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「写実的な抽象」



「具象」と「写実」と言う二つの言葉を、ほとんど同じような感覚で使ってしまうことがあるわけですが、実は、この二つには、けっこう違う意味があると思うのです。


「具象」と言うのは、「物質の持っている力」を借りることだと思っています。
たとえば、「形」や「色」などを「物の形」や「物の色」から借りるということですね。


これは、基本的に、本来の目的は別にあって、その為に「借りる」ということなんだと思っているわけです。


一方、「写実」=「リアリズム」の方は、実は「物質」とは、必ずしも関係がなくて、「物質」であっても「非物質」であっても、その「何か」を忠実に再現しようとすることを指して言う言葉なんだと思うわけです。

たとえば、「文学」に置いては、「心理描写」も「リアリズム」に含まれるということですね。


ところが、これを「美術」に置き換えると、急に、「抽象的」になってきます。

「文学」や「演劇」では、「人間の感情」や「人間の心理」を、ある程度「写実的」に表現することが出来ますが、「美術」に置いては、それが、チョットややこしいことに成るわけです。


つまり、「人間の感情」や「人間の心理」に具体的な「色や形」はありませんから、それを、ダイレクトに「色や形」で現すということが出来ないわけですね。


それで、どうしても「ほかの物の形」や「ほかの物の色」の「力」を借りてきて、それを使って、「感情」や「心理」を現そうとすることが多く成るわけですね。

だから、「具象」と「リアリズム」が、同じように思えてしまうということでしょう。
(実は、これは、「文学」や「演劇」でも同じことをやっているというだけなんですけどね)


でも、本来は、「具象」は「物質的」ではありますが、「写実的」とは限りませんし、「リアリズム」は「写実的」ですが、「物質的」とは限りません。


これを、もう一歩進めて言うと、「抽象」でも「写実」=「リアリズム」は可能だということです。
と言っても、あくまで「理論的には可能」ということですけどね。

実際には、なかなか大変だと思います。


つまり、「物質の形」や「物質の色」ではない「創作された形」や「創作された色」を使って、「非物質的なもの」を、写実的に表現すればいいわけですね。
(これはどちらかと言うと、「非物質的」と言うよりも「非現実的」と言うべきかも知れません)


「非物質的なもの」を表現しようとするとき、「形」=「具象性」を排除したくなったり、それとは逆に、「物質の力」を使って説得力を持たせようとしてしまうわけですが、そこで少し無理して、自分の中で何らかの「形や色」を創り出すわけですね。

出来るだけ、「青は冷静」とか、「赤は怒り」とかと言うような、定型化した解釈にも頼らずに、純粋に自分が表現したい「何か」を現すのに必要な「形と色」を探していくという作業に成るんだと思います。


口で言うのはともかくとして、まぁ、かなりキビシイですよね。
でも、そちらの方向を向くことが、いま一番重要なことなんじゃないかと思うわけです。


ただ、そんなに悲観的なことでもないと思っているんですよね。
人間って、何かの拍子に、「トンデモナイ形」とか、「オモイモヨラナイ色」なんて言うのが、唐突に、頭に浮かんでくることがあると思うんですよね。


それを、そのまま描くと「抽象絵画」に成ると思うわけですけど、それを、もっと作り込んでいって、更にその作り込んだものを出来るだけ忠実に再現すれば、「写実的な抽象絵画」ができるんだと思っているわけです。


と言っても、現実にないものを忠実に再現しても、「リアリズム」とは言わないのかも知れませんけど、「写実”的”」ぐらいまでは言えるんじゃないかなと。


「抽象」は、その辺を出来るだけ、「非・写実的」にしようとしてきたんだと思うわけですけど、それをやめて「リアリズム」の方向に、近づけていこうということですね。


要するに、「ぼやかしてきたもの」を「ハッキリさせよう」ということです。


実は、こういうことは「抽象芸術」を目指している人は、無意識にやっていることなんだと思うんですけど、それを、もう少し積極的に意識してやろうということですね。


まぁ、一応そんな風に思ってやっています。

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後で読み返したら、他の記事で書いていることと、

やや矛盾しているところがあるので追記します。

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ここで言っている、「具象」は、「現実のモノ」を写し取ることと言う前提で言っています。

ここでは、そういう意味で書いていますが、もう少し広い意味で言うと、「非現実のモノ」を表現している場合でも、そこに「実体感」や「物質感」を創り出していれば、それを「具象」ということはできるだろうと思っています。

そういうのを、他の記事では、「具象的な抽象」と言っています。
(これは、ここで言っている「写実的な抽象」と似たような意味です)


また、ここで言っている「写実」に関しては、「現実のモノ」を写すことに限らず、「現実のように感じさせること」を含めて、「写実」と言っています。


ですから、「非現実のモノ」を「現実のように見せること」ができれば、それも「写実的」と言っていいんじゃないかということですね。






現在形の「リアリズム」について



これは、私の個人的な感想なんですけど、現在形の「美術」(とくに「絵画」かな?)に置いて、「リアリズム」に戻りつつあるような傾向があるように思うわけなのです。
(最先端の美術ということに成ると、もっとトーイ・トコロに行ってしまったという印象ですが)

つまり、「抽象表現」に限界が見えてきたことで、「具象表現」に戻ってきているんじゃないかということですね。
戻ってきたというよりも、行き過ぎて跳ね返ってきたという感じなのかも知れませんね。


個々の作家のスタイルについては、それぞれの自由なんでしょうが、「芸術」と言う分野として、『「抽象」の方は放っといていいんですか?』ということが気に成るわけなのです。


「芸術全体」として考えた場合、「抽象表現」をホッタラカシにしてイイとは思えないということですね。


「芸術」と言う分野としての「抽象」と言う「問い」に対する「答え」は、まだ提示されたことが無いような気がするんですね。


「具象表現」に関しては、もともとシッカリした「体躯」を持っていたように思いますし、その「体躯」を持ったまま、行き詰って行ったということなんだと思います。
(もう、具象はダメなんだっていうことじゃないですよ)


しかし、「抽象表現」に関しては、いまだに、そういう「シッカリした体躯」に当たるモノが示されたことが無いような気がするわけです。

「芸術の20世紀」に置いては、常に「抽象表現」にまつわる「仮の回答」が提出されては、引っ込められるでもなく、霧散してしまうというようなことの繰り返しだったような気がします。


もちろん、そうした「仮の回答」は、今も「名作」と言われているわけですが、それなのに、そのスタイルはどれも一過性の「流行り」であったように見えてしまうわけなのです。


つまり、それらは「個々の作家のスタイル」であって、「芸術全般」としての「抽象に対する解答」ではなかったということなんだと思います。

だから「体躯」を感じられないんですね。
そして、「体躯」を持たないまま行き詰ってきているわけです。

やはり、「芸術全般」としての「抽象に対する解答」が、示されていてしかるべきだったように思うわけです。


まぁ、「体躯」を持った状態で行き詰っても、「体躯」を持たないまま行き詰っても、どっちみち行き詰るなら同じことだと言われれば、そうかもしれませんけど、

私は、そう思わないということですね。


そこを、ホッタラカシにして、「リアリズム」に戻ってしまうと、方向がさらにズレていってしまうと思うんですよね。
だから、今のうちに、「抽象に対する解答」を導き出しておいた方がいいんじゃないのかなと。

そんな風に思います。


要するに、「抽象表現について考えること」が「メンドクサイこと」になって来てるんだと思います。

みんなで寄ってたかって「抽象」を論じていた時には、それについて、一所懸命に考えていた人も、それについて考えることがメンドクサクなってきたら、考えなくなってしまったわけですね。


でも、芸術って、「みんながが考え無く成ったから、自分も考えなくなる」じゃなくて、どっちかっていうと、「みんなが考えなくなったから、自分は考える」の方なんじゃないのかなと。


そんなわけで、「現在形のリアリズム」は「抽象」の方にこそ見つけ出していきたいもんだなと。
「具象」で行くなら、見つけ出すべきは「現在形のアンチ・リアリズム」に成るんだと思いますね。
「具象」と「抽象」を両立させる形で論じられないと、展開できなくなっているんだと思うんですよね。

それでないと、同じところを堂々巡りすることに成るんだと思います。


そんな中で、「出来ないこと」は『できませんでした』と言うべきでしょうし、そういう「出来ないこと」こそ、無駄でも一所懸命になってやるべきでしょうし、「出来ること」があるなら、他人からどんなにバカにされてもやるべきでしょう。


そういうのが、いま「芸術」と言えるモノなんじゃないのかなと。


私はそんな風に思っているわけです。


「現在形の創作」



かなり昔の時代までは、「現実を写し取ること」や、そこに「アレンジを加えること」を「創作」と言っていたんだと思うわけです。
でも、現在それを「創作」と言えるのか?と言う問題があると思うんですよね。

つまり、今でもまだ「現実」などの「既存のモノ」を模倣することを基盤にした作業を「創作」ということが出来るのか?ということですね。


それを肯定した場合、極端に言うと、「カメラ」や「コピー機」に著作権が発生するということにも成りかねないんじゃないかと思うのです。


それはともかくとして、やはり、写し取る作業は「現在形の創作」では無いような気がします。


そうなると、「現在形の創作」とは、どういうモノに成るのか?ということです。

おそらく、それは、「非現実のモノ」に「具体性」を与えることなんじゃないかと思うわけです。
つまり、「非現実のモノ」を、ただ単に提示するだけじゃなくて、そこに「実体」を与える作業が「現在形の創作」と言える作業なんじゃないかということです。


もともと、古典的な「写し取るタイプの創作」に置いては、現実に存在するものを写し取ることで、それを、「芸術」と言う「非現実的な世界」に取り込んで、提示することを「創作」と言っていたんだと思います。

つまり、作業としては「現実を写し取ること」でも、そこに、「芸術という非現実の空間」を「創作」していたということでしょう。

ところが、技法が確立されていくにつれて、それを「創作」と言える領域が狭まって行ったために、それを「創作」とは言いにくく成って行ってしまったんだと思います。

「写し取る作業」自体も、写し取られるように成ってしまったわけですね。


要するに、それは「芸術」ではなく「技術」になってしまったということでしょう。


そこで、どうしても「現実」を「芸術という空間」に取り込むのではなくて、「取り込むモノ」自体を創り出すことが必要に成ったわけでしょうね。

それが「抽象表現」ということだと思います。


そして、「現在形の創作」に至って、その「取り込むモノ」を創り出して提示するだけじゃなくて、そこに「具体性」を与える必要が出てきていると思うわけです。


つまり、「抽象表現」にも「具象性」が必要に成って来ていると思うんですね。

百年くらい経って、ひっくり返ったとも言えるのかも知れませんね。


「抽象表現」に置いては、「具体性」を問題視されることは、その百年くらいの間、ほとんど無かったように思います。

どちらかと言うと、「いかに具体性を排除するか」ということが重要視されてきたように思いますね。


それが、もう出尽くしたということなんでしょうね。

実は、だいぶ前からそうなっていたんだと思いますし、個々の作家の中では、「具体性」に対する取り組みもあったんでしょうが、当初の、「具体性を排除する」と言う方向性が邪魔してたんじゃないかと思いますね

要するに、「抽象」で「具体性」を取り入れようとすると、どうしても、「ややチュートハンパな感じ」に成ってしまうので、やろうとするたびに、引っ込めざるを得なくなるといったところだったんじゃないでしょうか?

それで、「半抽象」みたいなものをやっている人は、『いや、具象ですよ』みたいな顔をしていないと格好がつかないという状況があったような気がします。


それから、「抽象をやってみたら意外と幅が狭かった」って言うこともあると思います。
つまり、「抽象化」することで、限りなく表現の幅が広がると思われたのに、「具体性」のないモノを現そうとすると、意外なほど表現の幅が狭いんですね。

それで、「「具体性」が、また必要に成ってきているんだと思うんですね。


そんなところで、【「非現実的なモノ」に「具体性」を与えること】が、「現在形の創作」と言えるんじゃないのかなと。

そういう風に思っているわけです。



絵画空間における「接地」と「浮遊」



私の場合、「抽象表現」の中に「具体性」を取り入れようという考えで絵を描いているので、「抽象画」なんですけど、「モノであること」を目指しているわけです。
(「現実のモノ」というわけではありません)

そこで、「そのモノ」が「絵画空間」の中で、「接地」しているか?もしくは「浮遊」しているのか?と言う問題が出て来るわけですねぇ。


一般的に「抽象画」では、「モノ」を描きませんし、むしろ、「モノ」や「空間」から離れようという傾向があるわけですから、この問題に悩む必要はないのかも知れませんけど、いざ、「モノ」を描こうとすると、「そのモノ」を「絵画空間」においてどこに位置づけるのか
と言う問題が避けて通れなくなるというわけです。


「モノ」以前に「抽象画」に置いては、「空間であること」も「否定」または「無視」される傾向があると思いますから、そこに「位置」と言う概念が存在しないという場合も多いと思います。

つまり、「空間」でも「距離」でも「立体」でもないような「純粋な絵画の世界」と言うのが、ほとんどの「抽象絵画」の追究してきたものなんだと思います。

私は、その「純粋性の追究」によって、結果的に、「芸術」が「肉体」を失って、かえって「表現の幅」が狭く成ってしまっていると思うので、「具体性」を取り戻そうと思ったわけですね。

それで、「モノ」を描こうと思ったわけですけど(「非現実ではあるが物質的な実体感を伴ったモノ」と言う感じです)、その結果、こういった類のさまざまな問題に直面することに成っているわけですね。


つまり、「現実のモノ」であっても「非現実のモノ」であっても、「モノ」である以上は、「そこに在る」ということが必要に成るんですね。と言うか、その「そこに在る」ということが示されることで、それが「絵画空間」の中で「モノ」に見えて来るんだといってもいいんじゃないかと思います。

いずれにしても、そこに「位置」を設定しなければならなくなるわけです。
要するに、その辺をゴマカシたくなかったということですね。


それで、その「モノの位置」が「着地」しているのか?
それとも、宙に浮いて「浮遊」しているのか?ということが突きつけられることに成るわけです。


ところが、「モノ」ではありたいんですが、「現実のモノ」ではありたくないわけです。


要するに、「接地」や「浮遊」という「位置関係」を現実と同じように説明してしまうと、「現実のモノ」に近づきすぎる感じがするんですね。

「具体性」は欲しいのに、「現実性」は欲しくないということですよね。
まぁ、ワガママですし、無理です。
でも、なんとかしたいわけです。


それで、「接地」でも「浮遊」でもない、そういう「位置」を作りたいわけなんですね。
でも、ゴマカシたくはない。

まぁ、正直言ってチョット・ゴマカシてるとは思いますけどね。

そういう「非現実的な位置」を作り出すのになんとなく慣れてきています。


これは、言葉で説明されても、読んだ人は困るんでしょうが、「宇宙」を考えてみればわかりやすいと思います。


「具象画」に置いて、例えば花を描いたとき、その花が「接地」しているということは、花瓶に生けられていたりするということなわけですが、その花瓶は、また更にテーブルに「接地」していて、ということですから、最終的には、地球に「接地」しているということに成るわけですね。

しかし、その地球は宇宙に「浮遊」していますよね。
つまり、どんなに「具象的な絵」であっても、本当は「接地」と「浮遊」の両方の要素を持っているということなんですね。

ただ、「具象画」の場合は、そのどちらか一方の要素だけを切り取って見せていることが多いということなんだと思います。


そして、私の場合は、その両方の要素を「絵画空間」に描き入れようということですね。
そうすることで、「接地」と「浮遊」の間の「非現実的な位置」を創り出しているわけです。
(自分でそう思っているだけですけどね)


私の場合、「背景」にあたる部分と(「空間」も、表現しますから、「背景」と言う感覚もあります)、、主題としての「モノ」の部分との間の層に、「絵画の枠からフレーム・アウトする部分」を描くことで、「接地」と「浮遊」の間の「非現実的な位置」を作っていることが多いですね。


「絵画の枠からフレーム・アウトする部分」と言うのは、「接地」と「浮遊」のどちらともとれると思うんですね。


つまり、フレーム・アウトした先がどうなっているかがわかりませんから、それが「接地」しているのか「浮遊」しているのか、ということが曖昧に成るわけですね。


こんな話、読んだ方は、ナニ言ってんのかサッパリわかんないでしょうが、それはそれで、ご愁傷さまです。
でも、、なんとなくこの問題はクリアーできたような気がして来ているので、よかったなと。

そんな風に思っております。

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『よかったな、じゃネェーよ!』

この記事を最後までお読みに成った方がいらっしゃれば、それはそれで、謹んでお悔やみを申し上げます。



絵画空間における「壁」と「空」



前の記事と似たようなことです。


たぶん『こんなモン読まなきゃよかったよ!』と言う方が多いと思いますので、そういう方は、ここで思いとどまってください。


さて、前の記事と似たような話ですけど、私の場合、「抽象画」なんですけど、「モノ」を描くことを目指しております。

そこで、いろいろな問題に直面せざるを得ないことがあるわけですね。


前の記事の〈絵画空間における「接地」と「浮遊」〉も、その一つなんですが、もう一つの主な問題として、【絵画空間における「壁」と「空」】と呼んでいることがあるんですねぇ。
(まっ、いま名付けたんですけど)


前の記事にも書いたんですけど、私の場合、「モノ」を描くことによって必然的に、「空間」も描くことに成っているわけです。

つまり、「なんとなく空間を感じさせる」と言うのではなくて、「ここは縦・横・奥行きのある空間ですよ」と言う表現を使うということですね。

「モノ」を「実体」として描くと、どうしてもこれが必要になってくると思います。
まぁ、要するに「場所」や「位置」を表現するということだと言えばいいんじゃないかと思います。

「モノがある場所」ですね。


そこで、出て来るのが、この【絵画空間における「壁」と「空」】ということに成ります。


ここで言う「空」は、「抜けていく空間」、言い換えれば「無限の奥行」ですね。
「無限遠の距離感」と言うようなことです。

また、ここで言う「壁」とは、「抜けていかない空間」、言い換えれば「有限の奥行」です。
まぁ、「距離が設定された距離感」と言う感じですか。


この二つを「風景画」と「室内画」に置き換えて言うと、「空」と「壁」に当たるんだろうということですね。


そこで、問題としては、これも前の記事と同じように、やはり、「具体性」は欲しいんですが、「現実性」は欲しくないということがあるわけですね。

それで、「空」と「壁」のどちらか一方ではなく、その二つを両立させるようなことが必要に成ってきたわけなのです。


どちらか一方に限定してしまうと、どうしても「現実感」が出過ぎてしまうということですね。
でも、その辺をボヤカシたり、ゴマカシたりはしたくないので、両立させようと思ったわけです。


つまり、見ようによっては無限遠の「空」にも見えるし、違う見方をすれば、突き当る「壁」が感じられるというような、そういう「具体性はあるけど現実性が薄い空間表現」を目指しているわけですねぇ。


こんなこと言うと、『おいおい、随分と偉そうじゃないか?』と言われそうですが、今のところ、ほぼ偶発的に「そんな感じ」に成っているという段階です。


とっても、ムズカシイです。
(私にはムズカシイです)

前の記事に書いた「接地」と「浮遊」に比べると、かなり”ビミョー”な表現でしかそうならないみたいですね。
しかも、それが、まったく予測できません。


とにかく、「空間を抜こう!」とすると、いきなり【「無限遠」寄り】になってしまいますし、これじゃあダメだというんで、「抜けていかない空間を作ろう!」となると、今度は、いきなり距離が設定された【「壁」寄り】に成ってしまいます。


まぁ、それでも何度もやっていると、少しは慣れて来るもので、このところ、ある程度は要領を得てきています。
(それでも、この表現にはソートー時間がかかってしまうんですが)


そんな感じで、「空のような壁」または「壁のような空」を作っております。
その上に「接地」と「浮遊」が両立した「位置」を作って、さて、そこに描く「モノ」ですね。
今のところ、ここが、まだ弱いと思っています。

「形」ですね。

「モノの形」が弱いんですね。


要するに、「現実のナニカ」に似てきてしまったり、「漠然とした形」になってしまったりすることが多いということですね。


まぁ、なに言ってるかサッパリわかんなかったでしょうが、最後まで読む人も居ないでしょうから、

『じゃあ、いいんじゃないの?』

ということで。



「抽象表現」における「現実性」と「非現実性」



またまた、前々回から続けて似たような記事です。

読まないに越したことは無いと思いますが、「イミガワカラナイ言葉の羅列」みたいなのがお好きな方はどうぞ。


さて、またまたまた、自分の絵についての話で恐縮なんですけど、私が目指しているところの『抽象画なんだけど、「モノ」を描こうと思ってるんだよ!』ということにまつわる問題ですね。


前回、前々回の記事でも書いたんですけど、「抽象画」にも「具体性」があったっていいんじゃないの?ということでやっているわけですが、

 ※私は「抽象」と「具象」は対立する概念ではないと思っています。
  むしろ、常に両立している概念ではないかと思いますし、「具体性のない抽象」
  も「抽象性のない具象」もあり得ないと思っています。
  ですから、より積極的に「具体性を追究する抽象」があっても、何の問題もないと
  いう風に思っているわけです。

そこはやっぱり「抽象画」ですから、「具体性」を求める上でも「現実性」は出来るだけ出したくないわけです。


でも、「具体性」は出来るだけ高めたいわけですから、何かしらの形で「現実味」を出していく必要があるんだと思うわけです。


まぁ、ショッパナから矛盾してますよね。


これは、上手く説明できる気がしないんですけど、まぁ、人間が「現実」だと思っている「イワユル現実」とは「チガウ現実」を創り出して、それを、出来るだけ”リアル”に表現していこうということです。


所詮、「チガウ現実」ですから「現実」ではないわけで、それを「現実」とか「リアル」と呼んでいいのか?っていう問題はあるんでしょうが、他の言葉を使っても意味が伝わりにくいのは同じようなものなので、一応、「非現実の中の現実性」ということにしています。


この「非現実の中の現実性」が、「抽象表現」を再活性化してくれるんじゃないかと思うわけですね。


つまり、「現実」とか「具体性」を避けよう避けようとしてきたために、「実体感」や「手ごたえ」を失ってしまった「抽象表現」に、そういう「シッカリした部分」を取り戻せるんじゃないかなと言う風に思うわけですね。


「実体」や「肉体」を取り戻すことで、「抽象表現」は再活性化するような気がしますし、「抽象表現」に「ある種の幅」を展開できるようになるんじゃないかと思います。


もともと、「抽象表現」は「自由な表現形態」を求めて、現れて来たんだと思うんですが、それが、実際にやって行くとだんだん「不自由」に成って来たんだと思います。

「抽象性」だけを追究していくと、どんどん「表現の幅」が狭く成って行って、身動きができないように成るんだと思います。


やはり、「抽象」と「具象」は両立していて、初めて「実体」を持ち得るんじゃなかと思うわけです。
どちらか一方に偏ると、平面的で、「実体感」のない世界や、無機質的で「精神性」のない世界しか表現できないように思います。


さて、そこで、「非現実の中の現実性」ですが、やっぱり「そのまんまの現実性」では、ちょっとダメで、「現実のモノ」に「現実の現実性」があるように、「非現実のモノ」には「非現実の現実性」があっていいと思うわけですね。


そこで、「現実の現実性」とは違う、「非現実の現実性」を作り出す必要があるわけです。


「現実の現実性」には無いような「ナマナマしさ」や「臨場感」を、「非現実のモノ」において、創り出していけたらいいんじゃないか?と言う風に思うわけですね。


これまた、矛盾した言い方になってしまうんですけど、「リアルであればあるほど非現実的に見えるような現実感」と言った感じでしょうか。


とにかく、そういうような「非現実の中の現実性」を、いつも念頭に置いて絵を描いています。


もちろん、「そういうことが出来ますよ」って言うことじゃないですよ。
そう上手くはいかないですけど、「目指すところとして」ということですね。

やっぱり「現実」に引っ張られますし、また、『そうじゃないとウソなんじゃないか?』っていう気もします。
「現実」を「外そう外そうとする」のも『チガウかな』と思うわけですね。

だから、あまり「奇抜な形」に成ることは避けようと思ってもいます。

そうすると、無意識のうちに「現実のナニカ」に似てきたりします。

 ※私の場合、「現実のナニカに近いか遠いか」と言う規準は、かなりのところまで捨て
  て、「自分の中から出て来たものかどうか」と言う規準を重視するようにしています。


こんな状態ですから、いつも迷っています。
でも、迷った結果がなるべく”ブレない”ようにしようと思っています。


『なっ!』(いや、自分に)

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※2019年7月に追記

ここでは「非現実」という言葉を使って説明していますが、この記事を書いてからしばらくたって、ここで述べているような「非現実性」を「異・現実の世界」という言葉で表すように成りました。
また、そういう表現を「異・現実のリアリズム」と呼んでおります。



「異現実の世界」



一つの考え方として、「芸術」とは「異現実の世界を創り出すこと」なんだと思っているわけです。


なんで「非現実」ではなくて「異現実」と言うかというと、「非現実」と言うと「現実離れした」とか「現実には有り得ないような」というようなイメージがあって、どうしても「奇をてらったモノを狙う」というニュアンスが含まれてしまうような気がするわけですね。

その「奇をてらった」を避けるために、この「異現実」という言葉を使っています。


「異現実」の方は、「今見ている現実」とは異なるものであるが、ある種の「現実感を伴ったモノ」というイメージで考えております。

つまり、「現実離れしたモノ」や「有り得ないモノ」ではなくて、「ミョーに現実的なモノ」とか「ナゼか有り得るような気がしてくるモノ」と言った感じです。

でも、「異現実」と言ってみたところで、その辺のところがどれほど違うのかわかりませんけど、一応自分なりに、そんな風に言っているということですね。


そして、そういう「異現実の世界」を創り出すことが「芸術」だとも言えるんじゃないかと思っているわけです。


さらに言うと、私の場合は、その「異現実の世界」を「鑑賞者」に見せるだけではなく、「鑑賞者」に、その「異現実の世界」の中に入って来てもらいたいと考えているわけです。

つまり、外から眺めるのではなく、作品世界の中に入って見てもらおうというわけです。


実際、人が「芸術作品」に感動する時と言うのは、多くの場合、無意識のうちに「その作品の世界」の中に鑑賞者が入り込んでいて、その中で「作品の世界感」を共有出来ている時なんじゃないかと思うわけです。

そういうわけで、私の場合は出来るだけ「絵の世界」に入って行き易くなるように、「入り口」として絵の中に「枠」を設定しているというわけです。

 ※これは「物語り」で言うところの「枠物語」(『アラビアン・ナイト』に代表されるような)
  に近いもので、「異現実の世界」への「入り口」に当たるものだと思っています。

つまり、いきなり見せられたら「違和感」を感じるようなものでも、「枠」を通って、「異現実の世界」の中に入ってしまえば、「違和感」よりも、むしろ「臨場感」を感じられるんじゃないかと思うわけです。

そして、そういうところで生まれる、チョット違う「現実感」を「異現実感」と呼んでいるわけなのです。


この手法を取ることで、本来ならば「リアリティ」を感じられないようなモノに「ミョーなリアリティ」が生まれてくれれば面白くなるんじゃないのかなと思っているわけですね。


いずれにしても、いろんな人が持っている「異現実の世界」を見せ合うような、そんな「芸術感」が一般的に成っていけば、きっと「芸術」はもっと楽しい分野に成っていくんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「現実を壊すデフォルメ」と「異現実を創り出すデフォルメ」



「デフォルメ」と言うと「現実の形」を崩していくことを指して言う場合が多いと思うわけですが、「デフォルメ」には、「現実の形」とは根本的にチガウ「異現実の形を創り出す」というような「デフォルメ」もあってもイイんじゃないかと思っているわけです。

 ※本来の「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、ここでは一応「デフォルメ」
  ということで話をします。
  「デフォルメ」は『形を崩す』あるいは『形を再構成する』というような意味だと思い
  ますから、『形を創り出す』の場合は「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、
  『現実の形から離れる』と言う意味で、それを「一種のデフォルメ」と考えてみまし
  た。  
  おそらく、言語としては正しくないと思います。
   
「壊す」と「創り出す」の違いですね。
そこを重視していきたいわけです。


「デフォルメ」にも、『一度壊した形を再構成する』と言う前提があると思いますから、「創り出す」の要素もあるわけですけど、どうしても「デフォルメ」という言葉は「破壊的なイメージ」が強くなってしまうと思うわけです。

でも、そこを無視して、いっそのこと「破壊的な要素」をなくしてしまって、「創造的な要素」だけの「デフォルメ」を考えてみようというわけです。


そうは言っても、単なる「創造的な要素」だけでは、「デフォルメ」にはなりませんから、「現実の形を抜け出す」ということを前提にしているわけです。

まぁ、要するに、自分がそういう方向で作品を制作しているということなんですけどね。


そうは言っても、コジツケと言うわけでもなくて、そういう方向で制作していると、『これって、「デフォルメ」みたいな作業に成ってるんじゃないか?』と思うことがあるんですね。


一般的に言われているところの「デフォルメ」とは、まったく逆の経路をたどることに成るんですが、「現実の形」を崩すのとは逆に、なるべく何もない所から「異現実の形」を創り出そうとしていると、「現実のナニカ」に似て来るということがあるわけです。

『いやいや、現実の形に引っ張られてはいけないだろう』ということで、戻そうとするわけですが、どうしても戻れなくなる時が出てきます。

そういう「押し引き」の作業が、結果的に「デフォルメ」にとても近いように感じることがあるわけです。
(そういう絵は、「デフォルメ」された絵と似て見えると思います)

つまり、「現実の形」から始めて、それを崩していく過程と、何もない所から始めて「現実のナニカ」に近づいて行く過程が、順序は逆でも、結果的には似たような感じに成るんじゃないかと思います。


『だったら、普通の「崩すデフォルメ」でいいじゃないか?』と言われそうなんですけど、私はその「過程の違い」は大事だと思っているわけです。


「現実の形を崩すデフォルメ」によって制作された作品を見た人が、、最終的に辿り付く所は、やはり「現実の形」なんだと思うわけです。

結果的に、それがどんなに現実離れした形になっていたとしても、そこのところは同じだと思うわけです。
というか、それでないと嘘に成ってしまうと思います。

もしも、「現実の形を崩した作品」を見た人が、もしも、絶対に「元の現実の形」に行き着かないんだとしたら、その人は「何も見ていない」というのが本当のことだと思います。

つまり、「本当のこと」は、何も伝わらないということですね。


それに対して、「異現実の形を創り出すデフォルメ」によって制作された作品を見た人は、そこで「今までに見たことが無いナニカ」に出会うことに成るんだと思っているわけです。

たとえ、それが「現実のナニカ」に多少似ていたとしても、そこは同じなんだと思うわけですね。


もちろん、だからと言って、現実の模倣になってしまってもイイと言うことではないので、「自分の眼」をより厳しくしていかなければならないとは思いますが、少なくとも、それが模倣ではない所から生み出されたものである限り、それを見た人は「新しいナニカ」に出会うことに成るんだと思うわけです。


そこの所が、「異現実を創り出すこと」の「意味」なんじゃないのかなと。

そういうことを思うわけなのです。



「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」



私は「抽象表現」の中に「モノを描くこと」を取り入れたいと思っていて、それを「異・リアリズム」と呼んでいるんですが、その「異・リアリズム」の内容を言葉で表すと「シュルレアリスム」に近い感じに成る場合があるわけです。


確かに、「シュルレアリスム」も、やや現実離れした「モノ」を描くという性質があるという点では同じところがありますし、「シュルレアリスム」から、その後「抽象表現」に移行した作家もいたみたいですから、「抽象」と「具象」の中間的な位置にあるという意味では近い所もあるのかも知れません。
(実際の「絵」としては、だいぶ違うと思いますけど)


そこで、自分の考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイを考えてみたいと思います。

ここでは、主に「シュルレアリスム」とのチガイについて考えますが、「他のスタイル」との違いについても、今後考えていきたいと思います。

 ※私の場合「芸術の20世紀」を喪失するという考え方をしていますので、なるべく、
  このブログの中では、「20世紀の芸術」について書かないようにしてきたわけです
  が、『喪失しました』と言っても、実際に消去できるものでもないので、まぁ、少しくら
  いならいいかなと思うように成って来たので、この記事を書こうと思いました。

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まず初めに、「絵」の中で実際に使われる「表現形態」についてです。


いちばん大きなチガイは、「異・リアリズム」(私が考えている表現)においては、「現実的なモノ」を描きません。
少なくとも、極力描かないようにしています。

どうしても、現実から逃れられない部分は出てきますけどね。


その点で、「現実と非現実の対比」という手法が使われることが多い「シュルレアリスム」とはかなりのチガイが出てきます。

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  ※こういうのを「画像」なしで書くのって、不親切かなとも思うんですけど、
   こういうことを「画像付き」で書いてしまうと、それを見た人がなんらかの
   影響を受けると思うんですよね。
   例えば、『マネしちゃう』とかですね。逆に『マネしないようにしちゃう』と
   いう場合もあるでしょうね。
   いずれにしても、ここに書いてあることに縛られることに成ってしまうん
   ですね。でも、「画像」が無ければ「マネ」できないですよね。
   というか、文章だけを読んで参考にしても「マネ」にはならないでしょ?
   「マネ」って、実は「された人」じゃなくて「しちゃった人」にとっての「悲しい
   こと」だと思うんですよね。
   「画像付き」だと、もし、読んだ人が『これ面白いんじゃない?』って思った
   としても、そこから先は「マネするかマネしないか」しかなくなってしまうん
   ですね。「マネしない場合」は読んでも「意味」が無いし、「マネした場合」
   「悲しいこと」ですよね。
   まぁ、私の絵なんて、誰も「マネ」なんかしないでしょうから、心配しなくても
   大丈夫なんでしょうが、やっぱりせっかく記事を書くんですから読んだ人が
   『いいんじゃない?これ』と、万が一にも思ってくれたときに、少しでも参考
   にしてくれたら『嬉しいな』と思うわけですね。
   それで、「画像なし」にもかかわらずこ、こういう記事を書いたりするわけな
   のです。

   と言っても、実を言えば「デジカメ」持ってないという、単なる貧乏人なので、
   エラソウなことを言うつもりはありませんけど。

   追記:その後、「プロフィール欄」の「イメージ画像」と「サムネイル画像」を追
       加しました。上に書いてあることとはやや矛盾するんですが、この記事
       は一か月ほど前に書いたもので、その後、オークションで激安だったの
       でデジカメを購入し、それらの画像を投稿しました。
       (と言っても、デジカメの性能について知識が無いので本当に安いのか
       どうかもよくわからないんですけどね)

       そちらの画像は私の絵ですが、全体像ではなく一部分を拡大して切り
       取ったものです。

  再追記:さらに、その後「一枚だけの展示室」というカテゴリに、自分の作品を、
       一枚だけ展示するようになりました。
       上記のこととは、矛盾すると思いますが、ここでの話とそちらの作品との
       対応関係が、はっきりしているわけでもありませんのでご容赦ください。

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どうでもいい説明(イイワケ)が長くなってしまいましたが、続けます。


「シュルレアリスム」の場合、イメージ的には「非現実的」ですが、「現実を使わない」という方向性は弱いと思います。
むしろ、積極的に「現実」を描いていることが多いです。

実際、「シュルレアリスム」の絵では「現実」と「非現実」の対比によって、不思議な世界感を生み出していることが多くて、「現実的なモノ」と「非現実的なモノ」を直接対比させていたり、「現実的な背景」に「非現実的なモノ」を描いたり、「現実的なモノ」を「非現実的な状況(状態)」の中に描いたり、と言った「現実」と「非現実」の「対比」に特徴があると言ってもいいと思うわけです。


それに対して「異・リアリズム」においては、出来るだけナニもない状態から始めて、『そこに、ナニカを創り出す』ということを目標にしています。

つまり、「形」も「色」も「空間も」世界」もない状態ですね。
そういう状態から、そこに「異現実」の「空間」や「世界」を展開できたらイイなと思っているわけです。

そして、「その世界」、「その空間」の中に、『今まで、どこにもなかった「モノ」を創り出して、描けたら嬉しいだろうな』と思っているわけです。

ですから、当然、「現実」は出てこないわけです。

ただし、これはあくまで「理想」ですから、そうウマクはいきません。
やっぱり「現実」に引きずられてしまいますし、一旦、「現実」にとらわれてしまうと、そこから逃れられなくなるということはあります。

でも、少なくとも、積極的に「現実」を使って表現するということはありませんし、むしろ、出来る限り「現実」から切り離して絵を描くようにしています。

この「現実の有無」ということが、見た目としては一番大きなチガイだと思いますね。


次に、「思考的な方向性」のチガイです。


「シュルレアリスム」では「人間の潜在意識」を重視していて、「潜在意識」が人間の「真実」や「本質」に近いという考え方だと思います。


ところが、私の場合は「世界全体の本質」について考えてしまったわけですね。

それで、「世界というモノ」を現したいと思ってしまったわけです。
まぁ、当然無理です。

大き過ぎますからね。

でも、現したいわけです。

自分より大きいモノなんて見ることすらできませんから、現わせるわけがありません。

でも、やっぱり現したいわけです。


それで、仕方なく、「現そうとすること」で我慢することにしたわけですね。
つまり、そういうのが私のやっている「異・リアリズム」です。


チョット長くなってしまったので、次に続けます。




「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」(つづき)



前の記事の続きです。


私が考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについて、「表現形態」としては「現実」を使うか使わないかというチガイ、「思考」的には、「人間の潜在意識の探求」と「世界の有り様の探究」というチガイがあるということを前の記事に書きました。


そして、もう一つ、これも「表現」についてのチガイなんですが、「リアリズム」と「異現実のリアリズム」のチガイについて書いておこうと思います。


一般的に言うところの「リアリズム」は「写実」ですね。

つまり、「現実」を写し取ることです。
でも、私の場合、「異現実」を創り出そうとしているわけですから、当然、写し取るべき対象が存在していないわけです。

だから、創り出さないとならないわけですね。


それで、その「創り出す作業」にすごく時間がかかってしまうわけですが、さらに、その創り出した「世界」や「空間」や「モノ」を現すのに、「現実」を現すのと同じ「リアリズム」でいいんだろうか?と考えたわけです。

それで、「リアリズム」自体も創り出すハメになったということです。


つまり、「写実」ではなくて、「写・異現実」ということです。
その「異現実」の部分だけでなく「写」の部分も創り出そうということですね。

と言っても、前述のように、「写し取るべき対象」がまだないわけですから、「出来たモノ」を「写し取る」というよりは、「創り出しながら現わしていく」ということに成ります。

そういう作業を「異・リアリズム」と呼んでいるわけです。

 ※これを「抽象」と呼ぶか「具象」と呼ぶかは、見た人の自由だと思いますが、
  私自身はどっちでもいいと思っています。
  ただ、『抽象寄りかな?』と言う程度の意味で、『抽象なんだけど、モノを描
  こうと思っているんだよ』と言っているわけです。


その「異・リアリズム」の特徴を言うと、前にも記事に書いたことがある【絵画空間における「空」と「壁」】とか、【絵画空間における「接地」と「浮遊」】とかといった、「現実の世界」では、どちらかに決まっていることを曖昧にすることで「現実感」から離れた「異現実感」を生み出そうとしていることです。


「空と壁」というのは「抜けていく空間」と「行き止まりの空間」です。

「接地と浮遊」は文字通り「着地している」か「宙に浮いている」かということです。

これらのことは、「現実の世界」では物理法則などの自然の法則が支配していますから、必ずどちらかにカッチリ分かれているわけです。


だから、そこを曖昧にすることで、『これは現実じゃないぞ』という「異現実感」が生みだせるわけです。
これは「平面(絵の中の世界)」でしかできないことだと思っています。

 ※「写真」や「映像」で、これをやると「トリック」=「だまし」になってしまうと思います。
  「絵」でも、やっていることは「トリック」なんでしょうが、「絵」自体が一種の「トリッ
  ク」なので、「絵の中の世界」という約束事の中で、それをやっても、「だまし」には
  ならないということだと解釈しています。


また、「質・量」というのもそれらと同じような性質があると思います。

「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を曖昧にすることで、やはり「異現実感」が生まれると思っています。


「リアリズム」では、「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を上手く現せると、「リアル」に成るわけですが、それとは逆に、「質感」や「量感」を曖昧にすることで「異・リアル」に成るわけですね。

つまり、「リアリズム」では、布を描くときは「布らしいソフトな質感」を描き出せば「リアル」になります。
金属を描くときは「金属らしいハードな質感」を描き出せばいいわけです。

「量」で言えば、「小さいモノ」が小さく、「大きいモノ」が大きく見えれば「リアル」になるということです。


でも、目指すのは「異・リアル」ですから、そこを曖昧にするわけです。
(と言っても、まだ名前が無いモノを現すわけですから、それ自体が曖昧とも言えるんですけどね)

ただ、そこで、ただ単に曖昧にしたんでは、表現としての力が弱くなってしまうので、その「曖昧さ」を「リアル」に描き出そうとするわけです。

それが、「異・リアリズム」に成ります。


こういう、二極を成していると考えられているような「遠・近」とか「大・小」などだけでなく、「陽と陰」・「物質と精神」・「定型と不定形」なども含めたさまざまな意味で、二つのモノを一つに出来たらいいなと思っているわけです。
(なかなかうまくはいきませんけど)


「臨場感」や「ナマナマしさ」はあるのに、「現実感」はない。
そういう「異・現実感」を創り出したいわけですね。


敢えて言えば、この『生々しいのに現実感はない』というところが、「シュルレアリスム」との共通項かも知れませんね。


以上が、「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについての大マカな説明です。


そのうちに、今度は「抽象表現主義」や「アンフォルメル」とのチガイを書こうと思います。

『いえ、もうケッコウです!』

どうも、ご意見ありがとうございます。

ではまた。




「コンセプチュアル・アート」に飽きてしまった人はどうすればいいんでしょうか?



前の記事からのつながりで、「コンセプチュアル・アート」についての記事です。

私といたしましては、「コンセプチュアル・アート」を「芸術の中心」からやや離れた位置にピン止めしますということなわけですが、さて、私のように「コンセプチュアル・アートに飽きてしまった人」は、どうすればいいんでしょうか?

 ※よく考えたら、はじめからそんなに好きじゃなかったんですが、とにかく、そう言う
  「飽きちゃった人」もそれなりに居ると思うんですけど、なんで、誰も公にはそうい
  うことを言わないんでしょう?不思議ですねぇ。
  実は専門家の中にもけっこう居たりするんじゃないんですか?

「テレビ離れ」と同じように「芸術離れ」すればいいんでしょうか?
それとも、「現代美術」は諦めて、「チョット昔の美術」を見続けていればいいんでしょうか?
または、『えーい、もうオモシロければいいわ!』と言って、飽きていようがいまいがかまわず「コンセプチュアルの世界」に埋没していけばいいんでしょうか?
どうしても、どれもいいとは思えませんねぇ。

やっぱり、なんとしても「現在形」でありたいわけですし、「芸術」でもありたいわけです。
でも、「コンセプト」には飽きてしまったわけです。
そうなれば、「創り出す」か「見つけ出す」しかないと思うわけなのです。

「創作者」に位置する人は自分で「創り出す」ことに成るわけですし、「鑑賞者」の側に位置する人は自分で「見つけ出す」ことに成るわけです。

そこで、「ナニ」を創り出して、「ナニ」を見つけ出せばいいんだろうか?ということです。

いま、最も足りないものとは「ナニ」なのか?
今、最も「芸術」であり「現代」であり「コンセプチュアル」じゃないものとは、いったい「ナニ」なのか?

それは「普通のモノ」だと思います。

「芸術の20世紀」以来ずっと追い求めてきたもの、それが「普通じゃないモノ」ですから、そして、その結果として「コンセプト」に行き着き、さらに、その「コンセプト」に飽きてしまっているわけですから、やっぱり「普通のモノ」が、「今一番足りないモノ」なんじゃないかと思いますよ。

でも、「普通のモノ」と言ってしまうと、どこにでもあるという風に聞こえるかもしれませんが、実を言うと、今一番”ナイ”のが「普通のモノ」なんですねぇ。
そして、「普通」であり「現代」であり「芸術」でもあるとなると、かなり難しく成るわけです。

 ※「普通」というと、「一般的であること」のように聞こえてしまいますが、
  実は「普通」と「一般的」は、違う場合もあるということです。
  「普通」のモノ」は、「時代的に普遍的なモノ」ではありますが、必ずしも
  「数的な普遍性」を持っているとは限りません。
  逆に「一般的なモノ」は、「時代的な普遍性」を持っているとは限りませ
  んが、「数的な普遍性」は必ず持っています。
  現在に限って言えば、「一般的なモノ」が「時代的な普遍性」を備えて
  いることの方がまれなことだと言ってもいいと思いますし、「普通のモノ」
  が、「数的な普遍性」を持っていることは、ほとんどないと言っていいと
  思います。

  つまり、「普通のモノ」は、「少数派」であり、「一般的なモノ」は「今だけの
  流行」であるということですね。

でも、それが「今創り出したいモノ」なんだと思うわけですね。

ただ、残念ながら、どうすればできるのかがわかりません。
どこにあるのかもわかりません。
なにをすればいいのかもわかりません。

まぁ、その「何をすればいいのか?」を創り出さないとならなく成ってしまっているわけですから。

『ヤミクモ?』または、『テキトー?』
『いやいや、そんなんじゃないんだ!極めて堅実にアテズッポなだけだから』

ただ一つ、わかっていることと言えば、いま最も一般的で、いま最もたくさんあって、いま最も余っていて、いま最も飽きられているのが「普通”じゃない”モノ」だということですね。

というわけで、極めて堅実にコツコツと「アテズッポウ」をやって行けば、きっといつかは「普通のモノ」に出くわす時が来るに違いないと。


そんな風に思っているわけです。





「外見」によって表現することができる範囲



抽象画を描いていると、よく人から『これは何を表現しようとしているんですか?』と聞かれるわけですが、『それを言葉で説明出来ないから絵を描いてるんですけどねぇ』と答えるしかないので、とてももどかしく思うわけです。

そういう時には「抽象画」なんてやめて、誰もが難しく考えないでも見ることが出来る絵を描いた方が、少しはマシなんじゃないのか?と思うわけですが、『そういう絵では自分自身が納得できないんだから仕方がないよなぁ』と自分に言い聞かせるしかないというわけです。

で、『なんで納得できないのか?』というお話です。


それは、要するに「表現することが出来る範囲」の問題なんだと思うわけです。

「具象表現」というのは「現実のモノの外見」を使って表現することだと思いますが、その「外見」で現すことが出来る「範囲」に、やや不満があるということなわけです。
不満と言っても、実は「飽きてしまった」ということなのかも知れません。
つまり、「外見によって表現することが出来る範囲」に飽きてしまったわけです。

実際に、「外見」でもいろいろなモノが表現できますし、その表現力においても必ずしも「抽象表現」の方が上回っているということは無いように思います。
むしろ、「抽象表現」は非常に不安定で、伝わりにくい表現形式なんだと思います。
(これ、「抽象」をやっている人は認めた方がいいと思います)

それなのにどうして「抽象表現」を使うのか?と言えば、やっぱり『まだ出来ていないから』なんだと思いますよ。

 ※私は「抽象表現」は、まだ誰にも達成されていないと思っています。
  更に、おそらく今後も達成されることは無いと思います。
  つまり、「抽象表現」とは、達成不能な表現形式であるということです。
  この「不可能への永続的な挑戦」こそが「抽象」という作業であり、さらに
  その意義でもあると思っております。

確かに「外見」を使った「具象表現」でも、伝えられることもあれば伝えられないこともあるでしょう。
それは「抽象表現」でも同じです。
ただ、その「伝えられるもの」と「伝えられないもの」の範囲に違いがあるわけで、それで、まぁ『どうせだったら目新しいものを』ということに成るわけですね。

あとは、「チャレンジ」ですね。
「現在の芸術」において「挑戦する姿勢」を示すことは「芸術の重要な役割」の一つだと思いますので、「新しいこと」や「困難なこと」にチャレンジする姿勢は必要なんじゃないかと思うわけです。

それから、もう一つ「自己表現」ということがあります。
(本当のことを言えば「目新しいこと」よりも、こちらが重要ではあるわけです)
これも「現在形の芸術」においては、中心的な課題に成るわけですが、その「自己表現」には「抽象表現」が向いているということがあるんだと思います。
もちろん、「具象表現」を使っても「自己表現」は可能だと思いますし、「ナニカを表現すること自体」が「自己表現」であるとも言えるわけですが、「抽象表現」に「自己」が丸出しに成るというのは確かによくあることなんじゃないかと思います。
要するに、「自己」を隠す「外見」が無いので、「自己」が「丸出し」に成るんでしょうね。
逆に言うと、「具象表現」においては「外見」という「隠れミノ」があるために、「自己」が見えにくくなるということなんじゃないかと思うわけです。

さて、話を「外見によって表現することができる範囲」に戻すと、何が「外見で現すことが出来るモノ」で、何が「外見では現すことが出来ないモノ」なのか?ということですね。

まず、よく言われることで『感情のような精神的なものを現すために抽象表現を使うんだ』というのがありますが、実は、「感情」は「人間の表情」などの「外見」でも現すことが出来ますから、必ずしも、「抽象表現」でなければならないというわけでもないと思うわけです。

 ※「感情」をダイレクトに表現することは、「抽象」でも「具象」でもできないと思います。
  「具象」で言えば、「表情」や「しぐさ」を通じて表現するしかないので間接的な表現と
  ということに成ります。
  でも、「抽象」で直接的に「感情」を表現できるのか?というと必ずしもそうでもないわ
  けで、けっきょく使っているのは「色」や「形」でしかないわけですが、「その色や形」
  は「感情の色や形」ではなく『なんとなくこんな感じ?』という曖昧な根拠に基づいて割
  り出された「色や形」なわけですから、直接的に「感情」を表現しているわけではあり
  ません。
  ただ単に、『「他のナニカの色や形」ではない』というだけです。

では、「抽象表現でなければならないもの」とは、ナニなのか?
私は、それを「普遍的なもの」だと思うわけです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質というような意味です。
  「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」ではなく、あらゆるものの中にある「世
  の中の本質」に近い意味で言っております。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張ります!』ということで
  すね。

「精神」と言っても、所詮は「物質に宿っている精神」なわけですから「物質」によってあらわせるはずです。
つまり、「人間の精神」であれば「人間の外見(肉体や表情)」によってあらわすことが出来るということに成るわけです。

その逆に、「外見」で現すことが出来ないのは、「複数のもの」に共有されている「性質」であるわけです。
それが、「普遍的なもの」です。
「精神」であるか「物質」であるかということよりも、「個」であるか「普遍」であるかということの影響の方が大きいわけですね。

例えば、人間を描こうとすれば、必ず「男性」を描くのか「女性」を描くのか選ばなければなりませんし、花を描こうとすれば、「何の花」を描くのかを選ばなければならなく成るわけです。
そこで、もしも、「男性」と「女性」の両方を同時に表そうとすれば、「男性の外見」も「女性の外見」も、どちらも使うことが出来なくなってしまうわけです。
花であっても、二種類の花を一つの絵で現わそうとすれば、「どちらの花の外見」も使わずに表現しなければならなくなるというわけです。

そこで、「中性的な人」を描けばいいかというと、そうでもなくて、それだと表現されるのは「男性」でも「女性」でもなく「中性的な人」です。

たった二種類のモノを同時に表そうとしただけでも、「外見」が使えなくなってしまうわけですから、より一層「普遍的なもの」を現したいと思うならば、「いかなる物質の外見」も使うことが出来なくなるということです。

という所で、長くなってしまいそうなので、次の記事に続けます。




「外見」によって表現することができる範囲(つづき)



前の記事の続きです。


「外見」によって表現することが出来ないのは「普遍的なもの」だろうというところからです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質というような意味です。
  「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」ではなく、あらゆるものの中にある「世
  の中の本質」に近い意味で言っております。
  そういう性質が「普遍性」で、それを持っていれば「普遍的」です。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張りましょう』ということで
  すね。


一般的には、「精神」などの形が無いものを表現するのには「抽象表現」が向いているということに成っているかと思いますが、実は、「無形のもの」は、どんな表現形式を使ったとしても決してダイレクトには表現することが出来ないと思うわけです。
『形が無い』ということは、「像」が無いわけですから、ほとんど何も表現できないわけです。
というか、伝わりません。
というか、それ以前になにも描けない!

やはり、「無形のもの」であっても、何らかの「形」を使って表現するしかないわけで、その点では「具象」であっても「抽象」であっても、そんなに決定的な違いは無いと思います。
「抽象」では、多くの場合『形をボヤカシテいる』」ので「形」を使っていないように見えるだけだと思います。
それに、実を言えば「精神」や「感情」も「具象表現」の方が、むしろ人に伝わり易かったりします。


だから、「精神」のような「無形のモノ」を表現するには、必ずしも「抽象表現」である必要はないと思いますが、同じ「無形のモノ」でも「普遍的なモノ」を表現しようとした場合は「抽象表現」である必要があるわけです。


前の記事に書いたように、たった二つのモノでさえ、その二つのモノを同時に表そうとすれば、「外見」を使うことは出来なくなってしまいます。
「現実にあるモノの外見」というのは、必ず「一つのモノの外見」を指しているわけで、そこに「普遍性」を持ち込むことは不可能です。
(それでないと「そのもの」が「一個のもの」として存在できませんから)
だから、「普遍的なもの」を表現するには「現実の外見」を使うことが出来ないということです。

それで、「抽象表現」を使うことに成るわけですね。

要するに、「外見によって表現することができる範囲」は、「個別のもの」までということに成るわけです。

つまり、「普遍的なもの」を表現したい場合は「現実の外見」を諦めて「現実の外見ではないナニカ」を使わなければならなくなるということですね。


現在「抽象」と言われているものの多くは、その「現実の外見ではないナニカ」として「ボヤケタ形」を使っていることが多いわけですが、実際には「ボヤケテいること」には大した意味は無いと思います。
『現実のモノの外見ではない』ということが重要なわけで、「形」がハッキリしていても特に問題は無いと思うわけです。
確かに、「ボヤケタ形」は「現実のモノの外見」ではあり得ない所がありますが、「ボヤケテいること」で、「表現」としてもボヤケテしまうことが多いわけです。

 ※このことを「抽象」では「形による表現」ではなく、純粋に「色の表現」を目指してい
  るというような言い方をすることがよくありますが、「形のない色」というものは存在
  しません。
  ただ「形」をボヤカスことは出来るというだけです。
  その「形をボヤカスこと」で、確かに「現実の外見」からは離れられますが、表現自
  体もボヤケテしまいますから、表現力が弱くなってしまうわけで、それが現在「抽象」
  と言われている表現形態の最大の欠点に成っているわけですね。

要するに、「現実ではないモノの形」であればいいということです。
この「現実ではないモノ」のことを、私は「異・現実」と呼んでいますが、「非現実」と違うのは「現実ではないが生々しいモノ」というような意味で「ありそうなのに存在しないモノ」を作りたいので、「非現実的なモノ」ではなくて、「現実でないのにリアルなモノ」を「異現実」と呼んでいるわけです。

いずれにしても、「普遍的なモノ」を表現するのは、実際には不可能なのかも知れませんが、そこに向かう姿勢を示すことだけは出来るわけで、それこそが「現在の芸術」に与えられている領域なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「ほぼ不可能なこと」に対して挑戦し続けること、そのことから「成果」を得ようとするのではなく「挑戦すること」自体を目的とすること、そういう行為こそが「現在の芸術」が示すことの出来る唯一の「純粋性」なんじゃないのかなと。

だから、「不可能」か「可能」かではなく、その創作者がほんの僅かでも「可能性」を感じたところに自分の表現の方向を持って行って、そこに向けて最大限の力を注ぎ込む、それこそが、今「芸術がやるべき仕事」なんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけなのです。


 ※「現在形の芸術」においては、この記事に書いたことのような「不可能性」を追求
  しているところがあると思うわけですが、それを、如何に『スマートに』つまり「労
  力」ではなく「才能やセンス」を使って表現するかということを追求してしまってい
  ます。
  そして、そのことによって、現在の「芸術の行き詰まり」が生じているということは間
  違いのないことではないでしょうか?

  それは、つまり、「不可能性」の中に「可能性」を見を見つけ出そうとするという「芸
  術が本質的に持っている方向性」を放棄することに成るわけですから、当然の結果
  だと思います。
  
  要するに「才能」で出来ることは「可能なこと」までだということですね。
  「不可能なこと」を早い段階で切り捨てて「可能なこと」を人一 倍に上手く達成する
  のが「才能」と言うモノだと思いますね。

  だから、「不可能性を追求すること」と「それを才能でやろうとすること」は、初めから
  矛盾しているわけです。
  「現代美術」は、その矛盾を「如何に上手く誤魔化すか』を競い合ってしまっていると
  ころがあるわけです。
  『まぁ、そんなことやってれば行き詰りますよね』ということでしょうね。



「異現実の世界」は、創り出すもの



「幻想的」とか「幻想の世界」とかというと、現実離れした世界観というイメージがあると思いますが、実際の「幻想」は、けっこう「現実」をもとにしている場合が多いように思うわけです。
というか、「現実」との間の「小さなズレ」のことを「幻想」と言っている場合が多いという気もします。

 ※例えば「妖精」は「幻想」の代表的なものだと思いますが、ほとんど人間と
  同じ姿をしていますよね。
  (まぁ、羽くらいは生えてますけど)

だから、「幻想」は、必ずしも「現実」と対立するものとは限らないと思います。
とは言え、「幻想」を「幻想」たらしめている要素といえば、やはり、「現実離れした部分」ということになるのも確かなことだと思うわけです。


そして、その「幻想を幻想たらしめている要素」だけを集めていったらどんなものができてくるんだろうか?というようなものを、私の場合は「異現実の世界」とか「異・リアリズム」と言っているわけです。

つまり、「現実ではないもの」をかためて作り上げた世界ということです。
それが、「最も幻想であるもの」なんじゃないのかなと思うわけですね。

ただ、そこで問題なのは、その「異現実の世界」を見つけ出すための『ヒントがない!』ということなんですねぇ。

「現実」ではないので、「現実」の中に「ヒント」はありません。
それで、「自分」の中に「ヒント」はないかと思って探すわけですが、人間って「自分」のことが見えないんですねぇ。
「自分」の中には、きっとたくさんの「ヒント」があるんでしょうが、なかなか見つけ出すのが難しいわけです。
そうなると、あとは『ヤミクモ?』ということくらいしかなくなってしまうわけです。

そんな感じですから、きっと、人から見たら、テキトーにやってるようにしか見えないんでしょうが、自分といたしましては、なかなか四苦八苦しながらやっているわけで、楽しいと思うことなどほとんどなく、達成感もない中で、雲をつかむような作業を繰り返すのは、やったらめったら疲労感だけが残ることなわけですが、なぜか止めることだけはできないという、何ともどうしようもない状態と言えなくもないわけですが、それはそれで、けっこういい方なのかなと。

そんな風に思っております。

『勝手にやれば』

「ラジャ!」




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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