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【民主主義=多数決】 と言う公式は、もう考え直した方がいいのでは?



現在までの民主主義の歴史においては、常に『多数決で決める』と言うことが大原則であったわけですけれど、これは、もう成り立っていないことが、はっきりして来ているんじゃないのかなと思うのです。


多数決と言っていますけど、実際に多数決をとることが全くできていないわけで、実態としては、今行われている政治がどれだけの人に支持されたものであるのかは、もう誰にもわからないものになってしまっていると思いますね。

それでも、そのシステムに頼り切っているために、「多数決」と「民意」はどんどん乖離していく一方なわけです。

だから、何か代替案を導き出さなければいけないと思うわけです。
それをすることが、いま政治にできる数少ないことではないでのでしょうか?

政治家や学者が寄り集まって、一生懸命考えれば、きっと?、何らかの策が浮かんでくるのではないかと思います。
正直言えば、それらの策にはほとんど期待が持てないわけですけれど、それを考えることや実行してみることで、現行の民主主義と言われているものが、如何に民意からかけ離れたものであるのかが、洗い出されて来れば、どこが問題なのかぐらいはわかってくるんじゃないでしょうか?

そして、そこからどう対処するのかが本題なわけです。

その具体策については、私などが考え付くようなものではないでしょうが、私がいま思いつくことは、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立させなければ【多数決=民主主義】も成り立たないということなのです。

「全員投票」を強制的に行おうとすれば、結果的に「匿名性」が失われてしまうでしょうから、「政治的な意思の表明」を個人に対して強要することに成ってしまいます。

 ※強制であるということは、投票が実行されたことが確認できなければ意味がない
  ので全員が投票したことが確認できるようなシステムが必要に成るでしょう。
  おそらく、そこから「匿名性」が崩れていってしまうように思います。

でも、「多数決」は基本的に全員が投票することを前提に成り立っている制度なわけですから、全ての人が投票しなければ、「多数決」でも、なんでもないわけで、そこを何とかしなければ、「民主主義」とは名ばかりで実体は無いも同然なわけですね。

そう考えた場合、「民主主義」は立ち上げられたまま、まだ実行に移されていなかったとも言えるのではないでしょうか?


そこで、思い当たるのは「裁判員制度」や「陪審員制度」のようなものです。
もしかすると、人数を限定して、形だけに成っている「全員投票」を捨てれば、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立できるのではないのかなと。

 ※こちらも「匿名性」については、完全には確保できないかも知れませんが、
  少なくとも「投票の義務」については、ほぼ確保されるでしょうし、確実に 
  限られた人数の中での「全員投票」だけは確保できます。

とまぁ、そんなことも考えるわけですが、もしかすると、今の状態が、国を動かしている人たちにとって、結構都合がいいのかもしれませんよね。

だとしたら、『変わるわけないじゃん』ですよね。

そして、これが一番濃厚な説なのかも知れません。





「自由競争」が「不自由」を作り出しているのでは?



資本主義経済や自由主義経済の基本をなしているものに、「自由競争」の原理があるわけですけれど、現在の社会においては、〝自由な競争"が〝不自由な状態"を招いているように思うわけなのです。


そもそも、「自由競争」は、自由に競い合うことで、人や企業の「ベスト・パフォーマンス」を引き出すことができるという考えに基づいて採用されているものだと思うのですけれど、現状は、そうなっていると言えるでしょうか?

確かに、過去には、それが最良のパフォーマンスを引き出していたのでしょうが、現在においては、競争原理が、人や企業の「拘束」になってしまっていることの方が多いように感じてしまうわけなのです。

過去においては、企業も人も自己の行動や仕事や製品に価値基準を持っていましたし、それらのクオリティこそが、「自由競争」の争点であったわけですが、資本主義経済が極端に進んでしまった現在、それらは、すべて資本である、お金に置き換えられてしまっているわけで、より多くの資本を集めること、より多くのお金を稼ぎ出すことが、争点になってしまっているわけなのです。

そこでは、当然のこととして、個人においては「人格」や「感性」はないがしろにされがちですし、企業においては、「品質」や「社会貢献」は二の次にされてしまうわけなのです。

例えば、「品質」が低いのに売れるものが、企業にとっては、最も儲かるもので、「品質」が高いから売れるものは、コストパフォーマンスの落ちるものという扱いになってしまうというわけです。

そして、現在形の「自由競争」では、常に最も儲かる選択をした者が勝者となりますから、どうしても、即時的にお金や、数字に換算されにくいものは、競争によって排除されていってしまうわけなのです。


それでも、それで幸福になったり、進歩発展したりするのならまだいいですが、「生産者にとっての勝利」が「消費者にとっての不遇」「個人にとっての勝利」が「その周りの人にとっての不満」になってしまうのであれば、その競争には何の意味もないわけですし、まして、「生産者」と「消費者」や「人」と「その周りの人」と言う立場が、相互に入れ替わるということを考えれば、その「自由競争」は「不自由な拘束」でしかなくなっていると言わざるを得ないわけなのです。


もう、競争によって進歩する時代は終わっているのではないのかなと。

競争が一切必要ないとまでは思いませんが、原理としての「自由競争」は、現在では成り立っていないのかなと。

究極の競争ともいえる戦争ですら、お互いに相手の顔色を見ながら仕掛けたり、それをスカシたりしている世界情勢の中で、「自由競争」に没入することというのは、言ってみれば「核のボタン」を押すようなもので、誰の得にもならない無益な選択になってきているのかなと。

だから、いち早く競争から離脱して、「協調」の道を選びましょうよと。

でも、「協調」は一人ではできないわけだから、みんなで「「協調」すれば、そこにもまた切磋琢磨は生まれるわけで、そこで、競争すればいいんじゃないですかと。

そんなことを、世界に向かって、きわめて小さい声で言ってみたりする。




現代社会は絡まり合った「多重規範」



ダブルスタンダード=二重規範と言う言葉がありますが、現代社会は、単なる二重規範ではなくて、より複雑化した「多重規範」だと思うのです。


規範が統一されていないために、判断の基準が曖昧になって、何が正しいことなのかが見えにくくなると言うのが、ダブルスタンダードが生み出す弊害かと思うわけです。

こういうことだけでも、かなりの害なわけですけれど、現代社会においては、あらゆる場面において複数の規範が存在していて、さらに、それらが世代から世代へと受け継がれていったことによって、絡まり合って、ほぐしようもないほどに、混線している状態と言えるのではないでしょうか?


二重規範までは、まだ、、何とか理解できるものだったと思うのです。

例えば、「本音と建前」などのように、これは本音でこちらは建前というように、それを言っている側も、言われている側もわかって使っているものであれば、なんとか使い分けることもできるし、もしも、うまく使い分けられなくても、二つの規範しか無いのであれば、それをなんとか理解することだけはできたわけです。


ところが、その二重規範が時代の中でさらに多様化して、「多重規範」と化したものが、時代を跨いで受け継がれていくようになってしまっている現代では、もう、どこからどこまでが、どういった規範に基づいたものなのかも、いったい幾つの規範が、そこに関わっているのかも、解らないような状態になってしまっているように思うわけなのです。

ここで、一番困るのは、こういった状況の中では、現状がそういう意味不明の混沌とした状態であることを理解しようとすると、とても行動し辛くなってしまうことなのです。

その辺を曖昧に捉えて、見ないようにしていけば、あまり気にもせずにいられるようなことが、真面目に筋の通った考えをもって行動しようとすると、この混線して、がんじがらめになった規範の束がほどくにほどけないために、そこで行き詰ってしまうわけです。

その結果、その都度、場当たり的に適当な規範を使って考えられたようなことが社会の基準になって行ってしまうわけなのです。


この状況は絶対に抜け出すべきものであると思いますが、それには、唯一無二の規範が必要なわけです。


強い規範と言うのは、ある種の「拘束」を生み出すこともあるかと思いますから、それは、一部の領域で「自由」を犠牲にすることに成るのかもしれませんが、それでも、これを手に入れなければ、社会に指針はなくなってしまうのではないのかなと。

それは必要最低限の犠牲ではないのかなと。


民俗・宗教・政治的な主義・主張など、広い範囲の層を包括するような規範を設定して、それを唯一のスタンダードとするような方向で考えていく必要があるのではないのかなと。


「グローバル・スタンダード」などと言って、特定の国に都合のいい方向にもっていってしまうのではなくて、その外側の、もう一つ大きな枠で「シングル」で「シンプル」な「スタンダード」があれば少しイイのかなと。


そんな風に思います。




人間は、まだ「言葉」を使いこなせていない? 



人間と他の動物を、最もはっきりと区別できる点は、論理を構築する性質(習性)を持っているか否かではないかと思います。
しかし、その反面、人間はまだ言葉を上手くはコントロールできていないように思うわけです。


人間は何をするにも、先ず言葉で考えて、そこに何らかの理論を展開してからでないと実行できないといってもいいほど、言葉で考えることが習性化していると思うわけです。

でも、それがなかなか上手くは出来ていないと思うことが多いわけなのです。

また、世の中の変化が早すぎて、論理の使い方にも常に修正が求められるために、対応しきれていないと言うこともできるのかもしれません。
たぶん、その両方なのでしょう。


例えば、「常識」と言う言葉一つを考えても、それが次から次へと更新されていくわけで、一定の期間スタンダードとして機能していなければ、「常識」であること自体に意味がなくなってしまうと思うのですが、そこに、意味が無くなっても、まだ延々と「常識」が更新され続けているというのが言葉の現状ではないでしょうか?

そして、現代社会には、そういったことがたくさんあるわけですから、その意味の無くなってしまった言葉の上に築かれた論理が、有効なものにならないということが多くなってしまうのだと思うのです。

また、人間が論理を使うということを習性として持つようになったのは、人間社会がかなり複雑化して、人間としての生活が、言葉で考えること無くしては成り立たないような状況ができてからでしょうから、まだ、人類の進化の中では歴史が浅く、その習性がうまくは身についていないのかもしれません。


いずれにしても、習性化しつつあるから、それを捨てることも難しくなっているわけで、それがうまくコントロールできていないというのは、かなりの弊害になっているように思うのです。

もう、論理を捨てることができないのなら、それを何とかうまく使いこなしていくしかないわけですが、言葉の上に言葉を重ねていくという作業の中で、一つ一つの小さな誤差が積み重ねられて、最終的には、かなりおかしなところに着地してしまうというケースも少なくないのではないのかなと。


その点を修正するには、言葉と言うものを根本から認識し直す必要があると思うのです。

先ず言葉には、種類があると思うわけです。

同じ言葉でも、文学における言葉と、情報伝達における言葉は全く違う性質を持っていますし、そういった、「言葉の種類」は沢山あると思うのです。

それを、混同したまま使っていれば当然誤りが出て来るわけです。

また、はっきりと種類が違うというほどでなくても、その使い方にもバリエーションがあるわけで、例えば、言葉には世界を二分するという性質があると思うのですが(「〇〇」と言ったとき、世界は「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるというような)、そういった、極めて単純化された機能と同時に、一つの言葉が様々な意味を内包しているという複雑で曖昧な機能をあわせもっているために、そのどちらの使い方がされているのかを判断するのが難しくなってしまうのだと思います。

そのほかにも、まだまだ言葉の誤謬(ごびゅう)を招く要素は沢山あるように思われますが、それらを、言語学者などが、もっとうまく利用できるようにわかり易く、解説していく必要性があると考えているというわけです。

ただ、ここで大切なのは、わかり易く解説することであって、研究することではないように思うのです。

言語学などの研究と言うのは、かなり難解なものになってしまっているわけで(私は詳しくありませんが、たぶんチンプンカンプンだと思います)、それ以上の研究を追究していっても、一般的には理解し辛くなってしまって、浸透しないでしょうから、現状の成果をできるだけ理解し易いように解説したり、教育したりするところに力を使ってほしいと思うのです。

そして、言葉が成り立っていなければすべての学問が成り立たないことを考えれば、現在、教育の場において言葉の見直しは、必要性の高いものになってきているのではないのかと思うわけなのです。


このところ、同じ日本語で会話をしていても、全く話が通じないと感じることがとても多くなっているので(おそらく、そういう時は相手も同じように感じているのでしょう)、こうした見直しをぜひお願いいたしたいなと。


そんな風に感じておリます次第でございます。


個人を無能化させても、もう「トク」はない



現代の社会と言うのは、人間を社会の一構成要素として扱うことで、効率化を進めてきたわけですけれど、それによって得られるところの成果が、かなり前から頭打ちになってきていると思うわけです。

それに対して、そこから生まれる弊害の方は、年々大きくなって、既に、成果の方を上回ってしまってからですら、かなりの年月が経過してしまったように思われるわけなのです。


要するに、社会は人間をより単純化して、社会と言う機構を効率よく機能させるための部品として看做すことによって、個人の持っている有機的な要素を排除し無機的な性質を最大限に引き出し、そのことによて、結果的に現在の精密機械的な社会機構を得たのだと思うわけです。

過去において、それが良かったのか悪かったのかについては、功罪相半ばと言うところだと思いますけれど、現在においては、明らかにマイナスになってきているように思えるわけです。


もともと、これまでの効率を支えてきたのは、産業革命以来の技術革新だけではなくて、奴隷制に始まり、植民地政策や労働搾取などの圧倒的な個人の犠牲でもあったわけで、そういう前時代的な社会には戻れない状態になった現在、その方向(個人を部品化するという方向)で社会を運営してゆくことは、これまでのような効率は得られないのに、個人の犠牲だけは増大していくという「労多くして利の薄い行為」となってしまうと思うわけですね。


技術的な進歩と言うのは不断に続いて行くのでしょうし、時には、画期的な技術が開発されて、一時的に挽回するようなこともあるのかもしれませんが、それはあくまで一時的なものにすぎず、恐らく今後、そうした技術による効率の向上が、それに対して圧倒的な社会機構による効率の停滞を上回り続けることは無いのでしょう。

もはや、『技術の進歩が何とかしてくれる』と言うのは幻想にすぎないでしょうね。

たとえば、医療において、医療の進歩によって、人間の寿命は延びたのかもしれませんが、それによって、人生の中で不幸な時間が伸びただけであれば、それは進歩と呼べるものではないと言わざるを得ないわけです。

実際、現在の「長老」達は、果たして社会の中で尊敬されているのでしょうか?
彼らは、そこで何かしらの役割を得られているのでしょうか?
かつての奴隷たちにですら、労働力としての役割が与えられていたとも言えなくはないわけで、彼らに人権が与えられていなかったことは、極めて不幸なことであるわけですけれど、それでは、尊敬されることもなく、あらゆる役割から除外されているような現在の「長老」達には、果たして、真っ当な人権が与えられていると言い切れるのでしょうか?
まぁ、こういうことに疑問が出てきてしまうわけですよね。

そして、このような「進歩による不幸」は現代社会のいたるところに見られるわけで、それは、現代社会が、「人間」を部品と看做して「個人を無能化すること」を手法として使い続けてきたからに他ならないわけですから、それを手放して、効率を犠牲にしてでも、個人の持っている有機的な部分の能力を高めていくしかないわけなのです。

それは、何も画期的な発想者や突出した感性によるものとは限らなくて、まったくもって日常的な工夫や思い付きに過ぎないものでも十分に効果的ではないのかなと。

現在の人間の個体数は、ある意味で自然界の法則を無視しているほどなわけですから、その大半が「無能化」している状態から「有能化」へ転換した時の効果は計り知れないほどに成るでしょう。

その効力は、機械的な効率を捨てたことによるマイナスを遥かに上回るように思えるわけなのです。

教育・文明・文化がかなりの底辺にまでいきわたっている現在、人間の持っている潜在能力は過去にないぐらいまで高まっているはずなわけで、その点では、過去とは比べ物にならないぐらいの力が内在していると思われるわけです。

せっかく高まっている能力をあえて「無能化」するという手法は、有り得ないでしょう。


ただ、ここで、すでに出来上がってしまった「社会の意思」が、常に個人の「無能化」を求めてくるわけですし、さらに、今はもう達成することができなくなった「効率化」をも同時に求められるわけで、そのダブルバインドに挟み付けられて疲弊している現代人が、そこに対抗するような意志を持てずに、ズルズルとその状態を続けているというのが現状でしょう。

意思と言っても、それほど強固な意志力を求められるとは思えないわけですが、言ってみれば、「社会の意思」に沿って働くことをやめて、「自己の意思」に沿って働くようにするということなのでしょうか。

「社会の意思」に沿って働いても、高齢になった時点で切り捨てられるのであれば意味がありませんから、むしろ、自分の方から社会を切り捨ててしまおうということです。


いずれにしても、流れとしてはそちらの方に向かっていくのが、ごく自然なわけですから、何時かはそんな風になってゆくのでしょうが、現状を見ていると、どうしても社会による「人間の無駄使い」が気になってしまうわけなのです。

と言うか、『いったい何のために教育や文化を行きわたらせて来たのか?』と言う感じですね。
『これまでの人間の歴史って、なんのためだったの?』


そんな風に思ってしまうわけなのです。



刑罰について



犯罪に対する刑罰についての論議となると、最近では「死刑の是非」と言うのが多いと思うわけです。
確かに、それは、刑罰についての最も集約された部分なのでしょう。

でも、実は死刑を肯定するか否定するかよりも、刑罰を、社会機構の中で、どのような機能として捉えるのかが問題なのではないかと思うわけです。


主に「犯罪抑止力」としての機能と、「犯罪者の更生」という二つの機能が考えられるわけですけれど、二つの機能のどちらに重点を置くかで、かなり話が変わってくるわけなので、そこのところがポイントになると思うわけです。


ただし、そこで「人間が人間の命を奪ってはいけない」というような、人道的な見地からの意見や、「仇討」的な復讐と言う考えは、刑罰という話とは意味合いが違う話になってしまうので、それを持ち出してしまうと、そこから先には進めなくなってしまうと思うわけです。
まぁ、要するに、それを言ってしまうと「法的な意味での刑罰」の話ではなくなってしまうということですね。

そこで、刑罰を、その機能に限定して考えた場合、先述の「犯罪抑止力」と、「犯罪者の更生」という二つの機能が主なものかと思うわけです。

現在、最も中心的な考え方は、「犯罪者の更生」なのだと思うわけですけれど、それは、あくまで犯罪が起きてからの事後処理的な側面があるわけで、ある意味では、それが達成されたとしても、もはや犯罪は起きてしまっているわけで、それは、既に「十分に不幸な出来事」であるわけです。

この、犯罪という「誰にとっても不幸な出来事」を前提にしてしまっているところが(加害者も十分すぎるくらいに不幸だと思います)、この考え方の重大な欠陥であることは、犯罪が増加し悪質化する傾向にある現代社会では、もはや、議論の余地もないことのように思われるわけですけれど、社会が、人道主義や人権擁護と言った「美辞麗句」を捨てられないために、これを引きずってしまっているように思われるわけなのです。

そして、このことは、先に述べた機能に限定するという法則からも外れてしまうわけで、結果的には、前述の『人間が人間の命を奪ってはいけない』や、その裏返しの意味での「復讐」というのとかわらないことに成ってしまうわけで、「刑罰の機能」の話から逸れてしまっているわけなのです。


やはり、犯罪は未然に防がれるべきであって、それでこそ、機能として有効であるともいえるわけですから、「犯罪抑止力としての機能」を強化すべきであろうかと思うわけです。
と言うよりは、ほかのすべてのことを切り捨ててでも、そこを達成しなければ、現在の犯罪の進行は止めることが不可能なのではないのでしょうか?


例えばの話、もし仮に、犯罪が多発している中で、犯罪者を100%更生させることができる「パーフェクトな犯罪者更生プログラム」が、システムとして確立されたとしても、次から次へと犯罪が発生ていくのではあまり意味がないでしょう。

ですから、冒頭の話に戻せば、「死刑の是非」ではなくて、「刑罰の有効性」を議論すべき時なのではないのかなと。

実際、死刑を自ら望む犯罪者もいるわけで、その犯罪者達にとっては死刑は必ずしも極刑ではないのでしょうから、それを、学者などの現状の犯罪からあまりにもかけ離れたところに立っている人たちが、あくまで「死刑=極刑」という前提でもって、その「是非」を議論してもあまり意味がないわけです。

犯罪者の望みをかなえていることになっているのであれば、それは刑罰ですらないわけで、それを肯定しても否定しても、その議論の意味自体が、極めて希薄であるとしか言いようがないわけなのです。

そこで、犯罪を抑止するという機能を強化するためには、どのような刑罰、または、その他の手段が有効なのかと言う議論がなされるべきなのであって、そうした機能の有効性が発揮されて、犯罪が減っていくことこそが、本当の意味で「人道的なこと」なのではないのかなと。

さらに言えば、これは、犯罪被害者にとっても、犯罪加害者にとっても「人道的なこと」と、つまり「一石二鳥」とは言えないでしょうか?


ここで最も有効な抑止力になるのはどんなものなのかとなれば、それは、かなりの難問だと思いますけれど、少なくとも、犯罪が多様化しているのに対して、刑罰(法)の側は、昔ながらの「死刑」を極刑とする「懲役刑」や「禁固刑」、「罰金刑」という判で押したようなものしかないわけですし、それらの刑罰の重さも、この程度の犯罪を犯したものには、この程度の刑罰と言うような判例主義を取っている関係で、犯罪者側からすれば想定内の刑罰しか与えられないわけですから、犯罪常習者や、社会的逸脱者からすれば、「チョロイモン」で、もはや、彼らに法に対する畏怖の念はないでしょう。

つまり、刑罰が「犯罪抑止力」として機能していないケースが増えてきているということですね。

だから、これからの刑罰には、『犯罪を侵すと、予測できないような、とんでもない刑罰が下されるかもしれない』というような「意外性」や、個々の犯罪者が『これだけは絶対に嫌だ』と思うような「個別性」が必要になってくるのではないのでしょうか?

言ってみればそれは、「天罰覿面(てんばつてきめん)」を再現するということなのかなと。
『天網恢恢疎にして漏らさず』と言ってもいいでしょう。


もちろん、人が人に「天罰」を下すことには十分問題があるわけですが、それを言い出すと、また、人道論に戻ってしまうので、機能としての有効性に絞った話をしなければならないということでしょう。

要するに、『人が人に「天罰」を下すということ』と、『現状の犯罪が生み出している悲惨さ』のどちらを取るか?と言う二者択一を迫られているわけですよね。

でも、よくよく考えれば、それは、元に戻って「人間が人間の命を奪ってはいけない」と同じ話になってしまっているわけですし、結局、現状の刑罰でも、人は人に対して「天罰」を加えているのは同じことなわけですから、あまり、そこに固執しない方がいいような気がします。

実際、かなりの悪人であっても、また社会的逸脱者であっても、恐れていることはあるでしょうし、「絶対にされたくない嫌なこと」と言うのもきっとあるでしょう。

『犯罪を侵せば、もしかしたらそういう刑罰が下されるかもしれない』と考えれば思いとどまることもあるでしょう。


過去には死刑を頂点とした刑罰が、ほとんどの人間にとって、十分に「嫌なこと」であり、「恐れていること」でもあったわけですが、それが成り立たなくなってきているわけです。


今後、刑罰に、予測不能であるという「意外性」と、個々にとっての刑の重さである「個別性」を取り入れていくことは、法に対する畏怖を再生して、犯罪を抑止する一つの道であると思いますが、いずれにしても、現状の犯罪と、その被害者、加害者の惨憺たる状況を横目に、それとは無縁の人道論を云々するというのは、まったくの非人道的行為になってしまっているのかなと。


そんな風に思っております。



「言葉の仕掛け」というもの



言葉には「言葉の仕掛け」に成りやすい性質があると思うのです。

ここで言う「言葉の仕掛け」とは、表面上はその言葉の示す通りの意味に見えていながら、その裏側に、それとは違う意味や方向性を持ってしまっている言葉のことを指しています。


それは文学表現上の「隠喩」というのに似ていなくもないわけですが、そちらとの違いは、「隠喩」があらかじめ意図されたものとして、敢えて、表と裏の二つの意味を与えられているのに対して、こちらは、言葉が社会の中で流通しているうちに、その言葉を使った者が当初意図したのとは違う意味や方向性を持つようになったものであるという点なのです。

そして、そういうものの中でも、ここで特に「言葉の仕掛け」と呼んでいるものは、表の意味が裏の意味に食われてしまって、意味をなさなくなっているにもかかわらず、その言葉を聞いた者が、裏に違う意味があることには気づかずに、その言葉を使っているうちに、いつの間にか無意識にその言葉を裏の意味で使うようになってしまうという、仕掛けられた罠のようになってしまっているものなわけです。

なんでこのようなことが起きてしまうのかと言えば、それは、おそらく、言葉の持っている性質として、一つの言葉を境界にして、世界が二分されるということがあるからだと思うのです。

つまり「〇〇」と言ったとき、世界が「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるわけです。
「〇〇」と言った人は、「〇〇でないもの」については全く触れていないのに、「〇〇」と言っただけで、「〇〇でないもの」についても、語ったことに成ってしまうわけです。

そこで、「〇〇」と言う表の意味と、「〇〇でないもの」と言う裏の意味が形成されてしまうのだと思います。

要するに、AさんとBさんが居る場合に、Aさんばかり何度か褒めていると、Bさんについては何も言っていないのに、自動的にBさんを貶していることに成ってしまうということでしょうか。

実際には、これがもっと複雑に成っていって「言葉の仕掛け」ができて来るわけです。

そして、これは言葉の持っている本質的な特徴だと思いますので、これを変えることはできないのだと思うわけです。

ですから、言葉を使うときには、常に、このような罠が仕掛けられていることを想定しておく必要があるのだと思うのです。
そして、何か特定の言葉に対して、罠に嵌ったような違和感を感じたときには、立ち止まって、どこにその罠があるのかを確認する必要があるのだと思うのです。

それをせずに放置して、その言葉を使い続けると、繰り返し使われるたびに、少しづつ裏の意味と表の意味がずれていって、いつの間にか、とんでもない所に連れていかれてしまうということも出て来るのだと思うのです。

人間は、まだ、自分たちが思っているほどには、言葉をうまく使いこなせていないと思いますですから、もう少し、言葉に対して謙虚になって、慎重な使い方をしていくべきなのかなと。


20世紀後半辺りからでしょうか、あまりに急速に教育が行きわたったために、教育の中で抜け落ちている部分というのがあるように思うわけです。
高度な理論を教える前に、言葉の使い方をもっと徹底しておくべきだったのではないのかなと。

昔で言う、「読み書きそろばん」だけを教えていたのならば、今の言葉の使い方でも、ことは足りていたのでしょう。

でも、これだけ多くの人が高校や大学へ通うようになった今、そこで教えられている知識のすべてが、言葉によって教えられているともいえるわけですから、その言葉が、使いこなせていないようでは、知識が増えたことが、マイナスにも成りかねないわけです。

その種の、「言葉の仕掛け」が生み出している、まったく意味のない誤解や誤見が、とても多いように思うわけなのです。


ここのところが、スッキリしただけでも、かなりいろいろな物事が見えやすくなるのではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




誰のことも、見捨ててはいけないと思うのです



人と言う生き物は、社会から見捨てられると生きて行けないと思うわけです。
だから、どんな人も見捨てられてはいけないと思うのです。


募金とか寄付と言うのがありますけれど、あれは、「金銭の施し」ではないと思うのです。
あれは、『あなたたちを見捨てていませんよ』と言うサインなのだと思うわけです。

そして、受ける側も「お金」を貰っているのではなく、『自分たちが社会から見捨てられていない』というアイデンティティを受け取るのだと思うわけなのです。


例えば、犯罪者でも裁かれることによって、『社会から見捨てられていない』という自己確認を与えられているという考え方もできるのだと思うのです。

だから、重い刑罰が科せられたとしても、無視されて放っておかれるよりは『見捨てられていない』と言えるのだと思います。


個人にできることと言うのは限られているわけですけれど、「見捨てられていい人」が居るのではなくて、犯罪常習者で反省の兆しもないというような「切り捨てざるを得ない人」が居るということなのでしょう。

彼らは、ある意味では「社会に必要な犠牲」でも在るのだと思います。


現代社会では「見捨てられている人」は、そういうわかり易い場合だけではなくて、一見普通で「見捨てられているように見えない人たち」の中にもいるので、そういう「見捨てられた人たち」を拾っていけるシステムがあれば、現代社会においては、救いになるのだと思います。


そういう人たちにアイデンティティを配布していけるような機構があれば、社会の機能も活性化するのではないかと思います。

それは、きっと経済政策などよりもはるかに効果的なのではないのかなと。


そんな風に感じています。




今も、日本人は「集団暗示」に陥ってませんか?



ハッキリ言って、日本人は、集団暗示にかかりやすいと思うのです。


第二次大戦中の話でよく聞くのが、『あの時は本気で、B29を竹槍で落とそうと思っていた』という話です。

「タケヤリ」ですよ。
「突いて」ですよ。
何千フィートとか届かないですよね。

また、『神の国である日本が、負けるわけないと思っていた』なんて言うのもあります。


そこにあるのは、理屈でも、理由でも、根拠でもなく、「集団暗示」なわけです。
要するに、いいようにコントロールされていたわけです。


ナチス時代のドイツや、現在の北朝鮮なども、皆同じだと思いますが、国全体が「集団暗示」にかかってしまっていて、『それ、間違ってますよ』と言う人が居なくなってしまうわけなのです。

でも、その点では、今の日本も「集団暗示」の真っ最中だと思うのです。
ただ単に、ナチスや北朝鮮と比べると、ややソフトかな?と言うだけだと思います。

『そんなバカな』と言うのは暗示にかかっているという証拠かもしれません。


実際、軍国主義の時代「大本営発表」や「教育勅語」で、人の意識がコントロールされたように、今も、新聞やマスコミで流れる情報を、操作するコツを上手く使えば、人心は、いとも簡単にコントロールされるという風に感じます。

事実、新聞や本に書いてあることと違うことを言うと、ほとんどの人が、強い反発とともに、『そんないい加減なことを言うもんじゃない!!』と言う反応を返してきます。

そして、そこには、理屈も、理由も、根拠もなくて、ただただ、「新聞や本に書いてあるから」や「ニュースで言っているから」なわけです。

こうなればもう、「新聞に書かせさえすれば」、「ニュースで流しさえすれば」なわけです。



実際、ここ数代の総理大臣で、人気があった人と人気がなかった人の差は、マスコミを上手く使った人と、それができなかった人の差しかないわけで、政策や、外交での成果なんて大した差はないようにしか思えないわけです。

『そんなこと新聞に書いてない』でしょうが、事実だと思います。


簡単にコントロールできる状態の国民が居れば、誰かがコントロールしようとするに決まっているわけです。

そして、ここが一番始末の悪い所なわけですけれど、実は、コントロールしている側の人たちも、「集団暗示」にかかっているようなのです。

おそらく、ナチスという「集団暗示」に最も強くかかっていたのは、ヒトラー本人だったのではないでしょうか?
だから歯止めが利かなくなるわけです。


日本人も、どちらかと言うと「集団暗示」にかかりやすい民族特性を持っているように思うわけです。
だから、それなりに注意が必要なのではないのかと思うわけですね。


少なくとも、現在、理由や根拠と無関係にまかり通っている「正しい」や「間違い」が非常に増えているように思うので(と言っても、いつの時代にもありますけどね)、自分が「集団暗示」にかかっていないかと再確認してみる必要があるのかなと。


「~で言っているから」という以外の理由がないことは、ほとんど疑ってみた方がいいと思いますね。

そこで残ったものが本当のことだと思います。
たぶん、ほとんど何も残らないはずです。


「新聞や本を読んでいないとわからないこと」はどうでもいいことで、
「新聞や本を読んでいなくてもわかるようなこと」が本当のことなのかなと。
(こういう話で、「本」を同列に扱うと反対する方も多いでしょうが、
 「本」も盲信すれば危険であることに何ら変わりはないものだと思います)

そして、「本当のこと」は、それぐらいで十分なんじゃないかと思うのです。


そして、そう思うことで「集団暗示」から抜けられるのではないのかなと。

そんな風に考えています。





「真面目さ」を”バカにする”風潮



現代の日本社会には、「真面目さ」を軽視する傾向があると思うわけです。
そして最近になって、この傾向が急に強まって「真面目さ」を”バカにする”人が激増していると思うのです。


もともと、日本人の長所として、いつも決まって挙げられていた「真面目さ」や「勤勉さ」が、いつの間にか軽視されるようになり、今では、とうとう”バカにされる”ようにまでなってしまったわけです。

しかも、最近の傾向として、どうやら「真面目さ」を一番”バカにして”いるのが、「真面目な人」のようなのです。
(本質的に真面目と言うよりも、表面的に「真面目な人」ということだと思いますが)

と言っても、その人自身は、自分がその「真面目な人」だと認めてはいないようです。
どうも、自分は『そんなには真面目じゃない』と思いたがっているようです。


「真面目な人」と言うのは、真面目なだけに、社会が『「真面目さ」を”バカにする”』と言う方向を指し示すと、その方向性に、”真面目に”従って、それを”バカにする”ようになってしまうようなのです。

しかも、自分が「真面目な人」だということも認めたくなくなってしまうようです。
そりゃ、自分にバカにされたくないですからね。


その人たち自体は、いたって普通の人たちで、どう見ても、不真面目な人でもチャランポランな人でもありません。
むしろ、普段言っていることなどは”お堅い”感じの人たちなわけです。

ところが、ひとたび「真面目さ」に関わるようなキーワードを提示されると、かなり、露骨に”バカにしたり”するわけです。

『さっきまで言っていたことと違うでしょ!?』と思ったりもするわけですが、本人たちは、ほとんど気にもしていないようです。


昔から、「真面目くさって」とか「くそ真面目」といった言葉で、「真面目」なばかりがいいわけじゃない、ということは言われてきたわけですけれど、それはあくまで「真面目さ」がベースにあっての話で、あまり行き過ぎると、よくないと言っていたのだと思うのです。


現在は、それとはまったく違います。
「真面目さ」を憎んでいるように見えるときすらあります。


ここからは全くの想像で、根拠はありません。

日本人は「真面目だ。真面目だ。」と、それしかとり得が無いように言われ続け、それでいて、その「真面目さ」が世界に対峙した時の「勝負弱さ」になったりするのを見続けてきて、『もういや!』になってしまったのかなと。


もともと、江戸期までの日本人は、それほど働き者でもなかったという説もあるようですし、「日本人」=「真面目」というのに無理があったのかなと。

鎖国していた日本が、世界に追い付こうと、がむしゃらにふるまう姿が、世界の中での「日本人」の位置づけを「真面目」にしてしまったのかなと。


世界に「追い付け追い越せ」と、上へ上へ向かっている時には、「真面目」と言われようが、それしかとり得が無いと思われていようが、気にせず邁進できたのかもしれませんが、高度成長が終わり、バブルに浮かれ、そしてそれもハジケ、それまで、我慢してきた「真面目のレッテル」が、『もういや!』になってしまったのではないのかなと。


そして、ここからが言いたいことなわけなのです。

”バカにしている人”の「真面目さ」は表面上の「真面目さ」です。
ただ単に、常道を外さないというだけです。
そんなものはどうでもいいわけです。

でも、”バカにされている”方の「真面目さ」が「本物の真面目さ」だったりするわけです。


この本質的な「真面目さ」を”バカにする”と何も生み出されません。

根本の所に「真面目さ」のないものは「クズ」だと思います。
「クズ」程の意味もないかもしれません。


日本人だろうが、ナニ人だろうが関係ありません。
動物だって「真面目に」生きています。
石ころだって「真面目に」存在しています。
だから、「クズ」だって、きちんと「真面目に」そこにあるわけです。

だから、それは「クズ」にも満たないのかもしれません。
(ただし、人間は完全に不真面目にもなれないと思いますが)


表面上において、「真面目」を選択しようと、「不真面目」を選択しようと、どちらでも自由だと思います。
どっちでもいいことだと思います。

でも、根底に「真面目さ」のないものには、何の意味もありませんね。


表面的にとはいえ「真面目な人」が「真面目さ」を”バカにしている”なんて光景は、あまり見たくないですね。


そういうのは、悲しいだけなのかなと。

そんな風に思ってしまいますよね。



「いっしょうけんめい」について



だいぶ前に聞いた話なのですけれど、「いっしょうけんめい」には、「一生懸命」と「一所懸命」(これは「いっしょけんめい」と読むらしいです)があって、ずっと懸命にやり続けるのが「一生懸命」で、とにかく、その場だけでも懸命にやるというのが「一所懸命」だそうです。

それを言っていた人は、「一生懸命」は、そう簡単にはできないけれど、「一所懸命」ならば、誰でもやる気さえあればできるはずだと言っていました。

その通りだと思いました。

今もそう思います。


でも、前の記事と同じような話になってしまいますけれど、この「一所懸命」も、どうもあまり評価の対象にはならなくなってしまったようです。

これは、”バカにされる”まではいかないようですが、今の風潮としては、同じことをするのでも”スマートに”こなした方が評価が高いようです。

「一所懸命」にやって、どうにかできた人よりも、汗一つかかずにやってのけてしまった人の方が、今は高く評価されるようです。


確かに、簡単にやってのけた人の方が「能力」が高いとは言えるのでしょう。
でも、人間としての潜在力となるとどうでしょうか?

四苦八苦の末にできる人と、労せずしてできてしまう人のどちらが、人間的な力を蓄えているのでしょうか?


それは、まぁ、それぞれの人の判断に任せるべきことなのだと思いますけれど、少なくとも、言えることは、ここで言う「能力」とは、実は、それほど高度なものでも、洗練されたものでもなく、比較的単純な作業を能率よくこなすという種類の「能力」だということだということです。

そうでなければ、簡単に出来てしまう筈がないわけですから。


一方、人間的な潜在力と言うのは、高度とか洗練とも違うかもしれませんが、単純作業や、作業効率などと言うほど安易なものでもないことは確かでしょう。

私は、単純作業をこなす能力よりも、人間的な潜在力の方が、その人の実力と呼ぶにふさわしいものだと思いますから、どちらかと言えば、こちらを評価したいと思うわけです。


それから、はじめの話に戻ってしまうのですけれど、「一生懸命」は並大抵のことではできないけれど、「一所懸命」はやる気さえあれば誰でもできるという所なわけです。

「一生懸命」ぐらいのことをして、はじめて、評価に値するほどの「能力」なのだと思うわけです。

そして、「一所懸命」は誰でもできることだけど、その誰でもできることを懸命になってやるところが、「いい」わけです。

でも、簡単にできるというのは、「能力」としても大したことは無いですし、それほど「いい」とも思えないわけなのです。


とはいえ、私も「簡単にできる」の方が、”カッコイイ”と思っていました。

なんでも”スマート”にやった方がいいと思っていましたし、それが洗練やセンスだと思っていたわけです。


でも、違ったみたいです。
ぜんぜん、違ったみたいです。


人間的な内容が無いと、洗練もセンスも陳腐なだけでした。
まして、「能力」なんて、機械でもできてしまうようなことを、『できる』と言っているだけです。

かと言って、「一生懸命」のような本物の「能力」には及びもつきません。
要するに、「一所懸命」ぐらいしかできないわけですよね。

でも、そこからも洗練やセンスは生まれてくるように思っています。


だから、そこを抜いてしまったら、何もできないと思いますから、なんとか「「一所懸命」でやっていこうかなと。


そういう風に思っています。




人間は「食物連鎖の環」から外れた動物



「弱肉強食」とか「自然淘汰」というのは、自然界のバランスを保つための、最も根源的な法則だと思うわけです。

でも、人間は、この原則から外れてしまっているように思うわけなのです。


人間は、自分が食べるために動物や植物を生産します。

人間は、特定の動植物を乱獲して、そのあとでそれを保護したりもします。

人間は、自分に有用な「種」を改造します。

人間は、産業廃棄物を排出しつつ、エコロジーにも配慮して、そのエコを産業にしてしまったりもします。


全体的に、まったく”理に適っていない”わけです。

そこには、「弱肉強食」や「自然淘汰」の崇高さや普遍性はなく、常に短絡的で、その場のことしか考えていないようにしか見えないわけですね。

でも、人間にはそれが出来てしまっているわけなのです。


そして、人間はそれをやめないでしょう。


もちろん、世界の中では人間の存在など小さな点のようなもので、自然の法則は、人間のすることなど、すべて押し流してしまうのでしょう。

それはわかるのです。

でも、出来てしまっている。


『いやいや、全然自然に太刀打ちなんて出来てませんよ』と言われれば、そうも思いますけれど、でも、やっぱり出来てしまっているように見えるときもある。


もっともっと、出来ないはずだと思うのです。
こんなに出来てしまっていいんでしょうか?
たとえこの程度でも、出来るはずがないんじゃないんですか?
原則から外れたものが、その状態を続けていかれるなんて有り得ないことでしょう?

と、誰かに聞きたくなってしまうわけなのです。


この「原則から外れたこと」を手放せなくなった人間にできることは、”理に適っていない”ことや”場当たり的な”ことしかないのでしょうか?

どうしても、それが止められないのであれば、それを「原理」や「法則」に近い所にまで昇華しようとするべきなのかなと。


好むと好まざるとに関わらず、人間は「食物連鎖の環」から外れた位置に立たされてしまっているように思うのです。
人間だけが円環していないように見えるのです。

だから、その「環」をつなぐような方向で考えていかないと、人間だけが浮き上がってしまうように思えるわけなのです。


どうすれば、それができるのかは、わたしにはわかりませんけれど、少なくとも、「競争」や「淘汰」と言った、そちら側の法則ではないのだろうなと。

そこからは、すでに外れてしまっているわけですから。


だから、人間が協調しようとしたり、助け合ったりするのは、必ずしも、善・悪とか正義の問題でもないように思うのです。

つまり、もう少し大きな枠組みの原理に基づいているのかなと。


そんな中で描くことが出来得る人間社会の未来像は、SF映画に出て来るような無機質的な世界などではなく、いや、それとは正反対の、いまだかつて、人間が経験したことがないほど「人情味」があって、過去には有り得なかったほど、濃密に有機的な空気が充満した空間なのではないのかなと。


そんな風に空想するときもあります。




「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へ



昔は、と言ってもだいぶ昔ですが、大人が公然とマンガを読んでいたりすると、白い目で見られるというようなところがあったと思うのです。

おそらく今の若い世代では、そんなことを言っても、それがどういうことなのかもわからないのでしょう。
つまり、一言で言えば、昔の人は”シンジラレナイほど頭が固かった”わけです。


子供が読むものと大人が読むものは、はっきりと分かれていて、大人が子どもの読むものを読むことや、子供が大人の読むものを読むことは、「イケナイこと」に近かったわけです。

それが、「アニメ」と言う媒体を経たことによって、いつの間にか「大人用」と「こども用」が一体化して、その境界線も曖昧になり、お互いに出入り自由になったわけです。

そして、「オタク」が登場したことで、「こども用」であったはずの「マンガ」や「アニメ」が、とうとう「大人用」の文化になったと言えるのだと思うわけです。


そのこと自体の是非を問う気はありません。
取り敢えず、昔の人の頭が固すぎたのは間違いないので、その分だけは良かったのだと思います。


でも、それよりも、このことについて、不透明になっていることがあるように思うわけです。


この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へという移行が、日本の社会にかなりの影響を与えたと思うわけです。

1.大人が幼児化したということ

2.子供が子供でいることを許されなくなったということ

3.「マンガ」と「アニメ」が文化として発展したこと

以上のようなことが考えられることだと思いますが、その中で尤も日本の社会に対する影響が顕著なのが、1.だというのはよく言われていることだと思います。

3.についても、よく語られますが、実際には、「マンガ」も「アニメ」も、かなり早い時期に頂点に近い位置にあったと思われます。
つまり、まだ「子供用」であった時点で、既に一つの頂点に達していたという感じがするわけです。
(この辺は、異論もあるでしょうから、私が勝手に言っていることです)

でも、どちらかと言うと、一番問題なのは二番目の「子供が子供であることを許されなくなったこと」なんじゃないかと思うわけです。


「大人が幼児化したこと」は、さんざん言われていますが、その結果、「子供が子供であることを許されなくなったこと」については見落とされがちです。

また、そのこと自体は、語られることがあっても、この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へと言う文化の変遷の中で、それが語られることがあまりないために、その辺のところが、そっくり抜け落ちてしまうのです。


つまり、社会現象としての「マンガ」・「アニメ」・「オタク」はもう完全に「大人の領域の話」になっていて、「子供の領域の話」ではなくなってしまっているわけです。

だから、子供の話には出てこないのでしょう。


大人が幼児化したことの象徴が「オタク」であることは、ほぼ間違いのないことでしょう。
そして、幼児化した大人が「子供の領域」を奪ってしまっていることも、まずもって間違いがないことではないでしょうか?

さらに、社会機構の中で上位に居る「大人」が子供の領分を占めてしまっていることで、「子供が子供であることを許されない」という状態になっているように見えるわけです。


結果、「子供」は「大人化」するしかないわけですけれど、「子供」ですから「大人化」できないわけです。
「大人化」するには、経済力や社会的地位が必要になりますし、「大人」に与えられる権利も義務も与えられませんから、まったく無理なわけですね。

そこで、現在の「子供」は「子供社会」を「大人社会化」しているのだと思うわけです。
それが”イジメ”の構造の一端だと思うのです。


そしてさらに言えば、その「子供社会」の”イジメ”に近いような、”子供じみたイジメ”が、幼児化した「大人社会」に蔓延してきているというわけです。

そして既に、「そういう子供時代を経た大人」の世代に入っています。

つまり、子供時代には「子供であることを許されなかった」者が、「大人になってからは幼児化する」という歪んだ状況になってしまっているわけです。


この状況を克服するのは容易ではないように思われますけれど、どう考えても、抜け出さねばならないように思うわけです。


「オタク」と言う文化をどう扱うべきなのかはわかりませんが、少なくとも、海外で評価されていることなどを、手放しで喜ぶのはどうなのかなと。
海外の人は、そんな歪んだ社会の”ツケ”は負わなくていいわけです。
当然、その”ツケ”は、近い将来、日本人が負担しなければならなくなるわけです。


要するに、不自然な「子供の大人化」と「大人の幼児化」が、何度もその不自然な循環を繰り返した後で、そこから排出される「オタク」という文化に、まだ、そんな”ツケ”を支払ってまで、手放さないでいるだけの価値があるのか?ということでしょう。


いま起きていることは、目を開けて見ればわかることだと思うのです。
それを見ないようにするのも、また、たやすいことですけれど、それで、近い将来、困るのも確かなことなのかなと。

そんな風に思えるわけです。


※2019年5月に追記

「文化」としての「オタク」を批判しているわけではありません。
社会現象としての「オタク」についての話です。

例えば、かつて、「差別」のある国では、差別されている人種や階層の人が集まって、「スラム街」を形成していたわけですが、その「スラム」にも、「そこならではの文化」はあったでしょうし、その「文化」がいかなるものであっても、それを否定することに意味があるとは思いません。
 しかし、「差別」も「スラム」もなくした方がいいのは間違いのないことですし、もしも、その結果「スラム文化」が消滅してしまったとしても、それはやむを得ないことだということです。

海外においては、「オタク」の「文化的な側面」だけがの、意図的にクローズアップされて宣伝されているのでしょうから、外国人が「オタク」を「文化」として理解したり、評価したりするのは当然のことだと思います。

しかし、日本で暮らしている日本人にとっては、「オタク」が「ヒキコモリ」や「不登校」などと直結している「社会現象」でもあることは、避けようがない事実であり、そこから、「学校の悲惨なイジメ」や「子供の自殺」までは、すぐそばの位置にあるということも、また明白なことです。
そんな状況の中で、その現実を直視せずに、あくまで『オタクは世界に誇るべき日本の文化である』と言い続けることは、かつての「スラム街」において、『臭いモノには蓋をして』結果的に「差別」を容認し続けていたのと同じことに成ってしまうのではないでしょうか?

やはり、「オタク」については、「社会現象」として、もう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか?

私は、そう思います。




「自己実現」とは「欲望の実現」



「自己実現」と言う言葉をとても良く耳にするわけです。


これには、「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」と言うような意味も含まれると思いますけれど、もう少し現実的な印象もあって、社会の中で、自己の位置づけを確立して確固たるものにするというようなこともあるのだと思うわけです。

要するに、金銭や地位・名誉と言った現実的なものに対する「欲望」の達成を「自己実現」と言っている部分がかなりあるのだと思うわけです。


現実的な欲望を達成するのが、悪いことだと言うつもりはないのですが、その種の「欲望」を強く持っている人と言うのは、それを、あえて「自己実現」などとは言わないように思うのです。

彼らは、きっぱりと「お金が欲しいんだ」とか「有名に(偉く)なりたい」と言うでしょう。


そこでなんで「自己実現」と言う言葉が使われるのか?
おそらく、本来ならば、その種の「欲望」を、それほど強くは持っていない人が、「自己実現」と言っているのではないかと思うわけです。
(想像ですが)


そこで、「欲望」を剥き出しにしてまで、それを達成したいと思わないような人たちが、この言葉に”惑わされて”しまっているようにも思えてしまうわけなのです。

「欲望」とか「お金」とか「地位」とかと言われれば、『いえ、そこまでして』と言うような、言わば奥ゆかしい性質の人達が、「自己実現」と言うキーワードを提示されると、それに従って、「自己実現」しなければいけないような時代の空気があって、それによって、本来起こらないはずの競争が起きているように思うわけです。

そして、その競争によって、社会全体が、とても”ギスギス”した雰囲気に包まれてしまっているように思うのです。


欲望の達成に対する「強い願望」を持っている人たちは、常に一定の数で存在するのでしょう。
その人たちにとっては、それがもともとの性質ですから問題はないように思うのです。
そして、そういう人達が居ることは、必ずしも悪いことだとは思わないわけです。

でも、本当ならば、それらの人を横目で見ながら、それとは違う方向を向いて行動しているはずの人たちが、「自己実現」と言うキーワードで「欲望」を増幅させられてしまって、「望んでもいない欲望」や「大してやりたくもない達成」を勝ち取るための競争に向かわされているように見えるのです。

そして、それがどうも不自然なわけです。


「自己実現」には、「社会貢献」や前述の「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」みたいな、”剥き出しの欲望”とは違う面もあるので、”惑わされ”やすくなっているんじゃないでしょうか?


だから、「自己実現」したいと思っている人は、その前向きな「自己実現」が、実体としては自己の「欲望」の達成を意味することだということを意識したうえで、それでもまだ、そこで競争してまでそれを勝ち取りたいのか?ということに答えを出してから、そこに向かった方がいいのではないのかなと思うわけです。


それから、はじめに述べたような、「夢をかなえる」や「やりたいことを見つける」なんていう非現実的なことと、「お金」や「地位」というような現実的なこととは、原則的に両立することは無いわけです。

それが両立しているケースがあったとしても、それは何かしらの特例であって、それを両立させるために努力するということは、徒労に終わることが多いのだと思います。

「自己実現」と言うと、それらが両立できる範囲のことであるかのような幻想が創り出されて、それが、あたかもリアリティのあることのように思えてきてしまうということがあるわけです。

実際に、「お金」や「地位」を確実に獲得していく人と言うのは、基本的に、初めから「夢」とか「やりたいこと」なんていう実益が薄いことに興味を持っていないことが多いわけです。
と言うか、そういう人たちにとっては、「お金」や「地位」こそが、「夢」であり「やりたいこと」でもあるわけですから、「お金」や「地位」を得ることが出来れば、「夢」も「やりたいこと」も自動的に両立してしまうわけなのです。

でも、「夢」や「やりたいこと」が「お金」や「地位」ではない人は、ほとんど両立できないものを両方同時に得ようとするわけですから、、”イライラ”して来て、”ギスギス”してしまうのだと思います。


つまり、「自己実現」を望むことで、結果的に「自己不満」を作り出してしまっているというわけです。
少し極端にいうと、現代社会に蔓延している「ストレス」の一つが、「自己実現」というキーワードによって引き起こされているように思います。


そもそも、そんなに高い「自己」を「実現」しなければいけないのでしょうか?

そんなことは無いと思うのです。

もっと普通のことを「実現」するだけでも素晴らしいんじゃないかと思うわけです。
と言うか、「人間として当たり前のこと」をするだけでも結構大変で、それだけでも、十分に高い目標かとも思われるわけなのですから、それ以上は、無理なんじゃないかなと。

でも、そういう「当たり前のこと」が社会で認められていなかったりするわけです。
だから、それは「自己実現」とは呼ばれないのでしょう。


「自己実現」という「自己不満」に陥るか、「非・自己実現」という「自己満足」を得るか、と言う選択なのでしょう。
要するに、両方”パッとしない”わけです。

つまり、『どっちみち”パッとしない”』という状況が、「自己実現」というキーワードによって生み出されているような気がします。


でも、そういう”ジミな感じ”のことをもっと積極的に認めて、評価の対象にしていくことが必要になっていくんじゃないのかなと。
そんなことで「ストレス」という「現代最大の病」が克服できるなら、安いもんじゃないのかなと。


そんなことも考えられるのかなと思ったりするわけです。





いま、何かから「逃げること」の意味



「逃げること」と言うと、あまりいいことだと考えられてはいないと思います。


でも、現在は「相対化の時代」でもあると思うわけです。
「相対的」に物事を見た場合、「逃げること」を「攻めること」と捉えることもできるわけです。

つまり、相手から遠ざかることは、相手を遠ざけていることでもあるわけです。


ある一つの基準点を想定して、そこを中心にして全てのもの事を測れば、中心から遠ざかっていくことは、「逃げること」でしか無いわけですけれど、そういう「絶対的な中心」、即ち「基準」を喪失した現在においては、積極的に「逃げること」は、「責めること」にも成り得るわけなのです。

だから、現在、何らかの形で「逃げている人」や逃げ場さえ失くして「ヒキコモッテ」いる人は、その状況を、もっと積極的なものと捉えてもいいように思うわけです。


もともと、なんで「逃げること」になったのかということを考えれば、何か”嫌なもの”があるから逃げるわけでしょうから、そちらが、そもそもの原因なわけで、「逃げている」側ばかりを責めるのもどうかと思うわけです。
と言うよりも、現状を見ると、『逃げるやつは弱い』で済ませてしまうには、あまりにも、「逃げている人」の数が多いと思うのです。

みんながどこかに『逃げ込んでいる』ように見えるのです。


そんなに、みんなが弱いとは思えないのです。
実際に、十分に強い人ですら、何かから『逃げざるを得ない』状態になっているように思います。

そしてまた、さほど強いともいえないような人に限って、『逃げることなく、のうのうとしている』ということも、よくあるような気もします。


いずれにしても、今、「逃げること」を非難しても、なんにもならないような気がするわけです。


こんなにたくさんの人たちが、「逃げているという現実」を直視して、みんなが何から「逃げている」のか?
何が”嫌なこと”なのか?ということを見つけ出して、それを排除していかなければ、結果的には、何の成果も得られないと思うのです。


おそらく、その”嫌なこと”とは社会の効率を高めるために存在しているもので、それを排除してしまうと、利益を阻害されると考える人たちが居るのでしょう。


でも、もはや、それが逆転していて、それを排除できずにいることの方が、余程、社会の利益や効率を阻害しているわけなのです。


ですから、いま「逃げている人」は、自分が社会の弊害になっているものをいち早く見出して、それを排除するための因子となるために、その位置から無言の抗議をしているのだという捉え方をしてもいいように思うわけです。

そして、後になって歴史を振り返れば、きっと、それが事実となっていくのでしょうから、それは、恥じることでも自己憐憫を感じるようなことでもないと思うわけです。

だから、『逃げています』とか『ヒキコモリです』とかいう必要すらもなくて、『いえいえ、あなたたちの方が、私の無言の抗議に耐えられずに逃げているのです』と言ってもいいように思います。


「逃げること」を擁護するつもりで言っているのではありません。
「いま、逃げること」が「普通の逃げること」とは違うように思えるということです。


「逃げている人」が戻ってこないと、「逃げている人達自身」も、「逃げていない人達」も同じくらい困ることに成るのでしょう。


だから、みんなで”嫌なもの”を排除していった方がいいのかなと。
その”ギスギス”して”トゲトゲ”したものを排除していけば、自然に、みんな戻って来るのではないのかなと。


それは何なのか?たぶん「意味のない競争」です。


『なんで、競争するのか?』

『そこに競争があるから』

『意味はない』

『害はある』


以上、

です。



「老化」は「劣化」ではないと思うのです



前に、他の記事でも触れたことなのですけれど、現在日本では、「年をとること」を「劣化」と見る傾向があると思うのです。


確かに、物はすべて経年とともに「劣化」するわけですけれど、それは、あくまで物質的なことに限ってであって、それを精神世界にまで当てはめてしまうことには、問題があると思うわけです。

つまり、本の表紙が擦り切れたり、印刷のインクが薄れてしまったことを、その本に書かれている「内容の劣化」と看做してしまうことは、まったくもって理にかなっていないということですね。

本についてだと、まったく当たり前のことであるのに(さすがに、本がすり切れていることと、本の「内容」がダメだということを混同している人はいないでしょう)、人間についてだと、「老化」と言う「物質的な劣化」が、「精神的な劣化」でもあるかのような誤りが、まかり通ってしまっているように思うわけです。


人間の脳の中の、精神世界に蓄積された情報と言うのは、本で言う所の「内容」にあたるもので、それは劣化することは無いわけです。

そう言うと、年を取って物覚えが悪くなることや、頭の回転が遅くなることは「精神的な劣化」ではないのかということに成るわけですが、それは脳と言う器官の「物質的な劣化」であって、蓄積された「情報」や「思考」の「劣化」とは全く違うものなわけです。


また、一部の人(大半の人かも?)においては、記憶力が衰えるのは、情報の蓄積量が膨大な量に及んだ結果、飽和状態に達したためであり、頭の回転が衰えるのは、思考が高度に複雑化して、非常に曖昧な判断を下そうとするためであるという考え方もできると、私は思っていますので、それは、「物質的な劣化」に限った話としても、やや誤解があると思うわけです。


いずれにしても、「精神世界」は全くといっていいほど「劣化」しないものだと思うわけです。

むしろ、それは年をとることで「変化しなくなる」と言った方が正しいわけで、「進歩」や「発展」はしなくなりますが、「劣化」もしないわけなのです。

「進歩」や「発展」をしなくなるのは、人間の機能の「物質的な劣化」によって起きて来る結果である場合と、「進歩・発展期」から「成熟期」に移行したことの結果である場合があると思います。

そのどちらも、「精神的な劣化」と混同することは間違いであると思うわけですね。


若者が、「老境に至った者」の「複雑化した思考」を理解でないのは、仕方ないことなのでしょうが、当の「老境に至った者」たち本人が、それらの膨大な「情報や思考の蓄積」を、とても粗末に扱ってしまっているわけです。


もっと、誇りをもって『まだ君たち若者にはわからないだろうね』と言っていいように思うわけです。

実際に、若いころには考えつきもしなかったことが、長年かかって徐々にわかってくるということは沢山あるわけで、”デリケート”で、”微妙な”なことに成ればなるほどその傾向も強いわけです。


おそらく、それは膨大な「蓄積」によってのみ成し遂げられる最も複雑な作業であって、「年寄りの戯言」などではないのです。
と言うよりは、その「年寄りの戯言」こそが、実は「最も複雑な作業」かも知れないのです。


だから、年寄りも若者も、それらの「蓄積」を蔑ろにしているということは、本の表紙が擦り切れてしまったからと言って、その本を捨ててしまって、そこに書いてある素晴らしい「内容」をも一緒に捨ててしまうようなものだと思うわけです。


それを大切に扱うことで、「年寄り」においては、自分の「人生の蓄積」を、そこに集大成することが出来るわけですし、「若者」においては、将来の自分が、誇りを保って人生の終焉に向かっていくモデルを見ながら生きていくことができるようになると思うのです。


「老化」は「劣化」などではなく、それは、人生を締めくくるための最後の「変性」なのではないかと思うのです。

それは、長い期間を幼虫で過ごした昆虫が、最後に美しい姿の成虫に「変性」して、その数日後には死んでしまうのと似ていると思うのです。


人間にとって、二十歳での成人は「肉体的・物質的な成人」で、人間の本質に根差した「精神的な成人」は、実は、「老齢期」なのではないのかなと。

そんな風にも思えてくるわけなのです。


※ただし、これは『歳をとったら、威張ってもイイ』ということでも、『若者なんて、話にならん!』ということでもありません。
そんなの当たり前ですよね!



「仕事ができる」という罠



現代社会において、『仕事ができる』と言う言葉が、とても厄介な「罠」になってしまっているわけです。


現在の職場環境においては、『仕事ができる』は、誰も逆らうことのできない、”絶対的な要素”とみなされているようです。

実際に、いろいろ問題がある人であっても、『でも、あの人仕事はできるから』と言われてしまうと、誰も、それ以上の”ツッコミ”ができなくなってしまうわけです。

逆に、とても人間的に信頼できる人だったり、堅実な人だったりと言うような「価値」は、『でも、あのひと仕事できないよね』の一言ですべて”水の泡”になってしまうわけです。

私は、これが不思議でしかたないのです。

まず、私が見ている限り、仕事と言うものは誰にでもできるものにしか見えないのです。
実際、「仕事ができる人」が居なくなっても、その「仕事」が滞ってしまうということは無いわけですし、その職場が大きく変わってしまうようなこともないわけです。

つまり、他の人でもほとんど同じようなことが出来るということです。
要は、「仕事ができる人」は、それを少しだけ効率よくこなしていたというだけのことなんだと思うわけです。


それから、同期で入社した人の中で、少しだけ早く仕事を覚えた人が、『仕事ができる』と言われ、驚くべきことに、ほんの少し仕事を早く覚えたというだけの、その「仕事ができる伝説」が、定年退職するまで続いたりするということもあるように思います。

どう見ても、実質的な差はごく僅かで、イメージだけで『仕事ができる』と『仕事ができない』に分けられてしまっているようにしか思えないわけですね。

そういった現実を見るにつけ、どうして人間性がもっと重視されないのだろうか?と不思議に思ってしまうわけなのです。

私が見ていると、「仕事ができる人」の「できる」の部分はチョットで、「人をないがしろにする部分」や「傲慢な部分」の方がはるかに大きいようにしか思えないのです。

もちろん、中には「仕事もできて」人間的にも充実した人も居るのでしょうが、少ないと思います。

だって、「仕事ができれば」ほとんどのことが許されてしまうわけですから、余程の人物でない限り、だんだんワガママになるに決まっているわけです。
そして、やはり、余程の人物でない限り、それに気が付きません。


いま、とにかく、『仕事ができる』という「罠」から逃れなければ、”マトモ”な判断は下せないと思うのです。


『仕事ができる』を、何の価値もないことだと考えて、その上で見えてきたものが、その人の本質に近いものだと思います。


「仕事」なんて、みんな十分”できてる”んじゃないですか?
それ以上”できなくても”いいでしょ?
一体どんだけ差があるっていうんですか?


そんな風に思ってしまうわけなのです。




 

「空気を読む」ということ



現代社会においては、「空気を読むこと」が必要以上に重要視されているように思えるのです。
でも、それは単なる”日和見”にしか思えない場合がとても多いわけなのです。


『空気を読む』と言っていますけれど、読んでいるのは、強い立場にある者の「空気」である場合が非常に多いわけで、弱い立場にある者の「空気」を読んでも、それは「空気を読んだこと」にはならないわけです。

つまり、それは日和見的な人間が、自分の日和見的な行為を正当化するために、『空気読めよ!』などと言って、自分の日和見な姿をゴマカシているのに過ぎないわけです。


「空気」なんか読めなくていいと思うのです。
「空気」なんて無視して、やりたいようにやればいいと思うのです。


いま、必要なことは、「空気を読む」ではなくて、
「人の心に同化すること」だと思うのです。


悲しんでいる人が居たら、「自分も悲しくなること」

何かに憤慨している人が居たら、「一緒に憤慨できること」

喜んでいる人が居たら、「自分まで意味もなく喜べるということ」

そういう、感情が希薄になっているように思うわけです。


もちろん、自分自身が「喜怒哀楽」を感じることも、感情の起伏なのでしょうが、人のつながりが薄くなってしまっている現在、人の感情に同化できるということが、最も重要視されていいように思うわけなのです。

そして、そうした「心の同化」から生まれるものが、とてつもなく大きいように思うわけです。


一人の感情は一人分ですが、「同化」して、「共有」された感情は相乗的な広がりを持つのだと思います。

それに比べて、『空気を読め!』はどうでしょうか?
私は、そこに、ちっとも広がりを感じませんね。

いま、「同化」がもっと重要視されていってもいいのかなと。
そして、「空気読め!」はもっと軽視されてもいいのかなと。


そんな風に考えてしまうわけなのです。




現在のマスコミは”情報を歪める”機関になっている?



現在、マスコミを通した情報と言うのは、ことごとく歪んでしまうわけなのです。
これは、なにも悪意があることに限った話でもないようです。

もしかすると、マスコミと言うものが「情報を歪める機関」に成ってしまっているのかも知れません。


もともと、コミュニケーションと言うのは”情報の伝達”や”意思の疎通”のことなわけでしょうが、それが「マス」+「コミ」に成ると”情報伝達(意思の疎通)を歪める”ものになってしまうということのようです。


まず、「マス」+「コミ」になると、”際限ないほどに大容量の”情報が流されるわけです。
これによって、「本物の情報」が埋もれてしまうわけです。

また、「マス」+「コミ」になると、”疑いの余地がない”情報とみなされてしまうわけです。
これによって、流された情報は選択の余地なく無条件に”ウノミ”にされてしまうわけなのです。

つまり、「本物の情報」が埋もれてしまって見つけ出せないような状態のなかで、無際限に大量に流れている情報の中の”たまたま偶然出くわした”ともいえるような情報が、”ウノミ”にされて、信じ込まれてしまうわけです。

そう考えれば、それが”歪んで”行くのは当然のことなわけですよね。


だから、マスコミの流す情報と言うのは、ほとんどが”歪んでいる”ものだという認識が必要なわけです。
そして、こういう感覚は、マスコミの側にこそ持ってもらいたいと思うわけですけれど、無理なんでしょうか?


どちらにしても、マスコミの大量な情報を排除してしまうと、あまりにも情報量が減ってしまって、とても不安に成るわけですけれども、そこをこらえて、やり過ごす方がいいように思うのです。


どうせマスコミが意図して流している情報なんて、かなりの部分で、何かの宣伝なわけですし、そういう意図や悪意がない場合でも、”歪んで”いる確立は高いわけですから、それを”生真面目に”信用しなくてもいいんじゃないのかなと。


そもそも、『情報は多ければ多いほどいい』みたいな考え方が間違っていたと思うのです。
『情報は本物であればあるほどいい』が正しかったように思います。


だいたい、「本物の情報」であれば、こんなに沢山あるはずがないでしょ。
と言うような”穿った”ものの見方も必要なのかなと。

そんな風に考えざるを得ないような、この情報の”アメ・アラレ”。
もう、よけきることは出来ません。

目を閉じていても見えてくるようなものが
”ホンモノ”なのかもしれませんね。


そんな風に思うしかないわけです。



「人間は特別な存在」ということにしてしまった方がいいのでは?



エコロジーなどの『地球環境を守ろう!』と言う話においては、『人間はもっと謙虚になって、自然を大切にしなければいけない!』と言われることが多いと思うわけです。

確かに、そのとうりだと思います。


人間と言うのは、いつも、あまり”後先考えず”に、自然を、いとも簡単に破壊したり、そうかと思うと、唐突に過剰な保護をしてみたりと、何かにつけて、やり放題なわけなのです。

だから、『もっと謙虚になって』と言うのは、当然な話ではあるわけです。
ただ、これがあまり”功を奏していない”ということが問題なのです。


人間が、文明を手に入れたことで、自分たちを「特別な存在」だと勘違いしてしまって、自然や、地球環境を踏みにじった行為を侵すようになってから、もう、だいぶ時間がたっているわけですけれど、それらの行為が根本的に改められるような兆しは、まだまだ見えてきていないように思えるのです。


これは、どうやら『人間は特別な存在ではない』と思おうとすることに無理が出てきているのかなと。
いっそのこと『人間は特別な存在である』としてしまった方がいいのではないかと思うのです。

『人間は特別な存在である』と言う人間の”勘違い”は、もう、そう簡単になくならないように思うわけです。
どうせ、変わらないならば、『人間が特別である』と言う前提で、『どうするのか?』を考える方が”マシ”なんじゃないのかなと。

「特別」だから『やりすぎてはいけない』と言う感じで、今までの『人間の力を過信してはいけない』と言う方向ではなくて、『人間の力がこんなに凄いんだから、こんなことしちゃまずいでしょ』と言う方が、まだしも有効なんではないかと思うわけです。

そして、そういう方向で一本化できれば、「自然保護」や「環境問題」に対する議論も、今のような”お座なり”のものではなくなるかもしれません。


現在は、この「人間の力」に対する「過信」と「謙虚」が時と場合によって都合よく使い分けられてしまっているのだと思うわけです。
(環境保護の側と、産業重視の側の両方に言えることだと思います)


むしろ、完全に「過信」し切ってしまうことで、やっていることの本当の”無意味さ”や、”だらしなさ”が見えて来るんじゃないかなと。


そんな風に思うときもありますね。
(思わない時もあります)




「あやまる」という文化



「あやまること」は一つの文化だと思うわけです。


よく、『日本人は自分が悪くもないのに誤ってしまう』とか、『西洋人はなかなか謝らない』などと言われたりもしますが、こういう「あやまること」に対する考え方と言うのは、その国の文化を象徴しているのだと思うのです。


そして最近、日本人でも「あやまれない人」が増えてきているように思うわけです。
要するに、これは考え方が「西洋化」してきているのだと思うのです。


このことに限らず、このところ世界中が西洋化(アメリカ化?)してきているように感じてしまうわけです。

世界が共通の概念や文化を持つようになっていくことが、いいことなのかどうかはわかりませんが、少なくとも、この流れは止まらないのでしょう。


でも、どうせなら一つの国の概念に染まってしまうよりも、いろいろな国のいいものを集めた方がいいと思うわけです。


そして、この「あやまること」に関してなどは、『あやまりすぎる』と言われる日本の文化が、私には、とても”特異な”ものであり、かつ”未来的な”ものでもあるように思えるのです。


つまり、「和」を重んじた形が、『悪くなくてもあやまる』と言う文化なのだと思うのです。

そして、世界共通の概念を構成しようとするのであれば、こういった「和」の文化が必要になってくるのだと思うわけです。


もちろん、これは「あやまられる側の人」も、「和」の心を持っていないと成り立たないわけですから、そういう意味でも、世界共通を前提にしてこそ成り立つものなわけです。


と言っても、現状においては、まだ共通の概念が形成されているわけではありませんから、「あやまる文化」は弱腰に見られてしまうわけです。

要するに、”ツケコマレル”わけですね。


でも、「迂闊にあやまると付け込まれてしまう社会」と

「悪くなくても、『ゴメンナサイ』と言うと『いえいえ、こちらこそ』などと返ってくる社会」と、どっちがいいんでしょうか?

争いの時代を終わらせるのであれば、後の方がいいんじゃないかなと。


そこらじゅうで『ゴメンナサイ』と言っているような国って、なんとなく、住み易いような気がするのですが、どんなもんなんででしょう?


と言うわけで、こんなつまらない話で

『ゴメンナサイ』



「情報」は与えられるものだと思うのです



最近、「情報弱者(情弱)」と言う言葉をよく耳にするわけです。

でも、この言葉には”言葉の仕掛け”を感じてしまうことがあるのです。


「情報」とは、本来は”与えられるもの”だと思うのです。
ここのところが、この言葉によって、いつの間にか歪められてしまっていると思うのです。

この「情報弱者」という言葉には、「取り残されてしまった者」と言う意味と同時に、そこにある「情報」を積極的に取り込まない”情報ナマケモノ”的なイメージも感じられてしまうわけなのです。

つまり、「与える側の責任」が「受け取る側の責任」にすり替わってしまっているように思うわけです。


ここで、「情報」が『与えられるべきものなのか?』ということになるわけです。

現代の社会における「情報」について考えると、「情報」はいくらでも溢れていて、誰にでも手の届くところにあるように思えるわけですよね。
だから、「情報弱者」と言われている人たちが、敢えて「情報」を遠ざけていたり、それを取り込む、最低限の努力をも怠っているという風に見えてしまうわけです。

それは、つまり、「教育」に例えて言うならば、十分に教育機会を与えられているのに、”敢えて勉強しない人”と言うような感じでしょう。

これは、自己責任と言えるのかもしれません。


でも、もし仮に、現在は当たり前になっているような「義務教育」が、必ずしも”与えられるべきものではない”ということに成ったら、それは、もう自己責任とは言えないでしょう。

だから、「義務教育」と言う形で、「教育」を受ける権利が保障されているのだと思うわけです。
これは、「個人」ではなく「政治」や「社会」の責任でしょう。


それと同じように、「情報」も必要十分に与えられるべきものなのだと思うのです。

もし、一般人の「情報を与えられる権利」が奪われてしまえば、権力者が「情報」を隠ぺいしたり歪めたりする正当な権利を得ることになってしまい、一般庶民は正しい「情報」を得る機会を失ってしまうことにも成りかねないということです。
(と言うか、そう成っていると言えなくはない?)


そこで、「一般人にとって必要十分な「情報」が『与えられているのか?』ということですが、現在は、この「情報」の与えられ方に、かなりの”ムラ”があるわけです。

間違いなく、「情報」は溢れています。

ただ、その「情報」がインターネット上に偏っているわけです。


そもそも、「情報弱者」と言っていますけれど、「インターネットの世界だけで通用するような情報」についての知識が無いだけでも、「情弱」扱いにされてしまうわけで、それは、その人たちの”不勉強”や”無知”を責めるよりも、そのインターネットを普及させている側の人たちの責任を問うべきだと思うわけです。

それなのに、そちら側の人たちが、「情報弱者」と言う言葉に乗っかって、自分たちの責任を回避しているという感じがするわけです。
(どちらかと言えば、そちら側の人たちが「情弱」と言う言葉を流通させているとも言えますよね)


「情報」は必要十分に与えられるべきものであるという前提で言えば、現在の「情弱」は、情報を与えている側の不備によって生み出されているのだと思うのです。


それから、話は違いますけれど、『「情弱」な人の方が、どちらかと言えば「人情」には厚い』と言う印象があるというのも、何かを象徴しているのかなと。

少なくとも、自分が「情報」に先んじていることで、「情報」を持たない者に優しくできない人なんていうのは、「情報」では「強者」であっても、「人”情”」では「”弱”者」なわけです。


だから、『あんたたちだって、十分「情弱」なんだよ!』と言いたくなってしまうわけなのです。

同じ「情」でも、「情報」よりも「人情」でしょ?


そんなことだと思います。




「いい爺さん」と「わるい爺さん」



最近、よく街なかで「いい爺さん」と「わるい爺さん」というパターンを目にするのです。


いわゆる、昔話に出て来るパターンですね。

これは、実際には、「お爺さん」に限定した話ではないんですが、あまりにも昔話のパターンに似ているので、そんな風に言いたくなってしまうわけなのです。


例えば、道で人とすれ違いざまに、意味もなく「ケッ!!」と言っている人を見かけたりするわけです。

そうかと思うと、歩道の幅が狭くなているところで、人が通り終わるまで待っていてくれたりする人なんていうのも、けっこういたりします。
(しかも、モナリザのほほえみを浮かべて)


要は、両極端なわけです。 「いい人」と、「わるい人」がですね。
まるで昔話の中の役柄を演じているように、「いい人」は典型的な「いい人」だし、「わるい人」も典型的な「わるい人」なわけです。


「いい人」の方はニコニコしていますし、「わるい人」の方は苦虫をかみつぶしたような顔をしています。


そうは言っても、「いい人」は、”穏やかな感じ”と言う程度のことですし、「わるい人」が「悪人(あくにん)」かと言うとそうではなく、”ややイジワル”だったり、”若干エラソー”だったりするという程度で、本当の「悪人」と言うわけでもなさそうです。

そこがまた、「いい爺さん」と「わるい爺さん」的な感じなわけです。


初めにも言いましたけれど、これは決して「お爺さん」に限った話でもなくて、年齢層にも、性別にも、あまり関係なく、いろいろな人が「いい爺さん」と「わるい爺さん」に分かれてしまっていて、一番多いはずの”普通の人”が、、極端に少ないわけです。


なんで両極端に分かれてしまうのかはわかりませんけれど(たぶん、社会全体が両極化しているからだと思いますけど)、私といたしましては、”普通の人”が一番いいと思っていますので、「フツーの爺さん」がもっと居てもいいんだけどなと。


そんなことを思ってしまうわけなのです。




「民衆」という「独裁者」



私なんかもそうなんですけど、世の中にうまくいっていないことがあると、だいたいのことは『政治や社会が悪いからだ』ということしてしまう習性があるわけです。

でも、本来は、「民主主義」ですから、「民衆」に責任がある”ハズ”なわけです。


私は、現在の「民主主義」というものが建前通りの機能を果たしてはいないと思うので(多数決が機能していない)、「民主主義」だからと言って、すべての責任が「民衆」にあるとは思いませんし、「民主主義」が機能不全に陥っているのは「民主主義」と言うシステムの問題だと思いますから、それも「民衆」の責任だとは思わないわけです。


しかし、それが「民主主義」自体の問題であるのならば、それは、現時点での「政治や社会」の問題とも言えないところがあるわけです。


現時点での「政治や社会」は、現行の制度を尊守するべく設定されているわけですから、その「政治や社会」自身が、それを根本から変えることはなかなかできないわけです。

だから、「民主主義」が正常に機能していなくても、「民主主義政治」は、その機能していない「民主主義」を守り続けるでしょうし、「社会」も常にそれを支持するわけです。


その結果、「民衆」という「独裁者」が生まれてしまっているように思うわけです。

※ここで言う「民衆」とは、「みんな」という意味の「民衆」ではなく「誰でもない者」
 としての「民衆」です。
 「みんなの意思」は「個人の意思」に帰結しますが、ここで言うところの「誰でも
 ない者の意思」は、「個人の意思」を無視します。

「民衆」を「独裁者」なんて言ったら怒る人もいるかもしれませんけど、「独裁政治」の下では、「独裁者」を「独裁者」と言っても怒られるわけです。


つまり、「民主主義」ですから、一応何でも「民衆」が決めていることになっているわけです。

ところが、それが機能していませんから、時として暴走して”トンチンカン”なことをしたりするわけです。
そして、それも全て「民衆」が決めているということに成っているわけです。


そして、自分たちが決めている”ハズ”になっていることの”デタラメさ”にいら立って、みんな『政治が悪いんだ』と言っているわけです。


一人の人間が独断で「政治」を行えば「独裁政治」になります。
一部の人間の利益に偏った「政治」が行われれば、「利権的な政治」ということです。

そこのところを、すべての人の意思が”均等に”反映されるという前提で「民主主義政治」になるわけです。
そして、これを有り難いものだと信じているわけです。


ところが、それが機能していないということになると、当然、すべての人間の意思が反映されることはありません。

それだけなら、まだいいんですけど、場合によっては誰の意見も反映されていない、なんていうこともあるわけです。

『”均等に”誰のためにもならない』という感じです。


つまり、「民衆」という”誰でもないもの”の意思ですべてが決定されてしまうという、特殊な「独裁政治」が生まれてしまっているわけです。

”みんなの意思”とはまた別の「民衆の意思」があるということです。


現在の「民衆の意思」は、その「民衆」を構成している一人一人の人間の意思を明らかに無視しているときがあります。
”踏みにじられている”と感じられることすらあるわけです。

それなのに、なぜか元をたどっていくと、キチンと「個々の民衆の判断」によって成り立っているということになっているわけです。

つまり、「人民の、人民による、人民の為の判断」が、その「人民」を”踏みにじっている”わけです。
(みんなで寄ってたかって意見を出し合った結果、”誰も望んでいない”結論に達してしまうというようなものでしょう)


要するに「独裁者」も「民衆」で、支配されているのも「民衆」ということです。

「独裁者」である「民衆」は実体のない形式上の「民衆」という亡霊のような存在です。
実態はありませんが、その「意思」だけが存在します。

そして、支配されている「民衆」が、実体としての「民衆」なわけです。


「社会主義・共産主義」はすでに崩壊していると言わざるを得ませんが、実は、それと同時に「民主主義・自由主義」も崩壊してしまっているように思われてならないのです。

少なくとも、現在の状態のままの「民主主義・自由主義」では、現代社会の中で、それを正常に機能させることはできないのだと思うわけです。


ですから、最も重要なのは「民主主義」が正常に機能することができるような状態を作り出すことで、それには、形骸化してしまっている「多数決」を有効にしなくてはならないわけです。


私は、陪審員(裁判員)制度のような、少人数の無作為に選ばれた人による決議を採用する勇気が必要だと思っています。


これは「全員参加」という建前を無視しているわけですが、その他の建前も全体的に崩壊しているわけですから、そこだけ守っても、どうしようもないと思うわけです。


もちろん「全員参加」の領域も残さなければならないでしょうが、そこでの「全員参加」と「無作為抽出サンプル」の関係は、「参議院」と「衆議院」のような関係になるわけです。

それをもっと明確に色分けした形ということでしょう。


あまりに多くの人間が集まって、何か決めると”ロクデモナイ”ことしか出てこないというのは事実だと思います。


人間は「社会」の中でしか生きられないと思いますから、「社会」の影響を受けやすいと思うのです。
だから、「社会」の中に投入された人間は、その影響で歪んだ判断しか下せなくなってしまうわけです。


「三人寄れば文殊の知恵」と言うのは「三人」だからいいわけで、「百人」ではダメなんだと思います。

それはどちらかと言えば、「船頭多くして、船、山に登る」なわけです。


人が意見を出し合って何かを決める場合、「協調」すれば、「足し算」に、「共鳴」し合えば、「掛け算」に成りますが、「妥協」すれば「プラス・マイナス・ゼロ」に成るし、「競争」すれば「引き算」に、「敵対」すれば「割り算」に成ります。
(「競争」で高められるのは「個人の能力」であって、「組織の機能」ではないと思います)


集められる人の数が多ければ多いほど、「協調」や「共鳴」は難しくなるわけです。

「協調」や「共鳴」は、もともと、狭い範囲で起きるものであって、”たった一人”の発する「不協和音」がすべてを”ノイズ”に変えてしまいます。

人の数が増え過ぎると、その「不協和音」が、いかなるものであるのかを検討しきれなくなってしまいます。
それで、結果的に、たくさんの音がでたらめに鳴り響いている状態になってしまうわけです。

それでは、共鳴作用が起きるわけがありません。


そこで、「個人」としての人間の判断を生かしていくほうがいいように思うわけです。


だから、いろいろなことで「個人」を切り離していけるようになればいいように思います。
「社会」の規模が大きすぎて「個人」が消えてしまっているわけです。

「社会」を小さく切り取って「抽出」したサンプルの中では、「個人」がようやく見えてきます。


だいたい、教育の現場で「個性」と言われだしてきてから、日増しに「没個性化」しているように思えてなりません。

それは、「個性」と言う言葉で、「社会性」と「個人性」が、あたかも簡単に両立できるものであるような、幻想を人の心に植え付けてきたからだと思うわけです。


そして、「個性」「個性」と言いながら、実はそこで植えつけてきたのは、「社会性」という「個性」とは相反するものだったということだと思うのです。


「個人」でよかったんじゃないかと思います。

”社会的”であると同時に”個人的”であると言うことが、極めて困難なことであるということを、そして、その二つは反駁し合うものであることをもって、お互いを必要としていることを、教えるべきだったんじゃないかなと。

”社会的であるべき”という妄想が、「民衆」という「独裁者」を作り出してしまったのかなと。


そういう空想を抱いててみました。





現在の「多数決」は「伝言ゲーム」のように成っていると思うのです



前の記事で、「現在の多数決は機能していない」と書いたのですけれど、どう機能していないと思うのかについて書いてみたいと思います。


まず、「代議員制度」です。

これが、現在の国家規模での「多数決」のほとんどの部分を占めていると言ってもいいと思います。
しかし、この「代議員制度」には、かなり無理があると言わざるを得ません。


「民衆(国民)」は、自らの意思を反映させるために、選挙に投票します。
つまり、その「民衆の意思」は”票”と言う「伝言」となって伝えられるわけです。

その結果選ばれた代議員が、その”票”から受け取った「伝言」を議会に伝えます。
その議会でも、また「多数決」で議決が下され、そこで決定されたことが、さらに~、さらに~と延々と、受け継がれていった「伝言」が、人から人へと伝えられて行ったその最後の所にやっと「国家行政」が出て来るわけです。


これは、もう「伝言ゲーム」に成ってしまっているわけです。


もともと、「伝言ゲーム」が面白いのは、はじめの話が、思いもよらないほど”バカげた”ところに行き着いてしまうからなわけですが、それと同じようなことが「社会」や「政治」の場で行われているということに成るわけです。

そこでは、とても”一票の価値”などあったものではありません。

もともと、現在の巨大化した「社会」において”一票の価値”はあまりに希薄です。
そのあまりに希薄な価値ですら反映されないわけです。


だいたい、現状では”一票の価値”を実感できる機会は全くありません。
このような状態の中で、いくら『真面目に考えて投票しましょう』と言っても、それが意味のあるものに成ることは無いでしょう。

つまり、「多数決」と言っていますが、実際にやっているのは、「誰のものでもない意思」を作り出す「伝言ゲーム」に他ならないわけです。


そして、それを「民主主義」と言っているわけです。

いったいどこに「民衆」が居るのですか?

どこの所に「民衆」が参加しているといえるのでしょうか?


「世論」と言っているものだって、結局「与えられた教育」や「与えられた報道」と言ったマスメディアによって作られた半ば”お仕着せ”のもののように見えますし、そこには、本当の意味での「個人」が見えてこないわけです。


と、まぁ、こういう感じで「多数決」は機能していないんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけですが、「個人の判断」に身を委ねる勇気を持つことが出来れば、そして、それが間違いを犯したときには、それは「必要な誤り」であると認めることができれば、「多数決」そして「民主主義」は、初めて意味を持つものとなるような気がします。


現在は、政治家が間違いを犯したことにしてしまいがちですが(そして実際にも、そうとしか言いようのないケースは多いわけですが)、「民衆が間違えること」が必要なのだと思うのです。

現状において、「民衆」には「正しい選択の権利」はおろか、「間違える権利」さえ与えられていないということです。


もともと、「民主主義」は成り立ってなどいなかったように思うのです。

それは、世界の中の”不均衡な力関係”に支えられていて、一見成り立っているかのような体を成してはいましたが、実体としては、「奴隷制」や「植民地政策」さらには「労働搾取」と言った、「民主主義」の理念とはどう見ても相反していると思われるようなものの上に成り立っていたのだと思うのです。


つまり、貧しい国から吸い上げた利益で潤った「先進国」では、「民主主義」や「多数決」に不備があっても、豊かさでカバーされていたということです。

そして、都合のよいことに、「豊かな国」からは「貧しい国」が見えず、「貧しい国」からは「豊かな国」が見えないようになっていたわけです。

ところが、それが、どちらからも見えるようになってきてしまったわけです。


そんな風にして、それらの”不均衡な力関係”が崩壊してきて「民主主義」自体も、そのメッキが剥がれてきたのだと思います。


実は、「民主主義」はこれから始まるのだと思っています。

そして、それは恐らく”ラクチン”なものではないように思うのです。

「自由」・「平等」と言うものは、そして「平和」でさえも、結構”ツライ”ものだと知るべき時が来ているのかも知れません。


それでも、それをやりますか?
それとも”野蛮”な時代に逆戻りしますか?

ということなのかなと。


そんな風に考えています。





「理性」と「本能」はもう対語ではないと思うのです



「理性」と「本能」といえば、対語ということになっているわけですけれど、現在の人間においては、事実上、この二つが反対の意味ではなく成ってきているように思われるのです。


もちろん、今でも先天的、遺伝的に受け継がれたものを「本能」といい、その「本能」を抑制するものを「理性」と言っていることに変わりはないわけですから、対語である要素も十分に残ってはいるわけです。


しかし、その反面、「理性」とされてきた部分が「本能化」していると感じることがあるわけです。

たとえば「言語」ですが、人間は誰にも教わらなければ「言語」を使って話すことはないのでしょうが、「親」が「子」に話しかけることも、「子」がそこから「言語」を学び取ることも、もはや、極めて「本能」に近い行動ではないかと思われるわけです。


これは、何を「本能」として、何を「理性」とするかという学術的な話ではありません。

ただ単に、「親」が「子」の初めて歩く様子を見て、『立った、立った!』と言って喜ぶのと、初めてしゃべるのを見て『しゃべった、しゃべった!』と言って喜ぶのは同じ事だろうということです。

そこで、『「立つこと」は「本能」で「しゃべること」は「理性」である』ということには意味がないように思うということです。


これは、何も、今にしてそうなったということでもないと思うのですけれど、その「言語」によって、「論理」を構築することですら、「本能」に近づいてきているということになると、もう、そこに「本能」と「理性」を明確に分け隔てる線を行くことはできなく成ってしまうわけなのです。


つまり、かなり隔たりがあった「本能」と「理性」の間が接近してきていたり、その隔たりがいろいろな要素で埋められてきていて、分けることが難しくなってきているように思うのです。


少なくとも、様々な意味で、人間は「理性」がないと生きられなくなってきていると思うのです。

確かに、「理性」がなくても最低限の「生命維持」はできるでしょうが、それは、人間としての「生きる」ではなくなってしまうわけですから、その状態を、「本能」と呼ぶということは、「本能」だけでは、人間が人間として「生きられない」という矛盾が出てきてしまうわけです。

つまり、それは動物の種として見た「人間」が「理性」を必要とする種に成ったということだと思うのです。

要するに、「理性」も一つの「欲望」でもあり、「欲求」でもあるということです。
そして、それが「本能的な欲望や欲求」に近く成ってきているわけです。


それは、「本能的な欲望」を抑制している一方で、「本能化した理性」の要求を満たそうとする動きに他ならないわけです。

でも、これは崇高であった「理性」が、動物的な「本能」に成ってしまって残念だという話ではなくて、むしろ、「人間」が全体的に「理性的」に成ってきたんじゃないかという話なわけです。

そして、どうせなら、もう少し進めて「理智的」ぐらいに成ったらいいんじゃないかと思うわけです。


「理性」か「理智」かは、ただの言葉のアヤに過ぎないわけですが、せっかく、「人間」という「種」が身に着けてきた「理性」を使って、ものごとの「本質」を見ようとする意識を持てば、それが「理智」になるのかなと。

逆に言うと、「理性」ばかりで「智」を持とうともしないということは、

「理性」が「本能」に成った今となっては、「本能マルダシ」と言うのと変わらないことに成るのかなと。
(もしかすると、そういうのを「スノッブ」と言うのかもしれませんね)


そんな風に思います。




「ストレス社会」



「ストレス」は現代最悪の「病」だと思っています。

ほとんどすべての病気が「ストレス」と無関係ではないと思います。


そう言っても、ただ単なる「負荷」という意味で、この言葉を使っている場合もありますから、その場合は、これに当てはまらないこともあると思います。
でも、それとは違って、逃れられないような「ストレス」や、そこから逃れると、また違う「ストレス」が発生するような「ストレス」と言うのは、正に「万病の素」であって、『百害あって一利なし』だと思うわけです。


そして、恐ろしいことに現代と言う時代は、その「ストレス」がはびこった、まさに「ストレス社会」であると言わざるを得ないわけなのです。


社会や経済というものが、あまりにも効率や能率、採算性等を重視してきたために、「ユルサ」がまったく無くなってしまったわけです。

ある時点から、「ユルサ」をマイナスと捉えてしまったわけです。
それは、つまり工業化が始まってからではないかと思うのです。

まぁ、いわゆる「産業革命」が起きてからということだと思いますけど、全てのことが効率によって判断されるようになってしまったわけです。

要するに、機械化が進んで、機械の方が「主」に成り、人間の方が「従」になってしまったということです。
効率的である機械に、人間が合せさせられてしまっているんだと思うのです。


でも、「機械の正確さ」、「機械の速さ」、「機械の”疲れを知らなさ”」
そんなものに合わせていたら、人間は参ってしまうわけです。

人間が”楽”をするために機械を使ったはずなんですけど、いつの間にか、廻り巡って、人間が機械に合わせるような仕組みになってしまっているわけです。

それで「ストレス」が蔓延して、その「ストレス」が、また「ストレス」を生み出してしまっているわけです。


そして、現在はそういう「ストレス」を人になすり付けて、その瞬間に息を継いで、やっと生き延びているような状態なのだと思うのです。
なすり付けられたら、その人もまた誰か他の人を見つけてそれをなすなすり付ける。
そして息を継いで、やっと生き延びる。

そんな状態ではないでしょうか?


もし、受けた「ストレス」を人になすり付けずに、自分で受け止めてしまえば、一気に「病」へ引き込まれます。
それが現在の状態なのだと思うわけです。


要するに、機械と人間の主従関係を逆転させて、元に戻さなければいけないわけです。


なんと言っても「オートメーション」と言うのがいけないような気がします。

要するに「無人」であることがよくないと思います。
人が居ないと成り立たないシステムが必要なのです。

人が居なくても成り立ってしまうシステムを増やし過ぎたために、人が蔑(ないがし)ろにされるようになって、いつの間にか機械が「主」に成って、人間が「従」にされてしまったのだと思います。

その辺を、人間主導で調整していかなければいけないと思うわけです。


人が関わらずに運行されるようなシステムを制限する必要があるんじゃないでしょうか?
そうしなければ、決してこの「ストレス社会」から抜け出すことは出来ないように思います。

「ストレス」があるということは防ぎようのないことですが、それが社会の主流と成ってしまっていることは、防ぐことが出来る」ハズだと思います。


気が付いた時点でそれをやる。
それが人間にできる事なんじゃないのかなと。


そんな風に思います。







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「マイペースな時間」



世の中に、「マイペースな時間」と言うものが無くなってしまったような気がしてならないわけです。


社会の中で働いている時の人もそうですけど、家事労働などにおいても、あるいは時として、ただ単に道を歩いているだけでも、「マイペースな時間」で行動している人が少ないように思うわけですね。


例えばの話、家電製品の普及などによって、家事労働にかかる時間は飛躍的に短縮されたはずなのに、どう見ても、昔の人よりも今の人の方が”時間に追われている”ように見えるわけです。

これは自分自身にも言えることですが、どう考えても24時間が、”足りない”と感じてしまう時があるわけです。
一日で一日分の作業ができないというんでしょうか。


このことは、仕事などで時間的に拘束されていることとは、必ずしも関係が無いように思います。
むしろ、時間的な拘束のない主婦や自営業の人の方が、いっそう「マイペースな時間」を失っているように見える時も多いように思います。

逆に、仕事で拘束されている時間内の方が、かえって「マイペース」に成っている人と言うのも居たりするような気もします。


勤務時間中は、かなりな「マイペース」で仕事をしている人と言うのは結構たくさんいると思いますけど、その人が、タイムカードを押して時間的に自由になった途端に、明らかに「マイペースじゃない歩き方」に成るということは、よくあるんじゃないかと思うわけです。


たぶん、「マイペース」と言うのは、時間的な「ゆとり」ではないんじゃないのかなと思うわけです。

じゃあ、”ナニ的”な「ゆとり」なのかと言えば、「欲求」の「ゆとり」なのだと思うのです。
つまり、「欲張りな人」は、いつも「マイペース」ではいられなくなってしまい、「欲が無い人」は、どんな状態でも、だいたい「マイペース」です。


例えば、1時間かけてやっていた作業を、電化製品などを使うことで10分で終わらせることが出来るようになったとしても、「欲張りな人」は、余った時間をすぐに何かほかのことで埋めてしまうわけです。

やることは増えますけど、「マイペース」な時間は増えません。


「欲が無い人」は、逆に10分で終わるはずのことが1時間かかったとしても「マイペース」です。


そして、この「マイペース」な時間を持っている人が、少なくなっているように思うわけです。
つまり、「欲張りな人」が増えているということです。


でも、これが悪いことだとは思いません。

むしろ、「意欲的」という意味ではいいことなのかも知れません。
ただ、それがうまくコントロールできていないという感じはあるわけです。

要するに、いろんな「欲求」を植え付けられてしまっているわけです。
ただ、漫然と生きていてはいけないんだと思わされてしまっているわけです。

この”思わされて”がよくないように思うのです。


自分の基準で、ただ単に漫然と生きていてもいいように思いますし、かなりのところまで「欲張りな生き方」をしてもいいように思うわけです。


でも、それが人に植え付けられた基準に基づいたことだとすると、それが「マイペース」であっても「欲張りな生き方」であっても、どっちにしろ、それは、「マイペース」ではないんじゃないのかな?と思ってしまうわけです。


つまり、「マイペースなマイペース」もあるし「マイペースじゃないマイペース」もあるということです。
逆に言うと、「マイペースなマイペースじゃない」も
「マイペースじゃない、マイペースじゃない」もあるということに成ります。
(↑たぶん、イミガワカラナイでしょうが、三回読めばわかると思います。)


要するに、自分の基準で「そのマイペース」を把握できていればいいんじゃないかと思うわけです。

「そのマイペース」が”アウト”なら、止めちゃった方がいいと思いますし、
”セーフ”なら、続けてもやめても、どっちでもいいのかなと思うわけです。


ただ、「マイペース」が何か生み出すとも限りませんし、「欲張りな生き方」が何か生み出すというわけでもありませんから、その時々で好きな方を選んでいいんじゃないかなと。


『こんなの、どうせ、読んだ人には意味が解らないんでしょうねぇ』

『だから、なに?』

という「マイペース」など。



「ホームレス」と言う民族?



「ホームレス」と言うと、「社会のヒズミ」の象徴のように言われることが多いわけですけど、そういう側面とは別に、「ホームレス」には「民族」としての側面があるのではないかと思うことがあるわけです。
(そういう側面がもともとあったというよりも、新たにそういう性質が出てきたということかもしれませんが)


例えば、「遊牧民族」と言う人たちが居るわけですが、彼らが遊牧生活を営んでいる場所に、コンクリートのビルやアスファルトの地面や鉄道や自動車といった交通、そういった都会的なものが、進出してきたら、どうなるんでしょうか?

まぁ、実際には、かなりの時間がかかって都市化が進みますから、徐々に、「遊牧民」が「都会人」に成り変わってしまうというだけなんでしょうね。


でも、もし仮に「遊牧民」が、まったく「都会人」に成らずに、「遊牧民」のマンマだったら、テント(?)を持って移動しながら生活するようなスタイルを一切変えずに暮らし続けたら、コンクリートの中で、彼らは完全に浮き上がった存在になってしまうでしょう。

要するに、その彼等って「ホームレス」なんじゃないかと思うわけですよね。


一見すると、「都会」の中からはじき出された人が「ホームレス化」しているように見えるわけですけど、実は、彼らは「遊牧民」で「都会」の方が彼らの生活圏に進出してきたんじゃないかなと。

「ホームレス」の人たちは、別に羊なんかは飼ってませんから、「遊牧民」と言うのも違うと思いますけど、彼らは、ある意味では、「ホームレス」と言う”民族”なんじゃないかなと思うわけです。


もちろん、そんなことで「ホームレス」が急増している状況から目を背けようというわけじゃないんですけどね。

意外と「ホームレス」の人が、そんなに不幸そうでもないように見える時があるんですよね。
(あくまで、そう見えるときもある、という話ですけどね)

幸福そうと言うわけでもないですけどね。
かなりの人が、自分で選んでやってるんじゃないかなって感じる時があるんですよね。

確かに、抜け出したいのに抜け出せなくなっている人もたくさんいるんだろうと思います。
ただ、意外とストレスを感じないで生活している人もいるんじゃないかと思うわけです。
(髪ふさふさな人が多いような気がするんですが、気のせいでしょうか?)


どっちかって言うと、それを回りで見てる人たちが、ものすごく悲惨で可哀相なことだと決めつけて見ているような気もするんですよね。

要するに、自分の成れの果てみたいなものを見せつけられているようで、それを見たくないから、なんとかして「ホームレス」のいない世の中、つまり「ホームレス・レス社会」を作ろうとしているというところもあるのかなと。


でも、もし仮に「ホームレス」が一種の”民族”に近いものであるとしたら、彼らの「民族性」も、少しは理解されてもいいんじゃないかと思うんですね。

手を差し伸べて助けようとしてるのに、そんなこと言われたら、たまったもんじゃないでしょうけどね。


でも、ことさらに助けようとすることは、必ずしも助けにならないんじゃないかなと。

それから、そう考えると、勤労や納税の「義務」を果たしていないことを強く攻めることも、あまり意味がないのかもしれません。
「遊牧民」ならば、現金収入がなくても、自分たちの生活さえ回して行けていれば、責められることはないのでしょうから、もし「ホームレス」が一つの”民族”としての性質を持っているんだとしたら、それと同じように、彼らは自分の生活だけ回していければ、いいのかもしれません。


そういう意味を踏まえた上で、「民俗的共生」が実現すれば、いいんじゃないかなと思うわけです。

ということで、また、随分極端な話ではありますが、そんなことを考えたりもするわけです。



「小さな自分」を確信すること



『宇宙の中で、人間の存在などと言うものは、小さい点のようなものなのだ』とはよく言われることですが、そう言っている時も、実は、なかなかどうして、そういう「小さな自分」は、確信されてはいないのではないかなと思うわけです。

つまり、それは「宇宙」や「自然」との対比でもって、「自分の小ささ」を認めざるを得ないというだけで、実態としては、相変わらず人間にとっての「自己」はとても肥大化しているように思うわけなのです。


そういう「肥大化した自己」を破壊して、「小さな自分」を再発見し、さらには、それを確信することで、人間は自己の中の人間性をも確信することが出来るようになるんじゃないかと思うのです。


そうすれば、「人間」にとって重要なのは、「人間性」であって、それ以外のものは、ほとんど必要ないということが見えて来るんじゃないかと思うわけです。


要するに、「人間の幸福」を生み出すのは、唯一「人間性」であって、他の物ではないということなんじゃないかなと。

だから、その「人間性」を重視しないということは、人間にとって「幸福」をあえて遠ざけているということに成るんじゃないのかなと。


「人間性」が「100」で、その他は「ゼロ」ですね。


そういう考えで、だいたいのことをやっております。




「不便」の選択




「不便」と「便利」だったら「便利」を選ぶのが普通なわけですけど、そこで、敢えて「不便」の方を選んでいこうということなわけです。


人間の生活と言うのは、常に「不便」と「便利」の二者択一を迫られているのだと思うわけです。

一見すると、ほとんどの人が迷わずに「便利」を選択しているように見えるわけですけれど、実は人間の思考の中では、いつも「不便を選ぶこと」への誘惑との戦いがあるように思うわけです。


言葉の上で、「簡単で便利なこと」と「不便でやり難いこと」と言われれば誰だって、「簡単便利」をえらぶわけですが、実のところ、その「簡単便利」と言うのは、「お手頃廉価版」でもあるわけです。

要するに、「上等なもの」と言うのは、何かしら「不便」の要素を併せ持っている場合が非常に多いわけです。

そして、そういう「上質」なものの持っている「不便さ」には、ただ単に”使いにくい”と言うような「単純な不便さ」とは違った”あじ”があるわけです。

そう考えていくと、たまたま「上質なもの」が「不便さ」を持っているのではなくて、実は、「不便」そのものが一種の「質」なのではないかとすら思えて来る時があるわけです。


例えば、ゲームなんかでも、難しくて達成しにくいものの方がオモシロイのでしょう。
つまり、そこでは「不便」が一種の「質」であるわけです。

そんな風に考えていくと、無条件で「便利」を選んでしまうことは、ちょっと、”ソン”なようにも思えてくるわけで、どちらかと言うと、実際上やむを得ない場合に、仕方なく「便利」を選択しているというぐらいで丁度いいんじゃないかと思ってしまうわけです。


少なくとも、現在は世の中が「便利過ぎ」だと思うわけですよね。

「不便」の方がベースで「便利」の方がオプションなくらいでいいんじゃないのかなと。
それじゃないと「便利」の”有難み”もわからなくなってしまうような気もしますし、第一、人間が考えなくなってしまうんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。





「拘束」を解かなければ「解放」されることはない



現代社会で生きるということは、この世に生まれた時点から始まる、さまざまな「拘束」の中で生き続けるということなのだと思うのです。


人間を取り巻く「拘束」や「束縛」は、現代に限ったものでもないのでしょうが、「教育」がシステム化することによって生み出されている「拘束」が非常に多いと考えますので、その「教育の制度化」が進んだ現代においては、一段と「拘束」が生み出されてしまう比率が高くなっていると思うわけです。


人間はほかの動物と違って、制度化された「教育」を必要とする生き物になっているわけです。
人間としての最低限度のルールや道徳といったものを身に着けるだけでも、「なんとなく親が教える」だけだと追いつかなくなっているわけで、やはり、それはシステマチックな「教育」による以外ないということに成るわけです。

ところが、この「教育」によって刷り込まれる概念が、ある意味では、人間を「拘束」するようになってしまうわけです。


つまり、システマチックに「教育」されますから、どうしても、それぞれの過程を表面的な理解で通過していってしまうわけです。
単なるルールとしてならば、、それでいいのでしょうが、本質を理解されずに無条件に刷り込まれてしまうので、応用が利かなくなってしまうことがあるのだと思うわけです。


そうして、その「教育されたこと」が時と場合によっては「拘束」となってしまうということなのでしょうね。


しかし「教育」の場で、物事の本質に至るところまでを、「教育」するということは、なかなかできないのでしょうから、自分が「解放されたい」と思うならば、一人ひとりの人が、あえて「拘束」を解いていかなければならないのだと思うわけです。


かといって、もともと生きていくために必要があって、「教育」によって与えられた「拘束」ですから、むやみに解き放ってしまうと、社会から逸脱してしまうわけです。

そこで、独力で物事の本質を理解することが必要になってくるわけです。
理解したうえで、「必要なこと」だけを残して、「拘束」になっている部分を切り捨てていけばいいわけでしょう。


いずれにしても、自分で「拘束」を解くという意識を持たないと、無条件に刷り込まれて潜在化した「拘束」を解くことは難しいのかなと。

つまり、「自由」が与えられていても、「自由」になれないということですね。


そんな風に思っています。





「正しい」を増やさないほうがいいと思うのです



現代の社会というのは「規範」が多様化しているために、その社会の中で生きる人間たちは、常に複数の「規範」に縛り付けられて、「自由」でいることが難しく成ってしまっているわけです。


もともと、一つの社会に一つの「規範」で、ある程度、統一されていた時代ですら、人間が「自由」であることは難しかったのでしょうが、現代においては、様々な「規範」が錯綜した社会の中で、その都度立ち場の違う人から、その人の都合に合わせた「規範」を要求されてしまうために、常に複数の「規範」に締め付けられている状態になってしまっているわけです。

しかも、そういったことを、それぞれの人がお互いにやり合っている状態ですから、単純に『あの人が間違っているんだ』と決めつけることもできないわけで、結果的に、その状態が放置されてしまうわけです。


だから、できるだけ「正しい」は一つにしたほうがいいように思うわけです。
と言っても、これだけ「正しい」がふやされてしまっていますから、なかなか減らすことはできないので、せめて、一人の人の中では、一つの「正しい」を持っていたほうがいいように思うわけです。

つまり、自分の生き方の指針みたいなものですね。
現代人は、これを時と場合によって使い分けてしまっていることが多いんじゃないかと思いますね。


本当のことを言えば、「これが正しい」ということを規定することなどできないとも言えるわけで、それは、世の中をスムーズに運営していくための「便宜上の正しい」なわけですから、なにも、たくさんある必要はないんじゃないのかなと。

「便宜上の正しい」に振り回されてしまうことは、本末転倒なんじゃなかなと。


そんな風に思っているわけです。




「認知症」について



4月19日の記事の続きに成ります。


「認知症」っていうのは、いま言われているのとは少し違うものなんじゃないかと思うわけです。

 ※前の記事で、高齢者が意図的に選択して”ワザト”「認知症」に成っている
  とも取れるような言い方になっていたかもしれませんが、そういうことではあ
  りません。
  あくまで、本人は無意識のうちに「認知症」と言う選択肢を選ばされてしまう
  という意味です。


まず、「認知症」と言うのは、いくつかの種類に分けられているようですが、「脳」が委縮したり、変性したりすることによって、「脳機能」が低下して、「認知障害」が現れるという点では、ほぼ共通なんだと思うわけです。

でも、前の記事で書いたことですけど、場合によっては、それが根本的な原因でもないんじゃないかと言う気がするんですね。


「脳の委縮」などによる「機能低下」、そういう医学的なことよりも、「社会的な影響」の方が大きいんじゃないかと思うんですよね。
むしろ、その結果として「脳機能」が低下するような状態に至ってしまうのではないかなと。

つまり、「認知症」のかなりの症例は、「医学」とともに「社会学」の守備範囲でもあるんじゃないかと思うわけです。
と言うよりも、ケースによっては「医学」をもって判断を下すこと自体が、”見当違い”な場合すらあるんじゃないかと思うんですね。


例えば、「すさんだ環境」で育った人間が、「すさんだ考え」を持ってしまうことが統計的に多かったとしても、それは、「医学」ではなく、「社会学」や「社会心理学」の範囲で考えるべきものでしょう。

もし、その「すさんだ考え」が「病的」と言えるほどのものであれば、それを、一種の「病理」と捉えることもできるでしょうが、あくまで「社会的現象」があっての「病」でしょう。


現在の「認知症」には、それと同じような性質があると、私は考えるわけですね。


そもそも、人間は、本来与えられるべきもの、例えば、「両親の愛情」とか、「最低限の環境」とか、「成長に必要な食糧」などですね、それらが与えられずに育った場合、必ずと言っていいほど、その人の人生に「影響」が現れてくるものでしょう。

それらのことを、全てその人の責任とは言えないでしょうし、その人本人の力だけでは、その「影響」を排除することは困難なのだと思います。
(稀には、それができる人もいるでしょうが、それはまた別の話でしょう)


そして、それと同じように、高齢者の「認知症」についても、高齢者に必要最低限の「尊敬」や「役割」が与えられていないから、その「影響」が出てきているのだと考えるわけなのです。

そして、そこから本人の力だけでは抜け出せなくなっているわけです。


『そういうのと、「脳の委縮」みたいなものは違うだろう』と言われるのかも知れませんが、実際に、幼い時期に「愛情」が与えられなかっただけでも、「脳の発達」に限らず「身体的な発達」にだって影響が出ることも、十分にあり得ることだとなんだと思うわけです。

違うのは、「子供は発達期間」にあるのに対して、「高齢者は衰退期間」にあるということです。
どちらも、状態として「壊れやすい期間」にあるということは同じなんじゃないでしょうか?

要するに、そういう「壊れやすい期間」に、必要な環境が与えられないことによる「影響」が、「認知症」として現れてきている症状なんじゃないかと思うわけです。


もちろん、「脳の萎縮」による「認知症」と言う側面はあるでしょう。

でも、それは、あくまで結果として「脳萎縮」が「加速度的進行」に至るということであって、原因としては、むしろ、社会の中で高齢者が置かれている立場による「[影響」の方が、大きいんじゃないかと思うわけです。


『頭を使っている人は”ボケ”ないんだ』などと言われていますけれど、それに当てはまらない事例はとても多いと思うのです。


私は、『歳をとることを心から”尊敬”している人が”ボケ”ないんだ』と思っています。
言い方を変えれば、『”ボケること”を”尊敬”していれば”ボケ”ない』ということなのかも知れません。

まぁ、”尊敬”していれば”ボケること”をコトサラニに恐れる必要も無く成るのかも知れないですけどね。


社会が「高齢者」を「尊敬」していない現在の状況の中では、個人としては尊敬されていて「頭を使っている人」でも、本人が「歳をとること」を「尊敬するべきもの」として捉えることが難しくなっているわけですね。


やはり、高齢者に対する「尊敬」と言うのは、「必要最低限のもの」と考えた方がいいんじゃないかと思うのです。


個人的に「尊敬できる人」もいれば「尊敬できない人」もいるのは”当たり前”ですが、やはり、「高齢者全般」は「社会全般」から「尊敬される存在」であった方がいいんじゃないかと思うわけです。


これが徹底されれば、「認知症」は減ると思いますし、それが出来なければ、「認知症」は減らないと思います。


もし、こういうことが社会的に徹底されて、

それでもなお、残った「認知症患者」が居れば、その人だけが、本当の意味での「認知症」なんじゃないのかなと。
(かなり、少なくなると思いますけど)


そんな風に思っています。





「幸福」について



現代における「幸福」って、いったい何なんでしょうね。


だいぶ前だったら、「お腹いっぱい食べられること」くらいでも、十分「幸福」だったんだと思うんですよね。

でも、いまだったら、それだけで十分「幸福」だと思える人の方が少ないかも知れませんね。

その前に、『そんなに食べたら、体に悪い!』とか、『ダイエットしなきゃ』とか、考えることが山ほどありますから、『お腹いっぱい食べられることって幸せだなぁ』なんて言っている余裕は無いというところでしょうか?


いずれにしても、現代においては、

「物質的な豊かさ」だけでは「幸福」を感じられなくなってきているんだと思うわけです。
つまり、「精神的な豊かさ」を求めているわけですね。


ところが、世の中、そう上手くはいかないもので、「精神的な豊かさ」と「物質的な豊かさ」が、なかなか両立しないわけです。
それで、現代人は「幸福」から遠い位置に立たされてしまっているように思うわけです。

両方手に入れたいという気持ちがありますから、どちらかを選択することで、もう一方を失ったように感じてしまうわけですよね。
だから、一方を得ていても、十分に「幸福」だとは思えないということでしょうね。

そこで、片方を”キッパリ”捨ててしまえばいいんだということですけど、やっぱり、『言うは易し、行うは難し』なわけです。


そんな中で、「現代の幸福」とは一体なんなんだろうかと。


おそらく、それは「人とのつながり」ではないかなと思うわけです。
「人間性」と「人間性」のかかわりですね。

要するに、「人間の表面」ではなくて、「人間の中心」に近い部分での「かかわり」ということですね。


おなじ「精神的な豊かさ」の中でも、唯一、「物質的な豊かさ」を犠牲にしても”オシイ”と思わないでいられるもの、それが「人とのつながり」だと思うのです。

これを、他の「精神的な豊かさ」と同等に扱ってしまうと、同じように見えてきてしまって、同じように”オシイ”になってしまうんだと思うのです。


この「人とのつながり」を失ってしまうと、どんなに、物質的に豊かになっても、また、他のことで精神的に豊かになっても、結果的に、「幸福」は得られないような気がするんですね。


だから、この「人間性」とか「人間的な関係」と言った「人とのつながり」を、その中でも、特に「人間の中心」における「人とのつながり」を他のこととはっきり区別して、重視していく必要があると思うわけです。


それだけでも、少しは「幸福」に近づけるんじゃないのかなと。


そんな風に思います。




「〇〇主義」の盲点



「共産主義」や「社会主義」が、実質的に形を成さないものに成ってから久しいわけですが、実は、それらとともに「資本主義」や「自由主義」も崩壊していたのだと思うわけです。


まぁ、今のところ「替わるもの」が無いので、それを続けているのでしょうね。


取り敢えず、今の世界を見渡してみると、「共産主義」や「社会主義」を掲げている国でさえも、ほとんど「資本主義的」になっていて、かろうじて残っている政治体制にしがみついているだけのようにも見えるわけです。

そんな風に、世界中に蔓延している「資本主義」ですけれど、そこには、盲点があるように思えるわけです。


「資本主義」ですから当然なんですけど、「資本」に「権力」が与えられてしまうわけです。


つまり、「金の力」ですね。
「金にモノを言わせること」ができるようになっているということですね。


そこで、厄介なのは「金の力」を持っているのは「金を持っている人」と言うよりは、「金」そのものだということです。
人ではなく「金」=「資本」が「チカラ」を持っているという方が正確だと思うのです。

つまり、「人」は二の次ということですね。


「社会主義体制」の下では、「国家」や「社会」という「体制」が、

その「チカラ」を持つことに成って、やはり「人」が蔑ろにされるように成ってしまったんだと思います。


いずれにしろ、今は世界中で「人」以外の「チカラ」がまかり通るようになっているわけです。
つまり、『人を大切にしましょう』と言う「キレイゴトの通じない世の中」に成っているわけです。


「資本主義」においては「金のチカラ」がまかり通る世の中になってしまっています。
「社会主義」や「共産主義」でも、似たようなモンだったんじゃないかと思うんですけど、「キレイゴト言ってたわりに、やっぱり通じなかった」ってことなんじゃないでしょうか?

でも、やっぱり出来れば「キレイゴトが通じる世の中」を目指した方がいいんじゃないかと思うわけです。


要するに、これは『何も捨てられなかった』ということなんじゃないかと思うんですね。
どちらの体制も「欲張り」だったんでしょうね。


”ゴッソリト”何かを捨てる必要があったんじゃないかと思うんですよね。

「残すもの」だけが決まっていて、後は、それを残すために、なんでもいいから捨てていくという考え方が必要だったように思います。


「残すもの」は「人間性」だったと思うんですね。

でも、どちらの体制も、割とあっさりと、、そこを捨てて他の物をとってしまったんじゃないでしょうか?


”タクサンのナニカ”を提供できる社会が「イイ世の中」だと思っていたんでしょうね。


実際は、”タクサン”でなくてもよかったんじゃないかと思いますね。

「必要十分」が”アルテイド”満たされていればよかったのに、”モットモット”になってしまったような気がします。


みんな人間なんですから、「人間性」より大事なものなんてないと思うんですけどね。


「人間性重視の国」があれば、死ぬ時は、そこで死にたいものだなと。

今んとこ無いみたいですけどね。


なにも、完璧である必要はないんですけどね。

一応の「タテマエ」としてだけでもいいから、「人間」をもう少し「尊重」することが”マカリトオル”世の中であってほしいもんだなと。


現状は「タテマエ」ですらなくて「ミセカケ」ですね。


そんな風に思ってしまうわけなのです。




「お金」って「シゴトの報酬」に向いていないんじゃないでしょうか?



「シゴト」の「報酬」といえば、当然「お金」ということになっているわけですが、実は、「お金」は「シゴト」の「報酬」としては、けっこう不適切なものだと思うのです。


よく、『「お金」はあっても邪魔にはならないだろう』なんて言われますけど、要するに、それだけ、あれば便利なものだということでしょう。

確かに、置いておいても腐るわけでもなく、都合よく、なんにでも姿を変えてくれる「お金」は便利なものではあるわけです。


ところが、そんな「お金」にもできないことがあるわけで、「お金」は「精神的な満足」を生み出さないという性質があるわけです。


この点について、「お金で買ったもの」が生み出す「満足」を、「お金」が生み出していると思ってしまいがちなんですけど、それは、あくまで、「もの」が生み出した「満足」であって、「お金」が生み出した「満足」とは言えないと思います。


例えば、お腹がすいているときに「食べ物」を買うことができる「お金」は有効です。
でも、お腹がいっぱいの時に「食べ物」を買うことができる「お金」はアリガタ迷惑です。

『だったら違うものを買えばいいだろう!』

その通りですが、それじゃあ、「買いたいもの」がない人はどうしますか?
たとえば、「うつ状態」の人は何も欲しくないと言うかもしれません。

その人に必要なのは、「もの」でも「治療」でも「薬」でもなくて、「希望」や「意欲」でしょう。


「お金」は、それを生み出しません。


これは、「うつ状態」の人だと”わかりやすい”というだけで、健康な状態の人にも、ほぼ同じことが言えると思います。


実は、「お金」が姿を変えられるのは、「生活に必要なもの」ぐらいで、それ以上の「精神的な満足」を生み出すことができるものに、「お金」が姿を変えてくれることはないわけです。


『いやいや、贅沢品や芸術品などはお金で買えるし、精神的な満足を生み出してくれるだろう』


確かにそうですが、自分のほしくない「贅沢品」や好きでもない「芸術品」は、「精神的な満足」を生み出しません。

これは「うつ状態」の人が何も欲しくない時と同じでその人に必要なのは、「好奇心」や「感性」でしょう。


やっぱり、「お金」はそれを生み出しません。


実際には、「精神的な満足」を生み出しているのは、「もの」ですらなくて、その人自体でしょう。
その人の「心の状態」といえばいいんでしょうか?


そこで、「シゴト」の「報酬」なんですが、「シゴト」は、どんな「シゴト」でも結構大変ですから、みんな「報酬」が多いほうが嬉しいわけです。

でも、今言ったように「お金」は「生活に必要なもの」ぐらいしか与えてくれませんから、けっこう高い給料を貰っている人でも、いつも「不満」なわけです。

「お金」をたくさん貰っても、「精神的な満足」は与えられませんから、当然といえば当然ですね。

それで、ある人は「やる気」がなくなり、ある人は「もっと給料の高い仕事」を求めるようになるわけです。
要するに、物欲で埋め尽くすことで補おうとするわけですね。


しかし、それでは「精神的な満足」に近づくとは限りません。
「給料が高いこと」によって「精神的な満足」が得られるのではなくて、そこに「評価」や「賞賛」がついてくるから、それが得られているわけです。
「給料が高いこと」が「評価」を現す基準に成っているということでしょうね。

でも、実際には「給料」で「評価」を表す必要はないんじゃないかと思います。

ただ単に、今は「給料」=「評価」ということになっているために、「給料」が唯一の「評価」のための手段になっているわけですが、「お金」をいくら出しても「精神的な満足」が提供できないとすれば、その「お金」はほとんど無駄になるだけでしょう。


「お金」は「生活に必要なもの」を買える程度で、ほんとうの「報酬」は、その人が「精神的な満足」を得られるような「心の状態」でいられる環境として与えられるのがいいように思うのです。


そういうシステムで運営する企業が出てくれば、今ある「重大な社会的問題」がいくつか解消されるんじゃないかなと。


そんな風にも思いますね。




「本当のことを言うこと」



「本当のことを言うこと」は、とても大事なことだと思うのです。
『そんなことは、当たり前だろう!』と言われてしまうかもしれませんが、これが、意外とできないということがあるわけです。


人間は、基本的に「本当のこと」を言われるのが嫌いです。
他人事としての「本当のこと」までは、なんとか受け入れるんですが、自分のことと成ると、ほとんどの人が、「本当のこと」を受け入れません。

単純に「自分の間違い」を認めることですら、ほとんど出来ないと言ってもいいと思います。
もちろん、「自分の間違い」を認めるときはありますが、大抵の場合、それは認めないと、『より一層”見っともない”ことに成るから』と言う理由からで、純粋に『それが間違っていたから』と言う理由で、それを認めているわけではないと思います。


要するに、なんとか「自分の間違い」を「正当化」できないものかと、いつも、頭を巡らせているわけですね。
私なんかもそうですけど、多くの人が、常日頃、そこにはかなり一所懸命に頭を使っていると思います。

実際に、表向きは「自分の間違い」を認めたフリをしていても、何か機会があれば、必ずと言っていいほど「言い訳」をしようとするのが普通です。

ほとんどの人がそういう状態ですから、「本当のことを言うこと」は、そうたやすいことでも、そう当たり前なことでもないわけです。

まぁ、だからこそ「本当のことを言うこと」が大事になってくるんでしょうね。
誰も「本当のこと」を認めたくないわけですから、それを言う人が居なければ、「本当のこと」は無く成って行くわけです。

そうすれば当然、「デタラメなこと」や「嘘のこと」や「意味のないこと」で、世の中が固まって行ってしまうわけです。
と言うより、人間の社会と言うのは、いつも、そういう状態だと言った方がいいのかも知れませんね。


そして、現実に、「本当のことを言うこと」が完全に排除されていったときには、その社会では、必ず「悲惨なこと」が起きてきたわけです。


ですから、「本当のことを言うこと」は、やはりとても大事なことだと思うわけですが、ここで、この「本当のことを言うこと」と似ているもので、「啓蒙」と言うのがあるわけです。
その「啓蒙」と「本当のことを言うこと」は区別されるべきだと思うのです。


「世の中を良くしよう」とか「自分の考えを世に広めよう」と言うのが、「啓蒙」なんだと思うんですが、これは、現在はもう必要ないものなんじゃないかと思うわけです。

世の中が、一つの方向性を持っていた時代には、この「啓蒙」と言う考えが、意味を持っていたのかも知れませんが、現在、世の中には多様な方向性があって、そのことによって、「個の自由」が確保されているわけですから、一つの基準に向かって、世の中を「啓蒙」するということには、もう意味が無く成ってしまっているわけです。


じゃあ、その二つはどう違うのか?ということに成るわけですね。
その違いは「当たり前のこと」と「当たり前ではないこと」だと思っています。

「本当のこと」は「当たり前のこと」で、「啓蒙」は「当たり前ではないこと」ですね。

つまり、「本当のことを言うこと」は、必ずしも当たり前ではないけれど、「本当のこと」自体は、当たり前なんですねぇ。


私はこれを、童話『裸の王様』に例えていますけど、『裸の王様』の話の中では、みんな「本当のことを言うこと」をしなくなっています。
そこで、一人の子供だけが、「本当のことを言うこと」をするわけですが、その子供は、別に「社会を啓蒙しようとした」わけではありません。

ただ単に「本当のこと」を言っただけです。


王様が裸だから、『王様は裸だ!』と言っただけで、『世の中を良くしよう』としたわけでもなければ、『世の中に良い考えを流布しよう』としたわけでもありません。

それどころか、その子供の考えたことですらないと言った方がいいくらいです。


つまり、見たままの「当たり前のこと」を、そのまま言っただけです。


「啓蒙」は、「王様の着ている服」について、『センスが良くない』とか『もっとノウハウにあった服装を選ぶべきだ』とかと言うことでしょう。


つまり、「当たり前”以上”のこと」を要求するのが、「啓蒙」だと思うのです。
それについても、まったく必要がないとは思いませんが、まぁ、無くてもどうってことないとも思います。


でも、「本当のことを言うこと」の方は、それが無く成ってしまうと、社会は確実に「悲惨」へ向かって行くように思います。


大袈裟なように聞こえるんでしょうが、これも一つの「本当のこと」です。
つまり「当たり前のこと」ですね。


そんなわけで、「啓蒙」よりは「本当のことを言うこと」が大事かなと。
ちなみに、このブログは「当たり前のこと」が中心です。

”見たまま”ってことですね。

でも、たまには「当たり前じゃないこと」も書いてあります。
それは「どっちでもいいこと」ってことですね。


そんな風に思っています。





「有利を選ばない」と言う「進化」



「生命の進化」と言うのは、基本的に「有利を選ぶこと」なんだと思うわけです。
でも、時には「有利を選ばない進化」と言うものもあるんじゃないかと思うのです。


例えば、わざわざ外敵に見つかりやすい派手な色をした鳥や動物はけっこういますし、『どう見ても、不便でしょ』と言うような「ツノ」を持っている動物なんかもいるわけです。


それもまた、「何らかの意味での有利」なのかも知れませんが、少なくとも「単なる有利」ではないように思います。


彼らにとっての、ナニがその「進化」に影響したのかはわかりませんけど、単純に考えられるような「有利を選ぶこと」とは違うような気がします。


そして、何が言いたいのかと言うと、この「有利を選ばない進化」が一番多いのが人間なんじゃないかということなわけですね。


人間の場合、見た目にわかりやすい「色」や「形」ではなく、「行動」や「思考」に、その「有利を選ばない進化」が出ていることが多いようです。


例えば、人間は「弱者」を見ると「助けたい」と思ったりしますけど、これは、自然界では「一種の命取り」ですよね。

実際、野生動物の世界では、同種属の中でも「弱者」は大抵の場合切り捨てられてしまうのでしょう。


でも、人間は、「道徳心」とか「正義感」と言うよりは、むしろ「本能的」に、「弱者」に対して『助けたい!』と言う気持ちを抱くのだと思います。
どちらかと言うと、そういう「本能的な反応」を、言葉に置き換えて説明したのが「道徳」や「正義」なんじゃないかと思うわけです。


”ドライ”な考え方の人は『「弱者を助けても誰のためにもならないんだ』と言うかもしれませんが、自分のすぐ横で、「弱者」達が累々と屍となって行っても、まだ、平然としていられる人と言うのは、そんなに居ないんじゃないかと思います。


結果的に、『助けたい!』と思った人の方が自然で、『助けても意味はない』と言う人の方が、むしろ無理をしているように見えてしまうことが多くなってしまうわけですね。

だとすれば、人間にとって『弱者を助けたい』ということの方が「本能」に近いということでしょう。
つまり、そこでは、人間が「有利を選ばない進化」をしてきたということなんだと思うわけです。


それから、この「有利を選ばない進化」と言うのが、これからの人間の方向性を指し示しているんじゃないかとも思うわけです。


もっと正確に言うと、「有利を選ぶ進化」と「有利を選ばない進化」のバランスですね。


過去にも、繁栄しすぎた「種」が滅びたということはあったのでしょうし、もう、そんなに繁栄しなくてもいいんじゃないかと言う気もしますから、「有利」と「不利」のバランスをとって行った方がいいんじゃないかと思うわけです。


また、人間にとっての「進化」が、そういう過程に差し掛かっているということなのかも知れませんね。


先ほどは、話の流れ上「弱者を助けること」=「有利を選ばない」のように言ってしまいましたが、実は、その二つはイコールではなくて、「進化」の過程が高じて来ると、物事が一元的に捉えられなくなってきますから、「有利」が「不利」になったり、「不利」が「有利」に成ったりすることが多く成って来るんだと思います。

つまり、「弱者を助けること」が「有利」に作用する場合も出て来るということですね。

だから、いまの時点で「不利」であっても「進化の先」に達した時点で「有利」になっているかもしれないし、その逆もあるわけですね。

その結果、「有利を選ぶ進化」と「有利を選ばない進化」のバランスをとることが、「大きなリスク」を減らすのに有効になってくるんだと思うわけです。


それから、もう一つ言うと、過去には「進化」に対して、「個体の意識」が直接影響するようなことはなかったのでしょうが、こういうことで、「進化」に対して「個体の意識」が影響するということも出て来るのかも知れませんね。

つまり、人間は、今、自分が考えていることが数万年後の人類の進化に影響しているという意識を持っているということですね。

と、まぁ、そんな風に思ったりもするわけです。




「脱マネー」「脱ホウリツ」:「金や法」を「有機的なもの」に還元すること



今の時代と言うのは、「経済」と「社会」が両方とも行き詰ってきていると思うのです。
そして、今後、この状況が長期的に上向きに転じることは無いのだと思います。


「経済」も「社会」も、過去においては、何らかの「格差」を抱えていたわけです。

そして、その「格差」の「下」から「上」への「一方向の利益の流れ」が、「上に居る国」の「景気」や、「社会的安定」を作っていたんだと思います。


つまり、「上に居る国」が「下に居る国」とのあいだの貿易上の「格差」や政治的・軍事的な「格差」を利用して、最終的な利益の落ち所が、自分の国に成るようにしていたということでしょうね。

しかし、徐々にではありますが、この「格差」が埋まりつつある現在、このような「下」から「上」への流れは作りにくくなっていて、景気が急に上向きになるのは、局地的な「バブル経済」においてのみであり、それもまた、その国の規模に見合った所で、必ずや終息するわけですから、長く続くことは無いわけです。


もともと、このような「一方向の利益の流れ」と言うのは、「弱いもの」から「強いもの」への一方的な「吸い上げ」でもあったわけで、それが、人類全体にとってどれほどのものだったのかと言えば、何のプラスでもマイナスでもなかったのだと思います。

「格差」が少なく成ったことはいいことのはずなのに、なんで、行き詰っているのか?ということですが、それは、たぶん、「格差」を前提とした「システム」を使い続けているからだと思うわけです。


要するに、「脱格差」のための「脱マネー」と「脱ホウリツ」を図る必要があるんだと思います。


ただ、ここで言う「脱マネー」とは、「脱通貨」とは少し違います。

「通貨」と言う言葉は、「代価」という意味が強いと思いますが、「マネー」は、「貨幣」や「紙幣」など、文字通りの「お金」ですね。
「マネー」も「代価」ですが、それはさらにある種の「絶対価」でもあるということで区別しています。


例えば、「不動産」や「証券」などは、ある程度「代価」としての価値を認められていると言えるでしょう。
その意味では「通貨」と同じ機能を持っているということもできると思います。
昔なら、「米(こめ)」だって「通貨」のような機能を持っていたんだと思います。

つまり、昔は「有機的な通貨」があったわけです。


そういった意味を含めて、「流通することが出来る価値」を、ここでは「通貨」と呼ぶことにいたします。


なんで、そんなマワリクドイ話になってしまうのかと言えば、「通貨」を「マネー」とは違う、「有機的」なものにしてほしいと言う考えからなんですね。

それから、ついでに言うと、「法」も、もう少し「有機的」にしてもらいたいと思っているわけです。
それを「脱ホウリツ」と、ここでは言っています。


現在の「お金」と「法律」が、あまりにも「無機質的過ぎる」ということだと思います。

   ※2014年5月21日及び2014年7月31日の記事で、
     これについて、もう少し具体的に書いています。


つまり、「マネー」=「お金」に関して言えば、「お金」が絶対的なものになってしまっていて、人間が「金の奴隷」と化しているわけです。


また、「法律」についても、「法の文面」や「判例」ばかりが重視されて、「法」に『天網恢恢疎にして漏らさず』の原理が成り立たなくなっているわけです。

その結果、「金がモノを言う世の中」に成り、表面上の「法」さえ守っていれば、「悪の精神」を持っている者でも、まかり通ってしまう世の中に成っているわけです。


この状況を打開するには、「金と法」の「無機質的な性質」を、「有機的」に還元する必要があると思うのです。


まず、「お金」は「無期限の価値」を与えられていることで、「絶対」となってしまっています。
「法」は偶然性を排除されていることで、「無機的」に成っています。


これまでは、「格差」を前提としてきたために、これらの「絶対価」や「無機質性」が、「上に居る者」にとって都合のいいものとして利用されてきたわけですが、もう「格差」を望む者は少なくなっていますし、それを望む者にとっても「格差」は有効な手段とは言えなくなってきているわけです。


まぁ、それで行き詰っているわけですが、この「絶対価」と「無機質性」が「有機的」なものになれば、おそらく、人間にとって、もう少し緩やかな世界が実現されるのではないかと思うのです。


もちろん、これは「濡れ手で粟」と言ったものではなく、あくまで、「そこそこ居心地の良い社会」ということでしょうが、もう、それで十分なんじゃないかと言う気もしますから、この辺が、今の時代の「落としどころ」なんじゃないかと思うわけです。


とにかく、「金と法」と言う、社会の状態を決定してしまう二つのものを、「格差」前提のスタイルから、「非格差」前提のスタイルへとシフト・チェンジすることで、社会全体が、だいぶユルイ感じになるんじゃないかと思っているわけです。


前に書いた記事でも言ったことなんですけど、残念ながら、私にはどうやるのかわからないんですが(たぶん、デジタルな感じ?)、「通貨」に、何らかの形で「ゆるやかな有効期限」が設定できたら、「通貨」は「有機的」な機能を持つことが出来るんじゃないかと思います。


早く使わないと「価値」が下がって行く「通貨」があれば、みんな早く使うでしょうし、いいものには惜しみなく「代価」を支払うでしょう。
逆に、質の悪いものには見向きもしなくなると思います。
そんなことをして、お金を残してもドンドン価値が下がっていってしまうわけですからね。

 ※この「期限付きの通貨」と言うのは、よくネット上で流通しているポイント
  のようなものとは根本的に違います。
  そういうことが出来るかどうかは、まったく抜きの話としてですが、「国が
  発行する通貨」と言うことです。
  さらに言えば、世界全体の「通貨」に対する概念の問題でもあります。
  いくら、「期限付きの通貨」があっても、他のところで「無期限の通貨」も流
  通していれば、どうしたって、そちらに食われてしまいますから、「通貨」と
  いうものは「期限があるものなんだ」ということが概念として確立されなけ
  れば、意味をなさないわけですね。

これは当然「労働」にも反映されていきますから、「質の高い仕事」が評価されるように成って行きますし、「質の低い仕事」は、少しぐらい効率が良くても評価されなくなるでしょう。


今の社会では、「そこそこの仕事」を「なんとなく要領よくこなした人」が「シゴトができる」と言われますが、意外なほど「質の高い仕事」は評価されていなかったりします。

その「質」が「非効率的」と判断されることが多くなるわけですね。
こういったことが、「社会」を停滞させて、「行き詰まり」を生んでいます。

要するに、「個人が持っている能力」が眠らされてしまうわけですね。


また、「法」に「偶然性」や「個別性」が導入出来たら、それもまた、「有機的」な性質を持つようになるでしょう。


「法律」としては「成文法」であったとしても、そのシステムのなかに「偶然性」や「個別性」を取り入れれば、「犯罪の抑止」にもつながるでしょうし、そこに「法の精神」は復活されるでしょう。


例えば、自分が犯罪者だとして、どの程度の犯罪を侵せば、どの程度の罪が下されるかが解っていれば、きっと、「チョロイモンだ」と思うでしょう。

でも、どんな罪が下されるか見当が付かなかったら、けっこう恐ろしいと思うでしょうね。
それに、自分が特に嫌なことで罪を償わされるとしたら、やっぱり、たまらないですよね。


それから、これと同じような感じで、刑法と民法の境界線もゆるい方がいいんじゃないかと思いますね。

今は、「刑事事件」にならないようなことだと、チョットくらい「悪いこと」でも平気でやる者が居ますからね。
「法律スレスレ」っていうやつですね。


それに、「警察の民事不介入」によって「犯罪」が「野放し化」していることも多いと思います。


そういうことで、「犯罪」や「悪事」が抑止できれば、今より少し平和になるかなと思います。
(これは「犯罪者」にとっても、結果的にはプラスだと思いますね)


「犯罪」や「悪事」が、あくまで未然に防がれなければ「法の機能」としては”ダメ”なんだと思うんですね。


現在の「法」は、「無機質化」しているために、根底にある「法の精神」が眠ってしまっているわけです。
それで、「個人の善意」も眠らされてしまっているんだと思います。
だから、「起きてしまった犯罪」にしか対応できないんだと思うのです。


そして、こういうことが、「人間の善意を呼び覚ましてくれたらなぁ」と期待したりもします。


以上のことから、「金と法」を「有機的なもの」に還元してくれる人がいたら、『その人はエライ!』と思います。

スイマセン、それだけです。





「テレビ」考



放送が地デジ化した時から、テレビを見なくなって数年たちましたが、まったく”見たい”と思いません。

これは、けっこうショッキングでしたね。

なにせ、完全な「テレビ世代」ですから、当然すぐに耐えられなくなって、テレビを買うんだろうなと思っていたんですよねぇ。
(私の場合、テレビを見られる契約は、なんにもしていません。見るとしたら「YOU TUBE」ぐらいですか?)


ところが、一か月たっても、二か月たっても、まったく見たくならなくて、『あれ?テレビって、なくてもイケルの??』っていう感じでしたね。

正直言って、あれば、見ていたと思います。
きっと、いまでも、あればスイッチを入れてしまうでしょうね。
でも、無いので見れないということですね。

でも、なぜか、まったく見たくならないんですね。
「おどろき」です。

考えてみると、『見たくない』のに、『あったらタブン見ちゃうだろう』っていうのも、おかしな話ですけどね。


確かに、『テレビがつまらない』と言うのはあります。
でも、そういう問題じゃないような気もします。

実際、つまらなくても見てきたわけだし、今でも、あればつけちゃうんでしょうから、『ツマラナイから見ない』~『見ないから買わない』と言うよりは、『無いから見たくならない』ということなのかなと。

逆に言うと、面白い番組がたくさんあっても、『無ければ、無いでいいのか?』って感じだと思います。


もともと、「テレビ」ってそういうものだったんじゃないのかなと思うわけです。

「コンビニ」とか「宅配」なんかもそうですけど、『あると、つい、使ってしまうモノ』っていうんですか?
裏を返せば、『無ければ、無いでどうってことないモノ』ですね。

それらは、すべて『労せずして~してくれるモノ』なわけです。

「テレビ」は「つけるだけ」
「コンビニ」は「2~3分歩くだけ」
「宅配」は「待ってるだけ、呼ぶだけ」

どれも、ホントに『労せずして』なわけです。


でも、これが、「便利」とはちょっと違うように感じる時があるわけです。
「便利の押し売り」的な感じですかね。
『それほどまでじゃなくても』っていうやつですね。


「テレビ離れ」が進んでいると言う話をよく聞きますけど、これは,必ずしも「テレビ」が”ツマラナイから”でもないんじゃないかと思うんですね。

確かに、”ツマラナイから”見なくなったという人は多いと思いますけど(私もそうです)、「見ないで居続けられる理由」は『無くてもいいことが分かったから』なんじゃないかなと。


それで、こういう展開だと、『テレビ、もういらないんじゃない?』と成りそうなんですけどね。


実は、最近になって、最終的に、また「テレビ」が必要になってくるんじゃないか?
と思うように成ってきたわけです。


よくよく、考えてみると、子供のころから見続けてきたわけですから、「テレビ」から得た知識の量と言ったら、他のモノでは到底補えないんじゃないかと思ってしまうほどの膨大さなわけです。
これに匹敵する量の知識を得ようと思ったら、相当な「労苦」を伴うんじゃないかと思いますねぇ。


そこで、話は『労せずして』に戻ってくるわけです。

その量の知識を『労せずして与えてくれた』のが「テレビ」だったのは間違いないことなんですねぇ。

取り敢えずつけているだけで、なんとなく、そこそこの知識が入ってくる仕組みになってるんですねぇ「テレビ」っていうのは。
だから、『労せずして』が特徴の「テレビ」と言うメディアは、これから「知識」や「情報」に特化していく方がイイんじゃないかと思うわけです。

たぶん、「テレビ」の影響力は「教育」に匹敵しますよね。


一見すると「情報量」で「インターネット」には勝てないようですけど、「ネット」の最大の欠点は、「疲れること」だと思います。
それに、ナンダカンダ言って時間がかかります。
それなのに、「ナガラ~」には向いていません。

要するに、「ネット」は『労せずして』じゃないわけですね。

さらに言うと、意外と労力を必要とする割に、『達成感を得られない』と言う感じもありますね。
何かにつけて、興味のない情報がズラーッていうのが多いっていうことですね。
つまり、「ネット情報」は「質より量」なんだと思うわけです。
だから、「充実感」や「達成感」が薄いんですね。


自分のことで言えば、「テレビ」が「自分に必用な情報を提供してくれるモノ」に成ったら、たぶん、「テレビ」に戻ると思います。
『つけるだけ』・『労せずして』の方に、どうしたって引き寄せられてしまうんじゃないでしょうか?

これは「面白い」ということとは,ぜんぜん違うことだと思いますね。
「面白いかどうか」ではなくて「必要かどうか」じゃないでしょうか?


このブログでは、「不便のススメ」みたいなことを書いていることがありますけど、それは、「不便」が切り捨てられ過ぎてるんじゃないかということで、なにもかも『不便な方がいい!』と言っているわけじゃありません。

それに「不便」が『”意外と”面白いですよ』と言っているだけで、『役に立つ』とは言ってませんので、あしからず。


さて、「テレビ」にとっての問題は、『その知識が必要かどうか』だと思います。


「テレビ」は「個人への必要な知識の供給の場」、「ネット」は「個人からの”ナニカ”の発信の場」と言う色分けはあり得るんじゃないでしょうか。
ついでに言うと「教育」は、「公的に与えられる情報の場」ですかね。


「ネット」の方は、もっと「個人」に特化していいんじゃないかと思いますね。


要するに、「テレビ」に求められているのは「必要なモノ」=「便利」で、「ネット」に求められていくのは、「不必要なモノ」=「不便」なんじゃないかなと。

 ※実際は、「ネット」には、その両方が求められていくんでしょうが、
  本当は、「ネットの便利さ」は、切り捨てた方がいいような気もします。
  「ネット」は、「無機質的」なんですね。
  だから、『利を追うと、利に走りすぎる』きらいがあるような気がしますね。


今は、「テレビ」が、見当違いで不必要な「面白いこと」を追いかけていて、その代りに「ネット」が、疲れて時間がかかる「必要なこと」を提供しています。


でも、「必要なこと」が、いつも「労せずして」得られて(テレビで)、時々、疲れてもいいなと思ったら、「不必要なこと」をのぞいてみる(ネットで)というのが、”ラク”なんじゃないかなと。

まぁ、『面白いかどうか』は『当たればラッキー』ということでいいような気がします。
「面白い」って、本当はそういうものなんじゃないかっていう気もしますしね。
要は、その辺が丁度いいんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に考えてみたわけです。




「一億総精神疾患時代」



だいぶ昔の話になりますけど、「一億総ハクチ化時代」ということが言われたことがあったと記憶しています。

 ※「ハクチ」と言う言葉を使ってもいいものかどうかわかりませんが、
   差別的な意味は含まれていませんのでご容赦ください。


日本で、いわゆる「戦後」が長く続いて来て、「平和ボケ」のような状態に成っていたことを言っていたんだと思うわけですが、実際に、「考えない人」が増えたことは確かなことだったんでしょうね。

ただ、そういう人はある程度、いつの時代にも居たんじゃないかとも思います。
違うのは、それまでは”否定”されていた「考えないこと」が「時代」に”肯定”されてしまったことだと思います。


それはともかくとして、今や、時代は「一億総精神疾患時代」に突入したと思うわけです。
(もう「一億」をだいぶ超えているらしいですけど)

つまり、日本人全体が、何らかの「精神疾患」になっているように感じることがあるんですね。


しかも、「一億総ハクチ化時代」が、本当にみんな「ハクチ」になってしまったわけでもなかったのに対して、現在の「一億総精神疾患時代」は、本当です。

決してオーバーな話でもなくて、本当に「鬱病」や「〇〇症候群」の人は、身近にもたくさん居て、さらには、「自殺」までも、今では稀なことではなくなってしまいました。

また、一見すると精神的に健全にしか見えない人が、『朝起きると、涙が止まらないことがあるんですよぉ』なんて言っているのも聞いたことがあったりします。

本人は、まったく気づいていない場合もあるようですが、客観的に見ると『それ、どう見ても、ヤバイでしょ』と言う感じですよね。


また、いわゆる「バリバリ」側の人も、「精神疾患」から遠い位置にいるのかと言うと、必ずしもそうでもなくて、その時は「バリバリ」働いていても、いつの間にか「パリパリ」とコワレテ行ってしまうなんて言うケースもよくあったりします。
(「燃え尽き症候群」のような人ですね)

それから「バリバリ」から「ガリガリ」になって、しまいには「ゴリゴリ」になって、オカシクなっているのに、自分では止められないというタイプの人もよく見ます。
何かに憑りつかれてでもいるような感じですね。
(いわゆる「パワハラ上司タイプ」ですね)

そういう人は、いつも苛立っていて、周囲を自分の”フキゲン”に巻き込んでいってしまうので、周りの人も病んでいきます。
そして、また、その「病」が、発信元である本人に帰って行くわけですね。

いずれにしても、日本の社会全体に「精神疾患」を作り出す土壌が出来てしまっているんだと思います。
(これは日本だけでなく、世界的にも言えることだと思います)


だから、いま、たまたま「精神疾患」から距離のある位置に立っている人も、完全な「安全圏」に居るとは言えなくなってしまっているんだと思います。


そうはいっても、いま現在「病的な状態」にない人は、『たぶん、自分は大丈夫かなぁ・・・』と思うでしょうし、私もそう思っているところもあります。
でも、その思い込みが、たいした根拠のないものなんじゃないかとも思います。


とくに日本などの東洋の国の人は、現在、世界が「西洋基準」で回っていることで、必然的に、もともとの「東洋基準」との間に「ダブル・スタンダード」を抱えることに成っています。


「ダブル・スタンダード」は、なにも「東洋」と「西洋」に限ったことではありませんから、この状況は日本や東洋に限ったことでもないと思いますが、現在、東洋の主な(すべての?)国々では、「東洋基準」を残しながらも、常に、「西洋基準」が優位な状態です。
従って、「社会」が人に「ダブル・スタンダード」を強要していて、さらには、それらの「基準」が、常にその時々で恣意的に使い分けられてしまいますから、それは「ダブル・バインド」を生み出してしまっているわけです。

「精神医学」では、強い「ダブル・バインド」を加えられて育った子供は、「精神疾患」を発症する可能性が高いと言われるようですが、「社会全体」によって作られる「ダブル・バインド」ですから、これは、かなり強力なんだろうなと思うわけです。


そういうことで、「一億総精神疾患時代」が到来してしまっているわけですけど、その結果、本来は「精神疾患」から遠い位置にいるはずの人まで、「精神疾患」の最前線に放り込まれている状態になっているわけです。


本来は「社会の真ん中あたり」にいる人というのが、もっとも「精神疾患」から遠い位置にいるハズなんだと思うわけですが、その「社会の真ん中あたり」こそ、最も強力な「ダブル・バインド」に拘束されている場所でもあるわけですから、もう、「安全な場所」というのがなくなってしまったわけですね。


そうして、今に至って、最も重大な問題は、「精神疾患」自体というよりも、「病的な状態の人」が「主流」を占めるようになったことです。

あまりに数が多くなってしまったので、「主流」になってしまったわけですね。
それで、本人も気が付きにくくなっているんだと思います。

みんなが「精神疾患」ですから、「突出した逸脱」さえしなければ、本人も周りも、まったく気付かないでいられるわけですね。
(最近では、かなりの「逸脱」でも「正常」の範囲とされつつあるるように感じます)

そして、その結果、「精神疾患」を抱えた人が、それに気づくことすらない状態で、さらなる「精神疾患」の種をまき続けているわけです。

現在では、「精神疾患」の「自覚」がある人の方が、むしろ”マシ”で、「自覚」のない人の方が、状態は”シンコク”なのかも知れません。

この「現代の病」に対しては、「医学」も「宗教」もほとんど無力だと思います。

「医学」は「社会全体」を治療することはできませんから、根本的には改善しません。
むしろ「社会」に順応するための治療こそが「医学」の目的ですから、「社会全体」に「ダブル・バインド」がかかっている状況では、そこに順応しようとすれば、かえって悪くなる可能性も高いんじゃないでしょうか?


「宗教」は「信じる人」と「信じない人」に分かれてしまいますから、「信じない人」には無力ですし、「信じる人」にとっても、シェルターのような働きはするでしょうが、そのシェルターから出ると、元に戻ってしまいます。
つまり、「信じ続けるしかない」ということになってしまうわけです。

『信じ続ければいいじゃないか』と言われれば、そうかもしれませんが、「信じない人」は、ますます疎外されていくでしょう。
そうなると、『信じないといけない』になってしまいます。

それは、もう「宗教」でも「信仰」でもないでしょう。


病んでいるのは「社会全体」ですから、その「社会全体」に、何らかの方向転換が必要なんだと思います。
でも、「政治」は何も変えられませんから、もちろん論外でしょう。

「政治」には、「社会」の向いている「方向」に沿った枠組みを作ることはできますが、その「社会」の向いている「方向」を変えることはできないものでしょう。

というよりも、「政治」が「社会」の「方向」を決定することは非常に危険なことだと思います。


こういうことが出来るのは、「芸術」と「哲学」だけだと、私は思っていますが、その「芸術」や「哲学」もまた病んでしまっています。


キリがありませんね。

『話が長すぎ!』なので、次の記事に続けます。





「一億総精神疾患時代」(つづき)



前の記事からの「つづき」です。


いま、「一億総精神疾患時代」が来ているんじゃないか?
そして、それを抜け出すには「芸術」と「哲学」しかないんじゃないのか?

それなのに、その「芸術」や「哲学」も「病」に感染してしまっている状態なんじゃないか?ということです。


前の記事に書いたように、「一億総ハクチ化」した時から、「考えないこと」が肯定されてしまっていますから(実際は、もっと前からなんでしょうが、それが蔓延したということでしょうか)、「芸術」や「哲学」のような「考える分野」は、その時から病んでいるわけです。


本当のことを言えば、「芸術」や「哲学」であることが必要なのではなくて、「考えること」が必要なんだと思います。
「考えて行動する」という習慣が復活されれば、この状況から抜けられるんだと思います。

だから「宗教」でも、「考えること」が中心にあればいいんでしょうけど(「宗教哲学」みたいな視点ですね)、「宗教」には「信じる」という方向性がありますから、どうしても、そこだけは「考えること」が”スキップ”されてしまうわけですね。


「ダブル・スタンダード」や「ダブル・バインド」の矛盾は、「考えること」で、わりと簡単に見破れるはずですし(あきらかに矛盾していることが多いので)、それに巻き込まれることも少なくなるハズなんですが、今のように、みんなが「精神疾患」の状態では、「精神疾患」側が主流ですから、それもあまり意味がありません。

数の力で圧倒されてしまうわけですね。


要するに、「考える」側が、主流にならないことには、どうにも、そこから抜け出せないような状態になっているわけです。

もちろん、「精神疾患」=「考えない」ではありませんが、「精神疾患」の渦中にいる人は、そこから抜け出すために考えることで力を使い果たしてしまいますから、他のことを考える力は、もう残っていないわけです。
そのため、「考えること」をネジ曲げられてしまうので、結果的に、本来の自分の意思による答えとは、違う答えを導き出してしまうんですね。


そこで「芸術」と「哲学」なわけです。


「芸術」にも「哲学」にも、突き詰めていけば、「考えること」を”スキップ”するという局面が現れてくることがあるんだと思いますから、その点で、「宗教」との違いは、ほとんどないんでしょうけど、それが、”行きっぱなし”には、成らないというところが違うんじゃないかなと思うわけです。


「宗教」においては、「信じるか?信じないか?」という局面が現れてきたところからは、「考えること」は無意味化してしまいます。
「信じる」のに「理屈」は要らないわけですから、「考えること」は必要なくなってしまうわけですね。

要するに、「絶対的な存在」を「信じること」においては、「思考」は無力化してしまうわけですね。


そうした「高次元の無思考」を「悟り」と言っていたりするんだと思います。


でも、現実には、普通の人間は「考えること」をやめると「低次元の無思考」に陥ってしまうわけで、高次元か、低次元かというよりも、「考えること」で、ギリギリ「人間次元」を保っているんじゃないでしょうか?


「芸術」と「哲学」は、もともと「人間」をテーマにしているものだと思いますから、その「人間次元」の「考えること」に帰ってくるしかないんだと思うのです。

そこで”行きっぱなし”にならないで、戻ってこられるということですね。


現在の「芸術」が病んでいるのは、そういう「人間次元」を無視しているからなんじゃないかと思います。
しかも、そこに戻ろうとする力も、常に働いているにもかかわらず、あえて無視し続けているわけです。


「芸術」や「哲学」が持っている「極める」という性質がマイナスに作用しているんだと思います。
「極める」べきは「人間性」であったわけですが、その「人間性」が、表面上とても”チュートハンパ”なものに見えてしまうために、切り捨てられてしまうんだと思います。

でも、一見”チュートハンパ”な「人間性」でも、よく見れば、それが、”煮詰められた”「人間性」であるのか、”薄められた”「人間性」であるのかは、わかるハズなので、もう少しその辺を大切にして行ったほうがいいんだと思うのです。


まぁ、そういうようなことからも、「芸術」と「哲学」は、「健全さ」を取り戻す必要があるんだろうと。


そういう風に思っているわけです。





受け入れ過ぎ?



何かについて抵抗したり抗議したりしている人に対して、『そんな風にジタバタしても、なんにも成らないんだから、現状を受け入れてしまった方が楽ですよ』と言うのを、よく耳にするわけですが、これは、今の時代には当てはまらないような気がするわけです。

まぁ、要するに、一言で言ってしまえば、時代遅れ(または時代錯誤)な感じがするわけですね。

とにかく、現代人と言うのは、何かにつけて「受け入れ過ぎ」だと思うのです。

と言っても、昔の人がどうだったのかは知りませんけど、少なくとも、今の時代は「国」とか「社会」とか「世間」とかと言った大きな単位から、「職場」や、時には「友人」や「家族」と言った小さな単位までの、ありとあらゆる形の「集合体」の「要求」が、すべて「個人」に対して集中してしまいますから、それを全部受け入れていたら、まったくもって”身がもたない”わけです。


これは「情報化社会」の特徴でもあり、また欠点でもあると思うのです。

「集合体」から発信される「情報」が異常なほど多くて、早く伝わるので、「個人」が、その「要求」に振り回されるわけですね。


それなのに「集合体」の側は、往々にして、「個人」からの「情報」を汲み上げるようなシステムを持ちませんから、「個人」が、一方的に「受け入れ過ぎ」になってしまうわけです。


そして、その結果「受け入れ過ぎ」に疲れ切った「個人」が、「集合体」の機能を低下させているというのが、現代の状況なんじゃないでしょうか?


例えば、「国」や「社会」は「労働者の権利」として、「8時間労働」や「有給休暇」を保証するという「情報」を流していますが、「企業」や「職場」は「人件費削減」と言う「情報」を流す場合があります。

そして、それらの「情報」は、どちらもほとんど流されたまま「ホッタラカシ」にされてしまうわけです。
すると、その時々で、一番力の強い「情報」が「個人」を振り回してしまうわけですね。


景気が上昇中の時には、、『どんどん働け!』と言われ、それが、安定してくると、『そんなに働くのは馬鹿だ』と言われ、景気が悪く成ってくると、『サービス残業も当たり前』になってしまいます。

それらに対して「個人」が反映されることは、ほとんどありません。


『もっと、働きたい』と言うのも、『残業したくない』と言うのも、どちらも、「個人」の正当な「要求」なハズなのに、それが、その時一番強い「要求」と一致していないと、通らなくなってしまうわけですね。
(「個人の要求」は、たいてい「集合体の要求」よりも弱いですからね)

これらは、どちらも「人のやる気」を削いでしまいますから、結果的には、何も生み出さないわけですね。


こういうことは、必ずしも現代に限ったことでもないとは思いますけれど、昔の方が「情報」が少なかったのは間違いがないことでしょうし、「情報」が伝わるスピードも、どんどん加速され続けているわけです。


そんな中で、一昔前と同じように「泰然自若」として「受け入れ」続けても、何も生み出されませんし、誰も”トク”しません。

昔は「情報」の量が適度だったので、「人情」で、その辺が調整できたということでしょう。


本来は、今も昔も人間が「受け入れる」べきものは「自分」であって、「外界からの要求」ではないんじゃないかと思うわけです。


「自分」の内的な世界を見つめて、それを「受け入れる」ことと、「外界からの要求」を「受け入れて”しまう”」こととは、全く違うことなんじゃないかと思うのです。
それは、むしろ反対のことと言うべきものなんだと思うのですが、どうでしょうか?


この二つを混同して『受け入れてしまった方が楽ですよ』と言ってしまうと、言われた側の人は、その二つの「正反対のこと」を同時に突き付けられますから、混乱して、どうしたらいいのか解らなくなてしまうわけです。


「自分を受け入れること」ができれば、確かに「楽」になれるように思います。
しかし、これは案外”ムズカシイ”ですね。

「外界からの要求を受け入れること」は、「その場に流されること」と、ほとんど同じ事ですから、ある意味で”カンタン”です。
でも、ちっとも「楽」になんかなりませんね。

ほとんどの場合、むしろ、受け入れれば受け入れるほど「辛く」なって行きます。


この相反する二つのことが区別されずに、一つの同じこととして、『受け入れた方が楽ですよ』と言われてしまいますから、困ってしまうわけです。


『受け入れた方が楽ですよ』と言っている側の人は、『自分を受け入れること』を”漠然と”想定して言っている場合が多いですね。
ただ、”漠然と”ですから、”ムズカシイ”の部分が抜けているんですね。
むしろ、それは”とてもカンタン”なことだと説明されてしまうケースが多いですね。
(確かに、やってしまえば”カンタン”なのかも知れませんが)

でも、それを、言われた側の人は、「外界からの要求を受け入れること」をイメージしてしまいます。
ほとんどの場合、そういうことを話しているわけですからね。
(「自分を受け入れること」を本気で考えている人は、それについて他人に相談したりはしないでしょうね)

言っている側の人と、言われている側の人の「話の層」が食い違ってしまっているんですね。
片や「楽にはなるけどムズカシイこと」を話していて、もう一方は「カンタンだけど楽にならないこと」を聞いているわけです。

そこで、「カンタン」と「楽」がすり替えられてしまうわけですね。
それで、ただ単に「カンタン」なだけの「外界からの要求を受け入れる」ことが、いかにも「楽に成ること」のようになってしまうわけです。


これをやると、その場に流されている分だけ「楽」に成ったように錯覚するので、初めのうちだけは、いいかもしれませんが、すぐに、「辛く」なってしまいますよね。


基本的に、人間が完全に「自分を受け入れる」ことは出来ないと思います。

でも、部分的にであっても、人間が「自分を受け入れた」場合、少なくとも、その分だけは、「外界からの要求」に抵抗できるように成るんじゃないかと思っています。


「自分を受け入れた」人は、「外界からの要求」に対して抵抗しない理由が少なく成るということかもしれません。

納得できないようなことに対して、人が抵抗しないのは、その抵抗が通らなかったときに「自分の弱さ」を見せつけられることに耐えられないからなんじゃないでしょうか?

そういう「自分の弱さ」を受け入れた人は、もし、たまたま「外界からの要求」と「自分の考えていること」が一致している場合でも、「外界からの要求」を、半ば強制的に「受け入れ”させられる”」という形には、抵抗するように成るハズなんじゃないでしょうか?


これは、「ワガママを通す」とか「自己愛的」という意味での「エゴイズム」とは違うと思います。


「エゴイズム」は、力の優劣とは無関係に「自分」を「要求する側」に置いて、『自分を通そうとする』性質のもので、「自分を受け入れている」とは言えないでしょう。

  ※「自我」と言う意味では一致している部分もあると思います。


「自分を受け入れた」上での「抵抗や抗議」は、おそらくその「抵抗や抗議」が通らないだろうという前提での「抵抗や抗議」です。

自分より力のある者に抵抗して、初めてそれが抵抗に成るわけですから(力の弱いものに対する抵抗は、抵抗と言うよりは「要求」に近いでしょう)、通らない確率が高いわけですね。


その「通らない」と言う「自分の非力さ」を「受け入れる」から、そこで、臆せずに抵抗できるように成るわけです。


「受け入れた方が楽ですよ」と言うと、一見、人生を「達観」しているように見えます。
しかし、実際には、「力関係」で上位の者に”コビヘツラッテ”いることに成ってしまっていますね。
さらには、それを、「達観」しているように見せてしまっているわけですから、「非力な自分」も「実際には達観できない自分」も誤魔化されてしまっています。

これは「自分を受け入れている」とは言えませんね。


むしろ、受け入れるべきなのは「そういう自分」なのではないのでしょうか?
「”コビヘツラッテ”いる自分」や「自分をよく見せようとしてしまっている自分」を認めて、それを「受け入れること」こそ必要なのではないでしょうか?

そこで、そういう「自分の弱さ」を受け入れた人は、自分が「受け入れるべき」と判断したことは、受け入れるでしょうが、「受け入れるべきでない」と判断したことには、抵抗するでしょう。


「受け入れるべきでない」と判断しているのに、抵抗しないのは、その人が「弱い」からではなくて、「その弱さを受け入れていない」からだと思うわけです。


要するに、そういう時に抵抗しないのは、「抵抗できないから」ではなくて、「抵抗しても通らなかったときに”カッコワルイ”から」なんだと思います。


そこで、「人情」すらも機能しなく成ってしまった現代においては、何かについて抵抗したり抗議したりしている人に対しては、『受け入れてしまえば楽ですよ』と言うのではなくて、

『その要求を受け入れる必要など、まったく無い!』

『その抵抗が無駄だとしても、そんなことは、どうでもいいんだ!』

と言うのが「人情」のある言葉なのかなと。


そんな風に思うのです。

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2019年5月に追記

読み返したら、自分でも意味がよくわかりませんでした。
たぶん、読んだ人には、理解不能だと思います。

自分では、読んでいるうちに、書いたときの気持ちを思い出してきて理解できるようになりましたが、人には伝わらないだろうなと思います。
なんとか、意味が伝わるように書き直そうと考えましたが、どうも無理そうなので諦めました。

いっそのこと、削除してしまおうかとも思いましたが、この記事は気に入っているので、一応残しました。


そういうわけで、読んだ方はご愁傷さまです。

さらに、この追記まで読んでしまった方には重ねて、お悔やみを申し上げます。


「受け入れがたいものを受け入れること」と「拒否しがたいものを拒否すること」



前の記事に関連したことに成ります。


前の記事では、現代人は、「外界からの要求」を「受け入れ過ぎ」なのではないか?

そして、本当に受け入れた方がいいのは、外界から要求されたり、突きつけられたりするものではなくて、自分自身の中の「弱さや不完全性」を含めた「本当の自分」なのではないか?と言うようなことを書いたわけです。


さて、それに近い話で、「受け入れがたいものを受け入れること」が人間を成長させる、と言う考え方があると思います。
こういう考え方においても、ほとんどの場合、その「受け入れがたいもの」とは「外界からの要求」なんだと思うわけです。


ただ、そこで、敢えて「受け入れがたいもの」と言っていることで、それが「受け入れるのが非常に困難なものの」であるという条件が付いているわけです。

それで、結果的には、その「受け入れがたいもの」を「受け入れる」には、「本当の自分」をも、受け入れなければならないだろうということで、それが、人を成長させるということに成るのだと思うわけです。


まぁ、やっぱり「非常に困難」ですから、それを「受け入れる」過程で、「なかなか受け入れられない自分」や、意識としては「受け入れているつもり」でも、実際の行動が付いてこない「ジレンマ」などを、受け入れる必要が出て来るということなんでしょうね。


確かに、それは「自分を受け入れること」に成るように思います。


さて、そこで、これとは正反対に、「拒否しがたいものを拒否すること」についてはどうなんでしょうか?


人生の中には、「受け入れがたいもの」もありますけど、「拒否しがたいもの」と言うのもあるわけですね。
ただ、ここでは「抵抗できない誘惑」のようなものとは違って、もっと「拒否できない」の圧力が強いものということですね。


例えば、第二次大戦中の日本で、『私は人を殺すのは嫌なので、戦争なんかには行きません』と言って、徴兵を拒否することは、非常に「拒否しがたいものを拒否すること」ですね。


確かに、本当の意味で、「受け入れがたいものを受け入れること」は、「自分を受け入れること」無くしては、達成できないことのように思われます。

でも、実は「拒否しがたいものを拒否すること」もやはり、「自分を受け入れること」ができないと、達成できないことなんじゃないかと思うわけです。

と言うよりも、むしろ、こちらの方がより一層「自分を受け入れること」の比率が高くなるんじゃないかとも思います。


前の記事でも書いたことですが、「自分を受け入れた人」は、「外界からの要求」に対して抵抗するようになるものだと思っています。


人間には「自我」がありますから、その「自我」を持っている「自分を認める」ということは、その「自我」を表出するということに成るんだと思いますが、どうでしょうか?

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※ 「自我」を消滅させることをもって「悟り」とする宗教的な考え方がありますが、
  その「悟り」と言うのは、不可能なことであるという前提で語られる「達成不能
  な完全」という話なんじゃないかと思うのです。

  これは個人的な考えですから、そのほかの考え方を否定するつもりはありま
  せんが、「空」とか「無」と言うような「悟り」的なものは、現実に、人間が追い求
  めるために設定されたものではなく、「人間が遠く及ばないもの」として設定され
  ているんだと思うのです。
  それは、「涅槃(ねはん)」のような、「現実とは違う所」にあるもので、現実の世
  界でそれを追い求めることは、ある意味、最もそれから遠いことになってしまう
  んじゃないかと思うわけです。

  敢えて言えば、そこには手がとどかないかないということを知るために、つまり、
  「自分の非力さ」を思い知るために追究するということなのかも知れませんね。

  これは仏教系の宗教以外でも、同じようなことが言えると思っています。

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いずれにしても、「自我」を消滅させることは、そう簡単にできることでもないので、取り敢えず、”ヌキ”に考えてもいいんじゃないかと思いますので、人間には、「自我」があるという前提で言うと、やっぱり、「自分を受け入れた人」は、「自我」を表出するように成って行くものなんじゃないのかなと。


そうなると、やはり、「外界からの要求」に対しては抵抗することが多くなるように思うのです。


それは、「受け入れがたいものを受け入れること」で言うと、「自分を受け入れた人」が「受け入れがたいものを受け入れること」を選択するのは、それが、一番”マシ”な時だと思うのです。


「自我の判断」は「拒否」であっても、抵抗したり拒否したりすることを試したうえで(頭の中で試考するだけの場合も含めて)、それが何も生み出さないと判断した時に、仕方なく、『受け入れがたいものを受け入れる』ということなんだと思います。

つまり、「自我」を抑え込んで、「ただ漫然と受け入れること」ではないということです。


「漫然と受け入れること」は、「受け入れた」のではなく、「耐えた」或は「我慢した」ということだと思います。


また、「拒否しがたいものを拒否すること」においては、「自我の判断」が「拒否」であることは同じですが、「拒否」するのが困難なために、「受け入れて」しまった方が”楽”な場合に、敢えて、「自我の判断」に従って、困難な方を選ぶということに成ります。

結果的に、「外界からの要求」に対して、それを「受け入れるか、拒否するか」ということは絶対的な問題ではなくて、本当の問題は、「自分」をどう扱うかなんだと思いますね。

それが、人間にできることの限度だと言ってもいいのかもしれませんね。


現時点で、人間にできるのは、「自分を知ること」ぐらいなんじゃないですか?
まだまだ、「涅槃」は遠いと思いますね。


「自分の中」をどこまで見つめられるのか?そして、その結果として、どんな「自分」を「本当の自分」とするのか?
さらには、その「本当の自分」を「受け入れられる」のか?
ということなんじゃないのかなと。


それだけで、じゅうぶん大変!


そんな風に思います。

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2019年5月に追記

前の記事に続いて、こちらも意味不明だと思いますが、自分が気に入っているという理由だけで残します。

どうもすいません。



「人権」ってナニ?



「民主主義」は、「人権」を前提にして成り立っているわけですが、その「人権」って、いったいナニ?と言う話です。


そもそも、「基本的人権」と言っていますけど、あまりに当たり前すぎて、やや漠然としているという感じもするわけです。


百年も二百年も前ならば、「基本的人権」は光り輝いていたでしょうが、それは、その前の時代が、とても不平等であったということでしかないわけで、現代において、いまだに「基本的人権」さえあれば、それでいいということでもないんじゃないかと思うのです。

要するに、「基本的人権」は、ごくごく当たり前のことしか保証してくれないということですね。
まぁ、それだからこそ「基本的人権」は大事でもあるんでしょうけどね。

でも、やっぱり、「基本的人権」は当然のこととしたうえで、「現在形の人権」について考えていってもいいような気がするわけですね。


例えば、現在の労働環境に置いて、「労働者の人権」はあまり尊重されているとは言えません。

企業側や資本家の権利は手厚く守られていますが、「労働基準法」などは、実質的には労働者を守る法律になっているとは言えないでしょう。
そうでなければ、そもそも「ブラック企業」なんて存在すらできないハズですからね。


どちらかと言えば、「労働基準法」があることで、企業に『「それ以上のこと」はしなくてもいいですよ』と言う「お墨付き」を与えてしまっているところもあるように思います。


そして、さらには、違反しても明確な罰則規定がない場合も多いわけですから、むしろ、守られているのは「労働者」ではなくて、「企業側」と言ってもいいくらいでしょう。


また、過労死やパワハラなどの問題についても、被害者が出てからでないと機能しない法律と言うのは、法律として機能しているともいえないと思うわけです。
(実際は、命にかかわるような被害が出てからでないと、あまり役に立ちませんね)


それから、学校での「イジメ」について言えば、「子供の人権」も、まったく守られていません。

子供たち自身はもちろん、学校も、親も社会も、「子供のイジメ」をどうすることもできません。


昔なら、たかが「子供のイジメ」のハズだったのに、それが「自殺」などの「悲惨」と直結してしまっています。
一昔前のように、『たかが、子供の喧嘩だろ』と言っていられる状況でもないと思います。


「人権」ってナニ?って言いたくなりますよね。
そもそも、弱い側を守るのが「人権」の役割ではないかと思うのですがどうなんでしょう?

少なくとも現在は、社会的に強い側を守る「権利」は確立されていますが、弱い側を守る「権利」となると、急に『一応形だけは、ある』みたいな、極端にあやふやなものになってしまっているわけです。


しかし、はじめに書いたように、「民主主義」が「人権」を前提にしか成り立たないものであるのならば、この「あやふやさ」は、完全に「民主主義」自体の危機だと思うわけです。


今の政治家で、なんとしてでも「子供のイジメ」や「ブラック企業」を減らそうと、本気で尽力している人はいるんでしょうか?
「子供のイジメ」を減らすことすらできない人に、他の何ができるんでしょうね。

少なくとも、「自殺」に直結するような「イジメ」や「労働問題」を「しょうがないから」と言って放置しておいて、他に何ができると言うんですか?


もともと、「政治」と言う機構に、それ程の有効性はないというのが実態だと思っていますが、だからと言って『やろうともしない』というのは受け入れられませんね。


『政治がやる』のではなく『政治がやろうとする』ことによって、『社会がそっちの方向を向くようになる』ということじゃないでしょうか?
実際に有効性が現れるのは、さらにその後、ということだと思います。

だから、当然、「その政治家」が評価されることはありません。
効果が現れるのは「その政治家」が、「その尽力」をしたときではなくて、そのずっと後になってからで、しかも、思わぬ形で結果が現れて来るので、「その尽力」が原因であることはなかなかわからないわけですね。


いずれにしても、誰も『やろうともしない』なら、どうにも成るわけがないですよね。


そういうことを「やろうとした人たち」によって、作られてきたものの一つが「民主主義」なわけです。
その過程では、「革命」などにおいて、多くの血も流されています。

日本だって、開国に当たっては多くの人が命を失くしていたりもするわけです。


そうやって、やっと手に入れた「民主主義」なのに、「人権」一つ守れないというテイタラクは何なんですか?


とにかく「人権」を守らなければいけないと思います。
もっともっと、「人権」を尊重しなければ、「民主主義」も崩壊してしまいます。


「民主主義」が当たり前だと思って育った我々が、「民主主義」が崩壊した世の中で暮らすのはツライと思いますよ。


いま、戦争する勇気がある人はいるのかもしれませんが、「民主主義」が崩壊した世の中で暮らす勇気がある人っているんですかね。

自分が「奴隷」に成るかも知れないのに、それをやりますか?
そんな「チャレンジャー精神」はいらないですね。

私は無理ですね。

「権力者」の側に立つのもゴメンですね。
そうなったら、死ぬまでに何としてでも権力の座を離れますね。

死に切れませんからね。


間違いなく言えることだと思うんですけど、世の中で、今、一番大事なことは「人権」を確立することですね。


それ以外の「経済」や「軍事」や「国際関係」は、かなぐり捨ててでも、「人権」を確立するべきだと思いますね。


それができた国は、まだありません。
だからこそ、それをやる意味がありますね。

それでなくてどうしますか?
「民主主義」、無くなってもいいんですか?

他になんかあるんですか、替わりのモノが?


と言う風に思っています。




人が「真実」を恐れる理由



人は「真実」を嫌うものだと思うわけですけど、なぜ、「真実」をそんなに嫌うのだろうかと考えるわけです。


『いや、そんなことは無い!人間は真実を嫌ったりするとは言えない!!』と主張する人もいるかもしれませんよね。

そういう考えもあると思いますし、そういう人だっているとは思います。


でも、やはり、完璧な人間は居ないわけですから、その自分の中の「完璧じゃない部分」や、自分には「到底理解できないこと」があるということ、については、普通の人は見たくないものなんだと思うわけです。


と言うよりも、「見たくない」なんてナマヤサシイものじゃなくて、どちらかと言うと、「絶対に見たがらない」と言うのに近いんじゃないかと思います。

要するに、それは、「真実を恐れているから」なんだと思うわけです。


一体、何をそんなに恐れているのかと言えば、「自己のアイデンティティーが崩壊してしまうこと」なんだと思うのです。


つまり、人間は、「真実」を見てしまって、それを自分が認めてしまうと、自分の中の価値観が崩壊して、今立っている足場を失ってしまい、さらには、自分の存在すらも希薄になり、『生きている実感を失ってしまうに違いない』と思っているんだろうということですね。

たぶん、実際には、そんなことは起き無いんでしょうが、そう思っている人がとても多いとしか思えないほど、人が「真実」を恐れているのは確かなことでしょうね。

とは言っても、本人がそれを意識しているわけではなく、そう思っている人は、ごく当たり前のこととして、無意識に「真実」を忌避しているんだと思います。

そして、これがどうもよくないことなんじゃないのかなと思うわけなのです。


でも、これは当然と言えば当然のことだとも思います。

なにせ、ちょっと考えただけでも、『自分が存在している理由なんて、何もない』っていうことには、すぐに行き当ってしまいますし、『宇宙や世界の真理なんて、何もわからない』ということだって、みんなどこかで知っています。

そんな中で、目標を失わずに生きていくなんて、とても出来ないと思うのは当然と言えば当然のことですよね。


でも、実は、これはまったく恐れるようなことではないわけで、実を言えば、その『恐れる必要がない』ということも、みんなどこかでは知ってるんじゃないかと思うわけです。


ところが、その『恐れる必要がない』と言う部分が意識されることは、ほとんどありません。

その前に避けられてしまうために、なんとなく適当に『そんなこと考えたってしょうがないんだ』と言って「思考を停止」してしまうわけですね。

それで、「不完全な自分」や「理解できないこと」を「むやみに恐れること」だけが、意味もなく強く残ってしまうのでしょう。


確かに、「真実という箱」を開けてみたら、中は「真っ黒」だった。
しかも、いくら光を当てても全部吸い込まれてしまって何も見えない。

と言うのは、とても恐ろしいことでしょうから、あまり見たくないと思うのも当たり前かもしれませんが、その反面、いつでも「現実」はそこにあるわけで、そちらに目を戻しさえすれば、ちゃんと光を照り返してくれる世界がそこにあるわけです。
だから、ことさらに「真実」を恐れる必要もないわけで、また、ひたすら真っ暗な「真実という箱」の中をのぞき続けることにも大した意味はないのだと思うのです。


むしろ、そこで「真実」を恐れてしまって、「思考を停止」してしまって、まったく見ないようにしてしまうことによるマイナスが、とても大きいように思うわけです。


「現実」も、また、一つの「真実」なわけですから、ことさらに、「真実」を忌避していると、しまいには「現実」すらも見失ってしまうことにも成りかねないわけですから、出来ることなら、「真実」を恐れずに、少し気軽に見ていくのがいいんじゃないかなと。


そして、たまたま、「真っ黒なところ」に行き当たったら、一応確認する程度で、やり過ごしてやればいいんだと思うのです。


そこは、そこで、気が向いたら考えてみればいいと思いますけど、考えても、そこには結論など無いわけですし、それも、みんな知っていることなわけですから、そこに、力を使っても、なにかが得られるというわけでもないでしょう。


まぁ、「哲学的な真理」や「宗教的な悟り」を追究する人が、そこに取り組むことは無駄ではないと思いますが、その辺に全ての人が興味を持つわけでもないでしょうから、そういうことに特に興味がない人は、その「真っ黒な箱の中」をじっと見続ける必要はないと思うわけです。


それよりも、そこを忌避するがために、「思考を停止」してしまうことがよくないように思います。

先ほども述べたように、ちょっと考えただけで、すぐに「真っ黒な箱」に行き当たりますから、そこで「思考を停止」するということは、ほとんどなにも考えないことになってしまうわけで、それでは、「考える生き物」である人間としては、不十分なんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


そういうわけで、人が「真実」を恐れる理由なんて、もう、何もないと思うので、「自分の中の真実」を気軽に見られるように成ればいいんじゃないのかなと。


そして、それが「人間への入り口」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。




日本は、まだ半分しか「開国」してない?



日本という国は、「明治維新」の時に、「鎖国」を解いて「開国」したということに成っているわけです。


でも、今の日本人を見ていると、『まだ、鎖国してるんじゃないか?』と思うことがよくあるわけです。


要するに、「封建的」な人が多いということでしょうね。
なにか、こう、「開かれた感じ」がないんですよね。

別に、「鎖国」=「封建的」でもないんでしょうけど、取り敢えず、「地位」とか「身分」とかを抜きに、人間関係を考えられない人が、随分たくさんいるように見えますね。
(これは、とくに日本に限ったことでもないんでしょうが、日本しか知らないんで、日本の話ということで)


なんで、「赤ちゃん」から「年寄り」まで、「貧乏人」から「大金持ち」まで、「中卒」から「ノーベル賞受賞者」まで、すべて、対等だということが、なかなか浸透しないんですかね。


きっと、「ノーベル賞受賞者」と変わらないくらい賢い「中卒」なんてたくさんいると思いますよ。
ただ単に、「学者」は勉強ができることに自分の価値を置いていて、「中卒」は勉強なんてできないくらいの方がイイと思っているというだけの違いだと思います。


私は、とても「差別」や「格差」が嫌いなので、こういう、「段差」が気になってしょうがないんですねぇ。


要するに、日本人は、文化や文明の「開国」はしたけれど、「人の心の開国」は、まだできていないんじゃないかと思うわけです。
つまり、日本人の心は、まだ「鎖国」状態なんじゃないか?ということですね。
(まぁ、これも日本人に限ったことでもないんでしょうけどね)


そもそも、日本は「明治維新」で「開国」したということに成っていますけど、実際は、その後、日本に外国人がたくさん入ってきたというほどでもなかったでしょうし(一般庶民の目に触れる機会は少なかったんじゃないでしょうか?)、明治~大正~戦前ぐらいまでは、まだまだ、「和服」を着ている人も多かっでしょうし、食事だって、「日本食」中心だったと思います。


つまり、「文化・文明の開国」ですら、「第二次大戦後」に成って、「占領」されたことで強制的に「開国」させられたと言うのが本当の所なんじゃないかと思うわけです。

日本にとっての「本当の黒船」は「GHQ」だったのかも知れませんね。


一見、トテツモナク大きく見える「江戸期」~「明治」への移行の時の「文化的ギャップ」よりも、「戦前」~「戦後」への移行の時の「文化的ギャップ」の方が、一般庶民の「カルチャー・ショック」としては、より大きいように思うわけですね。

上手く説明できないんですが、「明治のカルチャー・ショック」が、”楽しげ”なのに対して、「戦後のカルチャー・ショック」は、”キュウクツ”な感じがするということですね。


「文化・文明の開国」ですらそうですから、「日本人の心の開国」についてとなると、「明治維新」については、まだまだ「鎖国」に近かったのかも知れません。

おそらく、それは「武士階級だけの心の開国」だったんじゃないでしょうか?
「一般庶民」は、ほとんど「蚊帳の外」だったような気がします。


そして、この「明治~戦前」と言う「曖昧な開国」の期間と言うのが、実は、日本人にとって、とても幸せな時間だったような気がしてならないのです。

「明治期」の「文学」や「大正ロマン」と言われる「文化」など、とてもユッタリとしていて、内容的には”シリアス”なものでも、どこか「人間的」で、追い詰められた感じがないというんでしょうか?

要するに「時代の空気を楽しんでいる」ように見えるわけですね。
(「文学」などに、詳しくないので、あくまで「そんな感じがする」と言う程度ですけど)


そして、それとは逆に、「戦後の日本文化」には、どこか常に「追い詰められたような余裕の無さ」を感じてしまうわけなのです。
「伝統」を断ち切られて「迷走」するしか無く成ってしまったという感じですね。

当然それは、「人間性」が希薄になる傾向があって、いつも”ギスギス”したものを押し付けて来るという印象があるわけです。


この「人間性の欠如」こそが、今の時代を最も締め付けている要因だと思うのですが、それを、本来「時代や社会」にゆとりを与えるような役割を担うはずの「文化」が、やってしまっているというのが現状なんじゃないかと思うわけですね。


この「開国」と言うキーワードは、「鎖国」をしていた日本に特有のものですが、実は、世界的に見ても、「文化・文明の開国」と「人間の心の開国」と言う考え方に、ほぼ当てはまるような出来事は、それぞれの国にあるのではないかと思うわけです。


たとえば、ヨーロッパなどの欧米社会に置いては、自由革命と産業革命が、それぞれ「人の心」と「文化・文明」の「開国」にあたるでしょうし、また、その後の共産主義諸国にとっては、「ベルリンの壁の崩壊」が、更にそれに続くものでしょう。


ここで、世界全体を一つの国と考えた場合、なんと言っても「産業革命」が最も大きな出来事だったんじゃないかと思います。


その「産業革命」と言う「文化・文明の開国」がもたらした「機械化」・「効率化」が結果的に「人間の心」を拘束してしまっています。

つまり、「文化・文明の開国」が「人の心の開国」を妨げて、「鎖国」に逆戻りしようとしているわけです。


このような状況の中で、「本当に鎖国していた国」である日本ができることはあるんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう?


その日本人が、いまだに「封建的」っていうのもどうなんだ?っていう感じがしてしまうわけですが、せめて、「人間の身分なんて、気にも留めていないという人が主流」ぐらいにならないものかと。


『そんなの理想論だろ』じゃなくて、『そんなの当たり前でしょ』とは成らないものなんでしょうか?


そんな風に思っているわけです。




「福祉」と「競争」



日本では、「年金制度」が崩壊しつつあるわけですが、その原因としては、急激な「少子化」と「高齢化」があげられることが多いんでしょうね。


でも、本当のところを言えば、「少子化」や「高齢化」が無かったとしても、もともと、「年金制度」のような「社会福祉制度」と「自由主義」の方向性が一致していないということなんじゃないかと思うわけです。


「自由主義」を「経済」に偏重した使い方をすれば、「競争」しか残らなくなってしまうということなんだと思いますけど、「年金」に限らず、「社会福祉」と言うもの自体が、ほとんどの場合、「自由競争の原理」に反しているわけです。

要するに、「弱い者を助けましょう」と言うのが「社会福祉」であって、「弱いものを淘汰しましょう」と言うのが「自由競争」なわけですから、ほぼ、正反対の方向を向いているということですね。

そこで、「一旦淘汰された弱者をもう一度回り込んで助けましょう」と言う、非常に効率の悪いことをやろうというのが、「自由主義の下での社会福祉」ということではないでしょうか?


これには、無理があるんだと思います。
どちらかを捨てないとならないんだと思うわけですね。


「経済優先」なら「競争原理」を取るように成るでしょうし、「人間優先」なら「福祉」を取るしかないでしょうね。

両方は無理だと思います。
正反対ですからね。


その辺のところを、なんとなく”バランスを取り”ながら、実のところ、なんとなく”ゴマカシテ”やっているのが、今の政治なんだと思いますね。


でも、もうそろそろ”ゴマカシ”ではなくて、どちらか一方をキッパリと選ぶ時なんじゃないかと思いますね。


『あれもこれもやります!』と言う政治家はたくさんいらっしゃいますが、『それをやれば、あれもこれも出来なく成ります!』と言う「スローガン」をあまり見たことがないんですね。

まぁ、そんなこと言えば、当然「選挙」で落選するんでしょうけどね。


でも、「現実」ってそういうもんだと思うんですけど、どうなんでしょう?
つまり、たった一つのことをやるために、いろんなことを諦めなければならなくなるということですね。

そこで、『人々が如何に気持ちよく諦められるようにするか』というのが、これからの政治に求められて行くことのような気がします。


要するに「地球の容量」が見えてしまったんだと思うわけですね。
「資源」にしても「領土」にしても限度があって、それが足りなくなってきているわけですから、「諦め」が必要になってきているのは間違いないでしょう。

「物質的な満足」を追い求めても、昔のようにはいかなくなったわけです。


そこで、「精神的な満足」を提供できる「政治」が必要になって来ているんだと思います。


なんだか、話がずれてしまいましたけど、取り敢えず、「キッパリ切り捨てる」なら、「人間」を切り捨てるのだけは、『勘弁してくださいまし、お代官さま』

と言う風に思っているわけです。





「文明は人の思考を停止する」・「文化はそれを再起動させる」



「文明」と「文化」の違いは、「物質的」と「精神的」と言う違いだといっていいんだと思うんですね。

そして、「文明」を生み出すためには、「文化」が必要だし、「文化」を達成したり維持したりするのには、「文明」が不可欠だと言えるんじゃないでしょうか?


そうやって、関連し合って、進んでいるのが「文明」と「文化」なんだと思うわけですけど、この二つには、「人の思考」のスイッチの「ON/OFF」を切り替える機能もあるんじゃないかと思うんですね。


つまり、「文明」が高じて来ると、

その中にドップリとつかった人間は、「思考」を停止して、余計なことは何も考えなくなってしまうのに対して、人間が「文化」に触れると、どんどん好奇心が湧いて来て、余計なことだろうが余計じゃないことだろうが、ありとあらゆるものに興味を持って、貪欲に「智」を求めていくようになるんだと思うのです。


この「思考のスイッチ」が入れられたり切られたりしている状態と言うのが、「人間の精神」を活性化させるんだと思うのです。

つまり、一時的に「思考」が停止しているということが”悪い”と言うわけではなくて、次に「スイッチ」を入れたときのために、気持ちを「リラックス」させるための「充電機能」ということなんじゃないでしょうか?


だから、やっぱり「文明」も「文化」も、人間にとって必要なモノだと思うわけですが、今の時代は、この二つのバランスがちょっとクルッテいて、実際には、ほとんど「文明至上的」な感じがするのに、その反動なのか、取って付けたように、やたらと「文化」をアリガタガッテみたりするようなところもあって、全体としては、不自然な感じがするわけです。


要するに、ほとんど「思考」が停止しっぱなしになっているということですね。
それを”ゴマカス”ように「文化」が使われているということでしょう。


もう少し、自然な感じで「文明」と「文化」の「思考のスイッチ」が、入れたり切ったり出来るように成るといいんじゃないかなと。


そんなことを考えてみました。

プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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