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「差別」と「区別」



「差別」と言うのが、わたしはとても嫌いなんですんねぇ。

一番嫌いなものは何かと言われたら、間違いなく「差別」と言うでしょうね。
なぜ、そこまで嫌いなのかはわかりません。

ところがですよ、「区別」は好きなんですね。
おかしいですよね。

どうも、私の中ではこの二つは全く別のもので、それほど近しいものではないようなのですね。

敢えて、この二つの関係はと言えば、正確に「区別」ができていると「差別」が起き難いということですね。


つまり、「区別」があいまいだと「差別」が起きて来るということですね。

それは、どういうことかと言えば、民族でも人種でも性別でもなんでもそうですが、違うものは違うと思うわけです。
それを、、無理矢理に、同じように扱おうとすると、相手と自分を同じようにみなしてしまうから、相手が自分と同じようにしないと、腹が立つわけです。

そこで風俗習慣が違うことなどから「差別」が生じるようになるのだと思うわけです。

だから、私は前もって、できる限り厳密な「区別」をしておくことで、かなりの「差別」は防ぐことができるのではないかと考えているわけなのです。
(これを「理解」と言うのだと思いますよ)

もちろん、完全に凝り固まった「差別主義者」というのもいて、その人たちの「差別」には、こんなことでは役に立たないですけどね。


でも、実は、今はもう「差別主義者」というのは、かなりの少数派かなと。
だから、一般的な人たちに「差別」が起きないようになれば、かなり防がれるんじゃないのかなと。

そして、そんなことから、私はどんなことにおいても、「範疇区分」を重視してしまうのです。
「区別」によって、いろいろな弊害が防がれるんじゃないかと、そして、「区別」をないがしろにしていると、とんでもない所に着地する結果になるんじゃないかと、私にはそんな風に思われてならないのです。




「上下のない世界」



前にも書いたことなのですが、私はとにかく差別や格差と言うものが嫌いで、なぜかは、自分でもはっきりしないのですが、生理的な嫌悪感に近いものを感じてしまうわけなのです。
(正義感や道徳心からきているものとも違うように思います)

だから、もしも、世の中が上下のないフラットな世界に成ったら、きっと気持ちがいいだろうなと思ってしまうのです。

もちろん、それが実現できるようなものでないことはわかっていますけれど、年齢、性別、人種、地位、などありとあらゆる階層の人が、ほとんど段差の無いような状態で、気軽に話し合えたり、交流できたりしたら、本当に自由だと感じられるのではないのかなと。


と言っても、つるつるにフラットな状態である必要はないのです。
緩やかな上下があってもいいと思うのです。

その段差が、気持ちよく乗り越えられるものであったり、試しに上ってみるのに丁度良いと、感じられる程度のものであればいいのです。


私は、そんな世の中に居られたら無条件に上機嫌でいられるように思うのですが、もし仮にですけれど、そんな世の中が実現したとしても、やっぱり、そこからも差別や格差と言うのは、生まれてきてしまうのでしょうか?

みんなが自由で、上機嫌でいられれば、差別や格差を生み出すようなストレスやコンプレックスがなくなって、差別や格差が生み出されることもなくなったりしないのだろうかと、そんな風に考えてしまうわけですが、難しいのでしょうね。


でも、絶対できないでもないのかなと。
5~600年くらい、経ったら、できるかもしれませんよね。

でも、そのときには、また別の「何か(=問題)」が現れているのでしょうか?


それにしても、上下の差なんて本当は初めから何処にも無いわけですから、そういう人間の妄想の中で創り出された「負の要素」なんて、あっても何の役にも立たないと思うのです。

と言っても、昔と比べれば、ずいぶん格差は小さくなっているし、差別もあからさまではなくなってきているわけですけれど、やはり、私としては、気軽に乗り越えられる程度の段差までになってほしいのです。


だから、「あれ、気が付いたら結構、世の中フラットになってるよ」なんてことが、あったらいいなと。
そういう幻想に浸ってみたりもする。

と言うわけなのです。




「性差」について



性別やそれに付随する役割については、ジェンダーと言う言葉で呼ばれていますが、そういった、性別によって生じているさまざまな「差」が、論争のテーマに成ることが多いわけです。


これは「性差」に限らず、あらゆる「差」についても言える事かと思うのですけれど、そこに「差」が生まれるのは、そこに違う種類ものがあるからで、同じ種類のものしか無ければ、「個人差」以外の「差」が生まれることはあまり無いわけです。
つまり、そもそも違うものだということを前提に「差」が発生しているのだと思われるわけです。

だから、「違い」という「段差」があることを踏まえて、話を進めないと話が混乱してしまうのだと思うわけです。
要するに、「男性の立っている平面」と「女性の立っている平面」は違う平面なわけですから、どちらか一方の平面だけを意識して、話をしていてもすれ違ってしまうのだと思うのです。

実際、その手の論争は、理屈の上では筋が通った論議のようになっている場合でも、結局は、お互いどちらか一方の立場から、ものを言っている場合が圧倒的に多いように思われるわけです。

それどころか、はっきりとどちらか一方の立場をとらないと話に参加することすらできないようなところもあったりするわけです。
要するに、「中立」=「八方美人」みたいな感じになってしまうわけですね。

そして、なぜそう成ってしまうかと言えば、「同じ」を求めてしまうからではないかなと。

「平等」や「同権」といった、「同じ」に近づけることを良しとするような、キーワードのもとに話を進めていくために、どうしても「同じ」を目指してしまうのかなと。

でも、実際に必用なのは、「同じ」ではなくて「違い」に対する話であって、その「違い」を前提にした「平等」や「同権」が、実は「同じ」とはかなり違うものなのだと思うわけです。

そして、その【「違い」を前提にした「平等」や「同権」】をどこに設定するのかということこそが、話し合う必要のあるところなのではないのかなと。

現在では、「平等」や「同権」は、かなり多くの人が認めているものであって、「男性側についた人」を、敢えて「差別主義者」に見立てて話をする必要は、もうないのかなと。

むしろ、みんなが「平等」や「同権」を求めているという前提で、その、男女それぞれにおいての「平等」や「同権」がどこにあるのかを見つけ出していくような作業が行われるべきなのではないかと思うわけです。


例えば、男女に同じ雇用機会が与えられることよりも、男女それぞれにおいての職業に対する充実度や、そこから生じる負担が均等に近いことの方が、望まれる「平等」であって、職種や職域自体に不均衡があったとしても、結果的に双方が納得できるような実態があれば、それでいいように思うわけです。

というよりも、「男女」が違うものであるということを考えれば、最終的なところでの「平等」を求めれば、当然その手前の所では「違い」が出て来るはずなわけです。
だから、むしろ「同じ」であることの方が、よほど「不平等」なことともいえるわけなのです。

そして、こういったことは、政治や法律で規制したり規定したりすることと言うよりは、現場的な、その場での決め事であるべきかとも思えますが、その決め事をするような習慣と言うものが、まったくできていませんから、やはり、何らかの方向付けが必要なのだと思うわけです。


それにしても、これだけ数が少なくなっている「差別主義者」に属する人が、かなりの数で、それを決める「政治」の世界に居たりするというのが、とても悲しいことなのかなと思ったりもするわけですけれど、権力と言うのはそういう性質のものなのかなと。


そんな風に思っています。



「逆差別」≠「差別」



このブログでも何度か書いていますけれど、私は「差別」と言うものがとても嫌いなので、これについてはよく考えるわけです。


「差別」に対抗して「差別し返すこと」、つまり、「逆差別」は「差別」と同じだと言う考え方があると思います。
その考え方には確かに一理あると思うわけです。


「逆差別」をしてしまえば、そこからまた「逆・逆差別」が生まれるという連鎖になってしまうので、それは、避けられるならば避けた方がいいのでしょう。

ただ、その「差別」に、あまりにも圧倒的な上下関係があって、あまりにも理不尽な歴史がある場合は、それが当てはまらないと思っているわけです。


そういう場合でも、「逆差別」が新たなる「差別」を生んでしまうのは同じでしょうし、それが必ずしも解決に成るともいえないわけですが、それでも、圧倒的な「差別」を受けた側の人たちが、それをそのまま帳消しにしても、必ず遺恨が残ってしまうわけでしょうから、どっちにしても、解決にならないことに変わりはないわけです。


だったら、一回だけ、「差別」した側が「逆差別」を我慢するしかないんじゃないかと思うわけです。

そこで、少しでも対等に近くなった時点で、初めて、『「差別」の応酬はやめよう』ということに成るんじゃないかと思うわけです。
そうやって、少しづつ格差を埋めていくしかないように思うわけなのです。


例えば、リンカーンは奴隷を解放しましたが、彼らにアフリカに帰る権利や資金を保証したわけではないわけです。
(当然、アメリカに残る権利も与えられての話ですね)

対等と言う前提であれば、当然そう言う話に成るでしょう。
と言うよりも、それぐらいで済まされるとは思えないでしょうね。


そんな中で、「差別」された側の黒人に、その後も「差別」を受け続けながら(実際には、「黒人差別」は奴隷解放後に悲惨なものに成っていったと言う事実もあります)、全部帳消しにしろと言うのは無理があるように思うわけです。

そこには依然として、『奴隷解放してやったんだから、もういいだろう』と言う上下関係があるわけです。


つまり、リンカーンは形式的な意味での「差別」だけは解消しましたが、「逆差別」を設定することはしなかったわけです。


なにが言いたいかと言うと、「逆差別」を「差別」としてではなく「区別」として行うことが、唯一の「差別」を解消する手立てだと思うわけです。

アメリカの人種差別の例で言えば、白人の側は黒人の持っている文化や歴史的背景を知ったうえで自分たちとは違う人種であることを理解して、そこに一度”ひれ伏す”必要があったわけです。

 追記:これは「オレははじめから差別主義者じゃないから」とか「私は差別
     なんかしていなかったから」という個人の話とは違います。
     黒人は、アメリカで黒人に生まれたことに対峙せざるを得ません。
     逃れる権利も術も与えられていないわけです。
     それと同じように白人もアメリカで白人に生まれたなら、好むと好ま
     ざるとに関わらず、その立場に対峙せざるを得ないわけです。
     そして、その「白人と言う人種」が「黒人と言う人種」を差別していた
     わけです。
     これは、「イジメ」などにも言えることですが、傍観しているだけでも、
     その人は、そこに参加させられているわけです。

例えば、黒人に対して「教育」や「職業支援」などの優遇措置をとって、一世代のうちに、社会的地位が確実に対等になるような政策を施していたならば、「差別」の歴史は少しは解消されていたかもしれません。

機会を均等にするということではなく、不均衡に優遇するということです。
それで、はじめて均等だということだと思います。
(実際はそれでもマダだと思いますが)


人類の歴史の中に「逆差別」が「区別」として行われたことは無いように思いますが、「差別」が避けられないものならば、それを「区別」に転換していくのがいいように思うわけです。


相手を知ることで「区別」することが出来るようになります。
「区別」することで「差別」する必要がなくなります。


つまり、「上下の格差」すなわち「縦の差」を「種類の差」すなわち「横の差」に、置き換えればいいのだと思うわけです。
もちろん、初めから、それができるに越したことは無いでしょう。


アメリカの人種差別については、外側から見る限りでは、かなり希薄になったように見えます。

でも、もっともっと「差別」から遠く離れた社会に成るといいなと。


そんな風に思っているわけです。





『私のように黒い夜』



前の記事との関連で、昔読んだ本のことを思いだしたので書きます。


この『私のように黒い夜』と言う本は、ジョン・ハワード・グリフィンと言う人が書いた本です。

かなり前に読んだので、忘れてしまっている部分もあって、細かいところで間違ったことを書いてしまうことがあるかもしれません。
(図書館で借りて読んだため、手元にないのでお許しください)


著者はジャーナリスト出身の人だったと思います。
人種差別に反対する運動などをしていた人のようです。

この本は、白人である彼が1959年に、アメリカ南部の黒人社会に潜入して、その実体験を日記形式で綴ったものです。


驚いたのは、その手法で、なんと彼は黒人に成りすまして、非常に危険とされていた、アメリカ南部の黒人貧民層が住む地区に、黒人として潜入したのです。

バレたら、当然命の保証はなかったでしょう。


彼は、人種差別反対運動を通じて日ごろから、、『白人である自分には、差別されている人たちの本当の気持ちはわからないのではないか?』と言う疑問を持っていたのでしょう。

そこで、自分が黒人に成って、黒人の目を通して差別を見てみたいと思うように成ったようです。


そこからが驚いたところなんですが、運動を通して知り合った医師に頼んで、薬品の塗布(確か飲み薬も使っていたと思います)や紫外線の照射(今でいう「日焼けサロン」みたいな感じだと思います)を、繰り返して(数週間~1か月ぐらいだったと思います)、しかも、実際の潜入に際しては、全身の体毛を剃ってサングラスをかけて、、本当にパッと見だと黒人に見えるようにしてしまったんです。
(当時の写真が出てましたが、十分黒人に見えました)


そして、彼は黒人貧民街に潜入して、様々な体験をするわけです。
それを脚色せずに、淡々と日記形式で起きた出来事だけを書いています。


はっきり言って、たいしたことは起きませんでした。
ちょっと危ないこともあったと思いますが、確か大したことは無かったと記憶しています。

それなのに、なぜか”ゾクゾク”します。
なんと言うか、「差別」、それも1959年にアメリカ南部の黒人が受けていた「差別」が、”ビリビリ”と伝わってきます。

例えば、「黒人の彼」がバス停でバスを待っているときだったと思いますが、ただ、おとなしく黒人用の場所で待っているだけなのに、白人の上品そうな御婦人が、彼の方に蔑むような表情をあらわにして睨みつけてきます。
その表情は「白人の彼」には一度も向けられたことが無い表情だったそうです。

こういう些細な出来事が、繰り返し淡々とつづられていきます。
読んでいるとだんだん「差別」と言うものが恐ろしくなってきます。

そして、「希望」とか「意欲」と言うものが、削ぎ落されていく感じがしました。


そして、彼が印象的だったこととして書いていたんですが、意外なことに、白人であることがバレるんじゃないかと言う不安をあまり感じなかったそうです。

彼が言うには、白人たちも黒人たちも、彼を一瞥して黒人であると判断した途端、黒人としてしか扱わなかったというんです。

よく見れば、顔だちや体つきなど白人であることが隠せない部分はあったはずなのに(まつ毛とか)、誰一人として疑おうともしなかったようです。

要するに、肌の色が黒いと言うだけで、他のことは一切問題にされなかったということです。
それが「差別」と言うものなのかも知れません。

実際に、当時の南部では、ほんの少しでも黒人の血が入っている者は黒人としてしか扱われなかったと言います。
だから、髪の色が薄い黒人や、目だけがブルーがかった色の黒人などもけっこういたらしいんですが、彼らはすべて「黒人」以外の何者でもなく、例外なく「差別」されたと言います(「平等な差別」ですね)。


つまり、「黒人であるということ」は、それだけで全面否定を意味しますし、「白人であるということ」は、それだけで全面肯定を意味します。

それが「差別」なんだと思いました。


そして潜入から帰還した彼は、この本を出版しますが、その後、彼は「K・K・K」などの人種差別主義者から、執拗な脅迫や嫌がらせを受けることに成るというおまけもつていました。

とにかく、人間同士が「差別」するということは出来る限り早くなくなって欲しいですね。


『差別なんてものはなくならないさ』と言う考え方の人もいるでしょうけど、私はそうは思いません。

きっと、なくなると思っています。

なぜなら、そこに「意味」がないから。


あとは、『いつなくなるのか?』ということかなと。


そんな風に思います。


「名前」について



「名前」には「姓」と「名」があるわけです。
その二つはなぜ別個に存在するのでしょうか?


「姓」は家柄を示していて、「名」の方は個人を示しているわけですけれど、なぜ、「名」だけではいけないのでしょうか?
いったい何のために「姓」は必要なのでしょうか?


確かに氏素性を現すものとして、「姓」があることで、その人のいろいろなことがわかるようになっているわけですけれど、そういうことは、どこかで身分とか格差を生み出す”モト”に成っているんじゃないかと思うわけなのです。
と言うよりも、もともと身分や格差を生み出すために「姓」を作ったんでしょうね、たぶん。


「歴史」や「伝統」を受け継いでいくことは大事なことだと思っていますけれど、それは、「血筋」や「家系」として受け継がれる必要は無いんじゃないかと思うわけです。


「血筋」や「家系」から受け継がれているものの大半は、「地位」であり、「権威」であり「財産」であります。

もちろん、もっとダイレクトなことでは、「遺伝子」が受け継がれているわけですが、実際の影響としては、「地位」や「財産」の方が大きかったりもするわけです。


そうなると、もう「姓」は要らないんじゃないかなと。
「名」だけでいいと思うのです。


それを嫌がるのは、イイ家柄の出身の人たちでしょう。

せっかく、イイ家に生まれたのに、それを名乗れなくなるのは損した気分でしょうが、イイ家に生まれなかった人は、始めからそれを名乗れなかったわけです。


イイ家に生まれた人たちは、それでなくても、十分にそこから受け継いでいるものがあるわけですから、それで満足してもいいんじゃないかと思うわけです。


そういうフラットな社会を気持ちよく思えるように成ったら、、もう少し、いいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。
(まぁ、無理でしょうけどね)


「平等」と「均等」の違い



「平等」とは、【大きさや形や色】が違うさまざまなものを、同じ高さに並べることで、「均等」とは、全ての物の【大きさや形や色】を統一することだと思うわけです。


人間には「平等」が必要で「均等」は不必要だと思うのです。

「均等」であっても、並べられた位置の高さが違ってしまえば「不平等」ですから、その「均等」は、ただ単にキュウクツなだけで、何の意味もないと思います。


だから、「不均等」で「平等」なのが、一番いいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。

 ※あとは「公平」というのもありますが、そちらは「公が下々に与える平等」のこと
  だと思います。
  つまり、「上下関係を前提とした平等」ということになり、やや、矛盾しているよう
  な気がしますね。
  単純に、「みんな(公)が平等であること」ならいいんでしょうが、それだと「平等」と同
  じ意味に成ってしまうので、やはり、おかしいような気がしますね。


「上・下の差」と「平等」



「平等」と言うと、「上・下の差」が無いことなんでしょうね。

それが「平等」の意味なんだと思うわけですけど、どうも、「平等」と言われるときに、やや、そこから意味がずれている時が多いんじゃないかと思うわけです。


つまり、「上・下の差」が無いことではなくて、「上・下の差」を埋めることを「平等」と言っていることが多いんじゃないかと思うわけですね。


「上・下の差」は必ずあるものとして、「無いハズがないもの」と言う考えに基づいて、それでも、「平等」にしなければいけないから、無理にでも「上・下の差」を埋めて、その「段差」をなくす、ということを「平等」と言っている場合が非常に多いんじゃないかと思うわけです。


確かに、それでも、一応平均化することには違いないでしょうが、それは、「なんとなく均等」ではあっても「人間としての平等」とは言えないような気がするわけです。


実際には、人間社会に「平等」と言う考え方が必要になってきたのは、「上・下の差」があっても、なんとしてでも「均等」にする必要があったからではなくて、「上・下の差」と言うものは、実際には、ほとんどないということがわかってきたから、もしくは、「上・下の差」を判断することがほとんど不可能なほど、人間の価値基準が複雑になったからなんじゃないかと思うわけです。


人間が、もっと動物的であった時には(今も動物ではあるんですが)、おそらく人間の価値の基準は、かなり単純であったわけです。

例えば、「体が大きい」とか、「心身ともに丈夫である」とか、「生殖能力が優れている」などと言った、ある意味で単純な要素が価値基準のほとんどだったわけです。
(それだって、本当は複雑なんでしょうが、人間にとって把握し易いということなのでしょう)


ところが、人間が「知能」に特化した生き物に成った時から、人間の価値基準は、急激に複雑化して、それは、あまりにも、多岐にわたっているために、もはや、「上・下の差」を設定しきれないほどに成ってしまったわけです。

例え、そこに「上・下の差」が存在するのだとしても、複雑すぎて、誰にもそれを正確に判断することが出来ないし、敢えて、無理矢理に、その判断を下さなければならないほどの大きな差も無さそうだから、「すべて平等」ということにしてしまったほうが、わかりやすくていいだろう。

ということで「平等」と言う概念が確立されてきたんだと思います。


それなのに、いまだに、「平等」ということを、「上・下の差」を埋めることだと思ってしまうのは、なぜなんだろうか?と考えるわけです。


おそらく、それは、「社会のヒズミ」が創り出している「力の上・下の差」を、「人間の価値の上・下の差」と取り違えてしまうからなんじゃないかと思うわけです。


例えば、「レイ・チャールズ」や「スティービー・ワンダー」のような盲目のミュージシャンが居ますが、彼らが野生動物であれば、自然界の法則の下に、真っ先に淘汰されてしまったでしょう。

しかし、人間が「知能」や「知性」に特化した生き物であるために、彼らには「ミュージシャン」と言う仕事が与えられ、それによって、彼らは社会の中で成功して、「力の上・下の差」において、「上」に位置することが出来たわけです。

そこで、成功した彼らを低く見る人は多くはありません。
でも、彼らが、もし、紙一重の差で、ヒット曲を生み出せなかったら、どうだったでしょう。

黒人で盲目である彼らの選択肢は多くはなかったのかも知れません。
また、「力の上・下の差」に置いて、「上」に位置することも無かったんじゃないでしょうか?


「人間の価値の上・下の差」に置いては、ほとんど変わらないのに、社会の中での「力の上・下の差」に置いては、大きな差が出てしまうというわけですね。

そして、その二つが、混同されているということです。


このことは、人間が「知性の価値」を認めていることをあらわしてもいますが、反面、それを、正しく理解してはいないことをあらわしてもいます。


つまり、人間が「知性の価値」を認めているからこそ、一流ミュージシャンとしての「レイ・チャールズ」をバカにしたりはしません。

しかし、その「知性の価値」を、正しく理解してはいないから、売れないミュージシャンとしての「レイ・チャールズ」のことは、平気で低く見るというわけです。

むしろ、それは「当然のことだ」と言う考え方の人も多いのでしょう。


これは、何も彼らのような有名人に限ったことではなく、一般人に対しても同じことが言えていて、実際に「上・下の差」があるのは、社会の中での「力関係」に置いてであって、「人間の価値」に置いてではないわけです。

そこのところを取り違えたままで、「平等」などと、言葉だけで言っていても、そこには、ほとんど価値はありませんし、そういう中で、無理して「上・下の差」を埋めようとしても、すぐに本音が出てしまうわけですね。


つまり、そういう人は自分の中に「差別的な面」を持っているということですね。
と言うよりも、すべての人の中に、そういう「差別的な面」があるといってもいいのかも知れません。

その部分が、大きい人と小さい人が居るということなんでしょう。

それなのに、教育で「平等」を徹底的に刷り込まれていますから、そちらにも逆らえなくなっているわけです。


そこで、「上・下の差」はあるけれど、「それを無理にでも埋める」と言う方法論が導き出されてくるのでしょう。


そういう人は、無理して「平等」なんて言わずに、一度、自分の中の「差別的な面」を、受け入れてみたほうがいいように思うのです。


そして、その「差別的な面」が、簡単に受け入れられてしまうのであれば、それは、それで、その人にとっては仕方ないことなんだと思います。

その人は、もしかしたら、「差別主義者」としてやっていくしかないのかも知れませんね。


でも、もしも、それが受け入れられないのであれば(実際は、ほとんどの人が受け入れられないハズですけど)、「上・下の差」なんてものは、もう、とっくに存在しないということを、認めるしかないんだと思うわけですね。


少なくとも、人間同士の間にはですね、もうだいぶ前から、「上・下の差」を設定することには、意味が無く成っていると思うんですよね。

それなのに、なんで、そうまでして「上・下の差」があるということにしたいんですかねぇ。


要するに、『ここから下の相手に対しては、威張ってもいいんだ』とか、『ここより上の相手になら、ペコペコしても恥ずかしくはないのさ』と言う基準が欲しいんじゃないんですか?


『あなたは恥ずかしくないでしょうけど、傍で見ているとけっこう恥ずかしいもんですよ』


傍で見ているのは「人間の私」ですね。

見られているのは「動物の私」です。

もしも、両方とも「私」だったら、という「話」ですね。


そういう風に思います。



 

「男女の役割分担」について

このブログでも何度も書いているんですけど、私は「差別」が、生理的に嫌いなので、チョットでも「差別的」な匂いがするモノには、
やや、過剰に反応してしまうわけです。

ところが、これも何度も書いているんですけど、「区別」は大好きなんですねぇ。

こう言うと、『実は、自分で気が付いていないだけで、けっこう、差別主義者だったりするんじゃないの?』と言われるんじゃないかと思ってしまうわけなのですが、そう言うわけでもなくて、私の場合、「差別」と「区別」は、むしろ「対極的なもの」として捉えているわけです。


要するに、「区別」がしっかりできていれば、「差別」が生まれにくいと思っているわけですね。
逆に、「区別」がイイカゲンだと、「差別」が生まれやすいということですね。


たとえば、「男女の区別」にしても、最近の傾向として、「男女同権」と言うときに、「男女」の間にチガイがあってはならないという感じがあると思うわけですが、こういうのは、まったくナンセンスだと思ってしまうわけです。


「男」と「女」が違う「性」であることは明確なわけで、そのチガイに基づいて、いろんな「差」が出て来るのは、むしろ当然のことですから、そこに、いちいち目くじらを立てても何の意味もないわけです。

その「差」を埋めて「同じ」にすることよりも、その「差」を尊重し合っていく方が、遥かに意味がありますし、それ以上に、「男女」両方とも”ラク”だと思いますね。


今の社会(日本しか知りませんけど)を見ていると、「女性」が無理に「オトコ」に成ろうとしているように見えてしまうんですね。
さらに言えば、そんな風に”仕向けられている”ようにすら見えるわけです。


いま、社会の中心に近い所で活動している「女性たち」を見ていると、アリエナイくらいに”苛立って”いるように見えてしまうことがとても多いのですが、これは、私のキノセイでしょうか?

そういう「女性たち」が、何も起きていないのに、常に”怒っている”ように見えてしまうし、いつも何かに追われているような、余裕のない感じを漂わせていて、まわりの人に対して、『そういう自分の状況を察しろ!』と要求しているように見えてしまうわけなのです。


これは、たぶん、無理に「オトコ」に成ろうとしていて、しかも、それが自分の望んだことだと思い込んでしまっているからなんじゃないかと思うわけです。


これは、決して、『女性はオトナシク家事をしていればよかったんじゃないか?』ということではなくて、すべてが、「オトコ」であることに合わせるように仕向けられているということが問題なわけです。


「オトコっぽく」仕事をこなせる「女性」がエライのではなく、「男女」を問わず、「その人らしい仕事」を感じさせてくれる人を見ると、誰でも嬉しくなるということなんじゃないでしょうか?


でも、「オトコっぽく」ないと、今の世の中では評価されませんから、それが悔しくて、「オトコっぽく」してしまうというような感じに仕組まれているわけですね。

そして、さらに、そういうのこそが「カッコイイ女性」なんだと、「できる女」のイメージを刷り込まれてしまっているわけです。


こういった刷り込みは「女性」に限ったことでもないでしょうが、それが自分には合っていない「性」に合わせることだとしたら、そりゃあ、”イライラ”するでしょうね。


「男女」の間に限ったことではありませんけど、いろいろな意味での「役割分担」が見直される必要があるんじゃないでしょうか?

そういうことって、昔話なんかに書いてあることだし、誰でも知っていることのハズなんですけどね。

要するに「お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に」と言う感じでしょうか?

 ※「芝刈り」と「洗濯」ならまだしも、『お婆さんがチェーンソーをもって大木を
  切り倒しに、お爺さんは家で編み物を』という話だと、やや問題が出てくる
  ような気がしますね。

実は「同じにすること」こそ、最も「差別的なこと」だということが、認識されるべきなんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「財産」



「財産」と言うものは、「持てる者」と「持てない者」の間に「格差」を生み出してしまうモノだと思うわけです。
そして、その「財産」こそが「資本主義」の根幹を成している「資本」と言っていいんだと思うわけです。
ということは、「資本主義社会」は「格差必定の社会」だということですね。


「資本主義」は「自由主義」や「民主主義」と結び付けて考えられることが多いですから、「平等」とも”セット”なような気がしてしまうわけですが、実は、もっと昔の「封建的な社会」に比べれば、「少し自由」だったり、「少し平等」に成ったというだけで、まだまだ、全然「自由」でも「平等」でもないというのが実態なんでしょうね。


たとえば、「遺産相続」と言うのがありますけど、あれは、どう考えても「平等」とは言えないわけで、少なくとも、「財産」が多い家に生まれた人と「財産」が少ない家に生まれた人は、金銭的には不平等だということでしょう。


「金銭」なんてどうでもいいことなのかも知れませんが、「社会」や「法」が規定できる「平等」とは、そういう「どうでもいいこと」の「格差」を埋めていくことぐらいなんじゃないかと思います。


さらに言えば、それをすることが重要だというよりは、それをしないで放っておくことが、人間の心を腐敗させてしまうということでしょう。


昔、アメリカで、ある黒人の女性がバスの座席に座っていたときに、白人から席を譲るように言われても動かなかったことが、人種差別撤廃運動が起きる原因の一つに成ったのは有名な話ですが(アラバマ・バス事件)、その時、「バスの席に座ること」が重要だったわけではなく、「誰でも平等に座れること」が「社会が提供できる平等」だったということでしょう。


そういう意味で言えば、「遺産相続」なんて、必要ない制度なんじゃないかとすら思いますけど、なんでそれが無く成らないかと言えば、要するに、「お金持ち」が”ソン”するからですね。

そして、その「お金もち」がほとんどの法律を作っているわけですから、無く成るわけないですよね。


「財産」が、本人が死んだときに「すべて没収」だったら、きっと「国家財政」が随分潤うでしょうね。


これは、「社会主義」とか「共産主義」的な考えではなくて、ただ単に「遺産相続」だけについての話ですね。


それにしても、この「財産」ということについては、「平等」と言う建前が、あまりにも完全に無視されていると思うわけです。

まぁ、「資本主義」なわけですから、当然と言えば当然ですけどね。


でも、実際には、「資本主義」であるからこそ、そこを、一番重点的に「平等」にする必要があるハズなんじゃないんでしょうか?


だって、すべてのことが「資本」を基準にしてまわっているのが「資本主義」なわけですから、そこが「平等」でなければ、いくら他の所を「平等」にしても、あまり意味がないということでしょう。

少なくとも、経済面に限っては、「財産」に関することを「平等」にしなければ、「平等」はあり得ないということでしょうね。


実際上、できないことが多いのは当然ですが、出来ることでもやっていないことがたくさんあるのも事実だと思いますね。


いえ、決して自分に「お金」がないから言ってるんじゃないんですよ。

実は、「財産」に拘束されているのは「お金持ち」も同じなんじゃないかと思うわけです。
つまり、この「財産の格差」に、「持てる者」も「持てない者」も両方とも縛り付けられているんじゃないかと思うときがあるんですねぇ。


「本当は、そこにはない幸福」を追う羽目になっているっていうような感じがするんですね。


「お金」と「幸福」が必ずしも一致しないものだということは、みんな、なんとなく感じていても、実際に「お金」を持たされたり、持たされなかったりするから、そこに「価値」や「幸福」の「幻想」を作り出してしまうということでしょうか?


さっきの話で言えば、バスの席に座って動かなかった、彼女は「席に座りたかった」というよりは、「人間としての尊厳」を望んだのでしょうが、「座れる人」と「座れない人」がいると、「席に座ること」と「自分の尊厳」が同じものにしか見えなくなってきてしまうわけです。


実際には、「バスの席」が「平等」になっても、人の心から「差別意識」が無くならないのであれば、あまり意味がないわけですが、はじめから、そこに「不平等な席」が頑としてしてあると、双方が、「平等」の位置を見失ってしまい易いということなんじゃないでしょうか?


そういうことで、「資本主義」だからこそ、「財産」は死ぬ時には「没収」。

その「お金」を有効に使えば、きっとナニカいいことがありますよ。

そうすれば、「お亡くなりに成ったお金持ちの方々」も、さぞ満足なんじゃないのかなと。


『そんなことは無いと思います、!』

『おしまい・・・・』


「平等」の「社会的な機能」について



「平等」は、社会的な「正義」とか「道徳」として捉えられることが多いと思いますけど、実は、「社会的な機能」として捉えた方がわかりやすいし、本当の意味で「平等」が実現されるためにも、そういう解釈の仕方をしていった方がイイんじゃないかと思っているわけです。


要するに、『正しいからやる』ではなくて『そっちの方が都合がいいからやる』と言うことです。


今でもまだ、「平等」よりも「不平等」の方が都合がイイという人もいるんでしょうが、「不平等」は、そういう人たちにとってすら、その人たち自身が思っているほどは「都合のいいモノ」でもなく成ってきていると思うわけですね。


たとえば、「不平等」がお好きな方々にとっては、「弱者救済」というのは、「都合の悪いモノ」と考えられているのかも知れませんが、実を言えば、その「弱者」から自分たちが利益を吸い上げていたりもするわけです。

実際、昔から権力者の立場を支えているのは、常に「底辺にある人」なわけで、「下層」がなければ、「不平等」すらもなりたたないわけです。

そういう「上層」と「下層」の差を少なくして、出来るだけフラットな世の中を作っていこうというのが「平等」と言うことなんだと思いますけど、いろいろな人に、いろいろな意味で、「平等」という意識が刷り込まれている現代社会においては、その「上層」と「下層」の差を、いっそのことなくしてしまった方がかえって、都合がよくなってきているわけです。


実際、100年も200年も時代を逆戻りしようというのなら別ですが、現代社会の延長上に未来社会を考えるならば、もう「平等」という考えを根本から外した社会構造と言うのは有り得ないでしょうから、少なくとも、「建前上の平等」だけは維持していくことに成るわけです。

そういう状態の中でナントナク誤魔化しながら、「見えない所」で「不平等」を作り出しては、そこで悪銭を稼ぐというようなことをやってきたのが、現代の権力構造の実体だったような気がします。

ところが、最近になって急激に情報の流通が活性化したために、「見えない所」がほとんど無く成って来て、「カクレ不平等」を作り出すのが大変になってきたわけですね。

要するに、そこから得られる利益よりも、「カクレ不平等」を作り出すために使う手間の方が大きくなってきたわけです。


数十年前ならともかく、ここ十数年くらいのことで言うと、明らかに、『普通にやっていたほうが「トク」なんじゃないか?』と思うような「無理なカクレ不平等」が増えていると思います。
そういう「無理なカクレ不平等」を強引に作り出して、一時的に利益を得たとしても、その後あっという間に、じり貧の状態に陥ってしまうというようなケースが増えているんじゃないでしょうか?


『だったら、いっそのこと「平等」にしちゃった方がトクなんじゃないですか?』ってことですよね。


そうは言ってみたものの、そういうことで「平等」が実現しそうもないなと感じてしまうのは、けっきょく、「不平等、そのもの」がお好きな方々がいるということなんだと思いますね。

つまり、そういう人たちにとっては、ソンしてでも「不平等」な方を選んでしまうわけで、『なんとしてでも「平等」にしたくない!』ということなんだと思います。


まぁ、言ってみれば彼らにとって「不平等」は「趣味」みたいなものでしょうね。

それどころか、同じ「不平等」でも「カクレ不平等」じゃないとどうも納得できないというような、「マニアック」な方なんかもいらっしゃるようで、『純粋に好きだからやってるんですよ!』と言われたら、なんと説明したらいいんでしょうね?そういう人には。


さらには、ここにきて、そういった「マニア系」の方々の「マニアック度合」がアップしてきていて、『この人、最終的にソンしないと気が済まないんじゃないの?』と言う方まであらわれてきているみたいなので、もう説明しようがないでしょうね、そういう人には。


昔は、権力者側の立場にいる者が、その「不平等」を使って利益を得たとしても、それが叱責されることなどほとんどなかったわけですが、現在となるとどうでしょう?

公然のこととして、「不平等」を使えば、「社会的評価」や「世間的な信用」を失うでしょうし、最終的には、誰からも相手にされなくなってしまうでしょう。
また、「不平等」であることを隠すためには「不正な行為」を行わなければならなくなるので、その「不正」が発覚したときには、こちらの方が、さらに失うものが大きくなるでしょう。

そういった、「損失」も、もう十分にわかってきているハズなのに、なぜか、「不平等」がなくなりません。

不思議です。

でも、あまりにも理に適ていないので、きっと、そのうちにはなくなると思います。


まぁ、取り敢えず、「不平等」はソンになって来てるみたいですよと。

そんな風に思っているわけです。




「種類わけ」と「身分わけ」



「範疇分け」という作業を嫌う人も結構いると思いますが、私は「種類」を分けることはとても重要なことだと思っているわけです。
なぜなら、「種類」を分けないことから「差別」が生まれることがとても多いからです。


「人種」にしても「民族」にしても「宗教」にしても、他のどんなことにしても、「種類」を分けないで「違うモノ」を「同じモノ」として考えようとすると、必ずどこかに無理が出てきて、相手を「差別」するように成るわけです。


もちろん、理想を言えば、「種類」なんか全然気にしないで、全てのモノゴトを均等に考えて、それでも「差別」しないで居られたら一番いいのだと思います。


でも、実際には、「種類」を分けずに「差別」を無くすことは難しいと思いますね。


たとえば、「民族」によって「風習」も違えば「価値観」や「道徳観」も違うわけですから、それを、同じモノサシで計ったのでは、「異民族」の「異文化」が、どうしたって「違和感」に成ってしまうわけですから、当然、多くの人が受け入れられなくなってしまうわけです。

モノサシ自体が違うわけですから理解できるはずがありません。


それを無理にわかろうとするから、「差別」が生まれるんだと思います。


『これは「チガウ種類の民族のチガウ種類の文化」なんだ』と思うことで、人間はようやく、『「区別」はするけど「差別」はしない』という位置に立てるるんだと思うわけです。
つまり、その辺が、「現在の人間」の立って居る位置なんじゃないかと思います。

『「区別」も「差別」もしないよ』というのは、まだ「現在の人間」には無理だと思います。
(少なくとも、私は出来ないです。世の中で「差別」が一番嫌いなのに!)


それに、この「区別」には、言われているような弊害はないと思います。

実を言うと、いま嫌われているのは、同じ「範疇分け」と言っても、「種類わけ」ではなく「身分わけ」のように、モノゴトを「上・下」で分けるタイプの「範疇分け」であって、これこそが、まさに「差別」でもあるわけです。


逆に言うと、「区別」とは「種類分け」のことであって、そちらにはほとんど害はないということです。

害が発生しないのは「上・下の差」が無いからですね。
横並びの「種類」は多くても何の害もありません。


むしろ、「種類」が増えることは、一種の「豊かさ」であるとも言えるわけで、プラス要素もあるくらいですから、嫌う必要はないように思うわけですね。


そういったことから、「範疇分け」は「種類分け」と「身分わけ」があって、「種類分け」をすることで「身分わけ」をしないようにできたらいいのかなと。

そうすれば「差別アレルギー体質」の人には、少し生きやすい世の中になるのかなと。
(そんな人、あんまり居ないの?)

そんな風に思っているわけです。



「ナショナリズム」の本質



「ナショナリズム」についてです。

自国の利益を優先したり、自国の優越性を誇示したり、それらのことのために自国に献身することを「ナショナリズム」と言うわけですが、これがどうも私には理解できないないんですね。
スポーツなんかでも、なんで、自国の選手やチームしか応援しないんですかねぇ。

わかりません。

まぁ、身近な人物に肩入れしてしまう気持ちまではわかるんですけど、徹頭徹尾自分の国しか応援しないというのはどうも理解できません。
オカシイんでしょうか?わたし。

自分のことで言うと、どうしてもスバラシイ選手の方を応援したくなってしまうんですねぇ。
必ずしも「強い」とか「ウマイ」と言うんじゃなくて「そのスポーツの選手」として『実にスバラシイなぁ』と言う選手っていますよね。
そういう選手がいると、その人を応援したくなってしまうわけなんですねぇ。
たとえ日本人選手が相手だったとしてもです。

迷いませんね。

もちろん日本人を一切応援しないということじゃないでけど、日本人選手のことは情報が多いですから好きになる確率も高くなりますが、その反面、嫌いになることも多く成るわけです。
そうなると、どちらかと言うと外国選手に肩入れしたくなってしまうこともかなり多かったりします。
やっぱり、ヒネクレテいるんでしょうかねぇ?

とにかく、良いか悪いかは別として、私には「ナショナリズム」と言われるような考えが、やや欠如していると思います。

そこで、その「ナショナリズム」とはいったいナニなのか?と考えてみたわけです。
「ナショナリズムの本質」ですね。

で、結論から言ってしまうと、「ナショナリズム」っていうのは「最大単位の利益追求」なんだと思うわけです。
つまり、自分が所属している最大単位の集合体のための「利益追求」が「ナショナリズム」なんだと思うわけですね。

今は、「国」が世界中の人にとっての最大単位の集合体ですから「国家主義」=「ナショナリズム」なわけですね。
と言うか、「国」っていう言葉がそういう言葉なんだと思います。
つまり、地域的・民俗的・文化的な最大の区分を「国」と言うのかも知れません。
そのスケールがだんだん大きく成って、現在の「国家」に至っているんだと思います。

まず、ここに一つの「言葉の仕掛け」があって、「国」と言う単位を、「法・秩序」とか「政治的統治」とか「権力機構」と言う管理体制だと思いがちですし実際にそうでもあるんでしょうが、それはあくまで組織の枠組みとしての「国家」であって、「ナショナリズム」における「国」とは少し違う単位だと思うわけです。
(まぁ、たいてい「国家」と「国」はほぼ一致していると思いますけど)

戦国時代の日本では、現在の「県」くらいの単位が「国」だったわけだし、その逆に、先の時代に成って、地球外生命体が現れれば(めったに現れないと思いますけど)「地球」や「星」と言う単位が「国」に成るんだと思います。

いずれにしても、その「最大単位の集合体」のための「利益追求」が「ナショナリズム」の本質的な意味だと思います。
だから、「自国」と「他国」であれば、いかなる時であっても「自国」の方を優先しますし、「お国のため」であれば、「個人」は犠牲になってもやむを得ないということに成るわけですね。

『国を愛する』と言うと美しいことに聞こえるんですけど、実を言うと「利益追求」なんだとすれば、『それほどでもない?』と言う感じもしてくるわけです。
本来、人間は「人間」を愛するように出来ているような気がするんですが、「国」って、ホントに愛せるもんなんでしょうか?

集合体の単位を小さくしていって、「家族」だったら問題なく愛せると思います。
でも、「親族」ぐらいでも、もう怪しく成って来ます。
「地域」なんてもうほとんど何の意味もなくなりつつありますよね。
それなのに、一足飛びに「国」だと愛せるって、なんかオカシクないですか?

これは、「愛情」と「利益」の二つが重なっていることで、見えにくくなるんだと思うわけです。

「家族」の間は基本的に「愛情関係」で成り立っているわけですが、「親族」に成るとそうとも限らなくなりますよね。
血縁と言うだけでろくに会ったこともない人も居るわけで、特に親しい叔母さんとかじゃない限り「愛情」の持ちようがないことも多いということです。
「地域」なんかだと、ほぼ「関係ない」ということなわけですから、「愛情」以前の問題でしょう。

でも、実はこのことは「国」でも同じことで、たとえば「スポーツの選手」なんて知らない人ばかりですから、「愛情」なんてあるわけがないです。
それなのに、どうして日本人だというだけで無条件に応援してしまうんでしょう?
「国」に「愛情」を感じている人が、こんなにもたくさん居るのはなぜなんでしょう?

ここで「利益」が出てきます。
「スポーツ」だと分かりやすいですが、要するに『相手がいる』ということなんですね。
「敵」と言い換えてもいいと思います。
その相手が「他国」なわけです。
だから、「自国」を応援することは自分にとっての「利益」であるわけです。
つまり、「他国」と「自国」の間の「利益の取り合い」ということですね。

日本人が勝って、『日本人が優秀だ!』ということに成れば、「自分」にもトクなことがあるんじゃないか?ということです。
反対に、「他国」が勝って「日本」が負ければ、『日本人が劣等民族だ』ということに成って、まわりまわってどこかで「自分」がソンをするんじゃないか?ということに成るわけです。

その点、「親族」とか「地域」と言う単位は「相手」を想定して使われることが少ないんですね。
だから、どうでもいい扱いに成っているわけです。

つまり、「家族」は「愛情や愛着」でつながっているし、もちろん「利益」でもつながっています。
「国」は「愛情」はなくとも「利益」でつながっています。
「親族」や「地域」にはどっちのつながりも薄いんですね。
だから、どうでもいいわけです。

 ※「地域」を「規模を少し小さくした国」と見るような考え方をした場合
  は、やはり「利益」が発生しますから、「ナショナリズム」に似た「同
  郷意識」が生まれるんでしょうね

ここのところを、少し間違えている人が多いと思うんですね。
『「国」を愛している』と思っている人ってけっこう居ると思うんですが、たぶん本質としては「見えない利益」を追求していると思います。

さっきも書いたように「国」って、その場その場で変わってしまうような単位なわけで、「地球外生命体」が現れた途端に『地球全体を愛するように成る』なんてことあるわけなくて、その方が『利益がある』ということなわけです。
じゃないと侵略されたりしますからね。
その場合は、「民族」も「宗教」も「法・秩序」や「政治的統治」なども全部無視して「地球」と言う単位の「国」が発生するわけですね。
たぶん、「相手」や「敵」が想定された瞬間に「地球国」が出来てしまうんだと思いますよ。
「管理機構」が出来て来るのは後からで、その前に意識としての「地球国」が多くの人の中に発生してしまうんだと思います。

まぁ、そんな感じで成り立ってしまう「国」ですから、「愛情」とは無関係なんじゃないかと思いますね。
つまり、「利益追求」も、地域の風俗や文化や自然などに対する「愛着」も、混ざった漠然とした概念としての「国」を愛していると思っているだけで、実は、その中で一番強いのは「利益追求」なんだと思います。

 ※たとえば、現時点で「地球愛」をうたっている人や団体は、ほとんどの場合「ナショ
  ナリズム」に否定的だと思います。
  むしろ『「国」を分け隔てるのはやめて、みんな一つの地球を愛しましょうよ』と言う
  方向だと思います。
  ところが、「地球外生命体」が現れたと仮定した場合には(まぁ、めったに現れない
  と思いますけど)、「ナショナリスト」の方が、こぞって「地球愛」を自分たちの合言
  葉にするような気がします。
  つまり、そこで「国」の単位がチェンジしたわけです。
  要するに、「自分が所属している集合体の最大の単位」が「国」から「地球」にチェ
  ンジしたわけで、それに合わせて合言葉も「国家愛」から「地球愛」にチェンジしたと
  いうことです。
  でも、「愛」の対象がそんなにコロコロ変わるはずはなくて、実際にチェンジしたのは
  「利益追求のための単位」なんだと思います。
  逆に、いま「地球愛」をうたっている人たちは、『宇宙人も愛しましょう』と言うんだと
  思いますよ(まぁ、意外と愛せないと思いますけどね)。

たとえば、故郷の「山」や「美しい海」に「愛着」を感じている人は居るでしょうが、それらは、「その山や海」に対する「愛」であって、「故郷」や「国」と言うものを愛しているのとは少し違うと思うわけです。

それに、その「山や海への愛」も「人間に対する愛」とは比べ物に成らないくらいに小さいと思いますよ。
故郷での人間関係や山や海などの自然に対する「愛着」をすべて「故郷(国)」と言う単位に代弁させてしまっているだけで、実は「故郷(国)」自体を愛しているわけではなく本当に愛しているのは、ほとんどの場合「人間」だけです。
「人間」はそういうふうにできていると思いますね。

 ※「故郷(国)への愛」が全く存在しないとは思いませんが、それよりも「利益追求」
  と言う面の方が圧倒的に大きいんじゃないでしょうか?

つまり「国」を愛することは人間にとってやや無理があることなんだと思うわけです。

自分の眼が及ぶ範囲なんて、せいぜい「向こう三軒両隣」くらいのもんでしょうから、「国」なんて大きすぎてとても知る由もないわけで、ましてや愛せるわけがありません。
そこにあるのは、「ごく小さな愛着」ぐらいのモノで、あとのほとんどが「利益追求」だと思うわけです。

まぁ、自分のことで言わしてもらいますと、要するに私は「利益」に対する興味が薄いんだと思います。
だから、「自国」が勝とうが負けようがほとんど気に成りません。

でも、情報があって選手のことを知るように成ると、「小さな愛情」が生まれる場合が出てきますから、その選手を応援したくなるわけです。
どこの国の人かは関係ありません。
と言っても、それもちょっとした気まぐれ程度で、「ナショナリスト」の人のような強力なモノではありません。
『いいんじゃない、この選手、こういう人が活躍すると嬉しいよね』
その程度です。

いずれにしても、「ナショナリズム」の本質と言うのは「愛国」ではないし、「体制の尊守」ですらなくて、「利益追求」なんだということが言いたいわけですね。
そうだとすれば、説明がつくことがたくさんありますし、そうでないとすると、説明がつかないことがたくさん出てきますから、まず間違いないんじゃないのかなと。

たとえば、経済的にだとしても軍事的にだとしても「他国」との間に争いが起きることを考えた場合、「国」を愛していることが前提だとすれば、「国土」や「国民」を含めた「国体」を犠牲にするような「戦争」などはあり得ませんが、それをやりたがるのはたいてい「ナショナリスト」側の人たちです。
なぜなら、彼らは「国の利益」を守ろうと(あるいは増やそうと)するからです。
「ナショナリズム」が「利益追求」だとすれば、当然ですが、「ナショナリズム」が「愛国」だとすれば「国」自体を犠牲にしてまで「国の利益」を守ろうとするのは、どう考えても矛盾しています。
やはり、彼らが「国土」や「国民」を賭けの対象にしてまで守ろうとするのは「国の利益」なんだと思います。

 ※ここにも「罠」があって、「民衆」は「国の利益」を守らないと、「国」が崩壊したり、占
  領されたりして、「国民」もソンをすると思ってしまうわけですが、今は、ごく一部の時
  代遅れな国を除いてどんな体制に管理されても「民衆」にとっての「ソン・トク」はあ
  まり変わりませんよね。違いますでしょうか?
  しかも、そういう時代遅れな国は戦争したとしても今はもう勝てません。


その人たちが愛しているのは「国」ではなくあの利益」です。
(本当は「ソン・トク」を優先しているということ自体が、「愛」とは言えないですけどね)
そして、そこから『自分にも利益がまわりまわってやって来る』と思っているのが「ナショナリスト」なんだと思います。

まっ、そううまくいかない時も多いと思いますけどね。
昔なら、そううまくいったんだと思いますけど、もう無理ですよねぇ。
しかも、ずいぶん前から。

でしょ?

まぁ、「人のために働く人」っていうのは、美しいと思いますけど、「自分の利益に執着している人」っていうのは、美しくはないと思ってしまいますねぇ。
この場合、「国のために働く人」はどっちに入るんでしょうか?

少なくとも「利益タイプの人」がすごく多くて、「人のためタイプの人」は数の上ではすごく少ないのかなと。

「スポーツでニッポンを応援している人たち」が、半分でも「人のために働く人」だったら、もうちっと楽しい世の中に成ってるような気がするし。
でも、「スポーツでニッポンを応援している人たち」が、ほとんど「自分の利益に執着している人」だとしたら、すごく今の世の中が見えやすい気がする。

そんな風に思いますね。

 ※「スポーツ」が嫌いなわけじゃないです。
  「ニッポン」が嫌いなわけでもないです。
  ただ、「スポーツやニッポンに対する愛情」が、「国の利益」
  にすり替えられてしまうのを残念に思うわけです。
  しかも、その「国の利益」は、今はもう誰のためにも成らない
  意味のないものに成ってしまっていると思うわけですね。




「イジメ」や「ハラスメント」が発生する理由



世の中に、ここまで「イジメ」や「ハラスメント」が蔓延してしまうとはねぇ。
まったく、恐ろしい世の中です。


そういう「イジメ」や「ハラスメント」をやっている側の人は、どう思っているんでしょうねぇ?
やっぱり『恐ろしい世の中だなぁ、まったく!』と思っているんでしょうか?
それとも、『このぐらい普通でしょ?どうってことじゃないよ』っていう感じなんでしょうか?


まぁ、いずれにしても、「イジメ」や「ハラスメント」なんて、あってもナンにもならないわけだし、やってる人たち自身にとってもあんまりトクに成ってないような気もするわけで、『だったら、なんでそんなモン発生するんだろうか?』と思うわけです。

 ※なんと言うか、石にけつまづいた人がその石を『コンチクショウ!と言って思いっき
  り蹴ってさらに痛い思いをするという系統のものに見えますね。


どう考えても、必要性があって発生しているようには思えないんですけどねぇ。
とは言え、こんなにたくさんあるということは、おそらくナニカ理由があって発生しているんだと思いますから、そこのところを考えてみるわけです。


それで、つらつらと考えてみたところ、「イジメ&ハラスメント」が発生する理由は、現代社会が根本的に「競争原理」や「効率主義」という方向性を持っているという所にあると思うわけです。

「競争原理」ですから、当然「勝者」と「敗者」がクッキリと分かれてしまいますし、「効率主義」ですから、当然「効率」を下げるような者は排除されるように成るわけです。
さらには、「効率」を高めるためには「組織」が必要に成るわけで、その「組織」に与えられる「権力」が時代とともに増大してきているわけです。
それで、一度「組織」の中で「地位」を得た者は、「絶対権力者」になってしまうんですねぇ。
「絶対権力者」ですから、何をやっても咎められませんし、いくらデタラメでも一度得た「地位」を追われることはありません。

こういった状況が「イジメ&ハラスメント」の温床になっていくというわけですね。

そんな「百害あって一利なし」の「イジメ&ハラスメント」なわけですが、なかなか無く成りません。

皆さん「イジメ」と聞けば怒りをあらわになさいますし、「ハラスメント」に対しては『人間としてサイテー!!』などとおっしゃいますよね。
つまり、大半の人が「イジメ&ハラスメント」なんて無く成ればいいと思ってはいるわけです。
でも、なかなか無く成りません。

「イジメ&ハラスメント」に対しては否定的な人でも、『じゃあ、「競争」はどうなんですか?』とか『「効率」が悪く成ってもいいですか?』と聞いた場合には、どうこたえる人が多いでしょうか?

たぶん、多くの人は「競争原理」にも「効率主義」にも疑問を持ってはいると思います。
(そこに疑問すら持たない人が「イジメ&ハラスメント主」に成るんでしょう)
でも、それらを完全否定できる人と成るとそう多くはないでしょうね。

なんと言っても、そう言う考え方に基づいて「人間社会」はここまで発達してきたわけですから、この豊かさにドップリとつかっている現代人がそれを完全に手放すわけはありません。

だから「競争原理」からも「効率主義」からもなかな抜け出すことが出来ないわけです。
それで、「イジメ&ハラスメント」からも抜け出せなくなっているわけですね。

でも、実を言うと、ここまで「イジメ&ハラスメント」が蔓延してきたのは、「競争原理」や「効率主義」が末期段階に入ったからなんだと思うわけです。
つまり、「不要」に成りつつあるわけです。

過去においては「少ない豊かさ」を「競争」によって奪い合っていたわけですし、「効率」によって「豊かさの量」を増やす必要があったわけですが、もはや現在においては「豊かさ」が過剰気味に成って来ているわけです。
だから、「競争原理」も「効率主義」も「不要」に成りつつあるということですね。

そういうわけですから、全部とは言いませんけど、チョットだけ「競争」や「効率」を手放せば、きっと「イジメ」も「ハラスメント」も少なくなっていくんじゃないのかなと。

まぁ、そういう風に思います。

それにしても「イジメ&ハラスメント」やってる人たちが、完全にコント。
戯画ですね。
『オモロすぎますわぁ』
『事実は小説より奇なり』と言いますが、『「イジメ&ハラスメント」はコントよりオモロイなり(字あまり)』

こういう言い方は、被害者のことを考えると不謹慎なような気もしますが、実はこういう「イジメ系」に関しては、10人のうち9人までが怒っても無く成りませんが、10人のうち9人までが笑い物にすると無くなっていきます。

たぶん、「笑い物にする」くらいがちょうどいいんだと思いますね。
やってることも、やってる人も「その程度」なんだと思いますよ。
「怒り」だと「マトモすぎる」んでしょうね。
(まぁ、あんまりひどいと「怒り」も感じますけどね)

そんな風に思いますよ。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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