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「あやまる」という文化



「あやまること」は一つの文化だと思うわけです。


よく、『日本人は自分が悪くもないのに誤ってしまう』とか、『西洋人はなかなか謝らない』などと言われたりもしますが、こういう「あやまること」に対する考え方と言うのは、その国の文化を象徴しているのだと思うのです。


そして最近、日本人でも「あやまれない人」が増えてきているように思うわけです。
要するに、これは考え方が「西洋化」してきているのだと思うのです。


このことに限らず、このところ世界中が西洋化(アメリカ化?)してきているように感じてしまうわけです。

世界が共通の概念や文化を持つようになっていくことが、いいことなのかどうかはわかりませんが、少なくとも、この流れは止まらないのでしょう。


でも、どうせなら一つの国の概念に染まってしまうよりも、いろいろな国のいいものを集めた方がいいと思うわけです。


そして、この「あやまること」に関してなどは、『あやまりすぎる』と言われる日本の文化が、私には、とても”特異な”ものであり、かつ”未来的な”ものでもあるように思えるのです。


つまり、「和」を重んじた形が、『悪くなくてもあやまる』と言う文化なのだと思うのです。

そして、世界共通の概念を構成しようとするのであれば、こういった「和」の文化が必要になってくるのだと思うわけです。


もちろん、これは「あやまられる側の人」も、「和」の心を持っていないと成り立たないわけですから、そういう意味でも、世界共通を前提にしてこそ成り立つものなわけです。


と言っても、現状においては、まだ共通の概念が形成されているわけではありませんから、「あやまる文化」は弱腰に見られてしまうわけです。

要するに、”ツケコマレル”わけですね。


でも、「迂闊にあやまると付け込まれてしまう社会」と

「悪くなくても、『ゴメンナサイ』と言うと『いえいえ、こちらこそ』などと返ってくる社会」と、どっちがいいんでしょうか?

争いの時代を終わらせるのであれば、後の方がいいんじゃないかなと。


そこらじゅうで『ゴメンナサイ』と言っているような国って、なんとなく、住み易いような気がするのですが、どんなもんなんででしょう?


と言うわけで、こんなつまらない話で

『ゴメンナサイ』



「20世紀美術」と言う実験



「20世紀美術」においては、たくさんの主義主張が現れては消えて行き、その結果として、様々な「~イズム」と名付けられるようなものが生み出され、また、それらに基づいた作品も数多く残されたわけです。

そして、それらを主導した人たちは巨匠と呼ばれるように成り、彼らによって残された作品は名作と呼ばれるように成っていったわけです。

しかし、それは本当に「完成形」だったのでしょうか?


もともと、芸術に完成など無いとも言えるわけですから、完成度の問題ではないのですけれど、巨匠たち自身が、「実験」としてやっていたという”感じ”はないのでしょうか?

つまり、試作品だったということですね。


巨匠の作品を試作品だなどと言うと、怒る人や、ヒガンデいるんだと思う人もいるでしょうが、この点について、私には、どうしても、
彼ら巨匠たち自身が実験的な試みとして、さまざまな「~イズム」を生み出して行ったように思えてならないわけなのです。

そして、それらの「実験」から「納得のいく答え」を導き出す前に、せき立てられるようにして次の「実験」に向かって行かされてしまうような「時代の空気」があったように思うわけなのです。


そう考えなければ、あれだけの「~イズム」が現れては消えたことの説明はつかないように思うのです。


ですから、「芸術の20世紀」が、ありとあらゆる試みを行った「挑戦の時代」であったことは、間違いのない事実だと思うわけですけれど、反面、それは「実験的な習作」を積み上げては放置し続けた、「やりっぱなしの時代」でもあると思ってしまうわけなのです。

これは、決して「実験的な時代」が悪いということではありません。

それどころか「やりっぱなし」ですら悪いとは思っていません。

その時、それらが必要だったのだと思います。

「他の何か」ではダメだったのだとも思います。


ただ、それを「完成形」として扱うことには問題があるように思うわけです。


それらは、あくまで「実験」や「挑戦」としてこそ価値あるわけで、そこから何かが学ばれなければ意味がないわけです。
それらを「巨匠の名作」として”ありがたく拝んで”いるだけでは、せっかくの「挑戦」や「実験」が無駄になってしまうわけです。


そういう「時代の空気」の中で、

本人たちが最終到達点にまで達しなかったことは、やむを得ないことだったように思うのです。
それぐらい困難なことをやろうとしたということだと思います。

そして、そういう時代でもあったということなのでしょう。


でも、いま、そこに残された「試行錯誤」から学び取ることがあるのではないかと思うわけです。


それらの「~イズム」自体を「完成形」としてみた場合、それらに、今でも発表当時と同じだけの意味や価値があるとは思えないのです。

錬金術師が「金」を合成することが出来なかったのと同じで、『いろいろやってみたけど全部行き止まりだった』と言うのが現実だったように思うのです。


そして、いま、その行き止まりから何かを学び取らなければならないということなのだと思うわけです。

つまり、『「金」は決して合成することが出来ない』ということがわかったということです。


『そこからどうするか?』
ということなんでしょうね。
(随分、止まったままですけどね)


そんな風に思っています。




「創作者型」と「鑑賞者型」を分けて考えてもいいのでは?



「創作者型」の人と「鑑賞者型」の人というのがいるように思うのです。
そして、この二つのタイプを、もう少し分けて考えてもいいような気がするわけです。


そうは言っても、両面を併せ持った人もいるでしょうし、本人もどちらかわからない場合などもあるでしょうから、『もう少し分けて考えてもいいのかな?』と言う程度のものですが、少なくとも、一人の人間がこの二つの性質を同時に併せ持っているとは限らないという認識ぐらいは、あってもいいんじゃないでしょうか?


自分のことで言えば、子供のころ、楽器がまったくダメだったので、随分長い間「音楽」には興味が持てませんでしたが、その後、『聞く方はイケル』とわかって「音楽」が好きになったとき、とても意外でした。

「音楽」が好きに成る人は、『たぶん楽器なんかも上手い人に違いない』と思っていたんでしょうね。


もっと早く、自分が「鑑賞者型」(「音楽」に関して)だと気が付いていればよかったと思っています。

まぁ、気が付くのが遅かっただけならいいのですが、『あのままずっと気が付かずに居たら、今聞いている音楽に全く出会えていなかったんだ』と思うと(あまりポピュラーではないジャンルの音楽が好きだったので、出会えなかった確立はかなり高いと思います)、ちょっとと言うより、かなり惜しい気がしてくるわけなのです。


反面、美術に関しては、『創作をしたいのだから、見るのも好きなハズ』ということで、美術館に行くわけですけれど、どうも、それほどでもないようなのです。

こちらは全くダメと言うわけではありませんが、”ものすごく好き”と言うほどでもなく、行こうと思っていた美術展に行けなくても、『まぁ、いいか』という感じなわけです。

『芸術をやろうというなら、いいものをたくさん見なければだめだ』と言うのをよく聞くので、『やっぱり、見なきゃダメなんだろう』と思ってしまう気持ちが出て来るわけです。

もちろん、そこで感動することもありますし、そこから得られるものもあるとは思うのですけれど、でも、『見なければダメ』でもないような気がするわけです。


こういう風に「創作者型」と「鑑賞者型」が一致していないケースは、けっこうあるように思うのですけれど、なんとなく、”二つは一致しているもの”ということになってしまっていて、そのまま、”ちょっとズレた状態”で行ってしまう人は少なくないような気がしています。

そういうことで、心の糧と成るようなものを一つでも減らしてしまっているのだとしたら、やはり、惜しいなと思ってしまうわけなのです。


スポーツなんかでも「やるのが得意な人」と「見るのが好きな人」が居るわけですから(「得意なこと」と「好きなこと」もまた一致していないことがありますが)、美術や音楽に「鑑賞者」としてかかわることと、「創作者」としてかかわることも、一致しているとは限らないこだと思うわけです。


そう考えることで、興味のなかったことが好きになったりすることもあるのかなと。


そんな風に思います。



「~ではないですよ」ということを装ってしまう



『やりたくてやってるわけじゃないですよ』とか、『意味があってやってることではないですよ』とか、
いろいろな形で『~ではないですよ』というのを言ってしまうことがあるわけです。

でも、これが本心と違う場合も多いような気がするのです。


これは、相手に予想された通りの自分であることが、なんとなく悔しいんですね。
それで、ついつい『そんなことないですよ』と言いたくなってしまうわけなのです。

そして、これは「芸術」に関わっている人にとくに多いように思うわけです。
(少なくとも私は多いです。今は出来るだけ言わないようにしているんですが)


「芸術」にかかわりを持っていこうとすると、人から、何かと穿った見方をされたりもするわけです。
『どうせ、売れてるわけじゃないんだろう』とか、『なんだか芸術やってますといって、偉そうにしてるよね』とかですね。

自分からは、何も言っていないのに、何かと詮索されたり、変わり者扱いされたりすることがあるわけです。


そんなわけで、どうしても『~ではないですよ』と言ってしまうわけです。


『売れてないんでしょ』と言われるのが悔しいから、その前に『売れる事なんて目指してませんよ』と言ってしまったり、『意味の解らないことをやっている』と思われるのがいやだから、先回りして、『意味なんてありません』と言ってしまう。
というような感じでしょうか?


多くの場合、その中には本当のこともあるのだと思います。

例えば『売れるためにやっているわけではない』ということが、本心である場合もあるでしょうし、『何か具体的な意味があってやっているわけではない』と言う人もいるのでしょう。

でも、少し言い過ぎてしまうこともあるような気がするわけです。


『人から評価されるのが目的で、やっているわけではない』と言うのを言いすぎてしまって、『人に共感されることは望んでいない』というのに近いことを言ってしまったりするわけです。

でも、この辺のところだけは”装って”はいけないように思うのです。


人から共感を得たくないなら、「芸術」なんてやってないはずだし、それ以前に、それを全く望まないことなんてできるはずないと思うのです。

それができるなら、その人は「悟りの境地」にあると思いますけれど、それなら、「芸術」じゃなくて「宗教」をやっているはずなのだと思うのです。


だから、なるべく”装わない”ようにしようと思うのですけれど、その辺の所を上手く言う言い方が、なかなか無いわけです。

それでまた、『~ではないですよ』と言ってしまう(しかも意味もなく低姿勢で)という繰り返し。
これ、なんとかならないものなのかなと。
(低姿勢なのか高飛車なのか、自分でもわからない)


そんなことを思ったりします。




「ブログ」の中の「ブログ性」



この「ブログ」を始めてから、そこそこの日数がたったので、私にも『自分にとってブログとは何なのか?』という位置づけが、少しづつ出来てきたような気がするわけなのです。


もともと、私は「ブログ」を読むという習慣が無かったのですけれど、「ブログ」を始めてみて、実際には、いろんな「ブログ」があるものだなと思いました。

そんな中で、自分にとっての「ブログ」の位置づけは、『やっぱり、日記に近いものなのかも知れない』と思うように成ってきているのです。


もともと、この「ブログ」は「宣言文」と言う形で始めましたから、日記形式の「ブログ」とは全く性質が違うものなのかと思っていたわけですけれど、しばらくやってみて、『そうでもないのかな?『』と思うように成ってきたと言うことです。


「日記」と「ブログ」の”共通点”は、いろいろあると思うわけですけれど、 まず、日々更新されていくということがあるでしょう。
それから、「日記」も「ブログ」も、「個人の独白」に近い要素を持っていることも”共通点”だと思うのです。
(見知らぬ人への「問わず語り」と言ってもいいと思います)

そして、この「個人の独白」と言う性質こそが、「ブログ」の「ブログ」たる所以、即ち「ブログ性」に当たるものではないのかなと。
そんな風に思っているわけなのです。


そう考えると、この「ブログ」なども、それに当てはまっているように思えて、必ずしも、「ブログ」として筋違いなことをしているわけでもないような気がしてくるので、少しは気が楽に成るというわけです。
(自分に都合がいいから言っているという訳ではないですけどね)


それはともかくとして、「日記」と「ブログ」の”相違点”はとなると、なんと言っても、他人に見せることを前提としていることでしょう。

確かに、「ブログ」は、その点で「日記」とは違うわけですが、まったく見ず知らずの相手に対して発せられる言葉というのは、一種の「独白」でしょうし、もし、知り合いが見ることがあるとしても、個人の「ブログ」の持っている本質的な性格は、「宛名も差出人名もない書簡集」といったものなのだと思うのです。

つまり、「書く側」も「読む側」も”不特定の誰か”ということですから、実際の「知り合い」が読む場合でも、その「知り合い」は、あくまで「不特定の誰かの中の一人」にすぎないわけで、「知り合いに向けて」と言う「宛名」に当たるものはないわけです。
(「差出人」に当たるものだけが、漠然とした形であるという所でしょうか)


これは、有名人の「ブログ」にも言えることだと思うのですが、「読む側」は誰が書いているかを意識して読んでいますけれど、「書く側」は”誰が読むのか?”と言う意識が薄いわけです。

そこで、通常の人間関係にあるような、「大前提としての利害」が”最小限”に成るわけで(「結果としての利害」はあったりもするわけですが)、そういう意味では、やはり「個人の独白」に近いものと考えることは出来るのでしょう。


だから、明らかに営利目的の「ブログ」は別として(それは「ブログ」の本質から外れているような気がしています)、あくまで「個人のブログ」に関しては(有名人の「ブログ」でさえもある程度は)、この「個人の独白」と言うのが「ブログ性」に当たるものなのかなと思うわけです。


そこで、これを自分の中では「ブログ性」と呼ぶことにしようかなと。
そして、そんな位置づけで、もう少しやっていこうかなと。


そんな風に思っております。



「ブログ」の中の「ブログ性」(続き)



前の記事の続きです。


「個人の独白」的な性質こそ、「ブログ」の中の「ブログ性」と言うべきものなのではないかという話でした。


そこで「個人の独白」についてですが、一般的な言葉と「独白」の違いは、”偽る必要があまりない”ということでしょう。
「独白」は、他人との間の利害関係を前提にしていないわけですから、”偽る必要はない筈”なわけです。

そうは言っても、「ブログ」の場合、「現実の知り合い」が見ることもあるでしょうし、利害関係も少しはあったりする場合もあるのでしょうから、”偽る必要”が全くないとも言いきれないわけですが、普段、利害関係に縛られて、常に”偽る必要”に迫られている現代人にとっては、「偽る必要がかなり少ない環境」と言えるでしょう。


それに、「日記」などでも言えることだと思うのですが、人間は、自分に対してすら”偽る”こともあるわけで、そこから完全には逃れられないとも思うので、それが少ないというだけでも価値のあることだと思うのです。


ここで、公開の場で語られた言葉を、「独白」とするのは間違っているという考え方もあるでしょう。

でも、「独白」と言うのは、ふと思ったことを口に出す「独り言」とも、表に出されずに自分の中だけで思考される「想念」とも違って、具体的な相手は想定されていなくても、「何か」に対して”語られる言葉”ではあるのだと思っています。

少なくとも、「自分の中のもう一人の自分」に対する言葉であることは間違いないように思います。
そして、その「自分の中のもう一人の自分」を「見知らぬ誰か」に置き換えることは出来ると思うわけです。


そこで、「個人の独白」であることが、「ブログ」の中の「ブログ性」であると同時に、個人が利害関係から解放されて、”偽りのない言葉”を世間に対して公表できるということが、「書く側」にとっても、「読む側」にとっても、また、「社会」にとっても、「ブログ」の持っている最も有用な「機能」なのではないのかなと。

今のところ、そんな風に思ってやって行こうと思っています。




「芸術による感動」の限界



「芸術による感動」について、それが”とてつもなく大きいもの”だという話になってしまうことがあるわけですけれど、実は、そこには案外低い位置に「限界」があるように思うのです。


確かに、「芸術」が生み出す「感動」は、何物にも代えがたいものなわけです。

でも、『背に腹は代えられない』と言う言葉があるように、それはあくまで、最低限の「安全」や「健康」や「物質的な充足」が満たされていての話だと思うのです。


もちろん、どんな状況においても「芸術」は”人の心を癒す”のでしょうが、それでもやっぱり、飢餓状態の人に、「絵に描いた餅」を有り難いと思えと言っても通じないわけです。

「芸術」は”心の糧”となるものだと思いますし、それが生涯を通じて続くこともあるでしょうが、「芸術」が人に与えることが出来る「感動」は、常に、「食べること」や「生存すること」などよりも下に位置していると思うわけです。


更に言えば、「芸術」は、そういう「限界」を超えようとしてはいけないようにも思うのです。

つまり、「芸術」が「食べること」や「生存すること」を凌駕してしまうようでは、当の「芸術」の居場所もなくなってしまうのだと思うわけです。


もともと、「芸術による感動」は「個人の表現」の「普遍性」から生まれていると思うのです。
つまり、”たった一人の人の”「思うこと」が、”すべての(多くの)人の”「思うこと」であった時の「感動」だと思うわけです。

だから、そういう”ありきたりな面”を見失ってはいけないような気がするのです。


そして、そういう”ありきたりな”「芸術による感動」に、どれほどの力を注ぎ込むことが出来るかということで、どうにか”ありきたりな”「感動」が生み出されているのだと思うのです。


それで、そこに注がれた労力のことを思って、「芸術による感動」を、”とてつもないもの”のように扱うことに成ってしまうわけですね。

でも、実際には、「労多くして、功少なし」というのが「芸術」のあるべき姿のような気がします。


まぁ、そういう効率の悪い分野があってもいいんじゃないかと、そんな風に思ってやっている方がいいのかも知れないですね。

それに、そういう考え方だと、エラクもないのにエラク成るなんてこともないんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。


「無規定」は「自由」ではない



現在、「芸術」と言うジャンルは、「規定」されていない状態になってしまっていると思うわけです。

これは、表現における「自由」を求めたことに端を発しているのだと思うわけですけれど、「無規定」な状態を、数十年間もズルズルと続けていることは、まったくもって「自由」なことではないと思うのです。


もともと、既成の概念に固着して身動きができなくなってしまった状態から抜け出すために、一度、「規定」を解いて「無規定」な状態からやり直そうとしたのが始まりだと思うわけです。

でも、それは「無規定」そのものが「自由」だからではなくて、新たな「規定」を設定するために、仮に「白紙」に戻しただけで、その後、新たに「規定」が設定されるべきであったのだと思うのです。

要するに、「無規定」が必要だったのではなくて、「自由」な「規定」が必要だったわけで、そうした、「自由度」の高い「規定」を設定するべきだったのだと思うのです。


確かに、「規定」は「拘束」をも含んではいるわけですが、その「拘束」は”拠って立つ足場”ともなるわけです。
逆に言えば、「無規定」は「拘束」を含みませんが、”拠って立つ足場”を持たないことに成るわけです。

「無規定」を続けるということは、「中心」を失うことでもあり、「輪郭」を失うことでもあリます。

「中心」も「輪郭」もありませんから、なんの「拘束」もありませんが、”拠って立つ足場”もありませんから、「作用・反作用」に当たるものが無いわけです。


これは物理の話ではありませんから、理屈どうりではないかもしれませんけれど、やはり、「足場」のない所でいくら力を入れても、その力が「作用」として何かに働きかけることは無いわけなのです。

だとすれば、現在の「無規定な芸術」と言うのは、人の心を動かすような「作用」を生み出せるのか?
つまり、『人を感動させるような力を具体的な「作用」として働かせることが出来るのか?」ということです。

出来ないと思います。


「中心」も「輪郭」も無い「無規定」なものが、人の心を動かすことはあり得ないと思います。

『そんなことを言っても、実際に感動している人が居るんだよ!キミ』と言う人もいるでしょう。
でも、人間はお腹がすいていれば、どんなものでも美味しく感じてしまうわけです。

でも、それは、その料理が「美味しいこと」とも、まして、その料理に「感動したこと」とも無関係なわけです。
それを判断する「味覚」に当たるものが「規定」になるわけです。


そこで、「芸術」を「規定」しなければいけないと思うわけです。

「芸術の規定」がなされなければ、すべての「芸術活動」は”無に帰する”ことに成ります。


『いや、そこまで考えない』と言う人は、それでいいのかも知れません。
でも、『そこまで考える』と言う人の「芸術活動」は”すべて無に帰する”ことに成るでしょう。
現に、そう成っているのかも知れません。


「無規定」と「自由」は違います。
当たり前のことです。
だったら、やわらかく「規定」されてた方がいいんじゃないかと。


そんな風に思うわけです。




「ポピュラー性」について



「ポピュラー性」と言うのは、人に支持される性質なわけですが、その「ポピュラー性」とは、いったいどこから来るのか?と思ったわけです。


たぶん、それは「ワカリヤスサ」だと思うのです。
そのジャンルに特別な興味がある人にも、無い人にも”ワカリヤスイ”ことこそ、”人気の素”つまり「ポピュラー性」だと思うのです。


例えば「音楽」で言うと、ちょっと、ヒネリの利いた、それでいて”ワカリヤスイ”「歌詞」の曲は、ヒットする可能性が高いように思います。

もちろん、「楽曲」でも大事なのは「ワカリヤスサ」だと思うのです。
いわゆる”ヒット曲”はほとんどと言っていいほど、ノリがいいリズムや、覚えやすいメロディ・ラインを持っています。

つまり、それだけ「ワカリヤスサ」が”人気の素”になっているということのように思うのです。


これは、美術にも当てはまっていることのように思われます。
つまり、”ワカリヤスイ”作品は人気も出やすいということです。

この「ワカリヤスサ」は「普遍性」にも通じていると思うのです。
つまり、「誰にでも理解できること」は「普遍的に通じること」でもあると思います。


だから、「ポピュラー性」や「ワカリヤスイこと」は、いいものだと思っています。
少なくとも、悪いものだとは思いません。


ただし、「ポピュラー性」には時間的な意味での「普遍性」が含まれていないわけです。

今見ても、十年後に見ても、百年後に見ても、また逆に百年前の時代に見ても、「イイ!と言えるのか?」という観点は、「ポピュラー性」には含まれていないと言ってもいいでしょう。

だから、「ポピュラー性」=「ワカリヤスサ」だけを追究していってしまうと、「一発屋」的な”軽さ”が付いてきてしまうように思うわけです。

芸能人なら「一発屋」も”アリ”だと思うのですけれど、それは、芸能人が「人気商売」だからだと思うのです。


でも、「芸術」だとどうなんでしょうか?

そこに興味を持つ人はいるでしょうが、私にはそれが「芸術の中心」から遠いもののように思われてしまうわけなのです。

だから、「ポピュラー性」=「ワカリヤスサ」を取り入れていくことで、「普遍性」を得られることはあるけれど、それに囚われてしまってはいけないのだと思うわけです。


つまり、”今、ワカリヤスイ”だけでなく、”今は、ワカリニクイ”けれど、”いつか、ワカリヤスク成る”ということも含めて、「ワカリヤスサ」と、「ワカリニクサ」の幅がある作品が、結果的に「普遍性」のある作品なのかなと。


そんなことを思いました。



「感動の仕組み」



芸術の意義の一つに、「感動」を挙げる人は多いと言えるでしょう。

その「感動」とは、どのような心の流れで生まれてくるものなのでしょうか?


まず、「感動」をどう定義するかですけれど、ただ単に「心を動かされる」ことを「感動」と言うわけでもないのだろうと思うのです。

「びっくりした」とか「面白いよね」とか「気に成る」とか言うものは、心を動かされてはいても、「感動」までは届いていないでしょう。
じゃあ、「凄く、びっくりした」とか「凄く、気になる」だったらどうかと言うと、これもちょっと違うかなと。

そうなると、『「感動」は「感動」ですよ』と開き直るしかないわけですけれど、そこで敢えて、「感動の仕組み」を探してみるわけです。


私の勝手な考えですが、「感動」とは、心の動きに「相乗効果」が発生した時のことだと思うのです。

何かに心を動かされて、それがそれだけに留まらず、「喜怒哀楽」のどれか一つでもなく、あらゆる感情が総動員されて、さらに、それらが「相乗的な効果」を生み出したときに、「感動」と言う「心の状態」が発生するのだと思っております。

言ってみれば、「ターボ・エンジン」みたいなものですか?


ここで、主に自分自身のことですけれど、この「相乗効果」が「空回り」する時がよくあるわけです。


芸術作品を鑑賞するときの自分の心の状態などによって、その作品から受け取ったものとは違うところで、「相乗効果」が「空回り」してしまったりするわけです。

これも一種の「感動」だと言えなくもないとは思うのですが、その作品に「感動」したとは言えないでしょうし、後でもう一度見ると「あれ、こんなんだったっけ?」ということもあるので、勝手に「モリアガッテ」、勝手に「ガッカリ」するのも失礼な話なので、なんとかしようと思うのですが、なかなかできません。

だから、「感動」をコントロールできたらいいなと思ってしまうわけですが、『それじゃあ、「感動」とは言わないだろう!』とも思うので、たぶん、できないのでしょう。


意図されたところに「感動」は無いのかも知れませんね。


「感動の仕組み」を探してはみたけれど、結局のところ、それはあまり役には立たないということがわかりました。
それはそれでよかったと言う気もします。

「感動の仕組み」を”仕組んではいけない”


そんな気もします。




「感動」から抜け出すこと



前の記事からの続きです。


「感動」とは、心の動きが、何らかの「相乗効果」によって、最高潮に達した状態ではないだろうか?と言う話でした。


そこで、もう一つ進めて、「感動から抜け出すこと」を考えていきたいと思うわけです。


せっかく「感動」したのに何で抜け出すのか?

これは、私自身のことに限っての話ですが、「感動」すると、どうしても、その作品のことが頭に残ってしまうわけです。
一言で言うと、「気になってしまう」わけです。
「気が散る」と言ってもいいかもしれません。

だから、「感動」するような作品(作品とは限らず、風景などでも同じことです)を見たときは、その「感動」から抜け出そうと思っています。


これは、「感動」したことを捨ててしまうということではありません。
むしろ、その「感動」を吸収して自分のものにすることで、その「相乗効果」的な「空回りの感動」から抜け出そうということです。

また、影響を受けて、似たようなものを創ってしまうことを恐れているというのとも違います。

影響を受けることなくして、何かを創り出すことなどできないと思いますし、人間のすることなどは、多かれ少なかれ似ているものだと思います。


影響を受けることが問題なのではなくて、その影響が、自分の中で”解釈されていないこと”の方が問題だと思うのです。

それが”解釈されて”身についたものであれば、影響を受けることは、いいことだとも思いますし、「普遍性」という意味で言えば、本質的に「何かに似ている」と言うのは、ある意味では当然の結果ともいえるわけです。

それは、表面だけをなぞった「似ている」とは、根本的に違うことだと思っています。


つまり、そういった意味で言うのであれば、自分の作品は、自分が「感動」した作品に「本質的に似ているはず」とすら言えるわけです。


それならば、なんで「感動」から抜け出す必要があるのか?


それは、「感動」の「相乗効果」の中に居ると、常に「受け身」であって、その作品と「主体的」なかかわり方ができないからだと思っています。


鑑賞者として、つまり「客体」として「受け身」の関わりをしている限り、その作品から受けたものを吸収することは出来ないでしょうから、「主体」として、その作品と関わる必要があるわけです。

その為に、「相乗的な感動」から抜け出す必要があるということだと思います。

 ※これは「鑑賞者」であっても同じことだと思っています。
  つまり、完全に「受動的な鑑賞」ではなく、どこかの時点で、その鑑賞が「能動的な
  鑑賞」に、切り替わったときこそ本当の感動」に成るんだと思うわけですね。


オリジナリティは創り出すものではなく、その人がすでに持っているものだと思っています。
だから、出来るだけありのままに、それが出せればいいのだと思うのです。
その為には、「気になること」が無い方がいいのかなと。


そう言った理由で、「感動」からは抜け出すことを心掛けております。

そういうのを考えながら見ると疲れるので、あまり、美術展に行きません。


それでもいいんじゃないかなと思っています。




「人間らしさ」とは?



現在、最も重要視するべきものと言えば、「人間らしさ」だと思うのです。
そして、現在、最も軽視される傾向にあるのも、また「人間らしさ」ではないかと思うわけなのです。


ところで、この「人間らしさ」とは、いったい何なのでしょうか?


「人間らしさ」即ち、「人間が最も人間である部分」とは、人間の中のどの部分なのか?ということです。


私はこれを、「論理的な思考」または「ヘリクツ」だと思っております。
そして、これらが高じると「迷い」に成るのだと思います。


「論理」や「理屈」が「人間らしい」ことだと言うと、『それはおかしいだろう』と思う人もいるでしょう。

確かに一般的には、「人間らしい」と言うときに、「論理」や「理屈」とは逆のイメージがあるように思うわけです。
つまり、「人情」や「喜怒哀楽」のような感情的で非論理的ともとれるものを指して、「人間らしさ」とか、「人間性」と言っていることが多いような気がします。

もちろん、そういうのも「人間らしさ」だと思います。

ただ、感情は他の動物にもありますから、「人間の最も人間である部分」とは言えないようにも思うわけです。


そこで、人間だけが持っている特徴とは?ということになってくるわけです。

そして、それは多分、「言葉」を持っていることなのではないかと思うのです。
もう少し正確に言うと、「言葉」によって”論理を積み上げる”ことが出来るということなわけです。

この「論理の構築」と言うのが、人間固有の性質、即ち「人間らしさ」だと思うわけです。


まぁ、こういうのなんかも正に「ヘリクツ」な感じですけれど、「論理」=「人間らしさ」だけでも無理があるのに、なんで、「ヘリクツ」が付いているかと言うと、すべての「論理」が不完全なわけですね、何せ”人間のやること”ですから。
つまり、その「不完全な理屈」の典型が「ヘリクツ」ということになるわけです。
と言うところで、「人間らしさ」に戻って来るという風になっているわけです。


そして、「人情」や「感情」も、実は、結構この「不完全な論理的思考」によって生み出されているような気もするのです。
と、こういうような「ヘリクツ」が、とても「人間らしい」ことのような気がするというわけなのです。


役には立ちません。
むしろ、かなり”ウットーシイ”です。


でも、これが、いま現在、最も重視されるべきものだと思っているわけです。


現在は、なんでも「効率主義」ですけれど、こういうところで、適度に効率を落としていった方が、むしろ”効率的”だと思うのです。

「効率主義」に着いて行けないわけです。
「人間らしさ」がですね。


人間が作り出した「効率主義」に「人間らしさ」が置いて行かれてしまうわけです。

ところが、「人間」は「人間らしさ」が無いと息ができないわけです。
だから、「効率」も上がりません。


ほんとうは、「効率」なんてどうだっていいんですが、と言うか「効率」はいいに越したことはないわけですが、それよりなにより、生き難くくてしょうがないわけです。

昔の方が、随分「人間らしさ」が重視されていたと思うのです。
この辺は少し巻き戻した方がいいのではないのかなと。


そんな風に思っています。




「アスファルタム」という色



いま、「アスファルタム」という色の絵具が気に入っています。


自分の記憶では、この色を使ったことは無かったと思うのですけれど、使ってみて、一発で気に入ってしまいました。


もともと、画材屋さんなどでは、見ていたのかも知れませんが、ローアンバー(ロウアンバー?)に似ているので、『どうせローアンバーと同じようなもんだろう』と思って、使ってみようと思わなかったのだと思います。

ローアンバーは好きな色なので、ローアンバーだけでも十分だと思って、欲しいと思わなかったのかも知れません。


また、私の場合、最近までアクリルを使うことが多かったのですが、アクリル絵の具で、この名前の色を見たと言う記憶はありません。

たぶん、「アスファルタム」と言う色の、私が気に入っている部分は、油彩じゃないと出ないような気がします。

でも、まだ一本しか持っていないので、ついつい、節約気味な使い方になってしまいます。
そんなに高い絵具でもないんだし、また買えばいいだけなんですけどね。


”ザ・ビンボー性”

いえ、正確には、”ザ・ビンボー人”

本人にしてみれば、エライ・チガイです。


 ※その後、「アスファルタム」と言う色を出しているメーカーを、いろいろ
  探したんですが、自分が使っている「レンブラント」と「ブロックス」ぐら
  いしか見つかりませんでした。
  ほかにも出しているメーカーはあるかもしれませんが、かなり少ないこ
  とは確かです。
  なんで、こんなにいい色なのに少ないんでしょうね?不思議。

  それに、「アスファルタム」って名前がステキ!
  「アスファルト」はあまり好きじゃないのに、「タム」をつけただけで、こん
  なにステキな名前に成るなんて!これも不思議です。


「情報」は与えられるものだと思うのです



最近、「情報弱者(情弱)」と言う言葉をよく耳にするわけです。

でも、この言葉には”言葉の仕掛け”を感じてしまうことがあるのです。


「情報」とは、本来は”与えられるもの”だと思うのです。
ここのところが、この言葉によって、いつの間にか歪められてしまっていると思うのです。

この「情報弱者」という言葉には、「取り残されてしまった者」と言う意味と同時に、そこにある「情報」を積極的に取り込まない”情報ナマケモノ”的なイメージも感じられてしまうわけなのです。

つまり、「与える側の責任」が「受け取る側の責任」にすり替わってしまっているように思うわけです。


ここで、「情報」が『与えられるべきものなのか?』ということになるわけです。

現代の社会における「情報」について考えると、「情報」はいくらでも溢れていて、誰にでも手の届くところにあるように思えるわけですよね。
だから、「情報弱者」と言われている人たちが、敢えて「情報」を遠ざけていたり、それを取り込む、最低限の努力をも怠っているという風に見えてしまうわけです。

それは、つまり、「教育」に例えて言うならば、十分に教育機会を与えられているのに、”敢えて勉強しない人”と言うような感じでしょう。

これは、自己責任と言えるのかもしれません。


でも、もし仮に、現在は当たり前になっているような「義務教育」が、必ずしも”与えられるべきものではない”ということに成ったら、それは、もう自己責任とは言えないでしょう。

だから、「義務教育」と言う形で、「教育」を受ける権利が保障されているのだと思うわけです。
これは、「個人」ではなく「政治」や「社会」の責任でしょう。


それと同じように、「情報」も必要十分に与えられるべきものなのだと思うのです。

もし、一般人の「情報を与えられる権利」が奪われてしまえば、権力者が「情報」を隠ぺいしたり歪めたりする正当な権利を得ることになってしまい、一般庶民は正しい「情報」を得る機会を失ってしまうことにも成りかねないということです。
(と言うか、そう成っていると言えなくはない?)


そこで、「一般人にとって必要十分な「情報」が『与えられているのか?』ということですが、現在は、この「情報」の与えられ方に、かなりの”ムラ”があるわけです。

間違いなく、「情報」は溢れています。

ただ、その「情報」がインターネット上に偏っているわけです。


そもそも、「情報弱者」と言っていますけれど、「インターネットの世界だけで通用するような情報」についての知識が無いだけでも、「情弱」扱いにされてしまうわけで、それは、その人たちの”不勉強”や”無知”を責めるよりも、そのインターネットを普及させている側の人たちの責任を問うべきだと思うわけです。

それなのに、そちら側の人たちが、「情報弱者」と言う言葉に乗っかって、自分たちの責任を回避しているという感じがするわけです。
(どちらかと言えば、そちら側の人たちが「情弱」と言う言葉を流通させているとも言えますよね)


「情報」は必要十分に与えられるべきものであるという前提で言えば、現在の「情弱」は、情報を与えている側の不備によって生み出されているのだと思うのです。


それから、話は違いますけれど、『「情弱」な人の方が、どちらかと言えば「人情」には厚い』と言う印象があるというのも、何かを象徴しているのかなと。

少なくとも、自分が「情報」に先んじていることで、「情報」を持たない者に優しくできない人なんていうのは、「情報」では「強者」であっても、「人”情”」では「”弱”者」なわけです。


だから、『あんたたちだって、十分「情弱」なんだよ!』と言いたくなってしまうわけなのです。

同じ「情」でも、「情報」よりも「人情」でしょ?


そんなことだと思います。




「芸術」に新しさは必要なのか?



『「芸術」をやるなら新しいことをやらないと意味がない』とか、『「芸術」で、人がやったのと同じことをやっていてもダメだ』などと言われることがとても多いわけです。


そこで、その「新しさ」とはいったい何なのでしょうか?
また、その「新しさ」は本当に必要不可欠なものなのでしょうか?


まず、「新しさ」は本当に必要なのか?ということですけれど、これは、とても簡単なことだと思うわけです。

「芸術の目的」については、人によって意見が分かれるところだと思いますけれど、いずれにしても、その人が「芸術の目的」を「新しさ」であると考えるのであれば、「新しさ」は、当然のこととして必要不可欠なものに成るわけです。

また、その逆に、その人が「芸術の目的」を「新しさ」以外の物であると考えるのであれば、これも当然のことですが、「新しさ」は必要不可欠ではなくなるわけなのです。


まったくもって当たり前のことなのですが、「新しさ」が目的ならば必要で、そうでなければ絶対的な必要性は無いということです。


この当たり前なことが」、わかりにくくなっているのは、「新しさ」をほかのことに転換してしまうからだと思うわけです。

例えば、「新しい」ことによって「驚き」があり、その「驚き」が「感動」につながる。
と言った感じで転換することで、「新しさ」・「驚き」・「感動」の三つのうちどれか一つを目的とする人は、
皆「新しさ」を必要としているように考えてしまうわけです。


「新しさ」自体が目的であるという人は、初めから必要なのが解っているので問題ないでしょう。
でも、「驚き」や「感動」を目的とする人は

「新しさ」以外のもので「驚き」や「感動」を表現しても、何の差支えもないはずで、つまりは、「新しさ」は必要不可欠ではないわけです。
その場合、「新しさ」は、ある程度有効な「手段」であるということに成るわけです。

それぞれの「芸術」の目標が、どこにあるにせよ、そこに近づくのに「新しさ」が有効だと思うなら使えばいいし、要らないなら使わなければいい。
それだけのことなわけです。

ただの「手段」ですから。


そんな風に考えることで、また「新しさ」の有効性も見えてきたりもするかなと思うわけです。
「手段」ですから、使えるのならば迷わず(迷ってもいいけど)使えばいいのだと思うわけです。

このことは、「新しさ」以外のことでもほとんどのことに当てはまるのだと思っています。

どんなことが目的であるにせよ、それが「目的」であるならば必要不可欠であり、「目的」でないならば必要不可欠ではない、「目的」でない場合は、「手段」として使えるときには使うし、使いたくない時には使わない。


だいたいのことに当てはまると思います。


そこで今度は、「新しさ」とは何なのか?ということですが、長くなってしまうので、次の記事に続けます。




「芸術」に新しさは必要なのか?(続き)



前の記事の続きです。


さて、「芸術」における「新しさ」とはいったい何なのか?ということですが、これは、人それぞれの考え方だとは思いますけれど、私といたしましては、「芸術」における「新しさ」とは、「表現形態」の「新しさ」だと思っております。


「芸術」の本質は「自己表現」であると思うわけです。
ですから、表現するもの自体と言うのは、全ての人が皆違うものを表現しようとしているはずなわけです。

これは、まったく同じ顔をした人が居ないように、まったく同じ「自己表現」も存在しないのだと思うのです。
つまり、その時点では皆十分に「個性的」で「新しい」わけです。


それなのに、なんで似通った作品があるのかと言えば、「表現形態」が同じであるということによるのだと思うわけです。


もともと、同じ顔の人が居ないことも事実ですが、人の顔はだいたい同じような配置で目や鼻が付いているわけで、それと同じように、人の「個性」と言うのは大同小異であるともいえるので、「表現形態」が同じだと、「個性」による差は消されてしまうことが多いのだと思います。

逆に言えば、「個性」とは無関係に「表現形態」が違うだけで、まったく違うものに見えますし、それは”新しく感じる”わけです。


そこで、その「表現形態」とは何なのか?といえば、それは、ものの”捉え方”だと思っております。

「表現」の「形態」ですから、”表し方”と言うべきところですけれど、実際には捉えたものしか表せませんし、また、捉えられた時点で表される形が決まってしまうともいえるので、一応”捉え方”としておきます。


例えば、物を見たときにその物をどう”捉える”のか、物質としての形を”捉える”のか、それとも、何かそれ以外の本質を”捉え”ようとするのか、また、同じ形でも、それを面でとらえるのか、輪郭線で捉えるのか、さらには、物質的ではない”何か”を表現したい場合、目に見えないものを如何にして”捉える”のかということで、「表現形態」がだいたい決まってくるのだと思うわけです。

そして、その「表現形態」、即ち「捉え方」が新しければ、それが「芸術」における「新しさ」と成るのだと思うわけです。


ただし、ここで前の記事にも書いたのですけれど、「新しさ」が自分の目的であるのか、または、自分にとってそれが「手段」に過ぎないのかと言うことは、見極めておく必要があるのだと思います。


それから、「新しさ」を意識しすぎて、突飛なことをやっても、それがしっかり”捉えられて”いないと、「表現形態」とは成らないわけです。


結局、自分が制作を続ける中で到達した「表現形態」が、その時点での、その人にとっての、最新の「芸術」における「新しさ」ということなのだと思うのです。


だから、敢えて「新しさ」を追わなくても、もしかしたら「新しさ」は結果として付いてくるものなのかも知れないなと。
まぁ、かなり一所懸命にやればってことですけどね。


今、そんなことを思いました。




「いい爺さん」と「わるい爺さん」



最近、よく街なかで「いい爺さん」と「わるい爺さん」というパターンを目にするのです。


いわゆる、昔話に出て来るパターンですね。

これは、実際には、「お爺さん」に限定した話ではないんですが、あまりにも昔話のパターンに似ているので、そんな風に言いたくなってしまうわけなのです。


例えば、道で人とすれ違いざまに、意味もなく「ケッ!!」と言っている人を見かけたりするわけです。

そうかと思うと、歩道の幅が狭くなているところで、人が通り終わるまで待っていてくれたりする人なんていうのも、けっこういたりします。
(しかも、モナリザのほほえみを浮かべて)


要は、両極端なわけです。 「いい人」と、「わるい人」がですね。
まるで昔話の中の役柄を演じているように、「いい人」は典型的な「いい人」だし、「わるい人」も典型的な「わるい人」なわけです。


「いい人」の方はニコニコしていますし、「わるい人」の方は苦虫をかみつぶしたような顔をしています。


そうは言っても、「いい人」は、”穏やかな感じ”と言う程度のことですし、「わるい人」が「悪人(あくにん)」かと言うとそうではなく、”ややイジワル”だったり、”若干エラソー”だったりするという程度で、本当の「悪人」と言うわけでもなさそうです。

そこがまた、「いい爺さん」と「わるい爺さん」的な感じなわけです。


初めにも言いましたけれど、これは決して「お爺さん」に限った話でもなくて、年齢層にも、性別にも、あまり関係なく、いろいろな人が「いい爺さん」と「わるい爺さん」に分かれてしまっていて、一番多いはずの”普通の人”が、、極端に少ないわけです。


なんで両極端に分かれてしまうのかはわかりませんけれど(たぶん、社会全体が両極化しているからだと思いますけど)、私といたしましては、”普通の人”が一番いいと思っていますので、「フツーの爺さん」がもっと居てもいいんだけどなと。


そんなことを思ってしまうわけなのです。




「向いていること」に「向いてないひと」



人には、「向き・不向き」と言うのがあると思うわけですけれど、実は、その「向いていること」に「向いてない人」と言うのも結構いたりするのかなと思うのです。

つまり、「向いていること」と「やりたいこと」が一致しないケースですね。


この二つが一致している人は幸せだと思うのです。
でも、そういうケースは意外と少ないのかも知れないなと思ったりもするわけです。


人間と言う生き物は、人から褒められたり、人より自分の方が上手くできたりすると、それが得意だと意識するようになって、それを好きになることが多いわけです。

そして、そのまま、それをやって行きたいと思った人は、「向いていること」に、そのまま「向いているひと」なわけです。

でも、人から褒められたり、人と比べて上手くできたりと言うことで、いい気分になる時期を過ぎて、ふと、『自分はこれが本当にやりたいのか?』と考えたときに、『これがやりたかったんじゃなくて、人から褒められたから気分がよかっただけだったんだ』と思った人は、「向いていること」に「向いてないひと」ということになるわけです。

そして、『じゃあ、本当にやりたいのは何なのか?』と考えて、たどり着くところが、「向いていること」(得意なこと)とも限らないわけです。


もちろん、敢えて「苦手なこと」をやる必要はないでしょうが、「やりたいこと」の方を優先した方がいいのでしょう。

「向いていること」を得意だというだけでやっていると、人から褒められることは多いでしょうが、そういう「人から受けること」を抜きに考えると、あまり心に残るものはないように思います。


だったら、「向いていること」に「向いてないひと」が、もっとたくさん居てもいいんじゃないかなと。

その人は「向いているひと」に敵わない部分が出て来ると思いますが、それでも、その人のやることは「向いているひと」にはできないことなのだと思います。

たぶん、そういう人が居る事にも、何かの意味があるのでしょう。
その意味は、世間一般にはわかりにくいかも知れないけれど、本人と、身近な人には良くわかることなのだろうなと。


そんな風に思います。
(『あぁ、自分か?』)




「娯楽」は多い程いいのか?



「娯楽」は、人間にとって必要なものだと思うわけです。
やはり、「娯楽」が一切なくなってしまうと、殺伐として”心がスサンデ”きてしまうのだと思います。

でも、それは”多い程いい”のでしょうか?


「昔は娯楽が少なかったから」などと言うとき、『娯楽は多い方がいい』と言う前提で言ってしまったりするわけですけれど、『本当に娯楽って多いほどいいのか?』と考えることが少ないわけです。

でも、最近になって多種多様な「娯楽」がある割には、『”楽しさ”は増えているのだろうか?』と思うときがあるわけです。

そこで、『娯楽は多い方がいいのか?』
いや、それ以前に『娯楽というのは増やせるものなのか?』と考えるわけなのです。


実は、「娯楽」や「楽しさ」は増やしたりできないんじゃないのかなと。

実際、若いころを振り返って『昔は娯楽が少なかったからねぇ』と語る人は、いつも決まって、懐かしそうな目をしているわけです。
そういう人が、「娯楽の海」の中を泳いでいるような今の子供や若者を見て、心の底から、羨ましそうにしているのを、あまり見ない気がします。


本当に「娯楽」や「楽しみ」が増えているならば、それらが少ない時代に生まれたことを”損した”と思うでしょうし、そのことが顔に出るはずだと思うのです。


要するに、その時代、「娯楽が少ない」ということ自体が、一種の「娯楽」だったということなんじゃないのかなと。
そして、それは十分に”楽しくて”、十分に「すばらしい娯楽」だったということなのだと思うのです。


つまり、「娯楽」の種類を増やすことは出来ても、「娯楽」や「楽しみ」の量を増やすことは出来ないのかなと。

そして、もしかしたら、「娯楽が少ないこと」っていうのは「究極の娯楽」だったりするのかなと。


そんなことを思いました。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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