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人は教えられたことしかしない



人間という生き物は自分で考えて行動しているようでいて、実は、人に教え込まれたことしかしようとしないものだと思うのです。


自分のことも含めてですけれど、子供の時に教え込まれたことと違うことをするのには、かなり抵抗があったりするわけです。

これ自体は、そんなに悪いことだとは思いません。

例えば、人が極端に逸脱した行動に走らずにいられるのも、純粋な道徳心や正義感からと言うよりも、ただ単に、教えられたことに従って行動しているからということが多いと思うわけです。
と言うよりも、むしろ、それに逆らうことができないからといった方がいいのかもしれません。

ただ、これは動物にも同じようなことが言えるわけで、動物もまた、親に教えられたことをやっていたりするわけです。

それから、遺伝的な習性として受け継がれている行動なども、これと似たようなものなのでしょう。


でも、人間は、もうそろそろ、その状態から脱して、自分の考えを以って行動するような習性を、身に着けるときが来ているように思うわけです。

もちろん、何も教えられずにゼロからすべて自分の考えで行動することはできないと思いますが、教えられたことを基盤にして、独自の考えを加えたのちに行動に移すということです。

『そんなことは、皆やっていることだろう』と言う人もいるかもしれませんが、実際には、この部分で人間は他の動物とさほど変わっていないように思うのです。

人間の行動が他の動物と違って見えるのは、その「教えられること」が複雑だからであって、一人一人が、独自の考えで行動しているからではないように思われるわけです。

そして、その複雑な「教えられること」とは、ごく一部の”自分で考えた人たち”が、考え出したり、見つけ出したことなんだと思うわけです。

要するに、「考え出す側の人」と「教え込まれる側の人」が、くっきりと分かれてしまっているように見えるわけですね。


もちろん、全ての人が研究者や発明家に成る必要はないわけですから、社会にとっては、それでもいいのかもしれませんが、そういう社会の効率とか、道徳と言った話ではなく、どちらかと言うと、生物とか動物としての人間が、いま、そのような位置に来ているように思うわけです。

つまり、「考え出す側の人」と言うのは、人類の進化の過程において、ほんの少し早く体毛が薄くなった個体や、いち早く直立に近い形で歩行できるようになった個体と同じように、”単なる先駆け”に過ぎないのだと思うわけです。

そして今、人間は「考える習性」を身に着けることができるような位置に来ているのではないのかなと。

言ってみれば、もっと人間全体が「考え出す側の人」になってもいいような気がするわけです。

それから、もう一つ、時代のスピードが加速度的に増している現在、過去に「考え出されたこと」では、時代に追いつけなくなってきているわけです。

もはや、”特別な人”が「考え出したこと」を”普通の人”に「教え込んで」いたのでは、時代に間に合わなくなってきているわけです。
要するに、覚えているうちに「時代遅れ」に成ってしまうわけですね。


そういう意味でも、「教えられたこと」しかしようとしないという習慣から抜け出していかなければ、時代に振り回されるだけなのかなと。

現に、今の社会にはそれに当てはまることが増えているようですし、「教えられたこと」に何か一つでも自分なりの見解を加えてから行動にできればいいのかなと。

そんな風に考えたりもしています。

『まぁ、自分は出来ないですけどね』




学校で教えてもらいたいこと:初等教育編



人間は、ほとんど教えられたことしかしないのだと思うわけです。
だから、必要性の高いことは学校でしっかりと教えてもらいたいなと思うわけです。
(本当を言えば、教えられたことを元に自分で考えるというのがいいわけですけどね)


現在、学校教育に著しく欠けている部分と言うのがあると思うわけです。
と言っても、「もっと教育プログラムを増やしていろいろなことを教えよう!」という話ではなくて、むしろ、教えなくてもいいことがたくさんあるならば、そちらを止めてしまえば、時間は余るほどあるんじゃないか?ということなわけです。


現行の教育制度が定着してから、ずいぶん時間がたっているわけですし、もういい加減、現状のプログラムの中で不必要に時間がかけられている部分と言うのが見えてきているように思うわけです。


それなのに、ただ単に固定的な考えに縛られて、大きくプログラムを変えられないでいることが弊害になっているわけです。


極端な考え方なのかもしれませんが、音楽や体育、美術など「一応教えましたよ」と言う形式的な、教育者側の自己弁護のためだけにしかなっていないようなプログラムに意味があるとは思えないわけです。
(これは教育に携わっている人を責めているのではなく、現在の学校教育のシステムについての話です)


音楽や美術などの、興味のない人に強制的に教えても、あまり意味を持たないようなものを、完全な惰性で”ユルユル”な授業をやっても意味があるとは、まったく思えません。
(無理にでも「教えてますよ」という形を作ろうとするからそうなるのだと思います)

体育にしても、健康維持の目的はあるでしょうが、実際に成人病に成るのは数十年後なわけで、小学校や中学で、”一応やった”体育の授業が「国民の健康」にどれほど役立っているのかは疑問ですし、子供の健康を考えた場合でも、それが現状の体育の授業で達成されているとは到底思えないわけです。


これらは、何もこうした科目に限ったことでもなくて、現状で、主要な科目であると考えられているような「数学(算数)」や「国語」、「理科」、「社会」、それらのどれについても、、多かれ少なかれ言えていることではないかと思うのです。


つまり、全ての面で教育機会を均等にしようという考えに無理があるということかなと。

むしろ、こういう無理な「機会均等」が不得意なものに対するコンプレックスを生み出しているというケースの方が圧倒的に多いように思うのです。

そして、学ぶことは、日に日に増えていくのに、時間が増えるわけではないのですから、何かを増やしたのであれば、その都度何かを減らさなければいけなかったわけです。

それをせずに、野放図にプログラムを増やしてしまい、手に負えなくなると、その欲張った形態を維持したまま、それを薄めるように授業数を減らして見たりと、その場しのぎのやり方を続けてきたということだと思うわけです。


そして、その結果「学校教育に著しく欠けている部分」が出てきてしまったのだと思うわけです。


いま授業でやっていることの中で、本当に必要なことはどれほどあるのか?となると、「読み書きそろばん」的な生活に必要な「算数」と「国語」と(今は、パソコンの基礎的な習得も「読み書きそろばん」に含まれるのでしょう)、最低限の健康維持のための「体育」ぐらいではないかと思うわけです。


他の科目は、短期間で習得できてしまうような、ごく基礎的な内容で足りるように思います。
と言うか、足りなくても切り捨てるべきなら切り捨てなければ、他に学ぶことがあるのであれば、そちらを優先しなくてはしょうがないんじゃないのかなと。


先ず、「道徳」や「哲学」が完全に”抜けて”います。
『そんなものこそ役に立たないだろ!』と言われそうですが、そういう話になってしまうことこそが、それらが”抜けて”いる証拠でしょう。

「道徳」の無い社会がまともに機能するはずがないわけですし、「哲学」を持たない人が何かを生み出すことは不可能ですから、
それらが”抜けて”いるということは、他のことをいくら学んでも、それが役には立たないということです。


だから、今よりも低学年から(と言うよりもはじめから)積極的に、「道徳」や「哲学」を教えていくべきだと思うのです。

そして、それと似たようなことですが、「読み書きそろばん」の部分はできるだけ早く終えて、今よりもっと早い段階で、個々に適した専門的な教育を受ける機会を作るべきだと思うのです。
(優等生の「飛び級」とかそういうことではなく、全員が受けられる機会としてですね)

そうすれば、現行の大学を終了するのが数年は早くなるのではないかと思われます。


でも、こういうことを言うと、『それでは一部の優等生にとっては良くても、落ちこぼれる子供がたくさん出てきてしまうだろう』と言う人が居ると思いますけれど、それは、子供のことを見くびっていると思うのです。


実は、落ちこぼれる子たちは、”能力がない”子達ではなくて、”やる気がない”子たちです。

やっても役に立たないことや、自分に興味のないことを、半ば強制的にやらされているから、”やる気がなく”なって、落ちこぼれるのだと思うのです。

ここはひとつ、”子供の潜在力”を信じて、専門教育を与える時期を早めてもいいように思います。


不登校が多いのは、一面に「役に立たないこと」ばかり教えているからかもしれないなと。
そこをハショッテ、自分の興味のあることだけやっていればいいのだったら、少しは「学校に”行きたくて行く”子供」が増えるのではないのかなと。

そんな風に思っています。




学校で教えてもらいたいこと:高等教育編



前の記事の続きになります。

現在日本の教育においては、義務教育を終えた後の高等教育においても、著しく欠如した部分があると思っています。


主に大学や専門学校の話です。

教育の最終段階にあって、学問の最高機関でもあるはずの大学(大学院)においても、あまりにも”穴”が多すぎると思うわけです。
そして、そのことが一般社会に悪影響を及ぼすようにも成って来ていると思われるわけなのです。


例えば、医学部のプログラムがどんなものなのかは知りませんけれど、現在の「医療」には、完全に”モラル”が欠如してしまっていると思うのです。


現在の「医療」の状況を見る限り、「医療道徳」と言えるような分野を、独立した学問として医療教育の中に設定する必要があるのはまちがいのないことなのではないでしょうか?

それどころか、「医療における道徳」は、最も基礎の段階の、そのまた最も中心的な位置に設定されるべきだと思います。

もしかしたら、そのようなジャンルが既にあるのかもしれませんが、それが、有効に機能していたら、現状の医療の姿はあり得ないのではないかと思うわけです。


昔から「医は仁術」などと言ってきたために、それが、教えなくても初めから備わっているものと言う誤った認識で、医療教育から排除(または軽視)されてきたのかなと。

これは、このブログで主に扱っている「芸術」においても同じことが言えていて、『「芸術」とは何なのか?』と言う”ど真ん中”のところが抜けてしまっているわけです。

そうして、”ちょっとしたセンスの良さ”とか”表面的なオリジナリティー”こそが「芸術」であるという漠然とした認識の下に、芸術にまつわるすべてのことが回っているわけで、芸術教育も、またそれに準じた形で行われているわけなのでしょう。


でも、このブログでも何度も書いていますけれど、人間は、教えられたことしかやらないものなのだと思います。

だから、「医師」であっても、「教師」であっても、「政治家」であっても、「芸術家」であっても、教えられないことはほとんどできないわけです。


「道徳」を教えられなければ、「道徳的」な考えで行動することは出来ませんし、「哲学」を教えられなければ、「哲学思考」を踏んだ「理念」は構築できないわけです。
「深い思考」を教えられなければ、「浅い芸術」しか生み出されないわけです。


いま、医師や教育者に成るのに「道徳」を学ばなければ成れないというようになっているでしょうか?
政治・経済を学ぶ段階で「理念」を持っていることが問われる機会がどれだけあるでしょうか?
美大に入るのに必要なのは「芸術に対する深い考察」でしょうか?

もし、そう成っていないと言うことであれば、ほとんどの者が、それらのことを”出来ない”ということだと思います。


これと同じようなことは、どの学部でも、どの分野でも、また、大学以外の教育機関でも、言えることだと思います。


要するに、これは『木を見て森を見ず』と言う状態に成っているのかなと。

最先端の研究に目を奪われて、根幹をなしている本質的な部分が抜けてしまっているのではないのかと思えるわけなのです。


現行の大学(大学院)のような学術の最高機関においては、各分野の最先端の研究も大事でしょうが、その前に、各分野の中を”整理して割り振る”という仕事が必要になってきているのだと思うのです。

これは、何も教育を前提にした話に限らず、学問の研究が高度化・複雑化したために、一つの分野の中が、細分化し過ぎていて、一貫したものとして実感できなくなってきているわけです。

一つの分野の中でも、細分化してしまった各部分を割り振って仕分けするような作業をして、系統的にその分野を体感できるようにする必要があるわけです。

系統図のようなもので、その学問の体系を一応知っているというだけでは、現在の複雑化した学問においては、ほとんど役に立たないわけですから、先端の所でやるべき研究や学習に沿った道筋が、かなり前の段階から意識されているべきだと思うわけです。


そういう道筋を踏まずに、ごく基礎的な学習から、いきなり高度な領域に入り込んでしまうために、最先端のところで、いくら”素晴らしい研究”をしていても、それが、十分に役にたたないということに成ってしまっているのではないかと思うわけです。


ましてや、その近視眼的な状態の学問をそのまま教えられても、まだ、知識や経験のない学生が正しく理解できるはずもないわけです。


だから、各分野の中を整理して、先端に行ってから必要になることを前もって教える形で、一本の道筋としてプログラムを組んで行かないと、学問自体も、それについての教育も身動きができなくなって、一歩も前に進めなくなってしまうと思うのです。


特に教育の場においては、必要がなくなったと思える部分は大胆に削り、それで空いた部分に必要性があるものを埋めていくという作業を繰り返していく必要が出てきているということだと思います。


学問の歴史は、当然、どんどん長くなる一方なわけですから、どの分野でも、はじめから全部を完全な形で習得するには、時間がかかりすぎるように成ってきているわけです。

そして、学問の歴史はこれからも伸びていくわけですから、どっち道、何時かは”学びきれなくなる時”が来るわけです。
だったら、今やっておいた方がいいのかなと。
(学びきれなかった部分は、頂点を極めた研究者などが、後から余裕をもって学べばいいように思います)


そうして、”隙間”ができたところに、いま欠けていることを収めていってほしいものだなと。


そんなことが気になってしまう、今日この頃なわけなのです。





「教科書の中」でしか達成されていないこと



「教科書の中」では成立したことに成っていることでも、実は、まだ本当には実現していないことというのがあるんじゃないかと思っているわけです。


例えば、「教科書の中」では、いろいろな国で、それぞれいろいろな革命運動が起きて、「自由・平等・平和」が実現されたということになっているわけです。

でも、実際には、本当に「自由」で、本当に「平等」で、本当に「平和」な国なんて、まだ、どこにもないんじゃないかと思うわけです。


こういうようなことは、他にもあるんじゃないかと思いますが、それらのことが、「教科書の中」や「歴史の中」では達成されたことに成ってしまっているために、かえって、実現しなく成ってしまっているような気がするときがあるわけです。

つまり、建前としての「自由・平等・平和」が成立してしまっているために、現実の生活レベルでの「自由・平等・平和」が、お座なりの扱いになってしまっているということです。


でも、実際に重要なのは、どちらかと言えば、そういった生活レベルの「自由・平等・平和」であって、建前なんてどうでもいいと言うわけではないにしても、それが身近なところに生かされなければ、あまり意味が無いわけです。

だから、教科書に、「自由な国」も「平等な社会」も「平和な世界」も、まだ、どこにも実現されていないということを明記してほしいと思うわけです。


まず、そういうものが、まだ存在していないんだということが痛切にに理解されていないと、その「夢の国」が実現されることもないんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。
(『どっちにしろ無理でしょ?』というのは、また、別の話ということで)




「学齢」を見直すこと



最近よく、「学齢」について、『どういう理由で、今の年齢で学校教育が設定されたんだろう?』と思うことがあるわけです。


義務教育の「6プラス3」に加えて、かなり多くの人が、その前の幼児教育から始まって、高校・大学と言う教育課程を受けるようになっていますから、それらを全部足すと18年~20年以上(浪人等する人もいますから)に成っているわけですけど、これは人生の中で、ちょっと長すぎやしないかと思うわけですね。

しかも、それから、さらに大学院や専門学校に行く人なんかも居たりして、どんどん就学年数が長くなっていく傾向もありますから、
人生の⅓~¼くらいの期間を、勉強に費やしているということですね。

その割に、あまり役に立つことは学ばれていないような気がするのは、私だけなんでしょうか?


『人生は、生涯勉強だ!』と言うのもわからなくもないんですけど、そういう話と、「なんとなく学校に行く期間」の話は、また別なんじゃないかとも思います。


それから、最近、いわゆる「不登校」の子が増えているということをよく聞きますけど、それには、「長すぎる学齢」と言うのも関係があるんじゃないかと思ったりもするわけです。

だいたいにおいて、不必要なものを存続させていると、その期間が長ければ長いほど、理不尽なことが起きてくるものです。

本当に必要な勉強だけを教えるための、最低限の年数の学校であったなら、「イジメ」が発生するようなことも少なくなって、「不登校」の子も少しは減るんじゃないかなと思えなくもないわけです。


それは、やや「出来過ぎな話」かも知れませんが、現在の「6・3・3制」のような、すべての人に対して均等な「学校制度」と言うものの歴史自体が意外と浅いわけで、もともと、昔の時代の「学校」や「学問」は庶民の為のものとは言えないものであったのでしょうね。

「読み書き」が底辺まで普及したのだって、せいぜい100年ぐらい前からなんじゃないでしょうか?
(全世界的には、もっと最近のことでしょう)


それ以前までは、比較的「学校」の歴史が長い(たぶん?)ヨーロッパでも、「学校」は、ごく一部の上級社会出身者のためのものであって、さらに、その中でも学究精神に長けたものだけが、「大学」などで学んでいたわけで、一般庶民が「学校教育」を受けるということ自体が稀であったんだろうと思います。

そうした、「限られた人のための教育」から、「全ての人のための教育」に、いつの間にかスライドしてしまったわけですが、その過程で、「教育機構」が「一般人向け」にシフト・チェンジされて来なかったんじゃないかと思うわけです。


”ナントナク”小学校は6年、

”ナントナク”中学は3年、

”ナントナク”義務教育はそこまで、

”ナントナク”高校ぐらいは出とこうよ、

”ナントナク”大学まで行きたいな。

っていう感じじゃないでしょうか?


で、そのように「教育機関」や「学校施設」、「教育者」をすべて揃えてしまったので、引っ込みがつかなくなっているような気もします。


でも、先ほどの「不登校」の話に限らず、このことは、現代社会にとって、とてつもなく大きな負担になっているように思います。


最もネガティブな言い方をするならば、現在「学校」は、ほとんどの人にとって、「本人には興味もやる気もなくて、尚且つ、大して役にも立たないことを20年かけて教える機関」に成ってしまっているということです。

そして、この「学齢20年分」の負担が社会全体を圧迫しているという面もあると思うのです。


いや、もちろん「勉強」に「興味」や「やる気」がある人もいるとは思いますけど、その「やる気」って、「就職に有利に成るから」とか、
「キャンパス・ライフを謳歌したいから」みたいな「勉強」とは関係ないことによる場合も多いんじゃないでしょうか?


純粋に「勉強したいから学校に行っています」っていう人がどれくらいいるのか?って言うことですよね。
そんなに多くは無いような気がするんですね。

要するに、「学校」が「教育機関」として成り立っていないようなところがあると思うわけです。


老人福祉費や、医療費などについてはよく論じられますけど、学校にかかっている公費について、「学齢」を見直すという形で論じられているのを聞いたことは無いような気がします。


こういうことを言うと、「学校」で得られる「友人」や「体験」などを理由に、『だから学校は大切』ということを言う人が居ますが、それらの「友人」や「体験」は「学校」が無かった時代にも、十分に貴重なものとして存在していたわけでしょうし、それらは、「学校」以外の体験からも生み出すことは出来るはずです。

まして、その「友人」や「体験」の中に、「イジメ」などの「子供にとって最悪の体験」が含まれてしまっている現状を考えれば(これはイジメている側にも同じことが言えるでしょう)、それらを、そこまで「大切なもの」と考える必要もないのかなと思います。


むしろ、今のような「長すぎる学齢」を見直すことで、社会全体が囚われている「縛り」から解放されるような所もあるんじゃないかと思うわけです。


「学齢」を大幅に短くすることで、「無意味な競争」から子供を解放して、「子供のストレス」を取り除いてやれば、そこから育った子供たちは、「脱・競争社会」を果たせるかもしれません。

そうすれば、社会全体としても「脱・ストレス社会」を実現できるかもしれません。

むしろ、そういう「解放された社会」で得られる「友人」や「体験」こそが、その人にとっての「大切なもの」に成って行くんじゃないかとも思います。


そもそも、「学校」での「体験」が貴重であったのは、「学校」こそが、そういう「解放された場」であったからで、いまの「学校」に、その「解放された場」は無いような気がしてしまいます。


そうそう上手くはいかないでしょが、少なくとも、現在の「学齢」には、それほどまでの必然性がないということぐらいは言えるのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「人間」は「親に教えられたこと」しかしない?

前にも同じようなことを書いたと思いますけど、「人間」と言うのは、「親に教えられたこと」から、なかなかどうして、抜け出せないわけです。


もちろん、これは必ずしも悪いということではないんでしょうね。
要するに、「親」が「イイこと」を教えていればいいんでしょう。
でも、やはり「人間」としての「自分を創る」ということを考えれば、いくら「イイこと」でも、一度は「親に教えられたこと」から抜け出す必要があるんじゃないかと思うわけです。


とにかく、「三つ子の魂、百まで」と言いますけど、幼いころに覚えたこと、中でも「親に教えられたこと」からは、そうとう歳をとっても、なかなか抜け出せない人がとても多いように思います。

そして、このことが、現代においては、チョット問題になってくるんじゃないかと思うわけです。


現代は「時代のサイクル」がとても短いわけですね。
だから、いくら「立派な親」が「イイこと」を教えたとしても、それが、大人に成るころには”使い物にならなく”なっている可能性が高くなってきているわけです。


それどころか、「親の教え」を守ろうとすればするほど、そういう「イイこと」や「正しいこと」が、その人本人を苦しめたり、周囲の人を抑圧したりすることも、珍しいことではなくなって来ているわけですね。


そんな状況の中でも、「人間」は、まだまだ「親に教えられたこと」しかしようとしないというのが実態だと思うわけですが、これは、おそらく「人間」と言う動物がそういうようにプログラムされていると言うことなんじゃないかと思います。
つまり、「時代のサイクル」に「人間の進化」が追い付けないということですね。

だから、「人間」は「人間の進化」に先立って、「人間の進歩」を要求されているということかも知れませんね。


実際、自分のことを考えても、子供のころに覚えたことからは、わかっていても、なかなか抜け出せないものです。


いずれにしても、「三つ子の魂、百まで」から抜け出さないと、今の「時代のサイクル」にはついていけないでしょうから、将来的に、その辺のところに、柔軟に対応出来るような、教育が考えられて欲しいと思いますねぇ。

と言うか、『時代のサイクルみじかスギ!』

そっちも、もうチョットなんとかならないんだろうか?

という風に思いますね。 



「覚えられること」と「覚えられないこと」



人間の脳と言うのは不思議なもので、何の苦も無くスンナリト「覚えられること」と、何度聞いても頭に入らないような「覚えられないこと」があるわけです。

で、「覚えにくいこと」が「覚えられないこと」なのかと言うと、そういうわけでもなくて、いくら「覚えやすい簡単なこと」でも「覚えられないこと」は、まったく「覚えられないこと」のままだし、「覚えにくい難しいこと」の中にも、スルッと「覚えられること」もあるわけです。


たぶん、こういうことの中で一番多いパターンは、好きなことだとすぐに「覚えられる」し、興味のないことだと、いつまでたっても「覚えられない」っていうことなんでしょうね。


そう考えると、要するに、「覚えられないこと」っていうのは、「覚えたくないこと」で、尚且つ、「覚える必要もないこと」で、さらには、「覚えても、どうせすぐに忘れてしまうこと」なんじゃないかなと。


そうだとすれば、「覚えられること」の方こそが、「覚える価値のあること」って言うことに成るわけですね。

それじゃあ、スルッと簡単に「覚えられること」だけ「覚えればイイ」って言うことで、すべて、いいこと尽くしということですね。


少なくとも、自分にとって「価値があること」っていうのは、人間は簡単に覚えてしまうくらいの能力を持っているんじゃないかと思うわけです。


だから、「覚えられないこと」が「覚えられない」なんてどうでもいいことなハズで、それなのに、「覚えられないことを覚えること」に価値を求めるのってどうなんでしょうね?

少なくとも、今の学校教育は、主に、そういうことで成り立っているわけですけど、それでは、若い時期の貴重な時間を、あまり意味のないことに費やしてしまうような気がしますね。


そういうのは、時間の無駄のような気がします。
それが、チョット行き過ぎているような気もします。


「覚えること」がいけないというよりも、「覚えること」にばかり時間が使われていて、「考える時間」が全く無く成ってしまっていますね。


「覚えること」よりも「考えること」を重視した教育が見直されるべきなんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。



「伝えようとするメッセージ」と「伝わってしまうメッセージ」



子供っていうものは、なかなか親の思うような子にはなってくれないものなんだと思うわけです。
自分のことを考えても、親の思うような人間に成ろうと思ったことなどなかったような気がしますね。


とは言え、子供が育つ過程で一番影響を受けているのはと言うと、やっぱり、間違いなく「親」なんだと思うわけです。
それなのに、なんで「親」の思ったような人にならないんでしょうね?

親が子供を教育する時に、「こういう子供になってほしいな」と言うようなことを思うわけですが、必ずしも「そういう子」に成らないということは、つまり、「伝えようとしたメッセージ」は伝わらずに、それとは違う「伝わってしまったメッセージ」があったということなんでしょうね。


要するに、「言葉」で伝えようとしたことは伝わらずに、「親自身の行い」が伝わってしまうということなんじゃないでしょうか?


この「親の行動をマネる」と言う「成長のパターン」は、かなり「人間の本能」に近いものなんじゃないでしょうか?

実際、一見すると「親」とは違う「行動パターン」を持っているように見える人でも、その考え方や、行動の本質的な部分では、ほとんど例外なく「親」をマネていると言ってもいいんじゃないかと思いますね。

少なくとも、成長の過程で「親をマネる」ということから外れている人は、非常に稀な例だと思います。

実際は、大人に成ってからですら、「親の行動パターン」を抜け出して、「自分の行動パターン」を生み出していく人は、そんなに多くは無いような気もしますけどね。


いずれにしても、「親の行動」が「伝わってしまうメッセージ」に成るんだとしたら、「言葉で伝えようとするメッセージ」って意味あるんですかねぇ。


どうも「教育」と言うと、こちらの「言葉による教育」がメインに成っているようですけど、それが、ほとんど「伝わらないメッセージ」なんだとしたら、そんなにバカバカシイものはないと思うわけです。

どうせ伝わらないんだったら、いっそのこと、そちらはやめてしまったほうがいいような気もします。
そうすることで、「親」自身にも「子供」にも、「親の行動」がどんなものなのかということが、よりハッキリと浮き彫りになってくると思うわけです。


たとえば、「親」が「子供」に対して、『犯罪者に成ってはダメだよ。社会のルールは守らないといけないよ』と言っても、そこで、紙くずを「ポイッ」と投げ捨てれば、伝わってしまうのは「ポイッ」の方ですね。

それを、「子供」がちょっと発展させていけば、犯罪者にだってなりかねません。
(発展させるかどうかは、「子供」次第ですけどね)


でも、そこで、「言葉で伝えようとした部分」がなければ、つまり、何も言わずに、ただ単に「ポイッ」と言う行動だけがそこに在ったら、「親」自身にとっても「子供」にとっても、その行動の意味がはっきりせざるを得ないわけです。

当然、「子供」は「ごみを街中に捨ててもいいのか?」と聞いてくるでしょうね。
そこで、「親」としては、自身の行動を律していかざるを得なくなるわけです。


ところが、今は、「言葉による教育」と称して、「親」が「自分の行動」のイイワケをしてしまっているように見えるわけです。

どっち道、「伝わってしまうメッセージ」は「親の行動」の方だと決まっているわけですから、「行動」の方を改善することに力を使った方が、少しはいいんじゃないのかなと。


とは言え、「行動」を改善することなんて、ほとんどできませんから、まぁ、そういうときは、『すまん!お前は、私よりもう少し立派な人に成ってオクレ!』とお願いしてみるっていうのが、考えられる中では「マシな教育」なのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「子供」を「親」から引き離すという選択肢



現在の日本社会における、「幼児虐待」や子育て中の両親の「イライラ度」などを見ていると、「子育て」を両親に任せていて大丈夫なのか?と思ってしまうわけなのです。


「少子化」や様々な「文明の利器」によって、「子育て」や「家事労働」の「肉体労働的な部分」は、圧倒的に軽減されているハズなのに、それとは裏腹に、現在の「子育て中の親」は、常にに苛立っていて、その「八つ当たり」の対象は多くの場合「子供」なわけです。

そんな状況の中で、「児童虐待」の報道などを見るたびに思うことなんですが、そういうケースでは、どう考えても「親に育てられること」が「子供の不幸」と直結しているわけです。

あまりにも「不幸」なので、救いようがないと感じてしまうほどです。


そうなると、『本当に、子育てと言うのは両親がやらなければいけないモノなのか?と言う疑問が生じてくるわけです。

つまり、「虐待」などの個別のケースに対応するのではなく、初めからすべての子供について、「両親による子育て」を諦めて、国家や自治体が、ごく幼い時期の幼児の段階から、「両親」と「子供」を引き離して、「子育て」を公共団体が行うという選択肢も、視野に入れていかなくてはならなくなっていくんじゃないか?と言う気がしてしまうわけですね。


これは、もちろん、財源や運営方法など、「可能か?不可能か?」ということは抜きの話ですけど、それ以前に「両親から子供を引き離す」と言う選択肢が「アリか?ナシか?」ということですね。


まぁ、要するに、私は「アリ」だと思うんですよね。


非常識だとは思いますし、「親の愛情」云々と言うことを考えれば、当然無理もあるわけですけど、それを上回るくらいに、「親のイライラ度」が上がってしまっているんじゃないかと思うわけです。


それに、「施設で育った子供」が「出来が悪い」ということでも無いと思いますし、その子たちが「不幸」だとしたら、それは「施設で育てられた子供」と「親に育てられた子供」が居るから、その格差による部分もかなり大きいんじゃないかと思うんですね。

みんなが、同じように教育施設で育てられるように成れば、少なくとも、「差」は少なくなると思います。


もちろん、理想を言えば、「両親」が子育てをするのがイイんでしょうが、そういう理想論が空虚に感じられるほど、「親のイライラ度」が高まってしまっていて、実際に「ヒドイ虐待」を受けているようなケースでなくても、現在の日本社会で育てられる子供と言うのは、社会全体から「まんべんなく緩やかな虐待」を受けているようなものだと思うわけです。


ただ、教育施設で「虐待」が起きることもあるでしょうから、そこのところを、クリアするのは難しでしょうが、取り敢えず、「公による子育て」や「衆人環視の下での子育て」ということが必要になって来ているように思いますね。


そんなわけで、「子供」を「親」から引き離すという選択肢は「アリ」だと思います。


さて、話は違いますけど、そうなると、「少子化」はどちらに傾くんでしょうか?
「子育て」と言う「生きがい」を失って、より一層「少子化」へ向かうのか?
それとも、負担が軽くなって「子だくさん化」へ向かうのか?

また、どちらに転ぶとしても、それは「なぜ?」なんでしょうか?

見当もつかないですね。


いずれにしても、「現在の子育て」は個人には重すぎるのかも知れませんね。
「それが出来る人」もいるでしょうが、「それが出来ない人」が増えてきているということなんでしょうね。

この状況からは、簡単に抜け出せないような気がしますね。

悲しいことではありますけど。


まぁ、そんな風に思うわけですね。



「教育主義」の政治を希望します



「民主主義」とか「自由・平等・平和」とかじゃなくて、ましてや、「経済」や「外交」なんかでもなくて、「教育」にもっと力を入れていったほうがいいんじゃないかなと思っているわけです。

例えばの話、今よりも10倍じゃなくて100倍くらいですね。
(概算です。別に85倍でもいいと思います)


と言うよりも、実際は、「政治」が管理するのは「教育」だけでいいような気もしますね。

「教育」さえしっかりしていれば、「行政」も「立法」も「司法」も、かなり大雑把な感じでやっていたとしても、致命的な問題が起きないんじゃないかと思うわけですね。


つまり、「行政」も「立法」も「司法」も、公務員が事務的に行うだけでも十分なんじゃないかということですね。

『そんなことじゃ、大事なことを決められないだろ!』と言う方も居らっしゃるでしょうが、今やっている「政治」も、それと大きな違いはないでしょうから、意外と今と大差ないかもしれませんよ。


でも、それをやる「人間」で差をつけようというわけですね。
そういう「人間を作るような教育」をやってほしいなということですね。


どんなことも全部、それを、実行するのが「人間」だとすれば、その「人間」がマトモでありさえすれば、大きな問題は起きないでしょうし、どんなにキッチリした制度を作り上げたとしても、それを行う「人間」がキッチリしていなければ何の役にも立たなくなってしまうでしょう。
(そういうのが現在の状態ですね)

そういう「人間作り」は「教育」がしっかりしていれば、ある程度は可能なんじゃないかなと。
ただし、それには100倍しっかりしないといけないかな?ということですね。
(ええ、85倍でもいいと思います)


そういう、「教育主義の政治」を行っていけば、自然と「社会」は、全体的に緩やかにいい方向に向かうように成るんじゃないかと思うわけですね。


もしも、そうなったならば、「教育」以外の部分に「政治」のような「権力構造」は、もはや不要になるはずで、むしろ、それを残しておけば、せっかくの「人間の良さ」が失われて、また元の状態に戻ってしまうような気がします。


現在、絶対的に確立される必要があるのは「人権」だと思いますが、それは、現在の形態の「政治」には不可能だと思います。

まず、「教育」をこれまでの常識をドガエシして刷新して、その「教育」の中から出て来た「人間」によって、ごく当たり前のこととして「人権」が確立されるように成って行くという方向なんだと思いますね。


その「教育」ってどういうモノなんだ?って言うことなんですけど、要するに、「人間教育」ということだと思います。

「教育の場」で「人間」について教えられていないような気がするんですね。
だから、「人間性」が欠如していくわけです。
たまたま、「親」から「人間について教えられた人」だけが、「人間性」を持って生きていて、「そうでない人」は「人間性」を持たずに生きているというのが現在の状態だと思います。

それを、ごく幼い段階から、全ての子供に平均的に「公的教育」として教えるということですね。


『人間性なんて教えられるもんじゃないだろ!』と言われそうですけど、現実に、「人間性」は受け継がれてきましたし、それは、教えられたからに他ならないわけで、誰かが、教えて来たからこそ、それは存在しているわけです。


実際には、「人間性」を教えることは出来ると思います。
「人間」は「学習する動物」ですから必要な環境が与えられて、方向を示されれば、促された方向に進んでいくんだと思います。

しかし、「人間」が「人間」としては、まだ発展途上であるために、方向が示されていないと、ちょっと前までやっていた「人間以前」の行動に向かいがちなわけです。

それで、「教育」が必要なんだと思います。


それが、自然な流れだけでは受け継がれなくなてきたわけです。
だから、敢えて「公共の教育」で教えなければならなくなったということでしょうね。


幼い段階での「均等な人間教育」を確立できれば、その後の段階での「教育」は非常に有効に成って行くでしょうし、教育に費やされる期間も大幅に短縮されるようになるでしょう。


いずれにしても、全ての子供に必用なのは、「人間教育」だけで、「その他の教育」は、そこから先に行ってから、本人に選択させればいいように思いますね。

どう考えても、今の「教育」のように、すべての子供に、あらゆる科目で、かなり高度な学問を教えたり、要求するのには、無理がありますし、意味がないように思いますね。

そういうマイナス方向の意味でも、「教育主義の政治」をやってほしいもんだなと。

そんな風に思っているわけです。



「学問」の落とし穴



「学問」は「人間」にとって必要なモノだと思いますし、「学問」に興味を持って考えることは意味のあることなんだと思います。

ただ、「学問」を「既存の学問を習得すること」だと思ってしまうと、それが「落とし穴」になってしまうように思うのです。


だいたい、「学問」で学ぶようなことと言うのは、かなり偉大な学者たちが、一生をかけて研究したようなことなわけですから、それを、いきなり一般人が「理解」できるわけがないんで、ほとんどの場合は、ただ単に、「教科書」や「本」に書いてあることを「オボエタ」と言うだけなんだと思います。

ところが、それを、どうしたって「ワカッタ」と思ってしまうわけで、そうすると、どうしたって、自分が「オリコウに成った」ような気になってしまうんですねぇ。

これが、「学問の落とし穴」になってしまうような気がするわけなのです。


つまり、実際には「オボエタ」だけなのに、自分で考えて「ワカッタ」んだと思ってしまっていますし、それどころか、かなり「オリコウに成った」つもりで居るわけですから、もう、それ以上考えて学ぼうとはしなくなってしまうわけです。


ほとんどの場合、また違う本を読んで「チガウことをオボエル」だけなんですね。
それで、けっきょく、知識が増えていくだけで、「本当の理解」に到達することが出来なくなってしまうわけなのです。


「オボエタ」だけでも、何かの役には立つんでしょうが、「学問」が「人間」にとって、本当に意味があるのは、「考える」ということにおいてなんだと思うのです。

「オボエタ」だけだと、そのほとんどの部分が失われてしまうような気もするんですね。

結果的に「学問」によって、その「学問の一番重要な部分」が阻止されてしまうことになってしまうわけなのです。


それで、チョー一流大学を出ていたり、チョー沢山の本を読んだりしているのに、チョートンチンカンな人っていうのが、よく居らしたりするんだと思います。


たぶん、そういう人が「アホ」なわけじゃなくて、やや従順すぎるだけなんだと思います。

「本を読め!」と言われるから、本を読んで、「考えろ!」と言われないから考えない。
それだけなんじゃないでしょうか?

おそらく、そのほうが、世間的にチョーウマクやって行くのには、チョ-近道なんでしょうね。

そして、そうすればチョー一流企業に就職できて、チョー高給取りに成れるかもしれないですね。
でも、チョーつまらない生き方のような気もしますけど、その辺のところ、そういう人たちってどう考えているんでしょうね?


『ああ、考えないのか?』

『じゃあ、良かった』


いえ、皮肉じゃなくてですよ。
取り敢えず、不幸じゃないのならば、いいんじゃないかと思いますね。

『チョー良かったジャン』とまでは思いませんけど。


ただ、「学問」で「人生」が楽しめたらもう少しイイのかなと。


そういう風に思ってみたりするわけです。




本来の「教育」とは「人間に成る方法を教えること」なんじゃないか?と思います



現在「教育」の場で教えられることは、ほとんど「学問」が主流となっているわけですけど、実は、本来の「教育」とは「人間としての在り方」を教えるものなんじゃないかと思うわけです。

つまり、「人間に成る方法」を教え込むのが「教育」の役割なんじゃないかと思うわけです。

 ※これは、必ずしも「道徳」とか「文化」とかいうことではなく、もっとダイレクトに
  「人間に成る方法」を教えるという話です。
  つまり、「人間」とはどういうもので、どういうことをすれば「人間と言えるもの」
  に成れるのか?ということを教えるのが「教育」の本来の目的ではないか?
  と言うことですね。

 ※ここで、「人間に成る方法」と言っているのは、「完全な人間になること」を目標
  としたことではありません。
  あくまで、「人間未満の人間」を「最低線の人間」と設定して、その「最低線の人
  間に成る方法」を教えるのが、本来の教育の在り方なんじゃないかという話に成
  ります。


これを言うと怒る人も居るのかも知れませんけど、ハッキリ言って、「学問」なんて、みんなに教える必要はないような気がします。
まして、「芸術」や「音楽」や「体育」を無理にやらせたってロクなことはありません。

でも、みんなに絶対に教える必要があることが一つだけあるとしたら、「人間に成る方法」だと思いますね。


もちろん、多くの人が「芸術」や「音楽」にかかわりを持って行った方がイイとは思いますが(「学問」についても同じだと思います)、それは、必要最低限でもいいような気がします。

「人間であるために必用最低限の芸術や音楽」はそんなに多くはないと思います。

要するに、「芸術」や「音楽」が、「一人一人の人間」に興味が有るか無いかということとは関係なく、「人間全般」にとって必要なモノだということがわかっていればそれでいいんだと思います。

つまり、興味がない人も「芸術」や「音楽」を踏みにじってはいけないということですね。
そういう関わり方だけでも十分だと思います。

 ※今の「教育の場」においては、「芸術」や「音楽」を強制的にやらせている反面、
  「芸術らの本質」や「音楽」の本質的な意味に関わりを持たずに育つ人がたくさ
  んいるという状態に成ってしまっていると思います。

これは、「学問」についても同じで、全ての人に現在のような「小難しい学問」を教える必要があるとは到底思えないわけです。

まして、現在の教育においては、一番肝心な「人間に成ること」をまったく教えていませんから、『そんなことばっかり教えている場合じゃないんじゃないの?』と思ってしまうわけなのです。


「学問」や「芸術」や「音楽」や「体育」などをどれほど教える必要があるのかはともかくとしても、少なくとも言えることは、「人間に成ること」が最優先で教えられるべきだということだと思います。

「人間に成ること」が一通り「学習」されてから、他のことをやればいいんじゃないかと思いますね。


とにかく、「教育」において、如何なるものにも優先するのが「人間に成ること」だと思うんですけど、その辺どうなんでしょうね。
でも、最優先どころか、「教育」においてまったくと言っていいほど無視されているのが「人間について学ぶこと」だと思います。


ハッキリ言って、そこが抜けているから「教育改革」みたいなことを、いくらやっても成果が上がらないんだと思いますねぇ。


「イジメ」も無く成る気配すらないし、「学級崩壊」なんて言うのも進んでいることはあっても良くなったという感じはしませんね。
それから、「生徒」以前に「先生」の方からして「人間に成ること」を学んでいない人がけっこういたりします。

そんな状況で、「教育改革」出来るわけないと思うんですよねぇ。


でも、逆に、他のことはホッタラカシでも「人間に成ること」だけを重点的に教えれば、他のことは後からついてくるんじゃないかと思います。


なんと言っても一番大事なのは「自分と他人を理解する技術」を身に着けることだと思います。
それと、「自分の信念を持つこと」ですかね。

その二つくらいでも、かなりいいような気がします。

「人間に成る方法」は他にもいろいろあると思いますが、取り敢えず、「自分」と「他人」を理解しようという姿勢だけでも持っていれば、それだけでも、「人間の条件」をかなり満たしていると言えるような気がするわけです。

そして、更に「自分の信念」を持っていれば、周りに振り回されて意見が変わってしまったり、極端に矛盾したことを平気で言ったりということも少なく成ると思うわけです。


そんなことで、そこそこ『人間だなぁ』と思うわけですが、こんな事、今誰かが教えているでしょうか?
「教育」だけでなく、「親」も「大人」も、誰一人教えていませんよね。

その結果「逸脱した人」が増えているように感じるのは私だけなんでしょうか?

『そういうことは親が教えるべきことだろう』と言うのは、現時点では、もはや空論と言ってもいいと思いますね。
現在の「親」は「教育機関」としての機能を失っていると思います。
(「お受験」や「親の見栄のための教育」は別でしょうが)
『忙しくてそんな暇はない!』と言うのが実情じゃないでしょうか?

あとは、『どう教えていいのかわからない』ということもあると思います。
自分も教わっていないわけですから、無理もないと思います。


それで、この「人間に成ること」と言う「教育の最も重要な部分」が抜け落ちてしまったんだと思います。


とにかく、「人間としての最低限度」がほとんど守られていないと言う気がする今日この頃なので(自分だって、守れないことはよくあると思いますし)、そこの所を何とかして欲しいもんだなと思うわけです。


『今日この頃』と言うよりも、実際には昔から続いていることなんだと思います。

本当のことを言うと、「人間」って、まだ本当の意味で「人間」に届いていないような気がするわけです。
つまり、歴史上まだ「人間が人間であった時代や国」はないということです。
要するに、「人間」っていう水準が意外と高いんですね。

だから、「人間としての最低限」が出来る人が少ないわけです。
そうなると、やっぱり教えないとならないということなんじゃないの?という風に思うわけです。

この部分を成り立たせないと、いくら時間や手間をかけても、他の「教育」は全部無駄になってしまう可能性すらあるわけですから、
ここにもう少し力を入れて頂きたいもんだなと。


そんな風に思いますね。



『「悪い人」が出現するのは、ほとんど「教育」と「環境」のせいだ』とは思いませんが、『もしも、そうだったたら』と言う話



良くも悪くも「教育」や「環境」が人間を作っている部分は大きいと思うわけです。
やっぱり、ドブのような環境の中でスクスクとまっすぐに育つ子は稀だと思いますね。


まぁ、だからと言って、「悪い人間」が居るのは、すべて「教育」と「環境」のせいだとは言いませんけどね。
でも、『もしも、仮に「教育」と「環境」さえ整っていれば、「悪い人間」がほとんど出現しないとしたら』という、非常に興味深い話です。


もし、そういうことになれば、当然、「教育」と「環境」に「社会の総力」を結集して、この二つを整備していくようになるでしょう。
・・・・と言いたいところなんですけど、果たしてそう成るでしょうか?

『そうでもないんじゃないの?』と言う気がしますね。


要するに、既にいらっしゃるんですね。
「悪い人」が、「社会の総力」の中に。

しかも、けっこう「社会の総力の中心」に居らしたりします。


だから、「社会の総力」を結集してしまうと、そういう人によって「教育」や「環境」の整備が阻止されてしまうわけです。
「悪い人」達にしてみれば「お仲間」が居なくなってしまうわけですから、”おさみしい”んでしょうね。


そうはいっても、そんな一進一退を繰り返しながら、数百年~数千年もかけて、人間は「教育」と「環境」を少しづづ整えてきたわけです。

「それなりの教育」と「それなりの環境」が普及したことは間違いないと思います。


でも、なぜか、「悪い人」が減りません。


つまり、足りないんだと思います。
とくに「教育」ですね。


「教育」はかなり急速に普及してきましたが、「質」が向上していないんだと思うわけです。
要するに、「ムズカシイこと」や「高度で複雑なこと」は、「教育の質」ではないということだと思うわけです。

少なくとも、「悪い人が出現しない社会」のための「教育の質」ではないということですね。


だから、その種の「教育」がこれだけ普及してきているのに、「悪い人」が減らないということでしょう。


これは前にも書いたことがあることですけど、「人間」についてほとんど教えられていません。

「文学」や「道徳」みたいなものを教えていれば、自然とそういった「人間性」も養われていくだろう。
という「成り行き任せ的な方針」に問題があったのは明らかだと思うんですが、どうなんでしょう?


もっと、直接的に「人間であること」を訓練していかないとダメなんじゃないかと思いますね。
「教育」や「環境」が大事、というのと同じように、人間は「訓練したこと」は出来るようになりますが、「訓練していないこと」は出来ないと思います。

つまり、「悪い人」が出現しないような「訓練」が、行われていないということでしょうね。


だから、「教育」がこれだけ普及しているのに、一向に「悪い人」が減らないんだと思いますよ。
それどころか、「やや増えてる?」もしくは「かなり悪質化してる?」という感もあるわけですよねぇ。


とは言っても、そういう種類の「教育」を、ほとんどやってこなかったわけですから、いきなり、何を教えればいいのかがわからないという問題があるわけで、まず、先に、その辺のところをよく研究してノウハウを作ってから、そういうことをやって行けば、きっと、ある程度の成果が表れて来るんじゃないかと思いますね。

ただし、そこで「教育学者」のような立場の人を中心に置いてしまうと、けっきょく、また、同じような繰り返しになってしまうので、そういった人たちは外さないとうまくいかないでしょうね。


少なくとも、そうやっていくうちに方向が定まっていくんじゃないでしょうか?


取り敢えず、「教育」と「環境」さえ整っていれば、「悪い人」が出現しないとすれば、そういうことに成るわけです。


とは言っても、これは、『もしも、仮に「教育」と「環境」さえ整っていれば、「悪い人間」がほとんど出現しないとしたら』という話で、まぁ、実際は、それでも「悪い人」は出てくるわけですから、こんなこと考えてもしょうがないんですけどね。


でも、考えると、少し良くなるような気がしてくるのは不思議なもんです。


『なんなの?この終わり方』


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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