FC2ブログ

「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」



現代の絵画は、「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」という二つの路線に、かなりクッキリと別れてしまっていると思うわけです。

 ※この記事は「美術館で見る絵」VS「家で見る絵」という形で書いていますが、
  私自身は「芸術が創り出す幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、「日常空
  間」の中に「非日常空間」を生み出すことが出来れば、それが理想的だと思
  っております。
  つまり、「美術館=非日常空間で芸術を鑑賞すること」と「家=日常空間で芸
  術を鑑賞すること」が、いろいろな意味でミックスされていけば、面白くなるん
  じゃないか?と思っているわけなんですねぇ。

要するに、「家に飾るような絵」と「美術館で見るような絵」と言うことになるわけですが、この二つは、「インテリアとしての絵」と「芸術表現としての絵」と言ってもいいと思います。

これをさらに言い換えれば、「何の気なしに見ても疲れない絵」と「見るとチョトつかれる絵」と言うことになります。


この二つが、別れてしまっていることは、ある程度仕方がないことだと思うのです。

やっぱり、目的が違うというところがあるわけですし、目的が違うものは、ある程度は別れていたほうがイイような気もします。
(やや、離れ過ぎのような気もしますけど)


しかし、この「二種類の絵」が、実際には「違うもの」に成っているのに、混同されていることが非常に多いと思うわけです。


これは、「芸術」や「絵画」の歴史を考えれば当然のことで、もともと「絵画」は「インテリア」などの装飾品の一種として成り立ってきたわけで、そこから、徐々に「芸術(表現)」としての性質を持つようになっていったのでしょうから、ある時点から、突然「芸術」に成ったということでは無いわけで、「芸術性」を持つようになった後も、長い間「インテリア性」を同時に要求され続けてきたわけです。


それが、「芸術の20世紀」に入ったころからは、「絵画」などに「純粋な芸術性」が求められるようになっていったことで、徐々に「インテリア性から離れた絵」が現れてきたんだと思います。

と言っても、「インテリア性から離れた絵」が出てきた後も、「インテリアとしての絵」は存在し続けていたわけですし、需要もあるわけですから、当然高く評価されるものも出てくるわけで、現在に至るまで、常に「芸術の流行」はこの「二種類の絵」の間を行ったり来たりしてきたと言ってもいいと思います。

まぁ、そんな状態ですから、この「二種類の絵」が混同されているのも当然と言えば当然ですのことですね。


いずれにしても、この「純粋な芸術性」という需要を満たすために、「美術館」と言う「非日常的な空間」が、一般化していったんでしょう。


そして、こんどは、その建てられた「美術館」に見合うような「作品」が、「創作者」の側に要求されるようになっていったというわけです。


その後は、「美術館」が巨大化すれば、その「巨大化した美術館」に見合う「作品」が、「美術館」が近代化すれば、そういう「近代的な空間」に見合うような「作品」が要求されるようになっていくという状況に成っているともいえるわけです。


つまり、もう「芸術」が主導しているのではなく、「メディア」が主導しているというくらいで(これは、「美術館」に限らず、「画廊」でも「マスコミ」でも同じようなことが言えると思います)、「芸術」は、それに合わせてついて行くのに精いっぱいというような状態と言えば言い過ぎかもしれませんが、「創作者」が「メディア側の要求」に影響されている、あるいは、「メディア側の期待」に応えた「創作者」が生き残っていくというのは事実でしょう。


そして、この「メディア側の判断」が、やや「客観性」や「純粋性」を欠いている場合があるわけです。

つまり、もともと「純粋な芸術性」という需要を満たすべく建てられた「美術館」であったハズが、その「美術館」によって「芸術の純粋性」が損なわれようとしているというところがあるわけです。


「インテリアとしての絵」に「芸術の純粋性」を求めるのには、もともと無理があるでしょうし(目的からして違うわけですから)、「芸術表現としての絵」は「非日常空間を必要としますから、そういう空間を運営している「メディア」の影響を避けられません。

しかし、そうなると、どちらにも「純粋な芸術」は無く成ってしまうわけです。


「美術館」はもう少し「開かれた空間」であってもイイように思います。

例えば、「無選別の作品」を展示するような日があってもいいと思いますし、価値の確定していない作品を買い上げる勇気を持つべきだと思います。


その為には、「美術館」が「新たな市場」を創り出す必要があります。

閉鎖的になっている「絵画市場」をオープンにして行くためにも、「美術館」のような公共性を持った機関が「新たな市場」を作り上げる必要があると思います。


また、「キュレーター」や「学芸員」と言った考え方も変えていった方がイイんじゃないでしょうか?

高額な有名作品を買うよりも、安い「価値の確定していない作品」をたくさん保有して、ランダムに展示していくという考え方であれば、専門知識を持っていない人間が選んでも問題ないわけで、ある程度のレベルにある作品をたくさん展示するというやり方もあっていいように思います。


選別の規準は「非日常空間で見る絵」ですね。
(絵に限りませんけどね)

この規準で選んでいないからツマラナクなるんだと思います。
この規準を打ち出すだけでかなり面白くなると思いますよ。

まぁ、ツマラナイ時も多くなってしまうでしょうけどね。
それは、有名な画家の展示でも同じでしょ?


少なくとも、そういう「ハズレ」を楽しむっていうのも「芸術的な視点」なんじゃないのかなと。
いや、それどころか「ハズレ」こそが、実は最も「非日常的」と言ってもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。

※ここに書いたことは「芸術の現状」を踏まえた上でのことで、私個人といたしましては、「日常的な空間」の中に「非日常的な芸術」(これを「幻想」と言ってもいいと思います)が持ち込まれるように成ることや、そういうことが常識になっていくことを希望しておりますです。ハイ。




「おウチ絵」と「おシロ絵」



一般的な「庶民の住宅」に飾るような絵と、宮殿や昔のお城のような、「すごく庶民じゃない場所(今で言えば、「大きな美術館」ということに成るんでしょう)」に飾るような絵を、同じように「絵」と言う単語で現してもイイもんなんでしょうかねぇ。

イイ・ワルイと言うよりは、その二つの「意味」が、かなり違うんじゃないのかなと思うわけです。


もちろん、空間的な広さや高さのチガイもありますが、「生活感のない場所」と「生活のための場所」というチガイもあるわけで、「その場所の持っている意味」が違えば、「同じ絵」でも「同じ意味」には成らないと思うわけです。


絵を描く人は、この「おウチ絵」と「おシロ絵」のどちらを選ぶのか?
という選択を迫られている部分があると思うわけです。


これ、要するに、「一般人の方を向いて描くか?」
それとも「専門家の方を向いて描くか?」という二者択一だと思うわけです。


もちろん、「専門家」も住宅に住んでいますし、「一般人」だって美術館に行くときはあるでしょうから、そこにキッパリとした境界線が引けるわけではありませんが、少なくとも、自分がどちらを向いて描いているのか?という問いに、即座に答えられるようにしておくということくらいは必要なんじゃないかと思うわけです。


現在の創作者や鑑賞者は、この「おウチ絵」と「おシロ絵」を、時と場合で使い分けないと成らないことがあるかと思いますが、そういう必要に迫られてとる行動とは別に、意識として、自分がどちらを向いて描く(見る)のか?ということをハッキリさせておくというのは必要なことなんじゃないのかなと。

まぁ、そんな風に思っているわけです。


ちなみに、私は「おウチ絵」を「一般人」の方を向いて描いていきたいと思っていますが、そういう「おウチ絵」の範囲が、「インテリア的な絵」から「自己表現としての絵」に、少しずつ広がって行くことを前提として、そちらを選択しています。


「生活の場」にも、「現在の芸術」の本質である「自己表現」」が、入って行くように成っていったら、きっと、いろいろな意味で、少し良くなるんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風にも思っているわけですね。



「芸術」は「最小限の物質」で、「最大限の心理的な作用」を生み出すということ



最近の美術を見て感じることの一つに、「作品」や「作品の展示」が大規模化しているということがあるわけです。


個々の作家単位の作品でも、けっこう「大規模化」を感じることがありますが、「アート系のイベント」と成ると「町を挙げて」のようなイメージで、「都市規模」と言う印象です。


そういうのがワルイとは思いませんし、「エンターテイメント」としては当然の成り行きなんだと思います。

ただ、その路線で行き続けると、「芸術」としての方向性を見失ってしまうんじゃないかとも思うわけです。
確かに、「芸術」にも「エンターテイメント」としての性質はあるとは思いますが、やっぱり「エンターテイメント」は「芸術(美術)」の本質からは、やや外れていると思うわけですよね。


現時点で、「芸術好きな人」に、『どんなことをきっかけに「芸術好き」に成ったんですか?』と聞いたら、きっと、多くの人が「どこかでたまたま見た一枚の絵」みたいな「ごく小さな出会い」をあげるんじゃないでしょうか?

少なくとも、現時点では「〇〇トリエンナーレ」のような大規模な「アート系のイベント」や、特別な展示場所にいかないと見られないような「大規模な作品」を挙げる人は少ないでしょうね。
(そういうのは「芸術好き」に成った後で行く人が多いと思います)

でも、このまま「芸術」が「大規模化」して行けば、今後は「アート系のイベント」などを「芸術好きに成ったきっかけ」に挙げる人が増えていくんでしょう。


そう言う人が増えること自体ががワルイとは思いませんが、反対側の人たち、つまり、それまで「ごく小さな出会い」を挙げていた人たちは、どこへ行けばいいんでしょう?
このまま「芸術の大規模化」が進んでしまうと、「小さな出会い」に心を奪われたことで「芸術好き」になった人たちが、行く場所がなくなってしまうんじゃないかと思うことがあるわけなのです。


そちらの人たちの行き場も保存されて、それでいて「大規模アート好き」の人たちも、両方とも増えるというのは、やはり、実際上はあり得ないことだと思います。

どうしたって、片方が増えれば、もう片方は減りますよね。
しかも、片方が爆発的に増えていこうとしているわけですね。

今はまだ、「ごく小さな出会い」をきっかけに「芸術好き」に成った人たちが、「芸術好き」になった後で、そういう「アート系のイベント」に行くというルートで人が動いていますから、「きっかけ」として「大規模アート」を挙げる人は少ないでしょうが、これからは爆発的に増えていくでしょうね。
(動員数が多いですからね)


何が良くないのかと言うと、「芸術」が方向性を見失ってしまうような気がするわけです。

やはり、「芸術」と言うのは、『「最小限の物質」で、「最大限の心理的な作用」を生み出すものである』と言いたいわけです。


たとえば、「絵」でも「音楽」なんかでも、そういう「芸術系」が好きな人は、生涯そういうものを愛し続けたりもするわけですが、よくよく考えてみると、「好きに成ったきっかけ」は、ただ単に、「テレビで見た」とか、「ラジオで流れてた」とか、それどころか「そこら辺にかかっていたカレンダーの絵」だったりと言うようなこともザラにあるわけです。

しかも、さらに、よくよく考えてみれば、生涯を通じて、愛し続けた「絵」や「音楽」の中でも、『けっきょく、本当に好きだったのは「その最初の一枚」や「その最初の一曲」だったんじゃないだろうか?』と思ったりすることも、まぁ、ちょくちょくあったりするわけです。


つまり、「芸術」と言うのは、物質的には「最小限」で、その「最小限の物質(作品)」が人の心に与える影響が非常に大きくて、とても長く持続する、そういう媒体なんだと思うわけです。

そして、その「物質的な小ささ」と「心理的影響力の大きさ」とのギャップ、こそが、、「芸術」に独特のインパクトを与えているように思うわけです。


ところが、物質的に大きくなってしまうと、そのギャップが無くなってしまうわけで、そうなると、どうしても物質性のより強いメディアとの相対関係において、「芸術の必要性」が薄くなってくるわけですね。

まぁ、本質から外れていけば、それが求められなくなるのは当然だと思います。
(実際にそうなってきているのかも?今、芸術って意外なほど求められてないのでは?)


「エンターテイメント」の領域は、ほかのメディアでもうめられると思いますが、「芸術」の領域は「芸術」でしか埋められないと思います。


そんなことから、出来れば、もう少し「小規模化」して行ってもらいたいもんだなと。

普通の生活の中で「一枚の絵に直面する機会」が増えていったらいいんじゃないのかなと。
(これを、私は「幻想の日常化計画」と呼んでいます)


そんな風に思っております。



「幻想の日常化計画」



「幻想」と言うと、どうしても「非日常」というイメージが強くなってしまうわけですが、わたくしといたしましては、「幻想」を、「日常化」できたら少しイイんじゃないかな?と思っているわけです。


要するに、「芸術」を生活空間の中に取り込むことが出来れば、「幻想」を「日常化」することが出来るんじゃないか?ということなんですね。

  ※「絵」を壁に掛けるということは、「日常生活」の中に「幻想スポット」を
   出現させることなんだと思います。

たとえば、旅行に行ったり、テーマ・パークみたいなところへ出かけたり、もう少しお手軽なことで言えば、映画館に映画を見に行ったりすることで、「非日常」が「生活」=「日常」の中に取り込まれるということがあるわけですが、そういうの、ちょっと手間ですよね。

まぁ、大した手間でもないので、それでいいということなんでしょうが、手間だけの問題でもなくて、どちらかというと、「人」が「日常」から「非日常」の側へ移動するんじゃなくて、「幻想」=「非日常」を「日常」の側へ移動させられたら少しイイのかな?っていうことなんですね。


「人」が移動するタイプの「非日常」を「リゾート」というんだと思います。
それに対して、「非日常自体を移動させること」は「リクリエーション」に近いような気がしますが、ここでは、さらにもう少し、それを進めて「白日夢」のような「日常の中に浮かび上がる幻想」と言うイメージのことを言っています。

そういうイメージで、「非日常」を「日常」の側へ移動させようというわけです。


一見、「日常の側」に移動してしまったら、「非日常」ではなく成ってしまうようにも見えますが、それは、「リゾート・タイプの非日常」つまり、「人が移動するタイプの非日常」に関して言えることで(確かに「リゾート地」で働いている人にとって、そこは「非日常」ではないんでしょう)、「非日常自体を移動させるタイプの非日常」においては、「その非日常」が「日常側」に有るか「非日常側」にあるかは問題ではなく、「その人」が「その非日常」を感じ取ることが出来るかどうかが問題になってくるんだと思います。

つまり、「幻想」の中に浸ることが出来るか?ということですね。


ただ、人間はその場の雰囲気に左右されされますから、「非日常空間」の中で「非日常らしく演出された時」の方が「幻想」に浸りやすいということはあるでしょう。

でも、「日常空間」の中でも、きっかけに成るモノさえあれば、割と簡単に「幻想」に浸ることが出来ると思うわけです。


そして、「芸術作品」がそういう「きっかけに成るモノ」として適していると思うわけですね。


たとえば、「本を読む」なんて言うのも、このタイプの「幻想の日常化」だと思うんですね。
「文学」も「芸術」ですからね。

「リゾート・タイプ」との違いは、「最小限の物質的要素」で「最大限の精神的距離」を移動できるということです。
(本を開いたとたんに物語の中の時代や場所へ移動できるわけですから)


「リゾート・タイプ」はやっぱり「物質的な要素」を必要としますよね。
それを「贅沢」と呼んでいるところがあると思います。
(「精神的な贅沢」もありますけどね)


でも、「美術作品」も「本」に負けないくらいに「幻想の日常化」に適していると思うんですが、いまは、「美術作品」の方は、まったくと言っていいほど、そういう機能を果たしていませんよね。

一言で言えば、「美術作品」が高すぎるんだと思います。


高額すぎるので、「日常化」できないわけです。

高額であるために、そうヤスヤスと買えないから「日常」に成らないし、高額であるために、無理して買うと「非日常」=「特別なモノ」になってしまうわけですね。


それで、仕方なく「美術館や美術イベントに行く」ということに成るわけですが、それでは、結果的に「人」が移動してしまっていますから、「リゾート・タイプ」になってしまうわけです。


そうなると、「芸術」が「旅行」や「テーマ・パーク」と同列に並べられることになるわけですが、「芸術」は、そちらの「リゾート・タイプ」には、必ずしも、適していないわけです。

要するに、『パァ-っ』と発散するような娯楽性についていえば、エンターテイメント性の高いほかのジャンルの方が適していると思うわけですね。

「芸術」は、本質的には内向的なジャンルだと思うんですが、どうでしょうか?
今は、そういうところを誤魔化して、ミョーに明るい振りをしているところがあるんじゃないかと思います。
『芸術って、こんなに楽しいんですよ!』みたいな演出ですね。

そういうのは、長くは続かないと思いますね。


もちろん、そういうところに行って、そういう場所で見ても(例えば美術館のような)、「その人」が幻想に浸ることが出来ればそれでいいんでしょうが、せっかく、「幻想の日常化」に適しているのに、それを無にしてしまうのもオシイような気がします。


それに、「本」が図書館でしか読めないとしたら、と考えると、それがいかに不自然な状態かがわかるんじゃないかと思いますよ。


要するに、「売り手の都合」や「市場の原理」によって、「鑑賞者」の「幻想を日常化する機会」が踏みにじられているということなんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけですね。



「幻想大百科図鑑」という構想



いま、「幻想大百科図鑑」と言うのを作ってみたいと思っているんですよねぇ。
つまり、幻想の世界のことをいろいろ集めて、図鑑にしたら面白いだろうなということですね。

 ※こういうのは、他でいくつか見たことがあって、それぞれにオモシロイと思っていた
  ので、自分もやってみようかと思ったという次第です。
  こういうパターンの「図鑑」というのは、たいてい、かなりインチキくさくて最高にオモ
  シロイので、『それじゃあ、ひとつ自分も』と思ったわけですね。

これは、数か月前からやっている背景に金箔を使った絵の習作を見ている時に思いついたもので、今、このブログのプロフィール画像に使っている花みたいな絵の一連のシリーズ(?)を見ている時に、ふと、思いついた「題」が『金塊の中に自生する植物』という「題」だったんですが、その植物に『ヘンテコな名前を付けてもいいんじゃないか?』ということから、その「ヘンテコ名前」を考えているうちに、止まらなくなって、いろいろな「ヘンテコ名前」がたくさん出来てしまったので、『これをまとめて図鑑に出来るかも?』と思ったわけです。

まぁ、よくもこんなくだらないことを思いつくやつが居るもんだと思います。
(『あぁ、自分か?』)


そんなわけで、「幻想大百科図鑑」という構想です。

  ※非常に、バカバカシイので要注意

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『黄金空間に出現した「アマエリミ」の花束』:この前までプロフィール画像にしていた絵です。

『金塊の大地に自生する「タマロ・ケララの花』:今このブログのプロフィール画像に使っている絵です。

『金流大気の中に伸びる「ヤオマキリ」の枝』:上の二つと似たようなモノです。

『虹色銀河に現れた「ゴールデン・ホール」の中で生息できる唯一の植物「パラサウルス・フラワー」』

『金泥流の渦に翻弄される「ポリル・エティオン浮草」』

『金岩洞窟に繁殖する「ネヴァラジュール苔」』

『黄金丘陵の斜面に群生する「シコロユメイ草」』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

バカです。
しかも、まだたくさんある!

まぁ、前に書いた「カプセル画」と同じで「アソビの絵」だと思ってますから。

『ハハハ、こんなものを本気でやるわけないでしょう?』

「それでもバカには違いないですよ!アナタ」

『・・・・・・・』





「仮想現実」と「現実の中の幻想」



「仮想現実(バーチャル・リアリティ)」という言葉は、いつの間にか当たり前になってしまいましたが(最近では当たり前すぎてあまり使われなくなったような気さえする)、この言葉が使われるように成った頃は、けっこう最先端なイメージがあって、CG合成された映像やそういう映像で創り出された世界という印象があったわけです。

でも、今になって考え直してみると、必ずしもそういう「デジタルな感じ」に限ったものでもないような気がしてきたわけです。
そして、そう考えると、実は「絵」って「元祖・バーチャル・リアリティ」なんじゃないのかなと思えてくるわけです。

 ※ここで言う「絵」とは手描きで描かれた「絵」という意味です。
  デジタル画やCGなどは外して考えます。
  それから、漫画やイラストなどのように必ずしも「一枚の絵」として独立している
  とは言えない絵は、ここでは含まないものとします。

「絵」はもともと「平面」の中に「現実には存在しない世界」を創り出すものですから、「仮想現実」と言って問題ないと思います。

「バーチャル・リアリティ」という言葉は、「写真」や「実写映像」に対する言葉として出てきたんでしょうから、それで「コンピューター・グラフィックス(C.G.」などのデジタル画像のイメージが強く成っているんだと思いますけど、実は、そういう「画像を合成する作業」を手でやっているのが「絵」であって、手法が違うだけなんだと思うわけです(動かないけど)。
しかも、「絵」はいつからあるのかわからないくらい昔からあるわけですから、「元祖」であることにも間違いはないと思うわけですね。

それはさておき、今はゲームなどに使われる「C.G.・アニメーションによる仮想現実」が、まさに全盛期と言えるほどの繁栄ぶりですが、そろそろ、その繁栄ぶりも終わりに近づいているんじゃないかという気がするわけです。

なぜかと言えば、『世界を一周しつつあるから』ということなんですねぇ。
つまり、日本から発信された(と言っていいのかな?)「アニメ&オタク文化」が、世界中に広がって、そろそろ世界を一周しつつあるんじゃないかと思うわけです。

まだ「オタク文化」が終わらないのは、そこに逃げ込んでいる人がたくさんいるからだと思うんですね。
まぁ、「現実逃避」ということです。

「アニメ&オタク文化」に「現実逃避的な側面」があるのは間違いないことだと思います。
だから、適度に「現実」過ぎない「仮想現実」の世界に逃げ込むんだと思いますよ。
これは、「アニメ&オタク」に限らず「芸術」や「創作」全般に言えることかもしれませんけどね。

いずれにしても、「現実逃避」自体が、そんなに悪いことだとは思いません。
どちらかと言えば、逃避したくなるような「現実」の方に問題があるような気もしますから。
それに、「リクリエーション」と言われるものには、ほぼ全て「現実逃避」的な側面があると思いますから、それを否定してもあまり意味がないと言う気がします。
要するに、「現実逃避」と「気分転換」の厳密なチガイなんてないということですね。

ただ、そこで問題なのは「戻ってこれなくなること」です。
まぁ、これが「現実逃避」の問題点でもあるんでしょうね。
つまり、「仮想現実」の世界に行ったまま「本当の現実」の世界に戻ってこれなくなってしまう人が増えていると思うわけです。

逆に言えば、簡単に戻ったり行ったりできるなら、大きな問題はないような気もするわけですが、やはり、完全に「オタク化」してしまった人はなかなか戻って来にくくなると思いますね。
生活に支障が出て来るって言うんですか?まぁ、そんなことです。

要するに、「現実」の方がその人にとっての「異世界」になってしまって、「仮想現実」の方が「実世界」のような錯覚が生まれてしまうんだと思います。
そして、その状態を続けていくと「現実」が「うっとうしいモノ」にしか思えなくなってしまうんだと思うわけです。

まぁ、やっぱり「現実」ですから、嫌なこともありますし大変だったりもするわけで、そういう「メンドウ」が一切ない「バーチャルな世界」と比べると、「うっとうしい」には違いないわけです。

最近では、『日本の「アニメ&オタク文化」は世界にも誇れるような独自の文化である』という風潮があると思いますが、その点について誰かが責任を取ってくれることは無いわけですから、戻ってこれなくなってしまう前に考えておいても損はないと思いますね。
要するに、いわゆる「アニメ&オタク文化」に代表されるような「バーチャルなモノ」というのは、戻ってこれなく成ってしまう確率が高いんじゃないかということなんですね。

そこで、はじめの話に戻るんですが、つまり「絵」ですね。
もしも、「絵」が「元祖・仮想現実」であるならば、「バーチャル・リアリティ」の代わりに成るんじゃないかと思うわけなんですね。

もちろん、すでに「オタク化」してしまった人たちは、「絵」なんかじゃ納得しないんでしょうが、まだ完全に「オタク化」していない人、すなわち「戻って来られる人」や、次の世代の人であれば「絵」でも代替可能だと思います。

「絵(タブロー)」は「仮想現実」でもありますが、「モノ」でもありますから、完全な「非現実」ではありえない所があると思います。
だから、完全に戻ってこれなくなってしまうということは無いんじゃないかと思うわけです。
(それで「オタク」の人にはピンとこないんでしょうね?)

要するに、「絵」には「肉体」があるんですね。

いま言われているところの「バーチャル・リアリティ」には、「肉体的な要素」を限りなく削り取ってしまう傾向があるわけです。
だからこそ、「オタク」にとってハマりやすいんだと思います。
そして、その「肉体的な要素」こそが「現実感」でもあるわけです。

つまり、「絵」は「モノ」でもあることで、完全な「仮想」ではあり得ないのに対して、「情報」であって「モノ」ではない「デジタルなバーチャル」はどんどん「現実味」をそぎ取っていくことが出来てしまうわけです。
その結果が「戻ってこれなくなること」なんだと思うわけですねぇ。

そういうことからも、「絵」というメディア(普通の絵ですね)を復活させていった方がいいんじゃないかと思っているわけですが、この場合の「絵」にはある程度の条件があります。

まず、「平面であること」ですね。
それから、「タブロー」であること、言い換えれば、「一枚の絵」として成り立っていることです。
もう一つは、やや不明瞭な言い方に成りますけど、「苦労して描かれた絵であること」です。

これらの条件と言うのをまとめると、「普通の絵であること」です。
まぁ、言ってみれば「昔からあるスタイルの絵」ということなんですね。

どうして「昔流の普通の絵」じゃないとダメかというと、「昔流の普通の絵」こそが、「仮想現実的な要素を持っていて、尚且つ肉体を持っている絵」だからです。
現在の芸術において、「普通の絵」として処理(排除)されるような絵というのは、必ずと言っていいほど「肉体を持った絵」なんですねぇ。
別の言い方をすれば、「肉体を持った絵」は「現代美術」とは扱われない確率が高くなるということです。
逆に言うと「肉体を失うこと」でいわゆる「現代美術」っぽく成るということがあるわけです。

つまり、「物質感」を消して、スマートにサラッと分かりやすく説明された絵は、平面であっても「現代美術」っぽくなる傾向があるということです。
これは、概ね「イラスト」や「マンガ」の性質と同じようなところがあるわけです。
だから、こういったモノでは、ここで言うところの「バーチャル」の代替にはなりません。
ほぼ同じジャンルですからね。

そういう「デジタルなバーチャル」に近いスタイルを、「芸術」において代表しているのが「ポップ・アート」と言えると思います。
「ポップ・アート」自体は半世紀も前のスタイルですが、現在形の美術は、すべてこの「ポップ・アート」やその前から続いている「コンセプチュアル・アート」の焼き直しであると言ってもいいくらいだと思います。

そして、これら二つの「アート」の特徴こそが、「デジタルなバーチャル」の特徴ともほぼ重なっているわけです。
まぁ、だからこそ「バーチャル」がいま全盛期を迎えているわけですけどね。

ということは、それらにも「戻ってこられなくなる性質」があるということです。
だから、やっぱり「バーチャル」の代わりにはなりません。
だから、「昔流の普通の絵」じゃないとダメだろうと言うことなんですねぇ。

「現代人のオタク化」と「バーチャル・リアリティの繁栄」と「芸術のポップ化」は、「肉体性=現実感の欠如」という点において共通性があると思います。
これらが同時進行的に起きてきたのは、偶然ではなく、過激化する「競争社会」が生み出し続けている「工業化」や「効率化」などのような「人間性」を無視した現状が「人間」を阻害しているために、「人間」がそこから「逃避」せざるを得ない状況に直面していて、しかも、その「現実逃避せざるを得ないような人」の比率が日増しに増えているということと深く関係していることだと思うわけです。

つまり、「社会による人間疎外」という「原因」があっての「結果」として現れてきているのが、「現代人のオタク化」であり「バーチャル・リアリティの繁栄」であり「芸術のポップ化」なのだと思うわけです。

しかし、「芸術」と言うモノを「社会現象」の「結果」としてあるモノではなく、「原因」となるようなものとして考えた場合は、これでは本末転倒だと思うわけです。
やはり、「芸術」が「原因」となるには、このような現状を崩して、「人間」が「阻害されるモノ」ではなく「尊重されるモノ」に成るような方向性を示す必要があるんだと思います。

そんなことから、「芸術」は人間的であり肉体的である必要性が出てきているんじゃないのかなと。

そして、さらにそういう「芸術」が創り出した「肉体性を兼ね備えた幻想」を「現実的な日常」の中に取り込んでいけるように成れば、少しいいんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけなのです。




「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる



『芸術は美術館で見るもの』というのが、今は一般的な考え方なんじゃないかと思いますけど、今後は『芸術は生活空間で見るもの』、もう少し詳しく言うと『芸術は日常の中に非日常空間を創り出すもの』という考え方が重要になっていくんじゃないかと思っているわけです。

今は「見る人」が美術館などの「非日常空間」に移動して「芸術」を鑑賞しているわけですが、その移動の方向を反転させて「芸術」を「見る人の日常」に持ち込むことで「見る人の日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「芸術」が人間にとって一定の価値を提供することが出来るように成るだろうと思うわけです。

 ※「芸術」にとっては、「価値」よりも「意味」が重要だと思います。
  言い換えれば、「役に立つこと」ではなく「純粋さを追求すること」
  が「芸術」の本来の姿だと思うわけですが、それでも、「価値」だっ
  てあったほうがイイには違いないわけです。
  つまり、人間にとって実質的に役立つ「価値」ですね。
  「芸術」がそういうモノを追求するために「芸術としての純粋性」を
  失ってしまうことは本末転倒だと思いますが、「芸術」が「芸術」の
  範囲内で「人間」に貢献しようと考えることには、「価値」があると
  思いますし、それは、「芸術の意味」でもあると思います。

  まぁ、早い話が、「結果的に発生する価値」はあった方がいいという
  ことだと思います。

現在の日本では、一般庶民の住宅で、『芸術だな』と思うようなモノを置いている家って少ないと思うわけですねぇ。
まぁ、複製品とか「インテリア・デザインや工芸品としての芸術」ということではなくて、「一点物の個人作品」であって、しかも『これは純粋な意味での芸術を追求して作りました』というような、いわゆる「ホンモノ」っていうことですけどね。

 ※有名・無名・とは関係ありませんし、もちろん値段とも関係ありません。
  自分で創作したモノや、友人や知人が創作したモノなんかも含まれると
  いうことで考えたとしても、そういうものが飾られている家ってあんま
  り見ないですよねぇ。
  これ、ちょっと寂しい気がするんですが、どうなんでしょうね?

こういう話で、『ヨーロッパなどの住宅では「芸術」が生活の中に溶け込んでいる』ということを聞いたりもしますが、それとは少し違う話だと思います。
確かに、日本の住宅に比べると、そういう国の住宅に絵がかけられていたりすることは多いという話を聞きますが、おそらくそれは「インテリアの一環として飾られている絵」であって、今ここで言うような『芸術を日常空間に持ち込んで、そこに非日常空間を創り出す』という意味ではないと思うわけです。

だから、これは日本の住宅事情とはほとんど関係が無い話ですし、また、日本人の「インテリア感覚」や「生活空間の演出に関する意識」の話でもなくて、もう少し根本的な意味での「芸術鑑賞に対する姿勢」についての話です。
つまり、「現在、芸術が置かれている位置」と「現在、人間が立っている位置」の間で、『どういう「芸術鑑賞」を模索していこうか?』というような話であります。
まぁ、「現在における芸術鑑賞のスタイルについての提案」みたいなものだと思っていただければいいんじゃないでしょうか。

さて、なんで「日常空間」に「芸術」を持ち込むことが「芸術の価値」に成るのかということなんですが、それは「現代社会」がある種のユガミを抱えていることや、そのことから「現代人」が常に「ストレス」を感じて生活せざるを得ない状況にあるということと深く関係しています。

 ※ここで言う「ストレス」とは、単なる「負荷」ではなく、『どっちに行って
  も逃れられない閉塞感』のようなものです。
  主にダブル・スタンダードやダブル・バインドによって産み出される
  「精神的な閉塞感」を指しています。
  要するに、「現代人」はいつも何かと何かの間で挟まれていたり、引
  き裂かれていたりして、片方に近づけば片方からは遠ざかってしまう
  という、ジレンマの中で生活しているということですね。

  このことこそが、「芸術」が20世紀に入った頃から大きく変貌したこと
  の、ひとつの原因でもあるんだと思います。

「現代人」が「ストレス」を感じて生きているということに異論がある人はそう沢山は居ないと思いますが、その「ストレス」を『昔からあったんじゃないの?』と思っている人はけっこう居るんじゃないかと思います。

もちろん、いつの時代にも、何らかの「ストレス」があったのは間違いないと思いますが、「現代のストレス」は「現代特有のモノ」だと思うわけです。
それは、「精神的なストレス」ということですね。
「ストレス」自体が精神的なものなんでしょうが、「現代のストレス」は「精神と精神の摩擦が生み出すストレス」だと思うわけです。

昔は、主に「肉体的な負担」を、人間が「重荷」と感じたときに「ストレス」が発生していたわけですが、現在は「肉体的な負担」が全くない場合にも「ストレス」が発生するようになっていて、しかも、その「精神的なストレス」が「肉体的な負担」よりもはるかに大きくなっているわけです。

ちょっと前の時代(50~60年前くらい?)までは、その「精神的なストレス」も「肉体的な負担」とだいたい同じくらいの大きさだったような気がしますが、この半世紀ほどの間に、社会が生み出す「精神的なストレス」は膨張し続けて、今に至って、それが「人間の限界点」」を超えてしまったという感じがあるわけです。
(100年以上前は、「ストレス」は、けっこう単純なものだったと思いますね)

とは言え、そういう中でも生きていかねばなりませんから、「ストレス社会」の中で「人間」は常にフラストレーションを抱えて生きていくことに成るわけで、当然、その「はけ口」を求めているわけです。

まぁ、悲しいことではありますが、こう言うことから、その「はけ口」として「イジメ」や「虐待」や「~ハラスメント」などの現象が起きてくるわけで、オオモトのフラストレーションが緩和されない状況のまま「はけ口」だけを何とかしようとしても、なんの効果もないと思うわけですねぇ。

なかなか、「現代のフラストレーション」そのものを緩和するのは難しいでしょうが、せめて、「イジメ」や「虐待」のような最悪の選択だけでも逃れられないだろうか?と考えるわけです。
そこで、その「はけ口」の代わりに成り得るのが、「幻想の日常化」だと思っているわけです。

もともと、「リクリエーション」とはこういう目的のものだと思うんですけど、「リゾート」や「リクリエーション」の場合は「人間が非日常空間に行くこと」や「人間が日常の中に楽しみを見つけること」を意味するところが大きいと思います。
つまり、「日常空間を離れることや、忘れること」に意味があるんだと思います。

しかし、「現代人」は常に「フラストレーション」を抱えていますし、その元をたどって行けば「逃れようのないストレス」という「絶対的な闇」があるわけですから、「日常空間を離れること」ぐらいで「日常を忘れること」なんてとてもできませんし、「ときどき行くリゾート」などでは、一年中いつも付きまとっている「フラストレーション」を解消することは出来ないわけです。
それに、そういった「リクリエーション」にも「おカネ」や「手間」がかかってしまうので、また、そこでも「ストレス」を感じてしまうわけですねぇ。
まぁ、それだから「逃れようのないストレス」なわけですけどね。

そこで、「幻想の日常化」が必要に成ってくるわけですねぇ。

という所で、前置きが長すぎて、本題に入る前に力尽きてしまったので、次の記事に続けます。




「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる(つづき)



前の記事の続きです。


「幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、そこに「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代人」が抱えているフラストレーションを少しは解消することが出来るんじゃないだろうか?ということですね。
(注:少しです)


昔から「芸術」が持っていた役割の一つは「人の心を癒すこと」だったと思いますが、現在、この役割が「芸術」に担えるでしょうか?
つまり、「現代ストレス社会の中で疲れた心」を「芸術」で癒すことが出来ると思いますか?ということですね。
『出来ますよ、余裕で』と言える人がどのくらいいるのかはわかりませんが、少なくとも、そう言える人というのは、よほど楽天的な人か庶民の中でも「やや上の立場」にある人じゃないかと思いますね。

そういう、「ストレス少なめの人」以外の一般庶民で、「それでも芸術で癒されたい一心で美術館に通う人たち」は、本当に癒されているでしょうか?

やっぱり普通の庶民の人たちは、「現代社会」の中で、かなりの「ストレス」を感じて生きているわけで、しかも、けっこう真面目に生きている人ほど、「社会」に適応しようとしますから、「社会のヒズミ」の影響をもろに受けてしまうわけで、当然、強いフラストレーションを抱えているわけです。

要するに、『こんな状況の下でも、「芸術」が人の心を癒すことが出来るのか?』ということです。

私は無理だと思いますね。
というか、そういう「逃げ場のないストレス」の中に居るような人に『まぁ、美術館にでも行ってみれば?きっと心が癒されるよ』というのは、むしろ残酷だと思ってしまいます。
つまり、「芸術」なんか見ている余裕が無いということですね。
現在の社会状況というのは、こういうことが決してオーバーではないと思うわけです。
じゃなきゃ、こんなにたくさん自殺者が出ていないと思いますよ。
しかも、こんな、食べるのに困らないような時代なのに。

確かに、そういう状況でも「芸術」に救われている人は居ると思いますが、そう言う人が少しづつ少なく成っているのも間違いないことのように思うわけですね。

なにが言いたいかというと、昔と今とでは「芸術」が担う役割のスタイルを変えなければならないんじゃないか?ということなんです。
まぁ、一言で言って、昔のスタイルじゃ役に立たないと思う人が多くなったということだと思います。

「アカデミズムの行き詰まり」と同時に、この「芸術の役割の変化」があったことで、「芸術の20世紀」において「芸術」が大きく変貌することに成ったんだと思います。

昔は、「きれいな花」や「美しい風景」、あるいは「神話的な題材の絵」を描いていれば、それを見た人の心が癒されていたわけですが、近代から現代にかけて、「ストレス」が増大するのと同調して、「芸術」も変貌していったのは、「強いストレス」を感じた人たちが、そういった昔のスタイルでは心を癒されなくなったということが一つの原因だと思うわけです。

「昔の癒し」とは、要するに「たのしみ」だったんだと思います。
言い換えれば「エンターテイメント」ですね。
昔は「エンターテイメント」が少なかったんでしょうから、「芸術」はその中心の一つだったんだと思います。

でも、現在は「エンターテイメント性」では「純粋な芸術」を上回るモノもたくさんあるわけで、敢えて「純粋な芸術」で「たのしみ」を追求する必要性は薄いんじゃないでしょうか? 
「純粋な芸術」は「たのしみ」を創り出すのには、そんなには向いていないんだと思います。

ところで、「純粋な芸術」は、ナニに向いているんだ?ということです。
たとえば、「幻想であること」ですね。
これは「純粋な芸術」に向いているんじゃないかと思うわけです。
もちろん、他の言葉で言い換えてもいいと思います。
たとえば、「異世界」でもいいわけですし、「感動」や「夢」と言ってもいいと思いますよ。
なんでも自分の好きな言葉を当てはめて考えることは出来るわけですね。

つまり、「現実ではないナニカ」ということなんだと思います。
そして、「自分が最も惹きつけられるナニカ」ということですね。
そういう「心を魅了するものであること」が「芸術」に向いていることなんだと思うわけです。

そして、そういうものを「日常空間」に持ち込むことで、「日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代ストレス社会」における「癒し」と成り得るんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「エンターテイメント」が「即効性の癒し」であるのに対して、「幻想の日常化」は「根本的な癒し」に成る可能性があると思うわけです。
「純粋な芸術」には根源的で普遍的な性質がありますから、「エンターテイメント」では物足りない人に対しての「癒し」に成り得ると思うわけですね。

なぜ、「非日常空間」に行って見るのではダメなのか?と言えば、『めんどくさいから』です。
「やられちゃってる人」は「めんどくさいこと」はもうできないんですね。
それに、もしも、少し無理して行ったとしても気持ちにゆとりがありませんから、『あぁ、いいよね』ぐらいで終わってしまうわけです。
それじゃ、「癒し」に成らないでしょうね。
それから、次に行くまで持ちません。
「ストレス」は常に付きまとっていますから、次にそういう場所に行くまで持たないんですね。
だから、いつどこに居ても「幻想」があるのが一番いいわけです。

でも、それが完全に「日常」になってしまうと意味が無くなってしまいますから、「日常」の中に「非日常」を創り出すことが必要に成ってくるというわけです。

その為に、「幻想であること」が必要に成るわけですね。


『現実を忘れさせてくれる』だけじゃなくて、『現実を圧倒する』ような世界が「日常空間」の中に造り出せれば、きっと「現実の中で起きている矛盾や不条理」に対して、『むしろ、そっちこそ「無意味な世界」であって、自分にとって本当に意味があるのは、こっちの「幻想の世界」なんじゃないのか?』という風に思えるかもしれません。
(これは、かつて「宗教」が担っていた役割ともリンクしていると思います)

というか、実際に「芸術が創り出す幻想」は「現実」よりも「真実」に近い可能性があるわけで、そうだとすれば、これは「虚構への逃避」ではなく、むしろ「真実への回帰」であるわけですから、本当の意味での「癒し」と成り得るんではないのかなと。

つまり、「現代社会」の持っている「人間性軽視」や「効率重視」や「拝金主義」などの性質は、実際にはだれにとっても無意味なモノで、実を言えば、誰も幸せになれない「虚構の論理」であるということがかなりはっきりしてきているわけですから、そちらが「虚構の世界」であると言っても、もうそろそろいいような気がするわけですね。

そして、そういう「虚構の世界」の「裏」という意味での「幻想の世界」を心の中に持っていることが「その人にとっての真実」を取り戻すことに成るかも知れないということです。

また、それだからこそ、「芸術」は少し無理をしてでも「真実」を追求する必要があるんではないのかなと。
「真実」に到達できることは無いにしても、そこへ向かう姿勢だけでも示すことが、「現在の芸術の責任」であるのかなと。

そういう風に思っているわけなんです。



「幻想に触れること」によるストレス



私は、現在「芸術であること」と「幻想であること」はほとんど同じようなことなんじゃないか?と思っているわけなんですが、その「芸術≒幻想」を創作することや鑑賞することは「ある種のストレス」を伴うことがあると思うわけです。
つまり、「芸術≒幻想」は、それに触れる人間にとっての「快楽」でもあり「癒し」でもあると同時に、「一種の負担」でもあるということですね。

そして、そのことによって、本当の「芸術」に近づかなくなってしまう人がすごく多いような気がしているわけです。
つまり、「心地よいモノ」というキーワードだけで検索していってしまうと「いい作品」に出会うことは出来ても「本当の作品」に出会う機会は極めて少なく成ってしまうということです。
「負担」であるわけですから、当然、「心地よい」というキーワードから探していけば、『これはチガウだろう』ということに成るわけですね。


これは「芸術」が中心的な課題として「自己表現」を追求するように成った時からのことだと思うわけです。
「作者にとっての自己表現」は「鑑賞者にとっての他者」に成りますから、当然違和感を伴うわけですが、その「自分の中には無かったモノとの出会い」こそが、「現在形の芸術の意味」なんだと思いますので、その「違和感」を避けることは出来ないんだと思うわけです。

そこで、「鑑賞者」にとって「心地よい他者」と「心地よくない他者」が居て、その「心地よい他者=共感できる創作者」こそが「鑑賞者」にとっての「すばらしい創作者」であって、そういう「すばらしい他者」との出会いこそが、「鑑賞者」の「すばらしい芸術」との出会いであると思うのは、現時点では間違いだと思います。

と言うか、昔の「究極的な美しさを求める芸術」という考え方が残ってしまっていると思いますね。
今は、そういう一元的な意味での「美しさ」を求めることは出来なくなってしまっているわけで、もしも、そういう「一辺倒な美しさ」を求めて鑑賞するのであれば、「古典芸術」を見続けるしかないんだと思います。


一見すると「心地よい人」に見える人でも、それは表面上の体裁だけで、その人の「本当の姿」というのは他人にとっては必ず「心地よくないモノ」を含んでいるわけで、その人がその人であればあるほど「違和感」を感じるものだと思います。

そして、その「他者との間の違和感」こそが、「現在の芸術」の持っている最も大きな意味だと思います。
だからこそ、それを美しいと感じるんだと思うわけですね。

逆に言えば、「違和感のない心地よい他者」であっては「芸術表現としての他者」である意味が薄くなってしまうわけです。

少なくとも、「現在の芸術」においては、ということですね。
現在、「芸術が置かれている位置」が、「そういう位置」なわけですから、それは個人ではどうすることもできないことだと思います。

つまり、今は、「心地よくない他者との出会い」と言う「違和感」と対峙することが、「鑑賞者」に求められているということですね。
これは、「現在の芸術」が求めていることなので、そう簡単には変えられないことだと思います。

 ※これは「音の共鳴作用」などと同じようなモノで、ちがう音の組み合わせから「共鳴」
  が生まれるように、自分とは異なる「他者」と直面することから「共感」や「感動」が生ま
  れるわけです。
  まったく同じような精神から受けられるものは「同情」や「同感」だけで、それ以上に相
  乗的な効果は期待できないんだと思うわけです。
  つまり、それは「音」で言えば音量が大きくなるだけですし、「精神作用」で言えば「みん
  なと同じであること」が安心なだけです。
  そういうものがあってもいいとは思いますが、「現在の芸術」はその場所にはないと思い
  いますね。

 ※また、既に評価が確立している有名な作品に対して「違和感」を感じる人が少ないのは、
  鑑賞者が「違和感」を感じる前にその作品や作者が情報として刷り込まれているからであ
  って、その時点でそれは「純然たる他者」ではなくなっているからだと思います。

「心地よい人」というのは、どこかで『相手に合わせている』ということだと思います。
「相手に合わせること」が悪いということではありませんが、少なくとも、「芸術」を「自己表現」であると考えるならば、「鑑賞者」との間の「共通言語」を探すのではなく、「創作者のオリジナル言語」を何とか伝えようとすることが必要なんじゃないかと思うわけですね。
(はっきり言うと、「オリジナル言語」はほとんど伝わらないと思いますけど、それでもそれを続けることに意味を見出せるのか?ということじゃないでしょうか)


だから、「現在形の芸術」を「本当の芸術」として鑑賞したいと思うのであれば、「心地よいモノ」とはむしろ反対の「どこか神経を逆なでされるようなモノ」とか「心がざわざわするようなモノ」とか、もっと言えば「ものすごくイライラするモノ」のような、見る人の心に「負担を加えて来るようなモノを、敢えてチョイスして行く必要が出てくるわけです。

そう言うモノこそが「芸術≒幻想」であるモノなんだと思うわけです。

「幻想の世界」は、なんと言っても「異世界」ですから、それ相当の抵抗感があるわけで、そこに入って行くのにもその中に居続けるのにもある程度の「負担」がかかるわけですし、また、そこから「日常世界」に戻るのにもある程度の「負担」を強いられることに成るわけです。

でも、これは何も「芸術≒幻想」に限ったことではなく、「リクリエーション」と言われるものは、だいたい何らかの「負担」を必要とすることが多いと思います。
そして、その「負担」を負ったことによって、「疲労」するのではなく「カタルシス」と言われるような「精神的解放感」が生み出されることを「リクリエーション」というんじゃないでしょうか?

『なんで、わざわざ「いやなモノ」を見なきゃいけないんですか?』と言われそうですが、そう言うことではありません。
しかし、「カタルシス」という言葉は、もともと「悲劇」などを見た人が感じる「ある種の解放感」による「浄化作用」をそう呼んだようですから、やはり「喜劇」からは得られない効果がそこにあったんだと思います。
でも、そこで『なんで、わざわざ「悲しいモノ」を見なきゃいけないんですか?』と言ってしまえば「カタルシス」は得られません。

それに「悲劇」の中にも悲しいだけではなく、「美しい悲しさの悲劇」もあれば「「単なるお涙頂戴的な悲劇」もあるわけで、そこから先は「鑑賞者」の独自の規準で吟味していけばいいことだと思うわけです。

現在の芸術鑑賞は非常にエキセントリックな方向の人(変わったものが好きな人)と、非常にオーセンティックな方向の人(王道的なモノが好きな人)に分かれてしまっていて、エキセントリックな人は、ただただ目新しいモノだけを見つけようとしますし、オーセンティックな人の方は、判で押したように既に決まっている評価に基づいて「芸術」を判断してしまいます。
それだと、どちらも「カタルシス」を得ることは出来ないような気がするわけです。
エキセントリックな人は、いつの間にかいつもいつも「喜劇」だけを見ていたりするわけですし、オーセンティックな人はいつの間にか「感動」や「浄化作用」とは無関係に「定番」だけを繰り返し見続けることに成っていたりします。

そこは一つ、ちょっとだけ「負担」を負って、その「異世界」に入って見て、そこから「鑑賞者」としての自分の「独自の観点」で鑑賞してみてはいかがでしょうか?と思うわけですねぇ。

そういう見方をしてみると、『もう「有名な作品」なんて見ている時間無いよ』と思う人も出て来るんじゃないかなと思うんですけど、どうなんでしょうか?

まぁ、そんなわけで、「芸術≒幻想」な作品を探すという「芸術の見方」も試してみてもいいんじゃないのかなと。
(探せばけっこうありますが、探さないと出会う機会が少ないですからね)


そんな風に思ったわけです。




「幻想美」と「理想美」



昔から、「芸術(美術)」は、「理想美」を追求してきたんだと思います。

でも、今の時代において、『その「理想美」って、どんなものなの?』と聞かれて、答えられる人がいるでしょうか?
この質問に答えられる人がほとんど居ないとすれば、おそらく、「今という時代」は「理想を失った時代」なんじゃないでしょうか?


この「理想を失った時代」を、「理想が相対化した時代」」という考え方に置き換えることもできるかもしれません。
つまり、「常に変わらないような普遍的な理想」ではなく「人それぞれの理想」や「その時々の理想」を追求するようになったという考え方もできるということですね。

でも、それだと『相対的なものを「理想」といえるのか?』という別の疑問が出てきてしまいますから、一応「理想を失った時代」といってもいいのかな?と思うわけですね。

さて、そこで、「今」が「理想を失った時代」であるとすれば、やはり「理想に代わるナニカ」が必要になるんじゃないだろうか?ということがあるわけです。
その「理想に代わるもの」を、「幻想」と考えてみたわけです。


かなり昔の時代までなら、「理想美」=「美しい人」とか、「理想美」=「美しい自然」などということに何の抵抗も感じなかったのかもしれませんが、「今」となるとどうでしょうか?

「今」でも、「美しい人」や「美しい自然」の中に「理想美」を見つけ出すことはできますし、「それ以上の美」が必要であるということでもないと思うわけですが、少なくとも「芸術(美術)」において、『それでいいのか?』と言われれば、『それでいいんです!』とは言いにくい状況があるわけです。

つまり、「理想が失われた時代」において「理想を追うこと」が「芸術」と成り得るのか?ということですね。

確かに、「芸術が追及するところの真実」について、「時代」とは無関係の「普遍的な真実」であると考えることはできるでしょう。
そう考えれば、「現在」が「理想を失った時代」であることと、「芸術が追及するもの」とは無関係であるとも言えるのかもしれません。

しかし、そういう考え方に基づいていくなら、常に、「すべての芸術」がほとんど同じものを追求していくことになってしまいます。
要するに、「一つの理想」に向かっていくということになるわけですね。
それは、一つの考え方としてあるでしょうし、そう言う考え方を否定するつもりはありませんが、実際には「芸術」には多様性もあっていいと思うわけで、多様性がなければ「芸術」は、とても狭くて堅苦しい、つまりは『こういうのが一番いいんだ!!』というような面白みのない世界になってしまうような気もします。

「芸術が古典的であった時代」までは、それでよかったのかもしれません。
そういう「時代」であれば、「理想」という一つの方向に向かっていく過程での、「小さなチガイ」の中にも、十分に多様性が感じられたんだと思います。
(だから、必ずしも「堅苦しくて面白みのない世界」に成らずにいられたんでしょうね)


しかし、そういう意味での多様性は、もうかなり前に出尽くしてしまいましたし、まさに、その結果こそが、現在の「理想を失った時代」なんだと思うわけです。

だとすれば、やはり、「理想に代わるもの」があっていいんじゃないのかなと。

それで、私の場合は、「幻想」を「理想に代わるもの」として考えているわけです。

「幻想」には、「実体」がないという欠点がありますが、実を言えば、それは「理想」も同じで、もともと「理想」にも「現実に存在するという意味での実体」は無いわけです。

その点については「理想」も「幻想」も似たようなものなのかも知れませんね。

で、どこが違うのか?

「現実」からたどって行って、より確固たる「頂点」を目指すのが「理想」なんだと思います。
それに対して、「現実」から「確固たる」を取り除いて、むしろ「曖昧」にしていくのが「幻想」なんじゃないでしょうか?

 ※もっと言えば、「現実的なこと」は考えずに「ゼロ」から「幻想の追求」を
  始めることもできるでしょう。
  そう考えれば、「抽象表現」は一種の「幻想美の追求」であるとも考えられ
  るような気がします。

だから、「理想」と聞いたときには、必ずしも『実体がない』とは思わないのに、「幻想」という言葉を聞くと「フワフワとした実体のないもの」という印象が出てきてしまうわけです。
まぁ、要するに、そこが「幻想の弱点」ではあるわけですね。

でも、いいところもあって、「幻想」は「曖昧」であるために、自由度が高いということがあるわけです。

「理想」は、一つの頂点に向かって行くという性質から、どうしても狭い領域に閉じ込められてしまう傾向があるのに対して、「幻想」は「曖昧」にしていくという性質があるわけですから、限りなく自由である可能性を持っていると言えなくもないわけです。

さて、そこで、その「曖昧」で「自由」だけど「実体が希薄」な「幻想」に、「実体」を与えることができれば、と考えるわけです。

もしも、「曖昧さ」や「自由度」を保ったまま、「幻想」に「実体」を与えることができれば、それは「理想を失った現在」において、「理想に代わるもの」に成り得るんじゃないかと思うわけですねぇ。

まぁ、私の場合そういう方向でやっております。
というだけの話なんですけどね。

一応、自分では、そういうのを「異・現実の世界」とか「異・リアリズム」とかと言っています。

そして、さらには、その「異・現実の世界感」を「日常空間」に持ち込んで、『日常生活と幻想の空間が一体化したらいいんじゃないの?』ということを「幻想の日常化計画」と言っているわけなのです。

まぁ、そんなわけで、お読みになられた方には『ナニ言ってるのか、サッパリわからなかった』のかもしれませんが、私といたしましては、一方的に、そんな方針でやっておりますです。ハイ。
(本当はわかってほしいです。うまく説明できないだけ)


「家に飾りたくない絵」を家に飾ったら、どうなるのか?



先日、自分が描いた絵を、ある初老のご婦人にお見せしたことがあったんですが、その時、その方が『うふふ、この絵は家には飾りたくないわねぇ』と言っていたんですねぇ。

ごくごく個人的レベルではありますが、私にとっては・・・・大災害です。
(言う方は、何の気なしに言ってるんでしょうが、言われた方にしてみれば大惨事です)

しかも、たぶん、そのご婦人にまったく悪気はなかったと思いますし、なにせニコニコしながら言うもんですから、『あははぁ、まぁ、そぉーですよねぇ、こういうの、家に飾りたくはないですよねぇー、気持ち悪いしぃ』と言うしかなかったというわけです。
(「二次災害」的な?)

まぁ、それは、まったくもって個人的なことですから、とりあえず置いといて、そういう「家に飾りたくない絵」を家に飾ったらどうなるのか?と考えてみたわけです。


「家に飾りたくない絵」というのは、本当に家に飾らないほうがいいんでしょうか?
また、そういう絵は、どうして、家に飾りたくならないのでしょうか?
どいうことで、「家に飾りたい絵」と「家に飾りたくない絵」が分かれているんでしょうか?ということですね。


ここで、まず、言っておきたいのは、「絵」は「家に飾るための絵」でなければいけないのか?ということなんです。
つまり、「家に飾るのに最適な絵」が「いい絵」なのか?ということですね。

 ※ここでは「現在形の芸術を考える上で、その方向性に沿った絵」という意
  味で、そういう絵を「いい絵」と言うことにして話をすることにします。
  だから、「良く描けている絵」という意味ではありませんし、「評価され
  るべき絵」ということでもありません。

「家に飾るのに最適な絵」とは、要するに「インテリア性の優れた絵」ということだと思います。
果たして、「インテリア性の優れた絵」は、本当に「いい絵」なんでしょうか?

確かに、「インテリア性の優れた絵」は、人の心を落ち着かせて、楽しませてくれるでしょうが、それだけで「いい絵」の条件を満たしていると言えるのでしょうか?
もし、そうなら、「とてもセンスのいい壁紙」も「いい絵」と言うことができるということになります。
しかし、実際には、やはり「壁紙」は「いい絵」とは言えないわけですから、そこには、何か違いがあるわけです。

詰まるところ、「壁紙」と「いい絵」の違いは「生産されたもの」と「創作されたもの」の違いなんだと思うわけです。

どんなに、美しくてすばらしいものでも、「生産されたもの」は「製品」であって「作品」ではありません。
要するに、そこに作者の意識が込められていない、または、その意識が薄いということです。
だから、それを「その作者の作品」と呼ぶには、「不足な感じ」がするんだと思います。

ということは、「いい絵」の条件には「作者の意識が込められていること」という条件も含まれているということです。

ところが、そうなると、「いい絵」が「家に飾るのに最適な絵」とは限らなくなってきます。
『作者の意識が込められている』ということは、「その作者そのもの」に近くなりますから、「好き・嫌い」も分かれるでしょうし、インテリアとのなじみも無視されることになるわけで、当然「家に飾るのに最適な絵」とは言えなくなることが多くなるわけです。

そして、これは、「壁紙」だけでなく「作品として創作された絵」についても言えることで、「作品として創作された絵」であっても、「作者の意識」が希薄な作品もありますし、それが濃厚な作品もあるわけで、やはり「作者の意識」が濃い作品は「家に飾るのに最適な絵」とは言えない場合が多くなるわけです。

そういうことを前提にして考えると、「家に飾りたくない絵」とは、「インテリア性が低い絵」ということになりますが、そういう絵の中に「作者の意識が濃い絵」も含まれているということになるわけです。

さて、そこで、そういう「家に飾りたくない絵」を、もしも家に飾ったらどうなるのか?ということですね。

私は、「家に飾りたくない絵」こそ「いま家に飾る意味」があるんじゃないか?と思っているわけなのです。
これは、私が勝手に言っていることですから、もちろん『誰が、見たくもない絵を家に飾るんだよ!?』という方もいらっしゃるでしょうし、『そういう絵は美術館で見るものだ!』という考え方もあると思いますし、それらの考えもごく当然だとは思います。

しかし、「現在」ということを前提に考えた場合、人間にとって「幻想」の必要性が高くなってきているように思うわけです。
そして、その「幻想」に最も近いのが「芸術」であり、その中でも「作者の意識が濃い作品」なんではないのかなと思うわけです。

一昔前の時代までは、「幻想」を「日常」に持ち込む必要はなかったかもしれませんし、「幻想であること」よりも「美しいこと」や「技術的に完成されていること」の方が、人の心を癒していたんだと思います。
でも、「現在」ということになると、それでは足りないというか、違うというか、どこかがズレているように思うわけですね。
だからこそ、「現代美術」と言われているジャンルが「非日常」を演出しようとする傾向があるんだと思います。

でも、どちらかというと、「演出された非日常」ではなくて、「日常の中に普通に存在する非日常」が必要なんじゃないかなと思うわけです。
つまり、「非日常の日常化」ですね。
それを、私は「幻想の日常化」と呼んでいるわけです。
(「現在形の美術」で、主に行われているのは「非日常のエンターテイメント化」ですね)

そういう意味でも、『みんな「家に飾りたくない絵」こそ、どんどん家に飾ろうよ!』と言いたいわけです。

『ん?そう考えると、あのご婦人は褒めてくれていたと考えるべきなのか?』

「いえいえ、褒めてませんわよ、うふふ」

『・・・ですよね』

っていう・・・。




「理解できない絵」と「理解されない絵」



「抽象絵画」においては、あえて「鑑賞者の理解」を求めないような絵が多いと思います。
『「理解されること」が目的ではない』ということなんでしょうね。

でも、私自身のことで言うと、やはり『理解してもらいたい』と思ってしまうわけなのです。
(「理解されること」は第一の目的ではありませんが、一つの目標ではあります)

ところが、です。
そんな気持ちで、『「理解される絵」を目標にして「抽象画」を描いていこう!』と思って描いていくと、不思議なくらいに、「理解されない絵」に成ってしまうという、『非常に悲しいジレンマに陥ってしまうんだよね』と思っている今日この頃なわけなのです。

と言うわけで、初めから「理解されること」を目標とせずに描かれた「理解できない絵」と、私のように「理解されること」を目標にして描いているのに、結果的に「理解されない絵」に成ってしまうという、この二つのパターンには、いったいどんな違いがあるのだろうか?と考えてみたわけです。


まず、この「理解できない絵」や「理解されない絵」と言うと、「抽象画」をイメージすることが多いわけですが、実は「具象画」であっても、『一般的には、とうてい理解されないだろう』と思うような絵は、けっこうあると思います。

まぁ、どちらにしても、一般的にいう所の「美しいモノが描かれている絵」ではないということだと思います。

そういう「理解できない絵」や「理解されない絵」が急激に増えてきたのは、「芸術の20世紀」に入ってから「芸術」が「作者の自己表現であること」を求められるようになったことに因るんだと思います。
つまり、その「作者の自己表現」が、必ずしも「一般的に言う所の美しいモノ」ではないということなわけですね。

だから、必ずしも「抽象画」とは限らなくて、「具象画」であったとしても、「作者の自己」が強く表された絵は「理解できない絵」や「理解されない絵」になることが、多くなるわけです。


さて、そこで、「理解できない絵」と「理解されない絵」のチガイと言うことです。

作者自身が、「理解されること」を求めていない場合、当然、「理解されにくい絵」と言うことになるはずなんですが、実を言うと、現時点では、必ずしも、そうとは限らないような気もするわけです。


少なくとも、現時点では、「抽象画であること」を完全に否定する人は、かなり少なくなってきています。
本当の意味で「抽象表現」を理解したり、肯定したりしている人は、ほとんどいないような気がしますが、反対に、完全に否定する人もかなり少なくなったというわけですね。

まぁ、要するに、『抽象画とはこんなものだ』と言うような漠然としたイメージが、既成事実として一般的に広まっているので、その「一般的な抽象画」に当てはまっているものは、なんとなくではあっても「理解される絵」になるわけです。
つまり、「抽象画らしい抽象画」でありさえすれば、「その絵」や「その表現」が具体的には理解されなくても、「なんとなく理解される絵」には成ることが出来るというわけです。
(『これはきっと抽象画なんだろうな』ということが理解されるだけですけどね)


ところが、一方で、理解されようとして「抽象画」を描こうとすると、その「抽象画らしい抽象画」のイメージから外れた絵になる可能性が強くなるわけです。
と言うか、「抽象画」のイメージの中に「理解できない絵というイメージ」が組み込まれてしまっていますから、「理解できる絵」は「抽象画」ではないということにされてしまいますし、「理解されようとすること」も「抽象表現」ではないということにされてしまうわけです。


結果的には、「理解されること」を求めないで描かれた「抽象画らしい抽象画」は、「理解できないこと」によって「理解される絵」になり、「理解されること」を求めて描かれた「抽象画らしくない抽象画」は、ほんのわずかながら「理解できること」によって、かえって「理解されない絵」に成ってしまうという、何とも不可解なことになってしまうわけなのです。


しかし、ここで、「抽象画らしい抽象画」と言うことに、やや問題があるような気がするわけです。
要するに、「~らしい」と言うことが、「既成概念」に成ってしまっているわけですね。

「既成概念」から抜け出したくて「抽象表現」を使うようになったのだとしたら、「抽象らしいこと」はむしろ避けるべきことであって、「抽象画らしい抽象画」を描いたのでは、そういう意味で「既成概念から外れたれた抽象画」ではなくなってしまうわけです。

そうなると、「抽象らしい」を求めるのではなく「抽象らしくない」を求めるべきなわけだし、「理解できないもの」ではなく「理解できるもの」を求めるべきなんじゃないのかなと。

そんなことから、なんとか理解されるように描いているつもりなんですが、これが、まったく理解されないという、現実の壁があるわけで、その辺のところは、いったいどうしたらいいんでしょうか?と。


そんな風に聞きたいわけなのです。
(いったい、誰に?)




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR