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「見えるもの」と「見えないもの」



世の中には、「見えるもの」と「見えないもの」と言うのがあると思うのです。
それは、なにも目ではっきり見えるか否かということに限らず、確信を持って判断できるものと、できないものと言う意味です。

 ※ここで言う「確信をもって判断できるもの」と言うのは、「完璧に疑いようのないうもの」
  と言う意味ではありません。
  世の中に、そんなものは無いような気がしますが、それでも、「人間が確信してしまうも
  の」と言うのはあると思います。
  要するに、「完璧に疑いようのないうもの」もありませんが、「完璧に疑えるもの」も無い
  ということでしょうね。
  つまり、ここで「確信をもって判断できるもの」と言っているのは、「人間にとっては疑うこ
  とよりも確信することの方が、より自然であるもの」というような意味です。


例えば、空気は目には見えませんが、その存在は疑いようがないと言えるでしょう。
(それも疑うことはできるというのは、また違う話になってしまうので)
まぁ、要するに物質は、だいたい「見えるもの」と言えるのではないでしょうか。

でも、物質だけとも限らなくて物理法則や、人の心や感情などのような物質としての形のないものでも、ある程度、確信を持って判断が下せるようなものはあるわけですから、それも「見えるもの」に入ると言っていいのでしょう。
(こちらも疑うことはできるわけですが、それはまた別の話として)

対して、「見えないもの」は、確信をもって判断ができないものということに成るわけなのですけれど、それは、言葉を替えれば「不思議なもの」とも言えるのかなと。


そして、何が言いたいのかと言うと、何かを考察したり議論したりするときに、その「見えないもの」は使ってはいけないと思うわけです。

少なくとも、その考察や議論を、人との間で共有する場合は、話を「不思議なもの」に持って行ってしまうと、そこから先は、まったく意味のない会話しか成り立たなくなってしまうと思うのです。

一見、話がかみ合っているように見えている場合でも、それは体裁だけで、実際には何の意味も無いような話を、相手に調子を合わせて適当にやり過ごしているだけになってしまっているように思われるわけなのです。


そうは言っても、世の中に「不思議なもの」などは無いと言っているわけではなくて、それは当然あるわけですし、それどころか、全てのことが「不思議なもの」でないとは言い切れないわけです。

とは言え、現時点で「見えていること」を前提にして話を進めないと、その話の意味と言うものは、ほとんどないとも言えるわけなのです。

ですから、話の根拠とするようなものは、それが「見えるもの」である必要があると思うわけなのです。


そして、話を相手と共有することを前提とするのであれば、論じる側と受ける側の双方にとって「見えるもの」であることが、最低限必要になってくるわけなのです。


そして、ここからは私の個人的な意見ではありますが、世の中の相当数の人が「見えないもの」であると主張しているものについては、それが「見えないもの」であるという前提で、それを根拠とした話はしないという約束を守ることが、その話を有効なものにすると思うのです。

つまり、大方の人が確信を持って判断できないようなものを話の論拠にしてしまうことで、それらの話の内容が、全く無意味になっていることが非常に多いと思うわけです。

ですから、「見えないもの」は「不思議なもの」として、そこにそのままあってもいいのじゃないかなと。
それを、論拠にしてしまうと「見えるもの」のようになってしまって、「不思議なもの」ではなくなってしまうわけで、それでは、そのものの本当の状態と違ってきてしまうようにも思われるのです。

もしも、それが理屈では説明できないけれど、何かしら確実なものであったならば、何も、敢えてそれを議論の対象にしなくても、そのうちに、それは当然のこととなって、本当の「見えるもの」になってしまうのでしょうから、「見えない」と言っている人がたくさん居るときには、それを「見えないもの」としておいた方がよいように思うのです。


まぁ、一言で言えば、曖昧なことを論拠にして話を進めれば、その話は無意味なものになるのでしょうということですが、そこに「不思議なもの」というキーワードが出て来ると、その曖昧さがすでに肯定されてしまっているような錯覚の下に話が進んでしまうということでしょうか。

そして、それが宗教戦争に至っているようなこともあると思いますから、それよりも身近なところから、「見えないもの」は「見えないもの」として取り扱うようにすれば、それを、論拠に論争を展開するのは、まったく無意味であるということが、それこそ〝見えやすく"成るのかなと。


そんな風に思っています。


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「奇跡」について



「奇跡」と言う言葉は、けっこう簡単に使ってしまうわけですけれど、本来は、「神」に直結した神聖な言葉なのではないのかなと思うわけです。


本来「奇跡」とは、ただ単に有り得ないようなことが起きたというのではなく、神的な力が降臨して行われたことを指して言うことなのかなと。

でも、現代人にとっては、神聖さがあまり強く感じられない方が都合がいいようにも思えるわけです。

現代社会においては、「神」の存在感はかなり希薄だと言わざるを得ないわけですが、そういう状態の中で、「神」を感じられて、なおかつ信仰心までは求められないで使える言葉が、「奇跡」や「天才」なのだと思うわけです。

だから、「神(信仰)」を失った現代人が、それらの言葉を、無意識のうちに多用するようになっているのかもしれません。


「奇跡」とは、その時代においての「最先端の不思議」=「人知を超えたもの」であると言い換えることができるように思うわけです。

「奇跡」だと思われることでも、その「不思議」な部分が解明されて、当然、そう成るべくして成っているとわかってしまうと、それは、もう「奇跡」ではなくなってしまうわけです。


マジックなんかでも「不思議」なものとしてみている時は、それが魔術的なものに見えるのに、種(たね)が解ってしまうと、それは一つの特技にしか見えなくなってしまうわけなのです。


逆のことも言えて、科学などの堅実な分野でも、まだ、、よくわからない部分の多いこととなると(例えば、遺伝子操作などですね)、それは、まったく「神秘」としか思えないわけですね。

そして、それも、ある程度まで解明されてしまうと、単なる「理論」としてそこに収まってしまうわけなのです。


つまり、「奇跡」とは、未だ解明されていない物事を、「神」のなせる業としてきたことの「名残り」であると思うわけです。

現在までに人間がたどり着いた結論は、実体のある「神秘」はいずれ解明されるということ、解明されない「神秘」には実体がないから、永遠に解明されないということ、そして、実体のない「神秘」はあまり役には立たないということ、ぐらいでしょう。


こんなことを言うと信仰心の厚い人は、怒るのかもしれませんが、「神」は、結局人間を救済しないと思うのです。

現在、「信仰」は人の精神を強くしているというよりも、それが依存するものになってしまっていると思うのです。


よくよく考えてみれば、「神」が人間を救済するはずはなく、試練を与えるに決まっているわけですから、人間を救済できるのは人間しかいないはずなのでしょう。


人間が、やっとの思いで人間自身を救済した時に、姿を現わして『これこそが私の与えた救済である』と言うのが、「神」というものの持っている本質的な構造なのだと思うわけです。

だから、こういうことを聞いて「信仰」を持っている人が怒るのは、ちょっとおかしくて、そのような「神」を「信仰」出来るのか?と言うところに、現在の宗教というものはあるように思うわけです。
(本当は昔からそうだったのかもしれませんが)

もし、「神」をそのように言うことを冒涜であると感じるのであれば、その人の「信仰」においては、「神」は絶対者ではないということに成ってしまうわけです。


とは言っても、私は「宗教」も「神」も否定するつもりはありません。
ただ、現在においての「神」や「信仰」の在り方が、私にはそのように思えるというわけです。

そして、時の流れの中で「神の時代」はその意味が薄れてしまったと思うわけです。


そして、それは「奇跡」にも同じようなことが言えていて、「信仰心」を持ちきれなくなった現代人が、「奇跡」や「天才」と言う言葉に陶酔してしまうのは、そこに依存してしまっているからのように思われるわけです。


だから、人間自身が人知を超えたことが出来るのか?ということになってくるわけですけれど、人間ですから、人知を超えられるわけないですよね。

だけど、人間ですから、人知の範囲内でいいんじゃないかと思うわけです。
そこで、『人間ですけど、なんか悪いんですか?』と言えるようになることが、人間にとっての救済なのかなと。


やや貧弱な感じもしますが、その”チープ感”を受け入れられるのかどうかが意外と高度な感じもするわけですよね。


それができれば、人間は「宗教」から抜けられると思います。


実は、そこから、本当の意味で、「人間」と言う「種」が始まるのかなと。
それこそが、人間の起こす最初の「奇跡」なのかもしれませんね。


そんな風に思っています。






現世の中の「輪廻転生」



「輪廻転生」と言う考え方があるわけです。
詳しいことは知りませんけれど、要するに「生まれ変わり」ということなのだと思っています。


そういうことが、有るのか無いのかということは、チョットわかりませんけれど、私といたしましては、人間は生きているうちに、けっこう「輪廻」を繰り返しているんじゃないのかなと思っているわけなのです。


まず、一番単純なことで言うと、「寝ている時」かなり「死んでる」と思います。
「朝起きたとき」かなり「生まれ変わってる」と思います。
「一日経つうちに」、たいてい「元に戻って」ます。

「その繰り返し」です。

かなり「輪廻転生」的だと思います。


それから、日々の生活の中で、”何かに気づく”ことがあります。
それが、とても重要なことに思える時もあれば、取るに足らないようなことにしか思えない時もあるわけです。


でも、どちらにしても”気付く”前と後では、そこに見えている世界は、厳密に言えば「違う世界」だと思うわけです。
それを、周りの世界が変わったと思うか、自分が「生まれ変わった」と思うかは、ほとんど大差のないことのように思うわけです。

これなんかも、ほぼ「輪廻転生」のように思います。


つまり、「寝て起きること」も、「何かに気づくこと」も、毎日起きていることですから、かなり「毎日が輪廻転生」なわけです。


これらに加えて、よく言われるような、「大病をしたとき」や「臨死体験をした」などの人生の大事件や、「ある人との出会い」や「運命のいたずら」みたいなドラマチックな出来事も加わってくるわけです。

つまり、「毎日の輪廻転生」と「毎月の輪廻転生」と「節目節目の輪廻転生」やなんかが、多重層に、折り重なって起きているような感じがするわけです。

だから、そこに「死んでから生まれ変わる」みたいな、本当の意味の「輪廻転生」が加わっても、あまり変わらないような気がしてしまうわけです。


と言っても、特に「生まれ変わり」を実感することがあるというわけではありません。
私が、実感できるのは「死ぬこと」までです。

これは『死んだことは無い』のに実感できるわけです。
そして、それが一番”普通”のことだと思っています。
そして、”普通”が一番いいと思っているわけです。


「死ぬこと」は「生きること」の延長にあると思っています。
そして、「死に方」のために「生き方」があると思うようになってきているわけです。

ですから、「死んだ」後に、また「生きる」があると、そこのところが、チョット違ってきてしまうわけなのです。


それだと、「死に方」のために「生き方」があるだけじゃなくて、次にまた、「生き方」のために「死に方」があったということになってしまうので、「区切り」がなくなってしまうわけです。


「生まれ変わり」が、あるのかないのかと言うよりは、自分勝手な都合で言えば、「区切り」が必要なわけですね。


人間は無際限なものを把握することや、理解することは出来ないと思うんですね。
だから、無際限なものを想定した考えは、人間が、それを把握できるようになるまで「オアズケ」にしておいた方がいいように思うわけです。

人間が無際限なものを理解できるようになれば、きっと、それは”普通”のことに成って、私のような”普通”の人間にも、容易に理解できるようになるのでしょう。

そうすれば、”不思議”なことが”当たり前”になって、”普通”に成るのでしょう。


でも、なんとなくですが、それを、いま既に解っていることにしてしまうと、ずっと解らないままになってしまうように思うのです。
少なくとも、”普通”の人にはですね。


そんなような意味でも、”不思議”は”解らない”ということにしておいた方がいいように思ってしまうわけなのです。


「解る人と解らない人が居ること」を作ってしまうと、そこに、格差が生まれるわけです。

つまり、「できる人と、できない人」と言うのと同じで、「解る人」が上で、「解らない人」は下、と言うように位置づけられてしまうわけなのです。

それを言っている人達がどう思っていても、ごく自然に、そういう位置関係に成ってしまうのだと思います。


いま、人間が居る所がその辺なのかなと。

そんな風に思っているわけです。




「DNAが運んでいる情報」は「人間の情報」ではないと思うのです



「DNAが運んでいる情報」について、その情報こそが、人間と言うものの実体であって、個々の人間は、それを世代から世代へつないでいくための”器のようなもの”に過ぎないと言う考え方があると思うわけです。

それは、それで一つの事実なのかなとも思うのですけれど、私は、「DNAが運んでいる情報」は「人間の情報」ではないと思っているわけです。

つまり、「DNAが運んでいる情報」とは、「物質としての人間」や、せいぜい「生物としての人間」の情報であって、人間自身が捉えている人間としての「人間の情報」ではないと思うわけです。


ここでいう、人間自身が捉えている人間とは、人間の中の「人間的な部分」ということです。

私には、この「人間的な部分」が、すべて遺伝子によるものだとは、到底思えないわけです。
と言うか、そこから外れた部分こそが、「人間的な部分」なのだと思うわけです。


例えば、「本能」は遺伝子に組み込まれているのでしょうが、人間は「本能」から外れたこともするわけです。
つまり、全てにおいて「遺伝子の命じるままに動かされている」とは言えないと思うわけです。


『いやいや、それも含めて遺伝子の指図したことなんですよ』と言われてしまえば、目に見えないことなので、『違う』とも言いきれませんが、このような『遺伝子が指示を出している』と言う考え方が、『それチョット違うでしょ!』と思うわけです。


実際には、遺伝子は情報を伝えているだけで、なにひとつ、指示したりはしていないわけです。

もっと言えば、情報を伝えてさえいなくて、情報を記録しているだけなわけです。


実は、それらの情報を管理していたり、使ったりしているのは、いま生きている個々の人間の脳なわけです。
そして、そこに生み出される一つの世界を、「精神」とか「心」とか「魂」と呼んでいるのだと思うわけなのです。

そして、それこそが正に「人間的な部分」なわけです。


確かに、その「脳」も遺伝子情報に基づいて構成されてはいるわけでしょうが、それは「脳」の組織についてであって、その中で、”今”生み出されている思考ではないと思うわけです。

つまり、ここでも「DNAが運んでいる情報」は、あくまで”物質的な範囲”のものであって、”人間的な範囲”にまでは及んでいないと思うわけです。


実際は、「DNAが運んでいる情報」が人間の実態なのではなくて、いま、個々の人間が行っている「行為」や「思考」が人間の実態であって、それらの「思考」や「行為」が情報源となってDNAに記録されていくのだと思うわけです。


これは「ニワトリが先かタマゴが先か」みたいな話になってしまうわけなので、どっちでもいいと言うようなものなわけですけれど、いま居る人間の創り出している情報が”サキ”で、遺伝子は”アト”だという方が理屈があっているように、私には思えるということです。


それから、『「DNAが運んでいる情報」こそが人間の実態である』と言っても、何も生み出せる気がしませんが、『今、人間が次の世代に伝える情報を作っているのだ』と言えば、何かが生み出せそうな気になれるということはあるのかなと。


そんなところで、よく知りもしないことを言ってみた。




宗教のソフト化



宗教がソフト化してきていると思うわけです。


最も端的な例で言えば、他の宗教を排斥しようとしなくなったということです。
その分だけでも、争い事が減ったのであればいいことだとは思うのですが(本当に減ったのかどうかはわかりませんが)、宗教の本質を考えると疑問が出てきてしまうわけなのです。


もともと、宗教は、自分たちの信じる「神」や「教義」を、”絶対”とすることを基盤として成り立っているものだと思うのです。


それなのに、他の宗教を認めてしまったら、「自分たちの信じる神」が「唯一無二の絶対者」ではないということになってしまうわけです。

そこのところを、、『神は一つであって、宗教の違いは些細なことである』と言ったとしても、その「些細な違い」があるということが、”絶対”ではないということになってしまうわけです。

やはり、『それは些細な違いだろ』と言うのは人間レベルだと思うのです。


もしも、一つの「神」であって、かつ、その「神」が”絶対”であるならば、その「神」の言葉である「教義」や「教典」は、一語一句まで全て同じになるはすで、それが違うということは、その「神」が違う「神」であるということなわけです。

そうでなければ、その「教え」は、どちらかが「偽り」であるということになってしまうわけなのです。


要するに、「争い」を避けるために、その辺をあえて曖昧に捉えるようになってきたのだと思うわけです。

それは、それでよかったのかも知れません。


そして「スピリチュアル」というものも
そうした「ソフト化した宗教」の一種なのだと思うのです。

「スピリチュアル」の場合は、『神は世界に遍在している』と言うような考え方なのだと思います。
『世界全体が神で満たされている』と言う感じでしょうか?

だから、わけ隔てる必要がないのでしょう。


「争い」が少しでも避けられているのであればいいことだと思うのですが、”絶対性”を曖昧にすると、宗教の「存在意義」がなくなってしまうのではないかとも思うわけです。

もともと、”絶対”であることで「拠りどころ」となり得たわけですから、”絶対性”が曖昧になれば、”頼りにならなく”なってしまうわけです。


また、「スピリチュアル」は、『世界は神で満たされている』という考え方なのであれば、もうすでに「スピリチュアル」な世界が実現済みなわけですから、それ以上は必要ないということになってしまうと思うのです。

あとは、その「実現されている神の世界を」楽しむという、「娯楽」のようなことに成るのかなと。
それは、いま現在「平和な社会」でしか”享受できない”ものなのではないかと思うのです。


戦争や内戦が日常化しているような地域で、そういう”おおらかな”考え方をするのは、難しいことのように思うのです。

それができる人もいるかもしれませんけれど、ほとんどの人はできないでしょうし、『それができないことは、残念なことだ』という考え方は「酷」だと思うのです。


やはり、「神」などの”絶対的”なものを基盤において考えて行けば、必ず「争い」が起きるのだと思うのです。
それなのに、その「神」は”絶対”ではなくなっているわけです。
(個人の中でではなくて、現代と言う時代の中でですね)


1.”絶対”とは言えなくなってしまった「神」を信仰しながら「平和」を求めていくのか?
2.「神」に与えられた「平和」を享受して、「争い」とは無縁の暮らしを追究するのか?
3.人間が「神」に頼らず「自己責任」で「平和」を創り出していこうとするのか??

と言う選択肢なのだと思います。


人間が「自己責任」で「平和な世界」を生み出せるのかどうかはわかりませんけれど、少なくとも、そこに向かうことは「ある種の前進」なのだと思うわけです。

そして、自分でできないことは、「神」に頼ってもできないような気がするわけですね。

他の二つの選択肢は、時代の流れの中で見ると、「ある種の保留」なのかなと。


いずれにしても、『平和が好き!』ということなので、「宗教」や「スピリチュアル」を否定するものではありません。
それらは、個々の人の「心の中の平和」を実現するのには有効なのかも知れません。

それから「世界を平和にしよう」と言う話でもありません。

「時代の流れ」と言う視点で見ると、こんなことが起きているように見えるということです。


さしさわりがあったら、ごめんなさい。




「信仰」とは何なのか?ということ



これは「信仰」についての、私の勝手な言い分なので、「信仰」をお持ちの方には納得できないことかと思いますが、その辺のところはお許しください。


「信仰」とは、「不確かなことを確信すること」なのだと思っております。

つまり、はじめから「確かなこと」であれば、「信仰」する必要もないわけですし、それは”信じざるを得ない”わけです。
だから、そういうことをいくら信じていても「信仰」とは言わないのでしょう。

不確かであることで、「信仰」を持ち出してくる必要が生じてくるわけだし、不確かなことを信じることにこそ「信仰」の価値も生まれるのだと思うのです。


でも、それを一度「確信してしまった人」にとっては、それは、もう「不確かなこと」とは言えなくなってしまうわけです。
ですから、実際には「確信しようとすること」と言うべきなのかもしれません。


要するに、「人間には絶対に把握できないようなもの」を、「信じようとし続けること」が「信仰」なのだと思うわけです。


本来「信仰」とは、そうした「信じる」と「信じられない」の間での”精神の揺らぎ”を含んだものだと思っております。


よく「確固たる信仰心」などと言いますけれど、実際には、人間が確固として信じられるのは確実なものだけで、それは「信仰」の対象には成らないようなものなのだと思います。


だから、その人にとって完全に「確固たるもの」に成ってしまったものは、その人にとっては、もはや「信仰」の対象には成らないはずで、それは、その人にとっては、「科学」又は「現実」と呼ぶべきものに成ってしまっているわけなのです。


そして、「信仰」の場においては、この「人間には絶対に把握できないもの」を「神」と呼んでいるわけですけれど、「芸術」や「哲学」の場においては、これを「真実」や「真理」と呼んでいるわけですよね。

更に言えば、いま人間は、長らく「神」と呼んで頼りにしてきたものから、脱却するときが来ているのだと思っているわけです。


もしも、上に述べたような「不確かなもの」=「人間には把握できないもの」=「神」~「真実」と言う置き換えが可能なのであれば、
「信仰」~「芸術または哲学」と言う置き換えも可能になるのではないかと思うわけです。

これは、決して「信仰」や「神」を否定しようということではなく、現状において、人間は「神」や「信仰」に”依存”してしまっていると思うわけです。


もしも、人間が「神」に頼らないで、「芸術」や「哲学」によって(他のものでもいいのですが)、「信仰」が担っていた領域を埋めることが出来たなら、人間はその時点で、はじめて「自立した人間」に成るのだと思うのです。


また、それができなかったとしても、「神」が「信仰」の対象に成る価値のあるものなのであれば、そのことが、よりはっきりするということなのではないかと思うわけです。

いずれにしても、私は「神」よりも「信仰」が先にあったと思いますから、「神」は人間の信仰心が形を変えて姿を現したものだと思うのです。
だから、現在の「神」が先行した形での「宗教」という「信仰」は、「神」の存在が肥大化している分、「依存」を生みやすいと思うわけです。


今はもう、「神々しい所」には「真実」は無くて、もっと「取るに足らないような所」にしか「真実」が無いということを、受け入れなければならなくなってきているのかなと。


そういうところを受け入れていかないと、「信仰」にも「芸術」にも「哲学」にも、意味がなくなってしまうように成ってきているのかなと。


そういう、まったくもって手前勝手な考えでした。




いまも「信仰」は必要なのか?



「信仰」と言うものは、現代と言う時代の中で、どのような役割を担っているのでしょうか?


以下は、「信仰」を持たないような人間の考えることですので、「信仰」をお持ちの方は、お気になさらないでください。
と言っても、「宗教」がキライだというこが言いたいわけではありません。

また、「信仰」と言うものを悪いものだと捉える気持ちもありません。

私が言いたいことは、「絶対的なもの」と言うのは、つまり「神」ですね、今もまだ必要なのか?ということです。


そもそも、「絶対的なもの」と言うのは、人間の思考の範囲では把握できないと思うのです。
つまり、自分より大きなものと言うのは把握できないと思うわけです。

だから、人間に、それができるのであれば、人間自身が「絶対者」または「それ以上のもの」であるということになってしまうわけです。

でも、それはないのでしょう。


もともと、人間が自分たちには把握しきれないようなものを求めていたことから、、「信仰」が生み出されたように思うのです。

要するに、「畏怖」を持ちたかったのではないかと思うのです。

何かに対して「恐れおののくこと」で自己の不完全性に折り合いをつけようとしたのだと思います。
つまり、自分が不完全であることに理由を求めていった結果、『実は世の中には完全なものがあって、自分たちはまだそこに到達できないから不完全なんだ』という形に行き着いたのだと言う気がするのです。


動物は「信仰」を持っていないように見えます。
動物も「畏怖」は持っているように見えます。

動物はそれを自己の不完全性に置き換えることをしないので、敢えて、より強い「畏怖」を求める必要が無く、「信仰」を必要とすることもないのではないかと思うのです。

動物においては、「恐れ」は「恐れ」のまま受け止められて、過ぎ去れば忘れられてしまうのだと思います。


人間はそれに対して理由を求めてしまうわけです。

つまり、『「恐れ」があるのはなぜだろうか?』と言う問いが発生するわけです。
そして、自分たちの不完全性を発見してしまうわけなのです。

そこから、さらに「完全なもの」の存在が必要になってくるのだと思うわけです。


この話に限らず、「神」や「神秘」の話と言うのは、総じて逆説的であると感じることが多いのです。

「神」を前提にして、全てを構成した思想が「宗教」と言う体系に成ります。
すると、そこには秩序が出来上がっていますから、簡単には崩れません。

しかし、その「神」の根拠となると、『理由なんて必要ないぐらいに間違いないから』と言う無根拠がそこにあるわけです。


本当に間違いのないものであれば、逆説をとらなくてもそこに行き着くはずです。
つまり、「神」を前提としなくても、「神」を前提とした時と同じ理論が発生するはずですし、それは「神」に行き着くはずです。

でも、そうした「宗教論」や「宗教思想」に出会ったことは無いように思います。
特に勉強したわけではないので、そういったものもあるのかも知れませんけれど、そうなると、人間が「神」を把握できてしまうという、はじめの話に戻ってしまうわけです。


つまり、「神」を前提としないでも「神」に行き着くには、その過程で人間が「神」を把握する必要があるわけです。
そうなると、やはりそこには無理があるように思われてくるというわけです。


そうした諸々の逆説が、時代とともに矛盾として表出してきていると思うわけです。
そして「宗教」は、時代に合わせて形を少しづつ変化させながら、その矛盾を吸収してきているわけです。


でも、そこまでして「宗教」や「信仰」を存続させ続ける必要と言うのはあるのでしょうか?


もし仮に、新しく生まれてきた子供たちに、一切、「宗教」とか「神」とかいう概念を教育しなかったとしたら、そこに「宗教」は生み出されるのでしょうか?

もし、それが必要なものであれば、当然それは生み出されるはずです。

これと同じことを、過去の時代に行っていれば、きっとそうなるのでしょう。


しかし、現代となるとどうでしょうか?

「現代の社会」、「現代の教育」、「現代の文明」、「現代の文化」、「現代の人間」と言う前提で、考えた場合「新しい子供たち」は、「神」や「信仰」や「宗教」を選択するでしょうか?

それは、その後も支持を獲得し続けられるでしょうか?

こんなことは出来ることでもないので、言っても仕方がないことですけど、この「新しい子供たち」の選ぶものが「真実」なのだと思います。


そこで、それが出来ないものならばと、出来るだけ「新しい子供たち」に近い発想で考えてみると、私の場合は、「信仰」を必要としていないことに行き当たってしまうというわけなのです。


「信仰」をお持ちの方からすれば「残念な人」ということに成るのかも知れませんが、私は、その「残念な人」に成りたいのかも知れません。

そして、それは私の言葉では「普通の人」でもあります。


と、そんなことを考えてみました。



「神」への疑い



『「神」への疑い』についてです。

こういう話をすると、「信仰」をお持ちの方は、ご気分が悪いのかもせれませんが、宗教や信仰に対してケチをつけようというものではありませんので、また、私にとっても、一つの重要なテーマとして真面目に考えていますのでお許しください。


このブログの中でも何度か書いていますけど、私は、もう「神の時代」は終わっていると思うのです。
つまり、人間は「宗教」と言う概念を卒業して、自己責任で「人間」としてやっていく時が来ていると思うわけですね。


「神」などの「絶対的な存在」を設定して、それを中心にすべての観念を築き上げていくという世界観では、結果的には、人間がそこに依存してしまうことに成るように思うわけです。

つまり、何か「悪いこと」が起きても、それは「神のオボシメシ」ということになってしまいますし、「大自然の采配」ということになってしまいます。

これは「いいことが起きたとき」でも同じです。


必ずしも、安易な意味で、何でも「神様のセイ」にするということではありませんが、最後の最後の所では、どうしても、そこに持っていくことに成るでしょうし、また、そうでなければ、それは「神を信じていること」にならなくなってしまうような気がします。


確かに、「人間の遠く及ばない力」が存在していて、その力が、すべてを決定しているのは間違いがないことなのでしょう。
でも、それに人間が「神」などの「名前」を付けて、「信仰」の対象にしてしまうと、結果的に、それは「偶像化」して、その「偶像」に人間が依存することにしかならないように思います。

これは、その「絶対的な存在」を「神」と呼んでも、それ以外の「名前」で呼んでも同じことで、なんと呼ぼうと、それに「名前」が付けられて、「信仰」の対象になってしまうと、それは、「偶像化」してしまって、あとは、もう、それを「信じるか?信じないか?」しかなくなってしまうわけです。


敢えて「偶像」を作り出さなくても、「絶対的な存在」を設定すれば、それは、必ず「偶像」に成ると言うのが事実だと思うのです。

その過程で、「考えること」が抜けて、「信じること」にすり替わってしまいます。
「信じること」においては、「考えること」が、けっこうジャマになるんだと思います。


「考えること」は『「神」への疑い』を含んでいますから、「信仰心」が弱くなるんだと思います。

要するに、「無条件で信じる」というのが「信じること」としては一番強いわけですね。
しかし、それは「盲信」につながることに成りますから、カルト化してしまう傾向があります。

そこで、また、「考えること」に揺り戻されるということが繰り返されて来ています。


そうした過程の中から、「考える宗教」ということで現れてきているのが、「スピリチュアル」と言われているものなんだと思うんですが、「信じる」に近寄れば「考えること」は”スキップ”されますし、「考えること」は、必ずと言っていいほど『「神」への疑い』を生み出しますから、「信じる」からは、やや遠のいてしまうわけですね。


「信じる」ことで「考えること」が”スキップ”されてしまうと、「思考」は寸断されてしまいますから、「論理的」ではなくなってしまうわけです。

そういう「非論理性」は、結果として「考えないこと」に戻っていく可能性が高いように思うのです。
ひとたび”完全に信じて”しまうと、「考えること」は必要とは言えなくなってしまいますから、どうしてもナイガシロになっていくわけですね。

というよりも、「考えて信じること」よりも「考えないで信じること」のほうが、「信じる」の度合いが強いわけですね。

「考えて信じること」は、要するに「理解すること」と、ほとんど同じ事なので、「信じること」とは少し違うことになってしまうわけですね。

また、それ以前に、人間は「絶対的な存在」を「理解すること」はできませんから、そこで行き詰ってしまうわけですね。
それで、結局そこから先は「信じるか?信じないか?」に戻ってしまうということです。


せっかく「考える宗教」として表れてきた「スピリチュアル」も、「絶対的なものを信じる」という姿勢を、かなりのところまで捨てない限り、結果的には、「信じるか?信じないか?」という「二者択一」に帰結してしまうんじゃないでしょうか?


「スピリチュアル」は、もともと経典や教義のような形式を持ちませんから、その辺を、人それぞれに自由に解釈しているんだと思います。

一人一人の人が、『ここまでは”考える”で、ここからは”信じる”』という設定を変えることができるわけですね。
この「自由度の高さ」によって「スピリチュアル」が広まったんだと思います。


従来の「宗教」では、教義や経典に対する解釈の違いで、立場がはっきりと分かれてしまう傾向があって、それが争いの種にもなってきたわけですが、教義や経典を持たない「スピリチュアル」においては、言葉の上で、ナニを「絶対的な存在」とするかはあまり問題とされませんし、「無条件に信じる」の人と、「かなりのところまで疑う(=考える)」の人が共存できるということでしょう。


それは、「争いが減る」という意味ではイイことなんじゃないかと思いますが、最終的に、「信じるか?信じないか?」というところは残ります。


でも、本当の問題は「信じるか?信じないか?」ではなくて、「考えるか?考えないか?」なんじゃないかと思うわけです。
つまり、「考えること」の方に寄って行ったほうがいいんじゃないかと思うんですよね。


なにも、完全に「信じる」という「姿勢」を捨てる必要はないように思うのですが、その「信じる姿勢」が「絶対的な存在」に傾倒していくことには、やや問題を感じてしまうわけなのです。

そうなれば、どうしたって「考えること」を”スキップ”するように成ってしまうでしょうからね。


やはり、人間は「考える生き物」なんじゃないでしょうか?
というより、やっと考えられるようになってきたと言った方がいいのかもしれません。
むしろ、それすらも怪しくて、まだまだ、「言葉」すら使いこなせてはいないといってもいいくらいでしょう。

だから、もうちょっとシッカリ「考えること」ができるようになってから、次のステップへ進んだ方がいいんじゃないかと思うわけです。
そのとき、その次のステップが「信じること」であれば、それでいいんじゃないかと思います。

でも、たぶん、次にある「信じること」は、従来の「宗教」とはだいぶ違うものになっているんでしょうね。


いずれにしても、人間は、まだまだ本当の意味では「人間」にすら到達できていないと思いますから、「絶対的な存在」を、”見る”ことも”感じる”ことも”知る”ことも、そして、”信じる”こともできないと思うのです。

それは、まだ、人間には”高望み”なんじゃないかと思うわけですね。


つまり、いま現在、人間が卒業するべき「宗教」とは、「偶像崇拝」であり、かなり遠い将来になってから、人間が達成する「信じること」とは、「宗教」とは全く違うものなんだと思います。


現存するすべての「宗教」は、何らかの意味で「偶像崇拝」だと思います。
なぜなら、「偶像」がないと人間には、「信仰」の対象も根拠も見ることが出来ないからです。

「神」と言う「名前」だけでも、それは間違いなく「偶像」です。
”見る”ことも”感じる”ことも”知る”こともできないものを”信じる”ことは出来ないでしょう。
少なくとも、まだ、人間にはそれは出来ないと思います。


人間は、「見たもの」には「名前」を付けます。
「感じたもの」でも同じでしょう。

「名前」が付けられれば、十分に「偶像」と成り得るわけです。
そして、「偶像化」することで、人間が、それを見たり、信じたりすることが出来るように成るわけですね。


私は、こういったことから、「神の時代」を終わらせて、「人間の時代」を築いて行く時が来ているように思っているわけです。


それは、なにも、人間がエラクなって「神」に成り変わろうと言うことじゃありません。
むしろ、その反対で、弱さや不完全性を含めた「人間」を、人間自身が認めてやろうと言う話です。


そこで、やっと「イメージの中の人間」と「実際の人間」が一致して、人間が初めて「人間」として生きられるようになるんだと思います。

今は、いつも背伸びして、見栄を張って「立派な人間」のフリをしているんだと思うのです。

その「立派な人間」の「象徴化された似姿」というのが、、実は、「神のもう一つの本質」でもあるんだと思います。


そういう面からも「神の時代」を終わらせないと、進めないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「殺生の境界線」



いろいろな理由で、「菜食主義」を実践している人が居らっしゃいますよね。
(私の個人的な知り合いには居ないですけど)


これは、おもに「宗教的(人道的)な菜食主義」と「健康のための菜食主義」の二つに分かれるんでしょうね。

「健康のための菜食主義」はともかく、

「宗教的(人道的)な菜食主義」に置いては、おそらく「殺生」と言う概念が関わっているんでしょうね。
(動物愛護的な立場の人も、方向性としては、これに近いんだと思います)


まぁ、「むやみに命を奪ってはならない」ということなんだと思います。


でも、「植物の命」は奪ってもいいんでしょうか?

いや、イチャモンつけようっていうわけじゃないんです。


でも、人それぞれに「殺生」には「境界線」があるんじゃないのかなと思うわけです。


つまり、「菜食主義者」にとっては、「動物と植物の間」が「殺生の境界線」なんだと思うわけですね。
(そう単純なものでもないのかも知れませんけどね)

それから、イスラム教徒なんかだと、宗派によって、食べていいものと、いけないものが違うなんて言うこともあるみたいですから、各宗派で、それぞれに、「殺生の境界線」が違うって言うことに成るんでしょうね。

と言っても、「殺生」と言う考え方自体が、「仏教的」なものみたいですから、「イスラム教徒」には当てはまらないのかも知れませんけどね。
「イスラム教」では、神聖な生き物とされているものを食べてはいけないということが、戒律になっているみたいですけど、これも一種の「殺生の境界線」ととれなくはないんじゃないでしょうか?


自分のことで言うと、基本的には「なんでも食べちゃいます」なんですけど、なんだかんだ言って、「犬」や「猫」は食べないでしょうね。
(そういう「食文化」が悪いとは思わないですけどね)

やっぱり、「ペット」として意識してしまうんでしょうね。


それから、「食べること」を抜きに考えた場合でも、「動物」だと殺せないですけど、「蚊」みたいな「小さい虫」だと、大した抵抗もなくコロシテしまいますよね。
「蚊」にしてみれば殺されてるわけですけど、こっちからすると、「殺す理由」は「カユイから」です。


こんな感じで、まったくもって理不尽で勝手気ままな「殺生の境界線」を、人は皆それぞれに持っているようなのですが、そういうのが生きるって言うことなんでしょうか?


よくわかりませんけど、そういうことなのかも知れませんね。


とにかく、「命」からエネルギーを貰わないと生きていけないというのは事実なんでしょう。

それを「殺生」と呼ぶかどうかに、それぞれ自分勝手な「境界線」を引いているんだろうと思うわけです。
さらに、これは、「動植物の命」に限ったことでもないんじゃないかと思います。


たとえば、「無生物」だけから栄養を取って生きていくとしても、それは、何らかの「エネルギー」の移動が行われていることに変わりはないわけで、先の、「動物」と「植物」の違いが、「生物」と「無生物」の違いに成っただけで、それは、最も究極的な意味では、一種の「殺生」に当たるんじゃないかと思います。

つまり、その場合、「生命から離れた所」に「殺生の境界線」があるということに成るわけですね。

生命を奪ってもいないのに「殺生」とは言わないんでしょうけど、そういう「エネルギーの移動」をも含めて「殺生」という解釈は成り立つと思います。


どこに「殺生の境界線」を置くかということよりも、その「境界線」を意識するすることの方が大事なことなのかも知れませんね。

そして、その「殺生」から得た「エネルギー」を有効に使うことを「生きる」と言うのかも知れません。


それを、「無駄」にしてしまうことは「生きることの逆」って言うことですね。
つまり、それこそが「殺生」ということなのかも知れませんね。


「何を食べるか」ということはともかくとして、「食べ物」を「無駄」にすることっていうのは、とっても「悲しいこと」なんじゃないのかなと。
(「食べ物」に限ったことでもないですけどね)


そういう風に思っているわけです。




「人間性の信仰」



私は、このブログの中で、人間は「宗教」を一旦卒業したほうがいいんじゃないか?と言っているんですけど、それは、けっして「宗教」を否定しようということでもないんですね。

またいつか「宗教」が必要になるのかもせれませんしね。


「神」とか「宗教」とかって言うものは、すでに人間の意識の中に存在していますし、それを消してしまうことは出来ないわけですから、無理に否定しても、あまり意味もないと思っていますし(出来たとしてもしないと思いますけど)、取り立てて、否定する理由もないので、そんなつもりは毛頭ないんですね。

   ※ここで言う「神」は「絶対的な存在」で、「宗教」はそれを「確信すること」です。


じゃあ、なんで、『人間は「宗教」から卒業した方がイイ』なんて言うのか?と言うことなんですけど、それは、「歴史」とか、「時代」の流れを見る限り、『いまは宗教じゃないんじゃないか?』と思うということなんですね。


たとえば、ついこの前まで「科学万能」のような「時代」があったわけですけど、今は、そうでもなくなってきているというようなことがあるわけですね。


実際は、「科学万能」に見えていた「時代」の中でも、「科学」に疑問はいくらでもあったわけですし、「科学」に懐疑的な意見を持っている人も、それなりには居たんだと思います。

それでも、その「時代」は、やはり「科学の時代」であることに間違いはなくて、その「科学の時代」を通り過ぎてきたことで、「今の科学への疑い」があるということですね。

それは、「科学を否定(肯定)すること」とは無関係に、否定できないことなんだと思うわけです。


つまり、「疑い」が、数の上で増えてきたということは、もうすでに、その「時代」が終わりつつあるということに成るんだと思います。


「宗教の時代」には、「宗教」に疑問を持つ人は、あくまで少数派で、ほとんどの人が「神」を「確信」できていたんだと思います。


でも、今は「神」を「確信」できる人は、そんなに多くはないと思うわけです。

「宗教人口」はそれなりに多いんでしょうが、昔と同じように「神を確信できる人」がどれだけいるかと言えば、やはり、少ないと言わざるを得ないと思います。


「宗教の時代」には、スタートの時点で、「神への疑い」がほとんどなかったわけですから、現在のように、常に「神への疑い」と隣り合わせの世の中とは全く条件がチガウわけですね。

「時代の流れ」に関しては、「疑い」がそこにあるということ自体が大きいことなんだと思うわけですね。
それは、その「時代」がすでに終わりを告げていることを意味するんだと思うわけです。


たとえ、「特別な精神」を持つ人が、「神」を確信できたとしても、それは、「人間」と言う集合体にとっては、「時代」を指し示す方向とはなりませんし、また、その人が説く「神」や「不思議」が如何に「道理」を得たものであっても、それが「絶対的な真理」でない限り、常に「時代」は、「その道理」を押し流していってしまうでしょう。


そして「絶対的な真理」のようなものは、常に確信されていますし、疑われるようなことは無いハズですから、すでに、「不動の原理」として当たり前のこととして存在し、肯定されているでしょう。


「疑われる」ということ自体が「真理」ではないということに成るんだと思います。
「真理」であれば、「誰にも疑うことすらできない」ということに成るハズですね。


実際には、「不動の原理」や「唯一無二の真理」と言った「絶対的なモノ」があるのではなく、あらゆる「取るに足らないモノ」が、すべて”ズレ”ながら、反転し続けて、流れているというのが、「この世界の様相」なんじゃないでしょうか?


そういう中で、「時代」は「常にヨジレながら進んでいる」ということなんだと思うわけですが、その「時代」には、その時その時で「ピーク(頂点)」があると思うわけです。

これは「イイ・ワルイ」ということとは、必ずしも関係なく、ただ単に「ヤマバ」ということなんでしょうね。


最も多くの人が、最も自然に、「誰からも言われることなく確信していること」それが、その「時代」における「ピーク」にあるものなんだと思うのです。


「宗教の時代」に置いて、「キリスト」や「ブッダ」のような人たちが、それぞれの「宗教」を広めたとも言えますが、その逆に、「神仏を信じる」という「時代の要求」に導かれて、それらの「宗教的指導者」が現れたとも言えるんだと思います。


つまり、彼らの説いた「教義」や「思想」が素晴らしかったからそれらの「宗教」が広まったと言うよりも、「その時代」が「宗教の時代」であったから、彼らが「カリスマ」的な立場につくことに成ったということなんじゃないかとも思います。


そして、現在すでに「神への疑い」は、間違いなく多くの人間の心の中に存在しています。

これは、「神」や「宗教」と言う概念が、すでに人間の心の中に存在しているというのと同じように、事実なわけですから、否定してもあまり意味はないでしょう。


「神を疑うこと」の方が正しいのか?

「神を確信すること」の方が正しいのか?

と言うことではなく、「疑い」が多くの人の心の中にあるということが「時代」を終わらせてしまうわけです。


もちろん、現在「神への確信」も間違いなく存在しているわけですが、それと同時に、ほとんどの人の中に「神への疑い」も存在していますから、それは「時代の確信」とは言えなくなってしまうということです。

「確信」と「疑い」が一人の人間の中に同時に存在しているという考えも、成り立たなくはないのかも知れませんが、基本的に「確信」は「疑い」を含まないことで成り立ちますから、「疑い」が増えて来ると成立しにくくなってしまうわけです。


そうなると、やはり、現在「神」を「確信」出来るのは、「特別な精神」を持った人に限られてしまうということです。

そういう時代の中で、いま、一番自然に、「一般的な精神」によって「確信」されることと言ったら、「人間」なんじゃないかと思うわけです。


「人間」が「人間」であると言うことが、いま一番「ピーク」にあることなんじゃないかと思うわけですね。


ただし、これは「現在すでに受け入れられている」という意味ではありません。

「時代のピークにあるモノ」と「現在受け入れられているモノ」が一致するのは、そのモノの「流れのサイクル」が比較的短い場合に限られるわけです。

つまり、それは「流行り」であって、「時代」よりも周期が短いものだと思います。
(数十年~数百年ではなく数年~十数年と言うスパンですね)

「時代」の周期は長いですら、「その時代」になってから、それが受け入れられるまでに、かなりの時間がかかるということなんでしょうね。

だから、そこには、かなりの”ズレ”が生じることがほとんどであって、場合によっては、「ピーク」が過ぎた後から「受け入れられる」ということもあるわけですね。

これらのことは、歴史の中ですでに証明されていることと言ってもいいんじゃないでしょうか?

 ※「時代」と「流行り」の違いは、そのスパンの長さの違いだけではなく、
  「安定性の差」だと思います。
  要するに、ほとんど「疑い」を含まずに、存在しているようなものは、安
  定して多くの人に確信されていますから、「時代」に受け入れられてい
  るということに成るんだと思います。
  たとえば「引力の法則」は「時代」に受け入れられているんでしょう。
  だから、「疑われること」が少なくて、「安定」しているということですね。
  それに対して、「流行り」の方は、爆発的に流行っているものでも、必
  ず、相当の数の「疑い」を感じている人が居るということでしょう。
  (例えば、「オカルト」や「スピリチュアル」は、流行っているときでも、
  疑いを持っている人がかなりいますから、「時代」にはなりにくいという
  ことだと思います)
  その「疑い」が「まったくのデタラメ」でなければ、結果的に、その「流行
  り」は、「時代」とは成らずに、短い期間で終わってしまうということです
  ね。

  これは、あくまで「それが正しいか?」ということではなく、『それが「時
  代」となるか?』ということについての話ですけどね。


まだ「人間」は「人間であること」を受け入れられていないようですし、「人間」と言うのが、どの程度のものなのかも、まだ理解されていないんだと思うのです。

しかし、そういったことを「人間」が受け入れたり理解したりしないと、前へ進めなくなってきていることは、まず間違いないことですし、自分自身が「ナニモノ」なのかを知る必要があるのは間違いのないことでしょう。

つまり、「人間自身」が「人間の不完全さ」や「人間の性質」を、受けいれたり理解したりする時期が来ているということなんじゃないでしょうか?


そして、その「ダメなところ」も含めて、「確信」したうえで、自分自身で、『それで、よし!』と言ってやる必要が出てきているんだと思うわけです。


今まで、世の中で「悪いこと」が起きると、『神様が居るなら、なんでこんなひどいことが起きるのか?』と言ってきたわけです。

そして、それに対する答えは決まって、『それも神様の采配の一つで、廻り巡って、人間にとって必要なことなんだ』ということだったわけです。


でも、これからは、『悪いことが起きるのは、人間が不完全なんだから当然のことだ』
『でも、もう、いいんじゃないか?それが人間というモノなんだから』
ということに成るということですね。
(だからこそ、そこを戒める必要もあるわけですが)


『そんなの、当たり前じゃないか?とくに言うほどのことじゃないだろう!』
と言われてしまうかも知れませんね。

でも、実は、人間には、

自分が「完全」であろうとしたり、

自分を「完全」だと思おうとしたり、

自分が「完全」だと言う前提で行動したりする、

と言うような習性があるわけです。


また、それができないとなると、「自分の外」に「完全なモノ」を設定して、それを崇拝する形で、なんとかして「完全」と言う「頼みの綱」を維持してきたわけで、人間が「自分」の「不完全性」を「イイモノ」として受け入れたことなど、過去には無かったんじゃないでしょうか?

常に、「不完全性」は「ワルイモノ」だったわけですね。


そういう「人間性」を「確信すること」が「今の時代」が要求していることのような気がしますね。
そして、それが「宗教」に代わる「信仰」に成るんじゃないのかなと。


「不完全な人間」が対称になるわけですから、「信仰」と言う言葉は当てはまらないのかも知れませんけど、
「確信する」と言う意味では「信仰」と言えなくもないと思うわけです。

「信仰」としては、かなりタヨリナイ感じですけどね。
それでいいんじゃないでしょうか?


「頼れるモノ」=「絶対的なモノ」を「確信」するというような、「そういう時代」が終わろうとしているということなのかも知れませんね。


「絶対的なモノ」を「確信」すれば、全ての責任は、その「絶対的なモノ」に移譲されます。

「不完全なモノ」=「人間」を「確信」すれば、全ての責任は、その「人間自身」に戻ってきます。
そこで「自分で責任を取ること」が要求されることに成るわけですね。


つまり、「人間」が「責任」を取らないとならなく成ってきたということなんじゃないでしょうか?
それが人間ができる範囲で、一番”マシ”なことなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「不思議」と「可思議」



「不思議」があるなら、「可思議」だってあってもいいんじゃないかと思うわけです。


「不思議」があって、「不可思議」まであるのに、なんで、「可思議」だけないんでしょうね?
それこそ「不思議」ですよね。


ここで言う「可思議」は、要するに「わかっていること」ってことに成りますね。

まぁ、実際には「わかっている」ということにしているだけなんでしょうが、それでも、あまり問題にならないようなことと言うところでしょうか。


「不思議」と「可思議」には、それぞれ役割があると思うわけです。
だから、「不思議」なことを無理にわかろうとしたり、厳然とした動かしがたいことのように扱ってしまうことや、「可思議」をあまり極端に疑ってみることなどは、「不思議」や「可思議」の持っている役割をつぶしてしまうことであって、あまり有効なことでも無いような気がするわけですね。


そこで、「不思議なこと」を信じている人と信じていない人と言うのが居ると思うわけですけど、そもそも、「不思議」は「ワカラナイコト」なわけですから、信じることは出来ないと思うわけです。


それなのに、信じている人はモノスゴク信じてるし、反面、信じない人となると、これまたモノスゴク「絶対信じない!」っていうカマエに成っていて、その中間の「不思議本来の姿」、つまり「ワカラナイコトと言う姿」が、ほとんどなくなってしまっていると思うわけです。


今の時代にあっては、とにかく「神秘的なモノ」が好きな人は、「スピリチュアル」でも、「UFO」でも、「心霊現象」でも、「不思議なモノ」はなんでも大好きだし、嫌いな人は、そういうものをすべてメノカタキのように嫌っているように見えますね。


でも、そういう「不思議」は「不思議」と言う位置にあってこそ効果的に機能するものなんじゃないかと思うわけです。


それを「ワカッタコト」=「可思議」としてしまうと、せっかくの「不思議な領域」が無く成ってしまうわけですね。


とにかく、「不思議好き」の側の人たちも、「不思議嫌い」の側の人たちも、「不思議」に説明をつけようとし過ぎるんじゃないかと思うわけですよね。

そうまでして、どっちかに分類しなくてもいいんじゃないかと思うんですね。
どっちかに分けるんじゃなくて、「不思議」に分類する方がイイんじゃないですか?


誰が見ても明らかなことは、「可思議」で問題ないでしょうし(実際、世の中のほとんどのことは「可思議」だと思いますしね)、残りの、ごくわずかな「不思議」は、わからないままにしておいてもいいんじゃないのかなと。


ま、そんな風に思うわけですね。




現在考えられる「神と芸術の関係」



「芸術」と「宗教」は、昔から深い関係があったんだと思います。
「哲学」もそういう分野だといっていいでしょう。

それらは、いずれも「真理を追究する」ということで近い位置にあるんだと思うわけです。


だから、「神」が「究極の真理」であると信じられていた時代においては、「神の世界」を表現することこそが「芸術」でもあったんだと思います。

 ※これは世界中のいろいろな地域で同じようなことが言えると思います。
  「神」が「仏」に成ったりするというだけですね。


過去のことはさて置き、現在の「神と芸術の関係」とはいったいどんなものなんでしょうね?


これは、「信仰」をお持ちの方には到底納得のいかないことなんでしょうが、私は「神の時代」は、もうトックに終わってしまっていると思っているわけです。

ですから、現在考えられる「芸術」の目指すところは、「神の世界を現すこと」ではないように思うわけです。


そこで、『じゃあ「ナニ」を目指すんだ?』ということになるわけですね。


まず、「神の時代」がどのようないきさつで終わっていると思うのか?ということです。

「宗教の歴史」をはじめからたどるのは難しいでしょうけど、「絶対的なモノに対する信仰」という、「現在の宗教」の形式」ができてからのことで言うと、そういう【「絶対的なモノ」を想定する以前の「信仰」】から、

 ※こういったものを「原始宗教」というような言い方をしますが、私は「宗教」よりも
  前に「信仰」があったのだと思っています。
  「自然」や「世界」に対する「畏怖心」のようなものは、原始の時代の人間の中に
  もあったでしょうし、動物の中にもあるのだと思っています。
  こういった「オソレ・オノノキ」を、「信仰心」と言うことは出来るでしょうが「宗教」と
  いうのには、やや違和感を感じますね。

【「絶対的なモノ」を想定した現在形の「宗教」】が生みだされたことで、「宗教」が「文化的な側面」を併せ持つようになったように思うわけです。

そして、そのことによって「宗教」は飛躍的に発展したともいえるでしょうし、「人間社会」にとって、不可欠の要素に成ったともいえるでしょう。

また、その結果、「宗教」が、「真理」を追究する分野に成ったとも言えるんじゃないかと思うわけです。
つまり、「絶対者」と言う「究極の真理」ですね。


ここから、「宗教」と「哲学」や「芸術」が結びついていくことに成ったんだと思うわけです。


そして、「現在の宗教」はと言うと、その「絶対者」を「普遍化」する傾向があるように思うわけです。

たとえば、昔ならば、「神」も「教理」も違う「異教」同士が認め合うということはあり得なかったんでしょうが、現在は、どちらかと言えば、『そういうのは、ノー・プロブレムなんですよ!』という考え方の方が主流と言っていいでしょう。

つまり、「あちらの神」も「こちらの神」も「おなじ神」ということで、「普遍的な神」を想定するようになったということなんでしょうね。たぶん。


本来は「神」自体がもともと普遍的なわけですから、当然と言えば当然でもあるんでしょうね。
でも、じゃあ、なんで「教義」や「神の名」が違うのか?と言う矛盾もあるわけですが、まぁ、その辺には目をつぶって「普遍的な神」ということを重視していこうということなんでしょう。

それで、争い事が減っているのは確かなことだと思います。


でも、そうなると、「芸術」は「どの神の世界」を表現すればいいんでしょうか?
もちろん、「確固たる信仰」を持っている芸術家はいいでしょうが、そういう「宗教」を持たない芸術家や、それこそ「より普遍的な神」を追究したいという芸術家はどうすればいいのか?


この辺のことから、「芸術の20世紀」において、「芸術」は「混迷」に巻き込まれていくことに成ったんだと思うわけです。

これは、必ずしも「芸術」を「宗教」と結びつけて考えるときに限らず、「宗教」が追求すべき「神の姿」を見失っていったのと同じように、「芸術」も追及するべき「真実の形」を見失って行ったということなんだと思います。


つまり、どちらにおいても、「絶対的なモノ」を想定することが出来なくなってしまったということでしょう。

それで、「神の時代」が終わって行ったんだと、まぁ、私は思っているわけですね。


現在の「宗教」においては、『「神」とは「すべて」である』と規定する傾向があるように思います。

そういうことをわりとはっきりと言っているのは「スピリチュアル」の人たちでしょうが、「スピリチュアル」に限らず、多くの「宗教」でこういう考え方が普及しているんじゃないでしょうか?


つまり、「神の絶対性」を追究していくと、「すべて」に行き着くんだと思います。


それは、おそらく「すべて」が「唯一の世界を分割しない言葉」だからだと思うのです。

「言葉」と言うのは、基本的に「世界を二分する性質」があります。
たとえば、「神」と言えば「神」と「神じゃないもの」に「世界が二分される」ということですね。

でも、「すべて」だけは「すべてじゃないもの」を想定することが出来ないので、「絶対性」が崩れにくいわけです。

もしも、「すべてじゃないもの」があったとしても(無いでしょうけど)、それは見つけられた瞬間に「すべて」の中に取り込まれてしまいますから、けっきょくは、それも「すべて」に含まれているということに成ってしまうわけですね。


さて、そこで、「芸術」ですが、「芸術」もやはり、「すべて」を現す方向に向かったのだと思います。

つまり、それが、「抽象表現」ということなんだと思うわけですね。


「具象表現」は「限られたモノ」を現すのには適していますが、「いろいろなモノ」を含んだ「世界」や「モノ」の「根本原理のようなもの」を現すことに向いているとは言えないというわけですね。

「すべて」とまでは言わないまでも、「いろいろなモノ」を現すのには、やはり「抽象表現」が必要に成るんだと思います。


と言うあたりが「20世紀~現在」までの芸術と宗教の在り方なんじゃないかと思うわけですけど、実際には、「芸術」はこの辺のところでかなり長い間停滞していると思いますね。
というか、「芸術の20世紀」半ばあたりからは、「やや後退気味」なんじゃないかなと。
そんな気もするんですがどうなんでしょうね?


さて、そこから先の話なんですけど、長くなってしまったので、

次の記事につなげます。




現在考えられる「神と芸術」の関係」(つづき)



前の記事からの続きに成ります。


さて、「芸術」も「宗教」も、19世紀~20世紀にかけての「人間の意識の変化」によって、「すべて」というモノを目指すようになってきたんじゃないか?ということです。

こういう傾向はけっこう前から続いているんだと思いますけど、「すべて」は、そう簡単に到達したり現したりできないので、なかなかそこから卒業できないというところなんでしょう。


ただ、ここで一つ問題があって、「宗教」において、「すべて」を「真理」であるとしてしまうと、結果的に「宗教」が「無意味化」するということがあるわけです。

つまり、「宗教」以前の「単なる畏怖心」のようなものに戻ってしまうような気がするわけですね。


「宗教」が今のような形になる前にも、「自然」や「世界」に対する「畏怖心=オソレ・オノノキ」のようなものはあったでしょうし、それは、「人間」だけでなく「動物たち」の中にもあるんだと思います。

そして、そこから「神」のような「絶対的なモノ」を想定したことで、「宗教」は「宗教」たり得たように思いますし、それこそが、「宗教の文化的側面」を形成していた要素だと思うわけです。


つまり、「畏怖心」だけだと、根源的な感情ではあっても、素朴すぎるために「発展性」が無く、「文化」とはなりにくいんじゃないかと思います。

「すべて」も、それと同じようにあまりにも「根源的」であるために、「文化」にも「宗教」にも成らないんじゃないかと思うわけですね。


というよりも、「宗教」が「すべて」を追究すると、結果的には「宗教」としての意味を失ってしまうんじゃないかと思います。
言い換えれば、「すべて」は、「追究する必要」も、「信仰する必要」も、「真理と呼ぶ必要」もないということです。


「すべて」は何と言っても「すべて」ですから、なにも要求することなく「すべて」として、あらゆるものを含んでしまっていますから、ナニカを探求する「必要」も「意味」も全く無く成ってしまうわけです。

そうなると、もう、それを「宗教」と呼ぶことにも意味がなくなってしまいますし、そこに「信仰心」を持ち出してくる理由も何一つ無く成ってしまうわけで、「宗教」において「すべて」を「真理」としてしまうと、『へぇ~、そうなんだぁ~』と言うだけのことに成ってしまうんじゃないでしょうか?

もはや、それを「信仰」と呼ぶことにも意味は無いかもしれません。


つまり、それは「オソレ・オノノキ」から数千年を経て、それ以前の状態に戻ってしまったということに成ってしまうわけです。

それがワルイということではありませんが、それは、やはり、「後退」であるというような気がします。


これは、同じようなことが、「芸術」にも言えていて、「芸術」においてもやはり、「すべて=完全な普遍性」を現そうとして、それを極限的に追及していってしまうと、そこには「無意味」と言う「芸術の残骸」が残るだけなんじゃないかと思うわけです。


これは「芸術の20世紀」が証明して見せたことの一つだと思いますが、その「芸術の20世紀」という実験を行った本人たち(巨匠と言われる人たち)が、その「無意味」と言う「実験結果」を発表することなく、放置してしまったために、その後の「芸術」が「混迷の渦」から逃れられなくなってしまったんだと思うわけです。


少なくとも、私は、「20世紀」の「芸術」や「宗教」において、自分の「芸術的探究」や「宗教的研鑽」が、結果的に『無意味であった』と言っている人を知りませんし、それどころか、その点に疑問をはっきりと提示してから死んでいった人すら知りません。
(そういう人も居るのかもしれませんが、それをハッキリと言い残した人は居ないと思います)

今さら、それをどうこう言うつもりはありませんが、それも、やはり「後退」であるとは言わざるを得ないわけなのです。


そして、なんといっても、「今」ですね。

いま、「宗教」においては、私は「人間が宗教を卒業する時」が来ていると思うわけですが、「芸術」においても、「すべてを現すこと」は不可能であるということがわかって来ていると思うのです。

そうなると、やはり、ある程度「限定されたモノ」を現していくしかないということですね。

つまり、「宗教」においても、「芸術」においても、「絶対」や「究極」を追究することを諦めなければならなくなってきたということだと思うわけです。


「宗教」においては、もともと「絶対」を追究すること自体に「宗教の本質」があると思いますので、そこで「宗教の時代」は終わってしまったんだと思うわけです。


「芸術」においても、やはり「究極」は、昔からのテーマであったとは思いますが、そこを少し妥協したとしても、まだ「芸術の役割」は残っているような気がしますので、それで、「芸術の時代」は継続できるような気がしているというわけです。


また、これはある意味で「妥協」ではあるかもしれませんが、「後退」とは言えないと思うのです。
つまり、「前進」するための「妥協」ということですね。


もちろん、今でも「究極的なすべて」を現せれば一番いいんでしょうが、それは不可能であろうということで、「妥協」するわけです。でも、もともと「すべて」が絶対的な目的なわけではないわけですから、そこを「妥協」したとしても、少しでも「真実」に近づければ、少しはいいんじゃないのかなと。

そんなところでしょうか?


そんな中で、今、「芸術」が追求していくことと言えば、「すべて」を現すことが不可能であるという現実を受け入れたうえで、さらに、それを現そうとし続けることと、そういうことに対する純粋で懸命な姿勢を示すことなんじゃないのかなと。


それは「現在の芸術」が示すことが出来る「究極的な姿勢」であると言ってもいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「スピリチュアル」が「一人カルト宗教」に成ってしまうという危険性



この10年~20年ほどの間に、「スピリチュアル」とか「スピリチュアリズム」という言葉を耳にする機会が、ずいぶん増えたように思うわけですが、まぁ、「ブーム」っていうことなんでしょうね。たぶん。


「ブーム」なんて言うと、怒る方も居らっしゃるでしょうが、「スピリチュアル」をやっている人が、みんな「極める」っていうような方向でやってるわけでもないんでしょうから、現在の、「スピリチュアル信者急増」は、やっぱり、一つの「流行現象」という面もあるんだと思うわけです。
 (それが、悪いことだとは思いませんけどね)

 ※これは、私の勝手な考えですから、『イヤだな!』っていう風に思う方が
  いらっしゃれば、先に謝っておきます。『ごめんなさい!』
  それから、「宗教」や「スピリチュアル」に対して、やや否定的な意見には
  なると思いますが、それらを否定しようと言う意図で書いているわけでは
  ありませんので、アシカラズ。

まず、この「スピリチュアル・ブーム」はどこから来たのか?ということなんですけど、私の勝手な考えでは、これは、日本が「カルト宗教天国」のようになっていた時期があったことに端を発しているように思えるんですねぇ。


大学などには必ず「宗教系のサークル」がたくさんあったり、駅前の広場では、ちょっと怪しげな「勧誘活動」をしている人たちが居たりということが、ごく普通のことだったころのことですね。


あの人たちって、どこ行っちゃったんですか?っていうことですよね。


私は、その人たち自身や、そういう人に成るはずだった今の世代の人たちが、いま、「スピリチュアル信者」に成ってるんじゃないかと思うわけなのです。

必ずしも、「カルト信者」=「スピリチュアル信者」ということではなくて、「カルト天国」の時期には、「やめとこう」と思って手を出さなかった人まで含めて、「スピリチュアル」なら「安心だからやってみよう」に成っているんだと思うんですね。

そういう「安全な感じ」があったから、「ブーム」に成ったんでしょうね。
しかも、それがけっこう長く続いているということなんでしょう。


そして、その「カルト天国時代」を、さらにさかのぼって考えていくと、どうやら、「超能力ブーム」と言うものに突き当たるんじゃないかと思うわけです。

私自身も子供の頃、あの「ユリ・ゲラー・ブーム」をリアル・タイムで体験していますし、実際、興味津々で見ていたクチなんだと思います。


日本中で、『うちの子がスプーンを曲げたんだ!』とか、『壊れていた時計が突然動き出したんだよ!!』と言うことが起きていたわけですけど、その人たちは、どこへ行っちゃったんでしょうね?


つまり、そういう人たちこそが、「スピリチュアル・ブーム」の素に成っているんだと思うわけです。


私のように、
『なんだ、ゼンゼン曲がんないじゃん!』
『いや、待てよ!すごーぐチョットだけど曲がってるんじゃないか!?』
と思ってた人も含めて、あの時代以降の世代の人というのは、完全に「不思議のトリコ」になってしまったんだと思うんですね。


ちょうど、「科学万能の時代」にあって、「科学」とは対極にある「不思議なモノ」が子供たちに限らず、「興味」の対象に成ったのは当然の成り行きだったような気もします。


その後、「科学万能の時代」にも、「高度経済成長」にも、やや陰りが出てきて、その最終局面を意味する「バブル」の時期に至って現れてきたのが、「カルト宗教の乱立」という現象だったように思いますね。


つまり、「超能力ブーム」によって「不思議のタネ」を巻かれていた人たちの中で、「バブル」と言う「コヤシ」を与えられて、そのタネが「カルト」という形で芽を出したわけですね。


そして、その後、その「カルトに懲りた人たち」や、「カルトを遠巻きにしていた人たち」が、安全な「スピリチュアル」にイッキに流れ込んでいったんだと思います。


私自身は、いつも「スプーンが曲がらなかった人」だったので、そちらに接近したことは無かったんですけど、それですら、「不思議の魅力」にはそれなりに興味を持っていたと思いますし、何かしらの影響は受けていたと思いますね。


私の場合は、いつしか、「神」とは、一人一人の人が「自分の中に創り出すもの」だと思うように成ったので、
 
 ※もう少し言い足すなら、『「神」とは「自分の中に創り出すもの」であり、それが不可
  能であることがわかった後も追い続けるという行為の中にある「人間が本質的に持
  っている純粋性」に対して、人間が「名前」をつけて「姿」を与えたものである』という
  ことに成ります。
  それが人間にとっての最大限度の「神性」なんだと思いますね。

「与えられた神性」や「そこに在る神性」を信仰するということはありませんでしたけど、まぁ、「スピリチュアル」は「カルト宗教」なんかとは違って「安全」なんだし、どちらかと言えば『そういう考え方って、いいんじゃない?』とも思ってました。

でも、ここにきて、『待てよ、本当に安全なのか!?』と思うようになってきたんですねぇ。


一言でいうと、『「スピリチュアル」って、実は「一人カルト宗教」なんじゃないのか?』っていうことなんですねぇ。


「スピリチュアル」はハッキリした教義や経典を持たないことが多いようですし、考え方自体が過激とは言えないですし、具体的な「洗脳」もないわけですから、「カルト化しそうな要素」がほとんどないように見えるんですけど、それなのに、このところ、急激に「スピリチュアル」の人たちが言う言葉のハシハシに「カルトの片鱗」があるように感じることが増えてきたんですねぇ。


まず、「覚醒」と言う言葉です。
これをよく耳にするんですね。

私は、「人間」が、『人間にすら届いていない』と思ってますから、この「覚醒」という言葉を聞くと、『それは、とうてい人間の範囲外でしょ!』と思ってしまうわけです。

だから、『ある時、突然、覚醒しました!』みたいなことを耳にすると、どうしても、「カルト的な無理」を感じてしまうわけなのです。


それから、「瞑想」や「浄化」という言葉も、どうしても「カルト」とイメージがダブってしまいますね。

最近になって、とくに思うようになったんですが、「瞑想法」や「自己浄化法」のような、ある種のトレーニングには、脳内に「特定の物質や状態」を発生させる効果があるんだと思うんですけど、それが、「自己洗脳」的な状態を創り出してしまうんじゃないかと思えるんですね。

そして、この「自己洗脳」が非常に危険なんじゃないかとも思っているわけです。


あとは、「不食」という言葉ですね。
これが「スピリチュアル」と結び付けられているというようなことを聞いたときに、『「スピリチュアル」はカルト化してるんじゃないか?』という「疑い」が、私の中で決定的になったような気がします。

と言っても、『食べなくたって生きていけるんですよ!』っていう話について、『そんなの、どうせウソだろ!?』ということが言いたいわけではないんです。


むしろ、単純に言って『食べたほうがいいんじゃないですか?』っていうことなんですよね。


たとえば、「オウム真理教の教祖」が「空中を浮遊すること」が、、『本当に出来るのか?』っていうことじゃなくて、『そんなこと、べつに出来なくていいでしょ?』ってことですよね。

そういうことが出来るといわれても、『飛行機が墜落する瞬間にジャンプすれば助かるんだぜ!』と言われたのと、ほとんど変わりがないようにしか、私には思えないんですね。


それと同じように、『食べなくても生きていけるんだ!』と言われても、私は、「食べること」を、人間が生きている中で「最もスバラシイこと」の一つだと思っているので、「そのスバラシイこと」をしないことの方を、「スバラシイこと」のように言われると、どうしても「カルト化」を感じてしまうわけなのです。


いずれにしても、「スピリチュアル」において、このような形で「自己洗脳」状態が創り出されてしまう危険性は間違いなくあると思います。
しかも、けっこう高い確率かも知れません。

意外なんですけどね。

「完全に安全」だと思っていますから、みんな「完全に油断」してるんですね。
それで、人によっては、スッポリとはまり込んでしまうんじゃないかと思います。

それに、「人からの洗脳」ではなく「自分による洗脳」ですから、非常にハマリやすいと思いますし,非常にヌケにくいような気がします。


もちろん、「教祖さま」はいらっしゃいませんから、そちらに貢がされるという「経済的なダメージ」だけは避けることが出来ますけど、「精神的なダメージ」はほとんど同じなんじゃないかと思います。

いま、「スピリチュアル」を信じている方や、そちらに少なからず傾倒している方は、つねに、「反対側の視点」を持っていたほうがいいような気がしますね。


そういう「反対側の視点」が「悪魔のささやき」のように感じたら、「やや危険」かなと。

失礼ながら、そんな風に思ってしまうわけなのです。


最後にもう一度、念のため、『ご気分を害された方が居らっしゃいましたら、ごめんなさい!』





「神の言葉」・「悪魔の言葉」・「人間の言葉」



宗教的な意味で言うところの「神の言葉」とは、神が語ったとされている言葉や、神の代弁者として認められた人が語った言葉と言うことに成るわけです。
そして、その「神の言葉」に反するような「言葉」を「悪魔の言葉」とすることが多いと思います。

要するに、「神の教えに背く」ということですね。


ただ、これらをよく考えてみると、すべて人間が語っている言葉であるわけです。


どんな宗教においても、同じだと思うんですが、「神様が実際に人前に姿を現す」ということは無いと思うのです。
(預言者や現人神などは、本当の神様ではないと言う前提でですけどね)
だから、当然「神の言葉」も人間が直接聞くことは出来ないんだと思います。


つまり、「神様」と言うのは「無限にして絶対なモノ」ということですから、人の前に現れてしまうと「その現れた姿」に限定されてしまうわけで、「現れること」が出来ないということだと思います。


これは、「神の言葉」でも同じことで、具体的な「言葉」にして現してしまうと、その「言葉の範囲」に限定されてしまうわけですから、「無限にして絶対」ではなくなってしまうわけです。

つまり、それはもう「神の言葉」ではないということですね。


でも、そうなると、本当の「神の言葉」というものは存在しないということに成ってしまうわけです。


そもそも、「言葉」と言うモノ自体が「人間レベル」のものなわけで、常に「何らかの限定」を含んだものなんだと思いますから、「神の言葉」と言ってしまうと、「神の無限性」が崩れてしまうわけですね。


ほとんどの「宗教」においては、そこのところを、『神様が人間にもわかるように、「人間の言葉」で神の無限性を説明しているのだ』という風に解説していると思います。

そして、それを説明するために「神によって使わされた」とされるのが「その宗教の教祖(始祖)」である場合が多いと思います。


ただ、その「教祖様」は、やはり「人間」なわけです。
そして、「人間」は、悲しいかな「無限」ではないわけです。

「教祖様」たちは、たいていの場合「コテコテに有限」です。
(『実は私こそが無限なのです』と言い始めると、だいぶアブナイですけど)


この点に関しては、新興宗教やカルト宗教の「教祖様」でも、現在、世界的な宗教に成っているような宗教の「始祖様」でも、全く変わりがないはずです。


確かに、過去において「宗教」が担ってきた役割があったことは間違いないことだと思いますし、それが今でも続いていることも否定はしませんが、それを今後も続けていくのか?ということに成ると、私は、もうそろそろ「人間の言葉」に耳を傾ける時期なんじゃないのかなと思ってしまうわけなのです。


そして、それは「人間の言葉」を「人間が語る時期」でもあるわけです。


これまでは、なんだかんだ言っても、結局は「神の名を語っていた」ようなところがあったと思うわけです。

いや、必ずしも悪い意味ではなく、それを信じて言ったり語ったりしたことでしょうから、それは、その時代において「立派なこと」だったのかも知れません。

しかし、現時点で、それと同じことを繰り返すことは、やはり、「神の名を語ること」になってしまうような気がします。


現時点での「信仰」には常に「疑い」が入り込んでいると思うのです。
(一人一人の人間の中にではなく、現代という時代の中に潜在している「疑い」ですね)

だから、そこでの「信仰」とは、常に「盲信」に変化していく可能性を秘めていますし、「布教」とは常に「押しつけ」に変換されてしまうわけです。


つまり、「神への疑いを含んだ時代」においては、「神の言葉」を伝えることが、必ず「神の名を語ること」になってしまうわけです。


そんな中で、「人間」は「人間の言葉」を「神の言葉」としてしまうのではなく、「人間の言葉」として語っていく必要が出てきているんじゃないでしょうか?

当然、「神様」の持っている(かつて持っていた)「絶対性」には及びもつかないでしょうし、ほとんどの「人間の言葉」には「間違い」が含まれているでしょう。


そして、その「間違い」の責任はすべて「人間」に帰って来るわけです。
それを語ったのも「人間」だし、それを聞き入れたのも「人間」ですから。


そんな状況の中で、「人間の言葉」を懸命に語り、その懸命に語られた言葉に、また懸命に成って耳を傾け続けることは、決して容易なことではないかも知れませんが、そういう方向こそが、現在「人間」に指し示されている方向だと思います。


たとえば、「スピリチュアル」と言う信仰(なのかな?)がありますが、「スピリチュアル」を信じている人たちが、それを「宗教」だと思っているのかどうかはわかりませんけど、やはり「何らかの絶対」を設定したものは「信仰」だと思いますし、その「信仰」を「何らかの形で語ること」は「宗教」に当たると思います。

「スピリチュアル」においては、「愛」を「絶対原理」とする場合があるようですが、この考え方自体はとても好きな考え方ですし、そういうことを言っている人も好感の持てるような人である場合が多いので、ケチをつけてもワルイかな?とは思うんですが、

『「愛」だけじゃいけないんですか?』と思ってしまうわけなのです。
つまり、『なぜ「愛」を「絶対原理」としなければならないのか?』ということですね。

『どうして「信仰」にしてしまうのかな?』と思ってしまうわけですね。
言い方を変えれば、『「人間の愛」では不足ですか?』ということです。
もっと言えば、『「愛」の裏側に「憎」があってはダメでしょうか?』ということです。

それが、「完璧で汚れのない愛」でなければダメなんでしょうか?


そんなことないんじゃないかと思うわけです。
「不完璧」なモノでもいいんじゃないかと思うんですね。


私は、「真理」と言うモノ自体が「変容し続けるもの」なんじゃないかと思うのです。
つまり、『全てのモノがネジレながら反転し続けている』というのがこの世の中の実体だと思うわけです。

だから、「不合理」と「合理」が混在していられるわけで、説明できないことがあるのも当然のことですし、「不合理」はネジレてどこかで「合理」とつながっているから、両立していられるわけです。

 ※『それじゃあ、「真理」とは言わないだろう!』と言われてしまうかもしれませんが、
  そういう「変容する姿」が全体としてつながっていて「整合性」をもっていることを
  「真理」と考えることは可能だと思います。
  というか、そうでも考えないと、こんなに矛盾した世界を説明することなんてできる
  わけないと思いますね。


「不変にして永遠であること」を「絶対」とか「普遍」としてしまうと、その辺のところを、説明する必要が出てきますけど、「真理」を「不変にして永遠であること」ではなく「変容し続けること」とすれば、そこのところを説明する必要は無く成ります。
      
「真理」も「普通のモノの一つ」に成るということです。
ただ、「真理の変容」はたぶん「人間のサイズ」を超えているので、人間には把握きないと思いますけどね。

たとえば、「宇宙の果て」に向かって行くことは、「宇宙の中心」に向かうことでもあるわけで、当然「その中心」こそが「果て」でもあるわけですから、「果て」に到達することは不可能でもありますが、いつどこにいてもそこが「果て」でもあるし、「中心」でもあるというわけです。

この説明で分かるように、まったく意味がありません。
要するに、『ナニを言っているのかわからんのだよ、キミ!』という感じですね。

それを、「神の名のもと」に言ってはいけないような気がするわけです。


「愛」と言う「言葉」は「人間の愛」を想定して語られるべきだと思いますし、「神の愛」や「絶対原理としての愛」は「愛」と言う「言葉」では語りきれないはずです。
これは「愛」を「神」に置き換えても、また、他のどんな「言葉」に置き替えても言えることだと思います。


すべての「言葉」は「限定」を含んでいますし、如何なるものも「言葉」に置き換えれば「その言葉の範囲」に限定されてしまいますから、「絶対」を「言葉」にして伝えることは不可能なハズです。

それをやろうとすれば、「神の名を語って伝えること」になってしまうと思うわけですね。


こんなことを書くと、信仰心の厚い方からは『悪魔の言葉だ!』と言われてしまいそうですけどね。

でも、私は「コテコテ人間」なので、「人間の言葉」として語っております。


「コテコテ人間の言葉」ですね。

『まぁ、いいんじゃないの?』

そんな風に思っております。




すべての「宗教」は「相似形」なのか?



世のなかにはいろいろな宗教があるわけですが、実は、「宗教」と言うのは、すべて「相似形」であって、本質的には同じものだと思うわけです。


もちろん、「その宗教」を信仰している人にとっては、『そんなことは無い!私の信じている「神」以外の「神」など居るはずがないのだから』ということに成るんでしょうが、そういうこと自体が、ほとんどの「宗教」でいわれることなわけで、

そういうところも含めて「相似形」だなと思うわけですね。


と言っても、最近の傾向としては、

「宗教」の側でも、『宗教は相似形である』ということをむしろ積極的に認めているという感じもするわけです。

少なくとも、とくにカルト的な性質の団体や原理主義的な傾向の宗派以外の、比較的大規模な「宗教」や「宗派」では、自分たちとは「チガウ信仰」も認めていこうという流れに成っているようですし、それどころか、「チガウ神」ですら、お互いに尊重していこうとする傾向があるように思えます。
(それで争い事は減っているのかも知れません)


これは、要するに、『そこに「神」がいて、それを「信仰」する人が居れば、それはみな同じことなのだ!』ということなんじゃないかと思うわけです。


ただ、ここで一つ問題があって、先述の「カルト教」や「原理主義」ですね。
これらも含めて、「相似形」なのか、それとも、「そういうのだけは別」なのかということです。


少なくとも「カルト」や「原理主義」の側ではそれを認めないでしょうし、「リベラルな宗派」の側でも、「カルト」や「暴力的な原理主義者」とは一線を画しておきたいということがあるでしょうから、

やはり、今のところ「そういうのだけは別」が主流なんだと思います。


でも、そういうことは、「宗教」の「本質」における問題と言うよりは「実践」における問題でしょうから、おおむね、「宗教」は「相似形」であるといってもいいような気がするわけです。


「宗教」が「相似形」であるという前提で言えば、もはや「教典」も「細かい教義」も必要ないはずですし、要は、そこに「何らかの神」がいて、人間に「信仰心」があればそれだけで十分なハズです。


そして、こんなことを表すために出て来たのが「スピリチュアル」と言うモノだと思うわけです。


誤解のないように言っておくと、私は「スピリチュアル」の考え方にも、それを信じていらっしゃる方々にも、おおむね、好感を持っていて、決して「やめちまえ!」と思っているわけではありません。
これは、他の「宗教」についても、ほぼ同じです。


そういう前提で言うことなんですけど、『それでもまだ「絶対的なナニカへの信仰」は必要なのでしょうか?』


「絶対性」と言うよりも「不完全性」、「信仰」と言うよりも「愛着」では足りないでしょうか?


取り敢えず、自分のことで言うと、「不完全な人間の愛着」で十分すぎるくらいに満足しています。
だから「絶対的なモノ」や「完全な愛」の必要は感じません。


今のところ、そういう感じでやっておりますです。はい。




「宗教」の「行き止まり」



前の記事に続いて、これもまた「宗教」についての話です。

信仰をお持ちの方には納得いかないことに成ってしまうでしょうが、真面目に考えていっていますので、そこのところはお許しください。


さて、いきなりですが、私は「宗教」には「行き止まり」があると思うわけです。
つまり、あるところで必ず”にっちもさっちもいかない”状態に成ると思うんですね。


要するに、人間には「神様」が把握できないという問題があるわけです。
だから、「信じる」しかなくなってしまうというわけです。

そこが「宗教の行き止まり」だと、私は思うということなのです。


これは「神様」を、ほかの言葉に置き換えたとしても同じで、「人間」は「人間のサイズを超えたモノ」は把握できないわけです。
しかし、「信仰」の対象に成るようなものは、必ず「人間のサイズを上回るモノ」ですから、絶対に把握することは出来ないわけです。


そこで、「信じる」しか無く成るわけですが、「把握できないモノを信じる」ということは、結果的に「盲信」を免れるすべがないということに成ります。
「盲信」を免れるには、そこに「疑い」を持ち込むしかないわけで、そうなると、「純粋な信仰」が崩れてしまいます。

そこで「行き止まり」です。


その「行き止まり」を突き抜けるには「盲信」を恐れずに「信仰」に突き進むしかないわけです。
つまり、やや極端な言い方をすれば、『全ての宗教は盲信である』ということです。

でも、それが絶対に悪いということではありません。
「盲信的なモノ」の中にも「悪くないモノ」だってありますから。


たとえば、「親子の愛情」なんかも、かなり「盲信的」な場合があります。

動物の行動で「インプリンティング」と言うのがありますが(生まれて初めて見た「動くもの」を親だと思ってしまうというアレですね)、あれなんかも、完全に「盲信」ですが、それが本当の親であれば何の問題もないことですから、決して悪いものではないのでしょう。

これは、人間の親子間の愛情についても同じようなことが言えるんじゃないでしょうか?
「その親」がマトモでありさえすればいいわけですね。
(ただ、「その親」がマトモじゃなかったときはけっこう悲惨なことに成るわけですけど)


「宗教」だって同じことで、「その宗教」がマトモであればいいわけですが、その「マトモならばいいだろう」という基準自体が、「宗教」としては「行き止まり」なんじゃないかと思います。


それから、もう一つ言えることは、現代の生活の中で考えた場合、「宗教」で救われている人は、もしも、「宗教」が無かったとしても大丈夫な人なんじゃないかと思いますが、「宗教」で疲れ果ててしまう人というのは、「マトモじゃない宗教」にハマらなければ、もう少しいい人生を送って居られた人なんじゃないか?と思うんですね。

もちろん、そこから立ち直る過程で、多くのことを学ぶ人も居らっしゃるでしょうが、そうでない人が居るということも否定はできないと思うわけです。


これは、「薬物依存」や「ギャンブル依存」や「悲惨な結婚生活」なんかにも同じことが言えますが、そこから学んで結果的にプラスに転じることが出来る人も居ますが、それが出来ない人も居ます。

でも、そういうことと「薬物やDVなどを含んだ悲惨な生活」を無くしていった方がイイだろうということとは別のことだと思います。


「宗教」の場合、そこのところが、昔と今では違うような気がするんですね。
つまり、「宗教で救われる人」と「宗教で疲れ果ててしまう人」の比率が逆転しているように思うわけです。
(「なんとなく宗教をやっている人」ではなくて、「強い思いで信仰している人」に限っての話です)


要するに、現時点で「宗教」を「信仰すること」は、一種のギャンブルだということです。

だから、「宗教」には「行き止まり」があって、そこから先は「盲信」覚悟でのギャンブルであるということをわかったうえで、そちらに身を任せるのか?という選択基準があった方がイイんじゃないかと思うわけです。

でないと、「宗教で疲れ果ててしまう人」が後を絶たないような気がします。


もしかしたら、いま、「神様」が『私を捨てなさい』と言っているのかもしれませんよ。
いや、こういうのが「神の名を語ること」になってしまうわけですね。


「神様が言っていること」というよりも、「人間が思うこと」として、おそらくは原始時代から持ち続けてきた「習慣」である「信仰」を、片手ではスマホを操作しながら、まだ、これから先も続けていくのか?ということだと思います。


「宗教」や「信仰」を否定するということではなくて、そういう「機能」を「人間の中」に見つけ出せないのか?ということですね。
もし、それができたら「神様」も褒めてくれるんじゃないですか?

おっと、また「神の名を語ること」ですね。


言い直すと、『それができたら「人間」は自分で「自分」を褒めてやってもいいんじゃないですか?』

そういう風に思うわけです。





「神話」から「人間の話」へ



「神話」と言うと、「ギリシャ神話」とか、日本で言えば「古事記」や「日本書紀」に出て来るような大昔のお話という印象がありますよね。


そういう「神話の時代」って、いつ頃までなんだ?ということを考えると、それは「宗教」と呼ばれているものが現れてくる前の時代までなんじゃないかと思うわけです。


「神話」と「宗教」って、似ているところもありますけど、根本的にかなり違うモノだと思うんですよね。

要するに、同じところは「神様が出て来るお話」ってところだけで、そのほかのところは、ぜんぜん違うと言ってもいいぐらいだと思います。


まず、「神話」の中の「神様」って、とにかく「人間的」なんですね。
人間以上に「人間的」と言ってもいいぐらいですよね。

やたらと嫉妬心も強いし、意地悪なこともよくするし、どこか弱い所があったりもするわけです。
それでも「神様」なんですねぇ。


こういう「神話」の特徴は、世界各地にある「神話」に共通している部分が多いように思います。


「宗教」の中の「神様」は「絶対者」ですが、「神話」の中の「神様」は「不完全」なところをたくさん残していて、
その辺のところが、「ほぼ人間並み」という感じです。
というか、『どこが人間と違うの?』っていう感じですよね。

どちらかと言えば、「人間臭さのカタマリ」と言った方がイイような気がします。


そうだとしたら、「神話」じゃなくて「人話」じゃないか!とも思いますけど、
それでも、やっぱり「神様」は「神様」であるわけです。
「じんわ」とも読めますけどね。


それから「宗教」の中の「神様」は、人間を導いたり、人間の規範に成ったりするという設定に成っていますが、「神話」の中の「神様」は、必ずしもそういう設定には成っていません。

他にも「神話」と「宗教」の違いはあるでしょうが、要するに、根本的な性質が違うということだと思います。


つまり、「宗教的な世界感」と言うのは、「絶対性」をもとにした「世界感」です。
言い換えれば、「理想化された世界感」と言ってもいいでしょう。

それに対して、「神話的な世界感」と言うのは「極めて不完全な世界感」、すなわち「現実的な世界感」ということなんだと思うわけです。


さて、そこで、何が言いたいかと言うと、もう、「理想化された世界感」を追うのはやめてもイイように思うわけです。
言ってみれば『「理想」は、もはや「理想」ではなくなった』ということです。


そもそも、「理想」や「絶対」を設定できるのは、「一元的な世界感」を前提にしているからです。

現在が「多元的な方向性」を目指していることは間違いのないことでしょうから、「理想」や「絶対」を設定できるはずがないわけで、一方で「多様性」や「多角的な方向性」を標榜していながら、実際には「理想」や「絶対」を捨てきれずに追いかけ続けて居るということの矛盾が、明らかになってきているんだと思うわけですね。

つまり、そこに「ダブル・スタンダード」が形成されてしまったことで、人間の精神が抑圧を受けるようになってきたわけです。


だから、人間は、もう「宗教」を卒業してもいいんじゃないか?と思っているわけですけど、それじゃあ「神話の世界」に戻るのか?というとと、そうでもなくて、要するに、もう、そろそろ「人間の話」をしてみてもいいんじゃないか?と思っているわけです。


なにも、「神様の姿」を借りて「お話」をする必要は、もう無いんじゃないでしょうか?
そこに「神格性」や「神通力」のようなものを持ち出してこなくても、ただの人間のお話」でも十分だと思うわけです。


「芸術の20世紀」は、本来、人間がそういうことを始めるための「時代」だったと思うのですが、その「芸術の20世紀」において、「天才」という新たな「神話」が築き上げられてしまったために、、未だ、「人間のお話」は語られていません。

それで「人間」が、いまだに背伸びしていなくてはならないんだと思うわけです。
もう、「人間の話」を「神格化」する必要はなく成っていて、「だらしない部分」も「見っともない部分」も、いまはもう、そのまま語ってしまってもいいんじゃないのかなと。


「理想」が「理想」でなくなった時点で、「現実」を「理想」と考えることができるようになったんだと思うわけです。
(つまり、「理想」と「現実」が、完全な反対語ではなくなったということですね)

つまり、「実現できないこと」を「理想」と呼ぶのではなく、「すでに実現されていること」こそが「理想」でもあるという考え方をしていくことで、「人間」という「不完全な理想」が手に入れられるんだと思うわけです。


その「不完全性」を受け入れられたときに、「人間」が初めて「人間」に成れるんだと思います。

そして、それこそが「人間の時代」で、その「人間の時代」が来れば、人間はきっと今より解放されるでしょうし、ありとあらゆることを、楽しめるように成るんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。

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※ 「スピリチュアル」の方などが、「非二元」という言葉を使っているのを見たことが
  あるんですが、勉強したわけではないので、はっきりしたことはわかりませんが、
  突き詰めていけば、やはり「一元論」にたどり着いてしまうような気がします。 
  でも、「非二元論」を支持している人が、「多様な人間性」を否定的に考えているよ
  うにも思えませんから、そうなると、やはり、「非二元」は、現在においては、やや、
  無理が出てきてしまうような気がします。


「動き続けること」



どんなモノも、いつも動き続けていると思うわけです。
いや、むしろ、『完全に止まることができるモノなんて無い』と言うべきなんじゃないだろうか?


そう考えると、もしかしたら「動き続けること」こそ、全てのモノに与えられている「永遠の目的」なんじゃないかと思うわけです。


もちろん、一見すると止まっているように見えるモノはあるわけですが(岩とか)、そう言うモノも、ミクロの視点で見た場合、分子や電子のような目に見えない部分では、絶えず動いていて、その「動き続けること」によって、存在していると言ってもいいんじゃないかと思うわけです。
(分子や電子は見たことないですけど、なんか動いているっていう、そんな噂は聞いたことがあります)


つまり、「エネルギ―」ですね。

たとえば、「静止しているモノ」も「エネルギー」を持っているわけだし、その「エネルギ―」は何らかの「方向性」を持っているでしょうから、それを「動き」と言っても間違いとはいえないと思うわけです。

それは『「移動」ではない』と言うだけだと思うわけですね。


そして、この「動き続けること」は物質だけではなくて、「精神」にも当てはめて考えられることじゃないかと思うわけです。


つまり、『「心」も動き続けている』と言うことです。

『「心」が動き続けている』と言うと、やや「当たり前」な感じもするんですが、ここで言う『動き続けている』というのは、『永遠に動き続けている』ということですから、当然、死んだ後も『動き続けている』ということに成ります。


最近になって、「魂の永遠」というのは、決して不思議なことを言っているんじゃなくて、こういう、当たり前のことを言っているような気がして来ているわけです。

つまり、「無生物のように、静止しているように見えているモノ」(岩とか)の中でも、分子や電子は動いていたりするのと同じように、人間の「心の中」でも、「生・死」とは無関係にミクロのナニカが『動き続けている』んじゃないか?と思うわけです。


というか、こういう話では、「心」と「体」を分けて考える必要すらも無くて、物質の中で電子などが「動き続けている」というだけでも、十分「魂の永遠」と言えることのような気もします。

つまり、「動き続けている」という「方向性を持ったエネルギー」の継続というのが、「魂の永遠」でもあり、「物質の永遠」でもあり、「全ての永遠」でもあるということです。

そして、その「全ての永遠」こそが、この世界の様相でもあるといことですね。


だから、そこに向けて、あらゆるモノが「動き続けること」を「永遠の目標」として設定されていて、その結果として、「止まること」を許されないように成っているんだと思うわけです。


もし、そうだとしたら、人間も、いつも必ず「動き続けている」わけで、「止まること」は絶対に出来ないということですから、どんなことに置いても「留まろうとすること」には、常に「意味」が無くて、「動き続けること」にしか「意味」は発生しないということかなと。


そんな風に思っているわけです。


ところで、こういうことを考えることは、どちらかと言えば、「留まろうとすること」に入るんでしょうか?
それとも「動き続けること」に入るんでしょうか?

少なくとも、本人は「動き続けること」ということでやっておりますデス。ハイ。



「不思議」は「ナイこと」に意味がある?



「不思議なこと」全般に言えることですけど、そういう「不思議なこと」が『あるのか?ないのか?』という切り口で語られることが非常に多いわけです。

しかし、「不思議」の存在を問うこと、つまり、『アルのか?ナイのか?』ということよりも、「不思議なことの存在が確認できないこと」、つまり、それが『ナイ!』ということの方にこそ、意味があるような気がするわけです。

 ※これは、必ずしも物質的な意味でだけの話でもなくて、「不思議なことの概念」につ
  いてもいえることだと思います。
  ただし、そちらの話はまた少し違う話になるので、ここでは単純に、物質と言うことは
  出来ないまでも、あくまで「実体のある存在」と言う意味での「アル・ナイ」についての
  ことです。


たとえば「神様」ですね。

『「神様」が居るのか?』という問いに「意味」があるんでしょうか?


そこで『ええ、あそこに居るのが「神様」ですよ』と言う具合に「本物の神様」が現れたとして、そこに「神格性」が、まだあるでしょうか?


まぁ、無いでしょうね。


たとえば、「その神様」が「奇跡」を起こせたとしてもですよ。
それでも、「神格性」という意味では、かなり薄まってしまうような気がしますね。

「アル」と言うこと自体が「なんらかの限定」を意味しますから、どうしても「絶対的な神格性」には成らないんだと思うわけです。


つまり、「その神様」が「そこに居る」と言うことに成った途端に、それは「神様」ではなく、「新種の生物」と言うことに成ってしまうわけなのです。

その「新種の生物」が『たまたま、「奇跡らしきもの」を起こせる』という話になってしまうわけで、それは「一種の不思議」ではあっても、「絶対的な神格性」には及ばないように思うわけですね。

『いや、「奇跡」を起こせば、そこから神格性が生まれるだろう!』ということはありますが、結局、その「奇跡らしきもの」も「アル」と言うことが証明される過程で、「不思議」から「科学の一つ」になってしまうわけです。


そう考えると、そういった「不思議」全般に関して言えることだと思いますけど、『「ナイこと」にこそ意味がある』とも言えるんじゃないかと思うわけです。
(「アルことが証明されていない状態」と言うことですね)


つまり、「神様」に限らず、たとえば「魂の永遠性」とか「輪廻転生」とかと言ったすべての「不思議」について、『アルのか?ナイのか?』ということを考えるよりも、それが「ナイこと」について考えることの方が興味深いことなんじゃないかと思うわけです。


要するに、『アルのか?ナイのか?』と言うことが証明できないようなことを「不思議」と呼んでいるわけで、これは「神秘」と言う場合も「霊的」と言う場合も「神格性」と言う場合も全部同じで、それらのことに置いては、「存在が特定できないこと」にこそ意味があるわけです。


だから、宗教を信じている人が『神様は居るんだ!』と力説することには意味がありませんし、無神論者の人が『神なんて居るわけないんだ!』と言って、いろいろな話を引き合いに出して論説するということにも全く意味はないわけです。


だって、「イル」と言うことに成ってしまうと「神格性」が無くなってしまうわけですから、それは、信仰している人にとって一番”マズイ”ことなわけだし、「イナイ」と言うことに成ると、ますます「神格化」していくことに成るわけですから、無神論者としては、自分の考えと逆行してしまうわけです。


実際、何千年も前から、そういった議論は繰り返されているわけですが、『なるほど、そういうことね!そういうことで神様は居るわけなのね、よくわかりました!!』と言うことになったことは、おそらく一度もないわけで、今後さらに何千年続けても、そこのところは、まぁ、変わらないわけです。


それじゃあ、「宗教」とか「神」と言うモノには何の意味もないのか?

ということになってしまいますが、そういうわけじゃなくて、それらを「存在」とか「実証」とかいう切り口で考えることには意味がないということですね。


少なくとも、人間がここまで急速に発展してきたということは、「宗教」を持っていたことと無縁ではないような気がします。


おそらく、人間が過去の時代において「宗教」を持っていなかったら、「文明らしきもの」を手に入れたとたんに、それを廃墟のように成るまで使い倒して、スカスカに成った頃に成ってから、また新たな「文明らしきもの」を創り出す、というようなことを、今でも繰り返しているんじゃないかと思います。


つまり、永続的な発展は出来なかっただろうと思うわけですね。

それが出来たのは「宗教」によって、「道徳心」や「勤勉さ」や「正直」と言うことが、一般人にも広まっていたからじゃないかと思うわけです。


現在のように学校があるわけでもなく、ごく一部の人間以外にとって「文字」すらも意識していない生活の中で、「道徳心」や「勤勉さ」を身につけろと言う方が無理と言うものです。


いや、もし仮に「教育」と言うものがあったとしても、それでもまだ足りないような気さえします。
つまり、「信仰心」と言う「強さ」があったからこそ、人間がここまで急速に進歩できたんだと思うわけです。


そして、さらに言うならば、その「強さ」とはどこから来るのか?と言えば、「盲目的であること」から来るんだと思うわけです。

つまり、最も極端な言い方をすれば、「宗教の本質」は「盲信」であって、「盲目的な信仰心」ほど人間を強くするものはないということです。

そういう「盲信的な強さ」があったからこそ、人間が現在のように文明を発展させることが出来たんだと思うわけですね。


だから、そういう「時代」は「宗教の時代」であり「神の時代」であったのだと思うわけです。

 ※もちろん、これは、広い意味で「スピリチュアル」なども含めた「信仰」をお持ちの方
  から言わせれば、『そういうことじゃないんだよ!』ということなんでしょうが、少なくと
  も「信じる」=「理屈を超えた」という部分はあるでしょうし、「理屈を超えた」と言うこ
  とは、ある意味で「盲目的である」と言うことにつながるわけですから、そこの所は「信
  仰」とは別の解釈ということで、ご理解いただければ幸いでございます。


しかし、現在に至って、「進歩」と言うこと自体の意味が薄くなってきているわけです。

だんだん、「文明を進歩させること」よりも「文化を繁栄させていくこと」の意味が大きくなってきたわけですね。
それも一種の進歩ではあるんでしょうが、「物質的な進歩」が人間の目標の中心から外れてきているということなんだと思うわけです。


つまり、ようやく「文明から得たゆとり」を使う時代に成って来ているんだと思います。


はたして「現在の人間」も、また、その「ゆとり」を廃墟のように成るまで使い倒してしまうのか、それとも、「ゆるやかではあっても永続的な発展」を維持していくだけの知恵を身に着けているのかはわかりませんが、少なくとも、前よりは「マシ」に成っているような気もしますし、一応、試してみるぐらいの価値は出てきているんじゃなのかなと。

まぁ、そんな風にも思うわけです。


こんなことから、「宗教の時代」」や「神の時代」はすでに終わっていると、そして、「人間の時代」に成って行くんだろうなと思うわけなのです。


「不思議」であっても「神」であっても、また、いかなる「絶対的なモノ」であっても、それらは、もはや「信仰されるもの」ではなくなっていて、人間の智恵によって「思考されるもの」に成ったんだと思うわけです。

もう、「信仰の強さ」よりも、「考えることの豊かさ」の方が必要性が高くなってきていると思うわけですね。


「信仰の強さ」は人間を疲れ知らずの馬車馬のように働かせますが、反面、「争い」も起こさせますし、「盲信」が人生を浪費させてしまうこともあります。

人間が「神」について「智」を持って考えられるように成れば、人間は「神」から卒業して、「人間の時代」がやって来るんだと思います。


そんなことから、『「不思議」は「ナイこと」にこそ意味がある!』と。

そんな風に思ったりもするわけです。




「空」と「素」



宗教やスピリチュアルなどにおいては、「空」という心の状態が、「人間の精神の究極の状態」であるといわれることが多いようですが、これは、なかなか現実には達成できないみたいですね。


まぁ、人間はいろいろな意味で「不完全」なわけですから、「万能」や「無限」にも成れないし、それと対極にある「無」や「空」にも成れないんでしょう。


でも、「空」は無理でも、「素」だったらいけるかも?というお話です。

 ※これは「宗教」や「スピリチュアル」の分野での専門的な話ということではありません。
  そういったモノを勉強したことはありませんので、見当違いのことを言ってる部分も出
  て来るでしょうが、まぁ、『一般人が考えることと言うのはこんなことなんだ』というよう
  な感じでお考えください。

宗教などで言うところの「空」という概念は、「自我」を消し去って解脱した状態のことなんじゃないかと思っているわけです。
「悟り」との違いはよくわかりませんが、どちらも、「無心」みたいなことなんだと解釈しています。

おそらく、常に「空」を保てるように成ることを「悟り」と言うんでしょうね。


ここで、「自我」を捨てることによって「空」が得られると言われることが多いように思うわけですが、「自我」って捨てられないんじゃないか?という疑問があるわけです。

もしかしたら、それが出来る人も居るのかも知れませんが、少なくとも、自分のような一般人には無理だなと思うわけですね。


こんな言い方をすると、怒る人も居るのかも知れませんけど、ハッキリ言って、一般人ができないことを「理想」とする「思想」は無意味だと思います。

誰にでもできることの範囲の中に「理想」を置いてこそ、そこに「意味」が発生するんだと思うわけです。

「悟り」を開くような特別な人は、人から「教え」られなくても、それをやりますから、必要ないですよね。
だとしたら、やっぱり一般人が出来る範囲で話をしないと意味がないということに成るわけです。


ということで、『一般人にもできる範囲での「空」ということを考えると、それは「素」なんじゃないのかなと。


たとえば、すごくお腹がすいたときに「一心不乱で食べている人」は、だいたい「素」の状態だと思います。
「大好きなことに没頭している時の人」も大抵は「素」に成っていると思うわけです。

必ずしもイイことばかりでもなくて、「大失恋に打ちひしがれている人」なんかも「素」に成るんでしょうし、「大切な人の死に直面した人」なんかも「素」に成らざるを得ないんだと思うわけです。


そう考えると、「素」はある意味で「空」と正反対のところがあるわけです。
つまり、とっても「感情的」なんですね。

言い換えると「自我丸出し」ともいえる状態が「素」なんだと思います。


「空」は、どちらかと言うと「無感情」な状態だと思いますし、常に「平常心」というイメージがあって、「喜怒哀楽」とは対極的な感じがするわけですが、「素」は『必ずしも、そうでもない』と言う気がします。

ただ、これは、あくまで一般人が最も「素」に成りやすい時のことであって、実際には、何でもない時の「素」は「平常心」に近い状態なんだと思います。

でも、何でもない時は余裕がありますから、一般人の場合「邪心」が入りやすいわけですね。
それで「平常心」を失うわけです。

そういう時には「素」の状態も崩れてしまうんだと思います。
こういうところは「空」と似ていなくもないですね。


まぁ、一般人にとってのできる範囲と言うのは、こんな程度の「素」ぐらいまでなんじゃないのかなと思うわけですね。
そして、それで十分なんじゃないのかなとも思うわけです。


一般人と言いましたが、実際はこれを「人間」と言ってもいいような気がします。

「悟り」を開くような人と言うのは、数的にスゴク少ないわけで、ほとんど居ないといってもいいような数しかいないわけですから(私は居ないと思います)、「悟り」ができない人を「人間」と言っても、とくにさしつかえはないと思います。


「空」と「素」を置き換えると、いきなり「空」が楽になります。
(と言っても、実際は「素」なんですけど)

「修行」も「悟り」も必要ありません。

ところが、なぜか、その「素」がカナカできません。


どうしても、「欲望」とかいうような「邪心」がありますから、「素」に成れない時が出てくるわけです。
なにせ一般人ですから、当然そうなるわけです。


そういうわけで、けっきょく先ほど言ったような「大好きなことに没頭する」とか「空腹を満たす」とか「死ぬほどツライ」とか「死ぬほどカナシイ」とかと言うような「無心」に成れる時に限って「素」の状態で居られるだけでもいいのかなと。

ちょっとイイだけですけどね。


そんな風に思うわけです。




まだ「死」は「悪い出来事」なのか?



「死ぬこと」って「悪い出来事」なんでしょうか?

まぁ、確かに良くはないんでしょうね。
でも、「死」を「モノスゴク悪い出来事」と考える必要は、今はもう無いような気もするわけです。


たとえば、「百歳まで生きた人が死ぬこと」も「悪い出来事」なのか?ということに成ると、チョット、意見が分かれて来るところなんじゃないかと思うわけです。

そういうのを「大往生」なんて言っているくらいですから、どちらかと言えば「良い出来事」に入っていると言う気もしなくはないわけですね。


要するに、本当の意味で「悪い出来事」なのは、あくまで「不慮の死」であって、少なくとも、「天寿をまっとうした死」は、そんなに「悪い出来事」ではないんじゃないかと思うわけです。


そして、現在の日本の平均寿命は男女ともに80歳を超えているわけですから、「天寿をまっとうした」に当たる人が、かなりたくさんいるということなんだと思うわけです。


私の考え方がオカシイのかも知れませんけど、『それ、そんなに悲しいことなんですか?』っていう感じがしてしまうわけです。
まぁ、カナシイまではわかるとしても、「悪い出来事」というほどではないんじゃないの?と思ってしまうわけなのです。


「死」を「悪い出来事」として恐れおののいてきたのは、大昔の時代の人間が、現代とは比べ物に成らないくらいに「厳しいサバイバル生活」を強いられていたことからきていて、現在の「安穏な生活(物質的に満たされていると言う意味で)」の中では、必ずしも当てはまらないところが出てきていると思うわけです。


要するに、昔だったら『「死」はそんなに悪いことでもないよねぇ』なんて言ってたら、次の日には死んでたんだと思うわけです。
「自然の中の生活」では、いつも油断大敵だったわけですね。

だから、「死」を「悪い出来事」と考えることで、「死」をなんとか免れるという習性が身に着いたんだと思います。


でも、今は油断しても大丈夫になったということです。
(もちろん、「運悪く死ぬ人」は居るわけですが、「必ずやられる&即やられる」ではなくなったということですね)

それなのに、そういう「大昔からの習慣」が人間の体に刻み込まれてしまっているために、今でも「死」を「悪い出来事」と考えてしまうわけですが、そのことが現代社会の中では、逆に人間の心を蝕んでいるところがあるように思うわけです。


私は「長生き」を人生の目標の一つと考えているんですけど、だからと言って「死」を必要以上に「悪い出来事」だとも思いたくないですね。

「死」を恐れながら戦々恐々として長生きしたいわけじゃあありませんからね。


「自分が一番生きたい生き方」で生きて、それで「死んだとき」が「その人の天寿」なんだと思います。
その期間が出来れば長い方がイイでしょ?ってことですね。
(当たり前ですけど)


つまり、「死」を必要以上に恐れていると「自分の生きたい生き方」が出来なく成るわけですね。
それで、心を蝕まれていくわけです。


これは一種の「文明病」じゃないかと思いますね。

「文明」が発達してくると「死と隣り合わせの生活」から抜け出すことが出来て、「死を恐れる必要性」が薄くなるわけですが、それでも、人間は「習性」としての「死の恐怖」をなかなか捨てられませんから、そこにギャップが生じてくるわけです。

その不自然なギャップが「病」を創り出してしまうわけですね。


だったら、チョット無理してでもそのギャップを埋めてやれば、「文明病」から離れることが出来るんだと思います。


要するに、「死」を恐れるあまりに「老化」を恐れるように成り、やがて「歳をとること」を恐れるように成り、最終的には「生きること」をも恐れるように成るという、とんでもない逆転現象が起きてしまうわけです。
(当然、生きれば生きるほど「歳」をとって「死」に近づくわけですからね)


もともと「死」を恐れるようになるのは、「生命」を守るためなのに、その「生命」をないがしろにするように成ってしまうわけですねぇ。


あんまり無理して「死」を受け入れる必要はないと思いますけど、チョット無理して『「死」はそんなに恐れるほど「悪い出来事」でもないかも?』と思えたら、少し楽になれるんじゃないのかなと。


まっ、短くつめて言うと

『生きたい!』と『死にたくない!』の違いですね
(『じゃあ、この一行でよかったんじゃない?』←『はい、次から気を付けます』)


そんな風に思ったわけなのです。


『宇宙人は広い宇宙のどこかには必ず居る』というのは「確率」という思い込みに過ぎない?



宇宙にはものすごくたくさんの天体があって、その中には必ず地球と同じような環境の星もあるはずで、そういう星の数だってものすごく多いはずだから「確率的」に言って、宇宙のどこかに「知的生命体」が居るのはほぼ間違いない!!
という話をよく聞くわけですね。

それで、前は『ふむふむ、なるほど、それじゃあ何時かきっと「宇宙人」に会えるんだろうね(30万年くらい待てば)』と思っていたわけです。
でも、最近に成って、なんとなく「宇宙人」にはいつまで(30万年以上)待っても会えないような気がしてきたので、『なぜなんだろう?「確率的」に言って間違いないハズなのにオカシイなぁ』と思って、考えてみたわけです(30分ぐらいかけて)。


それで、『これはきっと「確率的」が、あやしいんじゃないだろうか?』という結論に達したわけなのです。
つまり、こういう話の場合には、「確率」なんてものはほとんど役に立たなくて、ただの「思い込み」に過ぎないんじゃないだろうか?と思ったわけですね。


まず、「地球と同じ環境」とアバウトに言ってしまっていますけど、ただ単に『酸素が豊富にある』とか、『ナントナク生物が生きられそうな温度』とか、『光などのエネルギーが供給されている』とか、いま人間が考えて思いついたような条件が満たされれば「生命」が発生するとは限らないような気がするわけです。
実際は、もっと遥かに細かい所まで「地球と同じ環境」であって、はじめて「地球と同じ条件」と言えるわけで、ほんのわずかな、環境のチガイでも「地球と同じような形での生命の発生」はあり得ないんじゃないかと思います。

ところが、前述の『確率的に言って間違いない』の中の「確率」とは「地球と同じような環境の星が存在する確率」なわけで、その「地球と同じ環境」が厳密でないと「まったく成り立たなくなってしまう確率」なわけです。

そうなると、かなり厳密なところまで、というか、ほとんど寸分たがわぬところまで「地球と同じ環境」を持った天体が存在する必要が出てくるわけで、はじめの話とはかなり違ってくるわけです。
というか、どんなものでも「寸分たがわぬモノ」というのは、実の所は存在しないと思うわけです。
だから、「ほとんど寸分たがわぬモノ」の「存在する確率」は限りなく「0」に近いわけで、それを天体の数が多いという程度のことでひっくり返してしまうのは、やや無理があると思いますね。

それでも、その「確率」が完全な「0」とは言えないわけですが、それは非常に長い時間的な幅を持って考えた場合の話であって、少なくとも如何なる生命体の「存在サイクル」をも超えるような長い時間の幅を持って考えた場合に限って、その「確率論」が有効に成るというような気の遠くなる話なわけです。

ところが、そうなると、もしも宇宙に「地球と異なる起源を持った文明」が存在することがあるとしても、それは「地球の文明」が滅びた後のことであって、その二つの「文明」が出会うということはまずないだろうということに成るわけです。

それから、「時間的な幅」だけでなく「空間的な距離」についても同じようなことが言えて、「地球外知的生命体存在説」や「宇宙人がきっと会いに来る説」の多くが、無意識のうちに、「空飛ぶ円盤」などのような「次元を超越した移動手段」の存在を前提にしていると思うんですね。

それは、つまり、宇宙空間における気が遠くなるほどの「空間的な距離」を、無意識のうちに極端に縮めてしまっているわけで、その「次元を超越した移動手段」が無ければ、まったく成り立たない話に成るわけです。

でも、実際には、そういう「超次元的な移動」が可能かどうかは、今のところまったくわからないわけですし、もし可能であったとしても、それが開発されて実用されるまでに恐ろしく時間がかかるのは間違いないことなわけですから、その間にもまた「その文明が滅んでしまう確率」は高くなってしまうわけなのです。

こういった諸々のことを考え併せますと、『宇宙人は広い宇宙のどこかには必ず居るはず』という「確率」は『ほぼ間違いない』どころか、実は『ほぼ無い』に近いような気もしてくるわけですよね。


そして、さらに決定的なこともあって、「地球外知的生命体」と言っていますが、その「知性」や「生命」とはどんなものを指しているのかと言えば、「地球上の知性」であり「地球上の生命」を指しているわけです。

やはりここでも、「ほぼ寸分たがわぬモノ」を求めてしまっているわけですねぇ。
でも、いくら「広い宇宙」とは言え、「寸分たがわぬもの」というのは存在しませんから、「地球の知性」や「地球の生命」と「ほぼ寸分たがわぬ知性や生命」は「地球外」には、そうヤスヤスとは存在しないわけです。

というか、「ほんの僅かに地球と違う知性」や「ほんの僅かに地球と違う生命」を「人間」が「知性」や「生命」として認識できないわけです。
だから、そういうモノと出会ったとしても、まったく気づくことなくやり過ごしてしまうんじゃないでしょうか?
(地球上のすべての生命は同一起源のモノですから「一つの生命」ということだと思います。だから認識できるんだと思います。)

つまり、もしも、「宇宙人」と出会ったとしても、人間は、その「宇宙人」を『これは「知性」とは言えないだろう』とか『これは「生命体」ではないだろう』と判断してしまうんじゃないかと思いますね。
要するに、出会っても気づかない可能性が非常に高いわけです。

でも、そう言うことになると、「ほぼ寸分たがわぬ知性や生命」は存在する確率が低いし、存在しても出会えません。
その一方で、「一寸でもチガウ知性や生命」は人間の方が認識できないわけです。
もう、その「出会いの確率」は「0」に限りなく近いと言わざるを得なくなるということですね。

以上のことから、『宇宙人は広い宇宙のどこかには必ず居るはず』というのは「確率」という思い込みに過ぎないんじゃないの?

そんな風に思いました。

 ※ついでに言うと、その時点で「厳然と存在していないモノ」について、
  「確率」のような一見すると説得力のある根拠で「それが存在するの
  はほぼ間違いない』と言っていることは、ほとんどが何らかの思い込
  みであることが多いと思いますよ。
  (たとえば、「死後の世界」なんかも、やっぱりアヤシイですよね。
  っていうか、生きているうちに理解できるなら、それは「死後の世
  界」とは言えないものだと思いますよ。やはり不思議は不思議な
  ままの方がいいような気がしますね)
  やっぱり、そこまで確かに存在するはずのモノだったら、既に厳とし
  て存在していますよね。
  これは『そんなものあるわけないよ!』という固定観念とは違って、
  『盲信を回避する』ということだと思いますよ。

  だって、『あるわけないよ!』も『あるに違いない!』も、どっちも
  固定観念でもあり盲信でもあるわけですから。
  


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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