FC2ブログ

「オリジナリティ」は大事なのでしょうが・・・

芸術において、やはり「オリジナリティ」は大事だと思うわけですけど、

「オリジナリティ」が目的なのかと言われれば、「それは違う」と言わざるを得ないのです。


それは、結果的に出てきてしまうものなのかなと。

「オリジナリティ」がある作品は、ほかのものよりも目立つし、

インパクトが強くなるから、受け入れられやすいのは確かなことでしょう。、

でも、それは「驚き」であって「感動」ではないわけです。


人を感動させるようなものをつくりたいのであれば、

何かを「ネラッテ」はいけないのじゃないかなと。

「ネラッテ」出てきた「オリジナリティ」と言うのが結構イヤラシイわけですよね。


私に言わせていただけるのならば、「オリジナリティ」を出さないことのほうが難しいわけで、

その人が、もともと持っている「癖」や「感覚」というのは、

隠そうとしても結構出てしまうものだから、「ネラウ」必要はないハズなんですけど、

人には、隠したい「個性」というものもあって、

「格好悪い感じ」や「下手っぽく見えるところ」は、

誰でも隠したいと思ってしまうわけですね。


それを打ち消して見えなくすることを、技術と呼んでいたりすることもよくあるわけですよね。


「オリジナリティ」は「ネラッテ」出そうとしなくても、

はじめからそこにあるわけで、むしろ付きまとってくるといってもいいほどなんじゃないでしょうか?

そこで、「嫌な個性」をうまく消して、「いい感じのオリジナリティ」を出している作品と言うのが

私は、少し嫌いです。



「普通の心理」がわからなくて「芸術」は創れるのでしょうか?

いわゆる、「芸術家っぽい」というイメージがあるように思うわけです。


それはどんなものかと言えば、「ブットンダ」・「イッチャテル」・「ヘン」みたいな

イカレタ感じと、それとは対極的に、「スルドイ」・「フカイ」・「キュウキョク」

みたいに思慮深く、一つのことにじっくりと取り組むような二種類のイメージが

完全に分離していて、その中間はまったく無くて、おかしいなと思うわけです。


確かに「芸術家」にそれらの両極端な要素が同居していることはあるとは思いますが、

でも、実は、それらは「芸術家」や「芸術」にとって必要不可欠なものではなく、

結果的に、そんな人もいるという程度のことなんじゃないでしょうか?


で、実は、何が必要かと言えば、

それは「何でもない普通の気持ちが痛いほど理解できている」

ということじゃないのかなと。


実際、創る側がいくら「ブットンダ」作品を創って

「ドーダ」と言っても、見る側は普通なわけです。


だから、「芸術家」側は自分の中の「ブットンダ」や「キュウキョク」を

完全に消化して自分の血肉にしてから、それを表現する必要があって、

そうすることで初めて理解されるわけで、そうでなければ伝わらないわけですよね。


今まで、随分野放しだったのじゃないのかなと。

見る側の人たち、ちょっと優しすぎたんじゃないですか?

見る側にも権利あるでしょ?


というか、普通の人の気持ちが理解できないような人に、

「芸術」が理解できるとは思えないんですね。

理解できないものは創れないんじゃないですか?


「芸術家」なんて言ってますけどね、結構普通の人が多いと思うわけですね。

みんな普通にしてると格好がつかないから「ゲージツカ」っぽくしてるところもあるんじゃないですか?

でも、もう、そんなに無理しなくてもいいんじゃないかと思うんですね。

もう、そんな時代でもないと思うんですよね。


私といたしましては、

普通の気持ちを、もっともっと痛いほど理解しようとする努力を怠っている人の作品は

「芸術」だとは思えないわけなのです。



「個性」と「才能」

よく「才能がある人」とか「個性的な人」という言い方をするわけですけど、

あれはどうも好きになれないのです。


「才能がない人」や「個性的でない人」を想定して言っているように聞こえてくるわけなのです。

でも、実際には、それらの判断と言うのは、その「個性」や「才能」が実用的かどうかという基準で、

下されているのだと思うわけです。


つまり、「才能」や「個性」が、有るとか無いとかと言うことを、

言っている人にとって都合のよい「個性」や「才能」を持っている人を

「個性的な人」とか「才能がある人」と呼んでいるわけなのです。


本当は「個性」も「才能」も、皆同じぐらいじゃないんですかね?


ただ、それらには、それぞれ色が付いていて、その色が違うというようなものではないのかなと。

だから、そこに上下を付けるなんていうのは「赤」より「青」の方が偉いとか

いや、「黄色」はもっと上だとか言っているようなもので、

とても、なんと言うか「貧しい感じ」がするわけなのです。


そこで、やっぱり、凡庸な「個性」などはなく、全てが唯一無二の「個性」なわけで、

一人に一つの「才能」が、そこにはあると思うわけです。


私は、この二つの言葉は、もう無くてもいいと思っているぐらいなのです。



「イミガワカラナイ芸術

わたしも含めて、多くの人が「ゲージツがワカラナイ」と感じるとき

大抵は、作品が「抽象化」されているのだと思うわけです。


頭の中にあるものを外に出してあらわすのが表現なわけですけど、

頭の中でかなりコネテから外に出すのが「抽象」だと思うのです。


そして、その頭の中で行われた作業の分が、見えないわけなのです。

だから、コネタ分が多ければ多いほど、見た人はわからなくなるわけなのです。


これは、ワカル人とワカラナイ人が居るように言われているみたいですが、

実際には、みんなわからないハズなわけです。

超能力のようなものがある人なら別ですが、

他人が、頭の中で行った作業が解るわけがないですよね。

その人のことをよく知っていたりすれば、少しはわかったりもするでしょうけど、

見ず知らずの人の気持ちがバンバン理解できちゃったら、それはマズイですよね。


だから、私は「抽象化」なんて言ってますけどね、

もっと人が解るようにしてから、外に出すべきなんじゃないかと思うわけなんですね。

つまり、目指すは、「腰の低い抽象芸術」なのです。


そして、それには、頭の中でコネテいく段階でまず自分自身が、

はっきりしたものを掴んでいないと、人にわかるようなものにはならないのかなと。

    ※ここで言う「はっきりしたもの」とは、「作品の完成形」とは違います。
     それがはじめからわかっていれば、”ラク”でしょうが、それは単なる
     横着になってしまうような気がします。
     ここで言う「はっきりしたもの」とは、その作品の「方向性」ですね。


つまり、「抽象化」と言うのは雲をつかむような状態から、

その霧の中を抜けて、はっきりしたものが見えるところまでたどり着けないと、

結果的には、ただなんとなく色を塗ったようになってしまうのかなと。

そして、それを見た人が「イミガワカラナイ」と思うのだろうなと。

要は、作者が「イミガワカッテナイ」と、見た人も「イミガワカラナイ」のかなと。


「抽象化」と言う作業は、

もっと、わかりやすくするためにエネルギーを使うべきなんじゃないのかなと。

頭でコネル作業のほうに使っていたエネルギーをかなりの部分で、

わかりやすくする方に使う方向でシフト・チェンジすると、

実は作者も楽になる部分があるのかもしれないなと。


私としましては、そんな風に思っております。



「お金」と「芸術」の共通点

「芸術」と言うと、「お金」とは正反対のところにあるものという捉え方をされていますけれど、

その二つには、共通点があると思うわけです。


それは、両方とも賞味期限がないことなのです。

食べ物ではないので、賞味期限と言うのはおかしいんですが、

要するに、無期限の価値を持っている(与えられている)ということなわけです。


お金(通貨)というのは、それを発行している国が崩壊すれば価値がなくなるし、

「芸術」も、その作者の名声が没落すれば、その価値も下がってしまうわけだから、

必ずしも無期限とも言えないわけですけれども、

少なくとも食べ物のように、一定の期間を過ぎると必ず価値がなくなるということは無いわけなのです。


食べ物と言うのは最も顕著な例で、だから賞味期限と言う言葉を使ったわけですけれど、

ほとんどのものは、製造されてから一定の期間が過ぎると価値が落ちていくという宿命があるわけです。

ましてや、一度人手に渡ったものは、

いわゆる「ユーズド品」になってガクンと価値が落ちてしまうわけですよね。


ところが、「芸術」・「お金」両方とも、どんなに人から人に渡って行こうが、

いくら使用されようが価値が変わることがないわけです。

よほどの技法的な欠陥があって、「絵」が剥落したりでもしない限り、

例えば、年代相応に劣化して修復されたとしても価値が変わったりしないと思うのです。


そして、このことによって「芸術」が投資の対象になったりするのだと思うわけなのです。

本当は、この両者にも期限があれば、いいのではないのかなと。

私としてはそう思っているのですが、それをどんなふうにやればいいのかは

全くわからないというのが、とても残念なことなのです。





「芸術」の競争

現代社会においては、競争と言うと、自由競争とか切磋琢磨といった

前向きなものとしてとらえることが、前提になっているように思うのです。


競争から離脱することは、「ドロップアウト」または「後ろ向き」という扱いになるのかなと。


でも、競争がそういう前向きな作用を持っていた時期はもう過ぎてしまって、

競争が「足のすくい合い」になっているように思うのです。

つまり、物を作る企業や人が、自社製品(自作のもの)の向上を競い合っているというよりも、

競争相手や、場合によっては顧客(消費者や鑑賞者)の足元を掬ってひっくり返してやろうというような

そんな裏をかくような意図が、そこに入ってしまっていることがあると思うわけなのです。


そして、さらには、そのような意図を含まないものが、

その競争の中で振い落されていくような仕組みができ上がってしまっているように感じるわけなのです。


例えば、企業が耐久性の優れた製品を作ってしまうと

その製品の買い替えのサイクルが長くなって儲からなくなるというような理由から、

むしろ、適度に長持ちしない製品を作ることに力を入れていたりすることが

当たり前のようになりつつあることは、「ものづくりの崩壊」であって、

ちっとも前向きな競争や自由競争なんかではないように思うのです。


まして、それと同じようなことが「芸術」の分野で行われているとしたら、

「究極のものづくり」ともいえる「芸術」において

「ものづくり」が崩壊してしまっているということに成るのではないのかなと。


そして、これは、経済市場においてそうなったから「芸術」もそうなったのではなくて、

むしろ、逆で「芸術」がそうなったから、

それによって他の分野でも同じことが起きてきたのではないか?と私は思っているわけです。


こう言うと「芸術」を買い被っているように聞こえるのかもしれませんが、

近代以降の「芸術」は、そういうことのために設定されている分野でもあると私は思っているので、

そんな風にしか、考えられないわけなのです。


だから、競争の原理から離れなければ始まらないと思うわけなのです。

その過程で「捨て石」になる者が求められるように思いますが、

その「捨て石」を生かせるところまで人間が成熟しているのかどうかが

問われているように感じてしまうわけなのです。





いま芸術の「批評」は成り立つのか?

「芸術批評」はジャンルとして確かに確立されているわけですけど、

現在芸術において「批評」は可能なのでしょうか?


方向性が設定できる分野については、「批評」が成り立つと思うんですけれど、

現代の芸術のように方向性が多様化してしまったジャンルにおいて

それを批評するということは、その評論家や批評家の「好み」を

言っていることにしかならないのではないのかなと。


現行の完全に自由で無際限な方向性の上に立っての「批評」というのは、可能なのだろうかと。

もちろん「批評」に論者の「好み」が入ってしまうのは避けられないことなんでしょうが、

「好み」が先行していて、それを正当化するための理論を「批評」と言うのは違うのじゃないかなと。

やはり、なんらかの指標があっての「評論」・「批評」であって、

その指標を基準としての解析がなされていなければ「評論」・「批評」とは言えないのかなと。


例えば政治の場合、「民主主義」という指標を基準にすれば

「独裁者」についての批判が「批評」になるわけですけれど、

『「独裁政治」もありですよ』という立場から「独裁」を批判してもそれは「批評」として成り立たないでしょう。

それは、おそらく「その批評家」は「その独裁者」が嫌いなんだろうな、ということにしかならないわけです。


だとしたら、評論家、批評家と言われる人たちがいま何をするべきなのかと言えば、

それは基準となるような指標を設定することかと思うのです。

それは「批評」というような、個別のものに対する論評ではなく

「芸術運動」と言えるような「芸術」というジャンル全体を

動かすような活動や言動をしてほしいわけなのです。


私がこのブログを始めたのもそういうことからですが、

私は評論家ではないし、権威ある立場にもありませんし、今後そういう立場につくこともないので、

私にできることは、これをなんとなく形にすることぐらいかと思われますので、

そこのところで評論家の方(それを目指そうという方かも?)などに、

すこし期待してしまうわけなのです。


『いま「評論」なんてしてる場合じゃないでしょ』

『いま「運動」を起こすときじゃないのですか?』

違いますでしょうか?




誰かが「芸術」を定義しないと

昨日の「批評」についての記事の続きになリます。

何らかの指標が無ければ「批評」は成り立たないのではないか?ということだったわけですが、

その指標となるのは何かと言えば、やはり「定義」だと思うわけです。


もういい加減「芸術」を何らかの「定義」で規定しないと、

「芸術」はどんどん薄まって霧散してしまうのではないのかなと。


「芸術が無くなるなんてことあるわけ無いよ」「それはいくらなんでも大袈裟だろ」

ですか?・・・本当に?・・・大丈夫ですか?

大丈夫じゃないと思います。


規定されないもの、指標を失ったものというのは、大抵消滅していくのではないのでしょうか?

こんなことを言っていながらなんですが、もしかすると「芸術」は昔ほど必要とされていないのかもしれません。


本音の話をすれば、多分、昔のほうが現代よりも「芸術」を必要としていた人の数は多かったのかなと。

「芸術」が庶民の手の届かないところにあったのも事実なのでしょうが、

実は、昔の方が「芸術」が身近だったのかも知れないなと。

頂点にあるような「芸術」を所有するという感覚自体が昔の庶民にはなかったのだろうし、

そういう「芸術」に対する興味ということ以前に、生活に身近だったのではないでしょうか?


まぁ、それは今となっては、もうわからないことなわけですが、

じゃあ、現代はどうなのかと。

「芸術」は本当に必要とされているのだろうか?

それは、どのぐらいの人が必要としているのだろうかと。

意外と少なかったりしないのだろうかと。

そのへんが、ちょっと怪しいんじゃないのかなと。


本当にたくさんの人が「芸術」を必要としていたならば、

こんなに「フワフワ」した状態になってないんじゃないのかなと。

『きっとこれは、あまり求められてないぞ!』と思うわけです。

そんな中で、指標を失った状態を続けたら、本当に消え失せてしまうんじゃないのかなと。


でも、こういう時代に置いても、いや、こういう時代であるからこそ、

一層必要としている人が居るのに違いないのです。

だから誰かが「芸術」を定義しないと。


そんな風に思ってしまうわけですが、これは無理なことなのでしょうか?





「回帰」は二番煎じではないのです

世の中には、流行やその時代を象徴するスタイルというものがあるわけですけど、

大抵の場合、それはある程度の周期で、似たようなタイプのスタイルが繰り返されていると思うわけなのです。


ただし、全く同じだとすごく古臭く見えてしまって見向きもされなくて、

やはり、何かしら新しい要素が加えられていたり、独特なオリジナリティがあったりしないと、

新しいものとしてはなかなか認識されないわけですね。

よく言われるように、螺旋を描くように少しづつずれながら

周期的な繰り返しのパターンを辿っているのだと思うのです。


でも、現代の美術に限って言うと、20世紀以降は、

これらの周期的なパターンが、ほとんど無くなってしまっているように思うわけです。

というよりも、それが許されないようなプレッシャーが常に働いていたのではないのかなと。


つまり、同じ芸術でも音楽など、他のジャンルでは

当たり前のように、ごく自然な形で周期的に繰り返されてきたパターンがあって、

それらは、必ずしも二番煎じとして捉えられてきたとも限らないし、

その都度更新されて、新たなものとして生まれ変わったものという認識で捉えられてきたのに、

先端的な芸術の分野においてだけ、そういう定期的な回帰が許されないで来たように感じてしまうのです。


「常に新しいものを生み出さねばならない」というプレッシャーが

それを邪魔していたのではないのかなと。

ときどき「ネオ〇〇」みたいな形で一昔前のスタイルを持ち出してくることがあっても、

それは、行き詰ったところから逃れる手段のようで、

「更新されて生まれ変わった」感じが薄かったのではないのかなと。


やはり、音楽などでは当たり前のこととして自然に行われていたことが、

どこか後ろめたいことのようになってしまっていて、

「新たな方向性を見出すことができなかったから既存の概念を持ち出してしまった」というような、

やってはいけないパターンをやってしまったという感じが

付きまとってしまっていたように思えてしまうわけなのです。


結果として、前の時代から何かを受け継ぐという要素が失われていってしまったのかなと。

もし、そうだとしたら、「芸術」は徐々に衰退していってしまうのではないのですかと。


わたしといたしましては、やはり何らかの形で「回帰」が必要なのではないのかなと。
(手法やスタイルの上での「回帰」と言うよりも、「原点に立ち返って、芸術をどう考えるのか?」ということに置いての「回帰」ですね)

どうしてもそう思えてしまうわけなのです。



「芸術」とは「異物」なのか?

先週、珍しく美術に関する本を読んだのですが、

その中で、ちょっと気になったことがあったのです。


全体としては結構、納得できるところが多かったように思うのですけれど、

気になったのは、その本の著者の方が

『自分にとっての「芸術」とは「異物」である』と書いていたことなのです。


現代美術に関わっている人が、これに近いことを言っているのをよく聞くような気がするのです。

確かに、納得させられてしまうところもある「言い方」なわけです。

ただ、私はこういう「言い方」を聞くと「異物」であることが、

かなりクローズアップされ過ぎているように感じてしまうのです。

何かを突き詰めて行くと「異物感」が出てくるというのと、

「芸術」≒「異物」というのはちょっと違うのじゃないのかなと。

しかも、「異物」であることが、「芸術」の目的であるというのとは、もっと違うのじゃないのかなと。


例えば、道端に犬の糞が落ちていれば、それは「異物」だと思うわけですけれど、

同じ様に、道端に水晶玉が置いてあっても「異物」だと思うわけですよね。

というより、カラスに荒らされた生ゴミだろうが、とんでもなく大きな岩だろうが、

なんだって結構「異物」になりうるわけです。


やっぱり、道端に犬の糞が落ちていれば見ちゃいますよね。

でも、見たくて見てるわけじゃないですよね。

でもやっぱり見てしまう。

それと似たような心理の誘導を、美術館のような場所でやることで「芸術」というのはどうなのかなと。


本の中では「私にとっての芸術とは」と書かれていましたから、

それを、とやかく言うのもおかしいのかもしれないんですけど、

やはり、どうしてもこの「言い方」が現代の「芸術」については

妙に説得力のある「言い方」になってしまっていることが気になってしまうわけなのです。

実際に、「異物」であることのインパクトを利用している作品もあるようですし、

もっと言えば、それに頼ってしまっている作品も多いのではないのかなと。


私としましては「異物」であることは、目的ではなく結果であってほしいのです。

結果的に「異物感」のある作品がインパクトを持つことはあると思うのですけれど、

それが目的化してしまっているような作品と言うのは受け入れがたいわけなのです。

それから、インパクトが無いとダメということでもないと思うのです。


そして最後に、犬の糞は飼い主さんに処分してほしいなとも思うのです。

それが「芸術」だという人もいるのかもしれませんけどね!!


「惹きつけられるもの」

前の記事に関連した話になります。


前の記事で芸術における「異物」ということについて書いているのですけれど

この言葉がなぜ説得力を持っているのかと言えば、

「惹きつけられる」ということと関連しているのだと思うわけです。


つまり、「異物」であるということは、人の意識を「惹きつける力」になるということなのです。

見たい見たくない以前に、「見てしまう」ということかなと。


ただし、それは魅了されていることとは限らないわけなのです。

道の真ん中に大きな障害物が置いてあれば、確かに「異物」ですけれど、

それは、そこを通りたい人にとっては、邪魔なだけの「異物」なわけです。

そりゃ見ますよ。なんとかしなきゃ通れませんからね。

でも、興味を持って見ているのでもなければ、まして魅了されているわけがないですよね。


ところがですね、それを美術館にもってくるわけですよ。

「通りたいのに通れない」ではなくなっちゃうわけですね。

迷惑なことが何もなくなってしまうので、「異物」のなかの「見てしまう」だけが残るわけです。

そこで強情な人やひねくれた人以外の、普通に素直な人たちは、

どうしても、「見てしまう」=「惹きつけられる」=「魅了される」という

すり替えにはまってしまうわけですね。


まぁ、言ってみれば手品みたいなものだと思うんですよ。

何かに人の意識を引きつけている間に、見えにくいところで細工をすると

在り得ないところから、在り得ないものが出てきたように見えるというような、アレですよね。

手品師って、きらびやかな衣装を着ていたり、

ゴージャスな感じの金ぴかの道具立てでステージを演出していたりしますよね。

芸術の場合も同じで、道におかれていた障害物を美術館に持ってくるだけじゃなくて、

きれいに(場合によっては汚く)演出するわけですよ。

そして、それがセンス良かったりもするのですよ。

なんたって芸術家ですから、その辺は得意なわけですね。

手品師が人の心理の裏をかくのがうまいのと同じように、

芸術家は、人の心をつかむのはうまいのでしょうね。


そうなってくるともう見ている側の人たちは、

芸術がどうとかこうとかいうことは、もうどうでもよくなって、

「惹きつけられるもの」には逆らえなくなってしまって、

「見てしまう」自分をなんとか肯定しようとするわけですよ。

美術館で芸術鑑賞と称して「道におかれた障害物」を、お金を払って見せられている自分。

これは肯定したくならないわけですね。

だから、どうしてもそれは「芸術作品」でなければならなくなるわけなのです。


これは、見ている側の人を責めても始まらないことかなと。

宗教においては「洗脳」が、商売においては「詐欺商法」や「マルチ商法」が、

広告宣伝においては「サブリミナル手法」が、禁じられたり非難されたりしているのは、

それが人の判断を狂わせるものであり、

それを許してしまうと非常に大きな弊害を招きかねないからなわけです。

そこには、ある種の自由に対する規制が生じたとしても、

致し方ないという判断が歴史的に成立しているわけであって、

それはすでに結論の領域にあるといってもよいのではないでしょうか。
(その網の目をくぐるようなやり方は常にありますが、
 一応それらは駆逐されるべきという方向は定まっているかと)


本当のことを言えば、芸術の分野で、こういう話になること自体が悲しいのであって、

芸術については、本来このような規制という考えは必要ないはずなわけなのです。

現状におきまして、このような規制を法律において設けることは不可能でしょうし、

もしも、法規制するとすれば、恐らく、芸術の主要な部分が大幅に失われてしまうことに成るでしょう。

(本当に厳しいことを言えば、他の分野と同じく規制の対象になるべきなのかもしれませんが、芸術は純粋かつ平和的な分野であるという前提において、宗教やいわゆる商業的な分野と区別されているわけですが、現状の芸術とは、いったい商業的な分野ではないと言えるのでしょうか?)


やはり芸術界(世界的なですよ)が自主的な概念上の規範を打ち出すべきではないのかなと。

つまり、芸術を規制するのではなく、言い換えるならば、芸術の範囲を限定してしまうのではなく、

しかし、あくまで芸術の位置をつなぎ止めるという作業が求められるのではないのでしょうか?


要するに「芸術の中心というのはここですよ」と誰かが、

責任と、威厳と、自信をもって言い切ることが必要なのではないのかなと。

普段十二分に、威厳を持った立場におられるような方々がたくさんいらっしゃられるわけですから、

こんな時にこそ、「さすが」と言われるような威厳を見せて欲しいわけなのですよ。

それをしてくださるのであれば、普段どんなに威張っていてもいいんじゃないんですかと。


そして欲を言うのであれば、その規範を定期的に見直すという作業も行っていただくことを

希望いたしますです!はい。

「オネゲェシマスダ!」

表現=自己顕示なの?

芸術などの手段を使って何かを表現するということは、その表現者の自己顕示性の表れである

と言う内容の文章がよくあると思いますけど、私はこれは違うと思うのです。


確かに、なにかを表現するということは、自己を現すことではあると思うのですけれど、

それを、即ち自己顕示であるといってしまうのは、

何か一言しゃべっただけで、「目立ちたがり屋」にされてしまうのと同じで、かなり間違っているわけです。


それは、何をどれだけしゃべったのかで決まることじゃないでしょうか?

だから、内容を抜きに表現=自己顕示=芸術的として、

目立ちたがりの突飛なことをするような人こそが、「芸術家タイプ」であるとしてしまうことは、

とてもおかしなことのように思えるわけなのです。


あくまで推測ですけれど、芸能に近いようなものを除けば、芸術に興味を持って、

そこで自分を表現しようと思うような人というのは、どちらかと言えば、

自己顕示欲の弱い内向的な人のほうが多いのではないのかなと。

その中で、一部の自己顕示タイプの人が目立ってしまうというのは仕方のないことだとは思うのですけれど、

それは必ずしも内容とは関係のないことなわけなのです。

そして何より、一緒くたにされていることで、

反対側にいる人たちが切り捨てられているように感じてしまうわけなのです。

「目立ったもん勝ち」みたいなね。


この自己顕示タイプではない側にも目線を持っていかないとダメなんじゃないですかと。 

少なくとも、自己表現と自己顕示ははっきりと違うものだという認識をもって、

芸術というものを見ていかないと、

目の粗いざるのようにドンドンいいものを逃していってしまうのじゃないのかなと。

そんな風に、私は思うのです。



「芸術」は一度自己破産した方がいいのでは?

現代芸術が行き詰っているとはよく言われているわけですけれど、

その行き詰まりを指摘する人は沢山いても、

芸術を「こういう方向に持っていきましょう」というような話がなかなか出てこないわけなのです。


でも、それは当たり前なわけです。

「こうすればいい」という答えがあれば、もう誰かがやっているわけですから。

それが無いから行き詰まりなわけですから、探しても無駄なわけですね。

まして、『個々の作家が時代を切り開くような革新的な表現形態を生み出して、その閉塞感を打開する』

なんてことは、あり得ないわけなのです。

それに期待するのは、借金で首が回らなくなった人が、競馬で一発当てようというのと同じで、

かなり「期待うすい」感じなわけなのです。

というより、その「革新的な表現形態」とか「時代を打開する」みたいな考え方こそが、

現状の行き詰まりを創り出した原因の一つなのですから、

もし、それができたとしても、きっと一時しのぎ的なものにしかならないのではないのかなと。

だとしたら、どういたしましょうかと。


「自己破産でしょ」やっぱり。

負債を一気に清算するのはこれしかないわけですよ。

私はこのブログの本題である「宣言」において、

「時代喪失」と「100年回帰」を提言しておりますが、

そんなことは、本当はどうでもよいことなのです。

本当に大事なのは現状を清算して、ゼロからもう一度始めるということで

そのやり方については、どんな方法でも一向に構わないわけなのです。


そして、これは、本来評論家の仕事なのではないのかなと。

はっきり言わせてもらえば、評論家についてあまり良い感じに思っていない人は多いと思うのですよ。

多くの人がどこかしらでは、

「評論家なんて屁理屈をこねているだけで、何の役にも立たないんじゃないの?」

と思っていたりするわけですよ。
(なんて失礼な!私はヘリクツが大好きなので、そんなふうには思いませんよ)

でも、今、出番なわけです。 お呼びがかかってるわけですよ。


いま、どんな方法でもいいから”キレイサッパリ”現状を清算してくれたら、きっと、みんな見直しますね。

普段、伊達に小難しいこと言ってたんじゃなかったんだってなるんじゃないですか?


評論家の方々に言いたいわけです。

いま、「チャンスタイム」来てますよと。

いま、それをするだけで「ポイント1000倍」ですよと。

取り敢えずいっといた方がいいんじゃないですかと。


この機会に、どうかおひとつ、いかがでしょうか?




「芸術の20世紀 喪失」は時代に挑戦する実験なのです

このブログのテーマである、「芸術の20世紀 喪失宣言」についての記事になります。


この「宣言」は現代という「時代」に挑戦する実験でもあるのです。


人間は、これまでの歴史の中で様々な進歩を遂げてきたわけですけれど、

それらの進歩や変化というのはすべて、

「時代」の流れに沿ったものであったようにも思えるわけなのです。

科学が急速に進歩したのは「科学の時代」がやってきたからで、

市民革命が起きたのは「民衆の時代」が巡ってきたからなのかなと。


結局、いつも人間は「時代」を」止めることができなかっただけで、

積極的に「時代」を築いてきたとは言えないのかなと。

まぁ、「後になってからは何とでも言える」と言われればそうなんですけれどね。

でも、実際に、人間は「原爆」も「戦争」も「差別」も「大量虐殺」ですら止められなかったわけですよね。


これから先も、きっと「原子力」とか「遺伝子操作」なんかも止めることはできないんじゃないですかね。

つまり、かなりの数の人が反対していようが、一生懸命止めようとしようが、

必ず、「時代」の力のほうが勝ってしまうわけですね。


「だから諦めておとなしくしていろ」なんて言う話じゃないですよ。

もちろん、止めようとすること自体に大きな価値はあると思うわけです。
(これは、真面目に賛成している人の側にも言えることですけどね)

ただ、悲しいかな結果的にはということですよね。


これを、人間が人間の意志でやっていると言えるのでしょうか?

私にはどうしても、「時代の力」ですべてが決まっているようにしか見えないんですよね。

しかも、その時に決まっているというよりも、

既に決まっていたことが、次々と現実になっていくように見えてしまうんですね。

人間は、決められた台本どうりに動かされているとしか思えないわけです。


これを続けていくのか?ということに成るわけですよ。

もうそろそろ、人間が「時代」に逆らうときが来ているのじゃないですかと。

本当の意味で、人間が「時代を築くことの責任」を負うべき時が来ているんじゃないんでしょうか?


戦争をすれば「あの時代はしかたなかった」と言い、

原発が事故を起こせば、「想定外の規模の災害だった」と、これから先も言い続けて行くのですかと。

つまり、人間がしてきたことか「時代」がしてきたことかというよりも、

人間が、すべてを「時代」のセイにしてきたのかもしれませんね。


これは、決して、「戦争や原発に反対するか賛成するか?」ということではなくて、

「誰が時代の責任を取るのか?」ということですね。


一度ぐらい試してみるだけでも、その価値はあると思うのです。

人間に、その責任が回ってきているように感じるのです。


でも、いきなり原発だと難しくないですか?

結局、また「時代」に押し切られてしまうのじゃないのですか?

そんなところで、どうなんでしょう「芸術」なんかがいいんじゃないですかと。

人の「生き死に」や「損得」に、関係ないところから始めた方がいいのかもしれないですよと。


正直言うと、後付けの動機なのかもしれませんが、

まだ「芸術」には「そういう力」はあると思います。


「芸術の役割」が終わりかけて・・・・

これは、正直言って言葉にしたくないことなんですけれど、

「芸術」というジャンルは、徐々にその「本来の役割」を終わろうとしているのではないのでしょうか?

もちろん、今すぐに無くなってしまうとか、完全に消えてしまうとかということではないのでしょうが、

ものすごく緩慢に、長いスパンで、

本質的な意味での「芸術の役割」が消えて行こうとしているという考えが・・・・・

そんな考えが、私の中にはあるのです。


それは、このブログで言っていることとかなり矛盾しているわけですけれど、

現在の「芸術」の、この場当たり的な変容ぶり、この曖昧さ、この取り返しのつかなさ、

この適当さ、この言い訳がましさ、この不健全さ、この希薄さ、この・・・・・

これらの「このありさま」・「この末期症状」を見るにつけ、

『「芸術」はもう必要とされていないのではないのか?』と言う考えが頭をよぎるのです。


20世紀において「芸術」の持つ意味が、大きく変容したことは当然であったのだと思うのです。

社会やその時代の人の意識を反映することは、本質的な「芸術の役割」なわけですから

それに合わせた変容というのは、なければならないと思うわけです。

でも、現在の「芸術」の「この状態」というのは、それに当てはまっているのだろうか?

本質を追究しての変容と、本質を見失っての変容は、

まったく違うものだと言わざるを得ないわけなのです。


もし仮に、「芸術の現状」が後者に当たるものだとするのならば、

常に「芸術」の本流に「本質を見失った芸術」が居座った状態を、延々と続けてきたということが、

もう、すでに歴史にまでなってしまっているのだとするのならば、

これはもう、「芸術」というものが「本質無きもの」となってしまったということなのではないのか?

言い換えれば、「物の本質を問いただし、その根源的な意味を追求する」という

「芸術」本来の役割や意味は、もはや失われてしまっているのではないのか?

もちろん、例外はあるでしょう、「本質を問い続けている者」は居るに違いないのです。

にもかかわらず、「本質無きもの」が常に本流にあり続けることができてしまったとするのならば、

それは、もうすでに「芸術」が本来の「芸術」である意味を失って、

その他大勢の中の「芸術」、たまたまその名で呼ばれているというような「芸術」に

成ってしまっているとは言えないのだろうか?

そして何よりも、その状態を「現在」が受け入れてしまっているということに成るのではないのだろうか?


つまり、「現在」によって公認されている「芸術」とは、「本質無き芸術」の方で、

「本質を追究する芸術」の方は、むしろ「非公認芸術」であって、

それは、とてもゆっくりではあるけれど、消えてゆこうとしているようにも思えるわけなのです。


それでもなお、私がこのブログで何かをしようとしているのは、

何かが終わるには、それなりの「終わり」がなければいけないと考えるからでもあるわけなのです。

そして、その「終わり」は何かしらの「始まり」をもたらすとも考えるわけなのです。


ただ、これは、あくまで希望的な観測ではありますが、

やはり「芸術」に生き延びてほしいという気持ちは捨てることができないというのも

そのもう一方の理由なわけです。




「刺激」と「感動」

芸術と言えば「感動」といってもよいのではないかと思うのです。

実際に、芸術の条件を「感動するもの」と言う人は多いのではないのかなと。


ところが、現代美術を見ていると、そこのところがしっくりこないことがあるのです。

とてもインパクトがあって、強く心に残る作品があった場合でも、

その衝撃力に「感動」が比例していないとでもいうのでしょうか。

ときによっては、むしろ反比例するように感じることすらあるわけです。


これは、私の勝手な考えですが、いつの時点からか「感動」と「刺激」が

入れ替わってしまっているように思うわけなのです。

刺激的で、インパクトの強いものが主流を占めるようになり、

それがないと、どこか乗り遅れたもののように見えてしまうという現象があるのかなと。


もともと「刺激」を求めていたのなら、まだいいと思うのですが、

元は「感動」を求めていたのに、

いつの間にか「刺激」の強さに乗っ取られてしまっているようにも思えるわけなのです。

少なくとも、わたしの場合は、その入れ替わりがあるから、しっくりこないのかなと。


そして、もう一つ重要なことは、強い「刺激」と言うのは往々にして、

人間の精神を破壊するということなのです。

それは、ドラッグがミュージシャンの精神を潰してしまうことなどで、

すでに答えが出ていることではないのかなと。

麻薬とは違うので、「刺激」がすべてダメだとは思わないのですが、

それを、際限なく追及していくのはどうかなと思ってしまうわけです。

ただ単に、「こんなもの芸術じゃない」とか言いたいわけではないのです。

むしろ、惹きつけられる要素があるほど忌避感も強くなると言った方がいいのかもしれません。


何かもう少し素直に「感動」できる方向に、軌道を修正できないものなのかなと。

そんな風に思ってしまうわけなのです。


才能にも「質」と「量」があると思うのです

芸術やスポーツなどの話となると、どうしても「才能」ということが出て来るわけなのです。

そこで、どうしても「才能がある人」と「才能がない人」とに分けられてしまう傾向があるわけです。

でも、これを「ある・ない」だけで捉えるのは、少し考え方の方向が間違っているように思うのです。


実は、才能にも「質」と「量」があって、その「量」についてはそんなに大きな差はないのではないのかなと。

そして、その「質」については、一つ一つが、まったく違うものなのではないのかなと。

ですから、「才能がある人」とか「才能がない人」と言う考え方には無理があると思うわけなのです。

実際には、皆それぞれ違う「質」の才能を同じ「量」づつ持っているのだと、私は思うのです。


もちろん、芸術やスポーツなどの特定の分野に向いている人と向いていない人はいるでしょうが、

それを、「才能がある」とか「才能がない」と言ってしまうと、

それが「質」=「向き不向き」の問題であって、「量」=「ある・ない」の問題ではないのに、

「才能がある」側の人が一段上の位置に持っていかれてしまい

「才能がない」側の人が、低い位置に置かれてしまうということが起きてきてしまうわけです。


ですから、私はどうしてもこの「才能がある」や「才能がない」ということばを

簡単に使う人を見ると、その人の言っていることのすべてがシラッチャケて聞こえてしまい、

どんなに立派なことを言っていても、何の説得力も感じなくなってしまうわけなのです。

わたしは、この「才能と言う言葉」自体が、今はもう必要ないのじゃないかと思っているぐらいなのです。

少なくとも、才能にも「質」と「量」があるという前提でこの言葉が使われるべきではないのかなと。


例えば、その「量」について単純に比べられるものに置き換えて言えば、

ごく普通の人の身長が150~180cmほどだとして、

ギネスブックに載っているような人でさえ、

230~240cm ぐらい(不確かですが)だったように思うわけです。

つまり、せいぜい1・5倍程度で、二倍にも届かないということです。

それでも、確かに2mを超えるような長身と言うのはひとつの「才能」だとは思うのですが、

「才能がある」と言ってしまうと、せいぜい1・5倍だということを忘れてしまうのではないのかなと。


また、その「質」について言えば、誰もがみんな違う顔をしていることだけでも、

同じものがないということは、十分わかることじゃないのかなと。


いずれにしても、「才能」と言う言葉が一段偉い感じになってしまっていることによる弊害なんてない方がいいなと。

みんなに同じくらいの才能があるなんていう程度のことが、なんで当たり前にならないのかなと。

そんな風に思っているわけなのです。


「芸術の真ん中」っていったいどこなのでしょうか?


現在の芸術の世界を見ると、「芸術の真ん中」っていったいどこなのかなと思ってしまうわけなのです。

多様化したことで、あらゆる方向性を持つようになったことは理解できるとしても、

何処を中心としているのかがはっきりしないと言うのは、受け入れがたいものがあるのです。


そんなことは気にせずに、「いいものはいい」でいいのかもしれませんが、

私はどうしても、ど真ん中だけが抜けているドーナツのようなものを思い浮かべてしまうわけなのです。


それは、ある種の「中身が空っぽ」ということにはつながらないのでしょうか?

現在ある作品自体を指して言っているのではなくて、その成り立ちとでも言うのでしょうか、

作品を作る「動機」や「根拠」みたいなところだと思うのですが、

どうしても、そこにしっかりしたものが感じられないのです。

穿った見方だと言われてしまうのかもしれませんが、

やはり、〝流行り"や〝ウケ狙い"を感じずに見るのは難しいと思ってしまうのです。


それから、もう一つ付け加えれば、とても権威的に感じてしまうのです。

一見すると、とても親しみやすい感じにしている場合も多いのにもかかわらず、

それとは相反して、実態としては、過去に存在していた権威主義と何ら変わらないような、

つまり、芸術と言う世界の中での位置が上か下かで、全てが判断されてしまうような、

階級社会のようなものを強く感じることがあるのです。

それは、むしろポップな感じのものにこそ強く感じる場合すらあります。


そのことも、やはり真中が抜けていることと関係があるように思うわけなのです。

中心が抜けているという不安定感から、安定を求めて権威を生み出すのではないのかなと。


私は中心がしっかりしていたほうが、多様化できるはずではないかと思うのですが、

多様化した最先端だけを追いかけていった結果、

ど真ん中にあるはずの「根拠」や「動機」が、抜けてしまったのかなと。


これは先端での多様化とは違って、

単に〝中心のブレ"を引き起こす元凶にしかならないのではないのかなと。

やはり、中心だけはどこかに繋ぎ止めておく必要があるのじゃないのかなと。

どうしても、そんな風に思ってしまうのは、私だけなのでしょうか?




「文脈」と言う言葉はいつまで使われ続けるのでしょうか?


芸術の評論などを読んでいると(あまり読みませんけどね)、

頻繁に「文脈」と言う言葉が出て来るわけです。

この「文脈」が、私にはどうも馴染めないわけなのです。


そもそも、この言葉が、いつ頃からどういう経緯で、

ここまで頻繁に使われるようになったのかはよく知りませんが、

なぜ、多くの批評家がこの言葉を使いたがるのか理解に苦しむのです。


おそらく「現代美術と言うのは、単純に美しいというだけではない複雑な背景を持ってこそ、

成り立っているものだから、その背景に含まれている作家の思考の流れや、

その作品の持つ時代における位置づけを捉えて理解しなくては意味がない。」

と言うようなことを「文脈」と言う言葉を使って言っているように思うのです。


でもどうも、〝ハグラカサレタ"と言う感じがしてしまうのです。

なんで文章についてのことでもないのに「文脈」なのか?

背景なら背景でいいし、作家の考察ならば作家の考察でいいのでは?と思ってしまうのです。

確かに、背景と言われたら、きっと「それは、どんな背景なんですか?」と、

作家の考察と言われても、やっぱり「どういった考察によって?」と問い返したくなると思うのですが、

「文脈」と言われてしまうと、うかつに「文脈って何ですか?」と聞き返しにくいのかなと。

何かこう、壮大な話になってしまいそうで、気が引けるというんでしょうか。

それから、「こんなことも知らないんですか?」と言うような感じもあったりするので、

聞く気が失せてしまうのではないのかと思うのです。


私のほかにも、そんな風に思う人が居るのかどうかは、わかりませんが、

どうもこの言葉が出て来ると、「後付け」の印象を持ってしまうのです。

取ってつけたようなとでも言うのでしょうか。

つまり、何か理解されにくい芸術が現れてきたときに、

それを、それらしく説明してくれて、

さらには、ツッコマレにくい便利な言葉として、利用されてしまっているように思うわけなのです。


ですから、「文脈」と言う言葉を使うときには、できる限り、

その時使っている「文脈」とは、どういう意味の「文脈」で、

具体的に、そのとき、その「文脈」とは何を指しているのかを、明示してほしいと思うのです。

実際、そのときどきで「文脈」は違う意味で使われていると思うのですが、

その個々の意味合いが説明されているのをあまり見たことがないのです。

それによって、論点が明確になり、よりエッジの効いた評論になればもっといいんじゃないのかなと。


また、もしも「文脈」を説明しきれないようなら、その言葉は使わない方がいいのではないのかなと。

はっきりとした意図があって使っている言葉ならば、説明できるはずだし、

複雑に入り組んだものや壮大なものだからいちいち説明できないというのであれば

その大事な部分を「文脈」の一言でやり過ごしてしまうのは、

それこそ、その評論の根底があやふやになってしまうようなことではないのかなと。


いずれにしても、なぜ「文脈」と言う言葉が、そんなに必要なのか私にはわかりませんが、

みんなして、こぞって使われると、どうも何かの呪文みたいで、〝変" という印象なわけなのです。

だから、勝手な言い分なんですけれど

「文脈」、もう終わってくれないかなぁ、と思ってしまうわけなのです。



いま、「芸術」に求められるべきものは「まっすぐな表現」ではないでしょうか?

(主に視覚的な)「芸術」が、「モダン・アート」とか「現代美術」と呼ばれる時代に入ってから、

今日に至るまでの、「芸術」の歴史は「ヒネリ」の歴史だったといってもいいほど、

「芸術」には、ありとあらゆる「ヒネリ」が加えられてきたと思うわけなのです。


「現代美術」においては、常に、「ヒネリ」によって、

斬新さが生み出され、オリジナリティを提示し、作品の意味深さも与えられてきた

と言っても過言ではないのだと思うのです。


もちろん、ヒネラレテいないストレートな作品がなかったということではありませんが、

美術史的な観点からすれば、「ヒネリ」を全面的に前に出したような表現こそが、

時代を形成してきたものであって、

「現代美術」の歴史の中心線上には、「ヒネリ」は二の次にして

できるだけダイレクトに人の心に訴えかけようとするような

「まっすぐな表現」と言うのがあまりないように思うわけなのです。
(ぜんぜんないとは言いませんけどね)


一見すると、ダイレクトな表現形態をとっているような場合でも、

その展示方法や、コンセプトなど、どこかしらに「ヒネリ」があって、

それが必ずと言っていいほど、最も印象的な部分となっていると思うのです。


そんな中で、いま、「芸術」に求められるべきものは「まっすぐな表現」ではないでしょうか?

「ヒネリ」の積み重ねが処理しきれなくなって、いよいよ行き詰ってしまった今、

人の心にダイレクトに働きかける事を第一義に考えた

「まっすぐな表現」こそ求められるべきなのだと思うのです。


「ヒネリ」を一切使わないというのには無理があると思うのですけれど、
(「芸術」によって何かを表現しようとすること自体が一種の「ヒネリ」なのかもしれませんから)

あくまで、それが一番大事なことではないという前提を頭に置いて考えるべきなのかなと。


現在の「芸術」において「まっすぐな表現」を使うことは、

言葉の上での「まっすぐな表現」と言う通りの単純な事ではないのだと思います。

過去において、かなりの部分が「既成の表現」となってしまっている現在においては、

「まっすぐな心」で「芸術」を探求しても、その結果着地するべき場所がとても狭められているわけです。

だから、どうしても「ヒネリ」に持って行ってしまうのだと思います。

でも、その「ヒネリ」の着地する場所もなくなってきてしまった、というのが現状なのだと思うのです。


もともと、「現代美術」は始まりの時点から、ちょっと安易すぎたのだと思うのです。

「抽象表現」にしても、「芸術」の本質を観念の中に見出すという考え方にしても、

十分に必然性のある、そこに向かうべき可能性を持った方向だったのだと思うのです。

でも、それが言葉の上では解決できても「芸術表現」として

具現化するのがあまりにも難しかったので、つい安易にヒネッテしまったのかなと。

そして、一度「ヒネリ」だしたら、安直な割にインパクトのあるその手法に憑依されてしまって

止めるに止められなくなってしまったというところではないのでしょうか?


でも、もうその「ヒネリ」の着地するべき場所もなくなってしまってからでさえ、
(「もう現代芸術は行き詰ってしまった」と言われ出してからでさえ)

かなりの年月が経ってしまっているわけです。

その間、埋め尽くされた足の踏み場も無いような場所の中に何とかして隙間を見つけ出しては、

ヒネッテ着地させる作業を繰り返してきたわけですが、

実際には、着地する場所など考える必要はなかったのかなと。


まっすぐに表現した結果が、多少既成の表現と似ていようが、

真っ当すぎて面白くないと思われようが、気にする必要はなくて、

一直線に自分の心の中心に向かう「まっすぐな表現」だけを見据えていけばよかったのかなと。

その結果であれば、どこに着地したっていいじゃないかと。

その結果であれば、どう思われたっていいじゃないかと。

そう思うことが必要であったのかなと。


そうした中でこそ、「抽象表現」や、「観念」をいかにして「作品」にするのかということを

根底から考え直していくことが、はじめて意味を持ってくるのだと思っているわけなのです。

わたし自身がこれらのことを達成できるという自信は、まったくもって無いのですが、

きっと、誰かがそれを成し遂げるのだろうという確信だけはありますから、

そんなところで、このブログをやっていたりもするわけなのであります。




「芸術」は私物ではないと思います

「芸術」と言うのは、作者の感情や感覚を現したものであって、

その結果、まったくもって個人的なものだということができると思うわけです。

でも、その反面「芸術」は私的な所有物では有り得ないと思うのです。


私の個人的な考えですが、「芸術」は作者自身を含めて何者かに所有されるべきものではなく、

一定のよりどころを持たない、規定の場所をもたない状態に置かれるべきものではないのかなと。


つまり、それは作者から世界に対して投げかけられたままの宙に浮いたような状態であるべきであり、

何かに結び付けられたり、固定されたりしては作者から投げかけられたものが、

その固定されたところにしか届かなくなってしまうわけで、

出来うる限り、自由で不定で偏在しているべきではないのかなと。


もし、そうだとすれば、「芸術」とは法律的な権利の上で誰かに所有されてはいても

本来は、常に何物にも所有されないものであるべきではないのかなと。

作者のごく私的な表現を、その外の世界全体に向かって投げかけるという、

物理法則とは一切無関係のエネルギーを持っていなければ、

また、そのエネルギーが無重力空間のように保存され続けなければ、

「芸術」が「芸術」としての意味をなさなくなってしまうわけで、

それは「作品」ではなくて、ただの「物」や「製品」と同じになってしまうわけなのです。


だから、それが有名な人の作品であろうと全く無名な人の作品であろうと、

また、法的に誰かに所有されて居ようが居まいが、

それが、まさしく「芸術」として作成されたものである限りにおいては、

そこに込められたエネルギーは永遠に保存されているはずだし、

それを、消滅させることなどはできないはずなのです。


要するに、「芸術」は所有してはいけないのではなく、所有することができないものなのではないのかなと。

つまり、お金を出して「芸術作品」を買った人は、「芸術の殻」だけを高額で買わされたわけで、

肝心な「芸術の核」を所有することは出来ないということかなと。


「だから、なんなんだ?!」

「いえ、べつに」

「一人で言ってろ!」

「ハイ、そうしますです」


そんな風に思っています。




現在、「個性的であろうとすること」が「唯一の没個性」だと思うのです:教育で浸み込まされた「個性と才能」

現在、「個性と才能」がとても素晴らしいものだということを否定する人はあまりいないでしょう。

確かにそうなのでしょうが、その意味が履き違えられてしまっているようにも思うわけなのです。


このブログの中でも何度か書いていることなのですけれど、

「個性的」や「才能豊かな」ということが、ある一部の者に与えられた特権のように思われてしまっていると思うのです。

そして、それは教育の段階で子供のうちから浸み込まされてしまっていることなのではないかと思うのです。


実際には、「個性と才能」を重視すればするほど、それは普遍性を持つはずで、

ごく一部の者に与えられたものではなく、全ての者に違った形で与えられるものであるということでなければ、

理屈が合わなくなってしまうと思うのです。


「個性」と言うのは違うから「個性」なのであって、それを重視するということは、

より多くの「個性」を認めることでなければ理屈が合わなくなるはずで、

結果的には、すべての者になにかしらの「個性」があるということに成るはずなわけです。


また、「才能」にしても、それは「何かを達成する能力」なわけですから、

その「何か」が多様化すれば、当然それも多様化するわけですし、

逆に範囲を限定されれば、当然それは画一化していくわけです。

どちらにしても、「個性」と同じように普遍化、一般化していくはずなのではないでしょうか?


私は、この点について、現在の状態が明らかに矛盾していると考えているわけですけれど、

これを、誰かに言ってもなかなか通じないわけなのです。

相手の反応を見ていると、私が無理にこじつけで「才能はみんなに同じだけある」

と博愛主義的なことを言おうとしていると思うようなのですが、

私にしてみれば、どう考えても「個性と才能」と言う言葉と「一部の者だけに与えられた」という状態は

まったく一致しないわけなのです。


なぜこのような矛盾が発生しているのかと言えば、

それはおそらく教育の段階で、無意識の領域に

そういった考え方が浸み込まされてしまっているからなのではないのかなと。

完全に無抵抗(無意識)の状態で洗脳に近い形で刷り込まれてしまっているために、

それを疑うこともないし、それを否定する者がいると強く反発するのではないのかなと。

どうもにも、それ以外の理由が考えられないわけなのです。


実際、両親にしても学校にしても、そういう刷り込んでいる側も無意識で

「個性と才能」は特権的に持っている者と持っていない者がいるということや、

そういう素晴らしいものを持っている者は、ある程度特別な扱いを受けるのは当然なことで、

それを持たない者が、一段低い位置に甘んじることも、またある程度仕方がないことである

ということを子供たちに伝えてしまっていないでしょうか?


いま「伝えてしまって」と言いましたけれど、

それは、むしろ「あえて否定しないことで伝わってしまっている」と言った方が正しいのかもしれません。

つまり、社会の状況を見渡せば、「個性と才能」についての特別扱いが蔓延しているわけですから、

教育段階においては、あえてそれを否定的に扱う必要があるわけですから、

教育する立場の人は、それを受ける子供に対して、

『現代社会においては「個性と才能」は特別扱いされているけれど、

それは社会の都合のよいように曲げられた考え方であって、

本来、「個性と才能」は普遍的なものであるべきである』とあえて教えるべきところを、

それをしていないために、或はお座なりにしているために、

結果的に社会が提示している方向性が修正されることなく

子供の段階で無意識の中に刷り込まれてしまうのではないでしょうか?


いずれにしても、間違いなく言えることだと思うのは、

これほどまでに「個性と才能」を特別扱いすることが一般化している現在においては、

「個性的であろうとすること」は現在有り得る「唯一の没個性的なこと」であるということです。

また、「才能がある者」と「才能がない者」に分ける考え方はほとんどの「才能」を否定しているともいえるでしょう。

それは、おそらく、現在において一番つまらない考え方でしょう。


ですから、教育によって知らず知らずのうちに浸み込まされてしまった意識はもう捨てて、

「個性と才能」なんてものはその辺にゴロゴロ転がっているものだと、

そして自分の中にも普通に適当な感じで存在しているものだと思ってもいいのではないのでしょうか?


実際には、今必要なのはそこから先であって、それはもうどうでもいいことなのではないのかなと。


「それはもう過去の時代に置いてきたはずなのではないのですか?」

そんな風に言いたいわけなのです。



デッサン力にも、ゴマカサレルという話

芸術を鑑賞するときに、奇をてらった手法や目新しい素材(メディア)に気を取られて、

その芸術の本質的な部分を見損なってしまうということが、とても多いと思うわけですけれど、

実は、オーソドックスで正統的な手法や技法にも、とても騙されやすいと思うのです。


もともと、「奇をてらった系」のものは、そうしたコンセプト自体がその作品の本質であるという場合も多いので、

誤魔化されたとも言い切れないわけですけれど、

そこに、根源的な力強さがあるかどうかというところを、見誤ってしまうことはあるのでしょう。


でも、「オーソドックス系」については、それ以上に誤魔化され易いとも言えるのではないのかなと。

とにかく、オーソドックスな技法や表現形態と言うのは、歴史の中で切磋琢磨を繰り返してきていますし、

それが、ずっと受け継がれてきているわけですから、

たとえ、それが表面上のテクニックだけでも「いい!」と言わせるだけの説得力があるわけです。

逆に言うと、それを「わるい!」とは言いにくいわけで、

それを、あえて「わるい!」と言うには、オーソドックスな技法の持っている説得力を超えるような

説得力のある理由が必要になってくるわけなのです。


だから、表面上は美しく、また、「上手い」と言われるような描き方をされた絵などを見ると、

どうしても、その本質的な内容ではなく、「文句のつけようのない出来栄え」の方に

誤魔化されて、ついつい「いい!」と言わされてしまう場合があるのだと思うわけです。


しかし、現在ではそうしたオーソドックスな手法というものは、

かなりの部分でシステマチックなテクニックとして確立されてきてもいますから、

ある程度時間をかけて、繰り返し修練を積めば、誰でもとまでは言いませんが、

かなりの人が、そこそこのレベルにまでは到達できるようになってきていると思うわけです。


そして、さらに言えば、その手法を習得していることは手段に過ぎないわけですから、

本質的な部分ではありえないわけですが、時代を経たテクニックというのは

そこの所を、往々にして見誤らせるだけの力を持ってしまっているわけです。


例えばデッサンで言えば、重要なのは対象の本質をいかに〝見切る"かであって、

物の形を〝写し取る"ことではないわけですから、

その写し取るためのテクニックと言うのは本質とは無関係なわけです。

ところが、どこが〝見切った"部分で、どこが〝写し取った"部分なのかは見分けにくいということなのでしょう。


テクニックを習得する過程において、本質を見切る「眼力」が養われてゆくというのが本来の姿かと思われますが、

既に確立されたテクニックを、要領よく習得することができてしまう人もいるようなので、

結果的に、「眼力」が養われる前にテクニックだけを習得してしまうような人もいて、

その人たちが、その後、本質の追究やそれを見極めることに力を使うとは限らないのだと思うわけです。


ですから、デッサン力のある絵や、流麗なテクニックをもって描かれた絵などを見たときには、

まず、見る側も気持ちを強くして、そのテクニックに対抗するだけの力を込めて臨むことが良いのではないかなと。
(これはテクニカルな作品に限らず、どんな場合にも共通して言えることだと思いますが)


もちろん、全ての人がそんなに一所懸命に絵を見たりするわけはないのですが、

実際は、「見る目のある人」と「見る目のない人」が居るというよりは、

そうした、「見るときの気構え」で左右されている部分があると思うので、

そんな「気構え」で芸術の鑑賞をしてみるのも、やってみるぐらいの価値はあるのかなと。


そんなところが、おススメです。




一極集中的な性質を「才能」と呼んできたことの間違い

このブログでも何度も書いていることですが、

現在、芸術において「才能」という言葉を使うことには、疑問を感じざるを得ないわけなのです。


だいたい、「才能」と言うと、一つのことに突出した能力を持っている人や、

幼いうちから、高い能力を示した者というイメージがありますけれど。

でも、その「突出した能力」や「高い能力」と言うのが

何を基準にしたものなのかが、全くもってはっきりしない場合が多いわけです。


例えばの話、絵を描くのがうまい人が居ると「彼には絵の才能がある」と言われるわけですが、

では、その「うまい」について、「それは技術のことですか?」と聞いたとき、

それに対して、「そうです。技術があることが才能なのです。」と言い切る人が、

現在どれだけいるでしょうか?


また、他の子と違った色使いをする子供がいると、

それも、「あの子には才能があるのかもしれない」と言われるわけですが、

「じゃあ、普通の色使いをする子には才能がないわけですね」と聞くと、

たいてい、「そういうわけではないが、あーでもない、こーでもない」と言って、

話はうやむやになってしまうわけです。


『で、じゃあ、「才能」とはいったい何を指しているのですか?』と言うと、

多くの場合、「それは個性である」と言うのが出て来るわけですが、

個性だったらみんなにあるはずで、「ある人」と「ない人」と言うのはオカシイわけです。


現代美術は、そういう一極集中的なものの見方を捨てることからスタートしているはずだと思うのですが、

いまだに、何か一つの頂点を想定して、

それに近いものが「上」=「才能がある」で、遠いものが「下」=「才能がない」と言う

前時代的な考え方が、まかり通っているようにしか見えないわけなのです。


そして、さらに、その頂点をときによって、とっかえひっかえするという

まったく、デタラメなやり方をしてしまっているようにすら思えるわけなのです。


ものの見方や考え方を、多様化させるのであれば、

そこに上下を付けてしまうというのは、まったく意味がないわけで、

そう言う見方をすれば、必ず「上」にあるものが頂点となって、

いつの間にか、もとの一元的な考え方に戻っていってしまうわけですから、

初めから、多様化・多元化などする意味がないわけなのです。


だから、現代の多様性を根こそぎ否定しようというのであれば別ですけれど、

そうでないのならば、ただ単なる一極集中的な性質をもって、

「才能」と呼び、それが「ある者」と「ない者」が居るというように、

上下関係でものを見るというのは、極めて前時代的な考えであり、

あくまで、それをするというのならば、

現代を根こそぎ否定するだけの「構え」をもってするべきではないのかなと。


ですから、「才能」などと言う高いところに持っていかれてしまうような言葉を使うよりも、

それを、「長所・短所」というような上下になりにくい言葉で

置き換えていった方が良いように思われるわけなのです。


「長所」は常に「短所」でもある筈ですから、上下になりにくいのかなと。

本来は、「才能」も「長所」でもあり「短所」でもあるものの筈なわけですけれど、

それが、「才能」と言って祭り上げられてしまうと一極的な見方に従って、

「短所」の部分が見えなくなってしまうのかなと。


また、その逆に、「平凡」にも、「個性」や「才能」がある筈なわけですけれど、

「才能がない」と言われてしまえば、それは、ただ惨めなものにしか見えなくなってしまうわけです。


こういうことが変わらないと、まだ現代にすら成っていないわけで、

未来などは、望むべくもないということなのではないのかなと。


私には、そんな風にしか思えないのです。




芸術が社会現象の発端であると考える理由

私は、このブログの本題である「宣言文」の中で、「芸術」や「哲学」と言うのは

世の中に起きていることに対して、或は、これから世の中に起きることに対して、

少なからぬ責任があって、芸術家や哲学者を名乗る者は、

その責任を感じて、創作や探究に当たるべきであると言っているわけですけれど、

それは、いささか「芸術」や「哲学」を偏重した見方なのではないのか?

と思う方もおられるのかもしれません。


それは、それでもっともなことだとも思うわけですけれど、

それでも、やはり私は「芸術」と「哲学」は社会で起きる現象の発端であると思いますし、

また、そうあるべきであるとも思ってしまうわけなのです。


ここで、はじめにお断りしておかねばならないのは、

これは、決して芸術家や哲学者が預言者であるとか、

偉大な芸術家(哲学者)は、世の中を先導するような力があるということが

言いたいわけではないということです。


そういった、「芸術」や「哲学」を買い被ったようなことが言いたいのではなく、

例えば、「食」に関わる人は当然のこととして、衛生面や、栄養面、

それ以前に、安全性に対して責任があるわけです。

さらには、私個人といたしましては、「味覚」に対する責任までもあると考えておりますが、

いずれにしても、どんな業種にもそういった責任があるはずなわけです。


それと、同じ意味で「芸術」には「芸術」の、「哲学」には「哲学」の

責任があるというようなことが言いたいわけですね。

ですから、このことは、ほかのどのような業種に対しても、

転じて同じことが言えるのだと思っておりますが、

たまたま、ここでは「芸術」の話をしていますので、

このような言い方になっているというだけのことなわけです。


それから、これは何も「偉大な芸術家」や「偉大な哲学者」に限ったことではなく、

その対象となるのは、「芸術家」・「哲学者」を名乗る全ての者なのです。

「私なんか、そんな影響力などありませんから」というのは通用しないということです。


これは、上の「食」に関わる者の例を考えれば当然かと思うのです。

「私なんか大した料理人ではないですから」という理由で、

衛生面や安全性をないがしろにしていいはずがないわけですから、

「芸術」だけが特別扱いされて当然というのが、むしろおかしいわけなのです。


さて、そこで、なぜ「芸術」と「哲学」が、社会現象の発端であるのかと言うことですけれど、

そもそも「芸術」と「哲学」は、物事の本質を追究する分野であると考えておりますので、

それら二つのジャンルと言うのは、

今見えている「事実」や、起きている「現実」から、そこにある本質を見出して、

それらの持っている「真の姿」を探究するために存在している分野だと思うわけです。


つまり、現在起きていることや、見えているものよりも

さらに「本当のこと」に近づいたものを、研究したり表現したりするための分野であるのだと思うわけです。


ですから当然のこととして、その「本当のこと」が将来に、現実となって立ち現われてくるわけなのです。


そこで、また「やっぱり預言者(先導者)だと言いたいのか」ということが出て来るわけですが、

そうではなくて、「真理」や「真実」などと言うもの自体が、形のあるものではないわけですから、

追究するといっても、それはそうそう達成されることは無いわけです。

実際には、「真理」や「真実」を〝追究しようとする者"が、

「芸術家」であり「哲学者」なのだと思っておりますので、

預言者のような「断定」は、できるはずがないのだと思うわけです。

(もちろん、私がこの「宣言文」の中で断定的に述べていることのように、これは、もう疑いの余地がないでしょうという場合もあるわけですが、それは、「芸術」や「哲学」の探求とは、また別のことだと思っているわけです。)


じゃあ、なぜその「本当のこと」が将来「現実」となっていくのかと言えば、

それは、人々が「芸術家」や「哲学者」を、どこかで信頼しているからだと思うのです。

「美術家」が、これを美しいと言っているのならば、これが美しいのだろう。

「哲学者」が、これを「真理である」と言っているのだから、これは間違っていないのだろう。

と言った、信頼があるからこそ「美術家」が美しいと言ったものが、

「美しい」ことに成っていくのだと思います。


「そんないい加減な!」と言われればそうなのかも知れませんが、

それが現実だと思います。

そして、この点においてだけ、「芸術」と「哲学」は、

他の業種と違って、特別なのだと、私は思っています。


「芸術」と「哲学」は、ほかの業種とちがって、

「真実」や「真理」と言う人間には直視できない領域を扱っていますから、

その精度や正統性を確かめることはできないわけで、

どうしても、「芸術家」が「芸術」だと言えば、

それが「芸術」であるということに成ってしまうという性質があるわけです。


このようなことによって、「芸術」と「哲学」が社会現象の発端になっていると、私は考えるわけなのです。

そして、上に述べたように「芸術家」や「哲学者」が言ったことが、

そのまま通ってしまうという性質もあると思いますので、

そこには、さらに重い責任を感じて、ことに当たるべきではないのかなと。


そんな風に思っているわけですけれど、

素人くさい人間が、こういうことを言うと、

〝ヒジョーニ"嫌がる芸術関係の方がいらっしゃるように思うのですが、

それは、私に言わせていただけるのであれば、

〝ヒジョーニ"無責任なことですし、

〝ヒジョーニ"悲しいことでもあると思ってしまうわけなのです。


それは、言ってみれば、腐った食べ物を平気で扱っていながら、

「私は、食のプロだから」などと言っているのと同じことなわけで、

まして、それを「芸術家」ですと言ってやっているわけですから、

〝ヒジョーニ"見っともないと言わざるを得ないわけなのです。


そんなことを考え無くても「絵なら、絵だけ描いていてもいいんじゃないか」という考え方では、

「絵」ではあっても、「芸術」ではないと思うのです。

それは「技術」であって「芸術」ではないと思うのです。


「芸術家」の作品が稚拙だと馬鹿にされたり責められたりしますが、

私といたしましては、最も責められるべき「芸術家」とは、

「芸術」に対して不真面目な者以外の何物でもない、と言いたいわけなのです。


と、ちょっとガンバッテ言ってみた。




「芸術」は「自己満足」なのか?ということ

芸術表現や創作することについて、「そういうのは、所詮自己満足だろ」と言うことがよくあるわけです。

第三者が言うことよりも、作者本人が言っていることの方が多いように思います。

そして、私もよく言っていたと思います。


でも本当は、「自己満足」なんかじゃないと思うわけです。


本当に「自己満足」だと思っていてやっているわけではなくて、

どこかで、自分以外の人にも〝伝えたい"

いや、〝伝わってほしい"と思ってやっているのだと思うのです。


それから、人から見たら、まずもってわからないような「小さなコダワリ」についても、

「こういうのって、自己満足だよな」と思ってはいるわけですけれど、

やっぱり、何かそこから伝わるものもあるのではないかと思っているからこそ、

そういう人から見たらどうでもいいようなことに、

「そんなことに、そんなに時間かけてるんですか?」と言うようなことをやっているわけです。


そしてまた、実際にも、人が心血を注いで作り上げたものが、

一人の人にも伝わらないなどということは、どう考えてもあり得ないとも思うわけです。


だから、「自己満足なんですよ」なんて言わなくてもいいと思うのです。

私は最近になって、

この「照れ隠し」とも言える「小さな弁解」を、なるべくしないようにしています。


それは、なぜかと言えば、自己表現において、

どんなに小さなことにこだわりを持とうと、

人から見てどんなにくだらないことであろうと、

それに対する「弁解」や「照れ隠し」は必要ないということを、

一段と強く思うようになってきたからです。


と言うよりもむしろ、それは、表現しようとする者の責任として、

「言うべきではないのではないか?」と思うようになってきたということかもしれません。


有名な作家であれば、「自己満足」だといっても「謙遜」としかとられないわけですし、

聞いた相手も、「そうですか。自己満足なんですね。」なんて言わないでしょうから、

それを言うことに、あまり意味はないと思います。


でも、有名でない者が、それを言ってしまうと、

「そうだよね。売れないものを時間をかけて作って、本当に自己満足だよね。」と思われてしまうでしょう。

そして、「やっぱり、自分のやっていることが恥ずかしいから照れ隠しをするんだろう。」

「立派な、売れるような作品が、作れないから弁解しているのだろう。」

ということを自ら認めることに成ってしまうわけです。

私自身が「自己満足」と言っていたときには、そういう弁解的な気持ちがかなり入っていたと思います。


でも、そういうことで、自分だけでなくの全ての無名の創作者達についても、

それを認めることに成ってしまうわけなのです。


ですから、私はできるだけ「自己満足」と言うのを避けるようにしたわけです。
(まだ、習慣的に使ってしまうことがありますが)


そして、だからこそ、「本当の自己満足」の制作はしないようにしようと、

「自己満足などではありません。」と言い切れるものだけを創っていこうと、

心に誓うわけなのです。




芸術における「完成度」とは?

芸術作品においては、その「完成度」によって評価がなされることが多いと思うわけです。

それが間違いだとは思わないのですけれど、果たして可能なことなのかなと。


現代の芸術が、多様な方向性を持っているということは、

誰もが認めざるを得ないことに成っていると思うわけです。

それは、一人に一つの方向性が認められている状態と言えるでしょう。


その前提で言うとすれば、

そこで言う「完成度」とは、

一人に一つの「完成」を想定した「完成度」ということに成るわけです。


つまり、全ての作家の「完成度」は、それぞれ〝唯我独尊"のもので、

比べるものは無いということです。


だとすれば、その「完成度」の「度」とは、何なのでしょう。

比較するものが無い状態で、「度合」を計ることはできるのでしょうか?

また、できたとしても、それに意味があるのでしょうか?


例えば、写実画を目指している人が二人いて、

片方の人の絵が〝リアリティ"で上回っていれば、

一見「完成度」が高いと思えるわけです。


ところが、一人に一つの多様性が認められている現代においては、

もう一人の人の絵が、「敢えて〝リアリティ"をそこで止めたのかも知れない」

ということも考えて判断しなければならないわけです。


そうなると、その人にとっては、そこが頂点なわけで、

もう一人の人の絵と「完成度」で比べることはできなくなるわけです。


もちろん、そういう方向性の違いを包括した「完成度」と言うものもあるとは思うわけですが、

それを、人が判断すれば、相当あやふやな結果が出てきてしまうのではないのかなと。

そしてさらに言えば、明確な指標が無いわけですから、

その時の流行や、周りの状況に大きく左右されてしまうわけです。


だから、現代の芸術においては、「完成度」によって評価を下すことには、

かなり慎重になるべきなのではないのかなと。


というよりも、芸術作品に対して公的な評価を下すということ自体に意味がなくなりつつあるのかなと。


作家において、一人に一つの方向性が許されたのであれば、

鑑賞者においても、一人に一つの視点が発生しているはずなわけで、

その視点もまた、〝唯我独尊"であるはずなのです。

それは、短絡的な〝好き嫌い"だけの判断とはちょっと違うのじゃないのかなと。


そんな〝唯我独尊"の視点で見れば、

きっと、流行とは無関係の〝何か"に出会えるように思うのです。


そして、芸術というものが、今ほど偏った範囲の視界で捉えられることがなくなり、

本当の意味で「芸術の多様化」が実現されるのではないのかなと。


そんな、希望をもっているんですが、

現実はそういう感じでもなく、

でも、思うだけならタダだから、

「まっ、いいか!」

と言ったところです。




「著作権」は守ってくれない

「著作権」と言うものが、創作者の権利を守っているということに成っているわけですけれど、

これは、少し違うように思うわけです。


例えば、現在、プロスポーツの世界などを見ても、

一部の選手の報酬が度を越して高額に成ることで、

そのスポーツの世界全体の首を絞めることに成ってしまうということが、起きて来ているわけです。


つまり、トップに居るプレーヤーと、その下の者との差があまりに激しいと、

結果的に、その世界全体の潜在力を低下させてしまうのかなと。

実際、報酬とは無関係のアマチュアリーグや

プロチームの下部組織のクラブチームなどが充実している場合に、

そのスポーツの潜在力は高まるように思えます。


スポーツの話と、創作に関する「著作権」は一緒ではないと思いますが、

「著作権」もこうした極端な不均衡を作り出してしまう傾向があるように思うわけです。


現実には、「著作権」によって守られるのは「売れる物」だけであって、

「売れない物」は全く守られてなどいないわけです。


これを言うと「負け犬の遠吠え」と取られるかもしれませんけれど、

創作にしてもスポーツにしても、

「売れる物」と「売れない物」の比率が、かなり偏っていることは間違いないわけで、

例えば、1:100(それ以上?)みたいな極端な比率になっているわけです。


その「100」を切り捨てて、「1」だけを守っているものを、

その世界全体を守っているかのように言うのは、「看板に偽りあり」なのではないのかなと。


当然、みんな必死で、「1」の方に入ろうとするわけですけれど、

本当は、自分が持っているものを何かの形にして表したいという気持ちでやっていることで、

「1」に成るためにやっているわけではないように思うわけです。


ですから、「著作権」など「売れる物」だけを守る「権」ではなく、

底辺に居る創作者を守るような「権」があればいいのになと、

そんな風に思ってしまうわけなのです。


現在、義務教育において、「美術」や「音楽」、「文学」など創作に関わる教育を

ある意味強制的に与えられているわけですから、

国民全員が「創作の種」を蒔かれているわけですよね。


そうなると、創作を志望する者(芽を出す者)が、たくさん出て来るのは当然の結果なわけですよね。

それなのに、それに対する受け皿がないわけですね。

その結果が1:100なわけです。


そして「1」の方だけしか守られないわけです。


私個人の考えですが、「著作権」などいらないから、

「経済」とは無関係な「創作できる環境」と「表現できる環境」

がもっと増えればいいなと、

そして、それは創作者だけでなく、

みんなにとって、なんとなくいいことのような気もするかなと。


そんな風に思っています。



「人間性の芸術」

芸術表現に必要不可欠なものとは何でしょうか?


人それぞれに考えるところがあると思いますけれど、

私は、「具象」・「抽象」・「人間性」の三つだと思っております。


「具象」は表現力であります。

「抽象」は精神性であります。

そして、「人間性」は、その精神性の中でも

最も〝芸術であること"そのものであり、

また、人間にとって最も具体的なことでもあるわけなのです。


つまり、「具象」と「抽象」の「二極」をまとめて〝力と形"を与える核となるものだと思うわけですね。


要するに、人間であることこそが人間にとっての真実であって、

それは、正しく「芸術の中心」でもあるわけです。


私は、〝人間であること"を抜きに〝芸術であること"もあり得ないと思っています。

ですから「人間性」を無視した芸術と言うのは、私には考えられないわけなのです。


でも、これは芸術に限ったことでもなくて、

他のどんなことでも「人間性」を無視したものと言うのは、

私にしてみれば論外なわけです。


例えば「出来る」と言うと、イイコトだということに成っていますが、

そこに「人間性」が伴わないと、それはマイナスとしか思えないわけです。


なんでもそうですが、「人間性」を伴わないようなものに価値を認めるというのは、

滑稽な事のようにしか思えないわけです。


なぜなら、全て人間がやっているわけですから、

「人間」を重視しないようなものが「良い」ハズがないわけです。


現在、とくに「仕事環境」において、

「人間性」を軽視する傾向があるようですけれど、

それは全く無意味なことだと思うのです。


そういう時に、「人間性」を踏みにじってまで選択されているのは、

たいてい、「効率」や「能力」と言ったものだと思いますが、

いちばん〝バカバカしい"のは、

「人間性」を伴わない「効率」・「能力」こそが、

もっとも、全体の「効率」・「能力」を低下させているということでしょう。


100年以上前ならば、それにも少しは意味があったのかもしれませんが、

現代においては、それらの単純な「効率」・「能力」は、全部機械がやってしまうでしょう。


要するに、そうした「効率」・「能力」は、単純作業において重要な要素であって、

内容が奥深くなるほど、切り捨てられていくべきものなわけです。


現代においては、それらの「効率」・「能力」の切り捨てられる部分を

如何に最小限にとどめるかが重要なわけで、

人間がそういう作業を行う際には、「人間性」が不可欠となるわけです。


この「効率」や「能力」を芸術の創作に置き換えて言うのであれば、

「技術」がこれに当たるでしょう。

「技術」も、その技法が確立される以前であれば、意味があったのだと思いますけれど、

既に確立された技術と言うのは、単なる手段としての意味しか持たなくなってしまうわけで、

それを目的として指標とすることには、意味がないと言わざるを得ないのであります。


話が逸れてしまいましたが、こういったことも含めて、

人間にとっての真実が、〝人間であること"なわけで、

その真実を現すことこそが、芸術の中心であるべきだと考えるわけなのです。


ですから、「具象」も「抽象」も言ってみれば手段に過ぎず、

「人間性」こそが芸術の本質であるとも言えると思うわけなのです。


少なくとも現在において、

わたしは、そんな風に思っております。



「芸術を見つけ出すこと」

20世紀以降の美術においては、一般的には「芸術」と無関係なものでも

「芸術の場」に持ち込むことで、そこに芸術性が生じるという考え方があるわけです。


作品の中に、「芸術」とは思えないような、言ってみれば「非芸術的」な”何か”を取り込むという考え方も含めれば、

第二次大戦後の先進的な芸術分野においては、

こういう考え方が主流であったと言ってもいいように思います。


こういった考え方において、追究されていたのは”「芸術」を見つけ出すこと”だと思うのです。

つまり、それまでは”「芸術」は創り出すもの”だと思われていたわけですが、

それを、”見つけ出すこと”にこそ価値があると考えたわけなのでしょう。


そして、その”見つけ出す”作業も「一種の創作」であるという拡大解釈が、認められてきたわけです。


でも、私は、「芸術」を”見つけ出すこと”だけだと、

それは鑑賞者における、「芸術性」なのではないかと思うわけです。


創作者は”見つけ出した”ものの中の「芸術」をさらに加工して、

「芸術性」を高めたり濃縮したりして、作品とするべきなのではないのかなと。

そして、その作業こそが「創作」に当たるものなのではないのかなと。


それに、もし「芸術」でないものの中に「芸術」を”見つけ出した”のならば、

それは「芸術でないということ」こそが「芸術的であるということ」が”見つけ出された”わけで、

それを「芸術の場」に持ち込んでしまっては、全く意味がなくなってしまうわけです。


それでも、

『いやいや、それは始めから「芸術」だったのではなく、

「芸術の場」に持ち出されたことによって「芸術」と成り得たのだ。』

と言う”ヘリクツ”(悪い意味ではなくて)は成り立つと思いますけれど、

それは、あくまで「芸術の断片」であり、その「芸術のカケラ」をもって、

「芸術」と呼んでしまっていいものなのか?と思うわけです。


私といたしましては、常道や常識から外れたところに”何かを見つけ出すこと”が、

「芸術」の”キッカケ”であるとは思うのですが、

それは、「芸術」の”スベテ”ではないと思うのです。


それは、料理人が素材選びに力を注ぐのと同じようなことで、

厳しい言い方をすれば、「当たり前のこと」なわけです。

どんなにいい素材を”見つけ出して”来ても、それをただテーブルの上に並べただけでは

それは料理ではないわけです。

要するに、そこまでも当然やるべきことではあるのですが、そこから先が重要だということでしょう。


”見つけ出すこと”がダメだとは言いませんけれど、

足りないのです。

人間の、作者の、”かかわり”が足りないのです。

”見つけ出した”だけじゃ全然足りないのです。

”見つけ出したこと”なんてどうでもよくなって消え失せてしまうくらいに、

強く”かかわら”なければ、いや、それでも足りないくらいなのですから。


もともと、「芸術」とは、人が何をなし得るかと言うことに対する「挑戦」なわけで、

人がどこまで「真実」に迫れるのか、

人がどこまでそこに”かかわり”を持てるのか、

そして、人がそれをどこまで表現し伝えることができるのか、

と言う”人間の戦い”の塊のようなものだと思うわけです。


だから、人がいかに濃密にそこに関わり、自分以上に自分自身であるような、

そういう濃厚な自己表現があってこそ、それが「芸術」たりうるものなわけで、

”見つけ出した”だけでは百万分の一にもならないわけなのです。


とは言え、”見つけ出すこと”も、当然のこととして、とても重要なことではあるわけですから、

”見つけ出すこと”を ”見つけ出して”くれた20世紀の巨匠たちには感謝いたしますが、

われわれは、もう、そこに留まって居てもしょうがないわけです。


そこには、もう私たちの居場所はないんだと思うのです。


”見つけ出した”「芸術のカケラ」が「芸術的」か「非芸術的」かなんてことは、

どうでもいいようなチッチャイことで、

それを自分の意識で全部埋め込んでわからなくしてしまうくらいに、

強く”かかわって”いかなければ、なんにも始まらないなと。


そういった気持ちで、やっております。

「あぁ、出来ないですけどね」

でも、出来なくたって、やるわけです。


まぁ、ようするに、そういうことです。



もう「天才」は「社会の重荷」だと思うのです

前の三つの記事のまとめのような話です。


前の三つの記事で、「歳をとること」・「真面目さ」・「一所懸命」が、

今の日本社会では軽視されているということを書いたわけです。


「どうしてこんな風になってしまったのか?」と考えると、

私の場合、必ず「天才」と言う言葉に行き着いてしまうわけなのです。


私に言わせていただければ、「天才」とは、

最も”若く”して、最も”簡単に”、「何かを成し遂げることができた者」で、

最も”「真面目さ」を必要としない”存在なのです。


つまり、「歳をとること」も「真面目さ」も「一所懸命」も、

「天才」から遠ざかることなのだと思うわけです。


なぜ、「歳をとること」が悪いことのように言われるようになったのか?

それは、歳をとってから達成する者よりも、

若いうちに達成できる者の方が才能があると思われているからでしょう。

なぜ、「真面目さ」が”バカにされる”ようになったのか?

それは、才能がないから「真面目さ」でカバーしていると思われているからでしょう。

なぜ、「一所懸命」が軽視されているのか?

それは、才能が有れば簡単にできるようなことを、

才能がないから「一所懸命」にやらないとできないんだと思われているからでしょう。


つまり、この三つは「天才」には必要ないものだと思われているわけなのです。

そして、この三つのどれか一つでも持っている人は、才能が無いと判断されてしまうわけです。


でも、現実には、この「天才」と言う言葉に、現在でも実態があるのでしょうか?

私は無いと思っています。


「天才」の条件である、”若いうちに”や”より簡単に”は、

もともと大した意味はなかったわけですし、

才能では到達できない感覚を求められて来ている現在では、

「天才」には、もう、実体がないと言わざるを得ないわけなのです。
(これは、必ずしも「芸術」や「創作」などに限ったことでも無いと思います)


「天才」と言う言葉に、今でも実体があるように思えてしまうのは、

人々の心の中の「天才」が神格化されて、

無条件に疑われることのないの領域になってしまっているからに他ならないわけです。


ところが、その神聖な領域がどうにも”重荷”になってしまっているわけです。

人間がどこかに向かって進もうとすると、必ずその神域を侵さねばならない状況になっているわけです。

その領域を踏み越えていかないと、何処にももう進むべき方向が無いわけです。


現在、人間がどこかに進もうとすれば、

若いうちには到達できないような境地に向かわねばならないでしょうし、

人間の才能を超えたところにあるような感性に近づくことが求められるのでしょうし、

そのために必要なのは「天才」ではなく、「真面目さ」や「一所懸命」なのでしょう。


極端な話、同じことでも「天才」がやったのでは「ダメ」で、

「真面目に」「一所懸命に」やってこそ価値が出て来るということでしょう。


ですから、現在の、「天才」がやれば「なんでもあり」と言うのとは正反対に、

「天才でないこと」にこそ価値が見出されるべきなのでしょう。


話がまとまっていませんが、

なんとなくこれは大事なことのように思います。


「歳をとること」・「真面目さ」・「一所懸命」を軽視しない方がいいのかなと。

それではどこにも行くところがなくなってしまうのかなと。


そんな風に思います。




「創造」とは「意味」を創り出すことだと思うのです

芸術の創作においては、

作者の『「創りたい」と言う衝動』以外の余計なものが、なるべく入らない方がいいと思うわけです。

つまり、無目的であることと言うか、無意味であることと言うか、無作為であることというか、

そういった、「無」から始めることがいいように思うわけです。


そこに目的や意味があると、どうしてもそのために純粋性が失われてしまうように思われるわけです。

もちろん、目的を持って創られる「芸術」もあっていいのでしょうが、

あくまで、私が考える「芸術の中心」にあるものについての話です。


その目的や意味というのは、どんなことを言っているのかといえば、

わかり易いことで言えば、

売れそうな作品を作ろうとするとか、

人に褒められるようなものを創ろうとか、ですね。


わかり難いことで言えば、

こんな作品を創ろうとか、

人がやったことのないことをやろうとか、ですね。

これは一見純粋な衝動に近いようですが、「~を創ろう」と言うのは、

それが、「目的」になってしまっているのだと思うわけです。

目的化してくると、どうしても「その目的地点」に着地しようとしますから、

上手くまとめようとしたりしてしまうわけで、そこで純粋性も損なわれますし、

最初の想定を超えるものが出てこなくなってしまうわけです。


やはり、そこは単純に「創りたい」であるのがいいように思うわけなのです。


そこまで、厳密なことを言う必要はないのでしょうが、

まぁ、仮に厳密なことを言えば、と言う話ですね。

「創りたい。だから創ろう」ならいいのだと思います。


ここで、この「無」から始めることと、作品自体が「無」であることは違うと思うわけです。

つまり、作品自体が「無意味」や「無目的」、「無作為」である必要はないということです。


制作を始めるにあたって、「目的」や「意味」を”想定してしまう”ことと、

作品に「意味」を”与える”ことは、全く違うことだと思うわけなのです。


と言うよりは、「無」から始めて制作していく過程で、

そこに「意味」を創り出していくことこそが「創造」と言う作業なのだと、私は思うわけなのです。


また、そこに「意味」を創り出すことこそが、「芸術の創造」であるからこそ、

当然、はじめの段階では「意味」が無い方がイイのだと思うわけです。

「意味」があっては「ダメだ」とは言いませんが、

「無」から始めることで、「創造の領域」を広く取ることが出来るということだと思います。


だから、「無」から始めて「無」に着地している芸術作品と言うのは

「創造なき芸術」だと思うわけです。

だから、「意味なんかないですねぇ~」と言うのは、トンチンカンだと思うのです。


でも、それも「ダメだ」とはいいません、

ただ、私はそれを「芸術の中心」から遠い所に”ピン止め”するということです。


どうしても、「無意味」・「無目的」と言うと、短j楽的なものと思われがちですけれど、

それは「意味」を創り出すための「無意味」であり、

新たな「目的地点」を開拓するための「無目的」なわけです。


世の中に既存のものと言うのは、すべからく「意味」を持っていますから、

敢えて、そこに一旦「無意味」を設定する必要があるということに成るわけです。


そして、そこからどこまで充実した「意味」を創出できるかが、

その作品の真価であるのだと、私は思っているというわけなのです。


だから、作品について問われたら、

「意味はあります。」ということが出来るように、

「意味」のあるものを創っていきたいものだなと。

否、「意味」そのものを創り出していけたらなと。


そのように思っております。

「ええ、なかなかできないですけどね」




「芸術」は文化遺産なのか?ということ

芸術作品と言うと、繰り返し修復しながら維持管理していくというのが、

当然のことのようになっているわけです。

当たり前のことのようになってしまっていますから、あまり疑問を持つこともないわけですけれど、

実際には、これはとても微妙な問題を含んでいることのように思われるわけなのです。


まず一番に思うのは、作者がその修復を望むかどうかということが

確認されない場合が多いということなわけです。


作者本人が亡くなっている場合が多いですから、

その場合、確認のしようもないわけですけれど、

それ以前に、作者の意向を確認しようという気が、まったく無いという感じがあるわけです。


作者は、自分の作品が守られ管理維持されることを望むに決まっている

という決めつけがあるように思うわけです。

でも、実際には、レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を修復して欲しかったのかどうかは、

誰にもわからないというのが事実なわけで、

もしかしたら、その修復にレオナルドが激怒したのかもしれないわけですし、

また、自分の作品に手を入れられること自体を嫌ったかもしれないわけですが、
(彼の場合、それはかなりの確率で考えられることのような気がするのですが)

そういうことは、そっちのけで、修復作業の出来栄えばかりが論じられたりするわけです。


要するに、こういった古い時代の作品は、「文化遺産」として捉えられている側面があるわけです。

だから、”作者”と言う感覚が抜けてしまうのだと思うのです。

公共物と言う扱いなのでしょうか?たぶん。


比較的新しい作品についても、修復や保存と言うのは当然のことに成っているのでしょうが、

”法律的な権利”云々は別にして、

少なくとも、そこで何らかの敬意を込めて保存しようとするのであれば、

作者の意向が反映されて然るべきなのかなと思うわけです。

確認しようがないから、勝手にやっていいということにはならないでしょう。


次に気になるのは、そもそも「芸術」というのは「文化遺産」なのか?ということなわけです。

つまり、修復したり保存したりする必要自体があるのか?

まして、国家や公共の力で、それを行うのは適切なことなのか?ということです。


これは「芸術」の捉え方によって、だいぶ話が違ってきてしまうことですけれど、

私は、「芸術作品」と言うのは極めて”個人的”なものだと思っております。

つまり、「公共物」とは正反対の位置にあるものだということです。

ですから、それを”公の力”を使って保護したり補修したりするのはちょっとおかしいのかなと思うわけです。

「公共」や「国家」が守るべきは「芸術」であって、「芸術作品」ではないように思うのです。


と言うよりも、むしろ「芸術作品」をあまりにも保守しすぎると、

「芸術」が頭打ちになって、行き詰ってしまうようにも思われるわけです。


私個人といたしましては、”滅びゆく様”を含めて「芸術」だと思っております。


修復や保存と言うのは、「芸術作品」を神格化してしまうことであり、

また、その神格化の中でも一種「偶像崇拝的」な、意味を与えてしまうものだとも思いますので、

如何なる重要作品についても一律に、修復や保存は消極的なもので十分ではないのかなと思います。


ある程度整った環境で、無理のかからないような条件下に置かれていれば十分なのではないのかなと。


作者本人が、どうしても保存したければ、

遺言にでも保存方法についての指示を、事細かに書いておけばいいのだと思います。


今後、医療における「延命措置」と同じように、

「芸術作品の保存」についても、生前から本人の意思を表明しておく必要が出て来るのかもしれません。


でも、先ほど述べましたように、私は、「滅びゆく様」を含めて「芸術」と思っておりますから、

自作品を、他人の手をもって修復してまで生き延びさせようとすることは、

「芸術的な態度」とは思えないのであります。


もし、どうしても「千年持たせたい」なら、「千年持つ作品」を自分の手で作るべきだと思ってしまうわけです。


「千年持たせる」だけの価値があるのは、「作品」ではなくて、

その人が、その瞬間に感じた”熱情”であり”衝動”であり、そこに注がれた”力”でしょう。

そして、また、それを見た人が感じ取った”何か”でもあるのでしょう。

それは、その「作品」が百年間モッテも、千年間モッテも、同じことのように思われるのです。


その「作品」が”滅びた”後は、他の「作品」がその位置を埋めるだけのことだと思います。

そして、それでいいのだと思うのです。


「芸術」とは、そういう分野であった方がいいような気がします。

昔の傑作にすがり付いてしまうと、次が出てこられなくなるんじゃないのかなと。

「芸術作品」は唯一無二だから修復するのではなくて、

唯一無二だから、”滅びてゆく様”を邪魔してはいけないように思うのです。

場合によっては、作者本人ですら、後からやたらと手を付けるべきでないとも思うわけです。


”滅びるべくして滅びた”後には、伝説が残るのかもしれないし、

何も残らないのかもしれない。

そこまで含めてが、その作品のあるべき姿なのだと思うのです。

「芸術」っていうのは、そんな風なものじゃないでしょうか?


それを”惜しい”と思う気持ちがあっても、それに引きずられてはダメなのです。

それが”自然な滅び”を迎えることで”新たな芽”が出るのだと思うのです。


”滅びと再生”それが「芸術」の持っている一つの本質ではないのかなと。


そんな風に思っています。




”何処かに向かって行きたい”のです

現在、「芸術」に新たな方向性が見つけにくい状況になっているわけです。


でも、逆に「芸術」に関しては、全ての方向性が許されているとも言えると思うわけです。

現在は「芸術」に関する枠組みが解体されて、

不定形の「漠然とした雰囲気」だけが「芸術」を「芸術」足らしめているといってもいいと思うのです。

つまり、あらゆる方向へ向かうことが肯定されたことで、

方向と言うもの自体の意味が無くなってしまったわけなのです。


どこかに向かって進んでいても、それは違う視点から見れば、

「前進」ではなく「後退」であるのかもしれないわけだし、

また違う観点をもってすれば、止まっているということなのかもしれないわけです。


方向に意味がなくなった以上、”何処かに向かって行く”ということが出来なくなってしまったわけなのです。


でも、やはり”何処かに向かって行きたい”わけです。

人間には”何処にも向かわずに”何かをすることは出来ないように思うのです。


ですから、私は、「下」へ向かおうと思うのです。

「深さ」へ行こうと思います。


「深さ」の意味は人によって違うでしょうが、

これまでは、「深さ」も「高さ」に変換されてしまっていたように思うのです。

だから、常に「深さ」は、上等なことでしたし、良いことだったわけです。


でも、私はこれから、真っ暗で何も見えない深海のような「深み」へ向かおうと思っています。

それは、上質への飛翔でも、良いことへの邁進でも有りませんが、

その「下」へ向かう、暗闇の中での手探りが、”方向性を持たない方向”のように思われるわけです。


意味のある言葉にはなりませんが、それでいいわけです。

それが”方向性を持たない方向”ということなのだと思うのです。


まったく不確かですけれど、

そこにしか行くところが無いように思われます。

でも、”何処かに向かって行きたい”ので、そこに行くわけです。


トンネルではないので、たぶん出口はありません。

進めば進むほど、暗くなるのでしょう。


でも、それでいいわけです。

”何処かに向かって行く”ことができれば、

何かをしたことにはなるのでしょう。


私は、”何処にも向かわずに”何かができる気がしませんから、

こうするしかないのかなと。

つまり、私の分際に許される限度がそこら辺なのかなと。


そんな風に思っております。




「高さ」と「深さ」

前の記事の続きです。


「芸術」においては、これまでも「深さ」は重視されてきたと思うのですけれど、

実は、「深さ」を「高さ」に変換してしまっていたように思うのです。


つまり、「深い」=「上質」とされてきたわけです。

別に間違いだというのじゃありません。

でも、「深さ」と言うのは、”下へ”の追究でもあるわけです。

「下」なのに「上」と言うのも矛盾しているように思えるわけです。


だから、純粋に”下へ”向かう「深さ」があってもいいのかなと思うわけです。


そもそも、「深さ」と言う言葉が「芸術」において多用されるのは、

単純に「いい」とか「上等」とかいうのとは違う、

どこかに、「負の要素」を含んだ言葉だからなのかなと。

「正」と「負」が織りなす複雑さを表現するための言葉なんじゃないかなと。


「深さ」は「芸術」の「負」の部分を担っているようにも思えるのです。


だから、「深さ」は「高さ」に変換せずに”下へ”の「負」の要素として、

機能させていくというのもあっていいように思うのです。


そしてさらに言えば、これまでは「正」に対する付加価値的な位置にあった「負」の要素を、

もっと、主役として起用していく必要性が出て来るのかなと。


今後、これらの「正・負」や「深さ・高さ」だけでなくいろいろなことについての、

位置の逆転が求められるのかもしれません。


この「逆転」と言う言葉だって、常に逆転して”良くなる”と言う使い方がされてきたわけですけれど、

それでは、本当の価値は逆転していないとも言えるわけです。


と言っても、「負ですから、大したことはありませんよ」と開き直ってしまっては、

そこでも、価値は逆転できないように思うので、

もっと普通でいいんじゃないのかなと。


逆転だからと言って、あまりひっくり返そうとすると、

メビウスの帯のように、元の位置に戻ってきてしまうように思うわけです。

ごく自然に、人の意識の中の価値が”逆”に展開していけばいいのかもしれません。


ですから、これから”本当の逆転”を見たいと思っております。

”本当の負”を知りたいと思っております。

そして、”本当の深さ”を表現出来たらなと。


そんな風に思っております。



「わかること」と「それを表現すること」

芸術作品に触れて、その価値や意味が、

「わかった!」と思える時と言うのは、誰しもあるものだと思います。

「来た!l来た!来た!」みたいなやつですね。


そこで、「わかった!」のであれば、

その「わかった!」ことをそのまま表現すれば、

その作品に匹敵するような作品に成るのかと言うと、それがそうはいかないわけです。

(もちろん、”マネ”するとか、そこから何か”イタダク”とか、そういう話ではなくてですね。
もう少し抽象的な意味での、”伝わってきた力”みたいなものでしょうか。)


「わかった!」ことを、「表現する」ためには、

それを”確信”できるほどに、”把握”しなければならないのだと思うわけです。


ここで言う”確信”とは何かといえば、

一言で言って、「思い込み」だと思います。


人の作品に触れて、いくら「わかった!」としても、

それは他人のものですから、自己表現には至らないわけです。


でも、それが、その作品の作者の意図なんかそっちのけになってしまうくらいの

「思い込み」によって”確信”されたとき、

その「わかった!」が自分の中で”把握”されて自分のものに成るのだと思うのです。


これは人の作品に限らないことで、自然のものでも、何かの出来事でもなんでも同じだと思います。

そこから何かを感じ取ったとしても、

そのままでは自己表現として、それをもう一度外に出すだけの「力」はないように思います。


また、これは芸術上の表現だけのことでもなくて、

他のことにも、全般的に当てはまるように思うわけなのです。


例えば、「今日は雨が降りそうだな」なんて言う予感みたいなものがあったとして、

それを「降りそうだね」と言っただけなら、

それはただの予測程度ですが、

なんらかの「思い込み」によって、「絶対に降る」と言った場合は”確信”されているわけです。


ここでは、科学的な根拠があるかどうかとか、

実際に雨が降るかどうかとは、無関係な話としてですね。

つまり、自分自身の中で「降る」が”確信”されているかどうか、

「降る」が、”把握”できるほどのリアリティを持っているかどうかと言う話ですね。


もともと、人間は誰でも皆、”理屈抜き”の予測力のようなものを持っているように思うわけです。

もう少し正確に言えば、”理屈で説明する意味がない”予測力かも知れません。
(芸術作品を見たときで言えば、「感性」がそれにあたるものなのでしょう)


だから、雨が降るような”気がしたり”するのだと思います。

でも、それだけだと、あまり人に伝わらないわけです。

「降りそうだね」だと、人は傘を持っていくところまでいかなかったりするし、

ことによると、自分でさえ、傘を持たずに出かけたりするわけです。


でも、「絶対に降る」なら傘を持っていく人は増えるでしょうし、

自分は間違いなく持っていくでしょう。


結果的に雨が降らなかったとしても、

その「確信」が人の心を動かしたことにはなるわけです。


その「絶対に降る」的な”確信”が有るのと無いので、

表現として外に向かって現されるだけの「力」を持つかどうかが別れるのだと思うわけです。


「漠然とした予測」までは、誰もが無意識のうちにやっているのだと思うのです。

でも、そこから”確信”に至るには、”把握”が必要だし、

それをさらに表現すれば、責任が発生します。


「思い込み」と言うと無責任なものを思い浮かべてしまうかもしれませんが、

実は、雨が降った後で、「やっぱりね、降ると思ってたよ」というのが、

いちばん無責任なわけです。


「降るような気がする」は、みんな「わかっている」ことなわけで、

それを自分の中で「絶対に降る」にまで持っていって、

さらに、それを外に向かって表明できるかどうかが分かれ目なわけですから、

結果がわかった後で言うことには全く意味がないわけです。


要するに、そこには”確信”された「思い込み」はないということです。

既にわかってしまったことでは「思い込みようがない」と言うわけです。


それから、この「思い込み」に客観性を持たせようとしてしまうことがあるわけですけれど、

これは、ただ単に体裁を繕うだけなので止めるようにしたいものだなと。

客観性を持たせてしまったら「思い込み」でもなんでもなくなっちゃうので、

意味がないわけですから、そういうのが無責任な「思い込み」に成るのかなと。


こんな考え方はどんなもんなんでしょうか?

こういうのも一種の「思い込み」ということで。




「芸術」は手の届く所に置いておいてほしい

「芸術」を理解するには、「芸術に対する素養」が必要であるという考え方があるようです。

これを間違いだとは思いませんけれど、

こういう考え方は、出来るだけ強調しない方がいいように思うわけなのです。


要するに、それは「芸術」を一般人の手の届かないところに

持ち上げてしまうことに成るように思われてしまうわけですね。


確かに、「ナニカ」について何も知らずにそれを理解することは出来ませんし、

何も見ずに「ナニカ」を感じ取ることもできないのでしょうから、

情報が多い方がいいに決まっているわけですけれど、

最も大事なのは情報の”質”であって”量”ではないのだとも思うのです。


そして、その”質”とは、「与えられる情報の質」ではなくて、

情報を受ける側の「響きの質」であるように思うわけです。


つまり、どんなに「上質な情報」でも受け手に「響かなかった情報」には価値がないということですね。


例えば、カレンダーの絵柄としてみた絵でも人の心に「響く」場合もあるし、

わざわざ外国の美術館まで見に行った絵でも「響かない」かも知れない。


とは言っても、もちろん「本物」は「響く」確率が高いに決まっているわけです。

「美術史」や「芸術論」についての知識もあった方がいいのでしょう。

でも、それを強調してしまうと、一般人は「さようなら」なわけです。

と言うか、最初はみんな一般人なわけですし、

誰しも、はじめから「芸術論」ではないはずなわけで、

最初のきっかけは「カレンダーの絵」だったりするわけですから、

それをことさらに強調する必要もないのかなと。


そこで、「芸術的な環境」に恵まれていることが、

どれほど重要なことなのかは計りかねますが、

少なくとも周りがそれを強調する必要と言うのはないように思うわけです。


それに、「芸術的な素養」のない人を締め出してしまうと、

結果的には、「芸術」の世界が小さくなって、

その小さい世界の中で「あーでもない、こーでもない」と言っているような、

つまらないものに成り下がっていってしまうのかなと。


だから、出来るだけ門戸を広く開いて、

「誰でも自由に入れますよ」ということにしておいた方がいいような気がします。


少なくとも、私なんかはそうでないと入って行かれなくなってしまいますから、

そういう感じにしておいて欲しいなと思ってしまうわけなのです。


「芸術」は誰でも手の届くところにあった方がいいのかなと。


そのように望んでおります。





相対化した時代の「芸術の中心」

現在は、一面として「相対化の時代」であると思うのです。

その「相対化の時代」においては、中心と言う概念が失われてしまう傾向があると思うのです。

そんな現在において、「芸術の中心」に果たして意味はあるのでしょうか?


本当のことを言えば、そこに意味はないのかもしれません。

こんなことを言ってしまうと、

このブログの中心テーマである「宣言文」で、

「いま、芸術の中心を規定しなければならない」と言っていることと矛盾してしまうわけですけれど、

実際には、「芸術の中心」自体や、それを模索したことによって得られる成果に意味があるのではなく、

それを模索し、設定するという”行為”の方に意味があると思っているわけです。


最も乱暴な言い方をすれば、「芸術の中心」自体はどこでもいいし、

人によって、さまざまでもいいのだと思っているわけです。


私が、最も重要だと考えるのは、それが規定されているという状態です。

それがいつも意識され、常にそれを規定しようとする力が働いている状態

という言い方の方がより正しいのかもしれません。


その既成事実がありさえすれば、そこから位置を測ることが可能になってくるわけですし、

人それぞれの「芸術の中心」を、身勝手に規定していても、

そこからも、また、他のものとの距離を測ることが出来るわけです。


「それじゃあ、規定されていないのと変わらないじゃないか」と言われてしまうかもしれませんが、

何も変わっていないようでいて、そこに潜在している意味が違ってくるのだと思っています。


「相対化の時代」に「中心」を設定することは”不可能”だと思いますし、

それは事実上の意味を持ちえないわけですけれど、

その”不可能”に対して、常に対峙し続けるという姿勢を失ってしまうと、

何も生み出されなくなってしまうように思うわけなのです。


ですから、その「芸術の中心」は、常に仮のものであるともいえるわけですが、

それでも、そこに向かって行く姿勢を持ちつつ、

また、それを維持していかなければ「芸術」と言う枠組み自体が崩壊してしまうと思うのです。


もちろん枠組み自体に固執するという意味ではなく、

何も生み出されなくなってしまうということが問題なわけです。


それでもいいのだといわれれば、そうなのかも知れませんが、

私はそう思わないということなのです。


「芸術の中心」を失うということは、「芸術」を失うことでもあります。

「中心の設定」に自由度を与えることと、それを失くしてしまうことは全く違うことだと思うのです。


相対化することは必要だと思いますし、

指し示されたその方向は、間違っていないように思います。

と言うよりむしろ、他に進むべき方向が残されているとは思えないわけです。


ですから、今、最も真剣に考えるべきは、

実質的な意味を失った「芸術の中心」を規定するという行為に対して、

如何にして対峙し続けるかということだと思います。


それは現在最も”顧みられないこと”であります。

そして、その”顧みられないこと”にこそ力を注ぐ価値があると思っているわけです。

そこを避けて通れば「芸術」から”外れて”いきますし、

そこに向かって行けば、”顧みられ”ません。


そんな中で、最も平凡で最も普通の位置に「コロッ」と転がっている、

「芸術の中心」を見つけ出していきたいなと。


そんな風に思っているのです。






「色の形」と「形の色」:「絵画」とは何なのか?

「絵画」とは、いったい何なのだろうか?と考えてしまうことがあるわけです。


「そんなこと、考えたって仕方ないだろう!絵は絵だろう!!」と言われてしまえばそれまでなんですが、

絵を描いていて、一所懸命に描きますから、疲れるわけです。

そこで、何のためにこれを描いているのかというところから、

そもそも、これはいったい何なのだろうか?となってしまうわけなのです。


人それぞれに、違う意見があるのでしょうが、

私の場合、「絵画」とは、

「色の形」と「形の色」なのです。


画面の中で色の面が持っている形、これが「色の形」です。


そして、「自分の中のイメージ」、

これをモチーフと言っても、テーマと言っても、なんでもいいと思いますけれど、

その「イメージ」に与える色が「形の色」です。


「色の形」だけだと、デザイン的になります。

それは「構図」であると思っています。

それは、その「絵画」の「全体像」を決めるものだと思います。


「形の色」だけだと、説明的になります。

それは「表現」であると思っています。

それは、作者の「言いたいこと」を伝えるものだと思います。


ただし、「色の形」=デザイン的・「形の色」=説明的

と言うのではなく、私の中で曖昧にそう捉えているという程度のことです。


いずれにしても、その二つを合わせたものを「絵画」と呼んでいます。

そして、その二つを融合させる過程で、

画面に何らかの”チカラ”を与えることを、いつも考えているわけです。


その為の手段や手法や技術なんかは、なんでもいいと思っています。


いつも”チカラ強く”と考えていますから、

今度は、「その”チカラ”っていったい何なのか?」となってしまいます。

キリがありません。


だから、いつも「今日の所はこの辺で勘弁しといてやろうか!」と思うわけです。


「絵画」とは【「色の形」と「形の色」】

今のところ、これ以外の答えは見つけられません。


今、私はその辺止まりって言うことですね。




「やりたいことが見つけられない」ということ

現在、「やりたいことが見つけられない」と思っている人が、たくさん居るみたいですね。



でも実際には、「やりたいこと」はイッパイあって、

しかも、それを結構やっていたりするのに、

それを無視してしまっているのではないかと思われる節があるわけです。


「やりたいことを見つけられない」のが問題なのではなくて、

世間が「やりたいこと」としての価値を認めるようなことの中から

「やりたいこと」を選択しなければならないということが問題なのではないのかなと思うわけです。


実際には、今やっていることは、

誰にとっても、それなりにやりたいことである場合が多いのではないかと思うのです。

でも、人から「やりたいことに向かって頑張ってるんだね」と言われないようなことをやっている場合は、
(気楽ににのんびり過ごすとか、家族と幸せに暮らすとか、そういう普通のことですね)

それが不完全燃焼のようになってしまうので、

「何か違う、もっと自分に合ったやりたいことがあるはず」となってしまうのかなと。


それで、結果的に「やりたくないこと」を無理に「やりたいこと」にしている人が

かなりたくさん居るように思えるわけです。


当然、どこかに無理が出て来るわけです。

やっていても、楽しくなかったり、続けていかれなくなったりするわけです。

そして、また「やりたいこと」を探さなければならなくなってしまうわけです。

結局、いつも「やりたいこと」が見つけられない」ということになってしまうわけです。


これは、教育やマスコミが作り上げた、

「個性」と「才能」に関する神話が生み出している「ワナ」だと思うのです。


ごく普通のことが”やりたい”と思う人だっているわけです。

と言うか、そういう人の方が多いハズですよね。


でも、「個性的」でないと”残念な感じ”だし、

「才能を生かした一芸」でなければ、世間的には価値が低く見られてしまうわけです。


かつては、「平凡」ということは、ある種の価値として評価されていたと思うのです。

だいたい「平凡」と言う言葉で押しなべてしまっていますけれど、

「平凡」な人がみな同じということもないのだし、

一人一人違えば、それは十分「個性」だし、

「才能」だってどこにあるかは人によって違うわけです。


それが、「世間が認めるもの」であるかどうかで、

価値が付けられることは致し方ないことだと思いますけれど、

「平凡」であることに全く価値を認めないようになってしまっているというのは、明らかに間違いであって、

それによって、一番たくさん居るはずの「普通の人」が、”生きづらく”なってしまっているわけです。


その結果が「やりたいことが見つけられない」ということだと思うのです。


だから、「やりたいことが見つけられない」と思っている人は、

「今やっていること」をやめようとしてみたらいいと思うのです。

それがやめられなければ、それはきっと「やりたいこと」だからだと思います。

もしも、それが一見必要に迫られてやっているようなことだったとしても、

やっぱり、どこか「やりたいこと」だからやっているのだと思います。


「やりたいこと」でなければやめられると思いますし、

きっと、やめてよかったと思うでしょう。


そして、自分が「今やっていること」が「やりたいこと」なのだと思えたら、

それで、「やりたいことが見つけられない」という「ワナ」から抜けられるのだと思います。


これは、意味のない「落とし穴」のようなものだと思いますので、

引っかかって落っこちない方がいいように思うのです。


「やっていること」の中で、唯一「やりたくないこと」が

「やりたいことを見つけること」だったりするのかなと。


そんなのって、”ソン”だよなと。

そんな風に思ってしまうのす。



「独創性」について

芸術に「独創性」は不可欠なものということに成っているわけです。

でも、私はそうでもないのかも知れないと思っているわけです。


もともと、芸術において「独創性」が重視されるのは、

芸術が「自己表現」だからだと思うわけです。


確かに、確立された「自己表現」が、「独創性」を伴うことは多いと思うのです。

しかし、「独創的」なものが「自己表現」であるとは限らないとも思うのです。


つまり、「自己表現」を追い求めれば、結果的に「独創的」に成るという原則はあっても、

「独創性」を追い求めれば「自己表現」に至るという法則は無いということですね。


「独創性」は「人と違うこと」でありますから、「人」が基準になっているわけです。
(本当の「独創性」は、「人と違うこと」じゃなくて、「自分であること」だと思うんですけどね)

「自己表現」は「自分」が基準である筈です。

だから、「独創性」は「自己表現」とは一致しないこともあるわけです。

一般的には、人と違っていれば「独創的」といわれますが、

そこには、「より自分的である」と言う基準は無いわけです。


ただ単に、まったく同じ顔をした人が居ないように、

まったく同じ「自己表現」もありませんから、

「自己表現」が「独創性」と同じように見えているだけで、

この二つは、おおもとのところでかなり違っているようにも思えるわけなのです。

それなのに、この二つが混同されていると思うのです。


そして、「まったく同じ顔の人はいない」のも確かですけれど、

「人間の顔なんて、みな同じところに目鼻がついている」ということも、また、確かなことなわけなのです。


だから、人間の「自己表現」なんて、”みんな違っていて、みんな似ている”ものだと思うわけです。


ところが、「独創性」が重視されるあまりに、

「ナニカと似ているもの」は「独創性」が無いと判断されてしまうわけです。


そこで、みんなして「独創性」を”チマナコ”で追いかけますから、

乱獲され尽くして、「独創性」が「絶滅危惧種」に成っているわけです。

と言うより、もう絶滅しているかもしれません。

それすらわからなく成っています。

一時の「ニホンオオカミ」のような状態です。


ひょっとしたら、本当は他の誰かが「本物の自己表現」として見つけ出す筈だったものを、

その前に、ただ単に「独創性」を追い求めた者達が、根こそぎ刈り取ってしまったわけです。


現在は、そういった使い捨てられた「独創性の残骸」のなかで、

ゴミの山から使えそうなものを拾い集めるような作業をやっているようにも思えるのです。


だから、「独創性」から意識を離さなければいけないと思っているわけです。

「独創性」にとらわれて「自己表現」を見失うことは本末転倒でしょう。


でも、です。 

頭から離れないのです。

「独創性」が。


「独創的でありたい」と言う欲求が、なかなか捨てきれないわけです。

そんなことにとらわれずに、自分の「衝動」に意識を集めるようにしたいと思うわけです。


このスッカラカンに刈り取られた状態が特殊なのだと思うわけです。

そういう風に考えて、もういなくなった「希少種」を追うのではなく、

普通によく見かけるような「種」の方に目を向けるべきなのかなと。


「イリオモテヤマネコ」が発見されたとき、

現地の人たちは、普通の猫が野生化したものだと思っていたという、

そんな感じですか?

違いますか?


どっちにしても、「独創性」より「普遍性」かなと。

それよりなにより、「自分性」かなと。


そんな風に思っています。




「色の形」と「形の色」(つづき)

このまえ書いた記事で、私にとって「絵画」とは「色の形」と「形の色」だと言ったのですが、

これについて、もう少し付け加えておこうと思います。


先ず、「色の形」とは色の面が持っている形のことを、私がそういっているわけです。

つまり、赤い色を四角く塗れば、その「四角形」が、その赤い色にとっての「色の形」に成るわけです。

でも、「絵画」はベタッと塗られた面だけで構成されるとは限らないので、色の変化があるわけです。

そこで、その赤の色の範囲がどこまでなのか、と言う境界線が「色の形」の輪郭になります。


それが、はっきりしていても、曖昧な場合でも、そこに「色の形」は存在すると思っています。


「形の色」については、何か表現したいことを、何らかの形に託して、

それを絵具で描きますから、色で描くわけです。

その時、その形を描いた色が「形の色」ということに成っています。
(私の中では勝手にそういうことにしています)


具象画であれば、描く対象の”物の形”を

絵具で描けば、その色が「形の色」になります。


これは抽象画であっても同じことです。

「抽象画」であっても、やはり何らかの「形」に頼らなければ何も描けませんし、

何かを描けば、必ずそこに何らかの「形」が発生するわけです。
(これもやはり、境界線をボカシテいったとしても「形」が完全に無くなるということはないと思っています)

それを「形の色」と言っています。


例えば、具象画で言えば、

黄色い花を黄色い色で、花の形に描けば、

黄色は「色の形」の”色”でもあり、「形の色」の”色”でもあります。

また、花の形は「色の形」の”形”でもあり「形の色」の”形”でもあるわけです。

従って、「色の形」と「形の色」は一致しています。


ただ、これを「黄色い花を描いている」と言うのは、間違いだと思っております。

正しくは、「黄色い花の”絵”を描いている」わけです。

絵を描くときに、「花の形」と「花の色」を借りているだけのことだと思うのです。


つまり、その花を見たときに受け取った”インスピレーション”を、

そのまま花の色と形に託して表現したということです。


そして、その”インスピレーション”を何かほかの形や色に託して表現することが、

抽象と言うことだと思っております。


例えば、色や形を少し”ズラシ”たりするだけでも一種の「抽象化」に成ると思いますし、

まったく”物の形”や”物の色”に頼らずに、一から創作した色と形で、

画面を構成するのも「抽象」だと思っています。

「具象」から「抽象」までのどこに留まるのかは、作者の好みだと思います。


ただ、どの位置に立って創作する場合でも、

その過程で、「色の形」と「形の色」を分けて意識する必要があるように思っております。

その二つを別のものとして意識していないと、単なる模写の域を出ることが出来ないと思うわけです。


つまり、まったくの具象画であっても、

「色の形」と「形の色」が、たまたま一致しているだけで、

それらを使って自分が表現しているものが何であるのかを、

意識できていなければ、それはただ単に、物の形や色を写し取っているに過ぎないわけなのです。
(「花の”絵”を描かずに、花を描いている」いうパターンですね)

要するに、何かを表現していることにはならないということですね。

正確に言えば、表現しているのは絵を描いている[作者」ではなく

描かれている「物」の方だということに成るのかもしれません。

花を写し取っただけでは、美しさを主張しているのは花であって、

作者の自己表現にはなっていないということでしょう。


つまり、現実にある”物の形”や”物の色”を抜け出して、

そこに「自己表現」としての世界を創作するためには、

”物の形”ではなく「色の形」、

”物の色”ではなく「形の色」、

を使っていくのがいいように思うわけです。


「でも、絵具だって物質だから物に違いはないだろ」と言われればそうなのですけれど、

「絵画においては絵具は”物”ではない。それは”色”である。」と思っております。


ですから、「絵画」を描くということによって、

絵具の色は純粋な”色”となり、

そのことによって、「色の形」と「形の色」を分けて捉えるということが出来るようになるのだと考えております。


だからこそ、そこに「一枚の絵」としての「絵画」の意味が生まれるのだと思っております。


印刷された絵やデザイン的に塗り分けられた画面からも、

鑑賞者が何らかの”チカラ”を感じ取ることは出来ると思っていますが、

やはり、それは「一枚の絵」として描かれた「絵画」とは違うのだと思うわけです。


作者が画面を構築するという作業があって、初めてそれは「絵画」と呼べるものに成るのだと思っています。


ですから、絵具を使って、画面を構築するという作業を含まない種類の絵は、

「一枚の絵」としての意味を持っていないと思うわけです。

従って、それを「絵画」とは呼べないのかなと。


そのような、私的な捉え方であります。




ほとんどのことが「大きさ」で決まっている?

時々、思うことなのですけれど、

世の中のほとんどのことが、実は「大きさ」で決まっているんじゃないのかなと。


例えば、スポーツなんかでも体が大きい方が有利だったりするわけです。

相撲などの体重制が無い格闘技では圧倒的に有利ですし、

バレーボールやバスケットでも確実に有利でしょう。

もちろん体の大きさと関係ないスポーツもありますが、

それですら、まったく同じ条件で比べた場合、

「大きさ」が決定力を持ってくるということは否定できないわけです。


それから、小さい方が有利なものもあるわけですが、

どちらかと言えば、一般的なスポーツとしては人気のないスポーツだったりします。

同じスポーツの中で比べても、最重量級の人気が高い場合が多いというようなことです。

それだけ、人が「大きさ」に魅力を感じているように思えるわけです。


スポーツに限った話でもなくて、

企業だって大きい方が有利でしょうし、

どんなものでも、かなりの比率で大きい方が”得”な場合が多いように思えるわけです。


「大は小を兼ねる」と言うような感じですか?

ちょっと違うような気もしますが、

ともかく、「大きさ」は一つの絶対的な”チカラ”だと思うわけです。


でも、だからこそ、

この「大きさのチカラ」を「芸術」で使うのは、間違いだと思っているわけです。


現代美術の作品には、この「大きさのチカラ」を使っているものが多いように思うのですが、

それに頼ってしまってはいけないように思うわけです。


「大きさのチカラ」には、今述べたような「絶対性」があるのだと思うわけです。

だから、「作品」を大きくすれば、確実に「力強くなる」と思います。

でも、それは「作者のチカラ」でも「作品のチカラ」でもなくて、

「大きさのチカラ」だと思うのです。


だから、できるだけ「大きさのチカラ」は排除していかなければ、

その作品における作者の表現が隠されてしまうと思うわけです。


作品を作る上で必要十分な「大きさ」のなかで、

常に「できるだけ小さく」と言う発想で考えていった方がいいと思うわけです。

そこで、「どうしてもこの大きさになってしまった」というのが、あるべき姿なのかなと。

※逆に言うと、「どうしても大きくなってしまう」ということは、
それに見合うだけの構想があってのことだということに成るわけですね。


ほとんどのことが「大きさ」で決まってしまう世の中だからこそ、

「芸術」は、それに逆行しなければいけないような気がするのです。


巨大化した作品は、エンターテイメントとしての評価は出来ても、

「芸術」としては評価できないのではないのかなと。


そんな考え方で、”「大きさ」で決まってしまう世の中”から取り残されること、

それこそが、まさに、私の考えるところの「芸術」の立場であるわけなのです。


そんな考えで行きたいと思っております。




「オシャレな芸術」と「オシャレじゃない芸術」

「オシャレな芸術」と「オシャレじゃない芸術」というのがあると思っているわけです。


「オシャレな芸術」とは、その場に馴染む芸術、

即ち、「インテリアになるような芸術」です。

これは、「インテリア」を「ファッション」に置き換えても同じことが言えると思います。


「オシャレじゃない芸術」とは、その場の空気を支配する芸術、

即ち、「インテリアにならないような芸術」です。


と言っても、私がそんな風に呼んでいるだけで、

「オシャレ」=「インテリア」でもないわけですけれど。


また、これはその作品の”良し悪し”とは必ずしも関係ありません。


言えることは、「インテリアになる」ということは、

その場に置いてある他の物と”馴染む”ということで、

それは、つまり、それらの「芸術作品ではない物」との相性がいいということなわけです。

やや語弊があるとは思いますが、

「芸術作品ではない物」と共通の要素を、多く含んでいるということでもあるわけです。


そして、「インテリアにならない」ということは、

その場に置いてある他の物とは”馴染まない”ということで、

それらと共通の要素が少ないということなわけです。


ただし、先に述べたように、

「芸術ではない物」と共通の要素が多いことは、

「芸術として出来が悪い」ということではありません。


例えばですが、「芸術性のある家具」というものもあります。

インテリア全般に言えることですけれど、

そこにも「芸術性」は有り得るわけです。

私は、実用性ということを「芸術の中心からは遠い」と判断しますが、

それは「芸術」の中で、そのものが在る位置のことであって、

「芸術作品」としても「芸術性のある実用品」としても、質が低いということではありません。


そして、当然のこととして、

インテリアと”馴染む”ためには”相手を選ぶ”という性質が出て来るわけです。


例えば、インテリア同士でも、

「ヤスブシンな部屋」にロココ調などの重々しい家具を置けば、

まったく”馴染まない”わけで、かえってみすぼらしくなる可能性も大いにあるわけです。
(ロココ調自体がいいか悪いかいうことは抜きに、例えばの話ですね)


これと同じことは「芸術作品」と「インテリア」の間でも成り立つわけで、

「芸術性」を多く含んだ「インテリア」と”馴染む”のは、

それだけの「芸術作品」でもあるわけです。



これとは逆に、「インテリアにならない芸術」即ち「オシャレじゃない芸術」は、

他の家具などとは無関係に、その場を支配してしまいますけれど、

それが、「芸術作品として優れている」ということでもないわけです。


例えば、先ほどの「ヤスブシンな部屋」の例とは逆に、

センスのいい家具をそろえたような部屋、つまり、「オシャレな部屋」に、

「オシャレじゃない芸術」を持ち込んだ場合、

それの”出来が良いか悪いか”には関係なく、

その場を支配してしまうわけなのです。

こちらは”相性とは無関係”なわけなのです。


要するに、そういうときに、

「最悪の作品はその場を支配して、せっかく出来上がっている統一感を台無しにしてしまう」

に違いないわけだし、

「最良の作品はその場を支配して、他の物の存在感を消し去ってしまって、やっぱり統一感を失わせてしまう」

に違いないわけなのです。

どちらにしても、他の物との調和は失われてしまうわけです。

ということは、つまり、調和のとれた”居心地の良いインテリア空間”

とは言えなくなってしまう可能性が強いということなのです。


なかには、”出来が悪くて”その場を支配するような”チカラもない”といったものもあるでしょうが、

それは「オシャレじゃない芸術」ではなくて「オシャレじゃなくて、芸術でもないモノ」なわけなのでしょう。


「オシャレな芸術」と「オシャレじゃない芸術」のどちらが価値が高いのかと言うのは、

むずかしいことだと思うのですけれど、

たぶん、「オシャレな芸術」は”実用的な価値”では上回っていて、

「オシャレじゃない芸術」は「芸術」としての”純粋性”において上回っているということなのだと思います。


そして、創作者としても鑑賞者としても、

この二つのうちどちらを選ぶかは、

その人が、二つのうちどちらを必要としているかで決まって来るのかなと。


はっきりしているのは、「オシャレじゃなくて、出来も悪くて、芸術でもないモノ」は、

誰も必要としていないということくらいかなと。
(純粋な気持ちで作られたモノは、そんなことにはならないと思いますけどね)


そんな風に考えています。




「有料文化」と「無料文化」

文化には、「有料文化」と「無料文化」があると思うわけです。


要するに、お金を払って享受する文化と、”タダ”で受けられる文化ということです。
(と言っても、いま私が勝手に言っているだけのものですけど)


「有料文化」は、美術館や映画館、コンサートなどの、

「文化」自体を商品とした「文化」です。

もちろん、本や音楽CDを買うのも「有料文化」になります。


それに対して、「無料文化」の典型がテレビなわけです。

最近ではYOU TUBE やブログなんかも「無料文化」にあたる場合があると思っています。


もちろん、「無料文化」の方でも、

巡り巡って何かしらの課金が発生してはいるわけですけれど、

受け手は、それを意識していませんし、

それ以前に、そのお金は「文化」自体に対して支払われたものとは言えないので、

やはり「無料文化」なのかなと。


そして、何が言いたいのかと言うと、

テレビ以来のこの「無料文化」が、いま振り返って結果的に、良くなかったように思うわけなのです。


「”タダ”だから、いい」と思ったのが間違いだったように思うのです。

やはり、なんにでも「適正価格」と言うものがあるのかなと。

     ※私は「芸術」に関しては、理想を言えばおカネで売り買いしない方が
       イイと思ってるんですが、ここで言う「適正価格」と言うのは、やむを
       得ずおカネでやり取りすることを前提にした場合の話です。


テレビの歴史もかなり長くなってきているわけですけれど、

はじめのうちはよかったのだと思います。

でも、やり続けているうちに、

見る側も作る側もだんだん”垂れ流し”的になっていって、

今となっては、もう、とても人が見られるような代物ではなくなってしまっていると思うわけです。
(いい番組もあるのでしょうが、全般的にみた場合にはということですね)


それでも、敢えて文句を言う気にならないのは、

”タダ”だからでしょう。

それでも、また見てしまうのも、

”タダ”だからでしょう。

いや、それどころか、見ていなくてもスイッチをつけてしまうのも、

やっぱり、”タダ”だからでしょう。


この「無料文化」の”垂れ流し的配信”と”垂れ流し的享受”と言う方向を、

だれかが修正しなければいけなかったような気がしてならないわけです。


もちろん、ケーブルテレビなどは出てきたわけですが、

「有料文化」の方は昔から結構あるわけで、

問題は「無料文化」が存在するという事実の方ですから、

そちらを何とかする必要があるわけです。


そして、現在、新たにネット上の「文化」もまた、

「無料文化」の方向へ向かっているわけです。


これは、まさに「悪貨は良貨を駆逐する」になってしまっているわけです。

”タダ”に対抗できるものは、そうそうないわけです。

そうなると、内容のある「文化」は出てこれなくなってしまうと思うのです。


やはり、何かしらの規制、または援助が必要なのではないかと思うのです。

「表現の自由」とか「言論の自由」とばかり言って、

その”自由に縛られて不自由になる"ことほど愚かなことは無いわけですから、

本当の自由がどこにあるのかを考えて、

「文化」を育成していってもらいたいなと。


そんな風に思ってしまうわけですね。





「参加型の芸術」

「参加型の芸術」というのが、増えて来ているように思うのです。

そして、『そこに「芸術の未来」があるのではないか』と言われることがあるわけです。

でも、私は表現者と鑑賞者の境界を曖昧にしてしまうことに、

「芸術の未来」はないと思うのです。


それらは、真っ向から対峙してこそ「芸術の未来」と成り得るのだと思うわけなのです。


「参加型の芸術」を否定するわけではありまんし、

そういう「芸術」もあっていいとは思います。

でも、『そこに「芸術の未来」があるのか?』といえば、

「無い」と思うのです。

あるのは「現在」だけですね。

要するに「流行」っていうことだと思うわけです。


「参加型」であることで、見に来る人の幅が広がるでしょう。

「参加型」であることで、見に来る人の数が増えるでしょう。

「参加型」であることで、見に来た人は喜ぶでしょう。

「参加型」であることで、一度見に来た人がまた来るように成るでしょう。

そして、以上のどの点でも、テーマパークやスポーツイベントには及ばないでしょう。


上の四つまでは”エンターテイメント化した”からで、

最後の一つは”エンターテイメントにはなりきれない”からでしょう。


もともと、芸術は”エンターテイメント性を排除した”唯一の娯楽だと思うわけです。


「娯楽ならエンターテイメントだろ!」と言われそうですよね。

確かに、”ほぼその通り”なのだと思います。

でも、ほんの僅かですが、娯楽はエンターテイメントよりも広い領域だと思うのです。

そのほんの僅かの違いの部分にあるのが「芸術」だと思うわけです。


「エンターテイメント」は「楽しさ」や「面白さ」を追究しますが、

「芸術」では「美しさ」や「真実」を追究します。

「エンターテイメント」では「みんなが楽しめること」を目指しますが、

「芸術」では、「みんなが面白いと思うこと」は目指しません。

作者は自分の中にある「真実」を鑑賞者が共有してくれることを望むものだと思いますが、

それは「目的」ではなく、「結果」としてです。


そこにエンターテイメント性が全くないとは言いませんけれど、

結果として、「芸術性」を追究すれば、「エンターテイメント性」が失われていくというのは、”必然”だと思うのです。

「芸術性」とは、そういうものなのではないかと思うわけです。


だから、「エンターテイメント」を「芸術の未来」とか「芸術の中心」に据えてしまうと、

「芸術」は存在意義を失って、自己崩壊してしまうように思うわけです。


ほかにも「エンターテイメント」だけでは成り立たないジャンルはあります。

例えば、スポーツにおいて「面白ければいいだろ」ということで、

「真剣勝負」の要素が薄められてしまえば、

きっと、スポーツと言うジャンルは自己崩壊してしまうでしょう。


プロスポーツの選手たちが、

「プロなんだから見せ場、作んなきゃ」ということで、

「ここは、俺が負けるとこなんじゃないか?」と、

”場の空気を読んだサービス”をするようになれば、

一度か二度は、盛り上がるかもしれませんが、

たぶん、続かないでしょう。
(「八百長」云々は抜きに考えたとしてもですね)


結果的に、それは「芸能」と区別がつかなくなってしまうでしょう。

極端に切り詰めて言えば、それは「体を張った演劇」ということになってしまうわけです。


「それでも面白ければいいじゃないか!」と言われればそうなのでしょう。

ただ、それは「もう、スポーツではない」ということです。

そして、スポーツと言うジャンル全体が、そういうふうになれば、

スポーツと言うジャンルが自己崩壊してしまうということです。


スポーツの場合は、もともと「ゲーム」ですから、

「面白さ」を追究するジャンルでもあるわけです。

それですら、このようなことはあるわけですから、

もともと、「面白さ」を追究していないはずの「芸術」で、

「参加型」と言う「エンターテイメント」を「芸術の未来」に据えてしまえば、

自己崩壊は必至ということでしょう。


これは、ただ単に”「行き場」が見つけられなくなっている”だけだと思うのです。

要するに、”苦し紛れ”な感じがするわけです。


あらゆることがやりつくされてしまった感がある中で、

何か目新しいものを提示されると、

どうしても、それに飛びつかざるを得ないといった、

「藁をもすがる」な感じがあるということです。


いま必要なのは、鑑賞者が「芸術」に参加できることでも、

作者と鑑賞者が一体化しすることでもなく、

「表現する側の人間」と「それを受け取る側の人間」が、

強い気持ちで”対峙すること”なのではないかと思うわけです。


そして、作者と鑑賞者の双方が、そういう「真剣勝負」を展開することが出来るような

「芸術の場」と「時代の空気」を作ることが求められているように思います。


現在は、「表現する側」も「それを受け取る側」も、

「空気の読み合い」をしているように見えるのです。

「表現する側」は「こんなのがウケルんじゃないか」といつも読んでいますし、

「受け取る側」は「これを面白いと言った方がカッコイイんじゃないか」といつも読んでいます。

そこに「真剣勝負」の気配はありません。


こういう「小競り合い」のようなことを繰り返しているうちに、

自己崩壊が始まってくるということかなと。


そういうことを思わざるを得ないということが、

とても寂しいことのように、思ってしまうわけなのです。




「芸術とは?」と言う問い

「芸術とは?」と言う問いに対して、ズバリと答えを出すのは、なかなか難しいことだと思うのです。


まして、現在の「芸術」は無際限に多様化した、

途方もなく自由な世界と言うようなものになっていて、

そのことは、裏を返せば、

現在の「芸術」には、何の規定もないということですから、

「芸術とは?」の問いに答えようにも、

なにひとつ拠りどころにするべきものが無いわけです。


そんな中で、なんとか「芸術とは?」の問いに答えを出そうとしてみようというわけです。


私個人の主観的な考えでは、

『「芸術」とは、作者の「創作衝動」によって創作され、

作者の「能力の限度」に応じて完成とされた創作物とその創作過程である。』

ということにしています。


これは、詳しく説明すれば長くなってしまうので、すごく短く説明すると、

『作る人が「作りたい」と思って作り始めて、「もういいだろう」と思った時にやめたもの』ということです。


これは、ほとんど何の”規定”にもなっていません。

つまり、”規定”することが意味をなさなくなってしまうほど

現在の「芸術」は途方もなく自由だということに成っているわけです。


ここで、なんとか削除できたのは、

「作ろうという、人の衝動に依らないもの」であり、

「もうこれでいいだろうという、人の判断に依らないもの」です。


つまり、そうした作者個人の意思を全く含まないような、

純粋に製品として作られたものや、

作った人自身が実用の目的のみで作ったと主張するもの

だけは、かろうじて除外したということです。


ただ、こんなに回りくどい言いまわしで、やっと除外したものでも、

そこに、「作者が何らかの意思をもってそれらを扱った」

という”コンセプト”を加えただけで、

それはもう除外することが出来なくなってしまうわけですから、

実際には、なにひとつ除外できていないといってもいいくらいなわけです。


要するに、「現在の芸術の領域」とは、「全てのもの」であるということです。


これは、もう”止められない流れ”だと思うのです。

「多様化」は、せざるを得ないわけですし、

それを止めるべき境界線を設定することは不可能でしょうから、

「芸術の領域」が「全てのもの」に成るのは仕方ないことだと思います。


しかし、この「芸術の領域」が「全てのもの」だということを、

はっきりさせてこなかったことには問題があると思うのです。


また、「芸術の領域」が「全てのもの」であることと、

「すべてのものが芸術である」ということが混同されているということもあるように思うのです。


前者は、『「全てのもの」は「芸術」であるかどうかを問われる可能性がある』

ということです。

後者は、『「全てのもの」は「芸術」であると言うことが可能である」

ということです。


前者においては、

「全てのもの」が「芸術」であることの「必要条件」は満たしているけれど、

それは、「十分条件」を満たしているとは言えないわけです。

でも、後者では、

「全てのもの」が「芸術」であることの「必要十分条件」を満たした状態にあるということに成るわけです。


要するに、「問われる」と言う段階が抜けてしまうわけです。


「芸術」と言うフィールドが無際限に拡大したことには

必然性があって避けられなかったことのように思うのですが、

その「全てのもの」と言う、果てしなく広い領域に”中心”が設定されていなかったわけです。



長くなってしまったので次の記事に続けます。




「芸術とは?」と言う問い(続き)

前の記事の続きになります。

「芸術」が果てしなく広い領域に拡大してしまったということと、

それなのに、そこに「中心」が設定されていない状態が続いてきたという所から続けます。


それなら、「その中心はどこなのか?」ということに成るわけです。


私は個人的に、「芸術の中心」を「真実の追究」と設定していますが、

もう少し客観的に、一回り大きな枠で考えれば、

その本質は、「純粋性」に尽きるのではないかと思うわけです。


私には「純粋」でないものを「芸術の中心」と考える理由が思いつかないので、

これは、問題が無いように思えてしまうわけなのです。


よって、「芸術とは?」の問いに対する答えとしては、

『「全てのもの」の中で「純粋な衝動」と「純粋な判断」によって創作されたものが「芸術」である』

と言ったところなわけです。


でも、どこまでを「純粋」とするか、どういったものを「衝動」や「判断」と呼ぶかについては、

現状では、個人の勝手な判断に任せるしかないので、

結局また、無規定な状態に戻っていってしまうわけなのです。


それでも、「芸術」を規定することに対して、

このような試みが加えられるということには、

確かな意味があると思っております。


また、そこに「何かを生み出そう」と言う意志があることにも、

確かな価値があると思っております。


そうした中から、誰もがより普遍的なものとして

「芸術」をイメージできるような形が生み出されて行けばいいのかなと。


結局、現在における、「芸術とは?」と言う問いに対する答えとしては、

「これから、そこに関わる者たちが創り出していくべきもの」というのが、

最も良く現状を表しているものなのかも知れません。


一応、そんな風に考えておこうと思います。





「20世紀美術」と言う実験

「20世紀美術」においては、たくさんの主義主張が現れては消えて行き、

その結果として、様々な「~イズム」と名付けられるようなものが生み出され、

また、それらに基づいた作品も数多く残されたわけです。


そして、それらを主導した人たちは巨匠と呼ばれるように成り、

彼らによって残された作品は名作と呼ばれるように成っていったわけです。


しかし、それは本当に「完成形」だったのでしょうか?


もともと、芸術に完成など無いとも言えるわけですから、

完成度の問題ではないのですけれど、

巨匠たち自身が、「実験」としてやっていたという”感じ”はないのでしょうか?

つまり、試作品だったということですね。


巨匠の作品を試作品だなどと言うと、

怒る人や、ヒガンデいるんだと思う人もいるでしょうが、

この点について、私には、どうしても

彼ら巨匠たち自身が、実験的な試みとして

さまざまな「~イズム」を生み出して行ったように思えてならないわけなのです。


そして、それらの「実験」から「納得のいく答え」を導き出す前に、

せき立てられるようにして次の「実験」に向かって行かされてしまうような

「時代の空気」があったように思うわけなのです。


そう考えなければ、あれだけの「~イズム」が現れて消えたことの説明はつかないように思うのです。


ですから、「芸術の20世紀」が、

ありとあらゆる試みを行った「挑戦の時代」であったことは、

間違いのない事実だと思うわけですけれど、

反面、それは「実験的な習作」を積み上げては放置し続けた、

「やりっぱなしの時代」でもあると思ってしまうわけなのです。


これは、決して「実験的な時代」が悪いということではありません。

それどころか「やりっぱなし」ですら悪いとは思っていません。

その時、それらが必要だったのだと思います。

「他の何か」ではダメだったのだとも思います。


ただ、それを「完成形」として扱うことには問題があるように思うわけです。


それらは、あくまで「実験」や「挑戦」としてこそ価値あるわけで、

そこから何かが学ばれなければ意味がないわけです。


それらを「巨匠の名作」として”ありがたく拝んで”いるだけでは

せっかくの「挑戦」や「実験」が無駄になってしまうわけです。


そういう「時代の空気」の中で、

本人たちが最終到達点にまで達しなかったことは

やむを得ないことだったように思うのです。

それぐらい困難なことをやろうとしたということだと思います。

そして、そういう時代でもあったということなのでしょう。


でも、いま、そこに残された「試行錯誤」から学び取ることがあるのではないかと思うわけです。


それらの「~イズム」自体を「完成形」としてみた場合

それらに、今でも発表当時と同じだけの意味や価値があるとは思えないのです。

錬金術師が「金」を合成することが出来なかったのと同じで、

「いろいろやってみたけど全部行き止まりだった」と言うのが現実だったように思うのです。


そして、いま、その行き止まりから何かを学び取らなければならないということなのだと思うわけです。

つまり、『「金」は決して合成することが出来ない』ということがわかったということです。


そこからどうするか?ということなんでしょうね。

そんな風に思っています。




「創作者型」と「鑑賞者型」を分けて考えてもいいのでは?

「創作者型」の人と「鑑賞者型」の人というのがいるように思うのです。

そして、この二つのタイプを、もう少し分けて考えてもいいような気がするわけです。


そうは言っても、両面を併せ持った人もいるでしょうし、

どちらかわからない場合などもあるでしょうから、

「もう少し分けて考えてもいいのかな?」と言う程度のものですが、

少なくとも、一人の人間がこの二つの性質を同時に併せ持っているとは限らないという認識ぐらいは

あっていいんじゃないでしょうか?


自分のことで言えば、子供のころ楽器がまったくダメだったので、

随分長い間「音楽」には興味が持てませんでしたが、

その後、「聞く方はイケル」とわかって「音楽」が好きになったとき、とても意外でした。


「音楽」が好きに成る人は、「たぶん楽器なんかも上手いに違いない」と思っていたのでしょう。


もっと早く、自分が「鑑賞者型」(「音楽」に関して)だと気が付いていればよかったと思っています。

まぁ、気が付くのが遅かっただけならいいのですが、

「あのままずっと気が付かずに居たら、今聞いている音楽に全く出会えていなかったんだ」と思うと
(あまりポピュラーではないジャンルの音楽が好きだったので)

ちょっとと言うより、かなり惜しい気がしてくるわけなのです。


反面、美術に関しては「創作をしたいのだから、見るのも好きなハズ」ということで、

美術館に行くわけですけれど、どうもそれほどでもないようなのです。

こちらは全くダメと言うわけではありませんが、”ものすごく好き”と言うほどでもなく、

行こうと思っていた美術展に行けなくても、

「まぁ、いいか」という感じなわけです。


ここでも、「芸術をやろうというなら、いいものをたくさん見なければだめだ」と言うのをよく聞くので、

「やっぱり、見なきゃダメなんだろう」と思ってしまう気持ちが出て来るわけです。


もちろん、そこで感動することもありますし、

そこから得られるものもあるとは思うのですけれど、

「見なければダメ」でもないような気がするわけです。


こういう風に「創作者型」と「鑑賞者型」が一致していないケースは、

けっこうあるように思うのですけれど、

なんとなく、”二つは一致しているもの”ということになってしまっていて、

そのまま、”ちょっとズレた状態”で行ってしまう人は少なくないような気がしています。


そういうことで、心の糧と成るようなものを一つでも減らしてしまっているのだとしたら、

やはり、惜しいなと思ってしまうわけなのです。


スポーツなんかでも「やるのが得意な人」と「見るのが好きな人」が居るわけですから、
(「得意なこと」と「好きなこと」もまた一致していないことがありますが)

美術や音楽に「鑑賞者」としてかかわることと、

「創作者」としてかかわることも、

意外と関係ないことなのかも知れないと思うわけです。


そう考えることで、興味のなかったことが好きになったりすることもあるのかなと。


そんな風に思います。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR