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「ポジティブ」と「ネガティブ」



今は、どちらかと言うと、と言うより、はぼ完全に「ポジティブ」が支持される時代だと思います。

「ネガティブ」と言うと批判されるか、言い訳のような使い方をされることが多いと思うわけです。
『どうせネガティブですよ』みたいにですね。

でも、わたしとしては、その二つは両方そろっていて、初めて意味があるものだと思うわけです。

「ポジティブ」と言うと、いいように聞こえますが、『ちょっとそれは無理なんじゃないの?』と思うような「ポジティブ過ぎ」が、あまりにも多いと思うわけです。

例えば、自分の子供が学校で、かなり悪質なイジメに遭っているのに、『そういう状況下でも生きていけるように学ぶいい機会だ』と言うお母さんの話を聞いたことがあるんですが、これはどんなもんなんでしょうかね。

そういう「ポジティブ・シンキング」から何か生み出されることはあるのでしょうか?
『無いと思います』


でも、それとは逆に、「謙遜」はある意味では「ネガティブ」だと思いますが、わたしは好きです。
西洋的な思考では、あまり理解されないのかもしれませんが、日本人はそれでいいような気もしますし、むしろ、外国に普及していってもいいようにも思ったりしますね。

こういう気持ちが生み出しているものは、実は計り知れないくらい大きいんじゃないでしょうか?


どちらにしても、極端すぎると「?」が、だんだん増えていくような気がします。

そして、「現在」は明らかに『極端にポジティブ過ぎ!』ですね。
もう少し、「批判精神」とか「悪いものを否定する勇気」のような、「いい・ネガティブ」を見直していったら、少し良くなるんじゃないのかなと。


そんな風に思っていますね。


「前向き」ということについて



「前向き」と言えば、当然いいことということに成っているわけですけれど、私といたしましては、これに若干の異議があるわけなのです。

まず、最初に感じてしまうのは『無理してるんじゃないの?』ということなのです。

だいたい、自分の状態が「前向き」なときに、あえて「前向き」は使わないんじゃないのかなと。
やはり、落ち込んだり自信がなくなったりして、「後ろ向き」になりかけた自分を、鼓舞したり、立ち直らせようとして「前向き」と言う、言葉を使うんじゃないでしょうか?

つまり、「負」を「正」に、「マイナス」を「プラス」に転じるためのキーワードとして使われているのじゃないかなと。
でも、世の中に「負」や「マイナス」がないわけはないのですから、すべてを「プラス」に転じるのには、ちょっと無理があるように感じてしまうわけなのです。

むしろ、本当に大事なのは、と言うよりも、実際に有効なのは、「負のスパイラル」に入ってしまわないようにすることだと思うわけなのです。

「負」を「負」と認めたうえで、それをもっとよく見つめて、より正確に把握しないと、、「負」が無制限に拡張していって、「スパイラル」の状態になってしまうのじゃないのかなと。

もちろん、もともとの性質によって、そうならない人もいるわけで、そういう場合は、「前向き」も有効なんだとは思うのです。
だから、そういう人が言っている場合は、あまり気にならないし、いいことなんだと思います。


ただ、もう一つ気になるのは、マスコミやインターネットで流されている「情報としての前向き」です。

私の記憶では、高度成長期には「前向き」と言う言葉は、今ほど使われていなかったような気がします。
むしろ、景気が低迷し出してから、「前向き」が増えているような気がするわけです。

そして、それとは正反対の意味で、「前向き」が増えていくのと同期するように、自殺などの「悲惨な死」が増えているように思うのです。

私には、自殺や幼児虐待の結果、幼い子供が親に殺されるような「悲惨な死」は、どうしても受け入れられないし、耐えられないし、そこでは「前向き」が役にたつとも思えません。

統計上の数字などは知りませんが、少なくとも、「前向き」とは裏腹に、世の中全体が、このところかなり暗いようにも思うのです。(少なくとも日本では)

もちろん、この言葉を使っている人たちには、そんな意味で使っている人は少ないのでしょうが、「前向き」には、結果的に、相手にそれを強いる性質があるようにも思えるのです。
(もちろん、個人がこの言葉を使うことを非難するつもりはありません。あくまで、社会の通説として、一方的に大量に流される「情報としての前向き」に限ってのことです。)

でも、私は「後ろ向き」でもいいように思うのです。
それは、そんなに暗いことでもないように思うわけです。

ただ、「情報としての前向き」が、これだけたくさん流されてしまうと、それとの対比において、どうしても「後ろ向き」=「暗い」=「マイナス」=「不要」となってしまうので、『「前向き」でなければいけない』になってしまうのかなと。

ということで、私といたしましては、このような「悲惨な死」は受け入れがたいのです。
すべて、無くなってほしいです。

せめて身近で、このようなことを頻繁に見聞きするような状態からだけは脱してほしいと思っています。

本当は、「前向き」でも「後ろ向き」でも、どっちでもいいと思うのです。
前でも後ろでも、そんなことは関係ないと思うわけです。

どっちを向いていようが、その人が立っている位置に変わりはないし、そこが、悪い位置であっても、それはその場所の話であって、その人が悪いとは限らないわけなので、その場合、向きを変えたりする必要は特にないようにも思うのです。

その立ち位置は、替えられれば、それに越したことは無いのでしょうが、それは、本人が一番よく分かっているということが、ほとんどだと思います。  

わかっていても、それが出来ないからその位置に立たされているんでしょうから。

そんな中で、何よりも受け入れがたいたいのは、「情報としての前向き」がさらに増え続けて、それと比例して、「悲惨な死」のグラフが上に伸び続けることです。

要するに、私はこれを受け入れるつもりはない。
と言うことですね。




「悪口」=「ネガティブ」なのか?



「悪口」と言えば、ネガティブの代表なわけですけれど、それは「悪口」の定義によると思うわけなのです。


悪くない人を悪く言うのが「悪口」であれば、それは間違いなくネガティブでしょう。
また、いいところも悪いところもあるようなことについて、その中の悪いところだけをわざわざ拾い出して悪く言うのも、確かにネガティブなことだと言えるのでしょう。

 ※ここで「悪い人」とか「悪いこと」と言っているのは、基本的にそれを言っている
  人が「悪いと思っている人(こと)』のことです。
  つまり、「絶対的な善・悪」の話ではなく、「その人にとっての善・悪」を基準にし
  ています。
 

でも、明らかに悪い人やものについて、それを悪いということを含めて「悪口」と言っているのだとしたら、それは、ネガティブなことなのでしょうか?

もしも、明らかに悪いようなこと、または、自分が本当は悪いと思っているようなことの中から、なんとかして、いいところを見つけ出してきて「悪口」を言わないようにしているのだとしたら、それは、一種の「嘘」であって、むしろ、そちらの方がネガティブなことではないのかなと。

たとえ、それが善意によるものであったとしても、度を越せばその「嘘」も色濃くなってしまうわけなのです。
そして、その度合いの物差しが、かなりずれてしまっているように思うのです。

本当のことを言って、それが何かに対する批判を含んだことであったとしてもそれを、「悪口」と言えるのでしょうか?
というか、その「悪口」はネガティブなことなのかなと。

今の日本では、そこの所が抜けていて、何かを悪く言うことがすべて「悪口=ネガティブ」と言われてしまっているように思うのです。


結局、悪くもないものを悪く言うのも「嘘」だし、悪いものを悪く言わないのも「嘘」なわけで、それは、両方ともネガティブなことではないのかなと。

だとしたら、悪いと思ったことをただ正直に悪いと言った人を、「ネガティブ」と呼ぶことの方が本当の「悪口」では無いのかなと。

もちろん、根拠のない批判や感情的な誹謗中傷を推奨するつもりはありませんけれど、そういうデタラメな「否定」と理由のある「否定」が、すべて一緒くたにされてしまっているように思うわけです。

実は、大事なのは「ポジティブ」か「ネガティブ」かではなくて、「肯定」と「否定」のバランスや内容ではないかと思うわけなのです。


現在の日本社会では、明らかに「否定」が強制的に排除されてしまっているわけです。

それは言ってみれば「否定」が「否定」されているということであって、どう考えても矛盾しているわけです。

もしも、本当に「肯定」を尊重するのであれば、「否定」は「否定」として、その妥当性を、公平に検討したうえで「肯定」または「否定」されるべきであって、一律に、「否定」的だからという理由で「否定」したのでは、それ自体も、また「否定」的になってしまっているわけで、自己矛盾に陥ってしまっているわけです。


私としては、「ポジティブ」な考え方や「前向き」な生き方が悪いとは思いませんし、そういう方向性を持った人と言うのも、人としてはとても好きなのですが、ここで言っているのは、現在の日本社会の状態のことなのです。

私には、どう考えても「批判」や「ネガティブ」が排除され過ぎているとしか思えないのです。

あまりにバランスを欠いた状態のようにしか見えないので、どうしても「肯定」側よりも「否定」側に肩入れしたくなってしまうわけなのです。


それから、それは元を正せば経済的な理由からそう成っているのではないかと思うわけなのです。

例えば、商品のレビューなどを見ても「肯定」的なものがほとんどな中で、数少ない「否定」的なレビューの方が役にたつことも多いのですが、それは、購売に結びつかないので見えないところに追いやられてしまいがちなわけです。

これなどはまだわかり易いですけれど、もっと見えにくいことでも、何らかの経済上の理由から「否定」が理不尽に排除されていることは、たくさんあるように思われるわけです。

というよりも、「否定」が意図的に排除されているケースのほとんどが、経済と結びついているようにさえも思えるわけなのです。

排除している本人は、ただ単に「肯定」の方が「建設的」で「前向き」だから、いいだろうと思ってしていることでも、実は、「建設的」や「前向き」には既に経済促進的な側面があるわけです。

そして、経済の部分を除いた本当の意味の「建設的」や「前向き」というのは、必ずしも「肯定」ではない、否、むしろ「否定」的であるはずなのです。


何かを作ったり、行ったりするのに試行錯誤がなければそれが良くなるはずがないわけですけれど、その試行錯誤に当たるものは、間違いなく「否定」的な要素を含んだ考察ではないのかなと。

『これじゃダメだ』『これでもまだ足りない』という「否定」の繰り返しが「建設的」なのであって、はじめから『これでいい』というのは、ただの「テキトー」で、決して「建設的」なことではないと思うのです。

また、あくまで試行錯誤を経た後での「肯定」は「前向き」であっても、その段階を飛ばした「肯定」は”ザツ”なだけだとも思うのです。

つまり、肯定的であることは「建設的」「発展的」「向上的」であるより以上に、「経済的」なことであるとも言えると思うのです。

「建設的」「発展的」「向上的」を経たうえで、それが「経済的」に成るのならいいのでしょう、
でも、そこには「否定」という過程が必要不可欠になってくるわけです。


「悪口」=「ネガティブ」という短絡的な発想で「否定」や「批判」を排除していってしまうと、全てのもの事は衰退して、骨のない形だけのつまらないものになっていってしまうのだと思うのです。

こういうことを了解済みで言っている人も多いとは思いますけれど、問題なのは、「肯定」と「否定」のバランスなわけで、
その「量」と「質」におけるバランスが明らかに崩れている現状においては、「否定」の側の「量」と「質」を意識して高めていかなければ、益々、まともな話が通じないような、充実したものが生み出されないような、そんな世の中にしかならないのかなと。

いま、社会が求めているのは「肯定」ですが、いま、社会に必要なのは「否定」だと思うのです。


私にはどうしても、そんな風にしか思えないわけなのです。




「人間を否定すること」と「行為や状態を否定すること」は全く違う



このブログでも何度か書いてきたことですが、現在の日本では、否定的なことを言うことがタブーのようになってきていると感じるわけですけれど、これには、かなり見落とされているところがあるように思えるわけなのです。


見落とされていることは、いくつもあると思うのですけれど、中でも「人間を否定すること」と「行為や状態を否定すること」が、ほとんど区別されていないと言うのは、かなり大きなことではないのかなと。

「人間」と言うより、もっと正確に言えば「人間の存在」を否定するということは、避けるべきことかと思われるわけですけれど、「人間の行為や状態」を否定することは、避ける必要がないと思うわけです。

これは、人間に限ったことでもないでしょうが、「存在」と言うものは否定しようとしても、そうそうできるはずはないわけで、「存在」を否定するのであれば「全て」を否定せざるを得なくなってしまうわけでしょうから、そうなれば、何の話も成り立ちませんし、それはかなり無理があると思うわけです。

まぁ、「在る」ものを「無い」と言ってしまえば、なにも成り立たなくなってしまうわけですから、そこには無理があると言わざるを得ないのでしょうね。

だから、当然「人間の存在」も、その人がそこに「在る」かぎり否定できないはずなわけですから、それを否定するということは、まったく不当なことであって、理に適っていないわけなのでしょう。

でも、「行為や状態」を否定することについては、根本的な「存在」の否定ではなく、その有り様についての部分的な否定ですから、それとはまったく異なるものだと思うわけです。

そして、その二つが区別されていなかったり、意味のない区別がされていたりすることが、「否定」や「批判」の機能を失わせているように思われるわけなのです。

つまり、「否定」することはできる限り避けるべきことであって、できうるかぎり無差別に「肯定」に向ける努力をするべきであるというような無理な論があったり、なんとなく度を越している場合は「批判」してもいいとか、犯罪者だったら「否定」してもいいとか、皆が悪く言っている人だったら「悪く」言ってもいいとか、そういった意味のない区別がされている場合がとても多いと思うのです。

でも、実際は、どんな場合も「人間」は否定するべきではない(できない)し、「行為や状態」は否定しても、何の差支えもないのだと思うわけです。


犯罪者であっても否定されるのは、その「行為」であって、その「人間存在」ではないはずでしょう。
(これは「死刑の是非」とはまた違った意味に成ると思います)
まして、みんなが悪く言っているからと言って、その人の「存在」自体を否定してもいいはずがないわけですが、それが結構まかり通ってしまっているように思えるわけなのです。

そして、まさに、そこから各種のハラスメントやイジメ、差別などが生まれているということは明らかだと思われるわけです。

つまり、「否定しない」ことや「否定の区別がなされていない」ことで、かえって非常に否定的な状態が生み出されてしまっていると言わざるを得ないわけなのです

「存在」は基本的に、否定しないのではなくて否定できないわけですから、それを、どうこう言っても仕方がないわけですが、「行為や状態」については否定や批判をするべきであって、それをしないということは、要するに「悪」を肯定することにしかならないわけです。

完璧なものがないのだとすれば、どんなものでも「否定や批判」をされる要素があるはずで、それがタブーになってしまうと、全てのもの事は少しづつ「悪い」方向へ向かうに違いないわけなのです。

「否定や批判」と言う「食い止める力」が働いていて、やっとバランスが取れているのですから、それを取り除いてしまえば、そう成るのは当たり前のことなのだと思います。

そして、「行為や状態」を批判することこそが、「人間」を否定することを阻止するための唯一の手段ではないかとも思えるわけなので、その機能が失われつつある現状は、「人間存在」の危機的な状況であるというように思えるわけです。

「行為や状態」を否定されて傷つくのは、所詮、つまらない表面だけのプライドや見栄の部分だけなのですから、そこのところは諦めて、もっと大事な「人間」の根本的な「存在」を守らなければ、どうにもならないのじゃないですかと。

お互いに人格を否定し合っているような、状態が蔓延している世の中で、表面上の「肯定」だけを追いかけていても、その隣で「肯定を名乗った否定」が、堂々とまかり通っているのでは、なんの役にも立たないのじゃないですかと。

ですから、偏った「肯定」は「悪」を生むものでもあるということを、考えるべき時なのではないのかなと。
そして、それを「止める力」があるのは「否定」だけなのだから、そこで躊躇してはダメなんじゃないですかと。


つまりは、そういうことが言いたいわけなのです。




「前向き」は現世利益の宗教と同じでは?



現在、「前向きに生きること」は、ほぼ全面的に肯定されているわけですけれど、これは、構造的には、ほとんど「現世利益」を謳った宗教と変わらないと思うわけです。


つまり、「前向きに生きること」で『こんなにいいことがありますよ』と言っているわけで、『お賽銭を入れる』と、『何かきっとご利益がありますよ』と言うのと、あまり違わないわけです。


実際は、「宗教」も「前向き」も、高い見識をもって、言っている人もいるのだと思います。
でも、大多数の人は、どこか現世利益的なのではないのでしょうか?

それは、当然のことだと思いますし、それら大多数の人たちが指向するところこそ、それらの本質であるとも言えるのではないでしょうか?


「前向き」と「宗教」の中間的な位置に「スピリチュアル」と言うのがありますが、こちらは、「来世でいいことがある」という感じでしょうか?



私は、「前向き」も「スピリチュアル」も流行だと思いますが、どちらも、頼れなくなってきた宗教の代わりに現れてきているのだと思うわけです。

もともと、宗教からして、そうだと思うのですけれど、清く、正しく、前向きに生きてさえいれば、いいことがあるのならば、たぶん、宗教も「前向き」も「スピリチュアル」も必要ないと思うわけです。


そう成らないからこそ、それらの「ポジティブ・シンキング」が必要になってくるんだと思うわけです。

少なくとも「霊が見える」とか「オーラが見える」とかいう人じゃなくて、ごく一般的な人にとっては、そういうことだと思うのです。


もちろん、そういう「清く、正しく、前向きな」が悪いということは無いわけで、むしろ、とてもいいことだと思うわけですけれど、 宗教や「前向き」や「スピリチュアル」だと、少しイメージが先行しすぎるように感じてしまうわけなのです。

見栄えのいい切り口だけ見えて、そうでないところが見えなくなってしまうような、そんな感じを受けるわけです。


これらのことで、「現世利益」を期待しながらも、「浄化」されたような、「得」を積んだかのような、印象を持つのは、私は、ちょっと違うのじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


実際には、「浄化」や「得」の方は、『それによって、むしろひどい目にあってもそれをやりますか?』ということな筈で、それは「現世利益」とは相反しているわけです。


結局、『これをやるといいことがありますよ』は「流行止まり」な感じがするわけです。

『これをやって、痛い目にあってもやりますか?』
『ええ、それで、今、このドブのような環境で、瀕死の状態で一応生きています。』と言うのが本当だと思います。


そういう人が、そう簡単に増えることは無いのでしょうが、そんな人が増えれば、きっと世の中少しは良くなるのでしょう。

これだけ、『自称「前向き」に生きている人』がふえて、これだけ、神社にお参りに行く人が増えているのに、あまり世の中、良くなってない感じもするんですよね。


そういう人たちの周りだけ、雨が降らないということなんでしょうか?


そんな感じが、私は消せません。


※すいません、「宗教」や「スピリチュアル」を否定しているわけではありません。
 崇高な考えに基づいてそういうことをやっている意図もたくさんいるんだと思います。
 ただ、社会現象として見た場合、そういう次元でやっている人は少ないように見えて
 しまうということです。







「ポジティブ」過ぎなんじゃないでしょうか?



このブログでは、何度か繰り返し言ってきていることなのですけれど、現在の日本では、「ネガティブ」であることが忌避され過ぎていると思うわけです。

でも、だからと言って「ポジティブ」が悪いというつもりは、まったくないわけなのです。


と言うよりも、私自身どちらかと言えば「ポジティブ」側でもあるわけです。
ですから、「ポジティブ」であることは、いいことだと思っていますし、「ネガティブ」を全面的に肯定すべきだとも思わないんですね。


そこで、この「ポジティブ」と「ネガティブ」を「ポジティブ」の側から見ると、「前向き」で、「肯定的」でと、いいことが多いわけですが、それでも、やっぱりマイナス面もあって、その中でも決定的なのは、「批判力」を持たないということでしょう。

そして、さらには「批判精神」自体を打ち消してしまうような作用も持っているように思うのです。
(「批判」をも含めて「ポジティブ」に捉えるということを言ってしまうと、なんでも「ポジティブ」に成ってしまって、
「ポジティブ」という言葉自体が成り立たなくなってしまうので、これは無しでしょう。)

「批判精神」を失うということは「進歩」しなくなるということです。
「前を向いて」いても、その場で足踏みしていたのでは、「ポジティブ」とは言えないでしょう。
少なくとも、いま日本で言われている「ポジティブ」には当てはまらないでしょう。

 ※ここで言う「進歩」とは、「絶対的な意味での良くなること」ではなく、「変化」に
  近い意味です。
  すべての物事は「変化」せずにいることはないと思いますので、その「変化」を
  受け入れることが「進歩」なんだと思います。


「肯定的」ということは「現状肯定」をも意味します。

「進歩」や「展開」は「現状否定」から生まれます。


現在、恵まれた立場にある者が、「現状肯定」を支持するのは、ある意味当然のことですが、それを「ポジティブ」とは言わないでしょう。

それは「保守的」なことであり、「保守的」なことは、正当な権利の範囲で行われる限り、何も悪いことだとは思いませんが、でも、やはり、まったくもって「ポジティブ」なことではないと言わざるを得ないのであります。


つまり、現在の日本で使われている「ポジティブ」は、「肯定的」と「進歩」と言う二つの意味を、両立させるべき言葉であるように思われますが、この二つには背反的な面が多分にあるということでしょう。


こうなってくると「ポジティブ」の設定自体が、怪しくなって来るわけです。

要するに、表と裏の両面がないと全てのものが成り立たないというのと同じで、「ポジティブ」と「ネガティブ」も両方あってこそ成り立っているのだと思うわけです。

そこで、どうしても、「ポジティブ」は無条件に「OK」で、「ネガティブ」は全て「NO」という、今の日本の状況が〝行き過ぎ"と感じてしまうわけなのです。


私に言わせていただけるのならば、現在の状況は明らかに〝行き過ぎ"で、「ポジティブ信仰」と言ってもいいように感じてしまうわけですが、時として滑稽なほどの〝行き過ぎ"が、全面的にまかり通ってしまっているわけなのです。


これでは、「前向き」で素晴らしい「ポジティブ」の裏側に回ってみたら、中身はカラッポだったということに成りかねないし、現に、そういうことが日に日に増えてきてもいるように思われるわけなのです。

この状況を打開するには、現在「ポジティブ」を支持している側の人が、その〝オカシサ"を感じたときに、『「ポジティブ」であるべき』とか、『「ネガティブ」は避けるべき』という考えに捕らわれずに、今よりも、積極的に「ネガティブ」を取り入れていく以外にないのだと思うわけです。

つまり、見栄えのいい「ポジティブ」に、地味な「裏付け」を与えていく作業が、必要になってくるのだと思うわけです。


そして、そういう作業を行ってみると、現状の「ポジティブ」の中に「裏付け」のしようが無いようなもの、言い換えれば「実体の無いポジティブ」が、いかに多いかに気が付くのではないのかなと。


そんな風に、思ってしまうわけなのです。



「ポジティブ」と言う呪文



「ポジティブ」と「ネガティブ」については、このブログでも何度か書いてきたわけですけれど、現在の日本では、もう本当に「ポジティブ」が呪文のように繰り返し唱えられているわけです。


わたしには、これがどうしても不自然に見えてしまうわけですけれど、とにかく「ポジティブ」と言えば、ほとんどのことが通ってしまいますし、どんな無理な状況でも「前向き」に捉えることが”良し”とされてしまっているわけです。

反面、「ネガティブ」なことを言うときには、たとえ、それが理にかなった批判でも、『ネガティブですいません』みたいな言い訳をつけなければいけないような雰囲気があるわけです。


普通に生活しているだけでも、『なんでそうなるかなぁ』と言うような「ポジティブ」や「前向き」に、しょっちゅう出会うわけです。

この「ポジティブ信仰」や「前向き教」が、いつの間に、これだけ広まったたのかはわかりませんけれど、少なくとも、自分のことに限って言えば、子供の時や若い頃には、「前向きに」とか「ポジティブに」ということを言われた記憶はほとんどないわけです。


もちろん、なんにでも”むやみに”反対する人とか、理屈の通らないような”頭ごなしの”批判をするような人は、「あまのじゃく」と言われて、あまり好かれませんでしたが、それでさえ、『前向きに考えろよ』とか、『ネガティブに考えてはいけない』という言い方はされていなかったように思います。

その人たちが、嫌われたのは、「反対する」や「批判する」の部分ではなくて、”むやみに”や”頭ごなしの”の部分だったように思います。


そして、今、「反対する」や「批判する」の部分だけがひっくり返って、『むやみに賛成する』や『頭ごなしの肯定』になっているように思うわけです。

そして、その「むやみに」や「頭ごなしの」は、ほとんど批判されないわけです。
批判すれば、その人の方が「ネガティブだ」と言われて、あっという間に「返り討ち」にされてしまうわけです。


『そいうのって、ポジティブって言うんですか?』ということを感じている人は、少なくないんじゃないかと思うんですが、それを言い出しづらい雰囲気があるわけです。

要するに、『ポジティブな世の中じゃなかったときの方が、よっぽどポジティブ寄りだった』と言う感じがするわけです。


なぜ、こうなったのかは解りませんけれど、今の状況は、カルト宗教の団体の中にいるような感じがしてしまうわけなのです。

カルトは言い過ぎかもしれませんが、盲目的になってしまっていることは確かなことなんじゃないかと思うのです。
”絶対逆らえない掟”のようなものになってしまっているように見えるわけですね。


なぜ、そこまで頑なに「ポジティブ」じゃなきゃいけないのか?
なぜ、そんなに無理してまで「前向き」であろうとするのか?

答えられる人っているんですか?と聞きたくなてしまうわけですね。


だから、呪文を唱え続けても、たいして良く成らないならば、取り敢えず、一回そこから離脱してみませんかと。

そんな風におススメしたくなってしまうわけなのです。



「ポジティブなネガティブ」と「ネガティブなポジティブ」



このブログで、何度か言っていることなんですけど、現在の日本では(世界的にもその傾向はあると思いますが)、全ての考え方が、「ポジティブ」に偏りすぎていると思うわけです。


これは、とにかく行き過ぎていて『どう考えてもオカシイでしょ』と思っているわけです。

そんな中で、とくに『オカシイ』と思うことの一つが、一見すると「ポジティブ」な人が、実情はとても「ネガティブ」でも、「ポジティブ」の看板さえ出していれば「ポジティブ扱い」で通っていたり、「ネガティブ」を批判するときだけは、どんなに「ネガティブ」なことを言っても「ポジティブ扱い」になってしまっていたり、自分に関しては「ポジティブ」だけど、他人については「ネガティブ」と言う「ご都合主義」もひっくるめて「ポジティブ扱い」ということに成っていることなわけです。

つまり、「ポジティブなネガティブ」っていうのが、とても多いんじゃないかなと感じるわけですね。

もうちょっと言わせてもらえば、「ポジティブに成りすましたネガティブ」ですね。


本当の「ポジティブ」は悪いものではないと思っていますけれど、それですら、行き過ぎればバランスを欠いてしまうわけですよね。

これは、なんにでも言えることでしょうが、バランスを欠いたものが人間にとって”イイモノ”であるということは決してないわけです。


そして、その”バランスを欠いた”結果が「ポジティブに成りすましたネガティブ」なのだと思うのです。


要するに、「ポジティブ」と言いさえすればなんでも通ってしまうことが、”悪用”されてしまっているわけですね。


簡単です。

「ネガティブ」なことを言いたいときや、やりたいときは、それを『ポジティブだよ』と言えばいいわけです。

こんな風に言うと、『それは言い過ぎだろう』と言う人もいるでしょうが、事実です。


どんなに「ネガティブ」なことでも『私なんかとてもポジティブだから』と笑いながら言えば、だいたい「ポジティブ」で通ります。
誰一人として『それ、ちっとも「ポジティブ」じゃないですよね』と言うことはありません。
もし、そう言う人が居ても、その人が「ネガティブだ」ということに成ってしまうので大丈夫です。


これが「イジメの構造」でもあります。


みんなとちょっとでも違うことを言うと「ネガティブ扱い」になって「イジメ」の対象にされてしまいます。
「イジメてる側」は、笑いながら軽い調子で「ポジティブ」に「イジメ」ますから「ポジティブ扱い」です。


「イジメられてる側」は、どうしたって深刻ですから「ネガティブ扱い」です。
でも、実はこちらの方が「ポジティブ」である場合も多いわけです。

本当に「ポジティブ」な人は、正直にモノを言ってしまいがちですから、人と違うことを言ってしまいます。
すると、即「ネガティブ扱い」に成ります。
その結果、「イジメ」られます。

そうなれば、どうしたって「ネガティブな感じ」に成ります。
これが「ネガティブなポジティブ」です。


つまり、「ネガティブ」が「ポジティブ」に、「ポジティブ」が「ネガティブ」に、すべてがねじれて反転してしまうわけです。


こんな状況で、子供から大人まで、そして老人までも含めて、自殺者が後を絶たない中で、いったい何をもって「ポジティブ」と言っているのか、私には理解出来ないのです。


もしも、現在の「ポジティブ」が、一部の人にとっては”イイモノ”なのだとしても(私は、これ自体が錯覚だと思いますが)、そういう人たちは、そこを少しだけ”ガマン”した方がいいんじゃないかと思うわけです。


「ポジティブ」が強調されていけばいくほど、自殺や「イジメ」は増え続けると思います。


ええ、確かに、ここで私が言っていることが間違っているのかも知れませんし、「ポジティブ」をやめたら、もっと悪くなるのかも知れませんね。

だから、「ポジティブ」続けますか?


私はできません。


本当は「ポジティブ」が悪いわけではないのでしょう。
でも、「本当のポジティブ」はもう無く成っています。
あるのは、「ポジティブなネガティブ」と「ネガティブなポジティブ」です。

たとえ、自分の「ポジティブ」が「本当のポジティブ」でも、
そんなことはかき消されてしまいます。

それは結果的に”悪用”されてしまうのです。


だから、もう「ポジティブ」は当分の間、封印した方がいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているのです。


「不満」のモトは「好奇心」?



私なんかもそうなんですが、現代人と言うのは、とかく社会に対して「不満」を持ってしまう傾向があると思うのです。


現代人は、教育でいろいろなことを教え込まれていますし、その後の情報量も、昔とは比べものにならないぐらいに多くなっていますから、社会の”アラ”が、どうしても目に付いてしまうんだと思うのです。

しかし、自分のことを考えても、よくわかることですけれど、この「不満」を持って生きていると、あまりいいことがないわけです。

でも、だからと言って、それを全て「ポジティブ」に反転させてしまうのは、ちょっとオカシイんじゃないかなと、私は思っているので、なんとか目についてしまう社会の”アラ”を、無理して”イイモノ”に反転することなく、”アラ”のまま「不満」を持たずにいられないかと考えるわけです。


そこで、思い当たるのが、「好奇心」なのです。
要するに、なぜ”アラ”が目についてしまうのか?と言えば、人間には「好奇心」があるからなわけです。

「好奇心」があるから、『これはおかしいんじゃないの?』って具合になってしまうわけです。
それで、注目してしまうから、ついには”アラ”が見えてきてしまうわけですねぇ。

そして、そうなってくるとどうしたって、「不満」が出て来るというわけです。


そこで、これをもう一度「好奇心」の時点に巻き戻してみるわけです。
すると、それが”アラ”であるままなのに、「面白いもの」に見えて来るんですねぇ。


つまり、「社会観察」ですね。

「人間観察」なんかでもそうですけど(こんなこと言ってはなんですが)、「、お友達としては、チョット・・・」という人の方が圧倒的に面白いわけですね。

それと同じように、社会現象なんかでも、「難あり」なことの方が、明らかに面白いわけです。
そうなってくると、もう「不満」を持っている場合じゃなくて、”アラ”があることは憤りの対象どころか、、むしろ、面白いことの中の一つのパターンくらいにしか思えなくなってくるわけですよね。

それで、だいたいのことが、最終的には”笑い”の対象になってしまうわけです。

もちろん、深刻な場合には、ほとんどこれは通じません。
その場合は「不満」を持つことを選択するしかないと思っています。

そこで無理して「ポジティブ」にひっくり返そうとすると、その無理がどこかに現れて来るのだと思います。

自分に帰って来てしまう場合もあるでしょうし、他の誰かに回って行ってしまうこともあるでしょう。
でも、これは物理法則のようなもので消えてなくなることは無いと思っています。

自分が「深刻な不満」を、考え方一つで解消できたというときは、おそらく、それが誰かの所に回って行ったというだけなのだと思うのです。


まぁ、深刻な場合は仕方ないとして、そうでもないことについてだけでも、なんとかできればだいぶイイんじゃないかなと。

「面白いこと」はそれほど重要なことだとは思いませんが、「不満」を持って生きていくこととの二者択一であれば、「面白いこと」の方を選びますね。


これは何でもかんでも、「面白ければいい」と言うわけではありません。
「不満」との間での”差し引き”においての話に限ってですね。


非常にまじめな話としてですね。

そんな風な考え方でやっています。


ただ、「面白いこと」にも、やっぱり飽きてくるわけすね。
それで、『真面目にやらないと』って思うわけですね。
『やっぱり、そっちが基本だよなぁ』ということですよね。

そちらの方も、非常にまじめな話としてですね。

そんなことを考えてやっております。



「批判」と「否定」



「批判」と「否定」は重なるところが多いので、混同してしまいがちなものだと思うんですが、実際には、かなりの違いがあるんだと思います。


「批判」も「否定」も「ネガティブ」ということで、同じように扱われることが多いわけですけど、「批判」はそこから何かを得ようとするもので、「否定」はそこには得るものがないと判断することなのでしょう。


つまり、「批判」は「否定的」ではあっても、「全面的な否定」ではないということですよね。

逆に言うと、「否定」するということは、それを「全面的に否定」することということに成るわけです。
要するに、「存在」を「否定」するということに成るわけですね。


「存在しているもの」の「存在」を「否定」することは、矛盾しますから、これにはやや無理があって、本当に純粋な意味での「否定」と言うのは、有り得ないことのような気もします。


そうなると、全ての「否定形」は、本来「否定」ではなく「批判」だということに成るわけですけど、その「矛盾や無理」を強引に乗り越えて「否定」しようとする人が居たりするわけですね。

それが「ネガティブ」と言われているものの「最も良くないカタチ」なんじゃないかと思います。


ところが、実は、これは「肯定」の場合も同じことで、あまり強引に「肯定」しようとすると、やっぱり「最も良くないカタチ」に成るわけです。

言ってみれば、「否定」と「肯定」の間にあるのが「批判」だとも言えるんだと思います。

さらに言えば、「批判」だけではなく、「研究」や「考察」などは、どれも皆、本来は「否定」と「肯定」の間にあると言うことなんだと思います。

問題なのは、「否定的」か「肯定的」かではなく、その「内容」ですね。


いま、インターネットやマスコミを通じて流される情報が(ブログなんかもそうですけど)、とにかく「批判」の「存在」を「否定」しているわけです。

何でもかんでも、取り敢えず曖昧にすることが「良いこと」のように成っていて、「イイ」と言っているのか「ワルイ」と言っているのかがよくわからない「情報」がとても多いんですね。

そのわりに、「内容のない否定」や「内容のない肯定」を、ミョウにキッパリと言い切ってしまうと、そういうモノだけは比較的受け入れられやすいという、とても不自然な状況になっているように思えるわけですね。


そういう情報と言うのは、要するに、「情報」が「情報としての価値」を持っていない状態に成っているわけです。

それなのに、「ネット」や「マスコミ」を通じて一方的に大量に流されますから、「情報としてのチカラ」だけは発生してしまうわけですね。


つまり、「価値」も「内容」もないものが「チカラ」だけは持っているという状態ですね。
だから、いろいろなことが「トンデモナイ方向」へ「暴走」してしまうことが頻繁に起きて来るんでしょう。


もう少し、「批判」を重視していかないと社会が行き詰ってしまうんじゃなんでしょうか?


今は、先人の遺してくれた「スバラシイ遺産」の上に立って、それを、勝手気ままに使っていられるから成り立っているだけで、こういう状態が続いて行けば、次の世紀の人間は、『前世紀の人たちは、「スバラシイ遺産」は何も残していかなかった』と言うように成るでしょうね。

そういう世紀の住人ではありたくないものですね。

よく、『日本に嫌気がさしたから外国に行く』と言う人が居ますけど、私は、『この時代に嫌気がさしたから、チガウ時代に行きたい!』と思ってしまいますね。


私は、今までに「本当にイイ時代」なんてなかったんじゃないかと思いますけど、それは、ある意味当然のことで、時代に先駆けて「人間の期待値」が上がって行くわけですから、常に、「いま」よりも「イイ時代」が期待されてしまうわけで、そういう意味では、「イイ時代」は、これからもたぶん来ないんでしょうね。

そんな中でも、「いま」はとても「ヘンな時代」なんじゃないのかなと思いますね。


これは、太古から延々と続いてきた時代とは、全く違うものとして考える必要があるんじゃないでしょうか?

たった100年~200年ぐらいの間に、人の生活や社会の様相がこれだけ変化したことは、かつてなかったわけで、それに、人間が付いて行けていないのは当然と言えば当然のことでしょうから、「時代」に歪みが生じて「ヘンな時代」に成っているのも当たり前のことなんじゃないでしょうか?


「ヒドイ時代」じゃないだけマシだろうという人もいるかもしれませんが、けっこう「罪もないのにヒドイメにあっている人」は居ると思いますよ。

「そういう時代」を擁護する意味がわかりませんね。


このことに限りませんけど、ちっとも「良くもないこと」を、敢えて「悪くはない」と言うことは、ある種の「現実逃避」でしかないと思いますね。
これは「あえて悪い所を探し出してくる」と言うのとは、ハッキリと違う事ですね。

「良くはない」とわかっているのに、自分の力では改善できないことだとわかると「批判」するのをやめて、「悪くはない」と「肯定」してしまうのは、それが、自分の力ではどうしようもないことだということを認めたくないと言うだけなんだと思いますね。

「自分の非力さ」と言う「現実」から「逃避」しているんじゃないでしょうか?


いつの間にか、トンデモナク話がそれてしまいましたが、そんな風に思っていたりするわけです。




『自分を愛せるように成ると幸せになれる』ということについて



『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言われることがありますよね。
あれは、半分は当たっていると思いますけど、半分は外れていると思いますね。


本当のことを言えば、自分を愛していない人なんて、ほとんどいないと思うんですよね。

本当の問題は、「愛し方」なんだと思います。


どこかで「愛し方」が屈折してしまう人が居るということだと思います。
そうすると、人から見れば「自分のことを愛せない人」のように見えてしまうんですね。

でも、実際には、それも「自己愛」の一種なんだと思うわけです。
むしろ、「自己愛」が強いからこそ、そういう状態に陥ってしまうんだと思います。

ただ、その「自己愛」が屈折しているわけです。


要するに、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言っている人は、その『「屈折」が無い(少ない)「愛し方」ができれば幸せになれる』というようなことを言っているんじゃないかと思います。


なぜ屈折してしまうのか?と言えば、「ほとんど」というより「すべて」と言った方がイイくらいに多くの場合、「抑圧」があるからということですね。

さらに言えば、圧倒的に多いのが「幼い時期の抑圧」だと思います。
まぁ、いちばん多いのは「親から子への抑圧」ということでしょう。


そういう、「親から子への抑圧」というものは、「親の愛情のユガミ」から発生すると言っていいんじゃないでしょうか。


「人間」の場合、「親の愛情」が、他の動物のようにストレートじゃないんでしょうねぇ。

「動物の親」が持っている「愛情」は、つまり、「本能的な愛情」ですね。
「無条件の愛情」と言ってもいいでしょう。

これが、「最もストレートな愛情」なんだと思うわけです。


でも、「人間の親」の場合、「条件付きの愛情」になってしまうことが多いんですね。
(〇〇ができた子は愛してあげるけど、出来ない子は愛してあげないということですね)

「人間の親」は、自分の子が社会の中で生きていけるように教育するという「課題」を課せられていますから、その部分ではどうしても「条件付き」に成らざるを得ないんだと思います。

そういうことを「しつけ」と言うんだと思います。

「しつけ」をまったくしないのも一種の「愛情のユガミ」と言えるでしょうし、「しつけ」をすれば、「条件付きの愛情」が「抑圧」を生み出してしまうわけです。

どっちに転んでも「愛情のユガミ」が避けられないように成っているわけですね。


もちろん、そこのところを上手く子供に伝えられる親もいるわけですけど、『お父さんもお母さんも、おまえのことを無条件に愛しているんだよ』でも、『それと「しつけ」は別のことで、それだっておまえのためを思ってやっているんだよ』なんてことを乳幼児に対して上手く伝えられる親って、限られていると思います。
(みんな、こんなことを言うわけですけど、なかなか上手くは伝わりませんよね)

べつに「親」に成るのにムズカシイ試験があるわけでもないわけですから、仕方ないことだと思います。


そんなことで「条件付きの愛情」が、「抑圧」を生み出してしまうケースがけっこうあるんだと思うわけです。


ここで問題なのは、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言っている人が、それを割と簡単にできることのように言っていることが非常に多いことです。

『考え方を、少し「前向き」に変えるだけでいいんですよ』とか、『自分の好きなことだけをやって、嫌なことはやらなければいいだけです』というように、「気の持ちよう」ひとつで人生が180度変わるという言い方に成っていることが多いような気がします。


確かに、そういう人もソレナリに居るとは思いますけど、そういう人は、「幼い時期の抑圧」を受けていなかったということだと思うわけです。

「幼い時期の抑圧」を受けた人が「気の持ちよう」だけで180度変わることは稀だと思いますね。


こんな風に言うと、「幼い時期の抑圧」を受けた人と言うのが、特別なケースのように聞こえてしまうかもしれませんが、実際は、「現代社会」で育つ人の大半が、この「幼い時期の抑圧」を受けていて、むしろ、「無条件の愛情」を受けて育つ人がとても少ないんだと思うわけです。

確かに、そういう人は、屈折しないで「自分を愛せる」ように成るんでしょう。


ただ、ここで『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言われることは多いですけど、それとは逆に、『「自分に対する愛情」が屈折してしまった人は幸せになれないのか?』ということが語られることはあまりないんですねぇ。


だから、「自分を愛せない人」つまり「自分への愛情が屈折してしまった人」が、そこから抜け出せなくなってしまうんじゃないかと思います。


実は「自分への愛情」が屈折していても幸せになれないわけではないと思います。
ただ単に、「自分への愛情が屈折していない人」の方が『より簡単に幸せになれる』というだけのことだと思うわけです。


「自分への愛情が屈折してしまった人」は、少し手間をかけて幸せに成ればいいだけのことです。
というか、もしかしたら、その方が結果的には、より大きな幸せを手に入れられるのかも知れません。


要するに、簡単で「やや小ぶりな幸せ」を手に入れるか、それとも、手間をかけて「少し大きめの幸せ」を手に入れるか、ということじゃないでしょうか?
(まぁ、手間をかけた分チョットだけ大きめになるという程度だと思いますけど)


ただし、「自分への愛情が屈折してしまった人」の場合は、その「手間」の部分に「自分を愛せるように成れば」に替わるような「~さえすれば」という答えが無いんですね。

つまり、一人一人全部チガウ答えに成るんだと思います。
(屈折の仕方も一人一人違いますからね)

だから、自分で探し出さないとならないわけですね。
それが「手間」なわけです。


いずれにしても、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』ということは、『自分への愛情が屈折していない人は、割と簡単に幸せになれるよ』と言うことで、『自分を愛せないと幸せになれない』のではなく、『自分への愛情が屈折してしまった人は幸せになるのに手間がかかる』と言うことだと思います。


実際は、「自分への愛情」が屈折したままでも幸せに成れると思いますし、現に、そういう人が幸せになっている例は意外と多いと思います。

ただ、そういう人は「自分が幸せだということ」をストレートに表現しないことが多いので、あまり幸せそうに見えないんだと思います。

本人が「自分が幸せだということ」に気づいていないことも多いと思います。
そういう人も、もう少し「自分が幸せだということ」に気づいてもいいような気がしますね。


そんなことを考えてみました。




「スピリチュアル」と「ポジティブ信仰」



「ポジティブ」という言葉が急にたくさん使われるようになったのは、10年~20年ぐらい前からのような気がしますが、その時点では、大した違和感を感じたことはありませんでした。

でも、ここ数年の「ポジティブ」の使われ方にはどう考えても「行き過ぎ」としか言いようのない、異常さを感じてしまうわけなのです。
まるで、狂信的な新興宗教のような感じすらしますね。


そして、この「行き過ぎたポジティブ」の原因になっているのが「スピリチュアル・ブーム」なんじゃないかと思うわけです。
「スピリチュアル」も、だいたいこの20年ほどの間に急激に広まったものですから、だいたい時期も重なってますね。

「スピリチュアル・ブーム」」について言えば、「スピリチュアル周辺で起きていること」も含めると「スピリチュアル現象」と言ってもいいほどだと思いますけど、それほど影響が大きくなってきているということだと思いますね。

そういう「スピリチュアル」の影響の一つが「ポジティブ信仰」だと思うわけです。

こんなことを言うと、『「ポジティブ」=「前向き」で何が悪いんだ!』と言われるのかも知れませんけど、やっぱりどんなことでも「行き過ぎ」は良くないんじゃないかと思います。
まぁ、そういう所が「信仰」や「宗教」の欠点だと思うわけですね。

「絶対的なモノ」を基本に置いた考え方というのは、どうしても極端に走る傾向があるということですね。
「宗教」にもいい所はあると思いますけど、そういう「宗教のいい所」が発揮される機会は時代と共に少なく成っていると思います。

個人的な考えで言わせてもらえば、今後さらに少なく成るでしょうね。

「スピリチュアル」が「信仰」や「宗教」と言えるのかどうか、また、やっている人たち自身がどう思ってやっているのかはわかりませんが、少なくとも「スピリチュアル」は「絶対的なモノ」を基盤においている場合が多いと思うわけです。

そういうものというのは、例え「教団」とか「教義」とか「聖典」とか言うモノを持たない場合でも、「宗教」や「信仰」と区別するのは難しいと思います。
というか、やっている本人たちはともかく、第三者から見たら区別する意味がないと思いますね。

つまり、「スピリチュアル」は客観的に見た場合は「スピリチュアル教」なんだと思うわけです。
要するに、全てにおいて具体的なルールが決められていない「新しいタイプの宗教」、それが「スピリチュアル」ということなんじゃないでしょうか?
でも、「絶対的な原理」を設定しているとすれば、その「原理」こそが「完全にして唯一のルール」であるとも言えるわけですから、細かい規則が決められていないということは「宗教ではないこと」の理由にはならないわけです。

まぁ、「スピリチュアル」が「宗教」であるか否かはともかくとして、少なくともそれが「絶対的な原理」を持っているとすれば(たとえば『この世の中のすべてのことの根源に「愛」がある』と言う場合、「愛」が「絶対的な原理」として設定されているということですね)、やはり、「行き過ぎ」に成る危険は高く成るわけです。

その結果として、「ポジティブ」も「行き過ぎ」に成っていて、むしろ「スピリチュアル」以上に、あからさまに「カルト化」してしまっているわけです。
「ポジティブ」=「前向き」が「お題目」や、「お呪文」のように成っていて、『それさえ唱えれば幸福になれる』とか『それを否定するのは冒涜的な行為である』というように、まさに典型的な「インチキ宗教」のパターンになってしまっているわけですね。

 ※宗教全般を一概に否定しようとは思いませんが、「どうしようもない宗教」という
  ジャンルがあるのは確かなことだと思います。
  「スピリチュアル」がその「どうしようもない宗教」だとは思いませんが、「ポジティ
  ブ信仰」は間違いなく「どうしようもない宗教」だと思います。

当然、やっている人たちは気づきませんし、認めません。
これも、「その手の宗教」と全く同じパターンですね。

そして、こう言うことを聞いた人は、まず、いい顔をしません。
つまり、それだけ「ポジティブ信仰」に洗脳されている人が多いということです。


そして、これは前にも書いたことがあるんですが、こういう「スピリチュアル」から派生する「洗脳」が意外と危険なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「スピリチュアル由来の考え方」には「自己洗脳的な性質」があって、「洗脳」をかけているのもかけられているのも自分ですから「非常に解けにくい洗脳」になってしまうような気がするわけです。

要するに「自発的な考え」とほとんど区別がつかなくなってしまうわけですね。
そうなると、どこからが「洗脳された考え方」で、どこまでが「本来の自分の考え方」なのかが非常に分けにくくなってしまうということですね。

それから、完全に油断しているということもあると思います。
「スピリチュアル」は、非常に安全なイメージがあって、「洗脳」や「カルト」とはかなり離れたところにあるモノというソフトなイメージを前提にして広まったものですから、多くの人が完全に油断しているわけです。
それで、疑惑を持ったり反対側の視点を持ったりすることなく、いつの間にかハマって行ってしまいます。

『「教団」もないし「教祖」も居ないのにいったい誰から洗脳されるっていうの?』

「自分」です。

つまり、自分で自分に「暗示」や「絶対的なルール」を課してしまうわけですね。
そして、そこから抜け出せなくなってしまうわけです。
しかし、その自分で考えたように見える「暗示」や「ルール」はほとんどの場合、「スピリチュアル」が示唆している「暗示」や「ルール」であって、実のところ「自分起源」のモノとは言えないわけです。

そう言うモノの中の一つが「ポジティブというルール」なんだと思います。

とにかく、この「ポジティブ信仰」から抜け出さないと、活力のあるモノは何も生み出されなくなってしまいます。
「ポジティブ」というのは「肯定」ですから、「否定」だけでなく「批判」とか「反省」とか「改善」などと言う「モノを生み出す作業」に不可欠のものをすべて排除してしまいます。

本来の「ポジティブ」は、そんなものでもないんでしょうが、現在の「宗教化したポジティブ」においては、、そういうことが起きてしまうわけです。
「絶対的なルール」になってしまっていますから、いかなる場合にもそれに従わなければならないような空気があって、従わない人間は排除されてしまうわけですね。
自分であっても、他人であっても排除されます。

たとえば、このところパワハラ関連の問題が多く成っていますが、「パワハラ系」の人達はいっさい「反省」ということを知りません。
あれは、『そういう傲慢な人がパワハラを起こすんだ』と言ってしまえば、それまでですが、実は「ポジティブ信仰」と関係があると思うわけです。

「反省しない人」というのは「ポジティブな人」でもあって、その「ポジティブ」を自分のためにだけ使うことが出来る人が「反省しない人」であるわけです。
要するに、この「ポジティブ信仰に洗脳された社会」では、彼らが必ず出世するんですね。

どんなに「オカシイ人」でも出世します。
どんなに「嫌なヤツ」でも出世します。
かなりな所まで「無能」でも出世するんです。

なぜなら、彼らが「ポジティブ」だからです。

そして、彼等こそ「強力にポジティブ」な人なのです。
だから、必ず出世するわけです。
それが「ルール」ですから、逆らえません。

「パワハラ」のような「横暴」を「ポジティブ」ではなく「ネガティブ」だと思う人も居るかもしれませんが、彼らが「ネガティブ」なのは他人に対してだけで、あくまで自分に対しては「強力にポジティブ」なのです。

と言うよりも、むしろ、彼らの他人に対するときの「ネガティブ」は、彼らの自分に対する「強力なポジティブ」から発生していると考えるべきで、元に成っているのは、その「強力なポジティブ」だというべきでしょうね。
要するに、あまりにも「強力にポジティブ」であるがゆえに、他人を排除せずにいられなくなってしまうわけですね。
そして、彼らが出世した理由も、その「強力なポジティブ」だということです。

さらに言えば、単に強力なだけでなく、「オカシイくらいにポジティブ」な人と「マトモにポジティブ」な人が居た場合、「オカシイくらいにポジティブ」な方が有利になってしまうわけですね。
それが「カルト」と言うモノですから。

それから、『はじめはマトモだった人が権力を得て横暴に変わったんだ』というのも違いますね。
断言してもいいですが、彼らのような人は、はじめから横暴です。
権力が弱いうちは、そういう本性をすこし隠しているだけで本質的には初めから横暴です。
なぜならば、「ポジティブ」は、彼らにとってごく幼い時期までに刷り込まれた性質だからです。
だからこそ、彼らは「強力にポジティブ」になれたわけです。
そして、その「強力なポジティブ」が、権力や地位を与えられた途端に、一気に「横暴さ」となって本性をあらわすことになるわけです。
つまり、一方的な「ポジティブ」が刷り込まれた時点で、彼らは、もう「マトモ」とは言えないということです。

どんなものでもそうですけど、一方の方向にだけ偏ったものがいい結果を導き出すことはほとんどありません。
「ポジティブ=肯定」があれば、かならず「ネガティブ=否定」も必要に成ります。
そういうもんでしょ?違うんでしょうか?

これは「反省しない人」の例ですが、それと同じように「批判」や「改善」というような「現状否定的な要素」を持ったものが、全部排除されるように成ってきています。
しかし、「現状肯定」だけでは活力のあるモノは絶対に生み出されません。
そこには「試行錯誤」という段階が入る余地はありませんから、「進歩」というものは無く成ってしまうわけです。

絶対に「進歩」しなければいけないとは思いませんが、「変化」しないモノに活力が生まれることはあり得ません。
「肯定」だけが独走した場合「変化」は生まれなく成ります。
そこに残るのは「漫然とした現状維持」だけだと思いますよ。

「ポジティブ」が悪いんじゃなくて「ネガティブが排除されてしまう状態」が異常なんですよね。

それから、「パワハラおじさん」や「パワハラおばさん」達のことは手厳しく批判している人でも、その人自身が「ポジティブ信仰」に洗脳されているとしたら、結果的には「ポジティブなパワハラ」を推進してしまっていることに成ります。
要するに、反対側の観点を持たないモノは必ず「横暴」に成るって言うことだと思いますよ。

以上のことから、社会が「ポジティブ信仰」から一刻も早く抜け出してほしいもんだなと。

そんな風に思っておりますです。



「ネガティブ試験」



「試験」というのは、「出来ること」を調べるためのものということに成っているわけですが、そこのところを逆に考えて、「出来ないこと」を調べるための「試験」という考え方があってもいいんじゃないかと思っているわけです。

 ※と言っても、「出来ること」は調べやすいんですけど、「出来ないこと」
  ってなかなか調べられないんですねぇ。
  要するに、「わざと出来ないフリをすること」が出来てしまうわけです。
  「出来ない人」が「出来るフリ」がをすることは出来ませんが、「出来る
  人」は「出来ないフリ」をすることが出来てしまうので、調べられないわ
  けですねぇ。

  だから、この話は考え方としてこう言うモノがあってもいいんじゃないか
  というような話に成ります。

学校の試験でも、国家試験なんかでも、とにかく「試験」と名の付くモノは、すべて『その人は何が出来るのか?』を試験することに成っているわけですが、実を言うと、ここには致命的な欠陥があって、その人が『出来る』からと言って、その人が『やる』とは限らないということが、完全に見落とされているわけです。


つまり、『出来る』ということは『でき得る』ということであって、『必ずやる』とは限らないわけです。
その人は「やろうとした時」には『出来る』でしょうが、やろうとしなければやりません。
そして、その人が『やろうとする人であるのか?』ということも、『いつやろうとする人なのか?』ということも、まったく「試験」されていないわけです。
だから、優秀な成績で「試験」をパスした人が、必ずしも優秀な人材とも言えない場合がけっこうあったりするわけですね。

反面、「出来ないこと」が「試験」できたとしたら、たとえば、『人を裏切ることが出来ない』とか『不誠実なことが出来ない』とか『嘘をつくことが出来ない』というような、いろいろな「出来ないこと」が「試験」で調べられたとしたらですね、そういう「試験」をパスした人は、常にその「試験結果」を繁栄した行動をとるはずです。
だって、その人には、そういうふうにしか『出来ない』わけですからね。

もちろん、「出来ないこと」を「試験」で確認するのは、かなり難しいと思いますが、「論文形式の試験」など、それなりに方法はあると思います。
いずれにしても、この「出来ない試験」=「ネガティブ試験」という考え方自体が大切なんじゃないかと思うわけですね。
少なくとも、「出来る試験」と「出来ない試験」の両方向からの試験を行うことで、改善することはあるんじゃないかと思います。

また、『出来ない』ということに「価値」を見出していくという方向性にも、『出来る』ばかりを追っている「現代の行き詰まり」を脱する手掛かりがあるんじゃないかと思うわけです。

そんなことからも、「ポジティブ試験」と「ネガティブ試験」をセットにした考え方があってもいいんじゃないかと思っているんですねぇ。


現在の「ポジティブ試験」では、「人間性」のような「曖昧な能力」を調べることは出来ません。
しかし、そういうことは間違いなく重要なことであって、「まったく無試験」の現状には、かなり問題があると思います。
おそらく、ただ単に『試験するのが難しいから』という理由で、これまでずっと「ネガティブ試験」は行われてこなかったわけですが、『難しいからやらない』という発想がよくないと思うわけですね。

しかも、「ポジティブ試験」の方だけは、必要以上に重視されていて、「出来る試験」をパスした人が『やる』とは限らないことは、もうわかっているのに、それを続けてしまっています。
そして、社会全体が「試験」に依存してしまっていますから、「試験」で選ばれた人や「資格」を持っている人が無条件で優遇されていたり、無審査で信頼されてしまったりするわけです。
(特に、「信頼性」については何ひとつ審査されていないのに!)

こういう状況が、現在の社会には向いていないんじゃないかと思うわけです。
つまり、現在は「能力の時代」から「人間性の時代」への移行期なんだと思います。

そして、その為に必要に成ってくるのが「ネガティブ試験」という考え方だと思うわけですねぇ。

これは、必ずしも「誠実さ」とか「良心」とかというような、いわゆる「イイモノ」だけに限ったことではなくて、たとえば「二つのことを同時に出来ない人」とか「要領の悪い人」とか「空気を読めない人」のような、今の世の中ではどちらかと言えば「ダメな人」に入れられているような人たちについても言えることで、「二つのことを同時に出来ない人」が「一つのことを確実にやる人」である確率は高いでしょうし、「要領の悪い人」が「真面目な人」である確率もかなり高いでしょうし、「空気を読めない人」が「不正を暴露すること」なども、ときにはあるかもしれません。
(少なくとも「空気を読める人」は絶対にそう言うことはしませんよね)

つまり、『出来ない』=「無能」ではないということです。
『ナニカが出来ない』ということは、『他のナニカが出来る』可能性を示唆している場合があるわけですね。

その点で、人間の場合は「知能が発達した動物」ということに成っていますから、少なくとも「知的な能力」については、どちらかというと「能力」が余っているわけです。
さらに、現在は「教育」も普及していますから、「必要低限の知識」はほとんどの人が持っています。
でも、ほとんどの重要な「試験」は「知的な試験」ですから、「出来る試験」にはそれほど大きな意味が無くなってきているわけです。
要するに、「必要な能力」ぐらいのものは、だいたいの人が既に持っているわけです。
だから、「試験」で「チョットだけいい成績をとる人」を選抜してもあまり意味が無いということですね。

しかも、前述のように、「ポジティブ試験」には致命的な欠陥がありますから、「出来ること」が全く役に立たない可能性もあるわけです。

その点「出来ない人」は、「出来ないこと」を、いつも必ず出来ないわけですねぇ。
そういう意味で、確実です。

まぁ、そんなことから「逆転の発想」ということで、「ネガティブ試験」という考え方もあっていいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「自己肯定」と「自己正当化」のチガイ



私は、現在の人間の行為の中で、最もタチの悪い行為が「自己正当化」なんじゃないかと思っているわけです。

『悪いことをしてしまう』
または、『怠惰な状態に陥ってしまう』
または、『嫉妬心や競争心にかられてしまう』
または、『利己的に成って横暴な振る舞いをしてしまう』

ここまでなら、まぁ仕方ないと思えます。
まぁ、どれも似たようなものだし、人間にはこれらのことを完全に排除することは不可能だと思いますから。
(自分もやるし)

でも、これらの自分の行いを「正当化」する段階に成ると、ちょとマズイような気がするわけですねぇ。
しかし、ほとんどの人が、これをやってしまうわけです。
まぁ、だいたいの場合は、ただ単に意地になってしまうだけなんでしょうね。
(自分もやるし)

人間が、悪いことや間違ったことをした場合、たいてい自分でも、それがよくないのはわかっているわけですが(というか、「自分が悪いと思っていることをすること」こそが悪いことなんだと思いますので)、でも、なかなか、それを認められないわけですねぇ。
とくに他人から指摘されたりすると。
(自分もそうだし)

と、ここまでが、ギリギリなような気がするわけです。
(いったいナニの?)

でも、その悪いことをしたということを認められない自分をさらに正当化して、それがあたかも「イイこと」であるかのように装ってしまうと、そこからは、もう、その人の人生の中に、なに一つ「本当のイイこと」は無くなってしまうと思うわけです。

こういうのを「生き地獄」と言うような気がします。

つまり、「自分が悪いと思っていることをしてしまうこと」こそが「悪いこと」なんだとすれば、その「悪いこと」を「イイこと」であるとしてしまうということは、「イイこと」をするには「自分自身が悪いと思っていること」をやらなければならなく成るわけです。

ということは、常に、自分が「悪いことだと思っていること」をやりつづけなければならなくなるということです。
そして、常に、その「自分が悪いことだと思っていること」を「イイこと」であると言い張り続けて、「自分がイイことだと思っていること」を「悪いこと」だと言い続けなければならなくなってしまうわけなのです。

そして、とうとう、最後には、その「イイこと」をしている人たちを非難するように成り、攻撃するように成っていくというわけですね。
つまり、非常に激しく攻撃している相手が、「自分が、イイことだと思っていることをしている人」であるという、非常に矛盾していて、無理がある状態に陥ってしまって、しかも、自分で自分の首を絞めるようなことに成ってしまうわけですねぇ。
(こういうのが、すべての「~ハラスメント」が起きる心理なんじゃないかと思います)

まさに、「生き地獄」です。
なんとなく、止めといた方がいいように思いますね。こういうの。
(なんとなくじゃないか?) 

ところが、こんなにも無理がある「自己正当化」が無くなりません。
そこに「自己肯定」と言うキーワードが関係していると思うわけです。

「自己肯定」は、言い換えれば「ポジティブ」ですし、「前向き」でもありますから、、「ポジティブ全盛」の今の世の中においては、ほぼ全面的に支持されているわけで、その「ポジティブ」や「前向き」を否定しようもんなら、まぁ「袋叩き」ですね。

そんな状態ですから、今の世の中では「自己肯定的」なものは、ほとんど否定されることがありません。
ところが、その「自己肯定」と「自己正当化」が、あまり区別されていなかったりするわけですねぇ。
ということは、そういう「自己肯定」と「自己正当化」が区別されていない状況では、「自己正当化」も、また、ほとんど否定されることがないということです。

そして現在、あまりにも「ポジティブ」や「前向き」が全面的に支持されていて、その反対に「ネガティブ」や「批判」などのような現状否定の要素を含んだものは、極端に排除されてしまっているために、「肯定」と「否定」のバランスが明らかに崩れていて、その結果、「自己正当化」までもが、ほとんど否定されなくなってしまっているように思うわけです。

でも、残念ながら、「自己肯定」と「自己正当化」を客観的に区別することができないわけです。

「自己肯定」は、自分自身や自分の行動を肯定的に考えることだと思いますが、それはあくまで「肯定的」ということであって、何もかも肯定するということでもないような気がします。
まして、「自分の悪い行い」まで肯定することを指して「自己肯定」と言っているわけではないと思いますので、そこのところが「自己正当化」とのチガイなわけです。

ところが、その「悪い」と「悪くない」の間に、なかなか線が引きにくいわけです。
それで、けっきょく、「自分が悪いと思っていることをやってしまうこと」が「悪い行い」なんじゃないか?ということにするくらいしか規準がないわけですが、それはあくまで本人が悪いと思っていることを規準にするということですから、他人が客観的に判断するということができなくなってしまうわけなのです。

 ※客観的な基準としては「法律」がありますが、「法律」を基準にすると
  いうことは、「犯罪ではない悪」は、すべて「OK」ということになってしま
  います。
  「法律を基準にした悪」は「公的な意味での悪」ですね。
  つまり、公に向かって『これは悪である』と言っても許されるのは「法律
  を基準にした悪」すなわち「犯罪」だけであるということに過ぎません。
  
  その考え方だと、「法の網を潜り抜けた悪」が漏れてしまうので、ここで
  の話には適していないと思いました。
 
まぁ、要するに、本人にしか判断ができないということになるわけですね。
でも、その本人が「自己正当化」しているわけですから、そんなこと認めるわけがありません。

こういう構造で、いろいろな「ハラスメント」などの「傍若無人」が起きているんだと思います。

やはり、もう少し「批判的な視点」を見直して復活させないと、いつまでたっても同じ様なことが繰り返されて、いつまでたっても「傍若無人」で「矛盾だらけ」で「どう考えてもオカシイ」という社会から抜け出せずに、誰一人トクをしない世の中が続いて行ってしまうと思いますね。

 ※こう言う「時代」についての話で、必ず『そういうのはいつの時代
  にもあったことなんだよ。キミィ』という人がいらっしゃいますが、そ
  ういう人は「ナチスの時代」にも同じことを言うんだと思いますよ。
  (自分がユダヤ人でさえなければ)
  そういう人がたくさん居たからこそ、そういう時代が成り立っていた
  わけですから。

もちろん、「自己肯定」が悪いとは言いませんし、「否定的」なばかりでも、問題はあるんでしょうが、とりあえず、今に限って言うならば、間違いなく、足りないのは「ネガティブ」だと思うんですが、どんなもんなんでしょうか?


わたくしは、そんな風に思いますね。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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