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「お金」と「芸術」の共通点



「芸術」と言うと、「お金」とは正反対のところにあるものという捉え方をされていますけれど、この二つには、共通点があると思うわけです。

それは、両方とも賞味期限がないことなのです。

食べ物ではないので、賞味期限と言うのはおかしいんですが、要するに、無期限の価値を持っている(与えられている)ということですね。

お金(通貨)というのは、それを発行している国が崩壊すれば価値がなくなるし、「芸術作品」も、その作者の名声が没落すれば、その価値も下がってしまうわけですから、必ずしも無期限とも言えないわけなんですが、少なくとも食べ物のように、一定の期間を過ぎると必ず価値がなくなるということは無いわけです。

でも、ただ単に、食べ物と言うのは、最も顕著な例で、だから賞味期限と言う言葉を使ったわけですけれど、ほとんどのものは、製造されてから一定の期間が過ぎると価値が落ちていくという宿命があるわけです。
ましてや、一度人手に渡ったものは、いわゆる「ユーズド品」になってガクンと価値が落ちてしまうわけですよね。


ところが、「芸術」・「お金」両方とも、どんなに人から人に渡って行こうが、いくら使用されようが価値が変わることがないわけです。
よほどの技法的な欠陥があって、「絵」が剥落したりでもしない限り、例えば、年代相応に劣化して修復されたとしても価値が変わったりしないと思うわけです。

そして、このことによって「芸術」が投資の対象になったりするのだと思うわけなのです。
本当は、この両者にも期限があれば、いいのではないのかなと思います。

ただ、それをどんなふうにやればいいのかは、今のところわからないというのが残念ではあります。





「芸術」の競争



現代社会においては、競争と言うと、自由競争とか切磋琢磨といった、前向きなものとして、捉えることが前提になっているように思います。

競争から離脱することは、「ドロップアウト」または「後ろ向き」という扱いになるわけですね。

でも、実は、競争がそういう前向きな作用を持っていた時期はもう過ぎてしまって、競争が「足のすくい合い」になっているように思うのです。

たとえば、「ものづくり」において、物を作る企業や芸術の創作者のような人が、自社製品や自分の作品の向上を競い合っているというよりも、競争相手や、場合によっては消費者や鑑賞者の足元を掬ってひっくり返してやろうというような、そんな人の裏をかくような意図が、そこに入ってしまっていることがあると思うわけなのです。

そして、さらには、そのような意図を含まないものが、その競争の中で振い落されていくような仕組みができ上がってしまっているように感じるわけなのです。

例えば、企業が耐久性の優れた製品を作ってしまうと、その製品の買い替えのサイクルが長くなって儲からなくなるというような理由から、むしろ、適度に長持ちしない製品を作ることに力を入れていたりすることが、、当たり前のように成りつつあることは、「ものづくりの崩壊」であって、ちっとも前向きな競争や自由競争なんかではないように思うわけです。

まして、それと同じようなことが「芸術」の分野で行われているとしたら、「究極のものづくり」ともいえる「芸術」において、「ものづくり」が崩壊してしまっているということに成ります。

そして、これは、経済市場においてそうなったから「芸術」もそうなっただけではなくて、むしろ、「芸術」がそうなったから、それによって他の分野でも同じことが起きてきたと言う面もあるのではないか?と私は思っているわけです。

こう言うと「芸術」を買い被っているように聞こえるのかもしれませんが、近代以降の「芸術」は、そういうことのために設定されている分野でもあると思いますから、そんな風に考えてしまうわけなのです。

だから、競争の原理から離れなければ始まらないと思うわけです。
その過程で「捨て石」になる者が求められるように思いますが、その「捨て石」を生かせるところまで人間が成熟しているのかどうかが問われているように感じてしまうわけなのです。





「真術」は設定することに意味があったのです



このブログの主題でもあります「宣言文」において、「真術」は芸術の中心にある領域だと規定しているわけですけれど、この「真術」と言う言葉には、私自身も、なかなか馴染めないでおります。

でも、私はそれでも構わないのかなと思っています。
なぜならば、この「真術」は区分すること自体に意味があるものであり、その名称自体は、それほど重要であるとも思っていないからです。

ただ、現在において、あまりに芸術と言う言葉の規定するところが曖昧になっていて、何が芸術で、何が芸術でないのかが、まったく見えなくなってしまっているという状態になってしまっているので、なんとかして、芸術の位置を設定しておかなければ、創作するにも鑑賞するにも何を基準にしていいのかが分からなくなってしまうだろうという考えからこれを区分したわけです。

ですから、「真術」と言う言葉は地図の上に止められたピンのようなもので、『ここが芸術の中心です』」と言う目印に過ぎないわけで、「真術」と言う言葉を無理に使う必要はないと思っているわけです。

つまり、そのような基準で、この「真術」とう概念を区分したということ自体に、少しでも価値を感じていただければと思っているわけなのであります。




「真術」は設定することに意味があったのです(続き)



前の記事の続きです。


わたしは「真術」を「真実の追究」という方向で設定したのですが、実を言えば、それすらも重要なこととは言えないのです。

実際に重要なのは、芸術に対して専門的な見解を持っている人も、そうではない人も含めて、、『芸術とはだいたいこういうものだ』と言う共通の認識が出来上がることであって、目印のピンが地図上のどこの位置に止められているのかと言うことよりも、そのピンが「芸術」を規定するピンであることと、それが、そこ(どこか)に止められているということを、みんなが共有できていることだと思うのです。

そのピンが、どこかに刺さっていることがわかってさえいれば、そこからどんなに離れたところで「芸術」の話をする人が出て来てもそれは自由なわけです。

その意見が、ピンの刺さっている位置から見て、どのぐらい離れていたり、どんな意味を持っているものなのかということを、誰もが、考えられるということが、やはり必要ではないのかと思うわけなのです。


現状では(20世紀以降ずっと)、そういう目印が設定されていないに等しい状況であるために、「いま人気がある人」や「最近注目されている人」そして「権威のある人」が述べるところの見解が、大きすぎる影響力を持ってしまうわけなのです。

たとえ、それがどんなに突飛な見解であっても、あたかも、そこが「芸術の中心」であるような、もしくは「芸術の中心」が、いまはそちらに移ってしまったかのような、「集団的な錯覚」を創り出してしまうというパターンが出来上がってしまっていると思うわけです。

さらに言えば、「芸術の中心」に近い見解は「オモシロクナイ」から注目されなくて、「芸術の中心」から極端に離れた見解のほうが「オモシロイ」から注目される傾向もあるわけです。

何か一つの「流行のキーワード」を提示されると、その呪文によって集団催眠のような状態が形成されて、夢遊病患者のように、ふらふらと「流行のキーワード」の方に向かって吸い込まれて行く。

その後、何かのきっかけでその呪文が解けたとたんに、「流行のキーワード」だったものが「もう終わってるもの」にしか見えなくなって、「集団的な錯覚」から脱出して我を取り戻す。

これを繰り返してきたために、「集団的な錯覚」から「集団的な依存症」のような状態になりつつあるのが現在の「芸術」ではないのかと思うわけなのです。

つまり「我を取り戻している」ときには、むしろ現実感が希薄で不安を感じてしまい、「集団的な錯覚」の中に居る方が安心する、だからまた「錯覚」を与えてくれるものを求めるというような、いわゆる依存症患者の症状のようなパターンが形成されてしまっているように見えるわけなのです。

依存症を長く続けていけば、その結果はだいたいわかっていると思うのです。
その結果が悲惨なものだと思うのであれば、そこから抜け出さねばならないわけです。

依存症患者は、依存しているものを断つことでしかそこから抜け出せないわけで、さらには依存せずにはいられないという体質自体を変えなければ根本的な解決にはならないのです。

要するに、いま必要なのは「オモシロサ」ではなく、「少しつまらないような真面目さ」ではないのかなと。


そんな風に思うのです。




「芸術者」という考え方



「芸術家」という言葉はあるんですけど、「芸術者」という言葉がないんですねぇ。
「技術者」とか「労働者」はあるのに「芸術者」はない。

同じように、「書道家」とか「文筆家」とか「武道家」なんかも「〇〇者」がないですよね。
どうも、こういうのが「エラソウ」に聞こえるんですね。

「芸術家」の人の中でも『私が芸術家です!』と言い切る人って意外と少ないような気がします。
人から言われると否定しない人が多いですけどね。
(「先生」と言われても否定しません)

要するに、『芸術家です』と言って、「エラソウ」に聞こえるのが嫌だから、自分では言わないんじゃないかと思うんですね。
だったら、「芸術家」はやめてしまって、「芸術者」と言えばいいんじゃないかなと思ったわけです。

「〇〇家」と言うと、ナントナク「世間一般に認められた〇〇家」というイメージがあるので、どうしても、自分で自分のことを、『私が、世間一般に認められた〇〇家です』とは言いにくいんでしょうね。


それで、「芸術者」だったら堂々と言いやすいんじゃないか?っていうのもあるんですが、実は、それだけでもなくて、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を含めた意味で「芸術者」という言葉があるといいんじゃないかなと思っているわけです。

そうすれば、さらにエラソウに成りにくいような気もしますし。

つまり、立場の違いはあっても、この「芸術に関わる三者」は、対等にしておいた方がイイように思いますから、それらを一括りにする言葉があってもイイように思うわけです。

今は、「創作者」ばかりが「芸術家」と言う扱いを受けていますし、それでいて、やけに「批評家」の影響力が強かったりもしますから、やや、力関係が不均等で不自然な感じがするわけですね。

まぁ、そんな中で「鑑賞者」は、『黙って、イイと言われるものを見ていればいいんだ!』というような感じにしか見えませんけど、もう少し「鑑賞者」が対等な立場にいた方がイイような気がするんですね。


そんなことも含めて「芸術者」という言葉を使って行こうと思っているわけなのです。

つまり、「創作すること」と「鑑賞すること」が対等に対峙していないと、本当の意味で「芸術」とか「感動」と言うモノは成立しないんじゃないかと思うわけです。
 
「鑑賞者」と「批評者」の違いは、「鑑賞者」が「芸術を肯定的に見るという立場」であるのに対して、「批評者」は「芸術を批判的に見る立場」と言うことだと思っています。

そういうと、「批評者」を「ケチばかり付ける人」のように扱っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そうではなくて、「批評者」と言うのは「芸術」を批判することで、そこに意味を見つけ出すような立場と言うことです。

要するに「鑑賞者」は「自分が好きな作品」を探そうとしますし、「作品」の中に「自分の好きな所」を探そうとするわけですが、「批評者」は「自分の好きな作品」に対してであっても、そこに批評を加えようとする立場ということです。

この二つの立場は、芸術にとって両方とも必要だと思うわけですね。
そして、「創作者」を含めた三者が対等であれば、よりいいんじゃないかと言うことです。

こう考えれば、少なく見積もっても人類の半分以上の人は「芸術者」であるといってもいいでしょうし(もっと多いかもしれません)、それらの人たちが、『みんな対等に芸術に関わっているんだ!』ということが、とっても「スバラシイこと」なんじゃないのかなと。

まぁ、そんな風に思っているわけですね。


そういうわけで、『私も含めて、みんな芸術者です!』

少なくとも、エラそうではないかな?すこしイイかな??

と思います。

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追記

本文の中で、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」と言っていますが、「三者」それぞれが独立しているとは限らないと思っています。

「創作者」でもあり「鑑賞者」でもある人や、「批評者」でもあり「鑑賞者」でもあるという人もいるでしょうし、「三者」全ての視点を併せ持っている人もいると思います。

また、「鑑賞者」としての視点が希薄な人が、「芸術」に関する興味が薄いということではなく、あえて積極的に鑑賞はしないということだと思っています。
当然、「創作者」についても「上手い・下手」とは一致しないということになります。
「下手な創作者」でも、「創作者としての立場」を強く持っている人は居ると思いますし、「上手い人」が、みんな「創作すること」に多くの労力を費やすとは限りません。

要するに、この「芸術者」という言葉は、「芸術」に「何らかの必要性を感じている人」を指しています。
そして、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」は、その「三者」それぞれの立場の中で、その人がどの立ち位置に重心を置いているのか?そして、そこにどれだけの必要性を見出しているのか?を示すための言葉です。

そして、さらに、その「三者」が出来るだけ偏りの少ないが対等な状態であれば、いいんじゃないかと思っているわけです。






誰かが「芸術」を定義しないと



もういい加減「芸術」を何らかの「定義」で規定しないと、「芸術」はどんどん薄まって霧散してしまうのではないでしょうか?

もちろん、キチキチに「定義」しようということではありませんし、そんなことできないでしょうが、それをなんの規定もなくほったらかしにしていることの言い訳にしていていいんでしょうか?
それを、今後いつまで続けるんでしょうか?

 ※これは、人の人生に決定的な影響を与えるようなジャンルとしての「芸術」の話です。
  「エンターテイメントとしての芸術」の話でも、「インテリアとしての芸術」の話でもありません。
  つまりは、『今でも感動は求められているのか?』という話ですね。


『芸術が無くなるなんてことあるわけ無いよ』
『それはいくらなんでも大袈裟だろ』
そうでしょうか?・・・本当に?

規定されないもの、指標を失ったものというのは、大抵消滅していくのではないのでしょうか?


こんなことを言っていながらなんですが、もしかすると「芸術」は昔ほど必要とされていないのかもしれません。
本音の話をすれば、多分、昔のほうが現代よりも「芸術」を必要としていた人の比率は多かったような気がします。

「芸術」が庶民の手の届かないところにあったのも事実なのでしょうが、それでいて、昔の方が、少なくとも一般庶民にとっては「芸術」が切実な意味を持っていたような気がします。

現在、「芸術」は、一般的な人から切実に必要とされているのでしょうか?
少なくとも、私は美術館で感動に打ち震えて動けなくなっている人や、人目をはばからずに涙を流してひざまづいている人を一度も見たことがありません。

『それは飛躍しすぎだろう』と思うかも知れませんが、この話を100年前の寺院の仏像や教会の祭壇画に置き換えた場合、それほどの違和感は感じなくなってしまうでしょう。
いや、むしろ、それは全く違和感のない「日常的な風景」として考えることもできるようになってしまうのです。

まぁ、昔のことは、今となってはもうわからないことなわけですが、じゃあ、現代はどうなのかということです。
「芸術」は本当に必要とされているのだろうか?
それは、どのぐらいの人が必要としているのだろうかと。
意外と少なかったりしないのだろうかと。
そのへんが、ちょっと怪しいんじゃないのかなと。


本当にたくさんの人が「芸術」を必要としていたならば、こんなに「フワフワ」した状態になってないんじゃないのかなと。
『きっとこれは、あまり求められてないだろう』と思うわけです。

そんな中で、指標を失った状態を続けたら、本当に消え失せてしまうんじゃないですか?


でも、こういう時代に置いても、いや、こういう時代であるからこそ、一層「芸術」を必要としている人が居るともいえるわけです。
と言うか、実を言えば、「潜在的な感動に対する欲求」は現在の方が高いくらいなのではないかと思うわけです。

確かに、現代は「感情的であること」よりも「理性的であること」、「情熱的であること」よりも「冷静であること」の方を評価する傾向があると思いますが、その裏で、その冷静で理知的な無感情が社会の中にストレスを蔓延させている時代でもあります。
そして、そのストレスから人間の精神を解放することができるのは「感動」のような強烈な心の動き以外にはないように思うわけです。

だから、この「無感動」を受け入れてはならないし、今こそ「感動する心」を取り戻す時のような気がします。

だからこそ、いま、誰かが「芸術」を定義しないと。


そんな風に思ってしまうわけですが、これは無理なことなのでしょうか?





表現=自己顕示なのか?



芸術などの手段を使って何かを表現するということは、その表現者の自己顕示性の表れであると言われることがあると思いますけど、それはちょっと違うと思うのです。

確かに、なにかを表現するということは、自己を現すことではあると思うのですけれど、それを、即ち自己顕示であるといってしまうのは、何か一言しゃべっただけで、「おしゃべりな目立ちたがり屋」にされてしまうのと同じで、かなり極端だと思うわけです。

 ※「自己顕示」には、『自分をよく見せる』という要素がありますが、「自己表現」
  には、『自分のすべてを、そのまま見せる』という意味があると思います。
  だから、「見栄えのいいところ」だけを見せることを、「芸術としての自己表現」
  とは言えないと思いますね。

それは、何をどれだけしゃべったのかで決まることなんじゃないでしょうか?
だから、内容を抜きに表現=自己顕示=芸術的として、目立ちたがりの突飛なことをするような人こそが、「芸術家タイプ」であるとしてしまうことは、とてもおかしなことのように思えるわけなのです。

あくまで私が個人的に思うことですけれど、芸能に近いようなものを除けば、芸術に興味を持って、そこで自分を表現しようと思うような人というのは、本来は、自己顕示性においては低めの内向的な人のほうが多いのではないかと思います。
どちらかと言えば、他のことで自分を表現できないから、あえて「芸術」のような手間のかかることで表現しようとするんだと思います。

その中で、一部の自己顕示タイプの人が目立ってしまうというのは仕方のないことだとは思うのですけれど、それは必ずしも内容とは関係のないことなのに、そういうことで作品とは無関係に「創作者としての評価」が下されてしまっているところがあるような気がします。

そして何より、「表現」=「自己顕示」と言う解釈によって、「自己顕示タイプ」の人がクローズアップされてしまうために、「自己顕示」の反対側にいる人たちが切り捨てられているように感じてしまうわけなのです。
まぁ、『目立ったもん勝ち』みたいな感じになってしまうわけですね。

でも、自己顕示タイプではない側にも目線を持って行った方がいいように思うわけです。 
少なくとも、自己表現と自己顕示ははっきりと違うものだという認識をもって、芸術というものを見ていかないと、目の粗いざるのようにドンドンいいものを逃していってしまうのじゃないのかなと。


そんな風に、私は思うのです。



「人間」は「人間未満」



「人間」と、簡単に言ってしまっていますけれど、実は「人間」っていうのは、完全に「人間」に成れていないように思うわけなのです。

言葉の上で「人間」と言う場合と、「実際の人間』には、かなりの落差があるような気がするわけです。
つまり、「実際の人間」は、「人間未満」なんじゃないのかなと思ってしまうわけですね。

例えば、イジメや犯罪について『そんなことは人間のすることじゃない!』なんて言ったり、常識や道徳を守ることについて「人間として当然のこと」と言ったりするわけですけれども、これ「実際の人間」に当てはまってると言い切れるんでしょうか?

「人間として」なんて、当たり前のように言ってますけど、そういうときの「人間」っていうのは、かなり「理想化された人間」だったりするわけなのです。

「人間として当然のこと」が「当然できる」という人が、そう沢山は居ないわけですね。
「人間のすることじゃない」はずなのに、それを結構みんなやっちゃうわけですよね。

まぁ、理論上は居るハズなんですけどね、そういう人も。
「当然のことが当然できる人」や「やってはいけないことは絶対やらない人」ですね。

でも、思っているよりは、ずっと不可能に近くて、普通の人は、ちょっとしたプレッシャーが掛かったりするだけで、すぐやってしまうわけですねぇ。

「人間じゃないこと」を。

でも、これは仕方ないことだと思うのです。
要するに、『「人間」が、そこまで来ていないんだ』ということなんじゃないでしょうか?

だから、『まずは「人間未満」であることを認めましょう!』と思うのです。
自分も他人も敵も味方も、皆「人間未満」なわけです。


これからは、「いい人:悪い人」・「できる人:できない人」・「偉い人:ダメな人」・「頭がいい人:アホな人」なんかじゃなくて「人間に成ろうとする人:既に人間だと思い込んでいる人」なのではないのかなと。


今ある状態から、「自然に与えられたものとは言えないような意志」を使って、「何かになろうとする」ということこそが「人間」を「人間」と呼べるところなのかもしれないなと。

そんな風に思うわけなのです。


※2019年5月に追記

この記事を書いた当初は、『人間は、まだ、人間未満なんじゃないか?』と言っていました。
つまり、近い将来『人間が人間に成れるだろう』と言う前提で記事を書いていたと思います。
でも、今は、「人間」にとって「人間に成ること」は、それ以上に難しいことのような気がしています。

まぁ、「完全に人間であること」は、ほぼ不可能に近いことだと思うように成ったわけですね。
それぐらい「人間」と言う概念は理想化されてしまっているところがあると思います。

それで、「理想化された人間」と「現実の人間」の間に「ダブル・スタンダード」が形成されてしまいますから、多くの人が、「理想化された人間」のフリをするようになるわけです。
つまり、体裁を作ろうとするわけですね。
その過程で、「現実の人間である自分」は認めずに見ないようになってしまうと、その「自己正当化」と言う行為が習慣化して、結果的には、「現実の人間」よりもさらに酷いこと、つまり「本当に人間じゃないこと」をするように成ってしまうわけです。

現在は、無理して「理想化された人間」を目指すことよりも、「現実の人間であること」を認めることの方が、「人間」にとって、よほど意味のあることに成ってきているんだと思うわけです。

だから、もう「立派な人間」を目指すことには意味がなくて、むしろ「ダメな人間」であることを認められることの方に意味が出てきているんだと思うわけですね。
言葉にしてしまうと、非常に情けない感じになってしまうんですが、『実は、これがナカナカできない!』と思いますね。






「真術」は芸術の中心の一点なのです



このブログの中で使っている「真術」という言葉について説明いたします。


私が、勝手に作った言葉なので、聞いたことはないと思いますが、「芸術の中心」と考えていただいていいと思います。

これはこのブログで何度か書いてきたことなのですが、いま、「芸術」を規定しておかないと、なし崩し的に崩壊してしまうのではないかと思うわけです。

でも、これだけ広がってしまった「芸術の範囲」を限定した領域の中に規定することは、もはや不可能でしょう。
つまり、もう、「芸術の外郭」に境界線を引いて、「芸術」と「芸術でないもの」を分けることは出来ないということです。
(本来は、それが「定義」と言うものなんだとは思いますが)

これまで、それをやろうとした人、その一人一人が、それぞれに別々の説を展開してきたために、かえって、その都度「芸術」の位置が曖昧になって行ってしまったと、私は考えるわけなのです。

全てのものが「芸術」と成りうる現状において、『これは芸術で、こっちは芸術じゃない』とか、『こういう要素を持ったものは芸術で、それがないものは芸術じゃない』などの規定を設けようとすれば、必ず否定された側から反対の説が出てきて、相殺し合ってしまって、うやむやに成って無かったことに成ってしまうわけです。

さらには、これを盲目的に繰り返し続けた結果、もはや「芸術」の中心すらもわからなくなってしまったというのが、芸術の現状だと思うわけです。

そこで、「芸術」という言葉を脱ぎ捨てて、新しい言葉を設定するときなんじゃないかと思ったわけです。
そんな考えに基づいて設定したのが、この「真術」という言葉なわけなのです。

ただし、ここで「芸術」という言葉を完全に捨ててしまうわけではなく、それは、広い意味での「芸術」として残して置いていいと思いますが、ただ、それがあまりにもガンジガラメの拘束衣のようになっいて、「自由という名の束縛」になってしまっているから、脱ぎ捨てて楽になりませんか?ということですね。


そして、その「芸術」の真ん中に点を打ち、それをフワフワと飛んで行ってしまわないように繋ぎ止めようということなのです。
そして、その「芸術」の中心にある一点を「真術」と呼ぼうじゃないかということなわけなのです。


でも、実は、他の名前でもいいし、他の規定の仕方でもいいのです。
ただ、新しい名前が欲しいのです。 
「〇〇芸術」とか「〇〇アート」ではダメだと思うのです。
聞いたことがない名前じゃないと。

「芸術」や「アート」のままじゃ無理だと思います。
なにも規定できませんし、何の意味も生み出せません。
つまり、現在「芸術」や「アート」と言う言葉には、ほとんど意味がなくなってしまっているわけです。

でも、その「中心」に意味を設定することで、その「中心の領域」にも意味が生まれますし、「芸術」にも、その「中心を取り巻く領域」と言う意味が生まれます。
「芸術の中心」を創り出すことで「芸術の意味を復活させることが出来ると思うわけです。


一応、そういう気持ちでやっております。


※2019年5月に追記

「真術」を「芸術の中心」として設定するということは、『芸術はこうあるべき』ということを設定するということではありません。

そういう「正しい芸術」を設定するという話ではなく、もはや「外郭」を規定することが出来なくなってしまった「芸術」にも、必ずどこかに「中心」はあって、その「芸術の中心」から「芸術」を測ることは可能であるということを想定することで、「芸術」と言うジャンルの「観念上の規定」を提示しているということです。

つまり、『ここからここまでが芸術である』という規定は出来ないが、『ここを中心としたあらゆるものが芸術と成り得る』と言う規定は出来るだろうということです。

あくまで「正しい芸術」を判断することは出来ませんが、「芸術の中心に近いもの」と「芸術の中心から遠いもの」を判断することは可能になります。
ただし、それを判断する人によって違う判断が下されることに成りますから、すべての人にとっての「正しい芸術」とは成り得ないということに成るわけです。


理想的な通貨(妄想です)



タイトルの通り、私の妄想なので現実味のない話になりますけれど、私は、全てのものに期限があればいいと思っているのです。


例えば、お金の価値とか、金(ゴールドの方ですね)や宝石とか、土地とか、とにかく、ありとあらゆるものの価値に期限が付けられたら、すごくいいんじゃないかなと思っているわけです。

なぜかと言えば、世の中に「絶対的なもの」というのは無い方がいいいんじゃないかと思うんですね。
というよりも、「絶対的なもの」なんて本当は無いと思うんですよね。

ところが「無期限の価値」というのは「絶対的なもの」に成ってしまうんですね。
そうなると、人間がそれに蹂躙されてしまうと思うわけです。
「お金」なんて典型的ですよね。

でも、その「お金」に期限が設定されていたらどうでしょうか?

期限が来れば価値がなくなる(または、徐々に減少する)としたら、もう絶対的ではなくなるわけですよね。
そして当然、価値が在る(高い)内に使おうとするから、消費が拡大するわけです。
それから、価値を代々受け継ぐことができなくなりますから、極端な貧富の差もなくなるかもしれないですよ。

お金に限ったことでもなくて、土地なんかも期限があれば有効活用される率は高くなるような気がしますね。
それにバブル経済というのが、無くなると思いますね。

つまり投機ということができなくなるわけですね。

それから、お金を早く使わないとならなくなれば、いつも、人が欲しいものを見つけようとしますから、とても好奇心旺盛な世の中になるんじゃなでしょうか?

そして、どうせお金を残してもしょうがないわけですから、高くても本当にいいものを買うようになるでしょうね。
安物を買って、お金を残しても意味ないですからね。

つまり「悪貨は良貨を駆逐しなくなる」わけですね。


「おぉ、いいことばっかりじゃないですか」
問題は、実現できないということだけですね。

だから妄想なんですけどね。


でも、こんなような考え方を少しでも基盤において、政治や経済を回していってほしいですねぇ。

それに、現在のあらゆる技術を駆使すれば、それに近いこともできるのかもしれないと思います。
実は、デジタル技術やインターネットというのは、こんなことを達成するために生まれたものではないのかなと。

それに気づかないで、見当違いのところでウロウロしているのかもしれないなと。

まぁ、そんな風にも思っております。
いや、 そんな風に妄想しております。

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※追記

この「期限付きの通貨」と言うのは、よくネット上で流通しているポイントやコインのようなものとは違います。

そういうことが出来るかどうかは、まったく抜きの話としてですが、「国が発行する通貨」と言うことです。
さらに言えば、世界全体の「通貨」に対する概念の問題でもあります。

いくら、「期限付きの通貨」があっても、他のところで「無期限の通貨」も流通していれば、どうしたって、そちらに食われてしまいます。
だから、「通貨」というものは「期限があるものなんだ」ということが、概念として確立されなければ、意味をなさないわけです。

まぁ、そうなると、まさに「妄想」ですけどね。


※2019年5月に再度追記

上に書いた通り、「妄想」ですから、実現性は限りなくゼロに近いわけですが、実を言うと、これと同じようなことが「核兵器の廃止」にも言えるという考え方をすると、少し違う展開も見えてきます。

つまり、「核兵器」と言うのは「最終兵器」でもあり「絶対兵器」でもあるわけですから、「軍事」に関しては、ここで言う「絶対的な価値」に近い意味を持っているとも言えるわけです。
その「核兵器の廃止」に関しては、かなり進められてきていますし、実際には、「核兵器」を持っている国も、それを使うことは出来なくなりつつありますから、実質的には、『核兵器は廃止された』といってもいいようなところもあると思います。

そう考えると、「無期限の通貨」を禁止することも、不可能とは言えないような気もしてくるわけです。
「核兵器の廃止」と同じように、世界の国が集まって、「無期限の通貨」には社会経済を破綻させるような性質があるから、『「無期限の通貨」を流通させるのは、もう、止める方向にもっていこう』という取り決めをして、その取り決めを破った国は世界経済の中で締め出しを食らうような状況を創り出せば、きっとそうなると思います。

そうなれば、あとは「期限付きの通貨」を、どうやったら流通させることが出来るのか?という問題だけですね。
それは、きっと、だれか「エライ人」が考えてくれるに違いありません。

ぜひ一度、そんな世の中に住んでみたいもんですね。

「芸術の20世紀 喪失」は時代に挑戦する実験なのです



このブログのテーマである、「芸術の20世紀 喪失宣言」についての記事になります。


この「宣言」は現代という「時代」に挑戦する実験でもあるのです。

人間は、これまでの歴史の中で様々な進歩を遂げてきたわけですけれど、実は、それらの進歩や変化というのは、すべて「時代」の流れに沿ったものであったようにも思えるわけなのです。

科学が急速に進歩したのは「科学の時代」がやってきたからで、市民革命が起きたのは「民衆の時代」が巡ってきたからなんだと思うわけです。

つまり、実際には、人間が「時代」を」止めることができなかっただけで、積極的に「時代」を築いてきたとは言えないような気もするわけです。

まぁ、『後になってからは何とでも言える』と言われれば、そうなんですけれどね。
でも、実際に、人間は「原爆」も「戦争」も「差別」も「大量虐殺」ですら止められなかったわけですよね。

これから先も、きっと「原子力」とか「遺伝子操作」なんかも止めることはできないんじゃないでしょうか?

つまり、かなりの数の人が反対していようが、一生懸命止めようとしようが、必ず、「時代」の力のほうが勝ってしまうわけですね。
『だから、諦めておとなしくしていろ!』なんて言う話じゃないですよ。
もちろん、止めようとすること自体に大きな意味はあると思うわけです。
(これは、真面目に賛成している人の側にも言えることですけどね)

ただ、悲しいかな結果的には、粛々と進められていくということですよね。
これを、人間が人間の意志でやっていると言えるのでしょうか?

私には、どうしても、「時代の力」ですべてが決まっているようにしか見えないんですよね。

しかも、その時に決まっているというよりも、既に決まっていたことが、次々と現実になっていくように見えてしまうんですね。
つまり、人間は、決められた台本どうりに動かされているとしか思えないわけです。

これを続けていくのか?ということです。

もうそろそろ、人間が「時代」に逆らうときが来ているのじゃないですか?
本当の意味で、人間が「時代を築くことの責任」を負うべき時が来ているんじゃないんでしょうか?

戦争をすれば『あの時代はしかたなかった』と言い、原発が事故を起こせば、『想定外の規模の災害だった』と、これから先も言い続けて行きますか?

つまり、人間がしてきたことなのか、それとも「時代」がしてきたことなのか、というよりも、人間が、すべてを「時代」のセイにしてきたのかもしれませんね。


これは、決して、「戦争や原発に反対するか?賛成するか?」ということではなくて、『誰が時代の責任を取るのか?』ということですね。

一度試してみる価値はあると思うのです。
人間に、その責任が回ってきているように感じるわけですね。

つまり、『時代に逆行する』ということですね。
これは、人間が今までに一度もやっていないことなわけです。

過去において、人間は進歩したり発展したりしたことしかないんですねぇ。
こう言うと、イイことに聞こえますが、実は、それらはすべて「人間がやったこと」ではなくて、「人間が時代にやらされたこと」だと言えなくもないと思うわけです。

それで、その「進歩」や「発展」が限界に来ているというところがあるんだと思います。
だから、「戻ること」が必要になってきているんじゃないかと思いますね。
つまり、それこそが「時代に逆行すること」なんだと思うわけです。

でも、いきなり原発だと難しくないですか?
結局、また「時代」に押し切られてしまうんじゃないですか?

そんなところで、どうなんでしょう「芸術」なんかがいいんじゃないですかと。
人の「生き死に」や「損得」に、あまり関係ないところから始めた方がいいのかもしれないですよ。

まだ、「芸術」に「そういう力」はあると思います。


「芸術の役割」が終わりかけて・・・・



これは、正直言って言葉にしたくないことなんですけれど、「芸術」というジャンルは、徐々にその「本来の役割」を終わろうとしているのではないのでしょうか?

もちろん、今すぐに無くなってしまうとか、完全に消えてしまうとかということではないのでしょうが、緩慢にではあっても、本質的な意味での「芸術の役割」が消えて行こうとしているという考えが・・・・・そんな考えが、私の中にはあるのです。

このブログで言っていることと矛盾している部分もあるんですが、現在の「芸術」の曖昧さや希薄さを見るにつけ、『「芸術」はもう必要とされていないのではないのか?』と言う考えが頭から離れないわけです。


20世紀において「芸術」の持つ意味が、大きく変容したことは当然であったのだと思うのです。

社会や、その時代の人の意識を反映することは、本質的な「芸術の役割」なわけですから、それに合わせた変容というのは、当然のことだと思うわけです。

でも、現在の「芸術」の「この状態」というのは、それに当てはまっているのだろうか?
本質を追究しての変容と、本質を見失っての変容は、まったく違うものだと言わざるを得ません。
もし仮に、「芸術の現状」が後者に当たるものだとするのならば、常に「芸術」の本流に「本質を見失った芸術」が居座った状態を、延々と続けてきたということが、もう、すでに歴史上の事実にまでなってしまっているのだとするのならば、これはもう、「芸術」というものが「本質無きもの」となってしまったということなのではないのか?

言い換えれば、「物の本質を問いただし、その根源的な意味を追求する」という「芸術」本来の役割や意味は、もはや失われてしまっているのではないのか?

もちろん、例外はあるでしょう、「本質を問い続けている者」は居るに違いないのです。
にもかかわらず、「本質無きもの」が常に本流にあり続けることができてしまったとするのならば、それは、もうすでに「芸術」が本来の「芸術」である意味を失って、その他大勢の中の「芸術」、たまたまその名で呼ばれているというような「芸術」に成ってしまっているとは言えないのだろうか?

そして何よりも、その状態を「現在」が受け入れてしまっているということに成るのではないのだろうか?

つまり、「現在」によって公認されている「芸術」とは、「本質無き芸術」の方で、「本質を追究する芸術」の方は、むしろ「非公認芸術」であって、それは、とてもゆっくりではあるけれど、消えてゆこうとしているようにも思えるわけなのです。


それでもなお、私がこのブログで何かをしようとしているのは、何かが終わるには、それなりの「終わり」がなければいけないと考えるからでもあるわけなのです。

そして、その「終わり」は何かしらの「始まり」をもたらすとも考えるわけです。

ただ、これは、あくまで希望的な観測ではありますが、やはり「芸術」に生き延びてほしいという気持ちは捨てることができないというのも、そのもう一方の理由ではあります。




【民主主義=多数決】 と言う公式は、もう考え直した方がいいのでは?



現在までの民主主義の歴史においては、常に『多数決で決める』と言うことが大原則であったわけですけれど、これは、もう成り立っていないことが、はっきりして来ているんじゃないのかなと思うのです。


多数決と言っていますけど、実際に多数決をとることが全くできていないわけで、実態としては、今行われている政治がどれだけの人に支持されたものであるのかは、もう誰にもわからないものになってしまっていると思いますね。

それでも、そのシステムに頼り切っているために、「多数決」と「民意」はどんどん乖離していく一方なわけです。

だから、何か代替案を導き出さなければいけないと思うわけです。
それをすることが、いま政治にできる数少ないことではないでのでしょうか?

政治家や学者が寄り集まって、一生懸命考えれば、きっと?、何らかの策が浮かんでくるのではないかと思います。
正直言えば、それらの策にはほとんど期待が持てないわけですけれど、それを考えることや実行してみることで、現行の民主主義と言われているものが、如何に民意からかけ離れたものであるのかが、洗い出されて来れば、どこが問題なのかぐらいはわかってくるんじゃないでしょうか?

そして、そこからどう対処するのかが本題なわけです。

その具体策については、私などが考え付くようなものではないでしょうが、私がいま思いつくことは、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立させなければ【多数決=民主主義】も成り立たないということなのです。

「全員投票」を強制的に行おうとすれば、結果的に「匿名性」が失われてしまうでしょうから、「政治的な意思の表明」を個人に対して強要することに成ってしまいます。

 ※強制であるということは、投票が実行されたことが確認できなければ意味がない
  ので全員が投票したことが確認できるようなシステムが必要に成るでしょう。
  おそらく、そこから「匿名性」が崩れていってしまうように思います。

でも、「多数決」は基本的に全員が投票することを前提に成り立っている制度なわけですから、全ての人が投票しなければ、「多数決」でも、なんでもないわけで、そこを何とかしなければ、「民主主義」とは名ばかりで実体は無いも同然なわけですね。

そう考えた場合、「民主主義」は立ち上げられたまま、まだ実行に移されていなかったとも言えるのではないでしょうか?


そこで、思い当たるのは「裁判員制度」や「陪審員制度」のようなものです。
もしかすると、人数を限定して、形だけに成っている「全員投票」を捨てれば、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立できるのではないのかなと。

 ※こちらも「匿名性」については、完全には確保できないかも知れませんが、
  少なくとも「投票の義務」については、ほぼ確保されるでしょうし、確実に 
  限られた人数の中での「全員投票」だけは確保できます。

とまぁ、そんなことも考えるわけですが、もしかすると、今の状態が、国を動かしている人たちにとって、結構都合がいいのかもしれませんよね。

だとしたら、『変わるわけないじゃん』ですよね。

そして、これが一番濃厚な説なのかも知れません。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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