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「真術」について「おもいついた言葉」 ⑴

このカテゴリでは「真術」についての解説を、ただ単に羅列していく予定です。

本論において「真術」に関する説明が,どうもわかりづらいなと思いましたので、
(自分でも完全には理解できていないからだと思います)

ヒントになるような言葉を羅列してみたいと思います。


詳しく説明してしまうと、またわかり難くなってしまいそうなので、敢えて詳しくは説明しません。

意味が解らないところは読み飛ばしてください。

※「真術」:本論で詳しく説明している。「芸術」の核をなす領域を指す。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・「本能に近く、欲望から遠い」
  
・「理性(理智)的であり理論的ではない」

・「個人的であり、利己的ではない」

・「流動的だが、静止している」

・「独立的であり、排他的ではない」

 
  今日はこの辺で・・・

  また追加します。



「オリジナリティ」は大事なのでしょうが・・・

芸術において、やはり「オリジナリティ」は大事だと思うわけですけど、

「オリジナリティ」が目的なのかと言われれば、「それは違う」と言わざるを得ないのです。


それは、結果的に出てきてしまうものなのかなと。

「オリジナリティ」がある作品は、ほかのものよりも目立つし、

インパクトが強くなるから、受け入れられやすいのは確かなことでしょう。、

でも、それは「驚き」であって「感動」ではないわけです。


人を感動させるようなものをつくりたいのであれば、

何かを「ネラッテ」はいけないのじゃないかなと。

「ネラッテ」出てきた「オリジナリティ」と言うのが結構イヤラシイわけですよね。


私に言わせていただけるのならば、「オリジナリティ」を出さないことのほうが難しいわけで、

その人が、もともと持っている「癖」や「感覚」というのは、

隠そうとしても結構出てしまうものだから、「ネラウ」必要はないハズなんですけど、

人には、隠したい「個性」というものもあって、

「格好悪い感じ」や「下手っぽく見えるところ」は、

誰でも隠したいと思ってしまうわけですね。


それを打ち消して見えなくすることを、技術と呼んでいたりすることもよくあるわけですよね。


「オリジナリティ」は「ネラッテ」出そうとしなくても、

はじめからそこにあるわけで、むしろ付きまとってくるといってもいいほどなんじゃないでしょうか?

そこで、「嫌な個性」をうまく消して、「いい感じのオリジナリティ」を出している作品と言うのが

私は、少し嫌いです。



「真術」について「おもいついた言葉」⑵

このカテゴリの⑴に続いて羅列しますので、意味が分かりにくいかもしれませんが

そういうところは読み飛ばしてください。

※「真術」:本論で詳しく説明している。「芸術」の核をなす領域を指す。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・「普遍的であり、一般的ではない」

・「能動的であり、強制的ではない」

・「瞬間的であり、恒久的でもある」

・「純粋で明快であり、単純ではない」

・「複雑であるが、難解ではない」

  また追加します。





「普通の心理」がわからなくて「芸術」は創れるのでしょうか?

いわゆる、「芸術家っぽい」というイメージがあるように思うわけです。


それはどんなものかと言えば、「ブットンダ」・「イッチャテル」・「ヘン」みたいな

イカレタ感じと、それとは対極的に、「スルドイ」・「フカイ」・「キュウキョク」

みたいに思慮深く、一つのことにじっくりと取り組むような二種類のイメージが

完全に分離していて、その中間はまったく無くて、おかしいなと思うわけです。


確かに「芸術家」にそれらの両極端な要素が同居していることはあるとは思いますが、

でも、実は、それらは「芸術家」や「芸術」にとって必要不可欠なものではなく、

結果的に、そんな人もいるという程度のことなんじゃないでしょうか?


で、実は、何が必要かと言えば、

それは「何でもない普通の気持ちが痛いほど理解できている」

ということじゃないのかなと。


実際、創る側がいくら「ブットンダ」作品を創って

「ドーダ」と言っても、見る側は普通なわけです。


だから、「芸術家」側は自分の中の「ブットンダ」や「キュウキョク」を

完全に消化して自分の血肉にしてから、それを表現する必要があって、

そうすることで初めて理解されるわけで、そうでなければ伝わらないわけですよね。


今まで、随分野放しだったのじゃないのかなと。

見る側の人たち、ちょっと優しすぎたんじゃないですか?

見る側にも権利あるでしょ?


というか、普通の人の気持ちが理解できないような人に、

「芸術」が理解できるとは思えないんですね。

理解できないものは創れないんじゃないですか?


「芸術家」なんて言ってますけどね、結構普通の人が多いと思うわけですね。

みんな普通にしてると格好がつかないから「ゲージツカ」っぽくしてるところもあるんじゃないですか?

でも、もう、そんなに無理しなくてもいいんじゃないかと思うんですね。

もう、そんな時代でもないと思うんですよね。


私といたしましては、

普通の気持ちを、もっともっと痛いほど理解しようとする努力を怠っている人の作品は

「芸術」だとは思えないわけなのです。



「差別」と「区別」

「差別」と言うのが、わたしはとても嫌いなのです。

一番嫌いなものは何かと言われたら、間違いなく「差別」と言うでしょう。

なぜそこまで嫌いなのかはわかりません。


ところがですよ、「区別」は好きなのですね。

変ですよね。

どうも、私の中ではこの二つは全く別のもので

それほど近しいものではないようなのですね。


敢えて、この二つの関係はと言えば、

正確に「区別」ができていると「差別」が起きない、ということですね。


つまり、「区別」があいまいだと「差別」が起きて来るのかなと。

それは、どういうことかと言えば、民族でも人種でも性別でもなんでもそうですが、

違うものは違うと思うわけですよ。

それを無理に一緒くたにして扱おうとすると、相手と自分を同じように看做してしまうから、

相手が自分と同じようにしないと、腹が立つわけです。


そこで風俗習慣が違うことなどから「差別」が生じるようになるのだと思うのですよ。

だから私は前もって、できる限り厳密な「区別」をしておくことで

かなりの「差別」は防ぐことができるのではないかと考えているわけなのです。

もちろん、完全に凝り固まった「差別主義者」というのもいて、

その人たちの「差別」には、こんなことでは役に立たないですけどね。


でも、実は、今はもう「差別主義者」というのはかなりの少数派かなと。

だから、一般的な人たちに「差別」が起きないようになれば、

かなり防がれるんじゃないのかなと。


そして、そんなことから、私はどんなことにおいても、「範疇区分」を重視してしまうのです。


「区別」によって、いろいろな弊害が防がれるんじゃないかと、

そして、「区別」をないがしろにしているとと、

とんでもない所に着地する結果になるんじゃないかと、
(たとえば、何の問題もない所に「争い事」が起きたりですね)

私には思われてならないのです。




「個性」と「才能」

よく「才能がある人」とか「個性的な人」という言い方をするわけですけど、

あれはどうも好きになれないのです。


「才能がない人」や「個性的でない人」を想定して言っているように聞こえてくるわけなのです。

でも、実際には、それらの判断と言うのは、その「個性」や「才能」が実用的かどうかという基準で、

下されているのだと思うわけです。


つまり、「才能」や「個性」が、有るとか無いとかと言うことを、

言っている人にとって都合のよい「個性」や「才能」を持っている人を

「個性的な人」とか「才能がある人」と呼んでいるわけなのです。


本当は「個性」も「才能」も、皆同じぐらいじゃないんですかね?


ただ、それらには、それぞれ色が付いていて、その色が違うというようなものではないのかなと。

だから、そこに上下を付けるなんていうのは「赤」より「青」の方が偉いとか

いや、「黄色」はもっと上だとか言っているようなもので、

とても、なんと言うか「貧しい感じ」がするわけなのです。


そこで、やっぱり、凡庸な「個性」などはなく、全てが唯一無二の「個性」なわけで、

一人に一つの「才能」が、そこにはあると思うわけです。


私は、この二つの言葉は、もう無くてもいいと思っているぐらいなのです。



「自信」なくてもいいと思うのです

「自信」というと、当然のように「私は〇〇ができる」

と言うことが前提になっているみたいなんですけど、

この「私は〇〇ができる」は、

私には本当の「自信」だとは思えないわけです。


だって「できなく」なれば消えてしまうわけですから、

それほどしっかりした「自信」とも言えませんよね。


ところが、それに反して「できなく」ても平気で「自信がある人」もいるわけですね。

たぶんそういう人は、常に肯定され続けて育った人なんでしょうね。

彼らにはおそらく、「自信」の失くし方が解らないんだと思うんですよ。


「できても」「できなくても」肯定されてきたから、

どうして「自信」を失う人が居るのかが理解できないのでしょうね。


そして、たいていの場合、この「できなくても平気」な人が「できる」ようになるのです。


まぁ、無条件に最初から「自信」満々なんで、実力を発揮しやすいわけですよね。

こう書いてくると「やっぱり自信があった方がいいんじゃないか!?」と成りそうですけれど

じつは、この無条件の「自信」も続かないわけですね。


だって、人からもらったものですから、

それに、その「自信」をくれた人たちは、先に居なくなってしまいますから、

そこから先は、だんだん枯渇してくるわけですよ。

それでも「自信」ありげにしている人は、虚勢を張ってごまかしているわけですね。


だから、もう、そんな頼りにならない「自信」なんて無くてもいいと思うのですよ。

「自信」が有っても無くても、たいした問題じゃないと思いますね。

と思えれば、それが本当の「自信」かな?などと思うのです。


ただ、なかなかそう思えないのが、問題なわけなんですけどね。





「イミガワカラナイ芸術

わたしも含めて、多くの人が「ゲージツがワカラナイ」と感じるとき

大抵は、作品が「抽象化」されているのだと思うわけです。


頭の中にあるものを外に出してあらわすのが表現なわけですけど、

頭の中でかなりコネテから外に出すのが「抽象」だと思うのです。


そして、その頭の中で行われた作業の分が、見えないわけなのです。

だから、コネタ分が多ければ多いほど、見た人はわからなくなるわけなのです。


これは、ワカル人とワカラナイ人が居るように言われているみたいですが、

実際には、みんなわからないハズなわけです。

超能力のようなものがある人なら別ですが、

他人が、頭の中で行った作業が解るわけがないですよね。

その人のことをよく知っていたりすれば、少しはわかったりもするでしょうけど、

見ず知らずの人の気持ちがバンバン理解できちゃったら、それはマズイですよね。


だから、私は「抽象化」なんて言ってますけどね、

もっと人が解るようにしてから、外に出すべきなんじゃないかと思うわけなんですね。

つまり、目指すは、「腰の低い抽象芸術」なのです。


そして、それには、頭の中でコネテいく段階でまず自分自身が、

はっきりしたものを掴んでいないと、人にわかるようなものにはならないのかなと。

    ※ここで言う「はっきりしたもの」とは、「作品の完成形」とは違います。
     それがはじめからわかっていれば、”ラク”でしょうが、それは単なる
     横着になってしまうような気がします。
     ここで言う「はっきりしたもの」とは、その作品の「方向性」ですね。


つまり、「抽象化」と言うのは雲をつかむような状態から、

その霧の中を抜けて、はっきりしたものが見えるところまでたどり着けないと、

結果的には、ただなんとなく色を塗ったようになってしまうのかなと。

そして、それを見た人が「イミガワカラナイ」と思うのだろうなと。

要は、作者が「イミガワカッテナイ」と、見た人も「イミガワカラナイ」のかなと。


「抽象化」と言う作業は、

もっと、わかりやすくするためにエネルギーを使うべきなんじゃないのかなと。

頭でコネル作業のほうに使っていたエネルギーをかなりの部分で、

わかりやすくする方に使う方向でシフト・チェンジすると、

実は作者も楽になる部分があるのかもしれないなと。


私としましては、そんな風に思っております。



「ポジティブ」と「ネガティブ」

今はどちらかと言うと、いや、はぼ完全に「ポジティブ」が支持される時代かなと。


「ネガティブ」と言うと批判されるか、言い訳のような使い方をされることが多いと思うのです。

「どうせネガティブですよ」みたいにね。


わたしとしては、中間が好きなのです。

「ポジティブ」と言うといいように聞こえるのですが、

「ちょっとそれは無理なんじゃないの」的な「ポジティブ過ぎ」が多いのです。


例えば、自分の子供が学校で、かなり悪質な感じでいじめられているのに、

「そういう状況下でも生きていけるように学ぶいい機会だ」

と言っているお母さんが居たのですが、これはどんなもんなんでしょうかね。


そういう「ポジティブ・シンキング」から何か生み出されることはあるのでしょうか?


「無いと思います。」


たとえば、「謙遜」はある意味の「ネガティブ」だと思いますが、わたしは好きです。

西洋的な思考では、あまり理解されないのかもしれませんが、

日本人はこれで、いいんじゃないかなと。

と言うよりも、西洋のほうに普及していってもいいようにも思ったりしますね。
(西洋に限りませんけどね)

こういう気持ちが生み出しているものは、実は計り知れないくらい大きいのかなと。


どちらにしても、極端すぎると「?」がだんだんふえていくように思うのです。

そして、「現在」は明らかに「極端にポジティブ過ぎ!」ですね。

もう少し「批判精神」とか「悪いものを否定する勇気」のような

「イイ・ネガティブ」を見直していったら少し良くなるんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。


プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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