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「性差」について



性別やそれに付随する役割については、ジェンダーと言う言葉で呼ばれていますが、そういった、性別によって生じているさまざまな「差」が、論争のテーマに成ることが多いわけです。


これは「性差」に限らず、あらゆる「差」についても言える事かと思うのですけれど、そこに「差」が生まれるのは、そこに違う種類ものがあるからで、同じ種類のものしか無ければ、「個人差」以外の「差」が生まれることはあまり無いわけです。
つまり、そもそも違うものだということを前提に「差」が発生しているのだと思われるわけです。

だから、「違い」という「段差」があることを踏まえて、話を進めないと話が混乱してしまうのだと思うわけです。
要するに、「男性の立っている平面」と「女性の立っている平面」は違う平面なわけですから、どちらか一方の平面だけを意識して、話をしていてもすれ違ってしまうのだと思うのです。

実際、その手の論争は、理屈の上では筋が通った論議のようになっている場合でも、結局は、お互いどちらか一方の立場から、ものを言っている場合が圧倒的に多いように思われるわけです。

それどころか、はっきりとどちらか一方の立場をとらないと話に参加することすらできないようなところもあったりするわけです。
要するに、「中立」=「八方美人」みたいな感じになってしまうわけですね。

そして、なぜそう成ってしまうかと言えば、「同じ」を求めてしまうからではないかなと。

「平等」や「同権」といった、「同じ」に近づけることを良しとするような、キーワードのもとに話を進めていくために、どうしても「同じ」を目指してしまうのかなと。

でも、実際に必用なのは、「同じ」ではなくて「違い」に対する話であって、その「違い」を前提にした「平等」や「同権」が、実は「同じ」とはかなり違うものなのだと思うわけです。

そして、その【「違い」を前提にした「平等」や「同権」】をどこに設定するのかということこそが、話し合う必要のあるところなのではないのかなと。

現在では、「平等」や「同権」は、かなり多くの人が認めているものであって、「男性側についた人」を、敢えて「差別主義者」に見立てて話をする必要は、もうないのかなと。

むしろ、みんなが「平等」や「同権」を求めているという前提で、その、男女それぞれにおいての「平等」や「同権」がどこにあるのかを見つけ出していくような作業が行われるべきなのではないかと思うわけです。


例えば、男女に同じ雇用機会が与えられることよりも、男女それぞれにおいての職業に対する充実度や、そこから生じる負担が均等に近いことの方が、望まれる「平等」であって、職種や職域自体に不均衡があったとしても、結果的に双方が納得できるような実態があれば、それでいいように思うわけです。

というよりも、「男女」が違うものであるということを考えれば、最終的なところでの「平等」を求めれば、当然その手前の所では「違い」が出て来るはずなわけです。
だから、むしろ「同じ」であることの方が、よほど「不平等」なことともいえるわけなのです。

そして、こういったことは、政治や法律で規制したり規定したりすることと言うよりは、現場的な、その場での決め事であるべきかとも思えますが、その決め事をするような習慣と言うものが、まったくできていませんから、やはり、何らかの方向付けが必要なのだと思うわけです。


それにしても、これだけ数が少なくなっている「差別主義者」に属する人が、かなりの数で、それを決める「政治」の世界に居たりするというのが、とても悲しいことなのかなと思ったりもするわけですけれど、権力と言うのはそういう性質のものなのかなと。


そんな風に思っています。



「言葉の仕掛け」というもの



言葉には「言葉の仕掛け」に成りやすい性質があると思うのです。

ここで言う「言葉の仕掛け」とは、表面上はその言葉の示す通りの意味に見えていながら、その裏側に、それとは違う意味や方向性を持ってしまっている言葉のことを指しています。


それは文学表現上の「隠喩」というのに似ていなくもないわけですが、そちらとの違いは、「隠喩」があらかじめ意図されたものとして、敢えて、表と裏の二つの意味を与えられているのに対して、こちらは、言葉が社会の中で流通しているうちに、その言葉を使った者が当初意図したのとは違う意味や方向性を持つようになったものであるという点なのです。

そして、そういうものの中でも、ここで特に「言葉の仕掛け」と呼んでいるものは、表の意味が裏の意味に食われてしまって、意味をなさなくなっているにもかかわらず、その言葉を聞いた者が、裏に違う意味があることには気づかずに、その言葉を使っているうちに、いつの間にか無意識にその言葉を裏の意味で使うようになってしまうという、仕掛けられた罠のようになってしまっているものなわけです。

なんでこのようなことが起きてしまうのかと言えば、それは、おそらく、言葉の持っている性質として、一つの言葉を境界にして、世界が二分されるということがあるからだと思うのです。

つまり「〇〇」と言ったとき、世界が「〇〇」と「〇〇でないもの」に二分されるわけです。
「〇〇」と言った人は、「〇〇でないもの」については全く触れていないのに、「〇〇」と言っただけで、「〇〇でないもの」についても、語ったことに成ってしまうわけです。

そこで、「〇〇」と言う表の意味と、「〇〇でないもの」と言う裏の意味が形成されてしまうのだと思います。

要するに、AさんとBさんが居る場合に、Aさんばかり何度か褒めていると、Bさんについては何も言っていないのに、自動的にBさんを貶していることに成ってしまうということでしょうか。

実際には、これがもっと複雑に成っていって「言葉の仕掛け」ができて来るわけです。

そして、これは言葉の持っている本質的な特徴だと思いますので、これを変えることはできないのだと思うわけです。

ですから、言葉を使うときには、常に、このような罠が仕掛けられていることを想定しておく必要があるのだと思うのです。
そして、何か特定の言葉に対して、罠に嵌ったような違和感を感じたときには、立ち止まって、どこにその罠があるのかを確認する必要があるのだと思うのです。

それをせずに放置して、その言葉を使い続けると、繰り返し使われるたびに、少しづつ裏の意味と表の意味がずれていって、いつの間にか、とんでもない所に連れていかれてしまうということも出て来るのだと思うのです。

人間は、まだ、自分たちが思っているほどには、言葉をうまく使いこなせていないと思いますですから、もう少し、言葉に対して謙虚になって、慎重な使い方をしていくべきなのかなと。


20世紀後半辺りからでしょうか、あまりに急速に教育が行きわたったために、教育の中で抜け落ちている部分というのがあるように思うわけです。
高度な理論を教える前に、言葉の使い方をもっと徹底しておくべきだったのではないのかなと。

昔で言う、「読み書きそろばん」だけを教えていたのならば、今の言葉の使い方でも、ことは足りていたのでしょう。

でも、これだけ多くの人が高校や大学へ通うようになった今、そこで教えられている知識のすべてが、言葉によって教えられているともいえるわけですから、その言葉が、使いこなせていないようでは、知識が増えたことが、マイナスにも成りかねないわけです。

その種の、「言葉の仕掛け」が生み出している、まったく意味のない誤解や誤見が、とても多いように思うわけなのです。


ここのところが、スッキリしただけでも、かなりいろいろな物事が見えやすくなるのではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




一極集中的な性質を「才能」と呼び続けたことの間違い



このブログで前にも書いていることですが、現在、芸術において「才能」という言葉を使うことには、疑問を感じざるを得ないわけなのです。

だいたい、「才能」と言うと、一つのことに突出した能力を持っている人や、幼いうちから、高い能力を示した者というイメージがありますけれど。

でも、その「突出した能力」や「高い能力」と言うのが、何を基準にしたものなのかが、全くもってはっきりしない場合が多いわけです。

例えばの話、絵を描くのがうまい人が居ると「彼には絵の才能がある」と言われるわけですが、では、その「うまい」について、『それは技術のことですか?』と聞いたとき、それに対して、『そうです。技術があることが才能なのです。』と言い切る人が、現在どれだけいるでしょうか?

また、他の子と違った色使いをする子供がいると、それも、『あの子には才能があるのかもしれない』と言われるわけですが、『じゃあ、普通の色使いをする子には才能がないわけですね?』と聞くと、たいてい、『そういうわけではないが、~あーでもない、こーでもない』と言って、話はうやむやになってしまうわけです。

『じゃあ、「才能」とはいったい何を指しているのですか?』と言うと、多くの場合、『それは個性である』ということが出て来るわけですが、個性だったら、みんなにあるはずで、「ある人」と「ない人」がいると言う話はオカシイわけです。


現代美術は、そういう一極集中的なものの見方を捨てることからスタートしているはずだと思うのですが、いまだに、何か一つの頂点を想定して、それに近いものが「上」=「才能がある」で、遠いものが「下」=「才能がない」と言う、前時代的な考え方がまかり通っているようにしか見えないわけなのです。

そして、さらに、その頂点をときによって、とっかえひっかえするという、まったくデタラメなやり方をしてしまっているようにすら思えるわけなのです。


ものの見方や考え方を、多様化させるのであれば、そこに上下を付けてしまうというのは、まったく意味がないわけで、そう言う見方をすれば、必ず「上」にあるものが頂点となって、いつの間にか、もとの一元的な考え方に戻っていってしまうわけですから、初めから、多様化・多元化などする意味がないわけなのです。

だから、現代の多様性を根こそぎ否定しようというのであれば別ですけれど、そうでないのならば、ただ単なる一極集中的な性質をもって、「才能」と呼び、それが「ある者」と「ない者」が居るというように、上下関係でものを見るというのは、極めて前時代的な考えであり、あくまで、それをするというのならば、現代を根こそぎ否定するだけの「構え」をもってするべきではないのかなと。

ですから、「才能」などと言う高いところに持っていかれてしまうような言葉を使うよりも、それを、「長所・短所」というような上下になりにくい言葉で置き換えていった方が良いように思われるわけなのです。

まぁ、要するに、平凡で単純な言葉の方がいいような気がします。
「長所」は常に「短所」でもある筈ですから、上下になりにくいのかなと。


本来は、「ある一つの才能」は「ある一つの長所」でもあり「ある一つの短所」でもある筈なわけですけれど、それが、「才能」と言って祭り上げられてしまうと一極的な見方に従って、「短所」の部分が見えなくなってしまうのかなと。

また、その逆に、「平凡」にも、「個性」や「才能」がある筈なわけですけれど、『平凡で個性がない、だから才能もない』と言われてしまえば、それは、ただ惨めなものにしか見えなくなってしまうわけです。

こういうことが変わらないと、まだ現代にすら成っていないわけで、未来などは、望むべくもないということなのではないのかなと。


私には、そんな風にしか思えないのです。




事実は曲げられないということ



『事実を捻じ曲げることはできない!』と言うと、『はい、それは確かにそうでしょうね』ということに成って、そこで話が終わってしまうわけですけれど、『現実には、事実は捻じ曲げられているのではないのか?』と言う疑いを完全に断ち切るのは、簡単ではないわけなのです。

現実の世の中を見渡せば、情報操作や捏造された報道、独り歩きした噂話の類まで、いろいろな種類の「捻じ曲げられた事実」が沢山あるわけです。

でも、やっぱり『事実は曲げられない!』と、私は思うわけなのです。

現在の世の中では、マスコミやインターネットと言う、確保された中立性を持たないシステムが、社会に流通する情報のほとんどを、配信しているといってもよいと思うわけですが、そこに、「道理」や「法則」があるとは限らないわけですし、それらのシステム自体は、ほとんど何の審査機能も持たないわけですから、そこに、何らかの「正しい」があるとしても、それは何らかの既成概念のようなものだと言わざるを得ないわけなのです。

そんな中で、どうして『事実は曲げられない!』と言うのかと言えば、「事実」は、情報でも、それによる人の認識でもなく、厳然とそこに既にあるものだからなんですね。

つまり、操作された情報や、それに振り回された人の認識と言うのは、「事実」とは無関係のもので、「曲げられている」のは、「事実」ではなくて、人の認識や判断なわけです。


童話の「裸の王様」で、民衆の意識をコントロールして、『王様は素晴らしい衣装をお召しになっておられるぞ!』と言わせることはできても、『王様が裸だ』という「事実」は変えられないように、やっぱり「事実」は変えられないわけなのです。

そして、そこで王様の着てもいない服を褒めそやしている人たちは、実際に、見た服を褒めているわけでも、本当にそれを美しい服だと思っているわけでもなくて、と言うより、見ていないものを褒めることなどできるはずもないのですから、ただ単に、その場の流れに調子を合わせているだけで、彼らの中の「事実」も、本当は『王様は裸だ!!』なのだと思うわけです。

でも、このことを芸術の話に置き換えると、さらにおかしなことに成ると思うのです。

芸術においても、このような「曲げられた事実」ならぬ「曲げられた認識」は存在すると思いますけれど、芸術の目的自体が、何らかの意味で「真実」を追究することだとするのであれば、それは根底からおかしなことに成ってしまうわけです。

「事実」をより厳しく追及していって、「真実」に迫ろうとするのが芸術であると、私は思っておりますが、その芸術が、「事実」すら見ようとしないのであれば、そこに何の意味も無くなってしまうわけです。

王様が裸に見えたら、「王様は裸であるということ」が「事実」であり、その「事実」は曲げられません。

そして、表現においては、それについて、『王様は裸だ』と言うのが「事実を表現すること」なわけです。
だから、それも曲げることは出来ません。


ですから、「裸の王様」を見たときに、その衣装を褒めちぎっているような人を見かけたら、『でも、王様、服着てませんよね?』と言ってみてください。
それが、どんなに当たり前のことでも、それを言うと、きっと、非常にあからさまに嫌な顔をされます。

なぜなら、その人たちも「事実」を曲げることができないから。


私は、そういう風に判断しています。



芸術が社会現象の発端であると考える理由



私はこのブログの本題である「宣言文」の中で、「芸術」や「哲学」と言うのは、世の中に起きていることに対して、或は、これから世の中に起きることに対して、少なからぬ責任があって、芸術者や哲学者を名乗る者は、その責任を感じて、創作や探究に当たるべきであると言っているわけですけれど、それは、いささか「芸術」や「哲学」を偏重した見方なのではないのか?と思う方もおられるのかもしれません。

 ※「芸術者」:「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を含めて、「芸術者」と呼んでいます。

それは、それでもっともなことだとも思うわけですけれど、それでも、やはり私は「芸術」と「哲学」は社会で起きる現象の発端であると思いますし、また、そう考えるべきであるとも思ってしまうわけなのです。


ここで、はじめにお断りしておかねばならないのは、これは、決して芸術者や哲学者が預言者であるとか、偉大な芸術者(哲学者)は、世の中を先導するような力があるということが言いたいわけではないということです。

そういった、「芸術」や「哲学」を買い被ったようなことが言いたいのではなく、例えば、「食」に関わる人は当然のこととして、衛生面や、栄養面、それ以前に、安全性に対して責任があるわけです。
(個人的には、「味覚」に対する責任までもあると考えております)

いずれにしても、どんな業種にもそういった責任があるはずなわけです。

それと、同じ意味で「芸術」には「芸術」の、「哲学」には「哲学」の責任があるというようなことが言いたいわけですね。
ですから、このことは、ほかのどのような業種に対しても、転じて同じことが言えるのだと思っておりますが、たまたま、ここでは「芸術」の話をしていますので、このような言い方になっているというだけのことなわけです。

 ※ただし、「芸術」や「哲学」と言う分野は、「特別な自由」が与えられている分野で
  あるという意味では、ほかの分野以上にこの点に注意する必要があると思ってい
  ます。
  その「特別な自由」によって、「芸術」や「哲学」における責任が問われなくなって
  しまったり、そういう責任を感じていない人が居たりするのは確かなことだと思いま
  す。
  

それから、これは何も「偉大な芸術者」や「偉大な哲学者」に限ったことではなく、その対象となるのは、「芸術者」・「哲学者」を名乗る全ての者なのです。

つまり、『私なんか、そんな影響力などありませんから』というのは通用しないということです。


これは、「食」に関わる者の例を考えれば、当然だということがわかるでしょう。
『私なんか大した料理人ではないですから』という理由で、衛生面や安全性をナイガシロにすることが許されるわけがありませんよね。

それと同じことなわけですから、「芸術」だけが特別扱いされて当然というのが、むしろおかしいわけなのです。


さて、そこで、なぜ「芸術」と「哲学」が、社会現象の発端であるのかと言うことですけれど、そもそも「芸術」と「哲学」は、物事の本質を追究する分野であると考えておりますので、それら二つのジャンルと言うのは、今見えている「事実」や、起きている「現実」から、そこにある本質を見出して、それらの持っている「真の姿」を探究するために存在している分野だと思うわけです。

つまり、現在起きていることや、見えているものよりも、さらに「本当のこと」に近づいたものを、研究したり表現したりするための分野であるのだと思うわけです。

ですから、当然のこととして、その「本当のこと」が将来に、現実となって立ち現われてくるだろうというわけなのです。

そこで、また、『やっぱり預言者(先導者)だと言いたいんだ』ということが出て来るわけですが、そうではなくて、「真理」や「真実」などと言うもの自体が、形のあるものではないわけですから、追究するといっても、それは、そうそう達成されることは無いわけです。

実際には、「真理」や「真実」を〝追究しようとする者"が、「芸術者」であり「哲学者」なのだと思っておりますので、預言者のような「断定」は、できるはずがないのだと思うわけです。

 ※もちろん、私が「宣言文」の中で断定的に述べていることのように、これは、もう
  疑いの余地がないでしょうという場合もあるわけですが、それは、「芸術」や「哲
  学」の探求とは、また別のことだと思っています。

じゃあ、なぜ、そのあくまで予測にすぎない「本当のこと」が将来「現実」となっていくのかと言えば、それは、人々が「芸術者」や「哲学者」を、どこかで信頼しているからだと思うのです。

「美術家」が、これを美しいと言っているのならば、これが美しいのだろう。
「哲学者」が、これを「真理に近いことである」と言っているのだから、これは間違っていないのだろう。
と言った、信頼があるからこそ「美術家」が美しいと言ったものが、「美しい」ことに成っていき、「哲学者」が「真理」と言ったことが「真理」に成っていくのだと思います。

『そんないい加減な!』と言われれば、そうなのかも知れませんが、それが現実だと思います。
そして、この点においてだけ、「芸術」と「哲学」は、他の分野と違って、特別なのだと、私は思っています。

「芸術」と「哲学」は、ほかの分野とちがって、「真実」や「真理」と言う人間には直視できない領域を扱っていますから、その精度や正統性を確かめることはできないわけで、どうしても、「芸術者」が「芸術」だと言えば、それが「芸術」であるということに成ってしまうという性質があるわけです。

 ※この点については、『芸術の専門家が言っているんだから、それに従うべきだ!』
  とか、『哲学者は頭がよくて、たくさん勉強していて、高度な思考に達しているんだか
  ら、それを正しいとするべきだ!』と言うようなことではなく、当然、一般的な人も、「芸
  術者」や「哲学者」の言ったことに対して、批判したり、拒否したりする権利も自由も
  あると思います。
  (と言うか、その意見を発した時点からは、その人自身も「芸術者」であり、「哲学者」
  であるということに成るわけですが)
  それとは別に、実際に世の中が「芸術」と「哲学』の指し示した方向に動いて行ってし
  まうという事実があるということは否定できないということです。

このようなことによって、「芸術」と「哲学」が社会現象の発端になっていると、私は考えるわけなのです。

そして、上に述べたように「芸術者」や「哲学者」が言ったことが、そのまま通ってしまうという性質もあると思いますので、そこには、さらに重い責任を感じて、ことに当たるべきではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




人生で、回数が決まっていること



ある時、ふとしたことで思ったのですが、人生の中で、食事の回数はだいたい決まっているなと。
だとすると、一回美味しくない物や食べたくない物を食べると、結果的に、おいしいものを食べる回数が一回減ってしまうわけで、それを意識するようになってからは、私は極力、食べたくないものは食べないようにしているわけなのです。
(私はほとんど嫌いなモノがないので、これは「好き嫌い」の話ではありません)


でも、これはよくよく考えると食事に限らず、いろいろなことに言えているようにも思うわけです。

例えば、寝る回数や風呂に入る回数などかなりのことについて、回数がだいたい決まっているようにも思えるわけです。


私の場合は、食べ物に対する執着心が強いので、さほど美味しくもないものを仕方なく食べるところまではギリギリ我慢できても、それで美味しいものを食べる回数が一回分減ってしまうのだと思ったとたんに、それは、もう我慢できる範囲ではなくなってしまったわけですね。


今のところ、食事以外で、具体的にやっていることは無いのですけれど、このような考え方で、「その一回」を大事にできるようになっていければ、人生が充実していくのかもしれないですね。

私は、『いまさら充実しなくてもいいよ!』とは、まったく思わないので、生きている限りは、「その一回」を意識していくのだと思います。


そして、生きることの話から正反対の側に話は飛びますが、死ぬときには、いい死に方をしたいと思うのです。

どういうのがいい死に方なのかは、わかりません。


でも、回数だけはわかっています。

死ぬ回数は一回です。



輪廻転生という考え方もあるでしょうが、私は、「限られた時間」・「限られた回数」・「限られた分際」に閉じ込められた「限られた人生」を生きているという意識で考えております。


何度も生まれ変われると思ってしまうと、たぶん、私のような人間は『じゃあ、また次の機会に』となってしまうと思いますから。

実際、「限られた人生」の中でさえ、『まっ、それは、また明日』ということが多いし。


『はい、今やれることをやりましょう』

『できないことはできません』

と言う風に思っています。




「反対側の視点」を持つこと



芸術の創作に関して、何か一つの考えが頭の中にあるとき、その考えに捕らわれて「反対側の視点」が抜けてしまうことがあるわけです。

その時、その考えが大事なのであれば、「反対側の視点」なんて要らないのかもしれませんけれど、私は、「反対側の視点」を抜きに考え続けることはできないので、初めから「反対側の視点」を持つように心がけているわけなのです。


「反対側の視点」が抜けたまま考えたことが、その時は、とてもいいと思っていたのに、何かのきっかけで「反対側の視点」を持ってしまったとたんに、色褪せて、つまらないものにみえてくるということがよくあるので、なるべく、そういう風にしようと思っているということなのです。


これは何も創作に限ったことではなくて、他のことにも言えると思うのですけれど、「反対側の視点」が入り込んできた途端に色褪せてしまうものと言うのは、どうやら、はじめから、そんなに〝すばらしい"ものでもないような気がするのです。

ところが、実は、ほとんどの考えというのは、この「反対側の視点」から見た場合〝大したことない"気がしてくるわけで、『それじゃあ、何も考えられなくなってしまうじゃないか!?』という気もするのですけれど、反対側から見て〝つまらないな"と思ってしまうと、ほとんどの興味が失われてしまうので、『それなら、何も考えない方がマシなんじゃないの?』と思えてくるのです。


そんな中で、時として反対側から見ても、どこから見ても、『いいんじゃないの!』と思えるものがあれば、それこそ本物かなと思うわけです。

まぁ、それもどこかでは自分だけの勝手な思い込みなわけですけれど、芸術や創作に関しては、最後の所では自分が納得できていることは大事なんだと思うわけですね。


例えば、音楽などでも、聞いた瞬間に『おぉっ!』と言いうような曲でも、繰り返し聞いていると、なんとなく『はぁー・・・』というような感じの曲もあるし、何度聞いても、不思議なくらいに、毎回、『おぉっ!』となるような曲もあるわけで、そりゃあ、やっぱり毎回、『おぁっ!』の方がいいわけですよね。


それから、続けて聴いていると『ふぅー』みたいなのもありますけれど(要するに、ちょっと疲れる曲ってあるんですね)、でも、これは、音楽では〝あり"だと、個人的には思うのですけれど、 美術だと、これもちょっと〝ガッカリ"な感じなんですよね。


とりあえず、なるべくいろいろな視点をもって吟味して創作をしようと思っているわけです。

つまり、『はぁー』や『ふぅー』を先回りして排除して、『おぉっ!』にしようということですね。

でも、いつもうまくいくとは限りませんから、そうすることで、〝角が取れた平凡な"作品ができてくることは、そんなに悪いことだとは思いません。


私個人の意見ですが、〝トガッタ"作品と言うのは、実は、偶然に生まれているように思うのです。
少なくとも、それは〝ネラッテ"〝トガラセル"ものではないんじゃないのかなと。


もう少し正確に言えば、芸術作品は、本来すべて〝トガッテ"いるはずなわけで、〝平凡"などと言われたとしても、作者にしてみれば、一生懸命〝トギスマシタ"作品なわけですから、それ以上、やろうとするとわざとらしくなるのかなと。


そして、現在においては「平凡を恐れないこと」こそが、もっとも〝トガッタ"ことなのではないのかなと。


そんな風に思うわけなのです。




「人間のジェネレーション」と「時代のジェネレーション」



ジェネレーションと言うと、世代なわけですけれど、その世代とは何の世代なのでしょうか?
たいていの場合は、「人間の世代」を指して言うことが多いと思うのですけれど、時代そのものの世代を指していう「時代のジェネレーション」の場合もあると思うわけです。


それは、「時代の世代」という、ちょっと変な言い方になってしまうわけなのですけれど、それはともかくとして、「政治」や、「教育」などのような国家の成り行きを左右することについては、この「時代のジェネレーション」を念頭に置いて行ってほしいなと思っているわけです。


今の景気を上昇させることや、今の国際情勢に対処することも必要なのでしょうが、少なくとも〝百年"くらい先のことを考えて国家を運営していってほしいものだなと。

とにかく、政治家の人が≪次の選挙≫を目算に入れて、ものをしゃべっているなと感じる時ほど悲しく思うことは無いわけです。

その人の言っていることが、いくら理路整然としていて筋の通った立派なことでも、それが、先のことまで見込まれていることでなければ、「政治」としては全く意味をなさないようにも思われるわけです。


要するに、十年後までしか通じないようなことは、「政治」でなくとも、誰かがやるのではないですかと。

百年先のことを想定して実行するとなって、そこで、初めて「政治」と言う「権力」が必要になってくるように思うわけです。


現状において、「政治」の場で「権力」が乱用lされるケースが多いのは、「権力」をもてあましているからで、「権力」を行使するべき場が与えられれば、その乱用が少しは減るようにも思うわけです。
(『そんなことでへりゃーしねーよ!』と言うのが本当かも知れないですけど)


「権力」は乱用されるようになってしまう性質があるものだと思いますが、あまりにも判で押したように、与えられた「権力」が必ずや乱用されるというのは、やはり、その本来の「持って行き場」がないということにもよるのかなと。


少なくとも、国家的な同意のもとに、百年から数百年の「時代のジェネレーション」を想定して、「政治」や「教育」が行われたということは、おそらく過去になかったと思われるので、そういったことが、検討されるべき時代になっているように思うわけなのです。

でも、実際には時代のサイクルは短くなっていく一方で、今に追われているというのが現実でしょう。


これからは「政治」にも、主に現在に対処する「短期型の政治」と、主に未来のことに対処する「長期型の政治」が必要になってくるのかなと。


そんなことを、思ったりもします。



全てのものは、何かと何かのあいだにある:二つの間の張力を高めること



この世の中の全てのものは、何かと何かの中間にあるのだと思うわけです。

両極の間と言ってもいいし、上と下の間と言ってもいいし、良いと悪いの間と言っても言ってもいいわけですけれど、どんなものでも、一つの性質に徹底することはできなくて、それとは違う性質が混ざっていて、そういう中で、それらの性質の中間のどこかにあると言ってよいのだと思うのです。


芸術で言えば、「具象」と「抽象」や「立体」と「平面」また「純粋性」と「娯楽性」など、あらゆる形での対比があると思いますけれど、それらは、どれ一つをとっても、一極に徹底することはできなくて、必ず何かと何かの間にあるわけなのです。


「具象」と言って、どんなにリアリズムに徹したとしても、それが、〝現実"のものではなく作品なのであれば、そこには「非現実性」即ち「非具象性」があるわけで、言い換えれば、そこで「抽象性」を排除できないわけなのです。

もしも、そこで完全に「抽象性」を排除しようとすれば、「現実のもの」そのものに成るしかないわけですが、それは、もはや「作品」ではなくなってしまうわけで、「具象」とも言えなくなってしまうわけなのです。


もちろん、その逆の意味で、「抽象」にも同じことが言えるわけです。

「抽象」を極めようとすれば、現実を現す要素を排除していかざるを得ないわけですが、最終的に、何かを表現しようとする行為自体に含まれる「具象性」をも排除した段階で、「表現」に当たるものが何もなくなってしまいますから、やはりこれも「作品」としての体をなさなくなってしまうわけです。


結局どちらにしても、中間に留まるしかないということだと思うわけです。

一極に徹底するという試みが、まだ一通り行われていなかったときには、その都度、その時の最先端にある手法や表現形態が、「一方の極の最端部」であるように見えていたわけですが、現在では、それらの極限化はすべてが「無」に帰納してしまうことが見えて来たのだと思うのです。

つまり、「形のある絵」しかなかったときに「形のない絵」を描くと、それは、その時「抽象」の極限に見えますけれど、次に、画面を一色で塗りつぶした絵が出て来ると、「極限」は、そちらに移って行ってしまうわけです。

そうして、「極限」を追っていくと、必ず最後には「無」に行き着いてしまうわけです。


そして、現在は、それらの試みが一通り試されて、ようやく『極限を求めれば無になってしまう』という結論に到達したのだと思うのです。

ただ、この結論を「芸術」と言う分野が冷静に受け止めきれていないところがあると思うわけです。
そしてその結果、その結論は放置されたまま、あまり機能を果たしていないというのが現状ではないでしょうか?


実際には、現在追求すべきは、もはや、「極限」でもなければ、「具象」でも「抽象」でもなく、それらのどこであっても、常に全てのものが何かと何かの間にあるということを受け止めて、それを、よく知ったうえで、それらの二極の間の張力を高めることなのではないのでしょうか?


つまり、一方に突き進むのではなく、両方向に向かうテンションを高めて、その間にあるということに内在する力を高めてゆくことが、今できる範囲のことなのではないのかなと。


要するに、同じ中間にあるのでも、ただ漠然とそこにあるのではなく、目いっぱい力を注ぎ込んだ状態で、二つの力を拮抗させて、それでいて、どちらかに押し出されてしまわずに、中間に留まるというようなところかなと。


『言うは易し、行うは難し』
でも、「やろうとすること」は誰でもできるわけなのです。
どうすればいいのかわからなくても「やろうとすること」はできるのです。

それについては、『言うも易し、行うも易し』なわけです。


今日の所はそんな風に思うことにしておこう!


※張力と言う言葉にやや疑問があったので、そこのところを補う記事を次に書きました。
 そちらと合わせて一つの記事となっています。


全てのものは、何かと何かのあいだにある:圧力を高める



前の記事の続きです。


前の記事で、「張力を高める」と書いたのですけれど、これは、どちらかと言うと「圧力を高める」の方がシックリと来るかなと思ったので追記いたします。


つまり、二つの極に向かって広がっていくと言うよりは、むしろ、二つの中間の一点で、力を込めて圧縮するというような感じです。

「凝縮する」と言った方がいいかもしれません。
ただ、これはうまくいった場合ということでしょうね。


いずれにしても、両方向に向かう性質を持ちつつも、それらの要素を、その極に向かって引き離してしまうと、まとまりにくいので、二つの要素を、中間のある一点で圧縮して、一つのものとしてまとめるという感覚をもって考えております。

どうしても、要素を多く取り込んだ〝欲張った"やり方になりますから、まとまりにくいわけですが、それを何とかしようということなわけです。


そこで、やはり『言うは易し、行うは難し』なわけですけれども、なんとかやっていこうかなと。

そんな感じでやっております。




誰のことも、見捨ててはいけないと思うのです



人と言う生き物は、社会から見捨てられると生きて行けないと思うわけです。
だから、どんな人も見捨てられてはいけないと思うのです。


募金とか寄付と言うのがありますけれど、あれは、「金銭の施し」ではないと思うのです。
あれは、『あなたたちを見捨てていませんよ』と言うサインなのだと思うわけです。

そして、受ける側も「お金」を貰っているのではなく、『自分たちが社会から見捨てられていない』というアイデンティティを受け取るのだと思うわけなのです。


例えば、犯罪者でも裁かれることによって、『社会から見捨てられていない』という自己確認を与えられているという考え方もできるのだと思うのです。

だから、重い刑罰が科せられたとしても、無視されて放っておかれるよりは『見捨てられていない』と言えるのだと思います。


個人にできることと言うのは限られているわけですけれど、「見捨てられていい人」が居るのではなくて、犯罪常習者で反省の兆しもないというような「切り捨てざるを得ない人」が居るということなのでしょう。

彼らは、ある意味では「社会に必要な犠牲」でも在るのだと思います。


現代社会では「見捨てられている人」は、そういうわかり易い場合だけではなくて、一見普通で「見捨てられているように見えない人たち」の中にもいるので、そういう「見捨てられた人たち」を拾っていけるシステムがあれば、現代社会においては、救いになるのだと思います。


そういう人たちにアイデンティティを配布していけるような機構があれば、社会の機能も活性化するのではないかと思います。

それは、きっと経済政策などよりもはるかに効果的なのではないのかなと。


そんな風に感じています。




今も、日本人は「集団暗示」に陥ってませんか?



ハッキリ言って、日本人は、集団暗示にかかりやすいと思うのです。


第二次大戦中の話でよく聞くのが、『あの時は本気で、B29を竹槍で落とそうと思っていた』という話です。

「タケヤリ」ですよ。
「突いて」ですよ。
何千フィートとか届かないですよね。

また、『神の国である日本が、負けるわけないと思っていた』なんて言うのもあります。


そこにあるのは、理屈でも、理由でも、根拠でもなく、「集団暗示」なわけです。
要するに、いいようにコントロールされていたわけです。


ナチス時代のドイツや、現在の北朝鮮なども、皆同じだと思いますが、国全体が「集団暗示」にかかってしまっていて、『それ、間違ってますよ』と言う人が居なくなってしまうわけなのです。

でも、その点では、今の日本も「集団暗示」の真っ最中だと思うのです。
ただ単に、ナチスや北朝鮮と比べると、ややソフトかな?と言うだけだと思います。

『そんなバカな』と言うのは暗示にかかっているという証拠かもしれません。


実際、軍国主義の時代「大本営発表」や「教育勅語」で、人の意識がコントロールされたように、今も、新聞やマスコミで流れる情報を、操作するコツを上手く使えば、人心は、いとも簡単にコントロールされるという風に感じます。

事実、新聞や本に書いてあることと違うことを言うと、ほとんどの人が、強い反発とともに、『そんないい加減なことを言うもんじゃない!!』と言う反応を返してきます。

そして、そこには、理屈も、理由も、根拠もなくて、ただただ、「新聞や本に書いてあるから」や「ニュースで言っているから」なわけです。

こうなればもう、「新聞に書かせさえすれば」、「ニュースで流しさえすれば」なわけです。



実際、ここ数代の総理大臣で、人気があった人と人気がなかった人の差は、マスコミを上手く使った人と、それができなかった人の差しかないわけで、政策や、外交での成果なんて大した差はないようにしか思えないわけです。

『そんなこと新聞に書いてない』でしょうが、事実だと思います。


簡単にコントロールできる状態の国民が居れば、誰かがコントロールしようとするに決まっているわけです。

そして、ここが一番始末の悪い所なわけですけれど、実は、コントロールしている側の人たちも、「集団暗示」にかかっているようなのです。

おそらく、ナチスという「集団暗示」に最も強くかかっていたのは、ヒトラー本人だったのではないでしょうか?
だから歯止めが利かなくなるわけです。


日本人も、どちらかと言うと「集団暗示」にかかりやすい民族特性を持っているように思うわけです。
だから、それなりに注意が必要なのではないのかと思うわけですね。


少なくとも、現在、理由や根拠と無関係にまかり通っている「正しい」や「間違い」が非常に増えているように思うので(と言っても、いつの時代にもありますけどね)、自分が「集団暗示」にかかっていないかと再確認してみる必要があるのかなと。


「~で言っているから」という以外の理由がないことは、ほとんど疑ってみた方がいいと思いますね。

そこで残ったものが本当のことだと思います。
たぶん、ほとんど何も残らないはずです。


「新聞や本を読んでいないとわからないこと」はどうでもいいことで、
「新聞や本を読んでいなくてもわかるようなこと」が本当のことなのかなと。
(こういう話で、「本」を同列に扱うと反対する方も多いでしょうが、
 「本」も盲信すれば危険であることに何ら変わりはないものだと思います)

そして、「本当のこと」は、それぐらいで十分なんじゃないかと思うのです。


そして、そう思うことで「集団暗示」から抜けられるのではないのかなと。

そんな風に考えています。





「前向き」は現世利益の宗教と同じでは?



現在、「前向きに生きること」は、ほぼ全面的に肯定されているわけですけれど、これは、構造的には、ほとんど「現世利益」を謳った宗教と変わらないと思うわけです。


つまり、「前向きに生きること」で『こんなにいいことがありますよ』と言っているわけで、『お賽銭を入れる』と、『何かきっとご利益がありますよ』と言うのと、あまり違わないわけです。


実際は、「宗教」も「前向き」も、高い見識をもって、言っている人もいるのだと思います。
でも、大多数の人は、どこか現世利益的なのではないのでしょうか?

それは、当然のことだと思いますし、それら大多数の人たちが指向するところこそ、それらの本質であるとも言えるのではないでしょうか?


「前向き」と「宗教」の中間的な位置に「スピリチュアル」と言うのがありますが、こちらは、「来世でいいことがある」という感じでしょうか?



私は、「前向き」も「スピリチュアル」も流行だと思いますが、どちらも、頼れなくなってきた宗教の代わりに現れてきているのだと思うわけです。

もともと、宗教からして、そうだと思うのですけれど、清く、正しく、前向きに生きてさえいれば、いいことがあるのならば、たぶん、宗教も「前向き」も「スピリチュアル」も必要ないと思うわけです。


そう成らないからこそ、それらの「ポジティブ・シンキング」が必要になってくるんだと思うわけです。

少なくとも「霊が見える」とか「オーラが見える」とかいう人じゃなくて、ごく一般的な人にとっては、そういうことだと思うのです。


もちろん、そういう「清く、正しく、前向きな」が悪いということは無いわけで、むしろ、とてもいいことだと思うわけですけれど、 宗教や「前向き」や「スピリチュアル」だと、少しイメージが先行しすぎるように感じてしまうわけなのです。

見栄えのいい切り口だけ見えて、そうでないところが見えなくなってしまうような、そんな感じを受けるわけです。


これらのことで、「現世利益」を期待しながらも、「浄化」されたような、「得」を積んだかのような、印象を持つのは、私は、ちょっと違うのじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


実際には、「浄化」や「得」の方は、『それによって、むしろひどい目にあってもそれをやりますか?』ということな筈で、それは「現世利益」とは相反しているわけです。


結局、『これをやるといいことがありますよ』は「流行止まり」な感じがするわけです。

『これをやって、痛い目にあってもやりますか?』
『ええ、それで、今、このドブのような環境で、瀕死の状態で一応生きています。』と言うのが本当だと思います。


そういう人が、そう簡単に増えることは無いのでしょうが、そんな人が増えれば、きっと世の中少しは良くなるのでしょう。

これだけ、『自称「前向き」に生きている人』がふえて、これだけ、神社にお参りに行く人が増えているのに、あまり世の中、良くなってない感じもするんですよね。


そういう人たちの周りだけ、雨が降らないということなんでしょうか?


そんな感じが、私は消せません。


※すいません、「宗教」や「スピリチュアル」を否定しているわけではありません。
 崇高な考えに基づいてそういうことをやっている意図もたくさんいるんだと思います。
 ただ、社会現象として見た場合、そういう次元でやっている人は少ないように見えて
 しまうということです。







「ポジティブ」過ぎなんじゃないでしょうか?



このブログでは、何度か繰り返し言ってきていることなのですけれど、現在の日本では、「ネガティブ」であることが忌避され過ぎていると思うわけです。

でも、だからと言って「ポジティブ」が悪いというつもりは、まったくないわけなのです。


と言うよりも、私自身どちらかと言えば「ポジティブ」側でもあるわけです。
ですから、「ポジティブ」であることは、いいことだと思っていますし、「ネガティブ」を全面的に肯定すべきだとも思わないんですね。


そこで、この「ポジティブ」と「ネガティブ」を「ポジティブ」の側から見ると、「前向き」で、「肯定的」でと、いいことが多いわけですが、それでも、やっぱりマイナス面もあって、その中でも決定的なのは、「批判力」を持たないということでしょう。

そして、さらには「批判精神」自体を打ち消してしまうような作用も持っているように思うのです。
(「批判」をも含めて「ポジティブ」に捉えるということを言ってしまうと、なんでも「ポジティブ」に成ってしまって、
「ポジティブ」という言葉自体が成り立たなくなってしまうので、これは無しでしょう。)

「批判精神」を失うということは「進歩」しなくなるということです。
「前を向いて」いても、その場で足踏みしていたのでは、「ポジティブ」とは言えないでしょう。
少なくとも、いま日本で言われている「ポジティブ」には当てはまらないでしょう。

 ※ここで言う「進歩」とは、「絶対的な意味での良くなること」ではなく、「変化」に
  近い意味です。
  すべての物事は「変化」せずにいることはないと思いますので、その「変化」を
  受け入れることが「進歩」なんだと思います。


「肯定的」ということは「現状肯定」をも意味します。

「進歩」や「展開」は「現状否定」から生まれます。


現在、恵まれた立場にある者が、「現状肯定」を支持するのは、ある意味当然のことですが、それを「ポジティブ」とは言わないでしょう。

それは「保守的」なことであり、「保守的」なことは、正当な権利の範囲で行われる限り、何も悪いことだとは思いませんが、でも、やはり、まったくもって「ポジティブ」なことではないと言わざるを得ないのであります。


つまり、現在の日本で使われている「ポジティブ」は、「肯定的」と「進歩」と言う二つの意味を、両立させるべき言葉であるように思われますが、この二つには背反的な面が多分にあるということでしょう。


こうなってくると「ポジティブ」の設定自体が、怪しくなって来るわけです。

要するに、表と裏の両面がないと全てのものが成り立たないというのと同じで、「ポジティブ」と「ネガティブ」も両方あってこそ成り立っているのだと思うわけです。

そこで、どうしても、「ポジティブ」は無条件に「OK」で、「ネガティブ」は全て「NO」という、今の日本の状況が〝行き過ぎ"と感じてしまうわけなのです。


私に言わせていただけるのならば、現在の状況は明らかに〝行き過ぎ"で、「ポジティブ信仰」と言ってもいいように感じてしまうわけですが、時として滑稽なほどの〝行き過ぎ"が、全面的にまかり通ってしまっているわけなのです。


これでは、「前向き」で素晴らしい「ポジティブ」の裏側に回ってみたら、中身はカラッポだったということに成りかねないし、現に、そういうことが日に日に増えてきてもいるように思われるわけなのです。

この状況を打開するには、現在「ポジティブ」を支持している側の人が、その〝オカシサ"を感じたときに、『「ポジティブ」であるべき』とか、『「ネガティブ」は避けるべき』という考えに捕らわれずに、今よりも、積極的に「ネガティブ」を取り入れていく以外にないのだと思うわけです。

つまり、見栄えのいい「ポジティブ」に、地味な「裏付け」を与えていく作業が、必要になってくるのだと思うわけです。


そして、そういう作業を行ってみると、現状の「ポジティブ」の中に「裏付け」のしようが無いようなもの、言い換えれば「実体の無いポジティブ」が、いかに多いかに気が付くのではないのかなと。


そんな風に、思ってしまうわけなのです。



「画面をコントロールすること」と「偶発性に任せること」



絵を描くときに、技術によって画面をコントロールしようとするタイプの描き方と、ある程度(または全面的に)偶発的に現れてくる効果を大事にしていこうというタイプの描き方があると思うわけです。


私の場合は、画面を常に把握していたいという気持ちはあるのですが、それは、感性の部分だけで技術によってコントロールすることには、それほど興味が行きません。
(まったく興味が無いということでもないですけれど)

また、制作の過程が進んでいくと、だんだん偶発性に任せる部分の方が多くなっていくわけなのです。
(普通は逆なのかも知れませんけど)


絵が形になってくると、その路線でまとめようとする気持ちが出てきてしまうので、その線を崩して、新たな局面を展開したくなるのだと思います。

そうやって新しい局面を加えて行った分だけ、絵に〝深さ"が出ると思っているわけです。

それから、技術で画面をコントロールできたときの「うれしさ」と、偶発的な効果が、自分の想像を超えて現れたときの「うれしさ」は、質が違うのかもしれませんが、私の場合、自力で達成した「うれしさ」よりも、自分の力とはいい難い面もある、偶然の効果による「うれしさ」のほうが、「うれしさ」が上回っていることが多いようです。

だから、どうしてもそちらに近よって行ってしまうのかも知れません。


技術的な満足感と言うのは、どうも「自己満足」のような気がしてくるのです。

反面、偶然現れた効果に直面すると、自分の作品であることとは無関係に、「うれしく」なってしまうわけなのです。


まぁ、『それも一種の自己満足だろ』と言われればそうなのでしょうが、『自分でやった』感じが薄いので、あまり気にせずにいられるわけです。


私の中では、この偶発的な「うれしさ」の方が「感動」に近いような気がしています。
つまり、「感動」とは、何かに〝直面すること"なのかもしれないなと。


こういうことに、いまさら気が付くとは、今までは何を描こうとしていたのかと。


そんな風に感じています。




「直面すること」で感動します



前の記事の続きになります。


私の場合、技術的な絵よりも偶発的な効果が現れた絵の方に『感動してしまう』ということを、前の記事で書いたわけですね。


その「感動」が、どこからどういう理由でやってくるのかはよくわかりませんけれど、一つ言えることは、『自分の実力で達成した』という感じが希薄なので、自分の作品でも、どこか100%自分のものでないような、つまり、客観的な視点で、見ることができるということかなと。

だから、今自分が描いている絵であるのにもかかわらず、なにか「自然物」や「惹きつけられる景色」や「空気のようなもの」など、
いろいろな「直面するもの」や「出くわすもの」と同じような感覚で、「直面」したり「出くわし」たりする感じがするわけです。


前は、それも含めて自分でやっていることにしようとしてしまっていたように思いますが、今は、そういう作為から少し離れることが出来ているんだと思っています。
(自分でやってはいるんですけどね)

そして、そういう無作為に「直面したもの」や「出くわしたもの」の中から、自分が、より惹きつけられるものを選んで並べていくような感覚で絵を描いているわけです。

ですから、できた絵を見ていても、『この絵の、ここがいいなぁ』とか、『この部分は、なんでこんなに良くなったんだろう』などと、とても素直に言えるように思うわけなのです。


そして、それが自分では、まったくもって「自画自賛」という感覚がないわけですよね。人から見れば、典型的な「自画自賛」であっても、少なくとも、自分の中には、それがないということが、私にしてみれば、とても驚くべきことなので、とてもやりやすいという感じがするわけなのです。


そんなわけで、『いま、「直面すること」で感動しております』
しばらくの間、「直面すること」で行きたいなと。


そういう風に思っています。





「直面すること」と「予定調和ということ」



これも、さらに前の記事の続きです。


私は「直面すること」に感動している自分に、いまさらながらに気が付いたわけですが、その「直面すること」とは、いったい何なのかと考えるわけです。


それは、おそらく「予期せぬ出会い」のような、先入観や、予備知識や固定観念のような「お膳立て」に成るものがない状態で、頭の中に、ダイレクトな感じで〝パンッ"と入って来たものとの出会いなのかなと。

技術を駆使した絵と言うのは、どうしても「お膳立て」の部分が多くなるので、「直面すること」から遠く感じてしまうのかも知れません。

だからと言って、技術的な絵がダメだとか嫌いだというつもりはありません。
ただ、技術の中に垣間見える「直面すること」の部分に、より惹きつけられるということです。


それはともかくとして、「直面すること」の対極にあるものとして、「予定調和」と言うのがあると思うわけです。
つまり、「お膳立て」の部分がほとんどで、「予期せぬ」の部分が少ないものということですね。


「お膳立て」と「予期せぬ」の比率が、どれぐらいからが「直面すること」で、どれぐらいまでが「予定調和」なのかは、それぞれの人の感覚によると思いますが、どんなものにもこの両面があって、その比率が違うだけなんだと思います。


私は、美術館で絵を見た時などではなくて、美術雑誌でも何でもない普通の雑誌に、たまたま出ていた絵とか、街を歩いている時にたまたま目に入った広告の絵柄なんかに、〝グッ"と惹きつけられることがよくあリます。

こういう人って、意外とたくさん居るんじゃないかなと思っているのですが、どうなんでしょう?


美術館に美術を見に行くというのは、どうしても「予定調和」になってしまうと思うわけです。
好きな作家の作品を、「楽しみにして」見に行くわけですから、完全に「お膳立て」ができているわけです。

時間が余ったから暇つぶしのつもりで入った美術展や映画などが、『それが、意外と良くってね』と言う話はよく聞くと思うのですが、
そういうのは、ただ単に『期待してなかったからハードルが低くなった』と言うだけではなくて、「直面すること」に依って起きていることなのかもしれません。

ただし、それがただの「出会いがしら」であるのかどうかは、また、別の話だとも思いますが。

少なくとも、「直面すること」には何らかのインパクトがあるのかなと。


それから、人が何かをを好きになる「きっかけ」というのも、 意外とこの「直面すること」に出くわしていることが多いのではないのかなと。


なんの気なしに見た何かに、いきなり魅了されてしまって、それ以来、それが大好きになったということも多いのかなと。

ただ、無意識の状態で〝パンッ"と入ってしまうので、それが「直面すること」であることに気が付かないことが多いんじゃないでしょうか。


「直面すること」=「感動」ではないのだと思いますけれど、「直面すること」が「感動」の一つの重要な要素だということはあるのかなと。


今のところ、そんな風に思っています。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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