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「人間」は「人間未満」



「人間」と、簡単に言ってしまっていますけれど、実は「人間」っていうのは、完全に「人間」に成れていないように思うわけなのです。

言葉の上で「人間」と言う場合と、「実際の人間』には、かなりの落差があるような気がするわけです。
つまり、「実際の人間」は、「人間未満」なんじゃないのかなと思ってしまうわけですね。

例えば、イジメや犯罪について『そんなことは人間のすることじゃない!』なんて言ったり、常識や道徳を守ることについて「人間として当然のこと」と言ったりするわけですけれども、これ「実際の人間」に当てはまってると言い切れるんでしょうか?

「人間として」なんて、当たり前のように言ってますけど、そういうときの「人間」っていうのは、かなり「理想化された人間」だったりするわけなのです。

「人間として当然のこと」が「当然できる」という人が、そう沢山は居ないわけですね。
「人間のすることじゃない」はずなのに、それを結構みんなやっちゃうわけですよね。

まぁ、理論上は居るハズなんですけどね、そういう人も。
「当然のことが当然できる人」や「やってはいけないことは絶対やらない人」ですね。

でも、思っているよりは、ずっと不可能に近くて、普通の人は、ちょっとしたプレッシャーが掛かったりするだけで、すぐやってしまうわけですねぇ。

「人間じゃないこと」を。

でも、これは仕方ないことだと思うのです。
要するに、『「人間」が、そこまで来ていないんだ』ということなんじゃないでしょうか?

だから、『まずは「人間未満」であることを認めましょう!』と思うのです。
自分も他人も敵も味方も、皆「人間未満」なわけです。


これからは、「いい人:悪い人」・「できる人:できない人」・「偉い人:ダメな人」・「頭がいい人:アホな人」なんかじゃなくて「人間に成ろうとする人:既に人間だと思い込んでいる人」なのではないのかなと。


今ある状態から、「自然に与えられたものとは言えないような意志」を使って、「何かになろうとする」ということこそが「人間」を「人間」と呼べるところなのかもしれないなと。

そんな風に思うわけなのです。


※2019年5月に追記

この記事を書いた当初は、『人間は、まだ、人間未満なんじゃないか?』と言っていました。
つまり、近い将来『人間が人間に成れるだろう』と言う前提で記事を書いていたと思います。
でも、今は、「人間」にとって「人間に成ること」は、それ以上に難しいことのような気がしています。

まぁ、「完全に人間であること」は、ほぼ不可能に近いことだと思うように成ったわけですね。
それぐらい「人間」と言う概念は理想化されてしまっているところがあると思います。

それで、「理想化された人間」と「現実の人間」の間に「ダブル・スタンダード」が形成されてしまいますから、多くの人が、「理想化された人間」のフリをするようになるわけです。
つまり、体裁を作ろうとするわけですね。
その過程で、「現実の人間である自分」は認めずに見ないようになってしまうと、その「自己正当化」と言う行為が習慣化して、結果的には、「現実の人間」よりもさらに酷いこと、つまり「本当に人間じゃないこと」をするように成ってしまうわけです。

現在は、無理して「理想化された人間」を目指すことよりも、「現実の人間であること」を認めることの方が、「人間」にとって、よほど意味のあることに成ってきているんだと思うわけです。

だから、もう「立派な人間」を目指すことには意味がなくて、むしろ「ダメな人間」であることを認められることの方に意味が出てきているんだと思うわけですね。
言葉にしてしまうと、非常に情けない感じになってしまうんですが、『実は、これがナカナカできない!』と思いますね。






いま、「歳をとること」の意味



私が子供のころは(50年程前)、原則として「年寄り」は尊敬されていたと思うのです。

現在はどうでしょうか?
私には、どうしても「年寄り」が尊敬の対象ではなくなってしまったようにしか見えないわけです。


例えばの話、ここで「年寄り」と言っているわけですけれど、これに対して、気を悪くする人もいるのかな?と思ってしまったりするわけですよね。

せめて「お年寄り」などと言うべきなのか?とか。


でも、そもそも、「年寄り」が尊敬されるものであれば、そんな配慮の必要はないはずなわけで、そこには、「年寄り」と言うよりも「歳を取ること」自体を、「劣化」と看做すという世の中全般の傾向があると思うわけです。

そして、こんなことを言っても、『そりゃ、若い方がいいに決まってるでしょ』と言われてしまうわけですが、いつから『若い方がいいに決まった』んでしょうか?


少なくとも、はじめに書いたように、50年ほど前までは「年寄り」は尊敬されるものでしたし、「年寄り」=「重鎮」であったり、「老境」=「威厳」であったりしたわけです。

確かに、そのころから、『若いっていいねぇ』などとも言われてはいましたけれど、それは、あくまで「若さ」の”未熟さや至らなさ”を含めての「いきおい」に対する、尊敬される側からの「余裕の言葉」であって、決して今のような『年寄りですいません』みたいなものではなかったと思います。


この状況は、拙いと思うのです。
良くないというより「ダメ」だと思います。

当然、すべての若者が歳を取るわけですから、将来の自分をも含めて、否定してしまっているわけですよね。

そして、自分が否定してきたので、否定される側に回った時に認めざるを得ないわけですよね。
それが『年寄りですいません』みたいなコメントになって出てきているのだと思うわけです。


要するに、誰にとっても「ダメ」なわけですね。


それから、実はこれが一番言いたいわけですが、人間は、まだ「人間未満」だと思うわけです。

これは、、ほかの記事にも書いたことですけれど、人間は、人間自身が設定した、「人間と言う概念」に到達していないと思うわけです。
(たぶん、今後も到達できないと思います)

つまり、「額面上の人間」と「現状の人間」が一致していないということですね。
「額面上の人間」がかなり理想化されているために、なかなか追いつけないという感じでしょうか。


だから、「人間」に成るためには、かなり時間がかかるようなのです。
(と言うか、完全には成れないと思います)

それは、一生を費やしてもまだ到達できないようなもので、若いうちに到達できるようなものではないと思うのです。


現在、ようやく教育や情報が整備されてきて、ようやく人間が「人間」に近づくときが来ているように思うわけです。

でも、今のように「歳をとること」を「劣化」と看做し続けていれば、それは、達成されることは無いでしょう。


「若者」にそれを期待するのは、今のところ無理なのだと思うのです。


それは歳を取った者が最後の責任として、有終の美を飾るための、人生最後の仕事なのだと思うわけです。
その先には「いい人生」ではなく、「いい死に方」があるのだと思うのです。


私は、このところ「死に方」は「生き方」よりも重要なんじゃないかと思っています。
と言うよりも、「いい生き方」は「いい死に方」のためにあるのかもしれないということです。


人間と言う動物は、百年ほども成長し続ける「種」になりかけているのかなと。
でも、成長しても尊敬されなければ、そこで終わっしまうでしょう。

「人間」に成る前に。


というところで、何はともあれ、「年寄り」は尊敬しましょう。
あくまで、一人一人の人の話ではなくて、一般論として、「歳をとること」に敬意を払いましょうということですね。

と言う話でした。




「ギリギリ人間」



このブログでは前から書いていることなんですけど、人間と言うものは、実はまだ「人間未満」なんじゃないかと思っているわけです。

つまり、人間自身が作り出した「人間のイメージ」に人間がついてこれていないと思うんですね。
だから、人間は『けっこう頑張ったなぁ』っていうところまでやって、ようやく「ギリギリ人間」という感じなんだと思うわけです。


これは、人間が今のような社会の形態を持つに至る過程で、動物としての人間とは少し違う、言い換えれば、チョットだけ本能に逆らった、生き方をするようになったことによって、起きて来た現象だと思うわけです。


人間以外の動物においては(たとえば「犬」など)、「犬」と「犬のイメージ」が食い違っているというようなことはほとんどありません。
というよりも、「犬」は「理想化した犬のイメージ」を持っていたりしませんし、その「理想像」を追い求めたりもしません。

「犬」にとっては「現実の犬(自分)」こそが「犬」そのものであって、それこそが、ほぼ「犬のすべて」でもあるわけです。
(というか「犬」というイメージ自体持っていない)


要するに『犬とはこうあるべきものである』という考えが無いわけですね。
それで、「犬」と、犬自身の中にある「犬のイメージ」が一致しているわけです。

もちろん、そういう中で「犬」は「犬」なりに懸命に生きているわけですが、「犬」にとって「懸命に生きる」ということは「犬のイメージ」に追いつくことではないし、「犬のイメージ」を引き上げることでも無いということですね。

それは、まさに「本能の命じるままに生きること」なんだと思います。
(実際には、少しのズレはあるんでしょうが)


一方、「人間」の場合は「実際の人間」と「人間のイメージ」が一致していません。
しかも、その差が年々広がってきています。

そして、そのことが「人間」にとっての弊害に成って来ているわけです。


「人間」の場合は「動物的な本能」とは違った判断を下すときがありますし、それもまた、「人間にとっての習性」に成って来ていて、「本能」と比べても釣り合うくらいに強固なものとなっているわけです。

要するに、現在の「人間」は、いつも「本能」と「理性」の間で身を引き裂かれているような状態に成っているということです。
しかも、そのことがほとんど意識されていないことで、一層そういう現象に拍車がかかってしまうわけなのです。


それで、けっきょく何が言いたいかと言うと、『「ギリギリ人間」でも十分だろう』ということが言いたいわけです。

つまり、そんなに「完全な人間」でなくてもいいんじゃないかと思うんですね。
というか、「ギリギリ人間」くらいでもそれなりに大変だと思うわけです。

「完全な人間」なんて言い出したら、成れる人が地球上に何人いるかわかりません。
(まぁ、一人も居ませんよね)


実は、そのくらい大変なことなんじゃないかと思うんですねぇ。
「人間であること」は。


それを、あまりにも簡単に『それくらいは人間として当然のことだ!』とか、『それができなきゃ人間じゃない!』などと言ってしまうモノですから、その自分の言葉に縛り付けられて、結果的には「本当に人間じゃないようなこと」をしてしまったりもするわけです。

要するに、「無理な理想」を追うことで、かえって悪くなってしまうわけです。


例えば、十回に一回くらいなら「人間以下」をやってしまうこともあるかもしれませんし、百回に一回くらいは「鬼畜」に成るかも知れませんし、それどころか、百回のうち九十回は「ダメ人間」と言うのが関の山なんだと思いますけど、そんなのが「現在の人間の実体」なんだと思います。


でも、それでいいんじゃないかと思うわけです。

むしろ、そういうことを受け入れていけば、少しだけ「人間」に近づけるような気がしますし、それ以上のことをしようとすれば、かえって「人間」から遠ざかると思います。

でも、それ以前に、それ以上のことをする必要もないと思うわけです。


だから、「ギリギリ人間」あたりを目標に生きていこうかなと。

そんな風に思っているわけなのです。

  ※これ、一見低レベルに見えるでしょうが、ゼンッゼン違います。

    『どこが?』

   まぁ、それはまたの機会に。
    


「悪」とは「人間が人間であろうとしないこと」



私はいつも「本質を得たもの」は美しく、「本質を外したもの」は醜いと思っているんですが、「人間」の場合、その「本質を外したもの」とは、醜いだけではなく「悪いもの」でもあるんじゃないかと思うわけです。

つまり、「人間にとっての悪」とは「人間らしからぬことをすること」なんじゃないかということですね。

 ※ここで言う「悪」は、「究極的な意味での悪」ではなく、「単なる悪いモノ」です。
  それ以上の意味で「悪」を規定することはできないと思いますし、それ以上の
  意味で規定できるものなど何も無いと思います。

まぁ、ここまではいいとして、でも、私は「人間はまだ人間未満なんじゃないか?」とも思っているわけなんですねぇ。

 ※ここ言う「人間未満」とは、人間以下のダメな人も居るというような意味ではなく、
  「人間」と言うモノ自体が、まだ自分で設定した「人間というレベル」に追いつけて
  いないんじゃないか?というような意味です。
  つまり、まだ今のところ、すべての人が「人間未満」で、「人間と言えるほど立派な
  人間」には成っていないと私は思うわけですね。
  さらに言えば、おそらく今後も成れないだろうということでもあります。

そうなると、「人間らしいこと」が「人間の本質」とも言えなく成って来ます。

「人間に達している人間」にとって、「人間らしいこと」は「本質」でしょうが、「人間未満の人間」にとっては、「人間らしいこと未満」こそが「本質」に成るわけで、「人間らしいことをすること」は、むしろ「本質から少しズレたこと」になってしまうというわけです。


まぁ、要するに「背伸びしてる」ということに成ってしまうわけですね。

そういうのは、一種の「見栄」でしょうから、「やや醜いこと」に入ってしまうだろうということです。


と言っても、そういうことを言っているとキリが無いので、どこかで折り合いをつけていこうと思うわけです。

そこで、「人間であろうとすること」が、現在の「人間未満の人間」にとって、最も「人間らしいこと」に当たるんじゃないか?と考えてみたわけです。


つまり、「人間であろうとすること」が「現在の人間にとっての自己ベスト」であり、「最も美しい在り方」でもあるということですね。

当然、「人間であろうとしないこと」の方は「現在の人間にとっての醜いこと」でもあり、「悪」でもあるということに成るわけです。


まぁ、そういうわけで『早く人間に成りたーい』
(『妖怪人間ベム』より)

そんな風に思いました。


 ※『妖怪人間ベム』は昔のアニメです。
  妖怪なんですが、いつも人間に成ろうとしてけなげに頑張っている妖怪人間の物語
  です。(イメージ違うの?)
  でも、現実の世の中には「人間未満」なだけじゃなくて、「妖怪人間未満」の人もよく
  いますよね。
  要するに、そう言う人が、「人間であろうとしない人」なんじゃないかと思います。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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