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「真術」は設定することに意味があったのです



このブログの主題でもあります「宣言文」において、「真術」は芸術の中心にある領域だと規定しているわけですけれど、この「真術」と言う言葉には、私自身も、なかなか馴染めないでおります。

でも、私はそれでも構わないのかなと思っています。
なぜならば、この「真術」は区分すること自体に意味があるものであり、その名称自体は、それほど重要であるとも思っていないからです。

ただ、現在において、あまりに芸術と言う言葉の規定するところが曖昧になっていて、何が芸術で、何が芸術でないのかが、まったく見えなくなってしまっているという状態になってしまっているので、なんとかして、芸術の位置を設定しておかなければ、創作するにも鑑賞するにも何を基準にしていいのかが分からなくなってしまうだろうという考えからこれを区分したわけです。

ですから、「真術」と言う言葉は地図の上に止められたピンのようなもので、『ここが芸術の中心です』」と言う目印に過ぎないわけで、「真術」と言う言葉を無理に使う必要はないと思っているわけです。

つまり、そのような基準で、この「真術」とう概念を区分したということ自体に、少しでも価値を感じていただければと思っているわけなのであります。




「真術」は設定することに意味があったのです(続き)



前の記事の続きです。


わたしは「真術」を「真実の追究」という方向で設定したのですが、実を言えば、それすらも重要なこととは言えないのです。

実際に重要なのは、芸術に対して専門的な見解を持っている人も、そうではない人も含めて、、『芸術とはだいたいこういうものだ』と言う共通の認識が出来上がることであって、目印のピンが地図上のどこの位置に止められているのかと言うことよりも、そのピンが「芸術」を規定するピンであることと、それが、そこ(どこか)に止められているということを、みんなが共有できていることだと思うのです。

そのピンが、どこかに刺さっていることがわかってさえいれば、そこからどんなに離れたところで「芸術」の話をする人が出て来てもそれは自由なわけです。

その意見が、ピンの刺さっている位置から見て、どのぐらい離れていたり、どんな意味を持っているものなのかということを、誰もが、考えられるということが、やはり必要ではないのかと思うわけなのです。


現状では(20世紀以降ずっと)、そういう目印が設定されていないに等しい状況であるために、「いま人気がある人」や「最近注目されている人」そして「権威のある人」が述べるところの見解が、大きすぎる影響力を持ってしまうわけなのです。

たとえ、それがどんなに突飛な見解であっても、あたかも、そこが「芸術の中心」であるような、もしくは「芸術の中心」が、いまはそちらに移ってしまったかのような、「集団的な錯覚」を創り出してしまうというパターンが出来上がってしまっていると思うわけです。

さらに言えば、「芸術の中心」に近い見解は「オモシロクナイ」から注目されなくて、「芸術の中心」から極端に離れた見解のほうが「オモシロイ」から注目される傾向もあるわけです。

何か一つの「流行のキーワード」を提示されると、その呪文によって集団催眠のような状態が形成されて、夢遊病患者のように、ふらふらと「流行のキーワード」の方に向かって吸い込まれて行く。

その後、何かのきっかけでその呪文が解けたとたんに、「流行のキーワード」だったものが「もう終わってるもの」にしか見えなくなって、「集団的な錯覚」から脱出して我を取り戻す。

これを繰り返してきたために、「集団的な錯覚」から「集団的な依存症」のような状態になりつつあるのが現在の「芸術」ではないのかと思うわけなのです。

つまり「我を取り戻している」ときには、むしろ現実感が希薄で不安を感じてしまい、「集団的な錯覚」の中に居る方が安心する、だからまた「錯覚」を与えてくれるものを求めるというような、いわゆる依存症患者の症状のようなパターンが形成されてしまっているように見えるわけなのです。

依存症を長く続けていけば、その結果はだいたいわかっていると思うのです。
その結果が悲惨なものだと思うのであれば、そこから抜け出さねばならないわけです。

依存症患者は、依存しているものを断つことでしかそこから抜け出せないわけで、さらには依存せずにはいられないという体質自体を変えなければ根本的な解決にはならないのです。

要するに、いま必要なのは「オモシロサ」ではなく、「少しつまらないような真面目さ」ではないのかなと。


そんな風に思うのです。




「真術」は芸術の中心の一点なのです



このブログの中で使っている「真術」という言葉について説明いたします。


私が、勝手に作った言葉なので、聞いたことはないと思いますが、「芸術の中心」と考えていただいていいと思います。

これはこのブログで何度か書いてきたことなのですが、いま、「芸術」を規定しておかないと、なし崩し的に崩壊してしまうのではないかと思うわけです。

でも、これだけ広がってしまった「芸術の範囲」を限定した領域の中に規定することは、もはや不可能でしょう。
つまり、もう、「芸術の外郭」に境界線を引いて、「芸術」と「芸術でないもの」を分けることは出来ないということです。
(本来は、それが「定義」と言うものなんだとは思いますが)

これまで、それをやろうとした人、その一人一人が、それぞれに別々の説を展開してきたために、かえって、その都度「芸術」の位置が曖昧になって行ってしまったと、私は考えるわけなのです。

全てのものが「芸術」と成りうる現状において、『これは芸術で、こっちは芸術じゃない』とか、『こういう要素を持ったものは芸術で、それがないものは芸術じゃない』などの規定を設けようとすれば、必ず否定された側から反対の説が出てきて、相殺し合ってしまって、うやむやに成って無かったことに成ってしまうわけです。

さらには、これを盲目的に繰り返し続けた結果、もはや「芸術」の中心すらもわからなくなってしまったというのが、芸術の現状だと思うわけです。

そこで、「芸術」という言葉を脱ぎ捨てて、新しい言葉を設定するときなんじゃないかと思ったわけです。
そんな考えに基づいて設定したのが、この「真術」という言葉なわけなのです。

ただし、ここで「芸術」という言葉を完全に捨ててしまうわけではなく、それは、広い意味での「芸術」として残して置いていいと思いますが、ただ、それがあまりにもガンジガラメの拘束衣のようになっいて、「自由という名の束縛」になってしまっているから、脱ぎ捨てて楽になりませんか?ということですね。


そして、その「芸術」の真ん中に点を打ち、それをフワフワと飛んで行ってしまわないように繋ぎ止めようということなのです。
そして、その「芸術」の中心にある一点を「真術」と呼ぼうじゃないかということなわけなのです。


でも、実は、他の名前でもいいし、他の規定の仕方でもいいのです。
ただ、新しい名前が欲しいのです。 
「〇〇芸術」とか「〇〇アート」ではダメだと思うのです。
聞いたことがない名前じゃないと。

「芸術」や「アート」のままじゃ無理だと思います。
なにも規定できませんし、何の意味も生み出せません。
つまり、現在「芸術」や「アート」と言う言葉には、ほとんど意味がなくなってしまっているわけです。

でも、その「中心」に意味を設定することで、その「中心の領域」にも意味が生まれますし、「芸術」にも、その「中心を取り巻く領域」と言う意味が生まれます。
「芸術の中心」を創り出すことで「芸術の意味を復活させることが出来ると思うわけです。


一応、そういう気持ちでやっております。


※2019年5月に追記

「真術」を「芸術の中心」として設定するということは、『芸術はこうあるべき』ということを設定するということではありません。

そういう「正しい芸術」を設定するという話ではなく、もはや「外郭」を規定することが出来なくなってしまった「芸術」にも、必ずどこかに「中心」はあって、その「芸術の中心」から「芸術」を測ることは可能であるということを想定することで、「芸術」と言うジャンルの「観念上の規定」を提示しているということです。

つまり、『ここからここまでが芸術である』という規定は出来ないが、『ここを中心としたあらゆるものが芸術と成り得る』と言う規定は出来るだろうということです。

あくまで「正しい芸術」を判断することは出来ませんが、「芸術の中心に近いもの」と「芸術の中心から遠いもの」を判断することは可能になります。
ただし、それを判断する人によって違う判断が下されることに成りますから、すべての人にとっての「正しい芸術」とは成り得ないということに成るわけです。


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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