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「個性」と「才能」



よく、「才能がある人」とか「個性的な人」という言い方をするわけですけど、あれはどうも好きになれないのです。

つまり、「才能がない人」や「個性的でない人」を想定して言っているように聞こえてくるわけですね。
でも、実際には、それらの判断と言うのは、その「個性」や「才能」が、誰かにとって有用かどうかという基準で下されているのだと思うわけです。

つまり、「才能」や「個性」が有るとか無いとかと言うことを、言っている人にとって都合のよい「個性」や「才能」を持っている人を
「個性的な人」とか「才能がある人」と呼んでいるだけなんだと思うわけですねぇ。

本当は「個性」も「才能」も、皆同じぐらいじゃないんですか?

ただ、それらには、それぞれ色が付いていて、その色が違うというような性質のものではないのかなと。
だから、そこに上下を付けるなんていうのは「赤」より「青」の方が偉いとか、いや「黄色」はもっと上だとか言っているようなもので、とても、なんと言うか「貧しい感じ」がするわけなのです。

どれ一つをとっても、凡庸な「個性」などはなく、全てが唯一無二の「個性」なわけで、一人に一つの「才能」が、そこにはあると思うわけです。


私は、この二つの言葉は、もう無くてもいいと思っているぐらいなのです。



才能にも「質」と「量」がある



芸術やスポーツなどの話となると、どうしても「才能」ということが出て来るわけです。
つまり、どうしても「才能がある人」と「才能がない人」とに分けられてしまう傾向があるわけですね。

でも、これを「ある・ない」だけで捉えるのは、少し考え方の方向が間違っているように思うのです。

実は、才能にも「質」と「量」があって、その「量」については、そんなに大きな差はないのではないと思うわけです。
そして、その「質」については、一つ一つが、まったく違うものなのではないかとも思います。

ですから、「才能がある人」とか「才能がない人」と言う考え方には無理があると思うわけですね。

つまり、私は、皆それぞれ違う「質」の才能を同じ「量」づつ持っているのだと思うのです。


もちろん、芸術やスポーツなどの特定の分野に向いている人と向いていない人はいるでしょうが、それを、「才能がある」とか「才能がない」と言ってしまうと、それが「質」=「向き・不向き」の問題であって、「量」=「ある・ない」の問題ではないのに、「才能がある」側の人が一段上の位置に持っていかれてしまい、「才能がない」側の人が、低い位置に置かれてしまうということが起きてきてしまうわけです。

ですから、私はどうしても、この「才能がある」や「才能がない」ということばを、簡単に使う人を見ると、その人の言っていることのすべてが薄っぺらなものに聞こえてしまい、どんなに立派なことを言っていても、何の説得力も感じなくなってしまうわけなのです。

わたしは、この「才能と言う言葉」自体が、今はもう必要ないのじゃないかと思っているぐらいなのです。
少なくとも、才能にも「質」と「量」があるという前提で、この言葉が使われるべきではないのでしょうか?

例えば、その「量」について単純に比べられるものに置き換えて言えば、ごく普通の人の身長が150~180cmほどだとして、ギネス・ブックに載っているような人でさえ、230~240cm ぐらい(不確かですが)だったように思うわけです。

つまり、せいぜい1・5倍程度で、二倍にも届かないということです。

それでも、確かに2mを超えるような長身と言うのはひとつの「才能」だとは思うのですが、「才能がある」と言ってしまうと、せいぜい1・5倍だということを忘れてしまうのではないのかなと。

また、その「質」について言えば、誰もがみんな違う顔をしていることだけでも、『同じものがない』ということは、十分わかることじゃないのかなと。

いずれにしても、「才能」と言う言葉が一段偉い感じになってしまっていることによる弊害なんてない方がいいなと。
みんなに同じくらいの才能があるなんていう程度のことが、なんで当たり前にならないのかなと。


そんな風に思っているわけなのです。


現在、「個性的であろうとすること」が「唯一の没個性」だと思うのです:教育で浸み込まされた「個性と才能」



現在、「個性と才能」がとても素晴らしいものだということを否定する人はあまりいないでしょうね。
確かにそうなのでしょうが、その意味が履き違えられてしまっているようにも思うわけなのです。


このブログの中でも何度か書いていることなのですけれど、「個性的」や「才能豊かな」ということが、ある一部の者に与えられた特権のように思われてしまっていると思うのです。

そして、それは教育の段階で子供のうちから浸み込まされてしまっていることなのではないかと思うのです。


実際には、「個性と才能」を重視すればするほど、それは普遍性を持つはずで、ごく一部の者に与えられたものではなく、全ての者に違った形で与えられるものであるということでなければ、理屈が合わなくなってしまうと思うのです。


「個性」と言うのは違うから「個性」なのであって、それを重視するということは、より多くの「個性」を認めることでなければ理屈が合わなくなるはずで、結果的には、すべての者になにかしらの「個性」があるということに成るはずなわけです。

また、「才能」にしても、それは「何かを達成する能力」なわけですから、その「何か」が多様化すれば、当然「才能」も多様化するわけですし、逆に範囲を限定されれば、当然それは画一化していくわけです。

やはり、「個性」と同じように「才能」も普遍化、一般化していくはずなのではないでしょうか?


私は、この点について、現在の状態が明らかに矛盾していると考えているわけですけれど、これを、誰かに言ってもなかなか通じないわけです。

相手の反応を見ていると、私が無理にこじつけで「才能はみんなに同じだけある」と博愛主義的なことを言おうとしていると思うようなのですが、私にしてみれば、どう考えても「個性と才能」と言う言葉と『一部の者だけに与えられた特別なもの』という状態は、まったく一致しないわけなのです。


なぜ、このような矛盾した状態に成っているのかと言えば、それはおそらく、教育の段階で無意識の領域に、そういった考え方が浸み込まされてしまっているからなのではないのかなと。

完全に無抵抗(無意識)の状態で洗脳に近い形で刷り込まれてしまっているために、それを疑うこともないし、それを否定する者がいると強く反発するのではないのかなと。

どう考えても、それ以外の理由が考えられないわけなのです。


実際、両親にしても学校にしても、そういう刷り込んでいる側も無意識のうちに、「個性と才能」は特権的に持っている者と持っていない者が居るということや、そういう素晴らしいものを持っている者は、ある程度特別な扱いを受けるのは当然なことで、それを持たない者が、一段低い位置に甘んじることも、またある程度仕方がないことであるということを子供たちに伝えてしまっていないでしょうか?

いま、『伝えてしまって』と言いましたけれど、それは、むしろ『あえて否定しないことで伝わってしまっている』と言った方が正しいのかもしれません。

つまり、社会の状況を見渡せば、「個性と才能」についての特別扱いが蔓延しているわけで、教育段階においては、むしろ、それを否定的に扱う必要があるわけですから、教育する立場の人は、教育を受ける子供に対して、『現代社会においては「個性と才能」は特別扱いされているけれど、それは社会の都合のよいように曲げられた考え方であって、本来、「個性と才能」は普遍的かつ一般的なものであるべきである』とあえて教えるべきところを、それをしていないために、或はお座なりにしているために、結果的に社会が提示している方向性が修正されることなく、子供の段階で無意識の中に刷り込まれてしまうのではないでしょうか?


いずれにしても、間違いなく言えることだと思うのは、これほどまでに「個性と才能」を特別扱いすることが一般化している現在においては、「個性的であろうとすること」は現在有り得る「唯一の没個性的なこと」であるということです。

また、「才能がある者」と「才能がない者」に分ける考え方は、ほとんどの「才能」を否定しているともいえるでしょう。
それは、おそらく、現在において一番つまらない考え方でしょう。

ですから、教育によって知らず知らずのうちに浸み込まされてしまった意識はもう捨てて、「個性と才能」なんてものは、その辺にゴロゴロ転がっているものだと、そして自分の中にも普通に適当な感じで存在しているものだと思ってもいいのではないのでしょうか?


実際には、今必要なのは、そこから先であって、それはもうどうでもいいことなのではないのかなと。

『そういうモノはもう過去の時代に置いてきたはずなのではないのですか?』


そんな風に言いたいわけなのです。



一極集中的な性質を「才能」と呼び続けたことの間違い



このブログで前にも書いていることですが、現在、芸術において「才能」という言葉を使うことには、疑問を感じざるを得ないわけなのです。

だいたい、「才能」と言うと、一つのことに突出した能力を持っている人や、幼いうちから、高い能力を示した者というイメージがありますけれど。

でも、その「突出した能力」や「高い能力」と言うのが、何を基準にしたものなのかが、全くもってはっきりしない場合が多いわけです。

例えばの話、絵を描くのがうまい人が居ると「彼には絵の才能がある」と言われるわけですが、では、その「うまい」について、『それは技術のことですか?』と聞いたとき、それに対して、『そうです。技術があることが才能なのです。』と言い切る人が、現在どれだけいるでしょうか?

また、他の子と違った色使いをする子供がいると、それも、『あの子には才能があるのかもしれない』と言われるわけですが、『じゃあ、普通の色使いをする子には才能がないわけですね?』と聞くと、たいてい、『そういうわけではないが、~あーでもない、こーでもない』と言って、話はうやむやになってしまうわけです。

『じゃあ、「才能」とはいったい何を指しているのですか?』と言うと、多くの場合、『それは個性である』ということが出て来るわけですが、個性だったら、みんなにあるはずで、「ある人」と「ない人」がいると言う話はオカシイわけです。


現代美術は、そういう一極集中的なものの見方を捨てることからスタートしているはずだと思うのですが、いまだに、何か一つの頂点を想定して、それに近いものが「上」=「才能がある」で、遠いものが「下」=「才能がない」と言う、前時代的な考え方がまかり通っているようにしか見えないわけなのです。

そして、さらに、その頂点をときによって、とっかえひっかえするという、まったくデタラメなやり方をしてしまっているようにすら思えるわけなのです。


ものの見方や考え方を、多様化させるのであれば、そこに上下を付けてしまうというのは、まったく意味がないわけで、そう言う見方をすれば、必ず「上」にあるものが頂点となって、いつの間にか、もとの一元的な考え方に戻っていってしまうわけですから、初めから、多様化・多元化などする意味がないわけなのです。

だから、現代の多様性を根こそぎ否定しようというのであれば別ですけれど、そうでないのならば、ただ単なる一極集中的な性質をもって、「才能」と呼び、それが「ある者」と「ない者」が居るというように、上下関係でものを見るというのは、極めて前時代的な考えであり、あくまで、それをするというのならば、現代を根こそぎ否定するだけの「構え」をもってするべきではないのかなと。

ですから、「才能」などと言う高いところに持っていかれてしまうような言葉を使うよりも、それを、「長所・短所」というような上下になりにくい言葉で置き換えていった方が良いように思われるわけなのです。

まぁ、要するに、平凡で単純な言葉の方がいいような気がします。
「長所」は常に「短所」でもある筈ですから、上下になりにくいのかなと。


本来は、「ある一つの才能」は「ある一つの長所」でもあり「ある一つの短所」でもある筈なわけですけれど、それが、「才能」と言って祭り上げられてしまうと一極的な見方に従って、「短所」の部分が見えなくなってしまうのかなと。

また、その逆に、「平凡」にも、「個性」や「才能」がある筈なわけですけれど、『平凡で個性がない、だから才能もない』と言われてしまえば、それは、ただ惨めなものにしか見えなくなってしまうわけです。

こういうことが変わらないと、まだ現代にすら成っていないわけで、未来などは、望むべくもないということなのではないのかなと。


私には、そんな風にしか思えないのです。




「人間の底」



人間には、それぞれに「人間の底」があると思っているわけなのです。
まぁ、一言で言えば「能力の限界」とでも言うんでしょうか。

そして、その「人間の底」が見えないタイプの人には、どこかミステリアスな魅力があったりするわけです。
また、そういう”底が見えない”タイプの人を「カリスマ」と呼んだりしているのだと思うわけです。
(宗教的な意味での「カリスマ」に限らずですね)


でも、この「カリスマ性」を、本当のその人の能力と見てしまうことは、間違いだと思うのです。

そもそも、ここで言う「カリスマ性」は”底が見えない”ということから生まれているわけですから、その場合、その人の「人間の底」はまだ確認できていないわけです。

そして、見えないと言うことで、それが”計り知れないほど”深い所にあるに違いないという印象を与えているわけです。
でも、逆に言えば、それは意外と浅い所にあるかもしれないということです。


そして現に、それは浅い所にあるわけです。

こんな言い方をすれば、『そんなことを、お前ごときが決めつけるな!』と言われるでしょうが、私は、「人間の底」はどんな人でも浅い所にしかないと思っているわけです。


まぁ、逆にどんな人でも深いところにあるとも言えるんですけどね。

要するに、”計り知れないほど”と言うのが問題で、それは、つまり「無限」を意味してしまうわけです。
どんな人でも、その人の持っている「人間の底」は、とても深い所にあるのだと思っていますが、それは「無限」ではないということです。

『まぁ、無限よりは浅いでしょう』というところですね。


やっぱり、人間のすることは「有限」であるわけですけれど、「人間の底」が見えないでいる間は、人の心の中に、それが「無限」であるかのような印象を創り出すことが出来るわけです。

そもそも、それが「カリスマ性」と言うものなんだと思うのです。


逆に言うと、その人の「人間の底」が見えてしまうと、「有限」であることが”バレて”しまうので、「カリスマ性」は失われて、魅力も半減してしまうと言うわけなのです。


でも、もう、人間はこういう「カリスマ」や「天才」と言う言葉の呪縛から解放されていいように思うのです。


「宗教」で言えば「神」、人間で言えば「カリスマ」や「天才」ということに成りますが、実は、これらはみな同じもので、言ってみればどれも「偶像」だと思うのです。
(「ことば」だけでも、十分「偶像」に成り得ると思っています)


もう、人間は自分たちの持っている「本当の魅力」に気が付かなければいけないように思うのです。
そして、それは、「無限性」ではなく「有限性」にあるわけです。

一人の人の「人間の底」は、その人にとっては「有限」ですけれど、その「有限性」こそが、他の人から見れば、一種の「無限」でもあるわけです。


つまり、人の心の中と言うのは、他の人からすれば、正に”計り知れないもの”に他ならないわけで、それが実際には取るに足らないようなものであっても、それを把握できる人は、本人を置いて他にはは居ないわけです。
(実際には、本人でも把握し切れないでしょう)


だから、「人間の底」を見えなくすることで生み出される「カリスマ」や「天才」に頼る必要は、もうないのだと思うのです。

本当ならば「人間の底」は、良く見えていた方が魅力があるはずのものなのだと思うのです。
そして、それこそが「底知れない魅力」に成るのだと思っています。


「無限」や「絶対」や「完全」を求めさえしなければ、その「有限」や「相対」や「不完全」が魅力的であることに気が付くのだと思うのです。
そして、それこそが「表現の自由」であり「自由な表現」でもあります。


「個」をつぶしてしまう「自由」などあり得ないわけです。
「個」と「個」の間に格差を作り出すような「自由」など何の意味もないのです。


すべての「個」が、同じ価値のものとして認め合うことが出来て、はじめて「自由」と呼べるのです。


そして、そうすれば「人間の底」は、もう隠して置くようなものではなくなって、みんなが「自分の底」を見せ合って生きられるようになるのかなと。


そんな風に思っています。




「遺伝された能力」と「個人の能力」



「人間の能力」には、「遺伝された能力」と「個人の能力」があると思っているわけです。


「遺伝された能力」とは、親や先祖から受け継いだものです。

ただし、肉体や脳などの「ハード・ウェア」的な部分だけでなく、文化や民族特性のような「ソフト・ウェア」的なものも含まれるのだと思うわけです。
また、両親や先祖から直に受け継いだものだけでなく、社会から受け継いだものも、広い意味での「遺伝」だと思っています。

要するに、教育や仕事から与えられる知識なんかですね。


そうなると「人間の能力」のほとんどが、「遺伝された能力」ということになるわけです。


「人間の能力」にとって、「受け継がれること」は非常に大きな役割を占めていると思うわけですけれど、その中で、ほんのわずかな部分でも「個人の能力」があれば、それは結構大変なことなんじゃないかなと、そんな風に思ってしまうわけなのです。

そして、その「個人の能力」とは、何なのかと言えば、「気まぐれ」や「偶然」や「マグレ」のような、「人の意識」とは無関係なものから生まれるものなんじゃないかと思うのです。


「人の意識」によるものは、必ず「遺伝された何か」に依存しています。
だから、それは「個人の能力」とは言えないと思うわけです。

「人の意識」が入り込む余地のない、「偶発的」なものだけが「個人の能力」に成り得るわけです。
ただし、「マグレ」だけでは、それを能力ということはできないでしょうから、「マグレ」や「偶然」をきっかけにして、そこから「何か」を作り出さなければならないわけです。

そして、そこに生み出された「何か」を、自分のものとして修得したものが「個人の能力」なんだと思うわけです。


ただ単に「遺伝された能力」を「個人の能力」と勘違いしてしまうことが多いんじゃないかと思うのです。
でも、それはちっとも「自分のもの」なんかじゃないわけです。

「偶然」がもたらす機会は、与えられたものですが、それを「発見」して、意味を「創作」して、それを「習得」することは、その人による、その人の「個人の能力」なんだと思います。


これがほんの少しでもあれば、なかなか大したことなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。


「自我」



人間は、ごく幼い時期に「自分」と言う存在を意識するように成るみたいですね。
いわゆる「自我」ですね。


「我が強い」とか、「我を張る」なんて言い方もあったりしますけど、そういうのなんかも、たぶん「自我」に含まれるんでしょうね。


この「自我」の使い方なんですけど、「自我」には、使い方によって「プラスの作用」と「マイナスの作用」が大きく分かれてしまう性質があるんだと思うんですよね。


さしづめ、「我が強い」や「我を張る」は「マイナスの作用」ということに成るんでしょうね。
じゃあ、「プラスの作用」の方は、どうなんだとなると、要するに、「個性」と言われているものが、それに当たるんだと思うわけです。


これは、このブログの「個性と才能」と言うカテゴリで何度か書いていることなんですけど、私は、現在の「個性」と言う言葉の使われ方に疑問を感じるところがあるので、この言葉はあまり使わないようにしているんですね。

 ※「個性」がある人とない人、あるいは、「個性的」な人とそうじゃない人、
  と言う使い方があまりに多すぎて、「個性」が、誰でもみんな同じくらい
  持っているものであるという考え方が全く通じなくなってしまっていると
  いうことですね。

でも、「個性」が「自我」の「プラスの作用」によるものだという考え方ならば、何の問題も感じないで、この言葉を使うことが出来ると思います。


つまり、「自我」は、みんなが同じように持っているものであって、おそらくは、かなり幼い時期に形成されている概念でもありますから、「個性」が「自我」による作用の一種であるとすれば、それが「ある人」と「ない人」が居るという話しが出てくる筈がないということですね。
(まぁ、それでも通じない人には通じないんでしょうけど)


実際には、「自我」がみんなに同じようにあるのと同様に(というか、「自我」を捨てる方がはるかに不可能的)、「個性」や「才能」も、みんなにほとんど同じくらいの「量」が与えられているんだと思います。

ただ、それぞれの「個性」や「才能」の「質」が違うというだけのことでしょう。
そして、その「質」には「上・下の差」はないということなんじゃないでしょうか?


さて、「自我」に話を戻すと、その「プラスの作用」と「マイナスの作用」の差が大きいんだと思うわけです。


人が「自我」の「マイナスの作用」にとらわれてしまうと、「自己肥大化」によって、自分のことしか考えられなくなって、まず、「他人」が見えなくなって、次には「自分」すらも見失ってしまうので、結局、最終的には、どんなことも判断ができなくなって、ものごとを理解するということが、ほとんど出来なくなってしまうわけです。


また、「自我」の「プラスの作用」について言えば、「表現すること」・「創作すること」・「コミュニケーションをとること」さらに言えば、「考えること」や「知ること」までも含めて、この「自我」の「プラス作用」に当たるんだと思うわけですが、これらは、人間の「精神活動」そのものと言ってもいいんじゃないでしょうか?

そんな感じですから、落差が大きいわけですね。

それなのに、この「プラスの作用」と「マイナスの作用」が容易には切り離せないわけです。
だから、どうしても「プラスの作用」を追っていくと、「マイナスの作用」もクッツイテくるんですね。
これが、とてもウットーシイわけです。

それで、「自我」を捨てて「解脱」に到達することを、宗教などでは「至上の目標」とする傾向があるんでしょう。


もし、人間に「自我」を捨てることが出来るのだとしたら、それも、一つの考え方として、「アリ」だと思いますが、「自我」を捨てるということは、「個」としての「存在」でなくなるということですから、「人間」と言う「個」に閉じ込められた形でしか存在できないモノには、それは無理なんじゃないかと思うのですが、どうなんでしょうか?

それに、「自我」を捨てようとする気持ち自体も、また、かなり強い「自我」なんじゃないかと思いますから、「自我」を捨てることよりも、「自我」の「プラスとマイナス」をどう使っていくかということの方が、考え方としては有効なんじゃないかと思うのです。


まぁ、要するに、「プラス」ばかりを追い求めるのではなく、一応「マイナス」も受け入れて、「プラスとマイナス」の「バランス」をとることが”イイ”んじゃないかと思いますね。


取り敢えず出来ることと言えば、「マイナス」にハマリそうになった時には、その辺にあまり固執しないようにすることくらいかなと。
それで十分だと思いますし、その辺でもけっこう”ラク”に成るんじゃないのかなと。

これは、「プラスの作用」についても、ある程度同じ様なことが言えるんじゃないかと思います。
要するに、どちらもハマってしまうと見えなくなってしまうということでしょうね。


たまには「我を張っても」いいんじゃないかと思うわけですね。
それもまた、人間的なことではありますし、必ずしも悪いことでもないんじゃないかと思うんですよね。

そういう「自分の自我」を受け入れるくらいが、人間には丁度いいんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っています。



「自分がナニモノなのか」を見出す



私の場合、「自分がナニモノなのか」を見つけるのに、随分と時間がかかってしまいました。
と言っても、今でも「自分がナニモノなのか」がハッキリとわかったということではないですけどね。

まぁ、どちらかと言えば、今までがいかに見当違いだったかに気が付いたって感じですか?


とにかく、5年ほど前に50歳くらいになった頃、ようやく『自分はこんな人間なんじゃないの?』と言う感じでした。

でも、こういうの、私だけでもないんじゃないかと思うんですよね。
「自分がナニモノなのか」って言うことが若いうちからわかっている人って、意外と少ないんじゃないかと思うわけです。


少なくとも、「周りの環境」や、「理解者」に恵まれている人ばかりでもないでしょうから、若いうちに、それが見いだせる人は限られていて当たり前なんだと思うのです。


昔(封建的な時代)は、生まれた環境や両親の職業などで、その人の人生が決まってしまう部分が、かなりあったんでしょうから、あえて「自分がナニモノなのか」を見出す必要自体が、あまり無かったのかも知れません。

しかし、今は、自由になった分、全ての人が「自分を発見すること」を要求されているわけです。
まぁ、いわゆる「自分探し」っていうやつですね。


でも、そこで、あまりにも情報が過多ですから、迷ってしまうわけですね。
その結果、「どうでもよくなってしまう人」がとても多いような気がします。


どうでもよく成ると、人は迷わなくなりますから、「自分探し」からは解放されますが、「自分がナニモノなのか」は見出されません。

これでは、ある意味で「昔と同じ」ということでしょうね。


また、それとは逆に「自分探し」から抜け出せなくなってしまう人も、かなりたくさんいるように思うわけです。


今の時代は、ほとんどすべての人が情報に振り回されていますから、必ずしも、自分とは関係ない「情報の中」ばかり探して、「自分の中」を探さなくなってしまうんですね。

それで、「自分探し」から抜け出せなくなってしまうわけですね。


「自分探し」ですから「自分の中」にしか「答え」がないのは、みんなわかっているんですが、どうしても「金色の答え」を探してしまうんですね。
それで、「渋い感じの色の答え」しかないと、「チガウ」と思って、また「自分探し」を延々と続けることに成ってしまうわけです。


でも、もともと「色」に「上・下」なんてないわけで、「金色」はただ単に、色が「黄金」の色に似ているというだけのことで、本当の意味で、「色の上・下」なんて、はじめから無いわけです。


その辺が「情報」で惑わされてしまっているわけですけど、そういった「迷い」も含めた「自分の色」を受け入れると、自ずから「自分がナニモノなのか」を見出すことが出来るんじゃないかと思います。


実際は、「ナニ色か?」が問題なんじゃなくて、「その色」を如何に受け入れて、いかに表に向かって出すかが問題になってくるわけです。

もともと、「その色」とは「自分の色」ではあっても、表面に塗られた色に過ぎないわけで、例え金色でもメッキのようなものですから、「その色」がナニ色であっても、「本当の自分の中身」とは必ずしも関係なくて、「自分がナニモノなのか」を知れば、表面の色のことなど気にならなくなるんじゃないかと思うわけですね。


まぁ、所詮人間ですから、全身、金で出来ているわけないんで、「その色」に惑わされる必要もないのかなと。


そうして、「自分がナニモノなのか」を見出すことが出来れば、少し、良くなるんじゃないのかなと。

それでも「迷い」が無く成るわけじゃないですけどね。

その「迷い」は、

『いいんじゃないですか』と。


そんな風に思っているわけです。



「変わり者」と「変わり者じゃない者」



「変わり者」っていうと、あまり「いいイメージ」ないですよね。
でも、私といたしましては、「変わり者じゃない者」の方が、よっぽど「いいイメージ」ないわけです。


そもそも、「変わり者」っていってますけど、本来、「人間」って、全員「変わり者」であるハズなわけです。

その人が、その人自身の本来の姿であればあるほど、他の人から見たら「変わり者」に見えるハズなわけで、そんな中で、「変わり者じゃない者」が居るとすれば、それは、どこかで無理をしているということなわけですね。


日本人のような「農耕民族」は、「集団意識」が強いですから、「変わり者」を嫌うんでしょうが(一応そういうことに成っているという程度のことですけどね)、そうやって、無理に他人に合わせていくような社会には、もう限界が来ているんじゃないかと思うわけですね。

それでも、まだ、「変わり者じゃない者」達は、「変わり者」を排除しようとしますから、そういうことが、さらなるヒズミを生み出してきているわけです。


そして、常にそういう歪んだ力が働いていますから、「変わり者じゃない者」達は、より一層「集団意識」を強固にして、数のチカラで「変わり者」を排除して、「変わり者じゃない者」だけの均等な世界を作ろうとするわけです。

ところが、「変わり者じゃない者」も、本来は、どこかが少しは「変わり者」なわけですから、「変わり者じゃない者」同士の間でも、ほんの少しの「変わり者」が見つけ出されて、それが、また、排除されていくというわけです。


これが、いま起きている「イジメ」の構造じゃないでしょうか?


もう、現在の世の中に置いては、「農耕民族的な集団意識」は、「百害あって一利なし」とまではいわないまでも、確実に、「利益」よりも「不利益」の方が大きくなっていると思うわけです。


だから、もう、「変わり者」と言う言葉を、「いいイメージ」に変えていったほうがいいんじゃないかと思うわけですね。

「個性的」っていう言葉もありますけど、こちらは、「変わり者じゃない者」公認の「個性」に限定されますから、本当の意味での「個性」でも「変わり者」でも、全然ないわけです。


そういうわけで、

もう、「個性的」なんて言葉はやめて「変わり者」でいこう!

そんな風に思っているわけです。



「才能に頼らない」と言う選択



これは「芸術」に限らない話ですけど、現在、どんな分野でも、「才能」と言う言葉がかなり絶対的なものに成っていて、何をするにも、「才能」を見つけ出したり、「才能」を伸ばしたり、「才能」を磨いたりと、ありとあらゆる形で、「才能」を引き出そうとするわけです。

でも、そういうの、もうやめたほうがいいんじゃないかと思うわけですね。


私の場合、「才能」と言う言葉自体、無くしてしまってもいいんじゃないかと思っているくらいなんですけど(「個性」と言う言葉も同じですね)、少なくとも、「才能に頼らない」と言う「選択肢」があってもいいんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


これは、このブログで何度も書いていることなんですけど、要するに、「才能」と言うと、「才能がある者」と「才能lがない者」と言う捉え方をする人が非常に多いんですね。

そういう考え方が、いろいろなものを『殺している』と思いますね。


言ってみれば、ナニカが「できないこと」も「一つの才能」なわけで、『「才能がない人」なんて居るわけない!』と思うんですがどうなんでしょう?

それを、ただ単に「社会にとって有用であるかどうか」ということで、「才能がある」と「才能がない」に分けているだけだと思いますね。


だったら、最初から「才能」なんて言う言葉じゃなくて、「社会にとって有用」とか、「誰かにとって有用」とかと言ったほうがいいんじゃないかと思いますね。
それを「才能」と言ってしまうから、「才能がある人」がエラクて、「才能がない人」はパッとしない、という感じに成ってしまうわけです。

要するに、「才能」という言葉が、「才能」をつぶしているということですね。


だから、現在、「芸術」に関わる人間は、「才能を持っている人」も「才能を持っていない人」も(「有用」っていう意味での「才能」ですね)、「才能に頼らない」と言う「選択肢」を持つべきではないのかなと。


所詮、「才能で描かれた絵」なんて、もう出尽くしてしまっているわけですね。
もう、トックノトウにスッカラカンに成ってます。

「コンセプト」や「ヒネリ」や「アイデア」なんかも全部ヒックルメテですね。
そこまで含めても、もう、とっくに「打ち止め」に成ってますよね。


だから、『今だけ売れたい!』って言うんなら、それでもいいのかも知れないですけど、ナニカ『これっ!』というものを残したいなぁと思うなら、「才能がある人」も「才能がない人」も(これも「有用」と言う意味の「才能」です)、「才能に頼らない創作」を心掛けてみるという「選択肢」が必要なんじゃないかと思うわけです。


いま、「才能に頼らないで創られたモノ」こそが、本当の「その人の作品」なんだと思いますね。
「才能で創られたモノ」は、「社会にとって有用な作品」ということです。

それが悪いということは無いですが、私はそれを「芸術の中心」から遠い位置にピン止めするということです。


そういう「才能に頼らない姿勢」で創作することで、自分の中の「自分性」や「自分力」と言うものが見えて来るんじゃないかと思っています。

要するに、「技術」や「センス」みたいな、ひとから「才能」と言われやすいモノを取り除いたときに、自分の中にどれだけのモノが残るのか?ということですね。


そして、どうせ「磨いたり、伸ばしたり」するんなら、そういうところを「磨いたり、伸ばしたり」したほうがいいんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけですね。



「没個性」と「消個性」



「没個性」と言う言葉がありますけど、「消個性」と言う考え方もあるんじゃないかと思うわけです。
つまり、「個性を消す」ということですね。


「没個性」の方は、「初めから個性が無い」と言う風に聞こえてしまうんですけど、実際に、「初めから個性が無い人」なんて、居ないと思うので(と言うか、もし居たら「かなり珍しい人」なので、むしろ「個性的」なんじゃないかと思いますね)、どちらかと言うと、「消個性」の方が正しいような気がしてしまうわけです。

 ※「没個性」は正確に言えば「埋没した個性」ということでしょうから、本人の意思
  とは無関係に、「全体の中に個が埋没した状態」ということに成るんでしょうね。
  「消個性」の方は「意識して消された個性」ですね。


だいたい、「個性」は、たいてい「イイモノ」ということに成っていますけど、じつは、「個性」の中で「イイ部分」と言うのは極わずかで、
本人にとっても、周りの人にとっても「イヤなモノ」の方が多いんじゃないかと思うわけです。

なにせ、その人の「その人な部分」が「個性」なわけですから、他人にとっては、受け入れにくいことが多いのは当然のことなんだと思います。

また、本人にとっても、「自分らしさ」が「イイモノ」とも限らないわけですから、「個性」=「イイモノ」と言う公式は必ずしも当てはまらないんじゃないかと思うのです。


そんな中で、「誰かにとって都合のイイモノ」をピックアップして、「個性」と呼んでいたりする傾向がありますけど、そんなものが「本物の個性」であるわけがないですね。

それどころか、そう言うモノこそ最も「没個性的なモノ」であると言わざるを得ないわけなのです。


そういう「人から褒められそうな個性」をネラッテいった結果が、まさに、ここで言う「消個性」なわけです。
つまり、「個性」の中で、「イヤなモノ」を”消して”「イイモノ」だけを人に見せようとする、そういう「小細工」を「個性」と呼んでいたりするわけです。


その「小細工」が上手くいけば「個性」、シクジッテ見透かされれば「没個性」ということに成っているわけですね。
しかし、実体としては、どちらも「没個性」であり、「消個性」でもあるわけです。


「本物の個性」とは、必ずしも「イイモノ」とは限らないということが、当たり前に成れば、「個性のある人」と「個性のない人」なんて言う分け方はあり得ないということもまた、当たり前になるんじゃないかなと。

それから、「個性を伸ばす」と言う言い方がありますけど、あれなんかも、どう考えてもオカシイわけで、「ナニもしなくても、その人の中にあるモノ」こそ「本物の個性」なわけですから、「伸ばそうというネライで伸ばしたモノ」が「本物の個性」であることは無いわけです。


だから、「個性」とは、好むと好まざるとに関わらず、全ての人の中にあって、むしろ、捨てることが出来ないモノなんだと思います。
ただ、それをまるごと人目にさらすのには、「少しの決断」が必要に成るということですね。


さて、こんなに回りくどい状態に成ってしまっている「個性」と言う言葉を、まだ、使い続けなければならないもんなんでしょうか?
(と言いながら使ってますけど)


私の中には、そういう疑問があるわけなのです。



「才能」とは「世間的な評価」のこと



このブログでも何度か書いているんですけど、私は、いま言われているところの「才能」とか「個性」という言葉が、非常に無意味なものに思えるわけなのです。


だから、『この二つの言葉はもうやめてしまってもいいんじゃないか?』と思っているくらいなんですね。


とにかく「才能」とか「個性」と言うときに、それが「ある人」と「ない人」に分けられてしまうんですねぇ。

これは現在「才能」や「個性」という言葉に与えられている設定を無視していて、その為に、この二つの言葉の中に自己矛盾が発生してしまっているわけです。


その設定と言うのはどういうことかと言うと、現在言われているところの「才能」とは、「全方向への才能」を意味しているという設定であり、「個性」などはもともと「全方向的な性質」を持った言葉なわけですが、その「全方向性」がさらに強調されているのが、現時点的な「個性」の設定であるといって差し支えないと思います。

だから「ある人」と「ない人」が居るハズがないわけです。


それを「ある人」と「ない人」に分けてしまいますから、当然、これらの言葉から「全方向的な性質」は失われて、「特定方向的な性質」を持つようになってしまうわけです。

しかも、実際には「特定方向的なモノ」に成ってしまっているのに、建前上は『全方向的なんですよ』と言う形をとってしまっていますから、矛盾が出てきてしまうわけですね。


『皆さんの才能が輝いていますよ』と言っている割には、「特定方向に沿っていないモノ」には見向きもしないという感じですね。


そして、その「特定方向」っていうのは、つまるところ、「世間的な評価」に過ぎないわけです。


昔は、「技術」とか「見識」とかと言った、ワカリヤスイ「特定方向」が「公認の方向」として設定されていましたから、『技術が高い人は才能がある』とか、『豊かな見識を独自に表現できる人は個性的』と言うように、ある程度「目指すべき方向」が決まっていたようなところがあったんでしょうが、その「ワカリヤスイ目標」を外されてしまったので、何を「才能」とか「個性」と言っていいのかわからなくなってしまったんでしょうねぇ。


ワカラナイので、「誰かがイイと言ったモノ」が「才能」であり「個性」であるということに成ってしまったんだと思います。

ところが、その「誰かがイイと言ったモノ」を「イイと言った人」も、、実は「誰かがイイと言ったモノ」を『イイ!』と言っただけだったりするわけですから、そこでの「才能」や「個性」という言葉には、もう、まったくと言っていいほど「実体」も「意味」も無く成ってしまっているわけです。


実際、現在「才能」と言う場合に、まったく「世間的に評価されていないモノ」を「才能」とは言いません。
というか、言っても「ジョーク」や「コント」になってしまいます。


これは実例を示せばわかりやすいと思います。


『うちの子はとっても絵がウマイんですよ』

「なるほど、お宅のお子さんには絵の才能があるんですね」

この場合「絵がウマイ」が「世間的な評価」です。
だから、この会話が「才能の話」として成り立っています。


ところが、

『うちの子は鼻くそホジルのがウマイんですよぉ』

「ほほう、それはすごい才能だ!!」

この場合、「鼻くそ」がネックになっています。
それで「ウマイ」が「世間的評価」につながりません。

だから、「才能の話」ではなく、「才能のコント」に成ってしまうわけです。

   注:「鼻くそ」を、他の「〇〇くそ」に置き換えても、大丈夫です。

   例:「目くそ」・「耳クソ」 など

   質問:『「〇〇ゲロ」も使えますか?』

   答え:『それは下品です。却下します!』

こういうのは極端な例ですが、『あの人は才能がある』と言われて、大方の人が納得できるような人というのは、「世間的に評価されている人」に間違いありません。

これを、「才能」があるから『世間的に評価されるんだ』と言えばもっともらしく聞こえますが、もしそうなら、「鼻くそ堀り」もウマければ一種の「才能」ですから、『世間的に評価されるハズ』です。

実は逆で、「世間が評価したモノ」を、盲目的に「才能」と言っているだけだったりするわけです。


『そんなこと言ったって「才能がある人」も「個性的な人」も居るだろ!?』という固定観念が邪魔してるんですね。


実際は「才能」も「個性」も、人によって「質」が違うだけで、持ってる「量」はあまり変わらないと思いますね。

それが事実だと思います。


それでも、まだ「才能」や「個性」を、「あるモノ・ないモノ」と考えたい方は考えればいいと思いますけど、

私は無理ですね。
どう考えてもオカシイんで。


こんなこと言うと『ナニを言うか、このインチキ野郎が!』と言われそうですけど、

『いや、そこは「この鼻くそ野郎が!」でお願いします!!』

そんな風に思っているわけです。



「差」はない、「違い」はある



いろいろなものごとにおいて全般的に言えることですけど、「差」はないけど、「違い」はあると思っているわけです。


つまり、全てのモノゴトは、どんなことであっても「上・下」の「差」はなくて、「横並び」の「違い」はあるということです。


そして、もう一つ、『「差」は自分の中にだけあって、「違い」は自分の外にもある』ということもあると思います。


これは、自分がやったことの中には、『これはいいなぁ』と『これはダメだなぁ』ということがあるけど、自分以外のことで、そういう「上・下の差」をつけてもあまり意味がないということです。

それは、ただの「好み」ですからね。
やっぱり、「好み」は「上・下」というよりも「横並び」のチガイなんじゃないかと思います。

お互いの「好み」を

『こっちが上だ!』

「いや、こっちはもっと上だ!!」

と言い合ってしまったら、ほとんどの話ができなく成ってしまいますからね。


それを「横並びの違い」ということにすれば、「上・下の差」がなくなりますから、お互い理解し易くなって話が出来そうな気がしてくるわけです。


そして、尚且つ、

「違い」については、ただ単に『ある』というだけでなく、『ほぼ必ずあるモノだ』ということにしてしまえば、そういう「相互理解」の幅が広くなるだろうと思うわけです。


人と交流する場合に、どうしても「共通点」を見つけ出そうとしてしまうわけですけど、実際には、そういう「共通点」がある人と話が合うとも限りませんし、「共通点」が無い人とは話が合わないというわけでもありません。


多くの人が、「共通点」を通して人と交流しようとしていますし、実際にそうしていることも多いでしょうが、そういうのは、世間一般に刷り込まれている情報を受け入れている「度合」が一致している人同士が、その「植え付けられた共通概念」を「自分たちの共感」と誤解して、ごく表面的な付き合いをしているだけだと思いますね。

そして、それを「友達」だとか「親友」だとか、場合によっては「夫婦」のような「深い関係」に置き換えてしまっているんだと思います。


実際、「友達」だからと言って、その人が考えていることをどの辺まで理解しているのか?ということに成ると、『よく考えたら、その人の内面は全然わかっていなかったのかも?』っていうことはよくあると思うわけですね。

それは「夫婦」だって同じだと思います。


「夫婦」でも「友達」でも「共通点」の部分は良く知っているでしょうし、それなりに理解しあっているかもしれませんが、ここで言っている「違い」についてとなると、『サッパリわかりません』と言うことが多く成ってしまうわけです。
(というか、わかろうという気がない)


そして、実際には、その「共通点」というのは「誰かから刷り込まれた情報」だったりするわけで、本当なら、人の考えが合致することなどあり得ないことだと思います。


その「違い」を「横並びの違い」と考えれば受け入れられますが、「上・下の差」と考えれば、「見下すか・ヘツラウか」という二者択一しかないわけで(あくまで、厳密に言えばということですけど)、、そうなると、もう「友達」という関係とも言い切れなく成ってしまうわけですし、「夫婦」の中は「ビミョーな冷戦状態」に突入していくわけです。

だから、そういう「一触即発」を避けるために「刷り込まれた共通概念」を「自分たちの共感」であるということにして、なんとなく「友達」や「夫婦」を演じ続けていくわけです。

でも、「違い」は必ずあるモノであって、そこに「上・下の差」はないんだということにしてしまえば、その辺のところが、とてもフレンドリーになるんじゃないのかなと。


やっぱり、人間というのは一人で生きるのが難しく出来ているように思いますから、「人と人の違い」を「上・下の差」としてではなく「横並びの違い」として受け入れていった方が、少しイイんじゃないのかなと。


そして、「自分の中の違い」については、ちょっとガンバッテ厳しく「上・下の差」を見ていけば、もう少しイイのかなと。

ワタクシメは、そういう風に思いますです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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