絵画作品の額装について(日本人として思うこと)
現代アート作品の展示を見ると、平面作品で額装していないものが、かなり多いようですけれど、そういう展示を見ていつも思うのは、この「無額」には本当に意味があるのかな?ということなわけです。
現代アートの流れを考えれば「無額」はごく自然なことだと思うのですが、それだけに、当たり前でちょっとつまらないなと思ってしまうわけですね。
作品の中で攻めて(チャレンジして)いるものであればあるほど、その「無額」が、ややシラケて見えてしまうのです。
また逆に、物静かでクールな作品だと、今度は作品の側面の厚みが気になって来たりします。
おしゃれな服を着ているのに、洋服にタグが付いたままだったりするような感じでしょうか。
でも、実は私も額装に非常に抵抗があるんですねぇ。
それで、よくよく考えたわけです。
そして、私が行きついたのは日本の「茶室」なんですね。
(絵を茶室に飾ろうということじゃありません)
私は、「茶室」とは世界に類を見ないほど、意匠を幾重にも凝らした「額」だと思うわけです。
「茶室」には、庭があり、庵があり、くぐり戸があり、ふすまや障子があり、そしてようやく「茶室」があり、その中にもさらに床の間があり、その床の間の中にさらに掛け軸がかけられ、その手前に花が活けられたりもします。
障子を開ければそこには、また庭が見え、その庭という風景画を欄間が縁取るという、迷宮のような多重構造の「額」なんじゃないのかなと思うんですね。
これに比肩するほどの額文化は、世界中探しても、なかなかないのではないかなと。
「茶室」における、庭・くぐり戸・ふすま・障子・床の間・掛け軸・生け花・欄間・茶道具そして主人・客人と彼らの衣装など挙げればきりがないほどに、折り重ねられた要素は、どれもが、見方によって主役=「絵」ともとれるし、脇役=「額」ともとることができるような気がするわけです。
これと比べるとどうしても、前述の「無額」は、いかんせんチャチだなと。
日本人が、この西洋美術の流れの中で、ごく当たり前のこととして出てきたような、そして、そこからほとんど進歩もしていないような、ややもすると短絡的な発想である「無額」を採用する必要はあるのかなと。
ゴッツイ「額装」で偉そうにしたくないというのはあると思うのですが、だからと言って「無額」はどうかなと。
そんな「チャチな発想」から抜け出すのに一番近いところにいるのが日本人かもしれないのに、チョト残念だなと。
私はそんな風に思ってしまうのです。
追記 : 西洋美術の流れの中に置いて、教会建築とその祭壇画を縁取る
装飾に、この記事で述べている「茶室」のような「多重層の額
縁」に当たると思われるものがあるようです。
そういったことに詳しくないのでよくはわかりませんが、ここ
でいう「茶室」との違いは、宗教的な意味合いが強いことだと
思っています。
ここで主に述べているのは、芸術と言う「異世界」への「入り
口」でもあり、それを封じ込めておくための「結界」でもある
「境界線」としての「額」でありますから、「神の世界」との
間の「境界線」としての「祭壇装飾」とは、今のところ区別し
て考えています。
でも、それほど大きな意味の違いはないのかも知れません。
その辺は、今後考えていきたいと思っています。