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ほとんどのことが「大きさ」で決まっている?



時々、思うことなのですけれど、
世の中のほとんどのことが、実は「大きさ」で決まっているんじゃないのかなと。


例えば、スポーツなんかでも体が大きい方が有利だったりするわけです。

相撲などの体重制が無い格闘技では圧倒的に有利ですし、バレーボールやバスケットでも確実に有利でしょう。

もちろん体の大きさと関係ないスポーツもありますが、それですら、まったく同じ条件で比べた場合、「大きさ」が決定力を持ってくるということは否定できないわけです。


それから、小さい方が有利なものもあるわけですが、どちらかと言えば、一般的なスポーツとしては人気のないスポーツだったりします。
たとえば、同じスポーツの中で比べても、最重量級の人気が高い場合が多いというようなことです。

それだけ、人が「大きさ」に魅力を感じているようにも思えるわけです。


スポーツに限った話でもなくて、企業だって大きい方が有利でしょうし、どんなものでも、かなりの比率で大きい方が”得”な場合が多いように思えるわけです。


「大は小を兼ねる」と言うような感じですか?
ちょっと違うような気もしますが、ともかく、「大きさ」は一つの絶対的な”チカラ”だと思うわけです。


でも、だからこそ、この「大きさのチカラ」を、「芸術」で使うのは、やめといた方がいいんじゃないかなと思っているわけです。


現代美術の作品には、この「大きさのチカラ」を使っているものが多いように思うのですが、それに頼ってしまってはいけないように思うわけです。


「大きさのチカラ」には、今述べたような「絶対性」があるのだと思うわけです。
だから、「作品」を大きくすれば、確実に「力強くなる」と思います。

でも、それは「作者のチカラ」でも「作品のチカラ」でもなくて、「大きさのチカラ」だと思うのです。


だから、できるだけ「大きさのチカラ」は排除していかなければ、その作品における作者の表現が隠されてしまうと思うわけです。

作品を作る上で必要十分な「大きさ」のなかで、常に『できるだけ小さく』と言う発想で考えていった方がいいと思うわけです。
そこで、『どうしてもこの大きさになってしまった』というのが、あるべき姿なのかなと。

※逆に言うと、『どうしても大きくなってしまう』ということは、それに
 見合うだけの構想があってのことだということに成るわけですね。

ほとんどのことが「大きさ」で決まってしまう世の中だからこそ、「芸術」は、それに逆行しなければいけないような気がするのです。


巨大化した作品は、エンターテイメントとしての評価は出来ても、「芸術」としては評価できないのではないのかなと。


そんな考え方で、”「大きさ」で決まってしまう世の中”から取り残されること、それこそが、まさに、私の考えるところの「芸術」の立場であるわけなのです。


だから、そんな考えで行きたいと思っております。




学校で教えてもらいたいこと:初等教育編



人間は、ほとんど教えられたことしかしないのだと思うわけです。
だから、必要性の高いことは学校でしっかりと教えてもらいたいなと思うわけです。
(本当を言えば、教えられたことを元に自分で考えるというのがいいわけですけどね)


現在、学校教育に著しく欠けている部分と言うのがあると思うわけです。
と言っても、「もっと教育プログラムを増やしていろいろなことを教えよう!」という話ではなくて、むしろ、教えなくてもいいことがたくさんあるならば、そちらを止めてしまえば、時間は余るほどあるんじゃないか?ということなわけです。


現行の教育制度が定着してから、ずいぶん時間がたっているわけですし、もういい加減、現状のプログラムの中で不必要に時間がかけられている部分と言うのが見えてきているように思うわけです。


それなのに、ただ単に固定的な考えに縛られて、大きくプログラムを変えられないでいることが弊害になっているわけです。


極端な考え方なのかもしれませんが、音楽や体育、美術など「一応教えましたよ」と言う形式的な、教育者側の自己弁護のためだけにしかなっていないようなプログラムに意味があるとは思えないわけです。
(これは教育に携わっている人を責めているのではなく、現在の学校教育のシステムについての話です)


音楽や美術などの、興味のない人に強制的に教えても、あまり意味を持たないようなものを、完全な惰性で”ユルユル”な授業をやっても意味があるとは、まったく思えません。
(無理にでも「教えてますよ」という形を作ろうとするからそうなるのだと思います)

体育にしても、健康維持の目的はあるでしょうが、実際に成人病に成るのは数十年後なわけで、小学校や中学で、”一応やった”体育の授業が「国民の健康」にどれほど役立っているのかは疑問ですし、子供の健康を考えた場合でも、それが現状の体育の授業で達成されているとは到底思えないわけです。


これらは、何もこうした科目に限ったことでもなくて、現状で、主要な科目であると考えられているような「数学(算数)」や「国語」、「理科」、「社会」、それらのどれについても、、多かれ少なかれ言えていることではないかと思うのです。


つまり、全ての面で教育機会を均等にしようという考えに無理があるということかなと。

むしろ、こういう無理な「機会均等」が不得意なものに対するコンプレックスを生み出しているというケースの方が圧倒的に多いように思うのです。

そして、学ぶことは、日に日に増えていくのに、時間が増えるわけではないのですから、何かを増やしたのであれば、その都度何かを減らさなければいけなかったわけです。

それをせずに、野放図にプログラムを増やしてしまい、手に負えなくなると、その欲張った形態を維持したまま、それを薄めるように授業数を減らして見たりと、その場しのぎのやり方を続けてきたということだと思うわけです。


そして、その結果「学校教育に著しく欠けている部分」が出てきてしまったのだと思うわけです。


いま授業でやっていることの中で、本当に必要なことはどれほどあるのか?となると、「読み書きそろばん」的な生活に必要な「算数」と「国語」と(今は、パソコンの基礎的な習得も「読み書きそろばん」に含まれるのでしょう)、最低限の健康維持のための「体育」ぐらいではないかと思うわけです。


他の科目は、短期間で習得できてしまうような、ごく基礎的な内容で足りるように思います。
と言うか、足りなくても切り捨てるべきなら切り捨てなければ、他に学ぶことがあるのであれば、そちらを優先しなくてはしょうがないんじゃないのかなと。


先ず、「道徳」や「哲学」が完全に”抜けて”います。
『そんなものこそ役に立たないだろ!』と言われそうですが、そういう話になってしまうことこそが、それらが”抜けて”いる証拠でしょう。

「道徳」の無い社会がまともに機能するはずがないわけですし、「哲学」を持たない人が何かを生み出すことは不可能ですから、
それらが”抜けて”いるということは、他のことをいくら学んでも、それが役には立たないということです。


だから、今よりも低学年から(と言うよりもはじめから)積極的に、「道徳」や「哲学」を教えていくべきだと思うのです。

そして、それと似たようなことですが、「読み書きそろばん」の部分はできるだけ早く終えて、今よりもっと早い段階で、個々に適した専門的な教育を受ける機会を作るべきだと思うのです。
(優等生の「飛び級」とかそういうことではなく、全員が受けられる機会としてですね)

そうすれば、現行の大学を終了するのが数年は早くなるのではないかと思われます。


でも、こういうことを言うと、『それでは一部の優等生にとっては良くても、落ちこぼれる子供がたくさん出てきてしまうだろう』と言う人が居ると思いますけれど、それは、子供のことを見くびっていると思うのです。


実は、落ちこぼれる子たちは、”能力がない”子達ではなくて、”やる気がない”子たちです。

やっても役に立たないことや、自分に興味のないことを、半ば強制的にやらされているから、”やる気がなく”なって、落ちこぼれるのだと思うのです。

ここはひとつ、”子供の潜在力”を信じて、専門教育を与える時期を早めてもいいように思います。


不登校が多いのは、一面に「役に立たないこと」ばかり教えているからかもしれないなと。
そこをハショッテ、自分の興味のあることだけやっていればいいのだったら、少しは「学校に”行きたくて行く”子供」が増えるのではないのかなと。

そんな風に思っています。




学校で教えてもらいたいこと:高等教育編



前の記事の続きになります。

現在日本の教育においては、義務教育を終えた後の高等教育においても、著しく欠如した部分があると思っています。


主に大学や専門学校の話です。

教育の最終段階にあって、学問の最高機関でもあるはずの大学(大学院)においても、あまりにも”穴”が多すぎると思うわけです。
そして、そのことが一般社会に悪影響を及ぼすようにも成って来ていると思われるわけなのです。


例えば、医学部のプログラムがどんなものなのかは知りませんけれど、現在の「医療」には、完全に”モラル”が欠如してしまっていると思うのです。


現在の「医療」の状況を見る限り、「医療道徳」と言えるような分野を、独立した学問として医療教育の中に設定する必要があるのはまちがいのないことなのではないでしょうか?

それどころか、「医療における道徳」は、最も基礎の段階の、そのまた最も中心的な位置に設定されるべきだと思います。

もしかしたら、そのようなジャンルが既にあるのかもしれませんが、それが、有効に機能していたら、現状の医療の姿はあり得ないのではないかと思うわけです。


昔から「医は仁術」などと言ってきたために、それが、教えなくても初めから備わっているものと言う誤った認識で、医療教育から排除(または軽視)されてきたのかなと。

これは、このブログで主に扱っている「芸術」においても同じことが言えていて、『「芸術」とは何なのか?』と言う”ど真ん中”のところが抜けてしまっているわけです。

そうして、”ちょっとしたセンスの良さ”とか”表面的なオリジナリティー”こそが「芸術」であるという漠然とした認識の下に、芸術にまつわるすべてのことが回っているわけで、芸術教育も、またそれに準じた形で行われているわけなのでしょう。


でも、このブログでも何度も書いていますけれど、人間は、教えられたことしかやらないものなのだと思います。

だから、「医師」であっても、「教師」であっても、「政治家」であっても、「芸術家」であっても、教えられないことはほとんどできないわけです。


「道徳」を教えられなければ、「道徳的」な考えで行動することは出来ませんし、「哲学」を教えられなければ、「哲学思考」を踏んだ「理念」は構築できないわけです。
「深い思考」を教えられなければ、「浅い芸術」しか生み出されないわけです。


いま、医師や教育者に成るのに「道徳」を学ばなければ成れないというようになっているでしょうか?
政治・経済を学ぶ段階で「理念」を持っていることが問われる機会がどれだけあるでしょうか?
美大に入るのに必要なのは「芸術に対する深い考察」でしょうか?

もし、そう成っていないと言うことであれば、ほとんどの者が、それらのことを”出来ない”ということだと思います。


これと同じようなことは、どの学部でも、どの分野でも、また、大学以外の教育機関でも、言えることだと思います。


要するに、これは『木を見て森を見ず』と言う状態に成っているのかなと。

最先端の研究に目を奪われて、根幹をなしている本質的な部分が抜けてしまっているのではないのかと思えるわけなのです。


現行の大学(大学院)のような学術の最高機関においては、各分野の最先端の研究も大事でしょうが、その前に、各分野の中を”整理して割り振る”という仕事が必要になってきているのだと思うのです。

これは、何も教育を前提にした話に限らず、学問の研究が高度化・複雑化したために、一つの分野の中が、細分化し過ぎていて、一貫したものとして実感できなくなってきているわけです。

一つの分野の中でも、細分化してしまった各部分を割り振って仕分けするような作業をして、系統的にその分野を体感できるようにする必要があるわけです。

系統図のようなもので、その学問の体系を一応知っているというだけでは、現在の複雑化した学問においては、ほとんど役に立たないわけですから、先端の所でやるべき研究や学習に沿った道筋が、かなり前の段階から意識されているべきだと思うわけです。


そういう道筋を踏まずに、ごく基礎的な学習から、いきなり高度な領域に入り込んでしまうために、最先端のところで、いくら”素晴らしい研究”をしていても、それが、十分に役にたたないということに成ってしまっているのではないかと思うわけです。


ましてや、その近視眼的な状態の学問をそのまま教えられても、まだ、知識や経験のない学生が正しく理解できるはずもないわけです。


だから、各分野の中を整理して、先端に行ってから必要になることを前もって教える形で、一本の道筋としてプログラムを組んで行かないと、学問自体も、それについての教育も身動きができなくなって、一歩も前に進めなくなってしまうと思うのです。


特に教育の場においては、必要がなくなったと思える部分は大胆に削り、それで空いた部分に必要性があるものを埋めていくという作業を繰り返していく必要が出てきているということだと思います。


学問の歴史は、当然、どんどん長くなる一方なわけですから、どの分野でも、はじめから全部を完全な形で習得するには、時間がかかりすぎるように成ってきているわけです。

そして、学問の歴史はこれからも伸びていくわけですから、どっち道、何時かは”学びきれなくなる時”が来るわけです。
だったら、今やっておいた方がいいのかなと。
(学びきれなかった部分は、頂点を極めた研究者などが、後から余裕をもって学べばいいように思います)


そうして、”隙間”ができたところに、いま欠けていることを収めていってほしいものだなと。


そんなことが気になってしまう、今日この頃なわけなのです。





「オシャレな芸術」と「オシャレじゃない芸術」



「オシャレな芸術」と「オシャレじゃない芸術」というのがあると思っているわけです。


「オシャレな芸術」とは、その場に馴染む芸術、即ち、「インテリアになるような芸術」です。
これは、「インテリア」を「ファッション」に置き換えても同じことが言えると思います。


「オシャレじゃない芸術」とは、その場の空気を支配する芸術、即ち、「インテリアにならないような芸術」です。
と言っても、私がそんな風に呼んでいるだけで、「オシャレ」=「インテリア」でもないわけですけれど。

また、これはその作品の”良し悪し”とは必ずしも関係ありません。

言えることは、「インテリアになる」ということは、その場に置いてある他の物と”馴染む”ということで、それは、つまり、それらの「芸術作品ではない物」との相性がいいということなわけです。

やや語弊があるとは思いますが、「芸術作品ではない物」と共通の要素を、多く含んでいるということでもあるわけです。


そして、「インテリアにならない」ということは、その場に置いてある他の物とは”馴染まない”ということで、それらと共通の要素が少ないということなわけです。

ただし、先に述べたように、「芸術ではない物」と共通の要素が多いことは、「芸術として出来が悪い」ということではありません。


例えばですが、「芸術性のある家具」というものもあります。
インテリア全般に言えることですけれど、そこにも「芸術性」は有り得るわけです。

私は、実用性ということを「芸術の中心からは遠い」と判断しますが、それは「芸術」の中で、そのものが在る位置のことであって、「芸術作品」としても「芸術性のある実用品」としても、質が低いということではありません。


そして、当然のこととして、インテリアと”馴染む”ためには”相手を選ぶ”という性質が出て来るわけです。

例えば、インテリア同士でも、「ヤスブシンな部屋」にロココ調などの重々しい家具を置けば、まったく”馴染まない”わけで、かえってみすぼらしくなる可能性も大いにあるわけです。


これと同じことは「芸術作品」と「インテリア」の間でも成り立つわけで、「芸術性」を多く含んだ「インテリア」と”馴染む”のは、それだけの「芸術作品」でもあるわけです。

これとは逆に、「インテリアにならない芸術」即ち「オシャレじゃない芸術」は、他の家具などとは無関係に、その場を支配してしまいますけれど、それが、「芸術作品として優れている」ということでもないわけです。


例えば、先ほどの「ヤスブシンな部屋」の例とは逆に、センスのいい家具をそろえたような部屋、つまり、「オシャレな部屋」に、「オシャレじゃない芸術」を持ち込んだ場合、それの”出来が良いか悪いか”には関係なく、その場を支配してしまうわけなのです。

こちらは”相性とは無関係”なわけなのです。


要するに、そういうときに、「最悪の作品はその場を支配して、せっかく出来上がっている統一感を台無しにしてしまう」に違いないわけだし、「最良の作品はその場を支配して、他の物の存在感を消し去ってしまって、やっぱり統一感を失わせてしまう」
に違いないわけなのです。

どちらにしても、他の物との調和は失われてしまうわけです。

ということは、つまり、調和のとれた”居心地の良いインテリア空間”とは言えなくなってしまう可能性が強いということなのです。


なかには、”出来が悪くて”その場を支配するような”チカラもない”といったものもあるでしょうが、それは「オシャレじゃない芸術」ではなくて「オシャレじゃなくて、芸術でもないモノ」なわけなのでしょう。


「オシャレな芸術」と「オシャレじゃない芸術」のどちらが価値が高いのかと言うのは、むずかしいことだと思うのですけれど、たぶん、「オシャレな芸術」は”実用的な価値”では上回っていて、「オシャレじゃない芸術」は「芸術」としての”純粋性”において上回っているということなのだと思います。

そして、創作者としても鑑賞者としても、この二つのうちどちらを選ぶかは、その人が、二つのうちどちらを必要としているかで決まって来るのかなと。


はっきりしているのは、「オシャレじゃなくて、出来も悪くて、芸術でもないモノ」は、誰も必要としていないということくらいかなと。
(純粋な気持ちで作られたモノは、そんなことにはならないと思いますけどね)


そんな風に考えています。




現在のマスコミは”情報を歪める”機関になっている?



現在、マスコミを通した情報と言うのは、ことごとく歪んでしまうわけなのです。
これは、なにも悪意があることに限った話でもないようです。

もしかすると、マスコミと言うものが「情報を歪める機関」に成ってしまっているのかも知れません。


もともと、コミュニケーションと言うのは”情報の伝達”や”意思の疎通”のことなわけでしょうが、それが「マス」+「コミ」に成ると”情報伝達(意思の疎通)を歪める”ものになってしまうということのようです。


まず、「マス」+「コミ」になると、”際限ないほどに大容量の”情報が流されるわけです。
これによって、「本物の情報」が埋もれてしまうわけです。

また、「マス」+「コミ」になると、”疑いの余地がない”情報とみなされてしまうわけです。
これによって、流された情報は選択の余地なく無条件に”ウノミ”にされてしまうわけなのです。

つまり、「本物の情報」が埋もれてしまって見つけ出せないような状態のなかで、無際限に大量に流れている情報の中の”たまたま偶然出くわした”ともいえるような情報が、”ウノミ”にされて、信じ込まれてしまうわけです。

そう考えれば、それが”歪んで”行くのは当然のことなわけですよね。


だから、マスコミの流す情報と言うのは、ほとんどが”歪んでいる”ものだという認識が必要なわけです。
そして、こういう感覚は、マスコミの側にこそ持ってもらいたいと思うわけですけれど、無理なんでしょうか?


どちらにしても、マスコミの大量な情報を排除してしまうと、あまりにも情報量が減ってしまって、とても不安に成るわけですけれども、そこをこらえて、やり過ごす方がいいように思うのです。


どうせマスコミが意図して流している情報なんて、かなりの部分で、何かの宣伝なわけですし、そういう意図や悪意がない場合でも、”歪んで”いる確立は高いわけですから、それを”生真面目に”信用しなくてもいいんじゃないのかなと。


そもそも、『情報は多ければ多いほどいい』みたいな考え方が間違っていたと思うのです。
『情報は本物であればあるほどいい』が正しかったように思います。


だいたい、「本物の情報」であれば、こんなに沢山あるはずがないでしょ。
と言うような”穿った”ものの見方も必要なのかなと。

そんな風に考えざるを得ないような、この情報の”アメ・アラレ”。
もう、よけきることは出来ません。

目を閉じていても見えてくるようなものが
”ホンモノ”なのかもしれませんね。


そんな風に思うしかないわけです。



現世の中の「輪廻転生」



「輪廻転生」と言う考え方があるわけです。
詳しいことは知りませんけれど、要するに「生まれ変わり」ということなのだと思っています。


そういうことが、有るのか無いのかということは、チョットわかりませんけれど、私といたしましては、人間は生きているうちに、けっこう「輪廻」を繰り返しているんじゃないのかなと思っているわけなのです。


まず、一番単純なことで言うと、「寝ている時」かなり「死んでる」と思います。
「朝起きたとき」かなり「生まれ変わってる」と思います。
「一日経つうちに」、たいてい「元に戻って」ます。

「その繰り返し」です。

かなり「輪廻転生」的だと思います。


それから、日々の生活の中で、”何かに気づく”ことがあります。
それが、とても重要なことに思える時もあれば、取るに足らないようなことにしか思えない時もあるわけです。


でも、どちらにしても”気付く”前と後では、そこに見えている世界は、厳密に言えば「違う世界」だと思うわけです。
それを、周りの世界が変わったと思うか、自分が「生まれ変わった」と思うかは、ほとんど大差のないことのように思うわけです。

これなんかも、ほぼ「輪廻転生」のように思います。


つまり、「寝て起きること」も、「何かに気づくこと」も、毎日起きていることですから、かなり「毎日が輪廻転生」なわけです。


これらに加えて、よく言われるような、「大病をしたとき」や「臨死体験をした」などの人生の大事件や、「ある人との出会い」や「運命のいたずら」みたいなドラマチックな出来事も加わってくるわけです。

つまり、「毎日の輪廻転生」と「毎月の輪廻転生」と「節目節目の輪廻転生」やなんかが、多重層に、折り重なって起きているような感じがするわけです。

だから、そこに「死んでから生まれ変わる」みたいな、本当の意味の「輪廻転生」が加わっても、あまり変わらないような気がしてしまうわけです。


と言っても、特に「生まれ変わり」を実感することがあるというわけではありません。
私が、実感できるのは「死ぬこと」までです。

これは『死んだことは無い』のに実感できるわけです。
そして、それが一番”普通”のことだと思っています。
そして、”普通”が一番いいと思っているわけです。


「死ぬこと」は「生きること」の延長にあると思っています。
そして、「死に方」のために「生き方」があると思うようになってきているわけです。

ですから、「死んだ」後に、また「生きる」があると、そこのところが、チョット違ってきてしまうわけなのです。


それだと、「死に方」のために「生き方」があるだけじゃなくて、次にまた、「生き方」のために「死に方」があったということになってしまうので、「区切り」がなくなってしまうわけです。


「生まれ変わり」が、あるのかないのかと言うよりは、自分勝手な都合で言えば、「区切り」が必要なわけですね。


人間は無際限なものを把握することや、理解することは出来ないと思うんですね。
だから、無際限なものを想定した考えは、人間が、それを把握できるようになるまで「オアズケ」にしておいた方がいいように思うわけです。

人間が無際限なものを理解できるようになれば、きっと、それは”普通”のことに成って、私のような”普通”の人間にも、容易に理解できるようになるのでしょう。

そうすれば、”不思議”なことが”当たり前”になって、”普通”に成るのでしょう。


でも、なんとなくですが、それを、いま既に解っていることにしてしまうと、ずっと解らないままになってしまうように思うのです。
少なくとも、”普通”の人にはですね。


そんなような意味でも、”不思議”は”解らない”ということにしておいた方がいいように思ってしまうわけなのです。


「解る人と解らない人が居ること」を作ってしまうと、そこに、格差が生まれるわけです。

つまり、「できる人と、できない人」と言うのと同じで、「解る人」が上で、「解らない人」は下、と言うように位置づけられてしまうわけなのです。

それを言っている人達がどう思っていても、ごく自然に、そういう位置関係に成ってしまうのだと思います。


いま、人間が居る所がその辺なのかなと。

そんな風に思っているわけです。




「有料文化」と「無料文化」



文化には、「有料文化」と「無料文化」があると思うわけです。

要するに、お金を払って享受する文化と、”タダ”で受けられる文化ということです。
(と言っても、いま私が勝手に言っているだけのものですけど)


「有料文化」は、美術館や映画館、コンサートなどの、「文化」自体を商品とした「文化」です。
もちろん、本や音楽CDを買うのも「有料文化」になります。

それに対して、「無料文化」の典型がテレビなわけです。
最近ではYOU TUBE やブログなんかも「無料文化」にあたると思います。


もちろん、「無料文化」の方でも、巡り巡って何かしらの課金が発生してはいるわけですけれど、受け手は、それを意識していませんし、それ以前に、そのお金は「文化」自体に対して支払われたものとは言えないので、やはり「無料文化」なのかなと。


そして、何が言いたいのかと言うと、テレビ以来のこの「無料文化」が、いま振り返って結果的に、良くなかったように思うわけなのです。

『”タダ”だから、いい』と思ったのが間違いだったように思うのです。
やはり、なんにでも「適正価格」と言うものがあるのかなと。

 ※私は「芸術」に関しては、理想を言えばおカネで売り買いしない方がイイと
  思ってるんですが、ここで言う「適正価格」と言うのは、(「芸術」に限っては)
  やむを得ずおカネでやり取りすることを前提にした場合の話です。


テレビの歴史もかなり長くなってきているわけですけれど、はじめのうちはよかったのだと思います。

でも、やり続けているうちに、見る側も作る側もだんだん”垂れ流し”的になっていって、今となっては、もう、とても人が見られるような代物ではなくなってしまっていると思うわけです。
(いい番組もあるのでしょうが、全般的にみた場合にはということですね)

それでも、敢えて文句を言う気にならないのは、”タダ”だからでしょう。

それでも、また見てしまうのも、”タダ”だからでしょう。

いや、それどころか、見ていなくてもスイッチをつけてしまうのも、やっぱり、”タダ”だからでしょう。


この「無料文化」の”垂れ流し的配信”と”垂れ流し的享受”と言う方向を、だれかが修正しなければいけなかったような気がしてならないわけです。


もちろん、ケーブルテレビなどは出てきたわけですが、「有料文化」の方は昔から結構あるわけで、問題は「無料文化」が存在するという事実の方ですから、そちらを何とかする必要があるわけです。

そして、現在、新たにネット上の「文化」もまた、「無料文化」の方向へ向かっているわけです。
これは、まさに「悪貨は良貨を駆逐する」になってしまっているわけです。

”タダ”に対抗できるものは、そうそうないわけですから、そうなると、内容のある「文化」は出てこられなくなってしまうと思うのです。


やはり、何かしらの規制、または援助が必要なのではないかと思うのです。

「表現の自由」とか「言論の自由」とばかり言って、その”自由に縛られて不自由になる"ことほど愚かなことは無いわけですから、本当の自由がどこにあるのかを考えて、「文化」を育成していってもらいたいなと。

と言うか、本当のことを言えば、そんなやり方は不自然なんだと思いますが、こういう「経済的な力」が、それ以上に不自然すぎるので、尋常な考えでは対応できないんだと思いますね。


そんな風に思ってしまうわけですね。





「適正価格」について



前の記事で、「文化」にも「適正価格」があるのではないかと書いたわけですが、これは、他の物にも言えることだと思うわけなのです。


このところ、景気が良くないせいか、商品の価格が低めに設定されている店が多いと思うのです。

私のような貧乏人にとっては、ありがたいことなわけですけれど、反面、『こんな価格で売るためには、どんなコスト削減をしているのだろうか?』と考えると、到底いい原料を使っているとも、手間のかかる製造工程を踏んでいるとも思えないわけなのです。


それでも、やっぱり同じ種類の商品の中で一番売れるのは、一番値段が安いものなわけで、それは、ほぼ鉄則と言ってもいいわけです。

つまり、結果的に消費者は品質の低い商品を買う羽目になってしまうわけです。

もちろん、高品質、高価格の商品を買えばいいわけですけれど、そちらは、たくさんは売れませんから、どうしても品質以上に割高になってしまうわけなのです。

そうなると、安いものを買った場合も、高いものを買った場合も、どちらも「適正価格」とは言えないわけです。


大多数の人が満足する品質と言うのがあると思うわけです。
そして、それを製造するのに適正なコストと言うものもあると思うのです。

更には、そこに上乗せされる利益についても「適正」があると思うわけなのです。

つまりは、そういった、
「大多数の人が買うことができて」
「大多数の人が満足できて」
「大多数の企業が製造することが出来て」
「大多数の企業が順当に運営していくことが出来る」
ような、言ってみれば、一番”マットウな”商品が、ほとんど市場から締め出されてしまっているわけです。


要するに、もう、価格競争の時代ではないと思うのです。

何かしらの”公”な機関がなるべく多くの品物について、「適正価格」を決めて、その中での品質や、コスト削減で、競争していくべきだと思うわけです。


そうすれば、値段が同じなわけですから、当然、消費者は品質のいいものしか買わなくなるわけです。

だから、コスト削減といっても、品質を落とすようなやり方をすれば、あっという間に売れなくなってしまうでしょう。

つまり、高品質なものを作った企業の製品が売れて、そこで、なおかつ品質を下げずにコストを下げられれば、その分だけは利益が増すというわけです。


もともと「自由競争」とか「自由経済」とは言ってきましたけれど、実際には、なんだってほとんどのものが、より大きな企業の独占状態だったわけで、より小さな企業が入り込めるのは、大きな企業が見落とした”チッチャイ隙間”だけだったわけで、ちっとも「自由」なんかじゃなかったと思うのです。


だったら、「不自由になってしまった自由」を規制する枠組みがあってもいいと思うのです。
その中で、生産者も消費者も双方が「???」にならない範囲で出来る「品質の競争」が展開されるようになればいいのかなと。


もともと、日本は「物づくり」には長けていたわけですから、そういう「品質の競争」が展開されるようになれば、世界に対しても、力を発揮できるんじゃないのかなと。

これは、日本だけが有利になるとかいうことでもなくて、世界経済の中で見ても、「資本主義経済」や「自由主義経済」の行き詰まりのなかで、誰も根本的な打開策を考えようとしてこなかったと言う事実があるわけです。


「自由」と言う言葉が「ご神託」のようになってしまって、それに対する解釈を、柔軟に”時代に対応した”ものに変化させることが出来なかったことで、”落とし穴”が出来上がってしまっているのだと思うわけです。

そして、そういう”落とし穴”を塞がないで、その場だけを乗り切るための経済政策ばかりを展開し続けてきたわけです。


別に、他国と比べてどうということではなく、日本の本来の特性が生かされているようには到底思えない状態が、もう、ずいぶん長く続いてしまっているように思うわけなので、そろそろ、あるべき姿に帰ってもいいんじゃないのかなと。


そして、それは世界中のあらゆる国々で同じことが言えるのじゃないかなと。

そういうことが言いたいわけなのです。


いや、違います。
本当に言いたいのは、「経済」のことなんかじゃないわけです。

ただ単に、「いいものを作ろう」という純粋な気持ちでもって、『物を作る』っていうだけのことなわけです。

そういうことが、世界中から消えていきつつあるように感じてしまうので、何とか取り戻せないのかなと。


そう思って言ってみたわけですね。





「参加型の芸術」



「参加型の芸術」というのが、増えて来ているように思うのです。
そして、『そこに「芸術の未来」があるのではないか?』と言われることがあるわけです。

でも、私は表現者と鑑賞者の境界を曖昧にしてしまうことに、「芸術の未来」はないと思うのです。


いや、むしろ、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者は、真っ向から対峙してこそ「芸術の未来」と成り得るのだと思うわけなのです。

 ※私は「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を対等に対峙する関係と考えるために
  「芸術家」という言葉の代わりに「芸術者」という言葉を使っています。


「参加型の芸術」を否定するわけではありまんし、そういう「芸術」もあっていいとは思います。

でも、『そこに「芸術の未来」があるのか?』といえば、『無い』と思うのです。
あるのは「芸術の現在」だけですね。

要するに「流行」っていうことだと思うわけです。


「参加型」であることで、見に来る人の幅が広がるでしょう。
「参加型」であることで、見に来る人の数が増えるでしょう。
「参加型」であることで、見に来た人は喜ぶでしょう。
「参加型」であることで、一度見に来た人がまた来るように成るでしょう。
そして、以上四つのどの点でも、テーマパークやスポーツイベントには及ばないでしょう。

上の四つまでは”エンターテイメント化した”からで、最後の一つは”エンターテイメントにはなりきれない”からでしょう。


もともと、芸術は”エンターテイメント性を排除した”唯一の娯楽だと思うわけです。

『娯楽ならエンターテイメントだろ!』と言われそうですよね。
確かに、”ほぼその通り”なのだと思います。

でも、ほんの僅かですが、娯楽はエンターテイメントよりも広い領域だと思うのです。
そのほんの僅かの違いの部分にあるのが「芸術」だと思うわけです。


「エンターテイメント」は「楽しさ」や「面白さ」を追究しますが、「芸術」では「美しさ」や「真実」を追究します。

「エンターテイメント」では「みんなが楽しめること」を目指しますが、「芸術」では、「みんなが面白いと思うこと」は目指しません。

作者は自分の中にある「真実」を鑑賞者が共有してくれることを望むものだと思いますが、それは「目的」ではなく、「結果」としてです。


そこにエンターテイメント性が全くないとは言いませんけれど、結果として、「芸術性」を追究すれば、「エンターテイメント性」が失われていくというのは、”必然”だと思うのです。

「芸術性」とは、そういうものなのではないかと思うわけです。
だから、「エンターテイメント」を「芸術の未来」とか「芸術の中心」に据えてしまうと、「芸術」は存在意義を失って、自己崩壊してしまうように思うわけです。


ほかにも「エンターテイメント」だけでは成り立たないジャンルはあります。

例えば、スポーツにおいて「面白ければいいだろ」ということで、「真剣勝負」の要素が薄められてしまえば、きっと、スポーツと言うジャンルは自己崩壊してしまうでしょう。


プロスポーツの選手たちが、『プロなんだから見せ場、作んなきゃ』ということで、『ここは、俺が負けるとこなんじゃないか?』と、”場の空気を読んだサービス”をするようになれば、一度か二度は、盛り上がるかもしれませんが、たぶん、続かないでしょう。
(「八百長」云々は抜きに考えたとしてもですね)


結果的に、それは「芸能」と区別がつかなくなってしまうでしょう。
極端に切り詰めて言えば、それは「体を張った演劇」ということになってしまうわけです。


『それでも面白ければいいじゃないか!』と言われればそうなのでしょう。

ただ、それは「もう、スポーツではない」ということです。
そして、スポーツと言うジャンル全体が、そういうふうになれば、スポーツと言うジャンルが自己崩壊してしまうということです。


スポーツの場合は、もともと「ゲーム」ですから、「面白さ」を追究するジャンルでもあるわけです。

それですら、このようなことはあるわけですから、もともと、「面白さ」を追究していないはずの「芸術」で、「参加型」と言う「エンターテイメント」を「芸術の未来」に据えてしまえば、自己崩壊は必至ということでしょう。


これは、ただ単に”「行き場」が見つけられなくなっている”だけだと思うのです。

要するに、”苦し紛れ”な感じがするわけですね。


あらゆることがやりつくされてしまった感がある中で、何か目新しいものを提示されると、どうしても、それに飛びつかざるを得ないといった、『藁をもすがる』というような感じがあるということです。


いま必要なのは、鑑賞者が「芸術」に参加できることでも、作者と鑑賞者が一体化しすることでもなく、「表現する側の人間」と「それを受け取る側の人間」が、強い気持ちで”対峙すること”なのではないかと思うわけです。

そして、作者と鑑賞者の双方が、そういう「真剣勝負」を展開することが出来るような「芸術の場」と「時代の空気」を作ることが求められているように思います。

現在は、「表現する側」も「それを受け取る側」も、「空気の読み合い」をしているように見えるのです。

「表現する側」は『こんなのがウケルんじゃないか?』といつも読んでいますし、「受け取る側」は『これを面白いと言った方がカッコイイんじゃないか?』といつも読んでいます。

そこに「真剣勝負」の気配はありません。


こういう「小競り合い」のようなことを繰り返しているうちに、自己崩壊が始まってくるということかなと。


そういうことを思わざるを得ないということが、とても寂しいことのように、思ってしまうわけなのです。




「DNAが運んでいる情報」は「人間の情報」ではないと思うのです



「DNAが運んでいる情報」について、その情報こそが、人間と言うものの実体であって、個々の人間は、それを世代から世代へつないでいくための”器のようなもの”に過ぎないと言う考え方があると思うわけです。

それは、それで一つの事実なのかなとも思うのですけれど、私は、「DNAが運んでいる情報」は「人間の情報」ではないと思っているわけです。

つまり、「DNAが運んでいる情報」とは、「物質としての人間」や、せいぜい「生物としての人間」の情報であって、人間自身が捉えている人間としての「人間の情報」ではないと思うわけです。


ここでいう、人間自身が捉えている人間とは、人間の中の「人間的な部分」ということです。

私には、この「人間的な部分」が、すべて遺伝子によるものだとは、到底思えないわけです。
と言うか、そこから外れた部分こそが、「人間的な部分」なのだと思うわけです。


例えば、「本能」は遺伝子に組み込まれているのでしょうが、人間は「本能」から外れたこともするわけです。
つまり、全てにおいて「遺伝子の命じるままに動かされている」とは言えないと思うわけです。


『いやいや、それも含めて遺伝子の指図したことなんですよ』と言われてしまえば、目に見えないことなので、『違う』とも言いきれませんが、このような『遺伝子が指示を出している』と言う考え方が、『それチョット違うでしょ!』と思うわけです。


実際には、遺伝子は情報を伝えているだけで、なにひとつ、指示したりはしていないわけです。

もっと言えば、情報を伝えてさえいなくて、情報を記録しているだけなわけです。


実は、それらの情報を管理していたり、使ったりしているのは、いま生きている個々の人間の脳なわけです。
そして、そこに生み出される一つの世界を、「精神」とか「心」とか「魂」と呼んでいるのだと思うわけなのです。

そして、それこそが正に「人間的な部分」なわけです。


確かに、その「脳」も遺伝子情報に基づいて構成されてはいるわけでしょうが、それは「脳」の組織についてであって、その中で、”今”生み出されている思考ではないと思うわけです。

つまり、ここでも「DNAが運んでいる情報」は、あくまで”物質的な範囲”のものであって、”人間的な範囲”にまでは及んでいないと思うわけです。


実際は、「DNAが運んでいる情報」が人間の実態なのではなくて、いま、個々の人間が行っている「行為」や「思考」が人間の実態であって、それらの「思考」や「行為」が情報源となってDNAに記録されていくのだと思うわけです。


これは「ニワトリが先かタマゴが先か」みたいな話になってしまうわけなので、どっちでもいいと言うようなものなわけですけれど、いま居る人間の創り出している情報が”サキ”で、遺伝子は”アト”だという方が理屈があっているように、私には思えるということです。


それから、『「DNAが運んでいる情報」こそが人間の実態である』と言っても、何も生み出せる気がしませんが、『今、人間が次の世代に伝える情報を作っているのだ』と言えば、何かが生み出せそうな気になれるということはあるのかなと。


そんなところで、よく知りもしないことを言ってみた。




「ポジティブ」と言う呪文



「ポジティブ」と「ネガティブ」については、このブログでも何度か書いてきたわけですけれど、現在の日本では、もう本当に「ポジティブ」が呪文のように繰り返し唱えられているわけです。


わたしには、これがどうしても不自然に見えてしまうわけですけれど、とにかく「ポジティブ」と言えば、ほとんどのことが通ってしまいますし、どんな無理な状況でも「前向き」に捉えることが”良し”とされてしまっているわけです。

反面、「ネガティブ」なことを言うときには、たとえ、それが理にかなった批判でも、『ネガティブですいません』みたいな言い訳をつけなければいけないような雰囲気があるわけです。


普通に生活しているだけでも、『なんでそうなるかなぁ』と言うような「ポジティブ」や「前向き」に、しょっちゅう出会うわけです。

この「ポジティブ信仰」や「前向き教」が、いつの間に、これだけ広まったたのかはわかりませんけれど、少なくとも、自分のことに限って言えば、子供の時や若い頃には、「前向きに」とか「ポジティブに」ということを言われた記憶はほとんどないわけです。


もちろん、なんにでも”むやみに”反対する人とか、理屈の通らないような”頭ごなしの”批判をするような人は、「あまのじゃく」と言われて、あまり好かれませんでしたが、それでさえ、『前向きに考えろよ』とか、『ネガティブに考えてはいけない』という言い方はされていなかったように思います。

その人たちが、嫌われたのは、「反対する」や「批判する」の部分ではなくて、”むやみに”や”頭ごなしの”の部分だったように思います。


そして、今、「反対する」や「批判する」の部分だけがひっくり返って、『むやみに賛成する』や『頭ごなしの肯定』になっているように思うわけです。

そして、その「むやみに」や「頭ごなしの」は、ほとんど批判されないわけです。
批判すれば、その人の方が「ネガティブだ」と言われて、あっという間に「返り討ち」にされてしまうわけです。


『そいうのって、ポジティブって言うんですか?』ということを感じている人は、少なくないんじゃないかと思うんですが、それを言い出しづらい雰囲気があるわけです。

要するに、『ポジティブな世の中じゃなかったときの方が、よっぽどポジティブ寄りだった』と言う感じがするわけです。


なぜ、こうなったのかは解りませんけれど、今の状況は、カルト宗教の団体の中にいるような感じがしてしまうわけなのです。

カルトは言い過ぎかもしれませんが、盲目的になってしまっていることは確かなことなんじゃないかと思うのです。
”絶対逆らえない掟”のようなものになってしまっているように見えるわけですね。


なぜ、そこまで頑なに「ポジティブ」じゃなきゃいけないのか?
なぜ、そんなに無理してまで「前向き」であろうとするのか?

答えられる人っているんですか?と聞きたくなてしまうわけですね。


だから、呪文を唱え続けても、たいして良く成らないならば、取り敢えず、一回そこから離脱してみませんかと。

そんな風におススメしたくなってしまうわけなのです。



宗教のソフト化



宗教がソフト化してきていると思うわけです。


最も端的な例で言えば、他の宗教を排斥しようとしなくなったということです。
その分だけでも、争い事が減ったのであればいいことだとは思うのですが(本当に減ったのかどうかはわかりませんが)、宗教の本質を考えると疑問が出てきてしまうわけなのです。


もともと、宗教は、自分たちの信じる「神」や「教義」を、”絶対”とすることを基盤として成り立っているものだと思うのです。


それなのに、他の宗教を認めてしまったら、「自分たちの信じる神」が「唯一無二の絶対者」ではないということになってしまうわけです。

そこのところを、、『神は一つであって、宗教の違いは些細なことである』と言ったとしても、その「些細な違い」があるということが、”絶対”ではないということになってしまうわけです。

やはり、『それは些細な違いだろ』と言うのは人間レベルだと思うのです。


もしも、一つの「神」であって、かつ、その「神」が”絶対”であるならば、その「神」の言葉である「教義」や「教典」は、一語一句まで全て同じになるはすで、それが違うということは、その「神」が違う「神」であるということなわけです。

そうでなければ、その「教え」は、どちらかが「偽り」であるということになってしまうわけなのです。


要するに、「争い」を避けるために、その辺をあえて曖昧に捉えるようになってきたのだと思うわけです。

それは、それでよかったのかも知れません。


そして「スピリチュアル」というものも
そうした「ソフト化した宗教」の一種なのだと思うのです。

「スピリチュアル」の場合は、『神は世界に遍在している』と言うような考え方なのだと思います。
『世界全体が神で満たされている』と言う感じでしょうか?

だから、わけ隔てる必要がないのでしょう。


「争い」が少しでも避けられているのであればいいことだと思うのですが、”絶対性”を曖昧にすると、宗教の「存在意義」がなくなってしまうのではないかとも思うわけです。

もともと、”絶対”であることで「拠りどころ」となり得たわけですから、”絶対性”が曖昧になれば、”頼りにならなく”なってしまうわけです。


また、「スピリチュアル」は、『世界は神で満たされている』という考え方なのであれば、もうすでに「スピリチュアル」な世界が実現済みなわけですから、それ以上は必要ないということになってしまうと思うのです。

あとは、その「実現されている神の世界を」楽しむという、「娯楽」のようなことに成るのかなと。
それは、いま現在「平和な社会」でしか”享受できない”ものなのではないかと思うのです。


戦争や内戦が日常化しているような地域で、そういう”おおらかな”考え方をするのは、難しいことのように思うのです。

それができる人もいるかもしれませんけれど、ほとんどの人はできないでしょうし、『それができないことは、残念なことだ』という考え方は「酷」だと思うのです。


やはり、「神」などの”絶対的”なものを基盤において考えて行けば、必ず「争い」が起きるのだと思うのです。
それなのに、その「神」は”絶対”ではなくなっているわけです。
(個人の中でではなくて、現代と言う時代の中でですね)


1.”絶対”とは言えなくなってしまった「神」を信仰しながら「平和」を求めていくのか?
2.「神」に与えられた「平和」を享受して、「争い」とは無縁の暮らしを追究するのか?
3.人間が「神」に頼らず「自己責任」で「平和」を創り出していこうとするのか??

と言う選択肢なのだと思います。


人間が「自己責任」で「平和な世界」を生み出せるのかどうかはわかりませんけれど、少なくとも、そこに向かうことは「ある種の前進」なのだと思うわけです。

そして、自分でできないことは、「神」に頼ってもできないような気がするわけですね。

他の二つの選択肢は、時代の流れの中で見ると、「ある種の保留」なのかなと。


いずれにしても、『平和が好き!』ということなので、「宗教」や「スピリチュアル」を否定するものではありません。
それらは、個々の人の「心の中の平和」を実現するのには有効なのかも知れません。

それから「世界を平和にしよう」と言う話でもありません。

「時代の流れ」と言う視点で見ると、こんなことが起きているように見えるということです。


さしさわりがあったら、ごめんなさい。




「助け合うこと」は、もう「人間の習性」だと思うのです



「助け合い」とか「思いやり」とかという話になると、そういうことを、かなり強い口調で否定する人が居たりするわけです。


そういう人たちの主張で、多いのは、『そういうのは偽善だ』とか、『そんなことをしても相手のためにもならない』とか、『弱肉強食や自然淘汰と言った摂理に反している』といったものだと思うわけです。

要するに、「助け合い」や「思いやり」は”不自然な”行動で、それらをしない方が、よほど”自然な”ことだと言っているのだと思うわけです。


でも、時として、そういう人たちの行動が、とても”無理している”ように見えるときがあるわけです。
実際には、「助け合い」や「思いやり」も、もう、とっくに「人間の習性」になっているのだと思うのです。

それらは、「弱肉強食」や「自然淘汰」と対等なぐらいに、「人間の習性」として浸み付いてしまっているのだと思うわけです。

だから、それらをあまり頑なに避けようとすると、かえって無理をしているように見えてしまうのかなと。
(しかも、これは「助ける側」だけではなく、「助けられる側」の人にもよくあります)


だから、「助け合わない」とかえって”不自然に”なるような時だけでも、

「助け合って」いけたらいいんじゃないかなと。


そんな程度でも、ずいぶん”ギスギス”した感じがなくなるように思うのですが、

どんなもんなんでしょうか?



「人間は特別な存在」ということにしてしまった方がいいのでは?



エコロジーなどの『地球環境を守ろう!』と言う話においては、『人間はもっと謙虚になって、自然を大切にしなければいけない!』と言われることが多いと思うわけです。

確かに、そのとうりだと思います。


人間と言うのは、いつも、あまり”後先考えず”に、自然を、いとも簡単に破壊したり、そうかと思うと、唐突に過剰な保護をしてみたりと、何かにつけて、やり放題なわけなのです。

だから、『もっと謙虚になって』と言うのは、当然な話ではあるわけです。
ただ、これがあまり”功を奏していない”ということが問題なのです。


人間が、文明を手に入れたことで、自分たちを「特別な存在」だと勘違いしてしまって、自然や、地球環境を踏みにじった行為を侵すようになってから、もう、だいぶ時間がたっているわけですけれど、それらの行為が根本的に改められるような兆しは、まだまだ見えてきていないように思えるのです。


これは、どうやら『人間は特別な存在ではない』と思おうとすることに無理が出てきているのかなと。
いっそのこと『人間は特別な存在である』としてしまった方がいいのではないかと思うのです。

『人間は特別な存在である』と言う人間の”勘違い”は、もう、そう簡単になくならないように思うわけです。
どうせ、変わらないならば、『人間が特別である』と言う前提で、『どうするのか?』を考える方が”マシ”なんじゃないのかなと。

「特別」だから『やりすぎてはいけない』と言う感じで、今までの『人間の力を過信してはいけない』と言う方向ではなくて、『人間の力がこんなに凄いんだから、こんなことしちゃまずいでしょ』と言う方が、まだしも有効なんではないかと思うわけです。

そして、そういう方向で一本化できれば、「自然保護」や「環境問題」に対する議論も、今のような”お座なり”のものではなくなるかもしれません。


現在は、この「人間の力」に対する「過信」と「謙虚」が時と場合によって都合よく使い分けられてしまっているのだと思うわけです。
(環境保護の側と、産業重視の側の両方に言えることだと思います)


むしろ、完全に「過信」し切ってしまうことで、やっていることの本当の”無意味さ”や、”だらしなさ”が見えて来るんじゃないかなと。


そんな風に思うときもありますね。
(思わない時もあります)




「時代」に身を任せると、とんでもない所に連れて行かれるよ!



「時代」についての話で、『いまの時代はおかしい』と言うと、必ずと言っていいほど、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言う人が居るわけです。

でも、これは『歴史から学んでいない』と思うのです。


人間の過去の歴史を見れば、一目瞭然だと思うのですけれど、人間は過去に、かなりたくさんの「尋常ならざる時代」を築きあげてきているわけです。

ナチス統治下のドイツや、世界を股にかけた「奴隷貿易」と言う、”人間の所業とは思い難い”ようなシステムなど、挙げればきりがないくらいに、「尋常ならざる時代」は沢山あると思うわけです。

日本だって例外ではなく、”天皇陛下は人間ではない”と信じられていて、”竹槍でB29を落とせる”と思われていたのは、たった数十年前のことなわけです。


そして、この「尋常ならざる時代」には、”マトモな”話はいっさい通じないわけです。

例えば、ヨーロッパの強国と言われた国は、ほとんど「奴隷貿易」や、その恩恵に関わっていたと思いますけれど、それらの国は、みな「キリスト教国」なわけです。

でも、そこでは「奴隷貿易」が、キリスト教の教えに反しているかどうかは問われず、『聖書の解釈を如何にして「奴隷貿易」に順応させるか』ということだけに頭が使われていたのでしょう。


そして何より、そういう「尋常ならざる時代」の中でも、人々はきっと、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言っていたに違いないのです。

だからこそ、その「尋常ならざる時代」が成り立っていたわけですから。


対して、「尋常な時代」はどうなんでしょう。

それは、『とりあえず、ひどい圧政が無くて平和ならばいい』と言うレベルでも、けっこう少なくなってしまうのではないでしょうか?


どの程度で「満足できるほど尋常な時代」とするかはともかく、少なくとも、「文句をつけるほど悪い所がない時代」と言うのが、意外と少ない(と言うか、ない?)ということだけは間違いないのではないかと思います。


要するに、「時代」には、間違った方向に向かって行くという性質があるのだと思うのです。

もともと、人間は「個人」のレベルでは、概ね「正しい方向」へ向かって行きますけれど、「社会」や「時代」という「人間の集合体」のレベルに成ると、一転して、概ね「間違った方向」へ向かって行くわけです。


それでも、人間は「社会」をここまで発展させてきたわけですから、すべての「時代」が「間違った方向」へ向かっていたとするのにも無理があるという考え方もわからなくはないのですが、実は、それらの発展の大半は「個人」が成し遂げたものなのではないかと思うわけです。


実際、あらゆる社会機構は「個人」の活動なくしては成り立たないものばかりです。
このことは、社会主義や共産主義が行き詰ったことで証明されているように思います。


要するに、「社会」や「時代」と言うものは、「個人」による”善意の判断”があってはじめて機能しているわけで、システムの中で、”没個人化”した人間、つまり、役職や、肩書などと言うものの中に埋没した「機能としての人間」が下した判断、そういう、システムに無機質的に従った結果の判断には、かならずや、「間違った方向」へ向かって行くという性質があるように思えるわけなのです。


ということは、まさに、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』なわけです。

つまり、それは、意味が全く逆で、『いつの時代も間違っていた』ということなのです。


おそらく、人間は、まだ、、いいと言えるほどの「時代」を築けてはいないのだと思うのです。

程度の差はあるにしろ、すべての「時代」が『間違っていた』わけで、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』だからこそ、そのままじゃダメなんだと思います。


それから、もう一つ言えることは、現在、『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言っていられるのは、『誰かが、ひどく間違った時代を壊したから』であって、

みんなが『いつの時代もそんなもんだったんじゃないの?』と言い続けていて、「今」があるわけではないハズです。


いずれにしても、もう、歴史から学んだ方がいいのだと思うのです。

歴史が叫んでくれていることは、『「時代」に身を任せると、とんでもない所に連れて行かれるよ!!』
ということなんじゃないかなと。


そんな風に聞こえるのですが・・・・




『芸術とは?』と言う問い



『芸術とは?』と言う問いに対して、ズバリと答えを出すのは、なかなか難しいことだと思うのです。


まして、現在の「芸術」は無際限に多様化した、途方もなく自由な世界と言うようなものになっていて、そのことは、裏を返せば、現在の「芸術」には、何の規定もないということですから、『芸術とは?』の問いに答えようにも、なにひとつ拠りどころにするべきものが無いわけです。


そんな中で、なんとか『芸術とは?』の問いに答えを出そうとしてみようというわけです。


私個人の主観的な考えでは、
『「芸術」とは、作者の「創作衝動」によって創作され、作者の「能力の限度」に応じて完成とされた創作物とその創作過程である。』
ということにしています。


これは、詳しく説明すれば長くなってしまうので、すごく短く説明すると、『作る人が「作りたい」と思って作り始めて、「もういいだろう」と思った時にやめたもの』ということです。

実は、これは、ほとんど何の”規定”にもなっていません。
つまり、”規定”することが意味をなさなくなってしまうほど、現在の「芸術」は途方もなく自由だということに成っているわけです。


ここで、なんとか削除できたのは、「作ろうという、人の衝動に依らないもの」であり、「もうこれでいいだろうという、人の判断に依らないもの」です。

つまり、そうした作者個人の意思を全く含まないような、純粋に製品として作られたものや、作った人自身が実用の目的のみで作ったと主張するものだけは、かろうじて除外したということです。


ただ、こんなに回りくどい言いまわしで、やっと除外したものでも、そこに、『作者が何らかの意思をもってそれらを扱ったという”コンセプト”を加えただけで、それはもう除外することが出来なくなってしまうわけですから、実際には、なにひとつ除外できていないといってもいいくらいなわけです。

要するに、「現在の芸術の領域」とは、「全てのもの」であるということです。

これは、もう”止められない流れ”だと思うのです。

「多様化」は、せざるを得ないわけですし、それを止めるべき境界線を設定することは不可能でしょうから、「芸術の領域」が「全てのもの」に成るのは仕方ないことだと思います。


しかし、この「芸術の領域」が「全てのもの」だということを、はっきりさせてこなかったことには問題があると思うのです。


また、「芸術の領域」が「全てのもの」であることと、「すべてのものが芸術である」ということが混同されているということもあるように思うのです。


前者は、『「全てのもの」は「芸術」であるかどうかを問われる可能性がある』ということです。

後者は、『「全てのもの」は「芸術」であると言うことが可能である』

ということです。


前者においては、

「全てのもの」が「芸術」であることの「必要条件」は満たしているけれど、それは、「十分条件」を満たしているとは言えないわけです。

でも、後者では、「全てのもの」が「芸術」であることの「必要十分条件」を満たした状態にあるということに成るわけです。


要するに、『問われる』と言う段階が抜けてしまうわけです。


「芸術」と言うフィールドが無際限に拡大したことには、必然性があって避けられなかったことのように思うのですが、その「全てのもの」と言う、果てしなく広い領域に”中心”が設定されていなかったわけです。

ここで、話が長くなってしまったので次の記事に続けます。




「芸術とは?」と言う問い(続き)



前の記事の続きになります。


「芸術」が果てしなく広い領域に拡大してしまったということと、それなのに、そこに「中心」が設定されていない状態が続いてきたという所から続けます。


それなら、『その中心はどこなのか?』ということに成るわけです。


私は個人的に、「芸術の中心」を「真実の追究」と設定していますが、もう少し客観的に、一回り大きな枠で考えれば、その本質は、「純粋性」に尽きるのではないかと思うわけです。


私には「純粋」でないものを「芸術の中心」と考える理由が思いつかないので、これは、問題が無いように思えてしまうわけなのです。

よって、『芸術とは?』の問いに対する答えとしては、『「全てのもの」の中で「純粋な衝動」と「純粋な判断」によって創作されたものが「芸術」である』と言ったところなわけです。


でも、どこまでを「純粋」とするか、どういったものを「衝動」や「判断」と呼ぶかについては、現状では、個人の勝手な判断に任せるしかないので、結局また、無規定な状態に戻っていってしまうわけなのです。


それでも、「芸術」を規定することに対して、このような試みが加えられるということには、確かな意味があると思っております。
また、そこに『何かを生み出そう』と言う意志があることにも、確かな価値があると思っております。


そうした中から、誰もが、ある程度普遍的なものとして、「芸術」をイメージできるような形が生み出されて行けばいいのかなと。


結局、現在における、『芸術とは?』と言う問いに対する答えとしては、

「これから、そこに関わる者たちが創り出していくべきもの」というのが、

最も良く現状を表しているものなのかも知れません。


一応、そんな風に考えておこうと思います。
(それ以上は、無理なんで)





「エンターテイメント」の「嘘」はどこまで許されるのか?



「エンターテイメント」は時と場合によって、「嘘」を許されている文化だと思うわけです。 

ところで、その「嘘」はどこまでが許容範囲なのでしょうか?


例えば、時代劇で「剣豪」を演じる役者に、”本物”の剣の達人であることを求める人は少ないでしょう。
まして、殺陣のシーンで”本物”の日本刀を使わなければダメだと思っている人はほとんどいないでしょう。

でも、時代劇でもボクシングの映画なんかでも、あまりにも主人公が弱そうに見えてしまうと、どうしてもコントのようになってしまうわけです。

要するに、演劇においては、ほとんどの人が「嘘」でもいいから、”強そう”に見せてほしいわけです。


一方、同じ「エンターテイメント」でも、スポーツの世界では(スポーツをエンターテイメントだと仮定しての話ですが)、「嘘」はほとんど許されないものになっているわけです。

八百長はもちろんのことですが、弱い相手ばかりを選んで対戦していたりするというパターンも、それに気が付いてしまうと、見る側としては、かなりガッカリさせられるわけです。

ここでは、演劇とは違って、”強そう”ではなく”本当”に”強い”ことが求められているわけです。


そうなると「嘘」の許容範囲がどこまでなのかがわかり難くなってくるわけですけれど、実際には、これはかなり流動的なもので、その「エンターテイメント」を「ファンタジー」に置き換えられるかどうかで、見方がまったく違ってきてしまうものなのだと思うわけです。

つまり、時代劇においては、見る側においても、演じている側においても、ほぼ完全に、「エンターテイメント」が「ファンタジー」に置き換えられているわけです。


ちょんまげの人が町なかで刀を振り回しているというだけでも、現代人にとっては十分に「ファンタジー」なわけで、誰一人、”本物”の「切り合い」を見たことなどないわけですから、もともと「本当」か「嘘」かなんて誰にもわからないわけです。

でも、いくら演技とわかってはいても、ボクシングの映画なんかだと、”本物”も見ていますから、”本当に強い”のがどんな感じかがわかってしまうわけです。

だから、かなり”本物”に近い「作り込み」をしないと、「ファンタジー」への置き換えが成り立たなくなってしまうわけです。
感情移入しにくくなってしまうわけですね。


このことは「プロレス」を見ればわかり易いと思うわけです。

一方に、「プロレス」を目の色を変えて応援する人が居るのに、もう一方には、『あれはインチキですよ』と言って、相手にしない人が居るわけですけれど、これは、「プロレス」を「ファンタジー」として見ている人と、「スポーツ」として見ている人の違いが出ているのだと思うのです。

どちらかが正しいというようなものでもないと思いますけれど、観点が違ってしまっているので、この両者の話は成り立たないと思うわけです。

言ってみれば、片方が『座頭市ってカッコイイよね』といっている時に、もう片方は、『目が見えないのに、あんなに強いのはおかしい』と言っているようなものですから、この話がかみ合うことは無いわけです。


と言うわけで、「エンターテイメント」の「嘘」は、

それを「ファンタジー」に置き換えることが出来たところまでが、許容範囲なのかなと。


そんな感じですね。




「信仰」とは何なのか?ということ



これは「信仰」についての、私の勝手な言い分なので、「信仰」をお持ちの方には納得できないことかと思いますが、その辺のところはお許しください。


「信仰」とは、「不確かなことを確信すること」なのだと思っております。

つまり、はじめから「確かなこと」であれば、「信仰」する必要もないわけですし、それは”信じざるを得ない”わけです。
だから、そういうことをいくら信じていても「信仰」とは言わないのでしょう。

不確かであることで、「信仰」を持ち出してくる必要が生じてくるわけだし、不確かなことを信じることにこそ「信仰」の価値も生まれるのだと思うのです。


でも、それを一度「確信してしまった人」にとっては、それは、もう「不確かなこと」とは言えなくなってしまうわけです。
ですから、実際には「確信しようとすること」と言うべきなのかもしれません。


要するに、「人間には絶対に把握できないようなもの」を、「信じようとし続けること」が「信仰」なのだと思うわけです。


本来「信仰」とは、そうした「信じる」と「信じられない」の間での”精神の揺らぎ”を含んだものだと思っております。


よく「確固たる信仰心」などと言いますけれど、実際には、人間が確固として信じられるのは確実なものだけで、それは「信仰」の対象には成らないようなものなのだと思います。


だから、その人にとって完全に「確固たるもの」に成ってしまったものは、その人にとっては、もはや「信仰」の対象には成らないはずで、それは、その人にとっては、「科学」又は「現実」と呼ぶべきものに成ってしまっているわけなのです。


そして、「信仰」の場においては、この「人間には絶対に把握できないもの」を「神」と呼んでいるわけですけれど、「芸術」や「哲学」の場においては、これを「真実」や「真理」と呼んでいるわけですよね。

更に言えば、いま人間は、長らく「神」と呼んで頼りにしてきたものから、脱却するときが来ているのだと思っているわけです。


もしも、上に述べたような「不確かなもの」=「人間には把握できないもの」=「神」~「真実」と言う置き換えが可能なのであれば、
「信仰」~「芸術または哲学」と言う置き換えも可能になるのではないかと思うわけです。

これは、決して「信仰」や「神」を否定しようということではなく、現状において、人間は「神」や「信仰」に”依存”してしまっていると思うわけです。


もしも、人間が「神」に頼らないで、「芸術」や「哲学」によって(他のものでもいいのですが)、「信仰」が担っていた領域を埋めることが出来たなら、人間はその時点で、はじめて「自立した人間」に成るのだと思うのです。


また、それができなかったとしても、「神」が「信仰」の対象に成る価値のあるものなのであれば、そのことが、よりはっきりするということなのではないかと思うわけです。

いずれにしても、私は「神」よりも「信仰」が先にあったと思いますから、「神」は人間の信仰心が形を変えて姿を現したものだと思うのです。
だから、現在の「神」が先行した形での「宗教」という「信仰」は、「神」の存在が肥大化している分、「依存」を生みやすいと思うわけです。


今はもう、「神々しい所」には「真実」は無くて、もっと「取るに足らないような所」にしか「真実」が無いということを、受け入れなければならなくなってきているのかなと。


そういうところを受け入れていかないと、「信仰」にも「芸術」にも「哲学」にも、意味がなくなってしまうように成ってきているのかなと。


そういう、まったくもって手前勝手な考えでした。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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