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「差別」と「区別」



「差別」と言うのが、わたしはとても嫌いなんですんねぇ。

一番嫌いなものは何かと言われたら、間違いなく「差別」と言うでしょうね。
なぜ、そこまで嫌いなのかはわかりません。

ところがですよ、「区別」は好きなんですね。
おかしいですよね。

どうも、私の中ではこの二つは全く別のもので、それほど近しいものではないようなのですね。

敢えて、この二つの関係はと言えば、正確に「区別」ができていると「差別」が起き難いということですね。


つまり、「区別」があいまいだと「差別」が起きて来るということですね。

それは、どういうことかと言えば、民族でも人種でも性別でもなんでもそうですが、違うものは違うと思うわけです。
それを、、無理矢理に、同じように扱おうとすると、相手と自分を同じようにみなしてしまうから、相手が自分と同じようにしないと、腹が立つわけです。

そこで風俗習慣が違うことなどから「差別」が生じるようになるのだと思うわけです。

だから、私は前もって、できる限り厳密な「区別」をしておくことで、かなりの「差別」は防ぐことができるのではないかと考えているわけなのです。
(これを「理解」と言うのだと思いますよ)

もちろん、完全に凝り固まった「差別主義者」というのもいて、その人たちの「差別」には、こんなことでは役に立たないですけどね。


でも、実は、今はもう「差別主義者」というのは、かなりの少数派かなと。
だから、一般的な人たちに「差別」が起きないようになれば、かなり防がれるんじゃないのかなと。

そして、そんなことから、私はどんなことにおいても、「範疇区分」を重視してしまうのです。
「区別」によって、いろいろな弊害が防がれるんじゃないかと、そして、「区別」をないがしろにしていると、とんでもない所に着地する結果になるんじゃないかと、私にはそんな風に思われてならないのです。




「自信」なくてもいいと思うのです



「自信」というと、当然のように「私は〇〇ができる」と言うことが前提になっているわけですけど、この「私は〇〇ができる」は、私には本当の「自信」だとは思えないわけです。

だって、「できなく」なれば消えてしまうわけですから、それほどしっかりした「自信」とも言えませんよね。

ところが、それに反して「できなく」ても平気で「自信がある人」もいるわけですね。
たぶん、そういう人は、常に肯定され続けて育った人なんでしょうね。

だから、彼らには、「自信」の失くし方が解らないんだと思うわけですね。
「できても」「できなくても」肯定されてきたから、どうして「自信」を失う人が居るのかが理解できないのでしょうね。

そして、たいていの場合、この「できなくても平気」な人が「できる」ようになるのです。
まぁ、無条件に最初から「自信」満々なんで、実力を発揮しやすいわけですよね。

こう書いてくると「やっぱり自信があった方がいいんじゃないか?」ということに成りそうですけれど
じつは、この無条件の「自信」も続かないわけですね。

だって、人からもらったものですから、それに、その「自信」をくれた人たちは、先に居なくなってしまいますから、そこから先は、だんだん枯渇してくるわけです。

それでも「自信」ありげにしている人は、虚勢を張ってごまかしているんでしょうね。


だから、もう、そんな頼りにならない「自信」なんて無くてもいいと思うわけです。
『「自信」が有っても無くても、たいした問題じゃないと思いますね』
と思えれば、それが本当の「自信」かな?などと思うのです。


ただ、なかなかそう思えないのが、問題なわけなんですけどね。





「ポジティブ」と「ネガティブ」



今は、どちらかと言うと、と言うより、はぼ完全に「ポジティブ」が支持される時代だと思います。

「ネガティブ」と言うと批判されるか、言い訳のような使い方をされることが多いと思うわけです。
『どうせネガティブですよ』みたいにですね。

でも、わたしとしては、その二つは両方そろっていて、初めて意味があるものだと思うわけです。

「ポジティブ」と言うと、いいように聞こえますが、『ちょっとそれは無理なんじゃないの?』と思うような「ポジティブ過ぎ」が、あまりにも多いと思うわけです。

例えば、自分の子供が学校で、かなり悪質なイジメに遭っているのに、『そういう状況下でも生きていけるように学ぶいい機会だ』と言うお母さんの話を聞いたことがあるんですが、これはどんなもんなんでしょうかね。

そういう「ポジティブ・シンキング」から何か生み出されることはあるのでしょうか?
『無いと思います』


でも、それとは逆に、「謙遜」はある意味では「ネガティブ」だと思いますが、わたしは好きです。
西洋的な思考では、あまり理解されないのかもしれませんが、日本人はそれでいいような気もしますし、むしろ、外国に普及していってもいいようにも思ったりしますね。

こういう気持ちが生み出しているものは、実は計り知れないくらい大きいんじゃないでしょうか?


どちらにしても、極端すぎると「?」が、だんだん増えていくような気がします。

そして、「現在」は明らかに『極端にポジティブ過ぎ!』ですね。
もう少し、「批判精神」とか「悪いものを否定する勇気」のような、「いい・ネガティブ」を見直していったら、少し良くなるんじゃないのかなと。


そんな風に思っていますね。


「人間」は「人間未満」



「人間」と、簡単に言ってしまっていますけれど、実は「人間」っていうのは、完全に「人間」に成れていないように思うわけなのです。

言葉の上で「人間」と言う場合と、「実際の人間』には、かなりの落差があるような気がするわけです。
つまり、「実際の人間」は、「人間未満」なんじゃないのかなと思ってしまうわけですね。

例えば、イジメや犯罪について『そんなことは人間のすることじゃない!』なんて言ったり、常識や道徳を守ることについて「人間として当然のこと」と言ったりするわけですけれども、これ「実際の人間」に当てはまってると言い切れるんでしょうか?

「人間として」なんて、当たり前のように言ってますけど、そういうときの「人間」っていうのは、かなり「理想化された人間」だったりするわけなのです。

「人間として当然のこと」が「当然できる」という人が、そう沢山は居ないわけですね。
「人間のすることじゃない」はずなのに、それを結構みんなやっちゃうわけですよね。

まぁ、理論上は居るハズなんですけどね、そういう人も。
「当然のことが当然できる人」や「やってはいけないことは絶対やらない人」ですね。

でも、思っているよりは、ずっと不可能に近くて、普通の人は、ちょっとしたプレッシャーが掛かったりするだけで、すぐやってしまうわけですねぇ。

「人間じゃないこと」を。

でも、これは仕方ないことだと思うのです。
要するに、『「人間」が、そこまで来ていないんだ』ということなんじゃないでしょうか?

だから、『まずは「人間未満」であることを認めましょう!』と思うのです。
自分も他人も敵も味方も、皆「人間未満」なわけです。


これからは、「いい人:悪い人」・「できる人:できない人」・「偉い人:ダメな人」・「頭がいい人:アホな人」なんかじゃなくて「人間に成ろうとする人:既に人間だと思い込んでいる人」なのではないのかなと。


今ある状態から、「自然に与えられたものとは言えないような意志」を使って、「何かになろうとする」ということこそが「人間」を「人間」と呼べるところなのかもしれないなと。

そんな風に思うわけなのです。


※2019年5月に追記

この記事を書いた当初は、『人間は、まだ、人間未満なんじゃないか?』と言っていました。
つまり、近い将来『人間が人間に成れるだろう』と言う前提で記事を書いていたと思います。
でも、今は、「人間」にとって「人間に成ること」は、それ以上に難しいことのような気がしています。

まぁ、「完全に人間であること」は、ほぼ不可能に近いことだと思うように成ったわけですね。
それぐらい「人間」と言う概念は理想化されてしまっているところがあると思います。

それで、「理想化された人間」と「現実の人間」の間に「ダブル・スタンダード」が形成されてしまいますから、多くの人が、「理想化された人間」のフリをするようになるわけです。
つまり、体裁を作ろうとするわけですね。
その過程で、「現実の人間である自分」は認めずに見ないようになってしまうと、その「自己正当化」と言う行為が習慣化して、結果的には、「現実の人間」よりもさらに酷いこと、つまり「本当に人間じゃないこと」をするように成ってしまうわけです。

現在は、無理して「理想化された人間」を目指すことよりも、「現実の人間であること」を認めることの方が、「人間」にとって、よほど意味のあることに成ってきているんだと思うわけです。

だから、もう「立派な人間」を目指すことには意味がなくて、むしろ「ダメな人間」であることを認められることの方に意味が出てきているんだと思うわけですね。
言葉にしてしまうと、非常に情けない感じになってしまうんですが、『実は、これがナカナカできない!』と思いますね。






理想的な通貨(妄想です)



タイトルの通り、私の妄想なので現実味のない話になりますけれど、私は、全てのものに期限があればいいと思っているのです。


例えば、お金の価値とか、金(ゴールドの方ですね)や宝石とか、土地とか、とにかく、ありとあらゆるものの価値に期限が付けられたら、すごくいいんじゃないかなと思っているわけです。

なぜかと言えば、世の中に「絶対的なもの」というのは無い方がいいいんじゃないかと思うんですね。
というよりも、「絶対的なもの」なんて本当は無いと思うんですよね。

ところが「無期限の価値」というのは「絶対的なもの」に成ってしまうんですね。
そうなると、人間がそれに蹂躙されてしまうと思うわけです。
「お金」なんて典型的ですよね。

でも、その「お金」に期限が設定されていたらどうでしょうか?

期限が来れば価値がなくなる(または、徐々に減少する)としたら、もう絶対的ではなくなるわけですよね。
そして当然、価値が在る(高い)内に使おうとするから、消費が拡大するわけです。
それから、価値を代々受け継ぐことができなくなりますから、極端な貧富の差もなくなるかもしれないですよ。

お金に限ったことでもなくて、土地なんかも期限があれば有効活用される率は高くなるような気がしますね。
それにバブル経済というのが、無くなると思いますね。

つまり投機ということができなくなるわけですね。

それから、お金を早く使わないとならなくなれば、いつも、人が欲しいものを見つけようとしますから、とても好奇心旺盛な世の中になるんじゃなでしょうか?

そして、どうせお金を残してもしょうがないわけですから、高くても本当にいいものを買うようになるでしょうね。
安物を買って、お金を残しても意味ないですからね。

つまり「悪貨は良貨を駆逐しなくなる」わけですね。


「おぉ、いいことばっかりじゃないですか」
問題は、実現できないということだけですね。

だから妄想なんですけどね。


でも、こんなような考え方を少しでも基盤において、政治や経済を回していってほしいですねぇ。

それに、現在のあらゆる技術を駆使すれば、それに近いこともできるのかもしれないと思います。
実は、デジタル技術やインターネットというのは、こんなことを達成するために生まれたものではないのかなと。

それに気づかないで、見当違いのところでウロウロしているのかもしれないなと。

まぁ、そんな風にも思っております。
いや、 そんな風に妄想しております。

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※追記

この「期限付きの通貨」と言うのは、よくネット上で流通しているポイントやコインのようなものとは違います。

そういうことが出来るかどうかは、まったく抜きの話としてですが、「国が発行する通貨」と言うことです。
さらに言えば、世界全体の「通貨」に対する概念の問題でもあります。

いくら、「期限付きの通貨」があっても、他のところで「無期限の通貨」も流通していれば、どうしたって、そちらに食われてしまいます。
だから、「通貨」というものは「期限があるものなんだ」ということが、概念として確立されなければ、意味をなさないわけです。

まぁ、そうなると、まさに「妄想」ですけどね。


※2019年5月に再度追記

上に書いた通り、「妄想」ですから、実現性は限りなくゼロに近いわけですが、実を言うと、これと同じようなことが「核兵器の廃止」にも言えるという考え方をすると、少し違う展開も見えてきます。

つまり、「核兵器」と言うのは「最終兵器」でもあり「絶対兵器」でもあるわけですから、「軍事」に関しては、ここで言う「絶対的な価値」に近い意味を持っているとも言えるわけです。
その「核兵器の廃止」に関しては、かなり進められてきていますし、実際には、「核兵器」を持っている国も、それを使うことは出来なくなりつつありますから、実質的には、『核兵器は廃止された』といってもいいようなところもあると思います。

そう考えると、「無期限の通貨」を禁止することも、不可能とは言えないような気もしてくるわけです。
「核兵器の廃止」と同じように、世界の国が集まって、「無期限の通貨」には社会経済を破綻させるような性質があるから、『「無期限の通貨」を流通させるのは、もう、止める方向にもっていこう』という取り決めをして、その取り決めを破った国は世界経済の中で締め出しを食らうような状況を創り出せば、きっとそうなると思います。

そうなれば、あとは「期限付きの通貨」を、どうやったら流通させることが出来るのか?という問題だけですね。
それは、きっと、だれか「エライ人」が考えてくれるに違いありません。

ぜひ一度、そんな世の中に住んでみたいもんですね。

【民主主義=多数決】 と言う公式は、もう考え直した方がいいのでは?



現在までの民主主義の歴史においては、常に『多数決で決める』と言うことが大原則であったわけですけれど、これは、もう成り立っていないことが、はっきりして来ているんじゃないのかなと思うのです。


多数決と言っていますけど、実際に多数決をとることが全くできていないわけで、実態としては、今行われている政治がどれだけの人に支持されたものであるのかは、もう誰にもわからないものになってしまっていると思いますね。

それでも、そのシステムに頼り切っているために、「多数決」と「民意」はどんどん乖離していく一方なわけです。

だから、何か代替案を導き出さなければいけないと思うわけです。
それをすることが、いま政治にできる数少ないことではないでのでしょうか?

政治家や学者が寄り集まって、一生懸命考えれば、きっと?、何らかの策が浮かんでくるのではないかと思います。
正直言えば、それらの策にはほとんど期待が持てないわけですけれど、それを考えることや実行してみることで、現行の民主主義と言われているものが、如何に民意からかけ離れたものであるのかが、洗い出されて来れば、どこが問題なのかぐらいはわかってくるんじゃないでしょうか?

そして、そこからどう対処するのかが本題なわけです。

その具体策については、私などが考え付くようなものではないでしょうが、私がいま思いつくことは、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立させなければ【多数決=民主主義】も成り立たないということなのです。

「全員投票」を強制的に行おうとすれば、結果的に「匿名性」が失われてしまうでしょうから、「政治的な意思の表明」を個人に対して強要することに成ってしまいます。

 ※強制であるということは、投票が実行されたことが確認できなければ意味がない
  ので全員が投票したことが確認できるようなシステムが必要に成るでしょう。
  おそらく、そこから「匿名性」が崩れていってしまうように思います。

でも、「多数決」は基本的に全員が投票することを前提に成り立っている制度なわけですから、全ての人が投票しなければ、「多数決」でも、なんでもないわけで、そこを何とかしなければ、「民主主義」とは名ばかりで実体は無いも同然なわけですね。

そう考えた場合、「民主主義」は立ち上げられたまま、まだ実行に移されていなかったとも言えるのではないでしょうか?


そこで、思い当たるのは「裁判員制度」や「陪審員制度」のようなものです。
もしかすると、人数を限定して、形だけに成っている「全員投票」を捨てれば、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立できるのではないのかなと。

 ※こちらも「匿名性」については、完全には確保できないかも知れませんが、
  少なくとも「投票の義務」については、ほぼ確保されるでしょうし、確実に 
  限られた人数の中での「全員投票」だけは確保できます。

とまぁ、そんなことも考えるわけですが、もしかすると、今の状態が、国を動かしている人たちにとって、結構都合がいいのかもしれませんよね。

だとしたら、『変わるわけないじゃん』ですよね。

そして、これが一番濃厚な説なのかも知れません。





「人間性への愛着」



私はどうも「完全なもの」よりも「不完全なもの」の方に惹かれてしまう傾向があるようです。
そして、それは、一言で言えば、「人間的なもの」ということなんだと思います。

矛盾した言い方になってしまうのですが、「不完全なものの中の完全性」とでもいうような、「崩れ具合が完璧」みたいなのがあると思ってしまうわけなのです。

それから、どうも「完全無欠」なものと言うのが好きになれないと言うのもあるわけです。

いずれにしても、そこに「人間性」が見えてきたときにこそ感情移入できるわけですね。

ただし、この「人間性」というのは「人間賛美」の対象となるようなものではなく、もう少し「不完全性」を強調した意味での、弱くて、さほど美しくもないような「泥臭い人間性」なわけです。

そして、そういう冴えない感じのものが、時として美しく見えたりするのに惹かれるのだと思います。
つまり、私は、そこに「人間への賛美」ではなく「人間への愛着」を感じているのだと思っているわけです。

「愛着」だから、それ程いいものである必要もないのかなと。

まぁ、そんな風に思っております。







「組織」には意思があると思うのです



ある法則や規則に基づいて集団が形成されれば、それを「組織」と呼ぶことができるのかと思います。
社会性を持った動物や昆虫などもいますから、人間には限らないのでしょうが、まぁ、一応、ここでは人間の「組織」ということで。


そこで、よく感じてしまうのは、「組織」の実態は、それを形成している個々の人間なわけですが、その個々人の意志や意向と、一致しているとは思えないような「組織の意思」と言うものが、「個人の意思」とは別個に、かなり独立した形で、存在しているということなのです。

もちろん「組織」を形成している「個人の意思」が、全く反映しないわけではないと思いますが、複数の「個人の意思」が集団内で統合されて一つの決定や判断になっていく過程で、それが、「組織の意思」に成り変わっていくのかなと。

そして、さらには、その「組織の意思」が「個人の意思」とは、全く別の方向性を持ってしまうことも、しばしばあるように思うのです。


国家や会社などの公的なものから、家族や友達のグループなどの私的で少数のものまで含めて、ありとあらゆる「組織」において、この「組織の意思」が働いていて、それが、その構成員である一人一人の「人間の意思」を無視して、決定や判断を下しているとしたならどうなんでしょう?

「個人の意思」が無視されるわけですから、当然不満が出るでしょう。
そして何よりも、そこに本来の「意思」はないということが問題に成って来るわけです。


「組織の意思」と言っても、それは「誰かの意思」ではないので、そこには「意思」としての方向性や統一感は、もともとないわけです。

だから、「組織」内での話し合いの結果「???・・・」という感じの、意味がわからないような結論が導き出されてしまうことが、よくあるのでしょうね。

そして、これが言いたいのですが、ひとたび「組織」によって下された結論となったものは、「個人の意思」で翻すことが難しくなってしまうということなのです。

たとえ、それが、、誰にも望まれていない結論だったとしても「組織」が下した判断には、従わなければならなくなってしまうわけです。

ある法則や規則に基づいて形成されたのが「組織」ですから、その法則や規則に従わねばならなくなるということですね。

これは、おそらく民主主義が抱えている決定的な問題ではないのかなと。
なぜなら、この場合「多数決」や「話し合い」はあまり役に立たないからです。

もちろん、それらのやり方が功を奏することもあるでしょうが、意外と、それらが〝困った結論"を導き出してしまうことも多いということですね。

これらのようなケースでは、大抵「まぁ、みんなで決めたことだから」と言って諦めるというのが、常套手段になってしまっているのが現実でしょう。


これに対して、どうすればいいのかは、そう簡単に思いつきませんが、取り敢えず、この「組織の意思」と言うものが独立したものとして存在して、それが自分たちの意思とは無関係に勝手な結論を突き付けて来ることがあるということを、忘れずに意識していることだけはできることなのかなと。

とにかく、政治や世界の情勢なんかを見聞きするたびに、いやいや、もっと身近な夫婦喧嘩や、親子や友達同士の間の諍いなどにおいても、これは、いったい「誰の意思」に基づいてこんなことに成ってしまったのだろう?ということがとても多いように思ってしまうわけなのです。

そして、それが、もしも実体のない「意思」によって仕向けられてしまっているものだとしたら、こんなに、バカバカしいことは無いんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけですね。





「前向き」ということについて



「前向き」と言えば、当然いいことということに成っているわけですけれど、私といたしましては、これに若干の異議があるわけなのです。

まず、最初に感じてしまうのは『無理してるんじゃないの?』ということなのです。

だいたい、自分の状態が「前向き」なときに、あえて「前向き」は使わないんじゃないのかなと。
やはり、落ち込んだり自信がなくなったりして、「後ろ向き」になりかけた自分を、鼓舞したり、立ち直らせようとして「前向き」と言う、言葉を使うんじゃないでしょうか?

つまり、「負」を「正」に、「マイナス」を「プラス」に転じるためのキーワードとして使われているのじゃないかなと。
でも、世の中に「負」や「マイナス」がないわけはないのですから、すべてを「プラス」に転じるのには、ちょっと無理があるように感じてしまうわけなのです。

むしろ、本当に大事なのは、と言うよりも、実際に有効なのは、「負のスパイラル」に入ってしまわないようにすることだと思うわけなのです。

「負」を「負」と認めたうえで、それをもっとよく見つめて、より正確に把握しないと、、「負」が無制限に拡張していって、「スパイラル」の状態になってしまうのじゃないのかなと。

もちろん、もともとの性質によって、そうならない人もいるわけで、そういう場合は、「前向き」も有効なんだとは思うのです。
だから、そういう人が言っている場合は、あまり気にならないし、いいことなんだと思います。


ただ、もう一つ気になるのは、マスコミやインターネットで流されている「情報としての前向き」です。

私の記憶では、高度成長期には「前向き」と言う言葉は、今ほど使われていなかったような気がします。
むしろ、景気が低迷し出してから、「前向き」が増えているような気がするわけです。

そして、それとは正反対の意味で、「前向き」が増えていくのと同期するように、自殺などの「悲惨な死」が増えているように思うのです。

私には、自殺や幼児虐待の結果、幼い子供が親に殺されるような「悲惨な死」は、どうしても受け入れられないし、耐えられないし、そこでは「前向き」が役にたつとも思えません。

統計上の数字などは知りませんが、少なくとも、「前向き」とは裏腹に、世の中全体が、このところかなり暗いようにも思うのです。(少なくとも日本では)

もちろん、この言葉を使っている人たちには、そんな意味で使っている人は少ないのでしょうが、「前向き」には、結果的に、相手にそれを強いる性質があるようにも思えるのです。
(もちろん、個人がこの言葉を使うことを非難するつもりはありません。あくまで、社会の通説として、一方的に大量に流される「情報としての前向き」に限ってのことです。)

でも、私は「後ろ向き」でもいいように思うのです。
それは、そんなに暗いことでもないように思うわけです。

ただ、「情報としての前向き」が、これだけたくさん流されてしまうと、それとの対比において、どうしても「後ろ向き」=「暗い」=「マイナス」=「不要」となってしまうので、『「前向き」でなければいけない』になってしまうのかなと。

ということで、私といたしましては、このような「悲惨な死」は受け入れがたいのです。
すべて、無くなってほしいです。

せめて身近で、このようなことを頻繁に見聞きするような状態からだけは脱してほしいと思っています。

本当は、「前向き」でも「後ろ向き」でも、どっちでもいいと思うのです。
前でも後ろでも、そんなことは関係ないと思うわけです。

どっちを向いていようが、その人が立っている位置に変わりはないし、そこが、悪い位置であっても、それはその場所の話であって、その人が悪いとは限らないわけなので、その場合、向きを変えたりする必要は特にないようにも思うのです。

その立ち位置は、替えられれば、それに越したことは無いのでしょうが、それは、本人が一番よく分かっているということが、ほとんどだと思います。  

わかっていても、それが出来ないからその位置に立たされているんでしょうから。

そんな中で、何よりも受け入れがたいたいのは、「情報としての前向き」がさらに増え続けて、それと比例して、「悲惨な死」のグラフが上に伸び続けることです。

要するに、私はこれを受け入れるつもりはない。
と言うことですね。




「自信」について



「自信」と言う言葉について、それは自分で勝ち取るものだという考え方と、それは人から与えられるものであるという考え方があるように思うのです。

「自信」は自分で獲得するものであるとした方が、納まりがいいように思うのですけれど、「自信」の中でも、絶対的な「自信」みたいなものと言うのは、自力では獲得できないように思うのです。

やはり、普通は誰でも人から褒められれば「自信」が付きますし、貶されたり、相手にもされなかったりすれば、それは徐々に失われていくわけです。

そんな中でも揺るがない「自信」と言うのは、なかなか自分では養えるものではないように思います。

それが天性のものなのか、幼いうちに、どこかで与えられたものなのかはわかりませんが、そういう絶対的ともいえる「自信」を持った人というのも、確かにいるのだと思います。

でも、私はそういう「スーパーな人」よりも、「ごく普通の人」の方により興味があるので、やはり、「自信」はその都度与えられるものであるという方の説を取ってしまうわけなのです。

まぁ、私自身が何を言われても動じない「自信」なんて持ったことがないということですね。

私がやっと持っていられるのは『できなくてもいいじゃないか』という「自信」と言えるのかどうかも、怪しいような感じの「自信」ですけれど、普通の人間が、自力で自分に与えられる「自信」はこれぐらいしか無いと思うのです。

これぐらいだったら、その都度人から与えられなくても自前で何とかまかなえそうな気がします。


だいたいが「できる」「できない」で人の価値を判断し過ぎるように思うのです。

何かができても偉いとも思いませんし、何かができないからと言って、その人をダメだとも思いませんが、どうしても、そこに価値基準が偏ってしまうので、「できる」と「自信」も付くけれど「できない」と評価されないから「自信」も失う。

当たり前と言ってしまえば、それまでなんですけれども、そこで、人間性が抜け落ちてしまう傾向があるように思うのです。

だから、私は『自分はすごく悪い人間ではないし、それぐらいで十分だから、できなくてもいい』と思っているわけです。

それ以上に立派な人間になりたいとは思いませんし、そういう立派な人と言うのは、居ると言われてはいますが見たこともないし、成れるとも思いませんから、このぐらいで十分だというのは、私にとってはやはり「自信」の一種なわけです。

そして、そういう「自信」も、わたしは結構好きです。



「自由競争」が「不自由」を作り出しているのでは?



資本主義経済や自由主義経済の基本をなしているものに、「自由競争」の原理があるわけですけれど、現在の社会においては、〝自由な競争"が〝不自由な状態"を招いているように思うわけなのです。


そもそも、「自由競争」は、自由に競い合うことで、人や企業の「ベスト・パフォーマンス」を引き出すことができるという考えに基づいて採用されているものだと思うのですけれど、現状は、そうなっていると言えるでしょうか?

確かに、過去には、それが最良のパフォーマンスを引き出していたのでしょうが、現在においては、競争原理が、人や企業の「拘束」になってしまっていることの方が多いように感じてしまうわけなのです。

過去においては、企業も人も自己の行動や仕事や製品に価値基準を持っていましたし、それらのクオリティこそが、「自由競争」の争点であったわけですが、資本主義経済が極端に進んでしまった現在、それらは、すべて資本である、お金に置き換えられてしまっているわけで、より多くの資本を集めること、より多くのお金を稼ぎ出すことが、争点になってしまっているわけなのです。

そこでは、当然のこととして、個人においては「人格」や「感性」はないがしろにされがちですし、企業においては、「品質」や「社会貢献」は二の次にされてしまうわけなのです。

例えば、「品質」が低いのに売れるものが、企業にとっては、最も儲かるもので、「品質」が高いから売れるものは、コストパフォーマンスの落ちるものという扱いになってしまうというわけです。

そして、現在形の「自由競争」では、常に最も儲かる選択をした者が勝者となりますから、どうしても、即時的にお金や、数字に換算されにくいものは、競争によって排除されていってしまうわけなのです。


それでも、それで幸福になったり、進歩発展したりするのならまだいいですが、「生産者にとっての勝利」が「消費者にとっての不遇」「個人にとっての勝利」が「その周りの人にとっての不満」になってしまうのであれば、その競争には何の意味もないわけですし、まして、「生産者」と「消費者」や「人」と「その周りの人」と言う立場が、相互に入れ替わるということを考えれば、その「自由競争」は「不自由な拘束」でしかなくなっていると言わざるを得ないわけなのです。


もう、競争によって進歩する時代は終わっているのではないのかなと。

競争が一切必要ないとまでは思いませんが、原理としての「自由競争」は、現在では成り立っていないのかなと。

究極の競争ともいえる戦争ですら、お互いに相手の顔色を見ながら仕掛けたり、それをスカシたりしている世界情勢の中で、「自由競争」に没入することというのは、言ってみれば「核のボタン」を押すようなもので、誰の得にもならない無益な選択になってきているのかなと。

だから、いち早く競争から離脱して、「協調」の道を選びましょうよと。

でも、「協調」は一人ではできないわけだから、みんなで「「協調」すれば、そこにもまた切磋琢磨は生まれるわけで、そこで、競争すればいいんじゃないですかと。

そんなことを、世界に向かって、きわめて小さい声で言ってみたりする。




「上下のない世界」



前にも書いたことなのですが、私はとにかく差別や格差と言うものが嫌いで、なぜかは、自分でもはっきりしないのですが、生理的な嫌悪感に近いものを感じてしまうわけなのです。
(正義感や道徳心からきているものとも違うように思います)

だから、もしも、世の中が上下のないフラットな世界に成ったら、きっと気持ちがいいだろうなと思ってしまうのです。

もちろん、それが実現できるようなものでないことはわかっていますけれど、年齢、性別、人種、地位、などありとあらゆる階層の人が、ほとんど段差の無いような状態で、気軽に話し合えたり、交流できたりしたら、本当に自由だと感じられるのではないのかなと。


と言っても、つるつるにフラットな状態である必要はないのです。
緩やかな上下があってもいいと思うのです。

その段差が、気持ちよく乗り越えられるものであったり、試しに上ってみるのに丁度良いと、感じられる程度のものであればいいのです。


私は、そんな世の中に居られたら無条件に上機嫌でいられるように思うのですが、もし仮にですけれど、そんな世の中が実現したとしても、やっぱり、そこからも差別や格差と言うのは、生まれてきてしまうのでしょうか?

みんなが自由で、上機嫌でいられれば、差別や格差を生み出すようなストレスやコンプレックスがなくなって、差別や格差が生み出されることもなくなったりしないのだろうかと、そんな風に考えてしまうわけですが、難しいのでしょうね。


でも、絶対できないでもないのかなと。
5~600年くらい、経ったら、できるかもしれませんよね。

でも、そのときには、また別の「何か(=問題)」が現れているのでしょうか?


それにしても、上下の差なんて本当は初めから何処にも無いわけですから、そういう人間の妄想の中で創り出された「負の要素」なんて、あっても何の役にも立たないと思うのです。

と言っても、昔と比べれば、ずいぶん格差は小さくなっているし、差別もあからさまではなくなってきているわけですけれど、やはり、私としては、気軽に乗り越えられる程度の段差までになってほしいのです。


だから、「あれ、気が付いたら結構、世の中フラットになってるよ」なんてことが、あったらいいなと。
そういう幻想に浸ってみたりもする。

と言うわけなのです。




現代社会は絡まり合った「多重規範」



ダブルスタンダード=二重規範と言う言葉がありますが、現代社会は、単なる二重規範ではなくて、より複雑化した「多重規範」だと思うのです。


規範が統一されていないために、判断の基準が曖昧になって、何が正しいことなのかが見えにくくなると言うのが、ダブルスタンダードが生み出す弊害かと思うわけです。

こういうことだけでも、かなりの害なわけですけれど、現代社会においては、あらゆる場面において複数の規範が存在していて、さらに、それらが世代から世代へと受け継がれていったことによって、絡まり合って、ほぐしようもないほどに、混線している状態と言えるのではないでしょうか?


二重規範までは、まだ、、何とか理解できるものだったと思うのです。

例えば、「本音と建前」などのように、これは本音でこちらは建前というように、それを言っている側も、言われている側もわかって使っているものであれば、なんとか使い分けることもできるし、もしも、うまく使い分けられなくても、二つの規範しか無いのであれば、それをなんとか理解することだけはできたわけです。


ところが、その二重規範が時代の中でさらに多様化して、「多重規範」と化したものが、時代を跨いで受け継がれていくようになってしまっている現代では、もう、どこからどこまでが、どういった規範に基づいたものなのかも、いったい幾つの規範が、そこに関わっているのかも、解らないような状態になってしまっているように思うわけなのです。

ここで、一番困るのは、こういった状況の中では、現状がそういう意味不明の混沌とした状態であることを理解しようとすると、とても行動し辛くなってしまうことなのです。

その辺を曖昧に捉えて、見ないようにしていけば、あまり気にもせずにいられるようなことが、真面目に筋の通った考えをもって行動しようとすると、この混線して、がんじがらめになった規範の束がほどくにほどけないために、そこで行き詰ってしまうわけです。

その結果、その都度、場当たり的に適当な規範を使って考えられたようなことが社会の基準になって行ってしまうわけなのです。


この状況は絶対に抜け出すべきものであると思いますが、それには、唯一無二の規範が必要なわけです。


強い規範と言うのは、ある種の「拘束」を生み出すこともあるかと思いますから、それは、一部の領域で「自由」を犠牲にすることに成るのかもしれませんが、それでも、これを手に入れなければ、社会に指針はなくなってしまうのではないのかなと。

それは必要最低限の犠牲ではないのかなと。


民俗・宗教・政治的な主義・主張など、広い範囲の層を包括するような規範を設定して、それを唯一のスタンダードとするような方向で考えていく必要があるのではないのかなと。


「グローバル・スタンダード」などと言って、特定の国に都合のいい方向にもっていってしまうのではなくて、その外側の、もう一つ大きな枠で「シングル」で「シンプル」な「スタンダード」があれば少しイイのかなと。


そんな風に思います。




討論する習慣



日本人は議論や討論が苦手だとよく言われますけれど、確かに、もう少し本質的な話をするような習慣があった方がいいのではないかと思うわけです。

また、『何も考えない人間が多すぎる』というのもよく言われますが、実は、それも初めから考えないのではなくて、ある程度のことを考えていても、その考えを人と議論したり討論したりして発展させる機会がないから、一つの考えから変化することがなくて、平滑で一辺倒な考えに留まっているために、何も考えていないように見えてしまうのではないのかなと。


やはり、自分だけの思考回路の中で考察を展開していけば、当然、同じ様なパターンの考え方しか出てこないわけです。

だから、小さな子供のうちにとは言いませんけれど、ある程度若い段階から、討論を習慣づけた方が良いのではないのかなと。

小学校高学年ぐらいでも、真面目に話をさせたら結構話すんじゃないかと思うわけです。
そうやって習慣になっていれば、大人になって何も考えないとか議論できないとかということも少なくなるのじゃないのかなと。


人間って、やっぱり教わったことはやるけれど、教えられてないことはやらない性質のある生き物だと思うわけです。

議論の内容は教えられないかもしれませんけれど、その場を作ることはできるのではないのかなと。


こういうことを教育関係者の人に言ったら、『今の学級崩壊したようなクラスでそんなことは到底無理!』とか、『そんなことしても誰もまともな話なんかするわけがないよ』と言う答えが返ってきそうなんですけど、実際は、意外な子供が意外な話をし始めたりすることだってあるのじゃないかと思うのです。


こどもに限らず、習慣として議論や討論をしていない人が、いきなりそういうことをすると、どうしても、ただの言い争いになってしまうと思うのです。

なんとか相手の理論の弱点や矛盾点を見つけ出して、足をすくってやろうとしたり、自分の説をまくし立てて、相手をやり込めようとしたりしてしまうわけですね。

でも、それは議論でも討論でもないと思うのです。


やはり、主張が異なっていても、そこに話の展開が生まれなければ討論の意味がないわけです。

話が発展していったり変化していったりすることで初めてプラスに成るわけで、ただ、相手の論を打ち砕いたり、、自分の言い分を通したりしたのでは、一人で考えたことから大して変わっていないということに成ってしまうわけです。

自分の主張を述べながら、相手の主張にも耳を傾け、その中で議論を展開するには、慣れるしかないと思うのです。

でも、教育の場に限らず、そんな場所ってほとんどないと思うわけです。
場所と言うよりは、そういう空気がないのかもしれません。

一人でそんな雰囲気を醸し出してもあまり意味がないので、誰もそういうことはしなくなっていくのでしょう。


でも、もっと自分の内側にある話を、人に対して出していけるようになった方がいいような気がするわけです。
子供の場合と同じで、意外な人が面白い話を持っているということはよくあることかなとも思います。


それから、案外いいストレスの解消法に成るような気もするのです。
自分のうちにあるものを外に出すということは、最高のストレス解消に成るはずなわけですから、それが、言い争いになったり、単なる愚痴のように成ってしまわない限り(まぁ、それでもいいのかもしれませんが)、きっと、かなり発散できるのではないかと思うわけです。

そうなると、これからのストレス解消法は、カラオケじゃなくて議論や討論かなと。
そういう日常の中に、もう少し真剣に話す「場の空気」があればいいんじゃないのかなと。

そんな感じもあるんじゃないのかなと思ったりしています。



「悪口」=「ネガティブ」なのか?



「悪口」と言えば、ネガティブの代表なわけですけれど、それは「悪口」の定義によると思うわけなのです。


悪くない人を悪く言うのが「悪口」であれば、それは間違いなくネガティブでしょう。
また、いいところも悪いところもあるようなことについて、その中の悪いところだけをわざわざ拾い出して悪く言うのも、確かにネガティブなことだと言えるのでしょう。

 ※ここで「悪い人」とか「悪いこと」と言っているのは、基本的にそれを言っている
  人が「悪いと思っている人(こと)』のことです。
  つまり、「絶対的な善・悪」の話ではなく、「その人にとっての善・悪」を基準にし
  ています。
 

でも、明らかに悪い人やものについて、それを悪いということを含めて「悪口」と言っているのだとしたら、それは、ネガティブなことなのでしょうか?

もしも、明らかに悪いようなこと、または、自分が本当は悪いと思っているようなことの中から、なんとかして、いいところを見つけ出してきて「悪口」を言わないようにしているのだとしたら、それは、一種の「嘘」であって、むしろ、そちらの方がネガティブなことではないのかなと。

たとえ、それが善意によるものであったとしても、度を越せばその「嘘」も色濃くなってしまうわけなのです。
そして、その度合いの物差しが、かなりずれてしまっているように思うのです。

本当のことを言って、それが何かに対する批判を含んだことであったとしてもそれを、「悪口」と言えるのでしょうか?
というか、その「悪口」はネガティブなことなのかなと。

今の日本では、そこの所が抜けていて、何かを悪く言うことがすべて「悪口=ネガティブ」と言われてしまっているように思うのです。


結局、悪くもないものを悪く言うのも「嘘」だし、悪いものを悪く言わないのも「嘘」なわけで、それは、両方ともネガティブなことではないのかなと。

だとしたら、悪いと思ったことをただ正直に悪いと言った人を、「ネガティブ」と呼ぶことの方が本当の「悪口」では無いのかなと。

もちろん、根拠のない批判や感情的な誹謗中傷を推奨するつもりはありませんけれど、そういうデタラメな「否定」と理由のある「否定」が、すべて一緒くたにされてしまっているように思うわけです。

実は、大事なのは「ポジティブ」か「ネガティブ」かではなくて、「肯定」と「否定」のバランスや内容ではないかと思うわけなのです。


現在の日本社会では、明らかに「否定」が強制的に排除されてしまっているわけです。

それは言ってみれば「否定」が「否定」されているということであって、どう考えても矛盾しているわけです。

もしも、本当に「肯定」を尊重するのであれば、「否定」は「否定」として、その妥当性を、公平に検討したうえで「肯定」または「否定」されるべきであって、一律に、「否定」的だからという理由で「否定」したのでは、それ自体も、また「否定」的になってしまっているわけで、自己矛盾に陥ってしまっているわけです。


私としては、「ポジティブ」な考え方や「前向き」な生き方が悪いとは思いませんし、そういう方向性を持った人と言うのも、人としてはとても好きなのですが、ここで言っているのは、現在の日本社会の状態のことなのです。

私には、どう考えても「批判」や「ネガティブ」が排除され過ぎているとしか思えないのです。

あまりにバランスを欠いた状態のようにしか見えないので、どうしても「肯定」側よりも「否定」側に肩入れしたくなってしまうわけなのです。


それから、それは元を正せば経済的な理由からそう成っているのではないかと思うわけなのです。

例えば、商品のレビューなどを見ても「肯定」的なものがほとんどな中で、数少ない「否定」的なレビューの方が役にたつことも多いのですが、それは、購売に結びつかないので見えないところに追いやられてしまいがちなわけです。

これなどはまだわかり易いですけれど、もっと見えにくいことでも、何らかの経済上の理由から「否定」が理不尽に排除されていることは、たくさんあるように思われるわけです。

というよりも、「否定」が意図的に排除されているケースのほとんどが、経済と結びついているようにさえも思えるわけなのです。

排除している本人は、ただ単に「肯定」の方が「建設的」で「前向き」だから、いいだろうと思ってしていることでも、実は、「建設的」や「前向き」には既に経済促進的な側面があるわけです。

そして、経済の部分を除いた本当の意味の「建設的」や「前向き」というのは、必ずしも「肯定」ではない、否、むしろ「否定」的であるはずなのです。


何かを作ったり、行ったりするのに試行錯誤がなければそれが良くなるはずがないわけですけれど、その試行錯誤に当たるものは、間違いなく「否定」的な要素を含んだ考察ではないのかなと。

『これじゃダメだ』『これでもまだ足りない』という「否定」の繰り返しが「建設的」なのであって、はじめから『これでいい』というのは、ただの「テキトー」で、決して「建設的」なことではないと思うのです。

また、あくまで試行錯誤を経た後での「肯定」は「前向き」であっても、その段階を飛ばした「肯定」は”ザツ”なだけだとも思うのです。

つまり、肯定的であることは「建設的」「発展的」「向上的」であるより以上に、「経済的」なことであるとも言えると思うのです。

「建設的」「発展的」「向上的」を経たうえで、それが「経済的」に成るのならいいのでしょう、
でも、そこには「否定」という過程が必要不可欠になってくるわけです。


「悪口」=「ネガティブ」という短絡的な発想で「否定」や「批判」を排除していってしまうと、全てのもの事は衰退して、骨のない形だけのつまらないものになっていってしまうのだと思うのです。

こういうことを了解済みで言っている人も多いとは思いますけれど、問題なのは、「肯定」と「否定」のバランスなわけで、
その「量」と「質」におけるバランスが明らかに崩れている現状においては、「否定」の側の「量」と「質」を意識して高めていかなければ、益々、まともな話が通じないような、充実したものが生み出されないような、そんな世の中にしかならないのかなと。

いま、社会が求めているのは「肯定」ですが、いま、社会に必要なのは「否定」だと思うのです。


私にはどうしても、そんな風にしか思えないわけなのです。




人間は、まだ「言葉」を使いこなせていない? 



人間と他の動物を、最もはっきりと区別できる点は、論理を構築する性質(習性)を持っているか否かではないかと思います。
しかし、その反面、人間はまだ言葉を上手くはコントロールできていないように思うわけです。


人間は何をするにも、先ず言葉で考えて、そこに何らかの理論を展開してからでないと実行できないといってもいいほど、言葉で考えることが習性化していると思うわけです。

でも、それがなかなか上手くは出来ていないと思うことが多いわけなのです。

また、世の中の変化が早すぎて、論理の使い方にも常に修正が求められるために、対応しきれていないと言うこともできるのかもしれません。
たぶん、その両方なのでしょう。


例えば、「常識」と言う言葉一つを考えても、それが次から次へと更新されていくわけで、一定の期間スタンダードとして機能していなければ、「常識」であること自体に意味がなくなってしまうと思うのですが、そこに、意味が無くなっても、まだ延々と「常識」が更新され続けているというのが言葉の現状ではないでしょうか?

そして、現代社会には、そういったことがたくさんあるわけですから、その意味の無くなってしまった言葉の上に築かれた論理が、有効なものにならないということが多くなってしまうのだと思うのです。

また、人間が論理を使うということを習性として持つようになったのは、人間社会がかなり複雑化して、人間としての生活が、言葉で考えること無くしては成り立たないような状況ができてからでしょうから、まだ、人類の進化の中では歴史が浅く、その習性がうまくは身についていないのかもしれません。


いずれにしても、習性化しつつあるから、それを捨てることも難しくなっているわけで、それがうまくコントロールできていないというのは、かなりの弊害になっているように思うのです。

もう、論理を捨てることができないのなら、それを何とかうまく使いこなしていくしかないわけですが、言葉の上に言葉を重ねていくという作業の中で、一つ一つの小さな誤差が積み重ねられて、最終的には、かなりおかしなところに着地してしまうというケースも少なくないのではないのかなと。


その点を修正するには、言葉と言うものを根本から認識し直す必要があると思うのです。

先ず言葉には、種類があると思うわけです。

同じ言葉でも、文学における言葉と、情報伝達における言葉は全く違う性質を持っていますし、そういった、「言葉の種類」は沢山あると思うのです。

それを、混同したまま使っていれば当然誤りが出て来るわけです。

また、はっきりと種類が違うというほどでなくても、その使い方にもバリエーションがあるわけで、例えば、言葉には世界を二分するという性質があると思うのですが(「〇〇」と言ったとき、世界は「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるというような)、そういった、極めて単純化された機能と同時に、一つの言葉が様々な意味を内包しているという複雑で曖昧な機能をあわせもっているために、そのどちらの使い方がされているのかを判断するのが難しくなってしまうのだと思います。

そのほかにも、まだまだ言葉の誤謬(ごびゅう)を招く要素は沢山あるように思われますが、それらを、言語学者などが、もっとうまく利用できるようにわかり易く、解説していく必要性があると考えているというわけです。

ただ、ここで大切なのは、わかり易く解説することであって、研究することではないように思うのです。

言語学などの研究と言うのは、かなり難解なものになってしまっているわけで(私は詳しくありませんが、たぶんチンプンカンプンだと思います)、それ以上の研究を追究していっても、一般的には理解し辛くなってしまって、浸透しないでしょうから、現状の成果をできるだけ理解し易いように解説したり、教育したりするところに力を使ってほしいと思うのです。

そして、言葉が成り立っていなければすべての学問が成り立たないことを考えれば、現在、教育の場において言葉の見直しは、必要性の高いものになってきているのではないのかと思うわけなのです。


このところ、同じ日本語で会話をしていても、全く話が通じないと感じることがとても多くなっているので(おそらく、そういう時は相手も同じように感じているのでしょう)、こうした見直しをぜひお願いいたしたいなと。


そんな風に感じておリます次第でございます。


「見えるもの」と「見えないもの」



世の中には、「見えるもの」と「見えないもの」と言うのがあると思うのです。
それは、なにも目ではっきり見えるか否かということに限らず、確信を持って判断できるものと、できないものと言う意味です。

 ※ここで言う「確信をもって判断できるもの」と言うのは、「完璧に疑いようのないうもの」
  と言う意味ではありません。
  世の中に、そんなものは無いような気がしますが、それでも、「人間が確信してしまうも
  の」と言うのはあると思います。
  要するに、「完璧に疑いようのないうもの」もありませんが、「完璧に疑えるもの」も無い
  ということでしょうね。
  つまり、ここで「確信をもって判断できるもの」と言っているのは、「人間にとっては疑うこ
  とよりも確信することの方が、より自然であるもの」というような意味です。


例えば、空気は目には見えませんが、その存在は疑いようがないと言えるでしょう。
(それも疑うことはできるというのは、また違う話になってしまうので)
まぁ、要するに物質は、だいたい「見えるもの」と言えるのではないでしょうか。

でも、物質だけとも限らなくて物理法則や、人の心や感情などのような物質としての形のないものでも、ある程度、確信を持って判断が下せるようなものはあるわけですから、それも「見えるもの」に入ると言っていいのでしょう。
(こちらも疑うことはできるわけですが、それはまた別の話として)

対して、「見えないもの」は、確信をもって判断ができないものということに成るわけなのですけれど、それは、言葉を替えれば「不思議なもの」とも言えるのかなと。


そして、何が言いたいのかと言うと、何かを考察したり議論したりするときに、その「見えないもの」は使ってはいけないと思うわけです。

少なくとも、その考察や議論を、人との間で共有する場合は、話を「不思議なもの」に持って行ってしまうと、そこから先は、まったく意味のない会話しか成り立たなくなってしまうと思うのです。

一見、話がかみ合っているように見えている場合でも、それは体裁だけで、実際には何の意味も無いような話を、相手に調子を合わせて適当にやり過ごしているだけになってしまっているように思われるわけなのです。


そうは言っても、世の中に「不思議なもの」などは無いと言っているわけではなくて、それは当然あるわけですし、それどころか、全てのことが「不思議なもの」でないとは言い切れないわけです。

とは言え、現時点で「見えていること」を前提にして話を進めないと、その話の意味と言うものは、ほとんどないとも言えるわけなのです。

ですから、話の根拠とするようなものは、それが「見えるもの」である必要があると思うわけなのです。


そして、話を相手と共有することを前提とするのであれば、論じる側と受ける側の双方にとって「見えるもの」であることが、最低限必要になってくるわけなのです。


そして、ここからは私の個人的な意見ではありますが、世の中の相当数の人が「見えないもの」であると主張しているものについては、それが「見えないもの」であるという前提で、それを根拠とした話はしないという約束を守ることが、その話を有効なものにすると思うのです。

つまり、大方の人が確信を持って判断できないようなものを話の論拠にしてしまうことで、それらの話の内容が、全く無意味になっていることが非常に多いと思うわけです。

ですから、「見えないもの」は「不思議なもの」として、そこにそのままあってもいいのじゃないかなと。
それを、論拠にしてしまうと「見えるもの」のようになってしまって、「不思議なもの」ではなくなってしまうわけで、それでは、そのものの本当の状態と違ってきてしまうようにも思われるのです。

もしも、それが理屈では説明できないけれど、何かしら確実なものであったならば、何も、敢えてそれを議論の対象にしなくても、そのうちに、それは当然のこととなって、本当の「見えるもの」になってしまうのでしょうから、「見えない」と言っている人がたくさん居るときには、それを「見えないもの」としておいた方がよいように思うのです。


まぁ、一言で言えば、曖昧なことを論拠にして話を進めれば、その話は無意味なものになるのでしょうということですが、そこに「不思議なもの」というキーワードが出て来ると、その曖昧さがすでに肯定されてしまっているような錯覚の下に話が進んでしまうということでしょうか。

そして、それが宗教戦争に至っているようなこともあると思いますから、それよりも身近なところから、「見えないもの」は「見えないもの」として取り扱うようにすれば、それを、論拠に論争を展開するのは、まったく無意味であるということが、それこそ〝見えやすく"成るのかなと。


そんな風に思っています。


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「人間を否定すること」と「行為や状態を否定すること」は全く違う



このブログでも何度か書いてきたことですが、現在の日本では、否定的なことを言うことがタブーのようになってきていると感じるわけですけれど、これには、かなり見落とされているところがあるように思えるわけなのです。


見落とされていることは、いくつもあると思うのですけれど、中でも「人間を否定すること」と「行為や状態を否定すること」が、ほとんど区別されていないと言うのは、かなり大きなことではないのかなと。

「人間」と言うより、もっと正確に言えば「人間の存在」を否定するということは、避けるべきことかと思われるわけですけれど、「人間の行為や状態」を否定することは、避ける必要がないと思うわけです。

これは、人間に限ったことでもないでしょうが、「存在」と言うものは否定しようとしても、そうそうできるはずはないわけで、「存在」を否定するのであれば「全て」を否定せざるを得なくなってしまうわけでしょうから、そうなれば、何の話も成り立ちませんし、それはかなり無理があると思うわけです。

まぁ、「在る」ものを「無い」と言ってしまえば、なにも成り立たなくなってしまうわけですから、そこには無理があると言わざるを得ないのでしょうね。

だから、当然「人間の存在」も、その人がそこに「在る」かぎり否定できないはずなわけですから、それを否定するということは、まったく不当なことであって、理に適っていないわけなのでしょう。

でも、「行為や状態」を否定することについては、根本的な「存在」の否定ではなく、その有り様についての部分的な否定ですから、それとはまったく異なるものだと思うわけです。

そして、その二つが区別されていなかったり、意味のない区別がされていたりすることが、「否定」や「批判」の機能を失わせているように思われるわけなのです。

つまり、「否定」することはできる限り避けるべきことであって、できうるかぎり無差別に「肯定」に向ける努力をするべきであるというような無理な論があったり、なんとなく度を越している場合は「批判」してもいいとか、犯罪者だったら「否定」してもいいとか、皆が悪く言っている人だったら「悪く」言ってもいいとか、そういった意味のない区別がされている場合がとても多いと思うのです。

でも、実際は、どんな場合も「人間」は否定するべきではない(できない)し、「行為や状態」は否定しても、何の差支えもないのだと思うわけです。


犯罪者であっても否定されるのは、その「行為」であって、その「人間存在」ではないはずでしょう。
(これは「死刑の是非」とはまた違った意味に成ると思います)
まして、みんなが悪く言っているからと言って、その人の「存在」自体を否定してもいいはずがないわけですが、それが結構まかり通ってしまっているように思えるわけなのです。

そして、まさに、そこから各種のハラスメントやイジメ、差別などが生まれているということは明らかだと思われるわけです。

つまり、「否定しない」ことや「否定の区別がなされていない」ことで、かえって非常に否定的な状態が生み出されてしまっていると言わざるを得ないわけなのです

「存在」は基本的に、否定しないのではなくて否定できないわけですから、それを、どうこう言っても仕方がないわけですが、「行為や状態」については否定や批判をするべきであって、それをしないということは、要するに「悪」を肯定することにしかならないわけです。

完璧なものがないのだとすれば、どんなものでも「否定や批判」をされる要素があるはずで、それがタブーになってしまうと、全てのもの事は少しづつ「悪い」方向へ向かうに違いないわけなのです。

「否定や批判」と言う「食い止める力」が働いていて、やっとバランスが取れているのですから、それを取り除いてしまえば、そう成るのは当たり前のことなのだと思います。

そして、「行為や状態」を批判することこそが、「人間」を否定することを阻止するための唯一の手段ではないかとも思えるわけなので、その機能が失われつつある現状は、「人間存在」の危機的な状況であるというように思えるわけです。

「行為や状態」を否定されて傷つくのは、所詮、つまらない表面だけのプライドや見栄の部分だけなのですから、そこのところは諦めて、もっと大事な「人間」の根本的な「存在」を守らなければ、どうにもならないのじゃないですかと。

お互いに人格を否定し合っているような、状態が蔓延している世の中で、表面上の「肯定」だけを追いかけていても、その隣で「肯定を名乗った否定」が、堂々とまかり通っているのでは、なんの役にも立たないのじゃないですかと。

ですから、偏った「肯定」は「悪」を生むものでもあるということを、考えるべき時なのではないのかなと。
そして、それを「止める力」があるのは「否定」だけなのだから、そこで躊躇してはダメなんじゃないですかと。


つまりは、そういうことが言いたいわけなのです。




個人を無能化させても、もう「トク」はない



現代の社会と言うのは、人間を社会の一構成要素として扱うことで、効率化を進めてきたわけですけれど、それによって得られるところの成果が、かなり前から頭打ちになってきていると思うわけです。

それに対して、そこから生まれる弊害の方は、年々大きくなって、既に、成果の方を上回ってしまってからですら、かなりの年月が経過してしまったように思われるわけなのです。


要するに、社会は人間をより単純化して、社会と言う機構を効率よく機能させるための部品として看做すことによって、個人の持っている有機的な要素を排除し無機的な性質を最大限に引き出し、そのことによて、結果的に現在の精密機械的な社会機構を得たのだと思うわけです。

過去において、それが良かったのか悪かったのかについては、功罪相半ばと言うところだと思いますけれど、現在においては、明らかにマイナスになってきているように思えるわけです。


もともと、これまでの効率を支えてきたのは、産業革命以来の技術革新だけではなくて、奴隷制に始まり、植民地政策や労働搾取などの圧倒的な個人の犠牲でもあったわけで、そういう前時代的な社会には戻れない状態になった現在、その方向(個人を部品化するという方向)で社会を運営してゆくことは、これまでのような効率は得られないのに、個人の犠牲だけは増大していくという「労多くして利の薄い行為」となってしまうと思うわけですね。


技術的な進歩と言うのは不断に続いて行くのでしょうし、時には、画期的な技術が開発されて、一時的に挽回するようなこともあるのかもしれませんが、それはあくまで一時的なものにすぎず、恐らく今後、そうした技術による効率の向上が、それに対して圧倒的な社会機構による効率の停滞を上回り続けることは無いのでしょう。

もはや、『技術の進歩が何とかしてくれる』と言うのは幻想にすぎないでしょうね。

たとえば、医療において、医療の進歩によって、人間の寿命は延びたのかもしれませんが、それによって、人生の中で不幸な時間が伸びただけであれば、それは進歩と呼べるものではないと言わざるを得ないわけです。

実際、現在の「長老」達は、果たして社会の中で尊敬されているのでしょうか?
彼らは、そこで何かしらの役割を得られているのでしょうか?
かつての奴隷たちにですら、労働力としての役割が与えられていたとも言えなくはないわけで、彼らに人権が与えられていなかったことは、極めて不幸なことであるわけですけれど、それでは、尊敬されることもなく、あらゆる役割から除外されているような現在の「長老」達には、果たして、真っ当な人権が与えられていると言い切れるのでしょうか?
まぁ、こういうことに疑問が出てきてしまうわけですよね。

そして、このような「進歩による不幸」は現代社会のいたるところに見られるわけで、それは、現代社会が、「人間」を部品と看做して「個人を無能化すること」を手法として使い続けてきたからに他ならないわけですから、それを手放して、効率を犠牲にしてでも、個人の持っている有機的な部分の能力を高めていくしかないわけなのです。

それは、何も画期的な発想者や突出した感性によるものとは限らなくて、まったくもって日常的な工夫や思い付きに過ぎないものでも十分に効果的ではないのかなと。

現在の人間の個体数は、ある意味で自然界の法則を無視しているほどなわけですから、その大半が「無能化」している状態から「有能化」へ転換した時の効果は計り知れないほどに成るでしょう。

その効力は、機械的な効率を捨てたことによるマイナスを遥かに上回るように思えるわけなのです。

教育・文明・文化がかなりの底辺にまでいきわたっている現在、人間の持っている潜在能力は過去にないぐらいまで高まっているはずなわけで、その点では、過去とは比べ物にならないぐらいの力が内在していると思われるわけです。

せっかく高まっている能力をあえて「無能化」するという手法は、有り得ないでしょう。


ただ、ここで、すでに出来上がってしまった「社会の意思」が、常に個人の「無能化」を求めてくるわけですし、さらに、今はもう達成することができなくなった「効率化」をも同時に求められるわけで、そのダブルバインドに挟み付けられて疲弊している現代人が、そこに対抗するような意志を持てずに、ズルズルとその状態を続けているというのが現状でしょう。

意思と言っても、それほど強固な意志力を求められるとは思えないわけですが、言ってみれば、「社会の意思」に沿って働くことをやめて、「自己の意思」に沿って働くようにするということなのでしょうか。

「社会の意思」に沿って働いても、高齢になった時点で切り捨てられるのであれば意味がありませんから、むしろ、自分の方から社会を切り捨ててしまおうということです。


いずれにしても、流れとしてはそちらの方に向かっていくのが、ごく自然なわけですから、何時かはそんな風になってゆくのでしょうが、現状を見ていると、どうしても社会による「人間の無駄使い」が気になってしまうわけなのです。

と言うか、『いったい何のために教育や文化を行きわたらせて来たのか?』と言う感じですね。
『これまでの人間の歴史って、なんのためだったの?』


そんな風に思ってしまうわけなのです。



刑罰について



犯罪に対する刑罰についての論議となると、最近では「死刑の是非」と言うのが多いと思うわけです。
確かに、それは、刑罰についての最も集約された部分なのでしょう。

でも、実は死刑を肯定するか否定するかよりも、刑罰を、社会機構の中で、どのような機能として捉えるのかが問題なのではないかと思うわけです。


主に「犯罪抑止力」としての機能と、「犯罪者の更生」という二つの機能が考えられるわけですけれど、二つの機能のどちらに重点を置くかで、かなり話が変わってくるわけなので、そこのところがポイントになると思うわけです。


ただし、そこで「人間が人間の命を奪ってはいけない」というような、人道的な見地からの意見や、「仇討」的な復讐と言う考えは、刑罰という話とは意味合いが違う話になってしまうので、それを持ち出してしまうと、そこから先には進めなくなってしまうと思うわけです。
まぁ、要するに、それを言ってしまうと「法的な意味での刑罰」の話ではなくなってしまうということですね。

そこで、刑罰を、その機能に限定して考えた場合、先述の「犯罪抑止力」と、「犯罪者の更生」という二つの機能が主なものかと思うわけです。

現在、最も中心的な考え方は、「犯罪者の更生」なのだと思うわけですけれど、それは、あくまで犯罪が起きてからの事後処理的な側面があるわけで、ある意味では、それが達成されたとしても、もはや犯罪は起きてしまっているわけで、それは、既に「十分に不幸な出来事」であるわけです。

この、犯罪という「誰にとっても不幸な出来事」を前提にしてしまっているところが(加害者も十分すぎるくらいに不幸だと思います)、この考え方の重大な欠陥であることは、犯罪が増加し悪質化する傾向にある現代社会では、もはや、議論の余地もないことのように思われるわけですけれど、社会が、人道主義や人権擁護と言った「美辞麗句」を捨てられないために、これを引きずってしまっているように思われるわけなのです。

そして、このことは、先に述べた機能に限定するという法則からも外れてしまうわけで、結果的には、前述の『人間が人間の命を奪ってはいけない』や、その裏返しの意味での「復讐」というのとかわらないことに成ってしまうわけで、「刑罰の機能」の話から逸れてしまっているわけなのです。


やはり、犯罪は未然に防がれるべきであって、それでこそ、機能として有効であるともいえるわけですから、「犯罪抑止力としての機能」を強化すべきであろうかと思うわけです。
と言うよりは、ほかのすべてのことを切り捨ててでも、そこを達成しなければ、現在の犯罪の進行は止めることが不可能なのではないのでしょうか?


例えばの話、もし仮に、犯罪が多発している中で、犯罪者を100%更生させることができる「パーフェクトな犯罪者更生プログラム」が、システムとして確立されたとしても、次から次へと犯罪が発生ていくのではあまり意味がないでしょう。

ですから、冒頭の話に戻せば、「死刑の是非」ではなくて、「刑罰の有効性」を議論すべき時なのではないのかなと。

実際、死刑を自ら望む犯罪者もいるわけで、その犯罪者達にとっては死刑は必ずしも極刑ではないのでしょうから、それを、学者などの現状の犯罪からあまりにもかけ離れたところに立っている人たちが、あくまで「死刑=極刑」という前提でもって、その「是非」を議論してもあまり意味がないわけです。

犯罪者の望みをかなえていることになっているのであれば、それは刑罰ですらないわけで、それを肯定しても否定しても、その議論の意味自体が、極めて希薄であるとしか言いようがないわけなのです。

そこで、犯罪を抑止するという機能を強化するためには、どのような刑罰、または、その他の手段が有効なのかと言う議論がなされるべきなのであって、そうした機能の有効性が発揮されて、犯罪が減っていくことこそが、本当の意味で「人道的なこと」なのではないのかなと。

さらに言えば、これは、犯罪被害者にとっても、犯罪加害者にとっても「人道的なこと」と、つまり「一石二鳥」とは言えないでしょうか?


ここで最も有効な抑止力になるのはどんなものなのかとなれば、それは、かなりの難問だと思いますけれど、少なくとも、犯罪が多様化しているのに対して、刑罰(法)の側は、昔ながらの「死刑」を極刑とする「懲役刑」や「禁固刑」、「罰金刑」という判で押したようなものしかないわけですし、それらの刑罰の重さも、この程度の犯罪を犯したものには、この程度の刑罰と言うような判例主義を取っている関係で、犯罪者側からすれば想定内の刑罰しか与えられないわけですから、犯罪常習者や、社会的逸脱者からすれば、「チョロイモン」で、もはや、彼らに法に対する畏怖の念はないでしょう。

つまり、刑罰が「犯罪抑止力」として機能していないケースが増えてきているということですね。

だから、これからの刑罰には、『犯罪を侵すと、予測できないような、とんでもない刑罰が下されるかもしれない』というような「意外性」や、個々の犯罪者が『これだけは絶対に嫌だ』と思うような「個別性」が必要になってくるのではないのでしょうか?

言ってみればそれは、「天罰覿面(てんばつてきめん)」を再現するということなのかなと。
『天網恢恢疎にして漏らさず』と言ってもいいでしょう。


もちろん、人が人に「天罰」を下すことには十分問題があるわけですが、それを言い出すと、また、人道論に戻ってしまうので、機能としての有効性に絞った話をしなければならないということでしょう。

要するに、『人が人に「天罰」を下すということ』と、『現状の犯罪が生み出している悲惨さ』のどちらを取るか?と言う二者択一を迫られているわけですよね。

でも、よくよく考えれば、それは、元に戻って「人間が人間の命を奪ってはいけない」と同じ話になってしまっているわけですし、結局、現状の刑罰でも、人は人に対して「天罰」を加えているのは同じことなわけですから、あまり、そこに固執しない方がいいような気がします。

実際、かなりの悪人であっても、また社会的逸脱者であっても、恐れていることはあるでしょうし、「絶対にされたくない嫌なこと」と言うのもきっとあるでしょう。

『犯罪を侵せば、もしかしたらそういう刑罰が下されるかもしれない』と考えれば思いとどまることもあるでしょう。


過去には死刑を頂点とした刑罰が、ほとんどの人間にとって、十分に「嫌なこと」であり、「恐れていること」でもあったわけですが、それが成り立たなくなってきているわけです。


今後、刑罰に、予測不能であるという「意外性」と、個々にとっての刑の重さである「個別性」を取り入れていくことは、法に対する畏怖を再生して、犯罪を抑止する一つの道であると思いますが、いずれにしても、現状の犯罪と、その被害者、加害者の惨憺たる状況を横目に、それとは無縁の人道論を云々するというのは、まったくの非人道的行為になってしまっているのかなと。


そんな風に思っております。



「性差」について



性別やそれに付随する役割については、ジェンダーと言う言葉で呼ばれていますが、そういった、性別によって生じているさまざまな「差」が、論争のテーマに成ることが多いわけです。


これは「性差」に限らず、あらゆる「差」についても言える事かと思うのですけれど、そこに「差」が生まれるのは、そこに違う種類ものがあるからで、同じ種類のものしか無ければ、「個人差」以外の「差」が生まれることはあまり無いわけです。
つまり、そもそも違うものだということを前提に「差」が発生しているのだと思われるわけです。

だから、「違い」という「段差」があることを踏まえて、話を進めないと話が混乱してしまうのだと思うわけです。
要するに、「男性の立っている平面」と「女性の立っている平面」は違う平面なわけですから、どちらか一方の平面だけを意識して、話をしていてもすれ違ってしまうのだと思うのです。

実際、その手の論争は、理屈の上では筋が通った論議のようになっている場合でも、結局は、お互いどちらか一方の立場から、ものを言っている場合が圧倒的に多いように思われるわけです。

それどころか、はっきりとどちらか一方の立場をとらないと話に参加することすらできないようなところもあったりするわけです。
要するに、「中立」=「八方美人」みたいな感じになってしまうわけですね。

そして、なぜそう成ってしまうかと言えば、「同じ」を求めてしまうからではないかなと。

「平等」や「同権」といった、「同じ」に近づけることを良しとするような、キーワードのもとに話を進めていくために、どうしても「同じ」を目指してしまうのかなと。

でも、実際に必用なのは、「同じ」ではなくて「違い」に対する話であって、その「違い」を前提にした「平等」や「同権」が、実は「同じ」とはかなり違うものなのだと思うわけです。

そして、その【「違い」を前提にした「平等」や「同権」】をどこに設定するのかということこそが、話し合う必要のあるところなのではないのかなと。

現在では、「平等」や「同権」は、かなり多くの人が認めているものであって、「男性側についた人」を、敢えて「差別主義者」に見立てて話をする必要は、もうないのかなと。

むしろ、みんなが「平等」や「同権」を求めているという前提で、その、男女それぞれにおいての「平等」や「同権」がどこにあるのかを見つけ出していくような作業が行われるべきなのではないかと思うわけです。


例えば、男女に同じ雇用機会が与えられることよりも、男女それぞれにおいての職業に対する充実度や、そこから生じる負担が均等に近いことの方が、望まれる「平等」であって、職種や職域自体に不均衡があったとしても、結果的に双方が納得できるような実態があれば、それでいいように思うわけです。

というよりも、「男女」が違うものであるということを考えれば、最終的なところでの「平等」を求めれば、当然その手前の所では「違い」が出て来るはずなわけです。
だから、むしろ「同じ」であることの方が、よほど「不平等」なことともいえるわけなのです。

そして、こういったことは、政治や法律で規制したり規定したりすることと言うよりは、現場的な、その場での決め事であるべきかとも思えますが、その決め事をするような習慣と言うものが、まったくできていませんから、やはり、何らかの方向付けが必要なのだと思うわけです。


それにしても、これだけ数が少なくなっている「差別主義者」に属する人が、かなりの数で、それを決める「政治」の世界に居たりするというのが、とても悲しいことなのかなと思ったりもするわけですけれど、権力と言うのはそういう性質のものなのかなと。


そんな風に思っています。



「言葉の仕掛け」というもの



言葉には「言葉の仕掛け」に成りやすい性質があると思うのです。

ここで言う「言葉の仕掛け」とは、表面上はその言葉の示す通りの意味に見えていながら、その裏側に、それとは違う意味や方向性を持ってしまっている言葉のことを指しています。


それは文学表現上の「隠喩」というのに似ていなくもないわけですが、そちらとの違いは、「隠喩」があらかじめ意図されたものとして、敢えて、表と裏の二つの意味を与えられているのに対して、こちらは、言葉が社会の中で流通しているうちに、その言葉を使った者が当初意図したのとは違う意味や方向性を持つようになったものであるという点なのです。

そして、そういうものの中でも、ここで特に「言葉の仕掛け」と呼んでいるものは、表の意味が裏の意味に食われてしまって、意味をなさなくなっているにもかかわらず、その言葉を聞いた者が、裏に違う意味があることには気づかずに、その言葉を使っているうちに、いつの間にか無意識にその言葉を裏の意味で使うようになってしまうという、仕掛けられた罠のようになってしまっているものなわけです。

なんでこのようなことが起きてしまうのかと言えば、それは、おそらく、言葉の持っている性質として、一つの言葉を境界にして、世界が二分されるということがあるからだと思うのです。

つまり「〇〇」と言ったとき、世界が「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるわけです。
「〇〇」と言った人は、「〇〇でないもの」については全く触れていないのに、「〇〇」と言っただけで、「〇〇でないもの」についても、語ったことに成ってしまうわけです。

そこで、「〇〇」と言う表の意味と、「〇〇でないもの」と言う裏の意味が形成されてしまうのだと思います。

要するに、AさんとBさんが居る場合に、Aさんばかり何度か褒めていると、Bさんについては何も言っていないのに、自動的にBさんを貶していることに成ってしまうということでしょうか。

実際には、これがもっと複雑に成っていって「言葉の仕掛け」ができて来るわけです。

そして、これは言葉の持っている本質的な特徴だと思いますので、これを変えることはできないのだと思うわけです。

ですから、言葉を使うときには、常に、このような罠が仕掛けられていることを想定しておく必要があるのだと思うのです。
そして、何か特定の言葉に対して、罠に嵌ったような違和感を感じたときには、立ち止まって、どこにその罠があるのかを確認する必要があるのだと思うのです。

それをせずに放置して、その言葉を使い続けると、繰り返し使われるたびに、少しづつ裏の意味と表の意味がずれていって、いつの間にか、とんでもない所に連れていかれてしまうということも出て来るのだと思うのです。

人間は、まだ、自分たちが思っているほどには、言葉をうまく使いこなせていないと思いますですから、もう少し、言葉に対して謙虚になって、慎重な使い方をしていくべきなのかなと。


20世紀後半辺りからでしょうか、あまりに急速に教育が行きわたったために、教育の中で抜け落ちている部分というのがあるように思うわけです。
高度な理論を教える前に、言葉の使い方をもっと徹底しておくべきだったのではないのかなと。

昔で言う、「読み書きそろばん」だけを教えていたのならば、今の言葉の使い方でも、ことは足りていたのでしょう。

でも、これだけ多くの人が高校や大学へ通うようになった今、そこで教えられている知識のすべてが、言葉によって教えられているともいえるわけですから、その言葉が、使いこなせていないようでは、知識が増えたことが、マイナスにも成りかねないわけです。

その種の、「言葉の仕掛け」が生み出している、まったく意味のない誤解や誤見が、とても多いように思うわけなのです。


ここのところが、スッキリしただけでも、かなりいろいろな物事が見えやすくなるのではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




事実は曲げられないということ



『事実を捻じ曲げることはできない!』と言うと、『はい、それは確かにそうでしょうね』ということに成って、そこで話が終わってしまうわけですけれど、『現実には、事実は捻じ曲げられているのではないのか?』と言う疑いを完全に断ち切るのは、簡単ではないわけなのです。

現実の世の中を見渡せば、情報操作や捏造された報道、独り歩きした噂話の類まで、いろいろな種類の「捻じ曲げられた事実」が沢山あるわけです。

でも、やっぱり『事実は曲げられない!』と、私は思うわけなのです。

現在の世の中では、マスコミやインターネットと言う、確保された中立性を持たないシステムが、社会に流通する情報のほとんどを、配信しているといってもよいと思うわけですが、そこに、「道理」や「法則」があるとは限らないわけですし、それらのシステム自体は、ほとんど何の審査機能も持たないわけですから、そこに、何らかの「正しい」があるとしても、それは何らかの既成概念のようなものだと言わざるを得ないわけなのです。

そんな中で、どうして『事実は曲げられない!』と言うのかと言えば、「事実」は、情報でも、それによる人の認識でもなく、厳然とそこに既にあるものだからなんですね。

つまり、操作された情報や、それに振り回された人の認識と言うのは、「事実」とは無関係のもので、「曲げられている」のは、「事実」ではなくて、人の認識や判断なわけです。


童話の「裸の王様」で、民衆の意識をコントロールして、『王様は素晴らしい衣装をお召しになっておられるぞ!』と言わせることはできても、『王様が裸だ』という「事実」は変えられないように、やっぱり「事実」は変えられないわけなのです。

そして、そこで王様の着てもいない服を褒めそやしている人たちは、実際に、見た服を褒めているわけでも、本当にそれを美しい服だと思っているわけでもなくて、と言うより、見ていないものを褒めることなどできるはずもないのですから、ただ単に、その場の流れに調子を合わせているだけで、彼らの中の「事実」も、本当は『王様は裸だ!!』なのだと思うわけです。

でも、このことを芸術の話に置き換えると、さらにおかしなことに成ると思うのです。

芸術においても、このような「曲げられた事実」ならぬ「曲げられた認識」は存在すると思いますけれど、芸術の目的自体が、何らかの意味で「真実」を追究することだとするのであれば、それは根底からおかしなことに成ってしまうわけです。

「事実」をより厳しく追及していって、「真実」に迫ろうとするのが芸術であると、私は思っておりますが、その芸術が、「事実」すら見ようとしないのであれば、そこに何の意味も無くなってしまうわけです。

王様が裸に見えたら、「王様は裸であるということ」が「事実」であり、その「事実」は曲げられません。

そして、表現においては、それについて、『王様は裸だ』と言うのが「事実を表現すること」なわけです。
だから、それも曲げることは出来ません。


ですから、「裸の王様」を見たときに、その衣装を褒めちぎっているような人を見かけたら、『でも、王様、服着てませんよね?』と言ってみてください。
それが、どんなに当たり前のことでも、それを言うと、きっと、非常にあからさまに嫌な顔をされます。

なぜなら、その人たちも「事実」を曲げることができないから。


私は、そういう風に判断しています。



人生で、回数が決まっていること



ある時、ふとしたことで思ったのですが、人生の中で、食事の回数はだいたい決まっているなと。
だとすると、一回美味しくない物や食べたくない物を食べると、結果的に、おいしいものを食べる回数が一回減ってしまうわけで、それを意識するようになってからは、私は極力、食べたくないものは食べないようにしているわけなのです。
(私はほとんど嫌いなモノがないので、これは「好き嫌い」の話ではありません)


でも、これはよくよく考えると食事に限らず、いろいろなことに言えているようにも思うわけです。

例えば、寝る回数や風呂に入る回数などかなりのことについて、回数がだいたい決まっているようにも思えるわけです。


私の場合は、食べ物に対する執着心が強いので、さほど美味しくもないものを仕方なく食べるところまではギリギリ我慢できても、それで美味しいものを食べる回数が一回分減ってしまうのだと思ったとたんに、それは、もう我慢できる範囲ではなくなってしまったわけですね。


今のところ、食事以外で、具体的にやっていることは無いのですけれど、このような考え方で、「その一回」を大事にできるようになっていければ、人生が充実していくのかもしれないですね。

私は、『いまさら充実しなくてもいいよ!』とは、まったく思わないので、生きている限りは、「その一回」を意識していくのだと思います。


そして、生きることの話から正反対の側に話は飛びますが、死ぬときには、いい死に方をしたいと思うのです。

どういうのがいい死に方なのかは、わかりません。


でも、回数だけはわかっています。

死ぬ回数は一回です。



輪廻転生という考え方もあるでしょうが、私は、「限られた時間」・「限られた回数」・「限られた分際」に閉じ込められた「限られた人生」を生きているという意識で考えております。


何度も生まれ変われると思ってしまうと、たぶん、私のような人間は『じゃあ、また次の機会に』となってしまうと思いますから。

実際、「限られた人生」の中でさえ、『まっ、それは、また明日』ということが多いし。


『はい、今やれることをやりましょう』

『できないことはできません』

と言う風に思っています。




「人間のジェネレーション」と「時代のジェネレーション」



ジェネレーションと言うと、世代なわけですけれど、その世代とは何の世代なのでしょうか?
たいていの場合は、「人間の世代」を指して言うことが多いと思うのですけれど、時代そのものの世代を指していう「時代のジェネレーション」の場合もあると思うわけです。


それは、「時代の世代」という、ちょっと変な言い方になってしまうわけなのですけれど、それはともかくとして、「政治」や、「教育」などのような国家の成り行きを左右することについては、この「時代のジェネレーション」を念頭に置いて行ってほしいなと思っているわけです。


今の景気を上昇させることや、今の国際情勢に対処することも必要なのでしょうが、少なくとも〝百年"くらい先のことを考えて国家を運営していってほしいものだなと。

とにかく、政治家の人が≪次の選挙≫を目算に入れて、ものをしゃべっているなと感じる時ほど悲しく思うことは無いわけです。

その人の言っていることが、いくら理路整然としていて筋の通った立派なことでも、それが、先のことまで見込まれていることでなければ、「政治」としては全く意味をなさないようにも思われるわけです。


要するに、十年後までしか通じないようなことは、「政治」でなくとも、誰かがやるのではないですかと。

百年先のことを想定して実行するとなって、そこで、初めて「政治」と言う「権力」が必要になってくるように思うわけです。


現状において、「政治」の場で「権力」が乱用lされるケースが多いのは、「権力」をもてあましているからで、「権力」を行使するべき場が与えられれば、その乱用が少しは減るようにも思うわけです。
(『そんなことでへりゃーしねーよ!』と言うのが本当かも知れないですけど)


「権力」は乱用されるようになってしまう性質があるものだと思いますが、あまりにも判で押したように、与えられた「権力」が必ずや乱用されるというのは、やはり、その本来の「持って行き場」がないということにもよるのかなと。


少なくとも、国家的な同意のもとに、百年から数百年の「時代のジェネレーション」を想定して、「政治」や「教育」が行われたということは、おそらく過去になかったと思われるので、そういったことが、検討されるべき時代になっているように思うわけなのです。

でも、実際には時代のサイクルは短くなっていく一方で、今に追われているというのが現実でしょう。


これからは「政治」にも、主に現在に対処する「短期型の政治」と、主に未来のことに対処する「長期型の政治」が必要になってくるのかなと。


そんなことを、思ったりもします。



誰のことも、見捨ててはいけないと思うのです



人と言う生き物は、社会から見捨てられると生きて行けないと思うわけです。
だから、どんな人も見捨てられてはいけないと思うのです。


募金とか寄付と言うのがありますけれど、あれは、「金銭の施し」ではないと思うのです。
あれは、『あなたたちを見捨てていませんよ』と言うサインなのだと思うわけです。

そして、受ける側も「お金」を貰っているのではなく、『自分たちが社会から見捨てられていない』というアイデンティティを受け取るのだと思うわけなのです。


例えば、犯罪者でも裁かれることによって、『社会から見捨てられていない』という自己確認を与えられているという考え方もできるのだと思うのです。

だから、重い刑罰が科せられたとしても、無視されて放っておかれるよりは『見捨てられていない』と言えるのだと思います。


個人にできることと言うのは限られているわけですけれど、「見捨てられていい人」が居るのではなくて、犯罪常習者で反省の兆しもないというような「切り捨てざるを得ない人」が居るということなのでしょう。

彼らは、ある意味では「社会に必要な犠牲」でも在るのだと思います。


現代社会では「見捨てられている人」は、そういうわかり易い場合だけではなくて、一見普通で「見捨てられているように見えない人たち」の中にもいるので、そういう「見捨てられた人たち」を拾っていけるシステムがあれば、現代社会においては、救いになるのだと思います。


そういう人たちにアイデンティティを配布していけるような機構があれば、社会の機能も活性化するのではないかと思います。

それは、きっと経済政策などよりもはるかに効果的なのではないのかなと。


そんな風に感じています。




今も、日本人は「集団暗示」に陥ってませんか?



ハッキリ言って、日本人は、集団暗示にかかりやすいと思うのです。


第二次大戦中の話でよく聞くのが、『あの時は本気で、B29を竹槍で落とそうと思っていた』という話です。

「タケヤリ」ですよ。
「突いて」ですよ。
何千フィートとか届かないですよね。

また、『神の国である日本が、負けるわけないと思っていた』なんて言うのもあります。


そこにあるのは、理屈でも、理由でも、根拠でもなく、「集団暗示」なわけです。
要するに、いいようにコントロールされていたわけです。


ナチス時代のドイツや、現在の北朝鮮なども、皆同じだと思いますが、国全体が「集団暗示」にかかってしまっていて、『それ、間違ってますよ』と言う人が居なくなってしまうわけなのです。

でも、その点では、今の日本も「集団暗示」の真っ最中だと思うのです。
ただ単に、ナチスや北朝鮮と比べると、ややソフトかな?と言うだけだと思います。

『そんなバカな』と言うのは暗示にかかっているという証拠かもしれません。


実際、軍国主義の時代「大本営発表」や「教育勅語」で、人の意識がコントロールされたように、今も、新聞やマスコミで流れる情報を、操作するコツを上手く使えば、人心は、いとも簡単にコントロールされるという風に感じます。

事実、新聞や本に書いてあることと違うことを言うと、ほとんどの人が、強い反発とともに、『そんないい加減なことを言うもんじゃない!!』と言う反応を返してきます。

そして、そこには、理屈も、理由も、根拠もなくて、ただただ、「新聞や本に書いてあるから」や「ニュースで言っているから」なわけです。

こうなればもう、「新聞に書かせさえすれば」、「ニュースで流しさえすれば」なわけです。



実際、ここ数代の総理大臣で、人気があった人と人気がなかった人の差は、マスコミを上手く使った人と、それができなかった人の差しかないわけで、政策や、外交での成果なんて大した差はないようにしか思えないわけです。

『そんなこと新聞に書いてない』でしょうが、事実だと思います。


簡単にコントロールできる状態の国民が居れば、誰かがコントロールしようとするに決まっているわけです。

そして、ここが一番始末の悪い所なわけですけれど、実は、コントロールしている側の人たちも、「集団暗示」にかかっているようなのです。

おそらく、ナチスという「集団暗示」に最も強くかかっていたのは、ヒトラー本人だったのではないでしょうか?
だから歯止めが利かなくなるわけです。


日本人も、どちらかと言うと「集団暗示」にかかりやすい民族特性を持っているように思うわけです。
だから、それなりに注意が必要なのではないのかと思うわけですね。


少なくとも、現在、理由や根拠と無関係にまかり通っている「正しい」や「間違い」が非常に増えているように思うので(と言っても、いつの時代にもありますけどね)、自分が「集団暗示」にかかっていないかと再確認してみる必要があるのかなと。


「~で言っているから」という以外の理由がないことは、ほとんど疑ってみた方がいいと思いますね。

そこで残ったものが本当のことだと思います。
たぶん、ほとんど何も残らないはずです。


「新聞や本を読んでいないとわからないこと」はどうでもいいことで、
「新聞や本を読んでいなくてもわかるようなこと」が本当のことなのかなと。
(こういう話で、「本」を同列に扱うと反対する方も多いでしょうが、
 「本」も盲信すれば危険であることに何ら変わりはないものだと思います)

そして、「本当のこと」は、それぐらいで十分なんじゃないかと思うのです。


そして、そう思うことで「集団暗示」から抜けられるのではないのかなと。

そんな風に考えています。





「前向き」は現世利益の宗教と同じでは?



現在、「前向きに生きること」は、ほぼ全面的に肯定されているわけですけれど、これは、構造的には、ほとんど「現世利益」を謳った宗教と変わらないと思うわけです。


つまり、「前向きに生きること」で『こんなにいいことがありますよ』と言っているわけで、『お賽銭を入れる』と、『何かきっとご利益がありますよ』と言うのと、あまり違わないわけです。


実際は、「宗教」も「前向き」も、高い見識をもって、言っている人もいるのだと思います。
でも、大多数の人は、どこか現世利益的なのではないのでしょうか?

それは、当然のことだと思いますし、それら大多数の人たちが指向するところこそ、それらの本質であるとも言えるのではないでしょうか?


「前向き」と「宗教」の中間的な位置に「スピリチュアル」と言うのがありますが、こちらは、「来世でいいことがある」という感じでしょうか?



私は、「前向き」も「スピリチュアル」も流行だと思いますが、どちらも、頼れなくなってきた宗教の代わりに現れてきているのだと思うわけです。

もともと、宗教からして、そうだと思うのですけれど、清く、正しく、前向きに生きてさえいれば、いいことがあるのならば、たぶん、宗教も「前向き」も「スピリチュアル」も必要ないと思うわけです。


そう成らないからこそ、それらの「ポジティブ・シンキング」が必要になってくるんだと思うわけです。

少なくとも「霊が見える」とか「オーラが見える」とかいう人じゃなくて、ごく一般的な人にとっては、そういうことだと思うのです。


もちろん、そういう「清く、正しく、前向きな」が悪いということは無いわけで、むしろ、とてもいいことだと思うわけですけれど、 宗教や「前向き」や「スピリチュアル」だと、少しイメージが先行しすぎるように感じてしまうわけなのです。

見栄えのいい切り口だけ見えて、そうでないところが見えなくなってしまうような、そんな感じを受けるわけです。


これらのことで、「現世利益」を期待しながらも、「浄化」されたような、「得」を積んだかのような、印象を持つのは、私は、ちょっと違うのじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


実際には、「浄化」や「得」の方は、『それによって、むしろひどい目にあってもそれをやりますか?』ということな筈で、それは「現世利益」とは相反しているわけです。


結局、『これをやるといいことがありますよ』は「流行止まり」な感じがするわけです。

『これをやって、痛い目にあってもやりますか?』
『ええ、それで、今、このドブのような環境で、瀕死の状態で一応生きています。』と言うのが本当だと思います。


そういう人が、そう簡単に増えることは無いのでしょうが、そんな人が増えれば、きっと世の中少しは良くなるのでしょう。

これだけ、『自称「前向き」に生きている人』がふえて、これだけ、神社にお参りに行く人が増えているのに、あまり世の中、良くなってない感じもするんですよね。


そういう人たちの周りだけ、雨が降らないということなんでしょうか?


そんな感じが、私は消せません。


※すいません、「宗教」や「スピリチュアル」を否定しているわけではありません。
 崇高な考えに基づいてそういうことをやっている意図もたくさんいるんだと思います。
 ただ、社会現象として見た場合、そういう次元でやっている人は少ないように見えて
 しまうということです。







「ポジティブ」過ぎなんじゃないでしょうか?



このブログでは、何度か繰り返し言ってきていることなのですけれど、現在の日本では、「ネガティブ」であることが忌避され過ぎていると思うわけです。

でも、だからと言って「ポジティブ」が悪いというつもりは、まったくないわけなのです。


と言うよりも、私自身どちらかと言えば「ポジティブ」側でもあるわけです。
ですから、「ポジティブ」であることは、いいことだと思っていますし、「ネガティブ」を全面的に肯定すべきだとも思わないんですね。


そこで、この「ポジティブ」と「ネガティブ」を「ポジティブ」の側から見ると、「前向き」で、「肯定的」でと、いいことが多いわけですが、それでも、やっぱりマイナス面もあって、その中でも決定的なのは、「批判力」を持たないということでしょう。

そして、さらには「批判精神」自体を打ち消してしまうような作用も持っているように思うのです。
(「批判」をも含めて「ポジティブ」に捉えるということを言ってしまうと、なんでも「ポジティブ」に成ってしまって、
「ポジティブ」という言葉自体が成り立たなくなってしまうので、これは無しでしょう。)

「批判精神」を失うということは「進歩」しなくなるということです。
「前を向いて」いても、その場で足踏みしていたのでは、「ポジティブ」とは言えないでしょう。
少なくとも、いま日本で言われている「ポジティブ」には当てはまらないでしょう。

 ※ここで言う「進歩」とは、「絶対的な意味での良くなること」ではなく、「変化」に
  近い意味です。
  すべての物事は「変化」せずにいることはないと思いますので、その「変化」を
  受け入れることが「進歩」なんだと思います。


「肯定的」ということは「現状肯定」をも意味します。

「進歩」や「展開」は「現状否定」から生まれます。


現在、恵まれた立場にある者が、「現状肯定」を支持するのは、ある意味当然のことですが、それを「ポジティブ」とは言わないでしょう。

それは「保守的」なことであり、「保守的」なことは、正当な権利の範囲で行われる限り、何も悪いことだとは思いませんが、でも、やはり、まったくもって「ポジティブ」なことではないと言わざるを得ないのであります。


つまり、現在の日本で使われている「ポジティブ」は、「肯定的」と「進歩」と言う二つの意味を、両立させるべき言葉であるように思われますが、この二つには背反的な面が多分にあるということでしょう。


こうなってくると「ポジティブ」の設定自体が、怪しくなって来るわけです。

要するに、表と裏の両面がないと全てのものが成り立たないというのと同じで、「ポジティブ」と「ネガティブ」も両方あってこそ成り立っているのだと思うわけです。

そこで、どうしても、「ポジティブ」は無条件に「OK」で、「ネガティブ」は全て「NO」という、今の日本の状況が〝行き過ぎ"と感じてしまうわけなのです。


私に言わせていただけるのならば、現在の状況は明らかに〝行き過ぎ"で、「ポジティブ信仰」と言ってもいいように感じてしまうわけですが、時として滑稽なほどの〝行き過ぎ"が、全面的にまかり通ってしまっているわけなのです。


これでは、「前向き」で素晴らしい「ポジティブ」の裏側に回ってみたら、中身はカラッポだったということに成りかねないし、現に、そういうことが日に日に増えてきてもいるように思われるわけなのです。

この状況を打開するには、現在「ポジティブ」を支持している側の人が、その〝オカシサ"を感じたときに、『「ポジティブ」であるべき』とか、『「ネガティブ」は避けるべき』という考えに捕らわれずに、今よりも、積極的に「ネガティブ」を取り入れていく以外にないのだと思うわけです。

つまり、見栄えのいい「ポジティブ」に、地味な「裏付け」を与えていく作業が、必要になってくるのだと思うわけです。


そして、そういう作業を行ってみると、現状の「ポジティブ」の中に「裏付け」のしようが無いようなもの、言い換えれば「実体の無いポジティブ」が、いかに多いかに気が付くのではないのかなと。


そんな風に、思ってしまうわけなのです。



人は教えられたことしかしない



人間という生き物は自分で考えて行動しているようでいて、実は、人に教え込まれたことしかしようとしないものだと思うのです。


自分のことも含めてですけれど、子供の時に教え込まれたことと違うことをするのには、かなり抵抗があったりするわけです。

これ自体は、そんなに悪いことだとは思いません。

例えば、人が極端に逸脱した行動に走らずにいられるのも、純粋な道徳心や正義感からと言うよりも、ただ単に、教えられたことに従って行動しているからということが多いと思うわけです。
と言うよりも、むしろ、それに逆らうことができないからといった方がいいのかもしれません。

ただ、これは動物にも同じようなことが言えるわけで、動物もまた、親に教えられたことをやっていたりするわけです。

それから、遺伝的な習性として受け継がれている行動なども、これと似たようなものなのでしょう。


でも、人間は、もうそろそろ、その状態から脱して、自分の考えを以って行動するような習性を、身に着けるときが来ているように思うわけです。

もちろん、何も教えられずにゼロからすべて自分の考えで行動することはできないと思いますが、教えられたことを基盤にして、独自の考えを加えたのちに行動に移すということです。

『そんなことは、皆やっていることだろう』と言う人もいるかもしれませんが、実際には、この部分で人間は他の動物とさほど変わっていないように思うのです。

人間の行動が他の動物と違って見えるのは、その「教えられること」が複雑だからであって、一人一人が、独自の考えで行動しているからではないように思われるわけです。

そして、その複雑な「教えられること」とは、ごく一部の”自分で考えた人たち”が、考え出したり、見つけ出したことなんだと思うわけです。

要するに、「考え出す側の人」と「教え込まれる側の人」が、くっきりと分かれてしまっているように見えるわけですね。


もちろん、全ての人が研究者や発明家に成る必要はないわけですから、社会にとっては、それでもいいのかもしれませんが、そういう社会の効率とか、道徳と言った話ではなく、どちらかと言うと、生物とか動物としての人間が、いま、そのような位置に来ているように思うわけです。

つまり、「考え出す側の人」と言うのは、人類の進化の過程において、ほんの少し早く体毛が薄くなった個体や、いち早く直立に近い形で歩行できるようになった個体と同じように、”単なる先駆け”に過ぎないのだと思うわけです。

そして今、人間は「考える習性」を身に着けることができるような位置に来ているのではないのかなと。

言ってみれば、もっと人間全体が「考え出す側の人」になってもいいような気がするわけです。

それから、もう一つ、時代のスピードが加速度的に増している現在、過去に「考え出されたこと」では、時代に追いつけなくなってきているわけです。

もはや、”特別な人”が「考え出したこと」を”普通の人”に「教え込んで」いたのでは、時代に間に合わなくなってきているわけです。
要するに、覚えているうちに「時代遅れ」に成ってしまうわけですね。


そういう意味でも、「教えられたこと」しかしようとしないという習慣から抜け出していかなければ、時代に振り回されるだけなのかなと。

現に、今の社会にはそれに当てはまることが増えているようですし、「教えられたこと」に何か一つでも自分なりの見解を加えてから行動にできればいいのかなと。

そんな風に考えたりもしています。

『まぁ、自分は出来ないですけどね』




いま、「歳をとること」の意味



私が子供のころは(50年程前)、原則として「年寄り」は尊敬されていたと思うのです。

現在はどうでしょうか?
私には、どうしても「年寄り」が尊敬の対象ではなくなってしまったようにしか見えないわけです。


例えばの話、ここで「年寄り」と言っているわけですけれど、これに対して、気を悪くする人もいるのかな?と思ってしまったりするわけですよね。

せめて「お年寄り」などと言うべきなのか?とか。


でも、そもそも、「年寄り」が尊敬されるものであれば、そんな配慮の必要はないはずなわけで、そこには、「年寄り」と言うよりも「歳を取ること」自体を、「劣化」と看做すという世の中全般の傾向があると思うわけです。

そして、こんなことを言っても、『そりゃ、若い方がいいに決まってるでしょ』と言われてしまうわけですが、いつから『若い方がいいに決まった』んでしょうか?


少なくとも、はじめに書いたように、50年ほど前までは「年寄り」は尊敬されるものでしたし、「年寄り」=「重鎮」であったり、「老境」=「威厳」であったりしたわけです。

確かに、そのころから、『若いっていいねぇ』などとも言われてはいましたけれど、それは、あくまで「若さ」の”未熟さや至らなさ”を含めての「いきおい」に対する、尊敬される側からの「余裕の言葉」であって、決して今のような『年寄りですいません』みたいなものではなかったと思います。


この状況は、拙いと思うのです。
良くないというより「ダメ」だと思います。

当然、すべての若者が歳を取るわけですから、将来の自分をも含めて、否定してしまっているわけですよね。

そして、自分が否定してきたので、否定される側に回った時に認めざるを得ないわけですよね。
それが『年寄りですいません』みたいなコメントになって出てきているのだと思うわけです。


要するに、誰にとっても「ダメ」なわけですね。


それから、実はこれが一番言いたいわけですが、人間は、まだ「人間未満」だと思うわけです。

これは、、ほかの記事にも書いたことですけれど、人間は、人間自身が設定した、「人間と言う概念」に到達していないと思うわけです。
(たぶん、今後も到達できないと思います)

つまり、「額面上の人間」と「現状の人間」が一致していないということですね。
「額面上の人間」がかなり理想化されているために、なかなか追いつけないという感じでしょうか。


だから、「人間」に成るためには、かなり時間がかかるようなのです。
(と言うか、完全には成れないと思います)

それは、一生を費やしてもまだ到達できないようなもので、若いうちに到達できるようなものではないと思うのです。


現在、ようやく教育や情報が整備されてきて、ようやく人間が「人間」に近づくときが来ているように思うわけです。

でも、今のように「歳をとること」を「劣化」と看做し続けていれば、それは、達成されることは無いでしょう。


「若者」にそれを期待するのは、今のところ無理なのだと思うのです。


それは歳を取った者が最後の責任として、有終の美を飾るための、人生最後の仕事なのだと思うわけです。
その先には「いい人生」ではなく、「いい死に方」があるのだと思うのです。


私は、このところ「死に方」は「生き方」よりも重要なんじゃないかと思っています。
と言うよりも、「いい生き方」は「いい死に方」のためにあるのかもしれないということです。


人間と言う動物は、百年ほども成長し続ける「種」になりかけているのかなと。
でも、成長しても尊敬されなければ、そこで終わっしまうでしょう。

「人間」に成る前に。


というところで、何はともあれ、「年寄り」は尊敬しましょう。
あくまで、一人一人の人の話ではなくて、一般論として、「歳をとること」に敬意を払いましょうということですね。

と言う話でした。




「真面目さ」を”バカにする”風潮



現代の日本社会には、「真面目さ」を軽視する傾向があると思うわけです。
そして最近になって、この傾向が急に強まって「真面目さ」を”バカにする”人が激増していると思うのです。


もともと、日本人の長所として、いつも決まって挙げられていた「真面目さ」や「勤勉さ」が、いつの間にか軽視されるようになり、今では、とうとう”バカにされる”ようにまでなってしまったわけです。

しかも、最近の傾向として、どうやら「真面目さ」を一番”バカにして”いるのが、「真面目な人」のようなのです。
(本質的に真面目と言うよりも、表面的に「真面目な人」ということだと思いますが)

と言っても、その人自身は、自分がその「真面目な人」だと認めてはいないようです。
どうも、自分は『そんなには真面目じゃない』と思いたがっているようです。


「真面目な人」と言うのは、真面目なだけに、社会が『「真面目さ」を”バカにする”』と言う方向を指し示すと、その方向性に、”真面目に”従って、それを”バカにする”ようになってしまうようなのです。

しかも、自分が「真面目な人」だということも認めたくなくなってしまうようです。
そりゃ、自分にバカにされたくないですからね。


その人たち自体は、いたって普通の人たちで、どう見ても、不真面目な人でもチャランポランな人でもありません。
むしろ、普段言っていることなどは”お堅い”感じの人たちなわけです。

ところが、ひとたび「真面目さ」に関わるようなキーワードを提示されると、かなり、露骨に”バカにしたり”するわけです。

『さっきまで言っていたことと違うでしょ!?』と思ったりもするわけですが、本人たちは、ほとんど気にもしていないようです。


昔から、「真面目くさって」とか「くそ真面目」といった言葉で、「真面目」なばかりがいいわけじゃない、ということは言われてきたわけですけれど、それはあくまで「真面目さ」がベースにあっての話で、あまり行き過ぎると、よくないと言っていたのだと思うのです。


現在は、それとはまったく違います。
「真面目さ」を憎んでいるように見えるときすらあります。


ここからは全くの想像で、根拠はありません。

日本人は「真面目だ。真面目だ。」と、それしかとり得が無いように言われ続け、それでいて、その「真面目さ」が世界に対峙した時の「勝負弱さ」になったりするのを見続けてきて、『もういや!』になってしまったのかなと。


もともと、江戸期までの日本人は、それほど働き者でもなかったという説もあるようですし、「日本人」=「真面目」というのに無理があったのかなと。

鎖国していた日本が、世界に追い付こうと、がむしゃらにふるまう姿が、世界の中での「日本人」の位置づけを「真面目」にしてしまったのかなと。


世界に「追い付け追い越せ」と、上へ上へ向かっている時には、「真面目」と言われようが、それしかとり得が無いと思われていようが、気にせず邁進できたのかもしれませんが、高度成長が終わり、バブルに浮かれ、そしてそれもハジケ、それまで、我慢してきた「真面目のレッテル」が、『もういや!』になってしまったのではないのかなと。


そして、ここからが言いたいことなわけなのです。

”バカにしている人”の「真面目さ」は表面上の「真面目さ」です。
ただ単に、常道を外さないというだけです。
そんなものはどうでもいいわけです。

でも、”バカにされている”方の「真面目さ」が「本物の真面目さ」だったりするわけです。


この本質的な「真面目さ」を”バカにする”と何も生み出されません。

根本の所に「真面目さ」のないものは「クズ」だと思います。
「クズ」程の意味もないかもしれません。


日本人だろうが、ナニ人だろうが関係ありません。
動物だって「真面目に」生きています。
石ころだって「真面目に」存在しています。
だから、「クズ」だって、きちんと「真面目に」そこにあるわけです。

だから、それは「クズ」にも満たないのかもしれません。
(ただし、人間は完全に不真面目にもなれないと思いますが)


表面上において、「真面目」を選択しようと、「不真面目」を選択しようと、どちらでも自由だと思います。
どっちでもいいことだと思います。

でも、根底に「真面目さ」のないものには、何の意味もありませんね。


表面的にとはいえ「真面目な人」が「真面目さ」を”バカにしている”なんて光景は、あまり見たくないですね。


そういうのは、悲しいだけなのかなと。

そんな風に思ってしまいますよね。



「いっしょうけんめい」について



だいぶ前に聞いた話なのですけれど、「いっしょうけんめい」には、「一生懸命」と「一所懸命」(これは「いっしょけんめい」と読むらしいです)があって、ずっと懸命にやり続けるのが「一生懸命」で、とにかく、その場だけでも懸命にやるというのが「一所懸命」だそうです。

それを言っていた人は、「一生懸命」は、そう簡単にはできないけれど、「一所懸命」ならば、誰でもやる気さえあればできるはずだと言っていました。

その通りだと思いました。

今もそう思います。


でも、前の記事と同じような話になってしまいますけれど、この「一所懸命」も、どうもあまり評価の対象にはならなくなってしまったようです。

これは、”バカにされる”まではいかないようですが、今の風潮としては、同じことをするのでも”スマートに”こなした方が評価が高いようです。

「一所懸命」にやって、どうにかできた人よりも、汗一つかかずにやってのけてしまった人の方が、今は高く評価されるようです。


確かに、簡単にやってのけた人の方が「能力」が高いとは言えるのでしょう。
でも、人間としての潜在力となるとどうでしょうか?

四苦八苦の末にできる人と、労せずしてできてしまう人のどちらが、人間的な力を蓄えているのでしょうか?


それは、まぁ、それぞれの人の判断に任せるべきことなのだと思いますけれど、少なくとも、言えることは、ここで言う「能力」とは、実は、それほど高度なものでも、洗練されたものでもなく、比較的単純な作業を能率よくこなすという種類の「能力」だということだということです。

そうでなければ、簡単に出来てしまう筈がないわけですから。


一方、人間的な潜在力と言うのは、高度とか洗練とも違うかもしれませんが、単純作業や、作業効率などと言うほど安易なものでもないことは確かでしょう。

私は、単純作業をこなす能力よりも、人間的な潜在力の方が、その人の実力と呼ぶにふさわしいものだと思いますから、どちらかと言えば、こちらを評価したいと思うわけです。


それから、はじめの話に戻ってしまうのですけれど、「一生懸命」は並大抵のことではできないけれど、「一所懸命」はやる気さえあれば誰でもできるという所なわけです。

「一生懸命」ぐらいのことをして、はじめて、評価に値するほどの「能力」なのだと思うわけです。

そして、「一所懸命」は誰でもできることだけど、その誰でもできることを懸命になってやるところが、「いい」わけです。

でも、簡単にできるというのは、「能力」としても大したことは無いですし、それほど「いい」とも思えないわけなのです。


とはいえ、私も「簡単にできる」の方が、”カッコイイ”と思っていました。

なんでも”スマート”にやった方がいいと思っていましたし、それが洗練やセンスだと思っていたわけです。


でも、違ったみたいです。
ぜんぜん、違ったみたいです。


人間的な内容が無いと、洗練もセンスも陳腐なだけでした。
まして、「能力」なんて、機械でもできてしまうようなことを、『できる』と言っているだけです。

かと言って、「一生懸命」のような本物の「能力」には及びもつきません。
要するに、「一所懸命」ぐらいしかできないわけですよね。

でも、そこからも洗練やセンスは生まれてくるように思っています。


だから、そこを抜いてしまったら、何もできないと思いますから、なんとか「「一所懸命」でやっていこうかなと。


そういう風に思っています。




人間は「食物連鎖の環」から外れた動物



「弱肉強食」とか「自然淘汰」というのは、自然界のバランスを保つための、最も根源的な法則だと思うわけです。

でも、人間は、この原則から外れてしまっているように思うわけなのです。


人間は、自分が食べるために動物や植物を生産します。

人間は、特定の動植物を乱獲して、そのあとでそれを保護したりもします。

人間は、自分に有用な「種」を改造します。

人間は、産業廃棄物を排出しつつ、エコロジーにも配慮して、そのエコを産業にしてしまったりもします。


全体的に、まったく”理に適っていない”わけです。

そこには、「弱肉強食」や「自然淘汰」の崇高さや普遍性はなく、常に短絡的で、その場のことしか考えていないようにしか見えないわけですね。

でも、人間にはそれが出来てしまっているわけなのです。


そして、人間はそれをやめないでしょう。


もちろん、世界の中では人間の存在など小さな点のようなもので、自然の法則は、人間のすることなど、すべて押し流してしまうのでしょう。

それはわかるのです。

でも、出来てしまっている。


『いやいや、全然自然に太刀打ちなんて出来てませんよ』と言われれば、そうも思いますけれど、でも、やっぱり出来てしまっているように見えるときもある。


もっともっと、出来ないはずだと思うのです。
こんなに出来てしまっていいんでしょうか?
たとえこの程度でも、出来るはずがないんじゃないんですか?
原則から外れたものが、その状態を続けていかれるなんて有り得ないことでしょう?

と、誰かに聞きたくなってしまうわけなのです。


この「原則から外れたこと」を手放せなくなった人間にできることは、”理に適っていない”ことや”場当たり的な”ことしかないのでしょうか?

どうしても、それが止められないのであれば、それを「原理」や「法則」に近い所にまで昇華しようとするべきなのかなと。


好むと好まざるとに関わらず、人間は「食物連鎖の環」から外れた位置に立たされてしまっているように思うのです。
人間だけが円環していないように見えるのです。

だから、その「環」をつなぐような方向で考えていかないと、人間だけが浮き上がってしまうように思えるわけなのです。


どうすれば、それができるのかは、わたしにはわかりませんけれど、少なくとも、「競争」や「淘汰」と言った、そちら側の法則ではないのだろうなと。

そこからは、すでに外れてしまっているわけですから。


だから、人間が協調しようとしたり、助け合ったりするのは、必ずしも、善・悪とか正義の問題でもないように思うのです。

つまり、もう少し大きな枠組みの原理に基づいているのかなと。


そんな中で描くことが出来得る人間社会の未来像は、SF映画に出て来るような無機質的な世界などではなく、いや、それとは正反対の、いまだかつて、人間が経験したことがないほど「人情味」があって、過去には有り得なかったほど、濃密に有機的な空気が充満した空間なのではないのかなと。


そんな風に空想するときもあります。




「奇跡」について



「奇跡」と言う言葉は、けっこう簡単に使ってしまうわけですけれど、本来は、「神」に直結した神聖な言葉なのではないのかなと思うわけです。


本来「奇跡」とは、ただ単に有り得ないようなことが起きたというのではなく、神的な力が降臨して行われたことを指して言うことなのかなと。

でも、現代人にとっては、神聖さがあまり強く感じられない方が都合がいいようにも思えるわけです。

現代社会においては、「神」の存在感はかなり希薄だと言わざるを得ないわけですが、そういう状態の中で、「神」を感じられて、なおかつ信仰心までは求められないで使える言葉が、「奇跡」や「天才」なのだと思うわけです。

だから、「神(信仰)」を失った現代人が、それらの言葉を、無意識のうちに多用するようになっているのかもしれません。


「奇跡」とは、その時代においての「最先端の不思議」=「人知を超えたもの」であると言い換えることができるように思うわけです。

「奇跡」だと思われることでも、その「不思議」な部分が解明されて、当然、そう成るべくして成っているとわかってしまうと、それは、もう「奇跡」ではなくなってしまうわけです。


マジックなんかでも「不思議」なものとしてみている時は、それが魔術的なものに見えるのに、種(たね)が解ってしまうと、それは一つの特技にしか見えなくなってしまうわけなのです。


逆のことも言えて、科学などの堅実な分野でも、まだ、、よくわからない部分の多いこととなると(例えば、遺伝子操作などですね)、それは、まったく「神秘」としか思えないわけですね。

そして、それも、ある程度まで解明されてしまうと、単なる「理論」としてそこに収まってしまうわけなのです。


つまり、「奇跡」とは、未だ解明されていない物事を、「神」のなせる業としてきたことの「名残り」であると思うわけです。

現在までに人間がたどり着いた結論は、実体のある「神秘」はいずれ解明されるということ、解明されない「神秘」には実体がないから、永遠に解明されないということ、そして、実体のない「神秘」はあまり役には立たないということ、ぐらいでしょう。


こんなことを言うと信仰心の厚い人は、怒るのかもしれませんが、「神」は、結局人間を救済しないと思うのです。

現在、「信仰」は人の精神を強くしているというよりも、それが依存するものになってしまっていると思うのです。


よくよく考えてみれば、「神」が人間を救済するはずはなく、試練を与えるに決まっているわけですから、人間を救済できるのは人間しかいないはずなのでしょう。


人間が、やっとの思いで人間自身を救済した時に、姿を現わして『これこそが私の与えた救済である』と言うのが、「神」というものの持っている本質的な構造なのだと思うわけです。

だから、こういうことを聞いて「信仰」を持っている人が怒るのは、ちょっとおかしくて、そのような「神」を「信仰」出来るのか?と言うところに、現在の宗教というものはあるように思うわけです。
(本当は昔からそうだったのかもしれませんが)

もし、「神」をそのように言うことを冒涜であると感じるのであれば、その人の「信仰」においては、「神」は絶対者ではないということに成ってしまうわけです。


とは言っても、私は「宗教」も「神」も否定するつもりはありません。
ただ、現在においての「神」や「信仰」の在り方が、私にはそのように思えるというわけです。

そして、時の流れの中で「神の時代」はその意味が薄れてしまったと思うわけです。


そして、それは「奇跡」にも同じようなことが言えていて、「信仰心」を持ちきれなくなった現代人が、「奇跡」や「天才」と言う言葉に陶酔してしまうのは、そこに依存してしまっているからのように思われるわけです。


だから、人間自身が人知を超えたことが出来るのか?ということになってくるわけですけれど、人間ですから、人知を超えられるわけないですよね。

だけど、人間ですから、人知の範囲内でいいんじゃないかと思うわけです。
そこで、『人間ですけど、なんか悪いんですか?』と言えるようになることが、人間にとっての救済なのかなと。


やや貧弱な感じもしますが、その”チープ感”を受け入れられるのかどうかが意外と高度な感じもするわけですよね。


それができれば、人間は「宗教」から抜けられると思います。


実は、そこから、本当の意味で、「人間」と言う「種」が始まるのかなと。
それこそが、人間の起こす最初の「奇跡」なのかもしれませんね。


そんな風に思っています。






「健康」について



何かにつけて、「健康」の大切さが身に染みている今日この頃なわけです。


「健康」が大事なのは当たり前のことなのかもしれませんが、人間の場合「体の健康」と「心の健康」の両方に気を配らなければならないので、そこの所が特に難しくなっているように思うわけです。


ただ、言葉の上で「健康」と言ってしまうと、「完全な状態」が「健康」で、「不完全な状態」は「不健康」のようになってしまうのですけれど、「完全な状態」などは、ほとんどないわけですから、実際は、「不完全な状態」の中での健康を「健康」と言っているわけなのでしょう。

「一病息災」みたいな感じですか?

でも、実体としては「二病」でも「三病」でも「息災」であればいいように思うのです。


「息災」って何なんだかよくわからない言葉なわけですが、それでも、取り敢えず「息災」ならいいんじゃないの?と言うところですかね。


重い病気の人に関しては、可哀相だと思うのもかえって失礼なようにも思いますし、逆に、そう思わないのも非道なことのようにも思えて、そこの所の判断は付きませんけれど、少なくとも、かなり重い病気の人の中にさえ「息災」はあるのだと思うわけです。


そして、「体の病気」についても「心の病気」についても言えることだと思いますけれど、病気であることを自覚していることは、とても「健全なこと」のように思うわけです。
もっとも「病的」なのは、「病気」を自覚できないことだと思うのです。

そして、そこには「息災」はないように思います。


自分の「病気」を自覚できている人と言うのは、どこか「健康」な気がしてしまうのです。
それは、ただ「頑強」ではないというだけで、「健康」に近いのかなと。
そんな風に思ってしまうわけなのです。


「病気」と言うのは、完全に克服しなくても、自覚して把握してしまうと「病気」とは言い切れなくなってしまうようなところもあると思うわけですね。


もともと、全ての命は、生まれた瞬間から「死」に向かっているとも言えるわけで、「病気」があってもなくても はじめから「余命〇〇年」なのだと思うのです。

ただ、若いうちはその「〇〇年」が長いと思っているというだけのことなのでしょう。


だから、どんなに健康な人でも生まれたときには、もう「余命100年ぐらい」なわけで、その人が50歳なら「余命50年ぐらい」なわけです。

それと「余命3年」というのとが、どれほど違うことなのかはわかりませんけれど、少なくとも、みんな”期限付きの人生”を生きているのは同じなわけなのです。


つまり、全ての人が「余命〇〇年」の「病気」の人生を生きているとも言えるし、逆に、全ての人が、”不完全な”「健康」の人生を生きているとも言えるわけです。


だから、そういう感じで「病気」を把握してしまうと、あとは人生の期間が長いか短いかと言うだけの問題なわけです。


人生の長さは絶対的なことでもないと思いますけれど、「健康」を大切にしていないと、「病気」を把握することもできないので、やっぱり「健康」は大切にする方がいいのかなと。


そう思う、今日この頃なのであります。



「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へ



昔は、と言ってもだいぶ昔ですが、大人が公然とマンガを読んでいたりすると、白い目で見られるというようなところがあったと思うのです。

おそらく今の若い世代では、そんなことを言っても、それがどういうことなのかもわからないのでしょう。
つまり、一言で言えば、昔の人は”シンジラレナイほど頭が固かった”わけです。


子供が読むものと大人が読むものは、はっきりと分かれていて、大人が子どもの読むものを読むことや、子供が大人の読むものを読むことは、「イケナイこと」に近かったわけです。

それが、「アニメ」と言う媒体を経たことによって、いつの間にか「大人用」と「こども用」が一体化して、その境界線も曖昧になり、お互いに出入り自由になったわけです。

そして、「オタク」が登場したことで、「こども用」であったはずの「マンガ」や「アニメ」が、とうとう「大人用」の文化になったと言えるのだと思うわけです。


そのこと自体の是非を問う気はありません。
取り敢えず、昔の人の頭が固すぎたのは間違いないので、その分だけは良かったのだと思います。


でも、それよりも、このことについて、不透明になっていることがあるように思うわけです。


この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へという移行が、日本の社会にかなりの影響を与えたと思うわけです。

1.大人が幼児化したということ

2.子供が子供でいることを許されなくなったということ

3.「マンガ」と「アニメ」が文化として発展したこと

以上のようなことが考えられることだと思いますが、その中で尤も日本の社会に対する影響が顕著なのが、1.だというのはよく言われていることだと思います。

3.についても、よく語られますが、実際には、「マンガ」も「アニメ」も、かなり早い時期に頂点に近い位置にあったと思われます。
つまり、まだ「子供用」であった時点で、既に一つの頂点に達していたという感じがするわけです。
(この辺は、異論もあるでしょうから、私が勝手に言っていることです)

でも、どちらかと言うと、一番問題なのは二番目の「子供が子供であることを許されなくなったこと」なんじゃないかと思うわけです。


「大人が幼児化したこと」は、さんざん言われていますが、その結果、「子供が子供であることを許されなくなったこと」については見落とされがちです。

また、そのこと自体は、語られることがあっても、この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へと言う文化の変遷の中で、それが語られることがあまりないために、その辺のところが、そっくり抜け落ちてしまうのです。


つまり、社会現象としての「マンガ」・「アニメ」・「オタク」はもう完全に「大人の領域の話」になっていて、「子供の領域の話」ではなくなってしまっているわけです。

だから、子供の話には出てこないのでしょう。


大人が幼児化したことの象徴が「オタク」であることは、ほぼ間違いのないことでしょう。
そして、幼児化した大人が「子供の領域」を奪ってしまっていることも、まずもって間違いがないことではないでしょうか?

さらに、社会機構の中で上位に居る「大人」が子供の領分を占めてしまっていることで、「子供が子供であることを許されない」という状態になっているように見えるわけです。


結果、「子供」は「大人化」するしかないわけですけれど、「子供」ですから「大人化」できないわけです。
「大人化」するには、経済力や社会的地位が必要になりますし、「大人」に与えられる権利も義務も与えられませんから、まったく無理なわけですね。

そこで、現在の「子供」は「子供社会」を「大人社会化」しているのだと思うわけです。
それが”イジメ”の構造の一端だと思うのです。


そしてさらに言えば、その「子供社会」の”イジメ”に近いような、”子供じみたイジメ”が、幼児化した「大人社会」に蔓延してきているというわけです。

そして既に、「そういう子供時代を経た大人」の世代に入っています。

つまり、子供時代には「子供であることを許されなかった」者が、「大人になってからは幼児化する」という歪んだ状況になってしまっているわけです。


この状況を克服するのは容易ではないように思われますけれど、どう考えても、抜け出さねばならないように思うわけです。


「オタク」と言う文化をどう扱うべきなのかはわかりませんが、少なくとも、海外で評価されていることなどを、手放しで喜ぶのはどうなのかなと。
海外の人は、そんな歪んだ社会の”ツケ”は負わなくていいわけです。
当然、その”ツケ”は、近い将来、日本人が負担しなければならなくなるわけです。


要するに、不自然な「子供の大人化」と「大人の幼児化」が、何度もその不自然な循環を繰り返した後で、そこから排出される「オタク」という文化に、まだ、そんな”ツケ”を支払ってまで、手放さないでいるだけの価値があるのか?ということでしょう。


いま起きていることは、目を開けて見ればわかることだと思うのです。
それを見ないようにするのも、また、たやすいことですけれど、それで、近い将来、困るのも確かなことなのかなと。

そんな風に思えるわけです。


※2019年5月に追記

「文化」としての「オタク」を批判しているわけではありません。
社会現象としての「オタク」についての話です。

例えば、かつて、「差別」のある国では、差別されている人種や階層の人が集まって、「スラム街」を形成していたわけですが、その「スラム」にも、「そこならではの文化」はあったでしょうし、その「文化」がいかなるものであっても、それを否定することに意味があるとは思いません。
 しかし、「差別」も「スラム」もなくした方がいいのは間違いのないことですし、もしも、その結果「スラム文化」が消滅してしまったとしても、それはやむを得ないことだということです。

海外においては、「オタク」の「文化的な側面」だけがの、意図的にクローズアップされて宣伝されているのでしょうから、外国人が「オタク」を「文化」として理解したり、評価したりするのは当然のことだと思います。

しかし、日本で暮らしている日本人にとっては、「オタク」が「ヒキコモリ」や「不登校」などと直結している「社会現象」でもあることは、避けようがない事実であり、そこから、「学校の悲惨なイジメ」や「子供の自殺」までは、すぐそばの位置にあるということも、また明白なことです。
そんな状況の中で、その現実を直視せずに、あくまで『オタクは世界に誇るべき日本の文化である』と言い続けることは、かつての「スラム街」において、『臭いモノには蓋をして』結果的に「差別」を容認し続けていたのと同じことに成ってしまうのではないでしょうか?

やはり、「オタク」については、「社会現象」として、もう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか?

私は、そう思います。




「自己実現」とは「欲望の実現」



「自己実現」と言う言葉をとても良く耳にするわけです。


これには、「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」と言うような意味も含まれると思いますけれど、もう少し現実的な印象もあって、社会の中で、自己の位置づけを確立して確固たるものにするというようなこともあるのだと思うわけです。

要するに、金銭や地位・名誉と言った現実的なものに対する「欲望」の達成を「自己実現」と言っている部分がかなりあるのだと思うわけです。


現実的な欲望を達成するのが、悪いことだと言うつもりはないのですが、その種の「欲望」を強く持っている人と言うのは、それを、あえて「自己実現」などとは言わないように思うのです。

彼らは、きっぱりと「お金が欲しいんだ」とか「有名に(偉く)なりたい」と言うでしょう。


そこでなんで「自己実現」と言う言葉が使われるのか?
おそらく、本来ならば、その種の「欲望」を、それほど強くは持っていない人が、「自己実現」と言っているのではないかと思うわけです。
(想像ですが)


そこで、「欲望」を剥き出しにしてまで、それを達成したいと思わないような人たちが、この言葉に”惑わされて”しまっているようにも思えてしまうわけなのです。

「欲望」とか「お金」とか「地位」とかと言われれば、『いえ、そこまでして』と言うような、言わば奥ゆかしい性質の人達が、「自己実現」と言うキーワードを提示されると、それに従って、「自己実現」しなければいけないような時代の空気があって、それによって、本来起こらないはずの競争が起きているように思うわけです。

そして、その競争によって、社会全体が、とても”ギスギス”した雰囲気に包まれてしまっているように思うのです。


欲望の達成に対する「強い願望」を持っている人たちは、常に一定の数で存在するのでしょう。
その人たちにとっては、それがもともとの性質ですから問題はないように思うのです。
そして、そういう人達が居ることは、必ずしも悪いことだとは思わないわけです。

でも、本当ならば、それらの人を横目で見ながら、それとは違う方向を向いて行動しているはずの人たちが、「自己実現」と言うキーワードで「欲望」を増幅させられてしまって、「望んでもいない欲望」や「大してやりたくもない達成」を勝ち取るための競争に向かわされているように見えるのです。

そして、それがどうも不自然なわけです。


「自己実現」には、「社会貢献」や前述の「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」みたいな、”剥き出しの欲望”とは違う面もあるので、”惑わされ”やすくなっているんじゃないでしょうか?


だから、「自己実現」したいと思っている人は、その前向きな「自己実現」が、実体としては自己の「欲望」の達成を意味することだということを意識したうえで、それでもまだ、そこで競争してまでそれを勝ち取りたいのか?ということに答えを出してから、そこに向かった方がいいのではないのかなと思うわけです。


それから、はじめに述べたような、「夢をかなえる」や「やりたいことを見つける」なんていう非現実的なことと、「お金」や「地位」というような現実的なこととは、原則的に両立することは無いわけです。

それが両立しているケースがあったとしても、それは何かしらの特例であって、それを両立させるために努力するということは、徒労に終わることが多いのだと思います。

「自己実現」と言うと、それらが両立できる範囲のことであるかのような幻想が創り出されて、それが、あたかもリアリティのあることのように思えてきてしまうということがあるわけです。

実際に、「お金」や「地位」を確実に獲得していく人と言うのは、基本的に、初めから「夢」とか「やりたいこと」なんていう実益が薄いことに興味を持っていないことが多いわけです。
と言うか、そういう人たちにとっては、「お金」や「地位」こそが、「夢」であり「やりたいこと」でもあるわけですから、「お金」や「地位」を得ることが出来れば、「夢」も「やりたいこと」も自動的に両立してしまうわけなのです。

でも、「夢」や「やりたいこと」が「お金」や「地位」ではない人は、ほとんど両立できないものを両方同時に得ようとするわけですから、、”イライラ”して来て、”ギスギス”してしまうのだと思います。


つまり、「自己実現」を望むことで、結果的に「自己不満」を作り出してしまっているというわけです。
少し極端にいうと、現代社会に蔓延している「ストレス」の一つが、「自己実現」というキーワードによって引き起こされているように思います。


そもそも、そんなに高い「自己」を「実現」しなければいけないのでしょうか?

そんなことは無いと思うのです。

もっと普通のことを「実現」するだけでも素晴らしいんじゃないかと思うわけです。
と言うか、「人間として当たり前のこと」をするだけでも結構大変で、それだけでも、十分に高い目標かとも思われるわけなのですから、それ以上は、無理なんじゃないかなと。

でも、そういう「当たり前のこと」が社会で認められていなかったりするわけです。
だから、それは「自己実現」とは呼ばれないのでしょう。


「自己実現」という「自己不満」に陥るか、「非・自己実現」という「自己満足」を得るか、と言う選択なのでしょう。
要するに、両方”パッとしない”わけです。

つまり、『どっちみち”パッとしない”』という状況が、「自己実現」というキーワードによって生み出されているような気がします。


でも、そういう”ジミな感じ”のことをもっと積極的に認めて、評価の対象にしていくことが必要になっていくんじゃないのかなと。
そんなことで「ストレス」という「現代最大の病」が克服できるなら、安いもんじゃないのかなと。


そんなことも考えられるのかなと思ったりするわけです。





一気圧のプレッシャー



普通に地球上で生活していると、いつも”一気圧のプレッシャー”がかかっているわけです。

でも、これは「大気圧」だけのことでもないように思われるわけなのです。
世の中にはもう一つ、社会がかけている”一気圧のプレッシャー”もあるのかなと。


みんな、生まれてこの方ずっと”一気圧のプレッシャー”を受けていますから(高地民族とかいう話は置いといて)、それをあえて意識する人はほとんど居ないわけです。

情報として、「大気圧」と言うものを知っているから理解できますけれど、それが無ければ、たぶん自分に四六時中「圧力」がかかっているなんて考えないと思うのです。


それと同じように、いつも社会から受けているのに、全く意識されなくなってしまっている「圧力」と言うのがあると思うわけです。


「社会」は、常に「時代」が指し示している方向へと流れていくものだと思うのです。
そして、その流れの水圧が、「社会の中にいる人間」にはかかっていると思うわけです。


でも、はじめから「社会」の中で生まれて「社会」の中で育つわけですから、「大気圧」と同じで、流れの中にいることも、その流れの水圧によって流されていることも、意識することすら無いわけです。

そういう”一気圧のプレッシャー”が時として、「社会」に生活している人間を、知らず知らずのうちに蝕んでいるように思えるのです。


それが”一気圧のプレッシャー”である間はまだいいのですけれど、いつの間にか「高気圧」に包まれていたり、「低気圧」が張り出して来たり、ということがあるわけです。

でも、普段から全く意識されていませんから、そういう「気圧変動」になかなか気が付かなかったりするわけなのです。
それで蝕まれてしまうのだと思うのです。


ひょっとしたら、この”一気圧のプレッシャー”から逃れることを、「自由」と言うのかもしれないなと、そんな風にも思うのですが、人は「社会」の中でしか生きられないとも思いますから、逃れる術はないとも思ってしまうわけなのです。

唯一出来そうなことと言えば、この”一気圧のプレッシャー”を感じながら生きてゆくことでしょうか。
それは、「自由」への”まなざし”を持って生きることでもあると思います。


叶わぬ「自由」を望みつつやっていくというのも、悪くはないのかなと。


そんなことで、一応納得したような感じ。




「持論」を持つこと



「持論」を持っている人の話には、ついつい引き込まれてしまうわけなのです。

世の中に、これだけいろいろな情報が溢れていても、その人にしか語れないような、独特な言葉と言うのがあると思うのです。


そういった、いわゆる「持論」と言うのは、「ある種の自己満足」だったり、「勝手な思い込み」だったりすることもよくあるわけです。
それに、なんと言っても、”何の役にも立たない”場合が非常に多いわけです。

それなのになぜか、「持論」や「持論を展開する人」には、惹きつけられてしまうわけなのです。


たぶん、それは、その人が丸ごと出てしまっているような、そういう人間的な雰囲気に、惹きつけられて『おもしろい』と思ってしまうのです。


本に書いてあるような”マトモ”なことだと、言っていることが正しくて役にも立つ場合でも、自分がもともと興味のあることでない限り、引き込まれるということは、めったにないわけですけれど、「持論」的なものに出会うと、けっこう理屈が”デタラメ”でも、私は、ついつい引き込まれて、聞かされてしまうのです。


それは、その話の内容が独創的ですごく面白いからとか、ユニークで、今までに一度も聞いたことも無いような話だから、と言うのではなく、内容的にはありふれた話でも、その人独自の視点みたいなものがあって、『その話の中で、なんであえてそこにこだわりますか?』と言うような、その人にしか醸し出せない雰囲気にやられてしまうわけです。

だから、その話が”デタラメ”でも気にならないわけです。
むしろ、”デタラメ”な方が面白いことが多いくらいです。


もちろん、その「持論」を、何らかの権力を笠に着て振りまわすというのは論外ですが、そういう人が振りまわすのは、往々にして「持論」ではなく、教科書に載っているような話なのです。

だから、まったく惹きつけられません。

”デタラメ”な「持論」の方が、よっぽどいいです。


そして、できることなら、みんなが、それぞれの「持論」を持つようになればいいと思います。

教科書に載っていることを言っていれば”ツッコマレなくて”安心だから、みんなが教科書の中に”ヒキコモッテ”しまって、本当は心の中に持っているはずの”デタラメ”な「持論」を隠してしまっていると思うのです。

人から見たら”ツッコミどころ満載”の「持論」こそが、本当のその人の「丸ごとの姿」で、その人にしか語れない言葉だと思うのです。


教科書に載っていることは、学校で学ぶだけでもう十分なので、みんなで”身勝手でデタラメな”「持論」を展開したらいいんじゃないのかなと。


そういう世の中って、なかなか無いけど、けっこうイイんじゃないのかなと。

『いや、良くはないか?』

『いやいや、良くないところがイイんじゃないですか?!』


そんな風に思います。




いま、何かから「逃げること」の意味



「逃げること」と言うと、あまりいいことだと考えられてはいないと思います。


でも、現在は「相対化の時代」でもあると思うわけです。
「相対的」に物事を見た場合、「逃げること」を「攻めること」と捉えることもできるわけです。

つまり、相手から遠ざかることは、相手を遠ざけていることでもあるわけです。


ある一つの基準点を想定して、そこを中心にして全てのもの事を測れば、中心から遠ざかっていくことは、「逃げること」でしか無いわけですけれど、そういう「絶対的な中心」、即ち「基準」を喪失した現在においては、積極的に「逃げること」は、「責めること」にも成り得るわけなのです。

だから、現在、何らかの形で「逃げている人」や逃げ場さえ失くして「ヒキコモッテ」いる人は、その状況を、もっと積極的なものと捉えてもいいように思うわけです。


もともと、なんで「逃げること」になったのかということを考えれば、何か”嫌なもの”があるから逃げるわけでしょうから、そちらが、そもそもの原因なわけで、「逃げている」側ばかりを責めるのもどうかと思うわけです。
と言うよりも、現状を見ると、『逃げるやつは弱い』で済ませてしまうには、あまりにも、「逃げている人」の数が多いと思うのです。

みんながどこかに『逃げ込んでいる』ように見えるのです。


そんなに、みんなが弱いとは思えないのです。
実際に、十分に強い人ですら、何かから『逃げざるを得ない』状態になっているように思います。

そしてまた、さほど強いともいえないような人に限って、『逃げることなく、のうのうとしている』ということも、よくあるような気もします。


いずれにしても、今、「逃げること」を非難しても、なんにもならないような気がするわけです。


こんなにたくさんの人たちが、「逃げているという現実」を直視して、みんなが何から「逃げている」のか?
何が”嫌なこと”なのか?ということを見つけ出して、それを排除していかなければ、結果的には、何の成果も得られないと思うのです。


おそらく、その”嫌なこと”とは社会の効率を高めるために存在しているもので、それを排除してしまうと、利益を阻害されると考える人たちが居るのでしょう。


でも、もはや、それが逆転していて、それを排除できずにいることの方が、余程、社会の利益や効率を阻害しているわけなのです。


ですから、いま「逃げている人」は、自分が社会の弊害になっているものをいち早く見出して、それを排除するための因子となるために、その位置から無言の抗議をしているのだという捉え方をしてもいいように思うわけです。

そして、後になって歴史を振り返れば、きっと、それが事実となっていくのでしょうから、それは、恥じることでも自己憐憫を感じるようなことでもないと思うわけです。

だから、『逃げています』とか『ヒキコモリです』とかいう必要すらもなくて、『いえいえ、あなたたちの方が、私の無言の抗議に耐えられずに逃げているのです』と言ってもいいように思います。


「逃げること」を擁護するつもりで言っているのではありません。
「いま、逃げること」が「普通の逃げること」とは違うように思えるということです。


「逃げている人」が戻ってこないと、「逃げている人達自身」も、「逃げていない人達」も同じくらい困ることに成るのでしょう。


だから、みんなで”嫌なもの”を排除していった方がいいのかなと。
その”ギスギス”して”トゲトゲ”したものを排除していけば、自然に、みんな戻って来るのではないのかなと。


それは何なのか?たぶん「意味のない競争」です。


『なんで、競争するのか?』

『そこに競争があるから』

『意味はない』

『害はある』


以上、

です。



「老化」は「劣化」ではないと思うのです



前に、他の記事でも触れたことなのですけれど、現在日本では、「年をとること」を「劣化」と見る傾向があると思うのです。


確かに、物はすべて経年とともに「劣化」するわけですけれど、それは、あくまで物質的なことに限ってであって、それを精神世界にまで当てはめてしまうことには、問題があると思うわけです。

つまり、本の表紙が擦り切れたり、印刷のインクが薄れてしまったことを、その本に書かれている「内容の劣化」と看做してしまうことは、まったくもって理にかなっていないということですね。

本についてだと、まったく当たり前のことであるのに(さすがに、本がすり切れていることと、本の「内容」がダメだということを混同している人はいないでしょう)、人間についてだと、「老化」と言う「物質的な劣化」が、「精神的な劣化」でもあるかのような誤りが、まかり通ってしまっているように思うわけです。


人間の脳の中の、精神世界に蓄積された情報と言うのは、本で言う所の「内容」にあたるもので、それは劣化することは無いわけです。

そう言うと、年を取って物覚えが悪くなることや、頭の回転が遅くなることは「精神的な劣化」ではないのかということに成るわけですが、それは脳と言う器官の「物質的な劣化」であって、蓄積された「情報」や「思考」の「劣化」とは全く違うものなわけです。


また、一部の人(大半の人かも?)においては、記憶力が衰えるのは、情報の蓄積量が膨大な量に及んだ結果、飽和状態に達したためであり、頭の回転が衰えるのは、思考が高度に複雑化して、非常に曖昧な判断を下そうとするためであるという考え方もできると、私は思っていますので、それは、「物質的な劣化」に限った話としても、やや誤解があると思うわけです。


いずれにしても、「精神世界」は全くといっていいほど「劣化」しないものだと思うわけです。

むしろ、それは年をとることで「変化しなくなる」と言った方が正しいわけで、「進歩」や「発展」はしなくなりますが、「劣化」もしないわけなのです。

「進歩」や「発展」をしなくなるのは、人間の機能の「物質的な劣化」によって起きて来る結果である場合と、「進歩・発展期」から「成熟期」に移行したことの結果である場合があると思います。

そのどちらも、「精神的な劣化」と混同することは間違いであると思うわけですね。


若者が、「老境に至った者」の「複雑化した思考」を理解でないのは、仕方ないことなのでしょうが、当の「老境に至った者」たち本人が、それらの膨大な「情報や思考の蓄積」を、とても粗末に扱ってしまっているわけです。


もっと、誇りをもって『まだ君たち若者にはわからないだろうね』と言っていいように思うわけです。

実際に、若いころには考えつきもしなかったことが、長年かかって徐々にわかってくるということは沢山あるわけで、”デリケート”で、”微妙な”なことに成ればなるほどその傾向も強いわけです。


おそらく、それは膨大な「蓄積」によってのみ成し遂げられる最も複雑な作業であって、「年寄りの戯言」などではないのです。
と言うよりは、その「年寄りの戯言」こそが、実は「最も複雑な作業」かも知れないのです。


だから、年寄りも若者も、それらの「蓄積」を蔑ろにしているということは、本の表紙が擦り切れてしまったからと言って、その本を捨ててしまって、そこに書いてある素晴らしい「内容」をも一緒に捨ててしまうようなものだと思うわけです。


それを大切に扱うことで、「年寄り」においては、自分の「人生の蓄積」を、そこに集大成することが出来るわけですし、「若者」においては、将来の自分が、誇りを保って人生の終焉に向かっていくモデルを見ながら生きていくことができるようになると思うのです。


「老化」は「劣化」などではなく、それは、人生を締めくくるための最後の「変性」なのではないかと思うのです。

それは、長い期間を幼虫で過ごした昆虫が、最後に美しい姿の成虫に「変性」して、その数日後には死んでしまうのと似ていると思うのです。


人間にとって、二十歳での成人は「肉体的・物質的な成人」で、人間の本質に根差した「精神的な成人」は、実は、「老齢期」なのではないのかなと。

そんな風にも思えてくるわけなのです。


※ただし、これは『歳をとったら、威張ってもイイ』ということでも、『若者なんて、話にならん!』ということでもありません。
そんなの当たり前ですよね!



「仕事ができる」という罠



現代社会において、『仕事ができる』と言う言葉が、とても厄介な「罠」になってしまっているわけです。


現在の職場環境においては、『仕事ができる』は、誰も逆らうことのできない、”絶対的な要素”とみなされているようです。

実際に、いろいろ問題がある人であっても、『でも、あの人仕事はできるから』と言われてしまうと、誰も、それ以上の”ツッコミ”ができなくなってしまうわけです。

逆に、とても人間的に信頼できる人だったり、堅実な人だったりと言うような「価値」は、『でも、あのひと仕事できないよね』の一言ですべて”水の泡”になってしまうわけです。

私は、これが不思議でしかたないのです。

まず、私が見ている限り、仕事と言うものは誰にでもできるものにしか見えないのです。
実際、「仕事ができる人」が居なくなっても、その「仕事」が滞ってしまうということは無いわけですし、その職場が大きく変わってしまうようなこともないわけです。

つまり、他の人でもほとんど同じようなことが出来るということです。
要は、「仕事ができる人」は、それを少しだけ効率よくこなしていたというだけのことなんだと思うわけです。


それから、同期で入社した人の中で、少しだけ早く仕事を覚えた人が、『仕事ができる』と言われ、驚くべきことに、ほんの少し仕事を早く覚えたというだけの、その「仕事ができる伝説」が、定年退職するまで続いたりするということもあるように思います。

どう見ても、実質的な差はごく僅かで、イメージだけで『仕事ができる』と『仕事ができない』に分けられてしまっているようにしか思えないわけですね。

そういった現実を見るにつけ、どうして人間性がもっと重視されないのだろうか?と不思議に思ってしまうわけなのです。

私が見ていると、「仕事ができる人」の「できる」の部分はチョットで、「人をないがしろにする部分」や「傲慢な部分」の方がはるかに大きいようにしか思えないのです。

もちろん、中には「仕事もできて」人間的にも充実した人も居るのでしょうが、少ないと思います。

だって、「仕事ができれば」ほとんどのことが許されてしまうわけですから、余程の人物でない限り、だんだんワガママになるに決まっているわけです。
そして、やはり、余程の人物でない限り、それに気が付きません。


いま、とにかく、『仕事ができる』という「罠」から逃れなければ、”マトモ”な判断は下せないと思うのです。


『仕事ができる』を、何の価値もないことだと考えて、その上で見えてきたものが、その人の本質に近いものだと思います。


「仕事」なんて、みんな十分”できてる”んじゃないですか?
それ以上”できなくても”いいでしょ?
一体どんだけ差があるっていうんですか?


そんな風に思ってしまうわけなのです。




 

「空気を読む」ということ



現代社会においては、「空気を読むこと」が必要以上に重要視されているように思えるのです。
でも、それは単なる”日和見”にしか思えない場合がとても多いわけなのです。


『空気を読む』と言っていますけれど、読んでいるのは、強い立場にある者の「空気」である場合が非常に多いわけで、弱い立場にある者の「空気」を読んでも、それは「空気を読んだこと」にはならないわけです。

つまり、それは日和見的な人間が、自分の日和見的な行為を正当化するために、『空気読めよ!』などと言って、自分の日和見な姿をゴマカシているのに過ぎないわけです。


「空気」なんか読めなくていいと思うのです。
「空気」なんて無視して、やりたいようにやればいいと思うのです。


いま、必要なことは、「空気を読む」ではなくて、
「人の心に同化すること」だと思うのです。


悲しんでいる人が居たら、「自分も悲しくなること」

何かに憤慨している人が居たら、「一緒に憤慨できること」

喜んでいる人が居たら、「自分まで意味もなく喜べるということ」

そういう、感情が希薄になっているように思うわけです。


もちろん、自分自身が「喜怒哀楽」を感じることも、感情の起伏なのでしょうが、人のつながりが薄くなってしまっている現在、人の感情に同化できるということが、最も重要視されていいように思うわけなのです。

そして、そうした「心の同化」から生まれるものが、とてつもなく大きいように思うわけです。


一人の感情は一人分ですが、「同化」して、「共有」された感情は相乗的な広がりを持つのだと思います。

それに比べて、『空気を読め!』はどうでしょうか?
私は、そこに、ちっとも広がりを感じませんね。

いま、「同化」がもっと重要視されていってもいいのかなと。
そして、「空気読め!」はもっと軽視されてもいいのかなと。


そんな風に考えてしまうわけなのです。




「精神」は受け継がれることで生き続ける



他の記事で「精神世界」は「劣化しないんじゃないか?」ということを書いたんですが、正確には、「精神」は受け継がれなくなったときに「劣化」するのだと思います。


「精神世界」は物質ではないので、時間とともに「劣化」することは無いと思っているわけです。

ただし、それは、その「精神世界」の所有者本人の存在を前提にしてのことであって、本人亡き後に、その「精神」が受け継がれなくなれば、それは希薄になって最終的には消えてしまうのだと思います。


逆に言えば、「精神」は受け継がれる限り”無期限”で存在し続けるということになるわけです。
そして、そういう長らく受け継がれた「精神」と言うものには、計り知れないほどの量の情報が内包されているのだと思うのです。

だから、何かを”受け継ぐこと”によって、得られるものが、唯一人間を推し進めることが出来るものなのかなと。

そして、「精神」が受け継がれることで、「物質」が”滅びていく様”が美しくなるのかなと。


じつは、「受け継がれる精神」と「滅びゆく物質」の二つだけが、この世にあって、美しいものなんじゃないか?とすら思うわけです。


だから、その二つが一体となったものは、さぞ美しいに違いないと思うわけですね。
そういうのを目指したら、「芸術」に成るんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「その人にしか出来ない仕事」



前に書いた記事の中で、『仕事は誰にでもできるものだ』と書いたのですが、それは『だから、それでいいのだ』と言うこととも違うわけなのです。


それは、あくまでも、現在、一般的に言われている「仕事」について言ったわけで、本当は「その人にしかできない仕事」と言うのがいいと思ってもいるわけです。


ただ、そういう「職人仕事」と言うのは、組織の中での「仕事」とは相容れないものなので、現在の、組織化した社会においては、意味が希薄になってしまって、そうした「職人仕事」は、特殊なものと言う印象が強く、一般的とは言えなくなっているわけです。

出来うることならば、そういった「その人にしかできない仕事」が一般的なものになって、「ごく普通の仕事」=「その人にしかできない仕事」であって欲しいとは思うのですが、それには、まず「社会の効率化」と言う考えを捨てる必要があると思うわけです。

そして、そのためにも、”現在形の”『仕事ができる』を止めた方がいいように思うということなのです。


もう、人間は効率を犠牲にしても十分”楽して”やっていけるように思うのです。
例えば、貧富の差を均等にならしたとすればですね。

そんな中で、みんなが一つずつ「その人にしかできないこと」を持っているというのは、とても豊かなことなんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っているわけです。




人間は最終的に孤独なのか?



『人間なんて、最終的には孤独なものだ』と言う話はよく聞くわけです。
そして、その通りだとも思うわけなのです。


当然、死んでゆくときは一人ですし、その人がどのような人生を歩んできたのかも、あまり関係なくなってしまうという感じもするわけです。
だから、当然、最後には孤独であることに間違いないと思うのです。


でも、このところ『そうでもないのかな?』とも思っているわけです。


今言ったように、孤独であるということは、間違いのない事実なわけですけれど、反面、それとは逆の方向から考えて、『人間は完全に孤独になれるのか?』と言う疑問が出て来たのです。

そして、『完全に孤独になるということもできないのだろう』と思うわけです。
それもまた、事実に違いないように思えるというわけです。


人間は、社会の中でしか生きていけないものだと思いますので、社会から隔絶した暮らしをしようとしたとしても、それは、そう簡単にはできないようになっているわけです。


そう考えると、まぁ、あえて社会とのつながりを断って生きたい、または、死にたいということでない限り、そう簡単に孤独にはならないようにも思えてくるわけなのです。


結局、孤独なのか孤独じゃないのか、そのどっちなのかはわかりませんけれど、たぶん、その中間なんじゃないのかなと。
だったら、あえて孤独と言うほどでもないのかなと。


これからは、『人間は、所詮死んでいくときには孤独だから』と言う意識を持つのは、止めてしまおうと思うのです。


私は、孤独ほど恐ろしいものはないと思っていますので、これは、とてもうれしい感覚で、これに気が付いてとても良かったと思っております。

だって、孤独になろうとしても、そう簡単にはなれないということですから、私のように、孤独を恐れている人間が、孤独になるはずもないということなわけで、だったら、かなり安心していいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




学校で教えてもらいたいこと:初等教育編



人間は、ほとんど教えられたことしかしないのだと思うわけです。
だから、必要性の高いことは学校でしっかりと教えてもらいたいなと思うわけです。
(本当を言えば、教えられたことを元に自分で考えるというのがいいわけですけどね)


現在、学校教育に著しく欠けている部分と言うのがあると思うわけです。
と言っても、「もっと教育プログラムを増やしていろいろなことを教えよう!」という話ではなくて、むしろ、教えなくてもいいことがたくさんあるならば、そちらを止めてしまえば、時間は余るほどあるんじゃないか?ということなわけです。


現行の教育制度が定着してから、ずいぶん時間がたっているわけですし、もういい加減、現状のプログラムの中で不必要に時間がかけられている部分と言うのが見えてきているように思うわけです。


それなのに、ただ単に固定的な考えに縛られて、大きくプログラムを変えられないでいることが弊害になっているわけです。


極端な考え方なのかもしれませんが、音楽や体育、美術など「一応教えましたよ」と言う形式的な、教育者側の自己弁護のためだけにしかなっていないようなプログラムに意味があるとは思えないわけです。
(これは教育に携わっている人を責めているのではなく、現在の学校教育のシステムについての話です)


音楽や美術などの、興味のない人に強制的に教えても、あまり意味を持たないようなものを、完全な惰性で”ユルユル”な授業をやっても意味があるとは、まったく思えません。
(無理にでも「教えてますよ」という形を作ろうとするからそうなるのだと思います)

体育にしても、健康維持の目的はあるでしょうが、実際に成人病に成るのは数十年後なわけで、小学校や中学で、”一応やった”体育の授業が「国民の健康」にどれほど役立っているのかは疑問ですし、子供の健康を考えた場合でも、それが現状の体育の授業で達成されているとは到底思えないわけです。


これらは、何もこうした科目に限ったことでもなくて、現状で、主要な科目であると考えられているような「数学(算数)」や「国語」、「理科」、「社会」、それらのどれについても、、多かれ少なかれ言えていることではないかと思うのです。


つまり、全ての面で教育機会を均等にしようという考えに無理があるということかなと。

むしろ、こういう無理な「機会均等」が不得意なものに対するコンプレックスを生み出しているというケースの方が圧倒的に多いように思うのです。

そして、学ぶことは、日に日に増えていくのに、時間が増えるわけではないのですから、何かを増やしたのであれば、その都度何かを減らさなければいけなかったわけです。

それをせずに、野放図にプログラムを増やしてしまい、手に負えなくなると、その欲張った形態を維持したまま、それを薄めるように授業数を減らして見たりと、その場しのぎのやり方を続けてきたということだと思うわけです。


そして、その結果「学校教育に著しく欠けている部分」が出てきてしまったのだと思うわけです。


いま授業でやっていることの中で、本当に必要なことはどれほどあるのか?となると、「読み書きそろばん」的な生活に必要な「算数」と「国語」と(今は、パソコンの基礎的な習得も「読み書きそろばん」に含まれるのでしょう)、最低限の健康維持のための「体育」ぐらいではないかと思うわけです。


他の科目は、短期間で習得できてしまうような、ごく基礎的な内容で足りるように思います。
と言うか、足りなくても切り捨てるべきなら切り捨てなければ、他に学ぶことがあるのであれば、そちらを優先しなくてはしょうがないんじゃないのかなと。


先ず、「道徳」や「哲学」が完全に”抜けて”います。
『そんなものこそ役に立たないだろ!』と言われそうですが、そういう話になってしまうことこそが、それらが”抜けて”いる証拠でしょう。

「道徳」の無い社会がまともに機能するはずがないわけですし、「哲学」を持たない人が何かを生み出すことは不可能ですから、
それらが”抜けて”いるということは、他のことをいくら学んでも、それが役には立たないということです。


だから、今よりも低学年から(と言うよりもはじめから)積極的に、「道徳」や「哲学」を教えていくべきだと思うのです。

そして、それと似たようなことですが、「読み書きそろばん」の部分はできるだけ早く終えて、今よりもっと早い段階で、個々に適した専門的な教育を受ける機会を作るべきだと思うのです。
(優等生の「飛び級」とかそういうことではなく、全員が受けられる機会としてですね)

そうすれば、現行の大学を終了するのが数年は早くなるのではないかと思われます。


でも、こういうことを言うと、『それでは一部の優等生にとっては良くても、落ちこぼれる子供がたくさん出てきてしまうだろう』と言う人が居ると思いますけれど、それは、子供のことを見くびっていると思うのです。


実は、落ちこぼれる子たちは、”能力がない”子達ではなくて、”やる気がない”子たちです。

やっても役に立たないことや、自分に興味のないことを、半ば強制的にやらされているから、”やる気がなく”なって、落ちこぼれるのだと思うのです。

ここはひとつ、”子供の潜在力”を信じて、専門教育を与える時期を早めてもいいように思います。


不登校が多いのは、一面に「役に立たないこと」ばかり教えているからかもしれないなと。
そこをハショッテ、自分の興味のあることだけやっていればいいのだったら、少しは「学校に”行きたくて行く”子供」が増えるのではないのかなと。

そんな風に思っています。




学校で教えてもらいたいこと:高等教育編



前の記事の続きになります。

現在日本の教育においては、義務教育を終えた後の高等教育においても、著しく欠如した部分があると思っています。


主に大学や専門学校の話です。

教育の最終段階にあって、学問の最高機関でもあるはずの大学(大学院)においても、あまりにも”穴”が多すぎると思うわけです。
そして、そのことが一般社会に悪影響を及ぼすようにも成って来ていると思われるわけなのです。


例えば、医学部のプログラムがどんなものなのかは知りませんけれど、現在の「医療」には、完全に”モラル”が欠如してしまっていると思うのです。


現在の「医療」の状況を見る限り、「医療道徳」と言えるような分野を、独立した学問として医療教育の中に設定する必要があるのはまちがいのないことなのではないでしょうか?

それどころか、「医療における道徳」は、最も基礎の段階の、そのまた最も中心的な位置に設定されるべきだと思います。

もしかしたら、そのようなジャンルが既にあるのかもしれませんが、それが、有効に機能していたら、現状の医療の姿はあり得ないのではないかと思うわけです。


昔から「医は仁術」などと言ってきたために、それが、教えなくても初めから備わっているものと言う誤った認識で、医療教育から排除(または軽視)されてきたのかなと。

これは、このブログで主に扱っている「芸術」においても同じことが言えていて、『「芸術」とは何なのか?』と言う”ど真ん中”のところが抜けてしまっているわけです。

そうして、”ちょっとしたセンスの良さ”とか”表面的なオリジナリティー”こそが「芸術」であるという漠然とした認識の下に、芸術にまつわるすべてのことが回っているわけで、芸術教育も、またそれに準じた形で行われているわけなのでしょう。


でも、このブログでも何度も書いていますけれど、人間は、教えられたことしかやらないものなのだと思います。

だから、「医師」であっても、「教師」であっても、「政治家」であっても、「芸術家」であっても、教えられないことはほとんどできないわけです。


「道徳」を教えられなければ、「道徳的」な考えで行動することは出来ませんし、「哲学」を教えられなければ、「哲学思考」を踏んだ「理念」は構築できないわけです。
「深い思考」を教えられなければ、「浅い芸術」しか生み出されないわけです。


いま、医師や教育者に成るのに「道徳」を学ばなければ成れないというようになっているでしょうか?
政治・経済を学ぶ段階で「理念」を持っていることが問われる機会がどれだけあるでしょうか?
美大に入るのに必要なのは「芸術に対する深い考察」でしょうか?

もし、そう成っていないと言うことであれば、ほとんどの者が、それらのことを”出来ない”ということだと思います。


これと同じようなことは、どの学部でも、どの分野でも、また、大学以外の教育機関でも、言えることだと思います。


要するに、これは『木を見て森を見ず』と言う状態に成っているのかなと。

最先端の研究に目を奪われて、根幹をなしている本質的な部分が抜けてしまっているのではないのかと思えるわけなのです。


現行の大学(大学院)のような学術の最高機関においては、各分野の最先端の研究も大事でしょうが、その前に、各分野の中を”整理して割り振る”という仕事が必要になってきているのだと思うのです。

これは、何も教育を前提にした話に限らず、学問の研究が高度化・複雑化したために、一つの分野の中が、細分化し過ぎていて、一貫したものとして実感できなくなってきているわけです。

一つの分野の中でも、細分化してしまった各部分を割り振って仕分けするような作業をして、系統的にその分野を体感できるようにする必要があるわけです。

系統図のようなもので、その学問の体系を一応知っているというだけでは、現在の複雑化した学問においては、ほとんど役に立たないわけですから、先端の所でやるべき研究や学習に沿った道筋が、かなり前の段階から意識されているべきだと思うわけです。


そういう道筋を踏まずに、ごく基礎的な学習から、いきなり高度な領域に入り込んでしまうために、最先端のところで、いくら”素晴らしい研究”をしていても、それが、十分に役にたたないということに成ってしまっているのではないかと思うわけです。


ましてや、その近視眼的な状態の学問をそのまま教えられても、まだ、知識や経験のない学生が正しく理解できるはずもないわけです。


だから、各分野の中を整理して、先端に行ってから必要になることを前もって教える形で、一本の道筋としてプログラムを組んで行かないと、学問自体も、それについての教育も身動きができなくなって、一歩も前に進めなくなってしまうと思うのです。


特に教育の場においては、必要がなくなったと思える部分は大胆に削り、それで空いた部分に必要性があるものを埋めていくという作業を繰り返していく必要が出てきているということだと思います。


学問の歴史は、当然、どんどん長くなる一方なわけですから、どの分野でも、はじめから全部を完全な形で習得するには、時間がかかりすぎるように成ってきているわけです。

そして、学問の歴史はこれからも伸びていくわけですから、どっち道、何時かは”学びきれなくなる時”が来るわけです。
だったら、今やっておいた方がいいのかなと。
(学びきれなかった部分は、頂点を極めた研究者などが、後から余裕をもって学べばいいように思います)


そうして、”隙間”ができたところに、いま欠けていることを収めていってほしいものだなと。


そんなことが気になってしまう、今日この頃なわけなのです。





現在のマスコミは”情報を歪める”機関になっている?



現在、マスコミを通した情報と言うのは、ことごとく歪んでしまうわけなのです。
これは、なにも悪意があることに限った話でもないようです。

もしかすると、マスコミと言うものが「情報を歪める機関」に成ってしまっているのかも知れません。


もともと、コミュニケーションと言うのは”情報の伝達”や”意思の疎通”のことなわけでしょうが、それが「マス」+「コミ」に成ると”情報伝達(意思の疎通)を歪める”ものになってしまうということのようです。


まず、「マス」+「コミ」になると、”際限ないほどに大容量の”情報が流されるわけです。
これによって、「本物の情報」が埋もれてしまうわけです。

また、「マス」+「コミ」になると、”疑いの余地がない”情報とみなされてしまうわけです。
これによって、流された情報は選択の余地なく無条件に”ウノミ”にされてしまうわけなのです。

つまり、「本物の情報」が埋もれてしまって見つけ出せないような状態のなかで、無際限に大量に流れている情報の中の”たまたま偶然出くわした”ともいえるような情報が、”ウノミ”にされて、信じ込まれてしまうわけです。

そう考えれば、それが”歪んで”行くのは当然のことなわけですよね。


だから、マスコミの流す情報と言うのは、ほとんどが”歪んでいる”ものだという認識が必要なわけです。
そして、こういう感覚は、マスコミの側にこそ持ってもらいたいと思うわけですけれど、無理なんでしょうか?


どちらにしても、マスコミの大量な情報を排除してしまうと、あまりにも情報量が減ってしまって、とても不安に成るわけですけれども、そこをこらえて、やり過ごす方がいいように思うのです。


どうせマスコミが意図して流している情報なんて、かなりの部分で、何かの宣伝なわけですし、そういう意図や悪意がない場合でも、”歪んで”いる確立は高いわけですから、それを”生真面目に”信用しなくてもいいんじゃないのかなと。


そもそも、『情報は多ければ多いほどいい』みたいな考え方が間違っていたと思うのです。
『情報は本物であればあるほどいい』が正しかったように思います。


だいたい、「本物の情報」であれば、こんなに沢山あるはずがないでしょ。
と言うような”穿った”ものの見方も必要なのかなと。

そんな風に考えざるを得ないような、この情報の”アメ・アラレ”。
もう、よけきることは出来ません。

目を閉じていても見えてくるようなものが
”ホンモノ”なのかもしれませんね。


そんな風に思うしかないわけです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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