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「お金」と「芸術」の共通点

「芸術」と言うと、「お金」とは正反対のところにあるものという捉え方をされていますけれど、

その二つには、共通点があると思うわけです。


それは、両方とも賞味期限がないことなのです。

食べ物ではないので、賞味期限と言うのはおかしいんですが、

要するに、無期限の価値を持っている(与えられている)ということなわけです。


お金(通貨)というのは、それを発行している国が崩壊すれば価値がなくなるし、

「芸術」も、その作者の名声が没落すれば、その価値も下がってしまうわけだから、

必ずしも無期限とも言えないわけですけれども、

少なくとも食べ物のように、一定の期間を過ぎると必ず価値がなくなるということは無いわけなのです。


食べ物と言うのは最も顕著な例で、だから賞味期限と言う言葉を使ったわけですけれど、

ほとんどのものは、製造されてから一定の期間が過ぎると価値が落ちていくという宿命があるわけです。

ましてや、一度人手に渡ったものは、

いわゆる「ユーズド品」になってガクンと価値が落ちてしまうわけですよね。


ところが、「芸術」・「お金」両方とも、どんなに人から人に渡って行こうが、

いくら使用されようが価値が変わることがないわけです。

よほどの技法的な欠陥があって、「絵」が剥落したりでもしない限り、

例えば、年代相応に劣化して修復されたとしても価値が変わったりしないと思うのです。


そして、このことによって「芸術」が投資の対象になったりするのだと思うわけなのです。

本当は、この両者にも期限があれば、いいのではないのかなと。

私としてはそう思っているのですが、それをどんなふうにやればいいのかは

全くわからないというのが、とても残念なことなのです。





「芸術」の競争

現代社会においては、競争と言うと、自由競争とか切磋琢磨といった

前向きなものとしてとらえることが、前提になっているように思うのです。


競争から離脱することは、「ドロップアウト」または「後ろ向き」という扱いになるのかなと。


でも、競争がそういう前向きな作用を持っていた時期はもう過ぎてしまって、

競争が「足のすくい合い」になっているように思うのです。

つまり、物を作る企業や人が、自社製品(自作のもの)の向上を競い合っているというよりも、

競争相手や、場合によっては顧客(消費者や鑑賞者)の足元を掬ってひっくり返してやろうというような

そんな裏をかくような意図が、そこに入ってしまっていることがあると思うわけなのです。


そして、さらには、そのような意図を含まないものが、

その競争の中で振い落されていくような仕組みができ上がってしまっているように感じるわけなのです。


例えば、企業が耐久性の優れた製品を作ってしまうと

その製品の買い替えのサイクルが長くなって儲からなくなるというような理由から、

むしろ、適度に長持ちしない製品を作ることに力を入れていたりすることが

当たり前のようになりつつあることは、「ものづくりの崩壊」であって、

ちっとも前向きな競争や自由競争なんかではないように思うのです。


まして、それと同じようなことが「芸術」の分野で行われているとしたら、

「究極のものづくり」ともいえる「芸術」において

「ものづくり」が崩壊してしまっているということに成るのではないのかなと。


そして、これは、経済市場においてそうなったから「芸術」もそうなったのではなくて、

むしろ、逆で「芸術」がそうなったから、

それによって他の分野でも同じことが起きてきたのではないか?と私は思っているわけです。


こう言うと「芸術」を買い被っているように聞こえるのかもしれませんが、

近代以降の「芸術」は、そういうことのために設定されている分野でもあると私は思っているので、

そんな風にしか、考えられないわけなのです。


だから、競争の原理から離れなければ始まらないと思うわけなのです。

その過程で「捨て石」になる者が求められるように思いますが、

その「捨て石」を生かせるところまで人間が成熟しているのかどうかが

問われているように感じてしまうわけなのです。





「真術」は設定することに意味があったのです

このブログの主題でもあります「宣言文」において、

「真術」は芸術の中心にある領域だと規定しているわけですけれど、

この「真術」と言う言葉には、私自身もなかなか馴染めないでおります。


でも、私はそれでも構わないのかなと思っております。

なぜならば、この「真術」は区分すること自体に意味があるものであり、

その名称自体はそれほど重要であるとも思っていないからであります。


ただ、現在において、あまりに芸術と言う言葉の規定するところが曖昧になっていて、

何が芸術で、何が芸術でないのかが、まったく見えなくなってしまっているという状態に至り、

なんとかして、芸術の位置を設定しておかなければ、創作するにも鑑賞するにも

何を基準にしていいのかが分からなくなってしまうだろうという考えからこれを区分したわけなのです。


ですから、「真術」と言う言葉は地図の上に止められたピンのようなもので、

「ここが芸術の中心ですよ」と言う目印に過ぎないのですから、

「真術」と言う言葉を無理に使う必要はないと思っているわけです。


そのような基準で、この「真術」とう概念を区分したということ自体に

少しでも価値を感じていただければと思っているわけなのであります。




「真術」は設定することに意味があったのです(続き)

前の記事の続きです。


わたしは「真術」を「真実の追究」という方向で設定したのですが、

実を言えば、それすらも重要なこととは言えないのです。


実際に重要なのは、芸術に対して専門的な見解を持っている人も

そうではない人も含めて、「芸術とはだいたいこういうものだ」と言う

共通の認識が出来上がることであって、目印のピンが地図上のどこの位置に止められているのか

と言うことよりも、そのピンが「芸術」を規定するピンであることと、

それがそこに止められているということを、みんなが共有できていることだと思うのです。


そのピンの刺さっている位置がわかってさえいれば、

そこからどんなに離れたところで「芸術」の話をする人が出て来てもそれは自由なわけです。


そういう見解がピンの刺さっている位置から見て

どのぐらい離れていたり、どんな意味を持っているものなのかということを、

誰もが理解できるということが、やはり必要ではないのかと思うわけなのです。


現状では(20世紀以降ずっと)、そういう目印が設定されていないに等しい状況であるために、

「いま人気がある人」や「最近注目されている人」そして「権威のある人」が述べるところの見解が、

大きすぎる影響力を持ってしまうわけなのです。


たとえ、それがどんなものであっても、あたかもそこが「芸術の中心」であるような、

もしくは「芸術の中心」が、いまはそちらに移ってしまったかのような、

「集団的な錯覚」を創り出してしまうというパターンが出来上がってしまっていると思うのです。

(さらに言えば、「芸術の中心」に近い見解は「オモシロクナイ」から注目されなくて、「芸術の中心」から極端に離れた見解のほうが「オモシロイ」から注目される傾向もあるわけです)

何か一つの「流行のキーワード」を提示されると

その呪文によって集団催眠のような状態が形成されて

夢遊病患者のように、ふらふらと「流行のキーワード」の方に向かって吸い込まれて行く。

その後、何かのきっかけでその呪文が解けたとたんに

「流行のキーワード」だったものが「もう終わってる」ものにしか見えなくなって、

「集団的な錯覚」から脱出して、我を取り戻す。

これを繰り返してきたために、「集団的な錯覚」から「集団的な依存症」

のような状態になりつつあるのが現在の「芸術」ではないのかと思うわけなのです。

つまり「我を取り戻している」ときには、むしろ現実感が希薄で不安を感じてしまい

「集団的な錯覚」の中に居る方が安心する、だからまた「錯覚」を与えてくれるものを求める、というような、

いわゆる依存症患者の症状のようなパターンが形成されてしまっているように見えるわけなのです。


依存症を長く続けていけば、その結果はだいたいわかっていると思うのです。

その結果が悲惨なものだと思うのであれば、そこから抜け出さねばならないわけです。


依存症患者は依存しているものを断つことでしかそこから抜け出せないわけで、

さらには依存せずにはいられないという体質自体を変えなければ根本的な解決にはならないのです。


いま必要なのは「オモシロサ」ではなく、「少しつまらないような真面目さ」

ではないのかと思うのです。




いま芸術の「批評」は成り立つのか?

「芸術批評」はジャンルとして確かに確立されているわけですけど、

現在芸術において「批評」は可能なのでしょうか?


方向性が設定できる分野については、「批評」が成り立つと思うんですけれど、

現代の芸術のように方向性が多様化してしまったジャンルにおいて

それを批評するということは、その評論家や批評家の「好み」を

言っていることにしかならないのではないのかなと。


現行の完全に自由で無際限な方向性の上に立っての「批評」というのは、可能なのだろうかと。

もちろん「批評」に論者の「好み」が入ってしまうのは避けられないことなんでしょうが、

「好み」が先行していて、それを正当化するための理論を「批評」と言うのは違うのじゃないかなと。

やはり、なんらかの指標があっての「評論」・「批評」であって、

その指標を基準としての解析がなされていなければ「評論」・「批評」とは言えないのかなと。


例えば政治の場合、「民主主義」という指標を基準にすれば

「独裁者」についての批判が「批評」になるわけですけれど、

『「独裁政治」もありですよ』という立場から「独裁」を批判してもそれは「批評」として成り立たないでしょう。

それは、おそらく「その批評家」は「その独裁者」が嫌いなんだろうな、ということにしかならないわけです。


だとしたら、評論家、批評家と言われる人たちがいま何をするべきなのかと言えば、

それは基準となるような指標を設定することかと思うのです。

それは「批評」というような、個別のものに対する論評ではなく

「芸術運動」と言えるような「芸術」というジャンル全体を

動かすような活動や言動をしてほしいわけなのです。


私がこのブログを始めたのもそういうことからですが、

私は評論家ではないし、権威ある立場にもありませんし、今後そういう立場につくこともないので、

私にできることは、これをなんとなく形にすることぐらいかと思われますので、

そこのところで評論家の方(それを目指そうという方かも?)などに、

すこし期待してしまうわけなのです。


『いま「評論」なんてしてる場合じゃないでしょ』

『いま「運動」を起こすときじゃないのですか?』

違いますでしょうか?




誰かが「芸術」を定義しないと

昨日の「批評」についての記事の続きになリます。

何らかの指標が無ければ「批評」は成り立たないのではないか?ということだったわけですが、

その指標となるのは何かと言えば、やはり「定義」だと思うわけです。


もういい加減「芸術」を何らかの「定義」で規定しないと、

「芸術」はどんどん薄まって霧散してしまうのではないのかなと。


「芸術が無くなるなんてことあるわけ無いよ」「それはいくらなんでも大袈裟だろ」

ですか?・・・本当に?・・・大丈夫ですか?

大丈夫じゃないと思います。


規定されないもの、指標を失ったものというのは、大抵消滅していくのではないのでしょうか?

こんなことを言っていながらなんですが、もしかすると「芸術」は昔ほど必要とされていないのかもしれません。


本音の話をすれば、多分、昔のほうが現代よりも「芸術」を必要としていた人の数は多かったのかなと。

「芸術」が庶民の手の届かないところにあったのも事実なのでしょうが、

実は、昔の方が「芸術」が身近だったのかも知れないなと。

頂点にあるような「芸術」を所有するという感覚自体が昔の庶民にはなかったのだろうし、

そういう「芸術」に対する興味ということ以前に、生活に身近だったのではないでしょうか?


まぁ、それは今となっては、もうわからないことなわけですが、

じゃあ、現代はどうなのかと。

「芸術」は本当に必要とされているのだろうか?

それは、どのぐらいの人が必要としているのだろうかと。

意外と少なかったりしないのだろうかと。

そのへんが、ちょっと怪しいんじゃないのかなと。


本当にたくさんの人が「芸術」を必要としていたならば、

こんなに「フワフワ」した状態になってないんじゃないのかなと。

『きっとこれは、あまり求められてないぞ!』と思うわけです。

そんな中で、指標を失った状態を続けたら、本当に消え失せてしまうんじゃないのかなと。


でも、こういう時代に置いても、いや、こういう時代であるからこそ、

一層必要としている人が居るのに違いないのです。

だから誰かが「芸術」を定義しないと。


そんな風に思ってしまうわけですが、これは無理なことなのでしょうか?





「回帰」は二番煎じではないのです

世の中には、流行やその時代を象徴するスタイルというものがあるわけですけど、

大抵の場合、それはある程度の周期で、似たようなタイプのスタイルが繰り返されていると思うわけなのです。


ただし、全く同じだとすごく古臭く見えてしまって見向きもされなくて、

やはり、何かしら新しい要素が加えられていたり、独特なオリジナリティがあったりしないと、

新しいものとしてはなかなか認識されないわけですね。

よく言われるように、螺旋を描くように少しづつずれながら

周期的な繰り返しのパターンを辿っているのだと思うのです。


でも、現代の美術に限って言うと、20世紀以降は、

これらの周期的なパターンが、ほとんど無くなってしまっているように思うわけです。

というよりも、それが許されないようなプレッシャーが常に働いていたのではないのかなと。


つまり、同じ芸術でも音楽など、他のジャンルでは

当たり前のように、ごく自然な形で周期的に繰り返されてきたパターンがあって、

それらは、必ずしも二番煎じとして捉えられてきたとも限らないし、

その都度更新されて、新たなものとして生まれ変わったものという認識で捉えられてきたのに、

先端的な芸術の分野においてだけ、そういう定期的な回帰が許されないで来たように感じてしまうのです。


「常に新しいものを生み出さねばならない」というプレッシャーが

それを邪魔していたのではないのかなと。

ときどき「ネオ〇〇」みたいな形で一昔前のスタイルを持ち出してくることがあっても、

それは、行き詰ったところから逃れる手段のようで、

「更新されて生まれ変わった」感じが薄かったのではないのかなと。


やはり、音楽などでは当たり前のこととして自然に行われていたことが、

どこか後ろめたいことのようになってしまっていて、

「新たな方向性を見出すことができなかったから既存の概念を持ち出してしまった」というような、

やってはいけないパターンをやってしまったという感じが

付きまとってしまっていたように思えてしまうわけなのです。


結果として、前の時代から何かを受け継ぐという要素が失われていってしまったのかなと。

もし、そうだとしたら、「芸術」は徐々に衰退していってしまうのではないのですかと。


わたしといたしましては、やはり何らかの形で「回帰」が必要なのではないのかなと。
(手法やスタイルの上での「回帰」と言うよりも、「原点に立ち返って、芸術をどう考えるのか?」ということに置いての「回帰」ですね)

どうしてもそう思えてしまうわけなのです。



「芸術」とは「異物」なのか?

先週、珍しく美術に関する本を読んだのですが、

その中で、ちょっと気になったことがあったのです。


全体としては結構、納得できるところが多かったように思うのですけれど、

気になったのは、その本の著者の方が

『自分にとっての「芸術」とは「異物」である』と書いていたことなのです。


現代美術に関わっている人が、これに近いことを言っているのをよく聞くような気がするのです。

確かに、納得させられてしまうところもある「言い方」なわけです。

ただ、私はこういう「言い方」を聞くと「異物」であることが、

かなりクローズアップされ過ぎているように感じてしまうのです。

何かを突き詰めて行くと「異物感」が出てくるというのと、

「芸術」≒「異物」というのはちょっと違うのじゃないのかなと。

しかも、「異物」であることが、「芸術」の目的であるというのとは、もっと違うのじゃないのかなと。


例えば、道端に犬の糞が落ちていれば、それは「異物」だと思うわけですけれど、

同じ様に、道端に水晶玉が置いてあっても「異物」だと思うわけですよね。

というより、カラスに荒らされた生ゴミだろうが、とんでもなく大きな岩だろうが、

なんだって結構「異物」になりうるわけです。


やっぱり、道端に犬の糞が落ちていれば見ちゃいますよね。

でも、見たくて見てるわけじゃないですよね。

でもやっぱり見てしまう。

それと似たような心理の誘導を、美術館のような場所でやることで「芸術」というのはどうなのかなと。


本の中では「私にとっての芸術とは」と書かれていましたから、

それを、とやかく言うのもおかしいのかもしれないんですけど、

やはり、どうしてもこの「言い方」が現代の「芸術」については

妙に説得力のある「言い方」になってしまっていることが気になってしまうわけなのです。

実際に、「異物」であることのインパクトを利用している作品もあるようですし、

もっと言えば、それに頼ってしまっている作品も多いのではないのかなと。


私としましては「異物」であることは、目的ではなく結果であってほしいのです。

結果的に「異物感」のある作品がインパクトを持つことはあると思うのですけれど、

それが目的化してしまっているような作品と言うのは受け入れがたいわけなのです。

それから、インパクトが無いとダメということでもないと思うのです。


そして最後に、犬の糞は飼い主さんに処分してほしいなとも思うのです。

それが「芸術」だという人もいるのかもしれませんけどね!!


「惹きつけられるもの」

前の記事に関連した話になります。


前の記事で芸術における「異物」ということについて書いているのですけれど

この言葉がなぜ説得力を持っているのかと言えば、

「惹きつけられる」ということと関連しているのだと思うわけです。


つまり、「異物」であるということは、人の意識を「惹きつける力」になるということなのです。

見たい見たくない以前に、「見てしまう」ということかなと。


ただし、それは魅了されていることとは限らないわけなのです。

道の真ん中に大きな障害物が置いてあれば、確かに「異物」ですけれど、

それは、そこを通りたい人にとっては、邪魔なだけの「異物」なわけです。

そりゃ見ますよ。なんとかしなきゃ通れませんからね。

でも、興味を持って見ているのでもなければ、まして魅了されているわけがないですよね。


ところがですね、それを美術館にもってくるわけですよ。

「通りたいのに通れない」ではなくなっちゃうわけですね。

迷惑なことが何もなくなってしまうので、「異物」のなかの「見てしまう」だけが残るわけです。

そこで強情な人やひねくれた人以外の、普通に素直な人たちは、

どうしても、「見てしまう」=「惹きつけられる」=「魅了される」という

すり替えにはまってしまうわけですね。


まぁ、言ってみれば手品みたいなものだと思うんですよ。

何かに人の意識を引きつけている間に、見えにくいところで細工をすると

在り得ないところから、在り得ないものが出てきたように見えるというような、アレですよね。

手品師って、きらびやかな衣装を着ていたり、

ゴージャスな感じの金ぴかの道具立てでステージを演出していたりしますよね。

芸術の場合も同じで、道におかれていた障害物を美術館に持ってくるだけじゃなくて、

きれいに(場合によっては汚く)演出するわけですよ。

そして、それがセンス良かったりもするのですよ。

なんたって芸術家ですから、その辺は得意なわけですね。

手品師が人の心理の裏をかくのがうまいのと同じように、

芸術家は、人の心をつかむのはうまいのでしょうね。


そうなってくるともう見ている側の人たちは、

芸術がどうとかこうとかいうことは、もうどうでもよくなって、

「惹きつけられるもの」には逆らえなくなってしまって、

「見てしまう」自分をなんとか肯定しようとするわけですよ。

美術館で芸術鑑賞と称して「道におかれた障害物」を、お金を払って見せられている自分。

これは肯定したくならないわけですね。

だから、どうしてもそれは「芸術作品」でなければならなくなるわけなのです。


これは、見ている側の人を責めても始まらないことかなと。

宗教においては「洗脳」が、商売においては「詐欺商法」や「マルチ商法」が、

広告宣伝においては「サブリミナル手法」が、禁じられたり非難されたりしているのは、

それが人の判断を狂わせるものであり、

それを許してしまうと非常に大きな弊害を招きかねないからなわけです。

そこには、ある種の自由に対する規制が生じたとしても、

致し方ないという判断が歴史的に成立しているわけであって、

それはすでに結論の領域にあるといってもよいのではないでしょうか。
(その網の目をくぐるようなやり方は常にありますが、
 一応それらは駆逐されるべきという方向は定まっているかと)


本当のことを言えば、芸術の分野で、こういう話になること自体が悲しいのであって、

芸術については、本来このような規制という考えは必要ないはずなわけなのです。

現状におきまして、このような規制を法律において設けることは不可能でしょうし、

もしも、法規制するとすれば、恐らく、芸術の主要な部分が大幅に失われてしまうことに成るでしょう。

(本当に厳しいことを言えば、他の分野と同じく規制の対象になるべきなのかもしれませんが、芸術は純粋かつ平和的な分野であるという前提において、宗教やいわゆる商業的な分野と区別されているわけですが、現状の芸術とは、いったい商業的な分野ではないと言えるのでしょうか?)


やはり芸術界(世界的なですよ)が自主的な概念上の規範を打ち出すべきではないのかなと。

つまり、芸術を規制するのではなく、言い換えるならば、芸術の範囲を限定してしまうのではなく、

しかし、あくまで芸術の位置をつなぎ止めるという作業が求められるのではないのでしょうか?


要するに「芸術の中心というのはここですよ」と誰かが、

責任と、威厳と、自信をもって言い切ることが必要なのではないのかなと。

普段十二分に、威厳を持った立場におられるような方々がたくさんいらっしゃられるわけですから、

こんな時にこそ、「さすが」と言われるような威厳を見せて欲しいわけなのですよ。

それをしてくださるのであれば、普段どんなに威張っていてもいいんじゃないんですかと。


そして欲を言うのであれば、その規範を定期的に見直すという作業も行っていただくことを

希望いたしますです!はい。

「オネゲェシマスダ!」

表現=自己顕示なの?

芸術などの手段を使って何かを表現するということは、その表現者の自己顕示性の表れである

と言う内容の文章がよくあると思いますけど、私はこれは違うと思うのです。


確かに、なにかを表現するということは、自己を現すことではあると思うのですけれど、

それを、即ち自己顕示であるといってしまうのは、

何か一言しゃべっただけで、「目立ちたがり屋」にされてしまうのと同じで、かなり間違っているわけです。


それは、何をどれだけしゃべったのかで決まることじゃないでしょうか?

だから、内容を抜きに表現=自己顕示=芸術的として、

目立ちたがりの突飛なことをするような人こそが、「芸術家タイプ」であるとしてしまうことは、

とてもおかしなことのように思えるわけなのです。


あくまで推測ですけれど、芸能に近いようなものを除けば、芸術に興味を持って、

そこで自分を表現しようと思うような人というのは、どちらかと言えば、

自己顕示欲の弱い内向的な人のほうが多いのではないのかなと。

その中で、一部の自己顕示タイプの人が目立ってしまうというのは仕方のないことだとは思うのですけれど、

それは必ずしも内容とは関係のないことなわけなのです。

そして何より、一緒くたにされていることで、

反対側にいる人たちが切り捨てられているように感じてしまうわけなのです。

「目立ったもん勝ち」みたいなね。


この自己顕示タイプではない側にも目線を持っていかないとダメなんじゃないですかと。 

少なくとも、自己表現と自己顕示ははっきりと違うものだという認識をもって、

芸術というものを見ていかないと、

目の粗いざるのようにドンドンいいものを逃していってしまうのじゃないのかなと。

そんな風に、私は思うのです。



「芸術」は一度自己破産した方がいいのでは?

現代芸術が行き詰っているとはよく言われているわけですけれど、

その行き詰まりを指摘する人は沢山いても、

芸術を「こういう方向に持っていきましょう」というような話がなかなか出てこないわけなのです。


でも、それは当たり前なわけです。

「こうすればいい」という答えがあれば、もう誰かがやっているわけですから。

それが無いから行き詰まりなわけですから、探しても無駄なわけですね。

まして、『個々の作家が時代を切り開くような革新的な表現形態を生み出して、その閉塞感を打開する』

なんてことは、あり得ないわけなのです。

それに期待するのは、借金で首が回らなくなった人が、競馬で一発当てようというのと同じで、

かなり「期待うすい」感じなわけなのです。

というより、その「革新的な表現形態」とか「時代を打開する」みたいな考え方こそが、

現状の行き詰まりを創り出した原因の一つなのですから、

もし、それができたとしても、きっと一時しのぎ的なものにしかならないのではないのかなと。

だとしたら、どういたしましょうかと。


「自己破産でしょ」やっぱり。

負債を一気に清算するのはこれしかないわけですよ。

私はこのブログの本題である「宣言」において、

「時代喪失」と「100年回帰」を提言しておりますが、

そんなことは、本当はどうでもよいことなのです。

本当に大事なのは現状を清算して、ゼロからもう一度始めるということで

そのやり方については、どんな方法でも一向に構わないわけなのです。


そして、これは、本来評論家の仕事なのではないのかなと。

はっきり言わせてもらえば、評論家についてあまり良い感じに思っていない人は多いと思うのですよ。

多くの人がどこかしらでは、

「評論家なんて屁理屈をこねているだけで、何の役にも立たないんじゃないの?」

と思っていたりするわけですよ。
(なんて失礼な!私はヘリクツが大好きなので、そんなふうには思いませんよ)

でも、今、出番なわけです。 お呼びがかかってるわけですよ。


いま、どんな方法でもいいから”キレイサッパリ”現状を清算してくれたら、きっと、みんな見直しますね。

普段、伊達に小難しいこと言ってたんじゃなかったんだってなるんじゃないですか?


評論家の方々に言いたいわけです。

いま、「チャンスタイム」来てますよと。

いま、それをするだけで「ポイント1000倍」ですよと。

取り敢えずいっといた方がいいんじゃないですかと。


この機会に、どうかおひとつ、いかがでしょうか?




「人間」は、まだ「人間未満」だと思うのです

「人間」と、簡単に言ってしまっていますけれど、

実は「人間」っていうのは、まだ完全に「人間」に成れていないようにも思えるわけなのです。

きっと、言葉の上で「人間」と言った場合と、「実際の人間」がだいぶ違っているのではないのかなと。

つまり「実際の人間」は、まだ「人間未満」なのじゃないのかなと。


例えば、イジメや犯罪について「そんなことは人間のすることじゃない!」なんて言ったり、

常識や道徳を守ることについて「人間として当然のこと」と言ったりするわけですけれども、

これ「実際の人間」に当てはまってると言い切れるんでしょうか?

「人間として」なんて、当たり前のように言っちゃってますけれど、

そういうときの「人間」っていうのは、かなり「理想化された人間」だったりするわけなのです。

「人間として当然のこと」が「当然できる」という人が、そう沢山は居ないわけですね。

「人間のすることじゃない」はずなのに、結構みんなやっちゃうわけですよね。


まぁ居ますよ、そういう人もね、たぶん居ると思いますよ。

「当然のことが当然できる人」や「やってはいけないことは絶対やらない人」ね、

でも思っているよりは相当少なくて、かなりの「偉人クラス」じゃないんでしょうか?

普通の人は、ちょっとしたプレッシャーが掛かったりするだけで、すぐ「やってしまう」わけですよ。

「人間じゃない」をですね。


これはもう仕方ないと思うのです。

『まだ「人間」が、そこまで来ていないんだ』ということかなと。

だから、『まずは「人間未満」であることを認めましょう!』と思うのです。

自分も他人も敵も味方も、皆「人間未満」なわけなのです。


これからは、「いい人:悪い人」・「できる人:できない人」・「偉い人:ダメな人」・「頭がいい人:アホな人」

なんかじゃなくて「人間に成ろうとする人:既に人間だと思い込んでいる人」なのではないのかなと。


今ある状態から、「自然に与えられたものとは言えないような意志」を使って

「何かになろうとする」ということこそが「人間」を「人間」と呼べるところなのかもしれないですよと。

そんな風にも思えるわけなのです。



「真術」は芸術の中心の一点なのです

このブログの中で使っている「真術」という言葉について説明いたします。

私が、勝手に作った言葉なので、聞いたことはないと思いますが、

「芸術の中心」と考えていただいていいと思います。


これはこのブログで何度か書いてきたことなのですが、

いま、「芸術」を規定しておかないと、なし崩し的に崩壊してしまうのではないのかなと。

でも、これだけ広がってしまった「芸術」を限定した領域の中で規定することは、もはや不可能だろうと。

これまで、それをやろうとした人、その一人一人がそれぞれに別々の説を展開してきたために、

かえって、その都度「芸術」の位置が曖昧になって行ってしまったと、私は考えるわけなのです。

全てのものが「芸術」と成りうる現状において、「これは芸術で、こっちは芸術じゃない」とか

「こういう要素を持ったものは芸術で、それがないものは芸術じゃない」などの

規定を設けようとすれば、必ず否定された側から反対の説が出てきて、

相殺されてしまって、うやむやに成って無かったことにされてしまうわけです。

さらには、これを盲目的に繰り返し続けた結果、

もはや「芸術」の中心すらもわからなくなってしまったというわけなのです。


そこで、後生大事にしてきた「芸術」という言葉ではありますが、

ここは、あきらめてそれを脱ぎ捨てて、新しい言葉を設定しなければダメなんじゃないですかと。

そんな考えに基づいて設定したのが、この「真術」という言葉なわけなのです。

ただし、ここで「芸術」という言葉を完全に捨ててしまうわけではなく、

それは、広い意味での「芸術」として残して置いていいんじゃないですかと。

ただ、それがあまりにもガンジガラメの拘束衣のようになっいて、

「自由という名の束縛」になってしまっているから、スルリと脱ぎ捨てて楽になりませんかと。

そんな風に考えているというわけなのです。


そして、その「芸術」の真ん中に点を打ち、

それをフワフワと飛んで行ってしまわないように繋ぎ止めようということなのです。

そして、その「芸術」の中心にある一点を「真術」と呼ぼうじゃないかということなわけなのです。


「真術」じゃなくたっていいんです。

他の名前でもいいし、他の規定の仕方でもいいのです。

でも、新しい名前が欲しいのです。 

このままじゃあ無理なのです。

それから「なんとか芸術」とか「なになにアート」とかもダメだと思うのです。

聞いたことがない名前じゃないと。


一応、そういう気持ちでやっております。




理想的な通貨:(妄想です)

タイトルの通り、私の妄想なので現実味のない話になりますけれど、

私は、全てのものに期限があればいいと思っているのです。


例えば、お金の価値とか、金(ゴールドの方ですね)や宝石とか、土地とか、

とにかく、ありとあらゆるものの価値に期限が付けられたら、すごくいいんじゃないかなと思っているわけです。

なぜかと言えばですね、世の中に「絶対的なもの」というのは無い方がよいのじゃないかと思うんですね。

というよりも、「絶対的なもの」なんて本当は無いと思うんですよね。

ところが「無期限の価値」というのは「絶対的なもの」に成ってしまうんですね。

そうなると、人間がそれに蹂躙されてしまうと思うわけです。

「お金」なんて典型的ですよね。


でも、その「お金」に期限が設定されていたらどうですかね。

期限が来れば価値がなくなる(徐々に減少する)としたら、もう絶対的ではなくなるわけですよ。

そして当然、価値が在る(高い)内に使おうとするから、消費が拡大するわけですよね。

それから、価値を代々受け継ぐことができなくなりますから、極端な貧富の差もなくなるかもしれないですよ。

お金に限ったことでもなくて、土地なんかも期限があれば有効活用される率は高くなるような気がしますね。

それにバブル経済というのが、無くなると思うのですよ。

つまり投機ということができなくなるわけですね。


それから、お金を早く使わないとならなくなれば人が欲しいものをいつも見つけようとしますから、

とても好奇心旺盛な世の中になるのじゃないのかなと。

そして、どうせお金を残してもしょうがないから高くても本当にいいものを買うようになるでしょうね。

安物を買って、お金を残しても意味ないですからね。

つまり「悪貨は良貨を駆逐しなくなる」わけですね。


「おぉ、いいことばっかりじゃないですか」

問題は、実現できないということだけですね。

だから妄想なんですけどね。


でも、こんなような考え方を少しでも基盤において、政治や経済を回していってほしいかなと。

それに、現在のあらゆる技術を駆使すれば、それに近いこともできるのかもしれないですしね。

実はデジタル技術やインターネットというのは、こんなことを達成するために生まれたものではないのかなと。

それに気づかないで、見当違いのところでウロウロしているのかもしれないなと。


まぁ、そんな風にも思っております。

間違えました。 そんな風に妄想しております。





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「芸術の20世紀 喪失」は時代に挑戦する実験なのです

このブログのテーマである、「芸術の20世紀 喪失宣言」についての記事になります。


この「宣言」は現代という「時代」に挑戦する実験でもあるのです。


人間は、これまでの歴史の中で様々な進歩を遂げてきたわけですけれど、

それらの進歩や変化というのはすべて、

「時代」の流れに沿ったものであったようにも思えるわけなのです。

科学が急速に進歩したのは「科学の時代」がやってきたからで、

市民革命が起きたのは「民衆の時代」が巡ってきたからなのかなと。


結局、いつも人間は「時代」を」止めることができなかっただけで、

積極的に「時代」を築いてきたとは言えないのかなと。

まぁ、「後になってからは何とでも言える」と言われればそうなんですけれどね。

でも、実際に、人間は「原爆」も「戦争」も「差別」も「大量虐殺」ですら止められなかったわけですよね。


これから先も、きっと「原子力」とか「遺伝子操作」なんかも止めることはできないんじゃないですかね。

つまり、かなりの数の人が反対していようが、一生懸命止めようとしようが、

必ず、「時代」の力のほうが勝ってしまうわけですね。


「だから諦めておとなしくしていろ」なんて言う話じゃないですよ。

もちろん、止めようとすること自体に大きな価値はあると思うわけです。
(これは、真面目に賛成している人の側にも言えることですけどね)

ただ、悲しいかな結果的にはということですよね。


これを、人間が人間の意志でやっていると言えるのでしょうか?

私にはどうしても、「時代の力」ですべてが決まっているようにしか見えないんですよね。

しかも、その時に決まっているというよりも、

既に決まっていたことが、次々と現実になっていくように見えてしまうんですね。

人間は、決められた台本どうりに動かされているとしか思えないわけです。


これを続けていくのか?ということに成るわけですよ。

もうそろそろ、人間が「時代」に逆らうときが来ているのじゃないですかと。

本当の意味で、人間が「時代を築くことの責任」を負うべき時が来ているんじゃないんでしょうか?


戦争をすれば「あの時代はしかたなかった」と言い、

原発が事故を起こせば、「想定外の規模の災害だった」と、これから先も言い続けて行くのですかと。

つまり、人間がしてきたことか「時代」がしてきたことかというよりも、

人間が、すべてを「時代」のセイにしてきたのかもしれませんね。


これは、決して、「戦争や原発に反対するか賛成するか?」ということではなくて、

「誰が時代の責任を取るのか?」ということですね。


一度ぐらい試してみるだけでも、その価値はあると思うのです。

人間に、その責任が回ってきているように感じるのです。


でも、いきなり原発だと難しくないですか?

結局、また「時代」に押し切られてしまうのじゃないのですか?

そんなところで、どうなんでしょう「芸術」なんかがいいんじゃないですかと。

人の「生き死に」や「損得」に、関係ないところから始めた方がいいのかもしれないですよと。


正直言うと、後付けの動機なのかもしれませんが、

まだ「芸術」には「そういう力」はあると思います。


「芸術の役割」が終わりかけて・・・・

これは、正直言って言葉にしたくないことなんですけれど、

「芸術」というジャンルは、徐々にその「本来の役割」を終わろうとしているのではないのでしょうか?

もちろん、今すぐに無くなってしまうとか、完全に消えてしまうとかということではないのでしょうが、

ものすごく緩慢に、長いスパンで、

本質的な意味での「芸術の役割」が消えて行こうとしているという考えが・・・・・

そんな考えが、私の中にはあるのです。


それは、このブログで言っていることとかなり矛盾しているわけですけれど、

現在の「芸術」の、この場当たり的な変容ぶり、この曖昧さ、この取り返しのつかなさ、

この適当さ、この言い訳がましさ、この不健全さ、この希薄さ、この・・・・・

これらの「このありさま」・「この末期症状」を見るにつけ、

『「芸術」はもう必要とされていないのではないのか?』と言う考えが頭をよぎるのです。


20世紀において「芸術」の持つ意味が、大きく変容したことは当然であったのだと思うのです。

社会やその時代の人の意識を反映することは、本質的な「芸術の役割」なわけですから

それに合わせた変容というのは、なければならないと思うわけです。

でも、現在の「芸術」の「この状態」というのは、それに当てはまっているのだろうか?

本質を追究しての変容と、本質を見失っての変容は、

まったく違うものだと言わざるを得ないわけなのです。


もし仮に、「芸術の現状」が後者に当たるものだとするのならば、

常に「芸術」の本流に「本質を見失った芸術」が居座った状態を、延々と続けてきたということが、

もう、すでに歴史にまでなってしまっているのだとするのならば、

これはもう、「芸術」というものが「本質無きもの」となってしまったということなのではないのか?

言い換えれば、「物の本質を問いただし、その根源的な意味を追求する」という

「芸術」本来の役割や意味は、もはや失われてしまっているのではないのか?

もちろん、例外はあるでしょう、「本質を問い続けている者」は居るに違いないのです。

にもかかわらず、「本質無きもの」が常に本流にあり続けることができてしまったとするのならば、

それは、もうすでに「芸術」が本来の「芸術」である意味を失って、

その他大勢の中の「芸術」、たまたまその名で呼ばれているというような「芸術」に

成ってしまっているとは言えないのだろうか?

そして何よりも、その状態を「現在」が受け入れてしまっているということに成るのではないのだろうか?


つまり、「現在」によって公認されている「芸術」とは、「本質無き芸術」の方で、

「本質を追究する芸術」の方は、むしろ「非公認芸術」であって、

それは、とてもゆっくりではあるけれど、消えてゆこうとしているようにも思えるわけなのです。


それでもなお、私がこのブログで何かをしようとしているのは、

何かが終わるには、それなりの「終わり」がなければいけないと考えるからでもあるわけなのです。

そして、その「終わり」は何かしらの「始まり」をもたらすとも考えるわけなのです。


ただ、これは、あくまで希望的な観測ではありますが、

やはり「芸術」に生き延びてほしいという気持ちは捨てることができないというのも

そのもう一方の理由なわけです。




「本能」と「欲望」の違い

「本能」と「欲望」は、ときには似たようなものとして扱われることがありますけど、

実はかなり違うものだと思うのです。

それから、「欲望」は「本能」の中の一つ、というのも少し違うように思うわけなのです。


「本能」は人間(ほかの動物でも)が、生まれながらにして既に与えられている、

情報やそれに基づいた「衝動」といってよいのかと思うのですけれど、

「欲望」の方はというと、「本能」のような人間がもともと与えられている「衝動」を元にはしているけれど、

その「元になっている衝動」を、後天的な自己の「意図」や「意識」によって、

塗り固めて行った末に出来上がったものだと私は考えています。

そして、さらにはその塗り固めた方の要素こそが「欲望」の本質であると考えるわけなのです。

まぁ、あくまで私の考えですけれどね。


当然塗り固めたものが腐敗しているものであれば、

最終的には芯にあった「衝動」までも腐ってしまうわけなのです。

それがいわゆる「欲に溺れた」状態なのかなと。

ただ、よほど腐りきった状態でなければ、そこまではいかないので、

中心に残っている「衝動」(これはほとんど「本能」に基づいていますから)

と同じように扱ってしまいがちなわけなのです。


例えば食欲は「本能的」ですけれど、「食べ物を手に入れよう」と言うのは「欲望」が塗られているというわけです。

でも、この時点では、区別されにくいわけです。(ほとんどその必要もないので)

そこで更に、人のものを奪ってでもそれを手に入れようとすれば、その「欲望」が腐敗しているわけですね。

ここでかなり区別されるようになって来るわけです。

それでも、こういうことを言うと『世の中は「弱肉強食」なのだからそれを悪く言うのはおかしい』

というようなことを言う人がよく現れて出て来るわけですが、

それがまさに「本能」と「欲望」が混同されているということではないのかなと。

しかも、言われた側の人も同じように混同している場合は、

なんとなく釈然としないながらも、認めさせられてしまうことにもなるわけなのです。

そうやってまた、この『「弱肉強食」だから悪くはない』という説が、

社会の中で強化されていってしまうというわけなのです。


でも、これは大自然の摂理のようなものであってライオンは「意図」や「意識」でもって

シマウマを襲っているわけではないわけです。

つまり、ここでは「本能」に近いものしか使われていないのです。

人間には、これはあり得ないと思うんですよ。必ず「意識」が入ってしまうわけですね。

「智」を持ってしまっているということでしょうか。

だから、こちらは「欲望」と言わざるを得ないわけなのです。


それ以前に、「あんた、いつから大自然の中のライオンになったんだよ?」っていう感じですか。

さらに言えば、

「どっちかって言えば、おまえライオンじゃなくてハイエナだろ!」っていうときもあったりしますね。


いずれにしても、「欲望」は人間が「智」を持つが故のものなわけですから、

その「智」を使えば「欲に溺れる」ようなことには成らないのかなと。

ただし、こういうことをいちいち人に言うととても嫌がられます。

あしからず。

  ※ここで言うハイエナとは食物連鎖の中での順列を示すために用いたもので、
    ハイエナが嫌いなわけではありませんので、こちらも、あしからず。



【民主主義=多数決】 と言う公式は、もう考え直した方がいいのでは?

これまでずっと、民主主義の根底に「多数決で事を決める」というのがあったわけですけれど、

これはもう成り立っていないことが、はっきりして来ているんじゃないのかなと思うのです。


多数決と言っていますけど、実際に多数決をとることが全くできていないわけで、

実態としては、今行われている政治がどれだけの人に支持されたものであるのかは、

もう誰にもわからないものになってしまっているわけなのです。


それでも、そのシステムに頼り切っているために、

「多数決」と「民意」はどんどん乖離していく一方なわけです。


だから、何か代替案を導き出さなければいけないと思うわけです。

それをすることが、いま政治にできる数少ないことではないでのでしょうか。

政治家や学者が寄り集まって、一生懸命考えれば、

きっと何らかの策が浮かんでくるのではないのかなと。


正直言えば、それらの策にはほとんど期待が持てないわけですけれど、

それを考えることや実行してみることで、現行の民主主義と言われているものが

如何に民意からかけ離れたものであるのかが、洗い出されて来れば

どこが問題なのかぐらいはわかってくるのかなと。


そして、そこからどう対処するのかが本題なわけです。

でも、それは少し話が大きくなりすぎるので、やめて置いた方がよさそうですね。

私がいま思いつくことは、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立させなければ

【多数決=民主主義】も成り立たないということなのです。


「全員投票」を強制的に行おうとすれば、結果的に「匿名性」が失われてしまうでしょうから、

「政治的な意思の表明」を個人に対して強要することに成ってしまいます。

      ※強制であるということは、投票が実行されたことが確認できなければ意味がないので
       全員が投票したことが確認できるようなシステムが必要に成るでしょう。
       おそらく、そこから「匿名性」が崩れていってしまうように思います。


でも、「多数決」は基本的に全員が投票することを前提に成り立っている制度なわけですから、

全ての人が投票しなければ、「多数決」でも、なんでもないわけで、

そこを何とかしなければ「民主主義」とは名ばかりで実体は無いも同然なわけですね。

極端に言えば、「民主主義」は立ち上げられたまま、まだ実行に移されていなかった

とも言えるのではないでしょうか。


そこで、思い当たるのは「裁判員制度」や「陪審員制度」のようなものかなと。


もしかすると、人数を限定して、形だけに成っている「全員投票」を捨てれば、

「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立できるのではないのかなと。

       ※こちらも「匿名性」については、完全には確保できないかも知れませんが、
        少なくとも「投票の義務」については、ほぼ確保されるでしょう。

とまぁ、そんなことも考えるわけですが、

もしかすると、今の状態が、国を動かしている人たちにとって

結構都合がいいのかもしれませんよね。


だとしたら、「変わるわけないじゃん」ですよね。

これが一番濃厚な説かも知れません。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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