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いま、「芸術」に求められるべきものは「まっすぐな表現」ではないでしょうか?



「芸術」が、「モダン・アート」とか「現代美術」と呼ばれる時代に入ってから、今日に至るまでの、「芸術」の歴史は「ヒネリ」の歴史だったといってもいいほど、「芸術」には、ありとあらゆる「ヒネリ」が加えられてきたと思うわけなのです。


「現代美術」においては、常に、「ヒネリ」によって、斬新さが生み出され、オリジナリティを提示し、作品の意味深さも与えられてきたと言っても過言ではないのだと思うのです。

もちろん、ヒネラレテいないストレートな作品がなかったということではありませんが、美術史的な観点からすれば、「ヒネリ」を全面的に前に出したような表現こそが、時代を形成してきたものであって、「現代美術」の歴史の中心線上には、「ヒネリ」は二の次にして、ダイレクトに人の心に訴えかけようとするような、「まっすぐな表現」と言うのがあまりないように思うわけなのです。
(ぜんぜんないとは言いませんけどね)


一見すると、ダイレクトな表現形態をとっているような場合でも、その展示方法や、コンセプトなど、どこかしらに「ヒネリ」があって、それが必ずと言っていいほど、最も印象的な部分となっていると思うのです。

そんな中で、いま、「芸術」に求められるべきものこそ「まっすぐな表現」ではないでしょうか?


「ヒネリ」の積み重ねが処理しきれなくなって、いよいよ行き詰ってしまった今、人の心にダイレクトに働きかける事を第一義に考えた「まっすぐな表現」こそ求められるべきなのだと思うのです。

「ヒネリ」を一切使わないというのには無理があると思うのですけれど(「芸術」によって何かを表現しようとすること自体が一種の「ヒネリ」なのかもしれませんから)、あくまで、それが一番大事なことではないという前提を頭に置いて考えるべきなのかなと。


現在の「芸術」において、「まっすぐな表現」を使うことは、言葉の上での「まっすぐな表現」と言う通りの単純な事ではないのだと思います。

過去において、かなりの部分が「既成の表現」となってしまっている現在においては、「まっすぐな心」で「芸術」を探求しても、その結果着地するべき場所がとても狭められているわけです。

だから、どうしても「ヒネリ」に持って行ってしまうのだと思います。

でも、その「ヒネリ」の着地する場所もなくなってきてしまった、というのが現状なのだと思うのです。


もともと、「現代美術」は始まりの時点から、ちょっと安易すぎたのだと思うのです。

「抽象表現」にしても、「芸術」の本質を観念の中に見出すという考え方にしても、十分に必然性のある、そこに向かうべき可能性を持った方向だったのだと思うのです。
でも、それが言葉の上では解決できても「芸術表現」として具現化するのがあまりにも難しかったので、つい安易にヒネッテしまったのかなと。

そして、一度「ヒネリ」だしたら、安直な割にインパクトのあるその手法に憑依されてしまって、止めるに止められなくなってしまったというところではないのでしょうか?

でも、もう、その「ヒネリ」の着地するべき場所もなくなってしまってからでさえ(「もう現代芸術は行き詰ってしまった」と言われ出してからでさえ)、かなりの年月が経ってしまっているわけです。

その間、埋め尽くされた足の踏み場も無いような場所の中に、何とかして隙間を見つけ出しては、ヒネッテ着地させる作業を繰り返してきたわけですが、実際には、着地する場所など考える必要はなかったのかなと。

まっすぐに表現した結果が、多少既成の表現と似ていようが、真っ当すぎて面白くないと思われようが、気にする必要はなくて、一直線に自分の心の中心に向かう「まっすぐな表現」だけを見据えていけばよかったのかなと。

その結果であれば、どこに着地したっていいじゃないかと。

その結果であれば、どう思われたっていいじゃないかと。

そう思うことが必要であったのかなと。


そうした中でこそ、「抽象表現」や、「観念」をいかにして「作品」にするのかということを根底から考え直していくことが、はじめて意味を持ってくるのだと思っているわけなのです。

わたし自身がこれらのことを達成できるという自信は、まったくもって無いのですが、きっと、誰かがそれを成し遂げるのだろうという確信だけはありますから、そんなところで、このブログをやっていたりもするわけなのであります。




現代社会は絡まり合った「多重規範」



ダブルスタンダード=二重規範と言う言葉がありますが、現代社会は、単なる二重規範ではなくて、より複雑化した「多重規範」だと思うのです。


規範が統一されていないために、判断の基準が曖昧になって、何が正しいことなのかが見えにくくなると言うのが、ダブルスタンダードが生み出す弊害かと思うわけです。

こういうことだけでも、かなりの害なわけですけれど、現代社会においては、あらゆる場面において複数の規範が存在していて、さらに、それらが世代から世代へと受け継がれていったことによって、絡まり合って、ほぐしようもないほどに、混線している状態と言えるのではないでしょうか?


二重規範までは、まだ、、何とか理解できるものだったと思うのです。

例えば、「本音と建前」などのように、これは本音でこちらは建前というように、それを言っている側も、言われている側もわかって使っているものであれば、なんとか使い分けることもできるし、もしも、うまく使い分けられなくても、二つの規範しか無いのであれば、それをなんとか理解することだけはできたわけです。


ところが、その二重規範が時代の中でさらに多様化して、「多重規範」と化したものが、時代を跨いで受け継がれていくようになってしまっている現代では、もう、どこからどこまでが、どういった規範に基づいたものなのかも、いったい幾つの規範が、そこに関わっているのかも、解らないような状態になってしまっているように思うわけなのです。

ここで、一番困るのは、こういった状況の中では、現状がそういう意味不明の混沌とした状態であることを理解しようとすると、とても行動し辛くなってしまうことなのです。

その辺を曖昧に捉えて、見ないようにしていけば、あまり気にもせずにいられるようなことが、真面目に筋の通った考えをもって行動しようとすると、この混線して、がんじがらめになった規範の束がほどくにほどけないために、そこで行き詰ってしまうわけです。

その結果、その都度、場当たり的に適当な規範を使って考えられたようなことが社会の基準になって行ってしまうわけなのです。


この状況は絶対に抜け出すべきものであると思いますが、それには、唯一無二の規範が必要なわけです。


強い規範と言うのは、ある種の「拘束」を生み出すこともあるかと思いますから、それは、一部の領域で「自由」を犠牲にすることに成るのかもしれませんが、それでも、これを手に入れなければ、社会に指針はなくなってしまうのではないのかなと。

それは必要最低限の犠牲ではないのかなと。


民俗・宗教・政治的な主義・主張など、広い範囲の層を包括するような規範を設定して、それを唯一のスタンダードとするような方向で考えていく必要があるのではないのかなと。


「グローバル・スタンダード」などと言って、特定の国に都合のいい方向にもっていってしまうのではなくて、その外側の、もう一つ大きな枠で「シングル」で「シンプル」な「スタンダード」があれば少しイイのかなと。


そんな風に思います。




討論する習慣



日本人は議論や討論が苦手だとよく言われますけれど、確かに、もう少し本質的な話をするような習慣があった方がいいのではないかと思うわけです。

また、『何も考えない人間が多すぎる』というのもよく言われますが、実は、それも初めから考えないのではなくて、ある程度のことを考えていても、その考えを人と議論したり討論したりして発展させる機会がないから、一つの考えから変化することがなくて、平滑で一辺倒な考えに留まっているために、何も考えていないように見えてしまうのではないのかなと。


やはり、自分だけの思考回路の中で考察を展開していけば、当然、同じ様なパターンの考え方しか出てこないわけです。

だから、小さな子供のうちにとは言いませんけれど、ある程度若い段階から、討論を習慣づけた方が良いのではないのかなと。

小学校高学年ぐらいでも、真面目に話をさせたら結構話すんじゃないかと思うわけです。
そうやって習慣になっていれば、大人になって何も考えないとか議論できないとかということも少なくなるのじゃないのかなと。


人間って、やっぱり教わったことはやるけれど、教えられてないことはやらない性質のある生き物だと思うわけです。

議論の内容は教えられないかもしれませんけれど、その場を作ることはできるのではないのかなと。


こういうことを教育関係者の人に言ったら、『今の学級崩壊したようなクラスでそんなことは到底無理!』とか、『そんなことしても誰もまともな話なんかするわけがないよ』と言う答えが返ってきそうなんですけど、実際は、意外な子供が意外な話をし始めたりすることだってあるのじゃないかと思うのです。


こどもに限らず、習慣として議論や討論をしていない人が、いきなりそういうことをすると、どうしても、ただの言い争いになってしまうと思うのです。

なんとか相手の理論の弱点や矛盾点を見つけ出して、足をすくってやろうとしたり、自分の説をまくし立てて、相手をやり込めようとしたりしてしまうわけですね。

でも、それは議論でも討論でもないと思うのです。


やはり、主張が異なっていても、そこに話の展開が生まれなければ討論の意味がないわけです。

話が発展していったり変化していったりすることで初めてプラスに成るわけで、ただ、相手の論を打ち砕いたり、、自分の言い分を通したりしたのでは、一人で考えたことから大して変わっていないということに成ってしまうわけです。

自分の主張を述べながら、相手の主張にも耳を傾け、その中で議論を展開するには、慣れるしかないと思うのです。

でも、教育の場に限らず、そんな場所ってほとんどないと思うわけです。
場所と言うよりは、そういう空気がないのかもしれません。

一人でそんな雰囲気を醸し出してもあまり意味がないので、誰もそういうことはしなくなっていくのでしょう。


でも、もっと自分の内側にある話を、人に対して出していけるようになった方がいいような気がするわけです。
子供の場合と同じで、意外な人が面白い話を持っているということはよくあることかなとも思います。


それから、案外いいストレスの解消法に成るような気もするのです。
自分のうちにあるものを外に出すということは、最高のストレス解消に成るはずなわけですから、それが、言い争いになったり、単なる愚痴のように成ってしまわない限り(まぁ、それでもいいのかもしれませんが)、きっと、かなり発散できるのではないかと思うわけです。

そうなると、これからのストレス解消法は、カラオケじゃなくて議論や討論かなと。
そういう日常の中に、もう少し真剣に話す「場の空気」があればいいんじゃないのかなと。

そんな感じもあるんじゃないのかなと思ったりしています。



「悪口」=「ネガティブ」なのか?



「悪口」と言えば、ネガティブの代表なわけですけれど、それは「悪口」の定義によると思うわけなのです。


悪くない人を悪く言うのが「悪口」であれば、それは間違いなくネガティブでしょう。
また、いいところも悪いところもあるようなことについて、その中の悪いところだけをわざわざ拾い出して悪く言うのも、確かにネガティブなことだと言えるのでしょう。

 ※ここで「悪い人」とか「悪いこと」と言っているのは、基本的にそれを言っている
  人が「悪いと思っている人(こと)』のことです。
  つまり、「絶対的な善・悪」の話ではなく、「その人にとっての善・悪」を基準にし
  ています。
 

でも、明らかに悪い人やものについて、それを悪いということを含めて「悪口」と言っているのだとしたら、それは、ネガティブなことなのでしょうか?

もしも、明らかに悪いようなこと、または、自分が本当は悪いと思っているようなことの中から、なんとかして、いいところを見つけ出してきて「悪口」を言わないようにしているのだとしたら、それは、一種の「嘘」であって、むしろ、そちらの方がネガティブなことではないのかなと。

たとえ、それが善意によるものであったとしても、度を越せばその「嘘」も色濃くなってしまうわけなのです。
そして、その度合いの物差しが、かなりずれてしまっているように思うのです。

本当のことを言って、それが何かに対する批判を含んだことであったとしてもそれを、「悪口」と言えるのでしょうか?
というか、その「悪口」はネガティブなことなのかなと。

今の日本では、そこの所が抜けていて、何かを悪く言うことがすべて「悪口=ネガティブ」と言われてしまっているように思うのです。


結局、悪くもないものを悪く言うのも「嘘」だし、悪いものを悪く言わないのも「嘘」なわけで、それは、両方ともネガティブなことではないのかなと。

だとしたら、悪いと思ったことをただ正直に悪いと言った人を、「ネガティブ」と呼ぶことの方が本当の「悪口」では無いのかなと。

もちろん、根拠のない批判や感情的な誹謗中傷を推奨するつもりはありませんけれど、そういうデタラメな「否定」と理由のある「否定」が、すべて一緒くたにされてしまっているように思うわけです。

実は、大事なのは「ポジティブ」か「ネガティブ」かではなくて、「肯定」と「否定」のバランスや内容ではないかと思うわけなのです。


現在の日本社会では、明らかに「否定」が強制的に排除されてしまっているわけです。

それは言ってみれば「否定」が「否定」されているということであって、どう考えても矛盾しているわけです。

もしも、本当に「肯定」を尊重するのであれば、「否定」は「否定」として、その妥当性を、公平に検討したうえで「肯定」または「否定」されるべきであって、一律に、「否定」的だからという理由で「否定」したのでは、それ自体も、また「否定」的になってしまっているわけで、自己矛盾に陥ってしまっているわけです。


私としては、「ポジティブ」な考え方や「前向き」な生き方が悪いとは思いませんし、そういう方向性を持った人と言うのも、人としてはとても好きなのですが、ここで言っているのは、現在の日本社会の状態のことなのです。

私には、どう考えても「批判」や「ネガティブ」が排除され過ぎているとしか思えないのです。

あまりにバランスを欠いた状態のようにしか見えないので、どうしても「肯定」側よりも「否定」側に肩入れしたくなってしまうわけなのです。


それから、それは元を正せば経済的な理由からそう成っているのではないかと思うわけなのです。

例えば、商品のレビューなどを見ても「肯定」的なものがほとんどな中で、数少ない「否定」的なレビューの方が役にたつことも多いのですが、それは、購売に結びつかないので見えないところに追いやられてしまいがちなわけです。

これなどはまだわかり易いですけれど、もっと見えにくいことでも、何らかの経済上の理由から「否定」が理不尽に排除されていることは、たくさんあるように思われるわけです。

というよりも、「否定」が意図的に排除されているケースのほとんどが、経済と結びついているようにさえも思えるわけなのです。

排除している本人は、ただ単に「肯定」の方が「建設的」で「前向き」だから、いいだろうと思ってしていることでも、実は、「建設的」や「前向き」には既に経済促進的な側面があるわけです。

そして、経済の部分を除いた本当の意味の「建設的」や「前向き」というのは、必ずしも「肯定」ではない、否、むしろ「否定」的であるはずなのです。


何かを作ったり、行ったりするのに試行錯誤がなければそれが良くなるはずがないわけですけれど、その試行錯誤に当たるものは、間違いなく「否定」的な要素を含んだ考察ではないのかなと。

『これじゃダメだ』『これでもまだ足りない』という「否定」の繰り返しが「建設的」なのであって、はじめから『これでいい』というのは、ただの「テキトー」で、決して「建設的」なことではないと思うのです。

また、あくまで試行錯誤を経た後での「肯定」は「前向き」であっても、その段階を飛ばした「肯定」は”ザツ”なだけだとも思うのです。

つまり、肯定的であることは「建設的」「発展的」「向上的」であるより以上に、「経済的」なことであるとも言えると思うのです。

「建設的」「発展的」「向上的」を経たうえで、それが「経済的」に成るのならいいのでしょう、
でも、そこには「否定」という過程が必要不可欠になってくるわけです。


「悪口」=「ネガティブ」という短絡的な発想で「否定」や「批判」を排除していってしまうと、全てのもの事は衰退して、骨のない形だけのつまらないものになっていってしまうのだと思うのです。

こういうことを了解済みで言っている人も多いとは思いますけれど、問題なのは、「肯定」と「否定」のバランスなわけで、
その「量」と「質」におけるバランスが明らかに崩れている現状においては、「否定」の側の「量」と「質」を意識して高めていかなければ、益々、まともな話が通じないような、充実したものが生み出されないような、そんな世の中にしかならないのかなと。

いま、社会が求めているのは「肯定」ですが、いま、社会に必要なのは「否定」だと思うのです。


私にはどうしても、そんな風にしか思えないわけなのです。




「芸術」は「私物」ではないと思っています



「芸術」と言うのは、作者の感情や感覚を現したものですから、まったくもって個人的なものだということができると思うわけです。
でも、その反面「芸術」は私的な所有物では有り得ないということも言えるんじゃないかと思うのです。


私の個人的な考えですが、「芸術」は作者自身を含めて何者かに所有されるべきものではなく、一定のよりどころを持たない、特定の場所をもたないようなニュートラルな状態に置かれるべきものではないのかなと。

つまり、それは作者から世界に対して投げかけられたままの宙に浮いたような状態であるべきであり、何かに結び付けられたり、固定されたりしては作者から投げかけられたものが、その固定されたところにしか届かなくなってしまうわけですから、そういうことを避けるためにも、出来うる限り、自由で不定で偏在しているべきではないのかなと。


もし、そうだとすれば、「芸術」とは法律的な権利の上で誰かに所有されるという話を抜きに言えば、本来は、常に何物にも所有されないものであるべきではないのかなと。

作者のごく私的な表現を、その外の世界全体に向かって投げかけるという、物理法則とは一切無関係のエネルギーを持っていなければ、また、そのエネルギーが無重力空間のように保存され続けなければ、「芸術」が「芸術としての意味」をなさなくなってしまうわけで、それは「作品」ではなくて、ただの「物」や「製品」と同じになってしまうわけなのです。


だから、それが有名な人の作品であろうと、全く無名な人の作品であろうと、また、法的に誰かに所有されて居ようが居まいが、それが、まさしく「芸術」として作成されたものである限りにおいては、そこに込められたエネルギーは永遠に保存されているはずだし、それを、消滅させることなどはできないはずなのです。


要するに、「芸術」は所有してはいけないのではなく、所有することができないものなのではないのかなと。

つまり、お金を出して「芸術作品」を買った人は、「芸術の殻」だけを高額で買わされたわけで、肝心な「芸術の核」を所有することは出来ないということかなと。

『だから、なんなんだよ?』

「いえ、べつに」

『じゃ、一人で言ってろ!』

「ハイ、そうしますです」


そんな風に思っています。




人間は、まだ「言葉」を使いこなせていない? 



人間と他の動物を、最もはっきりと区別できる点は、論理を構築する性質(習性)を持っているか否かではないかと思います。
しかし、その反面、人間はまだ言葉を上手くはコントロールできていないように思うわけです。


人間は何をするにも、先ず言葉で考えて、そこに何らかの理論を展開してからでないと実行できないといってもいいほど、言葉で考えることが習性化していると思うわけです。

でも、それがなかなか上手くは出来ていないと思うことが多いわけなのです。

また、世の中の変化が早すぎて、論理の使い方にも常に修正が求められるために、対応しきれていないと言うこともできるのかもしれません。
たぶん、その両方なのでしょう。


例えば、「常識」と言う言葉一つを考えても、それが次から次へと更新されていくわけで、一定の期間スタンダードとして機能していなければ、「常識」であること自体に意味がなくなってしまうと思うのですが、そこに、意味が無くなっても、まだ延々と「常識」が更新され続けているというのが言葉の現状ではないでしょうか?

そして、現代社会には、そういったことがたくさんあるわけですから、その意味の無くなってしまった言葉の上に築かれた論理が、有効なものにならないということが多くなってしまうのだと思うのです。

また、人間が論理を使うということを習性として持つようになったのは、人間社会がかなり複雑化して、人間としての生活が、言葉で考えること無くしては成り立たないような状況ができてからでしょうから、まだ、人類の進化の中では歴史が浅く、その習性がうまくは身についていないのかもしれません。


いずれにしても、習性化しつつあるから、それを捨てることも難しくなっているわけで、それがうまくコントロールできていないというのは、かなりの弊害になっているように思うのです。

もう、論理を捨てることができないのなら、それを何とかうまく使いこなしていくしかないわけですが、言葉の上に言葉を重ねていくという作業の中で、一つ一つの小さな誤差が積み重ねられて、最終的には、かなりおかしなところに着地してしまうというケースも少なくないのではないのかなと。


その点を修正するには、言葉と言うものを根本から認識し直す必要があると思うのです。

先ず言葉には、種類があると思うわけです。

同じ言葉でも、文学における言葉と、情報伝達における言葉は全く違う性質を持っていますし、そういった、「言葉の種類」は沢山あると思うのです。

それを、混同したまま使っていれば当然誤りが出て来るわけです。

また、はっきりと種類が違うというほどでなくても、その使い方にもバリエーションがあるわけで、例えば、言葉には世界を二分するという性質があると思うのですが(「〇〇」と言ったとき、世界は「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるというような)、そういった、極めて単純化された機能と同時に、一つの言葉が様々な意味を内包しているという複雑で曖昧な機能をあわせもっているために、そのどちらの使い方がされているのかを判断するのが難しくなってしまうのだと思います。

そのほかにも、まだまだ言葉の誤謬(ごびゅう)を招く要素は沢山あるように思われますが、それらを、言語学者などが、もっとうまく利用できるようにわかり易く、解説していく必要性があると考えているというわけです。

ただ、ここで大切なのは、わかり易く解説することであって、研究することではないように思うのです。

言語学などの研究と言うのは、かなり難解なものになってしまっているわけで(私は詳しくありませんが、たぶんチンプンカンプンだと思います)、それ以上の研究を追究していっても、一般的には理解し辛くなってしまって、浸透しないでしょうから、現状の成果をできるだけ理解し易いように解説したり、教育したりするところに力を使ってほしいと思うのです。

そして、言葉が成り立っていなければすべての学問が成り立たないことを考えれば、現在、教育の場において言葉の見直しは、必要性の高いものになってきているのではないのかと思うわけなのです。


このところ、同じ日本語で会話をしていても、全く話が通じないと感じることがとても多くなっているので(おそらく、そういう時は相手も同じように感じているのでしょう)、こうした見直しをぜひお願いいたしたいなと。


そんな風に感じておリます次第でございます。


現在、「個性的であろうとすること」が「唯一の没個性」だと思うのです:教育で浸み込まされた「個性と才能」



現在、「個性と才能」がとても素晴らしいものだということを否定する人はあまりいないでしょうね。
確かにそうなのでしょうが、その意味が履き違えられてしまっているようにも思うわけなのです。


このブログの中でも何度か書いていることなのですけれど、「個性的」や「才能豊かな」ということが、ある一部の者に与えられた特権のように思われてしまっていると思うのです。

そして、それは教育の段階で子供のうちから浸み込まされてしまっていることなのではないかと思うのです。


実際には、「個性と才能」を重視すればするほど、それは普遍性を持つはずで、ごく一部の者に与えられたものではなく、全ての者に違った形で与えられるものであるということでなければ、理屈が合わなくなってしまうと思うのです。


「個性」と言うのは違うから「個性」なのであって、それを重視するということは、より多くの「個性」を認めることでなければ理屈が合わなくなるはずで、結果的には、すべての者になにかしらの「個性」があるということに成るはずなわけです。

また、「才能」にしても、それは「何かを達成する能力」なわけですから、その「何か」が多様化すれば、当然「才能」も多様化するわけですし、逆に範囲を限定されれば、当然それは画一化していくわけです。

やはり、「個性」と同じように「才能」も普遍化、一般化していくはずなのではないでしょうか?


私は、この点について、現在の状態が明らかに矛盾していると考えているわけですけれど、これを、誰かに言ってもなかなか通じないわけです。

相手の反応を見ていると、私が無理にこじつけで「才能はみんなに同じだけある」と博愛主義的なことを言おうとしていると思うようなのですが、私にしてみれば、どう考えても「個性と才能」と言う言葉と『一部の者だけに与えられた特別なもの』という状態は、まったく一致しないわけなのです。


なぜ、このような矛盾した状態に成っているのかと言えば、それはおそらく、教育の段階で無意識の領域に、そういった考え方が浸み込まされてしまっているからなのではないのかなと。

完全に無抵抗(無意識)の状態で洗脳に近い形で刷り込まれてしまっているために、それを疑うこともないし、それを否定する者がいると強く反発するのではないのかなと。

どう考えても、それ以外の理由が考えられないわけなのです。


実際、両親にしても学校にしても、そういう刷り込んでいる側も無意識のうちに、「個性と才能」は特権的に持っている者と持っていない者が居るということや、そういう素晴らしいものを持っている者は、ある程度特別な扱いを受けるのは当然なことで、それを持たない者が、一段低い位置に甘んじることも、またある程度仕方がないことであるということを子供たちに伝えてしまっていないでしょうか?

いま、『伝えてしまって』と言いましたけれど、それは、むしろ『あえて否定しないことで伝わってしまっている』と言った方が正しいのかもしれません。

つまり、社会の状況を見渡せば、「個性と才能」についての特別扱いが蔓延しているわけで、教育段階においては、むしろ、それを否定的に扱う必要があるわけですから、教育する立場の人は、教育を受ける子供に対して、『現代社会においては「個性と才能」は特別扱いされているけれど、それは社会の都合のよいように曲げられた考え方であって、本来、「個性と才能」は普遍的かつ一般的なものであるべきである』とあえて教えるべきところを、それをしていないために、或はお座なりにしているために、結果的に社会が提示している方向性が修正されることなく、子供の段階で無意識の中に刷り込まれてしまうのではないでしょうか?


いずれにしても、間違いなく言えることだと思うのは、これほどまでに「個性と才能」を特別扱いすることが一般化している現在においては、「個性的であろうとすること」は現在有り得る「唯一の没個性的なこと」であるということです。

また、「才能がある者」と「才能がない者」に分ける考え方は、ほとんどの「才能」を否定しているともいえるでしょう。
それは、おそらく、現在において一番つまらない考え方でしょう。

ですから、教育によって知らず知らずのうちに浸み込まされてしまった意識はもう捨てて、「個性と才能」なんてものは、その辺にゴロゴロ転がっているものだと、そして自分の中にも普通に適当な感じで存在しているものだと思ってもいいのではないのでしょうか?


実際には、今必要なのは、そこから先であって、それはもうどうでもいいことなのではないのかなと。

『そういうモノはもう過去の時代に置いてきたはずなのではないのですか?』


そんな風に言いたいわけなのです。



「見えるもの」と「見えないもの」



世の中には、「見えるもの」と「見えないもの」と言うのがあると思うのです。
それは、なにも目ではっきり見えるか否かということに限らず、確信を持って判断できるものと、できないものと言う意味です。

 ※ここで言う「確信をもって判断できるもの」と言うのは、「完璧に疑いようのないうもの」
  と言う意味ではありません。
  世の中に、そんなものは無いような気がしますが、それでも、「人間が確信してしまうも
  の」と言うのはあると思います。
  要するに、「完璧に疑いようのないうもの」もありませんが、「完璧に疑えるもの」も無い
  ということでしょうね。
  つまり、ここで「確信をもって判断できるもの」と言っているのは、「人間にとっては疑うこ
  とよりも確信することの方が、より自然であるもの」というような意味です。


例えば、空気は目には見えませんが、その存在は疑いようがないと言えるでしょう。
(それも疑うことはできるというのは、また違う話になってしまうので)
まぁ、要するに物質は、だいたい「見えるもの」と言えるのではないでしょうか。

でも、物質だけとも限らなくて物理法則や、人の心や感情などのような物質としての形のないものでも、ある程度、確信を持って判断が下せるようなものはあるわけですから、それも「見えるもの」に入ると言っていいのでしょう。
(こちらも疑うことはできるわけですが、それはまた別の話として)

対して、「見えないもの」は、確信をもって判断ができないものということに成るわけなのですけれど、それは、言葉を替えれば「不思議なもの」とも言えるのかなと。


そして、何が言いたいのかと言うと、何かを考察したり議論したりするときに、その「見えないもの」は使ってはいけないと思うわけです。

少なくとも、その考察や議論を、人との間で共有する場合は、話を「不思議なもの」に持って行ってしまうと、そこから先は、まったく意味のない会話しか成り立たなくなってしまうと思うのです。

一見、話がかみ合っているように見えている場合でも、それは体裁だけで、実際には何の意味も無いような話を、相手に調子を合わせて適当にやり過ごしているだけになってしまっているように思われるわけなのです。


そうは言っても、世の中に「不思議なもの」などは無いと言っているわけではなくて、それは当然あるわけですし、それどころか、全てのことが「不思議なもの」でないとは言い切れないわけです。

とは言え、現時点で「見えていること」を前提にして話を進めないと、その話の意味と言うものは、ほとんどないとも言えるわけなのです。

ですから、話の根拠とするようなものは、それが「見えるもの」である必要があると思うわけなのです。


そして、話を相手と共有することを前提とするのであれば、論じる側と受ける側の双方にとって「見えるもの」であることが、最低限必要になってくるわけなのです。


そして、ここからは私の個人的な意見ではありますが、世の中の相当数の人が「見えないもの」であると主張しているものについては、それが「見えないもの」であるという前提で、それを根拠とした話はしないという約束を守ることが、その話を有効なものにすると思うのです。

つまり、大方の人が確信を持って判断できないようなものを話の論拠にしてしまうことで、それらの話の内容が、全く無意味になっていることが非常に多いと思うわけです。

ですから、「見えないもの」は「不思議なもの」として、そこにそのままあってもいいのじゃないかなと。
それを、論拠にしてしまうと「見えるもの」のようになってしまって、「不思議なもの」ではなくなってしまうわけで、それでは、そのものの本当の状態と違ってきてしまうようにも思われるのです。

もしも、それが理屈では説明できないけれど、何かしら確実なものであったならば、何も、敢えてそれを議論の対象にしなくても、そのうちに、それは当然のこととなって、本当の「見えるもの」になってしまうのでしょうから、「見えない」と言っている人がたくさん居るときには、それを「見えないもの」としておいた方がよいように思うのです。


まぁ、一言で言えば、曖昧なことを論拠にして話を進めれば、その話は無意味なものになるのでしょうということですが、そこに「不思議なもの」というキーワードが出て来ると、その曖昧さがすでに肯定されてしまっているような錯覚の下に話が進んでしまうということでしょうか。

そして、それが宗教戦争に至っているようなこともあると思いますから、それよりも身近なところから、「見えないもの」は「見えないもの」として取り扱うようにすれば、それを、論拠に論争を展開するのは、まったく無意味であるということが、それこそ〝見えやすく"成るのかなと。


そんな風に思っています。


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「人間を否定すること」と「行為や状態を否定すること」は全く違う



このブログでも何度か書いてきたことですが、現在の日本では、否定的なことを言うことがタブーのようになってきていると感じるわけですけれど、これには、かなり見落とされているところがあるように思えるわけなのです。


見落とされていることは、いくつもあると思うのですけれど、中でも「人間を否定すること」と「行為や状態を否定すること」が、ほとんど区別されていないと言うのは、かなり大きなことではないのかなと。

「人間」と言うより、もっと正確に言えば「人間の存在」を否定するということは、避けるべきことかと思われるわけですけれど、「人間の行為や状態」を否定することは、避ける必要がないと思うわけです。

これは、人間に限ったことでもないでしょうが、「存在」と言うものは否定しようとしても、そうそうできるはずはないわけで、「存在」を否定するのであれば「全て」を否定せざるを得なくなってしまうわけでしょうから、そうなれば、何の話も成り立ちませんし、それはかなり無理があると思うわけです。

まぁ、「在る」ものを「無い」と言ってしまえば、なにも成り立たなくなってしまうわけですから、そこには無理があると言わざるを得ないのでしょうね。

だから、当然「人間の存在」も、その人がそこに「在る」かぎり否定できないはずなわけですから、それを否定するということは、まったく不当なことであって、理に適っていないわけなのでしょう。

でも、「行為や状態」を否定することについては、根本的な「存在」の否定ではなく、その有り様についての部分的な否定ですから、それとはまったく異なるものだと思うわけです。

そして、その二つが区別されていなかったり、意味のない区別がされていたりすることが、「否定」や「批判」の機能を失わせているように思われるわけなのです。

つまり、「否定」することはできる限り避けるべきことであって、できうるかぎり無差別に「肯定」に向ける努力をするべきであるというような無理な論があったり、なんとなく度を越している場合は「批判」してもいいとか、犯罪者だったら「否定」してもいいとか、皆が悪く言っている人だったら「悪く」言ってもいいとか、そういった意味のない区別がされている場合がとても多いと思うのです。

でも、実際は、どんな場合も「人間」は否定するべきではない(できない)し、「行為や状態」は否定しても、何の差支えもないのだと思うわけです。


犯罪者であっても否定されるのは、その「行為」であって、その「人間存在」ではないはずでしょう。
(これは「死刑の是非」とはまた違った意味に成ると思います)
まして、みんなが悪く言っているからと言って、その人の「存在」自体を否定してもいいはずがないわけですが、それが結構まかり通ってしまっているように思えるわけなのです。

そして、まさに、そこから各種のハラスメントやイジメ、差別などが生まれているということは明らかだと思われるわけです。

つまり、「否定しない」ことや「否定の区別がなされていない」ことで、かえって非常に否定的な状態が生み出されてしまっていると言わざるを得ないわけなのです

「存在」は基本的に、否定しないのではなくて否定できないわけですから、それを、どうこう言っても仕方がないわけですが、「行為や状態」については否定や批判をするべきであって、それをしないということは、要するに「悪」を肯定することにしかならないわけです。

完璧なものがないのだとすれば、どんなものでも「否定や批判」をされる要素があるはずで、それがタブーになってしまうと、全てのもの事は少しづつ「悪い」方向へ向かうに違いないわけなのです。

「否定や批判」と言う「食い止める力」が働いていて、やっとバランスが取れているのですから、それを取り除いてしまえば、そう成るのは当たり前のことなのだと思います。

そして、「行為や状態」を批判することこそが、「人間」を否定することを阻止するための唯一の手段ではないかとも思えるわけなので、その機能が失われつつある現状は、「人間存在」の危機的な状況であるというように思えるわけです。

「行為や状態」を否定されて傷つくのは、所詮、つまらない表面だけのプライドや見栄の部分だけなのですから、そこのところは諦めて、もっと大事な「人間」の根本的な「存在」を守らなければ、どうにもならないのじゃないですかと。

お互いに人格を否定し合っているような、状態が蔓延している世の中で、表面上の「肯定」だけを追いかけていても、その隣で「肯定を名乗った否定」が、堂々とまかり通っているのでは、なんの役にも立たないのじゃないですかと。

ですから、偏った「肯定」は「悪」を生むものでもあるということを、考えるべき時なのではないのかなと。
そして、それを「止める力」があるのは「否定」だけなのだから、そこで躊躇してはダメなんじゃないですかと。


つまりは、そういうことが言いたいわけなのです。




個人を無能化させても、もう「トク」はない



現代の社会と言うのは、人間を社会の一構成要素として扱うことで、効率化を進めてきたわけですけれど、それによって得られるところの成果が、かなり前から頭打ちになってきていると思うわけです。

それに対して、そこから生まれる弊害の方は、年々大きくなって、既に、成果の方を上回ってしまってからですら、かなりの年月が経過してしまったように思われるわけなのです。


要するに、社会は人間をより単純化して、社会と言う機構を効率よく機能させるための部品として看做すことによって、個人の持っている有機的な要素を排除し無機的な性質を最大限に引き出し、そのことによて、結果的に現在の精密機械的な社会機構を得たのだと思うわけです。

過去において、それが良かったのか悪かったのかについては、功罪相半ばと言うところだと思いますけれど、現在においては、明らかにマイナスになってきているように思えるわけです。


もともと、これまでの効率を支えてきたのは、産業革命以来の技術革新だけではなくて、奴隷制に始まり、植民地政策や労働搾取などの圧倒的な個人の犠牲でもあったわけで、そういう前時代的な社会には戻れない状態になった現在、その方向(個人を部品化するという方向)で社会を運営してゆくことは、これまでのような効率は得られないのに、個人の犠牲だけは増大していくという「労多くして利の薄い行為」となってしまうと思うわけですね。


技術的な進歩と言うのは不断に続いて行くのでしょうし、時には、画期的な技術が開発されて、一時的に挽回するようなこともあるのかもしれませんが、それはあくまで一時的なものにすぎず、恐らく今後、そうした技術による効率の向上が、それに対して圧倒的な社会機構による効率の停滞を上回り続けることは無いのでしょう。

もはや、『技術の進歩が何とかしてくれる』と言うのは幻想にすぎないでしょうね。

たとえば、医療において、医療の進歩によって、人間の寿命は延びたのかもしれませんが、それによって、人生の中で不幸な時間が伸びただけであれば、それは進歩と呼べるものではないと言わざるを得ないわけです。

実際、現在の「長老」達は、果たして社会の中で尊敬されているのでしょうか?
彼らは、そこで何かしらの役割を得られているのでしょうか?
かつての奴隷たちにですら、労働力としての役割が与えられていたとも言えなくはないわけで、彼らに人権が与えられていなかったことは、極めて不幸なことであるわけですけれど、それでは、尊敬されることもなく、あらゆる役割から除外されているような現在の「長老」達には、果たして、真っ当な人権が与えられていると言い切れるのでしょうか?
まぁ、こういうことに疑問が出てきてしまうわけですよね。

そして、このような「進歩による不幸」は現代社会のいたるところに見られるわけで、それは、現代社会が、「人間」を部品と看做して「個人を無能化すること」を手法として使い続けてきたからに他ならないわけですから、それを手放して、効率を犠牲にしてでも、個人の持っている有機的な部分の能力を高めていくしかないわけなのです。

それは、何も画期的な発想者や突出した感性によるものとは限らなくて、まったくもって日常的な工夫や思い付きに過ぎないものでも十分に効果的ではないのかなと。

現在の人間の個体数は、ある意味で自然界の法則を無視しているほどなわけですから、その大半が「無能化」している状態から「有能化」へ転換した時の効果は計り知れないほどに成るでしょう。

その効力は、機械的な効率を捨てたことによるマイナスを遥かに上回るように思えるわけなのです。

教育・文明・文化がかなりの底辺にまでいきわたっている現在、人間の持っている潜在能力は過去にないぐらいまで高まっているはずなわけで、その点では、過去とは比べ物にならないぐらいの力が内在していると思われるわけです。

せっかく高まっている能力をあえて「無能化」するという手法は、有り得ないでしょう。


ただ、ここで、すでに出来上がってしまった「社会の意思」が、常に個人の「無能化」を求めてくるわけですし、さらに、今はもう達成することができなくなった「効率化」をも同時に求められるわけで、そのダブルバインドに挟み付けられて疲弊している現代人が、そこに対抗するような意志を持てずに、ズルズルとその状態を続けているというのが現状でしょう。

意思と言っても、それほど強固な意志力を求められるとは思えないわけですが、言ってみれば、「社会の意思」に沿って働くことをやめて、「自己の意思」に沿って働くようにするということなのでしょうか。

「社会の意思」に沿って働いても、高齢になった時点で切り捨てられるのであれば意味がありませんから、むしろ、自分の方から社会を切り捨ててしまおうということです。


いずれにしても、流れとしてはそちらの方に向かっていくのが、ごく自然なわけですから、何時かはそんな風になってゆくのでしょうが、現状を見ていると、どうしても社会による「人間の無駄使い」が気になってしまうわけなのです。

と言うか、『いったい何のために教育や文化を行きわたらせて来たのか?』と言う感じですね。
『これまでの人間の歴史って、なんのためだったの?』


そんな風に思ってしまうわけなのです。



刑罰について



犯罪に対する刑罰についての論議となると、最近では「死刑の是非」と言うのが多いと思うわけです。
確かに、それは、刑罰についての最も集約された部分なのでしょう。

でも、実は死刑を肯定するか否定するかよりも、刑罰を、社会機構の中で、どのような機能として捉えるのかが問題なのではないかと思うわけです。


主に「犯罪抑止力」としての機能と、「犯罪者の更生」という二つの機能が考えられるわけですけれど、二つの機能のどちらに重点を置くかで、かなり話が変わってくるわけなので、そこのところがポイントになると思うわけです。


ただし、そこで「人間が人間の命を奪ってはいけない」というような、人道的な見地からの意見や、「仇討」的な復讐と言う考えは、刑罰という話とは意味合いが違う話になってしまうので、それを持ち出してしまうと、そこから先には進めなくなってしまうと思うわけです。
まぁ、要するに、それを言ってしまうと「法的な意味での刑罰」の話ではなくなってしまうということですね。

そこで、刑罰を、その機能に限定して考えた場合、先述の「犯罪抑止力」と、「犯罪者の更生」という二つの機能が主なものかと思うわけです。

現在、最も中心的な考え方は、「犯罪者の更生」なのだと思うわけですけれど、それは、あくまで犯罪が起きてからの事後処理的な側面があるわけで、ある意味では、それが達成されたとしても、もはや犯罪は起きてしまっているわけで、それは、既に「十分に不幸な出来事」であるわけです。

この、犯罪という「誰にとっても不幸な出来事」を前提にしてしまっているところが(加害者も十分すぎるくらいに不幸だと思います)、この考え方の重大な欠陥であることは、犯罪が増加し悪質化する傾向にある現代社会では、もはや、議論の余地もないことのように思われるわけですけれど、社会が、人道主義や人権擁護と言った「美辞麗句」を捨てられないために、これを引きずってしまっているように思われるわけなのです。

そして、このことは、先に述べた機能に限定するという法則からも外れてしまうわけで、結果的には、前述の『人間が人間の命を奪ってはいけない』や、その裏返しの意味での「復讐」というのとかわらないことに成ってしまうわけで、「刑罰の機能」の話から逸れてしまっているわけなのです。


やはり、犯罪は未然に防がれるべきであって、それでこそ、機能として有効であるともいえるわけですから、「犯罪抑止力としての機能」を強化すべきであろうかと思うわけです。
と言うよりは、ほかのすべてのことを切り捨ててでも、そこを達成しなければ、現在の犯罪の進行は止めることが不可能なのではないのでしょうか?


例えばの話、もし仮に、犯罪が多発している中で、犯罪者を100%更生させることができる「パーフェクトな犯罪者更生プログラム」が、システムとして確立されたとしても、次から次へと犯罪が発生ていくのではあまり意味がないでしょう。

ですから、冒頭の話に戻せば、「死刑の是非」ではなくて、「刑罰の有効性」を議論すべき時なのではないのかなと。

実際、死刑を自ら望む犯罪者もいるわけで、その犯罪者達にとっては死刑は必ずしも極刑ではないのでしょうから、それを、学者などの現状の犯罪からあまりにもかけ離れたところに立っている人たちが、あくまで「死刑=極刑」という前提でもって、その「是非」を議論してもあまり意味がないわけです。

犯罪者の望みをかなえていることになっているのであれば、それは刑罰ですらないわけで、それを肯定しても否定しても、その議論の意味自体が、極めて希薄であるとしか言いようがないわけなのです。

そこで、犯罪を抑止するという機能を強化するためには、どのような刑罰、または、その他の手段が有効なのかと言う議論がなされるべきなのであって、そうした機能の有効性が発揮されて、犯罪が減っていくことこそが、本当の意味で「人道的なこと」なのではないのかなと。

さらに言えば、これは、犯罪被害者にとっても、犯罪加害者にとっても「人道的なこと」と、つまり「一石二鳥」とは言えないでしょうか?


ここで最も有効な抑止力になるのはどんなものなのかとなれば、それは、かなりの難問だと思いますけれど、少なくとも、犯罪が多様化しているのに対して、刑罰(法)の側は、昔ながらの「死刑」を極刑とする「懲役刑」や「禁固刑」、「罰金刑」という判で押したようなものしかないわけですし、それらの刑罰の重さも、この程度の犯罪を犯したものには、この程度の刑罰と言うような判例主義を取っている関係で、犯罪者側からすれば想定内の刑罰しか与えられないわけですから、犯罪常習者や、社会的逸脱者からすれば、「チョロイモン」で、もはや、彼らに法に対する畏怖の念はないでしょう。

つまり、刑罰が「犯罪抑止力」として機能していないケースが増えてきているということですね。

だから、これからの刑罰には、『犯罪を侵すと、予測できないような、とんでもない刑罰が下されるかもしれない』というような「意外性」や、個々の犯罪者が『これだけは絶対に嫌だ』と思うような「個別性」が必要になってくるのではないのでしょうか?

言ってみればそれは、「天罰覿面(てんばつてきめん)」を再現するということなのかなと。
『天網恢恢疎にして漏らさず』と言ってもいいでしょう。


もちろん、人が人に「天罰」を下すことには十分問題があるわけですが、それを言い出すと、また、人道論に戻ってしまうので、機能としての有効性に絞った話をしなければならないということでしょう。

要するに、『人が人に「天罰」を下すということ』と、『現状の犯罪が生み出している悲惨さ』のどちらを取るか?と言う二者択一を迫られているわけですよね。

でも、よくよく考えれば、それは、元に戻って「人間が人間の命を奪ってはいけない」と同じ話になってしまっているわけですし、結局、現状の刑罰でも、人は人に対して「天罰」を加えているのは同じことなわけですから、あまり、そこに固執しない方がいいような気がします。

実際、かなりの悪人であっても、また社会的逸脱者であっても、恐れていることはあるでしょうし、「絶対にされたくない嫌なこと」と言うのもきっとあるでしょう。

『犯罪を侵せば、もしかしたらそういう刑罰が下されるかもしれない』と考えれば思いとどまることもあるでしょう。


過去には死刑を頂点とした刑罰が、ほとんどの人間にとって、十分に「嫌なこと」であり、「恐れていること」でもあったわけですが、それが成り立たなくなってきているわけです。


今後、刑罰に、予測不能であるという「意外性」と、個々にとっての刑の重さである「個別性」を取り入れていくことは、法に対する畏怖を再生して、犯罪を抑止する一つの道であると思いますが、いずれにしても、現状の犯罪と、その被害者、加害者の惨憺たる状況を横目に、それとは無縁の人道論を云々するというのは、まったくの非人道的行為になってしまっているのかなと。


そんな風に思っております。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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