまいます。
ある意味、これが本当のことなのかも知れませんが、そうなると、それを「天才」と呼ぶ意味が無くなってしまうわけです。

 ※この「みんな天才」というのが、現時点での「天才」の真の姿ではあるんでしょうが、
  「みんな天才」が実際に受け入れられることはありません。
  なんだかんだ言っても、必ず「天才」と「凡人」とか「才能」と「努力」という二極に分け
  られて、「天才」を祭り上げないと、誰一人納得しないと言うように成っているわけで
  すね。
  これこそ、まさに「社会全体」が「天才」に依存しているということです。
  なにせ、「神の代替物」ですから、「みんな神」ではどうにも役に立ちません。

しかし、もう一方で、『そういうクダラナイモノは「天才」ではない!』と言ってしまえば、けっきょく「世間の要求に応えた者」という路線に戻ってしまうわけです。


つまり、「天才」=「天から授かった才能」という言葉と、「世間の要求に要領よく答えた」というイメージがかけ離れているわけですね。
「世間の要求」は「天性のモノ」ではないでしょうから当然だと思います。


これは「カルト教」の実体が「神格性」とかけ離れているのと同じことです。
そして、かけ離れていても「依存」している人にはわかりませんし、絶対に認めようとしません。


どっちにしても、「天才」と言うモノの実体が見えてこないわけです。
マスコミによって刷り込まれた「誰かにとって都合がイイ天才情報」以外にはですね。


このことは、社会の中で出来上がってしまっている「固定観念」や「マスコミ」が提供している情報などを、一度頭の中から一掃して、白紙の状態にしてから考えてみるとよくわかることだと思います。


たとえば、「スポーツ」でも「芸術」でも、また、どんなジャンルでも、「マスコミ」を通じて、「天才」だという情報が一般に流布された人というのは、もう、その「天才性」を否定されることがほとんどありません。

これ、実はとてもオカシナコトだと思うんですね。
だって、いくら「天才」でも、その人が嫌いな人だっているハズだし、その人のことを評価しない人だっているハズです。

だとすれば、少なくとも「芸術」などの「嗜好性が高い分野、」においては、『そんなモン「天才」でもなんでもない!』ということに成るはずです。

でも、『彼は天才だけど、私は嫌い!』ということは出来ても、『彼は「天才」なんかじゃないよ』ということは出来ません。
というか、言っても意味をなさないんですね。

とにかく、現代社会においては、一度世間に流布された「天才」という情報の前には、それに対する「否定」が全く意味を持たなくなってしまうわけです。

たとえば、何らかの形で「化けの皮が剥がれた」としてもです。

要するに、「天才」というイメージが「神格化」してしまうわけですね。


宗教的信仰を持っている人にとっては、「神の行い」は、それが、一見すると人間を害するようなことであっても、『きっと、神様には「崇高な理由」があってのことに違いない』ということに成ってしまいます。

それは「信仰」であれば当然なのかもしれませんが、「天才」を「信仰」しているという認識がある人は、ほとんど居ないわけですから、やはり、やや「オカシナこと」に成っていると言わざるを得ないですね。


もしも、『そんなことは無い!』と思うならば、思い出してみてください。

「マスコミ」を通じて「天才」という情報が流布された人が、その後、『あー、あの人は「天才」じゃなかったねぇー』と言われたことがあるのか?

おそらく、ほとんどないと思いますよ。

実際は、「天才」と言われた人が、その後「鳴かず飛ばず」のまま終わることはけっこう多いのに、その人が『「天才」じゃなかったんだ』とは言われずに、あくまで『「天才」だったのに、オシイかったよねぇ』ということに成ってしまうわけです。

つまり、一度「天才」と言われてしまうと、それに誰一人逆らえなくなって、従うしかなくなってしまうということです。

どうして、そんな「依存状態」が出来上がってしまったのかと言えば、「神」と同じように「天才」という概念には、もう「絶対性」がなくなってしまっているからだと思います。
(というよりも「絶対性」自体の意味が、無くなりつつあるということでしょう)

これは、考え方が、「多様化」したり「相対化」したりしたことを考えれば当然のことです。
そこで、「天才」や「神」という言葉に含まれている「絶対性」との間に矛盾が生じてきているわけです。

そして、人間が、まだ、その「絶対性」を捨てきれずに追い求めてしまうために、「神」や「天才」のような「絶対性という幻想」を見せてくれるものに「依存」するようになってしまうんだと思います。

実のところ、「天才」と言う概念の実体は、もう消滅していて、それが、あるように見えているのは社会がそれに依存しているからだと思うわけです。


実際、一元的な考え方をすることが「正しい」とされていた時代には、「天才」というモノが存在していられたわけですが、現在のようになんらかの形で多元的な考え方が求められるようになった時代においては、ひとつの方向に固定した考えと言うモノは意味を持たないように成っているわけです。

しかし、前述のようにある特定の方向(たとえば世間の要求のような)を設定しないと、「天才」という言葉は意味を持つことができないわけで、ある方向で考えた場合「天才」だけど、違う方向から考えた場合「凡人」だった、というのは「天才」とは言えないわけですから、多元的な考え方をした場合「天才」は存在しえないということに成るわけです。
(または、『全ての人が天才』のどちらかに成るわけですね)


まぁ、こういうことを書いても、誰一人『そうだ、そうだ!』ということは無いでしょうが、それはまさに、「天才」という言葉に社会全体が依存しているということなんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っているわけです。

 ※これは、けっして『自分だけは「依存」してませんよ』という話ではありません。
  私も「スバラシイ人」を見れば「天才」と呼びたくなることもありますし、それは
  現時点では「シカタナイコト」だと思います。

  ただ、私は「裸の王様」を見たときには、『王様、お召し物がきれいですね』と
  は言わずに、『王様、お肌がきれいですね』と言うようにしているということで
  す。

  


「破壊まで」で「天才」なのか?



前の記事に関連したことです。

 ※以下、ここでの「創造」とは「天地創造」のようなものを指しますので、
  芸術的な創作などとは違って「神の業」とお考えください。


「芸術の20世紀」におけるもっとも中心的な課題は「既成概念の破壊」であったんだと思うわけです。
だからこそ、その「破壊」をやってのけた人間が、まさに「天才」と呼ばれたわけです。

しかし、『破壊まで』で「天才」と言ってしまっていいんでしょうか?
「天才」とは、そもそも「破壊」ではなく、「創造」を成し遂げた者に与えられる名前なのではないのでしょうか?


そこのところを、私なりに解釈してみようと思うわけです。


もともと「創造」は「神の仕事」と言うことに成っているわけですから、「人間」には出来るわけがないということに成っているハズです。
そこで「人間」であるにも関わらず、「創造に近いこと」をやってのけた者を「天才」と言うんだと思うわけですね。


しかし、「20世紀」という時代には、「神」に対する「疑い」が発生していたために、「人間」は、以前ほどは、「神」を迷いなく純粋な気持ちで信仰することができなくなっていたと想像されるわけです。

その結果、「創造主」という「席」が空席になってしまったわけです。

それで、やや強引ながら「破壊」を「逆・創造」と仮定して、『それも一種の創造に違いない!』と言うことにしてしまったようなところがあったんじゃないでしょうか?


「創造」は「人間」にはできませんが、「破壊まで」だったら「人間」にもできますからね。


そして、その「破壊」を「創造の一種」であるとすることで、「天才」と言う「神ではないが神に最も近い人間」によって、「創造主」の居なくなった「空席」を埋めてしまったということです。


要するに、そのことが「神」を見失った「人間」の不安を和らげてくれたんだと思うわけです。

「20世紀」以降「絶対的存在」を失った「人間」の心の動揺はさまざまな形で表れていたと思いますが(世界的な戦争や共産主義などの極化した思想などは、「絶対性」を求めた結果だったのではないでしょうか?)、その都度、「天才」が現れて、何らかの「既存の概念」を「破壊」して、方向性が見えなくなっていることに対する「不安」も一緒に「破壊」してくれたということです。


一方で、「アインシュタイン」が「物理法則」を根本から覆すようなことを言ったかと思うと、「ピカソ」や「デュシャン」が「芸術」における「美」や「感動」という概念を「破壊」してしまいます。
そうかと思えば、「マルクス」や「レーニン」が「社会や経済」の在り方自体を揺るがすような主張を展開します。

そういうことに『へぇ~』と感心したり、『そうだ、そうだ!そうなんだ!!』と興奮したりしている間だけは、不安を感じないでいられたということなんじゃないでしょうか?


まぁ、これらはすべて私の勝手な空想であると言われてしまえばそれまでなんですが、それだと、『じゃあ、なんで「破壊まで」で「天才」なんですか?』という最初の問いに戻されてしまいます。


この私の勝手な空想がどうであれ、けっきょく、『破壊まで』を「天才」としてしまったことが間違っていたことだけは、変らないような気がするんですが、どうなんでしょう?


「人間」ですから、間違えることは「仕方がない」と言うよりも「当然」と言うべきでしょう。

しかし、「間違い」に気が付いたときに、それを認めて修正してきたことで、「人間」は発展してきた動物ですから、そこが抜けてしまうと発展もなくなってしまうということだと思うわけです。

発展しなくてもいいんでしょうが、人間にできるのは、それくらいなんだと思います。


そんなわけで、

「人間」には「創造」なんて出来ません。

「破壊」は「創造」でも「創作」でもありません。

「創作」くらいまでなら「人間」にもできるかもしれません。

でも、簡単にできる「創作」なんてありません。

それは「天才」でも「凡人」でもおんなじです。

それが簡単に出来るのは「神」だけです。

でも、もう「絶対的な神」はどこにも居ません。

「人間」が「神」を信じられなくなってしまったから。

「神」と比べたら「天才」と「凡人」はほぼ同じです。

だから、もう、みんな同じ高さに立って「創作」したり「研究」したりしていい世の中なんだと思います。

もう、「破壊」は飽和しました。

もう、要りません。

「破壊」も「天才」も。

「創造」はできなくても、その向きを向いているだけでもいいんじゃないでしょうか?

今は。


私はそんな風に思うのです。


 ※ここで言う「創造」は、主に「天地創造」のような「根源的な創造」を意味します。
  ここで言う「神」は「昔のような神」、つまり「万人に信仰される神」です。
  
  余談ですが「宗教」や「神」が世界的に統一されるようなことは無いでしょう。
  なぜなら、そこに「絶対性」がないから。


「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?



このブログは「芸術の20世紀喪失宣言」という題なんですが、その「芸術の20世紀」において最も象徴的な人物と言うのが「マルセル・デュシャン」なわけです。
(まぁ、他にもいろいろと「巨匠」・「天才」等々居らっしゃいますけどね)


このブログでは「芸術の20世紀喪失」ということをテーマにしていますから、あまり「20世紀の芸術」について書いてこなかったんですけど、自分の中で、「芸術の20世紀」の存在がかなり「喪失されたモノ」に成りつつあるようで、もう、その辺について考えても「20世紀の渦」に巻き込まれないような気がしてきているので、徐々に「芸術の20世紀」についても書いていこうと思っています。

 ※「芸術の20世紀」について語ってしまったら、「芸術の20世紀喪失」に成らなく
  なってしまいそうなんですが、この「芸術の20世紀喪失」というのは、もともと「仮
  のモノ」であって、「宣言文」の本文にも書いてあるように、最終的には、一旦、喪
  失した「芸術の20世紀」をもとの位置に戻すことを前提としているくらいですから、
  『本当に忘れてしまいましょう』とか『そこにはできるだけ触れないようにして、見な
  いようにして行きましょう』と言うことではなく、むしろそれとは逆に「芸術の20世
  紀」について考えるときに、常に『「芸術の20世紀」を喪失している』という前提で
  考えていくことで「芸術の20世紀」という時代の「特殊性」や「現在に与えている影
  響」を理解し易くしていこうという方向のものなわけです。
  つまり、あくまで「意識の中での喪失」であって、本当に消してしまおうということで
  はないわけです。

  というか、これも本文でも触れていることなんですが、そんなことできるわけないの
  でやりません。
  ただ「芸術の20世紀」を前提にし続けていると、「そのコンガラカッタ糸」の中に迷い
  込んでしまって、理解」とか「判断」ということが出来なくなってしまうので、そこをいっ
  たん離れて考えようということなんですね。
  つまり、この記事も「芸術の20世紀喪失」を前提にして書いているということです。
  だから、お読みになる方は「芸術のの20世紀」が『存在している』ということを前提に
  するのではなく、それを『喪失している』という前提で読んでいただけたら、少しはわか
  りやすく成るんじゃないかと思います。


これは「21世紀世代」の人が聞いたら、『何言ってんの?「20世紀」ってトックニ過去でしょ?』なんて言われそうですよね。


確かに、「21世紀世代」からすれば「20世紀」なんて『そんなの知らないよ』なんでしょうが、でも、実を言えば、私にとっても『そんなの知らないよ』であるのは同じなわけです。


私が「芸術」に関心を持つようになったのは’90年前後ですから、私がここで「芸術の20世紀」と呼んでいる時代の主な出来事は終わった後だったわけですね。
(しかも、何十年も前には、ほとんど終わっていたわけです)

つまり、私にとっても「トックニ過去」であるハズなんですね。


ところが、それが「トックニ過去」に成って居ないわけです。

私のような「20世紀世代」にとっても、また、「21世紀世代」にとっても、「芸術の20世紀」は、いまだに「トックニ過去」に成っていないんですねぇ。


つまり、「トックニ過去」のハズのモノが『ゼンゼン「過去」に成ってない!』ということなんです。

要するに、影響力が強すぎるんですね。
しかも『悪貨は良貨を駆逐する』の法則に従って、徐々に「悪い影響」の方だけが増幅されてきているように見えるわけです。

 ※一応お断りしておくと、批判的な話には成ると思いますが、べつに「芸術の20世
  紀批判」をすることが目的ではありません。
  「芸術の20世紀」が現在に与えている影響について考えていくことで「現在の芸
  術」に展開が生まれるだろうということです。
  逆に、そこを抜かしていくと行き詰まっていくことになると思うわけですね。
  「芸術の20世紀」はそういう意味において「やや特殊な時代」であるというそんな
  話になります。


そして、そういったことに、とっても深くかかわっているのが、「マルセル・デュシャン」と言う人だろうというお話でございます。


と言っても「デュシャン」は象徴的な人物と言うことで、あくまで彼一人のことでも無いわけで、「ダダ」と言っても、「前衛」と言っても、「アヴァンギャルド」と言っても、大差はないと思います。


しかし、それらもまた、象徴的なグループであって、本当は「芸術の20世紀全体」を一つの流れとして捉えないと、その真の意味は読み取ることが出来ないとも言えるわけですが、そうなると、かなり話が大きくなってしまうので、取り敢えず、ここでは「デュシャン」を中心に考えてみます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、『「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしったってうんだい?』と言うことなんですが、よく言われる「トイレの便器」の件ですね。
これが、まさに「芸術の20世紀」を象徴しているんですねぇ。


いわゆる「コンセプチュアル・アート」ですね。


「20世紀初頭」の当時、芸術の世界は「アカデミズム」から脱しなければいけないだろうということで、方向性を模索していたんでしょうね。


「19世紀末」に「印象派」が「脱アカデミズム」の一撃を加えた、その後の「次の一手」がなかなか見つからなかったんだと思います。

その状態が5年・10年と続くうちに、「脱アカデミック」や「既成概念の破壊」ということだけが、膨らんでパンパンになっていた時に「マルセル・デュシャン」と言う人が「トイレの便器」を美術展に出品しようとしたということです。


要するに、「パンパンに膨らんだ風船」に穴をあけたわけです。
それで、一気に『プッシュー』っとなたわけですね。

つまり、その時、「芸術の世界」が望んでいたものが、「破壊してくれる人」だったわけです。
そして、それをやった人が「デュシャン」だったということです。

その時点で、『「芸術の目的」は「感動を生み出すこと」じゃないのか?』とか、『今、これを「芸術である」としてしまったら百年後にどうなるだろうか?』ということを考えた人が居なかったんだと思います。

いえ、ホントは居たんでしょうが、時代の流れに押し流されてしまったわけですね。


まぁ、そんなゆとりがなかったんでしょうね。
それよりも、とにかく「破壊すること」や「脱出すること」が必要だったんだということでしょう。

それはそれで、一つの「正解」だったのかも知れませんが、それは、あくまで「その時点での正解」であって、「その後も正解であり続けるべきもの」ではなかったんだと思うわけです。

でも、それが『その後も正解であり続けてしまった』ということですね。
そして、その影響が百年以上たった現在までも続いているというわけです。


しかも、その影響の中の悪い部分だけが増幅されてきているわけです。


私はこの「コンセプト」と言うモノに象徴されているのは「芸術の断片」だと思うわけです。

つまり、「デュシャン」は「もっとも芸術らしくないモノ」を「芸術の場」に持ち出すことによって、「芸術」の中の「物質的な要素」(「作品」や「作品の中の美しさ」など)を取り除いて、「純粋に精神的な芸術」と言うモノを抽出して見せたんだと思うわけです。


ただ、それは「芸術」と言うよりも「芸術の断片」であったわけです。


これはなにも「トイレの便器」に限ったことでも無くて、「芸術の20世紀全般」にみられる傾向であるとも言えるわけです。

つまり、「芸術」を「全体像」で見せるよりも「断片」として見せる方が、ある一面だけが強調されて、「一種の強い印象」を生み出すことが出来るように成るということです。

『それに気が付いてしまった』と言った方がいいかも知れませんね。


実は、これは「印象派」の方向性とも共通していて、「印象派」は主に「光」と言う一面を強調することで絵を「断片化」し、「一種の強い印象」を生み出すことに成功したのだと思います。

ただ、「印象派」の時点では、その「断片」が絵から完全に切り離されていなかったために、つまり、あくまで「絵画」と言う枠の中での「断片化」であったために、「絵画と言う伝統」を破壊するには至らなかったということですね。
(これは「キュビズム」や「シュルレアリズム」なども同じですね)


そして、その「伝統の破壊」をやってしまったのが「マルセル・デュシャン」だったというわけです。


こう言うと、『やっぱり「デュシャン」のやったことは画期的だったんだ!』ということに成ってしまいますが、そうでもなくて、けっきょく彼がやったことは「印象派の続き」だったということです。

これは、他の「巨匠」や「天才」の方々にもほぼ同じようなことが言えると思います。
つまり、「芸術の20世紀」全体が、「印象派の続き」という一面を持っているわけです。

そして、「印象派」と「芸術の20世紀」に共通のキーワードが、この「芸術の断片化」ということだと思うわけです。
(それはこの時点までは、そんなに悪いことでも無かったんだと思います)


そこで、「印象派」の人たちには出来なかったこと、つまり「脱・芸術」をやってのけたのが「デュシャン」などの「ダダイスト」だったということでしょう。

 ※この点において、「デュシャン」は、ほぼ同時代の「ピカソ」や「ダリ」などと比べても、
  「芸術の20世紀」を象徴している人であるとは言えるんじゃないでしょうか?


「印象派」の人たちは、みんな「絵」や「芸術」が大好きだったんだと思います。
だから、「脱・絵画」や「脱・芸術」できなかったんでしょうね。

たぶん、「デュシャン」の場合、「芸術に対する愛」が屈折していたんだと思います。
だから、平気で「脱・芸術」することも出来たし、その後、絵を描かないでいても平気でいられたんだと思います。


「ピカソ」や「ダリ」は「脱・芸術」は絶対出来ませんよね。
そして、「芸術にとどまったこと」で彼らの方が作家としての評価」が高くなっているということだと思います。

でも、そうは言っても、「デュシャン」が」がほんとに「芸術」から離れられたのか?と言えば、そうでもないようで、やっぱり屈折してたんでしょうね。


ここまでのところを大まかに言うと、

1:「芸術の20世紀」という時代には、「芸術の断片化」と言う意味で「印象派の続き」という面が多分にある

2:「印象派」との違いは「脱・芸術」という面である

この二点を象徴している人物を一人上げろと言われれば、まず間違いなく「マルセル・デュシャン」を置いてほかにないであろうということですね。


と、ここまでは、一般的に言われているところと、だいたい一致していると思います。
(そうでもない?)


長くなってしまったので、この辺でいったん切って、次の記事には、その「脱・芸術」や「断片化」が問題だったんじゃないか?ということを書きます。




「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?(つづき)



前の記事の続きです。


「芸術の20世紀」における「脱・芸術」や「芸術の断片化」という方向性が、現在までも強く影響していて、その「悪影響」の部分がだんだん大きくなってきているんじゃないか?ということです。


これは、必ずしも「デュシャンがやったこと」と言うわけでもなくて、「芸術の20世紀」全体の傾向であると言った方がいいと思いますが、まぁ、それを象徴している人物としてうってつけなのが「マルセル・デュシャン」ということですね。

これは、おそらく、「デュシャン」がやらなくても誰かが同じようなことをやっていたことなんだと思います。
そうなんですねぇ、こんなに、突飛なことなのに、なぜか、『「マルセル・デュシャン」がやらなくても誰かがやったに違いない』と思えてしまうんですねぇ。

ここにこそ「芸術の20世紀」を象徴する「落とし穴」があると思うわけです。


「デュシャン」がやったことを『彼がやらなければ、他の人がやったに違いない』と思うか思わないかは、人それぞれの自由だと思います。
むしろ、重要なのは『そう思えてしまう』ということです。


つまり「デュシャン」がやったことと言うのは「誰でもできてしまうようなこと」だったということですよね。


『いやいや、そういうことがなかなかできないんだよ!キミィ』

そうかもしれませんね。
いや、確かにそうだと思います。


でも、思いつきさえすれば「誰でもできてしまうこと」ではあったというのは事実なわけですね。

少なくとも、「努力」も「技術」も「能力」も、「アイデア(コンセプト)」以外は何も必要なくできてしまう、そういうことではあったわけです。

 ※そして、さらに言えば、『「マルセル・デュシャン」がやらなくても誰かが同じようなこ
  とをやったに違いない』ということは、『たぶんそうだろう』と言うよりは、むしろ『事
  実である』といった方がイイほど確かなことでもあるわけです。


まぁ、これは当然と言えば当然のことで、「脱・アカデミズム」を目指していたわけですから、「アカデミズム」が主に提供していた「技術」や「能力」などを否定するようになるのは、成り行き上当然だったんだと思います。


ただ、その代わりが「アイデア(コンセプト)」でよかったのか?ということが全く問われずに、フリー・パスで通ってしまったことに問題があるわけです。


「保守派」対「革新派」の間では、それについての「問答」があったんでしょうが、問題なのは「革新派」同士の中での「問答」がなかったと思われることです。


「保守派」対「革新派」という対立の構図だと(「やや保守派」や「やや革新派」も含めてですね)、「技術」や「能力」に戻るのか?
それとも、それらを捨てて「アイデア(コンセプト)」で行くのか?という二者択一になってしまいます。


その結果、「現代美術」は「アイデア(コンセプト)重視」を選択し、今日に至っているわけですが、本当は、「技術」や「能力」を捨てていこうとするうえで、『その代わりにナニを選択すべきなのか?』と言う「問答」が必要だったんだと思うわけです。


「マルセル・デュシャン」と言う人物が「アイデア(コンセプト)」と言う代替物を提示してきているけど、『本当に、これでいいのか?』それとも、『他に、「ベターなナニカ」があるのか?』さらには、『今後も常に、「ベストなナニカ」を模索し続けていかなけてばならないんじゃないのか?』というような「問答」の部分が全部抜け落ちてしまって、「アイデア(コンセプト)重視」が「問答無用」で選択されてしまったわけなのです。

そして、それが百年以上もたった現在に至ってもまだ続いているというわけです。


これを言うと、必ずと言っていいほど『いや、キミもう「コンセプチュアル・アート」なんて影響力ないよ!何を今さら言ってるんだい?!』というようなことを言う人が現れますが、それこそが完全に「洗脳」されている証拠だと思うわけです。


要するに、一昔前ほどはっきりした「コンセプチュアル」ではなくなったというだけで、現在も、「コンセプチュアル」な方向性は根強く残っていると思います。

というよりも、そういう方向性をまったく示さないモノが現代美術として評価されることは、ほとんどないと思います。
むしろ、潜在化したために、より深く浸透しているともいえるでしょう。
だからこそ、影響を受けているのに『影響なんてもうないよ!』と言う人がたくさんいるんだと思います。


まぁ、それはともかくとして、「アイデア(コンセプト)」の何が問題なのか?ということです。

ここで、「断片化」が出てくるわけですね。


「印象派」は「絵画」を「光」という切り口で切って、その切り口をパックリと開いて見せることで、「より強い印象」を生み出すことに成功しました。

これは大方の人が認めるところでしょう。


これを、「断片化」と呼ぶことに賛同する人がどれほどいるのかわかりませんが、こういった、「一面を強調して見せるというやり方」が、あるモノを全体像として見せるのではなく、一つの部分だけを取り出して見せるという手法であることは確かなことですから、それを「断片化」と呼ぶことが出来ると、私は思っているわけです。


そして、この「断片化」と言う方向が「芸術の20世紀」全般に影響を及ぼし続けたんだと思うわけです。


「トイレの便器」と「印象派の絵」ということだと、一見、繋がりがあるように見えないわけですが、この「断片化」と言うキーワードで手繰っていくと、そのつながりが見えてきます。


つまり、どちらも「芸術の全体像を見せる」のではなく、「芸術のある一面を強調して見せる」という部分が共通しているわけです。
そして、これこそが「芸術の20世紀」の特徴でもあり、「アヴァンギャルド」の特徴でもあり、「マルセル・デュシャン」の特徴でもあるわけです。

要するに、「現代美術」と言われるもの全般の特徴であるということだと思います。

 ※「印象派の絵」が『絵として調和していない』と言っているわけではありません。
  しかし、それは「印象派」が「調和」を完全に捨てられなかったからであって、調 
  和を犠牲にしてでもある一面を強調することを選択したことは確かなことですし、
  そのことによって、「より強い印象」を生み出すことに成功したのも確かなことな
  のでしょう。
  だからこそ「印象派」は登場してきたときに「アカデミー側」から強く批判されたん
  だと思います。


そして、この「断片化」が、「芸術の20世紀」で起きた出来事の中でも、最もその影響が顕著なものであると思うわけです。


そして、さらに言うと、この「断片化」こそが、現在に至って悪影響を及ぼすことに成って来ている元凶でもあると思ってしまうわけなのです。


ここで一つ断っておくと、「強調すること」がワルイと言っているわけではありません。

「一つの面を強調すること」は作者がどのような方向で物事を捉えているのかを明示することに成りますし、作者の「ソノヒト性」を表現する手段にも成るものだと思います。

しかし、「全体と完全に切り離された断片」だけで見せるということは、「強調」ではなく「極化」であると思うわけです。
「カルト化」と言ってもいいでしょう。


この「極化」=「カルト化」の発端に成ったのが、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」だったというわけです。


ここで、また長くなってしまったので、次の記事に続けます。

まぁ、読んだ人はトンダ災難ということで。



「マルセル・デュシャン」がいったいナニをしたって言うんだい?(つづきのつづき)



二つ前の記事からのつづきに成ります。


芸術の「断片化」から発生した「極化」が「芸術のカルト化」につながってしまったんじゃないか?
そして、その「カルト芸術」の教祖が「マルセル・デュシャン」と言う人なんじゃないのか?
ということを前の記事に書いたわけですが、そうなると、「現在の芸術」とは、まさに、その「カルト芸術」の行き着いた姿なんじゃないのか?という疑問が出てくるわけです。

 ※ここで「カルト芸術」と言っているのは、必ずしも「カルト本来の意味」や「宗教的な
  意味」ということではなく、「極端な方向性を持った芸術」というような意味です。
  「カルト化」=「極化」と置き換えてもいいと思います。
  要するに、本来はそれほど重要ではないと思われるような部分をクローズアップし
  て、「極端に先鋭化した芸術」を「カルト芸術」と呼んでいるわけです。
  そして、そういう「カルト芸術」が「現在の芸術」の主流になっていて、そこに大きく
  関わっているのが、「マルセル・デュシャンのトイレの便器」に端を発する「コンセプ
  チュアル・アート」であり、その中でも特に影響が大きいのが「芸術の断片化」とい
  う手法であろうということなわけです。


まぁ、この辺からは、私が勝手に思っていることなので、そういう話としてご了解ください。


「現在の芸術」を「カルト化した芸術」であると考えている人がどのくらい居るのかはわかりませんが、少なくとも、「極化」が「現在の芸術一つの要素」に成っているということは、誰もが認めざるを得ない所だと思うわけです。

そこで、「調和」などのような中間的な要素が、かなり切り捨てられているというのは確かなことだと思います。

そして、それを、あっさりと切り捨てられる人も居ますし、切り捨てられない人も居ます。

あっさりと「切り捨てられる人」は迷わず「カルト化」してしまいます。
そういう人は、ある意味でラクなのかもしれませんが、「迷い」を失ってしまうことで、「芸術の中心」からは離れてしまうわけです。
「迷いのないもの」は「芸術」ではないという前提で言えば、ということですけどね。

一方、「切り捨てられない人」は、「極化」と「調和」という両立不可能な「ダブル・スタンダード」に悩み続けることに成るわけです。
こちらは、「芸術の中心」にとどまろうとすることによって、身動きが出来ない状態に陥ってしまうわけです。

また、「極化」には見向きもせずに「やや古いスタイル」という「居場所」を選択する人も居ます。
しかし、その人たちもまた、、それを選択するうえでの「迷い」を吹っ切ってしまった時から、「芸術の中心」から少しづつ離れていってしまうわけです。

こんな風に言うと、『調和がそんなに大事なのか?』とか『美しくなくちゃいけないのか?』
みたいなことを言う人が居るかもしれませんが、そんなことを言っているんじゃありません。


そうじゃなくて、『一方的に切り捨てられていい部分なんてないでしょ?』ということです。
『そういうのを「流行」と言うんじゃないんですか?』と言うことです。

「迷わずにカルト化を選択する人」も「迷わずに安定したスタイルを選択する人」も、」けっきょくは同じように「芸術の中心」から離れてしまいます。
それらは、つまるところ「流行を追う人」です。
彼らには「流行」しか生み出せません。
「迷い」や「苦悩」を失った者に生み出せるのは、「流行」くらいだと思います。
「面白さ」や「楽しさ」だけでは、人を感動させることは出来ないと思うわけですね。

また、『その流行がもう百年くらい続いていますけど、一体いつまで続けるんですか?』ということです。
「流行」にも「それなりの価値」はあるでしょうが、「百年前の流行を続けること」には「それなりの価値」もないと思います。

そしてもっと言えば、『その百年前の流行に洗脳されていて、それに逆らえなくなっているんじゃないですか?』ということですね。
まぁ、一言で言えば、『そろそろ、目を覚ますときじゃないですか?』と言うようなことです。


「現代美術」と言われるものが現れてきてから、百年ほどったっているわけです。

『それ、まだ現代なんですか?』

「現代美術」が現れてきた当時、それは「美術史的な時代区分」などではなかったはずです。
そういったことを抜け出すための言葉が「アヴァンギャルド」であり「モダン・アート」であり、日本語で言えば、「前衛」であり「現代美術」であったはずです。


それなのに、どこか根本的に変わってない、どこか根本的に自由じゃない、そういう印象があるわけです。
しかも、それが百年以上も続いている。

こんな風に言うと、今度は『いや、キミ、芸術は常に変わり続けているよ!キミが受け入れられないだけだよ!』と言う人が出てきます。

でも、やっぱり、そんなことを言っているんじゃないわけです。

むしろ、逆で、「変わり続けなければいけない」と言う呪縛にとらわれているんじゃないか?
「いま、変わらなければいけない所」は「変わらなければいけないということ自体」なんじゃないか?
表面的な変化だけが目まぐるしく入れ替わっていることで、「本質的な変化」が置き去りにされ、いつの間にか百年間膠着した状態が続いてしまっているんだと思うわけです。

つまり、「変わること」が「固定観念」になってしまっていて、「本来の変わること」とは正反対の意味を持つように成っていると言っているわけです。


しかも、それが「洗脳」のような状態に成っていて、刷り込まれてしまっているために、見えなくなってしまっているわけです。


こういう状態の中では、変われば変わるほど「呪縛」されていくし、「芸術」であろうとすればするほど「芸術の中心」からは遠ざかっていくように成るんだと思うわけです。

つまり、「負のスパイラル」に成っていると思うわけですね。


こういった状態を脱するためには、「芸術の20世紀」という時代をもう一度見直してみるしかないように思うわけです。
そして、その「キーワード」として最適なのが「マルセル・デュシャン」であり「トイレの便器」なわけですね。


ある美術展で、その「トイレの便器」をタメツスガメツいろいろな角度から見ている人を見かけました。
(しかも、レプリカ?)
いや、一人だけなんかじゃありません。
来る人来る人の半数ほどの人たちが、単なる既製品の「トイレの便器」の前で考え込むような様子で、じっとみつめていました。

そういう人たちは「ナニカ」を見つけられたでしょうか?


かなりの人がナニも見つけられずに帰ったのでしょう。
そして、やはり、かなりの人が「ナニカ」を見つけて帰っていったわけです。

でも、おそらく、そこに展示されていたのが「芸術の断片」であると思った人は少なかったでしょう。


それは「料理」で言えば、野菜や肉や調味料です。
それが「料理の断片」です。

まだ、食べられません。


「服」で言えば、布地や糸です。

着れません。


「住宅」で言えば木材や釘です。

住めるわけがありません。


それらと同じように、「トイレの便器」=「芸術の断片」は

鑑賞できないのです。


それを、
『玉ねぎって生で食べても食べられるっていうことに気が付かされました、発想の転換ですね』
『いやぁ、目からうろこですよ、料理って奥が深いですよねぇ、いろいろと考える機会に成りました』
と言わされていたところがあるわけです。


でも、そこで『パチンッ!』と催眠術師が指を鳴らすと、

『ただの玉ねぎじゃねぇか、何が料理だってんだ!ふざけるな!!』ということになります。
でも、「ただの玉ねぎ」は「料理の断片」ではあるわけです。

確かに、一応食べることは出来ます。
まだ「料理」ではないというだけのことです。


それを、無理して食べるんじゃなくて、『料理してくれ』と料理人に要求すればよかったんです。


「芸術」においても、同じで、「創作者」に対して『「トイレの便器」じゃ鑑賞するに物足りないから、もっと「創作」してから見せてくれ!』と「鑑賞者」が要求してよかったんじゃないでしょうか?


「コンセプト」は「芸術」でもないし「芸術の本質」でもなくて、「芸術の断片」にすぎないモノです。
だから「鑑賞」することも出来ないし、「思考」することにもさほど大きな意味はないわけです。


しかし、「時代」は「要求すること」の方ではなく「無理して生で食べること」の方を選択しました。
そして、『それこそがこそ芸術の本質である!』とされてしまい、今に至っています。


「芸術の20世紀」と言う時代は、この「トイレの便器」の繰り返しだったといってもいいくらいです。

「トイレの便器」の次は「トイレのスッポン」になり、その次は、そのまた次は、となって、ついには「トイレの汚物」まで行って、ようやく行き止まりに成り、そこからはほとんど身動きが出来ない状態に成っています。

つまり、次から次へと「新しいコンセプト」が提示され、その都度、それが「新しい芸術」であるとされてきたわけです。
そして、その「ネタ」が尽きてからは身動きが出来なくなってしまったということです。


そんな状態を繰り返してきたので、現在ではあからさまな「コンセプトだけ」というのは通らなくなってきていますが(もう「新しいコンセプト」もネタ切れだし)、その分「創作の領域」は狭くなる一方で、現在「新しい芸術」と言われるものはどんなものなのか?と言えば、つまるところ「新しいテクノロジ―」を駆使したものであったり、「新しい素材」を使ったモノであるわけです。

そして、そういう「新しいナニカ」を見つけ出して「芸術」とクッツケタ人が賞賛されることに成るわけですが、それは、言い換えれば、「新しい便器」に過ぎないということです。

つまり、「新型の便器」が開発されるのをじっと待っていて、『これっ!』というような「カッコイイ便器」が出てきたときに、それに乗っかった人が上手くいくということですね。

そして、見せられる側は、いつも「イロイロなトイレの便器」を見ていなければならないわけです。


いや、「新しいコンセプト」も「新しいテクノロジー」も「新しい素材」も、どれも、それ自体がワルイと言っているのではありません。


「コンセプチュアル・アート」が固定観念を破壊し、その部分で人の心や感性を解放したことは事実だと思います。

しかし、「解放」しただけでは、「芸術」とは成り得ません。

人の心の中にある「美しさと醜さ」を、ただ一方的に「解放」するのではなく、作者がその「美しさと醜さ」の中から何を選択し、何を「自分の表現」とするか、それらのどこを強調し、また、浄化しようと試みるのか、その「試行錯誤の過程」こそが、「創作」と言う作業であり、その行為を物質化することを「芸術」と言うんだと思います。

ですから、「美しさ」だけでも「芸術」と言うには足りないし、「醜さ」だけでも、それを「芸術」と言うには満たないと思います。
なぜなら、それらは、「芸術の断片」にすぎないからです。

しかし、それ以上に、その「断片化」自体を「芸術」と呼ぶことには、まったくもって意味がないと言わざるを得ません。


だからこそ、いま、その「新しいナニカ」とは、すべて「新しい便器」であって、「芸術の断片」に過ぎないモノ、否、「断片化された芸術のカケラ」と言うべきものであり、「芸術未満のモノ」であるということを見直す必要があるんじゃないのかなと。


つまりは、そんな風に思ったわけなのです。




「圧倒的な絵」って、まだあるんでしょうか?



「絵」の話において、『必ずしもイイ絵が評価されるとも限らないんだよねぇ』という話になった時には、『いやいや、「圧倒的な絵」の場合には必ず評価されるんだよ!キミィ』と言う言葉が返って来ることに成っているわけです。


でも、本当に、今でもまだ「圧倒的な絵」ってあるんでしょうか?


そもそも、昔は方向性が一つだったたわけで、その方向性に基づいてすべての判断が下されていたわけですから、「圧倒的な絵」は存在できたわけですが、現在はその方向性自体が多様化していて、すべての人の判断基準が、ぜんぜん違うといってもいいほどに成っているわけです。


そんな中で、「圧倒的な絵」は存在できるでしょうか?

「ある人にとっての圧倒的な絵」が、違う人にとっては「カス」のように見えるかもしれない状態で、はたして「圧倒的な絵」は存在できるものなんでしょうか?


まぁ、無理ですよね。


現在は「圧倒的な絵」が評価されるかどうかと言う以前に、「圧倒的な絵」は存在することすら出来ないんだと思うわけです。


それなのに、昔の時代の印象が残ってしまっていて、『きっと「圧倒的」であれば評価されるに違いないんだ!!』と思ってしまうわけです。


このことによって、『自分が評価されないのは「圧倒的」じゃないからなんだろう』と言うように自分を卑下してしまう人や、『あの人が評価されたのはきっと「圧倒的」だったからだろう』と言うように、権威に媚びへつらってしまう人や、『あの人は評価されていないんだから「圧倒的」じゃなくて、大したことないんだろう』と言うように、人を見下して安心するというような人たち、

つまりは、「芸術の中心から離れてしまう人たち」が大量生産されてしまっているわけです。


この状態を続けていれば、「芸術」とは「最も腐り果てた分野」であるということに成りかねないと思うわけです。

「本来の芸術」が「もっとも純粋な分野」であるとするならば、その「中心」からドンドン遠ざかって行けば、最終的に行き着く先は、最も純粋性のない「腐り果てた分野」ということに成ってしまうに違いないわけですね。


そういうことに成れば、「芸術」に興味のない人にまで悪影響を及ぼすようになるでしょうし、最後には、世の中全体が「純粋さ」を完全に失って、腐り果てて行くことに成るでしょう。

これ、「言い過ぎ」でしょうか?


現在の世の中を見て『それは言い過ぎだよ!』と言えるでしょうか?
『いつの世もそんななんだよ』といつまで言い続けられるでしょう?
(まぁ、そういう人は「ナチスの時代」にも、そう言ってるんでしょうね。ええ、自分がユダヤ人でなければ)


「20世紀」を起点にした「現在」という時代が、人類の歴史の中でも「やや特殊な時代」であることは、かなりはっきりしてきていると思います。
(『じゃなきゃ有り得ないでしょ』と言う出来事が世界的に頻繁に起きていませんか?)

その「20世紀」から「現在」に至る過程において、「芸術の20世紀」の持っている意味は、さらに特殊です。


全てのことを「破壊」し「逆転」したのが「芸術の20世紀」です。
そして、それなのに「偶像」や「権威」と言った「本当に破壊すべきだったモノ」だけは、破壊されませんでした。


その「偶像」や「権威」」を象徴するものが「天才」だったと思いますが、その「天才」と同じように、人々の中の「絶対性に対する願望」が生み出してしまっているのが、この「圧倒的な絵という幻覚」なわけですねぇ。 


だから、『「圧倒的な絵」なんて、もうどこにもないんだよ』と言う必要があると思うわけです。


『あの大先生の絵と、あの隣のオッサンがやたらと一所懸命になって描いた絵とは同じくらいのモノだね』
と無理なく言えるように成れば、少しだけ、いいんじゃないのかなと。
(はい、私のことです。もちろん「大先生」じゃなくて「隣のオッサン」ですけど)


そんな風に思うわけなのです。




『本物はあとに成ってから評価される』と言うのは今も成り立っているのか?



前の記事と似たような話です。


『本物っていうのはだねぇ、何十年も経ってから評価されるモノなんだよ、キミィ』
これ、今でも言えることなんでしょうか?


「今でも」と言うか、これが通要したのは、意外と短い期間だけなんじゃないかと思うわけです。


まず、200年以上前の時代だと、何十年も経った後で評価された人なんてあんまり居なかったような気がします。

昔は「芸術」も職人仕事の一つと考えられていたところがあったわけで、「いい仕事」をする人は最初から評価されていたでしょうし、「いい仕事」をしない人は、いつまでたっても評価されなかったわけです。
(今、だって、「職人さん」が何十年もたってから評価されることなんか無いですよね)

つまり、今みたいに「十年後を見越した作品」なんて求められていなかったということでしょうね。

 ※一人一人の作家の評価が上がったり下がったりするということはどの時代にもあ
  ったでしょうが、「全く見向きもされない作家」がいきなり「ブレイクする」と言うような
  意味での「あとに成ってから評価される」は無かったんじゃないでしょうか? 

それに、昔は十年や二十年たっても「評価の規準」が変わることなんて無かったわけですから、「十年後」くらいではほとんどのことが変わらなかったんだと思います。

だから、「十年後」を見越してもあまり意味がなかったということかもしれませんね。
でも、百年たったら忘れられちゃいますからね。

そういうことで『本物はあとに成ってから評価される』は通用していなかったと思いますね。


これが通じたのって、実はけっこう短い期間で、19世紀中ごろあたりから20世紀の中頃まで、つまり、「印象派」の前あたりから「ポップ・アート」の前後ぐらいまでじゃないかと思います。

その時代、「芸術」に「あたらしさ」が求められていたんでしょうね。
それで、「十年先の作品」を作った人が「十年後」に成ってから評価されるように成って、その後、それが伝説化して今に残っているわけです。


でも、これ、「いま」でも通用するんでしょうか?

私は、これ、「いま」ではもう通じなくなっているような気がするんですねぇ。


20世紀の中ごろまではこのことが通じていたんだと思います。
しかし、今はもう「あたらしさ」が出尽くしてしまったわけです。

いま「あたらしい」と言われるモノとはどんなモノなのかと言えば、

「あたらしいスタイル」や

「あたらしい素材」や

「あたらしいメディア」や

「あたらしいテクノロジー」を使ったモノであって、

それらはどれも「本質的にあたらしいモノ」ではないわけです。


それに、「素材」にしても「メディア」にしても「テクノロジー」にしても、「芸術以外の場」で開発されるモノであって、「創作者」自身が生みだしているわけではありませんから、「十年後の素材」や「十年後のメディア」や「十年後のテクノロジー」を使うことは出来ないわけです。

つまり、「十年先」を見越すことは出来ないということですね。


従って、現在唯一「あたらしさ」と言えるのは「スタイル」だけだと思いますが、その「スタイル」とて、「芸術の本質」とはチョットずれたところにあるモノなわけで、本当の意味での「あたらしさ」とは言い切れない所もあるわけです。


でも、実を言うと、これは『本物はあとに成ってから評価される』ということが通用していた期間の中でも同じで、本当のことを言えば、「あたらしさ」は「芸術」にとってそれほど重要な要素でもないんだと思うわけです。

ただ単に、その時期、人々が「あたらしさ」を「芸術の本質」であると勘違いしていたというだけで、その幻想によって『本物はあとに成ってから評価される』ということが成り立っていたんだと思うわけです。
(本当に本質的なモノであれば、「いま」でも「十年後」でも同じように評価されるはずです)

その後、あまりにも「無理矢理なあたらしさ」がたくさん創り出されたことで、『もういいだろ』ということに成ったんでしょうね。
だから、現在は、もうみんな「あたらしさ」に見飽きてしまっているんだと思います。


ところが、「あたらしくなくてはいけない」と言う呪文に縛られてしまっていますから、そこから抜けられなくなっているわけです。


『本来は「あたらしさ」よりも「芸術の本質」に近い所にあるモノとはナニなのか?』ということを考え直す時が来ているような気がするんですが、「あたらしさ」と「流行」がいつの間にか入れ替わってしまっていることを見ようとする人がほとんどいませんから(そこに向き合ってしまうと「芸術の場」に居づらくなるというシステムになっていますから)、けっきょく「流行を追うこと」に終始する羽目に成るわけです。

つまり、『十年先を行っている』ということも『十年先の流行を追っている』にすぎないわけですね。


まぁ、取り敢えず、『本物はあとに成ってから評価される』と言う伝説はもう「迷信」に成っているということですね。

ただ一つ言えることは『今、評価されているモノは本物の芸術ではない』ということだけですね。
目的が違ってしまっているわけですから、当然といえば当然です。


いま評価されているモノは「流行」ですね。

まぁ、そう言って間違いないんじゃないですか?

そこを目指しているわけですから。


そんな風に思いますね。





「芸術」がいち早く切り捨てた「努力」を、いま「芸術」がいち早く見直す必要がある



「芸術の20世紀」が切り捨ててしまったモノの中でも、最も重要で最も切り捨ててはならなかったモノが、「努力」なんじゃないかと思うわけです。


要するに「天才」とか「才能」という言葉と引き換えに「努力」を切り捨ててしまったんだと思うわけです。

そして、そのことが「芸術」は言うに及ばず、社会のあらゆることに悪影響を及ぼしてきているように思える今日この頃なわけですねぇ。

 ※これは別に社会を啓蒙しようという話じゃありません。
  ほかの記事もそうですけど、そういうのはエライ人がやることで、私はすごくエラクな
  いので、そんなことはやりません(やっても馬鹿にされるだけだし)
  ただ単に、『私にはそう見えるんですけどねぇ』というような話です。
  あまりにも理屈に合わないことや、オカシナことがあると、つい言ってしまうというだけ
  ですので、ご気分を害されませんよう。


『努力が切り捨てられてしまった』と言うと、『そんなことは無い!みんな努力しているじゃないか?!』と言う人も居るでしょう。
『天才っていうのは、人の見ていない所でモノスゴク努力しているんだぞ!!』なんてのも言われそうですね。

確かにそうだと思います。
でも、だったら、なんでそれを「天才」なんて言うんでしょう?

「努力家」でイイんじゃないですか?


要するに、「天才」や「才能」という言葉があまりにも大きくなってしまっているために、「努力」が相対的に小さくなってしまうということだと思います。
だから、「努力も大事」と言うことを知ってはいても、どこかでは「努力」を軽視していて、それどころか、どこかでは「努力」をバカにしていたりするわけです。

つまり、「努力」は常に「天才&才能」よりも下に位置づけられていて、「天才&才能」と比較されたときには、必ず『ポイッ!』と切り捨てられてしまうわけです。


しかも、「努力」は「天才&才能」とは対極にあるモノということに成っていますから、それらと比較した場合には、結果的に必ず「天才&才能」が選択されるだけでなく、「努力」は「天才&才能」に逆行するモノと言う扱いになってしまうために、むしろ、嫌われたり、バカにされたりするようになってしまうわけです。

 ※これは人に『あなたは努力家ですよね』と言ってみればよくわかります。
  現在、少なくとも日本においては、まず、ほとんどの人が嫌がります。
  まぁ、三回くらい言うと90%くらいの人に嫌がられます。
  つまり、『あなたは努力家ですよね』というのが『あんた才能無いよネ!』
  というのと同じような意味なってしまっているということだと思います。

でも、実際は、それと逆の方がよかったんじゃないか?と思うわけです。
つまり、「努力」の方が「天才&才能」よりも上に位置づけられているくらいでもイイように思うわけです。


これは前に他の記事でも書いたんですけど、「努力」が評価される世の中では、みんなが「努力」するようになりますが、「才能」が評価されても、みんなが「才能」を発揮するわけではありません。

実際に「才能」を発揮するようになるのは「努力」した人です。
でも、その「努力」が評価されません。

だから、そのギミック(ワナ)に、ハマって「努力」しなくなってしまう人が増えてしまうわけです。


しかも、実際には「努力によって発揮されている才能」を、「才能によって発揮されている才能」であるかのように見せないと評価されませんから(こういうことから『天才は”影で”努力している』と言われているんだと思います)、そこでもまた、「純粋に努力する人」が少なく成ってしまうわけです。

まぁ、一言で言って、「努力を嫌う社会」ですね。
いいわけがありません。


少なくとも、いま、「努力しないでお金を稼ぐこと」や「努力しないで成功すること」が「イイこと」みたいに成ってますよね。
『そういう「才能」がある人は「努力」なんかしなくてもうまくいくんだ』みたいな。

そして、そういうことを社会が推奨している傾向すらあるわけです。


そういう発想が「クズ」です。
(これ、チガウと言う人も居るんでしょうか?)


まぁ、そういったことから、「芸術」が真っ先に切り捨てたモノならば、「芸術」が真っ先にそれを取り戻そうじゃないかということです。


「芸術の20世紀」が切り捨ててしまった「努力」を、「21世紀の芸術」で取り戻そうじゃないかと思うわけですね。
(私は20世紀をもう一度やり直すという考え方でやっていますけど)


そんなことを考えていくと、どうも「天才&才能」という言葉が、やけに安っぽい感じがしてくるわけです。

軽いと言うんですか?
もっと言えば、『バカラシイ』とすら思えて来るように成るんですねぇ。


要するに「流行りモノ」という風にしか思えなくなってくるんです。
(流行りモノだからバカラシイというよりも、盲目的に乗せられているというのが・・・)


もう、私の中では、「天才&才能」は、ほとんど意味のないモノと言っていいですね。

だから、いまだに「天才&才能」をありがたいモノと言うように扱っている人を見ると、『いや、もう「努力」でしょう』と言いたくなってしまうわけなのです。


少なくとも、「努力しない天才」ほど情けないモノは無いので、どっちにしろ「努力」した方がよくないですか?


まぁ、そういう風に思ったわけなのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

追記:こう言うことを言うと『自分に才能が無いから言っているんだろ』と言う人が
   居ますが、私の場合、「才能」は「みんなに同じ量だけ違う形で与えられてい
   るモノ」だと思っています。だから、『自分に才能が無い』とか、『すごい才能
   がある人が居る』なんてことは、『アリエナイ!』ことだと思っています。

   でも、もし仮に、私が自分に「才能」が無いから言っているんだとしても、自分
   に才能が無いからと言う理由で「他人の才能」を崇め奉ってヘコヘコしている
   人の方がさらにミットモナイと思いますよ。
   「才能」とは無関係に、すべての人に対して同じように「評価」するのなら素晴
   らしいことだと思いますけど、「才能がある(と言われている)人」を特別扱いし
   て褒めそやすのは「へつらい」ですね。
   そういうのを最近では、「忖度」と言うように成ったみたいですけどねぇ。
   「いま言われている才能」って、実は「権威」が姿を変えたものですから。


「神」はすでに自分の中にいた。「天才」とはみんなのことだった。居ないのは「普通の人」だった。



私は「天才の時代」は百年も前に終わっていて、「神の時代」はもっと前に終わっていると思っているんですが、『それじゃあ、今は何の時代なんだ?』と言われるならば、「普通の人の時代」なんじゃないかと思うわけです。


確かに、今でも「神」を信仰している人は沢山いますし、まして、「天才」については、出現し続けていると考える人が大多数なわけですが(というより『天才なんてもういないんだ』と言ってる人なんて居ません。不思議ですけど)、しかし、その「神」や「天才」の意味は「昔の神」や「昔の天才」の持っていた意味と同じ意味なんでしょうか?

「宗教」で言えば、この世界の「真理」をだれにでもわかるように説明している「宗教」は存在しないわけですが(「宗教」以外でも存在しませんけど)、もし、「宗教」に絶対性があるのであれば、本来そういうことが出来ている必要があるわけです。
ところが、ほんの僅かではありますが、そういう説明を「人間」が先にやってしまった部分が出てきているわけです。
もちろん、それは「真理」と言えるものでもないし、もしかしたら「ただのカンチガイ」かも知れない程度のモノなわけですが、それでも「神がやっていなかったこと」ではあるわけで、その「神がやっていなかったこと」を「人間がやってしまった」」と言うのは事実なわけです(少なくとも、「人間」には事実に見える)。

そうなると、当然「神への疑い」が発生するわけで、その昔「神への疑い」が無かったころまでの「信仰」と、現在の「神への疑い」を振り払っての「信仰」とは違う意味が出てくるわけです。

「天才」にも同じようなことが言えて、「昔の天才」は「ある特定のことが非常にうまくできる」という条件に当てはまっていれば「天才」であったわけですが、今は「ウマイ」=「天才」という単純なことでも無いわけです。

これは、例を挙げればわかりやすいと思います。

昔、「神への疑い」が無かったころまでは、「雷」や「日照り」などの気象現象や「地震」や「日蝕」などの天変地異はすべて「神のなせる業」とされていましたし、そこに「疑い」の余地はなかったわけです(だから「生贄」みたいな儀式があったんでしょう)。
でも、今は「神への信仰」を持っている人でも、そういう自然現象をすべて「神の業」とは考えなくなってきているわけです。
『いや、広い意味では「神の業」なんだよ』という考えの人は居るでしょうが、そこで「昔の神」と「今の神」の意味に少しでもチガイが出てきていることには間違いがないわけです(じゃないと「生贄制度」に戻らないと成らなくなってしまいます)。

「天才」で言えば、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の鏡文字(左右を反転したような文字)というのがありますよね。
あれは、何度聞いても『天才だなぁ』と思ってしまうわけですが、でも、「今」だったらどうでしょう?
たぶん、私のようなウタグリ深い人間は『きっと、何か変わったことをやって有名に成ろうとしたに違いない』と思ってしまうでしょうし、きっと、『ダ・ヴィンチ』本人だって、今の時代に生きていたらそういう考え方をすると思います。

それに、『ダ・ヴィンチ』は軍事兵器なんかも考案していたりしますが、そういうことなんかも「昔」であれば、『さすが天才はこんなことまで出来たのか』と感心するだけなんですが、でも、「今」だったらどうでしょう?
おそらく、『「芸術」をやる者が戦争に加担するとは何事か!』と批判されるに違いありません。
もしかしたら、そのことだけで彼の芸術家としてのすべてが否定されてしまう可能性すらあるんじゃないでしょうか?

 ※もしも、「ピカソ」の「ゲルニカ」が、「戦争批判的な絵」ではなく「戦争賛美的な絵」
  だったとしたら、やはり、その後の「ピカソ」の評価は変わってしまうでしょうね。

つまり、『ダ・ヴィンチ』や『ピカソ』でさえ「天才」でなくなってしまう可能性があるほど、「昔の天才」と「今の天才」は違う意味に成っているということです。
このことを別の言い方で言うなら、「神」も「天才」も絶対的なモノではなくなったということです。
でも、「神」も「天才」も絶対的なモノであることを前提とした言葉ですから、その概念が成り立たなくなってしまったということです。
だから、「時代」としても終わってしまっていると思うわけですね。

こんなことから、私は「神の時代」も「天才の時代」も終わっていると言っているわけです。

そして、何より、「終わってしまっているモノ」を「続けてしまっていること」がよくないと思うんですね。
要するに、「依存」しているように見えるわけです。

つまり、「神」や「天才」と言った言葉の中にある「絶対性」に「依存」してしまっているんだと思うわけです。
「個人」と言うよりも「人間全体」が「依存」しているんだと思います。

「依存」しているのは「絶対性」に対してですから、「神」を「ワンネス」と呼んでも「偉大なるもの」(「スピリチュアル」の人がそう言っているのを見たことがある)と呼んでもおんなじです。
「天才」についても、他の言葉で言い換えたっておんなじです。
「依存」からは抜け出せません。

『じゃあ、どうすれば抜け出せるのか?』ということなんですねぇ。

簡単です。
「絶対性」を諦めればいいだけですから。
『まぁ、「普通の人」でイイじゃないか』ということですね。

ただし、ここで、もう一つ問題があって、「普通の人」が、まだ居ません。
このブログでも何度も書いていますけど、「人間」は、まだ「人間」に成れていないと思うわけです。
ということは「普通の人」がまだ居ないということです。

「大多数の人」を「普通の人」と考えることは出来ますが、それだと「普通の人」がかなり低レベルになってしまうわけです。
「権力」を与えると必ず暴走するし、何かにつけて「自分」のことしか考えてないし、スキあらば人のことを蹴落とそうとする、それが現在の「大多数の人」ですから、もうチョット頑張ってもらわないと(『お前だろ!』「へぇ」)「普通の人」と言うのが「やや無意味」な感じがするわけですねぇ。
だって、それじゃあ「最低の人」とあんまり変わりませんからね。

なんで「人間」なのに「人間」に成れないんでしょうね?
要するに、成ろうとしないからだと思うんですよね。
もう「人間」に成ったと思って生きてますから、誰も「人間」に成ろうとしないんですねぇ。
だから、成れるわけありません。

逆に言うと、成ろうとすれば成れるんだと思います。
というより、「人間に成ろうとすること」こそが「人間の条件」なんだと思いますから、それだけでも十分だと思いますよ。
(現在設定されている「理想的な人間」には、将来も成れないでしょうね)

最終的に、言いたいのは、『もう、「神」は自分の中に居ると考えていいんじゃないか?』ということであり、『けっきょく、みんなが「天才」だったって言うことなんじゃないの?』ということであり、『今も昔も、チョット頑張れば誰でも「普通の人」くらいには成れるよ』ということなわけです。

まぁ、それだと「神」とか「天才」っていう言葉には、ほとんど意味が無くなってしまいますよね。
でも、チョット頑張って成った「普通の人」には、まだ「意味」が残されているんじゃないのかなと。

そういう風に思ったわけです。



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ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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