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「芸術者」という考え方



「芸術家」という言葉はあるんですけど、「芸術者」という言葉がないんですねぇ。
「技術者」とか「労働者」はあるのに「芸術者」はない。

同じように、「書道家」とか「文筆家」とか「武道家」なんかも「〇〇者」がないですよね。
どうも、こういうのが「エラソウ」に聞こえるんですね。

「芸術家」の人の中でも『私が芸術家です!』と言い切る人って意外と少ないような気がします。
人から言われると否定しない人が多いですけどね。
(「先生」と言われても否定しません)

要するに、『芸術家です』と言って、「エラソウ」に聞こえるのが嫌だから、自分では言わないんじゃないかと思うんですね。
だったら、「芸術家」はやめてしまって、「芸術者」と言えばいいんじゃないかなと思ったわけです。

「〇〇家」と言うと、ナントナク「世間一般に認められた〇〇家」というイメージがあるので、どうしても、自分で自分のことを、『私が、世間一般に認められた〇〇家です』とは言いにくいんでしょうね。


それで、「芸術者」だったら堂々と言いやすいんじゃないか?っていうのもあるんですが、実は、それだけでもなくて、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を含めた意味で「芸術者」という言葉があるといいんじゃないかなと思っているわけです。

そうすれば、さらにエラソウに成りにくいような気もしますし。

つまり、立場の違いはあっても、この「芸術に関わる三者」は、対等にしておいた方がイイように思いますから、それらを一括りにする言葉があってもイイように思うわけです。

今は、「創作者」ばかりが「芸術家」と言う扱いを受けていますし、それでいて、やけに「批評家」の影響力が強かったりもしますから、やや、力関係が不均等で不自然な感じがするわけですね。

まぁ、そんな中で「鑑賞者」は、『黙って、イイと言われるものを見ていればいいんだ!』というような感じにしか見えませんけど、もう少し「鑑賞者」が対等な立場にいた方がイイような気がするんですね。


そんなことも含めて「芸術者」という言葉を使って行こうと思っているわけなのです。

つまり、「創作すること」と「鑑賞すること」が対等に対峙していないと、本当の意味で「芸術」とか「感動」と言うモノは成立しないんじゃないかと思うわけです。
 
「鑑賞者」と「批評者」の違いは、「鑑賞者」が「芸術を肯定的に見るという立場」であるのに対して、「批評者」は「芸術を批判的に見る立場」と言うことだと思っています。

そういうと、「批評者」を「ケチばかり付ける人」のように扱っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そうではなくて、「批評者」と言うのは「芸術」を批判することで、そこに意味を見つけ出すような立場と言うことです。

要するに「鑑賞者」は「自分が好きな作品」を探そうとしますし、「作品」の中に「自分の好きな所」を探そうとするわけですが、「批評者」は「自分の好きな作品」に対してであっても、そこに批評を加えようとする立場ということです。

この二つの立場は、芸術にとって両方とも必要だと思うわけですね。
そして、「創作者」を含めた三者が対等であれば、よりいいんじゃないかと言うことです。

こう考えれば、少なく見積もっても人類の半分以上の人は「芸術者」であるといってもいいでしょうし(もっと多いかもしれません)、それらの人たちが、『みんな対等に芸術に関わっているんだ!』ということが、とっても「スバラシイこと」なんじゃないのかなと。

まぁ、そんな風に思っているわけですね。


そういうわけで、『私も含めて、みんな芸術者です!』

少なくとも、エラそうではないかな?すこしイイかな??

と思います。

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追記

本文の中で、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」と言っていますが、「三者」それぞれが独立しているとは限らないと思っています。

「創作者」でもあり「鑑賞者」でもある人や、「批評者」でもあり「鑑賞者」でもあるという人もいるでしょうし、「三者」全ての視点を併せ持っている人もいると思います。

また、「鑑賞者」としての視点が希薄な人が、「芸術」に関する興味が薄いということではなく、あえて積極的に鑑賞はしないということだと思っています。
当然、「創作者」についても「上手い・下手」とは一致しないということになります。
「下手な創作者」でも、「創作者としての立場」を強く持っている人は居ると思いますし、「上手い人」が、みんな「創作すること」に多くの労力を費やすとは限りません。

要するに、この「芸術者」という言葉は、「芸術」に「何らかの必要性を感じている人」を指しています。
そして、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」は、その「三者」それぞれの立場の中で、その人がどの立ち位置に重心を置いているのか?そして、そこにどれだけの必要性を見出しているのか?を示すための言葉です。

そして、さらに、その「三者」が出来るだけ偏りの少ないが対等な状態であれば、いいんじゃないかと思っているわけです。






誰かが「芸術」を定義しないと



もういい加減「芸術」を何らかの「定義」で規定しないと、「芸術」はどんどん薄まって霧散してしまうのではないでしょうか?

もちろん、キチキチに「定義」しようということではありませんし、そんなことできないでしょうが、それをなんの規定もなくほったらかしにしていることの言い訳にしていていいんでしょうか?
それを、今後いつまで続けるんでしょうか?

 ※これは、人の人生に決定的な影響を与えるようなジャンルとしての「芸術」の話です。
  「エンターテイメントとしての芸術」の話でも、「インテリアとしての芸術」の話でもありません。
  つまりは、『今でも感動は求められているのか?』という話ですね。


『芸術が無くなるなんてことあるわけ無いよ』
『それはいくらなんでも大袈裟だろ』
そうでしょうか?・・・本当に?

規定されないもの、指標を失ったものというのは、大抵消滅していくのではないのでしょうか?


こんなことを言っていながらなんですが、もしかすると「芸術」は昔ほど必要とされていないのかもしれません。
本音の話をすれば、多分、昔のほうが現代よりも「芸術」を必要としていた人の比率は多かったような気がします。

「芸術」が庶民の手の届かないところにあったのも事実なのでしょうが、それでいて、昔の方が、少なくとも一般庶民にとっては「芸術」が切実な意味を持っていたような気がします。

現在、「芸術」は、一般的な人から切実に必要とされているのでしょうか?
少なくとも、私は美術館で感動に打ち震えて動けなくなっている人や、人目をはばからずに涙を流してひざまづいている人を一度も見たことがありません。

『それは飛躍しすぎだろう』と思うかも知れませんが、この話を100年前の寺院の仏像や教会の祭壇画に置き換えた場合、それほどの違和感は感じなくなってしまうでしょう。
いや、むしろ、それは全く違和感のない「日常的な風景」として考えることもできるようになってしまうのです。

まぁ、昔のことは、今となってはもうわからないことなわけですが、じゃあ、現代はどうなのかということです。
「芸術」は本当に必要とされているのだろうか?
それは、どのぐらいの人が必要としているのだろうかと。
意外と少なかったりしないのだろうかと。
そのへんが、ちょっと怪しいんじゃないのかなと。


本当にたくさんの人が「芸術」を必要としていたならば、こんなに「フワフワ」した状態になってないんじゃないのかなと。
『きっとこれは、あまり求められてないだろう』と思うわけです。

そんな中で、指標を失った状態を続けたら、本当に消え失せてしまうんじゃないですか?


でも、こういう時代に置いても、いや、こういう時代であるからこそ、一層「芸術」を必要としている人が居るともいえるわけです。
と言うか、実を言えば、「潜在的な感動に対する欲求」は現在の方が高いくらいなのではないかと思うわけです。

確かに、現代は「感情的であること」よりも「理性的であること」、「情熱的であること」よりも「冷静であること」の方を評価する傾向があると思いますが、その裏で、その冷静で理知的な無感情が社会の中にストレスを蔓延させている時代でもあります。
そして、そのストレスから人間の精神を解放することができるのは「感動」のような強烈な心の動き以外にはないように思うわけです。

だから、この「無感動」を受け入れてはならないし、今こそ「感動する心」を取り戻す時のような気がします。

だからこそ、いま、誰かが「芸術」を定義しないと。


そんな風に思ってしまうわけですが、これは無理なことなのでしょうか?





「創作者型」と「鑑賞者型」を分けて考えてもいいのでは?



「創作者型」の人と「鑑賞者型」の人というのがいるように思うのです。
そして、この二つのタイプを、もう少し分けて考えてもいいような気がするわけです。


そうは言っても、両面を併せ持った人もいるでしょうし、本人もどちらかわからない場合などもあるでしょうから、『もう少し分けて考えてもいいのかな?』と言う程度のものですが、少なくとも、一人の人間がこの二つの性質を同時に併せ持っているとは限らないという認識ぐらいは、あってもいいんじゃないでしょうか?


自分のことで言えば、子供のころ、楽器がまったくダメだったので、随分長い間「音楽」には興味が持てませんでしたが、その後、『聞く方はイケル』とわかって「音楽」が好きになったとき、とても意外でした。

「音楽」が好きに成る人は、『たぶん楽器なんかも上手い人に違いない』と思っていたんでしょうね。


もっと早く、自分が「鑑賞者型」(「音楽」に関して)だと気が付いていればよかったと思っています。

まぁ、気が付くのが遅かっただけならいいのですが、『あのままずっと気が付かずに居たら、今聞いている音楽に全く出会えていなかったんだ』と思うと(あまりポピュラーではないジャンルの音楽が好きだったので、出会えなかった確立はかなり高いと思います)、ちょっとと言うより、かなり惜しい気がしてくるわけなのです。


反面、美術に関しては、『創作をしたいのだから、見るのも好きなハズ』ということで、美術館に行くわけですけれど、どうも、それほどでもないようなのです。

こちらは全くダメと言うわけではありませんが、”ものすごく好き”と言うほどでもなく、行こうと思っていた美術展に行けなくても、『まぁ、いいか』という感じなわけです。

『芸術をやろうというなら、いいものをたくさん見なければだめだ』と言うのをよく聞くので、『やっぱり、見なきゃダメなんだろう』と思ってしまう気持ちが出て来るわけです。

もちろん、そこで感動することもありますし、そこから得られるものもあるとは思うのですけれど、でも、『見なければダメ』でもないような気がするわけです。


こういう風に「創作者型」と「鑑賞者型」が一致していないケースは、けっこうあるように思うのですけれど、なんとなく、”二つは一致しているもの”ということになってしまっていて、そのまま、”ちょっとズレた状態”で行ってしまう人は少なくないような気がしています。

そういうことで、心の糧と成るようなものを一つでも減らしてしまっているのだとしたら、やはり、惜しいなと思ってしまうわけなのです。


スポーツなんかでも「やるのが得意な人」と「見るのが好きな人」が居るわけですから(「得意なこと」と「好きなこと」もまた一致していないことがありますが)、美術や音楽に「鑑賞者」としてかかわることと、「創作者」としてかかわることも、一致しているとは限らないこだと思うわけです。


そう考えることで、興味のなかったことが好きになったりすることもあるのかなと。


そんな風に思います。



「鑑賞者」が「芸術」に加えるもの



「芸術」における「鑑賞者」の位置については、それを”受け身”であると考える人もいるでしょうし、「鑑賞者」が、今よりもっと「芸術」に”参加”できるようにした方がいいと考える人もいるのだと思うわけです。


ただ、そこで、参加してしまったら、その人は、単なる「鑑賞者」ではなくなってしまうはずですから、それを、「鑑賞者」と呼ぶことは出来なくなってしまうと言う問題が出て来るわけです。

それは、「体験者」または「共同制作者」ということに成るわけですが、どちらにしても、それらは「芸術」を鑑賞するのとは、少し違うことに成ってしまうのではないかと思ってしまうわけなのです。

例えばの話、「鑑賞者が参加することで完結する芸術」というのがありますけれど、では、その「参加者」に著作権はあるのでしょうか?

著作権の話はともかくとしても、本当のところは、その人が”受け身”の立場であると言うことは変わっていないように思うのです。

そこで、あくまで第一創作者と第二次的に参加した参加者の間に「格差」が出来てしまうのであれば、それは本当の意味で参加したことに成るとは思えないわけです。


そんな風に、参加したような気にさせられるだけなら、むしろ、「鑑賞者」としての立場が確立されていたほうがいいような気がしてしまうわけです。

そこに「能動的な受け身」と言う考え方があってもいいんじゃないかと思うのです。
つまり、「鑑賞者」というのは「鑑賞者」のままでも、「芸術」に対して能動的に働きかける”力”があるのだと思うわけです。

「芸術」に対して敢えて参加しなくても、「鑑賞すること」だけで、そこには、その「芸術」に対する解釈や理解や共感が生み出されます。

そして、それらの感性は、あくまで「鑑賞者の側」のもので、「創作者の側」のものではないわけです。


そして、それらの「鑑賞者の側」で生み出されたものと、「創作者の側」で生み出されたもの(=作品)とが、対峙することによって、
「芸術」による「感動」が生まれるということだと思うわけです。


例えば、「鑑賞者の側」で「創作者の側」が考えもしなかった解釈を加えることだってあり得るわけですし、「創作者の側」が自分でも気づかなかった「芸術性」を発見することだってあり得るわけです。

つまり、「芸術」においては、「作品」によって「感動」が生み出されているのだとしても、実は、その「感動」は「創作者の側」が一方的に創り出しているわけでも、一方的にコントロールしているわけでもないということです。

「芸術」はともかくとして、「芸術による感動」については、間違いなく「鑑賞者の側」が加えるものによっても成り立っているわけです。


こうした「鑑賞者の側」による作業は、確かに”受け身”でもありますが”能動的”でもあるわけです。


また、このような「鑑賞者の側」から加えられたものを受けて、さらに「創作者の側」も変化します。
その時は、「創作者の側」も、また、”受け身”でもあり”能動的”でもあると言うわけです。

こうした、「能動的な受け身」と言う立場が、「鑑賞者の側」から剥奪されてしまったのは、現代美術が、「ヒネリ」を加えることに偏りすぎてしまったからだと思うのです。

人がやったことの無いことや、新しいこと、画期的なことを追い求めるあまりに、本質を見失って、『ヒネッテ、ヒネッテ、ヒネリまくって』その結果、今自分たちがどこに立っているのかが分からなくなってしまっているんじゃないかと思うわけです。


「創作者の側」が自分の立っている位置を見失っていますから、「鑑賞者の側」が、それに対して「ストレートな解釈や共感」を加えることもできないわけです。


そこで、「鑑賞者の側」からは「能動的な受け身」の立場が奪われてしまい、「鑑賞者の側」は、「ただただアリガタク鑑賞する」か、または、「イミガワカラナイので放置する」というように成ってしまっているんじゃないかと思うのです。

つまり、「完全に受動的な受け身」になってしまっているわけです。


それを、前述のような「芸術に対する参加」と言う形で、埋めてしまうのは、ゴマカシではないかと、私は考えるわけです。


もちろん、「参加型の芸術」というものが、”イケナイ”と言う話ではなくて、それを、「鑑賞者」の立場と置き換えることは出来ないんじゃないかということですね。


やはり、ベースとして「鑑賞者」は「鑑賞者」として「芸術」に対峙するべきなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「芸術売買」と「芸術福祉」



私は、基本的に「芸術作品」というものは、「売ったり・買ったり」しない方がいいんじゃないかと思っているわけです。
(現実には無理でしょうが、あくまで、「本来は」ということです)


本来、「芸術の価値」と「金銭の価値」は、交換しない方がイイような気がするわけですね。


「芸術作品」というものは、「人の命」などと同じように、「金銭」に置き換えてはいけないモノなんじゃないかと思うのです。
それを「金銭」に置き換えることを続けていくと、「芸術」も「人の心」も荒廃していってしまうような気がします。

とは言え、それじゃあ、「芸術家」は生計を立てられないわでですから、それもどうかとは思いますけど、取り敢えず、「人身売買」と同じで、本当なら、「芸術売買」もやめたほうがいいんじゃないかと思っているわけです。

 ※絶対にダメって言うことは無いと思いますけど、の状態は明らかに行き
  過ぎていると思いますね。
  そう思う人ってあんまりいないんでしょうか?


昔は、「人身売買」だって、貧しい人たちにとっては、生計を立てる手段の一つのように成ってしまっていたわけで、それを誰かが『やめよう!』と言いださなければ、いまだに続いていたかもしれないわけです。
(と言うより、まだ完全に無く成ってないと言う話も聞きますすし)

だから、「芸術家」が困るからと言うことは、「芸術売買」を続ける理由にはならないと思います。

 ※自分のことで言えば、私が「作品」を売ろうとするときは、自分を「身売り」
  する覚悟で売るということです。
  まぁ、売れないから大丈夫ですけどね。


なぜ、「芸術売買」がいけないか?と言えば、それは、「純粋性」が保てなくなるからですね。


「芸術」にとって最も大事なものが「純粋性」だと思っていますから、それが、保てなくなるということは致命的なことだと思うわけですね。

 追記:言葉が足りなかったので補足いたします。

  現状では、「芸術」の社会的な保護が十分ではないので、「創作者」は「作品」
  を売る以外に生きていくすべがないわけで、そこを避けて通ることが難しく成
  っているわけです。
  しかし、こういうことを常に意識して「作品」の売買に臨む姿勢があるだけでも、
  最低限の「芸術の純粋性」は保たれるんじゃないかと思います。


昔は、専ら貴族や大きな寺院や教会などの、あまり細かい金勘定をする必要がない立場にいた人が「芸術の買い手」でしたから、そこに「経済競争」が入り込む余地が少なかったわけです。

つまり、貴族たちは、まったく好き勝手に、また、次に誰かに売ることなんて考えもしないで、「芸術」を所有して、勝手に満足していたんでしょうから、そこに「売買」と言う言葉が、必ずしも当てはまらなかったように思います。

「買う」だけで「売る」と言う意識は、ほとんどなかったんじゃないでしょうか?

つまり、個々の作品を買い上げていたというよりは、どちらかと言うと、「お気に入りの芸術家」を、王侯貴族が養っていたというのに近かったんだと思います。

ある意味で、「経済の枠組み」から外れていたんじゃないでしょうか?


そういうのは、かなり昔の話ですし、有名な芸術家に限ったことなのかも知れませんが、そうした流れがあったことは確かなことでしょうし、そういうことが芸術全体にも影響していたということはあるでしょう。


それが、時代とともに、徐々に「芸術の商品化」が進んできて、いまでは、完全に「芸術」が「経済」に取り込まれてしまっています。
現状では、「芸術」は「経済」を象徴する商品の一つと言ってもいいかもしれません。

「バブル経済」の中心に「芸術作品」が集まって行く傾向があるのは確かなことでしょう。

そんな中で、「芸術売買」を続ければ、「人身売買」の場合と同じく、「人の心」は荒廃していくでしょうし、「芸術」自体も廃れていってしまうでしょう。

見方によっては、現在の「芸術」の置かれている環境は、けっこう、「純粋性」が保たれにくい状態なのかも知れないということですね。


でも、「作品」を売ってはいけないんだとすると、「芸術家」はどうやって生活すればいいのか?ということですよね。


「芸術家」は、何らかの形で「社会福祉」の下に置かれるのが、今のところ一番”マシ”なことなんじゃないかと思います。
「障碍者福祉」や「生活保護」などと同じような、「芸術福祉」・「芸術者保護」ですね。


そうすることで、「芸術家」は「経済の枠組み」から外れることが出来ますし、「個人的な成功」を追いかける必要が無く成ります。
と言うより、「芸術」に置いては、「金銭面での成功」ということ自体が有り得無く成るということですね。
(それでも、最低限の「名声」や「評価」は残るでしょうが、それは絶対に悪いモノでもないと思います)

だから、「純粋に創りたいもの」を求めていけばいいわけです。


こういうことを言うと、『ナニを贅沢なことを言っているんだ!芸術家ばかりにそんな特別待遇が許されるわけないだろ!!』と言って怒る方もいらっしゃるでしょうが、それは、「芸術」が目に見えない形で社会に貢献しているということが認識されていないからだと思いますね。


実際には、「芸術」が「社会」に与えている影響は、間違いなく大きいですし、「芸術」が純粋性を失って行けば、確実に「社会」も荒廃していくことに成ると思うのです。


現代社会に置いては、「芸術」の「社会貢献性」を認めている人も認めていない人も、その影響からは逃れられないというのが現実だと思いますね。

 ※ここでは、主に「芸術のプラス要素」を言っていますが、実際に大きいのは、むし
  ろ「芸術のマイナス要素」の方で(近年に成って、マイナス要素の方が大きく成っ
  てきたということだと思います)、「芸術の純粋性」が失われていくことで、結果的
  に「社会」が荒廃していくということです。

要するに、「芸術」には「個人的」であると同時に、結果としての「社会貢献的」な面があるということですね。
(芸術家が、それを追究するというよりは、結果的にそうなるということだと思います)

だから、そこに、もう少し「税金」を使ってもいいんじゃないかと思うわけです。
いまは、「芸術」に税金を使うことが、「芸術の純粋性」につながっていないんじゃないかと思いますね。

だから、もう少し、そちらの方向に向けて行ってもいいんじゃないかと思うわけですね。


さて、そこで、「芸術売買」をやめたとして、どうするのか?
それは「レンタル」を中心にしていくことが望ましいように思います。


現在も、「有名作品」に関しては、「売買」よりも「レンタル」される機会の方がはるかに多いんでしょうが、それを、もう少し進めて、「芸術作品」に関しては、「有名作品か無名作品か」を問わず、「所有権」自体をなくしてしまうというところまで持って行ってもいいんじゃないかと思うわけです。

「誰かの所有物」ではなくて、「管理者」が「管理権」と「管理責任」だけを持っていて、「レンタル」や「保存」などの管理をするということでいいような気がします。

そして、そこから生まれた利益を「芸術家への福祉」に充てるということですね。


「作品」を「所有」したり、「売買」したりしたい人は、「芸術家」としての「福祉」を受けなければいいだけのことですね。


さて、そこで、「誰を芸術家として、福祉の対象にするのか?」と言う問題が出て来るわけですが、これは、意外と簡単なことで、ただ単に、「生活保護」の審査基準と同じくらいの基準を設けて、尚且つ、「生活保護」の支給額よりも少しだけ低い金額を支給すればいいんだと思いますね。

つまり、「芸術者」であろうとすることは、社会の底辺に身を置くことでもあるということです。
あえて「ソン」をしてまで、「芸術家」に成ろうという人は、かなり真面目に「芸術」に取り組むでしょうし、それ以上の「報酬」や「成功」を望む人に、「純粋な芸術」が生み出せるとは思えませんから、それで十分だと思いますね。


さらにダメ押しで言えば、「芸術福祉」を選択した人は、その後「生活保護」に転じた場合、支給額が減額されるし、一度「芸術福祉」を受けた人が、その後、それを断って「芸術売買」側にまわった場合、もう二度と「芸術福祉」を受けられないということにすれば、かなりイイように思いますね。


もしかしたら、受ける人がほとんど居なく成るかも知れませんね。

さて、これって、「贅沢な特別待遇」なんでしょうかね?


それでも、「芸術福祉」を受ける人はそれなりに出て来るでしょうが、「生活保護」を受ける人やその支給額が減れば、その分だけは「経費節減」に成るということです。

それでも、まぁ、けっこうお金はかかるでしょうね。


こんな事が実現できるかどうかは別として、もしも、こういう状況に成ったと仮定して、どっちの「作品」を見たいと思う人が多いんでしょうね?

つまり、「芸術福祉を受けている人のウリモノに成らないかも知れない作品」と、「福祉を受ける必要がないカネに成る作品」、どっちを見たいですか?って言うことですね。


前者は「どうしようもなく幼稚な作品」かも知れませんが「純粋な作品」である確率は高いですね。
後者は「人の目を楽しませる作品」でしょうが、「純粋な作品」である確率は低く成るわけです。


それから、芸術家はどっちの立場を選ぶんでしょうね?
つまり、どっちの立場を選ぶ人が、「本物の芸術家」なんでしょうね?


「貧乏でも、人や金のことに煩わされずに制作したい」と思う人と、「やっぱり金も欲しい」と思う人の、どっちが、≪芸術の中心≫に近い位置に立っているんでしょうね?


人ソレゾレでしょうし、スキズキって言うことなんでしょうね。


でも、少なくとも、こういう事を考えていくと、現在の「芸術がある位置」と言うのは、ずいぶんと”ズレ”ているんじゃないのかなと。


そういう風に思えてくるわけなのです。




「芸術三者(創作者・鑑賞者・批評者)」が一体に成れたらいいんじゃないかなぁと思います



私は、このブログを始めてしばらくしたころから、「芸術」に関わる人たちのことを「芸術家」とか「批評家」とかと呼ぶのはやめて、「芸術者」と呼ぶことにしているわけなのです。


「芸術者」と言うのは「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指しています。
要するに、この「芸術三者」が対等で平等であった方がイイと思うわけですね。

 ※「鑑賞者」と「批評者」の違いは、「鑑賞者」が「芸術作品を肯定的に見る人」
  「批評者」が「芸術作品を批判的に見る人」です。


現在は、とくに「鑑賞者」の位置が低すぎると思うんですね。

「有名な作家」の作品はありがたく鑑賞しなければいけないという暗黙のルールに成っていますから、「鑑賞者」が迂闊に意見を言うと『理解できないからあんなことを言っているんだ』ということにされてしまうわけです。

そして、結果的には「その鑑賞者の見識不足」という空気になってしまうわけですね。


でも、本当なら、「理解できるような作品」を作るべきなんだと思うわけです。

「理解し易い作品」を目指す必要はないと思いますが、「鑑賞者」に「理解されなかったということ」には「それなりの意味」があるわけで、それを無視したり、バカにしたりしていいということは無いはずです。


要するに、今は、そういう「有名作家の作品」を理解できる者こそが、「よい鑑賞者」であるということに成ってしまっているわけですねぇ。


『そんなことは無い!』と言う人も居るでしょうが、誰も知らないような作家を「一番好きな作家」として挙げる人なんて見たことありません。
(ただ単に「無名」と言うんじゃなくて「誰も知らない」と言うレベルです)
もし、そう言う人が居るとしたら、あまり「芸術鑑賞」に興味が無いような人じゃないでしょうか?


要するに、それだけ「有名作家の作品を理解できるということ」が「鑑賞者としての価値」に成っているということだと思います。


まぁ、それは置いといて、この「芸術三者」が「対等」で「平等」なだけじゃなくて、「一体」に成れたら、もっといいんじゃないかなぁと思うわけですねぇ。


つまり、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者が自由に意見を言い合えて、しかも、誰の意見も同じように尊重されているだけじゃなく、「芸術三者」がそれぞれの立ち位置から「ある作品」に対峙して、「その芸術的見解」を共有することで一体になって、その「一体化した意識」も、その作品の一部分であると捉えることが出来るように成ったら、きっと、イイんじゃないかなぁと思うわけですねぇ。


そうなれば、当然「有名」も「無名」も関係なく(「鑑賞者」はたいてい「無名」ですから、「有名」と「無名」も対等ということに成るわけです)、専門的な知識があっても無くても関係ありません。

純粋に「その作品」を見て感じるところを率直に言うしかなくなってしまうわけですね。
(そんなとき「専門知識」なんて役に立ちませんよね)


これは「創作者」の方も同じで、その「率直な意見」を率直に受け取るしかないわけです。

「批評者」も、また、上からものを言うことは許されなく成るわけですから、「純粋に理性的な批評」をするしかなくなってしまうというわけです。


まぁ、『理想論だ!』と言われれば、その通りなんですけど、「芸術の世界」くらい、こんなことくらい、こんな「チッチャイ理想」くらい、あってもいいのかなと。

そういう風に思います。




「芸術における匿名性」について



「芸術作品」を評価する時に、作者の名前は必要なんでしょうか?
本当の意味で「芸術作品」を判断するのに、「作品」だけでは何か足りないことがあるんでしょうか?


たとえば、『ミロのビーナス』などのギリシャ彫刻は作者がハッキリしていないことが多いでしょうし、ほとんどの人が『ミロのビーナス』は知っていても、「その作者」は知らないでしょう。

でも、それで何か問題があるでしょうか?


たとえば、それ相当の信ぴょう性がある文献が新たに発見されて、『ミロのビーナス』の作者がハッキリしたとして、何かが変わるでしょうか?


ほとんど何も変わりませんよね。たぶん。
要するに、「芸術作品」の評価に「作者の名前」は必要ないということなんだと思います。


もちろん、昔と今では「芸術の意味」が変わってきているわけですから、「自己表現」としての「現在の芸術」においては、当然「作者」がクローズ・アップされるように成るわけですが、それは「芸術作品の評価」に必要なことではないだろう?ということですね。


でも、それが、なぜかそうなっていないわけですね。

これは、「芸術作品」を売り買いすることから出てくる現象なんだと思うわけです。
(『ミロのビーナス』は売り買いされることはありませんから、関係ないんでしょうね)

売る側にも買う側にも「評価額」と言うモノが必要に成るということですよね。
それじゃないと、安心して売ったり買ったりできないということなんでしょう。


でも、本当は、「誰の作品」だろうが、『イイ!』と思った作品ならば、その『イイ!』に対して「評価」が決まって来るはずなんだと思うわけですね。


もしも、すべての「芸術作品」の作者が不明であったならば、つまり、「芸術作品」と言うモノは「匿名」で創作されるものであるということが決められていたならですね、その時の「評価」こそが、その作品の「本当の評価」なんだと思うわけです。

まぁ、「芸術」を「「商売」や「オシゴト」と考えている人(画商などだけではなく)にとっては、かなり都合の悪いことに成るわけですが、それが本当のことなんだと思います。
(「芸術作品の値段」がかなり安くなってしまうでしょうね。少なくとも極端に高額な売買は無くなるでしょう)


いずれにしても、この「芸術における匿名性」と言うのは、これから必要に成っていくことなんじゃないかと思っているわけです。

「匿名」であることで、イロイロな意味で平等になりますし(「創作者同士」も平等になるし、「鑑賞者同士」や「鑑賞者」と「批評者」も平等になります)、「匿名」であることで、みんなが「作品」をよく見るようになります。
(今は、「作品」よりも「先入観」を見ている)


『誰の作品かなんて、どうでもいいよ』と言える人が、
「純粋な評価者」だと思いますし、「純粋な創作者」でもあると思います。


これ、口で言うだけの人はすごくたくさん居るんですけど、本当にそう思っている人は少ないですね。

ところが、本当にそう思っている人で、それを口に出して言う人はもっと少ないわけですから、
けっきょく、そう言う人はほとんど居ないということに成るわけです。


それ以外は、「商売人」と「そのお客さん」ですね。


本人が純粋な気持ちで評価しているつもりでも、「作者のネームバリュー」と言う価値を否定したうえで評価を下さない限り、結果的には「芸術の商売」に加担させられてしまうわけです。
(それが絶対に悪いということではありませんけど)


つまり「芸術の価値」=「ネーム・バリュー」になっていて、しかも、その「ネーム・バリュー」で「評価額」を」を割り出すというシステムに成っていて、その「評価額」こそが「芸術の価値」であると言う基準に否が応にも従わされてしまうわけですから、「本当の評価」も「本当の芸術」も出てこないですよね。


こういう状況を抜け出すための唯一の手段が「芸術の匿名化」だろう?と思うわけです。
それによって、失うモノも大きいでしょうが、得るモノも大きいんじゃないのかなと。


失うモノは「誰かの利益」です。

得るモノは「芸術の利益」ですね。


そんな風に思いますよ。




「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのだろうか?



現在「芸術作品」を見るときに、「鑑賞者」はいったい「ナニ」を鑑賞しているんでしょうか?


まぁ、一昔前であれば、『当然、「作品の中の美しさ」を鑑賞してるんでしょ』ということだったわけですよね。
でも、これが「現在の芸術」ということに成ると、どうもはっきりしないところが出てくるわけです。


たとえば、「インスタレーション」と言う表現形態がありますけど、必ずしも関係があるとも思えないようなモノが、いろいろと並べられていたりするのを見て、「鑑賞者」が鑑賞しているのは、その作品の中の「ナニ」なんでしょうか?

それは、一般的に言うところの「作品の中の美しさ」を鑑賞していると言うのとは違うと思うわけです。

その並べられているモノや、並べ方、展示方法などから、「ナニカの物語」を感じ取ってそれを鑑賞しているんでしょうか?
または、もっと単純な「オモシロサ」を鑑賞しているんでしょうか?
それとも、その作品の奥に隠された「もっと深い意味」を見つけ出して鑑賞するのが、「インスタレーション」の正しい鑑賞法なのでしょうか?

まぁ、早い話が『見る人の自由でしょ』ってことなんでしょうが、それはそれでいいとしても、「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とは、いったい「ナニ」なのだろうか?ということは考えてもイイように思うわけです。


「インスタレーション」のことはともかくとして、「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なんでしょうね?


それが「単純な美しさ」でなくなってしまっていることは、多くの人が認めることでしょう。
「オモシロサ」を選択する人はそれなりに居るでしょうが、こちらも『「単純なオモシロサ」でイイんですか?』と聞かれたら多くの人が躊躇するんじゃないでしょうか?


でも、だからと言って『私は「複雑な美しさ」を鑑賞しているんです』と言い切れる人も、そう沢山は居ないでしょうし、それは「複雑なオモシロサ」でも同じでしょう。
 

さて、そうなると、いよいよ「現在の芸術」が提供している「鑑賞するモノ」とはいったい「ナニ」なのか?
と言う疑問に対する答えが見つからないわけです。


これは、おそらく現在、「思想的な意味での芸術」が与えられている方向性と、「実際の芸術作品」が持っている方向性が大きく食い違っていることによって、起きてきている現象だと思うわけです。


「思想的な意味での芸術」は「作者の自己表現」と言う方向性を与えられているわけですが、「実際の芸術作品」は「作者の自己主張」と言う方向で制作されていることが多く、また、それでないと評価されないというところがありますから、その二つが微妙にズレているわけです。


そして、その状態が百年ほども続いていますから、ズレが大きくなってしまったわけですね。


「自己表現」と「自己主張」の主な違いは、「自己表現」が「ありのままの自分」を現そうとするのに対して、「自己主張」は「自分のいい所だけ」を現そうとするということですね。

しかも、出来れば、その「自分のいい所だけ」をできるだけ誇張して大きく見せようとするわけです。


そして、これが一番大きな食い違いに成っていると思いますが、「自己表現」においては「作者」は「何らかの犠牲的な力を使う」ことに成りますが、「自己主張」においては「ほとんどの力が作者自身のために使われる」ことに成るわけです。


結果的に、「自己表現」において、「鑑賞者」が鑑賞するモノとは、「作者の苦悩」である場合が多く成るはずですが、「自己主張」においては「作者の快楽」を「鑑賞者」が鑑賞することに成るわけです。


どちらを鑑賞したいと思うかは、人ソレゾレでしょうし、「好みの問題」なんでしょうが、この「食い違い」を意識しないで「芸術」を鑑賞してしまうと、『あれ?いったい「ナニ」を鑑賞したんだろう??』ということに成りかねないと思います。


「作者の苦悩する姿」に共感するという人は「自己表現タイプの作品」を見た方がイイと思いますし、「作者の喜び」に共鳴するという人は「自己主張タイプの作品」を見ればいいんだと思うわけですね。


ただし、ここで言っておきたいのは、「心の動き」と言うのも物理法則のようなもので、必ず「作用と反作用」があります。


「自己表現タイプの作品」を鑑賞した人は、「作者の苦悩」に共感することが出来れば、その「反作用」として「自分の苦悩」が癒される
可能性があるわけです。

でも、「自己主張タイプの作品」を鑑賞した人は、「作者の快楽」に共感したとしても、「自分の苦悩」が癒されることは無いと思います。

もちろん、鑑賞者が「自分の快楽」を求めている場合は、「作者の快楽」との共鳴作用によって、鑑賞者の「快楽」も増幅されるかもしれませんが、それは、「芸術」ではなく「エンターテイメント」の領域に成ってしまうわけです。

まぁ、これは、100%当てはまることだとは思いませんが、こういうことを理解するうえでも、「現在の芸術」は「ナニ」を鑑賞するものなのか?ということは考えてみてもいいのかなと。


そんな風に思いました。





「芸術」においては「好み」で鑑賞する時代は終わっていくと思います



「芸術」を鑑賞する時、ほとんどの人が「好きなモノ」を見に行くでしょうし、「嫌いなモノ」は見に行かないでしょう。
つまり、「好み」で鑑賞しているわけですね。


でも、「芸術」を「好み」で鑑賞する時代は終わっていくんじゃないかと思うんですねぇ。

 ※ここでは、一つ前の記事で書いた「普通に好きなモノ」と「普通に嫌いなモノ」のことを
  「好み」と言っています。


こんな風に言うと、『好きなものを見て何がワルイんだ?』と言われるでしょうが、別に『ワルイ』ということじゃありません。
ただ、そう成って行くだろうということです。

『好きなモノを見る』=これは当然。
『嫌いなモノは見ない』=これも当然。

なんですが、問題は『当然なモノだけだと、ややツマラナクないですか?』ということなんです。


これは「芸術」のことだと話が通じにくくなりますが、他のことだと、わりと当たり前のこととして通じることなんじゃないかと思います。


たとえば、「食べ物」のことで言うと、少なくとも「食」を文化として考えた場合は、「好み」だけですべてを決めてしまうことは、「ややツマラナイこと」なんじゃないのかなと思ってしまうわけです。


それじゃ、「カップ・ラーメン」が好きな人は、「懐石料理」や「フランス料理」を理解することも出来ないでしょうし、どこか知らない国の「ジャンク・フード」のことですら、その国の食文化としてのその「ジャンク・フード」の意味をを理解することは出来ないでしょう。

『なにがワルイんだ!そんなに気取ったものを喰わなきゃいけないのか?』
いや、だから、ワルイということじゃありません。

でも、『ツマラナクないですか?』ということですよね。


少なくとも「食べること」を一つの文化として考えた場合、「好きなモノ」だけ食べ続けるというのは、「ややツマラナイこと」じゃないかなと思うわけですね。


海外旅行に行っても、その国の料理を食べないという人が居ますけど、そういうのって、旅行に使った費用の何分の一かを捨てているようなものだと思いませんか?
(ツアーであてがわれた観光客向けの「その国の料理」も「ツマラナイモノ」だとは思いますが)


これは「芸術」でも同じで、やはり、「好み」だけで「芸術」を判断してしまうことと言うのは、「ツマラナイこと」なんじゃないかと思いますし、それは、芸術鑑賞に使った費用や時間を無駄にしてしまうことだと思うわけです。

と言うか、「芸術」の場合は、そこのところが「食べ物」なんかよりもずっと大きくて、「芸術」を「好み」だけで判断してしまうことは、「非常にツマラナイこと」なんじゃないか?

いや、それどころか、『それじゃあ「芸術」を鑑賞したということに成らないんじゃないのか?』とすら思うわけです。


もちろん、「嫌いなモノ」を無理して食べろとか、無理してでも見て勉強しろということじゃないですよ。
そうじゃなくて、「食べ物」を「料理」として考えるのか、それとも「餌」として考えるのかということです。

「芸術」で言えば、「単なる絵」として見るのか「自己表現としての芸術」として見るのかということですね。


「現在の芸術」が「自己表現」として成り立っているものだとすれば、「芸術」を鑑賞するということは、すなわち、「作者そのもの」を見せつけられるということです。

その「作者そのもの」が「鑑賞者にとっての心地よいもの」であることは、むしろ稀だと思います。


基本的に「他者」と言うのは「他者」であればあるほど強い違和感を与えるわけで、それが、「ただ単に好きなモノ」であることは、ほとんど無いといっていいんじゃないでしょうか?

つまり、「好み」だけで判断していれば、「自己表現としての芸術」に出会うことは出来ないということです。


しつこいようですが、ワルイということじゃありません。
どういう見方をしてもいいと思います。

ただ、それが「ツマラナイ見方」に成っているとしたら、また、それを「ツマラナイ見方」だと思う人が居るとすれば、それにも、それなりの意味があるだろうということです。


べつに、「カップ・ラーメン好きの人」を低く見るつもりもありませんし、「懐石料理」や「フランス料理」がエライとも思いませんが、「好み」だけで物事を判断することは意外と「了見の狭いこと」だということを言いたいわけです。


『「あなたの好きなモノ」を見ればいいんですよ』と言えば、自由な考え方に聞こえるかもしれませんが、それは「偏見」と紙一重の「了見の狭さ」を含んでいるということですね。

そして、当然、そうした「好み」だけで選ばれた「居心地のいい芸術」と言うのは、「現在の芸術」としての意味が薄いわけですから、
結果的に「そういう芸術の在り方」は終わって行くんだろうなと思うわけですね。
(「現代の芸術」としての意味が薄いモノの方が、現在、評価されているという矛盾がありますけど)


「芸術作品」を鑑賞する時に、そこに「とてつもないチカラ」が注ぎ込まれた作品と、ただ単にサラっと作られた作品を比べて、『こっちの方が好き!』っていう見方をすることに、大した意味があるとは思えませんし、そういう鑑賞の仕方も終わって行くんだろうなと。

だって、それじゃあ「芸術である意味」がありませんから。

テレビや雑誌を見ていればいいわけです。
(まぁ、それらも広い意味では芸術でしょうが)


要するに、これからは「その作品に注ぎ込まれた力」を鑑賞するように成っていくと思うんですね。
つまり、「その力」の「量と質」を鑑賞するようになると思うわけです。

それは、むしろ、当然の成り行きなんじゃないでしょうかと。


そんな風に思っているわけです。





「コレクションの対象」にしてもらいたいモノ



芸術の「コレクション」は、「作品」を対象にして成り立っているわけですが、そのことによって、一部の芸術作品の値段があまりにも高騰してしまうために、芸術全体の中で限られている利益が、ほとんど有名作品に集中してしまって、無名の作家には、あまりにも利益が行きわたらないように成ってしまっているわけです。


そういう状態が続いて行くことは、底辺の崩壊につながるわけですから、出来ればそのような状態を打開した方がイイと思うわけですが、やはり、「コレクション」の対象が「作品」であり続ける限り、この状態からは抜け出せないような気がするわけですねぇ。


まぁ、当然のことなんですが、「作品を買うこと」で「コレクション」が成り立ちますから、「高価な作品」ほど「コレクションとしての価値」も高くなりますし、自分が所有している「作品」が高騰すれば「コレクタ―としての評価」も上がっていくわけですよね。

そうなれば、当然、市場全体がそういった方向性で動いていくことに成るわけですね。
つまり、市場に参入している人たち全体にとって、「作品の価格」が向上していくことが望ましいことに成るわけですから、当然、みんなが望んでいる方向、つまり「価格高騰」へと市場が動いていくことに成るわけです。

それで、どうしても『なんでこの価格??』ということが出てくるわけです。
(私としては「芸術作品」を売買すること自体にも疑問を持っているんですが)


こういう状態を打開するには、「コレクションの対象」が、「作品以外のもの」に成ればいいと思うわけです。
(難しいのはわかってますけどね)


もともと、「コレクション」の本当の価値は、所有している「作品の値段」などではなく、それどころか「作品の価値」ですらないはずです。

『じゃあ、ナニの価値だと言うんだい?』
それは、「そのコレクターの審美眼の価値」ではないかと思うわけです。


「作品の価値」は、あくまで「その作品とその作者」に帰属する「価値」であって、「コレクションとコレクター」に帰属する「価値」ではないということですね。

本来の「コレクションの価値」は「創作者側」ではなく、「コレクター側」にあるべきものだということです。

よく考えれば当たり前のことなんですが、現在の「芸術市場」においては、こういうことがまったく成り立っていませんよね。
(それだけ「創作者」と「鑑賞者」の間の力関係に落差があるということでもあります)
それでいて、意図的&操作的に作品の値を引き上げてしまうような市場の在り方は否定されません。

しかも、そういう市場の流れにうまく乗った「コレクター」が評価されていたりします。
(そういうのは、本当は「投資家」としての評価だと思うんですけどね)


本来は、そのコレクターがいかに素晴らしい芸術作品を見つけ出して来て、それをコレクションしているか?ということ、つまり「コレクターの審美眼」こそが、「コレクションの評価対象」に成るべきものだと思うわけです。


この二つは、一見、同じことのように見えるかもしれませんが、逆の部分があります。

たとえば、「作品」が「コレクションの対象」である場合は、もともと高額の「作品」を買っても、その「コレクションの価値」「が高くなりますが、「審美眼」が「コレクションの対象」に成った時には、既に高い評価を受けている高額の作品を買っても、その「コレクターの評価」は上がりません、。

まだ評価されていない作品をコレクションしていることで、はじめて、そこに「審美眼的コレクションの価値」が発生します。


もちろん、評価されていないだけでなく「評価されていないのに素晴らしい作品であること」が求められるわけですが、少なくとも、「既に評価の定まった作品」は、はじめから「コレクションの評価」の対象に成らなく成るわけです。
(それ以前に、「意図的&操作的~」は論外ですけどね)


そうなれば、「コレクター」としての信念や誇りがあるような人は、今よりはもう少し「無名な作品」を追いかけるようになるでしょうね。


今後、「作品」ではなく「その作品をそのコレクターがコレクトしていた状況」が鑑定書のような形で証明されるように成って、その「コレクション証明書」のようなものが、「芸術作品の代替物」として流通するように成って行けば、「芸術市場」もほんとうの意味で活性化するんじゃないかと思うわけです。

 ※たとえば、「コレクション証明書」を所有している者が、その「コレクション証明書」
  の評価レベルに応じた割合で、その後「その作品から発生した利益」の一部を著
  作権のような形で受け取る権利を与えられるというようなことです。
  つまり、「コレクション自体の評価」=「コレクターの審美眼の評価」が高くないと利
  益も得られないようなシステムということですね。

  これは、もしかすると、結果的には、最近増えている「クラウド・ファンド」というもの
  に近いのかも知れません。
  ただ、私は、そういうことに詳しくないのでよくわかりません。

こういうことが確立されて行けば、現在のような、芸術の市場が存在することによって芸術自体が蝕まれていくという自家中毒的な状況」から抜けられるんじゃないかと思うわけです。


『いやいや、そうウマクはいかんのだよ!キミィ』
そうでしょうね。

でも、少しくらいは「芸術の市場」が変化するかもしれませんよ。


少なくとも、現在の「投資」や「投機」としか言いようのない「芸術市場」が、誰のために成っているのか?ということを考えれば(まぁ、「バブル経済」と同じですね)、「コレクター」の人たちにとっても、少しは「市場の変化」が必要なときなんじゃないのかなと。


そんな風に思ったわけなのです。




「審美眼」とは?



先日このブログで書いた記事で、今後、「コレクターの審美眼」自体が、「コレクションの対象」に成っていくといいんじゃないかと書いたんですけど、その「審美眼」っていったいナニなんだ?という話です。


「審美眼」を文字通りに解釈すれば、それは「美しいものを見抜く眼力」ということなんでしょうが、その「美しいもの」の規準が曖昧になってしまった現在の時点では、その定義が成り立たたないわけです。


そこで、改めて「審美眼」とはナニなのか?と考えてみるわけです。


おそらく、現在において「審美眼」と言えるものは、「美しいもの」よりも「さらにもう一段根源的なものを見抜く眼力」のことなんだと思うわけです。


つまり、「そのモノの本質を見抜く眼力」が「審美眼」なんじゃないかと思うわけですね。


どんなものでも「そのものの本質に近いもの」は美しいと思いますし、「そのもの本質から離れたもの」は醜いと思います。
だから、そういう「本質」を見抜くことが出来れば、当然、「美しいもの」も見抜くことが出来るということになるわけです。

言い換えるならば、「外見的な美しさ」ではなく、「内面的な美しさ」を見抜く眼力ですね。

昔の時代までは、「外見的に美しいモノ」でも、人の心を楽しませる事さえできれば、それを「芸術」と呼ぶ価値があったんだと思いますが、現代は、世の中が、そういう「外見的に美しいモノ」で溢れている時代ですから、それを「芸術」と呼ぶ意味が薄くなってしまったんだと思います。

そういうことから、「創作者」は、常に「内面的」で「本質的」な「美しさ」を探しながら創作していく必要に迫られているわけですから、鑑賞する側の人は、その部分を見抜かない限り、「ホンモノの芸術」を見つけ出すことは出来ないと思うわけです。


今後、そういう「審美眼」を持った「鑑賞者」が増えていくことで、「芸術」は再生すると思いますし、活性化すると思いますねぇ。
(どちらかと言うと、「鑑賞者側」から再生するのが望ましいような気もします)


そうなった後から見れば、今の「芸術の在り方」がいかに「本質」から外れているかが、よくわかるんじゃないのかなと。
でも、そうなると「芸術」が醜いということに成っちゃいますよね!

そんな風に思ったりもします。




「鑑賞者」と「批評者」



私は「創作者」に「鑑賞者」と「批評者」を加えた三者を含めて「芸術者」と呼んでいるんですが、その中の「鑑賞者」と「批評者」についての話です。

 ※「芸術家」と言ってしまうと、どうしても「作家」だけがエラクなってしまうと思うので、
  「芸術者」と呼んでいます。


私は、この「芸術三者」を完全に対等な関係で考えたいということから、この「芸術者」と言う言葉を使っているんですが、「鑑賞者」と「批評者」の違いとしては、「鑑賞者」が「芸術を肯定的に見る人」で、「批評者」は「芸術を批判的に見る人」です。


と言うことなんですが、・・・・そうなっているでしょうか?

「現在の芸術周辺」において、、「鑑賞者」は「芸術」を肯定的に見ているでしょうか?

つまり、「鑑賞者」は一所懸命になって無名の新しい「創作者」を探し出したり、自分が『これっ!』と思った「創作者」を応援するような鑑賞の仕方をしているでしょうか?
(気持ちだけでも)


また、「批評者」と言える立場の人たちは、「芸術」を批判的に見ているでしょうか?

たとえば、既に評価を確立した有名作家の「芸術」を批判的に見ているでしょうか?
たとえば、今売れている人の作品を真剣に批判しているでしょうか?

 ※「芸術の鑑賞」においては、「有名な作家(作品)を肯定すること」よりも、「無名の
  作家(作品)を肯定すること」の方が肯定的なことであり、「芸術の批評」において
  は、「無名の作家(作品)を批判すること」よりも、「有名な作家(作品)を批判する
  こと」の方が批判的(批評的」なことだと思います。

  つまり、もっとも「肯定的な鑑賞者」とは、「無名な作家(作品)を肯定的に見る人」
  であり、もっとも「批評的な鑑賞者」とは、「有名な作家(作品)を批判的に見る人」
  だと思います。


現状では、これらのことが全く逆になっているような気がするんですねぇ。


つまり、現状では「批評者」が「芸術を肯定する側」に居て、「鑑賞者」が、むしろ「芸術を否定的に見る側」に居る」と思うわけです。


たとえば、「批評家」と言われる人たちは、現在、高い評価を受けている「有名作家」を批判しているでしょうか?

どちらかと言えば、「批評家」が「有名作家」や「過去の巨匠たち」について論じている時は、それらのいわゆる大御所を、いかにうまく説得力のある言いまわしで”持ち上げるか”ということが重視されていて、それは「批判」とは正反対の「おべっか」と言った方がイイと思うわけです。


つまり、「批評家」でありながら「批評」ではなく「肯定」しかしていないわけですね。


一方、「鑑賞者」と言えるような「一般のアート好きな人たち」は、必ずしも「芸術」に対して肯定的でもなくて、自分の好きな作家にだけは肯定的という人も結構いるでしょうし、「有名作家」にだけは肯定的と言う人もかなり多いと思います。

ところが、有名・無名や好き・嫌いに関わらず肯定するという、本質的に肯定的な「鑑賞者」がなかなかいないんですね。


もちろん、嫌いなモノを肯定的に見るのは難しいでしょうが、「それほどでもない?」と言う作品の中に、なんとかいいところを見つけようとする姿勢が、「鑑賞者の姿勢」としてはあってもイイように思うわけです。


私は、「個々の作家」ではなく「芸術全般」に対して「肯定的」と言うのが、「鑑賞者の本来の姿勢」だと思っていますから、知名度や好みに関わらず「肯定的な鑑賞者」と言うのが「最も鑑賞者らしい鑑賞者」なんじゃないのかなと思うわけです。

 ※あくまで、「肯定的」であって「全面肯定」と言う意味ではないです。つまり、
  「鑑賞者」と言うのは「すごく好きな作品」でなくても、自分が好きになれるポ
  イントを探して好意的な見方をする人だということです。
  別に「嫌いな作品」まで『好きに成れ!』ということではないです。

  無理して、『何でも好きです!』と言っている人はたくさん居ると思いますが、
  どちらかと言えば、ごく小さなポイントを見つけ出して「好き」になれる人が、
  「鑑賞者なんじゃないでしょうか?

この「鑑賞者」と「批評者」の立場の逆転現象によって、完全に「無名作家」が切り捨てられてしまっています。


まず、「有名作家」になってしまった人は、ほとんど批判される機会がありませんから、芸術の世界が飽和状態で、「無名」から「有名」への門がどんどん狭くなっていきます。

それでいて、「無名」を拾い上げる人が居ませんから、さらに「有名」と「無名」の溝が深まってしまいます。

結果的に「有名入り」を果たせるのは「市場に肯定された作家」ということに成って、その「市場」が「芸術」とかけ離れた論理で動いていますから、「芸術の中心とはかけ離れた作品や作家」を選ぶわけです。


そういうことで、「芸術」は徐々に堕落してきていると思いますね。
『そんなこと、ない!』と言う方もいるでしょうが、それなら、こっちは『そんなこと、ある!!』と言っちゃいますね。

普通に見て、オカシイこと、たくさんあると思いますよ!芸術。


と思います。


「創作者」→「鑑賞者」→「批評者」



私が考えるところの「芸術者」についての話です。

 ※「芸術者」と言うのは、「芸術家」という呼び名の代わりに私が使っている名称です。
  「芸術者」は「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」という三者を指します。
  この「芸術三者」を完全に対等な関係と考えたいと思って、私はこの名称を使ってい
  ます。
  「鑑賞者」と「批評者」は同じ「見る側」なんですが、「鑑賞者」は「芸術」を肯定的に見
  る人で、「批評者」は批判的な視点をもって「芸術」を見る人というふうに考えています。

「芸術」においては、「創作者」→「鑑賞者」という順番は避けられない場合が多いわけですが(先に、「創作者」が作品を提示しないと鑑賞できないので)、本当ならば「鑑賞者」が起点に成るケースがあってもいいような気がします。

でも、「鑑賞者の求めるモノ」を「創作者」が探るようになるのは、純粋な衝動とは言えないので良くないと思いますから避けざるを得ないと思うわけです。


それで取り敢えず、「創作者」が起点に成るということが前提に成るわけですが、「創作者」→「鑑賞者」に続いて、「鑑賞者」→「批評者」という順番があった方がイイんじゃないかと思っているわけです。

そして、それをまた、「批評者」→「創作者」というふうに「創作者」に戻して循環させていけば、最初の起点が「創作者」であっても、三者が対等に近くなると思うわけです。


「称賛」と「批評」」との両方を受けたた後で、「創作者」にそれが戻っていくような流れが出来れば、三者が対等に成ると同時に、「創作衝動」の「純粋性」が保てるんじゃないかということですね。


現在の「芸術の場」においては、「玄人の批評家」が「素人の鑑賞者」よりも先に「作品」に触れることがほとんどです。


なにせ「玄人」ですから、当然情報に精通しているわけで、やはり、新しいものを見つけるのが「素人」よりも早いわけですね。

それで、どうしても「創作者」→「批評者」という順番が出来上がってしまうわけですが、「芸術作品」と言うのは基本的に、まず一番に肯定された方がいいんじゃないかと思うわけです。

なんと言っても、「芸術作品」には一律の評価基準を設定することが出来ないわけですから、いの一番に批判されてしまうと、その作品の良さが見えなくなってしまうわけです。
(「権威」をもって「絶賛」された場合は「その作品の欠点」が見えなく成りますけどね)

それに、どちらかと言うと「素人の眼」よりも「玄人の眼」の方が情報に左右されやすいわけですから、いちばん初めは、情報量が少ない「素人の眼」に触れた方がイイんじゃないでしょうか?


「玄人」には、その後いくらでも「批判の機会」はあるでしょうから、取り敢えず、「素人の鑑賞者」が一通り「その作品」や「その作者」に目を向けてから「玄人の批評家」が批評するという流れがあってもいいと思います。

そして、さらに「その批評」を「創作者」に返すという流れが出来れば、「創作者」が創作に対する「意欲」と「厳しさ」を失わずに活動を続けていくことが出来るんじゃないかと思うわけです。
(今は、一方的に「批評家」が批判したり激賞したりするので、「創作者」は常に振り回されていると思います)


現在の「芸術の場」が活力を失っている(そう考えない人も居るでしょうけど)のは、「素人の眼」が機能していないことによるところが大きいと思います。

なにかにつけて「権威ある玄人」が付けた「お墨付き」によってすべてが判断されてしまいますから、「権威を持たない素人」は従うしかないわけで、その方程式にのっとった鑑賞法ができない人は「芸術」を諦めるしかないということが、半ば公式のようになってしまっているわけです。

そこで、かなりの数の「素人の鑑賞者」が排除されてしまうために、「芸術の場」が活力を失っているように見えるわけですね。

 ※実際、『芸術なんてあまり興味ないよ』と言う人がたくさんいると思いますし、そ
  ういう人たちは、ほとんど、「現在進行形の芸術」には関わりを持とうとしません
  が、そういう人たちが、やや古い時代の評価に個人差が少ないような「名画」や
  「名作」の展示には行列を作っているというのも、まず間違いのない事実です。
  つまり、本当なら興味のあるハズの人たちが、この公式によって排除されてしまっ
  ているということです。
  しかも、その人たちは相当な数だというのもまず間違いないことなんじゃないでしょ
  うか?

これから、この「芸術三者」が出来るだけ対等になって行って、「創作者」と「鑑賞者」が対峙するという鑑賞スタイルが一般的になっていくことで、「芸術の場」は新たな展開を見つけ出していくように成るんじゃないかと思います。

当然「批評者」としては、その両者の「対峙する関係」を公平にに見据えて、その双方に対する批判を加えることに成るわけです。

そうやって、「創作」と「鑑賞」が循環するようになっていけば、「芸術」という文化はある意味での「完成形」に達するんじゃないかと思います。

それが「次の芸術」へ展開していくのか?

それとも「芸術の終わり」が待っているのか?

どちらなのかはわかりませんが、現時点での「芸術」が未完成の状態であることは間違いないと思います。


少なくとも、現在の『誰かが右と言えば、全員が右を向く』という状態は、どう考えても文化としての「完成形」ではないでしょうからね。


というようなことを考えてみました。



「創作者のマナー」・「鑑賞者のマナー」・「批評者のマナー」



「芸術」は「創作」においても「鑑賞」においても、完全に自由であるというのが現在の「芸術」についての「常識」に成っているわけですが、私といたしましては、そこのところに小さい疑問を持っているわけです。


『どんなものを創作するかは、創作者の自由なんです』とか、『どんな見方をしたって、全然かまわないんですよ、見る人が自由に見たらいいんです』とか、そういう言い方って、一見自由でイイように見えますが、『そうなんですか?それじゃあ、ひとつ失礼して』と言って、「〇〇億円の名画」に泥をぶちまけたりしたら、間違いなく牢屋行きでしょう。
まぁ、当たり前ですけどね。

とにかく、自由とは言っても、そこにやっぱり「マナー」みたいなものはあっていいんじゃないかと思うわけです。

そして、本当は「完全に自由」ではないのに、たてまえ上『完全に自由なんですよ』と言ってしまっていることに、やや問題があるような気がするわけですね。


やっぱり、その「自由」とは「完全な自由」ではなく、「限定付きの自由」なんじゃないかと思います。
こういう所を、ある程度までは正確に理解していた方がいいような気がするわけですね。

このことに限らず、現在の「芸術」は「自由」という言葉に縛り付けられていると思います。
「自由」であろうとするあまりに「不自由」に成っているというのが、現在の「芸術」の状況じゃないでしょうか?
(芸術だけとも限らないですけど)

それはさておき、「創作者」には「創作者のマナー」があるし、「鑑賞者」には「鑑賞者のマナー」があるし、「批評者」にも「批評者のマナー」があるんじゃないかなと思うわけなのです。

「マナー」とは言っても、形式的な作法とか、こういう風な見方をしなければいけないとか、そういうことではありません。
ただ、「見る側の人」は「創る側の人」に対して、「創る側の人」は「見る側の人」に対して、一定の「敬意」のようなモノがあった方がいいような気がするわけです。
まぁ、要するに「自由」と「無責任」はチガウと言う、これも当たり前のことなんですけどね。

でも、自由自由とあまりに言い過ぎるので、どうしても『もっともっと自由じゃないきゃいけないんじゃないのか?』とか『どこかハメを外したことをやらかさないとダメなんじゃないのか?』という傾向があるわけですねぇ。

そういったことからも、やっぱり「マナー」があった方がいいんじゃないかと思うわけです。

ということで、「創作者のマナー」・「鑑賞者のマナー」・「批評者のマナー」について考えてみるわけなんですが、実を言えば、私が「マナー」と思うことはたった一つのことしか無くて、『とにかくまじめにやりましょうよ』ということなんですね。

つまり、『真面目に創作して』・『真面目に鑑賞して』・『真面目に批評しましょう』ということに尽きると思うわけです。

「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者が本当の意味で真面目に、そして真剣に対峙すること、これこそが唯一にして最も大切な「芸術のマナー」なんじゃないでしょうか?
そして、これが意外と守られていないような気もするわけです。

ここで、また「自由」が出てきます。
要するに、「自由」が履き違えられていると思うわけです。
つまり、「芸術」においては、「真面目であること」が「自由でないこと」のように考えられているという傾向があるわけです。

「芸術」においては、どこかに「ハチャメチャさ」がないと目立たないということから、生真面目なモノが評価されにくくなっていて、そういう「生真面目路線」で行くには、「ハチャメチャ路線」で行くよりも何倍も大変になってしまっているような所があると思うわけです。
要するに「ハチャメチャ」=「自由」、「真面目」=「不自由」というのが公式になってしまっているところがあると思います。

これは、「見る側」にも言えることで、「ハチャメチャなモノ」を見つけてきて『アレなんかオモシロイですよね』というような鑑賞のしかたが今の主流になりつつあると思います。

もちろん、真面目に創作している人も、真面目に鑑賞している人もたくさんいるとは思いますが、そういう人たちが少しづつ肩身の狭い思いをするように成って来ていることは確かだと思います。


本当のことをを言えば、「芸術」に興味を持つような人は基本的に真面目な人なんだと思いますよ。
というか、真面目な人も不真面目な人も「自分の中のいちばん真面目な部分」で「芸術」に興味を持つんじゃないんですか?

だって、それじゃなきゃ『意味ないでしょ?芸術なんて』
「芸術」ってそういうものだと思いますよ。

なんで、せっかくの「自分の中の一番美しい部分」を、まるで「ツマラナイモノ」のように扱うんですかねぇ。
そう言う人って、「真面目さ」を憎んでいるように見える時があります。

『それ、チョトもったいないよ』

そんな風に思いますよ。




『命を削って描いてはいけない!』:「幸福な芸術者のモデル」



よく、貧乏な絵描きさんが早死にしたりすると、『あぁ、彼は命を削って描いていたからねぇ・・・』と言われますよね。

そう言う人の話には、いつも心を動かされてしまいますし、そう言う人はたいていとても素晴らしい絵を描いていますから、絵の方にも惹かれることが多いわけで、当然『きっと、彼は絵を描くために生きていたんだろうね』と言いたくなってしまうわけなんですが、でも、反面、『もうそろそろ、そう言うのは止めないといけないんじゃないか?』とも思うわけなのです。

要するに、『命を削って描く』ということを「スバラシイこと」にしてしまうと、「不幸な芸術者のモデル」が出来上がってしまうような気がするわけです。

 ※「芸術者」:=「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」を一括して呼び現す
  言葉として私が使っている言葉です。
  この三者を対等な関係として考えるために使っています。

でも、過去はともかく、これからは「幸福な芸術者のモデル」を作って行った方が、「芸術」が少し良くなるような気がするわけです。

確かに『命を削って描ける人』は貴重な存在だと思いますし、専門家に限って言うならばそういう部分も必要に成ってくる場合もあるのかもしれませんが、それを「芸術者のモデル」にしてしまうと、かなり、「芸術への入口」が狭くなってしまうのも事実です。

命を縮めることに成るかも知れないわけですから、とうてい「素人」が迂闊に近づけるモノではありません。
でも、みんな最初は「素人」なわけですから、そういう「あまりにも困難な所」に「モデル」を設定してしまうと、普通の人は近づかなくなってしまうでしょうし、『要するに「芸術をやること」っていうのは「不幸に成る」って言うことなんでしょ?』というイメージを創り出してしまうことにも成りかねません。
そうなってしまうと、「芸術」が「いいモノ」なのか「わるいモノ」なのかすらわからなくなってきてしまうわけですから、出来れば「幸福な芸術者のモデル」を作って行った方がいいんじゃないのかなと思うわけです。

現在の「芸術の世界」においては、「不幸な芸術家のモデル」と「エライ芸術家のモデル」はありますが、「普通の芸術家のモデル」や「幸福な芸術家のモデル」が存在していません。
「普通の人」は「芸術の世界」では「エラク成れない」と考えられていますし、「エラク成った者」だけが「幸福に成る」と思われています。
そして、実際にもほぼそう成っています。

私には、この状態が異常なモノに見えるわけですね。
「普通の芸術者」も当たり前に居るものと思いますし、「芸術者」の中に「エライ」と「エラクナイ」は存在しないと思います。
それに、「芸術」は、そもそも「人を幸福にするもの」だと思いますから、全ての「芸術者」が「幸福な芸術者」」であるべきなんじゃないかと思うほどです。

つまり、「命を削って描く人」は、もしも短命であったり貧乏であったりしたとしても、『こころゆくまで自分の芸術に没頭した』という意味では、「最も幸福な芸術者」でもあるんだと思うわけです。
でも、そのことが見逃されていて「短命」とか「極貧」とか「存命中には評価されなかったこと」とかばかりが強調されてしまうので、どうしても「不幸な芸術家のモデル」のように成ってしまうわけですね。

そういったことから、出来れば、「普通で幸福な芸術者のモデル」が作られていくことを望んでいるわけです。
私は、ほとんどの人間が「芸術者」であると思っているくらいで、「芸術者」でない人の方が特殊な人なんだと思うので、「普通の人」が「芸術者」であることは、ごく当然のことだと思いますし、人が「芸術者」としての立場を持つことで確実に「幸福」に近づけるものと思っていますので、「幸福な芸術者」もたくさんいると思うわけです。

だから、これからは「貧乏」とか「売れない」とか「評価されない」とかいうようなことは、どちらかと言えば「ツマラナイこと」であって、そんなことよりも、『「自分の芸術」や「自分の表現」に没頭できる瞬間を持つことが出来たこと』の方が、その何倍も「幸福なこと」であって、つまり、「芸術者」としての誇りを持って「芸術」に取り組んでいるということ自体が「幸福な芸術者」の十分な条件であるということが常識に成って、そういう人たち全てが、「幸福な芸術者のモデル」となって行けばいいんじゃないかと思っているわけです。

そうすれば、現在のように美大を出たのに、その後パッタリと創作活動をしなくなってしまう人や、作品を売るために「自分のスタイル」を曲げて、いかにも当世風な作品を創る羽目になっている人や、『自分の中の芸術は、もう完結した』という「あきらめの小箱」に自らの創作欲をしまい込んでしまう人などが大量生産されることは無くなるような気がします。

要するに、「やる気」さえあれば、「死ぬ思い」までしなくても、「芸術者」としてソコソコ「幸福」に成れるということが大事だと思うわけです。
そういう誰にでも達成可能な目標値があれば、「やめてしまう人」や「挫折する人」が少なく成って、当然「芸術」全体の層が厚く成るわけですから、「芸術」自体も活性化するんじゃないのかなと。

そんな風に思います。

だから、いま敢えて、『命を削って描いてはいけない!』と言いたいわけなのです。
そして、「幸福な芸術者のモデル」を創り出せたら少しだけいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



いま『芸術がわかる』とはどういうことなのか?


 
いわゆる「芸術好き」の人が、「ごく一般的な人」に対して『あなた、まったく芸術がワカッテないよね!』と言っているのはよくあることだと思いますが、それじゃあ、いったい『いま、芸術がわかっている』とはどういうことなんでしょうか?


たとえば、「美術史的な知識」が豊富であることなんでしょうか?
それとも、『現在形の芸術に通じている』ということなんでしょうか?
または、『非常に鋭敏な感性を持っていて、常に芸術の良し悪しを見分けることが出来る』ということなんでしょうか?
これらは、どれも違うという気もしますし、どれも当たっているという気もします。

でも、個人的な意見で言わしてもらいますと、『いま、芸術がわかる』というのは、そう言うことではなくて、「いま芸術の置かれている位置」をワカッテイルということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「現在」という時代において「芸術」がどういう意味を持っているのか?
「時代」や「社会」、そして「人間」にとって「現在形の芸術」がどういった位置を占めているのか?ということを理解している人こそが「いま、芸術がわかっている人」なんだと思うわけです。

こんな言い方をしてしまうと、『へぇ~、難しいんだねぇ』とか『それで自分はそれがわかっていると言いたいのね、ハイハイ』などと言われそうですが、そうとも限らなくて、むしろ「知識」や「教養」や「感性」などは必要ないわけですから、「誰でもできること」でもあるわけです。

それから、これは「芸術」以外のことでも、だいたい同じことが言えると思います。

たとえば、「いま、科学がわかっていること」というのは、「いま科学が置かれている位置」をわかっていることだと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」とは「いま宗教が置かれている位置」をわかっていることなんだと思うわけですね。

だから、「いま、科学がわかっていること」に「科学の勉強」が必要とは限らないと思いますし、「いま、宗教がわかっていること」に「信仰」が必要であるとも思いません。

例えばの話、いまでも「科学万能」を信じている人は、『いま、科学がわかっている』とは言えないということですね。
もし、その人が「科学者」であったとしてもです。
(よく居るような気もしますけど)
また、今でも、日照りの時に「雨ごいの踊り」や「生贄の儀式」をやってる人は、『いま、宗教がわかっている』とは言えないということに成ります。
(めったに居ないでしょうけど)

それらと同じで、「いま、芸術がわかっていること」と言うのは、「芸術に関する知識」とも「芸術的な感性」とも関係なく、ただ単に「いま芸術が置かれている位置」をわかっていることなんじゃないかと思っているわけです。


で、その「いま芸術が置かれている位置」ってどこなんだ?ということです。

「現在形の芸術」においては「作者の自己表現であること」が最も中心にあると思うわけですが、その「作者の自己表現」が「時代」や「社会」や「人間」にとってどういう意味を持っているのか?ということです。

昔は「技術」と「芸術」は、ほぼ同じような位置にあるモノだったと思いますが、現在は「技術」は「芸術」の中心的な部分ではなくなっているわけです。
つまり、現在「芸術」において「技術」を中心に置いた考え方をしているということは、いまだに「雨ごいの踊り」を踊っているようなもので、「やや時代遅れ」と言わざるを得ないわけです。

しかし、その逆に「反技術」が「いま芸術の置かれている位置」に近いか?と言うとそうでもなくて、半世紀ほど前まではそうだったのかも知れませんが「反技術」や「反芸術」的な考え方も「いま芸術が置かれている位置」とは言えなく成っているわけです。
だから、いま、意識的に「技術」を捨てようとしたり「芸術っぽくないモノ」を見せようとしたりするのは、やっぱり「雨ごいの踊り」になってしまうわけです。

それじゃあ、どういうのが「いま芸術が置かれている位置」なのか?と言えば、私は「努力」を挙げますね。
つまり、「世の中で最も努力を明確に示すもの」というのが「現在の芸術の位置」だと思うわけです。

「芸術」と言うと、なにかにつけて「才能」や「個性」ということだけが言われてしまいますが、実は「才能」や「個性」で出来ることはかなり限られていて、「現在の芸術の位置」はその範囲を超えたところにあると思うわけです。
ということは、いまだに「才能」や「個性」に依存しているということも、また「雨ごいの踊り」に成ってしまうわけで、あと残っているのは「努力」以外にないということです。

「いま、芸術の置かれている位置」は「努力を示すモノ」という位置であり、「もっとも純粋に労力を費やすもの」という位置だと思います。


いま、そう言うことが出来るのは「芸術」しかないでしょう?
「才能」や「個性」はほかのことでもイヤというほど示されているわけですが、今、「無目的の努力」を示すことが出来るのは、おそらく「芸術」しかありませんね。

それから、これは「創作者」にだけ言えることではなく「鑑賞者」や「批評者」にも言えることで、「鑑賞者」は「単なる美しいモノ」ではなく、作品の中にある「努力や労力」を」鑑賞することを要求されるようになっていくでしょうし、「単なる好み」で鑑賞することにも意味が無くなっていくでしょう。
「批評者」も作品の「個性」や「センス」などではなく、「作品の中に示されている努力や労力」を抽出してそれを分析し批評を加えるようになっていくと思います。

そして、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者がそれぞれの立場において、「努力」して「労力」を費やすことが「芸術の目的」に成って行くんだと思っているわけです。

つまり、「個性」や「才能」もまた、「技術」と同じように「芸術の中心課題」ではなく「単なる手段」に成るということです。

こんなことを言っても、誰一人聞き入れてくれる人はいないでしょうが、それじゃあ、お聞きしたいのですが、『あなたは、今、無条件に気持ちよく「努力する機会」を持っていますか?』と。
『利益と無関係に気持ちよく「労力を費やす人」を最後に見たのはいつですか?』と。
『「芸術」以外で、そんなものに出会えると思いますか?』と。


そんな風にお聞きしたいわけなのです。
(まぁ、「芸術」でも、あまりお会い出来ませんけど。『いや、まだこれからなのさぁ~』)



「人間の認識」はかなり幅が狭い



人間の「認識の幅」って、『実に狭いよなぁ』と思うことがチョクチョクあるわけです。
(もちろん、自分も含めて『実に狭い!』と思います)


たとえば「抽象画」を見た人は10人中9人までが『これは、いったいナニ??』っていう反応をしますし(私も他人の抽象画を見てそういう反応をすることがあります)、「抽象画」であることをわかった上で、敢えて『ここは顔ですね?』とか『ここに動物が描かれてますよね?』とか言う感じで、力づくで「具象サイド」に位置づけてしまう人もけっこう多いと思うわけです。
(こちらは、私の場合、あまりないんですが、ただ、一度「ナニカ」に見えてしまうと、その後はその「ナニカ」にしか見えなくなってしまって、「抽象画」として見ることが出来なくなるということは時々あります)
(同じ抽象画でも、その人が既に見たことがあるタイプの抽象画だと『ナニ?』っていう反応が弱くなりますけどね)

そういう見方がワルイということではないんですが、せっかく「抽象画」を見るなら「抽象」の部分を見ないと、それが「抽象画」である意味が無くなってしまうわけですから、どうせだったら「抽象画」として見た方がオトクなんじゃないかと思うわけですね。

まぁ、いずれにしても、「人間の認識」なんて所詮その程度のものなのかも知れませんから、仕方ないことだとは思うんですけど、その辺を少しでも何とかできないもんなのかと思うわけなのです。


例えばの話、丸いものに目が付いているだけでも、それは人間または動物として認識されてしまいますし、それ以外のものとして認識することはほとんど不可能に近いというくらいにむずかしくなってしまいます。
植物なんかでも、いくらデタラメな線を適当に書いてあっても、そこに「これはたぶん花だなというモノ」を描いただけで、ほとんどの人がそれを「植物」としてしか認識できなく成ってしまうわけです。
まぁ、要するに、それぐらい「人間の認識の幅」は狭いということなんだと思いますね。

そうなると、その「狭い認識」からチョットでも外れたものは『きわめて認識されにくい』ということに成ってしまうわけです。

しかし、その「狭い認識」こそが「既成概念」で創り出されているわけですから、そこからは逃れたいわけで、それでないと「既成概念」の言うなりに成るしかないということがあるわけですから、やっぱり、そういう「狭い認識」を外れたもう少し自由なモノを生み出したいという気持ちが出てくるわけです。

「抽象表現」を使っている人の多くはそういう気持ちを持っていると思うわけですが、「人間の認識の幅」に合わせれば「既成概念」に従うことに成るし、「人間の認識の幅」から外れれば人に認識してもらえなく成ってしまいます。
かと言って、「認識できないモノ」を無理にわかってほしいというわけでもないので、どうしていいのかわからなくなってしまうわけですね。
困ったもんです。

要するに、行き詰ってしまうわけですね。
でも、そこの所を少しだけ大目に見てあげて、『目標だけをそこに置いておけばいいじゃないか?』と考えれば、すべてのことが楽になります。
創作する側の目標は「既成概念から逃れつつ人に認識できるようなモノを創作すること」です。
鑑賞する側の目標は「自分の認識から外れた表現を認識するために、認識の幅を少しでも広げること」です。

たぶん、どちらも困難なことでしょうが、「目標」としてそういうことが、そこに置かれていることに意味があると思うわけです。

「目標」があることで、そこに向かうことが出来るようになります。
「目標」が無ければ、どこへ向かっていいかもわかりませんが、「目標」があれば方向だけは決められるわけです。

「達成感のない作業」というのは決して楽なモノではありませんが、そこに「意味」はあります。
その「意味」が少しだけ「芸術」を楽にしてくれるわけです。

そんな中で、「創作者」と「鑑賞者」がそれぞれの「目標」をもって対峙することが出来れば、それはそれで、なかなか幸せなことなんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。



「感動」は「一方的に受け取るもの」ではなく、「鑑賞者の能動的な行為」でもある



「感動」を「完全に受動的な行為」だと考えてしまうことがあるわけですけど、本来、「感動」はどちらかと言えば「能動的な行為」であって、「能動的な鑑賞」という「鑑賞者による積極的な行為」からしか生まれないモノなんじゃないかと思うわけです。


確かに「鑑賞」はある意味では「受け身の行為」なんでしょうが、その「受け身」をどこかのポイントで「能動的な鑑賞」という鑑賞者側の行為に切り替えない限りは「感動」を得ることは出来ないんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。

少なくとも、現在の芸術の在り方を前提にするなら、何も考えずに、ただ一方的に受け身の立場で「鑑賞」したとしても、「ただ単に美しいもの」や「ただ単にオモシロイモノ」と出会うことはあっても、それが「感動」にまで行き着くことは無いと思うわけです。

「現在における感動」は「鑑賞者」が「芸術作品に注がれた力」に比例する力を使って能動的に鑑賞した時にだけ発生する現象だと思います。

かなり昔の時代ならば、何も考えずに、ボウっとして「鑑賞」していても「感動」を得られる場合もあったんじゃないかと思います。
つまり、その時代に「芸術が提供していた美しさ」も「芸術に期待されていた美しさ」も、どちらも、人間が生まれながらに、ほぼ無条件で『美しい!』と感じるような美しさだったということですね。
だから、敢えて考えたり、見つけ出したりする必要が無かったわけです。
(その時点では、そう言うモノこそが「ホンモノの芸術」であったともいえるでしょうね)

しかし、現在の芸術で、そういう「単なる美しさ」を見たとしても「感動」まで届かなくなってしまったわけです。
『いや、そんなことは無い!』と言う人も居るでしょうが、これは「時代の流れ」ですから、誰にも逆らえないことだと思いますよ。

つまり、「ある一人の人が期待している美しさ」が、そういう美しさだったとしても、「時代が期待している美しさ」は、もう、そういう美しさではなくなってしまっているわけですから、一人の人の価値観だけではどうすることも出来ないことだということです。


それじゃあ、「現在の芸術が提供する美しさ」や「現在の芸術に期待される美しさ」とは、如何なるものなのか?

それは、「創作者の純粋性」であり「創作者の核」なんだと思います。
そして、それは「鑑賞者」にとっては、常に「他者」であり「異世界」であり「未知」であるわけです。
だから、なにも考えずに、ボウっとして見ているだけでそれが受け入れられることはあり得ません。

やはり、「他者」や「異世界」は「未知」ですから、常に「初遭遇」なわけで、『なんだかわからない』ハズですし、『なんか気持ちがザワザワする』に決まってます。
そうでなければ、それが「創作者の核」では無いということです。
「創作者の核」とはそう言うコトだと思いますし、「未知なモノ」とはそう言うモノなんだと思います。
要するに、落ち着かないんですね。

でも、だからと言って「落ち着かないこと」自体が「芸術」なわけではないし、そう言うモノが「感動」を提供してくれるとは限りません。
「創作者の核」は「鑑賞者」にとって、常に「落ち着かないモノ」、ですが、すべての「落ち着かないモノ」が「創作者の核」を持っているわけではありませんから、そういういろいろな「落ち着かないモノ」の中から、本物の「創作者の核」を持っているモノを見つけ出す作業が必要に成るというわけです。

なにせ、相手は「未知なモノ」なわけですから、いろいろと考えたり探したりしないと見つけられないということですね。

それで、結果的にそれを「見つけ出すという作業」が必要に成ってくるわけで、その「鑑賞者の積極的な行為」からしか「感動」は生まれないということですね。


まぁ、そんな面倒なことをしなくても「美しいモノ」も「オモシロイモノ」も見ることは出来るわけなんですけどね。
でも、なかなか「感動」にまで行き着くことは出来ないと思います。
だって、「異世界」や「他者」を「未知」のまま『オモシロイよね』とか『いいんじゃない?もしかして』とか『うんうん、見ようによっては美しいなり!?』などと言っているだけということに成るわけですから、それらは「感動」とはチガウでしょう?
「ワカラナイモノ」で「感動」できる人ってほとんどいないと思いますね。

『理解する必要なんかないんだ!感じるだけでイイんだ!!』
これ、間違ってると思います。
というか、勢いだけで誤魔化してると思いますよ。
『間違ってる』ならまだしも『誤魔化してる』はダメでしょ?
やはり、少なくとも、まったくワカラナイモノではなかなか感動できないと思いますね。


それから、「古い時代の芸術作品」を見ることで「感動」することは可能だと思いますが、それはあくまで「古い時代の感動」であって、「現時点での感動」ではないと思います。

たとえば、『モナリザ』を見て「感動」する人はいるでしょうが、その人は『モナリザ』が古い時代の絵であることを知って見ているわけです。
つまり、その人は数百年前の時代を含めて『モナリザ』を「鑑賞」しているわけですが、「現代」に暮らしていながら、その「時代」のいい所だけを見て「感動」しているわけですから、それを「現代に暮らしている人」が「現代の作品」を見て「感動すること」に、そのまま当てはめることは出来ないと思うわけですね。

現代に生きていても、「時代劇」を見て楽しむことは出来ますが、それはその時代に生きていることとは全く違うことですし、「現代劇」を見ることとも違うことです。
本当に自分がその時代に行って、「水飲み百姓」に成ってもかまわないという覚悟があって「時代劇」を見ているわけではないわけですし、今の時代が『街中でいきなり切り合いが展開されるような世の中に成れば面白いだろうなぁ』ということでもありません。
だから、「娯楽」の域を出ることは出来ないわけです。

もしも、「娯楽」以上を望むならば、そういう「時代」を丸ごと受け入れる必要に迫られるわけですね。
「感動」というモノには、そういう「真剣勝負」の面があるということです。


つまり、「古い時代の芸術」による「感動」を「現在の感動」にしたいのであれば、その「時代」を丸ごと受け入れるほどの覚悟が要求されることに成るということですね。
その時点で、「能動的な鑑賞」に切り替わることに成るわけです。
でも、ハッキリ言って、そんな「芸術鑑賞」をしてる人なんていないと思います。

そうなると、やっぱり、「現在の感動」を得るためには、「現在の芸術」に対する「能動的な鑑賞」という「鑑賞者の行為」が必要に成るのかなと。


そんなことを思いました。



「芸術を芸術すること」と「哲学を哲学すること」


 注:この記事は内容のわりに長いです。
   読んでトクなことは何一つ書いてません。
   一般的に言って、お読みにならないことをお勧めいたします。

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「芸術すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「創作すること」が頭に浮かぶと思います。
「哲学すること」とは、どんなことか?と言えば、たいてい「考えること」が頭に浮かぶと思います。

それでは、「芸術を芸術すること」とか、「哲学を哲学すること」と言った場合、どんなことを頭に思い浮かべるでしょう?

「芸術」で言えば、「芸術の批評」や「芸術の鑑賞」が「芸術を芸術すること」に当たるんじゃないかと思うわけです。
「哲学」で言えば、「哲学の諸説の研究」や「哲学者の思想の研究」が「哲学を哲学すること」に当たるんじゃないかと思うわけですね。

どうして、こんなことを考えるかと言うと、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」があまり区別されていないような気がするんですね(特に「哲学」の場合は)。

 ※これは「芸術」や「哲学」だけでなく「科学」などでも同じことがいえると思います。
  つまり、「科学すること」と「科学を科学すること」が、必ずしも区別されていなか
  ったりするわけですね。
  でも、「芸術」と「哲学」において、これらのことが区別されていないことの影響が
  わりと大きいのかな?ということですね。

そして、それらを区別していくと、見えやすくなってくることがあるんじゃないか?と思ったので、それを考えてみたわけです。

それから、もう一つ、このブログでも前から書いていることなんですが、「芸術する人」のことを、私は「芸術者」と呼ぶようにしているんですが、その「芸術者」という言葉には、「創作者・鑑賞者・批評者」の三者を対等な関係として考えていきたいという意味を込めているわけなんですねぇ。
だから、「芸術する人」だけでなく、「芸術を芸術する人」も含めて「芸術者」として考えていきたいわけです。
それで、そういう意味も含めて、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」や「哲学すること」と「哲学を哲学すること」の違いを考えてみようというわけです。

まず、「芸術」についてなんですが、「現在の芸術の世界」においては、【「創作者・批評者」:「鑑賞者」】の比重がかなり偏っているということがあると思うわけです。

「芸術の世界」においては、「芸術の世界の人」というのは「創作者」と「批評者」だけであって、「鑑賞者」はあくまで「素人」または「部外者」ということに成っていて、プロフェッショナルなのは「創作者」と「批評者」であるという感じが非常に強いと思います。

 ※ここで言う「プロフェッショナル」は、必ずしも「お金を稼いでいる人」とい
  う意味ではなく、「専門性を持ってやっている人」という意味です。
  
  「プロフェッショナル」という言葉には、「専門性」という意味が、もう少し
  取り入れられてもいいような気がします。
  「金銭的な価値」に重点を置いて「プロ」を考えた場合、「プロの専門性」は
  堕落することも多くなるでしょうが、「専門性」に重点を置いて「プロ」を考
  えた場合は「プロの価値」が高くなることはあっても、堕落することはないは
  ずです。
  その「プロの価値」こそが、「金銭的な価値」に置き換えて相当な「本当のプ
  ロフェッショナル」の姿だと、私は思います。

しかし、実際には、「専門性を持った鑑賞者」は存在しますし、「鑑賞者」が「創作者」や「批評者」と対等に「芸術者」として扱われるようになれば、きっと、もっとたくさんの「専門性を持った鑑賞者」が出てくると思います。

現在は、どうしても「ごく一部のコレクター以外の鑑賞者」は、置いて行かれてしまう傾向があって、けっきょく、ここでも「カネがものを言う世界」が出来てしまっています。
(「コレクター」として認められるようになるのには、けっこうお金がかかりますからね)
そういうことではなくて、「鑑賞すること」自体が「芸術表現の一部分」として捉えられるようになっていかないと、「芸術」自体も循環できなくなって息が詰まってしまうと思うわけですね。

つまり、「芸術すること=創作」と「芸術を芸術すること=批評・鑑賞」が対等な関係で対峙しつつ循環することで、「創作」~「鑑賞」~「批評」~「創作」~という繰り返しで「芸術」が回り続けることが出来るようになって、その結果、初めて「芸術」が「表現」として成り立つんだと思うわけです。

だから、その「芸術三者」が対等でなかったり、循環していなかったりしている状態というのは、本当の意味で『「芸術」が表現されている』とは言えないような気がします。

そういうことから、「芸術すること」と「芸術を芸術すること」が区別されて、それぞれに意味があると言うことが認識されるようになった方が、少しいいような気がするわけですね。

 ※今は、この二つが対等なものとして区別されていませんから、同じモノとして扱わ
  れてしまって、「創作」の優位性ばかりが強調されてしまうんだと思います。
  どうしたって、「作品」がなければ「鑑賞」できませんからね。
  それぞれの意味が、区別されていないと「鑑賞サイド」が絶対に不利ですよね。
  それでいて、職業的な「批評家」だけは影響力がありますから、ある意味では「創
  作者」以上の権威に成ってしまっているようなところがあるのも確かなことだと思
  うわけです。
  こういうアンバランスな力関係があるために、「芸術」が循環できなくなっている
  んだと思います。
  「鑑賞者」が「芸術の中心」がら排斥されるようになれば、結果的に困るのは「創
  作者」でもあるわけですから。
  (今、そうなってませんか?)

次に、「哲学」ですが、どちらかと言えば、「芸術」以上に区別されていないのが、「哲学すること」と「哲学を哲学すること」だと思います。

こちらは「哲学を哲学すること」を「哲学すること」の本流だと思っている人の方が多いくらいなんじゃないか?とも思います。
つまり、「自分の哲学」ではなく「誰か有名な人の哲学」について研究することの方を「哲学の本流」だと思っている人が多いと思うわけです。
(そういう意味では「芸術」と逆ですね)

「哲学」は「真理を探究する学問」だと思いますが、その「真理」は、人間がどんなに頑張っても到達できないものだと思いますから、当然、「真理」を提示することが出来た人(哲学者)は居ないはずです。
ということは、特定の哲学の説の中に「真理」はないはずです。
ということは、ある哲学者の思想や生涯を研究し尽くしたとしても、「真理」に巡り合えることはあり得ません。
つまり、「哲学を哲学すること」というのは、初めから「真理の探究」ではないという前提で行われる、「哲学」とは少し違う作業だということだと思います。

 ※これは「哲学のテーマ」を「真理」以外のことに置き換えたとしても、ほぼ同じ
  ことがいえると思います。
  「哲学のテーマ」をほかのことに置き換えるとしても、どう転んでも「哲学のテ
  ーマ」は世界の根源的な様相にかかわっているでしょうから、人間に到達できな
  いものであることには変わりないと思いますので。

もちろん、「哲学すること」であっても、現実に「真理」に達することはないので、その点では同じなんでしょうが、少なくとも『真理を目指している』ということは言えるわけです。
でも、「哲学を哲学すること」となると、やはり『真理を目指している』とは言えないと思います。
「哲学すること」と「哲学を哲学すること」が、全く違うことだとは思いませんが、少し違う方を向いていることは間違いないんじゃないかと思うわけですね。

「哲学を哲学すること」の意味は、『真理の探究』ではなく「哲学的な思想に出会うこと」の意味だと思います。
(有名な哲学者の思想に限らずですね)
回りくどい言い方に成りますが「真理を探究した人が、真理には到達できないまでも、その真理に向かう思考の過程で持つに至った哲学的思想との出会い」ということに成るんじゃないでしょうか?
つまり、そこにあるのは「真理」ではなく、『いかにして真理に到達できなかったのか』という「不達成の記録」なわけですから、言ってみれば「不達成哲学の研究」が「哲学を哲学すること」ということに成るわけです。
だから、やっぱり「哲学すること」とは違うと思うわけですね。

ただし、だからと言って、そこに意味がないかと言えば、そうとは限りませんし、もちろん意味がある場合もあると思います。
ただ、『「哲学すること」とはチガウ』ということだと思います。

「他人の哲学思想に出会うこと」が「哲学を哲学すること」の意味であって、それは「哲学すること」の意味ではないということが意識されてさえいれば、その「出会い」にも確かな意味が生まれると思います。
でも、それとは逆に、「他人の哲学思想に出会うこと」を「哲学すること」そのものだと考えてそれを行ってしまうと、そこに「哲学的な意味」はなくなってしまうような気がします。

「哲学」とチガウモノを「哲学」だと思って「哲学する」わけですから、そこに「哲学としての意味」が生まれるわけないですよね。
ハッキリ言えば、そこからの「哲学への発展性」もほとんどないと思いますね。
「チガウ方向」へ向かってしまっているわけですから、離れていくことはあっても近づくことはできないんじゃないかと思いますよ。
最初に方向性がズレた位置まで戻ってからじゃないと難しいんじゃないでしょうか?
要するに、それまでに習得したものを、かなりのところまで切り捨てるような意識がないと、戻れないような気がしますね。
(まして、その「自分が習得した知識」にしがみついているんだとすれば)

一度戻った後で、自分の中から生み出された思想があれば、それがどんなに単純なものであっても、どんなに不完全なものであっても、それは「その人の哲学」であり、それを考えることこそが「哲学すること」に成るんだと思います。

『自分は、そんなこと初めからわかってやっているから大丈夫!』と思っている人が多いような気がしますが、実際には『そんなことわかっている人』は、初めから「他人の哲学」ではなく「自分の哲学」を追究するような気がしますね。

ただし、、これは、「師弟関係」のように、直に接した人から受け継がれる「思想」に関する話とは、ずいぶん違う話だと思います。
つまり、『本を読んだ』とか『授業を受けた』とか『大学で専攻した』とかと言うようなことに関する話です。
そういうことから、吸収されるのは、主に「知識」であって「思想」ではないと思います。
なぜなら、「本」や「授業」から「思想」を吸収するには、その人の中にすでに「その思想に匹敵するくらいのサイズの思想」が存在する必要があるからです。
自分より大きいものを吸収できるわけがありませんからね。

 ※その哲学者本人に、長い時間をかけて直に接することで、「その人の思想」を
  丸ごと吸収できる可能性はあると思います。
  その場合は、必ずしも「その人に匹敵する思想」は必要ないのかも知れません。
  これは、「師弟関係」に限らず「親子関係」において、親から子に受け継がれ
  る思想があることを考えればわかることだと思います。
  「子供」が初めから「親」に匹敵する思想」を持っているわけではないのに、
  「子供」は確実に「親の思想」をコピーしますから。

  でも、それも「学問」においては、研究者同士の師弟関係など特殊な関係に限
  られるでしょうね。

やはり、「知識」はあくまで「知識」として吸収して、あとに成ってから「自分の思想」に役立てられたらいいんじゃないかと思います。
「知識」を「思想」として捉えてしてしまえば、改めて「自分の思想」を築き上げるという多大な労力を要する作業を行うことはなくなってしまうのが普通でしょう。

さらに言えば、「哲学」のようなジャンルに関しては、「思想全体を吸収すること」であっても「思想のごく一部分を吸収すること」であっても、ほとんど同じ「受け手側の容量」が必要だということもあると思います。
だから、「他人の哲学思想に出会うこと」と言っても、「本」や「授業」だけでは、それは、あくまで「出会い」にとどまるわけで、そこからの「哲学への発展性」には、ほとんど期待できないと思うわけです。

 ※こういうの言うと、怒る人も居るでしょうが、『なぜ、自分は怒るのか?』
  と考ええてみてほしいですね。
  その人が、本当に、「他人の哲学思想との出会い」から「自分の哲学」を導
  き出せたんだとすれば、こんなこと言われたぐらいで怒らないんじゃないか
  と思いますよ。


さて、ここで、いったん最初に話を戻します。

まぁ、要するに、「芸術を芸術すること」は、あまりに軽視されているし、「鑑賞」と「批評」も区別されていないような状態だということです。
そして、「プロの批評家」と「素人の鑑賞者」との間の関係も非常にアンバランスであって、それが「芸術」を停滞させている原因の一端なのではないのかと思うわけです。

そして、「哲学」においては、「難解過ぎる哲学」が「哲学の世界」を覆いつくしてしまっているために、それを修学するのに力を使い果たしてしまって、一番肝心な「哲学すること」が、そっちのけに成っているんじゃないだろうか?と思うわけですね。

さらに言えば、「そこで力を使い果たした人」こそが「教授」や「学者」に成っていくことに成るわけで、そうなれば、エラク成ったその人たちは、その後、その「難解すぎる哲学」を手放さなくなってしまうに違いないのです。
そうなれば、当然、その「教授」や「学者」から、さらに「難解すぎる哲学を修学すること」、つまりは、「哲学を哲学すること」に長けた人が、また、次も力を使い果たした後で、「教授」に成り「学者」に成るということです。
それで、ごく一般的な人が人生の中でたどり着いた、単純であっても「本当のその人の哲学」といえるものが、完全にナイガシロにされてしまうわけです。

要するに、「芸術の世界」では「芸術を芸術すること」があまりに軽視されているし、「哲学の世界」では「哲学すること」の方が、むしろ、除外されてしまうような環境が出来てしまっているわけです。
つまり、「芸術」と「哲学」において、まったく逆のことが起きていて、しかも、それらの反対のことがほとんど同じ結果を生み出してしまっているわけです。


ここで「芸術」と「哲学」において、なんでこんなことが起きているのか?ということです。

おそらく、これらのことは、「芸術」や「「哲学」において、本質が失われているということからきているんじゃないかと思うわけです。

「芸術」は「真実」を表現しようとするものですし、「哲学」は「真理」を探究するものだと思います。
ところが、その「真実」や「真理」が、人間には到達できるようなものではないということがあるわけです。
つまり、「芸術」や「哲学」というのは、不可能なことを追求するという、人間にとっては極めて不条理で、不満足な作業の連続ということに成るわけです。
そこで、やっぱり達成感が欲しくなるわけですね。
その「達成感への渇望」が「芸術」と「哲学」において、共通して、本質が失われてしまった原因だと思います。

もともと、「芸術」は「現実(自然)」を表すことで「美しさ」を追求して来たわけですが、ある時から、それだけではもの足りなくなってきて、より「真実」に迫るようなものを表現しようとするようになります。
それが、印象派以前から続いてきて、現代の「抽象表現」に至った「現在の芸術の流れの源泉」だと思います。

ところが、その「抽象」が思ったほど自由でも簡単でもなかったので身動きが出来なくなってしまって、進むべき方向性を見失ってしまったというのが「現代美術」の現状だと思うわけです。

要するに、どうしていいのかわからなくなってしまったんだと思いますが、そんな無根拠な状態を無理やり肯定しようとしたために、「無根拠を自己肯定するための論理」が必要になって、「抽象以降の現代美術」には難解な論理がくっつけられるようになっていくことに成るわけです。

そして最終的には、「論理」の方に乗っ取られてしまい、「芸術」や「表現」が後回しにされるという本末転倒が起きてしまったということでしょう。

また、「哲学」においては、「真理」を探究するうえで、おそらく初めのうちは、自分たち人間のことや自分たちに見えている世界について探求していけば「真理」に到達できると思われていたのかもしれませんが、それでは「真理」の断片が垣間見えることはあっても、「真理」にまでは届きませんから、少しでも「真理」に近づきたかったんだと思います。
それで、どんどん難解になって行ってしまったんじゃないでしょうか?

でも、実際には、どんなに手の込んだ論理を立てたとしても、人間は「真理」に到達できませんし、本当のことを言えば近づくこともできないわけです。
それで、『もっともっと』とますます難解になって行って、最終的に「哲学」は「最も単純なことを最も難解に説明する学問」のようになってしまったんだと思います。

けっきょく「哲学」も「芸術」も「難解な論理」に乗っ取られてしまったんだと思いますね。
それで、本質を見失ってしまったことによって、「哲学すること」や「芸術すること」という、もっとも中心的な部分が失われてしまったんだと思います。


「芸術」の場合は、「芸術すること」が軽視されているわけではなく、前述のように、むしろ、軽視されているのは「芸術のを芸術すること」の中の「鑑賞すること」です。

しかし、その結果、創作者だけが肥大化して、自己顕示的な創作者や創作物だけが、人目を惹くように成ってしまっていて、「自己表現」と「自己顕示」が取り違えられてしまっていると思います。

そもそも「自己表現」とは、作者自身の中にある「真の姿」、つまり、もっとも「その人である姿」を、余さず、隠さずに表現することだと思います。
どちらかといえば、作者は「人に見せたくない自分」を表現しなければならなくなるということですね。
それに対して「自己顕示」とは、作者本人が「人に見せたい自分の姿」だけを強調して表現することだと思うわけです。
つまり、自分の中の一番いいと思っている(人がいいと言ってくれそうだと思っている)ところだけを表現することに成るわけです。

だから、「自己表現」と「自己顕示」は近いように見えて、まったく逆の方向性を持っているともいえるわけです。
そして、その二つが入れ替わってしまっているとすれば、「芸術の本質」が失われるのは当然のことだと思うわけです。


一方、「哲学」では、「哲学全体」が論理に走りすぎたために、その「論理」を競い合うことを「哲学すること」であると勘違いされているような気がします。
(これを『勘違いではない!』という人もいるんでしょうか?)

しかも、「哲学を哲学すること」の場合、その「論理」は「その人の論理」ではなく「誰かの論理」であるわけです。

それが「哲学を哲学すること」であることを前提にしているのであれば、つまり、それが「自分の論理」ではなく「他人の論理」であるということが前提に成っているのであれば、その「他人の論理」を使って論理を競い合うことに意味がないということがわかりやすくなると思いますが、それを「哲学すること」つまり、「自分の論理」であるとして考えてしまうと、その議論が「自分の論理」に基づいた「自分の議論」であると思ってしまうでしょう。
しかし、「他人の論理」をそのまま議論に転用するのだとすれば、それは「議論」ですらなく、まして「哲学」ではないと思います。

もしも、その人が、「ある有名な誰かの論理」を非常に正確に理解していたとしても、そこに「その人の論理」が全く加えられていなかったとすれば、それは「その人の論理」ではないでしょう。
そうなれば、それは「その人の議論」ではなく、「ある有名な誰かの議論」ということに成ります。
それは議論と言えなくはないでしょうが、「その人の議論」ではないでしょうし、「その人の哲学」ではないと思うわけです。

その上、そういうケースにおいて、そういう人がその「有名な誰かの論理」を正確に理解していることなどほとんどありませんから、そうなれば、もう、それは知識を羅列しているだけであって、ウイキペディアの記述を読み上げているようなものではないでしょうか? 

要するに、「芸術」においても「哲学」においても、「論理」に、重点を置きすぎたんだと思いますね。
それで、「本質」が失われる結果に成ってしまったんだと思います。

 ※実際には、「論理的」であることが問題なわけではなく、むしろ、問題なのは、
  「非論理的」であることの方が多いのかもしれません。
  「芸術」や「哲学」が、「真実」や「真理」を提示して見せることが出来ない
  ことの弁解として、「不必要に難解な論理」を使ってしまっていることに本当
  の問題があるんだと思います。
  そして、そういう時の「不必要に難解な論理」というのが、有り得ないほどに
  「非論理的」であったりするわけですね。
  


でも、これらのことには、さらに、根本的な原因があると思うわけです。
つまり、どうして「論理」に頼るようになっていったのか?ということですね。

おそらく、その原因とは、繰り返しに成りますが、「芸術」や「「哲学」で追究するものが、「真実」や「真理」といった根源的なものであり、それらがあまりにも純粋過ぎるために達成不可能なものであるということが問題なんだと思うわけです。
要するに、「芸術」や「哲学」において、その「本質」に向かうということは、「不可能」に向かうということであって、「達成」を捨てる意識が必要になる作業であるということです。

そして、その「不達成感」を補う意味で「論理」が使われてしまったんだと思うわけです。

「難解な論理」によって、「論理の迷宮」を築き上げると、結果的に、その「論理」の中に必ず、本人にも解析しきれないような部分が出てきます。
当然、他人に説明することもできません。
すると、そこだけは、誰からも見えなくなるなるわけです。
「論理の迷宮」の中にそういう「死角」を作り上げて構築しきってしまうと、もう、ほとんどその「迷宮」が崩されることはありません。
「論理の迷宮」についての矛盾や疑問を追求していくと、どこかの時点で、必ずその「死角」に行き当たります。
そこだけはだれにも見えませんから、それ以上はだれにも追及できないわけです。
だから、崩されることはありません。

本人にも見えなくなってしまうわけですから、本人ですら崩せません。

つまり、それが「ある種の達成」となるわけです。
それは、厳密に言えば「達成」とは言えないでしょうが、「達成感」を味わうことはできるということでしょう。
このことによって、「芸術の世界」と「哲学の世界」において「論理」が不自然なくらいに偏重されてきたんだと思います。

 ※厄介なことに、この「論理の迷宮」は、その気に成りさえすれば、誰にでも築き上げることが出来るものなのです。


ただ、これも「論理」自体の問題ではなく、「論理の使い方や目的」が本質から外れているということが問題なんだと思います。

現在の「芸術の世界」と「哲学の世界」を客観的にみると、どう考えても不必要に難解な論理が横行しているようにしか見えませんが、「それぞれの世界」の中にいる人達にとっては、それこそが「芸術の世界の常識」であり、「哲学の世界の道理」なわけで、そこに疑問を持つことは、「それぞれの世界」からの撤退を意味するわけです。
(「論理の迷宮」が、鉄壁の要塞のように作用してしまうわけですね)

だから、「芸術の世界」には「芸術の世界の常識」を持った人しか居続けられませんし、「哲学の世界」には「哲学の世界の道理」を重んじる人しか居続けることが出来ません。
それで、それらの常道がさらに強化されて行ってしまうというわけです。

その結果、現在では、その「不必要な難解さ」や「無意味な競争」に対して違和感を感じる人すら居なくなりつつあります。
これは、それぞれの「世界の中」でも言えることですが、それらの「世界の外」にいる人たちでも、そこにあえて疑問を投げかけ、問題を提起しようとする人は、もう、ほとんど居ません。
要するに、諦められてしまったということでしょうね。

それぞれの「世界の中」に居る人は、それが当然だと思っていますし、そこに居心地の良さを感じていますから、そこから抜け出そうとはしませんし、決してその安全な場所を変えようとはしません。
また、「世界の外」に居る人が、そこに一石を投じるような機会はほとんど与えられていませんし、もし、何らかの疑問を提示したとしても、「難解な議論」に巻き込まれて、「絶対に崩せない論理の迷宮」に引き込まれますから、結果的にはかき消されてしまって、なんの影響も残せません。

そして、今、「芸術」と「哲学」という二つの分野は瀕死の状態にあると思うわけです。

現在、「芸術」と「哲学」において出来ることは、「不可能の追求」に立ち返ることだと思います。
その「不可能性の追求」という作業の過程で、現れてくる「迷い」の中に最も純粋な「その人性」が発露します。
その「迷い」の表現こそが、現在「芸術」と「哲学」において指標と成り得る唯一の「可能性」を持つものだと思います。


話が長くなりましたが、この辺で終わりにします。

もはや、「芸術」と「哲学」においては「達成」を求める必要はなくなりました。
もう、「競争」は不要であり、勝つことにも、上昇することにも何の意味もありません。
「達成」のないところに「競争」は存在しません。

自己の内に向かって問い続け、その「不達成」の中の「不可能性」に現れる「迷い」を表出することだけが、現在「芸術」と「哲学」に示すことが出来ることではないかと思います。

つまりは、今、「芸術」と「哲学」に言うことが出来ることといえば、ただただ、『できませんでした』と言うことなのではないのでしょうか?
そして、その『できませんでした』を言うために、どれだけの力を使い、どれだけの時間を費やしたのかを示すことぐらいしか、「できること」などないのではないのでしょうか?と。


まぁ、そんな風に思ったわけなのです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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