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「刺激」と「感動」



芸術と言えば「感動」といってもよいのではないかと思います。
実際に、芸術の条件を「感動するもの」と言う人は多いのではないでしょうか?

ところが、現代美術を見ていると、そこのところがしっくりこないことがあるわけです。

とてもインパクトがあって、強く心に残る作品があった場合でも、その衝撃力に「感動」が比例していないとでもいうのでしょうか。
それどころか、ときによっては、むしろ反比例するように感じることすらあるわけです。

これは、私の勝手な考えですが、いつの時点からか「感動」と「刺激」が入れ替わってしまっているように思うわけなのです。

刺激的で、インパクトの強いものが主流を占めるようになり、「刺激」がないと、どこか乗り遅れたもののように見えてしまうという現象があるような気がします。

もともと「刺激」を求めていたのなら、いいと思うのですが、元は「感動」を求めていたのに、いつの間にか「刺激」の強さに乗っ取られてしまっているようにも思えるわけなのです。

少なくとも、わたしの場合は、その入れ替わりがあるから、しっくりこないのかなと。
そして、もう一つ重要なことは、強い「刺激」と言うのは往々にして、人間の精神を破壊するということなのです。
それは、ドラッグがミュージシャンの精神を潰してしまうことなどで、すでに答えが出ていることだと思います。

麻薬とは違うので、「刺激」がすべてダメだとは思わないのですが、それを、際限なく追及していくのは、どうかと思ってしまうわけです。

ただ単に、「こんなもの芸術じゃない」と言うようなことが言いたいわけではないのです。
むしろ、惹きつけられる要素があるほど忌避感も強くなると言った方がいいでしょう。

何か、もう少し素直に「感動」できる方向に、軌道を修正できないものなのかなと。

そんな風に思ってしまうわけなのです。






「人間性への愛着」



私はどうも「完全なもの」よりも「不完全なもの」の方に惹かれてしまう傾向があるようです。
そして、それは、一言で言えば、「人間的なもの」ということなんだと思います。

矛盾した言い方になってしまうのですが、「不完全なものの中の完全性」とでもいうような、「崩れ具合が完璧」みたいなのがあると思ってしまうわけなのです。

それから、どうも「完全無欠」なものと言うのが好きになれないと言うのもあるわけです。

いずれにしても、そこに「人間性」が見えてきたときにこそ感情移入できるわけですね。

ただし、この「人間性」というのは「人間賛美」の対象となるようなものではなく、もう少し「不完全性」を強調した意味での、弱くて、さほど美しくもないような「泥臭い人間性」なわけです。

そして、そういう冴えない感じのものが、時として美しく見えたりするのに惹かれるのだと思います。
つまり、私は、そこに「人間への賛美」ではなく「人間への愛着」を感じているのだと思っているわけです。

「愛着」だから、それ程いいものである必要もないのかなと。

まぁ、そんな風に思っております。







才能にも「質」と「量」がある



芸術やスポーツなどの話となると、どうしても「才能」ということが出て来るわけです。
つまり、どうしても「才能がある人」と「才能がない人」とに分けられてしまう傾向があるわけですね。

でも、これを「ある・ない」だけで捉えるのは、少し考え方の方向が間違っているように思うのです。

実は、才能にも「質」と「量」があって、その「量」については、そんなに大きな差はないのではないと思うわけです。
そして、その「質」については、一つ一つが、まったく違うものなのではないかとも思います。

ですから、「才能がある人」とか「才能がない人」と言う考え方には無理があると思うわけですね。

つまり、私は、皆それぞれ違う「質」の才能を同じ「量」づつ持っているのだと思うのです。


もちろん、芸術やスポーツなどの特定の分野に向いている人と向いていない人はいるでしょうが、それを、「才能がある」とか「才能がない」と言ってしまうと、それが「質」=「向き・不向き」の問題であって、「量」=「ある・ない」の問題ではないのに、「才能がある」側の人が一段上の位置に持っていかれてしまい、「才能がない」側の人が、低い位置に置かれてしまうということが起きてきてしまうわけです。

ですから、私はどうしても、この「才能がある」や「才能がない」ということばを、簡単に使う人を見ると、その人の言っていることのすべてが薄っぺらなものに聞こえてしまい、どんなに立派なことを言っていても、何の説得力も感じなくなってしまうわけなのです。

わたしは、この「才能と言う言葉」自体が、今はもう必要ないのじゃないかと思っているぐらいなのです。
少なくとも、才能にも「質」と「量」があるという前提で、この言葉が使われるべきではないのでしょうか?

例えば、その「量」について単純に比べられるものに置き換えて言えば、ごく普通の人の身長が150~180cmほどだとして、ギネス・ブックに載っているような人でさえ、230~240cm ぐらい(不確かですが)だったように思うわけです。

つまり、せいぜい1・5倍程度で、二倍にも届かないということです。

それでも、確かに2mを超えるような長身と言うのはひとつの「才能」だとは思うのですが、「才能がある」と言ってしまうと、せいぜい1・5倍だということを忘れてしまうのではないのかなと。

また、その「質」について言えば、誰もがみんな違う顔をしていることだけでも、『同じものがない』ということは、十分わかることじゃないのかなと。

いずれにしても、「才能」と言う言葉が一段偉い感じになってしまっていることによる弊害なんてない方がいいなと。
みんなに同じくらいの才能があるなんていう程度のことが、なんで当たり前にならないのかなと。


そんな風に思っているわけなのです。


「芸術の真ん中」っていったいどこなのでしょうか?



現在の芸術の世界を見ると、「芸術の真ん中」っていったいどこなのかなと思ってしまうわけなのです。

多様化したことで、あらゆる方向性を持つようになったことは理解できるとしても、何処を中心としているのかがはっきりしないと言うのは、受け入れがたいものがあるのです。

そんなことは気にせずに、『いいものはいい』でいいのかもしれませんが、私はどうしても、ど真ん中だけが抜けているドーナツのようなものを思い浮かべてしまうわけなのです。

それは、ある種の『中身が空っぽ』ということにはつながらないのでしょうか?

現在ある作品自体を指して言っているのではなくて、その成り立ちとでも言うのでしょうか、作品を作る「動機」や「根拠」みたいなところだと思うのですが、どうしても、そこにしっかりしたものが感じられないのです。

穿った見方だと言われてしまうのかもしれませんが、やはり、〝流行り"や〝ウケ狙い"を感じずに見るのは難しいと思ってしまうのです。

それから、もう一つ付け加えれば、とても権威的に感じてしまうのです。

一見すると、とても親しみやすい感じにしている場合も多いのにもかかわらず、それとは相反して、実態としては、過去に存在していた権威主義と何ら変わらないような、つまり、芸術と言う世界の中での位置が上か下かで、全てが判断されてしまうような、階級社会のようなものを強く感じることがあるのです。

それは、むしろポップな感じのものにこそ、強く感じる場合すらあります。
そのことも、やはり真中が抜けていることと関係があるように思うわけなのです。

中心が抜けているという不安定感から、安定を求めて権威に頼るように成るのではないのかなと。

私は中心がしっかりしていたほうが、多様化できるはずではないかと思うのですが、多様化した最先端だけを追いかけていった結果、ど真ん中にあるはずの「根拠」や「動機」が、抜けてしまったのかなと。

これは先端での多様化とは違って、単に〝中心のブレ"を引き起こす元凶にしかならないのではないのかなと。
やはり、中心だけはどこかに繋ぎ止めておく必要があるのじゃないのかなと。

どうしても、そんな風に思ってしまうのは、私だけなのでしょうか?




「組織」には意思があると思うのです



ある法則や規則に基づいて集団が形成されれば、それを「組織」と呼ぶことができるのかと思います。
社会性を持った動物や昆虫などもいますから、人間には限らないのでしょうが、まぁ、一応、ここでは人間の「組織」ということで。


そこで、よく感じてしまうのは、「組織」の実態は、それを形成している個々の人間なわけですが、その個々人の意志や意向と、一致しているとは思えないような「組織の意思」と言うものが、「個人の意思」とは別個に、かなり独立した形で、存在しているということなのです。

もちろん「組織」を形成している「個人の意思」が、全く反映しないわけではないと思いますが、複数の「個人の意思」が集団内で統合されて一つの決定や判断になっていく過程で、それが、「組織の意思」に成り変わっていくのかなと。

そして、さらには、その「組織の意思」が「個人の意思」とは、全く別の方向性を持ってしまうことも、しばしばあるように思うのです。


国家や会社などの公的なものから、家族や友達のグループなどの私的で少数のものまで含めて、ありとあらゆる「組織」において、この「組織の意思」が働いていて、それが、その構成員である一人一人の「人間の意思」を無視して、決定や判断を下しているとしたならどうなんでしょう?

「個人の意思」が無視されるわけですから、当然不満が出るでしょう。
そして何よりも、そこに本来の「意思」はないということが問題に成って来るわけです。


「組織の意思」と言っても、それは「誰かの意思」ではないので、そこには「意思」としての方向性や統一感は、もともとないわけです。

だから、「組織」内での話し合いの結果「???・・・」という感じの、意味がわからないような結論が導き出されてしまうことが、よくあるのでしょうね。

そして、これが言いたいのですが、ひとたび「組織」によって下された結論となったものは、「個人の意思」で翻すことが難しくなってしまうということなのです。

たとえ、それが、、誰にも望まれていない結論だったとしても「組織」が下した判断には、従わなければならなくなってしまうわけです。

ある法則や規則に基づいて形成されたのが「組織」ですから、その法則や規則に従わねばならなくなるということですね。

これは、おそらく民主主義が抱えている決定的な問題ではないのかなと。
なぜなら、この場合「多数決」や「話し合い」はあまり役に立たないからです。

もちろん、それらのやり方が功を奏することもあるでしょうが、意外と、それらが〝困った結論"を導き出してしまうことも多いということですね。

これらのようなケースでは、大抵「まぁ、みんなで決めたことだから」と言って諦めるというのが、常套手段になってしまっているのが現実でしょう。


これに対して、どうすればいいのかは、そう簡単に思いつきませんが、取り敢えず、この「組織の意思」と言うものが独立したものとして存在して、それが自分たちの意思とは無関係に勝手な結論を突き付けて来ることがあるということを、忘れずに意識していることだけはできることなのかなと。

とにかく、政治や世界の情勢なんかを見聞きするたびに、いやいや、もっと身近な夫婦喧嘩や、親子や友達同士の間の諍いなどにおいても、これは、いったい「誰の意思」に基づいてこんなことに成ってしまったのだろう?ということがとても多いように思ってしまうわけなのです。

そして、それが、もしも実体のない「意思」によって仕向けられてしまっているものだとしたら、こんなに、バカバカしいことは無いんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけですね。





「絵」と「額」で迷宮のような世界を表現したいのです



このブログの中でも何度か書いているのですが、私は、いま「額」の制作にはまっていて、どちらかと言えば「絵」を描いている時間よりも、「額」を作っている時間のほうが長いくらいなのです。

なぜそんなことをしているかと言えば、どうしても「絵」と「額」の相乗効果を生み出すことによって、「迷宮」のような世界を表現したいと考えているからなわけなのです。


これは言葉で表すのは難しいですが、平面としての「絵」の世界と、立体としての「額」の世界を一体化させつつ、その一方で結界(境界線)としての「額」の性質を生かしていくことで、全体としては立体でありながらも、あくまで平面としての絵画でもあり、しっかりと区切られた「絵画空間」も存在するというような、自分が想像できる限りでの理想を具現化したいという、欲張った発想からやっていることなわけです。

当然、なかなか上手くできませんが、慣れない「額づくり」なんかを、やたらと時間をかけてやっているのは、そんなことなわけです。

本音で言えば、「額」は専門の人に作ってもらいたいくらいなのですが、今作っているようなものを細かく注文を出して特注で作ってもらったら、果たしていくらかかるのか、貧乏人の私は怖くて聞く気にもなれないので、仕方なく自分で作っているわけです。

まぁ、言葉ではあまり伝わらないのでしょうが、なんとなく、意気込みだけは伝わりましたでしょうか?

そんなところで、やっておりますです。



「絵」と「額」で迷宮のような世界を表現したいのです(続き)



前の記事の続きになります。


迷宮と書いてしまいましたけれど、そんなに特別なことをしようと言うわけでもないのです。

むしろ、これまで「額」というものが、あまりにも決まりきった形であったのではないのかなと、そういう気持ちから始めたことなわけで、ただ、そこで、『それなら、額に入れなければいいじゃないか』ということが嫌だったということです。

ですから、今までなかったものが作りたいと言うよりも『なんで今までなかったの?』と言うような気持ちの方が強いわけです。

私が知らないだけかもしれませんが、「絵」の形に合わせて、円形やハ角形などのかたちにしている「額」は見たことがあるのですが、「額」と「絵」を一体化させたようなものと言うのは見たことがないのです。

少なくとも、広く知られているものでは、無いように思います。


私の知る範囲では、上記のような「絵」の外形自体が四角形でないために、それに合わせて「額」の形も四角でなくなったというだけのものや、ふつうの「額」に凝った彫刻などの意匠を施したというものなど、縁取りとしての機能の中に、納まってしまっているものしかなかったように思うのです。

これらは、あくまで縁取りであって境界線としての機能しか持っていないので、凝った形にしたということに、さほどの意味を感じません。
つまり、「額」は「額」のままでは「絵」と一体化することがないわけです。

また、絵ではなく立体造形物に着色したようなものは、在るでしょうが、そちらは逆に、「額」の持っている境界線としての機能がはじめから無いので、立体であることの方が、圧倒的に力が強くなってしまいますから、そこには、「絵」=「平面」としての性質を感じられないわけです。

つまり、色が付いた立体造形ということで、やはり「絵」と「立体造形」が一体化しているとは思えないのです。


私個人の中での話になりますが、「額」はあくまで「額」であって欲しいし、「絵」はどこまでも「絵」であってほしいのです。

つまり、立体としての造形的な機能としてではなく、境界線としての「額」であってほしいし、「絵」は、やはり独立して区切られた平面の中にあってほしいわけなのです。

それでいて、さらに一体化したものであってほしいと思うようになったということなわけです。


私の場合、今あるような「額」には、もともと抵抗がありましたし、かと言って、「無額」についても、「それでいい」とは思えないので、そこのところを何とかしたいと考えるようになった結果なのだと思います。

さらに、言ってしまえば、100年も前に、すでにこういうことが行われていてよかったんじゃないのかなと思っているわけです。
そして、さらに、その次に、そのまた次に、ということを、すでにやってきているいるはずだったんじゃないか?ということです。

と言っても、過去の時代をやり直してもらうことはできないので、今できることしかできないのですけれど、なんとなくですが、100年も前にすでに終わっていることをやっているような、そういうもどかしさも、少し感じてしまうわけなのです。


※2019年5月に追記

この記事の中では、『なんで今までなかったの?』と言っていますが、あとで考えれば、無かったのも当然かもしれません。
「絵」と「額」を一体化させるということは、「絵」と言う作品に対して「額」がかなり能動的な意味で影響力を持つことに成るわけですから、「絵」の作者本人にしか、そういう「額」は作れないということなんだと思いました。
でも、自分でやってる見て、わかりましたが、「絵」と「額」を並行して制作するのは、かなり無理があって、それぞれの制作に専用のスペースが必要になりますし、専門的な工具類や、かなり大掛かりな道具もあった方がいいとなると、どう考えても「工房」と言うような規模のアトリエがなければならなくなってしまうわけで、そこまで、経済的に恵まれている人が、自分で「額」なんか作るわけありませんから、有り得なくなってしまうということでしょうね。

そんなことから、私自身も現在は「額」の制作は中断していますが、「構想」だけはあるので、いつか誰かに自分でデザインした「額」を作ってもらおうと思っております。
でも、お金の面から言うと「遥か遠い夢」ですね。






「前向き」ということについて



「前向き」と言えば、当然いいことということに成っているわけですけれど、私といたしましては、これに若干の異議があるわけなのです。

まず、最初に感じてしまうのは『無理してるんじゃないの?』ということなのです。

だいたい、自分の状態が「前向き」なときに、あえて「前向き」は使わないんじゃないのかなと。
やはり、落ち込んだり自信がなくなったりして、「後ろ向き」になりかけた自分を、鼓舞したり、立ち直らせようとして「前向き」と言う、言葉を使うんじゃないでしょうか?

つまり、「負」を「正」に、「マイナス」を「プラス」に転じるためのキーワードとして使われているのじゃないかなと。
でも、世の中に「負」や「マイナス」がないわけはないのですから、すべてを「プラス」に転じるのには、ちょっと無理があるように感じてしまうわけなのです。

むしろ、本当に大事なのは、と言うよりも、実際に有効なのは、「負のスパイラル」に入ってしまわないようにすることだと思うわけなのです。

「負」を「負」と認めたうえで、それをもっとよく見つめて、より正確に把握しないと、、「負」が無制限に拡張していって、「スパイラル」の状態になってしまうのじゃないのかなと。

もちろん、もともとの性質によって、そうならない人もいるわけで、そういう場合は、「前向き」も有効なんだとは思うのです。
だから、そういう人が言っている場合は、あまり気にならないし、いいことなんだと思います。


ただ、もう一つ気になるのは、マスコミやインターネットで流されている「情報としての前向き」です。

私の記憶では、高度成長期には「前向き」と言う言葉は、今ほど使われていなかったような気がします。
むしろ、景気が低迷し出してから、「前向き」が増えているような気がするわけです。

そして、それとは正反対の意味で、「前向き」が増えていくのと同期するように、自殺などの「悲惨な死」が増えているように思うのです。

私には、自殺や幼児虐待の結果、幼い子供が親に殺されるような「悲惨な死」は、どうしても受け入れられないし、耐えられないし、そこでは「前向き」が役にたつとも思えません。

統計上の数字などは知りませんが、少なくとも、「前向き」とは裏腹に、世の中全体が、このところかなり暗いようにも思うのです。(少なくとも日本では)

もちろん、この言葉を使っている人たちには、そんな意味で使っている人は少ないのでしょうが、「前向き」には、結果的に、相手にそれを強いる性質があるようにも思えるのです。
(もちろん、個人がこの言葉を使うことを非難するつもりはありません。あくまで、社会の通説として、一方的に大量に流される「情報としての前向き」に限ってのことです。)

でも、私は「後ろ向き」でもいいように思うのです。
それは、そんなに暗いことでもないように思うわけです。

ただ、「情報としての前向き」が、これだけたくさん流されてしまうと、それとの対比において、どうしても「後ろ向き」=「暗い」=「マイナス」=「不要」となってしまうので、『「前向き」でなければいけない』になってしまうのかなと。

ということで、私といたしましては、このような「悲惨な死」は受け入れがたいのです。
すべて、無くなってほしいです。

せめて身近で、このようなことを頻繁に見聞きするような状態からだけは脱してほしいと思っています。

本当は、「前向き」でも「後ろ向き」でも、どっちでもいいと思うのです。
前でも後ろでも、そんなことは関係ないと思うわけです。

どっちを向いていようが、その人が立っている位置に変わりはないし、そこが、悪い位置であっても、それはその場所の話であって、その人が悪いとは限らないわけなので、その場合、向きを変えたりする必要は特にないようにも思うのです。

その立ち位置は、替えられれば、それに越したことは無いのでしょうが、それは、本人が一番よく分かっているということが、ほとんどだと思います。  

わかっていても、それが出来ないからその位置に立たされているんでしょうから。

そんな中で、何よりも受け入れがたいたいのは、「情報としての前向き」がさらに増え続けて、それと比例して、「悲惨な死」のグラフが上に伸び続けることです。

要するに、私はこれを受け入れるつもりはない。
と言うことですね。




「自信」について



「自信」と言う言葉について、それは自分で勝ち取るものだという考え方と、それは人から与えられるものであるという考え方があるように思うのです。

「自信」は自分で獲得するものであるとした方が、納まりがいいように思うのですけれど、「自信」の中でも、絶対的な「自信」みたいなものと言うのは、自力では獲得できないように思うのです。

やはり、普通は誰でも人から褒められれば「自信」が付きますし、貶されたり、相手にもされなかったりすれば、それは徐々に失われていくわけです。

そんな中でも揺るがない「自信」と言うのは、なかなか自分では養えるものではないように思います。

それが天性のものなのか、幼いうちに、どこかで与えられたものなのかはわかりませんが、そういう絶対的ともいえる「自信」を持った人というのも、確かにいるのだと思います。

でも、私はそういう「スーパーな人」よりも、「ごく普通の人」の方により興味があるので、やはり、「自信」はその都度与えられるものであるという方の説を取ってしまうわけなのです。

まぁ、私自身が何を言われても動じない「自信」なんて持ったことがないということですね。

私がやっと持っていられるのは『できなくてもいいじゃないか』という「自信」と言えるのかどうかも、怪しいような感じの「自信」ですけれど、普通の人間が、自力で自分に与えられる「自信」はこれぐらいしか無いと思うのです。

これぐらいだったら、その都度人から与えられなくても自前で何とかまかなえそうな気がします。


だいたいが「できる」「できない」で人の価値を判断し過ぎるように思うのです。

何かができても偉いとも思いませんし、何かができないからと言って、その人をダメだとも思いませんが、どうしても、そこに価値基準が偏ってしまうので、「できる」と「自信」も付くけれど「できない」と評価されないから「自信」も失う。

当たり前と言ってしまえば、それまでなんですけれども、そこで、人間性が抜け落ちてしまう傾向があるように思うのです。

だから、私は『自分はすごく悪い人間ではないし、それぐらいで十分だから、できなくてもいい』と思っているわけです。

それ以上に立派な人間になりたいとは思いませんし、そういう立派な人と言うのは、居ると言われてはいますが見たこともないし、成れるとも思いませんから、このぐらいで十分だというのは、私にとってはやはり「自信」の一種なわけです。

そして、そういう「自信」も、わたしは結構好きです。



「自由競争」が「不自由」を作り出しているのでは?



資本主義経済や自由主義経済の基本をなしているものに、「自由競争」の原理があるわけですけれど、現在の社会においては、〝自由な競争"が〝不自由な状態"を招いているように思うわけなのです。


そもそも、「自由競争」は、自由に競い合うことで、人や企業の「ベスト・パフォーマンス」を引き出すことができるという考えに基づいて採用されているものだと思うのですけれど、現状は、そうなっていると言えるでしょうか?

確かに、過去には、それが最良のパフォーマンスを引き出していたのでしょうが、現在においては、競争原理が、人や企業の「拘束」になってしまっていることの方が多いように感じてしまうわけなのです。

過去においては、企業も人も自己の行動や仕事や製品に価値基準を持っていましたし、それらのクオリティこそが、「自由競争」の争点であったわけですが、資本主義経済が極端に進んでしまった現在、それらは、すべて資本である、お金に置き換えられてしまっているわけで、より多くの資本を集めること、より多くのお金を稼ぎ出すことが、争点になってしまっているわけなのです。

そこでは、当然のこととして、個人においては「人格」や「感性」はないがしろにされがちですし、企業においては、「品質」や「社会貢献」は二の次にされてしまうわけなのです。

例えば、「品質」が低いのに売れるものが、企業にとっては、最も儲かるもので、「品質」が高いから売れるものは、コストパフォーマンスの落ちるものという扱いになってしまうというわけです。

そして、現在形の「自由競争」では、常に最も儲かる選択をした者が勝者となりますから、どうしても、即時的にお金や、数字に換算されにくいものは、競争によって排除されていってしまうわけなのです。


それでも、それで幸福になったり、進歩発展したりするのならまだいいですが、「生産者にとっての勝利」が「消費者にとっての不遇」「個人にとっての勝利」が「その周りの人にとっての不満」になってしまうのであれば、その競争には何の意味もないわけですし、まして、「生産者」と「消費者」や「人」と「その周りの人」と言う立場が、相互に入れ替わるということを考えれば、その「自由競争」は「不自由な拘束」でしかなくなっていると言わざるを得ないわけなのです。


もう、競争によって進歩する時代は終わっているのではないのかなと。

競争が一切必要ないとまでは思いませんが、原理としての「自由競争」は、現在では成り立っていないのかなと。

究極の競争ともいえる戦争ですら、お互いに相手の顔色を見ながら仕掛けたり、それをスカシたりしている世界情勢の中で、「自由競争」に没入することというのは、言ってみれば「核のボタン」を押すようなもので、誰の得にもならない無益な選択になってきているのかなと。

だから、いち早く競争から離脱して、「協調」の道を選びましょうよと。

でも、「協調」は一人ではできないわけだから、みんなで「「協調」すれば、そこにもまた切磋琢磨は生まれるわけで、そこで、競争すればいいんじゃないですかと。

そんなことを、世界に向かって、きわめて小さい声で言ってみたりする。




「上下のない世界」



前にも書いたことなのですが、私はとにかく差別や格差と言うものが嫌いで、なぜかは、自分でもはっきりしないのですが、生理的な嫌悪感に近いものを感じてしまうわけなのです。
(正義感や道徳心からきているものとも違うように思います)

だから、もしも、世の中が上下のないフラットな世界に成ったら、きっと気持ちがいいだろうなと思ってしまうのです。

もちろん、それが実現できるようなものでないことはわかっていますけれど、年齢、性別、人種、地位、などありとあらゆる階層の人が、ほとんど段差の無いような状態で、気軽に話し合えたり、交流できたりしたら、本当に自由だと感じられるのではないのかなと。


と言っても、つるつるにフラットな状態である必要はないのです。
緩やかな上下があってもいいと思うのです。

その段差が、気持ちよく乗り越えられるものであったり、試しに上ってみるのに丁度良いと、感じられる程度のものであればいいのです。


私は、そんな世の中に居られたら無条件に上機嫌でいられるように思うのですが、もし仮にですけれど、そんな世の中が実現したとしても、やっぱり、そこからも差別や格差と言うのは、生まれてきてしまうのでしょうか?

みんなが自由で、上機嫌でいられれば、差別や格差を生み出すようなストレスやコンプレックスがなくなって、差別や格差が生み出されることもなくなったりしないのだろうかと、そんな風に考えてしまうわけですが、難しいのでしょうね。


でも、絶対できないでもないのかなと。
5~600年くらい、経ったら、できるかもしれませんよね。

でも、そのときには、また別の「何か(=問題)」が現れているのでしょうか?


それにしても、上下の差なんて本当は初めから何処にも無いわけですから、そういう人間の妄想の中で創り出された「負の要素」なんて、あっても何の役にも立たないと思うのです。

と言っても、昔と比べれば、ずいぶん格差は小さくなっているし、差別もあからさまではなくなってきているわけですけれど、やはり、私としては、気軽に乗り越えられる程度の段差までになってほしいのです。


だから、「あれ、気が付いたら結構、世の中フラットになってるよ」なんてことが、あったらいいなと。
そういう幻想に浸ってみたりもする。

と言うわけなのです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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