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絵画作品の額装について(日本人として思うこと)

現代アート作品の展示を見ると、平面作品で額装していないものが、かなり多いようですけれど、

そういう展示を見ていつも思うのは、この「無額」には本当に意味があるのかな?ということなのです。


現代アートの流れを考えれば「無額」はごく自然なことだと思うのですが、

それだけに、当たり前でちょっとつまらないなと思ってしまうわけですね。


作品の中で暴れているものであればあるほど、

その「無額」がシラケて見えてしまうのです。

また逆に、物静かでクールな作品だと、今度は作品の側面(厚み)が気になって来たりします。

おしゃれな服を着ているのに、洋服にタグが付いたままだったりするような感じでしょうか。


でも、実は私も額装に非常に抵抗があるのです。

だから、とても考えたわけです。

そして、私が行きついたのは日本の「茶室」なんですね。
(絵を茶室に飾ろうということじゃありません)


私は、「茶室」とは世界に類を見ないほど、意匠を幾重にも凝らした「額」だと思うのです。

「茶室」には、庭があり、庵があり、くぐり戸があり、ふすまや障子があり、

そしてようやく「茶室」があり、その中にもさらに床の間があり、

その床の間の中にさらに掛け軸がかけられ、その手前に花が活けられたりもします。

障子を開ければそこには、また庭が見え、その風景画を欄間が縁取るという、

迷宮のような多重構造の「額」なんじゃないのかなと思うのです。


これに比肩するほどの西洋文化は、なかなかないのではないかなと。


「茶室」における、庭・くぐり戸・ふすま・障子・床の間・掛け軸・生け花・欄間・茶道具

そして主人・客人と彼らの衣装など挙げればきりがないほどに、折り重ねられた要素は、

どれもが、見方によって主役=「絵」ともとれるし、脇役=「額」ともとることができるような気がするのです。


これと比べるとどうしても、前述の「無額」はチャチだなと。

日本人が、この西洋美術の流れの中で、ごく当たり前のこととして出てきたような、

そして、そこからほとんど進歩もしていないような、

短絡的な発想である「無額」を採用する必要はあるのかなと。


ゴッツイ「額装」でもって、偉そうにしたくないというのは、

とてもうれしい発想かと思うのですが、だからと言って「無額」はどうかなと。

そんな「チャチな発想」から抜け出すのに一番近いところにいるのが

日本人かもしれないのに、残念だなと。

私はそんな風に思ってしまうのです。




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「絵」と「額」で迷宮のような世界を表現したいのです

このブログの中でも何度か書いているのですが、

私は、いま「額」の制作にハマていてどちらかと言えば

「絵」を描いている時間よりも、「額」を作っている時間のほうが長いくらいなのです。


なぜそんなことをしているかと言えば、どうしても「絵」と「額」の相乗効果を生み出すことによって

「迷宮」のような世界を表現したいと考えているからなわけなのです。


これは言葉で表すのは難しいのですが、

平面としての「絵」の世界と、立体としての「額」の世界を一体化させつつ、

その一方で結界(境界線)としての「額」の性質を生かしていくことで、

全体としては立体でありながらも、あくまで平面としての絵画でもあり、

しっかりと区切られた「絵画空間」も存在するというような、

自分が想像できる限りでの理想を具現化したいという、

欲張った発想からやっていることなわけなのです。


当然なかなか上手くできませんが、慣れない「額づくり」なんかを

やたらと時間をかけてやっているのはそんな風なことなわけです。


本音で言えば、「額」は専門の人に作ってもらいたいくらいなのですが、

今作っているようなものを細かく注文を出して特注で作ってもらったら

いくらかかるのか、貧乏人の私は怖くて聞く気にもなれないので

仕方なく自分で作っているわけです。


まぁ、言葉ではあまり伝わらないのでしょうが、

なんとなく、意気込みだけは伝わりましたでしょうか?

そんなところで、やっておりますです。



「絵」と「額」で迷宮のような世界を表現したいのです(続き)

前の記事の続きになります。


迷宮と書いてしまいましたけれど、そんなに特別なことをしようと言うわけでもないのです。

むしろ、これまで「額」というものが、あまりにも決まりきった形であったのではないのかなと、

そういう気持ちから始めたことなわけで、ただ、そこで「じゃあ、額に入れなければいいじゃないか」

と思いたくなかったということなわけです。


ですから、今までなかったものが作りたいと言うよりも「なんで今までなかったの?」

と言うような気持ちの方が強いわけです。

私が知らないだけかもしれませんが、「絵」の形に合わせて

円形やハ角形などのかたちにしている「額」は見たことがあるのですが、

「額」と「絵」を一体化させたようなものと言うのは見たことがないのです。

少なくとも、広く知られているものでは、無いように思います。


私の知る範囲では、上記のような「絵」の外形自体が四角形でないために

それに合わせて「額」の形も四角でなくなったというだけのものや、

ふつうの「額」に凝った彫刻などの意匠を施したというものなど、

縁取りとしての機能の中に、納まってしまっているものしかなかったように思うのです。


これらは、あくまで縁取りであって境界線としての機能しか持っていないので、

凝った形にしたということに、さほどの意味を感じません。


つまり、「額」は「額」のままでは「絵」と一体化することがないわけです。


また、絵ではなく立体造形物に着色したようなものは、在るでしょうが、

そちらは逆に、「額」の持っている境界線としての機能がはじめから無いので、

立体であることの方が、圧倒的に力が強くなってしまいますから、

そこには、「絵」=「平面」としての性質を感じられないわけなのです。


つまり、色が付いた立体造形ということで、やはり「絵」と「立体造形」が一体化しているとは思えないのです。


私個人の中での話になりますが、「額」はあくまで「額」であって欲しいし、

「絵」はどこまでも「絵」であってほしいのです。

つまり、立体としての造形的な機能としてではなく、境界線としての「額」であってほしいし、

「絵」は、やはり独立して区切られた平面の中にあってほしいわけなのです。

それでいて、さらに一体化したものであってほしいと思うようになったということなわけです。


私の場合、今あるような「額」には、もともと抵抗がありましたし、

かと言って、「無額」についても、「それでいい」とは思えないので

そこのところを何とかしたいと、考えるようになった結果なのだと思います。


さらに言ってしまえば、100年も前に、すでにこういうことが行われていてよかったんじゃないのかなと。

そして、さらにその次に、そのまた次に、ということを、やってきているいるはずだったんじゃないのかなと。


まぁ、過去の時代をやり直してもらうことはできないので、今できることしかできないのですけれど、

なんとなくですが、100年も前にすでに終わっていることをやっているような

そういうもどかしさも、少し感じてしまうわけなのです。



「物語り」を排除したいのです

芸術作品に「物語り」は付き物であるという人も多いかと思うわけですけれど、

私としましては、できればこの「物語り」を入れたくないと思ってしまうわけなのです。


理由は、よくわかりませんが、絵画に「物語り性」は使いたくないと思ってしまうのです。

なんとなくですが、「絵」を説明してしまうように感じてしまうのかもしれません。

自分の「絵」に限ってのことで、人の作品では「物語り性」があるから嫌いということは全然ありません。


でも、これがどうしても入ってくるわけです。

そして、さらに厄介なことに、はまり込んで描いている時には全然気が付かないのに、

いつのまにか「物語り」ができていることがあって、

それがどうしても嫌だなと思いだしてしまうと、なんとかして打ち消したくなるということなのです。

それまで、はまり込んで描いていますから、どうしても一時的に方向性を見失うわけです。


そんなつまらないことを気にしないで、「物語り」使えばいいじゃないかとも思うのですが、

私の中に、「物語り」がなくても人の心を動かせるようなものを創りたいという気持ちがあるのだと思います。


要するに、世の中の何かに寄って行かないような、

中立なのに毅然としたものが欲しいと思っているわけなのです。

「物語り」が入ってくると、どうしても何かに近づいて行く感じがしてしまうので、

それが嫌なのかなと思っったりもします。


そんな頼りない感覚で「絵」を描いていますから、いつも不安な気持ちで描いていますけれど

いつか「物語り性」のある「絵」を描けるようになったら、気持ちがいいのかもしれません。

私は、まだその自信がないのかもしれないと思ったりもしています。

自分の「物語り」を人に見せるのには自信が必要なのかなと。

取り敢えず、そんな風に、思うことにしておきます。


「反対側の視点」を持つこと

芸術の創作に関して、何か一つの考えが頭の中にあるとき、

その考えに捕らわれて「反対側の視点」が抜けてしまうことがあるわけです。

その時、その考えが大事なのであれば、「反対側の視点」なんて要らないのかもしれませんけれど、

私は、「反対側の視点」を抜きに考え続けることはできないので、

初めから「反対側の視点」を持つように心がけているわけなのです。


「反対側の視点」が抜けたまま考えたことが、

その時は、とてもいいと思っていたのに、

何かのきっかけで「反対側の視点」を持ってしまったとたんに、

色褪せて、つまらないものにみえてくるということがよくあるので、

なるべく、そういう風にしようと思っているということなのです。


これは何も創作に限ったことではなくて、

他のことにも言えると思うのですけれど、

「反対側の視点」が入り込んできた途端に色褪せてしまうものと言うのは、

どうやら、はじめからそんなに〝すばらしい"ものでもないような気がするのです。


ところが、実はほとんどの考えというのは、

この「反対側の視点」から見た場合〝大したことない"気がしてくるわけで、

「それじゃあ、何も考えられなくなってしまうじゃないか!?」という気もするのですけれど、

反対側からみて〝つまらないな"と思ってしまうと、

ほとんどの興味が失われてしまうので、

「それなら、何も考えない方がマシなんじゃないの?」と思えてくるのです。


そんな中で、時として反対側から見ても、どこから見ても、

「いいんじゃないの!」と思えるものがあれば、それこそ本物かなと思うわけです。


まぁ、それもどこかでは自分だけの勝手な思い込みなわけですけれど、

芸術や創作に関しては、最後の所では自分が納得できていることは大事なんだと思うわけですね。


例えば、音楽などでも、

聞いた瞬間に「おぉっ!」と言いうような曲でも、

繰り返し聞いていると、なんとなく「はぁー・・・」というような感じの曲もあるし、

何度聞いても、不思議なくらいに、毎回「おぉっ!」となるような曲もあるわけで、

そりゃあ、やっぱり毎回「「おぁっ!」の方がいいわけですよね。


それから、続けて聴いていると「ふぅー」みたいなのもありますけれど、
(要するに、ちょっと疲れる曲ってあるんですね)

でも、これは、音楽では〝あり"だと、個人的には思うのですけれど、 

美術だと、これもちょっと〝ガッカリ"な感じなんですよね。


ですから、なるべくいろいろな視点でもって吟味して創作をしようと思っているわけです。

つまり、「はぁー」や「ふぅー」を「先回り」して排除して、「おぉっ!」にしようということですね。

でも、いつもうまくいくとは限りませんから、

そうすることで、〝角が取れた平凡な"作品ができてくることは

そんなに悪いことだとは思いません。


私個人の意見ですが、〝トガッタ"作品と言うのは

実は、偶然に生まれているように思うのです。

少なくとも、それは〝ネラッテ"〝トガラセル"ものではないんじゃないのかなと。


もう少し正確に言えば、芸術作品は、本来すべて〝トガッテ"いるはずなわけで、

〝平凡"などと言われたとしても、作者にしてみれば

一生懸命〝トギスマシタ"作品なわけですから、

それ以上、やろうとするとわざとらしくなるのかなと。


そして、現在においては「平凡を恐れないこと」こそ

〝トガッタ"ことなのではないのかなと。


そんな風に思うわけなのです。




全てのものは、何かと何かのあいだにある:二つの間の張力を高めること

この世の中の全てのものは、何かと何かの中間にあるのだと思うわけです。


両極の間と言ってもいいし、上と下の間と言ってもいいし、

良いと悪いの間と言っても言ってもいいわけですけれど、

どんなものでも、一つの性質に徹底することはできなくて、

それとは違う性質が混ざっていて、

そういう中で、それらの性質の中間のどこかにあると言ってよいのだと思うのです。


芸術で言えば、「具象」と「抽象」や「立体」と「平面」また「純粋性」と「娯楽性」など

あらゆる形での対比があると思いますけれど、

それらはどれ一つをとっても、一極に徹底することはできなくて、

必ず何かと何かの間にあるわけなのです。


「具象」と言って、どんなにリアリズムに徹したとしても、

それが、〝現実"のものではなく作品なのであれば、

そこには「非現実性」即ち「非具象性」があるわけで、

言い換えれば、そこで「抽象性」を排除できないわけなのです。

もしも、そこで完全に「抽象性」を排除しようとすれば、

「現実のもの」そのものに成るしかないわけですが、

それはもはや「作品」ではなくなってしまうわけで、

「具象」とも言えなくなってしまうわけなのです。


もちろん、その逆の意味で、「抽象」にも同じことが言えるわけです。

「抽象」を極めようとすれば、現実を現す要素を排除していかざるを得ないわけですが、

最終的に、何かを表現しようとする行為自体に含まれる「具象性」をも排除した段階で、

「表現」に当たるものが何もなくなってしまいますから、

やはりこれも「作品」としての体をなさなくなってしまうわけです。


結局どちらにしても、中間に留まるしかないということだと思うわけです。


一極に徹底するという試みが、まだ一通り行われていなかったときには、

その都度、その時の最先端にある手法や表現形態が、

「一方の極の最端部」であるように見えていたわけですが、

現在では、それらの極限化はすべてが「無」に帰納してしまうことが見えて来たのだと思うのです。


つまり、「形のある絵」しかなかったときに「形のない絵」を描くと

それは、その時「抽象」の極限に見えますけれど、

次に、画面を一色で塗りつぶした絵が出て来ると、

それは、「極限」ではなくなってしまうわけです。

そうして、「極限」を追っていくと、必ず最後には「無」に行き着いてしまうわけです。


そして、現在はそれらの試みが一通り試されて、

ようやく「極限を求めれば無になってしまう」という結論に到達したのだと思うのです。

ただ、この結論を「芸術」と言う分野が冷静に受け止めきれていないところがあると思われるわけです。

そしてその結果、その結論は放置されたまま、

あまり機能を果たしていないというのが現状ではないでしょうか?


実際には、現在追求すべきは、

もはや、「極限」でもなければ、「具象」でも「抽象」でもなく、

それらのどこであっても、常に全てのものが何かと何かの間にあるということを受け止めて、

それを、よく知ったうえで、それらの二極の間の張力を高めることなのではないのでしょうか?


つまり、一方に突き進むのではなく、

両方向に向かうテンションを高めて、

その間にあるということに内在する力を高めてゆくことが、

今できる範囲のことなのではないのかなと。


要するに、同じ中間にあるのでも、ただ漠然とそこにあるのではなく、

目いっぱい力を注ぎ込んだ状態で、二つの力を拮抗させて、

それでいて、どちらかに押し出されてしまわずに、

中間に留まるというようなところかなと。


「言うは易し、行うは難し」

でも、「やろうとすること」は誰でもできるわけなのです。

どうすればいいのかわからなくても「やろうとすること」はできるのです。

それについては、

「言うも易し、行うも易し」なわけです。


今日の所はそんな風に思うことにしておこう!



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全てのものは、何かと何かのあいだにある:圧力を高める

前の記事の続きです。

前の記事で、「張力を高める」と書いたのですけれど、

これは、どちらかと言うと「圧力を高める」の方がシックリと来るかなと思ったので追記いたします。


つまり、二つの極に向かって広がっていくと言うよりは、

むしろ、二つの中間の一点で、力を込めて圧縮するというような感じです。


「凝縮する」と言った方がいいかもしれません。

ただ、これはうまくいった場合ということでしょう。


いずれにしても、両方向に向かう性質を持ちつつも、

それらの要素を、その極に向かって引き離してしまうと、まとまりにくいので、

二つの要素を、中間のある一点で圧縮して、

一つのものとしてまとめるという感覚をもってやっております。


どうしても、要素を多く取り込んだ〝欲張った"やり方になりますから、

まとまりにくいわけですが、それを何とかしようということなわけです。


そこで、やはり「言うは易し、行うは難し」なわけですけれども、

なんとかやっていこうかなと。

そんな感じでやっております。




「画面をコントロールすること」と「偶発性に任せること」

絵を描くときに、技術によって画面をコントロールしようとするタイプの描き方と

ある程度(または全面的に)偶発的に

現れてくる効果を大事にしていこうというタイプの描き方があると思うわけです。


私の場合は、画面を常に把握していたいという気持ちはあるのですが、

それは、感性の部分だけで技術によってコントロールすることには、それほど興味が行きません。
(まったく興味が無いということでもないですけれど)

また、制作の過程が進んでいくと、だんだん偶発性に任せる部分の方が多くなっていくわけなのです。
(普通は逆なのかも知れませんけど)


絵が形になってくると、その路線でまとめようとする気持ちが出てきてしまうので、

その線を崩して、新たな局面を展開したくなるのだと思います。


そうやって新しい局面を加えて行った分だけ、絵に〝深さ"が出ると思っているわけです。


それから、技術で画面をコントロールできたときの「うれしさ」と

偶発的な効果が、自分の想像を超えて現れたときの「うれしさ」は、

質が違うのかもしれませんが、

私の場合、自力で達成した「うれしさ」よりも、

自分の力とはいい難い面もある、偶然の効果による「うれしさ」のほうが、

「うれしさ」が上回っていることが多いようです。


だから、どうしてもそちらに近よって行ってしまうのかも知れません。


技術的な満足感と言うのは、どうも「自己満足」のような気がしてくるのです。

反面、偶然現れた効果に直面すると、

自分の作品であることとは無関係に、

「うれしく」なってしまうわけなのです。


まぁ、「それも一種の自己満足だろ」と言われればそうなのでしょうが、

「自分でやった」感じが薄いので、あまり気にせずにいられるわけです。


私の中では、この偶発的な「うれしさ」の方が「感動」に近いような気がしています。

「感動」とは、何かに〝直面すること"なのかもしれないなと。


こういうことに、いまさら気が付くとは、今までは何を描こうとしていたのかと。


そんな風に感じています。




「直面すること」で感動します

前の記事の続きになります。

私の場合、技術的な絵よりも偶発的な効果が現れた絵の方に

「感動してしまう」ということを、前の記事で書いたわけですね。


その「感動」が、どこからどういう理由でやってくるのかはよくわかりませんけれど、

一つ言えることは、

「自分の実力で達成した」という感じが希薄なので、

自分の作品でも、どこか100%自分のものでないような、

つまり、客観的な視点で、見ることができるということかなと。


だから、今自分が描いている絵であるのにもかかわらず、

なにか「自然物」や「惹きつけられる景色」や「空気のようなもの」など、

いろいろな「直面するもの」や「出くわすもの」と同じような感覚で、

「直面」したり「出くわし」たりする感じがするわけです。

前は、それも含めて自分でやっていることにしようとしてしまっていたように思います。
(自分でやってはいるんですけどね)

そして、その「直面したもの」や「出くわしたもの」の中から、

自分が、より惹きつけられるものを選んで並べていくような感覚で絵を描いているわけです。


ですから、できた絵を見ていても、

「この絵の、ここがいいなぁ」とか、「この部分は、なんでこんなに良くなったんだろう」

などと、とても素直に言えるように思うわけなのです。


そして、それが自分では、まったくもって「自画自賛」という感覚がないわけですよね。

人から見れば、典型的な「自画自賛」であっても、

少なくとも、自分の中には、それがないということが、

私にしてみれば、とても驚くべきことなので、

とてもやりやすいという感じがするわけなのです。


そんなわけで、いま、「直面すること」で感動しております。

しばらくの間、「直面すること」で行きたいなと、


そういう感じに思っています。



「直面すること」と「予定調和ということ」

これも、さらに前の記事の続きです。

私は「直面すること」に感動している自分に、いまさらながらに気が付いたわけですが、

その「直面すること」とは、いったい何なのかと考えるわけです。


それは、おそらく「予期せぬ出会い」のような、

先入観や、予備知識や固定観念のような「お膳立て」に成るものがない状態で、

頭の中に、ダイレクトな感じで〝パンッ"と入って来たものとの出会いなのかなと。


技術を駆使した絵と言うのは、どうしても「お膳立て」の部分が多くなるので、

「直面すること」から遠く感じてしまうのかも知れません。


だからと言って、技術的な絵がダメだとか嫌いだというつもりはありません。

ただ、技術の中に垣間見える「直面すること」の部分に、より惹きつけられるということです。


それはともかくとして、

「直面すること」の対極にあるものとして

「予定調和」と言うのがあると思うわけです。


つまり、「お膳立て」の部分がほとんどで、

「予期せぬ」の部分が少ないものということです。


「お膳立て」と「予期せぬ」の比率が、

どれぐらいからが「直面すること」で、どれぐらいまでが「予定調和」なのかは、

それぞれの人の感覚によると思いますが、

どんなものにもこの両面があって、その比率が違うだけなんだと思います。


私は、美術館で絵を見た時などではなくて、

美術雑誌でも何でもない普通の雑誌に、たまたま出ていた絵とか、

街を歩いている時にたまたま目に入った広告の絵柄なんかに、

〝グッ"と惹きつけられることがよくあリます。


こういう人って、意外と居るんじゃないかなと思っているのですが、どうなんでしょう?


美術館に美術を見に行くというのは、

どうしても「予定調和」になってしまうと思うわけです。

好きな作家の作品を、「楽しみにして」見に行くわけですから、

完全に「お膳立て」ができているわけです。


時間が余ったから暇つぶしのつもりで入った美術展や映画などが

「それが、意外と良くってね」と言う話はよく聞くと思うのですが、

そういうのは、ただ単に「期待してなかったからハードルが低くなった」と言うだけではなくて、

「直面すること」に依って起きていることなのかもしれません。


ただし、それがただの「出会いがしら」であるのかどうかは、また、別の話だとも思いますが。

少なくとも、「直面すること」には何らかのインパクトがあるのかなと。


それから、人が何かをを好きになる「きっかけ」というのも、 

意外とこの「直面すること」に出くわしていることが多いのではないのかなと。


なんの気なしに見た何かに、いきなり魅了されてしまって、

それ以来それが大好きになった、ということも多いのかなと。

ただ、無意識の状態で〝パンッ"と入ってしまうので、

それが「直面すること」であることに気が付かないことが多いのかなと。


「直面すること」=「感動」ではないのだと思いますけれど、

「直面すること」が「感動」の一つの重要な要素だということはあるのかなと。


今のところ、そんな風に思っています。



「具象」と「抽象」の融合

「抽象」という概念はかなり昔からあったのでしょうが、

その概念が芸術上の理念として確立されて、明確な方向性を与えられるようになったのは、

20世紀に入ってからなのでしょう。


以来、それは常に「具象」と対立または対比するものとして、

考えられてきたと言えると思うのです。


でも、その対立や対比には意味がなくなってきていて、

この二つを圧縮して融合させることが求められて来ているように思うわけなのです。


これまでにも、多くの作家がこの二つの「極」を両立させることを試みてきたと思いますけれど、

それは常に、「二極」の「対立」や「対比」という形をとっていたように思うわけです。


でも実際には、この二つは初めから両立していたのだと思うわけです。

そもそも、この二つが両方揃っていなければ、芸術表現は成り立たないはずなわけで、

「完全な具象」も、「完全な抽象」も有り得ないと思うのです。


既に両立しているのに何が問題なのかと言えば、

それは、「二極」が融合・圧縮・凝縮されていないことだと考えるわけです。


「抽象」という概念が、はっきりと認識された20世紀初頭において、

それは、既成の芸術を打ち破るものとしての期待が大きかったためか、

あまりにも突出した理念構造を与えられてしまったという側面があるのだと思うわけです。


つまり、「二極」の片方が突出してしまったために、

もう片方も「極」をなす方向でしか存在できなくなり、

結果的に、「二極」の対立という構造ができてしまったのかなと。

そこで、両立を目指している場合であっても、

常に、この対立を軸にした考え方が付きまとってしまったのかなと。


今までは、この二つのどちらかに「極化」するか、二つを「対比」させるか、

二つの中間に位置をとって、「中庸化」するか、

これらのいずれかしかなかったように思います。


私は、ここで「二極」を圧縮することを考えているんですね。

この二つを、力を込めて圧縮して融合・凝縮しようということです。


この圧縮に必要になってくるのが、「額」なわけです。

「額」と言うよりは、「枠」と言った方がいいのかもしれません。


この「枠」と作品を折り重ねていくことで、「二極」を融合しようとしているわけなのです。

「額」や「枠」を「ツナギ」にして「二極」を圧縮して一体化させようということです。


まだ、納得のいくものができたとは言えないですし、

手探りな部分がほとんどすべてなので、遅々として進みませんから、

常に、「現状不満足」な状態です。

時々、「こんなんでいいのか?」と極端に不安にもなります。


でも、手ごたえはあると感じています。

何時かは、納得できるものができると確信しています。

何時かはわかりません。


と、こんな感じで御座います。



密度を高めること

いま、私は、「具象」と「抽象」や、「平面」と「立体」(「絵」と「額」)など、

いろいろな形での「二極」を融合するということを考えているわけですけれど、

そこで必要になってくるのが、「密度を高めること」なわけなのです。


「二極」を成しているものと言うのは両極にあるわけですから、かなり離れているわけです。

だから、それを融合しようとすれば、単なる中途半端になる可能性が高いわけですね。


でも、それを何とか防ぎたいんですよね。

そこで、「密度を高めること」に成るというわけです。


私は、「額(枠)」を〝つなぎ"役にして制作していますが、

性質の違うものを融合するには、〝つなぎ"も必要ですが、

濃度もあった方がいいと思うわけです。


ですから、とにかく密度を高めたいと思っているわけです。

要素を増やしたいということでしょうか。

要素を増やしては、密度の低いものを削る、

そこをまた違う要素で埋める、という作業の繰り返しと言ったところです。


そんな中で、どうしても削れないものだけを残していく、

と言うようなことをやっています。


取り敢えず、「何かをやっている感」はあります。

「実感」と言ってもいいかも知れません。

方向としては間違っていないように思います。


問題は、なんだかとっても時間がかかること。

なのです。





「白の中の白」と「黒の中の黒」

絵を描くときに、いつも「白の中の白」と「黒の中の黒」を意識しています。

白や黒は無彩色ですから、色ではないと言われたりしますけれど、

私といたしましては、白と黒も色として考えています。


そして、「白の中の白」と「黒の中の黒」というのが、必要になってくるわけです。


これは白と黒に限ったことでもなくて、

「青の中の青」や「赤の中の赤」なんかもあるわけですが、

私が、敢えて意識するのが「白の中の白」と「黒の中の黒」なのです。


「白」は発色のために下に置く色と言う感覚があるわけです。

でも、私の場合は、その「白」は「色」としての「白」ではなくて、

あくまで、「光」としての「白」と考えています。


下地に「白」を置くことで発色がよくなるのは入ってきた「光」を反射して

外に出す力が強いからで、それは「光」の作用なわけです。

要するに「鏡」のような働きと言えるでしょう。


勿論、全ての色はそうした反射や屈折で見えているわけですが、

少なくとも、「鏡」に特定の色は有りませんから、

それと同じ作用だとすれば、それを「色」としての作用と言うのにはチョット抵抗があるわけです。


そして、その作用とは違うところに「白の中の白」があるわけです。

要するに単純に「白い色」ということです。


この反対のことが「黒の中の黒」にもあります。

「白」の「光」を反射する作用に対して、

「黒」の作用は「光」を吸収することです。


そして、これも「色」としての「黒」ではないと思っています。


そして、そういう「光としての白」の中に置かれた「色としての白」を「白の中の白」、

「光としての黒」の中に置かれた「色としての黒」を「黒の中の黒」と呼んでいるわけです。


もともと、私はコントラストの強い絵を描こうとする傾向がありますから、

こういう微妙なところを忘れがちになるので、

敢えて、これらを意識しようと思っているということかもしれません。


「白の中の白」と「黒の中の黒」が最もコントラストの弱い配色だと思っています。


強いコントラストは「力強さ」に成りますが、それは「暴力的」にもなりますから、

こういうことをいつも意識しておこうと思うのです。


こういう意識を持ったうえで、「最も白い白」から「最も黒い黒」までの

コントラストを使えればそれが理想だと思っています。


と、まぁ、そんな風に描いて行きたいなと思っています。




「ブレ」

何かに焦点を絞っているつもりでも、

いつの間にか、そこのところが「ブレ」てしまうということが非常に多いわけです。


例えば、絵を描いている時なんかの、

「ついこの前まで、チャント見えてたんだけどなぁ・・・」と言う感じですか?

そんな時は、「ブレないでハッキリ見え続けていたら、もっと楽に描けるんだけどなぁ」

と思ったりもするわけです。


でも、そこで何とか持ちこたえようとするわけです。

「いや、これは違うぞ。この前まで見えていたのが本物だろ!」と言う感じですね。

ところが、何かが耳元でささやくわけです。

「いや、いや、これも悪くはないよ。もしかしたら、こっちの方がいいくらいなんじゃないかぁ?」と言う風に。

「そうだよね、これぜんぜん悪くなんかないよね。いや、いいよ、いい。」


これが「ブレ」だと思うわけです。


「ブレちゃーダメだ。ブレちゃー意味がない。」

そんな風に思うわけですが、

そんなことを繰り返しているうちに、

どれが「ブレ」でどれが「本物」なのかわからなくなって来て、

どうにも手を加えるところが無くなってしまうわけなのです。


それが、私にとっての、その絵の「完成」です。

後で冷静な目で見れば、たいてい「ブレ」てます。


でも、その何度も繰り返された「ブレ」には、何かの意味があって、

その意味が「私の表現」に成るのだと思っているわけです。


だから、「ブレ」ないようにしながら、たくさん「ブレ」て行こうかなと。

「そういうのなら、まあまあ得意なんじゃないのか?自分」

そんな風に思ったりするわけなのです。



「ボヤケタモノ」を鮮明に描く

「抽象絵画」は「具象表現」から抜け出すこと、

つまり、「形を崩すこと」や「形を使わないこと」に終始してきたんじゃないかと思うわけです。


でも、この考え方で絵を描こうとしていくと、どうしても方向性が見えなくなってきて、

最終的には行き場を失ってしまうんじゃないかと思ったわけなのです。

「ここに居て、いくら頑張ってもダメなんじゃないか?」って感じてしまったわけですね。


でも、「抽象表現」は捨ててはいけないものだと思いましたし、

実際、それを捨ててしまったら、どこにも行き場がないと思ったんですね。


そこで、「形のあるもの」の「形」を排除しようとしたり、

「形のないもの」を、そのまま「形のないもの」として描こうとするのはやめて、

反対に、「形のないもの」や、自分には「形が見え難いもの」、

言ってみれば、「ボヤケタモノ」を、

何とかより鮮明に描こうとするという考え方でやってみようと思っているわけです。


要するに、「物質的なもの」を「非物質的に描く」とか、

「非物質的なもの」を、そのまま「非物質的に描く」とかいうことをやめて、

「非物質的なもの」を「物質的に描く」ようにしようということですね。


そうすることで、描き始めの「入り口」のところでは苦労するんですが、

いつもナントナク「出口」が見えているという感じがあるんですね。

それで、少し「抽象表現」が”ラク”に成ったような気がしています。


自分だけが、勝手にそう思ってるだけなのかも知れませんけど、

実体感のないものを、そのまま絵に描こうというのは、

実は、はじめから不可能だったんじゃないかと思うんですよね。

それができれば理想なのかも知れませんけど、

人間にはできないことなんじゃないかと言う気がするんですね。


それで、『「非物質的なもの」に「物質的な実体感」を与えるように描く』

ということをやっているわけです。


もちろん、だからって”簡単”に成ったっていうわけでもないんですよ。

”気分的にラク”に成っただけなんですけどね。

でも、「出口」が見えていることで、「その先」があるんじゃないかなっていう気になれるんですよね。


今のところ、そういう考えでやっていこうかなと。

そんな風に思っているわけです。



いま「額」な理由と、いま「和」ではない理由

いま、私は「絵」とともに「額」を制作しようとしているわけなんですね。

と言っても、まだ納得のいくものは出来ていません。


しかも、木工作業に慣れていないこともあって、時間がかかってしまい、

去年は、「絵」を描く時間が極端に少なくなったので、

「絵」のほうでは、習作が三点、本作と言えるものは二点しか描けませんでした。


さらに言うと、そんなに時間をかけたにもかかわらず、

「額」のほうは、試作品が二点と、

途中まで作りかけてそのままになっているものが一点あるだけで、

仕上がったものは、まだありません。

「額」と「木枠」を作る前の段階で、そのための道具を作るのにかなりの時間を割いたことで、

そんなことに成ってしまいました。

しかも、今は「額」についての構想が、だいぶ変わってきてしまったので、

それらの「額」が本作にまで発展することはないでしょう。

つまり、何も出来ていないに等しい状態ですね。


「なんと言うテイタラク!」


ところで、なぜ、そんなにまでして、「額」を作るのか?ということなんですけど、

いま、「絵」には「額」が必要だと思ったわけなんですね。


現代美術の「平面作品」では、「額装」していないものが多いわけですが、

私は、それではダメなんじゃないか?と思ったわけです。

「額」はやっぱり必要なものだったんだと思うんですね。

平面を平面として区切るためにも、そのことをはっきりと示す意味でも、

「額」という境界線が必要だと思うんですね。


そして、それは「絵の世界」を、時間や空間などのしがらみのない、

つまり、「現実の世界」とは違う「芸術の世界」として、

そこに閉じ込めるための、「結界」としての作用も持っていると考えているわけです。


とは言っても、私自身も、もともとは「額装」に対して否定的な考え方を持っていました。

私の場合、「額」は「権威の象徴」だと思ったんですね。

でも、「無額」にも、いつもどこかモヤモヤした違和感を感じていたので、

「これでいいんだ!」とは思えないでいました。


そこである時、思い至ったのが「茶室」だったんですねぇ。

前に、【絵画作品の額装について(日本人として思うこと)】という記事に書いたので、

詳しくは、そちら(2014年3月31日の記事)をご覧いただきたいんですが、

私は、「茶室」というのは、世界に類を見ないほど「手の込んだ額」だと思うのです。


そこに思いが至って以来、私は「茶室」のような「小宇宙」を

「額」と「絵」によって創り出したいと思うようになったわけなのです。


そして、そう考えるようになってからは、

「額」抜きに「絵」を考えることはできなくなってしまったというわけです。


「だったら、茶室に飾るような絵を描けばいいじゃないか。」と言われるかもしれませんけど、

私は、油絵具が好きなんですね。

どのぐらい好きかというと、たぶん、油絵具がなければ絵は描きません。

そのくらいです。


でも、それよりも、もっと大きなな理由があります。

「茶の湯」のような純粋な日本文化というのは、もう完全に寸断されてしまって、

「現在に生きた文化」ではなくなってしまっていると思うのです。


つまり、現在の日本人にとって、「茶室」や「茶道」は、むしろ、異文化であって、

外国人にとってのそれらと何ら変わらない存在になってしまっているわけです。

それはもう、「生活に根差した文化」とは言えないと思うのです。
(まぁ、もともと「非日常的な文化」ではあるんでしょうけどね)


それについては異論もあると思いますが、

少なくとも、私自身にとって、「茶室」は、生まれた時からすでに異文化であって、

それは、私にとっては、ハナから取り返しのつかないことなのです。

ですから、私がそんな「茶室」に飾るべくして「絵」を描くということは、

その「絵」が、私にとっての「真実」ではなくなってしまうということなのです。


と、まぁ、こんな感じで「額」を作っているわけです。


それから、キャンバスの木枠も作っているので、とても時間が足りません。

木枠の方は、ずいぶん時間が短縮できるようになったので、
(こちらは正確でありさえすればいいので)

今年は、「額」の制作を棚上げにして、「絵」をまとめて描いています。


ということで、私の「小宇宙」は、いったいいつになったらできるのでしょうか?


やり続ければ、きっといつかできるのかなと。

一応、そういうことになっております。



「技術」に頼らず「技術」を使う

これは「芸術」に限ったことでもないんだと思いますけど、

どんな分野でも、「技術」と言うのは、とても「堅実」な感じがするわけです。

だから、どうしても、そこに頼りたくなるのです。


でも、それが「芸術」にとっては、どうも良くないんだと思うわけです。


たしかに、「技術」は努力すると、その分確実に身に付いてきますし、

人からも理解されやすいですから、使いたいものなわけですね。


でも、使っているうちにいつの間にか、そこに頼るようになってしまうのも事実なわけです。


そこに、頼らないようにするために、一切「技術」を使わないようにすることは出来ないにしても、

「技術」をある程度「メノカタキ」にして、出来るだけ遠ざけるということは、

そう難しいことでもないんだと思います。


20世紀以降の美術と言うのは、そうした「アンチ・技術」的なところに

基本的な足場を置いてきたように思いますが、

実際に必用だったのは、「技術を捨てること」ではなく、

「技術に頼らず、技術を使うこと」だったんじゃないかと思うのです。


このことに限らないですけど、

人間って、二つのことを同時に追求できないようにできているんだと思うわけですが、

それを、やろうとすることが必要だったんじゃないかと思うわけですね。


「技術」に頼っていると「安心感」があります。

「技術」を捨てようとすると「不安」に成ってきます。

でも、「技術」を完全に諦めてしまうと、また「安心」になれるんだと思います。


どっちかに寄ってしまうと”ラク”になれるんですね。


”ラク”な方がイイんですけどね。

でも、そこは「”ラク”しちゃいけない所」なんじゃないかと思うんですよね。


「技術」と「アンチ・技術」の間にしか、「芸術」は存在していないんだと思いますね。

だから、そこを”ラクして、どっちかに寄ってしまうと、

「芸術以外のナニカ」には近づけるかもしれませんが、

「芸術」からは遠くなってしまうんじゃないかと思うわけなんですね。


これは「技術」に限ったことではなくて、

あらゆることの「両極の間」にあるのが「芸術」なんだと思うんですよね。

「極める」と言うのは、決して「極端」であることではないと思うわけです。


「両極の間」での「試行錯誤」こそが、「芸術」なんだと思います。

「こうすれば、こうなる」と分かっているものは、「芸術」じゃないように思ってしまいますね。


そこで、なんとか「技術」も身に着けながら、それを使っても行きながら、それに頼ったりはせずに、

「技術」と「アンチ・技術」の間の「いちばん濃い一滴」を絞り出すこと。


「ムズカシイ!」


本当にムズカシイと思います。

でも、「それをやろうとする」だけでもイイんじゃないかと思っているわけです。

そう思うと、少し「安心」して”ラク”に成るんですね。

そして、そこは「”ラク”してイイ所」なんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけですね。




「複雑明快」

「単純明快」と言う言葉がありますけど、「複雑難解」と言う言葉はないですね。

「だから、どうした!」

「いえ、べつに。どうもしないですけど、なにか?」


と言う感じで、「単純明快」があるなら、「複雑難解」もあるだろうと。

それから、「単純難解」も「複雑明快」もあってもいいんじゃないのかなと。

そんな風に考えてみたわけです。


「単純」なものが、皆「明快」とは限らないですし、

「複雑」なものでも、中には「解りやすい」ものもあるわけで、

そう考えれば、「複雑明快」なものもあってもおかしくはないだろうということです。


「だから、どうした!!」

「いえ、べつに。どうもしないですけど、なにか?」


要するに、自分の制作において、「複雑明快」を目指しているということなんですね。


「単純明快」は「いいこと」のように成っていますけど、

「芸術作品」としては「どうなの?」っていうところもあるわけですね。


必ずしも悪いことではないと思いますけど、

やっぱり「複雑さ」もあったほうがいいかなっていう風に思うわけなんですね。

これは、ただ単に”好み”の問題だと思います。


要するに、自分が「複雑にすること」が好きなんですねぇ。

でも、だからと言って「難解」は嫌いなわけですよね。

だから「複雑明快」になってしまうんですねぇ。


「複雑」なものを「明快」に表わせたら”サイコー”だなって思ってしまうんですね。

他人のものだと、「単純明快」なものでも、”キマッタな”っていうのがありますけど、

私の場合は、メッタニないですね。

自分の性質にあってないんでしょうね。


時々、これで、もう”キマッテル”んじゃない?っていうときもあるにはありますけど、

どうしても、もう一人の自分が出てきて

「いや、まだだろう。そんなはずはないだろう。」と言うので、

「ですよね、じゃないかと思いましたよ。私も。」

となって、また「複雑」なものを求めていってしまうわけなのです。


でも、「難解」は嫌いですから、困ったもんですよね。


ちなみに、はじめに挙げた中で、”サイコー”が「複雑明快」ですが、

”サイテー”は「単純難解」ですね。


「だから、どうしたっていうんだぁー!!!」

「いえ、べつに、どうもしないですけど、なにかぁーー????」


あくまで、私的な見解ですけどね。

まぁ、そんな風に思っています。




「動く層」

油絵具の特徴は、なんといっても、

絵具を重ねていったときに出て来る複雑な色合いなんだと思っているわけです。


それで、その過程で、いろいろな「色の効果」が現れて来る瞬間が、

タマラナク好きなので、油絵具から離れられないと言うわけです。


そんな中で、絵具を溶く油(画用液)に工夫をしたり、

絵具を乗せる厚みを変えたりと言う作業工程が、発生してくるわけですね。


そういう工程のことを細かく言うのは

無意識でやっていることも多いので、とても無理なんですが、

そんな中で、最近、意識してやっているのが「動く層」を作ることです。


これは、今までも無意識には使っていたように思いますが、

今年に入ってからは、意識的に使うことが多くなりました。


私の場合、色を重ねる回数が多いので、

最後までの工程を最初から計画通りに進めるというのは

とても無理だと思って諦めています。


本当は、ある程度計画どうりに描き進めていきたいという気持ちもあるんですが、

2~3色ほど先の色までは決めている場合が多いですが、

その先となると、その時現れてきた色に合わせていかないと決められませんし、

一つの絵の中で何度か、大きく方向を変えることも多いので、

全く計画通りなんて有り得ないわけですね。


そんな中で、「動く層」を作ることだけはある程度、

「計画的」・「意図的」にやることがあります。


その「動く層」と私が呼んでいるのは、

ある程度、色が重ねられて来て、納得できるような色が出てきた画面の上に、

粘りのある画用液を上塗りして、乾かないうちに、

ほとんどなにも混ぜない(先に塗った画用液よりも、さらに粘度の高い状態の)絵具を乗せて、

さらに、その上から、また画用液を上掛けするというやり方で、

粘りのある画用液でサンドイッチ状に挟まれた濃い絵具の層が、

筆の動きに合わせて動くようにするというものです。

「揺らぐ」と言ったほうがいいのかも知れません。


画用液には、スタンド・オイルを多めに混ぜています。

色を混ぜる場合もありますし、色を混ぜない時もあります。

スタンド・オイルの割合によって「層の動き方」が違ってきます。

それから、真ん中に挟んだ絵具の「ネリ」の固さでも動き方が違いますし、

最初に塗る画用液と最後に塗る画用液の粘り気の差でも動き方が違ってきます。

最後の工程では、最初だけ画用液を含ませて

その後はほとんど何もつけない筆で層を動かす場合もあります。


暗い画面の上で、この描き方をすると、

時として水墨画のような濃淡のある画面が出来て来ることがあります。

ただ、いまのところこれを完全にはコントロールできていませんからうまくいかない時もあります。

上手くいかなかったときは、せっかく作った画面がほとんど台無しになってしまいますから、

あまり要領のいいやり方とは言えないかも知れませんね。


それから、ベネチア・テレピンを使おうとしたことがありましたが、

粘りが強すぎて、適度な粘り気にするのがムズカシイのでやめました。

また、ボイルド・ポピー・オイルを使ったときは粘り気が弱くてうまくいきませんでした。

それに、乾きが遅くて困ったので、これもやめてしまいました。
(これは、しばらくその絵に手が付けられなく成りそうな時に使っています。)

おそらく、ボイルド・リンシードならばスタンド・オイルと同じように使えるんじゃないかと思います。
(今度やってみるつもりですが、まだ試してはいません)

  ※追記:「ボイルド・リンシード」を使ってみたところ、「スタンド・オイル」のようにはいきませんでした。
    やはり、粘度が足りない感じですね。
    普通のリンシードオイルとそれほど違わないのかも知れません。
    でも、粘り具合を調整できるという利点はあるような気がしています。
    まだ、試行錯誤の段階ですが、「スタンド;オイル」との併用で使って行きたいと思っています。


この「動く層」の効果と言うのは、

要するに「ブレた写真」のような感じですね。


シャッター・スピードを調節して”ブレ”させたり、

ただ単に、失敗して「手ブレ」を起こしたりして、

”ブレ”た写真がオモシロイということはよくあると思いますけど、

そういうのと同じような効果だと思います。
(私は写真を撮らないのでよくわかりませんけど)


たぶん、「具象画」でも使えると思います。
(「一か八か」に成りますけどね)


真ん中の層に挟む絵具は、白を中心に混色した絵具が最も効果的です。

他の色でも「動く層」を作ることは出来るんですけど、

普通にぼかしたのと区別がつきにくい感じになる場合が多いです。

特に暗めの画面上で透明度の高い絵具を使うと、ほとんど効果が無く成ってしまうかもしれません。
(それはそれで、微妙な面白さが出るかもしれませんけど)

白の中では、シルバー・ホワイトが粘り具合が丁度よい感じでやり易いです。
(メーカーによってだいぶ差がありますけどね)


それから、絵具の「ネリ」が柔らかい時には、体質顔料を混ぜるとある程度カバーできますが、

滑らかになるまで練らないとうまくいきません。

また、紙に絵具の油分を吸わせるというやり方がありますけど、

絵具の固さの調節がむずかしくなるので、私は、この手法には使っていません。

どちらかと言うと、もともと「ネリ」の固いメーカーの絵具を使うのがいいと思います。


あと、しばらくしてから絵具がダレて来ることがあるので、

出来れば水平にして一日ぐらいは置いたほうがいいです。


この技法は、工夫次第で、もっといろんな効果が得られるんじゃないかと思っていますから、

これからも試していこうと思っています。

と言っても、あんまりやりすぎるのもどうかと思うので、

その辺は、「そこそこ」に、とも思います。


それでも、こういった抽象画を描くことから出てきた技法というのも、

もう少しくらいは、技法として確立されて行ってもいいんじゃないかとも思います。


こういう技法っていうのは、一つのものがあって、

さらに、その上に積み重ねられていくものだと思いますから、

下敷きになるようなものがあってもいいんじゃないかと思ったりもしますね。


まぁ、私みたいな者が言っても始まりませんけどね。

とりあえず、そんな風に思っています。




「描くという姿勢」と「描かないという姿勢」

「抽象絵画」を描こうとすると、「描かない」と言う姿勢が必要になると思うわけです。

でも、私は「描くという姿勢」も捨てないほうがいいんじゃないかと思っているので、

この二つのバランスを意識するようにしています。


「描くこと」に執着すると、どうしても上手く描こうとしますから、

往々にして、ツマラナイものしか出来てきませんね。

これは、現実のモノと言う「拠り所」を持たない「抽象表現」に置いては、

より一層はっきりと出て来てしまうことが多いと思います。


それで、当然のように「描かないこと」に行くわけですね。

ところが、この「描かないこと」の方も、やっぱり執着してしまうとダメなんですね。


「どうでもよくなってしまう」って言うんですか?

自分でも気が付かないうちに「ナンデモアリ」に成ってしまうんですね。

どうしても、考え方が投げやりになって来て「ヤリッパナシ」に成りがちなんですね。


どんなことも、やっぱりバランスが大事なのかなと思うわけですが、

「描かないで、描く」と言うのは、人間にはできないことなので、

それを使い分けていかないとならないということに成るんでしょうね。


要するに、その辺でウロウロと行ったり来たりしているというわけですね。

「おいおい、そんなんでいいのかよ?」

まぁ、そういうのを自分のスタイルとしているようなスットコドッコイ(何語?)な奴も居るということですね。


私の場合は、こういう「迷い」こそが、最も人間的なことであり、

最もその人を現していることであり、

そして、最も「芸術的」なことでもあると思っているわけなんですね。


そういうわけで、こんな感じでやっております。



「習作」を描くこと

このところ、「習作」を描くことが「とても役に立つなぁ」と思っているわけです。


以前は、「習作なんて何のために描くのか?」と思っていました。

有名な画家の作品の中に「習作」とされているものが混じっていることがありますけど、

「本作」とそれほど出来栄えの変わらないようなものもあったりして、

どこで「習作」と「本作」を分けているのかわからないことも多く、

また、そもそも何のために「習作」にそこまで力を入れて描くのかが理解できませんでしたが、

いざ、自分が本気で「作品」に取り組みだしたら、

「習作」を描くことが、間違いなく有効だと感じるようになりました。


まず、私の場合で言うと、ある程度まで仕上がった作品に何か描き加えたいときに、

さすがに無謀な私にも「イキナリは描けない」ということが出てきて、

それで、「習作」で試しに描いてみようと成るわけです。


それから、漠然としたイメージを固めるための「習作」と言うのもありますし、

絵の中の「一部分」を「習作」で試すというのもあります。


そういったことで、「習作」を描くように成ったわけですけど、

実は、一番「役に立つなぁ」と思っていることは、

新しいことを、とても自由な気持ちで試すことが出来るということなんです。
(むしろ「習作」で試したいところとは関係ない所で、ですね)


これはただ単に、気持ちの問題なんだと思いますけど

「習作」だと思うと、限りなく無責任な感じで、新しい手法を試せるんですね。

そして、それがまた、けっこう楽しいんですね。


私は、自分で言うのもなんですが、「くそまじめ」な人間なんで、

「本作」と言う意識があると、

どうしても「こんな絵にしたい」と言うような目標がありますから、
(具体的な目標と言う意味ではないですけどね)

漠然とした感じで、無責任にやったことがない描き方を試すというのがやり難くなってしまうわけですね。


そんなわけで、今は「習作」から見つけ出した、自分にとっての「新しい手法」を

出来るだけたくさん集めていきたいと思っています。


「芸術」は「技術」に頼ってはいけないと思っておりますが、

「技術」を使わずには、何も表現できないとも思いますから、

「技術」の持ち駒は、出来るだけ多い方がいいんじゃないのかなと。


それ以上に、これが、とにかく楽しい!

と言っても、「習作」ばっかり描いていても仕方ないんで、

「本作」を仕上げなければと思うわけですが、

これが、結構つらい!!


そういった感じですね。





「現代美術」が「額」を拒否するに至った理由

「現在形の絵画」に置いては、「額」は拒否されていると言っても過言ではないように思うわけです。


でも、そもそも、なんで「額」は拒否されてしまったんでしょうか?


まず、私自身のことで言うと、

「額」が「権威の象徴」のように感じられたということがあるんですね。


「額」と言うのは、けっこう高価なものですし、

歴史的に見ても、ヨーロッパの王宮などを絢爛豪華に飾ることで、発展してきたものですから、

「絵」をゴージャスな調度品のように見せる傾向があるわけです。


それで、「額」が、そうした「芸術にまつわる権威の象徴」のように成ってしまったんだと思うのです。


でも、実は、「額」が「権威」だったわけではなく、

「権威的な額」が主流(ほぼ全て?)だったというだけなんじゃないかと、

私の場合は考えるようになったわけです。


実際には、「額」の中の「絵」の方だって、「権威的な絵」が主流だったわけで、
(今でも主流なのかも知れませんけど)

「芸術家」には、ある程度与えられていた「創作の自由」が、

「額職人」には、ほとんど与えられていなかったであろうことを考えれば、

「額」が、権威の要求するところを強く反映したものに発展したことは、

当然のことであったわけですし、また、やむを得ないことでもあったわけです。


「芸術家」や「芸術作品」を「権威」から離れたところのものにしたければ、

「権威」を拒否した「創作姿勢」を貫けばいいわけで、

それと同じように、「額」を「権威」から遠いものにしたければ、

「そういう額」を作ればいいということなんじゃないかと思うように成ったわけですね。


また、必ずしも、自分で作らなければいけないというわけでもなくて、

しっかりした「額装」のコンセプトを持っていさえすれば、

他人の作ったものでも、問題ないんだと思います。


もちろん、「権威的云々」ということだけでもないんでしょうが、

いずれにしても、何かしらの「エラソーな感じ」や「形式ばった感じ」と言うのが、

『「現代美術」が「額」を拒否するに至った理由』なんじゃないかと考えるわけです。


つまり、「もっと自由に成りたかった」って言うことなんじゃないのかなと。

でも、その「自由な額」を作る人があまりいなかったということなんじゃないでしょうか?

たぶん、”ソーマデシテ”作らなくでも許されたからと言うことなんじゃないかなと。

要するに、「無額」が”ナントナク・ソレラシカッタ”ので受け入れられてしまったために、

「額」が拒否され続けてしまったように思うんですね。


さらに言うと、いつの間にか反転して、「無額」の方が「権威的」になってしまっていて、

それが、ナチュラルだったために気づかれなかったということもあったんじゃないでしょうか?


私は、これからは「額装」まで含めた全体が

「作品」として考えられるように成っていけば、

もう少し良く成る可能性があるんじゃないかと思っているんですけど、

それにしても、「額」を拒否するのって、

すぐに飽きられて終わってしまってもいいような「手法」だったんじゃないかと思うんですけど、

なんで、ここまで長く続いているのか、とても不思議な気がしてしまうわけなのです。


その理由が、「額」がない方が”ナントナク「現代美術」っぽいから”っていうのもね。


そんなことも含めて、「額」は「現代美術」の視点からこそ、見直されていいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。




「自分の限界」

このところ、とみに「自分の限界」を知ることの重要性を感じているわけです。


実際には、人間には「限界」なんてなくて、

無限に拡張していく可能性があるんだと思ってはいるものの、

そういいながら一か所で足踏みしているというのも、チットモ面白くもないので、

やっぱり、どこかで見切りをつけて、

今の「自分の限界」はこの辺だなと受け入れることが必要になるんだと思うわけです。


また、そうやって、区切りをつけることで、一つの局面を抜け出して、

新しい局面を見出すということもあるんじゃないかなと。

そういう「希望的な観測」もあって、

「自分の限界」を知ることが、やや、「嬉しいこと」のような気がしているというわけです。


ナントナク、そういうことで「自分のしていること」が少し客観的に見れたりしないかなと。

そんな風に自分に都合よく解釈しています。





「イイ偶然」を固める

私は、絵を描くうえで、いつも「偶然をあてにしよう!」と思っているわけです。


それは、必ずしも、「テキトーにやって成るように成った状態」と言うのではなく、

作品を、「自分の作為」から外れたところに持っていく、という作業なんだと思っています。


そして、いつも次から次へと現れては消えていく「偶然」のなかで、

「イイ偶然」を見つけ出して、それを固定していこうという気持ちでやっています。


これは、20世紀の中ごろに行われていた「その手の手法」とは、少し違います。

まぁ、同じようなところもありますけどね。

少し違うというところです。


そちらは、「偶然」と言うよりは「技巧」の一種だったように思いますね。

要するに、絵具をにじませたり、流したりするのと同じように、

「偶然性」を利用してはいますが、あくまで「技法」としての「偶然の利用」であって、

「技術」のバリエーションであったように思いますね。


私の場合は、むしろ、「手法」上の問題ではなく、、

制作の過程に意図せずに現れてきた「偶然」を、見つけ出して生かしていこうというものです。

その中でも、とくに「イイ偶然」を固定していこうということですね。


「偶然」と言うと”ユルイ印象”がありますけど、

この「イイ偶然」を見つけ出すという作業は、意外と集中力を必要とするんじゃないかと思っています。


なんたって「偶然」ですから、いつ、どんな風に現れるかわかりませんし、

ちょっと油断して見逃してしまうと「スッ」ッと消えていってしまうわけで、

それを常に、集中して見つけ出さないとならないということですから、

意外なほど緊張するわけですね。


「偶然」は、人間が意図的に作り出すものと違って、非常に壊れやすいですが、

そこには「作為」が入らない、もっとも純粋な「自分」が現れているような気がしているわけです。


「でも、偶然なんだから、自分が創り出したモノじゃないんじゃないの?」という部分もあるんですが、

そこで、「イイ偶然」を見つけ出すという作業が重要になってくるということです。


つまり、現れて来る「偶然」は「自分の創り出したもの」ではないのでしょうが、
(実は、そこにも「自分のクセ」は、意外なほどよく現れてくるものだと思いますけど)

それをよく見極めて、「イイ偶然」を見つけだして、

それを固定していくという作業を繰り返していくと、

「偶然」であって「偶然」でないモノが生み出されてくると思っています。


そこで、初めて、「作為」を排除した「最も自分らしいモノ」が現れて来るんじゃないかなと。

そういう風に思っているわけです。




絵画空間における「ユガミ」

「ユガミ」のある絵が好きなんですねぇ、私は。

ナゼなんでしょうかね?わかりませんねぇ。


取り敢えず、完璧に描かれた絵もイイとは思いますけど、

その「完璧」の中に「ユガミ」はないかと探してしまいますねぇ。

そして、それを見つけられたときには、その絵がより一層好きになるという感じですね。


「ユガミ」って、描いた人の「一番の特徴」なんじゃないかと思うんですよね。

だから、「ユガミ」のある絵を見ると、

その人が、そこにいるような気がするんですね。


それが「技術的」な中での「ユガミ」なのか、

単なる「ユガミ」なのかは、ともかくとして、

「ユガミ」っていうのは、「下手」っていうのとはチョット違うと思うんですよね。


上手い人の「ユガミ」にも、上手くない人の「ユガミ」にも、

共通の「ナニカ」があって、それでそれを「ユガミ」と感じるんじゃないかと思うんですよね。


たとえば、人間の顔を書くときに、

上手い人が描くと、「ユガミ」のない顔に成りますが、

下手な人が描けば「ユガミまくり」の顔に成ります。


でも、だからと言って、「ユガミ」=「下手」ではなくて、

要するに、上手い人は「ユガミが少ない」ということに過ぎなくて、

下手な人は「ユガミが多い」というだけのことなわけです。

そして、「ユガミ」においては、その「量」ではなくて、

「質」が問題なんだと思うのです。


だから、「ユガミ」が多い「下手な絵」か、

「ユガミ」が少ない「上手い絵」か、ということよりも、

その「ユガミ」に、どれだけ「描いた人」が現れているか、

ということが大事なんではないかと思うわけです。


そういうことですから、

当然、「上手い人」が、無理して”下手っぽく”しても意味はないでしょうし、

「下手な人」が、表面的な”上手さ”を追っても「いいユガミ」にはならないでしょう。


むしろ逆で、本当の「自分らしさ」を隠してしまうような「ナニカ」を

排除していくことが大切なんじゃないかなと。

たとえ、それが、人から褒められるような「技術」であったとしても、

それが自分らしいものでないならば、ということですね。

その結果出てきた「ユガミ」こそが、「いいユガミ」なんだと思うわけです。


そして、それは必ずしも、本人にとって気持ちのいいモノとは限らないということもあるわけです。

それで、どうしても隠したくなりますから、

無理して「技術」を使ったりして、ゴマカシテしまうわけですね。

その方が、たいてい、人から褒められます。


でも、それは、その人がその絵を「イイ!」と思ったからではなくて、

「このくらい上手く描いてあるんだから、褒めないと失礼かな?」とか、

「こんなに上手に描かれているんだから”ウマイ”と言わないと、自分の方が恥をかくかも?」

なんて言う風に思っただけということも多いわけです。

あとは、ただ単に「技術力」に圧倒されてしまったというのもありますね。

「技術」に隠されて「芸術」が見えにくくなってしまうパターンですね。


じつは、人間は、「上手さ」よりも、「ユガミ」に惹きつけられる性質があると思いますね。


少なくとも、「上手さ」に惹きつけられているのは、その人の「後天的な部分」で、

「ユガミ」に惹きつけられているのは、その人の「先天的な部分」と言っていいんじゃないかと思います。


言い換えれば、

「後天的な部分」=「社会的な部分」

「先天的な部分」=「個人的な部分」とも言えますね。

「個人的な部分」は「本能に近い部分」と言った方がいいかもしれませんね。


「芸術」においては、どっちが大切でしょうね?


人それぞれだとは思いますけど、

私は、どうしても「個人的」で「本能的」なモノを求めてしまいますねぇ。


そういうわけで、

「ユガミのある絵が好きです」

「ええ、それだけです」

「でも、ウネリも好き!」

「ええ、似たようなモンです」

「でも、ヒネリは嫌い!!」


なんだわ。



「芸術表現」の「多重化」

「芸術表現」は、「多重化」の方向を取るように成って行くんじゃないかと思っているわけです。


現在、「表現形態」を交配することが盛んに行われていますけど、

これも一種の「多重化」ではあると思うのですが、

ここで言う「多重化」は、出来るだけ「表現形態」自体は広げずに、

既存の「メディア」の中で「多重化」するという方向のモノです。

     ※ここで言っている「メディア」とは、「表現形態」を指しています。
       「ミクスト・メディア」と言う場合は、「素材」の混合を意味することが多いと思いますが、
       「表現形態」や「素材」をミックスするというのは、
       「多重化」と言うよりは「多様化」に近いイメージが強いように思っています。

       「素材」の混合は、必ずしも「多重化」には当たらないと思いますが、
       ここで言う「薄めること」にも当たらないと思っています。

どうして、「メディア」を広げないのか?と言えば、「薄まってしまうから」だと思っています。


つまり、「メディア」を広げていくということは、より広い領域に「表現」を投げ入れるということであって、

その中で、表現されたものと言うのは、限りなく薄められてしまうような気がするわけです。


そこで、限られた「メディア」の中での「多重化」ということに成るわけですが、

「絵画」なら「絵画」、「彫刻」なら「彫刻」と言う、

完全に従来型の既存の「メディア」の枠をなるべく崩さずに、

「多重化」していく方向を模索する必要があるんじゃないかと思うのです。


もちろん、「絵画」を「平面」と言い換えたっていいでしょうし、

「彫刻」を「立体」と呼んでも、何の差支えもないわけですが、

出来るだけ(あくまで、出来るだけです)、「表現形態の交配」自体を表現の中心にしないということですね。


つまり、同じことをするのでも、「〇〇を使っているところがオモシロイ」とか、

「〇〇と〇〇を掛け合わせているのが独創的」みたいに、

「メディアの交配」自体が、その表現の一番の特徴になってしまうことは避けた方がイイと思うわけですね。


なぜ「多重化」するのか?

さらには、なぜ限られた「メディア」の中で「多重化」するのか?と聞かれれば、

それは「密度を高めるため」と言うことでしょう。


美術の場合「作品」は、「物質」であるべきだと思っております。

      ※「コンセプト」や「パフォーマンス」などの「非物質」を「美術」とするのは、
       少し違うように思いますし、「そんな枠にとらわれなくてもいいんだ!」と言われれば、
       そうなのかも知れませんが、
       それは、「メディアの交配」と同じく「薄めること」につながると思っています。

「物質」と言うのは、「大きさ」と「密度」によって、「質量」が決まってくるわけで、

基本的に「小さいわりに重いもの」つまり「密度の高いもの」が、

「美術」には向いているんじゃないかと思います。

ただ、これを上手く説明する言葉はちょっと思いつきません。

上手い表現ではないかもしれませんが、

「手ごたえ」とか「圧力」みたいなものでしょうか?


取り敢えず、「密度」を高めるためには、

限定されたスペースの中での「多重化」ということに成るんだと思うわけです。

それで、いろいろな意味で、スペースを絞って、

その中で、「重層的」にして行くことが求められるんだと思うわけです。


単純に言って、「芸術作品」は、大きく成りすぎているような気がします。

また、、「メディアの交配」についても、それ自体を表現の中心にすることで、

限りなくスぺースを広げてしまっています。

「芸術」に関する「イベント」なんかも、スペースを広げる傾向にあるように思います。

大きな「イベント」でも、どこか漠然としていて、集まった人たちに共通の意識がないというのは、

良い面と悪い面があると思いますが、

現状の、意識の希薄さはあまりイイモノでもないように思います。


そういったこと全体において、スペースを絞り込んでいくことが必要になってくるんじゃないかなと。

そして、その限られたスペースの中で、

如何に「多重化」していくかということが問われていくようになるんじゃないなと。


そんな風に思っているわけです。・・・・・・次につづく



「芸術の多重化」について(つづき)

前の記事からの続きに成ります。


「芸術の多重化」については、いろいろな形が考えられると思います。

前の記事で書いたように、私は、表現形態自体をミックスすることには積極的ではないんですけど、

それも、人それぞれだとは思いますから、

そういう意味も含めて、ありとあらゆる「多重化」が考えられると思うわけです。


そちらの、「多重化」は、いろいろな方向で試行錯誤されているようですが、

私にとっての「多重化」とは、それとは少し違って、

限られたメディアの中での「多重化」に成ります。

さらに言えば、「既存のメディア」にこだわりたいという意識があります。


私の場合は「絵画」ということに成りますが、

「多重化」に当たって、「額」を自作することを念頭に置いています。


おととしは、一年の大半を「額」の制作に費やしてしまい、

肝心の「絵」を描く時間が少なくなってしまったので、

去年は、ほぼ、こもりっきりで「絵」をかいていましたが、

45枚の「絵」を描き始めて、なんとか『イイな』っていうところまで来たのは、

たぶん、2~3枚と言ったところですね。


どうやら、ただ単に描くのが遅いということのようです。


しかも、途中から実験的な「習作」にハマッテしまったので、

「本作」の方も並行して描いていますが、なかなか完成まで持っていけないんですね。
(「こんなペースだと、ゼンゼン割が合わないヨ!よい子の皆さんは絶対にマネしないでネ!」)

まぁ、私の場合は、まだまだ『これが自分のスタイルだな!』と言うようなものを

作っている途中なので(いつできるのか、わかりませんが)、

そういう時間も必要なんじゃないかと思っています。


それはさておき、「多重化」です。

「額」ですね。

私の場合、この「額」についての発想が先にあっての、創作衝動だと言ってもいいくらいなんですねぇ。

つまり、「額」と「絵画空間」の重なりが見えてきた途端に、

『自分の作品を創りたい!』と思うように成ったというわけなんです。


もともと、私も「自分の作品を創りたい」と言う気持ちから「絵」を始めたわけですけど、
(私の場合30歳の時、始めました。それまで「絵」を描いたことはほとんどありません)

その後、たまたま「装飾美術」の仕事で、

「絵を描いて、カネが貰えるらしいデスゼ!」ということに成って、

いつの間にか、そちらに行ってしまって、「自己作品」のことが、おろそかになってしまったんですね。
(と言っても、ほとんどの期間は専業ではなくて、他の仕事もしてましたけど)


そして、そのまま、「そんなにムキになってまで自分の作品を創らなくても…」と言うところですね。

そんなフラフラした生き方をしているうちに、

いろいろなことを考えていると頭の中が、だんだん混沌とした状態になって来て、

「ドウデモイイや!」っていう感じでした。


そんな中で、いつの間にか

「なにか”コレ!”と言うものを残してから死にたいもんだなぁ」

と漠然と思うように成ったわけです。


その時に、なぜか出てきたのが「額」なんですねぇ。

と言っても、「額」については昔から考えていて、

油絵で「掛け軸」みたいなものを創ってみたり、

20年ぐらい前から、いろいろと、やってはいました。
(ちなみに、この時は水墨画(撥墨と言う技法)で下絵を描いたりしました)


でも、とにかく制作が散発的で、まとめて作品を創りませんでしたから、

話にならなかったわけですね。


それで、「額」についての考えもほったらかしになっていたということですね。


えー、どうも話がそれるみたいですが、「多重化」です。

現在は、試行錯誤の結果、

「絵の中での多重化」と「額の中での多重化」と言う二つの発想になっています。

さらに、「額の外の多重化」についても一応考えていますが、

外に向かって広げていってしまうと際限がないので、考えるだけにとどめています。

      ※この「額の外へ向かう」と言う表現形態を時々見ることがありますが、
        今までに私が見たことがあるものは、やはり結果的に「スペース」を
        広げてしまっているように思いました。
        私の目指すところとしては、「スペース」を広げた分以上に、「多重化」
        していかないと「密度を高めること」にはならないので、「外に向かう」
        というだけでは足りないかなと思っています。
        「外に向かった」場合は、その外へ拡散する力を引き戻して、
        中心に向かって圧縮するようなベクトルを持った多重化が必要に成ると思っています。)


つまり、「絵画空間」の中に「枠」を作ることで、「額」とは違った意味での「多重化」に成ると思っています。

ただし、この「絵の中の枠」を装飾的な「枠」にしてしまうと、「額」と似た様な意味になってしまいます。

それも「多重化」には違いないんですけど、

「絵の中の多重化」と「額の中の多重化」を分けることで、

その「多重化」同士の「多重化」が創り出せればと思って、

なるべく、完全に「装飾的」にならないようにしようと心がけています。


現在は、その「絵の中の枠」のさらにその中の絵画空間で、

もう一段「多重化」したいというところで、止まっている段階ですね。

要素が多く成りすぎて、スペースが足りなくなるんですね。


そして、「額」の方ですが、こちらは、まだ、ロクなモノが出来てもいないので、

構想だけの段階ですが、

現時点で、一応、「二重額」と言う構想を持っています。


はじめは、一つの「額」で十分だと思っていたんですけど、

それだと出来ることが限られてしまうので、

ここでも「多重化」することに成りました。


ここで、「額」と「絵画」を両方とも「表現形態として使うことは、

初めに書いた、「表現形態の交配」に当たるんじゃないか?と言う問題があるわけなんですね。


確かに、そういう考え方もあると思います。

しかし、「額」は表現形態と言うよりは、「絵画」の「枠」であって、

「絵画の世界」を「外の世界」と区切る「境界線」でもあると思っていますので、

それ自体が「純粋な表現形態」ではないと考えています。


そして、その「枠」である「額」に表現としての意味を与えるということも、

一種の「多重化」なんだと思っています。

つまり、「境界としての額」と「表現としての額」が「多重化」することで、

「絵画」を外の世界から「隔てる機能」と、

「絵画」を外の世界と「つなげる機能」を

合わせた「枠」としての「多重化」ができるんじゃないかと思っているわけです。


こんな事が、今私がやっている「多重化」ということに成りますが、

「言葉」だけで説明されても、わかんないでしょうね。たぶん。


まぁ、このブログは「役に立たないブログ」を目指しているので、

ショーガナイ所ですね。


取り敢えず、私にとっての「多重化」はこんな感じですね。

さようなら。
  

「一所懸命」を極める

出来る限り、「一所懸命」を極めていきたいなと思っているわけなのです。


出来れば、いろいろなことで「一所懸命」にやって行きたいもんですけど、

全てのことを「一所懸命」にするのは大変ですから、

せめて、「芸術」に関することだけでも、

「一所懸命」にやって行きたいもんだなと思うわけですね。


前にもこのブログに書いたことがあるんですが、

その場だけでも「懸命にやる」のが「一所懸命」で、

ずっと「懸命にやる」のが「一生懸命」なんだそうです。
(人に聞いたことなので、言葉の意味としては定かではありませんが)


取り敢えず、私の場合、「芸術」に関することだけでも「懸命にやっていこう!」

と思っているということですね。


そして、さらに、最近になって、

その「一所懸命」を極めて行きたいなと思うようになって来ているわけなのです。


もともと、私は「天才」と言う言葉ほど

”フルクサクて”、”ツマラナクテ”、”クダラナイ”物はないと思っていますから、

「才能」でやっていこうということは、微塵も思わないわけです。


それじゃあ、ナニでやって行こうか?となると、

「一所懸命」でしょ!ということに成るわけなのです。

そして、どうせだったら、「一所懸命」を極めていこう!と思うわけですね。


そういう気持ちでやっていると、

「才能」の占める割合なんて

いかに小さいかと言う風に思えてくるわけです。

    ※この場合の「才能」とは、一般的に「イイモノ」とされているような
     「誰からも賞賛されるようなこと」に限っての「才能」です。
     人から見たら何の価値も無いような「才能」を含めた場合は、
     また、話が違ってくるでしょうね。
     でも、それを「才能」と呼んでいる人って、ほとんどいないですよね。


「才能が無いよりは有った方がイイに決まってるでしょ!」って言うことが、

それはもう、本当に、とても意味がないことのように思えてくるわけですねぇ。

「全然、要らないですね!才能」

「いや、無い方がいいくらいなんじゃないか?」

そんな感じです。


それに、こんな考え方で、一般人が「才能」なんかと全く関係なく、

「芸術」に関わっていけるようになるといいなぁと思っているわけです。


これは、なにも「芸術」に限ったことではなくて、

いろいろなことに当てはめて考えることが出来ると思います。


たとえば、「仕事ができる」ということを「エライこと」のように思っている人が、

たくさん居ると言うのは、信じがたいことですし、また悲しいことだと思いますけど、

「仕事を一所懸命にやる人」だったら、

実際に、その人が「エライ」かどうかは別にして、

その人を「エライ」と言ってもさしつかえないんじゃないかと思います。


「仕事ができる」と言っている時の「できる」とは、

要するに、ちょっと効率がイイと言うだけのことです。

基本的に「仕事」は、誰にでもできるように出来ていますから、

そこで「差」をつけるのは、効率ぐらいです。

そのチマチマした「差」を「エライ」と言っていることほど

”ツマラナイ”ことはないと思いますし、

「出来る、出来ない」に関わらず、「一所懸命」にやっている人を見て、

心を動かされないということほど、”鈍感”なことは無いと思うわけです。


「芸術」において、「才能」と言う言葉が、

この「仕事が出来る」のような意味になってしまっていて、

「才能がなければダメ」とか、「才能が無いよりは有った方がイイに決まってる」

と言うようなことに成ってしまっているわけです。
(これは「センス」と言う言葉に置き換えても同じようなことが言えるでしょう)


でも、実際に、人が心を動かされるのは「才能」なんかじゃないですね。

人は何らかの「ひたむきさ」に心を動かされるんじゃないでしょうか?

ただ、それを、後から「才能」と呼びたがる人が多いというだけのことだと思います。


つまり、「一所懸命」にやって、世間的に認められなかった人を見ると、

「才能」が無かったからだといい、

「一所懸命」にやって、世間的に認められた人を見ると、

「才能」があったからだと言っているだけですね。


だから、「一所懸命さ」に感動する気持ちが見えなくなっていってしまうわけですね。


そんな状況ですから、「一所懸命」にやっていても、

必ずしも”トク”でもないんでしょうが、そこの所で「上手くやろう」とは思いませんね。

自分の人生なのに、他人の基準で「上手くやろう」と言う気持ちは、もう無いですね。


そういうわけで、

「才能」なんて無くてもいいし、

少しでもあるんだったら、誰かに差し上げますので、

「ワタシニデンワシテクダサイ、ドウゾヨロシク!」
(これ、「わっかるかなぁー、わっかんないだろなぁー」
 これも「わっかんないだろなぁー」)


その代りに、「一所懸命」を極めて行きたいなと。

そんな風に思っているわけです。



「完璧」の先の「不完璧」

「完璧」を求めようとは思わないんですねぇ。私は。

じゃあ、ナニを求めようというのか?と言うと、

「不完璧」なんですねぇ。


だいたい「完璧なモノ」なんて、この世に何一つないわけですけど、

もし、「ほとんど完璧だな!」と言うようなものがあったとしても、

それを求めようとは思いませんね。


なぜかと言えば、「それじゃ、足りない!!」と思うからです。

つまり、人間のすることの範囲で、「完璧だな!」と思うようなことって、

たかが知れてるんじゃないかと思うわけです、


要するに、「完璧」なんて言っているようなものは、

ただ単に、「欠点」が少ないということなんだと思います。

しかも、「大きな欠点」は無くても、「小さな欠点」はあるんでしょうから、

そうなると、もう「完璧」でもなんでもなくて、

「チマチマとまとまっている」というだけですね。


もちろん、他人が創ったもので「完璧だな!」と感じることはありますけど、

それが、「イワユル完璧なモノ」でもないわけですね。

むしろ、どちらかと言うと、「崩れそうで崩れていないギリギリのところ」

そんなモノの方を「完璧」と言いたくなってしまうわけですね。


まして、「イワユル完璧なモノ」を求める(ネラウ)ということは、

結果的には、当たりはずれのない「”ブナン”なモノ」ぐらいしか

出来て来ないような気がするわけですね。


だったら、初めから、「完璧」なんて捨ててしまって、

「不完璧」を求めていこう!と思うわけですね。

そして、どうせだったら、

「完璧の向こう側にある不完璧」を探しに行ってみようじゃないかと思うわけです。


そんな、方向でやって行くと、

上手くいっていなくても、

「へっへっへっ、完璧に不完璧だぜ!」と言って,何とか立ち直れるというわけです。


ただ、残念ながら、

その「不完璧」が、「完璧の向こう」にあるモノであるのかどうかはわかりません。


それでも、まぁ「ネラッタ・チマチマ」よりは”マシ”かなと。 

そういう風に思うことにしています。



「絵をイジリすぎる人」

「絵をイジリ過ぎる人」っていますよね。

「えぇ、私です。ハイ」


「絵」って、イジリ過ぎると「ドンドン・ダメ」になって行くんですよねぇ。

「えぇ、その通り、私です。ハイ」


でも、ですね。

私は、やめないで、これを続けていこうと思っているわけなんですよね。


「なんで、そんなことするの?ひょっとしてアホなんじゃないの?!」

「えぇ、確かに間違いございませんです。ハイ」


「なぜ?」と問われれば、

「その先が見たいから」と答えますね。

要するに、「ドンドン・ダメ」に成ったその先が見たいわけですねぇ。


「あぁ、やっぱりアホや!」

「えぇ、私もそうじゃないかと思っておりますです。ハイ」


「なぜ、山に登るのか?」

「そこに山があるから!」

「なぜ、『ドンドン・ダメ』を続けるのか?」

「そこに『ドンドン・ダメ』があるから」


えー、つまりですねぇ。

高いものがあると登りたくなる。

人間の根源的な欲求ですよね。

で、私の場合、「ダメなものがある」と、

その先に何かあるんじゃないか?と見に行きたくなるわけなのです。


それで、「絵をイジリ過ぎている」わけですね。

つまり、「もういいかな」っていうときに、

「いや、まだまだ」と戻すわけですね。

それで、「ドンドン・ダメ」に成って行くわけですが、

そこから、諦めずに、「モット・ドンドン・ダメ」にして行くんですねぇ。

「アホ」です。


でもですね、私は「芸術」ってそういうもんなんじゃないかと思うんですよね。

つまり、「無駄に見えることを一所懸命に成ってやる」ってことですね。

少なくとも、今、「芸術」が置かれている位置はそういうところなんじゃないのかなと。

だから、やめないでこれを続けていこうかなと。


そんな風に思っているわけですね。




「白・黒・原色」にどこまで近づけるか?

前に書いた記事で、「絵」の描き始めの段階において、

「明」・「暗」・「彩」の三つのパートを作って、描いて行こうと思っていると書いたんですけど、

そのやり方は、どうも自分に合っていないみたいなので「ボツまたはホリュウ」となっています。


でも、「絵」を描いていくうえで、

「白・黒・原色」にどこまで近づけるか!ということは、その前から、そして今もずっと思っています。


つまり、「表現の幅」をできるだけ広げたいわけですね。

一番明るい「白」と一番暗い「黒」と一番鮮やかな「原色」に近づいていくことで、

「色の幅」を広く取れるということなんですね。


と言っても、これが「ヤサシクはナイ」わけです。


「色の幅」を限定して描いて行くと比較的「絵」がまとまりやすいわけですが、

     ※たとえば、「白」と「黒」を中心にして色を抑え気味にするとか、
       一つの色を中心にして、その明暗で描いていくとかいったようなことですね。

そうすると、「表現の幅」も限られてしまうような気がするので、

そこのところを何とかして乗り越えていこうということですね。


でも、この三つを組み合わせて、

三つとも画面の中で、強く出していこうとすると、

やはり、とても難しいなと思うわけですよね。


つまり、色同士が”ケンカする”わけですね。

それを、色の配置や、面積比、そして組み合わせによって、なんとか折り合いをつけて、

”なかよし”な状態に持っていきたいわけなんですね。


これには、とにかく色を重ねて複雑な色を出して、

それをベースにした上に「白・黒・原色」を乗せていくいくしかないと思っているんですけど、

      ※つまり、「赤であって赤でない色」や「青であって青でない色」と言うような、
        いろいろな色の性質を持った色が出せると、そういう色の上に、
        「原色」に近い色を置いたときにナジミがイイと言うようなことですね。

それが、なかなか計算通りにはいかないので、とても時間をかけてしまいます。


こういうのって、ずっとやってると”上手く成る”もんなんでしょうかねぇ?

「成らないと思います!」

「そーじゃないかと思った」

今んとこ、そんな感じですね。



抽象だけど「形」重視

「抽象画」と言うと、「立体表現」を使わないことが多いと思うわけですけど、

実は、「抽象画であること」と、「立体表現を使わないこと」とは、

必ずしも、関係ないことだという考え方もあっていいんじゃないかと思うわけです。

     ※ここで言う「立体表現」とは、大雑把な言い方をすれば、光と影を使って
      形を現すというようなことです


私は、「抽象」とは「物事の本質を抽出して現すこと」だと思っているんですが、

「本質」と「立体表現」が、相反しているということは無いと思います。


と言うよりも、現在言われているような「抽象」と言うのは、

「抽象」と言う概念全体の中のごく一部の、言ってみれば「極」の部分で、

そういう「極」の性質と、「立体表現」が相性が悪いということなんじゃないかと思うわけです。


「極」とは、つまり、同じ「抽象」でも、「この世界全体の本質を抽出するような表現」ですね。

そういう極端な「抽象」が、いま言われているところの「抽象」で、

そういう絶対的な普遍性を求めた場合、

「立体」と言う「限定された枠組み」が邪魔に成るということなんんじゃないかと思うわけです。


また、そういう「極」が悪いということは、もちろんないんですが、

そういうのは、限りなく不可能に近いんじゃないかとも思うのです。

あまりに普遍的過ぎて、「何も表していないこと」とほとんど同じようになってしまうんだと思います。


つまり、世の中の全ての本質をまとめて現そうとすると、

何も表すことが出来なくなってしまうということなんじゃないでしょうか?


ということで、私といたしましては、

「立体表現」を積極的に使って行きたいなと思っているわけです。


もともと、いま言われているような「抽象」と言う概念が現れてきたときに、

「精神性」や「普遍性」を追究するための手段として現れてきたことで、

「物質性」や「現実性」が排除されてしまったんだと思います。

それ自体が間違っていたとは思いませんが、

理論的には間違っていなくても、「実現できないモノ」や「表現として成り立たないモノ」を

「抽象表現」と言うのは、やはりチョット・オカシイと思うわけですね。


私自身も、このブログの冒頭に掲げている「宣言文」の中で、

「真術」と言う「芸術の中心」に位置する領域を、

「ほとんど不可能に近いもの」と言う言い方をしている部分がありますが、

それは、あくまで指標としての「芸術の中心」であって、

実際には、中心を目指しながら、その途中で着地することをダメだとは思っていません。


それから、「絵画」に置いて、

「立体表現」を使わないことは、「絵画」の持っている、

「表現力」のかなり大きな部分を失うことに成ると思います。


そういうわけで、「抽象」でも「形重視」と言う考え方でやっております。

ただし、その「形」をできるだけ、「自作」しようと思っているというわけです。


つまり、「世の中にないモノ」を「絵の中に創り出そう」と言うわけです。

悲しいかな、出来ているのかどうかわかりません。

「ないモノ」ですから、出来ている」かどうかが確認できないんですね。


まぁ、今のところ「確認できないということは、ないモノということなんじゃないの?」

と思うことにしています。

「そんな程度でも、なんかやってるだけ、少しイイんじゃないの?」

と言う風に思っています。


「でも、ドッカですごく間違ってるのかも?」

と言う風にも思っています。


「それでも、まぁ、いいか?」

ホイ!

「自分の補色」

「色」には「補色関係」と言うのがあるわけですけど、

これは、必ずしも定型的なものではないんじゃないか?と最近思っているわけです。


つまり、ある「色」に対して、その「色」の正反対の「色」を「補色」と言っているわけですが

言い換えれば、その色と混ぜると「黒っぽく成る色」ということですね。
(無彩色に近づくと言った方がいいのかも知れません)


それが、言われているほど決まりきったものでもないんじゃないかなと思うんですね。

要するに、「その人の補色」と言うのがあってもいいように思うわけです。


「補色」と言う言葉を、光学上の「反対の色」と考えれば、

それは決まりきったものなのでしょうが、

「補色」を隣り合わせに置いたときや、重ね合わせたときに

「響き合う色」と考えれば、その「響き」の感じ方の違いによって、

「補色関係」も変わって来るんじゃないかと思うわけですね。


つまり、「光学的な補色」と「絵画的な補色」を、

それぞれ違うものとして捉えたら面白いんじゃないかということです。

少なくとも、そうすることで「自分の補色」と言う感覚が生まれますし、

決まりきった色使いから逃れるためのヒントにもなるような気がしています。

まぁ、幅が広がるというようなことですね。


絵を描く人ならだれでも、

「これは自分の色だな」と言う感覚でとらえている色があるんじゃないかと思うんですね。

それは、単色である場合もあるでしょうし、

いくつかの色を混ぜ合わせた色である場合もあるんでしょう。


だったら、「補色関係」にも「自分の補色」があってもいいわけですし、

それが、いわゆる「光学的な補色」と一致している場合もあるし、

そうでない場合もあっていいような気がするわけです。


確かに、「光学的な補色」は理に適ったモノでしょうし、

「自分の補色」は理に適っていないモノかも知れませんけど、

そういう「理に適っていないモノ」にこそ、グッ!と惹きつけられたりもするわけです。


色だけに限ったことでも無く、

画面の中で、そういう「自分の〇〇」を見つけ出すことこそが、

「自分の絵」そのものなんじゃないのかなと。


「イワユル・イイ絵」を描くことにどれほどの意味があるのかと。


「自分の絵」を描くことが「自己満足」なのか?

それとも、「イイ絵」を描いて、

人から褒められて「イイ気持」に成ることの方が「自己満足」なのか?

または、どっちもどっちなのか?

そんなことどうでもいいのか?


と、いつも考えている人ってアホでしょうか?

「あー、そういうのはアホですね!」

「同意する」



「オプティカル・カラー(オプティカル・グレー)」

前の記事に関連したことに成ります。


自分にとっての「補色関係」をみつけだしていったら、

いろいろな意味で、幅が広がっていいんじゃないか?ということなんですけど、

その「自分の補色」ってどんなもんなんだ?と言う話です。


それは、つまり「響き合う色の関係」だと思うわけです。

隣り合わせに置いたときや、重ねていったときに、

単色では表せないような「不思議」な「色の共鳴作用」のようなものが

現れてくることがあるわけですね。

そういうのを「響き合う色」と言っているわけなんです。


そういう「響き」は、人によって感じ方がかなり違うような気がしますね。

ある「色の関係」を、ある人は非常に美しいと感じるのに、

他の人にとっては、なんてことないようにしか思えないというようなことがあるようです。


要するに”ビミョー”なんですね。

だから、人によって反応が分かれるんだと思います。


その「”ビミョー”な感じ」や、「不思議な感じ」の色を「オプティカル・カラー」と呼ぶことがあるわけです。

「オプティカル」と言うのは「光学的な」とか「錯視的な」と言うような意味だと思います。

つまり、光の”ビミョー”な具合で目が錯覚を起こすような

不思議な見え方を誘うような色ということなんだと思います。


この「オプティカル・カラー」は

もともと、アカデミックな技法に置いても研究されていたようで、

そちらでは、おもに「オプティカル・グレー」と呼ばれていたんだと思います。


なぜ、「グレー」なのかと言うと、

色と色が”ビミョー”に反応した時に「オプティカルな色」が現れるわけなんですが、

その”ビミョー”な感じを調整していると、

ほとんどの場合、ややグレーがかった色に近づいていくということに成るわけですね。

それから、グレーがかった色が一番「目の錯覚」を誘いやすいということもあると思います。


ただ、これは必ずしもグレーを基調にして描いて行くことに限らないんじゃないかと思っています。

古典的な技法に置いては、

グレーがかった(彩度を抑えた)色を基本にした中間色を作って描いていくことで、

「オプティカル・グレー」を作ることが多いと思いますけど、

実際には、グレーをほとんど使わずに「オプティカルな色」を作ることもできるんだと思っています。


確かに、グレーがかった色を使うことで、「オプティカル効果」が生み出しやすく成りますし、

ある程度、計算したとおりの「オプティカル効果」を作り出すことも可能になると思いますが、

反面、それはある意味での「パターン化」であって、

「いわゆるソノテノ色ですよね」と言う「予定調和の演出的」な

言い換えれば”決まりきった色使い”にもなりかねないわけで、

そういう「パターン化」に陥らないためには、

やはり、もうチョット不安定な、「イチかバチか」な感じの色を使って行く方が

面白味があるんじゃないかなと。


さらには、そういうチャレンジこそ、「自分の補色」を探って行くことの意味なんじゃないのかなと。


そして、そういうことをやって行く中で、

「なんでこうなったの?」と言うような色合いが生まれたときには、

自負心などとは全く無関係に、心から、素直な気持ちで「自分の絵」を称賛したく成るわけです。


なぜだかわかりませんけど、私はそういうときが一番うれしく思うわけなのです。


唯一の欠点は、「同じことがもう一回出来ないこと」ですね。

同じような感じでもう一回描こうとしても、ほとんど同じように成りませんね。


それでも、少なくとも「自分の補色」をいろいろなパターンで持っていれば、

そういう一期一会の「オプティカル・カラー」を生み出せる確率は高くなると思うわけですね。


一回しか使えない方がイイのかも知れませんね。

「二回目」はもう「パターン化」し始めているわけですから。

と言う風に思うことにしています。


出来れば三回ぐらいは使いたいもんですけどね。

と言う風には思わないようにしています。



絵画空間における「接地」と「浮遊」

私の場合、「抽象表現」の中に「具体性」を取り入れようという考えで絵を描いているので、

「抽象画」なんですけど、「モノであること」を目指しているわけなんですが、
(「現実のモノ」というわけではありません)

そこで、「そのモノ」が「絵画空間」の中で、

「接地」しているか?もしくは「浮遊」しているのか?と言う問題が出て来るわけですねぇ。


一般的に「抽象画」では、「モノ」を描きませんし、

むしろ、「モノ」や「空間」から離れようという傾向があるわけですから、

この問題に悩む必要はないのかも知れませんけど、

いざ、「モノ」を描こうとすると、「そのモノ」を「絵画空間」に置いてどこに位置づけるのか?

と言う問題が避けて通れなくなるというわけです。


「モノ」以前に「抽象画」に置いては、

「空間であること」も「否定」または「無視」される傾向があると思いますから、

そこに「位置」と言う概念が存在しないという場合も多いと思います。


つまり、「空間」でも「距離」でも「立体」でもないような

「純粋な絵画の世界」と言うのが、ほとんどの「抽象絵画」の追究してきたものなんだと思います。


私は、その「純粋性の追究」によって、

結果的に、「芸術」が「肉体」を失って、

かえって「表現の幅」が狭く成ってしまっていると思うので、

「具体性」を取り戻そうと思ったわけですね。


それで、「モノ」を描こうと思ったわけですけど、
(「非現実ではあるが物質的な実体感を伴ったモノ」と言う感じです)

その結果、こういった類のさまざまな問題に直面することに成っているわけですね。


つまり、「現実のモノ」であっても「非現実のモノ」であっても、

「モノ」である以上は、「そこに在る」ということが必要に成るんですね。

と言うか、その「そこに在る」ということが示されることで、

それが「絵画空間」の中で「モノ」に見えて来るんだといってもいいんじゃないかと思います。

いずれにしても、そこに「位置」を設定しなければならなくなるわけです。

要するに、その辺をゴマカシたくなかったということですね。


それで、その「モノの位置」が「着地」しているのか?

宙に浮いて「浮遊」しているのか?ということが突きつけられることに成るわけです。


ところが、「モノ」ではありたいんですが、「現実のモノ」ではありたくないわけです。


要するに、「接地」や「浮遊」という「位置関係」を現実と同じように説明してしまうと

「現実のモノ」に近づきすぎる感じがするんですね。

「具体性」は欲しいのに、「現実性」は欲しくないということですよね。

まぁ、ワガママですし、無理です。

でも、なんとかしたいわけです。


それで、「接地」でも「浮遊」でもない、そういう「位置」を作りたいわけなんですね。

でも、ゴマカシたくはない。


まぁ、正直言ってチョット・ゴマカシてるとは思いますけどね。

そういう「非現実的な位置」を作り出すのになんとなく慣れてきています。


これは、言葉で説明されても、読んだ人は困るんでしょうが、

「宇宙」を考えてみればわかりやすいと思います。


「具象画」に置いて、例えば花を描いたとき、

その花が「接地」しているということは、

花瓶に生けられていたりするということなわけですが、

その花瓶は、また更にテーブルに「接地」していて、ということですから、

最終的には、地球に「接地」しているということに成るわけですね。


しかし、その地球は宇宙に「浮遊」していますよね。

つまり、どんなに「具象的な絵」であっても、

本当は「接地」と「浮遊」の両方の要素を持っているということなんですね。


ただ、「具象画」の場合は、

そのどちらか一方の要素だけを切り取って見せていることが多いということなんだと思います。


そして、私の場合は、その両方の要素を「絵画空間」に描き入れようということですね。

そうすることで、「接地」と「浮遊」の間の「非現実的な位置」を創り出しているわけです。
(自分でそう思っているだけですけどね)


私の場合、「背景」にあたる部分と、
(「空間」も、表現しますから、「背景」と言う感覚もあります)

主題としての「モノ」の部分との間の層に、

「絵画の枠からフレーム・アウトする部分」を描くことで、

「接地」と「浮遊」の間の「非現実的な位置」を作っていることが多いですね。


「絵画の枠からフレーム・アウトする部分」と言うのは、

「接地」と「浮遊」のどちらともとれると思うんですね。


つまり、フレーム・アウトした先がどうなっているかがわかりませんから、

それが「接地」しているのか「浮遊」しているのか、ということが曖昧に成るわけですね。


読んだ方は、ナニ言ってんのかサッパリわかんないでしょうが、

それはそれで、ご愁傷さまです。


でも、、なんとなくこの問題はクリアーできたような気がして来ているので、

よかったなと。

そんな風に思っております。


「よかったな、じゃネェーよ!」


この記事を最後までお読みに成った方がいらっしゃれば、

それはそれで、謹んでお悔やみを申し上げます。



絵画空間における「空」と「壁」

前の記事と似たようなことです。

たぶん「こんなモン読まなきゃよかったよ!」と言う方が多いと思いますので、

そういう方は、ここで思いとどまってください。


さて、前の記事と似たような話ですけど、

私の場合、「抽象画」なんですけど、「モノ」を描くことを目指しております。

そこで、いろいろな問題に直面せざるを得ないことがあるわけですね。


前の記事の〈絵画空間における「接地」と「浮遊」〉も、その一つなんですが、

もう一つの主な問題として、

【絵画空間における「空」と「壁」】と呼んでいることがあるんですねぇ。
(まっ、いま名付けたんですけど)


前の記事にも書いたんですけど、

私の場合、「モノ」を描くことによって必然的に、

「空間」も描くことに成っているわけです。


つまり、「なんとなく空間を感じさせる」と言うのではなくて、

「ここは縦・横・奥行きのある空間ですよ」と言う表現を使うということですね。

「モノ」を「実体」として描くと、どうしてもこれが必要になってくると思います。

まぁ、要するに「場所」や「位置」を表現するということだと言えばいいんじゃないかと思います。

「モノがある場所」ですね。


そこで、出て来るのが、この〈絵画空間における「空」と「壁」〉ということに成ります。


ここで言う「空」は、「抜けていく空間」、

言い換えれば「無限の奥行」ですね。

「無限遠の距離感」と言うようなことです。


また、ここで言う「壁」とは、「抜けていかない空間」、

言い換えれば「有限の奥行」です。

まぁ、「距離が設定された距離感」と言う感じですか。


この二つを「風景画」と「室内画」に置き換えて言うと、

「空」と「壁」に当たるんだろうということですね。


そこで、問題としては、これも前の記事と同じように、

やはり、「具体性」は欲しいんですが、「現実性」は欲しくないということがあるわけですね。

それで、「空」と「壁」のどちらか一方ではなく、

その二つを両立させるようなことが必要に成ってきたわけなのです。


どちらか一方に限定してしまうと、どうしても「現実感」が出過ぎてしまうということですね。

でも、その辺をボヤカシたり、ゴマカシたりはしたくないので、

両立させようと思ったわけです。


つまり、見ようによっては無限遠の「空」にも見えるし、

違う見方をすれば、突き当る「壁」が感じられるというような、

そういう「具体性はあるけど現実性が薄い空間表現」を目指しているわけですねぇ。


こんなこと言うと、

『おいおい、随分と偉そうじゃないか?』と言われそうですが、

今のところ、ほぼ偶発的に「そんな感じ」に成っているという段階です。


とっても、ムズカシイです。
(私にはムズカシイです)

前の記事に書いた「接地」と「浮遊」に比べると、

かなり”ビミョー”な表現でしかそうならないみたいですね。

しかも、それが、まったく予測できません。


とにかく、「空間を抜こう!」とすると、

いきなり【「無限遠」寄り】になってしまいますし、

これじゃあダメだというんで、「抜けていかない空間を作ろう!」となると、

今度は、いきなり距離が設定された【「壁」寄り】に成ってしまいます。


まぁ、それでも何度もやっていると、少しは慣れて来るもので、

このところ、ある程度は要領を得てきています。
(それでも、この表現にはソートー時間がかかってしまうんですが)


そんな感じで、「空のような壁」または「壁のような空」を作っております。

その上に「接地」と「浮遊」が両立した「位置」を作って、

さて、そこに描く「モノ」ですね。


今のところ、ここが、まだ弱いと思っています。

「形」ですね。

「モノの形」が弱いんですね。


要するに、「現実のナニカ」に似てきてしまったり、

「漠然とした形」になってしまったりすることが多いということですね。


まぁ、なに言ってるかサッパリわかんなかったでしょうが、

最後まで読む人も居ないでしょうから、

「じゃあ、いいんじゃないの?」

ということで。



「抽象表現」における「現実性」と「非現実性」

またまた、前々回から続けて似たような記事です。

読まないに越したことは無いと思いますが、

「イミガワカラナイ言葉の羅列」みたいなのがお好きな方はどうぞ。


さて、またまたまた、自分の絵についての話で恐縮なんですけど、

私が目指しているところの

『抽象画なんだけど、「モノ」を描こうと思ってるんだよ!』ということにまつわる問題ですね。


前回、前々回の記事でも書いたんですけど、

「抽象画」にも「具体性」があったっていいんじゃないの?ということでやっているわけですが、

      ※私は「抽象」と「具象」は対立する概念ではないと思っています。
        むしろ、常に両立している概念ではないかと思いますし、「具体性
        のない抽象」も「抽象性のない具象」もあり得ないと思っています。
        ですから、より積極的に「具体性を追究する抽象」があっても、
        何の問題もないという風に思っているわけです。

そこはやっぱり「抽象画」ですから、

「具体性」を求める上でも「現実性」は出来るだけ出したくないわけです。


でも、「具体性」は出来るだけ高めたいわけですから、

何かしらの形で「現実味」を出していく必要があるんだと思うわけです。


まぁ、ショッパナから矛盾してますよね。


これは、上手く説明できる気がしないんですけど、

まぁ、人間が「現実」だと思っている「イワユル現実」とは「チガウ現実」を創り出して、

それを、出来るだけ”リアル”に表現していこうということです。


所詮、「チガウ現実」ですから「現実」ではないわけで、

それを「現実」とか「リアル」と呼んでいいのか?っていう問題はあるんでしょうが、

他の言葉を使っても意味が伝わりにくいのは同じようなものなので、

一応、「非現実の中の現実性」ということにしています。


この「非現実の中の現実性」が、

「抽象表現」を再活性化してくれるんじゃないかと思うわけですね。


つまり、「現実」とか「具体性」を避けよう避けようとしてきたために

「実体感」や「手ごたえ」を失ってしまった「抽象表現」に、

そういう「シッカリした部分」を取り戻せるんじゃないかなと言う風に思うわけですね。


「実体」や「肉体」を取り戻すことで、

「抽象表現」は再活性化するような気がしますし、

「抽象表現」に「ある種の幅」を展開できるようになるんじゃないかと思います。


もともと、「抽象表現」は「自由な表現形態」を求めて、現れて来たんだと思うんですが、

それが、実際にやって行くとだんだん「不自由」に成って来たんだと思います。

「抽象性」だけを追究していくと、どんどん「表現の幅」が狭く成って行って、

身動きができないように成るんだと思います。


やはり、「抽象」と「具象」は両立していて、初めて「実体」を持ち得るんじゃなかと思うわけです。

どちらか一方に偏ると、平面的で、「実体感」のない世界や、

無機質的で「精神性」のない世界しか表現できないように思います。


さて、そこで、「非現実の中の現実性」ですが、

やっぱり「そのまんまの現実性」では、ちょっとダメで、

「現実のモノ」に「現実の現実性」があるように、

「非現実のモノ」には「非現実の現実性」があっていいと思うわけですね。


そこで、「現実の現実性」とはチョト・チガウ、

「非現実の現実性」を作り出す必要があるわけです。


「現実の現実性」には無いような「ナマナマしさ」や「臨場感」を

「非現実のモノ」において、創り出していけたらいいんじゃないの?

と言う風に思うわけですね。


これまた、矛盾した言い方になってしまうんですけど、

「リアルであればあるほど非現実的に見えるような現実感」と言った感じでしょうか。


とにかく、そういうような「非現実の中の現実性」を

いつも念頭に置いて、絵を描いています。


もちろん、「そういうことが出来ますよ」って言うことじゃないですよ。

そう上手くはいかないですけど、「目指すところとして」ということですね。


やっぱり「現実」に引っ張られますし、

また、「そうじゃないとウソなんじゃないか?」っていう気もします。

「現実」を「外そう外そうとする」のも「チガウかな」と思うわけですね。

だから、あまり「奇抜な形」に成ることは避けようと思ってもいます。

そうすると、無意識のうちに「現実のナニカ」に似てきたりします。

       ※ 私の場合、「現実のナニカに近いか遠いか」と言う基準はある程度捨てて、
         「自分の中から出て来たものかどうか」と言う基準を重視するようにしています。


こんな状態ですから、いつも迷っています。

でも、迷った結果がなるべく”ブレない”ようにしようと思っています。


「なっ!」 (いや、自分に)



「絵を並べて見比べる」というやり方

製作中の「絵」を何枚か並べてみるというやり方についてです。


自分が描いている絵というのは、どうしても客観的に見られなくなってくるものだと思うんですが、

たとえ、全部自分の絵だったとしても、何枚かの絵を並べて見比べると、

なぜか、それらの絵が、客観的に見えて来るということがあるわけです。


もちろん、人の絵と見比べれば、より客観的に見られるハズなんですが、

これをやってしまうと、他人との比較にとらわれて、

結果的に「自分の絵」が見えなくなってしまうということがあるので、

これはなるべくやらないようにしています。


それで、結果的に自分の絵を並べてみて、

ナントナク「客観的」に成ったような気分に成っているというわけです。


少なくとも、その時点で自分が気に入っている絵と並べてみて、

明らかに「画面から来るチカラ」が無いなと思ったら、

「その絵」は、そのまま描いていても「ラチが明かない」ということなんだと思います。


そんな風にしていくことで、

その時点での「自己ベスト」を目標にすることが出来るということですね。

そして、それを足掛かりにして、少しづつ「自己ベスト」を更新していこうということです。


一枚の絵を描いている時には、「その絵」の中にはまり込んでいるので、

「客観的」であることは、なかなか難しいと思いますが、

数枚の絵を並べて見比べると、意外なほど「客観的」に見ることが出来ます。
(二枚だと難しいような気がします)

たぶん、一枚一枚の絵としてではなく、

数枚の絵を同時に視界に入れると、「数枚の絵全体」を「一つのモノ」として見るので、

その中のどこが弱いかがすぐにわかるんじゃないかと思います。


逆に、気に入らなかった絵の「イイ部分」が見えてくるということもあるようです。

『どうもアカンな!』と思っていた絵をほかの絵と並べてみることで、

『こういう方向にもっていったらいいんじゃないか?』というようなことが見えてくることがあります。

単独で見ていたら、とうてい見えてこなかっただろうなと思うようなこともあったりしますね。


そういうわけで、私の場合、イーゼルに後付けの部材を取り付けて、

上下二段に数枚の絵を並べて見られるようにしています。
(私の場合、20号くらいまでのサイズで描いていますので)


大きい絵の場合は、なかなか難しいでしょうが、

このやり方は、けっこう有効だと思っています。


製作中の絵を、並べて見るっていうところがポイントですね。

描きあがった絵だけではなくて、描きかけの時点で比べると、

よく見える部分があると思います。

中に、描き上がっている絵を混ぜるのも有効だと思います。


それから、同時に視界に入るようにするというのも大事なんじゃないかと思います。

なんとなく、立て続けに見れば同時に見るのと変わらないんじゃないかと思ってしまうんですが、

同時に見ないと「全体」が「一つのモノ」に見えてこないので、

効果が薄いと思いますね。


まっ、そんな感じで、取り敢えずおススメです。



「額の意味」

絵を額装しないことは、もはや”当たり前”と言っても過言ではなくなってきているわけですが、

私は、やっぱり「絵」にとって「額」は必要なモノなんじゃないかと思っているわけです。


現在の傾向として、「アート」であればあるほど「額装しない」と言う感じもあると思うんですけど、

私は、むしろ、それとは逆に「絵」を「芸術」として独立した状態に保つためにこそ、

「額」は必要だと思うわけなのです。

つまり、「額」という境界線の内側は「芸術の世界ですよ」という

「コトワリ」として「額」があったほうがいいんじゃないかと思っているわけですね。


そして、そこからさらに発展させていって、

「額」に「他の意味」を付け加えられたら、もう少しいいんじゃないかなとも思っているわけなのです。


もともと、「額」には「絵」を装飾的に飾ることや、

「絵」をインテリアとして他の調度品と馴染ませることなどの「意味」があったんだと思いますが、

それらは、どちらかと言うと

「絵」を「装飾品」として考えていたことから発生していた「意味」であったように思うわけです。


しかし、現在「絵」は、昔よりも「芸術」としての性質が一層強くなっているわけですから、

それに合わせて「額の意味」も変わっていって当然だったのだと思います。


そこで、「装飾品であること」を離れて「芸術」であることを強く表すために、

「額装を嫌う傾向」が出てきたのだと思うわけです。


しかし、本来は「額」をやめてしまうのではなく、

変わってきた「額の意味」に合わせた、新たな「意味づけ」をする必要があったように思うのです。


先に述べた「芸術世界」の境界線と言うのも一つの「額の意味」だと思いますが、

それは、かなり昔から存在していた「額の意味」で、

「装飾としての意味」と同時進行で、

「額の意味」を形成してきたものだと思います。


それだけでも、「額の意味」として十分に成り立っているとは思いますが、

やはり、時代の変化に伴って「芸術の意味」が変化していくのと同じように

「額の意味」も変化することを要求されているように思いますので、

ここは、やはり「新たな額の意味」を作り出す必要性があるんじゃないかと思っているわけです。


私が考えるところの「新たな額の意味」とは、

先に述べた「外の世界との境界であること」と同時に

「外の世界とのツナギであること」です。

つまり、「絵の世界」と「外の世界」を区切る結界であると同時に、

「外の世界」と「絵の中の世界」をつなぐ役割を「額」に担わせようということですね。


これは、位置取りとしては、「装飾としての意味」と、ほぼ同じ位置取りに成るわけですが、

違うのは、「額」を含めた「絵」を「装飾品」として捉えて、周りの調度に合わせるのではなく、

「絵」と「額」が一体となった「芸術」として、

周囲の「装飾」とは無関係に、

独立した芸術作品としてより一層「自立した存在感」を創り出そうとするところです。


「アート」であることを強調しようとしたはずの「無額」が、

むしろ、オシャレなインテリアになってしまっていることは、ほぼ間違いのないことだと思います。


もちろん「装飾性」を追究した「アート」があってもワルイとは思いませんが、

本来、「自己表現としての芸術性」を追究していたはずなのに、

いつの間にか「インテリア化」してしまっているような場合は、

軌道修正する必要があるのだと思いますね。


そういう意味でも、

「額」に「新たな意味」を作り出すことが必要なんじゃないかと思っているわけなんですね。


そこで、私が考えているところの

「外の世界」と「絵の中の世界」を「ツナグ」と言うのはどういうことかということを

次の記事に書きます。


『それ、読む人居ますかねぇ?』

『えーっと、忘れたころに、自分で読もーっと!』



「絵の中の枠」と「絵の外の枠」

さて、前の記事の続きに成ります。

「額」についてです。


「額」には「新たな額の意味」が与えられる必要が出てきているんじゃないかと言うことです。


そのためには、「絵の中の枠」と「絵の外の枠」という考えが必要に成ると思っています。


つまり、「絵の中の世界」と「絵の外の世界」それぞれに「枠」を設定して、

その二つを絡ませることで、「外の世界」と「中の世界」をつなぎ合わせようというわけです。


なんでそんなことをするのかと言えば、「多重化」することが必要だと思っているからです。


「芸術」に限らずどんな分野でも言えることだと思いますけど、

一つの「切り口」だけで表現しようとすると、ある程度のところで限界が来てしまうと思います。

そこで、「新たな切り口」を模索することに成るわけですが、

現在の「芸術」においては、その「新たな切り口」が、

「芸術」という領域から外れてきているという傾向があると思うわけです。

つまり、もはや「芸術」を逸脱したものの中にしか

「新しい切り口」が見つけ出せなくなってきているということだと思うのです。


要するに、「芸術」と「芸術じゃないモノ」を「ツナグ」と言う作業が必要なんじゃないのかなと。

そして、そういう作業をこれまで、ナントナク手つかずにしてきたんじゃないのかなと思うわけです。


でも、手つかずにした結果「芸術」から逸脱してきているということならば、

逸脱して「そっち側」に行ってしまうよりは、

その前に「そっち側のモノ」を取り込んで、

「こっち側」に引き込んでしまえばいいんじゃないかと思うわけです。


こういうことは「芸術」以外の分野では、割と普通に行われていることのような気もするんですが、

「芸術」においてだけは手つかずのままに成っていたように思います。

おそらく、そういう「ツナグ作業」が行われる前に、「逸脱」へ向かってしまって、

その方向付けがずっと変えられなくなってしまったということじゃないでしょうか?
(そういう「逸脱」が許された唯一の分野が「芸術」だったということでしょう)


その手つかずにされてきた「ツナグ作業」に当たるのが「多重化」することだと思うわけです。


つまり、「芸術じゃないモノ」の方に「新しい切り口」を見つけ出して、

そこに、「ポンッ!」とジャンプしてしまうのではなくて、

あくまで、「芸術の中」で「多重化」するということですね。

「芸術」の側に「芸術じゃないモノ」の方を引き入れるわけです。


その為に「ツナグ」と言う作業が必要に成ると思っているわけです。

その作業を「額」でやろうということですね。


現在、私が考えている「多重化」は、

「絵の中の枠」と「絵の外の枠」という「二重の枠」が基本に成っています。


「絵の中の枠」と言うのは、「絵の中」に「枠」の性質を持った部分を描き込むということです。

過去においても、いろいろな画家がいろいろな形で、

「絵の中」に「枠」の性質を持った部分を構成した例がありますが、

私の知る限りでは、「多重化」と言えるような例はないように思います。

     ※完全に写実的に「額」を描き込むという、いわゆる「トロンプルイユ(だまし絵のようなもの)」
       の手法では「レンブラント」の「額の中の少女」という絵は完成度が高いと思いますが、
       これは、「外の世界」を取り込んだとは言えないような気がしています。
       その絵で、取り込まれたのは「額」までですね。

       他では、「クリムト」による「装飾的な部分」や「スーラ」の「額」に打たれた点描などがあり
       ますが、どちらも「多重化」を目的として行われたかどうかはわかりません。
       「スーラ」の場合は「絵の外の枠」に当たると思います。
       「クリムト」の方は、完成度は高いと思いますが、境界線が曖昧なために「枠」と言うよりも
       「背景」と言った方がイイと思います。

       あとは、「芸術の20世紀」において、「アンフォルメル」の画家たちの中で、「枠」に近い
       感覚を使っているものがあると思いますが、これも「多重化」という意味では完成形に達し
       ていないように思います。(というか、やや完成度が低いように思いますね)
       こちらは私にとっての「喪失の世紀」に成りますので、ここでは具体的に触れません。
       

自分でやってみてよくわかりましたが、

まず、大変です。


まぁ、それは労力や時間の問題ですが、

それ以上に、問題なのは、かなりの割合で、「絵」が犠牲に成ることです。

つまり、「絵」と「枠」を相互に作用させ合うということは、

「枠」によって、ある程度「絵」が喰われてしまうことに成るわけです。

だから、かなり「強い絵」を描く必要があるということに成ります。
(それでも、喰われますけどね)


この「絵を喰ってしまう」というところで、

過去の画家たちは「絵」を切り捨てられなかったんだと思います。

私の場合、「これしかない!」と思って、

断腸の思いで「ある程度、絵を切り捨てる」と言う作業をやっているつもりです。


さて、ちょっと話が逸れてしまいましたが、

「絵の中の枠」と言うのは「絵の中に構成された縁取り効果」と言うことに成ります。


私の場合は、現時点で、以下のことを意識して考えています。

1.はっきりとした境界線であることを示す。
2.「枠」にも「絵」としての性質を与える。
3.「絵」と「枠」が相互に関連し合っていることを表現する。
4.四辺のうち二辺を閉鎖し、二辺を解放する。
  (二辺だけで「枠」であることを表現する)
5.「絵の中の枠」は、出来るだけ明快な形と色で描く。


次は、「絵の外の枠」の方です。

これが、いわゆる「額」に成ります。

チョット、長く成ったので、次に続けます。



「絵の中の枠」と「絵の外の枠」(続き)

前の記事の続きです。


次は、「絵の外の枠」の方です。

これが、いわゆる「額」に成ります。


ただ、今までにあるような「額」とは少し概念が違ってきます。

今までの「額」は、あくまで「絵」をショーアップするためのモノ

つまり「絵を見やすくするためのモノ」でしたが、

この「絵の外の枠」では、「絵」との相互作用が「多重化の条件」に成ってきますので、

結果として、「絵」を見せるためと言うよりも、

「絵」に対して働きかけるという性質が強くなります。


従って、前の記事に書いたように「絵を喰ってしまう」と言うことも出てくるわけです。

また、このことは「絵の中の枠」以上に「絵の外の枠」との関係で強く表れて来ます。

要するに、「絵を見やすくする額」ではなく、

「絵を見にくくしてしまう額」と言うことに成ります。


『絵が見にくくなったんじゃ本末転倒だろ!』と言われるんでしょうが、

それがどうしても必要だと思った時は、

「ナニカ」を切り捨てることが必要に成って来るということもあるんだと思っています。


『絵が見にくくなること』=『絵がダメになること』ではないと思いますし、

『絵が見やすいこと』=『絵がよく成ること』でもないと思います。


「絵の見やすさ」を少し犠牲にしてでも、

その絵における「意味」を創り出したいわけです。


「現在の芸術」が進んでいる方向に従って、

「芸術の領域」を「芸術の外側」に広げていってしまえば、

「芸術の持つ意味」は失われていくでしょうし、

また、漫然と現状に留まって居ても、そこに「意味」が生まれることは無いでしょう。


そうなると、どうも「芸術の領域」の中で「多重化」することくらいしか思いつかないので、

これをやっていこうということに成るわけです。


そこで「絵の中に侵入する額」という発想で、

「絵の外の枠」について考えているわけです。


さらには、額によって「外の世界とのつながり」も現せたら、一層いいと思っています。

これは、「絵から発散する額」です。


ただ、まだ、実物ができていないので、その辺のところはまだよくわかりません。


取り敢えず、現在は「内額」と「外額」」の「二重額」という構想で考えています。

つまり「絵の中の枠」と合わせると「三重枠」と言うことに成ります。


これを簡略化すると、

「絵」~「絵の中の枠」~「内額」~「外額」

となります。


「内額」~「外額」の部分が「絵の外の枠」に当たります。


これらの間で、それぞれ境界線を越境して相互に「侵入」しあう形です。

越境していながら「結界」としての性質を失わないために、

「多重化」する必要があるということですね。


取り敢えず、こんな感じで「絵の中の枠」と「絵の外の枠」を考えております。


正直言って、出来上がるかどうかはわかりません。

「絵」を描くだけでもアップアップの状態です。


まして、いつできるかなんて見当もつきませんが、

私にとって、「芸術」とはこんなことをやることなんじゃないかと思っています。


「ダメでもともと」です。

『けっこう疲れて来たけどね』

そんな風に思っているとこです。





はたして「描写力」が必要なほどのモノを「創造」することが出来るのか?

『「抽象画」にも「描写力」は必要なモノなのだ!』と言われることは多いですし、

『いや、むしろ「抽象画」にこそ「描写力」が必要なのだ!』

と言われているのもよく聞くような気がするわけです。


でも、その「描写力」って本当に必要なんでしょうか?


確かに、「描写力」が全く無かったら、何も表すことが出来ないですから、

それは、必要なんだと思うわけですが、

ただし、問題は、「それがどの程度か?」と言うことなんじゃないかと思うわけです。


また、それ以前に、「抽象」の場合、

『はたして、「描写力」が必要なほどのモノを「創造」することが出来るのか?』

という問題があるわけで、

具体性のない所から、「ナニカ」を創り出す「抽象表現と言う作業」において、

そこまで、繊細で厳密な「描写力」が必要に成るほどの

「非現実的なナニカ」を創り出すのは、かなり大変だと思うわけです。


そんなことが出来るなら、それは素晴らしいことだと思いますし、

それならば、当然「描写力」も必要に成るんでしょうが、

現実には、なかなか難しいんじゃないかと思ってしまうわけなのです。


実際のところ、『頭の中で「ナニでもないナニカ」を創り出して見ろ!』と言われると、

どうやら、人間の頭と言うのは、そういうことにあまり向いていないようで、

かなり苦労するわけです。


まして、「描写力」が必要なほどの「繊細なナニカ」を創り出そうと思ったら、

その時点で、あっという間に行き詰ってしまうような気がします。


まぁ、人間の頭で創り出せるものと言えば、

『なんとなく形があるぅ?』ぐらいの「曖昧なモノ」なんじゃないでしょうか?

そういうものを創り出すのでさえ、四苦八苦&七転八倒と言うのが現実だと思います。


さらに言うと、そういう「曖昧なモノ」を、あまり描写しようとすると、

ミョーに整然とした「ワケガワカラナイのに単純」と言ったツマラナイものになってしまうような気がします。

「単純明快」と言う言葉がありますが、そういうのは「単純難解」だと思うわけです。


私といたしましては、どちらかと言うと「複雑明快」と言う路線を目指していますので、

これは、近づきたくない正反対の方向なわけですね。


自分のことはともかくとしても、やはり、「現在の抽象表現」においては、

「描写力」にかまっている余裕がないほどに、

「ナニでもないナニカを創り出すこと」に力を使う必要があると思うわけです。

そして、それを「写し取ること(=描写すること)」ではなくて、

「表現すること」に努力する方が重要なんだと思うわけです。


この表現形態を、なんと言ったらいいのかわかりませんが、

「描写」とはハッキリと違う作業だと思います。


「描写」は、「正確に写し取ること」に意味がありますが、

こちらは、「正確に」ではなく、「強く現すこと」で、意味が増すというようなことです。


「曖昧なモノ」を「曖昧に現す」のではなく、

「曖昧なモノ」を「曖昧なモノとしてクッキリと現す」と言う感じなんでしょうか。


まぁ、いずれにしても、私の場合、

描写をしている余裕はあまりないですね。

と、そんな風に思ってしまうわけなのです。



「異現実の世界」

一つの考え方として、「芸術」とは「異現実の世界」を創り出すことなんだと思っているわけです。


なんで「非現実」ではなくて「異現実」と言うかというと、

「非現実」と言うと「現実離れした」とか「現実には有り得ないような」というような感じがあって、

どうしても「奇をてらったモノを狙う」というニュアンスが含まれてしまうような気がするわけですね。

その「奇をてらった」を避けるために違う言葉を使っています。


「異現実」の方は、「今見ている現実」とは異なるものであるが、

ある種の「現実感を伴ったモノ」というイメージで考えております。

つまり、「現実離れしたモノ」や「有り得ないモノ」ではなくて、

「ミョーに現実的なモノ」とか「ナゼか有り得るような気がしてくるモノ」と言った感じです。


まぁ、「異現実」と言ってみたところで、その辺のところがどれほど違うのかわかりませんけど、

一応自分なりに、そんな風に言っているということですね。


そして、そういう「異現実の世界」を創り出すことが「芸術」だとも言えるんじゃないかと思っているわけです。


さらに言うと、私の場合は、その「異現実の世界」を「鑑賞者」に見せるだけではなく、

「鑑賞者」にその「異現実の世界」の中に入って来てもらいたいと考えているわけです。

つまり、外から眺めるのではなく、作品世界の中に入って見てもらおうというわけです。


実際、人が「芸術作品」に感動する時と言うのは、

多くの場合、無意識のうちに「その作品の世界」の中に鑑賞者が入り込んでいて、

その中で「作品の世界感」を共有出来ている時なんじゃないかと思うわけです。


そういうわけで、私の場合は出来るだけ「絵の世界」に入って行き易くなるように、

「入り口」として絵の中に「枠」を設定しているというわけです。

     ※これは「物語り」で言うところの「枠物語」(『アラビアン・ナイト』に代表されるような)
       に近いもので、「異現実の世界」への「入り口」に当たるものだと思っています。

つまり、いきなり見せられたら「違和感」を感じるようなものでも、

「枠」を通って、「異現実の世界」の中に入ってしまえば、

「違和感」よりも、むしろ「臨場感」を感じられるんじゃないかと思うわけです。

そして、そういうところで生まれるチョト・チガウ「現実感」を「異現実感」と呼んでいるわけなのです。


この手法を取ることで、本来ならば「リアリティ」を感じられないようなモノに

「ミョーなリアリティ」が生まれてくれれば面白くなるんじゃないのかなと思っているわけですね。


いずれにしても、いろんな人が持っている「異現実の世界」を見せ合うような、

そんな「芸術感」が一般的に成っていけば、

きっと「芸術」はもっと楽しい分野に成っていくんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「その絵の答え」

「一枚の絵」には、「一つの答え」があると思っているわけです。


「自己表現」として描かれた絵には、その作者なりの「答え」があるはずですし、

作者はそういう「答え」を探し出して、その絵の中に写し込む必要があるんじゃないかと思うわけです。


ここで一つ問題があって、

「その答え」を「その絵の中」で創るか、

それとも「チガウ場所」で創った「答え」をそこに写し込むのか?ということがあるわけです。


ふつう、専門的に成ればなるほど「チガウ場所」で「その答え」を用意しておいて、

それを、「本作」に移し込んでいくというスタイルをとることが多いように思います。


これは、「具象画」であれば、

デッサンやエスキースを重ねて練り上げた構図を使うというようなことで、わかりやすいですが、

「抽象画」の場合も、一見「イッパツ描き」のようでいて、

実は、けっこう「練られた図案」を使っていることも多いんじゃないかと思います。
(というか、「本当のイッパツ描き」で力のある作品を描ける人って、そうは居ないと思いますね)


でも、私の場合、人間が非常にまじめにできているので、
(本当です)

『その絵の「答え」はその絵の中で創り出さなければいけないんじゃないか?』

と思ってしまうわけなのです。

それで、「イッパツ描き」どころか「ヒャッパツ描き?」っていうようなことに成ってしまうわけです。

まぁ、一番効率の悪い描き方と言うことですね。

どうやら、それが私にとっての「マイ・スタイル」らしいです。


私の場合、そういう「制作過程の紆余曲折」を現したいというようなところもありますので、

どうしても、そうなってしまうのだと思います。


いや、実を言えば、『制作過程をどこか短縮できないか?』

『こんなところに時間をかけなくてもいいんじゃないか?』と、いつもセコセコと考えているので、

ちっとも、この「マイ・スタイル」を受け入れられているわけではないんですけど

そうかと言って、「その絵の答え」が「その絵の中で創られていない」ことにも、

どうも釈然としないので、しかたなく、そんなことをやっております。


チョット、馴染んできたけど。



「継承」と「モノマネ」のチガイ

「継承」することは大事なことだと思うわけですが、それが「モノマネ」とやや近いことに成るわけです。


やはり、「モノマネ」に陥るのは避けたいわけですから、

「継承」と「モノマネ」を見分ける必要があるんじゃないかと思います。


私は、「継承」と「モノマネ」のチガイは、

受け継いでいるのが「スタイル」であるかどうかで分かれているんだと思うのです。

つまり、「スタイル」を受け継いでしまっている場合は「モノマネ」であるということです。

これは、意図的にマネしている場合も、そうでない場合も同じだと思います。


反対に「スタイル」以外のモノを受け継いでいる場合であれば、

よほど露骨にマネしなければ「継承」に成ると思うわけですね。
(というか、「スタイル」以外のモノは、露骨には成りようがないという感じがしますね)


「スタイル」って、「その人らしさ」だと思うんですよねぇ。

だから、『そこはマネしちゃダメなんじゃないの?』って思うわけですね。

それに、『そこをマネしちゃったら、「自分らしさ」はなくなっちゃうんじゃないの?』と言うことです。


こんなことを言うと、『マネしていいモノなんてあるわけないだろ!』と言う人が居るかもしれませんが、

実際は、人間はナニカの影響から逃れられませんし、

ナニモノにも影響されないモノなどほとんど生み出すことは出来ないと思います。

だから、そんな風に言っている人は、「自分のマネ」に気が付いていないだけだと思うわけです。

そういうのこそ、むしろ、危険だと思いますね。


さて、そこで「他人のスタイル」に影響されてしまわないようにするにはどうすればいいのか?

それには、「自分のスタイル」を創り出すことしかないわけです。

「自分のスタイル」だと確信できるものを創り出していれば、

「他人のスタイル」に振りまわされなくなるでしょうし、

逆に、「自分のスタイル」がないと、どうしても「他人のスタイル」に乗っ取られて、

しかも、それに気が付かなくなってしまうでしょう。


それで、なんとしてでも「自分のスタイル」を創り出そうと思ってやってきて、

なんとなくできてきたかなって思っているんですけど、

出来て来た「ソレ」が、どうも。


かなり、厄介なみたいなんで困ってるわけですが、
(時間的に難ありな感じ)

たぶん、もう離れられません。


残念。・・・だけど、少しイイのかな?

そんな感じ。



「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」

現代の絵画は

「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」という二つの路線に、

かなりクッキリと別れてしまっていると思うわけです。

 ※この記事は「美術館で芸術を見る」という前提で描いていますが、
  私自身は「芸術が創り出す幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、
  「日常空間」の中に「非日常空間」を生み出すことが出来れば、そ
  れが理想的だと思っております。

要するに、「家に飾るような絵」と「美術館で見るような絵」と言うことになるわけですが、

この二つは、「インテリアとしての絵」と「芸術表現としての絵」と言ってもいいと思います。

これをさらに言い換えれば、

「何の気なしに見ても疲れない絵」と「見るとチョトつかれる絵」と言うことになります。


この二つが、別れてしまっていることは、ある程度仕方がないことだと思うのです。

やっぱり、目的が違うというところがあるわけですし、

目的が違うものは、別れていたほうがイイような気もします。
(やや、離れ過ぎのような気もしますけど)


しかし、この「二種類の絵」が、実際には「違うもの」に成っているのに、

混同されていることが非常に多いと思うわけです。


これは、「芸術」や「絵画」の歴史を考えれば当然のことで、

もともと「絵画」は「インテリア」などの装飾品の一種として成り立ってきたわけで、

そこから、徐々に「芸術(表現)」としての性質を持つようになっていったのでしょうから、

ある時点から、突然「芸術」に成ったということでは無いわけで、

「芸術性」を持つようになった後も、長い間「インテリア性」を同時に要求され続けてきたわけです。


それが、「芸術の20世紀」に入ったころからは、

「絵画」などに「純粋な芸術性」が求められるようになっていったことで、

徐々に「インテリア性から離れた絵」が現れてきたんだと思います。

と言っても、「インテリア性から離れた絵」が出てきた後も、

「インテリアとしての絵」は存在し続けるわけですし、需要もあるわけですから、

当然高く評価されるものも出てくるわけで、

現在に至るまで、常に「芸術の流行」は

この「二種類の絵」の間を行ったり来たりしてきたと言ってもいいと思います。


まぁ、そんな状態ですから、この「二種類の絵」が混同されているのも当然と言えば当然ですのことですね。


いずれにしても、この「純粋な芸術性」という需要を満たすために、

「美術館」と言う「非日常的な空間」が、一般化していったんでしょう。


そして、こんどは、その建てられた「美術館」に見合うような「作品」が、

「創作者」の側に要求されるようになっていったというわけです。


その後は、「美術館」が巨大化すれば、その「巨大化した美術館」に見合う「作品」が、

「美術館」が近代化すれば、そういう「近代的な空間」に見合うような「作品」が

要求されるようになっていくという状況に成っているともいえるわけです。


つまり、もう「芸術」が主導しているのではなく、「メディア」が主導しているというくらいで、
(これは、「美術館」に限らず、「画廊」でも「マスコミ」でも同じようなことが言えると思います)

「芸術」は、それに合わせてついて行くのに精いっぱいというような状態と言えば言い過ぎかもしれませんが、

「創作者」が「メディア側の要求」に影響されている、

あるいは、「メディア側の期待」に応えた「創作者」が生き残っていくというのは事実でしょう。


そして、この「メディア側の判断」が、やや「客観性」や「純粋性」を欠いている場合があるわけです。


もともと「純粋な芸術性」という需要を満たすべく建てられた「美術館」であったハズが、

その「美術館」によって「芸術の純粋性」が損なわれようとしているというところがあるわけです。


「インテリアとしての絵」に「芸術の純粋性」を求めるのには、もともと無理があるでしょうし、
(目的からして違うわけですから)

「芸術表現としての絵」は「非日常空間を必要としますから、

そういう空間を運営している「メディア」の影響を避けられません。

そうなると、どちらにも「純粋な芸術」は無く成ってしまうわけです。


「美術館」はもう少し「開かれた空間」であってもイイように思います。

「無選別の作品」を展示するような日があってもいいと思いますし、

価値の確定していない作品を買い上げる勇気を持つべきだと思います。


その為には、「美術館」が「新たな市場」を創り出す必要があります。

閉鎖的になっている「絵画市場」をオープンにして行くためにも、

「美術館」のような公共性を持った機関が「新たな市場」を作り上げる必要があると思います。


また、「キュレーター」や「学芸員」と言った考え方も変えていった方がイイんじゃないでしょうか?

高額な有名作品を買うよりも、安い「価値の確定していない作品」をたくさん保有して、

ランダムに展示していくという考え方であれば、専門知識を持っていない人間が選んでも問題ないわけで、

ある程度のレベルにある作品をたくさん展示するというやり方もあっていいように思います。


選別の規準は「非日常空間で見る絵」ですね。
(絵に限りませんけどね)

この規準で選んでいないからツマラナクなるんだと思います。

この規準を打ち出すだけでかなり面白くなると思いますよ。

まぁ、ツマラナイ時も多いでしょうけどね。

それは、有名な画家の展示でも同じでしょ?


少なくとも、そういう「ハズレ」を楽しむっていうのも「芸術的な視点」なんじゃないのかなと。

いや、それどころか「ハズレ」こそが、実は最も「非日常的」と言ってもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。

※ここに書いたことは「芸術の現状」を踏まえた上でのことで、私個人といたしましては、「日常的な空間」の中に「非日常的な芸術」(これを「幻想」と言ってもいいと思います)が持ち込まれるように成ることや、そういうことが常識になっていくことを希望しておりますです。ハイ。




「長い題」:詩のような題

絵に「長い題」をつけようと思うように成ったのは、このブログをやっていたからじゃないかと思います。

今後も、自分の絵に「詩のような題」をつけていきたいと思っています。

  ※この記事を書いた時点で、既に「長い題」(その1~4)までを
   このブログに投稿しています。


絵があって、それに対応した「題」をつける場合もありますし、

「題」が先行していることもあります。
(むしろ、そういうパターンの方が多くなっているくらいです)

ただ、今のところ「題」に合わせた「絵」を描こうとは思っていません。

今後は、そういうパターンも出て来るかも知れませんけどね。


取り敢えず、「絵の意味」が見た人に少しでも伝わるようにしたいわけでわけすが、

なかなか、そう簡単には伝わりませんから、

せめて、『伝えたいんです!』ということだけでも伝わればと思って、これをやっております。


『詩のような』と言っても「詩」ではありません。

あくまで「題」です。

ただ、そこに「意味」を持たせたかったわけです。


はじめのうちは、単に「長い題」と言っていたんですが、

だんだん「意味性」が強くなってきた感じがするので、「詩のような題」=「詩題」と呼ぶことにいたしました。


そんなわけで、「詩題」=「ポエティック・タイトル」です。




「長い題」=詩のような題(その1)

先日このブログの記事で、「無題と言う題」はなるべくなら使いたくないので、「秘題」という考え方をしていきたいというようなことを書いたので、それとは、やや反対方向の話に成ってしまうんですが、ここでは「長い題」について考えてみました。

  ※「秘題」と言うのは「テーマ」=「タイトル」=「題」がないわけではなく、
   でも、それを言葉にするのは難しいので、『題はあるけど隠されて
   いる』というような意味です。
   これも「姿勢」としては持ち続けていきたいと思っています。

「長い題」と言っても、ただ単に”「題」が長い”というのではなく、どちらかと言うと、「文章」としてある程度の独立した内容を持った「題」と言うことです。

イメージとしては「詩」に近いと思います。

必ずしも「絵」の内容と一致しているということではなく、それでいて「絵」ともつながりを感じるような、そういう「文章(詩)」を「題」として考えているわけですね。

私の場合は、このことに限らず、いろいろな方向からの「芸術の多重化」と言うのを考えているので、このようなことをついつい考えてしまうというわけなのです。

と言っても、「絵」がなかったら、なにを言っているのかサッパリわかりまヘンやろから、ここから先を読む方は、その点、十分覚悟してお読みくださいまし。

『・・・・さてと・・・読む人がほとんどいなくなったところで』

もともと、この「長い題」の発想は「額」からきています。
私は、「芸術」は「多重化」していく方向に向かうしかないと思っているので、いろいろな意味での「多重化」を考えていて、その一つが「額と絵の間の多重化」なんですが、「多重化」の中で、比較的難易度が高いのが「美術」と「言葉」との間の「多重化」だと思うわけです。

でも、もともとあった「額と絵の間の多重化」という考えの中で、「額」を使えば、「絵と言葉の間の多重化」も行けるんじゃないかと思っていたわけです。

「美術」は「視覚的な芸術」ですから、視覚的な表現を含まない「言葉」とはギャップが大きすぎて、「多重化」することが「わざとらしさ」になってしまうような気がするわけですね。
(これは「音楽」などの「音響表現」にも言えることかもしれません。そちらはまだ考えてませんけど)

たとえば「絵」の中に文字が書き込まれていることがありますけど、その「言葉」に意味があればあるほど、どうしても、『純粋な絵と言えるのか?』というような「違和感」が出てきてしまうと思います。

そこで、『額になら文字を入れてもいいんじゃないか?』と思ったわけです。

当初は、「額」に着色する予定でしたから、その塗装に紛れたような形で、『読もうとすれば読めるけど、敢えて読もうとしなければ「額の塗装」に見える』と言うような、そんな感じで「文章」を入れてみようかなと思っていたわけです。
(これも一種の「秘題」ですね)

ところが、実際に「額」を作ってみたら、そんな余裕は木っ端みじんに吹き飛んでしまって、とても塗装まで辿り付けずに現在に至る、というところです。

しかも、その過程で、「額」自体の構想がどんどん「多重化」していって、「文章」の入り込む余地はもう無く成ってしまいました。

それで、しばらくの間「言葉との多重化」については、ホッタラカシにしていたんですね。
でも、ある時、描いていてどうしても気に入らない絵があって、その絵は、ボツにしようと思っていたんですが、なぜか、その絵の「題」だけが唐突に浮かんで来たということがあって、その「題」が「長い題」だったというわけです。

その「長い題」は「手紙」のようなもので、十数行ほどの文でできていました。
その「手紙みたいな題」っていうのが、気に入ったので、『こういう感じも悪くないんじゃないの?』と思うようになったというわけです。

でも、いくら「題」が気に入っても、絵は気に入らないままだったので、他の絵にも「長い題」を考えたんですが、そういう「手紙みたいな題」は、今のところ出来ていません。

まぁ、それでも二十数編ほどの「詩」のような「題」が出来ています。

なんとなく、これらも気に入っています。
何よりも、悩まないのがいいですね。

私の場合「抽象画」に「題」をつけようとすると悩んでしまうんですねぇ。
『抽象は題がつけられちゃダメなんじゃないか?』みたいなところから抜け出せなくなるわけです。
ところが、独立した「詩」だと思うと、意外と悩まずに思い着くんですね。
そして、その思いついたことが割とスンナリと「文」に成るわけです。

こんな事を言うと「詩」を真面目に書いている人には怒られてしまうんでしょうが、「文学」として「詩」をやろうと思っているわけでもないので、そんなにこだわらずに、書きっぱなしでもさほど気に成らないので、気が楽です。
(気が付くとけっこう直したりしてますけどね)

さて、このまま終わるのは、さすがに気が引けるので、最後に「長い題」の例を挙げておきます。
これらの「題」は必ずしも一つの絵に一つの「題」と言うことではなく、
入れ替え可能な場合もあると思っています。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」のようなものだと思ってください。

それから、最後のが最初に思いついた「手紙みたいな題」です。
その絵はいまだに気に入らないので今のところボツですね。
「題」だけ残っちゃいました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひかりとは

ひかりとは いったいなになのか


すべてのものを みえさせる

ひかりとは 

ひかりとは いったいなになのか


すべてのいろを みえさせて

すべてのかたちも みえさせる

ひかりとは 

ひかりとは いったいなになのか


すべてのかげを つくりだし 

すべてのかげを きえさせる

ひかりとは 

ひかりとは いったいなになのか


ぼくのなかを てらしだし 

きみのなかも てらしだす


あぁ ひかりとは 

そんなひかりとは いったいなになのか


『それがしりたい』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

くらくて どんよりしているけど

これは 『きぼう』を えがいたえなんだ

だから あおときいろのわくが えのなかで おどっているだろ


そのせいで このえが かえってくらくみえるとしても

それは ぼくのせいじゃないし もちろん きみのせいでもない


それは みんなのせいなんだ 


そのみんなって だれなんだろう

このえのなかには きみと ぼくしか いないというのに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もえるような いろ

もえるような くうき

もえるような せかい

じかんも くうかんも ほかのものも みんな もえつくしてしまう


そんないろ


そんないろに さわったら こおるほどつめたかった


もえるように つめたいいろ

そんないろが

えのなかでは 『ちょうどいい いろ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

よのなかは うつくしい


しんじられないことだけど

すべてのものは うつくしい


しんじられないことだけど

すべてのひとは うつくしい


しんじられないことだけど  


『それが ほんとうのこと』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きみは このえに なにをみるのか?
 

このえに なにかが かいてあるわけじゃない

きみがみたものは きっと きみがかいたんだ

きみが すばらしいとおもうとき それは きみがかいたえだ

きみが つまらないとおもうとき それも きみがかいたえだ


いま きみは

このえのなかに 『なにかを みつけださなければならない』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もしもあなたが しょくぶつだと おもわないで みたとして
      
もしもあなたが ひとだと おもわないで みたとして

もしもあなたが くうきやひかりだと おもわないで みたとして

それでも なにかが つたわるでしょうか


それでは
 
『ひとや しょくぶつや ひかりやくうき』として みたなら どうですか


それでは

もしもあなたが あおとしろの わくをとおして 
  
このえのなかに はいって みたなら どうでしょうか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この さびついてしまった ふうけいをみてくれ


うみも そらも じめんも うずをまきながら ながれこんでいるものも

すべてのものが さびついてしまっている

これを ふうけいというのだろうか


こんなところには ぜったいに いきたくない


でも えのなかだったら 

『いってみたいと おもう ばしょ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ゴッホへのてがみ』


ヴィンセント 

きみのえが ふつうになったよ

おかげで ぼくたちは こんなにじゆうになれたんだ 

ありがとう


ぼくたちも まだ なにかに しばられているけど 

あとひゃくねんもしたら みんな またすこし じゆうになれるとおもうんだ 

だから ぼくは きみよりも すこしじゆうなきもちで しんでいけそうだよ
 

もういちどいうよ

ありがとう ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

そして もうひとりのゴッホへ 

もっともっと たくさんのゴッホたちへ


これは きみたちのえだ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ついしん : ぼくは もうすこしちがうえを さがしにいこうとおもっている

        ぼくも ひゃくねんごの だれかから 

        こんなてがみを もらいたいから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きっと、文学的には、オソマツな詩なんでしょうが、自分では気に入っています。
たぶん、足りないくらいで丁度いいんだと思います。

このスタイルの「題」でいこうと思っています。



「絵の中の時間」

絵の中に「時間」ってあるんでしょうか?

これは人によって考え方がわかれるところだと思います。


過去には、絵の中に「時間」という概念を取り込もうという試みもあったように思いますけど、

現在は主流とは言えないでしょう。


やっぱり絵と「時間」はマッチしにくいんじゃないかと思います。


そこで、私の個人的な考え方なんですが、

「絵の中の時間」は「静止」であるという風に考えるようにしています。

つまり、前後に「時間の流れ」はあって、

『その流れの中の「静止した瞬間」が切り取られている』という捉え方ですね。


これ、言葉で言ってしまうと「あたりまえ」にしか聞こえないと思うんですけど、

意外と意識しにくいことのような気もするんですよね。


要するに、「時間」が「有るか・無いか」と言う捉え方に成りがちなんだと思います。

そこを、敢えて「静止」と考えることで、一つの方向性が見えてきたりもするんじゃないかと思うわけです。


私の場合、「モノ」をできるだけ「クッキリと」描きたいと思っているので、

「時間の流れ」に伴う「動き」や「移ろい」を出来る限り排除したいという気持ちがあるんですねぇ。

だから、「動きを持ったまま静止している状態」や「移ろい行く寸前の瞬間」と言うような

「時間的な静止」を描きたいという気持ちがあるわけです。

そういう「クッキリとした静止」が描きたいんですね。

      ※こういうことを「流動的だが静止している」と言っています


まぁ、言うだけなら簡単ですよね。

実際は、そうウマクはいきませんけどね。


『絵の中の時間は「静止」である』

そういう風に考えることで、一つでも割り切れることがあればいいかなと。

そんな風に思っているわけですね。



「多重化」は「芸術に残された最後の領域」かも知れない

このブログでも何度か書いていますが、

私は、今後「芸術」は「多重化」していくしかないと思うわけです。

つまり、「芸術に残された最後の領域」が「多重化」だと思うわけなのです。


ここで、「芸術の多重化」と私が呼んでいるのは、

(出来る限り)既存の表現形態の中で、

複数の独立した表現を重ね合わせていって、

一つ一つが、ある程度まで、独立した表現としても成り立っていながら、

全体が一つのまとまった表現としても成り立つようにすることで、

重層化した世界感を生み出すというよなことです。


その「多重化」がどうして「芸術に残された最後の領域」なのかと言うと、

他のことはぜんぶ出尽くしてしまったとしか思えないからです。

だから、あとは”組み合わせていく”しかないんじゃないかと思うわけですね。


そういうと、ナントナク”仕方なくそっちに行く”ように聞こえてしまうかもしれませんが、

必ずしもそういうわけではなくて、「組み合わせ」は、

他の分野においても行われていることでもあり、しかも、とても有効な方法でもあると思っていますので、

むしろ、積極的にそちらに向かうことはイイことだと思うわけです。


もちろん、「多重化」なんて必要ないような「純粋でストレートな表現」もあっていいでしょうが、

その領域が残っていないのに、そこに固執することはあまりイイことではないような気がするわけです。


なんで「純粋な表現の領域」が、そんなにも少なく成ってしまったかと言えば、

「芸術の20世紀」において、あまりにも精力的に刈り取られてしまったからだと思います。


つまり、「芸術の20世紀」においては、

一人一人の創作者が、それが本当に「自分のスタイル」であるのかどうかを吟味することなく、

次から次へと新しいスタイルを作りかけては完成させずに放りだすということを繰り返していたために、

「人間の世代交代のサイクル」を「新しいスタイルが創り出されるサイクル」が追い越してしまったわけです。

     ※これは、必ずしも「力不足の作家」がやったことと言う話ではありません。
       「力のある作家」も「ごく普通の作家」も、やっていたことに大差はないと
       思います。違うのは「「力のある作家」は、よりたくさんの「スタイル」に手
       を出すことが出来てしまうということです。つまり力がある人ほど、たくさ
       んの「スタイル」を刈り取ってしまったと言うことに成ります。

       「芸術の20世紀」においては、「本当の自分のスタイル」を時間をかけて
       見つけ出した人は少なかったと思います。

たとえ未完成の状態でも、一度提示されたスタイルと言うのは、

「スタイル」としての位置を持ってしまうようで、

それをちがう人がやれば「モノマネ」のように見えてしまうということです。


ハッキリ言うと「芸術の20世紀」において提示された「スタイル」は

実際には、ほとんどすべてが未完成であったと言ってもいいんじゃないかと思うわけです。

だからこそ、恐ろしい勢いで量産されてしまったんだと思いますが、

その結果、それが「人間の世代交代のサイクル」を圧倒して、

現在の「芸術の場」には、「純粋な表現の領域」がほとんど無く成ってしまったんだと思うわけなのです。


本当は「新しいスタイル」がそんなにたくさん量産されることはあり得ないことで、

一人一人の創作者が生涯を通じて一つの「スタイル」に到達するというのが本来の姿だと思います。


それならば、「スタイル」が出尽くしてしまうまでには、「人間の世代交代のサイクル」が

何世代も入れ替わるくらいかかるわけですから、

一通り出尽くしたころには、はじめの頃の「スタイル」は、もうとっくに忘れられているでしょう。

だから、また、その「スタイル」に近いものが生みだされても「モノマネ」のような違和感を感じないわけです。
(あくまで、偶発的に似かよった「スタイル」になってしまった場合ですが)

そういう循環が出来ていれば、常に「純粋な表現の領域」が確保されていたんだと思います。


でも、実際には、そうならずに、「純粋な表現の領域」はどんどん狭められてしまったということです。

そんな中で、極端に狭くなってしまった領域の中で足の踏み場を探して、

ちょっとでも早く着地した者だけが、なんとか「表現の領域」を確保するというような状態が、

今の「芸術の場」の状態だと思うのです。


そういった状況から抜け出すために、私は「芸術の20世紀」を「喪失すること」を選択したわけですが、

『喪失しました』と言っても、キレイサッパリ消すことが出来るわけでもないので、

やはり、「一度提示されてしまったスタイル」はもう「足の踏み場」とはならないわけで、

そこで、ギュギュウ詰めになってしまった「芸術の場」に「空き領域」を作るためには、

当然のこととして、「芸術の領域」自体を広げなければならないということに成るわけです。


それには、「多重化」することしかないように思うというわけです。


さて、そこで、『なんで、既存の表現形態の中で多重化しなければならないのか?』ということです。

現在、多くの創作者が、表現形態を組み合わせることを模索していると思いますが、

私が知る限りでは、「既存の表現形態」の枠を外すような試みが多いような気がしています。

つまり、まったく違う表現形態との間で「コラボレーション」するということですね。

そういうのがワルイと言うことではありませんが、

ただでさえ、「純粋な表現」と言う「枠組み」を、やむを得ず部分的に崩しているわけですから、

出来るだけ、その「崩し」を少なくしたいと思うわけです。


それで、私の場合は「既存の表現形態の中での多重化」にこだわっています。

      ※「既存の表現形態の中での多重化」と言うのは、要するに「絵」なら
        「絵の中での多重化」ということです。つまり、「絵と他のナニカとの
        間での多重化」ではないということです。

        私の場合、「額との間の多重化」に関しては、「額」はもともと「絵」
        を前提にして存在するものだということで、「絵の中」として扱って
        います。ただし、それ以上は範囲を広げないということにしています。


これは、広げられる「領域」は少ないかもしれませんが、

最低限の「純粋性」は保存されるんじゃないかと思っています。

逆に言うと、「表現形態の枠組み」まで崩してしまうと、

最低限の「純粋性」までも失われてしまう可能性があると危惧するわけですね。


「領域を広げること」は悪いことではないと思いますが、

「領域を際限なく広げること」は、結果的に内容を薄めることにしかならないと思うのです。

どんなに濃い一滴の「純粋性」であっても、

限りなく広い海に落とされてしまえば薄まってしまいます。

そこは、やはり、限りある「領域」の中での「多重化」を

何とかして成し遂げなければならないんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。


『ああ、もう少しチカラが欲しい!』
(「パワー」と言うよりも「エナジー」ですね)

そんな風にも思います。

『いや、ホントに』


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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