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「芸術」は手の届く所に置いておいてほしい



「芸術」を理解するには、「芸術に対する素養」が必要であるという考え方があるようです。
これを間違いだとは思いませんけれど、こういう考え方は、出来るだけ強調しない方がいいように思うわけなのです。

要するに、それは「芸術」を一般人の手の届かないところに、持ち上げてしまうことに成るように思うわけですね。


確かに、「ナニカ」について、何も知らずにそれを理解することは出来ませんし、何も見ずに「ナニカ」を感じ取ることもできないのでしょうから、情報が多い方がいいに決まっているわけですけれど、最も大事なのは情報の”質”であって”量”ではないのだとも思うのです。


そして、その”質”とは、「与えられる情報の質」ではなくて、情報を受ける側の「響きの質」であるように思うわけです。

つまり、どんなに「上質な情報」でも受け手に「響かなかった情報」には価値がないということですね。


例えば、カレンダーの絵柄としてみた絵でも人の心に「響く」場合もあるし、わざわざ外国の美術館まで見に行った絵でも「響かない」かも知れない。


とは言っても、もちろん「本物」は「響く」確率が高いに決まっているわけです。
「美術史」や「芸術論」についての知識もあった方がいいのでしょう。

でも、それを強調してしまうと、一般人は「さようなら」なわけです。
と言うか、最初はみんな一般人なわけですし、誰しも、はじめから「芸術論」ではないはずなわけで、最初のきっかけは「カレンダーの絵」だったりするわけですから、それをことさらに強調する必要もないのかなと。

そこで、「芸術的な環境」に恵まれていることが、どれほど重要なことなのかは計りかねますが、少なくとも、周りがそれを強調する必要と言うのはないように思うわけです。


それに、「芸術的な素養」のない人を締め出してしまうと、結果的には、「芸術」の世界が小さくなって、その小さい世界の中で「あーでもない、こーでもない」と言っているような、つまらないものに成り下がっていってしまうのかなと。

だから、出来るだけ門戸を広く開いて、『誰でも自由に入れますよ』ということにしておいた方がいいような気がします。

少なくとも、私なんかは、そうでないと入って行かれなくなってしまいますから、そういう感じにしておいて欲しいなと思ってしまうわけなのです。


「芸術」は誰でも手の届くところにあった方がいいのかなと。


そのように望んでおります。





「自己実現」とは「欲望の実現」



「自己実現」と言う言葉をとても良く耳にするわけです。


これには、「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」と言うような意味も含まれると思いますけれど、もう少し現実的な印象もあって、社会の中で、自己の位置づけを確立して確固たるものにするというようなこともあるのだと思うわけです。

要するに、金銭や地位・名誉と言った現実的なものに対する「欲望」の達成を「自己実現」と言っている部分がかなりあるのだと思うわけです。


現実的な欲望を達成するのが、悪いことだと言うつもりはないのですが、その種の「欲望」を強く持っている人と言うのは、それを、あえて「自己実現」などとは言わないように思うのです。

彼らは、きっぱりと「お金が欲しいんだ」とか「有名に(偉く)なりたい」と言うでしょう。


そこでなんで「自己実現」と言う言葉が使われるのか?
おそらく、本来ならば、その種の「欲望」を、それほど強くは持っていない人が、「自己実現」と言っているのではないかと思うわけです。
(想像ですが)


そこで、「欲望」を剥き出しにしてまで、それを達成したいと思わないような人たちが、この言葉に”惑わされて”しまっているようにも思えてしまうわけなのです。

「欲望」とか「お金」とか「地位」とかと言われれば、『いえ、そこまでして』と言うような、言わば奥ゆかしい性質の人達が、「自己実現」と言うキーワードを提示されると、それに従って、「自己実現」しなければいけないような時代の空気があって、それによって、本来起こらないはずの競争が起きているように思うわけです。

そして、その競争によって、社会全体が、とても”ギスギス”した雰囲気に包まれてしまっているように思うのです。


欲望の達成に対する「強い願望」を持っている人たちは、常に一定の数で存在するのでしょう。
その人たちにとっては、それがもともとの性質ですから問題はないように思うのです。
そして、そういう人達が居ることは、必ずしも悪いことだとは思わないわけです。

でも、本当ならば、それらの人を横目で見ながら、それとは違う方向を向いて行動しているはずの人たちが、「自己実現」と言うキーワードで「欲望」を増幅させられてしまって、「望んでもいない欲望」や「大してやりたくもない達成」を勝ち取るための競争に向かわされているように見えるのです。

そして、それがどうも不自然なわけです。


「自己実現」には、「社会貢献」や前述の「夢をかなえる」とか「やりたいことを見つける」みたいな、”剥き出しの欲望”とは違う面もあるので、”惑わされ”やすくなっているんじゃないでしょうか?


だから、「自己実現」したいと思っている人は、その前向きな「自己実現」が、実体としては自己の「欲望」の達成を意味することだということを意識したうえで、それでもまだ、そこで競争してまでそれを勝ち取りたいのか?ということに答えを出してから、そこに向かった方がいいのではないのかなと思うわけです。


それから、はじめに述べたような、「夢をかなえる」や「やりたいことを見つける」なんていう非現実的なことと、「お金」や「地位」というような現実的なこととは、原則的に両立することは無いわけです。

それが両立しているケースがあったとしても、それは何かしらの特例であって、それを両立させるために努力するということは、徒労に終わることが多いのだと思います。

「自己実現」と言うと、それらが両立できる範囲のことであるかのような幻想が創り出されて、それが、あたかもリアリティのあることのように思えてきてしまうということがあるわけです。

実際に、「お金」や「地位」を確実に獲得していく人と言うのは、基本的に、初めから「夢」とか「やりたいこと」なんていう実益が薄いことに興味を持っていないことが多いわけです。
と言うか、そういう人たちにとっては、「お金」や「地位」こそが、「夢」であり「やりたいこと」でもあるわけですから、「お金」や「地位」を得ることが出来れば、「夢」も「やりたいこと」も自動的に両立してしまうわけなのです。

でも、「夢」や「やりたいこと」が「お金」や「地位」ではない人は、ほとんど両立できないものを両方同時に得ようとするわけですから、、”イライラ”して来て、”ギスギス”してしまうのだと思います。


つまり、「自己実現」を望むことで、結果的に「自己不満」を作り出してしまっているというわけです。
少し極端にいうと、現代社会に蔓延している「ストレス」の一つが、「自己実現」というキーワードによって引き起こされているように思います。


そもそも、そんなに高い「自己」を「実現」しなければいけないのでしょうか?

そんなことは無いと思うのです。

もっと普通のことを「実現」するだけでも素晴らしいんじゃないかと思うわけです。
と言うか、「人間として当たり前のこと」をするだけでも結構大変で、それだけでも、十分に高い目標かとも思われるわけなのですから、それ以上は、無理なんじゃないかなと。

でも、そういう「当たり前のこと」が社会で認められていなかったりするわけです。
だから、それは「自己実現」とは呼ばれないのでしょう。


「自己実現」という「自己不満」に陥るか、「非・自己実現」という「自己満足」を得るか、と言う選択なのでしょう。
要するに、両方”パッとしない”わけです。

つまり、『どっちみち”パッとしない”』という状況が、「自己実現」というキーワードによって生み出されているような気がします。


でも、そういう”ジミな感じ”のことをもっと積極的に認めて、評価の対象にしていくことが必要になっていくんじゃないのかなと。
そんなことで「ストレス」という「現代最大の病」が克服できるなら、安いもんじゃないのかなと。


そんなことも考えられるのかなと思ったりするわけです。





一気圧のプレッシャー



普通に地球上で生活していると、いつも”一気圧のプレッシャー”がかかっているわけです。

でも、これは「大気圧」だけのことでもないように思われるわけなのです。
世の中にはもう一つ、社会がかけている”一気圧のプレッシャー”もあるのかなと。


みんな、生まれてこの方ずっと”一気圧のプレッシャー”を受けていますから(高地民族とかいう話は置いといて)、それをあえて意識する人はほとんど居ないわけです。

情報として、「大気圧」と言うものを知っているから理解できますけれど、それが無ければ、たぶん自分に四六時中「圧力」がかかっているなんて考えないと思うのです。


それと同じように、いつも社会から受けているのに、全く意識されなくなってしまっている「圧力」と言うのがあると思うわけです。


「社会」は、常に「時代」が指し示している方向へと流れていくものだと思うのです。
そして、その流れの水圧が、「社会の中にいる人間」にはかかっていると思うわけです。


でも、はじめから「社会」の中で生まれて「社会」の中で育つわけですから、「大気圧」と同じで、流れの中にいることも、その流れの水圧によって流されていることも、意識することすら無いわけです。

そういう”一気圧のプレッシャー”が時として、「社会」に生活している人間を、知らず知らずのうちに蝕んでいるように思えるのです。


それが”一気圧のプレッシャー”である間はまだいいのですけれど、いつの間にか「高気圧」に包まれていたり、「低気圧」が張り出して来たり、ということがあるわけです。

でも、普段から全く意識されていませんから、そういう「気圧変動」になかなか気が付かなかったりするわけなのです。
それで蝕まれてしまうのだと思うのです。


ひょっとしたら、この”一気圧のプレッシャー”から逃れることを、「自由」と言うのかもしれないなと、そんな風にも思うのですが、人は「社会」の中でしか生きられないとも思いますから、逃れる術はないとも思ってしまうわけなのです。

唯一出来そうなことと言えば、この”一気圧のプレッシャー”を感じながら生きてゆくことでしょうか。
それは、「自由」への”まなざし”を持って生きることでもあると思います。


叶わぬ「自由」を望みつつやっていくというのも、悪くはないのかなと。


そんなことで、一応納得したような感じ。




「持論」を持つこと



「持論」を持っている人の話には、ついつい引き込まれてしまうわけなのです。

世の中に、これだけいろいろな情報が溢れていても、その人にしか語れないような、独特な言葉と言うのがあると思うのです。


そういった、いわゆる「持論」と言うのは、「ある種の自己満足」だったり、「勝手な思い込み」だったりすることもよくあるわけです。
それに、なんと言っても、”何の役にも立たない”場合が非常に多いわけです。

それなのになぜか、「持論」や「持論を展開する人」には、惹きつけられてしまうわけなのです。


たぶん、それは、その人が丸ごと出てしまっているような、そういう人間的な雰囲気に、惹きつけられて『おもしろい』と思ってしまうのです。


本に書いてあるような”マトモ”なことだと、言っていることが正しくて役にも立つ場合でも、自分がもともと興味のあることでない限り、引き込まれるということは、めったにないわけですけれど、「持論」的なものに出会うと、けっこう理屈が”デタラメ”でも、私は、ついつい引き込まれて、聞かされてしまうのです。


それは、その話の内容が独創的ですごく面白いからとか、ユニークで、今までに一度も聞いたことも無いような話だから、と言うのではなく、内容的にはありふれた話でも、その人独自の視点みたいなものがあって、『その話の中で、なんであえてそこにこだわりますか?』と言うような、その人にしか醸し出せない雰囲気にやられてしまうわけです。

だから、その話が”デタラメ”でも気にならないわけです。
むしろ、”デタラメ”な方が面白いことが多いくらいです。


もちろん、その「持論」を、何らかの権力を笠に着て振りまわすというのは論外ですが、そういう人が振りまわすのは、往々にして「持論」ではなく、教科書に載っているような話なのです。

だから、まったく惹きつけられません。

”デタラメ”な「持論」の方が、よっぽどいいです。


そして、できることなら、みんなが、それぞれの「持論」を持つようになればいいと思います。

教科書に載っていることを言っていれば”ツッコマレなくて”安心だから、みんなが教科書の中に”ヒキコモッテ”しまって、本当は心の中に持っているはずの”デタラメ”な「持論」を隠してしまっていると思うのです。

人から見たら”ツッコミどころ満載”の「持論」こそが、本当のその人の「丸ごとの姿」で、その人にしか語れない言葉だと思うのです。


教科書に載っていることは、学校で学ぶだけでもう十分なので、みんなで”身勝手でデタラメな”「持論」を展開したらいいんじゃないのかなと。


そういう世の中って、なかなか無いけど、けっこうイイんじゃないのかなと。

『いや、良くはないか?』

『いやいや、良くないところがイイんじゃないですか?!』


そんな風に思います。




いま、何かから「逃げること」の意味



「逃げること」と言うと、あまりいいことだと考えられてはいないと思います。


でも、現在は「相対化の時代」でもあると思うわけです。
「相対的」に物事を見た場合、「逃げること」を「攻めること」と捉えることもできるわけです。

つまり、相手から遠ざかることは、相手を遠ざけていることでもあるわけです。


ある一つの基準点を想定して、そこを中心にして全てのもの事を測れば、中心から遠ざかっていくことは、「逃げること」でしか無いわけですけれど、そういう「絶対的な中心」、即ち「基準」を喪失した現在においては、積極的に「逃げること」は、「責めること」にも成り得るわけなのです。

だから、現在、何らかの形で「逃げている人」や逃げ場さえ失くして「ヒキコモッテ」いる人は、その状況を、もっと積極的なものと捉えてもいいように思うわけです。


もともと、なんで「逃げること」になったのかということを考えれば、何か”嫌なもの”があるから逃げるわけでしょうから、そちらが、そもそもの原因なわけで、「逃げている」側ばかりを責めるのもどうかと思うわけです。
と言うよりも、現状を見ると、『逃げるやつは弱い』で済ませてしまうには、あまりにも、「逃げている人」の数が多いと思うのです。

みんながどこかに『逃げ込んでいる』ように見えるのです。


そんなに、みんなが弱いとは思えないのです。
実際に、十分に強い人ですら、何かから『逃げざるを得ない』状態になっているように思います。

そしてまた、さほど強いともいえないような人に限って、『逃げることなく、のうのうとしている』ということも、よくあるような気もします。


いずれにしても、今、「逃げること」を非難しても、なんにもならないような気がするわけです。


こんなにたくさんの人たちが、「逃げているという現実」を直視して、みんなが何から「逃げている」のか?
何が”嫌なこと”なのか?ということを見つけ出して、それを排除していかなければ、結果的には、何の成果も得られないと思うのです。


おそらく、その”嫌なこと”とは社会の効率を高めるために存在しているもので、それを排除してしまうと、利益を阻害されると考える人たちが居るのでしょう。


でも、もはや、それが逆転していて、それを排除できずにいることの方が、余程、社会の利益や効率を阻害しているわけなのです。


ですから、いま「逃げている人」は、自分が社会の弊害になっているものをいち早く見出して、それを排除するための因子となるために、その位置から無言の抗議をしているのだという捉え方をしてもいいように思うわけです。

そして、後になって歴史を振り返れば、きっと、それが事実となっていくのでしょうから、それは、恥じることでも自己憐憫を感じるようなことでもないと思うわけです。

だから、『逃げています』とか『ヒキコモリです』とかいう必要すらもなくて、『いえいえ、あなたたちの方が、私の無言の抗議に耐えられずに逃げているのです』と言ってもいいように思います。


「逃げること」を擁護するつもりで言っているのではありません。
「いま、逃げること」が「普通の逃げること」とは違うように思えるということです。


「逃げている人」が戻ってこないと、「逃げている人達自身」も、「逃げていない人達」も同じくらい困ることに成るのでしょう。


だから、みんなで”嫌なもの”を排除していった方がいいのかなと。
その”ギスギス”して”トゲトゲ”したものを排除していけば、自然に、みんな戻って来るのではないのかなと。


それは何なのか?たぶん「意味のない競争」です。


『なんで、競争するのか?』

『そこに競争があるから』

『意味はない』

『害はある』


以上、

です。



「老化」は「劣化」ではないと思うのです



前に、他の記事でも触れたことなのですけれど、現在日本では、「年をとること」を「劣化」と見る傾向があると思うのです。


確かに、物はすべて経年とともに「劣化」するわけですけれど、それは、あくまで物質的なことに限ってであって、それを精神世界にまで当てはめてしまうことには、問題があると思うわけです。

つまり、本の表紙が擦り切れたり、印刷のインクが薄れてしまったことを、その本に書かれている「内容の劣化」と看做してしまうことは、まったくもって理にかなっていないということですね。

本についてだと、まったく当たり前のことであるのに(さすがに、本がすり切れていることと、本の「内容」がダメだということを混同している人はいないでしょう)、人間についてだと、「老化」と言う「物質的な劣化」が、「精神的な劣化」でもあるかのような誤りが、まかり通ってしまっているように思うわけです。


人間の脳の中の、精神世界に蓄積された情報と言うのは、本で言う所の「内容」にあたるもので、それは劣化することは無いわけです。

そう言うと、年を取って物覚えが悪くなることや、頭の回転が遅くなることは「精神的な劣化」ではないのかということに成るわけですが、それは脳と言う器官の「物質的な劣化」であって、蓄積された「情報」や「思考」の「劣化」とは全く違うものなわけです。


また、一部の人(大半の人かも?)においては、記憶力が衰えるのは、情報の蓄積量が膨大な量に及んだ結果、飽和状態に達したためであり、頭の回転が衰えるのは、思考が高度に複雑化して、非常に曖昧な判断を下そうとするためであるという考え方もできると、私は思っていますので、それは、「物質的な劣化」に限った話としても、やや誤解があると思うわけです。


いずれにしても、「精神世界」は全くといっていいほど「劣化」しないものだと思うわけです。

むしろ、それは年をとることで「変化しなくなる」と言った方が正しいわけで、「進歩」や「発展」はしなくなりますが、「劣化」もしないわけなのです。

「進歩」や「発展」をしなくなるのは、人間の機能の「物質的な劣化」によって起きて来る結果である場合と、「進歩・発展期」から「成熟期」に移行したことの結果である場合があると思います。

そのどちらも、「精神的な劣化」と混同することは間違いであると思うわけですね。


若者が、「老境に至った者」の「複雑化した思考」を理解でないのは、仕方ないことなのでしょうが、当の「老境に至った者」たち本人が、それらの膨大な「情報や思考の蓄積」を、とても粗末に扱ってしまっているわけです。


もっと、誇りをもって『まだ君たち若者にはわからないだろうね』と言っていいように思うわけです。

実際に、若いころには考えつきもしなかったことが、長年かかって徐々にわかってくるということは沢山あるわけで、”デリケート”で、”微妙な”なことに成ればなるほどその傾向も強いわけです。


おそらく、それは膨大な「蓄積」によってのみ成し遂げられる最も複雑な作業であって、「年寄りの戯言」などではないのです。
と言うよりは、その「年寄りの戯言」こそが、実は「最も複雑な作業」かも知れないのです。


だから、年寄りも若者も、それらの「蓄積」を蔑ろにしているということは、本の表紙が擦り切れてしまったからと言って、その本を捨ててしまって、そこに書いてある素晴らしい「内容」をも一緒に捨ててしまうようなものだと思うわけです。


それを大切に扱うことで、「年寄り」においては、自分の「人生の蓄積」を、そこに集大成することが出来るわけですし、「若者」においては、将来の自分が、誇りを保って人生の終焉に向かっていくモデルを見ながら生きていくことができるようになると思うのです。


「老化」は「劣化」などではなく、それは、人生を締めくくるための最後の「変性」なのではないかと思うのです。

それは、長い期間を幼虫で過ごした昆虫が、最後に美しい姿の成虫に「変性」して、その数日後には死んでしまうのと似ていると思うのです。


人間にとって、二十歳での成人は「肉体的・物質的な成人」で、人間の本質に根差した「精神的な成人」は、実は、「老齢期」なのではないのかなと。

そんな風にも思えてくるわけなのです。


※ただし、これは『歳をとったら、威張ってもイイ』ということでも、『若者なんて、話にならん!』ということでもありません。
そんなの当たり前ですよね!



相対化した時代の「芸術の中心」



現在は、一面として「相対化の時代」であると思うのです。

その「相対化の時代」においては、中心と言う概念が失われてしまう傾向があると思うのです。
そんな現在において、「芸術の中心」に果たして意味はあるのでしょうか?


本当のことを言えば、そこに意味はないのかもしれません。

こんなことを言ってしまうと、このブログの中心テーマである「宣言文」で、『いま、芸術の中心を規定しなければならない』と言っていることと矛盾してしまうわけですけれど、実際には、「芸術の中心」自体や、それを模索したことによって得られる成果に意味があるのではなく、それを模索し、設定するという”行為”の方に意味があると思っているわけです。


つまり、「芸術の中心」自体はどこでもいいし、人によって、さまざまでもいいのだと思っているわけです。


私が、最も重要だと考えるのは、それが規定されているという状態です。

「それがいつも意識され、常にそれを規定しようとする力が働いている状態」という言い方の方がいいのかもしれません。


その既成事実がありさえすれば、そこから位置を測ることが可能になってくるわけですし、人それぞれの「芸術の中心」を、身勝手に規定していても、そこからも、また、他のものとの距離を測ることが出来るわけです。


『それじゃあ、規定されていないのと変わらないじゃないか』と言われてしまうかもしれませんが、何も変わっていないようでいて、そこに潜在している意味が違ってくるのだと思っています。


「相対化の時代」に「中心」を設定することは”不可能”だと思いますし、それは事実上の意味を持ちえないわけですけれど、その”不可能”に対して、常に対峙し続けるという姿勢を失ってしまうと、何も生み出されなくなってしまうように思うわけなのです。

ですから、その「芸術の中心」は、常に仮のものであるともいえるわけですが、それでも、そこに向かって行く姿勢を持ちつつ、また、それを維持していかなければ「芸術」と言う枠組み自体が崩壊してしまうと思うのです。

もちろん枠組み自体に固執するという意味ではなく、何も生み出されなくなってしまうということが問題なわけです。

『それでいいのだ』と言われれば、そうなのかも知れませんが、私はそう思わないということなのです。


「芸術の中心」を失うということは、「芸術」を失うことでもあります。
「中心の設定」に自由度を与えることと、それを失くしてしまうことは全く違うことだと思うのです。


相対化することは必要だと思いますし、指し示されたその方向は、間違っていないように思います。
と言うよりむしろ、他に進むべき方向が残されているとは思えないわけです。

ですから、今、最も真剣に考えるべきは、実質的な意味を失った「芸術の中心」を規定するという行為に対して、如何にして対峙し続けるかということだと思います。


それは現在最も”顧みられないこと”であります。
そして、その”顧みられないこと”にこそ力を注ぐ価値があると思っているわけです。

そこを避けて通れば「芸術」から”外れて”いきますし、そこに向かって行けば、”顧みられ”ません。


そんな中で、最も平凡で最も普通の位置に「コロッ」と転がっている、「芸術の中心」を見つけ出していきたいなと。

そんな風に思っているわけなのです。






「仕事ができる」という罠



現代社会において、『仕事ができる』と言う言葉が、とても厄介な「罠」になってしまっているわけです。


現在の職場環境においては、『仕事ができる』は、誰も逆らうことのできない、”絶対的な要素”とみなされているようです。

実際に、いろいろ問題がある人であっても、『でも、あの人仕事はできるから』と言われてしまうと、誰も、それ以上の”ツッコミ”ができなくなってしまうわけです。

逆に、とても人間的に信頼できる人だったり、堅実な人だったりと言うような「価値」は、『でも、あのひと仕事できないよね』の一言ですべて”水の泡”になってしまうわけです。

私は、これが不思議でしかたないのです。

まず、私が見ている限り、仕事と言うものは誰にでもできるものにしか見えないのです。
実際、「仕事ができる人」が居なくなっても、その「仕事」が滞ってしまうということは無いわけですし、その職場が大きく変わってしまうようなこともないわけです。

つまり、他の人でもほとんど同じようなことが出来るということです。
要は、「仕事ができる人」は、それを少しだけ効率よくこなしていたというだけのことなんだと思うわけです。


それから、同期で入社した人の中で、少しだけ早く仕事を覚えた人が、『仕事ができる』と言われ、驚くべきことに、ほんの少し仕事を早く覚えたというだけの、その「仕事ができる伝説」が、定年退職するまで続いたりするということもあるように思います。

どう見ても、実質的な差はごく僅かで、イメージだけで『仕事ができる』と『仕事ができない』に分けられてしまっているようにしか思えないわけですね。

そういった現実を見るにつけ、どうして人間性がもっと重視されないのだろうか?と不思議に思ってしまうわけなのです。

私が見ていると、「仕事ができる人」の「できる」の部分はチョットで、「人をないがしろにする部分」や「傲慢な部分」の方がはるかに大きいようにしか思えないのです。

もちろん、中には「仕事もできて」人間的にも充実した人も居るのでしょうが、少ないと思います。

だって、「仕事ができれば」ほとんどのことが許されてしまうわけですから、余程の人物でない限り、だんだんワガママになるに決まっているわけです。
そして、やはり、余程の人物でない限り、それに気が付きません。


いま、とにかく、『仕事ができる』という「罠」から逃れなければ、”マトモ”な判断は下せないと思うのです。


『仕事ができる』を、何の価値もないことだと考えて、その上で見えてきたものが、その人の本質に近いものだと思います。


「仕事」なんて、みんな十分”できてる”んじゃないですか?
それ以上”できなくても”いいでしょ?
一体どんだけ差があるっていうんですか?


そんな風に思ってしまうわけなのです。




 

「空気を読む」ということ



現代社会においては、「空気を読むこと」が必要以上に重要視されているように思えるのです。
でも、それは単なる”日和見”にしか思えない場合がとても多いわけなのです。


『空気を読む』と言っていますけれど、読んでいるのは、強い立場にある者の「空気」である場合が非常に多いわけで、弱い立場にある者の「空気」を読んでも、それは「空気を読んだこと」にはならないわけです。

つまり、それは日和見的な人間が、自分の日和見的な行為を正当化するために、『空気読めよ!』などと言って、自分の日和見な姿をゴマカシているのに過ぎないわけです。


「空気」なんか読めなくていいと思うのです。
「空気」なんて無視して、やりたいようにやればいいと思うのです。


いま、必要なことは、「空気を読む」ではなくて、
「人の心に同化すること」だと思うのです。


悲しんでいる人が居たら、「自分も悲しくなること」

何かに憤慨している人が居たら、「一緒に憤慨できること」

喜んでいる人が居たら、「自分まで意味もなく喜べるということ」

そういう、感情が希薄になっているように思うわけです。


もちろん、自分自身が「喜怒哀楽」を感じることも、感情の起伏なのでしょうが、人のつながりが薄くなってしまっている現在、人の感情に同化できるということが、最も重要視されていいように思うわけなのです。

そして、そうした「心の同化」から生まれるものが、とてつもなく大きいように思うわけです。


一人の感情は一人分ですが、「同化」して、「共有」された感情は相乗的な広がりを持つのだと思います。

それに比べて、『空気を読め!』はどうでしょうか?
私は、そこに、ちっとも広がりを感じませんね。

いま、「同化」がもっと重要視されていってもいいのかなと。
そして、「空気読め!」はもっと軽視されてもいいのかなと。


そんな風に考えてしまうわけなのです。




「色の形」と「形の色」:「絵画」とは何なのか?



「絵画」とは、いったい何なのだろうか?と考えてしまうことがあるわけです。


『そんなこと、考えたって仕方ないだろう!絵は絵だろう!!』と言われてしまえばそれまでなんですが、絵を描いていて、一所懸命に描きますから、疲れるわけです。
そこで、『何のためにこれを描いているのか?』というところから、『そもそも、これはいったい何なのだろうか?』となってしまうわけなのです。

人それぞれに、違う意見があるのでしょうが、私の場合、「絵画」とは、「色の形」と「形の色」だと思っているわけです。


画面の中で色の面が持っている形、これが「色の形」です。

そして、「自分の中のイメージ」、これをモチーフと言っても、テーマと言っても、なんでもいいと思いますけれど、その「イメージ」に与える色が「形の色」です。


「色の形」だけだと、デザイン的になります。

それは「構図」であると思っています。

それは、その「絵画」の「全体像」を決めるものだと思います。


「形の色」だけだと、説明的になります。

それは「表現」であると思っています。

それは、作者の「言いたいこと」を伝えるものだと思います。


ただし、「色の形」=デザイン的・「形の色」=説明的と言うはっきりしたものではなく、私の中で曖昧にそう捉えているという程度のことです。


いずれにしても、その二つを合わせたものを「絵画」と呼んでいます。
そして、その二つを融合させる過程で、画面に何らかの”チカラ”を与えることを、いつも考えているわけです。


その為の手段や手法や技術などは、なんでもいいと思っています。


いつも”チカラ強く”と考えていますから、今度は、「その”チカラ”っていったい何なのか?」となってしまいます。
キリがありません。

だから、いつも『今日の所はこの辺で勘弁しといてやろうか!』と思うわけです。


「絵画」とは【「色の形」と「形の色」】
今のところ、これ以外の答えは見つけられません。






「独創性」について



芸術に「独創性」は不可欠なものということに成っているわけですが、私はそうでもないのかな?と思っているわけです。


もともと、芸術において「独創性」が重視されるのは、現在の芸術が「自己表現」だからだと思うわけです。


確かに、確立された「自己表現」が、「独創性」を伴うことは多いと思うのです。
しかし、「独創的」なものが「自己表現」であるとは限らないとも思うのです。

つまり、「自己表現」を追い求めれば、結果的に「独創的」に成るという原則はあっても、「独創性」を追い求めれば「自己表現」に至るという法則は無いということですね。


「独創性」を「人と違うこと」と考えた場合、「人」が基準になっているわけです。
だから、本当の「独創性」は、「人と違うこと」じゃなくて、「自分であること」だと思うわけですが、それでも「人と違うこと」を「独創性」ではないと言い切れるのか?と言われれば、それも、また、出来ないといわざるを得ないわけですから、それで、そこに矛盾が出てきてしまうわけなのです。

「自己表現」は「自分」が基準である筈です。
だから、「独創性」を「人と違うこと」と考えた場合は、「自己表現」とは一致しないこともあるわけです。

一般的には、人と違っていれば「独創的」といわれますが、そこには、「より自分的である」と言う基準は無いわけです。


ただ単に、まったく同じ顔をした人が居ないように、まったく同じ「自己表現」もありませんから、「自己表現」が「独創性」と同じように見えているだけで、この二つは、オオモトのところでかなり違っているようにも思えるわけなのです。

それなのに、この二つが混同されていると思うのです。


そして、『まったく同じ顔の人はいない』のも確かですけれど、『人間の顔なんて、みな同じところに目鼻がついている』ということも、また、確かなことなわけなのです。

だから、人間の「自己表現」なんて、”みんな違っていて、みんな似ている”ものだと思うわけです。

ところが、「独創性」が重視されるあまりに、「ナニカと似ているもの」は「独創性」が無いと判断されてしまうわけです。


そこで、みんなして「独創性」を”チマナコ”で追いかけますから、乱獲され尽くして、「独創性」が「絶滅危惧種」に成っているわけです。

と言うより、もう絶滅しているかもしれません。
それすらわからなく成っています。

一時の「ニホンオオカミ」のような状態です。


ひょっとしたら、本当は、他の誰かが「本物の自己表現」として見つけ出す筈だったものを、その前に、ただ単に「独創性」を追い求めた者達が、根こそぎ刈り取ってしまったわけです。

現在は、そういった使い捨てられた「独創性の残骸」のなかで、その残骸のゴミの山から使えそうなものを拾い集めるような作業をやっているようにも思えるのです。


だから、「独創性」から意識を離さなければいけないと思っているわけです。
「独創性」にとらわれて「自己表現」を見失うことは本末転倒でしょう。


でも、です。 
頭から離れないのです。
「独創性」が。


「独創的でありたい」と言う欲求が、なかなか捨てきれないわけです。
そんなことにとらわれずに、自分の「衝動」に意識を集めるようにしたいと思うわけです。


このスッカラカンに刈り取られた状態が特殊なのだと思うわけです。
そういう風に考えて、もういなくなった「希少種」を追うのではなく、普通によく見かけるような「種」の方に目を向けるべきなのかなと。


「イリオモテヤマネコ」が発見されたとき、現地の人たちは、普通の猫が野生化したものだと思っていたという、そんな感じですか?


どっちにしても、「独創性」より「普遍性」かなと。
それよりなにより、「自分性」かなと。


そんな風に思っています。




「精神」は受け継がれることで生き続ける



他の記事で「精神世界」は「劣化しないんじゃないか?」ということを書いたんですが、正確には、「精神」は受け継がれなくなったときに「劣化」するのだと思います。


「精神世界」は物質ではないので、時間とともに「劣化」することは無いと思っているわけです。

ただし、それは、その「精神世界」の所有者本人の存在を前提にしてのことであって、本人亡き後に、その「精神」が受け継がれなくなれば、それは希薄になって最終的には消えてしまうのだと思います。


逆に言えば、「精神」は受け継がれる限り”無期限”で存在し続けるということになるわけです。
そして、そういう長らく受け継がれた「精神」と言うものには、計り知れないほどの量の情報が内包されているのだと思うのです。

だから、何かを”受け継ぐこと”によって、得られるものが、唯一人間を推し進めることが出来るものなのかなと。

そして、「精神」が受け継がれることで、「物質」が”滅びていく様”が美しくなるのかなと。


じつは、「受け継がれる精神」と「滅びゆく物質」の二つだけが、この世にあって、美しいものなんじゃないか?とすら思うわけです。


だから、その二つが一体となったものは、さぞ美しいに違いないと思うわけですね。
そういうのを目指したら、「芸術」に成るんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「色の形」と「形の色」(つづき)



このまえ書いた記事で、私にとって「絵画」とは「色の形」と「形の色」だと言ったのですが、これについて、もう少し付け加えておこうと思います。


先ず、「色の形」とは色の面が持っている形のことを、私がそういっているわけです。
つまり、赤い色を四角く塗れば、その「四角形」が、その赤い色にとっての「色の形」に成るわけです。

でも、「絵画」はベタッと塗られた面だけで構成されるとは限らないので、色の変化があるわけです。
そこで、その赤の色の範囲がどこまでなのか、と言う境界線が「色の形」の輪郭になります。


それが、はっきりしていても、グラデーションのように輪郭線が曖昧な場合でも、そこに「色の形」は存在すると思っています。


「形の色」については、何か表現したいことを、何らかの形に託して、それを絵具で描きますから、色で描くわけです。
その時、その形を描いた色が「形の色」ということに成っています。
(私の中では勝手にそういうことにしています)


具象画であれば、描く対象の”物の形”を絵具で描けば、その色が「形の色」になります。

これは抽象画であっても同じことです。
「抽象画」であっても、やはり何らかの「形」に頼らなければ何も描けませんし、何かを描けば、必ずそこに何らかの「形」が発生するわけです。
(これもやはり、境界線をボカシテいったとしても「形」が完全に無くなるということはないと思っています)

それを「形の色」と言っています。


例えば、具象画で言えば、黄色い花を黄色い色で、花の形に描けば、黄色は「色の形」の”色”でもあり、「形の色」の”色”でもあります。
また、花の形は「色の形」の”形”でもあり「形の色」の”形”でもあるわけです。

従って、その場合は、「色の形」と「形の色」が一致しています。


ただ、これを「黄色い花を描いている」と言うのは、間違いだと思っております。
正しくは、「黄色い花の”絵”を描いている」わけです。

絵を描くときに、「花の形」と「花の色」を借りているだけのことだと思うのです。


つまり、その花を見たときに受け取った”インスピレーション”を、そのまま花の色と形に託して表現したということです。


そして、その”インスピレーション”を何かほかの形や色に託して表現することが、抽象と言うことだと思っております。


例えば、色や形を少し”ズラシ”たりするだけでも一種の「抽象化」に成ると思いますし、まったく”物の形”や”物の色”に頼らずに、一から創作した色と形で画面を構成するのも「抽象」だと思っています。

「具象」から「抽象」までのどこに留まるのかは、作者の好みだと思います。


ただ、どの位置に立って創作する場合でも、その過程で、「色の形」と「形の色」を分けて意識する必要があるように思っております。

その二つを別のものとして意識していないと、単なる模写の域を出ることが出来ないと思うわけです。


つまり、まったくの具象画であっても、「色の形」と「形の色」が、たまたま一致しているだけで、それらを使って自分が表現しているものが何であるのかを、意識できていなければ、それはただ単に、物の形や色を写し取っているに過ぎないわけなのです。

 ※そういうのは、「花の”絵”」を描かずに、「花」を描いているというパターンですね。
  それを「イラストレーション」と言うんだと思います。
  私は「イラストレーション」と「タブロー」は区別して考えるようにしています。

要するに、何かを表現していることにはならないということですね。
正確に言えば、表現しているのは絵を描いている[作者」ではなく、
描かれている「物」の方だということに成るのかもしれません。

花を写し取っただけでは、美しさを主張しているのは花であって、作者の自己表現にはなっていないということでしょう。


つまり、現実にある”物の形”や”物の色”を抜け出して、そこに「自己表現」としての世界を創作するためには、”物の形”ではなく「色の形」、”物の色”ではなく「形の色」、を使っていく必要があるように思うわけです。


『でも、絵具だって物質だから物に違いはないだろ』と言われればそうなのですけれど、『絵の中では絵具は”物”ではない。それは”色”である』と思っております。


ですから、「絵」を描くということによって、絵具の色は純粋な”色”となり、そのことによって、「色の形」と「形の色」を分けて捉えるということが出来るようになるのだと考えております。

だからこそ、そこに「一枚の絵(タブロー)」としての「絵」の意味が生まれるのだと思っております。


印刷された絵やデザイン的に塗り分けられた画面からも、鑑賞者が何らかの”チカラ”を感じ取ることは出来ると思っていますが、やはり、それは「一枚の絵」として描かれた「絵」とは違うのだと思うわけです。

作者が画面を構築するという作業があって、初めてそれは「絵画」と呼べるものに成るのだと思っています。


ですから、絵具を使って、画面を構築するという作業を含まない種類の絵は、「一枚の絵」としての意味を持っていないと思うわけです。

従って、それを「タブロー」とは呼べないのかなと。


そのような、私的な捉え方であります。




「その人にしか出来ない仕事」



前に書いた記事の中で、『仕事は誰にでもできるものだ』と書いたのですが、それは『だから、それでいいのだ』と言うこととも違うわけなのです。


それは、あくまでも、現在、一般的に言われている「仕事」について言ったわけで、本当は「その人にしかできない仕事」と言うのがいいと思ってもいるわけです。


ただ、そういう「職人仕事」と言うのは、組織の中での「仕事」とは相容れないものなので、現在の、組織化した社会においては、意味が希薄になってしまって、そうした「職人仕事」は、特殊なものと言う印象が強く、一般的とは言えなくなっているわけです。

出来うることならば、そういった「その人にしかできない仕事」が一般的なものになって、「ごく普通の仕事」=「その人にしかできない仕事」であって欲しいとは思うのですが、それには、まず「社会の効率化」と言う考えを捨てる必要があると思うわけです。

そして、そのためにも、”現在形の”『仕事ができる』を止めた方がいいように思うということなのです。


もう、人間は効率を犠牲にしても十分”楽して”やっていけるように思うのです。
例えば、貧富の差を均等にならしたとすればですね。

そんな中で、みんなが一つずつ「その人にしかできないこと」を持っているというのは、とても豊かなことなんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っているわけです。




人間は最終的に孤独なのか?



『人間なんて、最終的には孤独なものだ』と言う話はよく聞くわけです。
そして、その通りだとも思うわけなのです。


当然、死んでゆくときは一人ですし、その人がどのような人生を歩んできたのかも、あまり関係なくなってしまうという感じもするわけです。
だから、当然、最後には孤独であることに間違いないと思うのです。


でも、このところ『そうでもないのかな?』とも思っているわけです。


今言ったように、孤独であるということは、間違いのない事実なわけですけれど、反面、それとは逆の方向から考えて、『人間は完全に孤独になれるのか?』と言う疑問が出て来たのです。

そして、『完全に孤独になるということもできないのだろう』と思うわけです。
それもまた、事実に違いないように思えるというわけです。


人間は、社会の中でしか生きていけないものだと思いますので、社会から隔絶した暮らしをしようとしたとしても、それは、そう簡単にはできないようになっているわけです。


そう考えると、まぁ、あえて社会とのつながりを断って生きたい、または、死にたいということでない限り、そう簡単に孤独にはならないようにも思えてくるわけなのです。


結局、孤独なのか孤独じゃないのか、そのどっちなのかはわかりませんけれど、たぶん、その中間なんじゃないのかなと。
だったら、あえて孤独と言うほどでもないのかなと。


これからは、『人間は、所詮死んでいくときには孤独だから』と言う意識を持つのは、止めてしまおうと思うのです。


私は、孤独ほど恐ろしいものはないと思っていますので、これは、とてもうれしい感覚で、これに気が付いてとても良かったと思っております。

だって、孤独になろうとしても、そう簡単にはなれないということですから、私のように、孤独を恐れている人間が、孤独になるはずもないということなわけで、だったら、かなり安心していいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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