FC2ブログ

「具象」と「抽象」の融合



「抽象」という概念はかなり昔からあったのでしょうが、その概念が芸術上の理念として確立されて、明確な方向性を与えられるようになったのは、20世紀に入ってからなのでしょう。

以来、それは、常に「具象」と対立または対比するものとして、考えられてきたと言えると思うのです。

でも、その対立や対比には意味がなくなってきていて、この二つを圧縮して融合させることが求められて来ているように思うわけなのです。


これまでにも、多くの作家がこの二つの「極」を両立させることを試みてきたと思いますけれど、それは常に、「二極」の「対立」や「対比」という形をとっていたように思うわけです。

でも、実際には、この二つは初めから両立していたのだと思うわけです。

そもそも、この二つが両方揃っていなければ、芸術表現は成り立たないはずなわけで、「完全な具象」も、「完全な抽象」も有り得ないと思うのです。


既に両立しているのに何が問題なのかと言えば、それは、「二極」が融合・圧縮・凝縮されていないことだと考えるわけです。


「抽象」という概念が、はっきりと認識された20世紀初頭において、それは、既成の芸術を打ち破るものとしての期待が大きかったためか、あまりにも突出した理念構造を与えられてしまったという側面があるのだと思うわけです。

つまり、「二極」の片方が突出してしまったために、もう片方も「極」をなす方向でしか存在できなくなり、結果的に、「二極」の対立という構造ができてしまったのかなと。

そこで、両立を目指している場合であっても、常に、この対立を軸にした考え方が付きまとってしまったのかなと。


今までは、この二つのどちらかに「極化」するか、二つを「対比」させるか、二つの中間に位置をとって、「中庸化」するか、これらのいずれかしかなかったように思います。

私は、ここで「二極」を圧縮することを考えているんですね。
この二つを、力を込めて圧縮して融合・凝縮しようということです。


この圧縮に必要になってくるのが、「額」なわけです。
「額」と言うよりは、「枠」と言った方がいいのかもしれません。

この「枠」と作品を折り重ねていくことで、「二極」を融合しようとしているわけなのです。
「額」や「枠」を「ツナギ」にして「二極」を圧縮して一体化させようということです。


まだ、納得のいくものができたとは言えないですし、手探りな部分がほとんどなので、遅々として進みませんから、常に、「現状不満足」な状態です。

時々、『こんなんでいいのか?』と極端に不安にもなります。


でも、手ごたえはあると感じています。
何時かは、納得できるものができると確信しています。
何時かはわかりません。


と、こんな感じで御座います。



「芸術」は「自己満足」なのか?ということ



芸術表現や創作することについて、『そういうのは、所詮自己満足だろ』と言うことがよくあるわけです。
第三者が言うことよりも、作者本人が言っていることの方が多いように思います。

そして、私もよく言っていたと思います。


でも、本当は、「自己満足」なんかじゃないと思うわけです。
本当に「自己満足」だと思っていてやっているわけではなくて、どこかで、自分以外の人にも〝伝えたい"いや、〝伝わってほしい"と思ってやっているのだと思うのです。

それから、人から見たら、まずもってわからないような「小さなコダワリ」についても、『こういうのって、自己満足だよな』と思ってはいるわけですけれど、やっぱり、何かそこから伝わるものもあるのではないかと思っているからこそ、そういう人から見たらどうでもいいようなことに、『そんなことに、そんなに時間かけてるんですか?』と言われるようなことをやっているわけです。


そして、また、実際にも、人が心血を注いで作り上げたものが、一人の人にも伝わらないなどということは、どう考えてもあり得ないとも思うわけです。


だから、もう、『自己満足なんですよ』なんて言わなくてもいいと思うのです。

私は最近になって、この「照れ隠し」とも言える「小さな弁解」を、なるべくしないようにしています。


それは、なぜかと言えば、自己表現において、どんなに小さなことにこだわりを持とうと、人から見てどんなにくだらないことであろうと、それに対する「弁解」や「照れ隠し」は必要ないということを、一段と強く思うようになってきたからです。

と言うよりも、むしろ、『表現しようとする者の責任として、言うべきではないのではないか?』と思うようになってきたということかもしれません。


有名な作家であれば、「自己満足」だといっても「謙遜」としかとられないわけですし、聞いた相手も、『そうですか。自己満足なんですね』なんて言わないでしょうから、それを言うことに、あまり意味はないと思います。

でも、有名でない者が、それを言ってしまうと、『そうだよね。売れないものを時間をかけて作って、本当に自己満足だよね』と思われてしまうでしょう。

そして、『やっぱり、自分のやっていることが恥ずかしいから照れ隠しをするんだろう』とか、『立派な、売れるような作品が、作れないから弁解しているのだろう』ということを自ら認めることに成ってしまうわけです。

私自身が「自己満足」と言っていたときには、そういう弁解的な気持ちがかなり入っていたと思います。


でも、そういうことで、自分だけでなくの全ての無名の創作者達についても、それを認めることに成ってしまうわけなのです。

ですから、私はできるだけ「自己満足」と言うのを避けるようにしたわけです。
(まだ、習慣的に使ってしまうことがありますが)


そして、だからこそ、「本当の自己満足」の制作はしないようにしようと、『自己満足などではありません』と言い切れるものだけを創っていこうと思うわけなのです。




芸術における「完成度」とは?



芸術作品においては、その「完成度」によって評価が下されることが多いと思うわけです。
それが間違いだとは思わないのですけれど、果たして可能なことなのかなと。


現代の芸術が、多様な方向性を持っているということは、誰もが認めざるを得ないことに成っていると思うわけです。

それは、一人に一つの方向性が認められている状態と言えるでしょう。


その前提で言うとすれば、そこで言う「完成度」とは、一人に一つの「完成」を想定した「完成度」ということに成るわけです。
つまり、全ての作家の「完成度」は、それぞれ〝唯我独尊"のもので、比べるものは無いということです。

だとすれば、その「完成度」の「度」とは、何なのでしょう。
比較するものが無い状態で、「度合」を計ることはできるのでしょうか?
また、できたとしても、それに意味があるのでしょうか?

例えば、写実画を目指している人が二人いて、片方の人の絵が〝リアリティ"で上回っていれば、一見「完成度」が高いと思えるわけです。

ところが、一人に一つの多様性が認められている現代においては、もう一人の人の絵が、「敢えて〝リアリティ"をそこで止めたのかも知れない」ということも考えて判断しなければならないわけです。

そうなると、その人にとっては、そこが頂点なわけで、もう一人の人の絵と「完成度」で比べることはできなくなるわけです。


もちろん、そういう方向性の違いを包括した「完成度」と言うものもあるとは思うわけですが、それを、人が判断すれば、相当あやふやな結果が出てきてしまうのではないのかなと。

そしてさらに言えば、明確な指標が無いわけですから、その時の流行や、周りの状況に大きく左右されてしまうわけです。


だから、現代の芸術においては、「完成度」によって評価を下すことには、かなり慎重になるべきなのではないのかなと。
というよりも、芸術作品に対して公的な評価を下すということ自体に意味がなくなりつつあるのかなと。


作家において、一人に一つの方向性が許されたのであれば、鑑賞者においても、一人に一つの視点が発生しているはずなわけで、その視点もまた、〝唯我独尊"であるはずなのです。

それは、短絡的な〝好き嫌い"だけの判断とはちょっと違うのじゃないのかなと。


そんな〝唯我独尊"の視点で見れば、きっと、流行とは無関係の〝何か"に出会えるように思うのです。

そして、芸術というものが、今ほど偏った範囲の視界で捉えられることがなくなり、本当の意味で「芸術の多様化」が実現されるのではないのかなと。


そんな、希望をもっているんですが、現実はそういう感じでもなく、でも、思うだけならタダだから、『まぁ、いいか』と、いま思ったところです。




「著作権」は守ってくれない!



「著作権」と言うものが、創作者の権利を守っているということに成っているわけですけれど、これは、少し違うように思うわけです。
要するに、「著作権」が「創作者」の間に極端な格差を生み出してしまっているということですね。



例えば、現在、プロスポーツの世界などを見ても、一部の選手の報酬が度を越して高額に成ることで、そのスポーツの世界全体の首を絞めることに成ってしまうということが、起きて来ているわけです。

つまり、トップに居るプレーヤーと、その下の者との差があまりに激しいと、結果的に、その世界全体の潜在力を低下させてしまうのかなと。

実際、報酬とは無関係のアマチュア・リーグやプロチームの下部組織のクラブチームなどが充実している場合に、そのスポーツの潜在力は高まるように思えます。

スポーツの話と、創作に関する「著作権」は一緒ではないと思いますが、「著作権」もこうした極端な不均衡を作り出してしまう傾向があるように思うわけです。


つまり、現実には、「著作権」によって守られるのは「売れる物」だけであって、「売れない物」は全く守られてなどいないわけです。

これを言うと「負け犬の遠吠え」と取られるかもしれませんけれど、創作にしてもスポーツにしても「金になる物」と「金にならない物」の比率が、かなり偏っていることは間違いないわけで、例えば、1:100(それ以上?)みたいな極端な比率になっているわけです。

その「100」を切り捨てて、「1」だけを守っているものを、その世界全体を守っているかのように言うのは、「看板に偽りあり」なのではないのかなと。


当然、みんな必死で、「1」の方に入ろうとするわけですけれど、本当は、自分が持っているものを何かの形にして表したいという気持ちでやっていることで、「1」に成るためにやっているわけではないように思うわけです。

ですから、「著作権」など「売れる物」だけを守る「権」ではなく、底辺に居る創作者を守るような「権」があればいいのになと、そんな風に思ってしまうわけなのです。


現在、義務教育において、「美術」や「音楽」、「文学」など創作に関わる教育を、ある意味で強制的に与えられているわけですから、国民全員が「創作の種」を蒔かれているわけですよね。

そうなると、創作を志望する者(芽を出す者)が、たくさん出て来るのは当然の結果なわけですよね。
それなのに、それに対する受け皿がないわけです。

その結果が1:100なわけです。
そして「1」の方だけしか守られないわけです。

私個人の考えですが、「著作権」などいらないから、「経済」とは無関係な「創作できる環境」と「表現できる環境」がもっと増えればいいなと、そして、それは創作者だけでなく、みんな(鑑賞者も含めて)にとって、なんとなくいいことのような気もするかなと。


そんな風に思っています。



「人間性の芸術」



芸術表現に必要不可欠なものとは何でしょうか?


人それぞれに、考えるところがあると思いますけれど、私は、「具象」・「抽象」・「人間性」の三つだと思っております。

「具象」は表現力であります。
「抽象」は精神性であります。
そして、「人間性」は、その精神性の中でも最も〝芸術であること"そのものであり、また、人間にとって最も具体的なことでもあるわけなのです。

つまり、「具象」と「抽象」の「二極」をまとめて〝力と形"を与える核となるものが「人間性」だと思うわけですね。

要するに、人間であることこそが人間にとっての真実であって、それは、正しく「芸術の中心」でもあるわけです。


私は、〝人間であること"を抜きに〝芸術であること"はあり得ないと思っています。
ですから「人間性」を無視した芸術と言うのは、私には考えられないわけなのです。


でも、これは芸術に限ったことでもなくて、他のどんなことでも「人間性」を無視したものと言うのは、私にしてみれば論外なわけです。


例えば「ナニカが出来る」と言うと、イイコトだということに成っていますが、そこに「人間性」が伴わないと、それはマイナスとしか思えないわけです。

なんでもそうですが、「人間性」を伴わないようなものに価値を認めるというのは、滑稽な事のようにしか思えないわけです。
なぜなら、全て人間がやっているわけですから、「人間」を重視しないようなものが「良い」ハズがないわけです。


現在、とくに「仕事環境」において、「人間性」を軽視する傾向があるようですけれど、それは全く無意味なことだと思うのです。

そういう時に、「人間性」を踏みにじってまで選択されているのは、たいてい、「効率」や「能力」と言ったものだと思いますが、いちばん〝バカバカしい"のは、「人間性」を伴わない「効率」・「能力」こそが、もっとも、全体の「効率」・「能力」を低下させているということでしょう。

100年以上前ならば、それにも意味があったのかもしれませんが、現代においては、それらの単純な「効率」・「能力」は、全部機械がやってしまうでしょう。

要するに、そうした「効率」・「能力」は、単純作業において重要な要素であって、内容が奥深くなるほど、切り捨てられていくべきものなわけです。

現代においては、それらの「効率」・「能力」の切り捨てられる部分を、如何に最小限にとどめるかが重要なわけで、人間がそういう作業を行う際には、「人間性」が不可欠となるわけです。

この「効率」や「能力」を芸術の創作に置き換えて言うのであれば、「技術」がこれに当たるでしょう。

「技術」も、その技法が確立される以前であれば、意味があったのだと思いますけれど、既に確立された技術と言うのは、単なる手段としての意味しか持たなくなってしまうわけで、それを目的とすることには、意味がないと言わざるを得ないわけです。


話が逸れてしまいましたが、こういったことも含めて、人間にとっての真実が、〝人間であること"なわけで、その真実を現すことこそが、芸術の中心であると考えるわけなのです。


ですから、「具象」も「抽象」も言ってみれば手段に過ぎず、「人間性」こそが芸術の本質であるとも言えると思うわけなのです。

少なくとも現在において、わたしは、そんな風に思っております。



人は教えられたことしかしない



人間という生き物は自分で考えて行動しているようでいて、実は、人に教え込まれたことしかしようとしないものだと思うのです。


自分のことも含めてですけれど、子供の時に教え込まれたことと違うことをするのには、かなり抵抗があったりするわけです。

これ自体は、そんなに悪いことだとは思いません。

例えば、人が極端に逸脱した行動に走らずにいられるのも、純粋な道徳心や正義感からと言うよりも、ただ単に、教えられたことに従って行動しているからということが多いと思うわけです。
と言うよりも、むしろ、それに逆らうことができないからといった方がいいのかもしれません。

ただ、これは動物にも同じようなことが言えるわけで、動物もまた、親に教えられたことをやっていたりするわけです。

それから、遺伝的な習性として受け継がれている行動なども、これと似たようなものなのでしょう。


でも、人間は、もうそろそろ、その状態から脱して、自分の考えを以って行動するような習性を、身に着けるときが来ているように思うわけです。

もちろん、何も教えられずにゼロからすべて自分の考えで行動することはできないと思いますが、教えられたことを基盤にして、独自の考えを加えたのちに行動に移すということです。

『そんなことは、皆やっていることだろう』と言う人もいるかもしれませんが、実際には、この部分で人間は他の動物とさほど変わっていないように思うのです。

人間の行動が他の動物と違って見えるのは、その「教えられること」が複雑だからであって、一人一人が、独自の考えで行動しているからではないように思われるわけです。

そして、その複雑な「教えられること」とは、ごく一部の”自分で考えた人たち”が、考え出したり、見つけ出したことなんだと思うわけです。

要するに、「考え出す側の人」と「教え込まれる側の人」が、くっきりと分かれてしまっているように見えるわけですね。


もちろん、全ての人が研究者や発明家に成る必要はないわけですから、社会にとっては、それでもいいのかもしれませんが、そういう社会の効率とか、道徳と言った話ではなく、どちらかと言うと、生物とか動物としての人間が、いま、そのような位置に来ているように思うわけです。

つまり、「考え出す側の人」と言うのは、人類の進化の過程において、ほんの少し早く体毛が薄くなった個体や、いち早く直立に近い形で歩行できるようになった個体と同じように、”単なる先駆け”に過ぎないのだと思うわけです。

そして今、人間は「考える習性」を身に着けることができるような位置に来ているのではないのかなと。

言ってみれば、もっと人間全体が「考え出す側の人」になってもいいような気がするわけです。

それから、もう一つ、時代のスピードが加速度的に増している現在、過去に「考え出されたこと」では、時代に追いつけなくなってきているわけです。

もはや、”特別な人”が「考え出したこと」を”普通の人”に「教え込んで」いたのでは、時代に間に合わなくなってきているわけです。
要するに、覚えているうちに「時代遅れ」に成ってしまうわけですね。


そういう意味でも、「教えられたこと」しかしようとしないという習慣から抜け出していかなければ、時代に振り回されるだけなのかなと。

現に、今の社会にはそれに当てはまることが増えているようですし、「教えられたこと」に何か一つでも自分なりの見解を加えてから行動にできればいいのかなと。

そんな風に考えたりもしています。

『まぁ、自分は出来ないですけどね』




「芸術を見つけ出すこと」



20世紀以降の美術においては、「芸術」と無関係なものでも「芸術の場」に持ち込むことで、そこに芸術性が生じるという考え方があるわけです。


作品の中に、「芸術」とは思えないような、言ってみれば「非芸術的」な”何か”を取り込むという考え方も含めれば、20世紀半ば以降の先進的な芸術分野においては、こういう考え方が主流であったと言ってもいいように思います。

こういった考え方において、追究されていたのは「芸術」を”見つけ出すこと”だと思うのです。

つまり、それまでは「芸術」は「創り出すもの」だと思われていたわけですが、
それを、”見つけ出すこと”にこそ価値があると考えたわけなのでしょう。


そして、その”見つけ出す”作業も「一種の創作」であるという拡大解釈が、認められてきたわけです。

でも、私は、「芸術」を”見つけ出すこと”だけだと、それは鑑賞者における、「芸術性」なのではないかと思うわけです。


創作者は”見つけ出した”ものの中の「芸術」をさらに加工して、「芸術性」を高めたり濃縮したりして、作品とするべきなのではないのかなと。
そして、その作業こそが「創作」に当たるものなのではないのかなと考えるわけです。


それに、もし「芸術」でないものの中に「芸術」を”見つけ出した”のならば、

それは「芸術でないということ」に「芸術的であるということ」が”見つけ出された”わけで、それを「芸術の場」に持ち込んでしまっては、全く意味がなくなってしまうわけです。

それでも、『いやいや、それは始めから「芸術」だったのではなく、「芸術の場」に持ち出されたことによって「芸術」と成り得たのだ。』と言う”ヘリクツ”(悪い意味ではなくて)は成り立つと思いますけれど、それは、あくまで「芸術の断片」であり、その「芸術のカケラ」をもって、「芸術」と呼んでしまっていいものなのか?と思うわけです。

私といたしましては、常道や常識から外れたところに”何かを見つけ出すこと”が、「芸術」の”キッカケ”であるとは思うのですが、それは、「芸術」の”スベテ”ではないと思うのです。

それは、料理人が素材選びに力を注ぐのと同じようなことで、厳しい言い方をすれば、「当たり前のこと」なわけです。

どんなにいい素材を”見つけ出して”来ても、それをただテーブルの上に並べただけでは、それは料理ではないわけです。
要するに、そこまでも当然やるべきことではあるのですが、そこから先が重要だということでしょう。

”見つけ出すこと”がダメだとは言いませんけれど、足りないのです。

人間の、つまり作者の、”かかわり”が足りないのです。

”見つけ出した”だけじゃ全然足りないのです。

”見つけ出したこと”なんてどうでもよくなって消え失せてしまうくらいに、強く”かかわら”なければ、いや、それでも足りないくらいなのですから。


もともと、「芸術」とは、人が何をなし得るかと言うことに対する「挑戦」なわけで、人がどこまで「真実」に迫れるのか、人がどこまでそこに”かかわり”を持てるのか、そして、人がそれをどこまで表現し、伝えることができるのか、と言う”人間の戦い”の塊のようなものだと思うわけです。

だから、人がいかに濃密にそこに関わり、自分以上に自分自身であるような、そういう濃厚な自己表現があってこそ、それが「芸術」たりうるものなわけで、”見つけ出した”だけでは百万分の一にもならないわけなのです。


とは言え、”見つけ出すこと”も、当然のこととして、とても重要なことではあるわけですから、”見つけ出すこと”を ”見つけ出して”くれた20世紀の巨匠たちには感謝いたしますが、われわれは、もう、そこに留まって居てもしょうがないわけです。

そこには、もう私たちの居場所はないんだと思うのです。


”見つけ出した”「芸術のカケラ」が「芸術的」か「非芸術的」かなんてことは、どうでもいいようなチッチャイことで、それを自分の意識で全部埋め込んでわからなくしてしまうくらいに、強く”かかわって”いかなければ、なんにも始まらないなと。


そういった気持ちで、やっております。
あぁ、出来ないですけどね。きっと。
でも、出来なくたって、やるわけです。


まぁ、要するにそういうことなのです。



いま、「歳をとること」の意味



私が子供のころは(50年程前)、原則として「年寄り」は尊敬されていたと思うのです。

現在はどうでしょうか?
私には、どうしても「年寄り」が尊敬の対象ではなくなってしまったようにしか見えないわけです。


例えばの話、ここで「年寄り」と言っているわけですけれど、これに対して、気を悪くする人もいるのかな?と思ってしまったりするわけですよね。

せめて「お年寄り」などと言うべきなのか?とか。


でも、そもそも、「年寄り」が尊敬されるものであれば、そんな配慮の必要はないはずなわけで、そこには、「年寄り」と言うよりも「歳を取ること」自体を、「劣化」と看做すという世の中全般の傾向があると思うわけです。

そして、こんなことを言っても、『そりゃ、若い方がいいに決まってるでしょ』と言われてしまうわけですが、いつから『若い方がいいに決まった』んでしょうか?


少なくとも、はじめに書いたように、50年ほど前までは「年寄り」は尊敬されるものでしたし、「年寄り」=「重鎮」であったり、「老境」=「威厳」であったりしたわけです。

確かに、そのころから、『若いっていいねぇ』などとも言われてはいましたけれど、それは、あくまで「若さ」の”未熟さや至らなさ”を含めての「いきおい」に対する、尊敬される側からの「余裕の言葉」であって、決して今のような『年寄りですいません』みたいなものではなかったと思います。


この状況は、拙いと思うのです。
良くないというより「ダメ」だと思います。

当然、すべての若者が歳を取るわけですから、将来の自分をも含めて、否定してしまっているわけですよね。

そして、自分が否定してきたので、否定される側に回った時に認めざるを得ないわけですよね。
それが『年寄りですいません』みたいなコメントになって出てきているのだと思うわけです。


要するに、誰にとっても「ダメ」なわけですね。


それから、実はこれが一番言いたいわけですが、人間は、まだ「人間未満」だと思うわけです。

これは、、ほかの記事にも書いたことですけれど、人間は、人間自身が設定した、「人間と言う概念」に到達していないと思うわけです。
(たぶん、今後も到達できないと思います)

つまり、「額面上の人間」と「現状の人間」が一致していないということですね。
「額面上の人間」がかなり理想化されているために、なかなか追いつけないという感じでしょうか。


だから、「人間」に成るためには、かなり時間がかかるようなのです。
(と言うか、完全には成れないと思います)

それは、一生を費やしてもまだ到達できないようなもので、若いうちに到達できるようなものではないと思うのです。


現在、ようやく教育や情報が整備されてきて、ようやく人間が「人間」に近づくときが来ているように思うわけです。

でも、今のように「歳をとること」を「劣化」と看做し続けていれば、それは、達成されることは無いでしょう。


「若者」にそれを期待するのは、今のところ無理なのだと思うのです。


それは歳を取った者が最後の責任として、有終の美を飾るための、人生最後の仕事なのだと思うわけです。
その先には「いい人生」ではなく、「いい死に方」があるのだと思うのです。


私は、このところ「死に方」は「生き方」よりも重要なんじゃないかと思っています。
と言うよりも、「いい生き方」は「いい死に方」のためにあるのかもしれないということです。


人間と言う動物は、百年ほども成長し続ける「種」になりかけているのかなと。
でも、成長しても尊敬されなければ、そこで終わっしまうでしょう。

「人間」に成る前に。


というところで、何はともあれ、「年寄り」は尊敬しましょう。
あくまで、一人一人の人の話ではなくて、一般論として、「歳をとること」に敬意を払いましょうということですね。

と言う話でした。




「真面目さ」を”バカにする”風潮



現代の日本社会には、「真面目さ」を軽視する傾向があると思うわけです。
そして最近になって、この傾向が急に強まって「真面目さ」を”バカにする”人が激増していると思うのです。


もともと、日本人の長所として、いつも決まって挙げられていた「真面目さ」や「勤勉さ」が、いつの間にか軽視されるようになり、今では、とうとう”バカにされる”ようにまでなってしまったわけです。

しかも、最近の傾向として、どうやら「真面目さ」を一番”バカにして”いるのが、「真面目な人」のようなのです。
(本質的に真面目と言うよりも、表面的に「真面目な人」ということだと思いますが)

と言っても、その人自身は、自分がその「真面目な人」だと認めてはいないようです。
どうも、自分は『そんなには真面目じゃない』と思いたがっているようです。


「真面目な人」と言うのは、真面目なだけに、社会が『「真面目さ」を”バカにする”』と言う方向を指し示すと、その方向性に、”真面目に”従って、それを”バカにする”ようになってしまうようなのです。

しかも、自分が「真面目な人」だということも認めたくなくなってしまうようです。
そりゃ、自分にバカにされたくないですからね。


その人たち自体は、いたって普通の人たちで、どう見ても、不真面目な人でもチャランポランな人でもありません。
むしろ、普段言っていることなどは”お堅い”感じの人たちなわけです。

ところが、ひとたび「真面目さ」に関わるようなキーワードを提示されると、かなり、露骨に”バカにしたり”するわけです。

『さっきまで言っていたことと違うでしょ!?』と思ったりもするわけですが、本人たちは、ほとんど気にもしていないようです。


昔から、「真面目くさって」とか「くそ真面目」といった言葉で、「真面目」なばかりがいいわけじゃない、ということは言われてきたわけですけれど、それはあくまで「真面目さ」がベースにあっての話で、あまり行き過ぎると、よくないと言っていたのだと思うのです。


現在は、それとはまったく違います。
「真面目さ」を憎んでいるように見えるときすらあります。


ここからは全くの想像で、根拠はありません。

日本人は「真面目だ。真面目だ。」と、それしかとり得が無いように言われ続け、それでいて、その「真面目さ」が世界に対峙した時の「勝負弱さ」になったりするのを見続けてきて、『もういや!』になってしまったのかなと。


もともと、江戸期までの日本人は、それほど働き者でもなかったという説もあるようですし、「日本人」=「真面目」というのに無理があったのかなと。

鎖国していた日本が、世界に追い付こうと、がむしゃらにふるまう姿が、世界の中での「日本人」の位置づけを「真面目」にしてしまったのかなと。


世界に「追い付け追い越せ」と、上へ上へ向かっている時には、「真面目」と言われようが、それしかとり得が無いと思われていようが、気にせず邁進できたのかもしれませんが、高度成長が終わり、バブルに浮かれ、そしてそれもハジケ、それまで、我慢してきた「真面目のレッテル」が、『もういや!』になってしまったのではないのかなと。


そして、ここからが言いたいことなわけなのです。

”バカにしている人”の「真面目さ」は表面上の「真面目さ」です。
ただ単に、常道を外さないというだけです。
そんなものはどうでもいいわけです。

でも、”バカにされている”方の「真面目さ」が「本物の真面目さ」だったりするわけです。


この本質的な「真面目さ」を”バカにする”と何も生み出されません。

根本の所に「真面目さ」のないものは「クズ」だと思います。
「クズ」程の意味もないかもしれません。


日本人だろうが、ナニ人だろうが関係ありません。
動物だって「真面目に」生きています。
石ころだって「真面目に」存在しています。
だから、「クズ」だって、きちんと「真面目に」そこにあるわけです。

だから、それは「クズ」にも満たないのかもしれません。
(ただし、人間は完全に不真面目にもなれないと思いますが)


表面上において、「真面目」を選択しようと、「不真面目」を選択しようと、どちらでも自由だと思います。
どっちでもいいことだと思います。

でも、根底に「真面目さ」のないものには、何の意味もありませんね。


表面的にとはいえ「真面目な人」が「真面目さ」を”バカにしている”なんて光景は、あまり見たくないですね。


そういうのは、悲しいだけなのかなと。

そんな風に思ってしまいますよね。



「いっしょうけんめい」について



だいぶ前に聞いた話なのですけれど、「いっしょうけんめい」には、「一生懸命」と「一所懸命」(これは「いっしょけんめい」と読むらしいです)があって、ずっと懸命にやり続けるのが「一生懸命」で、とにかく、その場だけでも懸命にやるというのが「一所懸命」だそうです。

それを言っていた人は、「一生懸命」は、そう簡単にはできないけれど、「一所懸命」ならば、誰でもやる気さえあればできるはずだと言っていました。

その通りだと思いました。

今もそう思います。


でも、前の記事と同じような話になってしまいますけれど、この「一所懸命」も、どうもあまり評価の対象にはならなくなってしまったようです。

これは、”バカにされる”まではいかないようですが、今の風潮としては、同じことをするのでも”スマートに”こなした方が評価が高いようです。

「一所懸命」にやって、どうにかできた人よりも、汗一つかかずにやってのけてしまった人の方が、今は高く評価されるようです。


確かに、簡単にやってのけた人の方が「能力」が高いとは言えるのでしょう。
でも、人間としての潜在力となるとどうでしょうか?

四苦八苦の末にできる人と、労せずしてできてしまう人のどちらが、人間的な力を蓄えているのでしょうか?


それは、まぁ、それぞれの人の判断に任せるべきことなのだと思いますけれど、少なくとも、言えることは、ここで言う「能力」とは、実は、それほど高度なものでも、洗練されたものでもなく、比較的単純な作業を能率よくこなすという種類の「能力」だということだということです。

そうでなければ、簡単に出来てしまう筈がないわけですから。


一方、人間的な潜在力と言うのは、高度とか洗練とも違うかもしれませんが、単純作業や、作業効率などと言うほど安易なものでもないことは確かでしょう。

私は、単純作業をこなす能力よりも、人間的な潜在力の方が、その人の実力と呼ぶにふさわしいものだと思いますから、どちらかと言えば、こちらを評価したいと思うわけです。


それから、はじめの話に戻ってしまうのですけれど、「一生懸命」は並大抵のことではできないけれど、「一所懸命」はやる気さえあれば誰でもできるという所なわけです。

「一生懸命」ぐらいのことをして、はじめて、評価に値するほどの「能力」なのだと思うわけです。

そして、「一所懸命」は誰でもできることだけど、その誰でもできることを懸命になってやるところが、「いい」わけです。

でも、簡単にできるというのは、「能力」としても大したことは無いですし、それほど「いい」とも思えないわけなのです。


とはいえ、私も「簡単にできる」の方が、”カッコイイ”と思っていました。

なんでも”スマート”にやった方がいいと思っていましたし、それが洗練やセンスだと思っていたわけです。


でも、違ったみたいです。
ぜんぜん、違ったみたいです。


人間的な内容が無いと、洗練もセンスも陳腐なだけでした。
まして、「能力」なんて、機械でもできてしまうようなことを、『できる』と言っているだけです。

かと言って、「一生懸命」のような本物の「能力」には及びもつきません。
要するに、「一所懸命」ぐらいしかできないわけですよね。

でも、そこからも洗練やセンスは生まれてくるように思っています。


だから、そこを抜いてしまったら、何もできないと思いますから、なんとか「「一所懸命」でやっていこうかなと。


そういう風に思っています。




もう「天才」は「社会の重荷」だと思うのです



前の三つの記事のまとめのような話です。

前の三つの記事で、「歳をとること」・「真面目さ」・「一所懸命」が、今の日本社会では軽視されているということを書いたわけです。


『どうしてこんな風になってしまったのか?』と考えると、私の場合、必ず「天才」と言う言葉に行き着いてしまうわけなのです。

私に言わせていただければ、「天才」とは、最も”若く”して、最も”簡単に”、「何かを成し遂げることができた者」で、最も”「真面目さ」を必要としない”存在なのです。


つまり、「歳をとること」も「真面目さ」も「一所懸命」も、「天才」から遠ざかることなのだと思うわけです。


なぜ、「歳をとること」が悪いことのように言われるようになったのか?
それは、歳をとってから何かを達成する者よりも、若いうちに達成できる者の方が才能があると思われているからでしょう。

なぜ、「真面目さ」が”バカにされる”ようになったのか?
それは、才能がないから「真面目さ」でカバーしていると思われているからでしょう。

なぜ、「一所懸命」が軽視されているのか?
それは、才能が有れば簡単にできるようなことを、才能がないから「一所懸命」にやらないとできないんだと思われているからでしょう。


つまり、この三つは「天才」には必要ないものだと思われているわけなのです。
そして、この三つのどれか一つでも持っていれば、才能が無いと判断されてしまうわけです。

 ※『いやいや、天才と言うのは、実は、ものすごく努力しているものなのだよ!キミィ』
  と言う人が非常に多いわけですが、それなら「努力家」でいいんじゃないですか?
  なぜ、そうまでして、その「努力する人」のことを「天才」と呼ぶんでしょう?
  けっきょく、そういうことを言う人は『才能がある人が努力するから、すごいことが出来
  るんだ!』と信じ込んでいるというだけのことです。

  実際は、『努力した人が才能を発揮する』と言うのが本当だと思いますよ。
  「才能」はみんなに同じくらい与えられていると考えれば、「努力した人」が、それを発
  揮するのは当然だし、「努力しない天才」ほど情けないものはないというのも、また当
  然のことなわけです。


でも、現実には、この「天才」と言う言葉に、現在でも実態があるのでしょうか?

私は無いと思っています。


「天才」の条件である、”若いうちに”や”より簡単に”は、

もともと、大した意味はなかったわけですし、才能では到達できない感覚を求められて来ている現在では、「天才」には、もう、実体がないと言わざるを得ないわけなのです。
(これは、必ずしも「芸術」や「創作」などに限ったことでも無いと思います)


「天才」と言う言葉に、今でも実体があるように思えてしまうのは、人々の心の中の「天才」が神格化されて、無条件に疑われることのないの領域になってしまっているからに他ならないわけです。


ところが、その神聖な領域が、どうにも”重荷”になってしまっているわけです。

人間がどこかに向かって進もうとすると、必ずその神域を侵さねばならない状況になっているわけです。

その領域を踏み越えていかないと、何処にももう進むべき方向が無いわけです。


現在、人間がどこかに進もうとすれば、若いうちには到達できないような境地に向かわねばならないでしょうし、人間の才能を超えたところにあるような感性に近づくことが求められるのでしょうし、そのために必要なのは「才能」」ではなく、「真面目さ」や「一所懸命」なのでしょう。


極端な話、同じことでも「天才」がやったのでは「ダメ」で、「真面目に」「一所懸命に」やってこそ価値が出て来るということでしょう。


ですから、現在の、「天才」がやれば「なんでもあり」と言うのとは正反対に、「天才でないこと」にこそ価値が見出されるはずなのです。


これは大事なことだと思いますよ。


「歳をとること」・「真面目さ」・「一所懸命」を軽視しない方がいいのかなと。

それでは、どこにも行くところがなくなってしまうのかなと。


そんな風に思います。




人間は「食物連鎖の環」から外れた動物



「弱肉強食」とか「自然淘汰」というのは、自然界のバランスを保つための、最も根源的な法則だと思うわけです。

でも、人間は、この原則から外れてしまっているように思うわけなのです。


人間は、自分が食べるために動物や植物を生産します。

人間は、特定の動植物を乱獲して、そのあとでそれを保護したりもします。

人間は、自分に有用な「種」を改造します。

人間は、産業廃棄物を排出しつつ、エコロジーにも配慮して、そのエコを産業にしてしまったりもします。


全体的に、まったく”理に適っていない”わけです。

そこには、「弱肉強食」や「自然淘汰」の崇高さや普遍性はなく、常に短絡的で、その場のことしか考えていないようにしか見えないわけですね。

でも、人間にはそれが出来てしまっているわけなのです。


そして、人間はそれをやめないでしょう。


もちろん、世界の中では人間の存在など小さな点のようなもので、自然の法則は、人間のすることなど、すべて押し流してしまうのでしょう。

それはわかるのです。

でも、出来てしまっている。


『いやいや、全然自然に太刀打ちなんて出来てませんよ』と言われれば、そうも思いますけれど、でも、やっぱり出来てしまっているように見えるときもある。


もっともっと、出来ないはずだと思うのです。
こんなに出来てしまっていいんでしょうか?
たとえこの程度でも、出来るはずがないんじゃないんですか?
原則から外れたものが、その状態を続けていかれるなんて有り得ないことでしょう?

と、誰かに聞きたくなってしまうわけなのです。


この「原則から外れたこと」を手放せなくなった人間にできることは、”理に適っていない”ことや”場当たり的な”ことしかないのでしょうか?

どうしても、それが止められないのであれば、それを「原理」や「法則」に近い所にまで昇華しようとするべきなのかなと。


好むと好まざるとに関わらず、人間は「食物連鎖の環」から外れた位置に立たされてしまっているように思うのです。
人間だけが円環していないように見えるのです。

だから、その「環」をつなぐような方向で考えていかないと、人間だけが浮き上がってしまうように思えるわけなのです。


どうすれば、それができるのかは、わたしにはわかりませんけれど、少なくとも、「競争」や「淘汰」と言った、そちら側の法則ではないのだろうなと。

そこからは、すでに外れてしまっているわけですから。


だから、人間が協調しようとしたり、助け合ったりするのは、必ずしも、善・悪とか正義の問題でもないように思うのです。

つまり、もう少し大きな枠組みの原理に基づいているのかなと。


そんな中で描くことが出来得る人間社会の未来像は、SF映画に出て来るような無機質的な世界などではなく、いや、それとは正反対の、いまだかつて、人間が経験したことがないほど「人情味」があって、過去には有り得なかったほど、濃密に有機的な空気が充満した空間なのではないのかなと。


そんな風に空想するときもあります。




「奇跡」について



「奇跡」と言う言葉は、けっこう簡単に使ってしまうわけですけれど、本来は、「神」に直結した神聖な言葉なのではないのかなと思うわけです。


本来「奇跡」とは、ただ単に有り得ないようなことが起きたというのではなく、神的な力が降臨して行われたことを指して言うことなのかなと。

でも、現代人にとっては、神聖さがあまり強く感じられない方が都合がいいようにも思えるわけです。

現代社会においては、「神」の存在感はかなり希薄だと言わざるを得ないわけですが、そういう状態の中で、「神」を感じられて、なおかつ信仰心までは求められないで使える言葉が、「奇跡」や「天才」なのだと思うわけです。

だから、「神(信仰)」を失った現代人が、それらの言葉を、無意識のうちに多用するようになっているのかもしれません。


「奇跡」とは、その時代においての「最先端の不思議」=「人知を超えたもの」であると言い換えることができるように思うわけです。

「奇跡」だと思われることでも、その「不思議」な部分が解明されて、当然、そう成るべくして成っているとわかってしまうと、それは、もう「奇跡」ではなくなってしまうわけです。


マジックなんかでも「不思議」なものとしてみている時は、それが魔術的なものに見えるのに、種(たね)が解ってしまうと、それは一つの特技にしか見えなくなってしまうわけなのです。


逆のことも言えて、科学などの堅実な分野でも、まだ、、よくわからない部分の多いこととなると(例えば、遺伝子操作などですね)、それは、まったく「神秘」としか思えないわけですね。

そして、それも、ある程度まで解明されてしまうと、単なる「理論」としてそこに収まってしまうわけなのです。


つまり、「奇跡」とは、未だ解明されていない物事を、「神」のなせる業としてきたことの「名残り」であると思うわけです。

現在までに人間がたどり着いた結論は、実体のある「神秘」はいずれ解明されるということ、解明されない「神秘」には実体がないから、永遠に解明されないということ、そして、実体のない「神秘」はあまり役には立たないということ、ぐらいでしょう。


こんなことを言うと信仰心の厚い人は、怒るのかもしれませんが、「神」は、結局人間を救済しないと思うのです。

現在、「信仰」は人の精神を強くしているというよりも、それが依存するものになってしまっていると思うのです。


よくよく考えてみれば、「神」が人間を救済するはずはなく、試練を与えるに決まっているわけですから、人間を救済できるのは人間しかいないはずなのでしょう。


人間が、やっとの思いで人間自身を救済した時に、姿を現わして『これこそが私の与えた救済である』と言うのが、「神」というものの持っている本質的な構造なのだと思うわけです。

だから、こういうことを聞いて「信仰」を持っている人が怒るのは、ちょっとおかしくて、そのような「神」を「信仰」出来るのか?と言うところに、現在の宗教というものはあるように思うわけです。
(本当は昔からそうだったのかもしれませんが)

もし、「神」をそのように言うことを冒涜であると感じるのであれば、その人の「信仰」においては、「神」は絶対者ではないということに成ってしまうわけです。


とは言っても、私は「宗教」も「神」も否定するつもりはありません。
ただ、現在においての「神」や「信仰」の在り方が、私にはそのように思えるというわけです。

そして、時の流れの中で「神の時代」はその意味が薄れてしまったと思うわけです。


そして、それは「奇跡」にも同じようなことが言えていて、「信仰心」を持ちきれなくなった現代人が、「奇跡」や「天才」と言う言葉に陶酔してしまうのは、そこに依存してしまっているからのように思われるわけです。


だから、人間自身が人知を超えたことが出来るのか?ということになってくるわけですけれど、人間ですから、人知を超えられるわけないですよね。

だけど、人間ですから、人知の範囲内でいいんじゃないかと思うわけです。
そこで、『人間ですけど、なんか悪いんですか?』と言えるようになることが、人間にとっての救済なのかなと。


やや貧弱な感じもしますが、その”チープ感”を受け入れられるのかどうかが意外と高度な感じもするわけですよね。


それができれば、人間は「宗教」から抜けられると思います。


実は、そこから、本当の意味で、「人間」と言う「種」が始まるのかなと。
それこそが、人間の起こす最初の「奇跡」なのかもしれませんね。


そんな風に思っています。






「健康」について



何かにつけて、「健康」の大切さが身に染みている今日この頃なわけです。


「健康」が大事なのは当たり前のことなのかもしれませんが、人間の場合「体の健康」と「心の健康」の両方に気を配らなければならないので、そこの所が特に難しくなっているように思うわけです。


ただ、言葉の上で「健康」と言ってしまうと、「完全な状態」が「健康」で、「不完全な状態」は「不健康」のようになってしまうのですけれど、「完全な状態」などは、ほとんどないわけですから、実際は、「不完全な状態」の中での健康を「健康」と言っているわけなのでしょう。

「一病息災」みたいな感じですか?

でも、実体としては「二病」でも「三病」でも「息災」であればいいように思うのです。


「息災」って何なんだかよくわからない言葉なわけですが、それでも、取り敢えず「息災」ならいいんじゃないの?と言うところですかね。


重い病気の人に関しては、可哀相だと思うのもかえって失礼なようにも思いますし、逆に、そう思わないのも非道なことのようにも思えて、そこの所の判断は付きませんけれど、少なくとも、かなり重い病気の人の中にさえ「息災」はあるのだと思うわけです。


そして、「体の病気」についても「心の病気」についても言えることだと思いますけれど、病気であることを自覚していることは、とても「健全なこと」のように思うわけです。
もっとも「病的」なのは、「病気」を自覚できないことだと思うのです。

そして、そこには「息災」はないように思います。


自分の「病気」を自覚できている人と言うのは、どこか「健康」な気がしてしまうのです。
それは、ただ「頑強」ではないというだけで、「健康」に近いのかなと。
そんな風に思ってしまうわけなのです。


「病気」と言うのは、完全に克服しなくても、自覚して把握してしまうと「病気」とは言い切れなくなってしまうようなところもあると思うわけですね。


もともと、全ての命は、生まれた瞬間から「死」に向かっているとも言えるわけで、「病気」があってもなくても はじめから「余命〇〇年」なのだと思うのです。

ただ、若いうちはその「〇〇年」が長いと思っているというだけのことなのでしょう。


だから、どんなに健康な人でも生まれたときには、もう「余命100年ぐらい」なわけで、その人が50歳なら「余命50年ぐらい」なわけです。

それと「余命3年」というのとが、どれほど違うことなのかはわかりませんけれど、少なくとも、みんな”期限付きの人生”を生きているのは同じなわけなのです。


つまり、全ての人が「余命〇〇年」の「病気」の人生を生きているとも言えるし、逆に、全ての人が、”不完全な”「健康」の人生を生きているとも言えるわけです。


だから、そういう感じで「病気」を把握してしまうと、あとは人生の期間が長いか短いかと言うだけの問題なわけです。


人生の長さは絶対的なことでもないと思いますけれど、「健康」を大切にしていないと、「病気」を把握することもできないので、やっぱり「健康」は大切にする方がいいのかなと。


そう思う、今日この頃なのであります。



「創作」とは「意味」を創り出すことだと思うのです



芸術の創作においては、作者の『創りたい』と言う「衝動」以外の余計なものが、なるべく入らない方がいいと思うわけです。

つまり、無目的であることと言うか、無意味であることと言うか、無作為であることというか、そういった、「無」から始めることがいいように思うわけです。

そこに目的や意味があると、どうしてもそのために純粋性が失われてしまうように思われるわけです。


もちろん、目的を持って創られる「芸術」もあっていいのでしょうが、あくまで、私が考える「芸術の中心」にあるものについての話です。

その目的や意味というのは、どんなことを言っているのかといえば、わかり易いことで言えば、『売れそうな作品を作ろうとする』とか、『人に褒められるようなものを創ろう』とか、というようなことですね。

はじめの段階では、そういう「意図」を含まない、「衝動」があった方がいいように思うわけです。
やはり、そこは単純に「創りたい」であるのがいいように思うわけですね。


ここで、この「無」から始めることと、作品自体が「無」であることは違うと思うわけです。
つまり、作品自体が「無意味」や「無目的」、「無作為」である必要はないということです。


制作を始めるにあたって、「目的」や「意味」を”想定してしまう”ことと、作品に「意味」を”与える”ことは、全く違うことだと思うわけなのです。

と言うよりは、「無」から始めて制作していく過程で、そこに「意味」を創り出していくことこそが「創作」と言う作業なのだと、私は思うわけなのです。


また、そこに「意味」を創り出すことこそが、「芸術の創作」であるからこそ、当然、はじめの段階では「意味」が無い方がイイのだと思うわけです。

「意味」があっては「ダメだ」とは言いませんが、「無」から始めることで、「創造の領域」を広く取ることが出来るということだと思います。


だから、「無」から始めて「無」に着地している芸術作品と言うのは、「創造なき芸術」だと思うわけです。
だから、『意味なんかないですねぇ~』と言うのは、トンチンカンだと思うのです。


でも、それも『ダメだ』とは思いません、
ただ、私はそれを「芸術の中心」から遠い所に”ピン止め”するということです。


どうしても、「無意味」・「無目的」と言うと、短j楽的なものと思われがちですけれど、それは「意味」を創り出すための「無意味」であり、新たな「目的地点」を開拓するための「無目的」なわけです。


世の中に既存のものと言うのは、すべからく「意味」を持っていますから、敢えて、そこに一旦「無意味」を設定する必要があるということに成るわけです。


そして、そこからどこまで充実した「意味」を創出できるかが、その作品の真価であるのだと、私は思っているというわけなのです。


だから、作品について問われたら、『意味はあります』ということが出来るように、「意味」のあるものを創っていきたいものだなと。
否、「意味」そのものを創り出していけたらなと。


そのように思っております。

『なかなかできないですけどね』




「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へ



昔は、と言ってもだいぶ昔ですが、大人が公然とマンガを読んでいたりすると、白い目で見られるというようなところがあったと思うのです。

おそらく今の若い世代では、そんなことを言っても、それがどういうことなのかもわからないのでしょう。
つまり、一言で言えば、昔の人は”シンジラレナイほど頭が固かった”わけです。


子供が読むものと大人が読むものは、はっきりと分かれていて、大人が子どもの読むものを読むことや、子供が大人の読むものを読むことは、「イケナイこと」に近かったわけです。

それが、「アニメ」と言う媒体を経たことによって、いつの間にか「大人用」と「こども用」が一体化して、その境界線も曖昧になり、お互いに出入り自由になったわけです。

そして、「オタク」が登場したことで、「こども用」であったはずの「マンガ」や「アニメ」が、とうとう「大人用」の文化になったと言えるのだと思うわけです。


そのこと自体の是非を問う気はありません。
取り敢えず、昔の人の頭が固すぎたのは間違いないので、その分だけは良かったのだと思います。


でも、それよりも、このことについて、不透明になっていることがあるように思うわけです。


この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へという移行が、日本の社会にかなりの影響を与えたと思うわけです。

1.大人が幼児化したということ

2.子供が子供でいることを許されなくなったということ

3.「マンガ」と「アニメ」が文化として発展したこと

以上のようなことが考えられることだと思いますが、その中で尤も日本の社会に対する影響が顕著なのが、1.だというのはよく言われていることだと思います。

3.についても、よく語られますが、実際には、「マンガ」も「アニメ」も、かなり早い時期に頂点に近い位置にあったと思われます。
つまり、まだ「子供用」であった時点で、既に一つの頂点に達していたという感じがするわけです。
(この辺は、異論もあるでしょうから、私が勝手に言っていることです)

でも、どちらかと言うと、一番問題なのは二番目の「子供が子供であることを許されなくなったこと」なんじゃないかと思うわけです。


「大人が幼児化したこと」は、さんざん言われていますが、その結果、「子供が子供であることを許されなくなったこと」については見落とされがちです。

また、そのこと自体は、語られることがあっても、この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へと言う文化の変遷の中で、それが語られることがあまりないために、その辺のところが、そっくり抜け落ちてしまうのです。


つまり、社会現象としての「マンガ」・「アニメ」・「オタク」はもう完全に「大人の領域の話」になっていて、「子供の領域の話」ではなくなってしまっているわけです。

だから、子供の話には出てこないのでしょう。


大人が幼児化したことの象徴が「オタク」であることは、ほぼ間違いのないことでしょう。
そして、幼児化した大人が「子供の領域」を奪ってしまっていることも、まずもって間違いがないことではないでしょうか?

さらに、社会機構の中で上位に居る「大人」が子供の領分を占めてしまっていることで、「子供が子供であることを許されない」という状態になっているように見えるわけです。


結果、「子供」は「大人化」するしかないわけですけれど、「子供」ですから「大人化」できないわけです。
「大人化」するには、経済力や社会的地位が必要になりますし、「大人」に与えられる権利も義務も与えられませんから、まったく無理なわけですね。

そこで、現在の「子供」は「子供社会」を「大人社会化」しているのだと思うわけです。
それが”イジメ”の構造の一端だと思うのです。


そしてさらに言えば、その「子供社会」の”イジメ”に近いような、”子供じみたイジメ”が、幼児化した「大人社会」に蔓延してきているというわけです。

そして既に、「そういう子供時代を経た大人」の世代に入っています。

つまり、子供時代には「子供であることを許されなかった」者が、「大人になってからは幼児化する」という歪んだ状況になってしまっているわけです。


この状況を克服するのは容易ではないように思われますけれど、どう考えても、抜け出さねばならないように思うわけです。


「オタク」と言う文化をどう扱うべきなのかはわかりませんが、少なくとも、海外で評価されていることなどを、手放しで喜ぶのはどうなのかなと。
海外の人は、そんな歪んだ社会の”ツケ”は負わなくていいわけです。
当然、その”ツケ”は、近い将来、日本人が負担しなければならなくなるわけです。


要するに、不自然な「子供の大人化」と「大人の幼児化」が、何度もその不自然な循環を繰り返した後で、そこから排出される「オタク」という文化に、まだ、そんな”ツケ”を支払ってまで、手放さないでいるだけの価値があるのか?ということでしょう。


いま起きていることは、目を開けて見ればわかることだと思うのです。
それを見ないようにするのも、また、たやすいことですけれど、それで、近い将来、困るのも確かなことなのかなと。

そんな風に思えるわけです。


※2019年5月に追記

「文化」としての「オタク」を批判しているわけではありません。
社会現象としての「オタク」についての話です。

例えば、かつて、「差別」のある国では、差別されている人種や階層の人が集まって、「スラム街」を形成していたわけですが、その「スラム」にも、「そこならではの文化」はあったでしょうし、その「文化」がいかなるものであっても、それを否定することに意味があるとは思いません。
 しかし、「差別」も「スラム」もなくした方がいいのは間違いのないことですし、もしも、その結果「スラム文化」が消滅してしまったとしても、それはやむを得ないことだということです。

海外においては、「オタク」の「文化的な側面」だけがの、意図的にクローズアップされて宣伝されているのでしょうから、外国人が「オタク」を「文化」として理解したり、評価したりするのは当然のことだと思います。

しかし、日本で暮らしている日本人にとっては、「オタク」が「ヒキコモリ」や「不登校」などと直結している「社会現象」でもあることは、避けようがない事実であり、そこから、「学校の悲惨なイジメ」や「子供の自殺」までは、すぐそばの位置にあるということも、また明白なことです。
そんな状況の中で、その現実を直視せずに、あくまで『オタクは世界に誇るべき日本の文化である』と言い続けることは、かつての「スラム街」において、『臭いモノには蓋をして』結果的に「差別」を容認し続けていたのと同じことに成ってしまうのではないでしょうか?

やはり、「オタク」については、「社会現象」として、もう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか?

私は、そう思います。




「芸術」は文化遺産なのか?ということ



芸術作品と言うと、繰り返し修復しながら維持管理していくというのが、当然のことになっているわけです。
当たり前のことのようになってしまっていますから、あまり疑問を持つこともないわけですけれど、実際には、これはとても微妙な問題を含んでいることのように思うのです。


まず一番に思うのは、作者がその修復を望むかどうかということが、確認されない場合が多いということです。

作者本人が亡くなっている場合が多いですから、その場合、確認のしようもないわけですけれど、それ以前に、作者の意向を確認しようという気が、まったく無いという感じがあるわけです。


作者は、自分の作品が守られ管理維持されることを望むに決まっているという決めつけがあるように思うわけです。

でも、実際には、レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を修復して欲しかったのかどうかは、誰にもわからないというのが事実なわけで、もしかしたら、その修復にレオナルドが激怒したのかもしれないわけですし、また、自分の作品に手を入れられること自体を嫌ったかもしれないわけですが(彼の場合、それはかなりの確率で考えられることのような気がするのですが)、そういうことは、そっちのけで、修復作業の出来栄えばかりが論じられたりするわけです。


要するに、こういった古い時代の作品は、「文化遺産」として捉えられている側面があるわけです。
だから、”作者”と言う感覚が抜けてしまうのだと思うのです。

公共物と言う扱いなのでしょうか?たぶん。

比較的新しい作品についても、修復や保存と言うのは当然のことに成っているのでしょうが、”法律的な権利”云々は別にして、
少なくとも、そこで何らかの敬意を込めて保存しようとするのであれば、作者の意向が反映されて然るべきなのかなと思うわけです。

確認しようがないから、勝手にやっていいということにはならないでしょう。


次に気になるのは、そもそも「芸術」というのは「文化遺産」なのか?ということなわけです。
つまり、修復したり保存したりする必要自体があるのか?
まして、国家や公共の力で、それを行うのは適切なことなのか?ということです。

これは「芸術」の捉え方によって、だいぶ話が違ってきてしまうことですけれど、私は、「芸術作品」と言うのは極めて”個人的”なものだと思っております。

つまり、「公共物」とは正反対の位置にあるものだということです。
ですから、それを”公の力”を使って保護したり補修したりするのはちょっとおかしいのかなと思うわけなのです。

「公共」や「国家」が守るべきは「芸術」であって、「芸術作品」ではないように思うのです。

と言うよりも、むしろ「芸術作品」をあまりにも保守しすぎると、「芸術」が頭打ちになって、行き詰ってしまうようにも思われるわけです。


私個人といたしましては、”滅びゆく様”を含めて「芸術」だと思っております。

修復や保存と言うのは、「芸術作品」を神格化してしまうことであり、また、その神格化の中でも一種「偶像崇拝的」な、意味を与えてしまうものだとも思いますので、如何なる重要作品についても一律に、修復や保存は消極的なもので十分ではないのかなと思います。

ある程度整った環境で、無理のかからないような条件下に置かれていれば十分なのではないのかなと。


作者本人が、どうしても保存したければ、遺言にでも保存方法についての指示を、事細かに書いておけばいいのだと思います。


今後、医療における「延命措置」と同じように、「芸術作品の延命措置」についても、生前から本人の意思を表明しておく必要が出て来るのかもしれません。


でも、先ほど述べたように、私は、「滅びゆく様」を含めて「芸術」と思っておりますから、自分の作品を、他人の手をもって修復してまで生き延びさせようとすることは、「芸術的な態度」とは思えないのであります。

もし、どうしても「千年持たせたい」なら、「千年持つ作品」を自分の手で作るべきだと思ってしまうわけです。


「千年持たせる」だけの価値があるのは、「作品」ではなくて、その人が、その瞬間に感じた”熱情”であり”衝動”であり、そこに注がれた”力”でしょう。
そして、また、それを見た人が感じ取った”何か”でもあるのでしょう。

そして、それは、その「作品」が物質として百年間もっても、千年間もっても、また完成直後に滅びてしまったとしても、同じことのように思われるのです。


その「作品」が”滅びた”後は、他の「作品」がその位置を埋めるだけのことだと思います。
そして、それでいいのだと思うのです。


「芸術」とは、そういう分野であった方がいいような気がします。
昔の傑作にすがり付いてしまうと、次が出てこられなくなるんじゃないのかなと。

「芸術作品」は唯一無二だから修復するのではなくて、唯一無二だから、”滅びてゆく様”を邪魔してはいけないように思うのです。
場合によっては、作者本人ですら、後からやたらと手を付けるべきでないとも思うわけです。


”滅びるべくして滅びた”後には、伝説が残るのかもしれないし、何も残らないのかもしれない。
そこまで含めてが、その作品のあるべき姿なのだと思うのです。

「芸術」っていうのは、そんな風なものじゃないでしょうか?


それを”惜しい”と思う気持ちがあっても、それに引きずられてはダメなんじゃないでしょうか。
それが”自然な滅び”を迎えることで”新たな芽”が出るのだと思うのです。


”滅びと再生”それが「芸術」の持っている一つの本質ではないのかなと。


そんな風に思っています。




”何処かに向かって行きたい”のです



現在、「芸術」に新たな方向性が見つけにくい状況になっているわけです。
でも、逆に「芸術」に関しては、全ての方向性が許されているとも言えると思うわけです。


現在は「芸術」に関する枠組みが解体されて、不定形の「漠然とした雰囲気」だけが「芸術」を「芸術」足らしめているといってもいいと思うのです。

つまり、あらゆる方向へ向かうことが肯定されたことで、方向と言うもの自体の意味が無くなってしまったわけなのです。

どこかに向かって進んでいても、それは違う視点から見れば、「前進」ではなく「後退」であるのかもしれないわけだし、また、違う観点をもってすれば、止まっているということなのかもしれないわけです。


方向に意味がなくなった以上、”何処かに向かって行く”ということが出来なくなってしまったわけなのです。


でも、やはり”何処かに向かって行きたい”わけです。
人間には”何処にも向かわずに”何かをすることは出来ないように思うのです。

ですから、私は、「下」へ向かおうと思うのです。
「深さ」へ行こうと思います。


「深さ」の意味は人によって違うでしょうが、これまでは、「深さ」も「高さ」に変換されてしまっていたように思うのです。
だから、常に「深さ」は、上等なことでしたし、良いことだったわけです。

でも、私はこれから、真っ暗で何も見えない深海のような「深み」へ向かおうと思っています。

それは、上質への飛翔でも、良いことへの邁進でも有りませんが、その「下」へ向かう、暗闇の中での手探りが、”方向性を持たない方向”のように思われるわけです。


意味のある言葉にはなりませんが、それでいいわけです。
それが”方向性を持たない方向”ということなのだと思うのです。


まったく不確かですけれど、そこにしか行くところが無いように思われます。
でも、”何処かに向かって行きたい”ので、そこに行くわけです。

トンネルではないので、たぶん出口はありません。
進めば進むほど、暗くなるのでしょう。

でも、それでいいわけです。
”何処かに向かって行く”ことができれば、
何かをしたことにはなるのでしょう。

私は、”何処にも向かわずに”何かができる気がしませんから、
そうするしかないのかなと。

つまり、私の分際に許される限度が、そこら辺なのかなと。


そんな風に思っております。




「高さ」と「深さ」



前の記事の続きです。


「芸術」においては、これまでも「深さ」は重視されてきたと思うのですけれど、実は、「深さ」を「高さ」に変換してしまっていたように思うのです。


つまり、「深い」=「上質」とされてきたわけです。

別に間違いだというのじゃありません。
でも、「深さ」と言うのは、”下へ”の追究でもあるわけです。

「下」なのに「上」と言うのは、矛盾しているように思えるわけです。
だから、純粋に”下へ”向かう「深さ」があってもいいのかなと思うわけです。


そもそも、「深さ」と言う言葉が「芸術」において多用されるのは、単純に「いい」とか「上等」とかいうのとは違う、どこかに、「負の要素」を含んだ言葉だからなのかなと。

「正」と「負」が織りなす複雑さを表現するための言葉なんじゃないかなと。

つまり、「深さ」は「芸術」の「負」の部分を担っているようにも思えるのです。


だから、「深さ」は「高さ」に変換せずに”下へ”の「負」の要素として、機能させていくというのもあっていいように思うのです。


そしてさらに言えば、これまでは「正」に対する付加価値的な位置にあった「負」の要素を、もっと、主役として起用していく必要性が出て来るのかなと。

今後、これらの「正・負」や「深さ・高さ」だけでなくいろいろなことについての、位置の逆転が求められるのかもしれません。


この「逆転」と言う言葉だって、常に逆転して”良くなる”と言う使い方がされてきたわけですけれど、それでは、本当の価値は逆転していないとも言えるわけです。

と言っても、「負ですから、大したことはありませんよ」と開き直ってしまっては、そこでも、価値は逆転できないように思うので、もっと普通でいいんじゃないのかなと。

逆転だからと言って、あまりひっくり返そうとすると、メビウスの帯のように、元の位置に戻ってきてしまうように思うわけです。
ごく自然に、人の意識の中の価値が”逆”に展開していけばいいのかもしれません。


ですから、これから”本当の逆転”を見たいと思っております。
”本当の負”を知りたいと思っております。
そして、”本当の深さ”を表現出来たらなと。


そんな風に思っております。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR