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「創造」とは「意味」を創り出すことだと思うのです

芸術の創作においては、

作者の『「創りたい」と言う衝動』以外の余計なものが、なるべく入らない方がいいと思うわけです。

つまり、無目的であることと言うか、無意味であることと言うか、無作為であることというか、

そういった、「無」から始めることがいいように思うわけです。


そこに目的や意味があると、どうしてもそのために純粋性が失われてしまうように思われるわけです。

もちろん、目的を持って創られる「芸術」もあっていいのでしょうが、

あくまで、私が考える「芸術の中心」にあるものについての話です。


その目的や意味というのは、どんなことを言っているのかといえば、

わかり易いことで言えば、

売れそうな作品を作ろうとするとか、

人に褒められるようなものを創ろうとか、ですね。


わかり難いことで言えば、

こんな作品を創ろうとか、

人がやったことのないことをやろうとか、ですね。

これは一見純粋な衝動に近いようですが、「~を創ろう」と言うのは、

それが、「目的」になってしまっているのだと思うわけです。

目的化してくると、どうしても「その目的地点」に着地しようとしますから、

上手くまとめようとしたりしてしまうわけで、そこで純粋性も損なわれますし、

最初の想定を超えるものが出てこなくなってしまうわけです。


やはり、そこは単純に「創りたい」であるのがいいように思うわけなのです。


そこまで、厳密なことを言う必要はないのでしょうが、

まぁ、仮に厳密なことを言えば、と言う話ですね。

「創りたい。だから創ろう」ならいいのだと思います。


ここで、この「無」から始めることと、作品自体が「無」であることは違うと思うわけです。

つまり、作品自体が「無意味」や「無目的」、「無作為」である必要はないということです。


制作を始めるにあたって、「目的」や「意味」を”想定してしまう”ことと、

作品に「意味」を”与える”ことは、全く違うことだと思うわけなのです。


と言うよりは、「無」から始めて制作していく過程で、

そこに「意味」を創り出していくことこそが「創造」と言う作業なのだと、私は思うわけなのです。


また、そこに「意味」を創り出すことこそが、「芸術の創造」であるからこそ、

当然、はじめの段階では「意味」が無い方がイイのだと思うわけです。

「意味」があっては「ダメだ」とは言いませんが、

「無」から始めることで、「創造の領域」を広く取ることが出来るということだと思います。


だから、「無」から始めて「無」に着地している芸術作品と言うのは

「創造なき芸術」だと思うわけです。

だから、「意味なんかないですねぇ~」と言うのは、トンチンカンだと思うのです。


でも、それも「ダメだ」とはいいません、

ただ、私はそれを「芸術の中心」から遠い所に”ピン止め”するということです。


どうしても、「無意味」・「無目的」と言うと、短j楽的なものと思われがちですけれど、

それは「意味」を創り出すための「無意味」であり、

新たな「目的地点」を開拓するための「無目的」なわけです。


世の中に既存のものと言うのは、すべからく「意味」を持っていますから、

敢えて、そこに一旦「無意味」を設定する必要があるということに成るわけです。


そして、そこからどこまで充実した「意味」を創出できるかが、

その作品の真価であるのだと、私は思っているというわけなのです。


だから、作品について問われたら、

「意味はあります。」ということが出来るように、

「意味」のあるものを創っていきたいものだなと。

否、「意味」そのものを創り出していけたらなと。


そのように思っております。

「ええ、なかなかできないですけどね」




そこに「意味」を作り出すこと

私は「芸術」において成すべきことは、「意味」を作り出すことだと思っているわけです。

そして、もともと「意味」のないところに、「意味」が作り出せたら、”よりイイ”のかなと思っているわけです。


これは必ずしも「芸術」に限ったことではなくて、

ほかの色々なことにも当てはまることなのだと思っております。


たとえば、経済活動には、「需要と供給の関係」と言う原則があるわけです。

つまり、初めから「需要」という「意味」があれば、そこに物を「供給」すれば儲かるわけです。

経済活動としてみた場合は、これで十分に成り立っているわけですし、

均衡の取れた関係なのだと思います。


しかし、”よりイイ”か?というと、そうでもないようにも思うのです。


たとえば、砂漠の真ん中で、水も移動手段もなくて困っている人のところに、

水を持っていって売れば、確実に儲かるでしょうし、

それで、水を買った人たちも死なずに済むわけです。


アコギな商売ではあっても、命の値段だと思えば、高くはないのかもしれません。

そういう意味では均衡は保たれているともいえるでしょう。


でも、これでは、そこにあった「需要」=「意味」を利用して、

そこに、物を「供給」しただけで、「意味」を作り出しているとは言えないわけです。

つまり、”よりイイ”とは言えないと思うのです。

だから、人の心にわだかまりのようなものが生じるのだと思うわけです。


でも、そこで、とてもおいしい飲み物を無料で振る舞えば、

その企業のイメージはグンと良くなるでしょうし、その商品の格好の宣伝にもなるでしょう。

そして、その商品が継続的に売れるようになれば、やはり結果的には儲かるでしょう。


今では、こういったことはどんな企業でも、よくやっているのだと思います。


ただ、現在行われているこうした企業活動は、

常に、先回りして利益が計算されてしまう場合が多く、

そうした損益の算段をすることなく、こうした活動をすることは、

愚かなことだということになってしまっていると思うのです。


でも、それだとせっかく「意味」を作り出しているのに、

また、元の形に戻ってしまっているわけです。

つまり、利益のありそうなところに、物を持って行って売る。

という形に戻ってしまっているわけです。

そこにもう一つ工程が追加されただけです。


「のどが渇いている人のところに、水を持っていって差し出せば買うだろう。」

というのと、

「そこで、飲み物を配れば後々儲かるだろう。」

というのは、同じことになってしまっているわけです。


現状の経済というのは、こうした形でしか機能できないようになってしまっているわけですが、

この「先回りして利益を計算すること」というのが、

「意味」を生み出せなくなる最大の理由だと思うのです。


これは、もう一度、話を「芸術」に戻すとわかりやすいと思います。

「芸術」で利益を計算した作品に、人が惹きつけられるでしょうか?

前もって、流行るかどうか、売れるかどうか、コストパフォーマンスはいいか、と計算された作品と、

純粋な「衝動」で生み出された作品のどちらに、人は惹きつけられるのでしょうか?


「そんなのは世間知らずの言うことだ」と言われればそうなのかもしれません。

でも、そう言う「世間知らず」な部分が、少し無くなり過ぎていることも確かなんじゃないのかと思うわけです。

昔の職人さんなどには、私など足元にも及ばないほどの「世間知らず」な人がいたような気もするのです。

そして、人の心を惹きつけるような魅力を持った品物というのは、

決まってそういう人たちが作り出してきたわけです。

そして、その人たちも、なんとか生きて行ける世の中だったということです。


今となっては、もう、企業がそういう「損得抜き」「計算なし」で

「意味」のあるものを作り出してくれるということには、だれも期待しなくなってしまいました。


だから、経済がインフレとデフレを繰り返しているのだと思います。

一言でいえば、景気が良くなれば高いもののほうが売れるし、

景気が悪くなれば安いものしか売れなくなります。


つまり、物の「質」=「意味」で値段が決まるのではなく、すべてが景気で左右されてしまうわけです。


企業活動において、「意味」を作り出すことに「価値」が見い出されるようになれば、

きっと、もう少し安定して、一般庶民が「ゆとり」を実感できるようになると思います。


そしてもちろん、「芸術」においても「意味」が問われるようになればいいんじゃないかなと。

そういうことを思っているわけです。




「時代の芸術」

「古典」から何かを受け継ぐこと、それをさらに「継承」していくことは、

とても重要なことだと思っているわけです。


現在においても「古典芸術」やそのスタイルを「踏襲」している人や、

それを愛好している人は沢山居るわけですが、

この「踏襲」と「継承」の違いが大きいように思うのです。


私は、「芸術」においては、そこに「意味」を創り出すことが不可欠の要素だと思っているわけです。

「何の意味もないもの」を作って(或は、作ろうとして)、

それを「芸術」と言ってはいけないのではないかと思っているわけです。
(とは言っても「何の意味もないもの」を創るのは不可能だとも思いますが)


要するに、「ただ単にキレイ」とか「ただ単にオモシロイ」とかですね。

そこにも「意味」はあると思いますが、

それは、ただ単に、そこにある「意味」であって、

作者によって創り出された「意味」ではないように思うわけです。


そして、その作者による「四苦八苦」・「悪戦苦闘」・「七転び八起き」等々があって、

ようやく、そこに創り出された「意味」に、人が心を動かされるのだと思っているわけです。


「それって、精神論なんじゃないの?」と言われてしまいそうですが、

確かに、その通りなのかもしれません。


でも、私は「芸術」そのものが「精神的な世界」だと思っていますから、

それは仕方ないことだと思っているわけです。


そこで、「意味」のあるものを作るという前提で考えるわけですが、

すでに出来上がってしまっている「古典」を「踏襲」することでは、

そこに「意味」を作り出すことが出来る領域は極めて少なくなってしまうわけなのです。


これは「古典」に限ったことでもありませんけど、

既に完成されたものの中で、作者が「意味」を創作することは極めて困難なことなわけです。

まぁ、既に出来ていますから「四苦八苦」する必要が無いということかと思います。
(困難じゃないから困難になるという、ややこしいことになりますが)


そこで、「技術」で人を納得させることを「芸術」と言ってはいけないように思うのです。

それは、あくまで「技術」であって「芸術」ではないわけです。


「技術」を見せつけられれば人は、納得しますし感心してくれるわけです。

しかし、その「感心」と「感動」をすり替えてはいけないと思うわけです。


「技術」を習得するのにも、それなりの努力は必要だとは思いますけれど、

それは、「芸術」において特別なことではなく、

他のどんな分野においても同じことなわけです。


どんな分野でも「技術」や「熟練」はひとを「感心」させはしますが、

「感動」させるとは限りません。

人を「感動」させるのは、やはり「技術ではない芸術」だと思います。


どんなものでも、「芸術」に成り得ると思います。

でも、どんなものでも「芸術」だとは思いません。


つまり、「技術ではない芸術」に踏み込めば、どんなものでも「芸術」に成ります。

そこに踏み込んでいなければ、それは「芸術ではない技術」です。


「古典」や「歴史」は「継承」されてこそ、「意味」を持つものだと思います。

そして、それを「継承」することから、新たな「意味」が創作されるのだと思っているわけです。


「継承」するとは、それを理解して、さらに自分の中で再構成してから、

現すことだと思っています。


それから、どんなスタイルも、その時代にあってこそ「意味」を持つのだと思います。

「古典」の鑑賞者は、「古典の時代」に連れていかれて、「古典の時代」の中で「感動」するのだと思います。

「現代芸術」の鑑賞者は、「今の時代」に居てそのまま「感動」しているわけです。

どちらを選ぶかは、単に好みの問題でしょう。


「今の時代」に居て「古典」を鑑賞することから生まれるのは「ノスタルジー」です。

それは「感動」ではなく「感傷」です。

それは「芸術」の担うべき役割から、少し外れてしまうと思うのです。


ですから、創作者は、

後の世代の鑑賞者を「今の時代」に連れてこられるような作品を作る必要があるわけです。

要するに、それが普遍性だと思うのです。

それでなければ、即時的、刹那的なものにとどまってしまうわけです。

それでは、後世の人を「今の時代」=「その作品が作られた時代」に連れてくることは出来ません。

そういうものは「今しか通用しない」でしょう。


そこで、やはり「今の時代」にあってこその「意味」を作り出さないとならないんじゃないのかなと。

そんな考えを持っているわけです。



「ことば」に実体を与えること

「ことば」と言うのは「論理」や「思考」をあらわす手段なわけです。

その「論理」や「思考」には「意味」があります。

しかし、それは実体を持っているとは限らないと思うのです。


「論理」や「思考」には、れっきとした「意味」がありますから、

それが実体を持つような気がしてしまうわけですけれど、

その「論理」や「思考」が実体を持つには、

それを物質化することが必要であると思われるわけなのです。


要するに、家に住むには、家の設計図と言う「ことば」を、

実際に家を建てて物質化しなければならないわけです。

つまり、「ことば」はそれを説明してはいても、実体がないわけです。


「ことば」と言うのは「論理」や「思考」の表面を覆って形を成している膜のようなものだと思うのです。

だから、「ことば」だけで構成された「理論」は、とても脆いものだと思うわけです。


これは、「ことば」に限らず、すべての「記号化された表現」に当てはまることだと思います。

つまり、記号による表現は、「意味」を持ちますし、それはわかり易い表現ではありますが、

そこには実体がないわけです。


「記号化」されたものは、なんでもその実体を失います。

物質的な実体を持ったものであっても、ひとたび「記号化」されてしまうと、

場合によっては、その物質としての実体が失われて、

「記号」としての説明的な役割に転換されてしまうということもあるわけです。


だから、「ことば」や「記号」による表現と言うのは、

針の先でつついただけで消えてなくなってしまうような脆さがあるわけです。


そこに実体を与える作業が「意味」を創り出すという作業であると思っているわけです。


「ことば」だけでも、そこに「意味」はありますが、それはまだ「設計図」ですから、

実体を持ちません。

それを物質化して、はじめて完成形と成るわけです。


そして、その「意味」と「実体化」を、両方一人の人間がやったとき

それを「芸術」と言うのだと思っています。


「意味」だけだと「論理」です。

「実体化」だけだと「技術」です。

両方で「芸術」かなと。


そんな風に思っています。




「意味の塊(カタマリ)」を創り出したいのです

私は、「創作」に当たって、いつも「意味を創り出すこと」を考えているわけです。

それで、その「意味」って何なんだ?ということです。


例えば、「花の絵」を描くときに、

「その花」を、そのまま写し取ろうとすれば、

「その花の美しさ」自体が、「その絵の意味」に成るんだと思います。


でも、そこで、「本物の花」よりも「もっと赤く」描こうとしたり、

「もっと力強く」描こうとしたりする場合、

「その絵の意味」は「その花の美しさ」だけではなくなってくるんだと思うわけです。


つまり、そこに「新たな意味」が創り出されたということに成るわけですね。


こう言うと、「写実」には「意味」がないという話に聞こえてしまうかもしれませんが、

決してそういうことではなく、「写実」にも「意味を創り出す領域」はあると思いますが、

その範囲が限定されるということでしょう。


逆に言えば、出来るだけ「モノの形」や「モノの色」に頼らなければ、

その分、「意味を創り出す領域」が広くなるということではあると考えています。


そして、この「意味を創り出す領域」を広げることこそが、

私の考えている「抽象芸術の目的」でもあるわけです。


つまり、出来るだけ「何もない状態」に近い所から

「意味を創り出すこと」が出来れば、それが一番ウレシイということですね。


「現在の芸術」という分野は、「自己表現」のためにあるのだと思うわけです。

そして、「自己表現」のためには、

「如何なる意味を創り出すのか?」

ということが、大きな割合を占めるようになるんだと思っているわけです。


要するに「その花の絵」の中の、「その花」の部分よりも「その絵」の部分の方に

「自己表現」としての性質が強く現れて来るということでしょう。


そういう「意味」をコテコテに固めたような、

「意味の塊(カタマリ)」を創り出したいわけなのです。


それができれば、それを人に評価されなくても、十分満足できるような気がしていますし、

それさえやりきることが出来れば、心残りはないと思っています。


だから、何度失敗しても、”ヘン”な絵が出来上がって来てしまっても、

また、コテコテと「意味」を塗りこめて、

「意味の塊」を創り出そうとしているわけですね。


そう思っていると「上手く描こう」なんてことは、遠くの方にあることのように感じられます。


「自己表現」であればあるほど、

他人からは理解されにくいのかも知れませんが、

それを塗り固めていって「塊」にすれば、

きっと、「なんか言いたかったんだな」っていうことぐらいは、伝わるんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「理由」と「意味」

「抽象画」を描いていたりすると、ときどき人から

「この絵は何を現しているのか?」と聞かれることがあるわけですね。


でも、なかなか、それを言葉で言い表すことが出来ないんですよね。


そして、そういうときに感じるのは、

そういうことを聞く人が求めているのは、

たぶん、『その絵の「理由」』なんじゃないか?ということなんですね。


「具象画」だったら、

「〇〇の美しさに感動したから、その美しさを現したくて〇〇の絵を描きました」

と言うことが出来るんだと思います。

つまり、『その絵の「理由」』が、ある程度までは、言葉で言い現せるわけですね。


ところが「抽象画」の場合は、その「〇〇の絵」の「〇〇」に当たる部分が無いわけですね。

もともと無かった「ナニカ」を創り出して、それを現すのが「抽象」だと思っていますから、

その「ナニカ」には「名前」が無いということですね。


それで、『その絵の「理由」』を聞かれたときに、

答えられることと言えば、「こういう絵が描きたかったから」というような、

ショーモナイ言葉しか思いつかないので、

いつも、結果的には、何も答えられなくなってしまうわけなのです。


「抽象表現」に置いては、「理由」ではなく「意味」を伝えたいなと考えるわけですね。
(これは、本当は「具象表現」に置いても同じことなんだと思っています)


つまり、『その絵がそのように描かれた「理由」』ではなくて、

『その絵がそこに存在している「意味」』ですね。


たとえば、「インテリア」として存在している絵もありますし、

「説明図」として存在している絵もあります。

そして、「芸術」としてそこに存在している絵もあるというようなことですね。


完全に純粋に「芸術」である「絵」は無いでしょうし、

「インテリア」としての「絵」にも「芸術性」はありますから、

すべての「芸術」が、そういったものの間のどこかに位置しているわけでしょうが、

そういう「その作品の存在している位置」とでもいうようなことが、

『その作品の「意味」』に成るんだと思うわけです。


そして、そういう『その作品の「意味」』を中心に見ていくと、

その作品の「真の姿」が、見えて来るんじゃないかと思うんですね。


これは、「芸術」に限ったことでもないと思いますけど、

「理由」よりも「意味」の方を重視していったほうが、

その事柄の本質的な部分が見えやすいということは多いような気がします。


「理由」を追究することにも、十分に価値はありますが、

ダイレクトに「意味」を考えることにも、それと同じくらい大きな価値があると思っています。


そういうことが「抽象」の「意味」でもあり、「理由」でもあるんじゃないかなと。

そういう風に思っているわけです。




「意味」と「価値」

「意味」と「価値」の二つを、日ごろ、同じように使っていることが多いような気がするわけです。


たとえば、

『そういうのって、「意味」ないですよね』と言うのと、

『そういうのって、何の「価値」もないですよね』と言うのが、

ほとんど同じことに成ってしまっているわけです。


でも、実は「意味」と「価値」は、けっこう大事なところが違うような気もするんですね。

そして、その「意味」の方が「芸術」に深く関係していると、私は思っているわけなのです。

まぁ、「価値」の方は『そうでもない』ということですね。


要するに、「価値」には利益的な性格があるんだと思います。

それに対して、「意味」は非利益的という印象があるわけですね。


とは言っても、「意味」にも利益的な面がないわけではありませんから、

「利益」と「非利益」の比率のチガイと言うことなんだと思います。

つまり、「価値」は利益重視で、「意味」は利益軽視な感があるということです。


たとえば、「食べ物」と「芸術」や「音楽」を比べた場合、

「価値」は「食べ物」の方が高くなるでしょうが、

「意味」においては対等だったり、

「芸術」や「音楽」の方が上回っていたりするということに成るわけです。


人間は、「芸術」や「音楽」が与えられない場合でも、

嫌いな「食べ物」ですら生きのびられますが、

「食べ物」が与えられない場合は、好きな「芸術」や「音楽」でも生きのびられません。

嫌いな「芸術」や「音楽」では、命が縮まるかもしれません。


それだけ、「食べ物」は利益的で、「芸術」や「音楽」は非利益的だということですね。

つまり、「食べ物」の「価値」は絶対的ですが、

「芸術」や「音楽」の「価値」はそれに比べれば大したことがないということです。


それなら、「芸術」や「音楽」なんてどうでもいいのか?と言うことに成りますが、

そこで「意味」が出てくるわけです。


「価値」においては低くなりますが、

「意味」においては高く成ることもあるだろうということですね。

生きるだけなら、「価値」だけで十分でしょうが、

もしも、生きているだけで他にはなにもないということなら、

そこに生きている「意味」がありません。


やはり、「食べて・寝て・死んでいくだけ」だったら、「意味」があるとは言えないでしょう。

そこで、「幸福」とか「喜び」とか言う人間にとって必要不可欠のものになりつつある心の状態が、

求められるように成るわけです。


つまり、「意味」と言うのは、「価値」の中でとくに、

人間の「心の豊かさ」や「知性」や「感性」などを

満たしてくれるものと言うことなんだと思います。


それで、「芸術」との関係が深く成るんだと思います。


そんなわけですから、「芸術」においては

「価値」よりも「意味」を創り出していきたいもんだなと。

そんな風に思うわけです。


「売れるモノ」には「価値」がありますが、

「意味」においては「売れるモノ」の方が「売れないモノ」よりも高いとは限りませんし、

「売れないモノ」の方に「意味」があることもあるわけです。


そういう「意味性」が強いモノを創り出せたらいいんじゃないかなと。

そんな風にも思うわけなのです。




「初めてやった人」は本当にエライのか?

「芸術」においてもよく言われることですけど、

『初めてやった人はエライ!』というのは本当なんでしょうか?


たとえば、「ライト兄弟」は飛行機を初めて作ったと言われていますが、

ハッキリ言って、

あんなモノ
(シツレイ!)

まったく役に立ちませんよね。
(スイマセン!!)

地上スレスレのところを”カスカス”な感じで、
(ゴメンナサイ!!!)

『やっとこさ数百メートル飛びました』なんてものは、
(モウシワケナイ!!!!)

実用的とは言えないですよね。
(ホントのことだけど)


そういう、実用的な「価値」と言うことから言えば、

その後「使える飛行機」を作った人たちの方が

遥かに貢献度が高いような気もします。


実際、もしも今だに「ライト兄弟の飛行機」しか無かったら、

誰も乗りたがらないでしょうし、それ以前に危険です。


だとすれば、けっきょく

『人間って、頑張れば宙に浮くこともできるんだよ!』

『へぇ~ ・・・・・・で?』

と言うだけのことに成ってしまうような気がします。


それでも、やっぱり「ライト兄弟」はエライのか?

『もちろん、エライ!』ですよね。


でも、それは「初めてやったから」なんでしょうか?

それとも、「飛行機」にその後の「価値」が生みだされたからなんでしょうか?

そういう「価値」の高いものが生みだされるきっかけを作ったという意味でエライのか、

それとも、「初めてやったこと」自体がエライのか。

どっちなんでしょうね?


『両方でしょ』っていうのが、一番ブナンな答えなんでしょうね。

でも、「芸術の場」では、

たいてい『初めてやったことに価値があるんだ!』と言われますよね。


まぁ、それはわかりますけど、

そうだとすると、「どうしようもないクズみたいなこと」でも

『初めてやればエライんだ!」と言うことに成ってしまうわけです。

その時点で、最初の問いに戻ってしまうわけなのです。


『初めてやった人はエライ!』と言うのは本当なんでしょうか?

というところに戻ってしますんですねぇ。


これは、おそらく「意味」と「価値」のチガイだと思うんですね。


「ライト兄弟」が生み出したのは「意味」です。

まだ、「価値」と呼べるものはありません。

そして、飛行機が実用化されたことで「価値」が生まれたわけです。

その「価値」によって「ライト兄弟」が生み出した「意味」が注目されるようになります。

それで『ライト兄弟はエライ!』と言われることに成るわけですよね。


でも、「ライト兄弟」が生み出したのは「意味」だけで、「価値」とは言えないわけです。
(「意味」も一つの「価値」ではありますが、「価値」としては低いということですね)

「意味」と言うことに限って言うと、

「クズみたいなもの」でも「初めてやったこと」には「意味」があると思います。

世の中になかったものを創り出したという「意味」においては、

「クズ」と「飛行機」ですら、大差がないということです。
(使えないままならば、「飛行機」も「ワン・カインド・オブ・クズ」だったのかも知れないし)


そしてどんなものであれ、そこに「価値」が生まれれば、

はじめに「その意味」を創り出した人が『エライ!』と言われます。


でも、本当のことを言うと、「意味」が持っている「価値」は

「その後生み出された価値」ではないと思うわけです。


もちろん、「初めてやったこと」にも「意味」はあるでしょうが、

それが「純粋な気持ちから生み出された」と言うことが

一番大きな「意味の価値」だと思うわけです。


つまり、『空飛べる道具作ったら、きっと儲かるでぇ』と言うんじゃなくて、

ただただ『空を飛んでみたい』という「純粋な気持ち」で「飛行機」を作ったから、

そこで「意味性」が高く成るんだと思います。

『~きっと儲かるでぇ』は「価値」の方は高くても「意味」は薄くなるでしょうね。


これは、「芸術」においても同じことが言えて、

やっぱり「純粋な気持ち」からやってこその「意味」であり、

『初めてやった人はエライ!』なんだと思います。


そういうわけで、

『初めてやった人はチョト・エライ!』

でも、『純粋な気持ちで、初めてやった人はモチット・エライ!!』

それ以上に言えることは、

『アンタあんまりエラク成っちゃダメョ』ということかなと。


そんな風に思います。



「動物にとっての価値」と「人間にとっての価値」

「価値」なんてことを考えるのは人間だけなのかも知れませんけど、

それでも、やっぱり動物には「動物の価値観」があって、

人間には「人間の価値観」があるように思うわけです。


もちろん、「うさぎの価値観」はうさぎにしかわからないでしょうし、

「カメの価値観」はカメにしかわからないんでしょうが、

想像することぐらいは出来ますから、想像してみるわけです。


「動物にとっての価値」では、

「生存すること」や「繁殖すること」が重要になるんだと思います。


これは「人間にとっての価値」でも同じことだと思います。


違うのは、「動物にとっての価値」においては、

「生存」や「繁殖」が常に「最重要」であって、

ほぼ全てにおいて、優先するのに対して、

「人間にとっての価値」においては、

わりと頻繁に「生存」や「繁殖」が二の次になることがあるというところでしょう。


とは言え、やっぱり人間にとっても「生存」や「繁殖」は重要ですから、

そこに「価値」を置いていることが多いわけですが、

その他のことに「価値」を見いだせないということが、

どうも人間的じゃないように見えてしまうわけですねぇ。


「生きることにどん欲なこと」は、「活力」と言い換えることもできるでしょうし、

「恋愛やSEXにどん欲なこと」も、ほぼそれと同じことだと思います。

それ自体は、悪いことではないと思いますが、

その他のことに「価値」を見いだせないとなると、

急激に、『動物的だよね』と言う印象が強く成ってしまいますね。


そういう時の「その他のこと」を「文化」と呼ぶんだと思うわけです。


「動物の価値」よりも「人間の価値」の方が「価値」が高いとは思いませんし、

「文化的なこと」も「人間的なこと」も、ひとつも「エライこと」だとは思いませんが、

あらゆることに置いて「本質に近いモノ」は美しいと思いますし、

「本質を外したモノ」は美しくないと思います。


だから、やっぱり「人間」は「人間の価値」を持っていたほうが

チョットだけマシになれるような気がします。


チョット・マシなだけでエラクないのは

エラク成ったら、やっぱり美しくなく成ってしまうからですね。


もしかすると「美しいこと」っていうのが、

典型的な「人間の価値」なのかも知れませんね。


美しさのかけらもない状態で、
(まぁ、要するに「醜い状態」ですけど)

平然としていられるように成ったら、

その人は、もう「人間」とは言えない「別の生き物」になってしまうような気がします。


まぁ、これも「人間」だからエライわけでも、

「別の生き物」だから悪いわけでもないと思いますから、

「別の生き物」として「生きて&死んで」行きたい方は、

『どうぞ、どうぞ』と思いますけど、

私は「人間」として「生きて&死んで」行きたいので、

「人間の価値」をちょっと一所懸命に拾っていきたなと。

そんなことを思ったりもするわけです。





「求められているモノ」と「選ばれているモノ」

現在の芸術の場においては、

「求められているモノ」と「選ばれているモノ」が、かなり違って来ていると思うわけです。


ここで言う「求められているモノ」とは、

鑑賞者が最も素直な状態で、『見たい!』と思うモノですね。
(「周囲の情報に左右されない状態で」と言ってもいいと思います)


ここで言う「選ばれているモノ」とは、

鑑賞者が予備知識や既成概念のような情報を集めて、そこに少しだけ自分の好みを加えたうえで、

『たぶん、これがスバラシイに違いない!』と思うモノです。


この二つが、随分と違ってきていると思うわけです。


要するに、情報がどんどん増え続けているわけですね。

それで、過剰な情報の分だけ素直な判断ができなくなってしまうんだと思います。


さらに言うと、この現象は、

いわゆる「一般人」よりも、いわゆる「専門家」の方が一層顕著であると思うわけです。


つまり、評論家や、芸術展の審査員を務めるような人の方が、

たくさんの情報や知識を持っていますから、当然それに左右されることに成るわけです。
(そこに「専門家」としての価値があるということに成っているんですけどね)


今と成っては、もはや「専門家」の方々が、

自分の最も素直な状態での判断に立ち返ることは不可能と言ってもいいほどにまで、

情報が増えてしまっていますから、

「専門家」の判断ほど予備情報に左右されているというのは、

間違いないことなんじゃないでしょうか?


ところが、その「専門家」が、また更に「一般人」に対して情報を配信していくわけですから、

そうなると、「一般人」の判断も、間接的に情報に左右されてしまうわけで、

けっきょくは、誰の判断も「素直な状態における判断」とは言えなく成ってしまいます。


現時点で、唯一「素直な状態における判断」を下せるのは、

「芸術に興味のない人」というオカシナことに成るわけですが、

そういう人は、「芸術」を求めてもいませんし、選んだりもしませんから、

その人たちの判断は、ほとんどなんの影響も及ぼさないわけです。
(判断以前に、見ないし)


こんな状況で、「求められているモノ」と「選ばれているモノ」が、離れてしまっているわけですが、

この状況を改善して、「素直な状態の判断」を取り戻そうとするのは

簡単ではないように思います。


情報はごく幼い時期から刷り込まれていますから、

無意識の状態で入り込んでしまっているわけで、

情報に左右された判断と情報に影響されていない「素直な判断」を

区別して選び取るのはかなり困難な作業でしょう。


出来ることと言えば「情報を減らすこと」ぐらいじゃないのかなと。


入ってくる情報を意識的にカットするとか、

入ってきた後も、その情報を鵜呑みにしないように心がけるといったことで、

影響が最小限にとどめられるというわけです。

既に入り込んでしまっている情報の影響は免れませんが、

情報を増やさなければ、その影響も徐々に薄れてはいくでしょうから、

少しづつ小さくなっていくでしょう。


せっかく「芸術」を見ても、

自分が「ナニを求めて」いるのかがわかっていなければ意味がありませんから、

この情報が氾濫する世の中では、意識して情報の影響を排除して、

自分の素直な判断を少しづつ取り戻そうとする努力が必要だと思うわけす。


なにかを知ろうとすると、どうしても情報を増やしたくなりますけど、

むしろ、情報を減らしていくことで見えて来るものがあれば、

それこそが「本当の自分の素直な判断」なんだと思います。


そこで「自分の求めているモノ」に気づいた人だけが、

それを選び取ることができるわけです。


そういう「求められているモノ」と「選ばれているモノ」が一致した状態でしか

「心の感動」というものは生まれないんじゃないのかなと。


つまりは、そんな風に思うわけです。



「二種類の好きなモノ」と「二種類の嫌いなモノ」

主に芸術作品についての「好み」に関するお話です。


「好み」と言うと、「好きなモノ」と「嫌いなモノ」のことを指す場合が多いわけですが、

実は、その「好きなモノ」や「嫌いなモノ」には、二種類あるような気がしているわけです。


つまり、「普通に好き(または嫌い)なモノ」と「やや屈折して好き(または嫌い)なモノ」の二種類ですね。


「普通に好きなモノ」は、

「居心地がいいモノ」とか「心を和ませてくれるモノ」のような、

まぁ、言ってみれば「ほぼ無条件に気持ちいいモノ」ですね。


「やや屈折して好きなモノ」は、

「違和感があるけど気に成るモノ」とか「本当は好きなんだけどそれを認めたくないモノ」みたいな、

「必ずしも気持ちよくないモノ」です。


「普通に嫌いなモノ」は、

「見て居たくないモノ」とか「見ると嫌な気持ちになるモノ」のように、

「ほぼ無条件に嫌なモノ」です。


そして、「やや屈折して嫌いなモノ」は、

「好きな要素と嫌いな要素が両方あるモノ」とか

「本当は好きでもなんでもないんだけど、それを好きな自分が好きっていうモノ」のように、

「本当は嫌いなのに、それを嫌いと言うのにい躊躇するモノ」です。


さて、それで何が言いたいかと言うと、

すごく「好き(嫌い」なモノ」っていうのは、

実は「屈折して好き(嫌い)なモノ」の方なんじゃないか?ということです。

 
まぁ、「嫌いなモノ」について、『どっちがスゴク嫌いか?』を考えるのは、

あまり有意義な感じがしないので、取り敢えず、ここでは「好きなモノ」に話を絞ります。


少なくとも「好きなモノ」に関して言えば、

「普通に好きなモノ」よりも、「屈折して好きなモノ」の方が、

かなり「好き度」が高いような気がしますね。


これは、なにも「芸術作品」に限ったことではなくて、

「食べ物の好み」なんかでも、はじめのうちは抵抗があって食べられなかったモノが

いつの間にか好物に成っているというようなことはよくあると思います。

そして、そう言うモノに限って「大好物」に成るということも、またよくあるわけです。


それと同じように、「芸術作品の好み」においても、

やはり、「屈折して好きなモノ」が「すごく好き」に成ることが多いと思うわけですね。


しかも、「芸術作品の好み」に関する限りは、

ほとんどの場合、「本当に好きなモノ」は「屈折して好きなモノ」なんじゃないか?と思うわけです。


一見すると、「普通に好きなモノ」=「ほぼ無条件に気持ちいいモノ」なわけですから、

『そっちの方がイイに決まってるでしょ!』っていう感じなんですが、

「無条件に気持ちいい」ということが、ある意味では「ぬるま湯」を意味しているわけで、

それは、確かに「気持ちいい」かもしれませんが、「切実なほどの好き度」ではないわけです。


つまり、「心を締め付けるような感動」は、そこにはないんだと思うわけです。

それは「好き」ではあっても、「どうしよもなく好き」ではないということですね。


そして、「芸術」と言うのは、

その「どうしようもなく好き」を求めて鑑賞するモノなんじゃないか?と思うわけです。


だとすれば、やっぱり、「芸術作品の好み」においては、

ほとんどの場合、「本当に好きなモノ」とは「やや屈折して好きなモノ」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけですが、

そういうこと以前に、「自分の好み」について、

『これを好きと言ったら、人がどう思うか?』とか、

『これを嫌いと言うとカッコ悪いんじゃないか?』と言うようなことで、

「好き・嫌い」を本当に素直な状態で言える人が、とても少ないということが、

とても悲しいことだなと。


本当の所、「自分が何を好きなのか?」ということがわかっている人ってどれくらいいるんだろうか?
(単純に見栄とか対面とかを抜きにしてというだけの意味でもですね)

そんな風に思ってしまうわけなのです。





人は「価値」ではなく「意味」に感動する

「有名な絵」と「無名な絵」だったら、どっちで感動する人が多いんでしょうねぇ。


いや、あくまで、

「有名な絵」=「スバラシイ絵」かつ「無名な絵」=「スバラシクナイ絵」

ということを抜きに考えた場合ですよ。


だいたい同じくらいにスバラシイ絵が、

「たまたま有名だった時」と「たまたま無名だった時」という条件でですね。


実際は、たぶん「有名な絵」で感動する人が多いんじゃないかと思うわけですが、

『それ、はたして本当に感動してるんですか?』とも思ってしまうわけなのです。


つまりです。

『なんだかんだ言っても、ただ単に「有名な絵」だから感動したと思い込んでるだけなんじゃないの?』

ということです。

もっと言えば、「有名な絵」を見るときに、

『見る前から、きっと感動するに違いないと決めてかかってるんじゃないの?』

ということですねぇ。


そういうの、実際に多いと思いますよ。

というか、ほとんどの「感動」って、その手の「感動モドキ」なんじゃないでしょうか?
(すいません!言い過ぎです!!ゴメンナサイ!!!でも、たぶんホント)

まぁ、それも「一種の感動」なんだと思いますから、否定するつもりなんか全然ないですけど、

でも、そういう「予定調和」を含まない「純粋な感動」と言うのもあるんじゃないかと思ったりもするわけです。


で、そういう「純粋な感動」について言うと、

「無名な絵」の方が「純粋な感動」に出会える確率が高いんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。


たとえば、『ゴッホ』ですけど、
(まぁ、他の貧乏絵描きの人でもいいんですけど)

『ゴッホ』が生きている間には、絵がチョットしか売れなかったというのは有名な話ですけど、
(1枚~数枚までの説があるらしい)

その時『ゴッホ』の絵を買った人たちって、どうしたんでしょうね?

大事にしてたんでしょうか?それともホッタラカシでしょうか?

捨てちゃった人なんかもいたんでしょうか?


まぁ、それはともかくとして、

もしも、その『ゴッホ』の絵を買った人たちの中に、

その絵を非常に気に入って大事にしていた人が居たとします。


その後、『ゴッホ』は大ブレイクして、その絵は一躍「無名な絵」から「有名な絵」に成るわけです。

確かに、「有名な絵」に成った『ゴッホの絵』は、

その後、美術展などでたくさんの人を感動させることに成るわけです。

でも、それは、もしかしたら全部「感動モドキ」かも知れませんよね。


それに対して、「有名な絵」に成る前の「どこの誰だかわからないヤツが描いた絵」だった

『ゴッホの絵』を買って、後生大事に持っていた人が、

『この絵なんだかいいんだよなぁ』と言って眺めている時の「感動」って、

おそらく「感動モドキ」ではないだろうと思うわけです。


さらに言えば、

もし仮に、その後も『ゴッホ』が売れることなく、その絵が「無名な絵」のままだったとしたら、

そして、その人が、それでも、その絵を手放さずに後生大事に持ち続けていたとしたら、

そして、物置や蔵の中に大切にしまっていて、時々出して眺めては、

やっぱり、『この絵なんだかいいんだよなぁ』と言っていたとしたなら、

その時の「感動」こそが、本当の「予定調和」を一切含まない「純粋な感動」なんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけです。


たとえば、その家にお客さんが来るたびに、

その人が、自慢の「無名な絵」を見せていたとします。


客人が薄暗い物置部屋に入って行くと、主人がパチンッと照明をつけます。
(時代的にはランプか?)

そこに浮かび上がるのは、まったく無名で誰が描いたかわからないけど、

間違いなく『ゴッホの絵』であるわけです。


客人の中には、『へっ!誰の絵かもわからないような絵じゃね』と思う人も居るでしょう。

でも、その絵の持ち主と同じように

『なんだかわかんないけど、この絵イイよ!』と思う人も居るんじゃないですか?

いや、きっといるに違いないじゃないですか?

だって、そこにあるのは間違いなく『ゴッホの絵』なんですから。

そういうのを「感動」と言うんだと、私は思っているわけです。


つまり「想定外の美しさに出会った時の衝撃」ですね。


「有名な絵」はどうしても先に「想定」が入ってくるわけです。

なにせ「有名」ですから。

そこら辺に転がってないし。


要するに、『ゴッホの絵』が、たまたま「無名な絵」としてそこら辺に転がっていた時に、

「そういうモノに出会った人が受ける衝撃」を「感動」と言うんじゃないかと思うわけです。


これを言い換えるならば、

『人は「価値」ではなく「意味」に感動する』とも言うことが出来ると思います。


「有名な絵」には、ハズレなく「価値」があります。

でも、その分「意味」は薄くなってしまうわけです。
(「想定外の衝撃」が無い分ですね)


「無名な絵」にはあまり「価値」はありません。

少なくとも、「一般に通用する価値」はかなり低くなってしまいます。

でも、そこには「意味」があるかもしれません。

つまり、そこに「想定外の衝撃」があるかもしれないということです。

そして、本当の「純粋な感動」とは、そういう所にしかないモノだと思うわけです。
(まぁ、めったに無いってことですけどね)


だから、「有名な絵」ばかり見ていても、

『それじゃ、本物の「純粋な感動」からは、どんどん遠ざかってるのかもよ?』と。

そんな風に言いたいわけなのです。


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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