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「人間のジェネレーション」と「時代のジェネレーション」



ジェネレーションと言うと、世代なわけですけれど、その世代とは何の世代なのでしょうか?
たいていの場合は、「人間の世代」を指して言うことが多いと思うのですけれど、時代そのものの世代を指していう「時代のジェネレーション」の場合もあると思うわけです。


それは、「時代の世代」という、ちょっと変な言い方になってしまうわけなのですけれど、それはともかくとして、「政治」や、「教育」などのような国家の成り行きを左右することについては、この「時代のジェネレーション」を念頭に置いて行ってほしいなと思っているわけです。


今の景気を上昇させることや、今の国際情勢に対処することも必要なのでしょうが、少なくとも〝百年"くらい先のことを考えて国家を運営していってほしいものだなと。

とにかく、政治家の人が≪次の選挙≫を目算に入れて、ものをしゃべっているなと感じる時ほど悲しく思うことは無いわけです。

その人の言っていることが、いくら理路整然としていて筋の通った立派なことでも、それが、先のことまで見込まれていることでなければ、「政治」としては全く意味をなさないようにも思われるわけです。


要するに、十年後までしか通じないようなことは、「政治」でなくとも、誰かがやるのではないですかと。

百年先のことを想定して実行するとなって、そこで、初めて「政治」と言う「権力」が必要になってくるように思うわけです。


現状において、「政治」の場で「権力」が乱用lされるケースが多いのは、「権力」をもてあましているからで、「権力」を行使するべき場が与えられれば、その乱用が少しは減るようにも思うわけです。
(『そんなことでへりゃーしねーよ!』と言うのが本当かも知れないですけど)


「権力」は乱用されるようになってしまう性質があるものだと思いますが、あまりにも判で押したように、与えられた「権力」が必ずや乱用されるというのは、やはり、その本来の「持って行き場」がないということにもよるのかなと。


少なくとも、国家的な同意のもとに、百年から数百年の「時代のジェネレーション」を想定して、「政治」や「教育」が行われたということは、おそらく過去になかったと思われるので、そういったことが、検討されるべき時代になっているように思うわけなのです。

でも、実際には時代のサイクルは短くなっていく一方で、今に追われているというのが現実でしょう。


これからは「政治」にも、主に現在に対処する「短期型の政治」と、主に未来のことに対処する「長期型の政治」が必要になってくるのかなと。


そんなことを、思ったりもします。



「時代」に身を任せると、とんでもない所に連れて行かれるよ!



「時代」についての話で、『いまの時代はおかしい』と言うと、必ずと言っていいほど、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言う人が居るわけです。

でも、これは『歴史から学んでいない』と思うのです。


人間の過去の歴史を見れば、一目瞭然だと思うのですけれど、人間は過去に、かなりたくさんの「尋常ならざる時代」を築きあげてきているわけです。

ナチス統治下のドイツや、世界を股にかけた「奴隷貿易」と言う、”人間の所業とは思い難い”ようなシステムなど、挙げればきりがないくらいに、「尋常ならざる時代」は沢山あると思うわけです。

日本だって例外ではなく、”天皇陛下は人間ではない”と信じられていて、”竹槍でB29を落とせる”と思われていたのは、たった数十年前のことなわけです。


そして、この「尋常ならざる時代」には、”マトモな”話はいっさい通じないわけです。

例えば、ヨーロッパの強国と言われた国は、ほとんど「奴隷貿易」や、その恩恵に関わっていたと思いますけれど、それらの国は、みな「キリスト教国」なわけです。

でも、そこでは「奴隷貿易」が、キリスト教の教えに反しているかどうかは問われず、『聖書の解釈を如何にして「奴隷貿易」に順応させるか』ということだけに頭が使われていたのでしょう。


そして何より、そういう「尋常ならざる時代」の中でも、人々はきっと、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言っていたに違いないのです。

だからこそ、その「尋常ならざる時代」が成り立っていたわけですから。


対して、「尋常な時代」はどうなんでしょう。

それは、『とりあえず、ひどい圧政が無くて平和ならばいい』と言うレベルでも、けっこう少なくなってしまうのではないでしょうか?


どの程度で「満足できるほど尋常な時代」とするかはともかく、少なくとも、「文句をつけるほど悪い所がない時代」と言うのが、意外と少ない(と言うか、ない?)ということだけは間違いないのではないかと思います。


要するに、「時代」には、間違った方向に向かって行くという性質があるのだと思うのです。

もともと、人間は「個人」のレベルでは、概ね「正しい方向」へ向かって行きますけれど、「社会」や「時代」という「人間の集合体」のレベルに成ると、一転して、概ね「間違った方向」へ向かって行くわけです。


それでも、人間は「社会」をここまで発展させてきたわけですから、すべての「時代」が「間違った方向」へ向かっていたとするのにも無理があるという考え方もわからなくはないのですが、実は、それらの発展の大半は「個人」が成し遂げたものなのではないかと思うわけです。


実際、あらゆる社会機構は「個人」の活動なくしては成り立たないものばかりです。
このことは、社会主義や共産主義が行き詰ったことで証明されているように思います。


要するに、「社会」や「時代」と言うものは、「個人」による”善意の判断”があってはじめて機能しているわけで、システムの中で、”没個人化”した人間、つまり、役職や、肩書などと言うものの中に埋没した「機能としての人間」が下した判断、そういう、システムに無機質的に従った結果の判断には、かならずや、「間違った方向」へ向かって行くという性質があるように思えるわけなのです。


ということは、まさに、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』なわけです。

つまり、それは、意味が全く逆で、『いつの時代も間違っていた』ということなのです。


おそらく、人間は、まだ、、いいと言えるほどの「時代」を築けてはいないのだと思うのです。

程度の差はあるにしろ、すべての「時代」が『間違っていた』わけで、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』だからこそ、そのままじゃダメなんだと思います。


それから、もう一つ言えることは、現在、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言っていられるのは、『誰かが、ひどく間違った時代を壊したから』であって、

みんなが『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言い続けていて、「今」があるわけではないハズです。


いずれにしても、もう、歴史から学んだ方がいいのだと思うのです。

歴史が叫んでくれていることは、『「時代」に身を任せると、とんでもない所に連れて行かれるよ!!』
ということなんじゃないかなと。


そんな風に聞こえるのですが・・・・




いろいろなことを巻き戻したいわけなのです



唐突ですが、いろいろなことを巻き戻したいわけなのです。
つまり、今の「時代」が受け入れられないわけです。


『いい年をして、なにを”コドモじみた”ことを言っているのか!』と言われるんだろうなとは思うのです。

それでも、この「時代」は受け入れがたいわけです。
「芸術」なんかに限ったことでもないのです。


自分だけのことでもなくて、誰のことでもなくて、すべての人のこととして、いろいろなことを、少し巻き戻してもいいんじゃないかと思うわけです。


私のような人間は、違う「時代」に生まれても、きっと、こんなようなことを言ってはいるのでしょう。
それは、私が「そんな人間」だからです。


でも、この「時代」は、「そんな時代」じゃないと思うのです。


『いつの時代も同じようなものなんだ』と、ずっと言い続けてきたわけです。
でも、だんだん追いつかなくなってきているような気がするわけです。

「不況」のせいなんかじゃあり得ません。
そんなことは、あまりにもわかりきっています。

これから先、どんなに景気が回復しようとも、どんなに「スバラシイ・セイジ」が実現されようとも、「いい時代」になるというわけでもないでしょう。

そんなことには、みんな”トックに”気が付いているわけです。


それは、待っていても来ないし、先に行けばいくほど遠のいていくでしょう。
ときどき、”巻き戻しながら”進んでいかなければ。


「時代」に翻弄されるようになってきているわけです。
「すべての人」が。


常に振りまわされているようにしか感じないのです。
「生きるということ」が。


「いまの時代」のなかで「生活するということ」が、「自分の人生を生きること」から離れてしまっているように思うのです。


なぜでしょう?

そんなことは説明したくもないわけです。
周りにいる人の誰か一人を見たらわかることですから。

その人も振りまわされているでしょう。

「いまの時代」に。



そんなことから、私なりに、少し「時代」を巻き戻すことにしたわけです。


私の周りには、「いま」を生きる人たちが居ます。
みんな「いま」に振りまわされています。

私も「いま」の中に居ます。
でも、「いま」を生きてはいません。

そして、振まわされてはいません。少なくとも「いまの時代」には。
少し”楽”です。


「時代」に”取り残される”という焦りが無いわけです。
実際には、「どちらかと言うと取り残されている」のにもかかわらずです。


世間で言われていることは、遠い「時代」のことに成ります。
世間が押し付けて来る「常識」とか、自分が勝手に創り出した「メンツ」や「プライド」、そうした枠から外れるわけです。

つまり、「いまの規範」を捨てることで、巻き戻した「時代」を生きているわけです。

「いつ」だっていいんです。

「いま」でなければ。


そして、少しですけれど、「自分の人生」を取り戻せたように思っています。


今までだって、人から見たら”自分勝手な”生き方をしているように見えたのだと思います。
でも、本人としては”一所懸命に”「時代」に合わせて生きてきていたわけです。

それに気が付いてしまったということです。


あと2~30年早く生まれていたら、そのまま年を取って死んでいったように思います。
(ブツブツ不満を言ってはいたでしょうけど)

でも、この「時代」は受け入れられなかったわけです。


だから、この「時代」に生きられる人はいいですけれど、「生きること」が”チョットオカシク”なって来ている人は、”巻き戻す”といいんじゃないかと思うのです。


そこに「鬱病」とか、「〇〇症候群」とかいう名前を付ける必要なんてないと思うのです。
人が”病んでいる”わけではないのです。
「時代」が”病んでいる”わけです。


そういう病気になっている人でも、なっていない人でも大きな差はないと思うのです。

みんな同じように「いま」に居ます。
そして、その「いま」が病んでいるわけです。


だから、大部分の人が「治療」では治らないと思うのです。

必要なのは「時代」を”巻き戻す”と言う「気分転換」なのだと思うのです。


ほとんど何もしなくていいわけです。
ただ、周りの人を見たときに、『あぁ、あの人も振り回されてる、”いま”を生きてしまってるからね』と思うだけです。

その「いま」は「”病んでいる”時代」です。
そして、自分は「遠い時代」から、それを見ているというわけです。

それは「”健康な”時代」です。
うまくすれば、少し”楽”になれます。


これは別に、周りの人を見て「あーあ、カワイソーニ」ということではありません。
たぶん、あちらから、こちらを見た方が、よほど「カワイソーニ」だと思います。

そこを気にしないというだけでいいわけです。


これを、徹底的にやろうとすれば、いろいろなものを捨てなければなりませんけれど、「気分転換」だけでしたら、自分の頭の中の「時代」を”すり替えて”やるだけでいいわけです。

ほとんど捨てるものも無いはずです。
要するに、「カワイソーニ」と思われても気にしないというだけのことです。


そこで『くやしい!』と思ってしまえば、一気に「いまの時代」に引き戻されてしまいます。
その『くやしい!』は違うときに使えばいいわけです。 


長くなってしまいましたが、とりあえず、こんな話を最後まで読んだ人と言うのは、”巻き戻し”てみてもいいんじゃないかなと。


それは、たった一人でできて、小さな発想の転換でできるようなことですが、「時代」を超えるという”壮大な”こととも言えるわけです。


まぁ、なんとなく、そんなことをやっていると言うわけです。



いろいろなことを巻き戻したいわけなのです(続き)



前の記事の続きです。


私は自分なりに、少し「時代」を”巻き戻す”ことにしたわけですけれど、『なぜ、そこまでして「いま」を拒否しようとするのか?』という疑問があると思うわけです。


私の場合は「芸術」をきっかけにして、これを始めることに成ったわけですが、「いま」と言う時代の中で、「芸術」を真面目にやってみようと思った時に、この時代の中に居たままでは、自分は、「芸術の中心」には入っていけないだろうと思ってしまったわけです。


そして、いろいろなことを考えるうちに、『そこには、常に「時代」と言う”壁”があって、必ずそこにぶつかるから入っていくことが出来なくなっているんじゃないだろうか?』と思うように成ったわけです。

そしてそのことは、「芸術」以外のことで、いつも自分が感じていたこととも、ほぼ完全に符合することであったわけなのです。


そして、この「いま」と言う「病理」に思い至って、『この”病んだ時代”を受け入れてしまっていいのか?』また、、そして、『これを受け入れてしまった上で、なんのための”芸術”だというのか?』と言う気持ちになり、私は、とうとう「いま」を受け入れることが出来なくなってしまったというわけです。


より正確に言えば、病んでいるのは「いま」だけではななく、「全ての時代」が病んでいるということすら言えると思いますけれど、その「病状」が「時代」とともに進行して「いま」に至っているということだと思っています。


もともと、人間が「文化」や「文明」を持つかぎり(政治形態や社会機構等を含めた意味で)、この「社会的病理」を完全に免れることは出来ないのだと思うのです。


「人間」も「人間が生み出す論理」も完全ではあり得ませんから、当然、そこから構築される「文化」や「文明」と言ったものも、”完全性”を持つことは出来ません。

ところが、人間は何らかの”完全性”を精神的な拠りどころにしなければ、その「文化」・「文明」を推進していくことが出来ないわけです。

つまり、人間が「文化」・「文明」を推進していくためには、それが『正しいことである』という”絶対性”を裏付けにする必要があるわけです。

それが無いと、人間は自信や確信をもって物事を行うことが出来ないということだと思います。

しかし、それは、実際には不完全ですから、本当の意味では、”絶対性”を持ち得ません。
それで、全ての「人間の行い」は、いずれ何らかの形でその”不完全性”を露呈して、破綻してしまう”ハズ”なわけです。

ところが、はじめの段階で、拠りどころとした”完全性”が、邪魔をするわけです。

つまり、すでに破綻している「論理」に基づいた「文化」・「文明」が、初めに拠りどころとして与えられた”完全性”によって裏付けられているために、長い期間、維持されてしまうことが非常に多いわけです。


過去においては、破綻した「論理」に基づいた「文化」・「文明」は、ある程度の期間、維持された後、”その期間”を過ぎると、その破綻したものの”無意味さ”に人々が気付いて、修正されていたものと思われるわけです。

しかし、現代の「時代」の進行速度は、”その期間”を遥かに凌いでしまっており、修正する時間を与えてはくれないようになっているわけです。

そして、その「破綻」の上に、さらに新たな「文化」・「文明」が築かれていくわけです。
つまり、そういう形で築き上げられているのが「いまと言う時代」ということに成ります。


そしてさらに言えば、この「破綻」の上に「破綻」が累々と積み重ねられた「時代の病理」を、すべて飲み込んで、自己処理することを求められている者こそが、「いまと言う時代」を生きる「現代人」ということに成るわけです。

そのうえ、さらに付け加えるなら、この「時代の病理」の身代わりとなって精神病理的な状況に陥った人に対して、その根本原因である「いまと言う時代」を指摘する者はまったく居ないというしかありません。

そのような状態の人が、精神科やカウンセラーの門をたたいても、社会の最小単位である「家族関係」や「職場の人間関係」におけるトラウマやストレスと言うプライベートな範囲内において原因が求められてしまうために(それは確かに原因ではあるのですが)、【過去から積み上げられてきた歴史を含めた意味での「いまと言う時代」】 という、、一人の人間には到底太刀打ちできないものが、真の原因であるという観点が抜けてしまうわけなのです。


もともと、「医療」においては、「人間が社会に適応できなくなるような状態」を「病理」と呼ぶ傾向がありますから、「社会」の側が”病んでいること”は「医療」の守備範囲とは考えられていないのでしょう。

また、同じ理由から「社会復帰」をもって「治癒」とする傾向がありますから、患者と医師の間の「治療」の範囲では、改善することが不可能な「時代の病理」については、、『それを言っても始まらないから』ということで放置されてしまい、取り敢えず、目の前にあるトラウマやストレスをコントロールすることで、どうにか「社会復帰」できるようにするという「対症療法」が主流を占めてしまうわけです。
(実際は、それが全てと言うべきでしょう)

そしてそのことによって、患者は「社会復帰」と引き換えに、「時代の病理」と言う、更に”巨大な不条理”を飲み込まされてしまうわけなのです。


そう考えると、そのように病んでいる「いまと言う時代」に対して、何のストレスも感じずに過ごせる人が居るとすれば、その人こそが、「病的」な状態にあるわけで、むしろ、現在「精神病理的症状」を呈している人と言うのは、その「精神的健全性」によって、その「症状」に陥っていると考えられなくもないわけです。

従って、「健全性」を「病理」として、「病理性」を「正常」とする逆転が起きてしまっているわけです。


その結果、大半を占める「健全な人たち」が、その「健全性」を失いつつあるわけです。
しかも、その「病理」をもって「正常」とするような「異常性」に気付くことすらなくなり、それどころか、それを頑として認めようとしなく成ってしまっている人も急激に増えてきているわけです。


長くなってしまいましたが、以上のことが、私が「いまと言う時代」を受け入れられなくなった経緯なのです。


そして、もう一つ、『なぜ、過去へ巻き戻すのか?どうして未来へ向かわないのか?』

それを次の記事に書きます。




いろいろなことを巻き戻したいわけなのです(続きの続き)



しつこいですが、更に続きです。


さて、『なぜ、過去に巻き戻すのか?』ということです。

『未来へ向かえばいいじゃないか』
その通りなのだと思います。

本当なら、一足飛びに「未来」へ向かって行けばいいわけですが、でも、『向かって行く”場”がない』と思ってしまうのです。
「未来」と言うのは、”まだ無いもの”ですから、そこへ行くべき”場”として設定しにくいのです。

それができる人もいるのかも知れませんけれど、やはり、イメージし易い「過去」がいいように思ったわけです。

「過去」と言う、既に確定している「時代」に”巻き戻す”ことで、とても”安心できる”ということだと思います。


さて、そこで、この「時代」の”巻き戻し”に、どれほどの”意味”があるのか?ということですが、正直言って、それはよくわかりません。


随分と無責任な話ではありますけれど、私に言えることは、『自分には少なからず”意味”があります』ということぐらいです。

誰にとっても”意味”のあることなのか、そうでもないのかについて、この時点で判断することはできませんが、少なくとも、「いま」と言う「時代の病理」について、私は明確にそれを感じていますし、そこにはもう疑いを差し挟む余地はありません。

さらには、「時代」が”病んでいる”のに対して、「人」は”健全である”とも感じております。
一人一人の「個人」が、まだ、”ある程度健全な状態”にあることも、実は確かなことだと思っているわけです。

しかしながら、この「いま」を持続延長し続ければ、いつの時にか「時代の病理」が「人」にも蔓延してしまうことも、また、間違いようのないくらいに確かなことであると思うわけです。


「いま」を見る限りにおいては、一見、すでに「人」にもこの「病理」が蔓延してしまっているようにも見えるわけですけれど、それは、「いま」と言う「時代」や「社会」を構成しているのが、その「人」であるからであり、そうした「集合体」の構成要素としての「人」は、すでに、「かなり病的な状態」に陥ってしまっていますが、その「集合体」から引き離した「個人」としての「人」は、いまだに、ある程度の「健全性」を維持しているという風に思うわけです。
(あくまでも、ある程度ですが)


そういうことで、まずは少し”巻き戻して”行こうかなと。

『まだ、大丈夫、間に合うよ』と言ううちにですね。

新年早々、そんなことを考えてみたわけです。




「時代」が動いて行く方向



「時代」が動いてゆく方向と言うのは、かなり先のことまで、前もって決まっているものなんじゃないかと思うのです。


そもそも、「時代」と言っていますけれども、その「時代」と言うものは、人間の意識の中にしかないわけで、時間や歴史と言う感覚を持っていないであろう人間以外の動物は、おそらく、「時代」ということも感じていないんだろうなと思うわけです。


要するに、「時代」は「社会」の中にしか存在しないんだと思うわけです。

群れを作る動物の集団にも、「社会」はあるのでしょうが、人間の目には、そこに「時代」が意識されるほどの大きな変化はないように見えてしまいます。


つまり、「時代」とは人間社会に固有の感覚だと言えるんじゃないかと思うわけです。


さて、そこで、「時代」が動いて行く方向ですが、それは、その「時代」を形成している「社会」の意識が向いている方向へ向かって行くわけです。
と言うよりも、むしろ「社会」が向いている方にしか行かないと言った方がいいかも知れません。

まぁ、「社会」が「時代」を作っているわけですから当然そうなるわけでしょうね。


そこで、「社会」の向きはどこで決まっているのかと言えば、たぶん、歴史の流れの中で、かなり前の時点で決められているように思うのです。


例えば、「コペルニクス」の百年前に「地動説」を唱える人が現れていても、

それは、「時代」に受け入れられることは無かったんだと思うわけです。

百年前にも、「コペルニクス」と同じぐらいすぐれた学者は居たんでしょうが、

その人は「その時代」が求める「ほかのこと」を研究していたんでしょうね。


だとすれば、「コペルニクス」が「地動説」を唱えたと考えることもできますが、

「時代」が「コペルニクス」と言う頭脳に働きかけて、

「地動説」を発見させたと考えることもできるわけです。


「社会」の意識は、そう簡単には変わりませんから、「大きな変化」が受け入れられるには、その前の前提となるような、「微妙な変化」の積み重ねが必要なわけです。

その「微妙な変化」が無ければ、それが受け入れられることはありませんし、その「微妙な変化」が積み重ねられて行けば、必ずそちらに「時代」が動いて行くということなんだと思います。

つまり、その「微妙な変化」の段階で、先に行って「時代」の流れとなるような「大きな変化」が、既に決まっているということでしょう。


ただ、「微妙な変化」の段階では、「大きな変化」が、いつ起きるのかとか、それがどんな形で現れるのかと言ったことが、なかなか分かりづらいということなんでしょうね。
それで、みんな「いま」に合わせて生きていくわけです。

そして、それは概ね正解なわけです。
それで、生きていくのに十分ではあるわけです。


でも、それだと、他の動物との違いがないわけです。
つまり、人間にしかない「時代感覚」が抜けているんでしょうね。


「いま」に合わせることは、一見「時代」を感じ取っているようですが、実は、その人が感じているのは「時代」ではなく、

あくまで「いま」であって、それは「時代」の表層に張り付けられた、ラベルのようなものにすぎませんから、中身のある「時代」を感じ取っているとは言えないのでしょう。


それだと、”生きていく”のには十分でも、”人間として生きていく”のには、やや不十分なのかも知れませんね。

もちろん、他の動物がダメだっていうことじゃありません。
それに、流行という「いま」を追ってはいけないということでもありませんが、それだけだと、飽きちゃうんじゃないかと思うわけです。

やっぱり、「人間」は「人間」と言う「種」ですから、より「人間]らしい方がよりいいんじゃないかと思うわけです。


だったら、「人間」だけが持っている「時代」を意識するという感覚は、持っていたほうがいいんじゃないのかなと。

そんな風に思ったりもするわけです。





「時間」には、本当に「今」しかないのか?



「時間」とか「時代」と言うものを考える時に、「過去」や「未来」と言うのは、実際に「存在」しているわけではないから、実際に「存在」するのは、「現在」=「いま」だけなんだ、ということを言うことがあるわけです。

でも、本当にそうなんでしょうか?


確かに、「現在」以外の「時間」や「時代」と言うものは、どこにも「存在」はしていませんね。
でも、それは「時間」を「点」で捉えた考え方なんじゃないかと思うわけです。


実際の「時間」は、「点」ではないんじゃないかと思うのです。


まず、「時間」とか「時代」と言う「次元」を言葉に置き換える段階で、「線」として捉えているんだと思うんですね。
「過去」~「現在」~「未来」と言う「一本の線」ということですね。


その時に、「時間」と言う「次元」が、「点」でも、「線」でもないということが抜けてしまうんですね。


そこで、一本の「線」として捉えたときに、「現在」以外は「存在」していないということが出てきてしまうわけです。
「時間軸」という「線」の上を、「いま」という「点」が移動していくという感じでしょうか。

でも、実際には、「時間」は「点」でも「線」でもなくて、「時間」なんだと思うわけです。

それで、その「時間」と言う「次元」や「概念」には、「過去」も「未来」も、しっかりと「存在」していると言うのは、間違いのないことのように思われます。

つまり、それらを全部ヒックルメテ「時間」なんだと思うわけです。

言い換えれば、「いま」の中にも「過去」や「未来」が、歴然と存在しているのが、「時間」と言うモノなんじゃないでしょうか?
逆に言えば、「過去」や「未来」の中に「いま」も「存在」しているんでしょう。

それを、違う「次元」で捉えると、「存在」していないことに成ったりするということなんだと思います。


つまり、「三次元」までの「次元」で捉えた場合、「時間」には「いま」しか「存在」しませんが、それは、あくまで、物質的な「いま」でしょう。


確かに、目に見える「過去」や、手で触ることができる「未来」は、そこに「存在」していませんが、「時間」は、もともと目に見えるものでも、手に取ることができるものでもありませんから、それは、物質的な「過去」や「未来」であって、時間的な「過去」や「未来」ではないわけです。


もともと、「時間」と言うのは、何らかの「連続」によって捉えられるものですから、「いま」と言う「点」では捉えることが出来ないはずです。

分解写真のような「点」の断続では「時間」とは言えないような気がします。
やはり「過去」~「現在」~「未来」と言う「連続」があってこそ、初めて「時間」と言えるんではないでしょうか?
そういう「連続」があれば、人間が捉えやすいイメージとしての「線」に成ります。


そこでようやく「時間」とか「時代」として捉えることが可能に成りますけど、それは「考えるのが可能」なだけで、実際には、「時間」は「線」でも無くて「時間」ですから、物質的な「過去」や「未来」が「存在」していなくても、時間としての「過去」や「未来」は「存在」していると思うんですが、どうなんでしょう?


ということで、物質的な「存在」とは無関係に、「全ての時」を包括した概念が「時間」と言う「次元」なんではないのかなと。

よくわからないので、一応、その辺にしておきます。



「戻ること」



「戻ること」と言うと、どうしても「ネガティブ」な印象があると思うわけですけど、実際には、「戻ること」には「ポジティブ」な面もあると思うのです。


「戻る」と言うと「後戻り」=「マイナス」と言う感じがしますけど、「急がば回れ」と言う言葉もあるように、「進むこと」のためには、時には「戻ること」が必要になってくるわけです。


このブログでは「芸術」において「100年回帰」を提唱しているわけですが、「芸術」の話に限らず、「戻ること」が「進むこと」につながるケースは多いと思っています。


「工業化」や「経済優先」などの例を挙げるまでもなく、何事も「過ぎたるもの」には「戻ること」が有効なんじゃないかということですね。


そこで、「立ち止まること」と、言われることも多いわけですが、どうせなら戻った方がいいんじゃないかと思うんですね。


そういう時っていうのは、勢いがついてしまってますから、「立ち止まろう」とすると押し流されてしまうと思うんですね。
だから、力を使って「戻ろう」としないと、「立ち止まること」もできないんだと思います。


「戻った場所」で考えると、人間はけっこうイイことを考えるんじゃないかと思うわけです。

こういうことは、昔からずっとやってきたことなんだと思うんですけど、世界が見渡せるようになった現在は、国と国が、お互いに横にらみでけん制しあっている状態なので、「先に戻ったもん負け」的な空気が出来てしまっていて、それで、「戻ること」ができなくなってしまっているような気がします。

 ※実際には、人間が「戻ること」を選択することは、ほとんどありませんが、
  そういう考え方ぐらいはできるし、現にそうしてきたと思います。
  それが、現代に成ってから、その考え方すらもしなくなってしまっているよう
  な気がするわけですね。

これは、個人についても同じで、人と人が、常に「パワー・ゲーム」を演じてしまっていて、やっぱり「戻ったもん負け」なわけです。

でも、本当のところは「戻ったもん勝ち」なんじゃないかなと。


「パワー・ゲーム」から外れて、『戻っちまえば、こっちのもんさ!』と言って、「アッカンベー」をくれてやれば、それなりに吹っ切れるんじゃなのかなと。


そんな風に思って、やっているわけです。



『いつの間にかひっくり返る』



「時代」には「流れ」があると思うわけです。
そして、その「時代の流れ」が、「いつの間にかひっくり返る」ということがあるわけですね。


『~ひっくり返ることがある』と言うよりも、むしろ、「時代の流れ」と言うのは、常に『ひっくり返り続けている』と言った方がいいのかも知れません。

「時間」とか「時代」と言うものは、いつも「ヨジレながら」進んでいるものなんじゃないでしょうか?


「メビウスの帯」のように、まっすぐ進んでいるつもりなのに、『いつの間にかひっくり返えされている』わけですね。
と言うか、『常にひっくり返され続けている』ということに成るわけですね。

それで、「常識」だったことが「非常識」になったり、「人気があったモノ」が「誰も見向きもしないモノ」になったりするということが起きて来るんでしょうね。


でも、『常にひっくり返され続けている』ということは、いま「常識」とされていることは、すでに「非常識」に成りかけているということに成るわけです。

そうなると、その「常識」は、いったい「常識」なのでしょうか?
それとも、もうすでに実体としては「非常識」になってしまっているんでしょうか?


「時代」や「世界」が常にヨジレて進んでいるとすれば、『ハイ、ここから「非常識」にひっくりかえりました』と言うポイントは存在しないわけで、人によって、それぞれ「非常識」に成ったと”思う時点”が違うだけ、ということに成るわけです。


実は、「時間」や「時代」に限らず、「存在」まで含めても、常に「世界」が反転しながら存在しているというのが、この「世界」の原理なのかも知れませんね。

もしかしたら、それだからこそ、いろいろな矛盾や、理不尽さを抱えたままでも、「世界」が存続できているのかも知れないですよね。


「万物は流転する」だけじゃなくて、「万物は常に反転しながら流転している」のかもしれないですね。


「矛盾」や「不合理」がどこかでヨジレて反転して、ナニカの「合理性」とつながっているということなんでしょう。

「たぶん」ですけどね。


こういうことを表現できる方法を知っている方が居らっしゃいましたら、教えてください。


と言う風に思っております。





一人でも「時代」を創り出すことは出来る・・・・のかな?



「時代」とか「世界」と言うのは、その社会の大多数の人の動向によって創られているというのが一般的な考え方なんでしょうが、それはそれとして、個人的には、「時代」や「世界」と言うのは、本当は一人の人間によって創られるモノなんじゃないか?と言う風にも思っているわけです。


たとえば「流行」についていえば、「流行」は「時代」を象徴するモノの代表だと思うわけですけど、「マイ・ブーム」と言うのもありますよね。

つまり、「自分だけの流行」もあるわけです。


それと同じように「マイ・時代」もあるし「マイ・世界」もあるんじゃないかなと思うわけですね。

じつは、一般的に「時代」とか「世界」と言っているのは、そういう「マイ・時代」や「マイ・世界」の集合と言うだけのモノで、本当に、実体としての意味を持っているのは、一人一人の人が創っている「マイ・時代」や「マイ・世界」の方で、一般的な「時代」や「世界」が持っている意味と言うのは、予想外に小さいんじゃないかな?と思ったりもするんですよね。


それから、これもまた「流行」の話になりますが、ナニカが「流行」する時と言うのは、誰か一人とか、あるいはごく少数の人が「キー・パーソン」に成って、「流行の発端」に成っているということが多いように思うのです。

一般的に「流行」する前までは単なる「マイ・ブーム」ですが、それが、たまたま一般的な「流行」へ移行すれば、「時代」に影響を与えることも出て来るわけですよね。

ところがですね、おそらく、推測するには、その「流行」の「キー・パーソン」に成った人の中では、一般的な「流行」に成ったとしても、成らなかったとしても、起きているのは同じ事なんじゃないかと思うわけです。


つまり、どっちに転んだとしても、その人の中では、それは「マイ・ブーム」であり「マイ・時代」であり「マイ・世界」であるわけで、他の人の反応によって、どんなに周りの状況が変わったとしても「その人の中の時代」は、あくまで「そのマイ・時代」であって、「その人の中の世界」は、あくまで「そのマイ・世界」なわけです。


こんな風に言うと、「流行」の「キー・パーソン」に成るような人が持っている「マイ・ブーム」と一般的な人が持っている「マイ・ブーム」は質が違うというよな方向に話が行きがちですが、実は逆で、一般的に「流行」するモノよりも「流行」しないモノの方が、より一層強固な「マイ・ブーム」であるとも言えるわけで、むしろ、一般的に「流行」するモノの方が「マイ・ブーム」の「マイ」の部分が弱いということも言えなくはないわけです。


そう考えていくと、「時代」や「世界」と言うのは社会全体の動向で創られているんだという考え方も、もちろん、否定はしませんし、それこそが「時代」であり「世界」であることに違いはないわけですが、その一方で、「時代」や「世界」と言うのは、「個人」の中にあって、一人の人間によって創られているモノなんだという考え方も十分にあっていいような気がしますし、私としては、そちらの方をより重視していきたいなと思ってしまうわけなのです。


『なんで、そっちを重視するのか?』と聞かれれば、『そっちの方が、興味が持てそうだから』と答えますね。


マスコミが、ここまで「支配的」に成る以前のことならまだしも、現在のような完全なる「マスコミ支配」の世の中で、「一般的な流行」や「一般的な時代」や「一般的な世界」には、正直言ってもうウンザリですね。

何はともあれ、「時代に逆行していないモノ」には、まったく興味が持てませんね。

 
そんなこと、そう簡単にできないのはわかってるんですけど、『みんなが一人に一つの「時代」や「世界」を持っていて、その「チガウ時代」や「チガウ世界」をお互いに認められたり、共有出来たらいいよなぁ』

と、そんな風に思ってしまうわけなのです。




「流行」と「時代」



「流行」と「時代」の違いについてです。


この二つは、「似て非なるもの」だと思うわけです。


確かに、一つの時代の中で、何かが流行すると、「その流行」こそが「その時代そのもの」であるように見えますよね。

実際にも、それは「その時代」を象徴するものの一つではあるんでしょうが、それでも、やはり「流行」と言うのは「時代」には成り得ないものなんじゃないかなと思うわけです。


要するに、「流行」はサイクルが短いんですね。
だから、「時代」とは成り得ないんじゃないかと思うわけなのです。


逆に言うと、「その流行」がとても長く続いて、「時代そのもの」にまでなったとき、それを、まだ「流行」と言うのか?と言うことに成ってくるわけです。

おそらく、それは、もう、「流行」とは言えなく成っているような気がしますね。


そこで、「流行」と「時代」の長さとはどのぐらいなのかなと考えて見るわけですね。

私のまったくもって個人的な感覚で言わせていただくと、「流行」は、数年から十数年と言うところじゃないかと思うんですが、場合によっては、一年未満と言うこともあるでしょうし、特殊なケースであれば、20年~30年近いこともあるだろうと思います。


それに対して、「時代」となると、やはりかなり長くて、数十年以上続かないと「一つの時代」と言うには、物足りないような気がしています。


おそらく、この長さは、「人間の生涯の長さ」が基準に成っていると思います。

つまり、一人の人間の生涯の中で、何度も入れ替わるようなものは「流行」で、生涯に一つだけだったり、入れ替わりがあるとしても、それが一度だけというのが「時代」と言うことだと思います。


現代は、「時間の進み方」が高速化していますから、その辺のところが、かなり曖昧になって来ていて、5年とか10年くらい続いたものでも、それを「時代」として扱う傾向があるような気がしますが、人生の中で何度も入れ替わりがあるようなことを、後から振り返ってみたときには、「流行」と言う風にしか思えないことが多いと思いますので、それは、やっぱり「時代未満」の「流行」と言うことに留めておくのが妥当ではないかと思うわけです。


さて、なんで、そんなことにこだわるのか?と言うと、まぁ、要するに、自分が「絵」を描いているからなんですね。


つまり、「流行するような絵」を描きたいのか?それとも、「時代に残るような絵」を描きたいのか?ということがあるわけですね。


それ以上に、私といたしましては、「時代を超えた絵」を描きたいと思いますけど、それは、あくまで「理想を言えば」と言うことでしょうから、せめて、「時代に残るような絵」を描いていきたいもんだなと思っているわけです。
(これは「絵の水準の高さ」の話しではありません。「ハイレベルな絵」なんて目指してません。)
要するに、「時代」に「自分の痕跡」を残したいというようなことだと思います。

そして、その辺のところが、「現在の芸術」に欠けているところでもあるような気がするわけです。
なにかにつけて、「オリジナリティ」や「新しさ」を追い求めてしまうために、常に「流行止まり」で「時代」を形成することが出来なくなっていると思います。

それなのに、それを「時代」と言うことにしてしまっているような気がしますね。

しかも、その「流行のサイクル」をドンドン縮めていかなければ、「流行」にすら成り得ないというような仕組みが出来上がってしまっていて、「芸術」が、自分で自分の首を絞めてしまっています。


ということで、もう少し長いサイクルで、やっていきたいもんだなと。
それでないと、「今」という「時代」が無く成ってしまうんじゃないのかなと。

そうなったら、もう、「時代の芸術」もなくなってしまうでしょうし、まして、「時代を超えた芸術」なんて、有り得ないものに成ってしまうわけで、そうならないように、少し長めに、『千年先を見つめてやっていきたいなぁ』と。

そんな風に思っているわけです。






「戻ること」は人間に与えられた特権



このブログは「芸術の20世紀喪失」ということをメインテーマにしているんですが、それは時代を「戻ること」であり、また、「やり直すこと」でもあるわけです。


まぁ、それはともかくとしてです。

「戻ること」と言うと、「後戻り」とか「後退」というマイナスのイメージが強くなってしまうと思いますけど、実を言うと、この「戻ること」と言うのは、地球上の生き物の中で「人間だけに与えられた特権」であり、また「人間の切り札」でもあると思うわけです。


今のところ「歴史」という情報を持っているのは、地球上では「人間」だけですから、「戻る場所」や「戻る状況」を設定できるのは「人間」だけなんじゃないかと思います。

ただ、「人間」も「過去の情報」は持っていますが「未来の情報」については推測する事しかできませんから、「進む場所」や「進む状況」は正確に設定することが出来ないわけです。
それが出来れば一番いいのかも知れませんけどね。


「人間」も「人間以外の生き物」も、皆「DNA」という情報伝達手段によって情報を受け継ぐことで「進化と言う仕事」を継続的に行っているわけですが、その「進化」に「戻ること」が含まれていないみたいなんですよねぇ。
(まぁ、「”進”化」ですから。ちなみに「退化」は「進化」の一種だと思います)


だから、「人間」も「人間以外の生き物」も新しい方向が提示されると、必ずそっちに向かって行くわけです。
でも、その「新しい方向」と言うのは、ただ単に、たいした根拠もなく出てきたものに過ぎないわけです。

なにせ、「進む場所」も「進む状況」も設定できませんから、もともと根拠となるほどの材料が無いわけですね。

まぁ、要するに「予測」と言うよりも「テキトー」ということだと思います。


それなのに、です。

今のところ、「個人」が「戻ること」を選択することはあっても、「人間全体」が「戻ること」を選択することはほとんどないと思います。


これこそが、「進化」を基本とする行動パターンから発生していることなんだと思うわけです。


「DNA」に刻まれている情報は「過去の情報」だけなのに、それをもとに「テキトー」に予測された「進む場所」や「進む状況」に向かって行くように、すべての「生き物」の行動がパターン化されてしまっているんだと思います。


でも、もともと「進化」は、「生き物」の「体」や「性質」を環境に順応させるために発達したシステムですから、「知的な行動」にまで、それをそのまま適用する必然性はないわけで、「人間」は、その辺の所をナントナク解明して、その辺の所まではチョットだけ理解しているわけですから、臨機応変に使っていくことも出来ると思うわけです。


そして、「人間」が「歴史」という情報を使って、「戻ること」を今よりも積極的に選択するように成れば、きっと、少しイイんじゃないかと思うわけです。
(『誰にとって?』ということじゃなくて、『全体として少しイイんじゃないか?』と)


まぁ、要するに『歴史に学ぶ』ということなんですけど、これ、口では言われますけど、実行されていることがほとんど無いんですよね。

『歴史は繰り返す』はすごくよくあるんですが、「人間」が歴史に学んで何かを行うことなんて、ほとんどないと言っていいでしょうでしょうね。

まず、学びませんね。

だって、「戻ること」を選択しませんから。

それに、進めば「テキトー」だし。


要するに、「歴史に学ぶ」っていうのは「戻ること」に他ならないと思うわけですねぇ。

戻らないで、上手いこと進みながら歴史に学ぼうとしても、けっきょく「テキトー」に成っちゃうんだと思いますよ。
だって、先のことはわからないわけですから。

出来るのは「戻ること」だけなんじゃないでしょうか?いったん戻ってやり直すことで初めて「歴史に学ぶ」ことが出来るんだと思います。


でも、なかなか戻らないんですねぇ。


個人的になら、「戻ること」を選択する人はいますし、そういう習慣を身に着けている人も居るのかも知れません。
(私は一人も知りませんけどね。それぐらい少ないということだと思います)


でも、いくら個人的に「戻ること」を選択する人が居ても、「人間全体」でそれを選択しなければ、「人間の特権」としては機能しませんから、当然「人間の切り札」にもならないわけです。


どうして「戻ること」が「人間の切り札」に成るのかと言えば、それが人間にしかできないことで、しかも、それによって「進化の加速」を止めることが出来るからです。
(まぁ、私が勝手にそう思ってるだけですけど)


「進化」って、「加速」していると思うんですよね。

そして、その「進化の加速」が、地球の中でその生命体に与えられた割り当てを上回ってしまって、自分の進化についていけなくなったときに、その生命体は「種」として滅びるんだと思うわけです。
(「種」としては「絶滅」でも、「生命全体」としては、それも「進化」なんでしょうが)


「進化」が加速すればするほど、その生命体は地球上で繁栄するわけですが、そのことによって、最後には「絶滅」することに成るわけです。


ところが、「進化」は「進むこと」しかできませんから、「戻ること」は出来ません。

それで、「絶滅」してしまうわけです。


だから、「進化」に身を任せておくと、必ず「絶滅」するわけです。


いま、生命全体としては、「絶滅を切り抜ける種」を待っているんだと思います。

その為の「切り札」が「戻ること」だと思うわけなんですねぇ。


もちろん、そこを切り抜けたところで、また違うトラップにかかってしまうに違いないわけですから、同じようなもんなんでしょうが、それでも、「すべての生き物」は「今出来ること」をやるようにできているので、そうするしかないということだと思います。


と言っても、やらされているということでも無くて、「人間の意思」でやっていることでもあるわけですから、そういうことを『自然法則にコントロールされている』と考える必要なんて全くないと思いますね。

「人間の意思」だって、「自然法則」の一つですから同等なわけで、そういうことに序列をつけても、あまり意味ないんじゃないでしょうか?


という所で、話が大きく成ってしまったので次の記事につなげます。




「戻ること」は人間に与えられた特権(つづき)



前の記事の続きです。


さて、「戻ること」は「人間だけに与えられた特権」であり、「人間の切り札」でもあるんじゃないのか?

そして、「戻ること」によって「進化の加速」を止めることが出来れば、「人間」は「過剰な進化による絶滅」を免れることが出来るのかも知れないという話です。


『そんなに大袈裟な話なのか?!』

いや、成り行きで、話が大きくなっってしまって・・・・・


まぁ、ただ単に『歴史に学びましょう』と言うだけのことですから、特別なことでもなんでもないんですけど、その『歴史に学びましょう』が実践されることが、あまりにも少ないわけですねぇ。


おそらく、「戻ること」よりも「進むこと」の方が人間の習性として根強いんでしょうね。
だから、「歴史に学ぶこと」が大切なことだと重々わかっていても、なかなか戻れないんだと思います。

多くの場合は、前に進みながら歴史から学ぼうとするわけですが、「進む」と言うことは、「予測がつかない未来」へ向かって「進む」ということなわけですから、当然、「テキトー」に成るわけです。
(本当の意味で「歴史に学ぶ」ためには『戻ってやり直す』以外にないんだと思います)


それでも、「種の進化の過程」が初歩的な段階では、地球上に「その種」にとっての空き領域がたくさんあるので、その広大な空き領域に向かって、当てずっぽうで進んで行った場合でも、「そこそこの進歩」を遂げることが多いわけです。

ところが、「進化の段階」が進んで、地球上で「その種」が占める部分が拡大してくると、当然「その種」に与えられる「空き領域」が少なく成ってくるわけで、そう成れば、もう「当てずっぽう」は通じなく成ります。


それまでは、とてつもなく大きな領域に向かって進んでいたわけですから、どこに行き着いたとしても、そこそこに得るものがあったわけですが、急激に小さく成り続ける領域に向かって行かなければならなく成るわけですから、「当てずっぽう」で進んでいっても、日に日に「ハズレ」が増えていくわけです。 

それだけなら無駄なだけですから、まだいいんでしょうが、「進化」が、その「ハズレ」を補おうとして、さらに過激に「進化」するように成るわけです。

それで、「進化」が加速して、先へ先へと「当てずっぽう」を繰り返しているうちに、いつかきっと、「絶滅」と言う「ハズレくじ」を引いてしまうということなんじゃないかと思いますね。


つまりは、そういう「進化の加速」が、いま「人間」には起きていると思うわけです。


その「進化の加速」を緩めないと、きっと人間は絶滅することに成るでしょう。
だいぶ先のことには成るでしょうが、今考えられているよりは早くなるのかも知れませんよ。

だって、すごい勢いで加速しているわけですから。


残された選択肢は「地球の外へ出て、進み続けること」と「地球を使い果たすまで、進み続けること」、最後の一つが「戻ること」ですね。


たぶん、「人間」は地球外では生きられないと思いますよ。
それでも、きっと行くんでしょうね。一度は。


どっちにしても「戻る」という発想がないと、ニッチモサッチモいかなくなるんじゃないかと思いますね。


そういったことから、「戻ること」は「人間の特権」であり、「人間の切り札」でもあると、そういうことが言いたかったわけです。


言葉だけで『歴史に学ぶ』と言い続けていても、実際に戻ってやり直さないと、何の意味もないんじゃないの?

だって、「進歩するため」じゃなくて、「進歩を緩めるため」なんだから。


そんな風に思ったわけなのです。


 ※こういう世の中全体の状況の予兆を示しているのが「現在の芸術」だと思います。
  実際、「20世紀」において「芸術の過激さ」は加速する一方でしたし、その結果、「現
  在の芸術」は息もできないような閉塞感を抱えています。
  その事実を見ないようにすることも出来るのでしょうが、それこそが、まさに「芸術の
  絶滅」に直結している「ハズレくじ」ではないでしょうか?
  「芸術」であれ「人間」であれ、ナニカが「絶滅」するには「滅び」の形が必要だと思う
  わけです。
  その「滅び」を美しい形にするのは、そこに関わっている者が出来る数少ないことの一
  つだと思いますね。
  




「未来の常識」は「現在のナニ」なのか?



現在の世の中では「絶対にやってはいけないこと」とされているようなことでも、過去には「常識」だったということはたくさんあるわけですが、それでは、「現在の常識」は、次の時代に成ったら「ナニ」に成っていくんでしょうか?
そして、「未来の常識」と成るようなことは、現在の世の中では、いったい「ナニ」ということに成っているモノなんでしょうか?

たとえば、「奴隷貿易」なんて現代人からすれば、『どう考えても人間としてアリエナイでしょ!なんでそんなことが出来たの?』というレベルだと思いますけど、たかだか200年ぐらい前までは、ごく普通に行われていて、列強諸国の主要な産業のように成っていたわけです。

どうしてあんなことが出来たんでしょうねぇ。不思議です。
でも、まぁ、要するにそれが「常識」であったということなんでしょうね。

ということは、今「常識」とされていることも100年~200年後には「奴隷貿易」と同じくらいに「アリエナイこと」に成るかも知れないわけです。
でも、今はまだ、それが「常識」なわけですから、どの「常識」が100年後に「どういう非常識」に成るのかがわかりません。
そうなると、「未来の常識」がどんなものなのかなんて全く「想定不可能」としか言いようがないと思いますが、おそらく、それは「現在は常識ではないナニカ」なんだと思います。

これは、実はとても恐ろしいことで、要するに、今自分が「常識」だと思ってやっていることが、100年後には「奴隷貿易」レベルの「非人間的な行為」に成るのかも知れないということなわけです。
一方、今自分が「非常識」だと思って、軽蔑したりバカにしたりしていることは、100年後には「人間として素晴らしい行為」であるということに成って、未来の人たちから見たら、自分が今やっていることが、そういう「スバラシイこと」を軽蔑したりバカにしたりしていることだと見えるように成るのかも知れないということなわけです。

これは恐ろしいですよねぇ。
そう思うのって私だけなんでしょうか?

「常識を振り回す人」なんて言うタイプの人は、そんなこと考えないんでしょうね。
そう言う人は強いと思います。
悪い意味で。

まぁ、取り敢えず、私は恐ろしいです。
しかも、それを防ぐ手立てはありません。
なにせ、それが今は「常識」なわけですから。

そこから完全に逃れようとすれば、すべての常識的な行為が出来なくなってしまいます。
たぶん捕まると思います。

それに、どの「常識」が「非常識」に変化するかもわからないのに、ヤミクモにやっても「単なる悪人」にすぎませんから、それも意味がありません。

そうなると、もう、残る道は「あやまること」だけです。
つまり、常に「未来の人」や「未来の社会」や「未来の自分」に、前もって丁重にお詫びしておくわけです。

『いろいろ考えながら最善を尽くしたつもりなんですが、もし万が一、今私がやったことが将来トンデモナイ悪事であるということが判明いたしました折には、どうぞお許しいただきたく存じますです。はい。』
という感じで、「未来」に対して、心よりのお詫びをしておくわけですね。

『オマエ、ふざけてるだろ!』
『いえっ!大真面目に言ってるでゴンス』

やや伝わりにくいかも知れませんが、ホントに真面目です。

「未来」という設定を抜きに考えたとしても、「本当に正しいこと」なんて、そう簡単に判断することは出来ません(というか、そんなものないとも言えなくはない)から、取り敢えず、自分のしていることに疑問を持つということは大事なことなんじゃないかなと思うわけです。

そういう「疑問」を持たずに、自分だけの規準で「いい」とか「悪い」とか言っているのって、「言葉」というよりもどちらかと言えば「鳴き声」だと思いますね。
そういう考え方の人は、果てしなく長い道のりを経て、とうとう「人間」が持つに至った「言語」とか「会話」という手段を否定しているわけで、つまりそう言う人の「コトバ」とは「人間の言葉」ではなく「鳴き声」なんだと思うわけです。

「非情に複雑な鳴き声」ですね。
かえって、イヤラシイです。

いずれにしても、自分の主張が間違っているかもしれないという想定をどこかに持っていることは必要なんじゃないかと思うわけですね。
というか、正確には、「正しい」か「間違っている」かが変わるんじゃなくて、自分自身の規準が変わって、現在自分が主張していることが、将来の自分自身に否定されることがあるということですね。
しかも、けっこうよくあるということです。
いや、すごくよくあるということです。

実際には、ほとんど全部だということですけどね。
ただ、人間の寿命がその前に尽きてしまうことも多いので、それに気づかずにいられることの方が多いというだけです。
でも、時代のスピードが速くなっていくにつれて、「常識」や「人の主張」も変化するのが早く成っていますから、気づかずに死ねることの方が、だんだん少なく成って来ているわけですね。

そういう時に「自己正当化」をする人が非常に多いんですね(そういう人、増えていると思います)。
つまり、既に自分自身の規準が変わってしまっているのに、過去の自分が犯した「間違い」を認めたくないために、その「間違い」の方を「正当化」してしまうわけです。
これをやってしまうと、もう、まともな話は一切成り立ちません。
だって、その人自身が『間違っている』と思っていることを『正しい』として話をするわけですから、話が成り立つわけありませんよね。
こういうことは、実は話の内容よりも重要なんだと思いますよ。

そこで、「先にあやまる」という方法が有効なんじゃないかなと思うわけです。
つまり、将来自分の意見が変わって、今の自分の考えが「間違い」だったと思うように成っても、すでにあやまっちゃってますから、「自己正当化」する必要が無いんですねぇ。

画期的です!

ただ、「先にあやまる」と言うと、なんとなく卑屈なイメージがあるかもしれませんけど、そういうことではありません。
これは、あくまで自分の考え方が変わった時という仮定での話であって、その時点で、自分が正しいと思うことを「今、あやまる」必要があるということではありませんから。
というか、「今は、まだあやまれない」からこそ、「前もって未来にあやまる」わけですね。

とにかく、日に日に、この「自己正当化をする人」が増えていると思います。
でも、これをやってしまうと、人とまったく話が通じなくなりますし、「自己正当化」している本人も必ずオカシナことに成って行きます。
まぁ、「間違っていること」を「正しいこと」にしてしまうわけですから、いつも「間違っていること」をやり続けなければならなくなるわけで、そりゃオカシナことに成るに決まってますよね。

ご本人的には、その辺をうまくごまかして、その場だけ「自己正当化」しつつ、次からは「新基準」に従って行けばいいだろうと思っているわけですが、そうはいきません。

これは、一度「嘘」をつき始めると、その「嘘」を肯定するために、また違う「嘘」をつき続けていかなければならなくなるのと同じで、エンドレスです。
「嘘」ならば、「嘘も方便」という言い方があるくらいですから、「その場だけの嘘」というのもあり得るとは思いますけど、「自己正当化」の場合は、偽るのも偽られるのも「自分」ですから、絶対に逃れることは出来ません。
少なくとも、この「自己正当化」を習慣的に行うように成った人は確実にオカシナことに成っていくと思いますね。
そして、そのことに、ますます苛立って、一層「自己中心的な思考」に走るように成り、どんどん横暴に成っていくしかなくなってしまうわけなのです。

あからさまに「人に対して横暴」に成っていく人も居るでしょうし、「自分の中で悶々と横暴」に成る人も居るでしょうが、どちらにしても「自己正当化」を選択した人は、人と本当の意味で内容のある話は出来なくなっていきますし、自分の中で「自分が否定しているモノ」をいつも肯定し続けなければならなくなりますから、常に「不幸」です。
ハッキリ言って、そう言う人には、もう「人間としての幸福」はあり得ないと思います。

まっ、そんなことから、「先にあやまる」というやり方があってもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思ったわけなのです。

それに、「未来の自分にあやまる」っていうのが、なんかいいじゃないですか?

そんな風に思いませんか?


『・・・・・・・・・・・・・』

「・・・・・・あれっ?」




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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