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「長い題」:詩のような題



絵に「長い題」をつけようと思うように成ったのは、このブログをやっていたからだと思います。
今後も、自分の絵に、「詩のような題」をつけていきたいと思っています。

 ※この記事を書いた時点で、既に「長い題」(その1~4)までを、
  このブログに投稿しています。


絵があって、それに対応した「題」をつける場合もありますし、「題」が先行していることもあります。
(むしろ、そういうパターンの方が多くなっているくらいです)

ただ、今のところ「題」に合わせた「絵」を描こうとは思っていません。
今後は、そういうパターンも出て来るかも知れませんけどね。


取り敢えず、「絵の意味」が見た人に少しでも伝わるようにしたいわけでわけすが、なかなか、そう簡単には伝わりませんから、せめて、『伝えたいんですよ!』ということだけでも伝わればと思って、これをやっております。


『詩のような』と言っても「詩」ではありません。
あくまで「絵の題」です。

ただ、そこに「意味」を創り出したかったわけです。


要するに、私の中にある「絵の世界」を言葉に置き換えたモノと考えていただければいいんじゃないかと思います。


はじめのうちは、単に「長い題」と言っていたんですが、だんだん「意味性」が強くなってきた感じがするので、「詩のような題」=「詩題」と呼ぶことにいたしました。


今後も、このカテゴリに、出来た「題」を投稿していくつもりです。

「題」に対応する「作品」がないものも含まれると思いますし、そのまま「題」だけが残ってしまうというケースも、けっこう出てくると思っています。
必ずしも、「絵」と「題」に1:1の対応関係があるとは限らないと考えているので、「絵」に対する「題」は入れ替え可能だと思っております。


そんなわけで、「詩のような題」=「ポエティック・タイトル」です。





「長い題」=詩のような題(その1)



先日このブログの記事で、「無題と言う題」はなるべくなら使いたくないので、「秘題」という考え方をしていきたいというようなことを書いたので、それとは、やや反対方向の話に成ってしまうんですが、ここでは「長い題」について考えてみました。

 ※「秘題」と言うのは、「テーマ」=「タイトル」=「題」がないわけではなく、でも、それを
  言葉にするのは難しいので、『題はあるけど隠されている』というような意味です。
  そちらも「姿勢」としては持ち続けていきたいと思っています。

「長い題」と言っても、ただ単に”「題」が長い”というのではなく、どちらかと言うと、「文章」としてある程度の独立した内容を持った「題」と言うことです。

イメージとしては「詩」に近いと思います。


必ずしも「絵」の内容と一致しているということではなく、それでいて「絵」とも、つながりを感じるような、そういう「文章」を「題」として考えているわけですね。

私の場合は、このことに限らず、いろいろな方向からの「芸術の多重化」と言うのを考えているので、このようなことを、ついつい考えてしまうというわけなのです。
と言っても、「絵」がなかったら、なにを言っているのかわからないでしょうね。 
まぁ、そこのところは、ご勘弁ください。



もともと、この「長い題」の発想は「額」からきています。

私は、「芸術」は「多重化」していく方向に向かうしかないと思っているので、いろいろな意味での「多重化」を考えていて、その一つが「額と絵の間の多重化」なんですが、「多重化」の中で、比較的難易度が高いのが「美術」と「言葉」との間の「多重化」だと思うわけです。

でも、もともとあった「額と絵の間の多重化」という考えの中で、「額」を使えば、「絵と言葉の間の多重化」も可能なんじゃないかと思っていたわけです。

「美術」は「視覚的な芸術」ですから、視覚的な表現を含まない「言葉」とはギャップが大きすぎて、「多重化」することが「わざとらしさ」になってしまうような気がするわけですね。
(これは「音楽」などの「音響表現」にも言えることかもしれません。そちらはまだ考えてませんけど)

たとえば「絵」の中に文字が書き込まれていることがありますけど、その「言葉」に意味があればあるほど、どうしても、『純粋な絵と言えるのか?』というような「違和感」が出てきてしまうと思います。

そこで、『額になら文字を入れてもいいんじゃないか?』と思ったわけです。

当初は、「額」に着色する予定でしたから、その塗装に紛れたような形で、『読もうとすれば読めるけど、敢えて読もうとしなければ「額の塗装」に見える』と言うような、そんな感じで「文章」を入れてみようかなと思っていたわけです。
(これも一種の「秘題」ですね)

ところが、実際に「額」を作ってみたら、そんな余裕は木っ端みじんに吹き飛んでしまって、とても塗装まで辿り付けずに現在に至る、というところです。

しかも、その過程で、「額」自体の構想がどんどん「多重化」していって、「文章」の入り込む余地はもう無く成ってしまいました。

それで、しばらくの間「言葉との多重化」については、ホッタラカシにしていたんですね。
でも、ある時、描いていてどうしても気に入らない絵があって、その絵は、ボツにしようと思っていたんですが、なぜか、その絵の「題」だけが唐突に浮かんで来たということがあって、その「題」が「長い題」だったというわけです。

その「長い題」は「手紙」のようなもので、十数行ほどの文でできていました。
その「手紙みたいな題」っていうのが、気に入ったので、『こういう題も悪くないんじゃないの?』と思うようになったというわけです。

でも、いくら「題」が気に入っても、絵は気に入らないままだったので、他の絵にも「長い題」を考えたんですが、そういう「手紙みたいな題」は、今のところ出来ていません。

まぁ、それでも二十数編ほどの「詩」のような「題」が出来ています。

なんとなく、これらも気に入っています。
何よりも、悩まないのがいいですね。

私の場合「抽象画」に「題」をつけようとすると悩んでしまうんですねぇ。
『抽象は題がつけられちゃダメなんじゃないか?』みたいなところから抜け出せなくなるわけです。
ところが、独立した「詩」だと思うと、意外と悩まずに思いつくんですね。
そして、その思いついたことが割とスンナリと「文」に成るわけです。

こんな事を言うと「詩」を真面目に書いている人には怒られてしまうんでしょうが、「文学」として「詩」をやろうと思っているわけでもないので、そんなにこだわらずに、書きっぱなしでもさほど気に成らないので、気が楽です。
(気が付くとけっこう直したりしてますけどね)

さて、このまま終わるのは、さすがに気が引けるので、最後に「長い題」の例を挙げておきます。
これらの「題」は必ずしも一つの絵に一つの「題」と言うことではなく、
入れ替え可能な場合もあると思っています。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」のようなものだと思ってください。

それから、最後のが最初に思いついた「手紙みたいな題」です。
その絵はいまだに気に入らないので今のところボツですね。
「題」だけ残っちゃいました。

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『ひかりとは』
ひかりとは いったい なになのか


すべての ものを みえさせる

ひかりとは 
ひかりとは いったい なになのか


すべての いろを みえさせて
すべての かたちも みえさせる

ひかりとは 
ひかりとは いったい なになのか


すべての かげを つくりだし 
すべての かげを きえさせる

ひかりとは 
ひかりとは いったい なになのか


ぼくの なかを てらしだし 
きみの なかも てらしだす

あぁ ひかりとは 
そんな ひかりとは いったい なになのか

それがしりたい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

くらくて どんよりして いるけど
これは 『きぼう』を えがいた えなんだ

だから あおときいろの わくが えのなかで おどっているだろ

そのせいで このえが かえって くらく みえるとしても
それは ぼくのせいじゃないし もちろん きみのせいでもない

それは みんなのせいなんだ 


そのみんなって だれなんだろう

このえの なかには きみと ぼくしか いないというのに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もえるような いろ
もえるような くうき
もえるような せかい

じかんも くうかんも ほかのものも みんな もえつくしてしまう

そんないろ
そんないろに さわったら こおるほど つめたかった


もえるように つめたいいろ

そんないろが
えのなかでは 『ちょうどいい いろ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

よのなかは うつくしい

しんじられないことだけど
すべてのものは うつくしい

しんじられないことだけど
すべてのひとは うつくしい

しんじられないことだけど  


『それが ほんとうのこと』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きみは このえに なにをみるのか?
 

このえに なにかが かいてあるわけじゃない

きみがみたものは きっと きみがかいたんだ
きみが すばらしいとおもうとき それは きみがかいたえだ
きみが つまらないとおもうとき それも きみがかいたえだ


いま きみは

このえのなかに 『なにかを みつけださなければならない』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もしも あなたが しょくぶつだと おもわないで みたとして      
もしも あなたが ひとだと おもわないで みたとして
もしも あなたが くうきやひかりだと おもわないで みたとして

それでも なにかが つたわるでしょうか


それでは
『ひとや しょくぶつや ひかりやくうき』として みたなら どうですか


それでは

もしも あなたが あおとしろの わくを とおして  
このえの なかに はいって みたなら どうでしょうか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この さびついてしまった ふうけいを みてくれ

うみも そらも じめんも うずをまきながら ながれこんでいるものも
すべてのものが さびついてしまっている

これを ふうけいと いうのだろうか


こんなところには ぜったいに いきたくない


でも えの なかだったら 

『いってみたいと おもう ばしょ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ゴッホへの てがみ』


ヴィンセント 

きみの えが ふつうに なったよ
おかげで ぼくたちは こんなに じゆうに なれたんだ 

ありがとう


ぼくたちも まだ なにかに しばられているけど 
あと ひゃくねんもしたら みんな また すこし じゆうに なれると おもうんだ 

だから ぼくは きみよりも すこし じゆうな きもちで しんで いけそうだよ
 

もういちど いうよ

ありがとう ヴィンセント

そして もうひとりの ゴッホへ 
もっともっと たくさんの ゴッホたちへ


これは きみたちの えだ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ついしん : ぼくは もう すこし ちがう えを 
        さがしに いこうと おもっている

        ぼくも ひゃくねんごの だれかから 

        こんな てがみを もらいたいから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きっと、文学的には、オソマツな詩なんでしょうが、自分では気に入っています。
たぶん、足りないくらいで丁度いいんだと思います。

このスタイルの「題」でいこうと思っています。



「長い題」=詩のような題(その2)



絵に「長い題」をつけることについては前にも書いたんですが、いま、けっこう続けてそういう「長い題」を思いついていて、「絵」とはほとんど関係なく、たくさんの「長い題」がたまってしまっているので、取り敢えず、メモの意味もかねてここに記録しておきます。

とは言え、やはり恥ずかしいタイプの「題」もあるので、『まぁ、これなら人に読まれても耐えられるかな?』と言う範囲のものに成ります。
(前回の中では、『ゴッホへの手紙』と言うのがけっこう恥ずかしかった)

前回の「題」は、ほとんどのものが「作品」と一対に成っていたんですが、今回の「題」については、「作品」との対応関係はかなり希薄で、「題」に対応している「絵」が、まだ、ないものもかなりあります。

かと言って、その「題」に合わせて「絵」を描こうということもないので、順次できた「絵」に当てはまるものがあれば採用していこうと思っています。

『 』の中はその絵を呼ぶときの呼び名(「ニックネーム」)のようなものです。

あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひめられた

そのものの うちに ひめられた
なかみと いうものが あるのなら

そういう なかみを みてみたい

はなの なかみや ひとの なかみ 
いしの なかみに うみやかぜの なかみ

そんな いろんな なかみを みてみたい


『きっと みんな そうおもって いる』んだと おもいます

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

じつを いうと 
これが なにかなんて どうでもいいんです


『そんなことより あなたに』
このえのなかで さわって ほしいいのです

そんなことより あなたに 
このえのなかで いきをしてみて ほしいのです 

そんなことより あなたに 
このえのなかの すべてのものに つつみこまれて ほしいのです

つまりは あなたに このえのなかで いきてみて ほしいということです


そうすれば きっと 

これが なにかなんて もう あんまり きにならないと おもいます

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『じぶんより おおきな ものが あると おもって』

それが えがけたら いいだろうと おもって
それが みれたら うれしいだろうと おもって

なんとか えがこうと しましたが 
じぶんより おおきいので えがけるわけが ありません


つまりは そういうえって いうことです
つまりは なんにも えがけやしないって いうことです
つまりは とほうもない じかんを かけて
つまりは ぜんぶの ちからを つぎこんで
できもしないことを やろうとしただけって いうことです

でも それで いいんじゃないかと おもいます
わたしは それで じゅうぶんです


つまりは そういうことが つたえたかった ことなんですから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みぎとひだりに うえとした
よのなか ふたつに わかれてる

みぎとひだりに うえとした
なんでも みんな わかれてる

みぎとひだりに うえとした
ひとつのものなんて ありゃしない


ひとつのものが みたいなら
つくりださなきゃ みられない

それでも ひとつが みたいなら
ふたつのままじゃ みられない


うん そんなことが できるなら
うん そういうふうに できたなら

ふたつのものは ひとつのもの
ひとつのものは ふたつのもの

ひとつは ふたつで ふたつは ひとつ


そう そんなことが できるなら
そうそう そんなふうに できたなら


みぎも ひだりも おなじむき
うえも したも おなじばしょ

よのなか すべてが ふたつで ひとつ
『そんな よのなかは きっと たのしい』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もとにもどる そこにかえる

すべての ものは もとの かたちに もどっていく
もといた ところに かえっていく


なににもどる どこにかえる

すべての ひとは うまれた ばしょに かえっていく
じぶんが でてきた せかいに もどっていく


どうせ もどるなら 『なんで そこから でてきたのだろう』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前回同様、「詩」としては、オソマツな感じがするんですが、「題」なんで、それでいいと思っています。
(私は「美しい言葉」を使うことは出来ないみたいですね)

まぁ、「絵」が少しでも伝わりやすく成ればいいかな?ということですね。

『・・・・・えっ、成ってない?』

「あー、まだ、もうチョットだねぇ」

「長い題」=詩のような題(その3)



「長い題」(その3)です。

『こんなの読む人居るんだろうか?』っていう疑問はあるんですが、『いや、そんなことは無い!・・・たぶん・・・』と言うことで。

『 』の中は、その絵を呼ぶ「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

とまっている 

ただ いきおいだけを もって とまっている

そうなんだ ひかりと ねつが まじりあって こおりついたとき
この せかいに かんきが なげこまれたんだ

『なにもかもが とまっているというのに』

よのなかの すべてのものが よろこびに みちて おどっているようだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『まるいもの』に みえるじゃないか

あるときは これが とてつもなくおおきい 

そんなとき 

きみは うちゅうのことも 『まるいもの』と よぶのか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひとは みな ひかりの なかに いきている

やみの なかでは いきられない

やみの なかには なにもない

ひかりに うまれて ひかりに くらす


ひとは みな 『そうやって 生きている』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

すすめ すすめ まえへ すすめ

『まえだけを みつめて』 ちからを こめて まえへ すすめ


その まえは うしろ その うしろが まえ

そうだ その うしろのまえに むかって まよわず まっすぐ すすむんだ 


あぁ ぼくは どっちに むかって すすめば いいんだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

かわっていくよ すべての ものが
ねじれているよ すべての ことが


ものでも ひとでも おんなじなんだ
 
かわりつづけて ねじれつづけて
それじゃないと いられない

ねじれて ねじれて はんたいがわに つながって 
それで よのなか できている

おかしなことも ふつうのことも
みんな それで できているんだ

ありとあらゆる ときに
ありとあらゆる ばしょで 
ありとあらゆる ものが
ありとあらゆる ほうこうから
ありとあらゆる ほうこうへ

みんな ねじれていく 

だから どんなに おかしなことも どんなに ふつうのことも
ぜんぶ いっしょに やっていられる


ぼくは 『それしか かんがえようがない とおもうんだ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たいようでもあり ほしでもあり つきでもあるという しょくぶつ

そういうものが えがきたかったと いうことなんです

そういうものは そこいらへんの みちばたに たくさん はえていますから 
それで そういうものを えがこうと おもったと いうわけです 

もしも あなたが そんなふうに おもわないと いうのなら
もういちどだけ みちばたの くさを みてごらんなさい 

そうすれば すべての くさやきに 
たいようや ほしや つきが やどっているのが みえますよ

そうすれば もう こまかいことは ほとんど きにならなくなっている 
そういうのが 『もっとも ふつうのこと』ですね


だって みちばたの くさやきに 

たいようも ほしも つきも みんなやどっているっていう このよのなかで

こまかいことなんて きにしたって しょうがないじゃないですか 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こういうのを読んだ人って、どう思うんでしょうね?
わかりませんねぇ。




「長い題」=詩のような題(その4)



「長い題」(その4)です。

読むと、きっとソンしますよ。
読むと、時間の無駄ですよ。
読むと、イライラしますよ。
読むと、『なんなんだよ!これは!!』って思うだけですよ。

『じゃ、読んでみようかなぁ』
そういうアナタって、ステキ!!!

ということで、「長い題」(その4)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『たびに でます』 
この ながれに のって

そうです

ぼくじしんが この うごきつづける ものになって 
たびに でるわけです

そうすれば ぼくは もう どこにだって いくことが できます
ここが どこでも かまいません


ここが どんなに あきあきするほど ありきたりで つまらない ばしょでも

なんの かたすみなのかも わからないほど ちっぽけな ところだと 
ぼくが おもいこんでいる そんな かたすみの ばしょでも

そんなことは どうでも いいことことです


ぼくが この うごきつづけるものに なって たびに でることが できたなら
ぼくは どこにだって いくことが できるんです


だって もう ぼくの こころは このえのなかに あって 

えいえんに うごきつづけるものに なって いるんですから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おどろくほどに 
まったく びっくりするくらいに ふつうのこと

そういうことこそ すばらしく
そういうことこそ うつくしい
そういうことこそ ありえない

ありえないのに どこにでも
ありえないけど だれにでも

みんなに ひとつの ふつうのこと 
みんなに ひとつの すばらしい


そういうものが

ほんとは 『みんなが ほしがっているもの』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いきもののように うごきだす
それまで とまっていた ものたちが 


めを こらして よくみれば 
ものの なかみが みえてくる

どんなものでも なかでは みんな うごいてる


そとがわの からを とおして なかみを みれば
なかでは みんな うごいてる

とまってるものは なにもない


ほんとは みんな うごいてる 
『それだけが ぼくに わかること』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ふゆには すべてが とまってみえる

くうきも ひとも こおりついて うごけなくなってしまうから


でも なつが くれば うごきだす
すべての ものが うごきだす

うごいていないと やけついてしまうから


そうは いっても はるやあきが いいかといえば そうでもない

そんなふうにして 『きせつが めぐって』いる
きせつが めぐると ときが すぎていく
ときが すぎると それが いきたことに なる


なにはともあれ いきたことが すばらしいことに なる

それだけは ぜったいに たしかなこと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

にじにだって いろいろある

くろい にじもあるし くすんだいろの にじもある


そんな ときには それを にじとよぶ りゆうは もう どこにもない
『そう おもった しゅんかんに せかいは ぎゃくてんする』


とまっていたものが うごきだし
くすんでいたいろが かがやきはじめる


そう よのなか すべてが にじのように かがやいて うごきだす

そう よのなか すべてが まっくろに くすんでいるとしても





「長い題」=詩のような題(その5)



「長い題」(その5)です。
どうやら、「題」の方が早いペースで出来るみたいですねぇ。
困ったもんです。

たぶん、あまりこだわりが無いんだと思います。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うつくしいものなんて どこにもない

そんなものが あるのなら
ただ それを かってくればいい


みにくいものなんて どこにもない

そんなものが あるのなら
ただ それを すててしまえばいい


さて それなのに 

『よのなかの すべてのものは あまりにも うつくしく
よのなかの すべてのものが あまりにも みにくい』

きっと こういうふしぎなことは
ずっと わからないまま なんだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いま このえの まえに たっている あなたへ


このえを みてくれて ありがとう
こんなえを みてくれて ありがとう
このえを みても ひどく がっかりしないで いてくれて ありがとう
このえを みても くずのような えだと いわないで いてくれて ありがとう


もしも ちがっていたら とりけしますけど

でも 『とりあえず いまのところは ありがとう』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

えいえんという しゅんかんに とじこめられた くうかん
そんなせかいに いきている


そういうことは

だれの めにも あきらかで
だれの あたまにも あきらかで
だれの こころにも あきらかな
じじつと いっても いいことで 

えいえんという ときが いま この しゅんかんに すっぽりと 
ありとあらゆる すべての ものが ひとつの てんに すっきりと

おさまってしまうという あたりまえのこと


それこそが このよのなかの なりたちの
それこそが あらゆることの なりゆきの
それこそが すべてのいのちの ありかたの

『だいたいのことの もと になっている』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なにかが できたことなんて いちどもない
なにも できなかったことなんて たくさんある

そんな ぼくが いまも なにかを しようとしている


だから そのぶんだけ ぼくは えらい


だから なにかを しようとしている ひとは 
みんな すこし えらい

きみが もし なんにも できない ひとならば
きみも すこし えらい


いま このえの まえに たっている きみは

『きっと なにかを しようとして そこに たって いるんだから』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ねじれて ねじれて ひっくりかえる』
ひっくりかえって まっさかさま 


うえと したが まっさかさま
まえと うしろも まっさかさま
どこも かしこも まっさかさまで なにが なんだか わからない

わからないから かんがえる 
わからないけど かんがえる 
かんがえないと とまってしまう


とまってしまうと いきられない

つまりは そういうことなんですね

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ひかりの ちから』 ひの ちから
ひかりの ちからは ひの ちから

ありあまるほど ふりそそぐ

みんなのうえに おなじだけ

ありあまるほど ふりそそぐ


そんな ひかりのちからが すべてをつくる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『かえりたい かえりたい』 
どこかに むかって かえりたい

でも ぼくは いったい どこから やってきたのだろうか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『きげんに かえろう』 きげんに

きげんに くらし 
きげんに いきて
きげんに しんでいく

そうすれば きっと なにかが わかるだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『いろのかたちと かたちのいろ』


どんないろが うつくしい 
すべてのいろが うつくしい

どんなかたちが うつくしい
すべてのかたちが うつくしい


いろとかたちで 
すべてのものが うつくしく 
すべてのものが すばらしく

ひかりかがやいて いるようだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひかりのなかに やみがあり
やみのなかを ひかりがはしる

まぶしい ひかりが またたいて
その むこうでは どすぐろい やみが うずをまいている


『はたして そんななかで
ぼくは なにを えらびとることが できるだろうか』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きみの すがたを みせてほしい
      
いや ちがうよ それじゃない

きみが じまんに おもっている その りっぱな すがたじゃなくて
きみの なかの かたすみで ちいさくなっている
そっちの すがたが みたいんだ
       
きみは それを みせるのが いやだから 
くすんだいろで ぬりつぶして いるけれど

ぼくは そっちが みたいんだ 
 

その いろは はじのいろ

そんなものじゃあ かくせない
どうやったって かくせやしない
 
かくして おくには うつくし すぎる
かくして おくには すばらし すぎる


だから その 
きみの ほんとの すがたを みせてほしい

みんな うつくしいものが すきだから

       
『きみが だれでも それは かまわない』




「長い題」=詩のような題(その6)



「長い題」(その6)です。

今回のは、ぜんぶ「絵」に合わせて「題」をつけたものです。
ということは、前に出来ていた「絵」が決まっていない分の「題」の方はそのまま残ってしまうということですね。

「題」がたまっていって「絵」が追い付かないというのはどうなのよ?

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おちてゆく

いま まっさかさまに おちてゆく
ここにいると かなしくなるから


ならくのそこは どんなとこ

きっと かがやくせかいが まっている


だから ぼくは 
なんだか とっても たのしくなって
なんだか とっても おかしくなって

『いま おどりながら そこに おちていくとこ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いま きみに なまえを あたえよう ロミルラン

そう いまから きみの なまえは ミル・ロミルランだ
きみは これから ミル または ミルナルと よばれることに なる

『ときと ばあいによって ひとの なまえは へんかする』
だから ミルナルと よばれることも あるだろう


いずれにしろ いま きみには なまえが あたえられた
だから きみは もう まよう ひつようは ない

あたえられた なまえに したがって まよわず いきて いけばいい


いま きみに あたえられた ミル・ロミルランと ミルナル・ロミルランという なまえは 
じゅうぶんに うつくしい なまえだ

だから その あたえられた なまえに したがって いきて いくだけで
きみは じゅうぶんに うつくしく なることが できる

それでも きみが まよいたければ まよえば いい


そのとき きみは あたえられた まなえを こえて 
きわめて うつくしく かがやくことが できる


この ふたつのうち どちらの いきかたを えらぶかは

『かんぜんに きみの じゆうだ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『カーニバルは やってくる』
どこにでも やってくる

それは おまつりだから
それは みんなの よろこびだから

だから カーニバルは どんなところにだって やってくる

たとえば この オパールのような じめんと
きいろいかべのような そらが 
あかとしろの わくのなかに とじこめらた
こんな ところにだって それは やってくる

だれにも しられずに くらくかがやいている
こんな ばしょにも カーニバルは かならず やってくる

それは いつも なんのまえぶれもなく とつぜん あらわれて 
なにごともなかったように あとかたもなく きえてしまう

だから ふだんは みんな わすれてしまっているけど
いつのひか また カーニバルは かならず やってくる


だって それは おまつりだから
だって それは みんなの よろこびだから


だから カーニバルは どんなところにだって

きっときっと やってくるんだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しずかに ほのおが もえている 
この おとのないせかいで

かぜのおとすらしない その しずかさのなかで
つめたいほのおに てらされて 

ひやされるほどに あたたかく
こおりつくほどに やわらかく

その まるくて なめらかなはだは そだってゆく


『それが ほんとうに いつわりのない ひとのすがたと いうものです』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『さびしくて うつくしい』

あおじろい ひかりに つつまれて
じっと やすんでいる

ひとりでいることを ひそかに たのしんでいるように
かなしみに みたされることを すこしだけ よろこんでいるように


こんな さびしさのなかに 
こんな しっとりした やさしさが あるなんて

こんなに うつくしい くうきのなかで 
じっと やすんでいられるなんて

あぁ つめたくて やわらかい そんなやすらぎが ここにある

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『また ひとつ このせかいに 
あたらしい いみが あらわれる』


ほのぐらい せかいの かたすみに
ほのあかるい いろを なげいれて

それは とうとつに しゅつげんする


なんのいみかも わからない
なんのかたちかも わからない
なんのかがやきなのかも まったく わからない


それらのものは これから このせかいのなかで あたえられていくことになるだろう


そんな あたらしいいみが またひとつ 
このよのなかに しゅつげんすることが

いま けっていされたようだ

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二番目のなんか、相当恥ずかしいんですが、読んでる人がすごく少ないから書けるという感じです。

『閑古鳥ブログ万歳!』




「長い題」=詩のような題(その7)



「長い題」=詩のような題(その7)です。
この「長い題」の記事も『どうせ誰も読まないんだろうなぁ』ということがだいたいわかってきたので、『やめちまおうか』と思うんですが、よく考えたらほかの記事も同じようなもんなんで、取り敢えず続けようと思います。

そういうわけで、「長い題」=詩のような題(その7)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『きょうは いいひか わるいひか』

そんなことは わからない 
ひゃくねん たたなきゃ わからない
でも しんでからじゃあ やっぱり けっきょく わからない


つまりは 
ひゃくねんたてば いいひに なるかもしれないひ
それが きょういちにちの ほんとのいみ 

そのとき ぼくが いきてたら 
それは ぼくにとっての きょうのいみ 
 
そのとき ぼくが しんでたら
それは だれかにとっての きょうのいみ


つまり いまこのときの ぼくにとっての きょうのいみとは

ひゃくねんまえの だれかが くれた きょうのいみ


だったら それは きっと いいひで あるに ちがいない

ひゃくねんごの だれかに むかって 
わるいひを おくる ひとなんて いるわけないから

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ここは どこ

ここは いったい どこなのか


だいとかいの まんなかの 
そのまた いちばん まんなかの
じめんの したを ほってゆき
さいごに でてきた ちいさな あな

その あなという ポケット

それが ここ


ひとで うずまく だいとしの 
みんなに ひとつ ここは ある

だれの なかにも かならず あって
なくなることは ほとんど ない


ここに くると じぶんのことが わかるから

ここを なくすと 

『もう にどと ほんとの じぶんに あえなくなってしまうから』

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『せかいには ブルーの あめが ふることが ある』

その ブルーの あめには オレンジ色の つぶが まじることが ある


なぜならば それが うつくしいからに ほかならない

すべてのものが ただただ うつくしいから そこに そんざいしている


それが この せかいが なりたっている 

ただ ひとつの りゆうに ほかならない 

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『ちょうの はね 
めが くらむほど いろめき
なんごくの はな 
むせかえるほど においたつ』


ひとの かげ 

やわらかくて あたたかい ひとの こころは
その いろと においの みつりんの まんなかに
ひとり ぽつんと とりのこされる

まるで くらい かげのように


この みつのように あまい においと
めまいが するほど あざやかな いろの なかで
ひとり おきざりにされて からめとられてしまった
やわらかい ひとの こころは


はたして そのときが くれば 

ここから ぬけだすことが できるのだろうか 

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もりの おく

なつの ひざしも とどかない もりの おくは
つめたい くうきで みたされて 
しんと しずまりかえっている


そこには あおじろい ひかりしか とどかない


それなのに その ゆらめく ひかりが 
おどるように ながれこんでいるのは 

そこに いのちが やどっているから


いや いま この しゅんかんにも
いのちが たんじょうしているからに ちがいない


『きっと もりとは そういう ばしょに つけられた なまえ なんだろう』

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『それは じょうねつの ダンス』


こころの なかの なにかを みつめて
ほかの ものには みむきもしない
その いってんだけを みつめて
いっしゅんたりとも めをそらす ことはない 

そんなふうに いっしんふらんに
そんなふうに むがむちゅうで
もえさかるように おどりつづける 
じょうねつの ダンス

たいようのように さんさんと
つきのように たんたんと
くりかえされる こころの ダンス

それは おどりながら いきること
それは いきながらにして もえつきること

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひみつとは みえないものの ことだから


それなら みえるように してみよう
だれにも みえるように してみよう

それで きっと わかるだろう
だれにも きっと わかるだろう

うつくしいから ひめられて
ひめられるほど うつくしい


でも それを かくしてしまう ひとが いる
ヴェールを かける ひとが いる
にどと あけてみようとはしない

それで また
ひみつが もとの ひみつに かえされて

まえより もっと ひめられて
まえより もっと うつくしく
まえより もっと いちだんと

ひそやかな かがやきを ましてゆく


そう 『ひみつとは みえないものの ことなのだから』







「長い題」=詩のような題(その8)



「長い題」=詩のような題(その8)です。

『ええ、「題」だけですけど、なにか問題でも?』

「長い題」=詩のような題(その8)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そぼく すぎず 
じゅんすい すぎず

それでいて いとも きまじめで 
ひとに きをつかわずに なにかを することなど できるわけもなく 
したがって ろくなことなど ほとんど できたためしがない

そんな にんげんに うまれついてしまった ぼくが
こんなにも ふつうの じんせいを 
こんなにも せいじつに いきているというのに
どうして こんなにも ややこしくて めんどうなことに なるのか

なにゆえ もっと たんじゅんに いきられないのか


そういったことが まったくもって りかいできないと 
いつも おもっているような


『ソウイウ ニンゲンデ ボクハ アリタイ』

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かなしいときに なみだが でない

うれしくも ないのに わらってしまう

わるいと おもってないのに あたまを さげ

たいしたこと ないよと おもいながらも
かんしんした ふりをする


だけど ほんとは

じぶんが えらいと おもってる
じゅうぶん りっぱな ひとだと おもってる


でも もっと ほんとの ところでは

そんなこと いうほどの じしんは なく
いつも ひとの かおいろを みて いきている


そう これは ぜんぶ わたしの ことですが
そうです ぜんぶ あなたの ことでもあるわけです

あなたが だれでも おんなじです
ちがうと いっても かわりません


わたしも あなたも そういう いきもので あるのです


だから とっても いやなんだけど

『ソウイウ ニンゲンデ ワタシハ アリタイ』

きっと わたしたちは
そんなふうに おもっているに ちがいありません

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うつくしいものも おもしろいものも もう いらない


うつくしいものは しぜんが ありあまるほど あたえてくれる

にんげんは おもしろいものばかり つくりつづけて 
よのなかを おもしろいものだらけに してしまった


だから もう そういうものを つくりだす いみは ない

いま にんげんが つくりだす いみが あるものといえば
それは じぶんじしんの すがただろう


にんげんの すべてを あらわすことは できないが

もし かりに 
それが ひゃくぶんのいちでも できたなら

にんげんの ほんとの すがたを 
いっしゅんたりとも みせることが できたなら


それは きっと

『なみだが でるほど おもしろく
ふるえるほどに うつくしいもの』に なるだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『つやとは』 

いろとりどりの かじつや 
なんごくの しょくぶつの はの
はだのようなもの


つやとは 

ながれるような かたちの 
ガラスや とうきが はんしゃする ひかりのようなもの


そして つやとは 

ひとの こころが もっている 
ひとどうしを ひきつけあう みりょくのようなもの


ときに あいらしく
ときに なやましく
そして ときには ゆうゆうしく

ひとの こころを ひきつけて やまない


そんな つやが

だれの こころのなかにも かならず あるはずなのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たのしくて たのしくて
いきているのが たのしくて

かなしくて かなしくて
いきていくのが かなしくて


しぬのなんて こわくない
いま いきて いるから

いきるのなんて こわくない
きっと いつか しぬから


それなのに
どうしても たのしくて
どうしても かなしい

どうしようもなく たのしくて かなしいので
だったら それで いいんじゃないかとも おもうんですが

それにつけても
『あまりにも たのしくて あまりにも かなしい』


それぐらいで いきていくには ちょうどいいんだと おもいます

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

はじめの二つは『宮沢 賢治』さんの『雨にも負けず』から発想したものです。
というか、出来てくる途中でそういう方向に持っていったという感じですね。
『宮沢 賢治』さんは、たぶん、けっこう好きなんで。

『たぶん』というのは、本を読んだりしたわけではないので、ハッキリしません。
っていうか、『雨にも負けず』自体、これを書いた後ではじめて「全文」を読みました。
ずいぶん長いんですねぇ。
最初の所と、最後の所しか知らなかったのかなぁ?(これも、たぶん)

『雨にも負けず』からの引用(少し違いますけど)であることがわかるように、その部分をカタカナにしています。



「長い題」=詩のような題(その9)



「長い題」=詩のような題(その9)です。

「絵」が進まない時に限って「題」は出来るみたいですね。
困ってます。

まっ、「題」だって、なんにも出来ないよりはいいさぁ~。
「長い題」=詩のような題(その9)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たいこの むかしから 

あるがままという たいだを 
ただ まんぜんと つづけてきた だいしぜんの うずに 

さからうことすら できずに
もののみごとに まきこまれながらも

なんの こんきょも ないというのに
こんなにも パンパンに ふくれあがってしまった 
にんげんの とかいは

こうぎょうかの もたらす とてつもなく ふきんこうなきんこうを
いまも へいぜんと たもちつづけている

その じんこうという こざかしい くうかんの なかで
みずからの ちんけな ちせいと
ごうまんな りょうしんの かけらに うめつくされて 
おぼれしんで いきながらも 

にこにこと ほほえみを うかべて 
ていさいを つくろうことや 

せいろんという じょうひんな ぼうりょくを チラつかせて
じふしんを みたすことだけは かかさない


そんな あいらしい にんげんたちが とじこめられてしまっている 

『この ぜつぼうてきに へいさてきな くうかんを
いま ぼくの なかで かいほうする』

あの あおぞらの きれつに むかって
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いつでも どんなときでも
にんげんらしい にんげんで ありたいと おもうわけですが

いつでも どんなときでも
ひとは みな フル・タイムの にんげんで 
いられる はずだと おもうわけですが

それが なかなか そうも いかないようで

ひとは すぐ にんげんいかを やってしまう
にんげんみまんに おちてしまう

つまりは 
ひとは みな 『パート・タイムの にんげん』で あるわけです

それなら それで しかたがないとも おもうわけですが
それなら それで がんばろうとも おもうわけで

それなら それで いまだけでも 
なんとか にんげんらしく していようと

いっしょうけんめいに おもうわけなのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ぼくは ひとつぶ』

ぼくは すなはまの すなのなかの ひとつぶ
ぼくは うちゅうの ほしのなかの ひとつぶ
ぼくは ただよっている ほこりのなかの ひとつぶ
ぼくは しゅうかくされて あつめられた こめつぶのなかの ひとつぶ

つまらないと いえば つまらない
おもしろいと いえば おもしろい

どうでもいいと いうことも できるし 
たいしたものだと いうことだって できる

ひとつぶであることを ひげして なやむことも ある
ひとつぶであることを じまんして ひけらかすことも ある

ひとつぶのかちを ばかにして わらうひとも いれば
ひとつぶのかちを とんでもなく すごいことのように いうひとも いる

じぶんの ひとつぶを ひとの ひとつぶよりも 
おおきいと おもうことも できるし
ちいさいと おもうことも できる

でも ほんとうは みんな おなじ ひとつぶ


ぼくには そんな ひとつぶの かちが ある

そのかちを ひていできる ひとは いない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちゅうを まう
『あざやかに ちゅうを まう』

ときを とめ
くうかんを とじた このせかいの なかで
それは あざやかに ちゅうを まうのです

むかう さきもなく
なんの もくてきも ないというのに
けっして おちることは なく

まるで つきの みちかけのように せいかくに
そして ただ あざやかに

そうです

それは ただ ひたすら あざやかに 
ちゅうを まいつづけ

みごとに このせかいを おきざりにして しまうのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『できることは ひとつだけ』
できないことは たくさん

できることなんて ひとつだけ
できないことなんか やまほど

でも そのひとつだって わからない
できないときも あるから

でも そのひとつ
もし ひとつだけ できたなら
それは あなたの いみなのです

いえいえ ちがいます
たくさん できては だめなんです

ひとつ じゃないと だめなんです

ひとつだけには いみがある
ひとつじゃないと いみがない

そのひとつ 
いま あなたは それが できている

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちなみに、この中で、出来ている「絵」があるのは一つだけで、なんとなくこんな絵を描こうと思っているのが一つです。
他のは、該当する「絵」がまだありません。
『いかん、いかん!』
『でも、まぁいいかぁ?』


「長い題」=詩のような題(その10)



「長い題」=詩のような題(その10)です。

いやぁ、マズイですねぇ。
ドンドン長く成ってます。
こんな「題」に見合う「絵」ってあるんだろうか?っていう疑問はあるんですが、いちおう、この「長い題」も作品の一部ということに成っております。

そんな感じで、「長い題」=詩のような題(その10)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

アスファルトで おおわれた 
ちきゅうという はいいろの ほしが あるという

かつては あおと みどりの ひかりに つつまれていた その ほしには 

けんりょくは うばいあい
せきにんは おしつけあい

それでいて じょうひんぶった ちしきや
みえと じふしんだけで つくりあげた かんせいを
みせあって あそぶという とぼけた しゅうせいがある 

にんげんという いきものが いたという

その にんげんという いきものは
みずからが たんなる りゅうつうしゅだんとして うみだした
かねという もうそうに 
とらわれ しはいされ ほんろうされ
さいごには はかいされてしまった

しかし あらたな しゅうせいを みにつけたものだけが いきのこり
あたらしい いきものとして うまれかわった

その あたらしい いきものは 
いまも はいいろの ちきゅうに すんでいるが
いまでも ちきゅうが あおいひかりに つつまれていると
しゅちょうしている

かれらは いまだに かねを すうはいし
それに ぜつだいな ちからが あると しんじているが
それを ぶんめいと よぶことによって
そこに むじゅんは なくなるものと かんがえている

かれらは ありとあらゆることの なまえを よびかえることによって
じぶんたちが うみだした むじゅんを 
すべて わすれさることに せいこうした

かれらは かんせいされた せいかつを てにいれ
もはや なにひとつ こまることは なくなった

つまり かれらが みにつけた あらたな しゅうせいとは
すりかえに ほかならない

あらゆることにおいて ほんしつを ついきゅうせずに
ぶなんで ここちよいものに すりかえて 
つじつまだけを あわせる

しんじがたいことだが 
かれらは このしゅうせいを みにつけたことによって いきのこり 
いまや かつてないほど はんえいしているという


さて ところで
この あたらしい いきものたちこそが
いま ここにいる われわれであるとする ぞくせつが ある

もちろん おおやけに みとめられた せつでは なく
まったく こんきょの ない うわさで あって
すくいようもないほど こっけいな めいしんでは あるのだが


『その めいしんの なかに ねむっている 
しんじつのとびらを いま ぼくのなかで ひらこう』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しんぴんの あおぞらに 
しんぴんの たいようが のぼり 
きょうも また 
しんぴんの まちの
『しんぴんの いちにち』が はじまる


しんぴんの ふくを きて
しんぴんの くつを はき
しんぴんの いえを でる

しんぴんの くるまに のって
しんぴんの みちを はしり
しんぴんの まちを ぬけ

しんぴんの ビルに はいり
しんぴんの オフィスの なかで
しんぴんの しごとを して
しんぴんの きゅうりょうを もらう

しんぴんの みせに ゆき
しんぴんの しょうひんを えらび
しんぴんの ふうとうから とりだした
しんぴんの かねで かう


そんな まあたらしくて ピカピカの
しんぴんの まちの くらしには
ちり ひとつ おちていない
どろの ついた ところは どこにもない

だから じつに かいてきだ


そんな まぶしいばかりの しんぴんの せいかつの なかで 
だれかが といただした


きみは どろの においが なつかしくないのか
その ちのけのない ビニールのような しょくひんは うまいのか
きずだらけの はしらがある いえに また すみたいとは おもわないのか
あの きふるして しなしなになった ふくの はだざわりを
いったい きみは わすれてしまえるとでも いうのか


そこで また べつの だれかが つづけた


ところで その しんぴんの みなりをした きみの なかみは どうなんだ

にんげんは いつまで しんぴんで いられるのか
そもそも しんぴんの にんげんなど いるのか
また いたとして それに いみが あるのか

この といかけによって
ひとの こころの なかの しんぴんの せかいが ほうかいした

ゆめの くらしは うしなわれ 
ふるびた げんじつが あらわれた

でも それなのに 
しんぴんの まちは いまも ここにある
いちど うごきだしたものが やすやすと とまることは ない

だれかの といかけぐらいでは とまらない
つまりは だせいで つづいていく

にんげんは もう げんじつを うけいれる じゅんびが できているというのに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

よのなかは きかいじかけで うごいている


はぐるまは せいかくに ときをきざみ
すべての ぶひんは かんぺきに せいぎょされている

こわれた ぶひんは はずされて
すぐに あたらしい ぶひんに とりかえられる
しんぴんの ぶひんは いくらでも ある
だから だれも こまりはしない

だったら それは それで いいんだろう


さて そこで こわれた ぶひんは どうしよう

つぎから つぎへと はずされて 
ずいぶん たくさん たまってる
まがった ぶひんが たまってる


だったら なにか つくってみよう
まがった ぶひんを つかってみよう

もしかして おかしなものが できるかも
もしかして へんなものが できるかも

いや きっと たのしいものが できるだろう
そう きっと やわらかいものが できるだろう

だって まがった ぶひんで つくるのだから
やわらかいものが できるはず


その やわらかい ぶひんに つつまれて
きかいじかけの よのなかが すこしづつ うごきだす 

『やわらかく うごきだす』


そうしたら 

いつのまにか せいかくさは わすれられ
かんぺきさなど かげもない


でも それなのに
やっぱり だれも こまりはしない

だったら これも これで いいんだろう
そこだけ ちがう はずは ないから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きっと きみは さみしいんだね

だから こんなに かがやいている せかいのなかで 
ひとり ぽつんと かなしそうに しているんだね


それとも もしかして 

ほんとは とっても うれしいのかい
だから こんな とじこめられた ばしょで
ひとり かがやきを ふりまき つづけているのかい


それとも・・・


いいえ
わたしが ここに いるのは さみしいとか うれしいとか
そういうことでは ありません


ただ わたしは
どうしようもなく なやましくて
たえられないほど もどかしくて 
それで わたしの からだじゅうを
ぜつぼうてきな よろこびが くるおしく めぐっていて

だから わたしは 
ただ こころを しずめるために 

『ここに ひとりで さいているのです』


でも わたしのことを きにかけてくれて うれしい


ここに かくれて さいている わたしに
きづいてくれる ひとが いるなんて


わたしは そのことが ほんとに とっても うれしい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ほんせいに めざめよ』


いま ばんぶつに よびかけよう

おのれの おくに うめこまれた 
ほんしつを ほりだし みきわめよ

みずからの しんじつの すがたを みつめて 
それを はんだんせずに うけいれよ


みにくいとは はんだんせずに
なぜなら うつくしいのだから

はずかしいとは はんだんせずに
つまりは ほこるべきものなのだから


いっさいの はんだんを しりぞけて それが うけいれられたとき  

ほんせいは ねむりから めざめる


このよに ひときわの かがやきを はなって
しんじつの すがたを あらわし
それは せかいに あらためて しゅつげんする


その あまりにも まばゆい すがたを みつめることは
だれにも できない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『長すぎ!!』



「長い題」=詩のような題(その11)



「長い題」=詩のような題(その11)です。

『これって絵の題なんですか?』

「絵の題なんです!!」

・・・・的な?感じで、「長い題」=詩のような題(その11)です。


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
二か所あるものもあります。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『かがやきの せかい』

しきさいと こうたくが しはいする 
この さんらんする ひかりの せかいでは
あかるさは なんのいみも もたない

しろは しろに すぎず
くろは くろに あまんじるしかない

ここは まさに しきさいと こうたくが しはいする
かがやきの せかい なのだから

ほかのものが いみを もつことは いっさい ゆるされず
すべてが かがやきの ために
ぜんめんてきに ほうしさせられることに なるのだ

この はんきょうする ひかりが じゅうまんする せかいが
しきさいと こうたくのみによって 
きずきあげられ しはいされて いることには

なんの りゆうも ひつようないのである

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ぼくたちには じゆうが あたえられた
すくなくとも ぼくたちは それを じゆうだと おもうことが できる

だったら それを つかってみよう
こころの じゆうを つかってみよう

じゆうとは なにものにも しばられず
じゆうとは なにものにも たよらずに
じゆうとは ただ あてもなく ちゅうに ただよいつづけること

つまりは じゆうとは
なんの よりどころも なく
むじゅうりょくの くうかんに ほうりだされる ということだ

どんなに ひっしで もがいても
どんなに れいせいに かんがえても
できることは なんにもない

そんな なかでこそ ちからを つかって かんがえつづけよう 
たのしく

そんな なかでこそ いっしょうけんめい もがきつづけよう 
よろこんで

それが 『じゆうの つかいかた』

それが せかいを うごかす ことは ないけれど
でも それが ひとの こころを うごかしている
ただひとつの ちからなのだから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『やみに およぐ』

くらやみに およぐ いきものに かおは ない

めは ひつようない
どうせ なにも みえないのだから

はなも いらない
そこに においなど ないのだから

みみが やくに たつことも ない
その おとのない せかいでは

いや じつは そこに ひかりや おとが ないわけではない
そう じつをいえば 
そこは あかるく はなやかな せかい

そうそう じつをいうなら 
くらやみは かおのない いきものの うちに ある

みたくないから みようとしない
みようとしないと みえなく なって
みえなく なると めが なくなる

やがて かおの すべてを うしなって
かおだった ところの うちがわに
まっくらやみが できあがる


なんと かなしいことに
かおのない いきものが みたくなかったのは
その じぶんの なかの くらやみの せかい

そのために かおを うしなって
くらやみを およぎつづけている

ただ めを ひらいて みるだけで よかったのに


さて この あわれな じぶんの すがたを
ぼくたちは みつめることが できるだろうか

ずっと とじてきた このめを いま はじめて みひらいて

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

やくそくする
ぼくは きみに やくそくする

どんなときにも きまじめであることを

ぼくは いついかなるときにも 
きまじめに いき
きまじめに かんがえ
きまじめに かたり
きまじめに こうどうすることを
きみに やくそくする

つまりは
きみを いちずに あいし
きみの すべてを うけいれ

きみに すべてを ささげることを
いま ぼくは きみに やくそくする 

きみが だれであっても それは いっこうに かまわない

いま ぼくが きみと よんでいるのは 
このせかい すべての ことだから

それじゃないと このやくそくを まもることは できないし
それならば このやくそくは かならず まもられることになる

だからこそ ぼくは このせかいに たいして 
『いつも いっしょうけんめいに いきる ということを やくそくして いるんです』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~









「長い題」=詩のような題(その12)



「長い題」=詩のような題(その12)です。

最近に成って、ようやく、この「長い題」ができるペースが落ちてきて、なぜかホッとしています。
ペースが落ちてホッとするのもおかしいんですけどね。

こんな「題」の付け方をするようになって、初めて気が付いたんですけど、「題」ばっかりできるのは考えもんですね。
(絵に合わせて「題」を作るとは限らず、独立した「絵の題」として作っています)
なんか、自分がすごくバカなんじゃないか?っていう気に成ってきます。

でも、めげずに「長い題」=詩のような題(その12)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『うつくしくは ないが かいぶつでは ない』

こわそうにも みえるが 
おそろしいと いうほどでは ない

どこか さみしそうに しているのに
ないている わけでは なく
ただ そこに たっている

つめたくて するどい はもののような ものなのか
やわらかくて あたたかい まわたのような ものなのか
その しょうたいは わからない

そういうものが いつも ひとりで たっている

だれの なかにも ひとりづつ

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『もしも はなに なれたら』

たいように せを むけて はしりだそう
その ぎゃっこうの なかで 
せっかく さいた あざやかな いろを うしなって しまうとしても

もしも はなに なれたら

つきあかりに てらされよう
その あおじろい ひかりに
いま はなひらいたばかりの みずみずしさを
すいとられて しまうとしても

もしも はなに なれたら

よろこびに みちて
おどるように はしりつづけよう

こんな くらやみの かたすみに 
この はなびらの いろで すこしだけでも あかみを うつすことが できたら
きっと それは はなさくことの よろこびに ちがいない

だから もしも ぼくが はなに なれたら
そんなふうに さいてみたいと ひそかに おもっているのです

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さめのように つめたく なりたいと おもっては いないだろうか


とりのように
じゆうに そらを とびたいと おもうのと おなじく

はなのように
うつくしく さきみだれたいと おもうのと おなじく

そして くうきのように
とうめいで ありつづけたいと おもうのと おなじく

こおりのように つめたく
たった いってきの なさけをも もたない
そんな かんぜんむけつな いきものに なりたいと おもっては いないだろうか

そんなものには だれひとり なれない というのに


ひとは ちきゅうじょうで ゆいいつ 
『さめよりも れいこくな いきもの』だと いうのに

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『こんとんと めいかいの あいだには』 しんじつが あり
しんじつが ないところには うそが つくりだされる

ひとたび うそが つくりだされて しまえば
それは またたくまに せかいを おおいつくし
この よのなかは うそに そまる

しかし うそにも かならず
こんとんが あり めいかいが あり
その あいだには しんじつが ある

だから この せかいは しんじつで おおわれている ということもできる

それならば なぜ しんじつのないところが あり
そこに うそが つくりだされて しまうのか

おそらく そのとき そこには
こんとんと めいかいだけが あり 
その あいだが ないのだろう

つまりは こんとんと めいかいの あいだに
だれひとり しんじつを みつけだそうと しなくなったとき

この せかいは すくいようのない あざやかさで
うそに そめあげられて いくことになるのだ

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すべての ルールを すてさろう
あらゆる ほうそくを ぬけだして ちゅうに まいあがろう

すべての かいりつを ぬぎすてよう
あらゆる おきてから かいほうされて あしばを うしなおう


『もう それを じゆうと よぶのは やめよう』
ぼくたちは もう じゆうが なにも あたえてくれないことを まなんだのだから

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに じゆうが ないとき

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに ルールという あしばが あるとき

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに かいりつという ふじゆうが あるとき

だから ぼくたちは 
『もう にどと じゆうに なにかを のぞむことは ないだろう』

すべての かいりつから ときはなたれて
すべての ほうそくから とびだして
ちゅうに まいあがった ぼくたちの こころに
じゆうが あたえうる ものなど なにも ないのだから


じゆうが あたえうるものは 
ぼくたちの こころのなかに すべて そろっていて

そんな ぼくたちの こころは
もう すでに 
くうかんと じかんを こえて ちゅうを まいつづけて いるのだから

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ひとには みな 
『いってきの いろ』が ある

その いってきを うみにながせば
たちまち うすまって きえてしまうだろう

その いってきを そらに むかって まいてしまえば
かぜに ふかれて きりのように かすんでしまうだろう

その いってきを つちに おとせば
すなぼこりに まみれて いろなど みえなくなってしまうだろう


そんな いってきの いろで せかいが うめつくされている

どの いってきも ほかの いろに そまってしまうことは ない
ほんとうは きえてしまうことも ない

ほんとうは だれの いろも みな おなじくらいに きわだって うつくしい

だから その いってきの しずくを
けっして つぶしては ならない
つぶしてしまったら ほんとうに きえてしまうから

だから その いってきを けっして つぶしては ならない

いかなる りゆうが あっても






「長い題」=詩のような題(その13)



「長い題」=詩のような題(その13)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、「長い題」が二つ三つ出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)

はじめの二つは、ほとんど同じようなものなんですが、どっちがいいのかわからないので、両方書いておきます。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『げんだいの じょじしを かたること』
それは この プラスチックの せかいを すてること

げんだいの じょじしを かたること
それは この みせかけの じかんを とめること

げんだいの じょじしを かたること 
それは この そとがわの からだけに なった じだいを ぬぎすて
にんげんの にくたいと せいしんを とりもどすこと


もういちど ときめくじかんを つくりだそう
あの みわくされる しゅんかんを おもいだそう

みも こころも ささげてしまいたく なるような
にんげんの せいを よびもどし
この ぬけがらの じだいに いきを ふきこもう


もし かりに いまに まんぞくしていると いうものが いるのなら
そんな ひとは おいていけばいい
この じだいの ぬけがらと ともに

その プラスチックの ぬけがらに へばりついて いたいなら
それを とめる ひつようは ない
かれらに とっては それが ゆいいつの しあわせ なのだから


もはや われわれに そんな ためらいは ない

この じだいに ちを そそぎこみ
にくたいを よみがえらせ 
そこから ふきだす かんきが この せかいを みたしたとき

そこには 
にんげんの いのちが 
えいえんに おどりつづけることが できる くうかんが 
うかびあがる ことだろう

その やくどうする せかいを まのあたりに してしまったからには
もう われわれが ここに とどまる りゆうは なくなった


そう われわれは たった いま 

げんだいの じょじしを かたりはじめると けついしたのだから

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『げんだいの じょじしを かたること』

それは この プラスチックの せかいを やめること 
それは この みせかけの じだいを すてること

それは この いつわりの じかんを とめ
こころおどる じかんの ながれを とりもどすこと


いま この ページを やぶりすて
あらたな ページを くわえよう

プラスチックの じだいに
れきしという なまえは にあわない

それは せんねんごには きえてしまう ページ

そんな ページを かさねても 
げんだいの じょじしは かたれない
この プラスチックの せかいに 
じんじつの こえが ひびくことは ない


このままでは ひとの からだも プラスチックに なるだろう
このままでは ひとの こころも プラスチックに なるだろう

そう この みせかけだけの ページを かさねていけば
そう この しんじつのない おんがくを かなでつづけていけば

きっと プラスチックの にんげんたちが
ただただ せいかくに ときを きざみつづける
そんな よのなかに なるだろう


だから いま 
しんじつの ことばを かたりはじめよう
たとえ それが まやかしだと いわれても

それは せんねんごに じょじしと なって
かたりつがれる ものがたりに なるのだから

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『どうぶつのように いきれば』

きっと なにかが うしなわれ 
きっと なにかが えられるに ちがいない

どうぶつのように いきれば

きっと なにかが わすれられ
きっと なにかが おもいだされるに ちがいない

どうぶつのように いきれば

きっと なにかが みえなくなり
きっと なにかが 
めのまえに くっきりと うかびあがるに ちがいない


それは まだ ひとが にんげんでは なかったころの きおく
それは まだ ひとが どうぶつで あったころの おもいで

そう それは げんしの よろこび

それは かぜ
それは いろ
それは ひかり
それは ねつ
それは いのち

そう それは ひとが ひとであることの よろこび


ひとも また どうぶつで あると いうけれど
ひとも また しぜんで あると いうけれど

にんげんが げんしの よろこびを わすれてからは

それを どうぶつとは よべなく なって
それを しぜんとは よべなく なって
それを ひととは よべなく なって
それは もう にんげんとしか よべなく なって

そこに きかいじかけの にんげん という 
よくできた いきものが あらわれる


きかいじかけの にんげんが はんしょくし
どうぶつである ひとを はいじょする

よくできているから こわれない
きかいじかけの にんげんは こわれない

どうぶつである ひとは よく こわれる
ひとは いつでも こわれてばかり
けっして よくは できていないから


だが しかし 
その きかいじかけの にんげんが しはいする 
この よくできた よのなかで

いったい だれが その きかいを うごかすのだろうか

いったい なんのために 
それを うごかし つづけると いうのだろうか

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「長い題」=詩のような題(その14)



「長い題」=詩のような題(その14)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、また「長い題」がいくつか出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)
今回のは、内容が暗いものが多いので、そういうのが嫌いな方は読まないほうがいいと思います。


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『きぼうとは』
よのなかを てらす ゆいいつの ひかり

きぼうとは
ひとを みちびく ただひとつの とうだい 

きぼうとは
それを たどって ゆきさえすれば
きっと いきることの いみに たどりつけるという
たった ひとつの みちしるべ


つまりは きぼうとは
もしも それが うしなわれてしまえば
ひとの こころから 
いきることの よろこびも うしなわれてしまうという  
のろいの じゅもん でもある

つまりは きぼうとは
もしも それが きえうせてしまえば
ひとの おこないの なかから
すべての いみも きえうせてしまうという
しの よげん でもある

つまりは きぼうとは
それが あたえられた ものにとっては
かがやき でもあり てんへ のぼる かいだん でもある

つまりは きぼうとは
それが あたえられなかった ものにとっては
あんこく でもあり ならくのそこへの いっぽんみち でもある


だから きぼうとは
すべての ひとに おなじだけ
すべての ひとに おなじように

そう かんぺきな タイミングで あたえられなければならない


つねに じゅんびは できている
じゅうぶん よういは ととのっている

このせかいには 
ひとりに ひとつの きぼうが よういされ

いつも かんぺきな タイミングを まっている
いつでも りそうの あいてを まっている


なんぴとたりとも
その タイミングを じゃま してはならない

なんぴとたりとも
その きぼうを よこどり してはならない


なぜなら きぼうが たりなくなってしまうから

そう つまり 
ひとりに ひとつの きぼうが あたえられなく なってしまうから
それでは だれかが しんでしまうから

そんな ときには たりない きぼうを わけあうしかない

たとえ それが かんぺきな タイミングでは なくなってしまうとしても
たとえ それが りそうの あいてでは なくなってしまうとしても

それでも そうするしかない


そう つまり
いまが そのとき なのだから
そう つまり
いつでも そのとき なのだから

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しゃかいとは 
ひとを しばる ロープ

ひとりの くびに いっぽんづつ まきついて はなれない

しめつけられるのが いやならば 
ロープで ひきまわされて なすがまま

ちゅうしんに むかって たばねられた
ロープの うずに まきこまれて なすがまま

まるで ロンドのように おどりつづける
まるで ロンドのように まわりつづける


いま ぼくは おどるのを やめよう
いま ぼくは まわるのを やめよう
もう おどらされるのも まわらされるのも やめてしまおう

たとえ くびを しめつけられて くるしくても
たとえ だれからも かえりみられすに しんでしまうとしても
もう にどと ロープの いいなりには ならないだろう

ぼくが しんで しかばねに なって
めいっぱい おもたい おもしに なって

きっと いつか この うずの かいてんを とめてやろうと 
ぼくは そう おもっているのだから

きっと たくさんの ひとが
そう おもっているに ちがいない

だから みんな 
いけるしかばねと なって かなしい おもいを かかえながら 
こどくという へやに とじこもっているに ちがいない


それだけが いまできる 『たったひとつの いきかた』なのだから
それだけが いまできる 『たったひとつの しにかた』なのだから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しゃかいに てきおうする ということは

もっとも うまく
もっとも こうかてきに
そして もっとも てきかくに いきることであり

また それは 
もっとも ずるがしこく
もっとも ひとでなしに
そして もっとも こそくに いきる ということでもある


つまり しゃかいに じゅうなんに たいおうして いきるということは

こじんが しゃかいの ぎせいとなって
しゃかいのために じゅうじすると いうことであり

また それは 
こじんが しゃかいの なかで 
いかに ふるまうことが 
もっとも じこの ほしんに つながるのか ということを 
てっていてきに けんきゅうし ついきゅうすることでもある


ふたつのうち どちらの はんだんを とるのも 
かんぜんに あなたの じゆうだ

ただし ふたつのうち どちらの はんだんに もとづいて 
しゃかいに てきおう したとしても

『あなたは もうひとつの はんだんから のがれることは できない』

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『ひとは みな パート・タイムの にんげん 
のこりは ほぼ サル』

にんげんで いられる じかんは みじかく
サルの じかんは ながい


そんななかで 

サルの じかんに あっても 
なんとか にんげんで あろうとすること

それだけが 
にんげんに うまれてしまった ぼくに できる たったひとつのこと

サルに うまれてさえいれば そんなことは きにも しなかったろうに

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「長い題」=詩のような題(その15)




「長い題」=詩のような題(その15)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、また「長い題」がいくつか出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『でも ぼくは それを せめない』
なぜなら きみの せい ではないから

でも ぼくは それを せめない
なぜなら ぼくが わるいわけ ではないから

でも ぼくは それを せめない
なぜなら だれも なにも していないのだから


それでも かなしいことは おきてしまう
それでも つらいことばかりが つづいてしまう

でも そんなときにも ぼくは それを せめない

なぜなら そんなもの だから
なぜなら そういうこと だから

なぜなら
だれも なにも していなくても かなしいことが おきると

よのなか そういうことに なっているのだから

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『てを ついて いこう』
あしだけで たって いられなくなったら

てを ついて いこう
こころの バランスを たもって いられなくなったら


からだの おもみに つぶされて
こころが くずれてしまう まえに
じめんに てを つこう

まず ひざを おり 
それを ゆっくりと ちに おろして
それから やさしく てを つこう

そっと てを ついて じめんに ふれたら

やっと だいちと つながって
やっと ちきゅうと つながって

そうして ひとつの ほしに なり
そうして うちゅうの ひとつに なり

エネルギーに みたされる
あっとうてきに みたされる


だから てを ついて いこう
この うちゅうの ひとつとして あるために

それで やっと いきていると いえるの かもしれない

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『ふういん と かいほう』

この ざつおんの なりやまぬ せかいの なかで
むじゅんの ひかりに みたされて

ありとあらゆる ほうそくが
せんぺんばんかの かいりつと なり

ありとあらゆる どうりが
へんげんじざいの こうそくと なる


その とざされた もんの なかに 
ふういんされた ひとの こころは
いったい いつに なれば かいほう されるのだろうか


はたして にんげんは それまで いきて いられるものなのだろうか  






「長い題」=詩のような題(その16)




「長い題」=詩のような題(その16)です。

今は、基本的に新しい記事の投稿をしていないんですが、また「長い題」がいくつか出来たので、それだけ書いておきます。
(「題」だけが貯まると、何となく気がめいってくるので)


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『ひょうりゅうぶつのように』
ただ そこに ある


ひょうりゅうぶつのように
うみに ただよい

ひょうりゅうぶつのように
ひに さらされ

ひょうりゅうぶつのように
どこかに ながれつく


ときに おきざりに され
ときに きづかれも せず

ただ そこに ある

だが ときには 
だれかに ひろわれ
そして ときには 
たからの はこに いれられる

それでも やはり ただ そこに ある


そんな ひょうりゅうぶつのような こころを もった
そういうひとは たしかに いる

ぼくも はやく そういうひとに なりたい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

くうちゅうに しかけられた わなが ある
おもわぬところで ひっかかる

くうきで できた わなも ある
とうめいだから だれも みえない

くうかんが わなで うめうくされて 
もう のがれる ばしょは どこにも ない


うちゅうの はてまで わなが はりめぐらされた この せかいでは
にんげんの いきるばしょなど どこにもない

そうだ 『あしたからは かせきに なろう』
それなら ぼくにも できそうだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

とうめいで めに みえない わなが ある

ひとの こころが つくりだす
だれにも みえない わなが ある

のがれることは できない


わなに かかると そのひとも 
いつしか からだが すきとおり
とうめいに なって わなに なる

そうなったら ひとじゃない
わなに なったら ひとじゃない

そう わなとは 
からだを うしなった
『ぼうれいたちが しかける トリック』だ

だから わなに かからず いきていく
わなに ならずに いきていく

ここまで なんとか いきてきて
あげくの はてに 
それが さいごの わなだと きづき

やっと わなに とらえられ
やっと からだを うしなって
とうとう わなを しかける がわに なる


ざんねんながら いきるとは そんなような ことらしい
ざんねんながら しぬとは そんなような ことらしい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ぜつぼうと きぼうの あいだで』

ぜつぼうしたひとは もう それいじょう いきられないのだろうか
きぼうが ありさえすれば ずっと いきていかれるのだろうか


いや じつは 
きぼうだけで いきられる じかんは みじかく
ぜつぼうだけで しんでしまえる ひとは すくない


りょうほうないと いきられない
りょうほうないと しねもしない

だからといって りょうほうあれば いきられるのか
だからといって りょうほうあれば しねるのか

そんなことは わからない 
きっと だれにも わからない


ただ ひとつ わかっているのは
ぜつぼうと きぼうは いつも そこに あるということ

かならず ぜつぼうと きぼうが まざりあって
すぐそこに あるということ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しゃかいとは
ひとの ちからを うばうもの

ひとの せいきを すいとって 
おおきく ふくれあがって いくもの


だから しゃかいのために はたらいては いけない
だから しゃかいに エネルギーを そそいでは いけない
だから しゃかいを にんげんの ちで こえふとらせては いけない


しゃかいが ふくらめば 
ひとは しぼむ
しゃかいが しんかすれば
ひとは ぜつめつする


つまり しゃかいの ために はたらくと いうことは
ひとを ほろぼすと いうことだ

ひとつも りっぱなこと じゃない

あとには しんかした しゃかいという マシンと
その ぶひんと かした にんげんという パーツが のこるだけ

そんなことに なる まえに 
ひとが ぜつめつする まえに

にんげんが しゃかいを つかっていこう
しゃかいが ぜつめつするまで

『きっと それぐらいで ちょうどいい』



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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