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「差別」と「区別」

「差別」と言うのが、わたしはとても嫌いなのです。

一番嫌いなものは何かと言われたら、間違いなく「差別」と言うでしょう。

なぜそこまで嫌いなのかはわかりません。


ところがですよ、「区別」は好きなのですね。

変ですよね。

どうも、私の中ではこの二つは全く別のもので

それほど近しいものではないようなのですね。


敢えて、この二つの関係はと言えば、

正確に「区別」ができていると「差別」が起きない、ということですね。


つまり、「区別」があいまいだと「差別」が起きて来るのかなと。

それは、どういうことかと言えば、民族でも人種でも性別でもなんでもそうですが、

違うものは違うと思うわけですよ。

それを無理に一緒くたにして扱おうとすると、相手と自分を同じように看做してしまうから、

相手が自分と同じようにしないと、腹が立つわけです。


そこで風俗習慣が違うことなどから「差別」が生じるようになるのだと思うのですよ。

だから私は前もって、できる限り厳密な「区別」をしておくことで

かなりの「差別」は防ぐことができるのではないかと考えているわけなのです。

もちろん、完全に凝り固まった「差別主義者」というのもいて、

その人たちの「差別」には、こんなことでは役に立たないですけどね。


でも、実は、今はもう「差別主義者」というのはかなりの少数派かなと。

だから、一般的な人たちに「差別」が起きないようになれば、

かなり防がれるんじゃないのかなと。


そして、そんなことから、私はどんなことにおいても、「範疇区分」を重視してしまうのです。


「区別」によって、いろいろな弊害が防がれるんじゃないかと、

そして、「区別」をないがしろにしているとと、

とんでもない所に着地する結果になるんじゃないかと、
(たとえば、何の問題もない所に「争い事」が起きたりですね)

私には思われてならないのです。




「自信」なくてもいいと思うのです

「自信」というと、当然のように「私は〇〇ができる」

と言うことが前提になっているみたいなんですけど、

この「私は〇〇ができる」は、

私には本当の「自信」だとは思えないわけです。


だって「できなく」なれば消えてしまうわけですから、

それほどしっかりした「自信」とも言えませんよね。


ところが、それに反して「できなく」ても平気で「自信がある人」もいるわけですね。

たぶんそういう人は、常に肯定され続けて育った人なんでしょうね。

彼らにはおそらく、「自信」の失くし方が解らないんだと思うんですよ。


「できても」「できなくても」肯定されてきたから、

どうして「自信」を失う人が居るのかが理解できないのでしょうね。


そして、たいていの場合、この「できなくても平気」な人が「できる」ようになるのです。


まぁ、無条件に最初から「自信」満々なんで、実力を発揮しやすいわけですよね。

こう書いてくると「やっぱり自信があった方がいいんじゃないか!?」と成りそうですけれど

じつは、この無条件の「自信」も続かないわけですね。


だって、人からもらったものですから、

それに、その「自信」をくれた人たちは、先に居なくなってしまいますから、

そこから先は、だんだん枯渇してくるわけですよ。

それでも「自信」ありげにしている人は、虚勢を張ってごまかしているわけですね。


だから、もう、そんな頼りにならない「自信」なんて無くてもいいと思うのですよ。

「自信」が有っても無くても、たいした問題じゃないと思いますね。

と思えれば、それが本当の「自信」かな?などと思うのです。


ただ、なかなかそう思えないのが、問題なわけなんですけどね。





「ポジティブ」と「ネガティブ」

今はどちらかと言うと、いや、はぼ完全に「ポジティブ」が支持される時代かなと。


「ネガティブ」と言うと批判されるか、言い訳のような使い方をされることが多いと思うのです。

「どうせネガティブですよ」みたいにね。


わたしとしては、中間が好きなのです。

「ポジティブ」と言うといいように聞こえるのですが、

「ちょっとそれは無理なんじゃないの」的な「ポジティブ過ぎ」が多いのです。


例えば、自分の子供が学校で、かなり悪質な感じでいじめられているのに、

「そういう状況下でも生きていけるように学ぶいい機会だ」

と言っているお母さんが居たのですが、これはどんなもんなんでしょうかね。


そういう「ポジティブ・シンキング」から何か生み出されることはあるのでしょうか?


「無いと思います。」


たとえば、「謙遜」はある意味の「ネガティブ」だと思いますが、わたしは好きです。

西洋的な思考では、あまり理解されないのかもしれませんが、

日本人はこれで、いいんじゃないかなと。

と言うよりも、西洋のほうに普及していってもいいようにも思ったりしますね。
(西洋に限りませんけどね)

こういう気持ちが生み出しているものは、実は計り知れないくらい大きいのかなと。


どちらにしても、極端すぎると「?」がだんだんふえていくように思うのです。

そして、「現在」は明らかに「極端にポジティブ過ぎ!」ですね。

もう少し「批判精神」とか「悪いものを否定する勇気」のような

「イイ・ネガティブ」を見直していったら少し良くなるんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。


「人間」は、まだ「人間未満」だと思うのです

「人間」と、簡単に言ってしまっていますけれど、

実は「人間」っていうのは、まだ完全に「人間」に成れていないようにも思えるわけなのです。

きっと、言葉の上で「人間」と言った場合と、「実際の人間」がだいぶ違っているのではないのかなと。

つまり「実際の人間」は、まだ「人間未満」なのじゃないのかなと。


例えば、イジメや犯罪について「そんなことは人間のすることじゃない!」なんて言ったり、

常識や道徳を守ることについて「人間として当然のこと」と言ったりするわけですけれども、

これ「実際の人間」に当てはまってると言い切れるんでしょうか?

「人間として」なんて、当たり前のように言っちゃってますけれど、

そういうときの「人間」っていうのは、かなり「理想化された人間」だったりするわけなのです。

「人間として当然のこと」が「当然できる」という人が、そう沢山は居ないわけですね。

「人間のすることじゃない」はずなのに、結構みんなやっちゃうわけですよね。


まぁ居ますよ、そういう人もね、たぶん居ると思いますよ。

「当然のことが当然できる人」や「やってはいけないことは絶対やらない人」ね、

でも思っているよりは相当少なくて、かなりの「偉人クラス」じゃないんでしょうか?

普通の人は、ちょっとしたプレッシャーが掛かったりするだけで、すぐ「やってしまう」わけですよ。

「人間じゃない」をですね。


これはもう仕方ないと思うのです。

『まだ「人間」が、そこまで来ていないんだ』ということかなと。

だから、『まずは「人間未満」であることを認めましょう!』と思うのです。

自分も他人も敵も味方も、皆「人間未満」なわけなのです。


これからは、「いい人:悪い人」・「できる人:できない人」・「偉い人:ダメな人」・「頭がいい人:アホな人」

なんかじゃなくて「人間に成ろうとする人:既に人間だと思い込んでいる人」なのではないのかなと。


今ある状態から、「自然に与えられたものとは言えないような意志」を使って

「何かになろうとする」ということこそが「人間」を「人間」と呼べるところなのかもしれないですよと。

そんな風にも思えるわけなのです。



理想的な通貨:(妄想です)

タイトルの通り、私の妄想なので現実味のない話になりますけれど、

私は、全てのものに期限があればいいと思っているのです。


例えば、お金の価値とか、金(ゴールドの方ですね)や宝石とか、土地とか、

とにかく、ありとあらゆるものの価値に期限が付けられたら、すごくいいんじゃないかなと思っているわけです。

なぜかと言えばですね、世の中に「絶対的なもの」というのは無い方がよいのじゃないかと思うんですね。

というよりも、「絶対的なもの」なんて本当は無いと思うんですよね。

ところが「無期限の価値」というのは「絶対的なもの」に成ってしまうんですね。

そうなると、人間がそれに蹂躙されてしまうと思うわけです。

「お金」なんて典型的ですよね。


でも、その「お金」に期限が設定されていたらどうですかね。

期限が来れば価値がなくなる(徐々に減少する)としたら、もう絶対的ではなくなるわけですよ。

そして当然、価値が在る(高い)内に使おうとするから、消費が拡大するわけですよね。

それから、価値を代々受け継ぐことができなくなりますから、極端な貧富の差もなくなるかもしれないですよ。

お金に限ったことでもなくて、土地なんかも期限があれば有効活用される率は高くなるような気がしますね。

それにバブル経済というのが、無くなると思うのですよ。

つまり投機ということができなくなるわけですね。


それから、お金を早く使わないとならなくなれば人が欲しいものをいつも見つけようとしますから、

とても好奇心旺盛な世の中になるのじゃないのかなと。

そして、どうせお金を残してもしょうがないから高くても本当にいいものを買うようになるでしょうね。

安物を買って、お金を残しても意味ないですからね。

つまり「悪貨は良貨を駆逐しなくなる」わけですね。


「おぉ、いいことばっかりじゃないですか」

問題は、実現できないということだけですね。

だから妄想なんですけどね。


でも、こんなような考え方を少しでも基盤において、政治や経済を回していってほしいかなと。

それに、現在のあらゆる技術を駆使すれば、それに近いこともできるのかもしれないですしね。

実はデジタル技術やインターネットというのは、こんなことを達成するために生まれたものではないのかなと。

それに気づかないで、見当違いのところでウロウロしているのかもしれないなと。


まぁ、そんな風にも思っております。

間違えました。 そんな風に妄想しております。





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「本能」と「欲望」の違い

「本能」と「欲望」は、ときには似たようなものとして扱われることがありますけど、

実はかなり違うものだと思うのです。

それから、「欲望」は「本能」の中の一つ、というのも少し違うように思うわけなのです。


「本能」は人間(ほかの動物でも)が、生まれながらにして既に与えられている、

情報やそれに基づいた「衝動」といってよいのかと思うのですけれど、

「欲望」の方はというと、「本能」のような人間がもともと与えられている「衝動」を元にはしているけれど、

その「元になっている衝動」を、後天的な自己の「意図」や「意識」によって、

塗り固めて行った末に出来上がったものだと私は考えています。

そして、さらにはその塗り固めた方の要素こそが「欲望」の本質であると考えるわけなのです。

まぁ、あくまで私の考えですけれどね。


当然塗り固めたものが腐敗しているものであれば、

最終的には芯にあった「衝動」までも腐ってしまうわけなのです。

それがいわゆる「欲に溺れた」状態なのかなと。

ただ、よほど腐りきった状態でなければ、そこまではいかないので、

中心に残っている「衝動」(これはほとんど「本能」に基づいていますから)

と同じように扱ってしまいがちなわけなのです。


例えば食欲は「本能的」ですけれど、「食べ物を手に入れよう」と言うのは「欲望」が塗られているというわけです。

でも、この時点では、区別されにくいわけです。(ほとんどその必要もないので)

そこで更に、人のものを奪ってでもそれを手に入れようとすれば、その「欲望」が腐敗しているわけですね。

ここでかなり区別されるようになって来るわけです。

それでも、こういうことを言うと『世の中は「弱肉強食」なのだからそれを悪く言うのはおかしい』

というようなことを言う人がよく現れて出て来るわけですが、

それがまさに「本能」と「欲望」が混同されているということではないのかなと。

しかも、言われた側の人も同じように混同している場合は、

なんとなく釈然としないながらも、認めさせられてしまうことにもなるわけなのです。

そうやってまた、この『「弱肉強食」だから悪くはない』という説が、

社会の中で強化されていってしまうというわけなのです。


でも、これは大自然の摂理のようなものであってライオンは「意図」や「意識」でもって

シマウマを襲っているわけではないわけです。

つまり、ここでは「本能」に近いものしか使われていないのです。

人間には、これはあり得ないと思うんですよ。必ず「意識」が入ってしまうわけですね。

「智」を持ってしまっているということでしょうか。

だから、こちらは「欲望」と言わざるを得ないわけなのです。


それ以前に、「あんた、いつから大自然の中のライオンになったんだよ?」っていう感じですか。

さらに言えば、

「どっちかって言えば、おまえライオンじゃなくてハイエナだろ!」っていうときもあったりしますね。


いずれにしても、「欲望」は人間が「智」を持つが故のものなわけですから、

その「智」を使えば「欲に溺れる」ようなことには成らないのかなと。

ただし、こういうことをいちいち人に言うととても嫌がられます。

あしからず。

  ※ここで言うハイエナとは食物連鎖の中での順列を示すために用いたもので、
    ハイエナが嫌いなわけではありませんので、こちらも、あしからず。



【民主主義=多数決】 と言う公式は、もう考え直した方がいいのでは?

これまでずっと、民主主義の根底に「多数決で事を決める」というのがあったわけですけれど、

これはもう成り立っていないことが、はっきりして来ているんじゃないのかなと思うのです。


多数決と言っていますけど、実際に多数決をとることが全くできていないわけで、

実態としては、今行われている政治がどれだけの人に支持されたものであるのかは、

もう誰にもわからないものになってしまっているわけなのです。


それでも、そのシステムに頼り切っているために、

「多数決」と「民意」はどんどん乖離していく一方なわけです。


だから、何か代替案を導き出さなければいけないと思うわけです。

それをすることが、いま政治にできる数少ないことではないでのでしょうか。

政治家や学者が寄り集まって、一生懸命考えれば、

きっと何らかの策が浮かんでくるのではないのかなと。


正直言えば、それらの策にはほとんど期待が持てないわけですけれど、

それを考えることや実行してみることで、現行の民主主義と言われているものが

如何に民意からかけ離れたものであるのかが、洗い出されて来れば

どこが問題なのかぐらいはわかってくるのかなと。


そして、そこからどう対処するのかが本題なわけです。

でも、それは少し話が大きくなりすぎるので、やめて置いた方がよさそうですね。

私がいま思いつくことは、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立させなければ

【多数決=民主主義】も成り立たないということなのです。


「全員投票」を強制的に行おうとすれば、結果的に「匿名性」が失われてしまうでしょうから、

「政治的な意思の表明」を個人に対して強要することに成ってしまいます。

      ※強制であるということは、投票が実行されたことが確認できなければ意味がないので
       全員が投票したことが確認できるようなシステムが必要に成るでしょう。
       おそらく、そこから「匿名性」が崩れていってしまうように思います。


でも、「多数決」は基本的に全員が投票することを前提に成り立っている制度なわけですから、

全ての人が投票しなければ、「多数決」でも、なんでもないわけで、

そこを何とかしなければ「民主主義」とは名ばかりで実体は無いも同然なわけですね。

極端に言えば、「民主主義」は立ち上げられたまま、まだ実行に移されていなかった

とも言えるのではないでしょうか。


そこで、思い当たるのは「裁判員制度」や「陪審員制度」のようなものかなと。


もしかすると、人数を限定して、形だけに成っている「全員投票」を捨てれば、

「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立できるのではないのかなと。

       ※こちらも「匿名性」については、完全には確保できないかも知れませんが、
        少なくとも「投票の義務」については、ほぼ確保されるでしょう。

とまぁ、そんなことも考えるわけですが、

もしかすると、今の状態が、国を動かしている人たちにとって

結構都合がいいのかもしれませんよね。


だとしたら、「変わるわけないじゃん」ですよね。

これが一番濃厚な説かも知れません。





「人間性への愛着」

私はどうも「完全なもの」よりも「不完全なもの」の方に惹かれてしまう傾向があるのです。

それは一言で言えば「人間的なもの」ということなのかもしれません。


矛盾した言い方になってしまうのですが、「不完全なものの中の完全性」とでもいうような、

「崩れ具合が完璧」みたいなのがあると思ってしまうわけなのです。

それから、どうも「完全無欠」なものと言うのが好きになれないと言うのもあるのです。


いずれにしても、そこに「人間性」が見えてきたときにこそ感情移入できるわけですね。

ただし、この「人間性」というのは「人間賛美」の対象となるようなものではなく、

もう少し「不完全性」を強調した意味での、弱くて、さほど美しくもないような「泥臭い人間性」なわけです。

そして、そういう冴えない感じのものが、時として美しく見えたりするのに惹かれるのだと思います。


そして、私はそこに「人間への賛美」ではなく「人間への愛着」を感じているのだと思っているわけです。

「愛着」だから、それ程いいものである必要もないのかなと。

まぁ、そんな風に思っております。



「組織」には意思があると思うのです

ある法則や規則に基づいて集団が形成されれば、それを「組織」と呼ぶことができるのかと思います。


社会性を持った動物や昆虫などもいますから、

人間には限らないのではないのかなとも考えるわけですが、

まぁ、一応、ここでは人間の「組織」ということで。


そこで、よく感じてしまうのは、「組織」の実態はそれを形成している個々の人間なわけですが、

その個々人の意志や意向と、一致しているとは思えないような「組織の意思」と言うものが、

「個人の意思」とは別個に、かなり独立した形で、存在しているということなのです。

もちろん「組織」を形成している「個人の意思」が、全く反映しないわけではないと思いますが、

複数の「個人の意思」が集団内で統合されて一つの決定や判断になっていく過程で、

それが、「組織の意思」に成り変わっていくのかなと。

そしてさらには、その「組織の意思」が「個人の意思」とは

全く別の方向性を持ってしまうことも、しばしばあるように思うのです。


国家や会社などの公的なものから、家族や友達のグループなどの私的で少数のものまで含めて

ありとあらゆる「組織」において、この「組織の意思」が働いていて、

それが、その構成員である一人一人の人間の意思をある意味で無視して、

決定や判断を下しているとしたならどうなんでしょう?


「個人の意思」が無視されるわけですから、当然不満が出るのでしょう。

そして何よりも、そこに本来の「意思」はないということが問題に成って来るわけなのです。


「組織の意思」と言っても、それは「誰かの意思」ではないので、

そこには「意思」としての方向性や統一感は、もともとないわけです。

だから、「組織」内での話し合いの結果「??・・・」という感じの

意味がわからないような結論が導き出されてしまうことがよくあるのでしょうね。


そしてこれが言いたいのですが、ひとたび「組織」によって下された結論となったものは

「個人の意思」で翻すことが難しくなってしまうということなのです。

たとえ、それが、明らかに間違っていても「組織」が下した判断には

従わなければならなくなってしまうわけです。

ある法則や規則に基づいて形成されたのが「組織」ですから、

その法則や規則に従わねばならなくなるわけなのです。


これは、おそらく民主主義が抱えている決定的な問題ではないのかなと。

この場合「多数決」や「話し合い」はあまり役に立たないわけです。

もちろん、それらのやり方が功を奏することは多いのでしょうが、

意外と、それらが〝困った結論"を導き出してしまうことも多いのかなと。

これらのようなケースでは、大抵「まぁ、みんなで決めたことだから」と言って

諦めるというのが、常套手段になってしまっているのが現実でしょう。


これに対して、どうすればいいのかは、そう簡単に思いつきませんが、

取り敢えず、この「組織の意思」と言うものが独立したものとして存在して、

それが自分たちの意思とは無関係の勝手な結論を突き付けて来ることがあるということを、

忘れずに意識していることだけはできることなのかなと。


とにかく、政治や世界の情勢なんかを見聞きするたびに、

いやいや、もっと身近な夫婦喧嘩や、親子や友達同士の間の諍いなどにおいても、

これは、いったい誰の意思でこんなことに成ってしまったのだろう?

というのがとても多いように思ってしまうわけなのです。


そして、それが、もしも実体のない「意思」によって仕向けられてしまっているものだとしたら、

こんなに、バカバカしいことは無いんじゃないのかなと。

そんな風に、思ってしまうわけなのです。





「前向き」ということについて

「前向き」と言えば、当然いいことということに成っているわけですけれど、

私といたしましては、これに若干の異議があるわけなのです。


まず、最初に感じてしまうのは「〝無理してる"んじゃないの?」ということなのです。

だいたい、自分の状態が「前向き」なときに、あえて「前向き」は使わないんじゃないのかなと。

やはり、落ち込んだり自信がなくなったりして、「後ろ向き」になりかけた自分を

鼓舞したり、立ち直らせようとして「前向き」と言うのじゃないのかなと。

つまり、「負」を「正」に、「マイナス」を「プラス」に転じるためのキーワードとして使われているのじゃないかなと。

でも、世の中に「負」や「マイナス」がないわけはないのですから、

すべてを「プラス」に転じるのには、ちょっと無理があるように感じてしまうわけなのです。


むしろ本当に大事なのは、と言うよりも、実際に有効なのは、

「負のスパイラル」に入ってしまわないようにすることだと思うわけなのです。

「負」を「負」と認めたうえで、それをもっとよく見つめて、より正確に把握しないと

「負」が無制限に拡張していって、「スパイラル」の状態になってしまうのじゃないのかなと。


もちろん、もともとの性質によって、そうならない人もいるわけで、

そういう場合は、「前向き」も有効なんだとは思うのです。

だから、そういう人が言っている場合は、あまり気にならないし、いいことだとも思うのです。


ただ、もう一つ気になるのは、マスコミやインターネットで流されている「情報としての前向き」です。

私の記憶では、高度成長期には「前向き」と言う言葉は、今ほど使われていなかったような気がします。

むしろ景気が低迷し出してから、「前向き」が増えているような気がするわけです。

そして、それとは正反対の意味で、「前向き」が増えていくのと同期するように

自殺などの「悲惨な死」が増えているように思うのです。

私には、自殺や幼児虐待の結果幼い子供が親に殺されるような「悲惨な死」は、

どうしても受け入れられないし、耐えられないし、そこでは「前向き」が役にたつとも思えません。

統計上の数字などは知りませんが、少なくとも、「前向き」とは裏腹に

世の中全体が、このところかなり暗いようにも思うのです。(少なくとも日本では)


もちろん、この言葉を使っている人たちには、そんな意味で使っている人は少ないのですが、

「前向き」には、結果的に、相手にそれを強いる性質があるようにも思えるのです。
(もちろん、個人がこの言葉を使うことを非難するつもりはありません。あくまで、社会の通説として、一方的に大量に流される「情報としての前向き」に限ってのことです。)


でも、私は「後ろ向き」でもいいように思うのです。

それは、そんなに暗いことでもないように思うわけです。

ただ、「情報としての前向き」が、これだけたくさん流されてしまうと、

それとの対比において、どうしても「後ろ向き」=「暗い」=「マイナス」=「不要」

となってしまうので、『「前向き」でなければいけない』になってしまうのかなと。


ということで、私といたしましては、このような「悲惨な死」は受け入れがたいのです。

すべて、無くなってほしいです。

一度も聞きたくも見たくもありません。

せめて身近で、このようなことを頻繁に見聞きするような状態からだけは、脱してほしいと思っています。


本当は、「前向き」でも「後ろ向き」でもどっちでもいいと思うのです。

前でも後ろでも、そんなことは関係ないと思うわけなのです。

どっちを向いていようが、その人が立っている位置に変わりはないし、

そこが、悪い位置であっても、それはその場所の話であって、

その人が悪いとは限らないわけなので、

その場合、向きを変えたりする必要は特にないようにも思うのです。


その立ち位置は、替えられれば、それに越したことは無いのでしょうが、

それは、本人が一番よく分かっているということが、ほとんどだと思います。  

わかっていても、できないということなんじゃないでしょうか?


そんな中で、何よりも受け入れがたいたいのは、「情報としての前向き」がさらに増え続けて、

それと比例して、「悲惨な死」のグラフが上に伸び続けることなわけなのです。


私は、これを拒否する。

「いつの時代もそういうことはあるのだ」というのであれば、

私は、すべての時代を拒否する。

これを受け入れるつもりはない。

と言うことです。




「自信」について

「自信」と言う言葉について、それは自分で勝ち取るものだという考え方と、

それは人から与えられるものであるという考え方があるように思うのです。


「自信」は自分で獲得するものであるとした方が、納まりがいいように思うのですけれど、

「自信」の中でも、絶対的な「自信」みたいなものと言うのは、自力では獲得できないように思うのです。

やはり、普通は誰でも人から褒められれば「自信」が付きますし、

貶されたり、相手にもされなかったりすれば、それは徐々に失われていくわけです。

そんな中でも揺るがない「自信」と言うのは、なかなか自分では養えるものではないように思います。

それが天性のものなのか、幼いうちに、どこかで与えられたものなのかはわかりませんが、

そういう絶対的ともいえる「自信」を持った人というのも、確かにいるのだと思います。


でも、私はそういう〝スーパー"な人よりも、ごく普通の人の方により興味があるので、

やはり、「自信」はその都度与えられるものであるという方の説を取ってしまうわけなのです。

まぁ、私自身が何を言われても動じない「自信」なんて持ったことがないということですね。


私がやっと持っていられるのは「できなくてもいいじゃないか」という

「自信」と言えるのかどうかも、怪しいような感じの「自信」ですけれど、

普通の人間が、自力で自分に与えられる「自信」はこれぐらいしか無いと思うのです。

これぐらいだったら、その都度人から与えられなくても自前で何とかまかなえそうな気がします。


だいたいが「できる」「できない」で人の価値を判断しすぎるように思うのです。

何かができても偉いとも思いませんし、

何かができないからと言って、その人をダメだとも思いませんが、

どうしても、そこに価値基準が偏ってしまうので、

「できる」と「自信」も付くけれど「できない」と評価されないから「自信」も失う。

当たり前と言ってしまえば、それまでなんですけれども、

そこで、人間性が抜け落ちてしまう傾向があるように思うのです。


だから、私は「自分は悪い人間ではないから、それぐらいで十分だから、できなくてもいい」

と思っているわけです。

それ以上に立派な人間になりたいとは思いませんし、

そういう立派な人と言うのは、居ると言われてはいますが見たこともないし、成れるとも思いませんから、

このぐらいで十分だというのは、私にとってはやはり「自信」の一種なわけです。


そして、こういう「自信」も結構好きです。



「協調」と「妥協」

「協調」することと「妥協」することは、ずいぶん違うことだと思うのです。


二つの意見が、一致せずに対立したとき必要とされるのが「妥協」と言われるわけですけれど、

実は本当に必要なのは、「協調」なのではないのかなと。

個人的な解釈ですが、私は、「妥協」と言うのは「重要でないことを適当にやること」だと思っているのです。

それに対して「協調」は、二つの意見を、お互いに理解して尊重し合った上で、

調整していくことだろうと思うのです。


重要でないようなことには、「妥協」で十分だと思うわけです。

自分に対して「妥協」した場合でも、相手に対して「妥協」した場合でも、

重要なことでなければ、適当に折れても大した問題にはならないように思うわけですね。


でも、これが重要なことに対してだと、「妥協」では不十分になってくることが多いと思いますね。

自分で納得していないのに「妥協」してしまったり、

相手の言うことを理解してもいないのに、面倒臭くなって「妥協」してしまったりすると、

多かれ少なかれ、あとになってから、たいてい後悔することに成るのかなと。


やはり、そんなときには、とても面倒なわけですが、

相手の意見を理解できるまで聞き、自分の意見も伝わるまで言い続けると言う、

かなり遠回りな方法が必要になってくるように思うのです。

しかも、それからさらに理解し合った意見を調整する必要があるわけですから、

こういう「協調」には、相当の労力を要するわけですよね。


その結果として、通常「妥協」が使われてしまうのだと思うのですけれど、

ここでの「妥協」が、それ以上に大きな後悔や労力を生む場合が多いので、

重要なことには、「急がば回れ」で「協調」を使った方がいいように思っているわけですね。


そして、もう一つ言えることは、「妥協」は何も生み出さないけれど、

「協調」は、何かを生み出す可能性があるということかなと。

「妥協」はどちらかが一方的に折れるだけですから、何かを生み出すことは、まずないと思いますが、

「協調」して、二つの意見がうまくかみ合ったときには、新たなものが生まれる可能性はあると思うわけです。

そんなにうまくいくことばかりではないにしても、

「協調」の結果の結論と言うのは一つの進歩ではあるように思うのです。


ここでの、問題は「協調」する気がない人と言うのが居ることなわけですけれど、

そんな人に対して「妥協」したとしても、いい結果が得られることは無いのでしょう。


それにしても、世の中が「妥協させる人」と「妥協させられる人」に分かれてしまっているように思うのです。

「協調する習慣」が、もっとあってもいいのではないのかなと。

そんな風に思っているわけなのです。




「ネット弱者」は切り捨てられても仕方ないのでしょうか?

インターネットを利用したブログの中で言うのもなんですが、

このところ「ネット弱者」と言われるような人たちは、

切り捨てられても仕方がないという風潮を感じてしまうわけなのです。


わたし自身、どちらかと言えば、そちらの部類に入っている者ですから、

よくわかるのですけれど、「これができないと、あらゆることがやり難くなりますよりますよ!」

という社会のメッセージを、ヒシヒシと感じてしまうわけなのです。


この媒体が、これからの社会に必要なのはわかっているのですが、

もう少し緩やかに移行してほしい、という気持ちも捨てられないわけです。

パソコンやインターネット、及びそれらにまつわるサービスの類は、

全般的に言って、まだまだ完成度が低いように思われるのです。

未完成の見切り発車的なものを、一方的に押し付けられているという感じは否めないのではないのでしょうか?


よくわかってもいない者が、言っても説得力がないかもしれませんが、

とにかく不具合や、システム障害、情報流出、不正利用など、トラブルが多すぎるし、

そういうことも含めて考えると、効率が良いのか、かえって悪いのかがよくわからなくなる時があるわけです。


それからパソコンやインターネットを使うのが得意だということが評価されて、

それができないと、バカにされるという状況も、あまりにいき過ぎているように思うのです。

第一、「パソコンが得意だ」と言う人が、よくよく聞いてみると、

私などと、そう大差のない状態だったりすることもよくあるわけで、

それなのに、「パソコンが得意だ」と言って、ハッタリでもなんでも、

自信ありげな態度でいれば、往々にして、それが通ってしまうわけなのです。

それだけ、多くの人が使いこなせていないということではないのかなと。


実際、パソコンとインターネットをフルに活用できる人となると、

専門家か、それ自体が趣味で、パソコンをいじることが楽しくて仕方がないような人

ということに成ってしまうのではないでしょうか?

自分も含めてほとんどの人が、ごく一部の機能を使って満足しているのだと思うのですが、

本来は、ここまで多機能である必要はなくて、

それよりも、誰もがもっと楽々使いこなせるような製品を開発してから普及させるべきだったと思うのです。


まして、現状のように社会全体に、パソコンやネットが使えないことが無能であるかのような空気がある以上、

もっと使いやすい製品を普及させるべきだと思うわけです。

パソコンのメーカーやインターネットサービスを提供している企業の運営方針が

「ネット弱者」を生み出している責任は、かなり大きいと思うのです。


それなのに、なんで利用者側が、そうした企業に対して寛容なのかと言えば、

だれしも、「できない側」に回されたくないからでしょう。

臆せずに、「できない側」の意見を、

「もっと使いやすくしろ」

「もっと意味のあるサービスを提供しろ」と言っていいように思います。
(あくまで、出来ない者の意見ということです。出来る人の意見は沢山ありすぎるほどですから)


そして、もうそろそろ、企業の側も、新しいサービスや機器のスペックを上げることは一段落して、

むしろ、無駄な機能をそぎ落とすことで、「弱者救済」をお願いしたいなと。

そんな風に思っているわけなのです。



「自由競争」が「不自由」を作り出していると思うのです

資本主義経済や自由主義経済の基本をなしているものに、「自由競争」の原理があるわけですけれど、

現在の社会においては、〝自由な競争"が〝不自由な状態"を招いているように思うわけなのです。


そもそも、「自由競争」は、自由に競い合うことで、

人や企業の「ベスト」を引き出すことができるという考えに基づいて

採用されているものだと思うのですけれど、現状は、そうなっていると言えるでしょうか?

確かに、過去には、それが最良のパフォーマンスを引き出していたのでしょうが、

現在においては、競争原理が、人や企業の「拘束」になってしまっていることの方が

多いように感じてしまうわけなのです。


過去においては、企業も人も自己の行動や仕事や製品に価値基準を持っていましたし、

それらのクオリティこそが、「自由競争」の争点であったわけですが、

資本主義経済が極端に進んでしまった現在、

それらは、すべて資本である、お金に置き換えられてしまっているわけで、

より多くの資本を集めること、より多くのお金を稼ぎ出すことが、争点になってしまっているわけなのです。


そこでは、当然のこととして、個人においては「人格」や「感性」はないがしろにされがちですし、

企業においては、「品質」や「社会貢献」は二の次にされてしまうわけなのです。

例えば、「品質」が低いのに売れるものが、企業にとっては、最も儲かるもので、

「品質」が高いから売れるものは、コストパフォーマンスの落ちるものという扱いになってしまうというわけです。

そして、現在形の「自由競争」では、常に最も儲かる選択をした者が勝者となりますから、

どうしても、即時的にお金や、数字に換算されにくいものは、競争によって排除されていってしまうわけなのです。


それでも、それで幸福になったり、進歩発展したりするのならまだいいですが、

「生産者にとっての勝利」が「消費者にとっての不遇」

「個人にとっての勝利」が「その周りの人にとっての不満」

になってしまうのであれば、その競争には何の意味もないわけですし、

まして、「生産者」と「消費者」や「人」と「その周りの人」と言う立場が、相互に入れ替わるということを考えれば、

その「自由競争」は「不自由な拘束」でしかなくなっていると言わざるを得ないわけなのです。


もう、競争によって進歩する時代は終わっているのではないのかなと。

競争が一切必要ないとまでは思いませんが、

原理としての「自由競争」は、現在では成り立っていないのかなと。


究極の競争ともいえる戦争ですら、お互いに相手の顔色を見ながら仕掛けたり、

それをスカシたりしている世界情勢の中で、

「自由競争」に没入することというのは、言ってみれば「核のボタン」を押すようなもので、

誰の得にもならない無益な選択になってきているのかなと。


だから、いち早く競争から離脱して、「協調」の道を選びましょうよと。

でも、「協調」は一人ではできないわけだから、

みんなで「「協調」すれば、そこにもまた切磋琢磨は生まれるわけで、

そこで、競争すればいいんじゃないですかと。


そんなことを、世界に向かって小さい声で言ってみたりもする。




「上下のない世界」

前にも書いたことなのですが、私はとにかく差別や格差と言うものが嫌いで、

なぜかは、自分でもはっきりしないのですが、生理的な嫌悪感に近いものを感じてしまうわけなのです。
(正義感や道徳心からきているものとも違うように思います)

だから、もしも世の中が上下のないフラットな世界に成ったら、

きっと気持ちがいいだろうなと思ってしまうのです。

もちろん、それが実現できるようなものでないことはわかっていますけれど、

年齢、性別、人種、地位、などありとあらゆる階層の人が、

ほとんど段差の無いような状態で、気軽に話し合えたり、

交流できたりしたら、本当に自由だと感じられるのではないのかなと。


何も、つるつるにフラットな状態である必要はないのです。

緩やかな上下があってもいいと思うのです。

その段差が、気持ちよく乗り越えられるものであったり、

試しに上ってみるのに丁度良いと、感じられる程度のものであればいいのです。


私は、そんな世の中に居られたら無条件に上機嫌でいられるように思うのですが、

もし仮にですけれど、そんな世の中が実現したとしても、

やっぱり、そこからも差別や格差と言うのは、生まれてきてしまうのでしょうか?

みんなが自由で、上機嫌でいられれば、差別や格差を生み出すような

ストレスやコンプレックスがなくなって、

差別や格差が生み出されることもなくなったりしないのだろうかと、

そんな風に考えてしまうわけですが、難しいのでしょうね。


でも、絶対できないでもないのかなと。

5~600年くらい、経ったら、できるかもしれませんよね。

でも、そのときには、また別の「何か(=問題)」が現れているのでしょうか?


それにしても、上下の差なんて本当は初めから何処にも無いわけですから、

そういう人間の妄想の中で創り出された「負の要素」なんて、

あっても何の役にも立たないと思うのです。

と言っても、昔と比べれば、ずいぶん格差は小さくなっているし、

差別もあからさまではなくなってきているわけですけれど、

やはり、私としては、気軽に乗り越えられる程度の段差までになってほしいのです。


だから、「あれ、気が付いたら結構、世の中フラットになってるよ」なんてことが、あったらいいなと。


そういう幻想に浸ってみたりもする。

と言うわけなのです。




現代社会は絡まり合った「多重規範」

ダブルスタンダード=二重規範と言う言葉がありますが、

現代社会は、単なる二重規範ではなくて、より複雑化した「多重規範」だと思うのです。


規範が統一されていないために、判断の基準が曖昧になって、何が正しいことなのかが見えにくくなる

と言うのがダブルスタンダードが生み出す弊害かと思うわけです。

こういうことだけでも、かなりの害なわけですけれど、

現代社会においては、あらゆる場面において複数の規範が存在していて、

さらに、それらが世代から世代へと受け継がれていったことによって、

絡まり合って、ほぐしようもないほどに、混線している状態と言えるのではないでしょうか?


二重規範までは、まだ何とか理解できるものだったと思うのです。

例えば、「本音と建前」などのように、これは本音でこちらは建前というように、

それを言っている側も、言われている側もわかって使っているものであれば、

なんとか使い分けることもできるし、もしも、うまく使い分けられなくても、

二つの規範しか無いのであれば、それをなんとか理解することだけはできたわけです。


ところが、その二重規範が時代の中でさらに多様化して、「多重規範」と化したものが、

世代を跨いで受け継がれていくようになってしまっている現代では

もう、どこからどこまでが、どういった規範に基づいたものなのかも、

いったい幾つの規範が、そこに関わっているのかも、

解らないような状態になってしまっているように思うわけなのです。


ここで、一番困るのは、こういった状況の中では現状がそういう意味不明の混沌とした状態であることを

理解しようとすると、とても行動し辛くなってしまうことなのです。

その辺を曖昧に捉えて、見ないようにしていくとあまり気にもせずにいられるようなことが、

真面目に筋の通った考えをもって行動しようとすると、

この混線して、がんじがらめになった規範の束がほどくにほどけないために、

そこで行き詰ってしまうわけです。


その結果、その都度、場当たり的に適当な規範を使って考えられたようなことが

社会の基準になって行ってしまうわけなのです。


この状況は絶対に抜け出すべきものであると思いますが、

それには、唯一無二の規範が必要なわけです。


強い規範と言うのは、ある種の「拘束」を生み出すこともあるかと思いますから、

それは、一部の領域で「自由」を犠牲にすることに成るのかもしれませんが、

それでも、これを手に入れなければ、社会に指針はなくなってしまうのではないのかなと。

それは必要最低限の犠牲ではないのかなと。


民俗・宗教・政治的な主義・主張など、広い範囲の層を包括するような規範を設定して、

それを唯一のスタンダードとするような方向で考えていく必要があるのではないのかなと。


「グローバル・スタンダード」などと言って、

特定の国に都合のいい方向にもっていってしまうのではなくて、

その外側の、もう一つ大きな枠で「シングル」で「シンプル」な「スタンダード」があれば少しイイのかなと。

そんな風に思います。




討論する習慣

日本人は議論や討論が苦手だとよく言われますけれど、

確かにもう少し本質的な話をするような習慣があった方がいいのではないのかと思うわけです。


また、「何も考えない人間が多すぎる」というのもよく言われますが、

実はこれも、初めから考えないのではなくて、ある程度のことを考えていても、

その考えを人と議論したり討論したりして、発展させる機会がないから

一つの考えから変化することがなくて、平滑で一辺倒な考えに留まっているために

何も考えていないように見えてしまうのではないのかなと。


やはり、自分だけの思考回路の中で考察を展開していけば、

当然、同じ様なパターンの考え方しか出てこないわけなのです。


だから、小さな子供のうちにとは言いませんけれど、

ある程度若い段階から、討論を習慣づけた方が良いのではないのかなと。

小学校高学年ぐらいでも、真面目に話をさせたら結構話すんじゃないかと思うわけです。

そうやって習慣になっていれば、大人になって何も考えないとか議論できないとか

ということも少なくなるのじゃないのかなと。


人間って、やっぱり教わったことはやるけれど、

教えられてないことはやらない性質のある生き物だと思うわけです。

議論の内容は教えられないかもしれませんけれど、

その場を作ることはできるのではないのかなと。


こういうことを教育関係者の人に言ったら、

「今の学級崩壊したようなクラスでそんなことは到底できない」とか、

「そんなことしても誰もまともな話なんかするわけがない」

と言う答えが返ってきそうなんですけど、

実際は、意外な子供が意外な話をし始めたりすることだってあるのじゃないかと思うのです。


こどもに限らず、習慣として議論や討論をしていない人が、いきなりそういうことをすると

どうしても、ただの言い争いになってしまうと思うのです。

なんとか相手の理論の弱点や矛盾点を見つけ出して、足をすくってやろうとしたり、

自分の説をまくし立てて、相手をやり込めようとしたりしてしまうわけですね。

でも、それは議論でも討論でもないと思うのです。


やはり、主張が異なっていても、そこに話の展開が生まれなければ討論の意味がないわけです。

話が発展していったり変化していったりすることで初めてプラスに成るわけで、

ただ、相手の論を打ち砕いたり自分の言い分を通したりしたのでは、

一人で考えたことから大して変わっていないということに成ってしまうわけです。


自分の主張を述べながら、相手の主張にも耳を傾け、

その中で議論を展開するには、慣れるしかないと思うのです。


でも、教育の場に限らず、そんな場所ってほとんどないと思うわけです。

場所と言うよりは、そういう空気がないのかもしれません。

一人でそんな雰囲気を醸し出してもあまり意味がないので、

誰もそういうことはしなくなっていくのでしょう。


でも、もっと自分の内側にある話を、人に対して出していけるようになった方がいいような気がするわけです。

子供の場合と同じで、意外な人が面白い話を持っているということはよくあることかなとも思います。


それから、案外いいストレスの解消法に成るような気もするのです。

自分のうちにあるものを外に出すということは、最高のストレス解消に成るはずなわけですから、

それが、言い争いになったり、単なる愚痴のように成ってしまわない限り
(まぁ、それでもいいのかもしれませんが)、

きっと、かなり発散できるのではないかと思うわけです。


これからのストレス解消法は、カラオケじゃなくて議論や討論かなと。

そういう日常の中に、もう少し真剣に話す「場の空気」があればいいんじゃないのかなと。


そんな感じもあるんじゃないのかなと思ったりしています。




「悪口」=「ネガティブ」なのですか?

「悪口」と言えば、ネガティブの代表なわけですけれど、それは「悪口」の定義によると思うわけなのです。


悪くない人を悪く言うのが「悪口」であれば、それは間違いなくネガティブでしょう。

また、いいところも悪いところもあるようなことについて、

その中の悪いところだけをわざわざ拾い出して悪く言うのも、確かにネガティブなことだと言えるのでしょう。

でも、明らかに悪い人やものについて、それを悪いということを含めて「悪口」と言っているのだとしたら、

それは、ネガティブなことなのでしょうか?


もしも、明らかに悪いようなこと、または、自分が本当は悪いと思っているようなことの中から、

なんとかして、いいところを見つけ出してきて「悪口」を言わないようにしているのだとしたら、

それは、一種の「嘘」であって、むしろそちらの方がネガティブなことではないのかなと。

たとえ、それが善意によるものであったとしても、度を越せばその「嘘」も色濃くなってしまうわけなのです。

そして、その度合いの物差しが、かなりずれてしまっているように思うのです。


そして、その反対に本当のことを言って、それが何かに対する批判を含んだことであったとしても

それを、「悪口」と言えるのでしょうか?

というか、その「悪口」はネガティブなことなのかなと。

今の日本では、そこの所が抜けていて、

何かを悪く言うことがすべて「悪口」と言われてしまっているように思うのです。


結局、悪くもないものを悪く言うのも「嘘」だし、悪いものを悪く言わないのも「嘘」なわけで、

それは、両方ともネガティブなことではないのかなと。

だとしたら、悪いと思ったことをただ正直に悪いと言った人を、

「ネガティブ」と呼ぶことの方が本当の「悪口」では無いのかなと。


もちろん、根拠のない批判や感情的な誹謗中傷を推奨するつもりはありませんけれど、

そういうデタラメな「否定」と理由のある「否定」が、すべて一緒くたにされてしまっているように思うわけです。

実は、大事なのは「ポジティブ」か「ネガティブ」かではなくて、

「肯定」と「否定」のバランスや精度ではないかと思うわけなのです。


現在の日本社会では、明らかに「否定」が強制的に排除されてしまっているわけです。

それは言ってみれば「否定」が「否定」されているということであって、

どう考えても矛盾しているわけです。


もしも、本当に「肯定」を尊重するのであれば、「否定」は「否定」として、

その妥当性を、公平に検討したうえで「肯定」または「否定」されるべきであって、

一律に、「否定」的だからという理由で「否定」したのでは、

それ自体もまた「否定」的になってしまっているわけで、

自己矛盾に陥ってしまっているわけです。


私としては、「ポジティブ」な考え方や「前向き」な生き方が悪いとは思いませんし、

そういう方向性を持った人と言うのも、人としてはとても好きなのですが、

ここで言っているのは、現在の日本社会の状態のことなのです。


私には、どう考えても「批判」や「ネガティブ」が排除され過ぎているとしか思えないのです。

あまりにバランスを欠いた状態のようにしか見えないので、

どうしても「肯定」側よりも「否定」側に肩入れしたくなってしまうわけなのです。


それから、それは元を正せば経済的な理由からそう成っているのではないかと思うわけなのです。

例えば、商品のレビューなどを見ても「肯定」的なものがほとんどな中で、

数少ない「否定」的なレビューの方が役にたつことも多いのですが、

それは、購入に結びつかないので見えないところに追いやられてしまいがちなわけです。

これなどはまだわかり易いですけれど、もっと見えにくいことでも、

何らかの経済上の理由から「否定」が理不尽に排除されていることは、たくさんあるように思われるわけです。

というよりも、「否定」が意図的に排除されているケースのほとんどが、

経済と結びついているようにさえも思えるわけなのです。


排除している本人は、ただ単に「肯定」の方が「建設的」で「前向き」だからいいだろうと思ってしていることでも、

実は、「建設的」や「前向き」には既に経済促進的な側面があるわけです。

そして、経済の部分を除いた本当の意味の「建設的」や「前向き」というのは、

必ずしも「肯定」ではない、否、むしろ「否定」的であるはずなのです。


何かを作ったり、行ったりするのに試行錯誤がなければ

それが良くなるはずがないわけですけれど、

その試行錯誤に当たるものは、間違いなく「否定」的な要素を含んだ考察ではないのかなと。

「これじゃダメだ」「これでもまだ足りない」という「否定」の繰り返しが

「建設的」なのであって、はじめから「これでいい」というのは、ただの「テキトー」で、

決して「建設的」なことではないと思うのです。

また、あくまで試行錯誤を経た後での「肯定」は「前向き」であっても、

その段階を飛ばした「肯定」は”ザツ”なだけだとも思うのです。


つまり、肯定的であることは「建設的」「発展的」「向上的」であるより以上に、

「経済的」なことであるとも言えると思うのです。

「建設的」「発展的」「向上的」を経たうえで、それが「経済的」に成るのならいいのでしょう、

でも、そこには「否定」という過程が必要不可欠になってくるわけです。


「悪口」=「ネガティブ」という短絡的な発想で「否定」や「批判」を

排除していってしまうと、全てのもの事は衰退して、

骨のない形だけのつまらないものになっていってしまうのだと思うのです。


こういうことを了解済みで言っている人も多いとは思いますけれど、

問題なのは、「肯定」と「否定」のバランスなわけで、

その「量」と「質」におけるバランスが明らかに崩れている現状においては、

「否定」の側の「量」と「質」を意識して高めていかなければ、

益々、まともな話が通じないような、

充実したものが生み出されないような、

そんな世の中にしかならないのかなと。


いま社会が求めているのは「肯定」ですが、

いま社会に必要なのは「否定」だと思うのです。


私にはどうしても、そんな風にしか思えないわけなのです。




人間は、まだ言葉を使いこなせていないと思うのです

人間と他の動物を、最もはっきりと区別できる点は、

論理を構築する性質(習性)を持っているか否かではないかと思うのです。

でもまだ、そこのところが上手くはコントロールできていないように思えるわけなのです。


人間は何をするにも、先ず言葉で考えて、そこに何らかの理論を展開してからでないと、

実行できないといってもいいほど、言葉で考えることが習性化していると思うわけです。

でも、それがなかなか上手くできないと思うことが多いわけなのです。

また、世の中の変化が早すぎて、論理の使い方にも常に修正が求められるために

対応しきれていないと言った方がいいのかもしれません。

たぶん、その両方なのでしょう。


例えば、「常識」と言ったものを考えても、それが次から次へと更新されていくわけで、

一定の期間スタンダードとして機能していなければ

「常識」であること自体に意味がなくなってしまうと思うわけですが、

そこに、意味が無くなってもまだ延々と更新され続けているというのが実態ではないでしょうか?


現代社会には、そういったことがたくさんあるわけですから、

その意味の無くなってしまった言葉の上に築かれた論理が、

有効なものにならないということが多くなってしまうのだと思うのです。


また、人間が論理を使うということを習性として持つようになったのは、

人間社会がかなり複雑化して、人間としての生活が、

言葉で考えること無くしては成り立たないような状況ができてからでしょうから、

まだ、人類の進化の中では歴史が浅く、その習性はうまくは身についていないのかもしれません。


いずれにしても、習性化しつつあるからそれを捨てることも難しくなっているわけで、

それがうまくコントロールできていないというのは、かなりの弊害になっているように思うのです。

もう、論理を捨てることができないのなら、それを何とかうまく使いこなしていくしかないわけですが、

言葉の上に言葉を重ねていくという作業の中で、一つ一つの小さな誤差が積み重ねられて、

最終的には、かなりおかしなところに着地してしまうというケースも少なくないのではないのかなと。


その点を修正するには、言葉と言うものを根本から認識し直す必要があると思うのです。

先ず言葉には、種類があると思うわけです。

同じ言葉でも、文学における言葉と、情報伝達における言葉は全く違う性質を持っていますし、

そういった、「言葉の種類」は沢山あると思うのです。

それを、混同したまま使っていれば当然誤りが出て来るわけなのです。


また、はっきりと種類が違うというほどでなくても、その使い方にもバリエーションがあるわけで、
 
例えば、言葉には世界を二分するという性質があると思うのですが、
(「〇〇」と言ったとき、世界は「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるというような)

そういった、極めて単純化された機能と同時に、

一つの言葉が様々な意味を内包しているという複雑で曖昧な機能をあわせもっているために、

そのどちらの使い方がされているのかを判断するのが難しくなってしまうのだと思います。


そのほかにも、まだまだ言葉の誤謬を招く要素は沢山あるように思われますが、

それらを、言語学者などが、もっとうまく利用できるようにわかり易く、

解説していく必要性があると考えているというわけです。


ただ、ここで大切なのは、わかり易く解説することであって、研究することではないように思うのです。

言語学などの研究と言うのは、かなり難解なものになってしまっているわけで、
(私は詳しくありませんが、たぶんチンプンカンプンだと思います)

それ以上の研究を追究していっても、一般的には理解し辛くなってしまい浸透しないでしょうから、

現状の成果をできるだけ理解し易いように解説したり、教育したりするところに力を使ってほしいと思うのです。


そして、言葉が成り立っていなければすべての学問が成り立たないことを考えれば、

現在、教育の場において言葉の見直しは、

必要性の高いものになってきているのではないのかと思うわけなのです。


このところ、同じ日本語で会話をしていても、全く話が通じないと感じることがとても多くなっているので、
(おそらく、そういう時は相手も同じように感じているのでしょう)

こうした見直しをぜひお願いいたしたいなと、

そんな風に感じておリます次第でございます。


「見えるもの」と「見えないもの」

世の中には、「見えるもの」と「見えないもの」と言うのがあると思うのです。

それは、なにも目ではっきり見えるということに限らず、

確信を持って判断できるものと、できないものと言う意味です。


例えば、空気は目には見えませんが、その存在は疑いようがないと言えるでしょう。
(それも疑うことはできるというのは、また違う話になってしまうので)

まぁ、要するに物質は、だいたい「見えるもの」と言えるのではないでしょうか。

でも、物質だけとも限らなくて物理法則や、人の心や感情などのような物質としての形のないものでも、

ある程度、確信を持って判断が下せるようなものはあるわけですから、

それも「見えるもの」に入ると言っていいのでしょう。
(こちらも疑うことはできるわけですが、それはまた別の話として)


対して、「見えないもの」は、確信をもって判断ができないものということに成るわけなのですけれど、

それは、言葉を替えれば「不思議なもの」とも言えるのかなと。


そして、何が言いたいのかと言うと、

何かを考察したり議論したりするときに、その「見えないもの」は使ってはいけないと思うわけです。

少なくとも、その考察や議論を人との間で共有する場合は、話を「不思議なもの」に持って行ってしまうと、

そこから先は、まったく意味のない会話しか成り立たなくなってしまうと思うのです。

一見、話がかみ合っているように見えている場合でも、

それは体裁だけで、実際には何の意味も無いような話を、

相手に調子を合わせて適当にやり過ごしているだけになってしまっているように思われるわけなのです。


そうは言っても、世の中に「不思議なもの」などは無いと言っているわけではなくて、

それは当然あるわけですし、むしろ、全てのことが「不思議なもの」でないとは言い切れないわけです。

でも、現時点で「見えていること」を前提にして話を進めないと、

その話の意味と言うものは、ほとんどないとも言えるわけなのです。


ですから、話の根拠とするようなものは、それが「見えるもの」である必要があると思うわけなのです。

そして、それは相手と共有することを前提とするのであれば、

論じる側と受ける側の双方にとって「見えるもの」であることが、最低限必要になってくるわけなのです。


そして、ここからは私の個人的な意見ではありますが、

世の中の相当数の人が「見えないもの」であると主張しているものについては、

それが「見えないもの」であるという前提で、

それを根拠とした話はしないという約束を守ることが、その話を有効なものにすると思うのです。


つまり、大方の人が確信を持って判断できないようなものを話の論拠にしてしまうことで、

それらの話の内容が、全く無意味になっていることが非常に多いと思うわけです。

ですから、「見えないもの」は「不思議なもの」として、そこにそのままあってもいいのじゃないかなと。

それを、論拠にしてしまうと「見えるもの」のようになってしまって、

「不思議なもの」ではなくなってしまうわけで、

それでは、そのものの本当の状態と違ってきてしまうようにも思われるのです。


もしも、それが理屈では説明できないけれど、何かしら確実なものであったならば、

何も、敢えてそれを議論の対象にしなくても、そのうちに、それは当然のこととなって、

本当の「見えるもの」になってしまうのでしょうから、

「見えない」と言っている人がたくさん居るときには、

それを「見えないもの」としておいた方がよいように思うのです。


まぁ、一言で言えば、曖昧なことを論拠にして話を進めれば、

その話は無意味なものになるのでしょうということですが、

そこに「不思議なもの」が出て来ると、

その曖昧さがすでに肯定されてしまっているような錯覚の下に話が進んでしまうということでしょうか。


そして、それが宗教戦争に至っているようなこともあると思いますから、

それよりも身近なところから、「見えないもの」は「見えないもの」として取り扱うようにすれば、

それを、論拠に論争を展開するのは、まったく無意味であるということが、

それこそ〝見えやすく"成るのかなと。


そんな風に思っています。


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「人間」を否定することと「行為や状態」を否定することは全く違うと思うのです

このブログでも何度か書いてきたことですが、

現在の日本では、否定的なことを言うことがタブーのようになってきていると感じるわけですけれど、

これには、かなり見落とされているところがあるように思えるわけなのです。


見落とされていることが、いくつもあると思うのですけれど、

中でも「人間」を否定することと「行為や状態」を否定することが、

ほとんど区別されていないと言うのは、かなり大きなことではないのかなと。


「人間」と言うより、もっと正確に言えば「人間の存在」を否定するということは、

避けるべきことかと思われるわけですけれど、「人間の行為や状態」を否定することは、

避けるべきこととは思えないわけなのです。


これは、人間に限ったことでもないでしょうが、

「存在」と言うものは否定しようとしても、そうそうできるはずはないわけで、

「存在」を否定するのであれば「全て」を否定せざるを得なくなってしまうわけでしょうから、

そうなれば、何の話も成り立ちませんし、それはかなり無理があると思うわけです。


まぁ、「在る」ものを「無い」と言ってしまえば、なにも成り立たなくなってしまうわけですから、

そこには無理があると言わざるを得ないのでしょうね。

だから、当然「人間の存在」も、その人がそこに「在る」かぎり否定できないはずなわけですから、

それを否定するということは、まったく不当なことであって、理に適っていないわけなのでしょう。


でも、「行為や状態」を否定することについては、根本的な「存在」の否定ではなく、

その有り様についての部分的な否定ですから、それとはまったく異なるものかと思うわけです。


そして、その二つが区別されていなかったり、意味のない区別がされていたりすることが、

「否定」や「批判」の機能を失わせているように思われるわけなのです。


つまり、「否定」することはできる限り避けるべきことであって、

できうるかぎり無差別に「肯定」に向ける努力をするべきであるというような無理な論があったり、

なんとなく度を越している場合は「批判」してもいいとか、

犯罪者だったら「否定」してもいいとか、皆が悪く言っている人だったら「悪く」言ってもいいとか、

そういった意味のない区別がされている場合がとても多いと思うのです。


でも、実際は、どんな場合も「人間」は否定するべきではない(できない)し、

「行為や状態」は否定しても、何の差支えもないのだと思うわけです。


犯罪者であっても否定されるのは、その「行為」であってその「人間存在」ではないはずでしょう。
(これは「死刑の是非」とはまた違った意味に成ると思います)

まして、みんなが悪く言っているからと言って、その人の「存在」自体を否定してもいいはずがないわけですが、

それが結構まかり通ってしまっているように思えるわけなのです。


そして、まさに、そこから各種のハラスメントやイジメ、

差別などが生まれているということは明らかだと思われるわけです。

つまり、「否定しない」ことや「否定の区別がなされていない」ことで、

かえって非常に否定的な状態が生み出されてしまっていると言わざるを得ないわけなのです


「存在」は基本的に、否定しないのではなくて否定できないわけですから、

それを、どうこう言っても仕方がないわけですが、

「行為や状態」については否定や批判をするべきであって、

それをしないということは、要するに「悪」を肯定することにしかならないわけです。


完璧なものがないのだとすれば、どんなものでも「否定や批判」をされる要素があるはずで、

それがタブーになってしまうと、全てのもの事は少しづつ「悪い」方向へ向かうに違いないわけなのです。

「否定や批判」と言う「食い止める力」が働いていて、やっとバランスが取れているのですから、

それを取り除いてしまえば、そう成るのは当たり前のことなのだと思うわけです。


そして、「行為や状態」を批判することこそが、

「人間」を否定することを阻止するための唯一の手段ではないかとも思えるわけなので、

その機能が失われつつある現状は、「人間存在」の危機的な状況であるというように思えるわけです。


「行為や状態」を否定されて傷つくのは、

所詮、つまらない表面だけのプライドや見栄の部分だけなのですから、

そこのところは、この際、諦めて、

もっと大事な「人間」の根本的な「存在」を守らなければ、どうにもならないのじゃないですかと。


お互いに人格を否定し合っているような、状態が蔓延している世の中で、

表面上の「肯定」だけを追いかけていても、

その隣で「肯定を名乗った否定」が、堂々とまかり通っているのでは、

なんの役にも立たないのじゃないですかと。


ですから、偏った「肯定」は「悪」を生むものでもあるということを、考えるべき時なのではないのかなと。

そして、それを「止める力」があるのは「否定」だけなのだから、そこで躊躇してはダメなんじゃないですかと。


そういうことが、言いたいわけなのです。




個人を無能化させるのをやめた方が「得」になってきていると思います

現代の社会と言うのは、人間を社会の一構成要素として扱うことで、効率化を進めてきたわけですけれど、

それによって得られるところの成果が、かなり前から頭打ちになってきているわけなのです。

それに対して、そこから生まれる弊害の方は、年々大きくなって、

既に、成果の方を上回ってしまってからですら、かなりの年月が経過してしまったように思われるわけなのです。


要するに、社会は人間をより単純化して、社会と言う機構を効率よく機能させるための部品として

看做すことによって、個人の持っている有機的な要素を排除し無機的な性質を最大限に引き出し、

そのことによて、結果的に現在の精密機械的な社会機構と成り得たのだと思うわけです。


過去において、それが良かったのか悪かったのかについては、功罪相半ばと言うところだと思いますけれど、

現在においては、明らかにマイナスになってきているように思えるわけです。


もともと、これまでの効率を支えてきたのは、産業革命以来の技術革新だけではなくて、

奴隷制に始まり、植民地政策や労働搾取などの圧倒的な個人の犠牲でもあったわけで、

そこには戻れない状態になった現在、その方向性で社会を運営してゆくことは

これまでのような効率は得られないのに、個人の犠牲だけは増大していくという

「労多くして利の薄い行為」となってしまうと思うのです。


技術的な進歩と言うのは不断に続いて行くのでしょうし、

時には、画期的な技術が開発されて、一時的に挽回するようなこともあるのでしょうが、

それはあくまで一時的なものにすぎず、

恐らく今後、そうした技術による効率の向上が、

それに対して圧倒的な社会機構による効率の停滞を上回り続けることは無いのでしょう。

もはや、「技術の進歩が何とかしてくれる」と言うのは幻想にすぎないように思われるわけなのです。


例えば、文明国においては医療が進歩して人間の寿命は延びたのかもしれませんが、

それによって、人生の中で不幸な時間が伸びただけであれば、

それは進歩と呼べるものではないと言わざるを得ないわけです。


実際、現在の「長老」達は、果たして社会の中で尊敬されているのでしょうか?

彼らは、そこで何かしらの役割を得られているのでしょうか?

かつての奴隷たちにですら、労働力としての役割が与えられていたとも言えなくはないわけで、

彼らに人権が与えられていなかったことは、極めて不幸なことであるわけですけれど、

それでは、尊敬されることもなく、あらゆる役割から除外されているような現在の「長老」達には、

果たして、真っ当な人権が与えられていると言い切れるのでしょうか?

ということに疑問が出てきてしまうわけなのです。


そして、このような「進歩による不幸」は現代社会のいたるところに見られるわけで、

それは、現代社会が、「人間」を部品と看做して「無能化」することを

手法として使い続けてきたからに他ならないわけですから、

それを手放して、効率を犠牲にしてでも、

人間の持っている有機的な部分の能力を高めていくしかないわけなのです。


それは、何も画期的な発想者や突出した感性によるものとは限らなくて、

まったくもって日常的な工夫や思い付きに過ぎないものでも十分に効果的ではないのかなと。

現在の人間の個体数は、ある意味で自然界の法則を無視しているほどなわけですから、

その大半が「無能化」している状態から「有能化」へ転換した時の効果は計り知れないほどに成るでしょう。


その効力は、機械的な効率を捨てたことによるマイナスを遥かに上回るように思えるわけなのです。

教育・文明・文化がかなりの底辺にまでいきわたっている現在、

人間の持っている潜在能力は過去にないぐらいまで高まっているはずなわけで、

その点では、過去とは比べ物にならないぐらいの力が内在していると思われるわけです。

せっかく高まっている能力をあえて「無能化」するという手法は、有り得ないでしょう。


ただ、ここで、すでに出来上がってしまった社会の意思が、常に個人の「無能化」を求めてくるわけですし、

さらに、今はもう達成することができなくなった「効率化」をも同時に求められるわけで、

そのダブルバインドに挟み付けられて疲弊している現代人が、

そこに対抗するような意志を持てずに、ズルズルとその状態を続けているというのが現状でしょう。


意思と言っても、それほど強固な意志力を求められるとは思えないわけですが、

言ってみれば、社会の意思に沿って働くことをやめて、

自己の意思に沿って働くようにするということなのでしょうか。

社会の意思に沿って働いても、高齢になった時点で切り捨てられるのであれば意味がありませんから、

むしろ、自分の方から社会を切り捨ててしまおうということなのでしょう。


いずれにしても、流れとしてはそちらの方に向かっていくのが、ごく自然なわけですから、

何時かはそんな風になってゆくのでしょうが、

現状を見ていると、どうしても社会による「人間の無駄使い」が気になってしまうわけなのです。


て言うか、「何のために教育や文化を行きわたらせて来たの?」と言う感じですか。

「人間の歴史ってなんのためだったの?」

ていう風に、思ってしまうわけなのです。



刑罰について

犯罪に対する刑罰についての論議となると、最近では「死刑の是非」と言うのが多いと思うわけです。

確かにそれは、刑罰についての最も集約された部分なのでしょう。


でも、実は死刑を肯定するか否定するかよりも、

刑罰を、社会機構の中で、どのような機能として捉えるのかが問題なのではないかと思うわけです。


主に「犯罪抑止力」としての機能と、「犯罪者の更生」という二つの機能が考えられるわけですけれど、

二つの機能の中で、どちらに重点を置くかで、かなり話が変わってくるわけなので、

そこのところがポイントになると思うわけです。


ただし、そこで「人間が人間の命を奪ってはいけない」というような、

人道的な見地からの意見や、「仇討」的な復讐と言う考えは、

刑罰という話とは意味合いが違う話になってしまうと思うので、

それを持ち出してしまうと、そこから先には進めなくなってしまうと思うわけです。

まぁ、要するに、それを言ってしまうと「法的な意味での刑罰」の話ではなくなってしまうということですね。


そこで、刑罰をその機能に限定して考えた場合、

先述の「犯罪抑止力」と、「犯罪者の更生」という二つの機能が主なものかと思うわけです。

現在、最も中心的な考え方は、「犯罪者の更生」なのだと思うわけですけれど、

それは、あくまで犯罪が起きてからの事後処理的な側面があるわけで、

ある意味では、それが達成されたとしても、もはや犯罪は起きてしまっているわけで、

それは、既に「十分に不幸」なわけなのです。


この、犯罪という「誰にとっても不幸な出来事」を前提にしてしまっているところが、
(加害者も十分すぎるくらいに不幸だと思います)

この考え方の重大な欠陥であることは、犯罪が増加し悪質化する傾向にある現代社会では、

もはや、議論の余地もないことのように思われるわけですけれど、

社会が、人道主義や人権擁護と言った「美辞麗句」を捨てられないために、

これを引きずってしまっているように思われるわけなのです。


そして、このことは、先に述べた機能に限定するという法則からも外れてしまうわけで、

結果的には、前述の「人間が人間の命を奪ってはいけない」や、

その裏返しの意味での「復讐」というのとかわらないことに成ってしまうわけで、

「刑罰の機能」の話から逸れてしまっているわけなのです。


やはり、犯罪は未然に防がれるべきであって、

それでこそ、機能として有効であるともいえるわけですから、

「犯罪抑止力としての機能」を強化すべきであろうかと思うわけです。

と言うよりは、ほかのすべてのことを切り捨ててでも、

そこを達成しなければ、現在の犯罪の進行は止めることが不可能なのではないのでしょうか?


例えばの話、もし仮に、

犯罪が多発している中で、

犯罪者を100%更生させることができる「パーフェクトな犯罪者更生プログラム」が、

システムとして確立されたとしても、

次から次へと犯罪が発生ていくのではあまり意味がないでしょう。


ですから、冒頭の話に戻せば、「死刑の是非」ではなくて、

「死刑の有効性」を議論すべき時なのではないのかなと。


実際、死刑を自ら望む犯罪者もいるわけで、

その人達にとっては死刑は必ずしも極刑ではないのでしょうから、

それを、学者などがあくまで「極刑」という前提でもって、

その「是非」を議論してもあまり意味がないわけです。


犯罪者の望みをかなえていることになっているのであれば、

それは刑罰ですらないわけで、それを肯定しても否定しても

その議論の意味自体が、極めて希薄であるとしか言いようがないわけなのです。


そこで、犯罪を抑止するという機能を強化するためには

どのような刑罰、または、その他の手段が有効なのかと言う議論がなされるべきなのであって、

そうした機能の有効性が発揮されて、犯罪が減っていくことこそが、

本当の意味で「人道的なこと」なのではないのかなと。

これは、犯罪被害者にとっても、犯罪加害者にとっても「人道的なこと」なのではないでしょうか?


ここで最も有効な抑止力になるのはどんなものなのかとなれば、

それはかなりの難問だと思いますけれど、

少なくとも、犯罪の側が多様化しているのに対して、

刑罰の方は、昔ながらの「死刑」を極刑とする「懲役刑」や「禁固刑」、「罰金刑」

という判で押したようなものしかないわけですし、

それらの刑罰の重さも、

この程度の犯罪を犯したものには、この程度の刑罰と言うような

判例主義を取っている関係で、

犯罪者側からすれば想定内の刑罰しか与えられないわけですから、

犯罪常習者や、社会的逸脱者からすれば、「チョロイモン」で、

もはや、彼らに法に対する畏怖の念はないでしょう。


つまり、刑罰が「犯罪抑止力」として機能していないケースが増えてきているということですね。


だから、これからの刑罰には、「犯罪を侵すと、予測できないような刑罰が下されるかもしれない」

というような「意外性」や、個々の犯罪者が「これだけは絶対に嫌だ」と思うような

「個別性」が必要になってくるのではないのでしょうか?


言ってみればそれは、「天罰」を再現するということなのかなと。

「天網恢恢疎にして漏らさず」と言うようなヤツですね。

もちろん、人が人に「天罰」を下すことには十分問題があるわけですが、

それを言い出すと、また、人道論に戻ってしまうので、

機能としての有効性に絞った話をしなければならないということでしょう。


要するに、『人が人に「天罰」を下すということ』と、

『現状の犯罪が生み出している悲惨さ』のどちらを取るか?と言う二者択一を迫られているわけですよね。


でも、よくよく考えれば、それは、元に戻って「人間が人間の命を奪ってはいけない」

と同じ話になってしまっているわけですし、

結局、現状の刑罰でも人は人に対して「天罰」を加えているのは同じことなわけですから、

あまり、そこに固執しない方がいいような気がします。


実際、かなりの悪人であっても、また社会的逸脱者であっても、

恐れていることはあるでしょうし、「絶対にされたくない嫌なこと」と言うのもきっとあるでしょう。

「犯罪を侵せば、もしかしたらそういう刑罰が下されるかもしれない」

と考えれば思いとどまることもあるでしょう。


過去には死刑を頂点とした刑罰が、

ほとんどの人間にとって、十分に「嫌なこと」であり、「恐れていること」でもあったわけですが、

それが成り立たなくなってきているわけです。


今後、刑罰に、予測不能であるという「意外性」と

個々にとっての刑の重さである「個別性」を取り入れていくことは、

法に対する畏怖を再生して、犯罪を抑止する一つの道であると思いますが、

いずれにしても、現状の犯罪とその被害者、加害者の惨憺たる状況を横目に

それとは無縁の人道論を云々するというのは、

まったくの非人道的行為になってしまっているのかなと。


そんなのよりも、昔よくマンガやコントに出て来た

「クスグリの刑」や「死ぬほど笑わされる刑」

それに、なんと言っても、あの恐ろしい「黒板を爪で引っ掻く音を聞かせる刑」

なんかの方が、よほど”人道的”なんじゃないのか?

「いやいや、そっちの方がソートー非人道的でしょ?」

と言うふざけた話でもなくてですね。


そんな風に思っております。



「性差」について

性別やそれに付随する役割については、ジェンダーと言う言葉で呼ばれていますが、

そういった、性別によって生じているさまざまな「差」が、論争のテーマに成ることが多いわけです。


これは「性差」に限らず、あらゆる「差」についても言える事かと思うのですけれど、

そこに「差」が生まれるのは、そこに違う種類ものがあるからで、

同じ種類のものしか無ければ、「個人差」以外の「差」が生まれることはあまり無いわけです。


つまり、そもそも違うものだということを前提に「差」が発生しているのだと思われるわけです。

だから、「違い」という「段差」があることを踏まえて、話を進めないと話が混乱してしまうのだと思うわけです。

要するに、「男性の立っている平面」と「女性の立っている平面」は違う平面なわけですから、

どちらか一方の平面だけを意識して、話をしていてもすれ違ってしまうのだと思うのです。


実際、その手の論争は、理屈の上では筋が通った論議のようになっている場合でも、

結局は、お互いどちらか一方の立場から、ものを言っている場合が圧倒的に多いように思われるわけです。

それどころか、はっきりとどちらか一方の立場をとらないと

話に参加することすらできないようなところもあったりするわけです。

「中立」=「八方美人」みたいな感じになってしまうわけですね。


そして、なぜそう成ってしまうかと言えば、「同じ」を求めてしまうからではないかなと。

「平等」や「同権」といった、「同じ」に近づけることを良しとするような、

キーワードのもとに話を進めていくために、どうしても「同じ」を目指してしまうのかなと。


でも、実際に必用なのは、「同じ」ではなくて「違い」に対する話であって、

その「違い」を前提にした「平等」や「同権」が、実は「同じ」とはかなり違うものなのだと思うわけです。


そして、その【「違い」を前提にした「平等」や「同権」】をどこに設定するのかということこそが

話し合う必要のあるところなのではないのかなと。


現在では、「平等」や「同権」は、かなり多くの人が認めているものであって、

「男性側についた人」を、敢えて「差別主義者」に見立てて話をする必要は、もうないのかなと。


むしろ、みんなが「平等」や「同権」を求めているという前提で、

その、男女それぞれにおいての「平等」や「同権」がどこにあるのかを見つけ出していくような

作業が行われるべきなのではないかと思うわけです。


例えば、男女に同じ雇用機会が与えられることよりも、

男女それぞれにおいての職業に対する充実度や、そこから生じる負担が均等に近いことの方が、

望まれる「平等」であって、職種や職域自体に不均衡があったとしても結果的に

双方が納得できるような実態があればそれでいいように思うわけです。


というよりも、「男女」が違うものであるということを考えれば、

最終的なところでの「平等」を求めれば、当然その手前の所では「違い」が出て来るはずなわけです。

だから、むしろ「同じ」であることの方が、よほど「不平等」なことともいえるわけなのです。


そして、こういったことは、政治や法律で規制したり規定したりすることと言うよりは、

現場的な、その場での決め事であるべきかとも思えますが、

その決め事をするような習慣と言うものが、まったくできていませんから、

やはり何らかの方向付けが必要なのだと思うわけです。


それにしても、これだけ数が少なくなっている「差別主義者」に属する人が、

かなりの数で、それを決める「政治」の世界に居たりするというのが、

とても悲しいことなのかなと思ったりもするわけですけれど、

権力と言うのはそういう性質のものなのかなと。


そういう、取り止めのない話でした。



「言葉の仕掛け」というもの

言葉には「言葉の仕掛け」に成りやすい性質があると思うのです。


ここで言う「言葉の仕掛け」とは、表面上はその言葉の示す通りの意味に見えていながら、

その裏側に、それとは違う意味や方向性を持ってしまっている言葉のことを指しています。


それは文学表現上の「隠喩」というのに似ていなくもないわけですが、

そちらとの違いは、「隠喩」があらかじめ意図されたものとして、

敢えて、表と裏の二つの意味を与えられているのに対して、

こちらは、言葉が社会の中で流通しているうちに、その言葉を使った者が当初意図したのとは

違う意味や方向性を持つようになったものであるという点なのです。


そして、そういうものの中でも、ここで特に「言葉の仕掛け」と呼んでいるものは、

表の意味が裏の意味に食われてしまって、意味をなさなくなっているにもかかわらず、

その言葉を聞いた者が、裏に違う意味があることには気づかずに、その言葉を使っているうちに、

いつの間にか無意識にその言葉を裏の意味で使うようになってしまうという、

仕掛けられた罠のようになってしまっているものなわけです。


なんでこのようなことが起きてしまうのかと言えば、

それは、恐らく、言葉の持っている性質として、

一つの言葉を境界にして、世界が二分されるということがあるからだと思うのです。


つまり「〇〇」と言ったとき、世界が「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるわけです。

「〇〇」と言った人は、「〇〇でないもの」については全く触れていないのに、

「〇〇」と言っただけで、「〇〇でないもの」についても、語ったことに成ってしまうわけです。

そこで、「〇〇」と言う表の意味と、「〇〇でないもの」と言う裏の意味が形成されてしまうのだと思います。


要するに、AさんとBさんが居る場合に、Aさんばかり何度か褒めていると、

Bさんについては何も言っていないのに、

自動的にBさんを貶していることに成ってしまうということでしょうか。

実際には、これがもっと複雑に成っていって「言葉の仕掛け」ができて来るわけです。


そして、これは言葉の持っている本質的な特徴だと思いますので、

これを変えることはできないのだと思うわけです。


ですから、言葉を使うときには、

常に、このような罠が仕掛けられていることを想定しておく必要があるのだと思うのです。

そして、何か特定の言葉に対して、罠に嵌ったような違和感を感じたときには、

立ち止まって、どこにその罠があるのかを確認する必要があるのだと思うのです。


それをせずに放置して、その言葉を使い続けると、

繰り返し使われるたびに、少しづつ裏の意味と表の意味がずれていって、

いつの間にかとんでもない所に連れていかれてしまうということも出て来るのだと思うのです。


人間は、まだ、自分たちが思っているほどには、

言葉をうまく使いこなせていないと思いますですから、

もう少し言葉に対して謙虚になって、慎重な使い方をしていくべきなのかなと。


20世紀後半辺りからでしょうか、あまりに急速に教育が行きわたったために、

教育の中で抜け落ちている部分というのがあるように思うわけです。

高度な理論を教える前に、言葉の使い方をもっと徹底しておくべきだったのではないのかなと。


昔で言う、「読み書きそろばん」だけを教えていたのならば、

今の言葉の使い方でも、ことは足りていたのでしょう。


でも、これだけ多くの人が高校や大学へ通うようになった今、

そこで教えられている知識のすべてが、

言葉によって教えられているともいえるわけですから、

その言葉が、使いこなせていないようでは、

知識が増えたことが、マイナスにも成りかねないわけです。


その種の、「言葉の仕掛け」が生み出している、

まったく意味のない誤解や誤謬が、とても多いように思っているわけなのです。


ここのところが、スッキリしただけでも、かなり物事が見えやすくなるのではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




事実は曲げられないということ

「事実を捻じ曲げることはできない!」と言うと、

「はい、それは確かにそうでしょうね」ということに成って、

そこで話が終わってしまうわけですけれど、

実際には、「事実は捻じ曲げられているのではないのか?」

と言う疑いを完全に断ち切るのは、簡単ではないわけなのです。


現実に、世の中を見渡せば、情報操作や捏造された報道、独り歩きした噂話の類まで、

いろいろな種類の「捻じ曲げられた事実」が沢山あるわけです。


でも、やっぱり「事実は曲げられないよ!」と、私は思うわけなのです。


現在の世の中では、マスコミやインターネットと言う、確保された中立性を持たないシステムが、

社会に流通する情報のほとんどを、を循環させているといってもよいと思うわけですが、

そこに、「正義」や「正しい」があるとは限らないわけですし、

それらのシステム自体は、ほとんど何の審査機能も持たないわけですから、

そこに、何らかの「正しい」があるとしても、

それは偶然に頼ったものだと言わざるを得ないわけなのです。


そんな中で、どうして「事実は曲げられない!」と言うのかと言えば、

「事実」は、情報でも、それによる人の認識でもなく、

厳然とそこに既にあるものだからなんですね。


つまり、操作された情報や、それに振り回された人の認識と言うのは、

「事実」とは無関係のもので、「曲げられている」のは、

「事実」ではなくて、人の認識や判断なわけです。


童話の「裸の王様」で、民衆の意識をコントロールして、

「王様は素晴らしい衣装をお召しになっておられる」と言わせることはできても、

「王様が裸だ」という「事実」は変えられないように、

やっぱり「事実」は変えられないわけなのです。


そして、そこで王様の着てもいない服を褒めそやしている人たちは、

実際に、見た服を褒めているわけでも、

本当にそれを美しい服だと思っているわけでもなくて、

と言うより、見ていないものを褒めることなどできるはずもないのですから、

ただ単に、その場の流れに調子を合わせているだけで、

彼らの中の「事実」も、本当は「王様は裸だ!!」なのだと思うわけです。


でも、このことを芸術の話に置き換えると、さらにおかしなことに成ると思うのです。

芸術においても、このような「曲げられた事実」ならぬ「曲げられた認識」は存在すると思いますけれど、

芸術の目的自体が、何らかの意味で「真実」を追究することだとするのであれば、

もうそれは根底からおかしなことに成ってしまうわけです。


「事実」をより厳密に追及していって、

「真実」にまで到達しようというのが芸術であると、私は思っておりますが、

その芸術が、「事実」すら見ようとしないのであれば、

そこに何の意味もないわけです。


王様が裸に見えたら、「王様は裸だ」と言うのが「事実」なわけです。

そして、それは曲げられないのだということです。


ですから、「裸の王様」を見たときに、

その衣装を褒めちぎっているような人を見かけたら、

「でも、服着てませんよね」と言ってみてください。


それが、どんなに当たり前のことでも、

それを言うと、きっと、非常にあからさまに嫌な顔をされます。

なぜなら、その人たちも「事実」を曲げることができないから。


私は、そういう風に判断しています。



人生で、回数が決まっていること

ある時、ふとしたことで思ったのですが、人生の中で、食事の回数はだいたい決まっているなと。

だとすると、一回美味しくない物や食べたくない物を食べると、

結果的においしいものを食べる回数が一回減ってしまうわけで、

それを意識するようになってからは、極力、食べたくないものは食べないようにしているわけなのです。
(私はほとんど嫌いなモノがないので、これは「好き嫌い」の話ではありません)


でも、これはよくよく考えると食事に限らず、いろいろなことに言えているようにも思うわけです。

例えば、寝る回数や風呂に入る回数などかなりのことについて、

回数がだいたい決まっているようにも思えるわけです。


私の場合は、食べ物に対する執着心が強いので、

さほど美味しくもないものを仕方なく食べるところまではギリギリ我慢できても、

それで美味しいものを食べる回数が一回分減ってしまうのだと思ってしまったら、

それは、もう我慢できる範囲ではなくなってしまったわけですね。


今のところ、食事以外で、具体的にやっていることは無いのですけれど、

このような考え方で、「その一回」を大事にできるようになっていければ、

人生が充実していくのかもしれないですね。


私は、「いまさら充実しなくてもいいよ!」とは、まったく思わないので、

生きている限りは、「その一回」を意識していくのだと思います。


そして、生きることの話から正反対の側に話は飛びますが、

死ぬときには、いい死に方をしたいと思うのです。

どういうのがいい死に方なのかは、わかりません。


でも、回数だけはわかっています。

死ぬ回数は一回です。



輪廻転生という考え方もあるでしょうが、

私は、「限られた時間」・「限られた回数」・「限られた分際」に閉じ込められた

「限られた人生」を生きているという意識で考えております。


何度も生まれ変われると思ってしまうと、

たぶん、私のような人間は[じゃあ、また次の機会に」となってしまうと思いますから。

実際、「限られた人生」の中でさえ

「まっ、それは、また明日」ということが多いし。


「はい、今やれることをやりましょう。」

「できないことはできません。」

と言う風に思っています。




「人間のジェネレーション」と「時代のジェネレーション」

ジェネレーションと言うと、世代なわけですけれど、その世代とは何の世代なのでしょうか?


たいていの場合は、「人間の世代」を指して言うことが多いと思うのですけれど、

時代そのものの世代を指していう「時代のジェネレーション」の場合もあると思うわけです。


それは、「時代の世代」という、ちょっと変な言い方になってしまうわけなのですけれど、

それはともかくとして、

「政治」や、「教育」などのような国家の成り行きを左右することについては、

この「時代のジェネレーション」を念頭に置いて行ってほしいなと思っているわけです。


今の景気を上昇させることや、今の国際情勢に対処することも必要なのでしょうが、

少なくとも〝百年"くらい先のことを考えて国家を運営していってほしいものだなと。


とにかく、政治家の人が≪次の選挙≫を目算に入れて、ものをしゃべっているなと

感じる時ほど悲しく思うことは無いわけです。


その人の言っていることが、いくら理路整然としていて筋の通った立派なことでも、

それが、先のことまで見込まれていることでなければ、

「政治」としては全く意味をなさないようにも思われるわけです。


要するに、十年後までしか通じないようなことは、「政治」でなくとも、

誰かがやるのではないですかと。


百年先のことを想定して実行するとなって、

そこで、初めて「政治」と言う「権力」が必要になってくるように思うわけです。


現状において、「政治」の場で「権力」が乱用lされるケースが多いのは、

「権力」をもてあましているからで、

「権力」を行使するべき場が与えられれば、その乱用が少しは減るようにも思うわけです。
(「そんなことでへりゃーしねーよ!」と言うのが本当かも知れないですけど)


「権力」は乱用されるようになってしまう性質があるものだとも思いますが、

あまりにも判で押したように、与えられた「権力」は必ずや乱用されるというのは、

やはり、その本来の「持って行き場」がないということにもよるのかなと。


少なくとも、国家的な同意のもとに、

百年から数百年の「時代のジェネレーション」を想定して、

「政治」や「教育」が行われたということは、

おそらく過去になかったと思われるので、

そういったことが、検討されるべき時代になっているように思うわけなのです。


でも、実際には時代のサイクルは短くなっていく一方で、

今に追われているというのが現実でしょう。


これからは「政治」にも、主に現在に対処する「短期型の政治」と

主に未来のことに対処する「長期型の政治」が必要になってくるのかなと。


そんなことを、思ったりもします。



誰のことも、見捨ててはいけないと思うのです

人と言う生き物は、社会から見捨てられると生きて行けないと思うのです。

だから、どんな人も見捨てられてはいけないと思うのです。


募金とか寄付と言うのがありますけれど、

あれは、「金銭の施し」ではないと思うのです。

あれは、「あなたたちを見捨てていませんよ」と言うサインなのだと思うわけです。


そして、受ける側も「お金」を貰っているのではなく、

「自分たちが社会から見捨てられていない」というアイデンティティを受け取るのだと思うわけなのです。


例えば、犯罪者でも裁かれることによって、

「社会から見捨てられていない」という自己確認を与えられているという考え方もできるのだと思うのです。

だから、重い刑罰が科せられたとしても、

無視されて放っておかれるよりは

「見捨てられていない」と言えるのだと思います。


個人にできることと言うのは限られているわけですけれど、

「見捨てられていい人」が居るのではなくて、

犯罪常習者で反省の兆しもないというような

「切り捨てざるを得ない人」が居るということなのでしょう。

彼らは、ある意味では「社会に必要な犠牲」でも在るのだと思います。


現代社会では「見捨てられている人」は、そういうわかり易い場合だけではなくて、

一見普通で「見捨てられている」ように見えない人たちの中にもいるので、

そういう「見捨てられた人たち」を拾っていけるシステムがあれば、

現代社会においては救いになるのだと思います。


そういう人たちにアイデンティティを配布していけるような

機構があれば、社会の機能も活性化するのではないかと思います。

それは、きっと経済政策などよりもはるかに効果的なのではないのかなと。


そんな風に感じています。




「かえって、めんどくさい」というパターン



「かえって、めんどくさい」と言うのがよくあるわけなのです。


何かしている人に、「このやり方の方がいいですよ」なんて言うと、

よく「かえって、めんどくさい」が返ってくるわけです。
(と言っても、私自身もよく言っていますけどね)


本当に「めんどくさい」ことならわかるのですが、

あきらかに簡単で「めんどくさくない」ときでも、

やっぱり「かえって、めんどくさい」と言う答えが返って来るわけです。


慣れないやり方が「めんどくさく」感じるというのもあるかもしれませんが、

どちらかと言うと、「人から言われるとやりたくなくなる」という感じなわけです。

そういうときの人の表情が、きまって「意地っ張りな顔つき」になっています。


でも、それだと、いつ進歩するんですかね?

人間は、人から言われたことをヒントに進歩することがほとんどだと思うのですが、

「人から言われるとやりたくなくなる」だと、かなり機会が減ると思うわけです。


そんなに「意地っ張り」ならば、とりあえず人に言われたやり方でやってみて、

その後、もっといい方法を編み出して教えてくれたらとても役に立つと思うんですが、

「かえって、めんどくさい」と言ってそこで終わってしまえば、

お互いに、なんの役にも立たないわけです。


だから、「かえって、めんどくさい」は、

本当に「めんどくさい」とき以外は使わないでほしいなと。

そんな風に思いますです、ハイ。



今も、日本人は「集団暗示」に陥ってませんか?

ハッキリ言って、日本人は、集団暗示にかかりやすいと思うのです。


第二次大戦中の話でよく聞くのが、

「あの時は本気で、B29を竹槍で落とそうと思っていた」という話です。

「タケヤリ」ですよ。

「突いて」ですよ。

何千フィートとか届かないですよね。

また、「神の国である日本が、負けるわけないと思っていた」なんて言うのもあります。


そこにあるのは、理屈でも、理由でも、根拠でもなく、「集団暗示」なわけです。

要するに、いいようにコントロールされていたわけです。


ナチス時代のドイツや、現在の北朝鮮なども

皆同じだと思いますが、国全体が「集団暗示」にかかってしまっていて、

「それ、間違ってますよ」と言う人が居なくなってしまうわけなのです。


その点では、今の日本も「集団暗示」の真っ最中だと思うのです。

ただ単に、ナチスや北朝鮮と比べると、ややソフトかな?と言うだけだと思います。

「そんなバカな」と言うのは暗示にかかっているという証拠かもしれません。


実際、軍国主義の時代「大本営発表」や「教育勅語」で、人の意識がコントロールされたように、

今も、新聞やマスコミで流れる情報を、操作するコツを上手く使えば、

人心は、いとも簡単にコントロールされるという風に感じます。


事実、新聞や本に書いてあることと違うことを言うと、

ほとんどの人が、強い反発とともに、

「そんないい加減なことを言うもんじゃない!!」と言う反応を返してきます。


そして、そこには、理屈も、理由も、根拠もなくて、

ただただ、「新聞や本に書いてあるから」や「ニュースで言っているから」なわけです。

こうなればもう、「新聞に書かせさえすれば」、「ニュースで流しさえすれば」なわけです。


実際、ここ数代の総理大臣で、人気があった人と人気がなかった人の差は、

マスコミを上手く使った人と、それができなかった人の差しかないわけで、

政策や、外交での成果なんて大した差はないようにしか思えないわけです。

「そんなこと新聞に書いてない」でしょうが、事実だと思います。


簡単にコントロールできる状態の国民が居れば、

誰かがコントロールしようとするに決まっているわけです。


そして、ここが一番始末の悪い所なわけですけれど、

実は、コントロールしている側の人たちも、「集団暗示」にかかっているようなのです。

おそらく、ナチスという「集団暗示」に最も強くかかっていたのは、

ヒトラー本人だったのではないでしょうか?


だから歯止めが利かなくなるわけです。


日本人も、どちらかと言うと「集団暗示」にかかりやすい民族特性を持っているように思うわけです。

だから、それなりに注意が必要なのではないのかと思うんですね。


少なくとも、現在、理由や根拠と無関係にまかり通っている

「正しい」や「間違い」が非常に増えているように思うので、
(と言っても、いつの時代にもありますけどね)

自分が「集団暗示」にかかっていないかと再確認してみる必要があるのかなと。


「~で言っているから」という以外の理由がないことは

ほとんど疑ってみた方がいいと思いますね。


そこで残ったものが本当のことだと思います。

たぶん、ほとんど何も残らないはずです。


「新聞や本を読んでいないとわからないこと」はどうでもいいことで、

「新聞や本を読んでいなくてもわかるようなこと」が本当のことなのかなと。
(こういう話で、「本」を同列に扱うと反対する方も多いでしょうが、
 「本」も盲信すれば危険であることに何ら変わりはないものだと思います)

そして、「本当のこと」は、それぐらいで十分なんじゃないかと思うのです。


そして、そう思うことで「集団暗示」から抜けられるのではないのかなと。

そんな風に考えています。





「前向き」は現世利益の宗教と同じでは?

現在、「前向きに生きること」は、ほぼ全面的に肯定されているわけですけれど、

これは、構造的には、ほとんど「現世利益」を謳った宗教と変わらないと思うわけです。


つまり、「前向きに生きること」で「こんなにいいことがありますよ」と言っているわけで、

「お賽銭を入れる」と、「何かきっとご利益がありますよ」と言うのと、あまり違わないわけです。


実際は、「宗教」も「前向き」も、高い見識をもって、言っている人もいるのだと思います。

でも、大多数の人はどこか現世利益的なのではないのでしょうか?

それは、当然のことだと思いますし、

それら大多数の人たちが指向するところこそ、それらの本質であるとも言えるのではないでしょうか?


「前向き」と「宗教」の中間的な位置に「スピリチュアル」と言うのがありますが、

こちらは、「来世でいいことがある」という感じですか?


私は、「前向き」も「スピリチュアル」も流行だと思いますが、

どちらも、もう頼れなくなった宗教の代わりに現れてきているのだと思うわけです。


もともと、宗教からして、そうだと思うのですけれど、

清く、正しく、前向きに生きてさえいれば、いいことがあるのならば、

たぶん、宗教も「前向き」も「スピリチュアル」も必要ないと思うわけです。


そう成らないからこそ、それらの「ポジティブ・シンキング」が必要になってくるんだと思うわけです。

少なくとも「霊が見える」とか「オーラが見える」とかいう人じゃなくて、

ごく一般的な人にとっては、そういうことだと思うのです。


もちろん、そういう「清く、正しく、前向きな」が悪いということは無いわけで、

むしろ、とてもいいことだと思うわけですけれど、 

宗教や「前向き」や「スピリチュアル」だと、少しイメージが先行しすぎるように感じてしまうわけなのです。


見栄えのいい切り口だけ見えて、そうでないところが見えなくなってしまうような、

そんな感じを受けるわけです。


これらのことで、「現世利益」を期待しながらも、

「浄化」されたような、「得」を積んだかのような、印象を持つのは、

私は、ちょっと違うのじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


実際には、「浄化」や「得」の方は、

「それによって、むしろひどい目にあってもそれをやりますか?」ということな筈で、

それは「現世利益」とは相反しているわけです。


結局、「これをやるといいことがありますよ」は「流行」止まりな感じがするわけです。

「これをやって、痛い目にあってもやりますか?」

「それでも正しいことならやります」と言うのが本物だと思います。


そういう人が、そう簡単に増えることは無いのでしょうが、

そんな人が増えれば、きっと世の中少しは良くなるのでしょう。


これだけ、『自称「前向き」に生きている人』がふえて、

これだけ、神社にお参りに行く人が増えているのに、

あまり世の中、良くなってない感じもするんですよね。


そういう人たちの周りだけ、雨が降らないということなんでしょうか?


そんな感じが、私は消せません。





政治の力量

政治を行っている政治家も、その政治家を選んでいる国民も、

現代の「政治の力量」を少し大きく見積もり過ぎているように思うわけです。


現在、「政治の力量」は、一般的に考えられているよりも遥かに小さいのではないかと思うわけです。

本当は、そんなことじゃいけないのかも知れませんけれど、

期待し過ぎなんじゃないのかなと思ってしまうわけです。


新しいタイプの政治家が現れたり、大物政治家が新党を立ち上げたりするたびに、

国民の期待を集めるということがあるわけですけれど、

考えてみれば、歴史を遡ってどこまで行っても、

政治はいつも、権力闘争と、腐敗を繰り返していたわけで、

それが今さらクリーンな政治が実現されるとは到底思えないわけです。


また政治家の側も、財政改革だとか行政改革などと言う、できもしないようなことを、

いつも追い求めているように思うわけです。


実際には、政治がその国を発展させたり、その国の地位を向上させたりしてきたのは、

ほとんどの場合(すべての場合と言ってもいいのかもしれませんが)、

戦争や植民地政策・外交などにおいて、上手く立ち回った場合であって、

要するに、他国の犠牲のもとに成り立っている発展であったと考えるべきだと思うのです。


それらの不均衡を前提にした政治からようやく脱却しつつある現在、

露骨な形で他国の犠牲を強いるような政策は、とれなくなっているわけで、

そうなるとできることが限られてくるわけです。


だから、現在の「政治の力量」は、考えられているよりもかなり小さくて、

ほんの些細なことをするのが、精いっぱいなのではないのかなと。


だから、政治には、今考えられているよりもずっと小さなことを、期待した方がいいように思うわけなのです。

その小さなことを基礎にして、もっとスケールの大きな政治が行われるようになれば、

それは素晴らしいことなのでしょうが、

そういうことを期待できるようになるのは、かなり先のことのような気がします。


それにしても、毎回毎回、目先が変わるたびに、

よく期待できるよなと

どうしても、そう思ってしまうわけなのです。




「ポジティブ」過ぎなんじゃないでしょうか?

このブログでは、何度か繰り返し言ってきていることなのですけれど、

現在の日本では、「ネガティブ」であることが忌避され過ぎていると思うわけです。

でも、だからと言って「ポジティブ」が悪いというつもりは、まったくないわけなのです。


と言うよりも、私自身どちらかと言えば「ポジティブ」側でもあるわけです。

ですから、「ポジティブ」であることは、いいことだと思っていますし、

「ネガティブ」を全面的に肯定すべきだとも思わないんですね。


そこで、この「ポジティブ」と「ネガティブ」を「ポジティブ」の側から見ると、

「前向き」で、「肯定的」でと、いいことが多いわけですが、

それでも、やっぱりマイナス面もあって、

その中でも決定的なのは、「批判力」を持たないということでしょう。

そして、さらには「批判精神」自体を打ち消してしまうような作用も持っているように思うのです。

(「批判」をも含めて「ポジティブ」に捉えるということを言ってしまうと、なんでも「ポジティブ」に成ってしまって、
「ポジティブ」という言葉自体が成り立たなくなってしまうので、これは無しでしょう。)


「批判精神」を失うということは「進歩」しなくなるということです。

「前を向いて」いても、その場で足踏みしていたのでは、「ポジティブ」とは言えないでしょう。

少なくとも、いま日本で言われている「ポジティブ」には当てはまらないでしょう。


「肯定的」ということは「現状肯定」をも意味します。

「進歩」や「変化」は「現状否定」から生まれます。


現在、恵まれた立場にある者が、「現状肯定」を支持するのは、ある意味当然のことですが、

それを、「ポジティブ」とは言わないでしょう。

それは「保守的」なことであり、

「保守的」なことは、正当な権利の範囲で行われる限り、何も悪いことだとは思いません。

でも、やはり、まったくもって「ポジティブ」なことではないと言わざるを得ないのであります。


つまり、現在の日本で使われている「ポジティブ」は、「肯定的」と「進歩」と言う二つの意味を、

両立させるべき言葉であるように思われますが、

この二つには背反的な面が多分にあるということでしょう。


こうなってくると「ポジティブ」の設定自体が、怪しくなって来るわけです。


要するに、表と裏の両面がないと全てのものが成り立たないというのと同じで、

「ポジティブ」と「ネガティブ」も両方あってこそ成り立っているのだと思うわけです。


そこで、どうしても、

「ポジティブ」は無条件に「OK」「ネガティブ」は全て「NO」という、

今の日本の状況が〝行き過ぎ"と感じてしまうわけなのです。


私に言わせていただけるのならば、

現在の状況は明らかに〝行き過ぎ"で、

「ポジティブ信仰」と言ってもいいように感じてしまうわけですが、

その、時として滑稽なほどの〝行き過ぎ"が、全面的にまかり通ってしまっているわけなのです。


これでは、「前向き」で素晴らしい「ポジティブ」の裏側に回ってみたら、

中身はカラッポだったということに成りかねないし、

現に、そういうことが日に日に増えてきてもいるように思われるわけなのです。


この状況を打開するには、現在「ポジティブ」を支持している側の人が、

この〝オカシサ"を感じたときに、

『「ポジティブ」であるべき』とか、『「ネガティブ」は避けるべき』という考えに捕らわれずに、

今よりも、積極的に「ネガティブ」を取り入れていく以外にないのだと思うわけです。


つまり、見栄えのいい「ポジティブ」に

地味な「裏付け」を与えていく作業が、必要になってくるのだと思うわけです。


そして、そういう作業を行ってみると、

現状の「ポジティブ」の中に「裏付け」のしようが無いようなもの、

言い換えれば、実体の無いものが、いかに多いかに気が付くのではないのかなと。


そんな風に、思ってしまうわけなのです。



人は教えられたことしかしない

人間という生き物は自分で考えて行動しているようでいて、

実は、人に教え込まれたことしかしようとしないものだと思うのです。


自分のことも含めてですけれど、

子供の時に教え込まれたことと違うことをするのには、かなり抵抗があったりするわけです。


これ自体は、何も悪いことだとは思わないわけです。

例えば、人が極端に逸脱した行動に走らずにいられるのも、

純粋な道徳心や正義感からと言うよりも、

ただ単に、教えられたことに従って行動しているからということが多いと思うわけです。

と言うよりも、むしろ、それに逆らうことができないからといった方がいいのかもしれません。


ただ、これは動物にも同じようなことが言えるわけで、

動物もまた、親に教えられたことをやっていたりするわけです。

それから、遺伝的に習性として受け継がれている行動なども、

これと似たようなものなのでしょう。


でも、人間はもうそろそろこの状態から脱して、

自分の考えを以って行動するような習性を、身に着けるときが来ているように思うわけです。


もちろん、何も教えられずにゼロからすべて自分の考えで行動することはできないと思いますが、

教えられたことを基盤にして、独自の考えを加えたのちに行動に移すということです。


「そんなことは、皆やっていることだろう」と言う人もいるかもしれませんが、

実際には、この部分で人間は他の動物とさほど変わっていないように思うのです。


人間の行動が他の動物と違って見えるのは、

その「教えられること」が、複雑だからであって、

一人一人が、独自の考えで行動しているからではないように思われるわけです。


そして、その複雑な「教えられること」とは、

ごく一部の”自分で考えた人たち”が、

考え出したり、見つけ出したことなんだと思うわけです。

要するに、「考え出す側の人」と「教え込まれる側の人」が、

くっきりと分かれてしまっているように見えるのです。


もちろん、全ての人が研究者や発明家に成る必要はないわけですから、

社会にとっては、それでもいいのかもしれませんが、

そういう社会の効率とか、道徳と言った話ではなく、

どちらかと言うと、生物とか動物としての人間が、

いま、そのような位置に来ているように思うわけです。


つまり、「考え出す側の人」と言うのは、

人類の進化の過程において、ほんの少し早く体毛が薄くなった個体や、

いち早く直立に近い形で歩行できるようになった個体と同じように、

”単なる先駆け”に過ぎないのだと思うわけです。


そして今、人間は「考える習性」を身に着けることができるような位置に来ているのではないのかなと。

言ってみれば、もっと人間全体が「考え出す側の人」になってもいいような気がするわけです。


それから、もう一つ、時代のスピードが加速度的に増している現在、

過去に「考え出されたこと」では、時代に追いつけなくなってきているわけです。

もはや、”特別な人”が「考え出したこと」を”普通の人”に「教え込んで」いたのでは、

時代に間に合わなくなってきているわけです。


そういう意味でも、「教えられたこと」しかしようとしないという習慣から抜け出していかなければ、

時代に振り回されるだけなのかなと。

現に、今の社会にはそれに当てはまることが増えているようですし、

「教えられたこと」に何か一つでも自分なりの見解を加えてから行動にできればいいのかなと。


そんな風に考えたりもしています。

「まぁ、たまにしか出来ないですけどね」




いま、「歳をとること」の意味

私が子供のころは(4~50年前)、原則として「年寄り」は尊敬されていたと思うのです。


現在はどうでしょうか?

私には、どうしても「年寄り」が尊敬の対象ではなくなってしまったようにしか見えないわけです。


例えばの話、ここで「年寄り」と言っているわけですけれど、

これに対して、気を悪くする人もいるのかな?と思ってしまったりするわけですよね。

せめて「お年寄り」などと言うべきなのか?とか。


でも、そもそも、「年寄り」が尊敬されるものであれば、

そんな配慮の必要はないはずなわけで、

そこには、「年寄り」と言うよりも「歳を取ること」自体を、

「劣化」と看做すという世の中全般の傾向があると思うわけです。


そして、こんなことを言っても、

「そりゃ、若い方がいいに決まってるでしょ」と言われてしまうわけですが、

いつから「若い方がいいに決まった」んですか?


少なくとも、はじめに書いたように、4~50年ほど前までは「年寄り」は尊敬されるものでしたし、

「年寄り」=「重鎮」であったり、「老境」=「威厳」であったりしたわけです。


確かに、そのころから、「若いっていいねぇ」などとも言われてはいましたけれど、

それは、あくまで「若さ」の”未熟さや至らなさ”を含めての「いきおい」に対する、

尊敬される側からの「余裕の言葉」であって、

決して今のような「年寄りですいません」みたいなものではなかったと思います。


この状況は、拙いと思うのです。

良くないというより「ダメ」だと思います。


当然すべての若者が歳を取るわけですから、

将来の自分をも含めて、否定してしまっているわけですよね。

そして、自分が否定してきたので、否定される側に回った時に認めざるを得ないわけですよね。

それが「年寄りですいません」みたいなコメントになって出てきているのだと思うわけです。


要するに、誰にとっても「ダメ」なわけですね。


それから、実はこれが一番言いたいわけですが、

人間はまだ「人間未満」だと思うわけです。

これはほかの記事にも書いたことですけれど、

人間は、人間自身が設定した、「人間と言う概念」に到達していないと思うわけです。

つまり、「額面上の人間」と「現状の人間」が一致していないということですね。

「額面上の人間」がかなり理想化されているために、なかなか追いつけないという感じでしょうか。


だから、「人間」に成るためには、かなり時間がかかるようなのです。

それは、一生を費やしてもまだ到達できないようなもので、

若いうちに到達できるようなものではないと思うのです。

それに、もし、若いうちにその境地に至った人が居たとしても、それは「若さ」とは無関係でしょう。


現在、ようやく教育や情報が整備されてきて、

人間は「人間」に成るときが来ているように思うわけです。


でも、今のように「歳をとること」を「劣化」と看做し続けていれば、

それは、達成されることは無いでしょう。


「若者」にそれを期待するのは、今のところ無理なのだと思うのです。


それは歳を取った者が最後の責任として、

有終の美を飾るための、人生最後の仕事なのだと思うわけです。


その先には「いい人生」ではなく、「いい死に方」があるのだと思うのです。


私は、このところ「死に方」は「生き方」よりも重要なんじゃないかと思っています。

と言うよりも、「いい生き方」は「いい死に方」のためにあるのかもしれないということです。


人間と言う動物は、百年ほども成長し続ける「種」になりかけているのかなと。

でも、成長しても尊敬されなければ、そこで止まってしまうでしょう。

「人間」に成る前に。


というところで、

何はともあれ、「年寄り」は尊敬しましょう。

ただし、これは「エラク成ってしまったジジイにぺこぺこしろ!」ということではありません。
(そういう人は、人間としての「歳をとること」はしてこなかったんだと思いますね)

一般論として、「歳をとること」に敬意を払いましょうということですね。

と言う話でした。




「真面目さ」を”バカにする”風潮

現代の日本社会には、「真面目さ」を軽視する傾向があると思うわけです。

そして最近になって、この傾向が急に強まって「真面目さ」を”バカにする”人が激増していると思うのです。


もともと、日本人の長所として、いつも決まって挙げられていた「真面目さ」や「勤勉さ」が、

いつの間にか軽視されるようになり、

今では、とうとう”バカにされる”ようにまでなってしまったわけです。


しかも、最近の傾向として、どうやら「真面目さ」を一番”バカにして”いるのが、

「真面目な人」のようなのです。
(本質的に真面目と言うよりも、表面的に「真面目な人」ということだと思いますが)

と言っても、その人自身は、自分がその「真面目な人」だと認めてはいないようです。

どうも、自分は「そんなには真面目じゃない」と思いたがっているようです。


「真面目な人」と言うのは、真面目なだけに、

社会が『「真面目さ」を”バカにする”』と言う方向を指し示すと、

その方向性に、”真面目に”従って、それを”バカにする”ようになってしまうようなのです。

しかも、自分が「真面目な人」だということも認めたくなくなってしまうようです。

そりゃ、バカにされたくないですからね。


その人たち自体は、いたって普通の人たちで、

どう見ても、不真面目な人でもチャランポランな人でもありません。

むしろ、普段言っていることなどは”お堅い”感じの人たちなわけです。

ところが、ひとたび「真面目さ」に関わるようなキーワードを提示されると、

かなり、露骨に”バカにしたり”するわけです。


「さっきまで言っていたことと違うでしょ!?」と思ったりもするわけですが、

本人たちは、ほとんど気にもしていないようです。


昔から、「真面目くさって」とか「くそ真面目」といった言葉で、

「真面目」なばかりがいいわけじゃない、ということは言われてきたわけですけれど、

それはあくまで「真面目さ」がベースにあっての話で、

あまり行き過ぎると、よくないと言っていたのだと思うのです。


今のは、それとはまったく違います。

「真面目さ」を憎んでいるように見えるときすらあります。


ここからは全くの想像です。根拠はありません。


日本人は「真面目だ。真面目だ。」と、それしかとり得が無いように言われ続け、

それでいて、その「真面目さ」が世界に対峙した時の「勝負弱さ」になったりするのを見続けてきて、

「もういや!」になってしまったのかなと。


もともと、江戸期までの日本人は、それほど働き者でもなかったという説もあるようですし、

「日本人」=「真面目」というのに無理があったのかなと。

鎖国していた日本が、世界に追い付こうと、がむしゃらにふるまう姿が、

世界の中での「日本人」の位置づけを「真面目」にしてしまったのかなと。


世界に「追い付け追い越せ」と、上へ上へ向かっている時には、

「真面目」と言われようが、それしかとり得が無いと思われていようが、

気にせず邁進できたのかもしれませんが、

高度成長が終わり、バブルに浮かれ、そしてそれもハジケ、

それまで、我慢してきた「真面目のレッテル」が、

「もういや!」になってしまったのではないのかなと。


そして、ここからが言いたいことなわけなのです。

”バカにしている人”の「真面目さ」は表面上の「真面目さ」です。

ただ単に常道を外さないというだけです。

こんなものはどうでもいいわけです。

でも、”バカにされている”方の「真面目さ」が「本物の真面目さ」だったりするわけです。


この本質的な「真面目さ」を”バカにする”と何も生み出されません。

根本の所に「真面目さ」のないものは「クズ」だと思います。

「クズ」程の意味もないかもしれません。


日本人だろうが、ナニ人だろうが関係ありません。

動物だって「真面目に」生きています。

石ころだって「真面目に」存在しています。

だから「クズ」だって、きちんと「真面目に」そこにあるわけです。

だから、それは「クズ」にも満たないのかもしれません。
(ただし、人間は完全に不真面目にもなれないと思いますが)


表面上において、「真面目」を選択しようと、「不真面目」を選択しようと、

どちらでも自由だと思います。

どっちでもいいことだと思います。

でも、根底に「真面目さ」のないものには、何の意味もありませんね。


表面的にとはいえ「真面目な人」が「真面目さ」を

”バカにしている”なんて光景は、

あまり見たくないですね。


そういうのは、悲しいだけなのかなと。

そんな風に思ってしまいますよね。



「いっしょうけんめい」について

だいぶ前に聞いた話なのですけれど、「いっしょうけんめい」には、

「一生懸命」と「一所懸命」(これは「いっしょけんめい」と読むらしいです)があって、

ずっと懸命にやり続けるのが「一生懸命」で、

とにかくその場だけでも懸命にやるというのが「一所懸命」だそうです。


それを言っていた人は、「一生懸命」は、そう簡単にはできないけれど、

「一所懸命」ならば、誰でもやる気さえあればできるはずだと言っていました。


その通りだと思いました。

今もそう思います。


でも、前の記事と同じような話になってしまいますけれど、

この「一所懸命」も、どうもあまり評価の対象にはならなくなってしまったようです。


これは、”バカにされる”まではいかないようですが、

今の風潮としては、同じことをするのでも”スマートに”こなした方が評価が高いようです。

「一所懸命」にやって、どうにかできた人よりも、

汗一つかかずにやってのけてしまった人の方が、今は高く評価されるようです。


確かに、簡単にやってのけた人の方が「能力」が高いとは言えるのでしょう。

でも、人間としての潜在力となるとどうでしょうか?

四苦八苦の末にできる人と、労せずしてできてしまう人のどちらが

人間的な力を蓄えているのでしょうか?


それは、まぁ、それぞれの人の判断に任せるべきことなのだと思いますけれど、

少なくとも言えることは、ここで言う「能力」とは、

実は、それほど高度なものでも、洗練されたものでもなく、

比較的単純な作業を能率よくこなすという種類の「能力」だということだということです。

そうでなければ、簡単に出来てしまう筈がないわけですから。


一方、人間的な潜在力と言うのは、高度とか洗練とも違うかもしれませんが、

単純作業や、作業効率などと言うほど安易なものでもないことは確かでしょう。


私は、単純作業をこなす能力よりも、人間的な潜在力の方が、

その人の実力と呼ぶにふさわしいものだと思いますから、

どちらかと言えば、こちらを評価したいと思うわけです。


それから、はじめの話に戻ってしまうのですけれど、

「一生懸命」は並大抵のことではできないけれど、

「一所懸命」はやる気さえあれば誰でもできるという所なわけです。


「一生懸命」ぐらいのことをして、

はじめて、評価に値するほどの「能力」なのだと思うわけです。

そして、「一所懸命」は誰でもできることだけど、

その誰でもできることを懸命になってやるところが、「いい」わけです。

でも、簡単にできるというのは、「能力」としても大したことは無いですし、

それほど「いい」とも思えないわけなのです。


とはいえ、私も「簡単にできる」の方が、”カッコイイ”と思っていました。

なんでも”スマート”にやった方がいいと思っていましたし、

それが洗練やセンスだと思っていたわけです。


でも、違ったみたいです。

ぜんぜん、違ったみたいです。


人間的な内容が無いと、洗練もセンスも陳腐なだけでした。

まして、「能力」なんて、機械でもできてしまうようなことを、できると言っているだけです。


かと言って、「一生懸命」のような本物の「能力」には及びもつきません。

要するに、「一所懸命」ぐらいしかできないわけですよね。

でも、そこからも洗練やセンスは生まれてくるように思っています。


だから、そこを抜いてしまったら、何もできないと思いますから、

なんとか「「一所懸命」でもってやっていこうかなと。


そういう風に思っています。




人間は「食物連鎖の環」から外れた動物

「弱肉強食」とか「自然淘汰」というのは、

自然界のバランスを保つための、最も根源的な法則だと思うわけです。

でも、人間はこの原則から外れてしまっているように思うわけなのです。


人間は、自分が食べるために動物や植物を生産します。

人間は、特定の動植物を乱獲して、そのあとでそれを保護したりもします。

人間は、自分に有用な「種」を改造します。

人間は、産業廃棄物を排出しつつ、エコロジーにも配慮して、そのエコを産業にしてしまったりもします。


全体的に、まったく”理に適っていない”わけです。

そこには、「弱肉強食」や「自然淘汰」の崇高さや普遍性はなく、

常に短絡的で、その場のことしか考えていないようにしか見えないわけですよね。

でも、人間にはそれが出来てしまっているわけなのです。


そして、人間はそれをやめないでしょう。


もちろん、世界の中では人間の存在など小さな点のようなもので、

自然の法則は、人間のすることなどすべて押し流してしまうのでしょう。

それはわかるのです。

でも、出来てしまっている。


「いやいや、全然自然に太刀打ちなんて出来てませんよ」

と言われれば、そうも思いますけれど、

でも、やっぱり出来てしまっているように見えるときもある。


もっともっと、出来ないはずじゃないのですかと。

こんなに出来てしまっていいのですかと。

たとえこの程度でも、出来るはずがないんじゃないんですかと。

原則から外れたものが、出来続けるるなんて有り得ないことなのではないのですかと。

誰かに聞きたくなってしまうわけなのです。


この原則から外れたことを手放せなくなった人間にできることは、

”理に適っていない”ことや”場当たり的な”ことしかないのでしょうか?

それが止められないのであれば、

それを「原理」や「法則」に近い所にまで昇華しようとするべきなのかなと。


好むと好まざるとに関わらず、

人間は「食物連鎖の環」から外れた位置に立たされてしまっているように思うのです。

人間だけが円環していないように見えるのです。

だから、その「環」をつなぐような方向で考えていかないと、

人間だけが浮き上がってしまうように思えるわけなのです。


どうすればそれができるのかは、わたしにはわかりませんけれど、

少なくとも、「競争」や「淘汰」と言った、そちら側の法則ではないのだろうなと。

そこからは、すでに外れてしまっているわけですから。


だから、人間が協調しようとしたり、助け合ったりするのは、

必ずしも善悪とか正義の問題でもないように思うのです。

もう少し大きな枠組みの原理に基づいているのかなと。


人間社会の未来像は、SF映画に出て来るような無機質的な世界ではなく、

且つて人間界に存在したと言うことが、もはや伝説化してしまっている「人情」など、

及びもつかないほど「人情味」があって、

過去になかったほど、濃密に有機的な空気が充満した空間なのではないのかなと。


そんな空想を感じるときもあります。




「奇跡」について

「奇跡」と言う言葉は、けっこう簡単に使ってしまうわけですけれど、

本来は、「神」に直結した神聖な言葉なのではないのかなと思うわけです。


本来「奇跡」とは、ただ単に有り得ないようなことが起きたというのではなく、

神的な力が降臨して行われたことを指して言うことなのかなと。


でも、現代人にとっては、神聖さがあまり強く感じられない方が都合がいいようにも思えるわけです。


現代社会においては、「神」の存在感はかなり希薄だと言わざるを得ないわけですが、

そういう状態の中で、「神」を感じられて、なおかつ信仰心までは求められないで使える言葉が、

「奇跡」や「天才」なのだと思うわけです。


だから、「神」を失った現代人が、

それらの言葉を無意識のうちに多用するようになっているのかもしれません。


「奇跡」とは、その時代においての

「最先端の不思議」=「人知を超えたもの」であると言い換えることができるように思うわけです。


「奇跡」だと思われることでも、その「不思議」な部分が解明されて、

当然そう成るべくして成っているとわかってしまうと、

それはもう「奇跡」ではなくなってしまうわけです。


マジックなんかでも「不思議」なものとしてみている時は、

それが魔術的なものに見えるのに、

種(たね)が解ってしまうと、それは一つの特技にしか見えなくなってしまうわけなのです。


逆のことも言えて、科学などの堅実な分野でもまだよくわからない部分の多いこととなると、
(例えば、遺伝子操作などですね)

それは、まったく「神秘」としか思えないわけですね。

そして、それもある程度まで解明されてしまうと、単なる「理論」としてそこに収まってしまうわけなのです。


つまり、「奇跡」とは、未だ解明されていない物事を、

「神」のなせる業としてきたことの「名残り」であると思われるわけなのです。


現在までに人間がたどり着いた結論は、

実体のある「神秘」はいずれ解明されるということ、

解明されない「神秘」には実体がないから、永遠に解明されないということ、

そして、実体のない「神秘」はあまり役には立たないということ、ぐらいでしょう。


こんなことを言うと信仰心の厚い人は、怒るのかもしれませんが、

「神」は結局人間を救済しないと思うのです。

「信仰」は人の精神を強くしているというよりも、

それが依存するものになってしまっていると思うのです。


よくよく考えてみれば、「神」が人間を救済するはずはなく、

試練を与えるに決まっているわけですから、

人間を救済できるのは人間しかいないはずなのでしょう。


人間が、やっとの思いで人間自身を救済した時に、

姿を現わして「これこそが私の与えた救済である」と言うのが

「神」というものの持っている本質的な構造なのだと思うわけです。


だから、こういうことを聞いて「信仰」を持っている人が怒るのは、ちょっとおかしくて、

そのような「神」を「信仰」出来るのか?と言うところに

現在の宗教というものはあるように思うわけです。
(本当は昔からそうだったのかもしれませんが)

もし、「神」をそのように言うことを冒涜であると感じるのであれば、

その人の「信仰」においては、

「神」は絶対者ではないということに成ってしまうわけです。


とは言っても、私は「宗教」も「神」も否定するつもりはありません。

ただ、現在においての「神」や「信仰」の在り方が、私にはそのように思えるというわけです。

そして、時の流れの中で「神の時代」はその意味が薄れてしまったと思うわけです。


そして、それは「奇跡」にも同じようなことが言えていて、

「信仰心」を持ちきれなくなった現代人が、

「奇跡」や「天才」と言う言葉に陶酔してしまうのは、

そこに依存してしまっているからのように思われるわけです。


だから、人間自身が人知を超えたことが出来るのか?ということになってくるわけですけれど、

人間ですから、人知を超えられるわけないですよね。

だけど、人間ですから、人知の範囲内でいいんじゃないかと思うわけです。

そこで、「人間ですけど、なんか悪いんですか?」と言えるようになることが、

人間にとっての救済なのかなと。


あまりに”しょぼい”感じなわけですが、

その”チープ感”を受け入れられるのかどうかが意外と高度な感じもするわけですよね。


それができれば、人間は「宗教」から抜けられると思うのです。


実は、そこから人間と言う「種」が始まるのかなと。

それこそが、人間の起こす最初の「奇跡」なのかもしれません。


そんな風に思っています。






「健康」について

何かにつけて、「健康」の大切さが身に染みている今日この頃なわけです。


「健康」が大事なのは当たり前のことなのかもしれませんが、

人間の場合「体の健康」と「心の健康」の両方に気を配らなければならないので、

そこの所が特に難しくなっているように思うわけです。


ただ、言葉の上で「健康」と言ってしまうと

「完全な状態」が「健康」で、「不完全な状態」は「不健康」のようになってしまうのですけれど、

「完全な状態」などは、ほとんどないわけですから、

実際は、「不完全な状態」の中での健康を「健康」と言っているわけなのでしょう。


「一病息災」みたいな感じですか?

でも、実体としては「二病」でも「三病」でも「息災」であればいいように思うのです。


「息災」って何なんだかよくわからない言葉なわけですが、

それでも取り敢えず「息災」ならいいんじゃないの?と言うところですかね。


重い病気の人に関しては、

可哀相だと思うのもかえって失礼なようにも思いますし、

逆にそう思わないのも非道なことのようにも思えて、

そこの所の判断は付きませんけれど、

少なくとも、かなり重い病気の人の中にさえ「息災」はあるのだと思うわけです。


そして、「体の病気」についても「心の病気」についても言えることだと思いますけれど、

病気であることを自覚していることは、とても「健全なこと」のように思うわけです。

もっとも「病的」なのは、「病気」を自覚できないことだと思うのです。

そして、そこには「息災」はないように思います。


自分の「病気」を自覚できている人と言うのは、

どこか「健康」な気がしてしまうのです。

それは、ただ「頑強」ではないというだけで、

「健康」に近いのかなと。

そんな風に思ってしまうわけなのです。


「病気」と言うのは完全に克服しなくても、

自覚して把握してしまうと「病気」とは言い切れなくなってしまうようなところもあると思うのです。


もともと、全ての命は、生まれた瞬間から「死」に向かっているとも言えるわけで、

「病気」があってもなくても はじめから「余命〇〇年」なのだと思うのです。

ただ、若いうちはその「〇〇年」が長いと思っているというだけのことなのでしょう。


だから、どんなに健康な人でも生まれたときには、もう「余命100年ぐらい」なわけで、

その人が50歳なら「余命50年ぐらい」なわけです。

それと「余命3年」というのとがどれほど違うことなのかはわかりませんけれど、

少なくとも、みんな”期限付きの人生”を生きているのは同じなわけなのです。


つまり、全ての人が「余命〇〇年」の「病気」の人生を生きているとも言えるし、

逆に、全ての人が、”不完全な”「健康」の人生を生きているとも言えるわけです。


だから、そういう感じで「病気」を把握してしまうと、

あとは人生の期間が長いか短いかと言うだけの問題なわけです。


人生の長さは絶対的なことでもないと思いますけれど、

「健康」を大切にしていないと、「病気」を把握することもできないので、

やっぱり「健康」は大切にする方がいいのかなと。


そう思う、今日この頃なのであります。



「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」

昔は、と言ってもだいぶ昔ですが、大人が公然とマンガを読んでいたりすると、

白い目で見られるというようなところがあったと思うのです。

おそらく今の若い世代では、そんなことを言っても、それがどういうことなのかもわからないのでしょう。


つまり、一言で言えば、昔の人は”シンジラレナイほど頭が固かった”わけです。


子供が読むものと大人が読むものは、はっきりと分かれていて、

大人が子どもの読むものを読むことや、子供が大人の読むものを読むことは、

「イケナイこと」に近かったわけです。


それが、「アニメ」と言う媒体を経たことによって、

いつの間にか「大人用」と「こども用」が一体化して、

その境界線も曖昧になり、お互いに出入り自由になったわけです。


そして、「オタク」が登場したことで、「こども用」であったはずの「マンガ」や「アニメ」が、

とうとう「大人用」の文化になったと言えるのだと思うわけです。


そのこと自体の是非を問う気はありません。

取り敢えず、昔の人の頭が固すぎたのは間違いないので、

その分だけは良かったのだと思います。


それよりも、このこと自体の是非を云々することによって、

かえって不透明になっていることが多いように思うわけです。


ここで、起きたこととは、「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へという移行にともなって、

1.大人が幼稚化したということ、

2.子供が子供でいることを許されなくなったということ、

3.「マンガ」と「アニメ」が文化として発展したということなわけです。

そして、この中で尤も顕著なのが、1で、次が2で最後が3であるということです。


「マンガ」や「アニメ」の「オタク」の人に言わせれば、

「そんなことは無い!」のかも知れませんが、

実際には「マンガ」も「アニメ」も、かなり早い時期に頂点に近い位置にあったと思われます。

つまり、まだ「子供用」であった時点で、既に一つの頂点に達していたという感じがするわけです。

確かに、その後も変化し続けていますし、発展し続けていると言ってもいいのかもしれませんが、

それが、”場当たり的”な発展に見えるわけです。


この辺は、異論もあるでしょうから、私が勝手に言っていることだということです。


でも、どちらかと言うと、一番問題なのは二番目の

「子供が子供であることを許されなくなったこと」かも知れません。


「大人が幼稚化したこと」はさんざん言われますけれど、

その結果「子供が子供であることを許されなくなったこと」については見落とされがちです。

また、そのこと自体は、語られることがあっても、

この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へと言う変遷の中で、それが語られることがあまりないために、

この、今の日本社会を完全に象徴してるといってもいいような文化の話が、

そこからそっくり抜け落ちてしまうのです。


つまり、社会現象としての「マンガ」・「アニメ」・「オタク」はもう完全に「大人の領域の話」になっていて、

「子供の領域の話」ではなくなってしまっているわけです。

だから、子供の話には出てこないのでしょう。


大人が幼稚化したことの象徴が「オタク」であることは、ほぼ間違いのないことでしょう。

そして、幼稚化した大人が「子供の領域」を奪ってしまっていることも、

まずもって間違いがないことではないでしょうか?

さらに、社会機構の中で上位に居る「大人」が子供の領分を占めてしまっていることで、

「子供が子供であることを許されない」という状態になっているように見えるわけです。


結果、「子供」は「大人化」するしかないわけですけれど、

「子供」ですから「大人化」できないわけです。

「大人化」するには、経済力や社会的地位が必要になりますし、

「大人」に与えられる権利も義務も与えられませんから、

まったく無理なわけです。


そこで現在の「子供」は「子供社会」を「大人化」しているのだと思うわけです。

それが”イジメ”の構造だと思うのです。


そしてさらに言えば、その「子供社会」の”イジメ”に近いような、

”子供じみたイジメ”が、幼稚化した「大人社会」に蔓延ってきているというわけです。


そして既に、「そういう子供時代を経た大人」の世代に入っています。

つまり、子供時代には「子供であることを許されなかった」者が、

「大人になってからは幼稚化する」という歪んだ状況になってしまっているわけです。


この状況を克服するのは容易ではないように思われますけれど、

どう考えても、抜け出さねばならないように思うわけです。


「オタク」と言う文化をどう扱うべきなのかはわかりませんが、

少なくとも、海外で評価されていることなんかを、手放しで喜ぶのはどうなのかなと。

だって、海外の人は、そんな歪んだ社会の”ツケ”は負わなくていいわけですから。


要するに、「子供の大人化」と「大人の幼稚化」が、

何度もその不自然な循環を繰り返した後で、

そこから排出される「オタク」という文化に、

まだ、そんな”ツケ”を支払ってまで、手放さないでいるだけの価値があるのか?ということでしょう。


いま起きていることは、目を開けて見ればわかることだと思うのです。


それを見ないようにするのも、また、タヤスイことですけれど、

それで、近い将来、困るのも確かなことなのかなと。


そんな風に思えるわけです。





人に期待すること

人に期待すると、その期待を裏切られたときに、辛い思いをしたり、腹が立ったりするから、

人に期待しない方がよっぽどいい、という考え方があるわけです。

でも、期待しないのって、かなり難しいのではないのかなと思ってしまうわけなのです。


人間は、人に期待してしまうものだと思うのです。


もし、期待しないでいられるほど強い人が居るのなら、

おそらく、期待を裏切られたことぐらいは、屁でもないでしょう。


それから、人に一切期待しないと言うのは、とても冷たいことのように思ってしまうわけです。

感情を無理に”抑圧”しているように思えてしまうのです。


たぶん、そんな風に考える人と言うのは、

ナイーブな人で、傷つきやすいのだと思うわけですけれど、

そうであればなおのこと、

一切期待しないなどと言う無感情で冷たいことは出来ないように思うわけなのです。


だから、人に期待するときには、相手をよく見て期待するというのがいいのかなと。

と言っても、「期待に応えてくれる相手かどうか」を見るのではなくて、

その人になら「期待を裏切られてもいいと思えるかどうか」を、よく見極めるのがいいと思うのです。


先ほど、人間は人に期待してしまうものだと言いましたけれど、

実は、人間は、嫌いな人や全く感覚の合わないような人には、

ほとんど期待しないで居られるとも思うのです。


やはり、自分の好きな相手や同じ感覚を持っていると思っている人には、

ついつい期待してしまうのだと思うわけです。


だから、そういう人には期待した方がいいように思うわけです。

そういう人になら、期待を裏切られても、そんなに腹も立たないのかなと。


もしも、相手に悪気が無いのに結果だけが悪かったという場合であれば、

”期待を裏切られた”側と同じぐらいに、

”期待に応えられなかった”側も傷ついているかもしれないわけですから、

それは悲しい結果ではあっても、「もう、こんなやつには期待しない」ではなく、

「もう一度、この人に期待してみよう」と思えるのではないのかなと。


また、もしも、その人が自分の思っていたような人ではなくて、

自分を深く傷つけるような裏切り方をしたのであれば、

即、「嫌いな人リスト」行きなわけです。


人に期待することは、その人に対する評価をあらわしていると思うのです。

だから、期待しないということは、その人の評価が「0」であると言っていることに成ってしまうわけなのです。


人に期待することは、好きな人を高く評価するというとても人間的なことなのかなと。

それは、とても温かみのあることなのではないのかなと。


人に期待したり、人から期待されたりすることがなくなってしまったら、
 
かなり無味乾燥な世の中になってしまうのかなと。


そんなに、傷つくことを恐れなくても生きて行けるような世の中になればいいんですけど、

それでも無味乾燥なよりは、いいのかもしれないのですから、

こんな世の中であっても、期待し合って生きてゆくというのもありなのかなと。


そんな風に思っているわけです。



自殺について

このところ、自殺する人のことを聞く機会が、とても多いように感じるわけなのです。


統計上の数字は知れませんけれど、

とにかく、よく聞くし、身近なところに”ひしひし”と迫っているという印象なわけです。


こういう話は、こういう場で書いていいのかどうかわかりませんけれど、

私には、この状況がどうにも耐えられないので言葉にせずにいることが難しいわけです。


自殺についての話でよく聞くのは、

「自殺する人間は弱いのだ」

「死んだって逃げられるわけじゃない」

「世の中には、自殺するほどのことなんてないのだから、死んだらバカバカしい」

と言うあたりでしょうか。


前の二つは、自殺者を責めているようで、

三つ目のは、慰めているようです。


この三つは、どれも自殺の話を聞いたときに

私自身の頭に浮かんだ言葉でもあると思います。

そして、どれも言えているように思えます。


でも、最近少し違う考え方があると思い始めています。


まず、これまでは、自殺と言う言葉にとにかく耐えられないので、

取り敢えず、否定しなければいけないと考えていたように思います。

肯定すると認めてしまうことに成るように考えていたと思います。


それで、はじめは自殺者を責めるような考え方に成るわけです。

でも、気の毒になって慰めるような言い方を探すと、

「世の中に死ぬほどのことなんてないんだよ」と成るわけです。


でも、よく考えてみると、これらは全部自殺したことを否定しているわけです。

耐えられないようなことなのですから、肯定したくないのは当たり前なんですけれど、

自殺者にとっては、自分の行為を否定されているわけです。


そして、よく考えてみると、

その人が自殺するに至ったのも、きっと自分を否定されたことが原因なんだろうと思うわけです。


結果的に、自殺する人が一人でも少なくなって欲しいと思って言っていることが、
(そんなことが出来ないのはわかってはいるのですが)

そもそもの、自殺の原因に近いものになってしまっているわけです。


現状を肯定されることからしか、活力と言うものは生まれないような気がしていますから、

たとえ自殺したことであっても、

肯定とまではいかないまでも、否定しないような方向はないものなのかと思うのですが、

だからと言って、「死んだっていいんじゃないですか」とは言う気になれないのです。

これからは、自殺の話を聞いても、具体的な言葉が出てこないかもしれません。


でも、自殺した人や、自殺しようとした人には、

「たぶん、あなたが悪いわけじゃない」と伝えたいのです。

「その死に方はあなたが選択したものではなく、何かに押し付けられたものだ」と伝えたい。

もう、これを言葉にすることはできないかも知れませんが、

そう思っていますね。




「自己実現」と言う「欲望」

「自己実現」と言う言葉をとても良く耳にするわけです。


これには、「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」と言うような意味も含まれると思いますけれど、

もう少し現実的な印象もあって、

社会の中で、自己の位置づけを確立して確固たるものにするというようなこともあるのだと思うわけです。


要するに、金銭や地位・名誉と言った現実的なものに対する「欲望」の達成を

「自己実現」と言っている部分がかなりあるのだと思うわけです。


現実的な欲望を達成するのが、悪いことだと言うつもりはないのですが、

その種の「欲望」を強く持っている人と言うのは、

それを、あえて「自己実現」などとは言わないように思うのです。

彼らは、きっぱりと「お金が欲しいんだ」とか「有名になりたい」と言うでしょう。


そこでなんで「自己実現」と言う言葉が使われるのか?

おそらく、本来ならばその種の「欲望」をそれほど強くは持っていない人が、

「自己実現」と言っているのではないかと思うわけです。


「欲望」を剥き出しにしてまで、それを達成したいと思わないような人たちが、

この言葉に”惑わされて”しまっているようにも思えてしまうわけなのです。


「欲望」とか「お金」とか「地位」とかと言われれば、「いえ、そこまでして」と言うような、

言わば奥ゆかしい性質の人達が、「自己実現」と言うキーワードを提示されると、

それに従って、「自己実現」しなければいけないような時代の空気があって、

それによって、本来起こらないはずの競争が起きているように思うわけです。


そして、その競争によって、

社会全体が、とても”ギスギス”した雰囲気に包まれてしまっているように思うのです。


達成に対する「強い欲望」を持っている人たちは、常に一定の数で存在するのでしょう。

その人たちにとっては、それがもともとの性質ですから問題はないように思うのです。

そして、そういう人達が居ることは、一つも悪いことだと思えないわけです。


でも、本当ならば、それらの人を横目で見ながら、

それとは違う方向を向いて行動しているはずの人たちが、

「自己実現」と言うキーワードで「欲望」を増幅させられてしまって、

「望んでもいない欲望」や「大してやりたくもない達成」を

勝ち取るための競争に向かわされているように見えるのです。

そして、それがどうも不自然なわけです。


「自己実現」には、「社会貢献」や前述の「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」みたいな

”剥き出しの欲望”とは違う面もあるので、”惑わされ”やすくなっているのかもしれません。


だから、「自己実現」したいと思っている人は、

その前向きな「自己実現」が、

実体としては自己の「欲望」の達成を意味することだということを認識したうえで、

それでもまだ、そこで競争してまでそれを勝ち取りたいのか?ということに答えを出してから、

そこに向かった方がいいのではないのかなと思うわけです。


それから、はじめにに述べたような、「夢をかなえる」や「やりたいことを見つける」

なんていう非現実的なことと、「お金」や「地位」というような現実的なこととは、

原則的に両立することは無いわけです。


それが両立しているケースがあったとしても、それは何かしらの特例であって、

それを両立させるために努力するということは、

徒労に終わることが多いのだと思います。


「自己実現」と言うと、それらが両立できる範囲のことであるかのような幻想が創り出されて、

それが、あたかもリアリティのあることのように思えてきてしまうということがあるわけです。


でも、実際には両立はできませんから、

”イライラ”して来て、”ギスギス”してしまうのだと思います。


結果的には「自己実現」を望むことで「自己不満」を作り出してしまっているというわけです。

現代社会に蔓延している「ストレス」の一つが

「自己実現」というキーワードによって引き起こされているように思います。


そもそも、そんなに高い「自己」を「実現」しなければいけないのでしょうか?

そんなことは無いと思うのです。


もっと普通のことを「実現」するだけでも素晴らしいのだと思うのです。

と言うか、「人間として当たり前のこと」をするだけでも結構大変で、

それだけでも、十分に高い目標かとも思われるわけなのですから、

それ以上は、無理なんじゃないかなと。


でも、そういう「当たり前のこと」が社会で認められていなかったりするわけです。

だから、それは「自己実現」とは呼ばれないのでしょう。


「自己実現」という「自己不満」に陥るか、

「非・自己実現」という「自己満足」を得るか、

と言う選択なのでしょう。

要するに、両方”パッとしない”わけです。


どっちみち”パッとしない”ということが、「自己実現」というキーワードによって隠されてしまうのかなと。


でも、そういう”ジミな感じ”のことをもっと積極的に認めて、

評価の対象にしていくことが必要になっていくんじゃないのかなと。


そんなことで「ストレス」という「現代最大の病」が克服できるなら、

安いもんじゃないのかなと。


そんなことも考えられるのかなと思ったりするわけです。





現代の「絶対者」とは?

このブログでも何度か言ってきたことなのですけれど、

私は、「神の時代」=「信仰の時代」は終わってしまっていると思うわけです。

それじゃ、今、「絶対者」と呼べるものは何なのかということなわけです。


現在、「絶対者」に最も近い存在が、「社会」だと思うのです。

実際、「社会」に逆らえるだけのものは、ほとんど無いように思うわけです。


ただ、これは宗教における「絶対者」とは違います。

人間の集合体が「社会」なわけですから、所詮人間のすることなわけで、

そこには、本当の意味の「絶対性」は無いわけです。

つまり、「真の絶対性」が無いのに、限りなく「絶対者」に近い存在が、

現在の「社会」であるように思うわけなのです。


現在は、地球上の社会全般に情報が共有された時代だと思うわけです。

そのことによって、地球上の「社会」が一つの概念として成り立ってきていて、

その「全般的な社会」と全く無関係な「社会」というものが、存在することは難しく成ってきているわけですね。


昔ならば、地理的に離れた地域の「社会」はお互いに無関係であったんでしょうが、

現在は、地理的な距離は、情報の流通にそれほど影響しませんよね。

また、民族性や文化なども、情報に変換されて流通してしまっていますから、

決定的な隔たりとはならなくなってきているわけですね。


つまり、人類全般が「地球規模の社会」に、ほぼ選択の余地なく属しているわけです。

そんな中で、人類数十億の総体である「地球規模の社会」に逆らえるものは無いでしょう。


要するに、数の力がそれを「絶対者」に近い存在にしているのだと思います。

ただし、やはり人間の集合体ですから、

そこに「普遍性」や「絶対性」はないわけです。

それでも、その数的な巨大さが、それを「絶対者」に近い存在にしているのかなと。


この「絶対者」に近いほどの巨大な力が、どこに向かうのかは知りませんが、

「神の時代」を卒業して、「人間の時代」を迎えようということならば、

これに振り回されるのは、時間の無駄のように思うのです。


どうも、人間が運営しているはずの「社会」が、

人間を無視して、無軌道な動きをする時があるように思うのです。

人間が司るものに「絶対的な力」が与えられると必ずそうなるのだと思います。


人間が、自分で創り出して、自分で大きくしたわけですから、

それを制御していかなければならないのかなと。


そんな風に思うんですけどね。




一気圧のプレッシャー

普通に地球上で生活していると、いつも”一気圧のプレッシャー”がかかっているわけです。

でも、これは「大気圧」だけのことでもないように思われるわけなのです。


世の中にはもう一つ、社会がかけている”一気圧のプレッシャー”もあるのかなと。


みんな、生まれてこの方ずっと”一気圧のプレッシャー”を受けていますから、
(高地民族とかいう話は抜きにですね)

それをあえて意識する人は居ないわけです。


情報として、「大気圧」と言うものを知っているから理解できますけれど、

それが無ければ、たぶん自分に四六時中「圧力」がかかっているなんて考えないと思うのです。


それと同じように、いつも社会から受けているのに、

全く意識されなくなってしまっている「圧力」と言うのがあると思うわけです。


「社会」は、常に「時代」が指し示している方向へと流れていくものだと思うのです。

そして、その流れの水圧が、「社会の中にいる人間」にはかかっていると思うわけです。


でも、はじめから「社会」の中で生まれて「社会」の中で育つわけですから、

「大気圧」と同じで、流れの中にいることも、その流れの水圧によって流されていることも、

意識することすら無いわけです。


そういう”一気圧のプレッシャー”が時として、

「社会」に生活している人間を、知らず知らずのうちに蝕んでいるように思えるのです。


それが”一気圧のプレッシャー”である間はまだいいのですけれど、

いつの間にか「高気圧」に包まれていたり、

「低気圧」が張り出して来たり、ということがあるわけです。

でも、普段から全く意識されていませんから、

そういう「気圧変動」になかなか気が付かなかったりするわけなのです。

それで蝕まれてしまうのだと思うのです。


ひょっとしたら、この”一気圧のプレッシャー”から逃れることを

「自由」と言うのかもしれないなと、そんな風にも思うのですが、

人は「社会」の中でしか生きられないとも感じていますから、

逃れる術はないとも思ってしまうわけなのです。


唯一出来そうなことと言えば、

この”一気圧のプレッシャー”を感じながら生きてゆくことでしょうか。

それは、「自由」への”まなざし”を持って生きることでもあると思います。


叶わぬ「自由」を望みつつやっていくというのも、

悪くはないのかなと。


そんなことで、一応納得したような感じ。




「持論」を持つこと


「持論」を持っている人の話には、ついつい引き込まれてしまうわけなのです。

世の中に、これだけいろいろな情報が溢れていても、

その人にしか語れないような、独特な言葉と言うのがあると思うのです。


そういった、いわゆる「持論」と言うのは、

「ある種の自己満足」だったり、「勝手な思い込み」だったりすることもよくあるわけです。

それに、なんと言っても、”何の役にも立たない”場合が非常に多いわけです。


それなのになぜか、「持論」や「持論を展開する人」には、

惹きつけられてしまうわけなのです。


たぶん、それは、その人が丸ごと出てしまっているような、

そういう人間的な雰囲気に、惹きつけられて「おもしろいな」と思ってしまうのです。


本に書いてあるような”マトモ”なことだと、言っていることは正しくて役にも立つのに、

自分がもともと興味のあることでない限り、引き込まれるということは、めったにないわけですけれど、

「持論」的なものに出会うと、けっこう理屈が”デタラメ”でも、

私は、ついつい引き込まれて、聞かされてしまうのです。


それは、その話の内容が独創的ですごく面白いからとか、

ユニークで今までに一度も聞いたことも無いような話だから、と言うのではなく、

内容的にはありふれた話でも、その人独自の視点みたいなものがあって、

「その話の中で、なんであえてそこにこだわりますか?」と言うような、

その人にしか醸し出せない雰囲気にやられてしまうわけです。


だから、その話が”デタラメ”でも気にならないわけです。

むしろ、”デタラメ”な方が面白いことが多いくらいです。


もちろん、その「持論」を、何らかの権力を笠に着て振りまわすというのは論外ですが、

そういう人が振りまわすのは、往々にして「持論」ではなく、

教科書に載っているような話なのです。

だから、まったく惹きつけられません。


”デタラメ”な「持論」の方が、よっぽどいいです。


そして、できることなら、みんながそれぞれの「持論」を持つようになればいいと思います。

教科書に載っていることを言っていれば”ツッコマレなくて”安心だから、

みんなが教科書の中に”ヒキコモッテ”しまって、

本当は心の中に持っているはずの”デタラメ”な「持論」を隠してしまっていると思うのです。


人から見たら”ツッコミどころ満載”の「持論」こそが、

本当のその人の「丸ごとの姿」で、その人にしか語れない言葉だと思うわけなのです。


教科書に載っていることは、学校で学ぶだけでもう十分なので、

みんなで”身勝手でデタラメな”「持論」を展開したらいいんじゃないのかなと。


そういう世の中って、なかなか無いけど、けっこうイイんじゃないのかなと。

『いや、良くはないか?』

『いやいや、良くないところがイイんじゃない?!』


そんな風に思います。




いま、何かから「逃げること」の意味

「逃げること」と言うと、あまりいいことだと考えられてはいないわけです。


でも、現在は「相対化の時代」でもあると思うわけです。

「相対的」に物事を見た場合、「逃げること」を「攻めること」と捉えることもできるわけです。

つまり、相手から遠ざかることは、相手を遠ざけていることでもあるわけです。


ある一つの基準点を想定して、そこを中心にして全てのもの事を測れば、

中心から遠ざかっていくことは、「逃げること」でしか無いわけですけれど、

そういう「絶対的な中心」、即ち「基準」を喪失した現在においては、

積極的に「逃げること」は、「責めること」にも成り得るわけなのです。


だから現在、何らかの形で「逃げている人」や

逃げ場さえ失くして「ヒキコモッテ」いる人は、

その状況を、もっと積極的なものと捉えてもいいように思うわけです。


もともと、なんで「逃げること」になったのかということを考えれば、

何か”嫌なもの”があるから逃げるわけでしょうから、

そちらが、そもそもの原因なわけで、「逃げている」側ばかりを責めるのもどうかと思うわけです。

と言うよりも、現状を見ると、

『「逃げるやつ」は弱い』で済ませてしまうには、

あまりにも、「逃げている人」の数が多いと思うのです。

みんながどこかに「逃げ込んで」いるように見えるのです。


そんなにみんなが弱いとは思えないのです。

実際に、十分に強い人ですら、何かから「逃げざるを得ない」状態になっているように思います。

そしてまた、さほど強いともいえないような人に限って、

「逃げること」なく、「のうのうとしている」ということも、よくあるような気もします。


いずれにしても、今、「逃げること」を非難しても、

なんにもならないような気がするわけです。


こんなにたくさんの人たちが、「逃げている」という現実を直視して、

みんなが何から「逃げている」のか?

何が”嫌なこと”なのか?

ということを見つけ出して、それを排除していかなければ、

結果的には、何の成果も得られないと思うのです。


おそらく、その”嫌なこと”とは社会の効率を高めるために存在しているもので、

それを排除してしまうと、利益を阻害されると考える人たちが居るのでしょう。


でも、もはや、それが逆転していて、それを排除できずにいることの方が、

余程、社会の利益や効率を阻害しているわけなのです。


ですから、いま「逃げている人」は、

自分が社会の弊害になっているものをいち早く見出して、

それを排除するための因子となるために、

その位置から無言の抗議をしているのだという捉え方をしてもいいように思うわけです。


そして、後になって歴史を振り返れば、

きっと、それが事実となっていくのでしょうから、

それは、恥じることでも自己憐憫を感じるようなことでもないと思うわけです。


だから、「逃げています」とか「ヒキコモリです」とかいう必要もなくて、

「いえ、いえ、あなたたちの方が私の無言の抗議に耐えられずに逃げているのです。」

と言ってもいいように思います。


「逃げること」を擁護するつもりで言っているのではありません。

「いま逃げること」が普通の「逃げること」とは違うように思えるということです。


「逃げている人」が戻ってこないと、

「逃げている人達」自身も、「逃げていない人達」も同じくらい困ることに成るのでしょう。


だから、みんなで”嫌なもの”を排除していった方がいいのかなと。

その”ギスギス”して”トゲトゲ”したものを排除していけば、

自然に、みんな戻って来るのではないのかなと。


それは何なのか?たぶん「意味のない競争」です。


「なんで、競争するのか?」

「そこに競争があるから」

「意味はない」

「害はある」


以上、

です。



「老化」は「劣化」ではないと思うのです

前に他の記事でも触れたことなのですけれど、

現在日本では、「年をとること」を「劣化」と見る傾向があると思うのです。


確かに、物はすべて経年とともに「劣化」するわけですけれど、

それは、あくまで物質的なことに限ってであって、

それを精神世界にまで当てはめてしまうことには、

大きな誤りがあると思うわけです。


つまり、本の表紙が擦り切れたり、印刷のインクが薄れてしまったことを、

その本に書かれている「内容の劣化」と看做してしまうことは、

まったくもって理にかなっていないということです。


本についてだと、まったく当たり前のことであるのに、
(さすがに、本がすり切れていることと、本の「内容」がダメだということを混同している人はいないでしょう)

人間についてだと、「老化」と言う「物質的な劣化」が、

「精神的な劣化」でもあるかのような誤りが、まかり通ってしまっているように思うわけです。


人間の脳の中の、精神世界に蓄積された情報と言うのは、

本で言う所の「内容」にあたるもので、

それは劣化することは無いわけです。


そう言うと、年を取って物覚えが悪くなることや、

頭の回転が遅くなることは「精神的な劣化」ではないのかということに成るわけですが、

それは脳と言う器官の「物質的な劣化」であって、

蓄積された「情報」や「思考」の「劣化」とは全く違うものなわけです。


また、一部の人(大半の人かも?)においては、

記憶力が衰えるのは、情報の蓄積量が膨大な量に及んだ結果、飽和状態に達したためであり、

頭の回転が衰えるのは、思考が高度に複雑化して、

非常に曖昧な判断を下そうとするためであるという考え方もできると思っていますので、

それは、「物質的な劣化」に限った話としても、やや誤解があると思うわけです。


いずれにしても、「精神世界」は全くといっていいほど「劣化」しないものだと思うわけです。

むしろ、それは年をとることで「変化しなくなる」と言った方が正しいわけで、

「進歩」や「発展」はしなくなりますが、「劣化」もしないわけなのです。


「進歩」や「発展」をしなくなるのは、

人間の機能の「物質的な劣化」によって起きて来る結果である場合と、

「進歩・発展期」から「成熟期」に移行したことの結果である場合があると思います。

そのどちらも、「精神的な劣化」と混同することは間違いであると思うわけですね。


若者が、「老境に至った者」のより複雑化した思考を理解でないのは致し方ないことなのですけれど、

当の「老境に至った者」たち本人が、

それらの膨大な情報や思考の「蓄積」を、

とても粗末に扱ってしまっているわけです。


もっと、誇りをもって「まだ君たちにはわからないだろうね。フッフッフッ」と言っていいように思うわけです。

実際に、若いころには考えつきもしなかったことが、

長年かかって徐々にわかってくるということは沢山あるわけで、

”デリケート”で、”微妙な”なことに成ればなるほどその傾向も強いわけです。


おそらく、それは膨大な「蓄積」によってのみ成し遂げられる最も複雑な作業であって、

「年寄りの戯言」などではないのです。

と言うよりは、その「年寄りの戯言」こそが、実は「最も複雑な作業」かも知れないのです。


だから、年寄りも若者も、それらの「蓄積」を蔑ろにしているということは、

本の表紙が擦り切れてしまったからと言って、その本を捨ててしまって、

そこに書いてある素晴らしい「内容」をも一緒に捨ててしまうようなものだと思うわけです。


それを大切に扱うことで、

「年寄り」においては、

自分の「人生の蓄積」を、そこに集大成することが出来るわけですし、

「若者」においては、

将来の自分が、誇りを保って人生の終焉に向かっていく様を想い描いて

生きていくことができるようになると思うのです。


「老化」は「劣化」などではなく、

それは、人生を締めくくるための最後の「変性」なのではないかと思うのです。

それは、長い期間を幼虫で過ごした昆虫が、最後に美しい姿の成虫に「変性」して、

その数日後には死んでしまうのと似ていると思うのです。


人間にとって、二十歳での成人は「肉体的・物質的な成人」で、

人間の本質に根差した「本当の成人」は、

より「精神的な成人」であって、

それは、実は「老齢期」なのではないのかなと。


そんな風にも思えてくるわけなのです。


ただし、これは「歳をとったら威張ってもイイ」ということでも、

「若者なんて、はなしにならん!」ということでもありません。

そんなの当たり前ですよね!




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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