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⑵ 新たに区別された≪真術≫について

 1. ≪真術≫を区別する理由


宣言文にあるように≪真術≫は「真実(真理と言ってもよいだろう)の追究」という、

方向性を持つ芸術のための名称である。

敢えて、これを区別して扱うのには理由がある。


芸術の中には、心の最も深い部分(魂と言い換えることもできるかもしれない)に訴えかける領域が存在し、

そういった領域を有していることこそが芸術を芸術足らしめていることは確かなことであり、

人の心に最も深い感動を生み出すことができるのも、そういった領域にある芸術に他ならない。

そういった「芸術」の中心とも言える必要不可欠な領域に、

いま≪真術≫という名称を設定しようということなのである。


重要なはずのその領域が、これまで確固たる形で区別されて来たようには見えない。

ただ単に芸術と言った場合、芸術のどの領域を指しているのかが判然としなかった。

と言うより、これまで芸術をその中でさらに範疇わけすること自体がタブー視される傾向があったように思う。

その結果芸術の核をなす部分がどこなのかが極めて曖昧となり、芸術の本質が何なのかが

まったくはっきりしなくなってしまっている。


さらには、これと同じことが芸術の外郭についても言えていて、「20世紀」以後、芸術という概念の「枠」は

どんどん広げられ、今となっては「なんでも芸術」だし、「なんでもあり」だ。


その変容の過程で、『何をもって「芸術」とするのか』『「芸術」の中心はどこなのか』ということを追究し、

芸術の中に更なるジャンルわけをすることは「了見の狭い」「無粋なこと」とされ、排除されてきた。

それは時として「芸術」の中心から離れれば離れるほど「最先端」で「芸術的」であるかのような、

錯覚を生み出すほどになっている。


この状態をこれ以上続ければ、「芸術」は限りなく、広げられ、歪められ、薄められて、

「芸術」と他のものは区別ができなくなってしまうだろうし、

どこに本物の「芸術」が存在するのかもわからなくなってしまうだろう。

そこで今、「芸術」を明確に規定する基準を設けることと、

その中でも「芸術」の中心とする位置を決めておくことが必要となってきた。

私はそう思う。


この思いから、「芸術」を改めて現在必要な形で定義し直すとともに

「芸術」という慣れ親しんだ言葉とは別に、

私自身まだ耳慣れない≪真術≫という語を創設することを決意した。



これまでにも「純粋芸術(ファイン・アートなど)」と呼ばれる領域があり、

ここで言う≪真術≫のような性質を持った芸術の多くは

この領域に入れられてきたと言ってよいだろう。

しかし「純粋芸術」という言葉をよく考えてみると、やや矛盾した所がある。

そもそも、芸術という言葉には、既に純粋という意味合いが含まれていないだろうか?

揚げ足取りをしようというわけではないのだが、「芸術」にすでに「純粋」が含まれているため

「純粋」をつけた意味があまりないのである。


せっかく、その言葉で「芸術」の中核を規定しようとしたのに、その意図を理解しない人にとっては、

それは何の意味も持たなかったようである。

むしろ、逆にこの言葉の”仕掛け”によって、「芸術の中核からは遠い芸術」に

「芸術の中核にある芸術」と同じ市民権を与えてしまったのかもしれない。


もともと「純粋な芸術」と「純粋でない芸術」の間に境界線を引いて芸術を区分するのは難しいだろう。

後に詳しく述べるが、「純粋性が濃厚な(芸術の中心に近い)芸術」から

「純粋性が希薄な(芸術の中心から遠い)芸術まで」が

無段階に並んでいるということではないだろうか。

だからそこに、「純粋性の有無」で一線を引くことはできないし、どれにも純粋性は含まれているので

「純粋芸術」と一括りにされてしまうのである。


このような小さな”仕掛け”や”つまづき”が「20世紀」という時代には必ずと言っていいほど

「誤謬の塊」になってしまうという「20世紀の誤謬」の一例だろう。


さて、そこで、なぜ「真実の追究」が出てくるのかというと、「真実」は「純粋」なだけではなく

「純粋以外の要素を含まない純粋」だからである。

つまり、「真実」を基準にすることによって「純粋」以外の要素を排除し、

「芸術の中核にある芸術」だけを抽出して規定することができるのではないかと思っているのである。


そしてまた、「真実」こそは人間の究極の命題であり、また「芸術」が「哲学」と双璧を成して

過去から、そしておそらく未来においても永遠に求め続けるべきものだからである。

「哲学」が論理や思考によって「真実(真理)」を追究」したのに対して

「芸術」は感性によってそれをしてきた。

一言でいえば「真実」こそ「人類永遠のテーマ」なのだ。


しかし、ここで問題は、人間が「真実」に到達することは不可能だと言うことだ。

「究極の命題」であり「永遠のテーマ」であるわけだから仕方ないのだと思う。


私はこの点については受け入れるべきだと思っている。

現在「芸術」に与えられた課題の中に「不可能への挑戦」が含まれてしまっているのだと思う。

むしろ、望んで、これに対峙する姿勢が必要なのであり、

「芸術」において「安易」「簡単」「わかりやすい」を目指すことは

全く無意味なこととしか、わたしには思えない。

それらを目的とするのであれば「芸術」以外の場でやればいいと思ってしまうのは私の傲慢なのだろうか。

少なくとも私には、敢えて「芸術」の場でそれらの「安直」を要求する側の意見の方が

よほどズレているようにしか見えない。


また、作り手(創作者)の側にとっての「簡単」と受け手側(鑑賞者)にとっての「わかりやすい」は別物だ。

そして、どちらにとっても「簡単」や「わかりやすい」は最低限必要なことではあるが、それ以上は無用だ。

それは「わざわざ難しくしている」や「不必要にわかりにくい」でなければ良いと言う程度のことだろう。


それ以前に、「強烈に一発でわかる」ような≪芸術≫に出会ったとき、「簡単」「わかりやすい」などという

陳腐なセリフは出てこないのではないのか?と問いたくなってしまうのである。

要するに、「簡単」で「わかりやすい」ことよりも「本物」であることのほうがはるかに重要であり、

他のことは大した問題ではないのである。


難しければ何度でもやり直せばいいし、

わかりにくければ少し立ち止まって考えればいいだけのことなのだから。


上に述べたことを簡単にまとめておく。

「芸術」において、感動を生み出すことができる領域こそが、「芸術」を「芸術」足らしめている。

その領域では「真実の追究」が必要と考えられる。

その「真実の追究」は困難であり、安易な姿勢で理解しようとすれば誤謬に陥る恐れが高い。

そこで、その領域を特に区別して規定する必要があると判断したため、

≪真術≫というまだ誤謬にさらされていない新しい名称を設け、

より狭義の定義づけを行った。











2.≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義

 さて、≪真術≫以前に≪芸術≫という分野は、今まで正しく定義されてきたといえるのだろうか。

私はこの点については懐疑的である。


≪芸術≫という伝統ある文化につての定義づけが、

今もってなされていないなどとは考えづらいのだが、

どうやらそういうことらしい。


19世紀以前においても、漠然とした「芸術の定義」はあったのだろうが、人々の価値観の変化が

緩やかであったために、特に意識して厳しく「芸術の定義」を吟味しなおす必要はなかったのではないだろうか。
(おそらく曖昧さを残しながらも少しづつ修正されていたものと思われる)

ところが、その習慣を維持したまま、「20世紀」の急激な意識変革にさらされた人々は、「芸術の定義」を

その都度更新できずに、それはいつの間にかズルズルと曖昧になり、

後ずさりするようにその範囲を野放図に広げてしまった。


そして数十年を経て「なんでも芸術だ」「新しいことをやったもん勝ちだ」になってしまったのではないだろうか。

それまで、漠然と「技術や美的感覚に優れたものが芸術に違いない」と思っていたのに、

突然、「こんなに醜くても芸術なんですよ」

「こんなにヘタクソでも芸術ですよ」

「こんなにクダラナイモノでもあなたは芸術じゃないと証明できるのですか?」とまくしたてられて、

芸術以外の場面(科学や工業技術など)でも価値観の逆転を痛感させられていた人々は、

「やはりこれも認めるべきなのだろう」「取りあえず芸術だと言っておこう」

と思ってしまったのではないだろうか。

そして、これが最悪だったのだが

「一度言ってしまったために引っ込みがつかなくなってしまった」のである。

その後は、誰もが「時代遅れの頑固者」「新しい感性が理解できないカワイソウな人」

と思われるのが嫌で、

「芸術の定義」を明確にしなくなり、そのかわりに「気の利いたキャッチコピーのような定義」が

使われることで益々「芸術の形」を曖昧にしていった。

それらの「キャッチコピー型定義」には各々オリジナリティーがあって、

それぞれに一理あるものではあったのだと思う。

だが、それらは一人一人の意見に過ぎず、定義と呼ぶほどの普遍性を持つには至らなかった。

つまり、いろいろな人が入れ代わり立ち代わり「芸術とは何か?」について別のことを言うから、

普遍的な定義が形成されなかったのだろう。

むしろ「オリジナル」が増えてゆく度に「定義」としての普遍性が失われていったのである。

そんなところが主な流れではなかったかと思う。


せっかく≪真術≫を新設したのに、それを包括する≪芸術≫の解釈が曖昧ではあまりに心もとない。

そこで≪新生芸術≫と≪真術≫の未来のためには

普遍性のある「芸術の定義」が必要不可欠であると判断し、

今、私なりに考えられる範囲での定義を記しておこうと思う。


ただし、今のところ、これはまだ「身勝手な自説」の一つに過ぎない。

その意味では、「20世紀における定義」と同じようなものである。

だから、≪新生芸術の20世紀≫がスタートしてから、この定義が時代の規範として吟味され、

過不足があればそれを補われたのちに新たに承認されて

ゆっくりと受け入れられて行くことが望ましいだろう。

その過程においてこの仮定義を「たたき台」にして

普遍的な時代の芸術概念が固まってゆくことを期待している。


   ≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義

『 芸術とは、作者の「創作衝動」によって創作され、

  作者の「能力の限度」に応じて完成とされた創作物とその創作過程である 』

♯1つまり、純粋に創作衝動によって作られたものは芸術(の中心)に近く、他の要素によって左右されたものほど 
芸術(の中心)から遠い、そして作者の能力の限界に近いところが引き出されたものは芸術(の中心)に近く、
それより手前で、投げ出されたものは芸術(の中心)から遠い、ということである。

♯2「どんな分野(ジャンル)か」とか「どの程度の完成度か」といったことは芸術であるか否かには関係ない。
能力の低い人が自己の限界に近いところに到達したのであれば、もしも、それが完成度の低いものであっても「芸術(の中心)に近い」ということになる。ただし、「能力の限界に近いこと」が作品上に表現されていてはじめて成り立つ話なので、むしろこれは難しく、完成度を上げていく中で能力の限度も高めていく方が、むしろ確実な方法かもしれない。

※以下、「芸術に近い」=「芸術の中心に近い」・「芸術から遠い」=「芸術の中心から遠い」
※ここで「芸術に近い」「芸術から遠い」は、「芸術である度合」(以下「芸術度」と呼ぶ)を判断するための指標であり、作品や作者の優劣を判断するための基準にはならない。




「♯」以下の説明文にもあるように、この仮定義にはジャンルや完成度による基準を設けていない。

言い換えればどんな種類のものでも芸術となりうるし、極めて簡単に作られたものでも芸術と名乗ることを

許されるということである。

これは一見「20世紀」における芸術の扱われ方と似ているように見えるかもしれない。

確かに芸術という文化をより自由に広くとらえようとしたという点で似ているのだろう。

しかし、「♯」を付した説明文をよく読んでもらいたい。

ここで言うところの「芸術に近い」・「芸術から遠い」という言葉で言っていることとは

「どんなものでも芸術と言うことはできるけれど、芸術から限りなく遠いものを芸術と言って

何の意味があるのですか?」ということだ。

「20世紀」との最も大きな違いは「なんでも芸術だ」をやめて「なんでも芸術ととることも可能なのですが、

あなたはどうしますか?」に変えたところだ。

芸術か否かの判断を鑑賞者に委ねたのだ。
(それだけ真剣に「芸術」と向き合ってほしいという意味を込めて)

「20世紀の芸術」においては常に難解な芸術論が先行し、

その間、一般の鑑賞者は蚊帳の外に置かれ、専門家なる人たちが

一定の結論(場合によっては不可解な)に到達した後で、

鑑賞者はその≪天の声≫をすでに定説であるかのように

聞かされて、眩暈がして思考が麻痺した状態で「さあ、この芸術をどう判断するんだ」と迫られ、

しかたなく「すばらしい!」と言ってしまうという傾向があったように思う。

(ここで、難解であること自体が悪いことのように言われる傾向があるが、難解さは決定的な問題ではない。
一般人だってそんなに理解力が無いわけではない。実は、「上から言われる」ということが問題なのであって
「難解さ」はその理論的な矛盾や論旨の強引さをごまかす為に使われていることが多く、ほとんどと言ってもいい
ぐらいだろう。理解力が足りないのは専門家のほうだったのかもしれない)

そのような事態を繰り返さないために、この仮定義によって、上の立場から判断を下す権限を

「専門家なる人たち」から剥奪したとも言えるのである。


そして、この仮定義はもう少し正確にいうと、定義というよりも「芸術の物差し」なのだ。

この仮定義においては芸術と芸術でないものを分けるのではなく
(本来定義とはそういうものかもしれないが)、

芸術に、より近いか遠いかを計測するわけだ。

但しこの「芸術の物差し」には目盛りに当たるものはない。

当然、使う人によって、また使い方によって、違う数値を導き出す可能性がある。

現時点で私はそれでいいと思っている。

≪作者の創作衝動≫と≪作者の能力の限度≫という二つのキーワード(指標)だけで十分だと思う。

よく吟味すれば二つの言葉だけでも芸術を計ることはできるはずだ。

細かい規定を設けてしまうと、ここでもまた誤謬に陥り結果的に大きな誤りを招く可能性がかえって

拡大してしまうだろう。


むしろ二つのキーワードだけを念頭において直感的に判断していった方が大きな「ズレ」を起こさずに

済むのではないだろうか。というより、「ズレ」があっったとしても、それが「純粋な判断」の結果であれば、

むしろそれが、その時点でのその人にとっての芸術のあるべき位置ということなのかもしれない。

また、少し視点を変えてみれば、その判断が純粋なものであるか否かに関わらず、

全ての判断が「ズレ」ていると言うこともできるだろう。

要するに、「ズレ」自体が問題なのではなく、そのすべての「ズレ」た判断のなかで、

ごく一部の「ズレ」た人の意見だけが、権威のあるものとしてまかり通ってしまうことが問題なのである。


とにかく、今後は「専門家なる人たち」の判断に出会うたびに、それらも全て「身勝手な自説」に

過ぎないということを意識してもらいたい。

一般人の「自説」と何ら変わることはない、すなわち「芸術の物差し」の自分の好きなところに点を打って

目盛りにしているだけで、難しい理屈でその目盛りの点が正確な位置にあることを主張していても

その正確さとは彼らにとっての正確さであって、ほかの人にとっては無意味である。

彼らはいまだに19世紀以前の一元論の世界に居て、「正しい」があると信じているのである。
(これは前衛的な芸術を称賛している場合でも同じである)

  ※ここでの「正しい」は、事細かな部分にまで「正しい」を規定しようとすることを指している。
   最低限の基準としての「正しい」とは別のモノと考えている。

つまり、彼らは≪100年回帰≫した後の我々からですら、

さらに100年遅れているのかもしれないのだ。

彼らがここまで長く存在し続けたのは≪20世紀≫が空転していたからであり≪喪失の世紀≫の中で

真空パックされていたから、そのままの状態を続けることができてしまったのだ。

我々にはその真空パックを開封して次の時代へ進む準備ができている。

もう彼らの論に耳を傾ける必要はない。

というよりも、もう今後は彼らの言っていることの意味が解らないかもしれない。

(もともと他人が聞いても理解できないようなことしか言っていない者もいたのだから)

真空パックされていたのは皆同じだ。

違うのはそれを開封して本物の空気に触れたときに、即ち≪新生芸術の20世紀≫がスタートしてから

どう考えどう行動するかだ。



ここで、ここまでの説明を補足すると、「芸術の仮定義」においては芸術を最大限に拡大して

解釈しているのに対して「≪真術≫の定義」では芸術を最小の一点でとらえている。

つまり「芸術」は限りなく広い平面で有り、≪真術≫はその中心の一点である。

「芸術」の平面にはあらゆるものをどこにでも置くことができるが、≪真術≫では置くものは限定されないが

その場所は一点から外れることが無い。

そして「芸術」の平面上にある≪真術≫を含むあらゆる点に

それぞれ「深さを規定する軸」があると思ってもらいたい。

そこでは、中心に近いからと言って必ずしも深いとは限らないし、遠いから浅いでもない。


しかし中心に近いことは、それだけ「芸術度」が高いことを意味するから、「芸術的」であるとはいえるわけだ。

また、逆に中心から遠ければ「芸術度」は低くなるが、それは平面上の水平方向に限定した

「低い」=「中心から遠い」であって「深さ」は「深さ軸」によって規定されることに成る。

例を挙げて言うと、極めて純粋に「真実の追究」を行い、

その創作者が全力を出し切ったという軌跡が現れたような

作品があれば、それは深い領域にありさらに「芸術度」も高い≪真術≫の作品である。

また、工芸作品やエンターテイメント性の高いものなど、芸術の中心から少し離れた位置にあるものでも、

その創作者がそれぞれの位置において相応の純粋性を保ちつつ、全力を出したものであれば、

それは、「深さ」については同じように深い領域にあると言えるのである。

ただし「芸術度」においては、やはり低いと言わなければならないということになる。


そしてこれらの定義においては、実際の「芸術」をどの位置に置いてどの程度の深さにあると判断するのかは、

定義を使う各個人に任されるということになる。


本来定義とは、ある事物を規定し、明確な線を引いてその事物の範囲を限定するものだが、

この二つの定義においては「芸術」と「真術」を規定してはいるが、その線引きは確定せずに、

各個人の裁量において確定することを要求しているのである。


これは一見曖昧に見えるが、あくまで使う者が線を確定して初めて定義が有効となるはずだから、

それが確定されていない段階で定義を用いることができないわけで、

そこに曖昧さが入り込むことは無いはずである。
(他の人から見れば、それは曖昧に見えるだろうが、それは本人の中での曖昧さではない)










⑶≪真術≫の不可能性                              1.≪真術≫は不可能なのか?


   1.≪真術≫は不可能なのか?


前にも少しふれたが、≪真術≫の不可能性については、もう少し詳しく説明しなければならないだろう。

わざわざ新しい名称まで設定しておいて、いまさら言いにくいことなのだが、

≪真術≫は、とても「不可能性」が高い分野なのである。

つまり平たく言えば「何も達成できないかもしれない」と言うことなのである。


ただし、わざわざ「不可能性」というやや不自然な言葉を使うのには理由がある。


それは、完全に達成されることはないだろうが、

「近づくことはできる」し、「その近い位置にとどまり続ける」ことができれば、

何らかの成果を残すことができる可能性はあると言うことである。

それから「不可能」なことを行うという行為自体に意味があるということも含めて、

この「不可能性」という言葉を使っている。


なぜ不可能なのだろうか。

それは「真実」という≪観念≫があまりに純粋すぎて、

「完全に純粋には成れない人間」には把握することができないからだ。

言い換えると人間の純粋性は不完全だから、完全に純粋な≪観念≫を

把握する(頭に想い描くことを含めて)ことはできないので、

完全に純粋な≪観念≫である「真実」を

把握することはできないのである。


うまく説明できていないと思うが、

要するに、不完全な道具で完全なものは創り出せないということだろうか。

人間は「真実」を自明のこととして、直感的に感じ取ることぐらいはできても、

把握する(論理的に)となると「不可能」としか言いようがないのである。

把握できていないものを物質化するということは「ほとんど当てずっぽう」になってしまうのである。
(次に≪真術≫のかすかに残された可能性について述べている)

従って、≪真術≫は最も「不可能性」が高い分野だと言わなければならないのである。











2.≪真術≫に残された可能性

 
 上で述べた内容からすると、≪真術≫とはイメージ(観念)の中だけに存在する

バーチャル(仮想的)な分野で実体のある作品は存在しないということになってしまいそうだ。

そういうわけではないのだが、あくまで理論上の話になると「不可能」となってしまう。
(「できる気がしない」というのが本音のところかもしれない)


ちょっと話がややこしくなってしまうが、理論上では「真実」の物質化(表出)は「不可能」のようだが、

それに近づくことは可能かもしれないし、近いところに留まり続けることができれば、

もう少し正確な「真実」を物質として表出することができるかもしれない。


もちろん完璧には程遠いと思うが、

「これは自分にとっての「真実」である」と思えるような作品を得られることもあるのかもしれない。
(「真実の断片を集めたもの」と言った方がいいのかも知れないが)


そこにおいてのみ≪真術≫の可能性がかすかに見えてくるのである。


しかし、肝心な「真実」が見えない中で

「如何にして、それに近づきそこに留まれば良いのか?」と言うことになると、

もう正直言って途方に暮れるしかない。


しかし、そこでただ一つだけできる事がある。

それは「真実を”追究する”こと」ではなく「真実を”追究しようとする”こと」だ。

これは、やろうとしさえすれば、できることだといえるだろう。


ただ、これもまた、かなり困難なことだと言わなければならない。

目標である「真実」は見ることすらできず、それを表現するすべも確かなものは何もない、

いわば完全に手探りの状況で、常に「真実を追求しようとする」という「姿勢」を崩すことは許されない。

さらには成果の期待できないこれらの作業を

最大限のエネルギーを注ぎ込みつつ継続して行くことが求められるのである。


見返りがほとんど期待できないこの作業を、楽しいと思うことはほとんどないだろう。

しかし、この作業を繰り返す中で、その過程が作品に記録されて行くのである。

それはある意味、否が応でも記録されるだろう。

好むと好まざるとにかかわらず、記録されてしまうので、それをコントロールすることは難しい。

だからこそ「姿勢」を崩すことはできない。

「姿勢」を崩してしまえば、それが記録され不甲斐ない作品になるだろう。

しかも「姿勢」を崩さず維持し続けることができたとしても、

表現における手法はあくまで手さぐりなわけだから、

必ず成果が得られるというわけではない。


しかし、何かが記録され続ける。


ただ、その記録をコントロールして成果に導くことができないので、

とにかく作業を続ける中で、「これかな?」という記録を残して

「ちがうかな?」という記録を消していくということぐらいしかないのである。


つまり、≪真術≫においてできることは、「真実」に対峙する「姿勢」を示し、創作の過程を通してそれを

維持し続け、ひたすらそれを記録し続けることのみだということだ。


このように言ってしまうと、どうにも希望が持ちづらい感じだが、それが現実だから仕方がない。

これを受け入れることが嫌ならば≪真術≫という作業は、残念ながらあきらめるしかないのである。


ただし、過去の作品(有名作品に限らず)において、

これらの過程を通過して一定の成果を収めたと判断できるような作品はあるわけで、

それらが≪真術≫の概念に当てはまるような創作理念に基づいて制作されたか否かは

作者本人にしかわからないことかもしれないが、

少なくともそのような作品が存在するのであれば

≪真術≫の可能性を示す物的証拠となるといって差し支えないだろう。

(ここではどのような作品がそれに当たるのかについては各人の判断に任せたい。
 どんな作品をイメージしても論旨に影響はないはずだ)


それから、希望の持てそうなことがもうひとつある。

上記のような作業において「才能」や「技術」はほとんど役に立たない、

それは、まったくの「凡人」でも同じ可能性があるということでもある。

というよりも、むしろ「凡人」のほうが有利かもしれないのである。


つまり、上記のような「不可能性」の高い作業を前提とした場合、

「できること」に慣れている「才人」よりも

「できないこと」に慣れている「凡人」の方が、少しだけ有利だということだ。


「才人」は経験したことがないほどの「できない」に疲れ果ててしまうだろうし、

何よりも彼らには、ほかに行く場所がたくさんあるから、

そちらで「できるやつ」と言われた方がはるかに気持ちがいいだろう。


だから、彼ら「才人」は≪真術≫にとどまることが困難になるだろうことが予想されるわけだ。


要するに、≪真術≫に関しては、「能力」においては「凡人」でも「才人」でも大差ないのだが、

その経験における差が現れてくるということだ。


ともかく、これらの作業における「不可能性」の高さから

≪真術≫は「芸術」の中心にあるとも言えるのである。
(先にも述べたように「不可能への挑戦」は芸術の課題であるため)


今わたしに言えるのはこれぐらいだが、一応、可能性がないわけではないと思いたい。

ただ、「高すぎる目標を設定してしまったのだろうか」という「迷い」もないではない。

そして、この「迷い」について、次に述べることになる。











3.≪真術≫における「迷い」について / 「迷い」の時代へ

 前項で≪真術≫においては作者の「真実の追究」に対する「姿勢」が重要であると述べたが、

それではその「姿勢」とはどのようなものなのだろうか。


ふつうに考えると「姿勢が大事だ」と言うとき、「迷いのないきっぱりとした姿勢」を指す場合が多いだろう。

しかし、ここで求められているのは、先に述べたように「真実を追究しようとする姿勢」である。

つまり「不可能に挑戦する姿勢」と言い換えることもできる。

そしてさらに言うなら、それは「迷いの姿勢」なのである。

不可能なわけだから、当然迷わずにできるはずはないということだ。


つまり、普通に考えるのとはまったく逆に、一見、一貫性がなくはっきりしないように思われがちな

「迷いの姿勢」が重要な要素になるのである。


ただし、ここでいう「迷い」とは一般的な「迷い」とは少し違う。

それは決められるはずのことを決められずに迷ってしまうというのではなく、

決めるのが到底困難と思われるようなことについて決断を迫られた時の「迷い」であり、

さらには一つの決断を下しても、すぐにまた次の決断を迫られるという

極めて厳しい決断の連続において、揺らぐ心理の不透明感を指したものである。


それは傍から見れば、まったく「きっぱりしない」フラフラと「決断力のない」「迷いの姿勢」に

見えてしまうのかもしれない。

しかし、その内部で起きていることは、見た目とは裏腹に、極めて厳しい「姿勢」を保った状態で

一つ一つの決断を下し続けていくという作業なのだ。

だからこれをただの優柔不断や曖昧さと一緒にすることはできないのである。


こう言うと、「迷い」が急に格好良く見えて来るが、それもまた少し違うように思う。

上記のような心の動きがあるとは言え、「迷い」が「迷い」であることに間違いはない。


やはり、そこには人間の「弱さ」や「情けなさ」があるだろうし、今まで「天才」や「巨匠」と呼ばれてきた者が

必ずどこかに持っていた「自信」や「風格」は無く、どちらかと言えば「普通の人」に属する者に付き物の

「凡庸」があるのだろう。


反面、「天才」や「巨匠」には威圧的なところがあって、

上から人を押さえつけるような「偉そう」な感じもあるが、

「迷い」の渦中にある人たちにはそういうことは無いだろう。


どちらを選ぶかは自由だが、私に言えることは「天才の時代」は終わっているということと、

「迷いの時代」が来るだろうということだ。


わたしなら、どんなに「見栄えが良く」ても終わっているものは選ばない。

多少「情けない感じ」でもこれから来るものを選ぶだろう。


それに、私は「情けない感じ」のやさしさや奥深さ、そして何より「人間味」が好きなのだと思う。

そういった「人間性」こそが、「現在」を救うものだと思うし、未来を切り拓くものだとも思う。


そして、これもこれからの時代に重要度が増す(見直される)と思われる「普遍性」は

「普通の人」にこそ創り出せる物だとも思っている。


それはつまり、人間が「神」という救世主に頼っていた時代が終わり、

人間それも「普通の人間」が、

自分たち人間自身を救うべき「救世主」に成らねばならない時代がやってきたということだろう。

話がやや飛躍してしまったが、足をすくい合っている時ではないことだけは確かだ。


さてそもそも、この「迷い」と「迷いの姿勢」は何に由来して重要な要素となったのだろうか。


前述のように≪芸術の20世紀≫に置いては、

「神的世界観の瓦解」~「精神的基盤の喪失」~「既成概念の破壊」~「急進」~「混迷」

と続いたわけだが、そこで起きた「混迷」こそがこの「迷い」に当たるものだ。


つまり、本来ならば「混迷」が渦になりすべてを飲み込んでしまうようになる前に、

「迷い」が芸術の本質的な部分に関わる要素になっていくべきだったということではないだろうか。


それまで信じられていた世界観が崩壊してしまったのだから

「迷い」が発生したのは当然のことなわけで、

その事実をそのまま「時代の真実」として、表出し作品化できていれば、

力強い作品になっていたはずなのに、

まだ用意ができていなかった「20世紀」初頭の人々は「時代の本質」を受け入れきれずに、

なんとか「きっぱりとやりきってしまう」方向へもっていってしまったのである。


人々の意識が急激な変容を遂げて行く「20世紀」初頭にあって、

人々が最も見たくなかったのが、自分たちの心の中にある「不安」であり、

それを煽る「迷い」だったということかもしれない。


そしてこの「やりきってしまう」言い換えれば「新しいことをやったもん勝ち」というスタイルが

≪芸術の20世紀≫の方向性として決定づけられてしまったことで、以後100年間の空転が

生み出されてしまったということだ。


とはいえ、あまりに意識の変容の幅が大きかったために

「不安」や「迷い」から完全に目をそらすことはできずに、

どこかでそれらを求めてしまうところもあって、「不安」や「迷い」をテーマにした作品や

それらを感じさせる作品は、この時期にはむしろ多いと言えるだろう。


しかし、それらの「迷い」作品は必ず(と言っていいほど)どこかに、はぐらかすような要素

(ユーモラスだったり、デザイン的に簡略化されていたり、奇抜だったり)があって、

前面に「迷い」は出てこない。

むしろ「はぐらかし」のほうが、先に強いインパクト与えるような構成(仕掛け)になっていることが多い。


そしてこの時代において人々は驚くほど、これらの「はぐらかし」作品には寛容であり続けたのである。
(これらを「時代の傑作」とすることが結果的にはいつも受け入れられてしまった)

おそらく、これは本当に寛容であったわけではなく、

難解な理論や極端に「ヒネラレタ・コンセプト」について行く気になれずに、

面倒だから「寛容な振りをした」または「しぶしぶ寛容な態度をとった」

そしてさらに「それに対して寛容でいることで自己の内の『不安』と向き合わずにいられたのも好都合だった」

ということだったのだろう。


これらの難解な理論や「ヒネラレタ・コンセプト」を本当に好んでいる人もいたのだろうが、

それが多数派であったとはとても思えない。

そして、誰もが面倒臭がってまともに批判しなかったために、

徹底した検証がなされないまま、おそらく少数派であったと思われる、その人たちの意見が

≪芸術の20世紀≫の方向性を決定してしまったところに大きな問題がある。


ところがその反面「真実の迷い」作品は少なく、(おそらくそれは19世紀後半から20世紀初めごろには

芽を出していたにもかかわらず、その後姿を消してしまったように思える)この社会に「不安」「迷い」が

激増していたはずの時期に、それらは「はぐらかされて」しまったのである。

そして、この「はぐらかす」という態度、言い換えるなら「真実」から目をそらして見ないようにする「姿勢」が

「迷い」を「混迷」へと変化させてしまったのである。



また、この過程で「抽象化」という言葉が「はぐらかす」のに便利なアイテムとして使われてしまったことも

「真実の迷い」作品が出てこられなくなってしまった原因なのかもしれない。


「抽象」は実は「迷い」を現すために使われるべきであったと、今私は痛感している。

実際は「抽象」か「具象」かの問題ではなく、また絵画理論における「抽象」の問題でもない。

「迷う」こと自体が最も「抽象」的なことではないかと痛感しているのである。


それはともかくとして、「20世紀社会」において「迷い」が敬遠されたことは、

ある程度やむを得ないことであったと思う。

だが、それに「芸術家」が追随してしまったこととなると許容範囲を超える。


世界や事象の真の姿を見つけ出して表出するべき「芸術家」が、

「見失ってしまっている時代」の核心に目を向けず

盲目的に「時代の要求」するものを創り続けたことは、やはり批判されるべきことである。

「20世紀の巨匠」たちが、自分に「天才」の名が与えられたことが何を意味するのかを見抜こうとせずに、

それを与えた「時代のワナ」にまんまとかかって囚われ続けたこと、そして何より、この世を去る前に

「時代」における自己の立ち位置を修正できた者が全くいないことは、

悲しいことだと言わざるを得ないのである。


ここで断っておくが、上に述べたことは本来の主旨としては「20世紀の芸術家」批判でもないし

「20世紀の芸術」批判でもないし「20世紀」批判ですらもない。

実は、私は「芸術の20世紀」は、その時点では必要だったと思っている。

「巨匠たちの奮闘」があってこそ、今わたしがここで論じていられるのだと思っている。


それでは、なぜ批判的になってしまうのか?正直言えば、それは今私が困っているからに他ならない。

とにかく私には現在の状況だけは受け入れがたいし、どうしてもそれが私だけのこととも思えない。


そして現状に至った原因を考えると、そこには必ず≪芸術の20世紀≫があるのだ。

批判することが目的なのではなく、現状を改善するために言っていることだ。

彼らを讃えることで、現状がよくなるなら私はそうするかもしれない。

でも、そうは思えない。


取り敢えず「20世紀」を止めなければ何もできない。

それが今の私の気持ちのすべてだ。

わたしは、「巨匠たち」が時代に翻弄されていたことに間違いはないと思うのだが、

それは彼らのせいでそうなったのではなく、「20世紀」の「時代の力」が過去のそれとは桁違いの

大きさになってしまていたためなのではないかと考えている。


そして、その膨張しきった「時代の力」を鎮静化て、

少し小さくしてからでないと、何もできないということなのだ。


ここで、話がそれたついでに言っておきたいことがある。

それは「20世紀の巨匠」たちの影になってまったく時代の中に見えてこない、

『「真の迷い」を見つけ出していた人たち』のことだ。

彼らの名前は美術史に全く残されていないので、想像の域を出ない話ではあるが、

20世紀初頭以来のどの時代においても、きっと「真の迷い」を見つめていた人たちはいたに違いない。

しかし、彼らは時代に抹消され、おそらくほとんど芸術活動自体ができなかっただろうし、

それどころか彼ら自身が芸術に近づくことすら諦めていたのかもしれない。


私に言わせれば、彼らこそが本当の「20世紀の巨匠」と呼ばれるはずであった。

彼らは時代の要求するものを提供できない自分に失望し、芸術の場における

アイデンティティーを築くことができないまま、その場を離れたか、

自己の内に見出した「真実」と、それぞれの時代の間の溝の深さに初めから気づいてしまい

芸術に近づくことすらなかったかのどちらかだろう。

だから彼らの「真の迷い作品」は残されていないのだろう。


この「宣言」において「20世紀」を「喪失」するにあたって一番気にかかっていたのが彼らの存在だった。

実際、「巨匠」たちを「喪失」することには意外なほど抵抗を感じなかったのに、

彼らのことが頭に浮かぶと悲しい気持ちになるのだった。

そこで、なんとか彼らの存在を明らかにするすべはないのかと考えたほどだが、

それはどうにもできそうになかった。


何の評価も与えられず全く名を残すこともなく、

しかも、常に時代とのギャップに息苦しい思いをしていたであろう彼らを、

もろともに「喪失」してしまうことにどうしても抵抗があったのだ。

しかし、よくよく考えてみれば(この「宣言文」を書いたことでわかった)彼らはすでに

時代から消去されているのであり、だからこそ、その名が残らなかったのだ。

だから、今はむしろ「芸術の20世紀」を「喪失」することですでに消されている彼らのもとへ

その「時代」を送り届け、やっと彼らの時代が到来したことを彼らに知らせ、

『あなた方にとっては遅すぎたかもしれないが、もし、そこにあなたたちの居る位相があるのならば、

そこで本来あなたたちが成し遂げるべきであった「芸術」を存分に見せつけてください』

というメッセージを送りたい。



話を元に戻すと「芸術の20世紀」において現れるはずだった

「迷い」作品が現れなかったのは残念なことだが、

わたしは≪新生芸術の20世紀≫は「迷い」の時代になると思っている。

迷うことが時代の理念の一角を占めるのは正に既成概念の逆転であり、

マイナスがプラスへ転換するということである。


この発想の転換が新しい世紀の扉を開く鍵になるのだと思っている。











プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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