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「真術」について「おもいついた言葉」 ⑴

このカテゴリでは「真術」についての解説を、ただ単に羅列していく予定です。

本論において「真術」に関する説明が,どうもわかりづらいなと思いましたので、
(自分でも完全には理解できていないからだと思います)

ヒントになるような言葉を羅列してみたいと思います。


詳しく説明してしまうと、またわかり難くなってしまいそうなので、敢えて詳しくは説明しません。

意味が解らないところは読み飛ばしてください。

※「真術」:本論で詳しく説明している。「芸術」の核をなす領域を指す。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・「本能に近く、欲望から遠い」
  
・「理性(理智)的であり理論的ではない」

・「個人的であり、利己的ではない」

・「流動的だが、静止している」

・「独立的であり、排他的ではない」

 
  今日はこの辺で・・・

  また追加します。



「真術」について「おもいついた言葉」⑵

このカテゴリの⑴に続いて羅列しますので、意味が分かりにくいかもしれませんが

そういうところは読み飛ばしてください。

※「真術」:本論で詳しく説明している。「芸術」の核をなす領域を指す。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・「普遍的であり、一般的ではない」

・「能動的であり、強制的ではない」

・「瞬間的であり、恒久的でもある」

・「純粋で明快であり、単純ではない」

・「複雑であるが、難解ではない」

  また追加します。





「真術」は設定することに意味があったのです

このブログの主題でもあります「宣言文」において、

「真術」は芸術の中心にある領域だと規定しているわけですけれど、

この「真術」と言う言葉には、私自身もなかなか馴染めないでおります。


でも、私はそれでも構わないのかなと思っております。

なぜならば、この「真術」は区分すること自体に意味があるものであり、

その名称自体はそれほど重要であるとも思っていないからであります。


ただ、現在において、あまりに芸術と言う言葉の規定するところが曖昧になっていて、

何が芸術で、何が芸術でないのかが、まったく見えなくなってしまっているという状態に至り、

なんとかして、芸術の位置を設定しておかなければ、創作するにも鑑賞するにも

何を基準にしていいのかが分からなくなってしまうだろうという考えからこれを区分したわけなのです。


ですから、「真術」と言う言葉は地図の上に止められたピンのようなもので、

「ここが芸術の中心ですよ」と言う目印に過ぎないのですから、

「真術」と言う言葉を無理に使う必要はないと思っているわけです。


そのような基準で、この「真術」とう概念を区分したということ自体に

少しでも価値を感じていただければと思っているわけなのであります。




「真術」は設定することに意味があったのです(続き)

前の記事の続きです。


わたしは「真術」を「真実の追究」という方向で設定したのですが、

実を言えば、それすらも重要なこととは言えないのです。


実際に重要なのは、芸術に対して専門的な見解を持っている人も

そうではない人も含めて、「芸術とはだいたいこういうものだ」と言う

共通の認識が出来上がることであって、目印のピンが地図上のどこの位置に止められているのか

と言うことよりも、そのピンが「芸術」を規定するピンであることと、

それがそこに止められているということを、みんなが共有できていることだと思うのです。


そのピンの刺さっている位置がわかってさえいれば、

そこからどんなに離れたところで「芸術」の話をする人が出て来てもそれは自由なわけです。


そういう見解がピンの刺さっている位置から見て

どのぐらい離れていたり、どんな意味を持っているものなのかということを、

誰もが理解できるということが、やはり必要ではないのかと思うわけなのです。


現状では(20世紀以降ずっと)、そういう目印が設定されていないに等しい状況であるために、

「いま人気がある人」や「最近注目されている人」そして「権威のある人」が述べるところの見解が、

大きすぎる影響力を持ってしまうわけなのです。


たとえ、それがどんなものであっても、あたかもそこが「芸術の中心」であるような、

もしくは「芸術の中心」が、いまはそちらに移ってしまったかのような、

「集団的な錯覚」を創り出してしまうというパターンが出来上がってしまっていると思うのです。

(さらに言えば、「芸術の中心」に近い見解は「オモシロクナイ」から注目されなくて、「芸術の中心」から極端に離れた見解のほうが「オモシロイ」から注目される傾向もあるわけです)

何か一つの「流行のキーワード」を提示されると

その呪文によって集団催眠のような状態が形成されて

夢遊病患者のように、ふらふらと「流行のキーワード」の方に向かって吸い込まれて行く。

その後、何かのきっかけでその呪文が解けたとたんに

「流行のキーワード」だったものが「もう終わってる」ものにしか見えなくなって、

「集団的な錯覚」から脱出して、我を取り戻す。

これを繰り返してきたために、「集団的な錯覚」から「集団的な依存症」

のような状態になりつつあるのが現在の「芸術」ではないのかと思うわけなのです。

つまり「我を取り戻している」ときには、むしろ現実感が希薄で不安を感じてしまい

「集団的な錯覚」の中に居る方が安心する、だからまた「錯覚」を与えてくれるものを求める、というような、

いわゆる依存症患者の症状のようなパターンが形成されてしまっているように見えるわけなのです。


依存症を長く続けていけば、その結果はだいたいわかっていると思うのです。

その結果が悲惨なものだと思うのであれば、そこから抜け出さねばならないわけです。


依存症患者は依存しているものを断つことでしかそこから抜け出せないわけで、

さらには依存せずにはいられないという体質自体を変えなければ根本的な解決にはならないのです。


いま必要なのは「オモシロサ」ではなく、「少しつまらないような真面目さ」

ではないのかと思うのです。




「真術」は芸術の中心の一点なのです

このブログの中で使っている「真術」という言葉について説明いたします。

私が、勝手に作った言葉なので、聞いたことはないと思いますが、

「芸術の中心」と考えていただいていいと思います。


これはこのブログで何度か書いてきたことなのですが、

いま、「芸術」を規定しておかないと、なし崩し的に崩壊してしまうのではないのかなと。

でも、これだけ広がってしまった「芸術」を限定した領域の中で規定することは、もはや不可能だろうと。

これまで、それをやろうとした人、その一人一人がそれぞれに別々の説を展開してきたために、

かえって、その都度「芸術」の位置が曖昧になって行ってしまったと、私は考えるわけなのです。

全てのものが「芸術」と成りうる現状において、「これは芸術で、こっちは芸術じゃない」とか

「こういう要素を持ったものは芸術で、それがないものは芸術じゃない」などの

規定を設けようとすれば、必ず否定された側から反対の説が出てきて、

相殺されてしまって、うやむやに成って無かったことにされてしまうわけです。

さらには、これを盲目的に繰り返し続けた結果、

もはや「芸術」の中心すらもわからなくなってしまったというわけなのです。


そこで、後生大事にしてきた「芸術」という言葉ではありますが、

ここは、あきらめてそれを脱ぎ捨てて、新しい言葉を設定しなければダメなんじゃないですかと。

そんな考えに基づいて設定したのが、この「真術」という言葉なわけなのです。

ただし、ここで「芸術」という言葉を完全に捨ててしまうわけではなく、

それは、広い意味での「芸術」として残して置いていいんじゃないですかと。

ただ、それがあまりにもガンジガラメの拘束衣のようになっいて、

「自由という名の束縛」になってしまっているから、スルリと脱ぎ捨てて楽になりませんかと。

そんな風に考えているというわけなのです。


そして、その「芸術」の真ん中に点を打ち、

それをフワフワと飛んで行ってしまわないように繋ぎ止めようということなのです。

そして、その「芸術」の中心にある一点を「真術」と呼ぼうじゃないかということなわけなのです。


「真術」じゃなくたっていいんです。

他の名前でもいいし、他の規定の仕方でもいいのです。

でも、新しい名前が欲しいのです。 

このままじゃあ無理なのです。

それから「なんとか芸術」とか「なになにアート」とかもダメだと思うのです。

聞いたことがない名前じゃないと。


一応、そういう気持ちでやっております。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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