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「オリジナリティ」は大事なのでしょうが・・・



芸術において、やはり、「オリジナリティ」は大事だと思うわけですが、「オリジナリティ」が目的なのかと言われれば、『それは違う』と言わざるを得ないのです。

それは、結果的に出てきてしまうものなのかなと。

「オリジナリティ」がある作品は、ほかのものよりも目立つし、インパクトが強くなるから、受け入れられやすいのは、確かなことでしょう。
でも、それは「驚き」であって「感動」ではないわけです。

人を感動させるようなものをつくりたいのであれば、何かを「ネラッテ」はいけないのじゃないかなと。
「ネラッテ」出てきた「オリジナリティ」と言うのが結構イヤラシイわけですよね。

実を言えば、「オリジナリティ」を出さないことのほうが難しいわけで、その人が、もともと持っている「癖」や「感覚」というのは、隠そうとしても結構出てしまうものですから、「ネラウ」必要はないハズなんですけど、人には、隠したい「個性」というものもあって、「格好悪い感じ」や「下手っぽく見えるところ」は、誰でも隠したいと思ってしまうわけですね。

それを打ち消して見えなくすることを、技術と呼んでいたりすることもよくあるわけですよね。


「オリジナリティ」は「ネラッテ」出そうとしなくても、はじめからそこにあるわけで、むしろ付きまとってくるといってもいいほどなんじゃないでしょうか?

そこで、「嫌な個性」をうまく消して、「いい感じのオリジナリティ」を出している作品と言うのが、私は少し嫌いです。


 ※さらに、付け加えると「オリジナリティ」とは「人と違うこと」ではなく、「自分であること」
  だと思うわけです。
  そこのところが、「芸術の20世紀」にはいってから、徐々に「オリジナリティ」=「人と違う
  こと」と言う形に固められて行ってしまったんだと思いますね。
  そのことによって、「自分であること」とが二の次にされてしまうという本末転倒が起きて 
  しまっていると思うわけです。

「普通の心理」がわからなくて「芸術」は創れるのでしょうか?



いわゆる「芸術家っぽいイメージ」と言うものがあるように思うわけです。

それはどんなものかと言えば、「ブットンダ」・「イッチャテル」・「ヘン」みたいなイカレタ感じと、それとは対極的に、「スルドイ」・「フカイ」・「キュウキョク」みたいに思慮深く、一つのことにじっくりと取り組むような二種類のイメージが完全に分離していて、その中間はまったく無いので、やや無理があるんじゃないかと思うわけです。

確かに、「芸術家」にそれらの両極端な要素が同居していることはあるとは思いますが、でも、実は、それらは「芸術家」や「芸術」にとって必要不可欠なものではなく、結果的に、そんな人もいるという程度のことなんじゃないでしょうか?

それで、実は、何が必要かと言えば、それは『何でもない普通の気持ちが痛いほど理解できている』ということじゃないのかなと。

実際、創る側がいくら「ブットンダ」作品を創っても、見る側は普通の人なわけです。
だから、「芸術家」側は自分の中の「ブットンダ」や「キュウキョク」を、完全に消化して自分の血肉にしてから、それを表現する必要があって、そうすることで初めて理解されるわけで、そうでなければ伝わらないわけですよね。

今まで、随分野放しだったのじゃないのかなと。

見る側の人たち、ちょっと優しすぎたんじゃないですか?
見る側にも権利あるでしょ?
というか、普通の人の気持ちが理解できないような人に、「芸術」が理解できるとは思えないんですね。

理解できないものは創れないんじゃないですか?

「芸術家」なんて言ってますけど、結構普通の人が多いと思うわけですね。
みんな普通にしてると格好がつかないから「ゲージツカ」っぽくしてるところもあるんじゃないですか?

でも、もう、そんなに無理しなくてもいいんじゃないかと思うんですね。
もう、そんな時代でもないと思うんですよね。

私といたしましては、普通の気持ちを、もっともっと痛いほど理解しようとする努力を怠っている人の作品は「芸術」だとは思えないわけなのです。

と、そんなことを言ってみました。




「差別」と「区別」



「差別」と言うのが、わたしはとても嫌いなんですんねぇ。

一番嫌いなものは何かと言われたら、間違いなく「差別」と言うでしょうね。
なぜ、そこまで嫌いなのかはわかりません。

ところがですよ、「区別」は好きなんですね。
おかしいですよね。

どうも、私の中ではこの二つは全く別のもので、それほど近しいものではないようなのですね。

敢えて、この二つの関係はと言えば、正確に「区別」ができていると「差別」が起き難いということですね。


つまり、「区別」があいまいだと「差別」が起きて来るということですね。

それは、どういうことかと言えば、民族でも人種でも性別でもなんでもそうですが、違うものは違うと思うわけです。
それを、、無理矢理に、同じように扱おうとすると、相手と自分を同じようにみなしてしまうから、相手が自分と同じようにしないと、腹が立つわけです。

そこで風俗習慣が違うことなどから「差別」が生じるようになるのだと思うわけです。

だから、私は前もって、できる限り厳密な「区別」をしておくことで、かなりの「差別」は防ぐことができるのではないかと考えているわけなのです。
(これを「理解」と言うのだと思いますよ)

もちろん、完全に凝り固まった「差別主義者」というのもいて、その人たちの「差別」には、こんなことでは役に立たないですけどね。


でも、実は、今はもう「差別主義者」というのは、かなりの少数派かなと。
だから、一般的な人たちに「差別」が起きないようになれば、かなり防がれるんじゃないのかなと。

そして、そんなことから、私はどんなことにおいても、「範疇区分」を重視してしまうのです。
「区別」によって、いろいろな弊害が防がれるんじゃないかと、そして、「区別」をないがしろにしていると、とんでもない所に着地する結果になるんじゃないかと、私にはそんな風に思われてならないのです。




「個性」と「才能」



よく、「才能がある人」とか「個性的な人」という言い方をするわけですけど、あれはどうも好きになれないのです。

つまり、「才能がない人」や「個性的でない人」を想定して言っているように聞こえてくるわけですね。
でも、実際には、それらの判断と言うのは、その「個性」や「才能」が、誰かにとって有用かどうかという基準で下されているのだと思うわけです。

つまり、「才能」や「個性」が有るとか無いとかと言うことを、言っている人にとって都合のよい「個性」や「才能」を持っている人を
「個性的な人」とか「才能がある人」と呼んでいるだけなんだと思うわけですねぇ。

本当は「個性」も「才能」も、皆同じぐらいじゃないんですか?

ただ、それらには、それぞれ色が付いていて、その色が違うというような性質のものではないのかなと。
だから、そこに上下を付けるなんていうのは「赤」より「青」の方が偉いとか、いや「黄色」はもっと上だとか言っているようなもので、とても、なんと言うか「貧しい感じ」がするわけなのです。

どれ一つをとっても、凡庸な「個性」などはなく、全てが唯一無二の「個性」なわけで、一人に一つの「才能」が、そこにはあると思うわけです。


私は、この二つの言葉は、もう無くてもいいと思っているぐらいなのです。



「自信」なくてもいいと思うのです



「自信」というと、当然のように「私は〇〇ができる」と言うことが前提になっているわけですけど、この「私は〇〇ができる」は、私には本当の「自信」だとは思えないわけです。

だって、「できなく」なれば消えてしまうわけですから、それほどしっかりした「自信」とも言えませんよね。

ところが、それに反して「できなく」ても平気で「自信がある人」もいるわけですね。
たぶん、そういう人は、常に肯定され続けて育った人なんでしょうね。

だから、彼らには、「自信」の失くし方が解らないんだと思うわけですね。
「できても」「できなくても」肯定されてきたから、どうして「自信」を失う人が居るのかが理解できないのでしょうね。

そして、たいていの場合、この「できなくても平気」な人が「できる」ようになるのです。
まぁ、無条件に最初から「自信」満々なんで、実力を発揮しやすいわけですよね。

こう書いてくると「やっぱり自信があった方がいいんじゃないか?」ということに成りそうですけれど
じつは、この無条件の「自信」も続かないわけですね。

だって、人からもらったものですから、それに、その「自信」をくれた人たちは、先に居なくなってしまいますから、そこから先は、だんだん枯渇してくるわけです。

それでも「自信」ありげにしている人は、虚勢を張ってごまかしているんでしょうね。


だから、もう、そんな頼りにならない「自信」なんて無くてもいいと思うわけです。
『「自信」が有っても無くても、たいした問題じゃないと思いますね』
と思えれば、それが本当の「自信」かな?などと思うのです。


ただ、なかなかそう思えないのが、問題なわけなんですけどね。





「イミガワカラナイ芸術



わたしも含めて、多くの人が「ゲージツがワカラナイ」と感じる時、大抵は、作品が「抽象化」されているのだと思います。

頭の中にあるものを外に出してあらわすのが表現なわけですけど、頭の中でかなりコネてから外に出すのが「抽象」だと思う訳です。
そして、その頭の中で行われた作業の分が、見えないということなんですねぇ。
だから、コネた分が多ければ多いほど、見た人はわからなくなるわけなのです。


「抽象表現」は、ワカル人とワカラナイ人が居るように言われていますが、実際には、みんなわからないハズなんです。

超能力のようなものがある人なら別ですが、他人が頭の中で行った作業がわかるわけがないですよね。
その人のことをよく知っていたりすれば、少しはわかったりもするでしょうけど、見ず知らずの人の気持ちがバンバン理解できちゃったら、それはマズイですよね。

だから、簡単に『抽象はわかる人が少ないんだ』なんて言ってしまっていますけど、もう少し人が解るようにしてから、外に出すべきなんじゃないかと思うわけなんですね。

つまり、目指すは、「腰の低い抽象芸術」なのです。


そして、それには、頭の中でコネテいく段階で、まず自分自身がはっきりしたものを掴んでいかないと、人にわかるようなものにはならないのかなと。

 ※ここで言う「はっきりしたもの」とは、「作品の完成形」とは違います。
  「完成形」がはじめからわかっていてそれを写し取る作業だとすれば、
  それは「具象表現」ということに成るような気がします。
  ここで言う「はっきりしたもの」とは、その作品の「方向性」ですね。
  その「方向性」に沿って、本質を見つけ出していく過程を「抽象」という
  んだと思います。


つまり、「抽象」と言うのは雲をつかむような状態から、その霧の中を抜けて、はっきりしたものが見えるところまでたどり着けないと、結果的には、ただなんとなく色を塗ったようになってしまうのかなと。

そして、それを見た人が「イミガワカラナイ」と思うのだろうと思います。
要は、作者が「イミガワカッテナイ」と、見た人も「イミガワカラナイ」ということですね。


「抽象」と言う作業は、もっと、わかりやすくするためにエネルギーを使うべきなんじゃないかと思いますね。
「頭の中でコネる作業」に使っていたエネルギーを、「ワカリヤスクすること」に使う方向にシフト・チェンジすると、実は創作者も楽になる部分があるのかもしれないなと。

私としましては、そんな風に思っております。


※2019年4月に追記

この記事を読むと、いかにも、「ワカリヤスク」しようとしさえすれば、「ワカリヤスク」なるんだという話に見えてしまうかも知れませんが、そういう意味ではありません。
「ワカリヤスクすること」にエネルギーを使ったとしても、必ずしも「ワカリヤスイ」と思ってもらえるわけではありませんし、むしろ「ワカリニクク」成ってしまうこともあると思いますが、「鑑賞者の理解」を拒絶しているわけではないという、そういう姿勢だけでも伝われば、少しいいのかなと思っています。
そして、何よりも、そういう気持ちを捨ててしまうことは「創作者」として「鑑賞者」と対峙することをおろそかにすることに成ると思いますので、それでは「芸術表現」は完結できないと思うわけです。
(私は「芸術表現」は「鑑賞」も含めて完結するものだと思っています。)


「ポジティブ」と「ネガティブ」



今は、どちらかと言うと、と言うより、はぼ完全に「ポジティブ」が支持される時代だと思います。

「ネガティブ」と言うと批判されるか、言い訳のような使い方をされることが多いと思うわけです。
『どうせネガティブですよ』みたいにですね。

でも、わたしとしては、その二つは両方そろっていて、初めて意味があるものだと思うわけです。

「ポジティブ」と言うと、いいように聞こえますが、『ちょっとそれは無理なんじゃないの?』と思うような「ポジティブ過ぎ」が、あまりにも多いと思うわけです。

例えば、自分の子供が学校で、かなり悪質なイジメに遭っているのに、『そういう状況下でも生きていけるように学ぶいい機会だ』と言うお母さんの話を聞いたことがあるんですが、これはどんなもんなんでしょうかね。

そういう「ポジティブ・シンキング」から何か生み出されることはあるのでしょうか?
『無いと思います』


でも、それとは逆に、「謙遜」はある意味では「ネガティブ」だと思いますが、わたしは好きです。
西洋的な思考では、あまり理解されないのかもしれませんが、日本人はそれでいいような気もしますし、むしろ、外国に普及していってもいいようにも思ったりしますね。

こういう気持ちが生み出しているものは、実は計り知れないくらい大きいんじゃないでしょうか?


どちらにしても、極端すぎると「?」が、だんだん増えていくような気がします。

そして、「現在」は明らかに『極端にポジティブ過ぎ!』ですね。
もう少し、「批判精神」とか「悪いものを否定する勇気」のような、「いい・ネガティブ」を見直していったら、少し良くなるんじゃないのかなと。


そんな風に思っていますね。


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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