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「抽象」は「具象」の反対なのか?



「抽象」と「具象」は、一応は反対のものということに成っているわけですけれど、この二つは、「二極」を成すものではあっても、正反対ではないのだと思っているわけです。

つまり、割と近い範囲での「二極」ということだと思うのです。


「抽象」と言うと、どうしても「具象」と正反対のことを思い浮かべててしまいがちなわけですけれど、でも、実は、「抽象」と「具象」は「表現」と言う狭い領域の中で両極にあるというだけで、世の中全体を見た場合は、むしろ近い所にあるものなのだと思うのです。


でも、「抽象」という概念が出現してきたときに、「既存の表現形態」を”破壊するもの”というイメージで捉えられてしまったために、『「具象」を”破壊するもの”が「抽象」である』という正反対の位置付けがされてしまったのだと思うわけです。


でも、実際には、「抽象」に当たる「表現」も昔からあったわけで、ただ単に、それに「抽象」と言う名前を付けたというだけのことだったとも言えるわけです。


ただし、名前が与えられて、それが概念として確立されて行く過程で、そこに「意味」が問われるように成っていったというところが、それまでの「単なる表現」としての「抽象的なもの」との違いなのだと思うわけです。

言ってみれば、「なんとなく抽象」だったものが、「はっきりした抽象」に成ったということだと思います。


でも、それは「具象」も同じで、「抽象」に名前が付けられたことによって、それに対峙するものとして「具象」と言う名前も与えられたのでしょうし、その時点から、「具象」も、また、その「意味」を問われることに成ったわけなのでしょう。


この双方に対する「意味」が問い詰められる前に、「破壊」=「抽象」や「具象」VS「抽象」という流れに成ってしまったのだと思うわけです。

そして、それは未だに問い詰められていないようにも思えるわけです。


この「意味」という「問い」から逃れられる者は居ません。


自分に名付けられた名前から逃れられるものは居ないでしょう。
それは、自分から逃れられる者は居ないということです。

それと同じように、日本人に生まれた者は、日本人であることからは逃れられません。

さらにそれと同じように、ある「問い」や、ある「意味」が、既にそこに存在する時代に生まれた者は、それらから逃れることは出来ないわけです。

この「意味」という「問い」を回避しても、それは果てしなく繰り返し、問われ続けます。


だから、この「時代の発する問い」を回避し続ければ、そのことに疲れ切ってしまうでしょう。
でも、「時代」は疲れるということが無いわけです。


話が逸れてしまいましたが、「抽象」と「具象」は対立するべきものではなく、共存するべきものだと思うのです。


「抽象」と「具象」に限らずどんなものでも、二つの要素を「対立」の構図で捉えると「引き算」的になりますが、「両立」や「共存」と言う考え方をすれば、「足し算」や「掛け算」的に成るのかも知れません。


「抽象」には「具象性」=「現実性」が必要だし、「具象」には「抽象性」=「真実性」が必要なのだと思うのです。

そして、そうなったとき、その二つはとても近い所にあるのかなと。


そんな風に思っています。



「アタマがイイ」と言われる「頭の良さ」



『あの人は頭がいいよね』と言うときの「頭の良さ」が、言う人によって随分違うなと感じることがあるわけです。


まず、学歴偏重系の人ですが、もうそろそろ、そういう人もそんなには居なくなったのだろうと思うと、まだまだ、けっこう居るみたいですね。

さすがに、高学歴=”エライ”という人は少なくなりましたけれど、「アタマがイイ」となると、俄然と学歴偏重色が強く出てきます。
要するに、その人たちは「勉強ができる」ということを、「アタマがイイ」の基準にしているわけです。


それから、「頭の回転が速い」ということを、「アタマがイイ」の基準にしている人も、かなりの数で居るようです。
日常会話の中で、気の利いた言葉を即座に返せる人が、「アタマがイイ」と言われることは、とても多いわけです。


あとは、リクツ屋系ですね。

何かにつけて、妙に回りくどい説明をしてみたり、小難しくて解りにくいことに限って、『これは解り易かった』と言うようなタイプですね。
そういう人を「アタマがイイ」と言っている人は、「論理性」を「アタマがイイ」の基準にしているということなのでしょう。


ほかにも、いろいろな「アタマがイイ」があると思いますけれど、いずれにしても、どのタイプの「アタマがイイ」なのかによって、随分、その「頭の良さ」が違っているわけです。


そこで思うことは、上に挙げたような「アタマがイイ」人たちは、確かに、何らかの「頭の良さ」を持っているのだと思うわけですが、そこから外れた「アタマがイイ人」も居るんじゃないかということなわけです。


高学歴ではなくて、口下手で、リクツ屋でもない人で、それでも「アタマがイイ人」なんて沢山居るような気がするのです。
いや、むしろ本当に「頭がいいこと」と言うのは、そういう人が持っている「頭の良さ」なんじゃないのかなと。


つまり、それは「思慮深さ」なのではないかと思うわけです。

当たり前と言えば、当たり前のことなんですけれど、その当たり前のところが抜けているように思われるわけなのです。


これが、いつごろからの傾向なのかはわかりませんけれど、いわゆる表面上の「アタマがイイ人」だけが「アタマがイイ」と言われて、その「表面的な頭の良さ」を持っていないと「アタマがイイ」とは言われなくなってしまっているように思われるわけなのです。

これは、世の中全体が表面的になっているからだと思うわけです。


表面だけが重視されて、「本質」や「核(コア)」の部分は無視されているわけです。
無視されるだけでなく、そういうものを「重い」・「メンドクサイ」こととして排除しようとする傾向もあるわけです。

でも、「表面的」で「軽い」、「メンドウがない」ことを、「アタマがイイ」と言うのにはチョット無理があるのではないのかなと。


それじゃ、何も考えていないのと大差ないでしょ。
それが、「今のニッポンのアタマがイイ」なのですかと。


そんなことを言いたくなってしまうわけなのです。




いろいろなことを巻き戻したいわけなのです



唐突ですが、いろいろなことを巻き戻したいわけなのです。
つまり、今の「時代」が受け入れられないわけです。


『いい年をして、なにを”コドモじみた”ことを言っているのか!』と言われるんだろうなとは思うのです。

それでも、この「時代」は受け入れがたいわけです。
「芸術」なんかに限ったことでもないのです。


自分だけのことでもなくて、誰のことでもなくて、すべての人のこととして、いろいろなことを、少し巻き戻してもいいんじゃないかと思うわけです。


私のような人間は、違う「時代」に生まれても、きっと、こんなようなことを言ってはいるのでしょう。
それは、私が「そんな人間」だからです。


でも、この「時代」は、「そんな時代」じゃないと思うのです。


『いつの時代も同じようなものなんだ』と、ずっと言い続けてきたわけです。
でも、だんだん追いつかなくなってきているような気がするわけです。

「不況」のせいなんかじゃあり得ません。
そんなことは、あまりにもわかりきっています。

これから先、どんなに景気が回復しようとも、どんなに「スバラシイ・セイジ」が実現されようとも、「いい時代」になるというわけでもないでしょう。

そんなことには、みんな”トックに”気が付いているわけです。


それは、待っていても来ないし、先に行けばいくほど遠のいていくでしょう。
ときどき、”巻き戻しながら”進んでいかなければ。


「時代」に翻弄されるようになってきているわけです。
「すべての人」が。


常に振りまわされているようにしか感じないのです。
「生きるということ」が。


「いまの時代」のなかで「生活するということ」が、「自分の人生を生きること」から離れてしまっているように思うのです。


なぜでしょう?

そんなことは説明したくもないわけです。
周りにいる人の誰か一人を見たらわかることですから。

その人も振りまわされているでしょう。

「いまの時代」に。



そんなことから、私なりに、少し「時代」を巻き戻すことにしたわけです。


私の周りには、「いま」を生きる人たちが居ます。
みんな「いま」に振りまわされています。

私も「いま」の中に居ます。
でも、「いま」を生きてはいません。

そして、振まわされてはいません。少なくとも「いまの時代」には。
少し”楽”です。


「時代」に”取り残される”という焦りが無いわけです。
実際には、「どちらかと言うと取り残されている」のにもかかわらずです。


世間で言われていることは、遠い「時代」のことに成ります。
世間が押し付けて来る「常識」とか、自分が勝手に創り出した「メンツ」や「プライド」、そうした枠から外れるわけです。

つまり、「いまの規範」を捨てることで、巻き戻した「時代」を生きているわけです。

「いつ」だっていいんです。

「いま」でなければ。


そして、少しですけれど、「自分の人生」を取り戻せたように思っています。


今までだって、人から見たら”自分勝手な”生き方をしているように見えたのだと思います。
でも、本人としては”一所懸命に”「時代」に合わせて生きてきていたわけです。

それに気が付いてしまったということです。


あと2~30年早く生まれていたら、そのまま年を取って死んでいったように思います。
(ブツブツ不満を言ってはいたでしょうけど)

でも、この「時代」は受け入れられなかったわけです。


だから、この「時代」に生きられる人はいいですけれど、「生きること」が”チョットオカシク”なって来ている人は、”巻き戻す”といいんじゃないかと思うのです。


そこに「鬱病」とか、「〇〇症候群」とかいう名前を付ける必要なんてないと思うのです。
人が”病んでいる”わけではないのです。
「時代」が”病んでいる”わけです。


そういう病気になっている人でも、なっていない人でも大きな差はないと思うのです。

みんな同じように「いま」に居ます。
そして、その「いま」が病んでいるわけです。


だから、大部分の人が「治療」では治らないと思うのです。

必要なのは「時代」を”巻き戻す”と言う「気分転換」なのだと思うのです。


ほとんど何もしなくていいわけです。
ただ、周りの人を見たときに、『あぁ、あの人も振り回されてる、”いま”を生きてしまってるからね』と思うだけです。

その「いま」は「”病んでいる”時代」です。
そして、自分は「遠い時代」から、それを見ているというわけです。

それは「”健康な”時代」です。
うまくすれば、少し”楽”になれます。


これは別に、周りの人を見て「あーあ、カワイソーニ」ということではありません。
たぶん、あちらから、こちらを見た方が、よほど「カワイソーニ」だと思います。

そこを気にしないというだけでいいわけです。


これを、徹底的にやろうとすれば、いろいろなものを捨てなければなりませんけれど、「気分転換」だけでしたら、自分の頭の中の「時代」を”すり替えて”やるだけでいいわけです。

ほとんど捨てるものも無いはずです。
要するに、「カワイソーニ」と思われても気にしないというだけのことです。


そこで『くやしい!』と思ってしまえば、一気に「いまの時代」に引き戻されてしまいます。
その『くやしい!』は違うときに使えばいいわけです。 


長くなってしまいましたが、とりあえず、こんな話を最後まで読んだ人と言うのは、”巻き戻し”てみてもいいんじゃないかなと。


それは、たった一人でできて、小さな発想の転換でできるようなことですが、「時代」を超えるという”壮大な”こととも言えるわけです。


まぁ、なんとなく、そんなことをやっていると言うわけです。



いろいろなことを巻き戻したいわけなのです(続き)



前の記事の続きです。


私は自分なりに、少し「時代」を”巻き戻す”ことにしたわけですけれど、『なぜ、そこまでして「いま」を拒否しようとするのか?』という疑問があると思うわけです。


私の場合は「芸術」をきっかけにして、これを始めることに成ったわけですが、「いま」と言う時代の中で、「芸術」を真面目にやってみようと思った時に、この時代の中に居たままでは、自分は、「芸術の中心」には入っていけないだろうと思ってしまったわけです。


そして、いろいろなことを考えるうちに、『そこには、常に「時代」と言う”壁”があって、必ずそこにぶつかるから入っていくことが出来なくなっているんじゃないだろうか?』と思うように成ったわけです。

そしてそのことは、「芸術」以外のことで、いつも自分が感じていたこととも、ほぼ完全に符合することであったわけなのです。


そして、この「いま」と言う「病理」に思い至って、『この”病んだ時代”を受け入れてしまっていいのか?』また、、そして、『これを受け入れてしまった上で、なんのための”芸術”だというのか?』と言う気持ちになり、私は、とうとう「いま」を受け入れることが出来なくなってしまったというわけです。


より正確に言えば、病んでいるのは「いま」だけではななく、「全ての時代」が病んでいるということすら言えると思いますけれど、その「病状」が「時代」とともに進行して「いま」に至っているということだと思っています。


もともと、人間が「文化」や「文明」を持つかぎり(政治形態や社会機構等を含めた意味で)、この「社会的病理」を完全に免れることは出来ないのだと思うのです。


「人間」も「人間が生み出す論理」も完全ではあり得ませんから、当然、そこから構築される「文化」や「文明」と言ったものも、”完全性”を持つことは出来ません。

ところが、人間は何らかの”完全性”を精神的な拠りどころにしなければ、その「文化」・「文明」を推進していくことが出来ないわけです。

つまり、人間が「文化」・「文明」を推進していくためには、それが『正しいことである』という”絶対性”を裏付けにする必要があるわけです。

それが無いと、人間は自信や確信をもって物事を行うことが出来ないということだと思います。

しかし、それは、実際には不完全ですから、本当の意味では、”絶対性”を持ち得ません。
それで、全ての「人間の行い」は、いずれ何らかの形でその”不完全性”を露呈して、破綻してしまう”ハズ”なわけです。

ところが、はじめの段階で、拠りどころとした”完全性”が、邪魔をするわけです。

つまり、すでに破綻している「論理」に基づいた「文化」・「文明」が、初めに拠りどころとして与えられた”完全性”によって裏付けられているために、長い期間、維持されてしまうことが非常に多いわけです。


過去においては、破綻した「論理」に基づいた「文化」・「文明」は、ある程度の期間、維持された後、”その期間”を過ぎると、その破綻したものの”無意味さ”に人々が気付いて、修正されていたものと思われるわけです。

しかし、現代の「時代」の進行速度は、”その期間”を遥かに凌いでしまっており、修正する時間を与えてはくれないようになっているわけです。

そして、その「破綻」の上に、さらに新たな「文化」・「文明」が築かれていくわけです。
つまり、そういう形で築き上げられているのが「いまと言う時代」ということに成ります。


そしてさらに言えば、この「破綻」の上に「破綻」が累々と積み重ねられた「時代の病理」を、すべて飲み込んで、自己処理することを求められている者こそが、「いまと言う時代」を生きる「現代人」ということに成るわけです。

そのうえ、さらに付け加えるなら、この「時代の病理」の身代わりとなって精神病理的な状況に陥った人に対して、その根本原因である「いまと言う時代」を指摘する者はまったく居ないというしかありません。

そのような状態の人が、精神科やカウンセラーの門をたたいても、社会の最小単位である「家族関係」や「職場の人間関係」におけるトラウマやストレスと言うプライベートな範囲内において原因が求められてしまうために(それは確かに原因ではあるのですが)、【過去から積み上げられてきた歴史を含めた意味での「いまと言う時代」】 という、、一人の人間には到底太刀打ちできないものが、真の原因であるという観点が抜けてしまうわけなのです。


もともと、「医療」においては、「人間が社会に適応できなくなるような状態」を「病理」と呼ぶ傾向がありますから、「社会」の側が”病んでいること”は「医療」の守備範囲とは考えられていないのでしょう。

また、同じ理由から「社会復帰」をもって「治癒」とする傾向がありますから、患者と医師の間の「治療」の範囲では、改善することが不可能な「時代の病理」については、、『それを言っても始まらないから』ということで放置されてしまい、取り敢えず、目の前にあるトラウマやストレスをコントロールすることで、どうにか「社会復帰」できるようにするという「対症療法」が主流を占めてしまうわけです。
(実際は、それが全てと言うべきでしょう)

そしてそのことによって、患者は「社会復帰」と引き換えに、「時代の病理」と言う、更に”巨大な不条理”を飲み込まされてしまうわけなのです。


そう考えると、そのように病んでいる「いまと言う時代」に対して、何のストレスも感じずに過ごせる人が居るとすれば、その人こそが、「病的」な状態にあるわけで、むしろ、現在「精神病理的症状」を呈している人と言うのは、その「精神的健全性」によって、その「症状」に陥っていると考えられなくもないわけです。

従って、「健全性」を「病理」として、「病理性」を「正常」とする逆転が起きてしまっているわけです。


その結果、大半を占める「健全な人たち」が、その「健全性」を失いつつあるわけです。
しかも、その「病理」をもって「正常」とするような「異常性」に気付くことすらなくなり、それどころか、それを頑として認めようとしなく成ってしまっている人も急激に増えてきているわけです。


長くなってしまいましたが、以上のことが、私が「いまと言う時代」を受け入れられなくなった経緯なのです。


そして、もう一つ、『なぜ、過去へ巻き戻すのか?どうして未来へ向かわないのか?』

それを次の記事に書きます。




いろいろなことを巻き戻したいわけなのです(続きの続き)



しつこいですが、更に続きです。


さて、『なぜ、過去に巻き戻すのか?』ということです。

『未来へ向かえばいいじゃないか』
その通りなのだと思います。

本当なら、一足飛びに「未来」へ向かって行けばいいわけですが、でも、『向かって行く”場”がない』と思ってしまうのです。
「未来」と言うのは、”まだ無いもの”ですから、そこへ行くべき”場”として設定しにくいのです。

それができる人もいるのかも知れませんけれど、やはり、イメージし易い「過去」がいいように思ったわけです。

「過去」と言う、既に確定している「時代」に”巻き戻す”ことで、とても”安心できる”ということだと思います。


さて、そこで、この「時代」の”巻き戻し”に、どれほどの”意味”があるのか?ということですが、正直言って、それはよくわかりません。


随分と無責任な話ではありますけれど、私に言えることは、『自分には少なからず”意味”があります』ということぐらいです。

誰にとっても”意味”のあることなのか、そうでもないのかについて、この時点で判断することはできませんが、少なくとも、「いま」と言う「時代の病理」について、私は明確にそれを感じていますし、そこにはもう疑いを差し挟む余地はありません。

さらには、「時代」が”病んでいる”のに対して、「人」は”健全である”とも感じております。
一人一人の「個人」が、まだ、”ある程度健全な状態”にあることも、実は確かなことだと思っているわけです。

しかしながら、この「いま」を持続延長し続ければ、いつの時にか「時代の病理」が「人」にも蔓延してしまうことも、また、間違いようのないくらいに確かなことであると思うわけです。


「いま」を見る限りにおいては、一見、すでに「人」にもこの「病理」が蔓延してしまっているようにも見えるわけですけれど、それは、「いま」と言う「時代」や「社会」を構成しているのが、その「人」であるからであり、そうした「集合体」の構成要素としての「人」は、すでに、「かなり病的な状態」に陥ってしまっていますが、その「集合体」から引き離した「個人」としての「人」は、いまだに、ある程度の「健全性」を維持しているという風に思うわけです。
(あくまでも、ある程度ですが)


そういうことで、まずは少し”巻き戻して”行こうかなと。

『まだ、大丈夫、間に合うよ』と言ううちにですね。

新年早々、そんなことを考えてみたわけです。




「なぜか心に残ってしまうもの」



『感動した』とか『とても印象深かった』とかいうことではなく、何の気なしに見たものや聞いたものが、その後、長い年月の間、”ミョーに”ずっと頭の中に残っているということがあると思うのです。


たぶん、誰にでもそういうことがあるんだろうなと思っているんですが、どうなんでしょうか?
それはともかく、いくら考えても「それが残っている理由」が思いつかないわけです。


例えば、とくに好きなわけでもなかったテレビ番組の中の一コマとか、ドラマのセリフ、友達との会話、コマーシャルのフレーズなど、ジャンルにも内容にもほとんど関係なく、つまり、”まったく理不尽に”しかも長期間、心に残っていることがあるわけなのです。


私の場合、学生時代に学食でスパゲッティをたのむと、学食のおばさんが「スパゲ~」と言っていたのが、どうしても頭から消えてくれません。

『絶対理由なんかない!』と思います。

それから、時代劇のドラマで、菅原ブンタさんが言っていた『~が、なじょする』と言う何処かの方言のセリフが消えません。
何のドラマかも覚えていませんし、どういうシーンかも覚えていません。
第一、その時代劇は多分その回の放送しか見ていないわけです。

これなんかも、何故だか全くわかりません。


他にも、すごく短い期間しか流されなかった(2~3回見たくらい)コマーシャルなんかでも、消えないものがありますし、こういうのを挙げたらきりがありません。


その反面、すごく好きだったものや、何度も繰り返し見たものなんかでも、「コロッ」と忘れてしまうものもあったりします。
しかも、そのまま思い出せなくなるなんて言うのもあったりします。


さて、何が言いたいのかと言うと、『「心に残る」って、いったいどういうことなの?』ということなわけです。


まったく人間と言うのは、ミョーな感じで複雑にできていますから、『この感動は一生涯忘れないだろう』というようなことを考えてみたら、はじめからよく覚えていなかったりすることもありますし、どうでもいいようなことを何十年も覚えていたりするわけです。

私は「絵」を描いていますから、どうせなら「人の心に残るようなもの」をと思うわけです。
それが第一の目的ではないにしても、やっぱり「気にも止められないようなもの」よりは、「心に残るもの」ということはあるわけです。

ところがですね、こういう理不尽な「心に残る」があるということはですよ、頑張って描いても『スパゲ~』に勝てないわけです。

いえ、勝ち負けではないんですよ。
そんなことは決して思っていませんよ。

でもね、負けたくない相手というのはあるわけですよ。
私の場合、『スパゲ~』には負けたくなかったわけですね。

それなのに方策がないわけですよ。
この「理不尽さ」、この「無根拠さ」、この「執拗さ」に対抗する手段が思いつかないわけです。


そこで、「いっそのこと、自分がそっち側に行けないのか?」と思ったわけです。
何の根拠もなしに理不尽に「人の心に残る」側にですね。

でも、よく考えたら理不尽な”残り方”はしたくありません。

それでも「心に残るもの」と「心に残らないもの」はどこで決まるのだろうなと。


そんな風なことを、いま取り敢えず”考え中”です。



「現代美術的な視点」から見た「古典」とは何なのか



「美術」において「古典」と言うときに、だいたいの人がイメージする「時代」があると思うわけです。
でも、そういう「美術史的な観点」からではなく、「現代美術的な視点」から見たときの「古典」とは、どういうものを意味するのでしょうか?


「現代美術」の捉え方は、人それぞれで、いろいろだと思いますけれど、「現代美術」には、「古典」からの”脱出”と言う側面があったことは、多くの人が認めるところだと思うわけです。

そうだとすれば、その”脱出”したはずの「古典」を、同じ範疇のなかで「古典」と呼んでいることには無理があるように思われるわけです。

それらは、「現代美術的な視点」で見た場合、「古典よりさらに昔のもの」と考えた方がシックリくるように思うわけです。


更に言えば、「現代美術的な視点」をもって見た場合、「印象派」は勿論のこと「20世紀美術」も、もはや「古典」として考えるべきであって、それらはすでに、「”脱出”すべきもの」と成っているということになるわけです。

そして、現に、そういう考え方のもとに「コンテンポラリー」は進行しているわけです。


極端に言えば、「昨日のもの」は、すでに「古典」であるといってもいいような状況になっているわけです。
それは、つまり、例えて言うならば「オタク文化」も、もう既に「古典」であるということです。


それが世に現れた瞬間からとは言わないまでも、世間一般に認められた時点からは「古典化」が始まるわけで、言ってみれば、最も勢いがある時期には、それはもう「”脱出”すべきもの」と成っているというわけです。

つまり、この「古典からの”脱出”」と言う考え方を持ち続ける限り、「継続」や「継承」ということが出来ないわけです。

更に言えば、この「古典からの”脱出”」と言う考え方自体も、既に、世間一般に認められてしまっているわけです。

これは要するに、「古典からの”脱出”」と言う考え方自体が、もはや、「古典化」してきているのではないのかと思うわけです。


もしも、そうだとすれば、”脱出”すべきは、その考え方自体なのではないのかなと。
つまりは、「現代美術」の在り方自体を、その辺から根本的に問い直す必要があるのじゃないのかなと。


そのような考え方があってもいいんじゃないかと思います。




「民衆」という「独裁者」



私なんかもそうなんですけど、世の中にうまくいっていないことがあると、だいたいのことは『政治や社会が悪いからだ』ということしてしまう習性があるわけです。

でも、本来は、「民主主義」ですから、「民衆」に責任がある”ハズ”なわけです。


私は、現在の「民主主義」というものが建前通りの機能を果たしてはいないと思うので(多数決が機能していない)、「民主主義」だからと言って、すべての責任が「民衆」にあるとは思いませんし、「民主主義」が機能不全に陥っているのは「民主主義」と言うシステムの問題だと思いますから、それも「民衆」の責任だとは思わないわけです。


しかし、それが「民主主義」自体の問題であるのならば、それは、現時点での「政治や社会」の問題とも言えないところがあるわけです。


現時点での「政治や社会」は、現行の制度を尊守するべく設定されているわけですから、その「政治や社会」自身が、それを根本から変えることはなかなかできないわけです。

だから、「民主主義」が正常に機能していなくても、「民主主義政治」は、その機能していない「民主主義」を守り続けるでしょうし、「社会」も常にそれを支持するわけです。


その結果、「民衆」という「独裁者」が生まれてしまっているように思うわけです。

※ここで言う「民衆」とは、「みんな」という意味の「民衆」ではなく「誰でもない者」
 としての「民衆」です。
 「みんなの意思」は「個人の意思」に帰結しますが、ここで言うところの「誰でも
 ない者の意思」は、「個人の意思」を無視します。

「民衆」を「独裁者」なんて言ったら怒る人もいるかもしれませんけど、「独裁政治」の下では、「独裁者」を「独裁者」と言っても怒られるわけです。


つまり、「民主主義」ですから、一応何でも「民衆」が決めていることになっているわけです。

ところが、それが機能していませんから、時として暴走して”トンチンカン”なことをしたりするわけです。
そして、それも全て「民衆」が決めているということに成っているわけです。


そして、自分たちが決めている”ハズ”になっていることの”デタラメさ”にいら立って、みんな『政治が悪いんだ』と言っているわけです。


一人の人間が独断で「政治」を行えば「独裁政治」になります。
一部の人間の利益に偏った「政治」が行われれば、「利権的な政治」ということです。

そこのところを、すべての人の意思が”均等に”反映されるという前提で「民主主義政治」になるわけです。
そして、これを有り難いものだと信じているわけです。


ところが、それが機能していないということになると、当然、すべての人間の意思が反映されることはありません。

それだけなら、まだいいんですけど、場合によっては誰の意見も反映されていない、なんていうこともあるわけです。

『”均等に”誰のためにもならない』という感じです。


つまり、「民衆」という”誰でもないもの”の意思ですべてが決定されてしまうという、特殊な「独裁政治」が生まれてしまっているわけです。

”みんなの意思”とはまた別の「民衆の意思」があるということです。


現在の「民衆の意思」は、その「民衆」を構成している一人一人の人間の意思を明らかに無視しているときがあります。
”踏みにじられている”と感じられることすらあるわけです。

それなのに、なぜか元をたどっていくと、キチンと「個々の民衆の判断」によって成り立っているということになっているわけです。

つまり、「人民の、人民による、人民の為の判断」が、その「人民」を”踏みにじっている”わけです。
(みんなで寄ってたかって意見を出し合った結果、”誰も望んでいない”結論に達してしまうというようなものでしょう)


要するに「独裁者」も「民衆」で、支配されているのも「民衆」ということです。

「独裁者」である「民衆」は実体のない形式上の「民衆」という亡霊のような存在です。
実態はありませんが、その「意思」だけが存在します。

そして、支配されている「民衆」が、実体としての「民衆」なわけです。


「社会主義・共産主義」はすでに崩壊していると言わざるを得ませんが、実は、それと同時に「民主主義・自由主義」も崩壊してしまっているように思われてならないのです。

少なくとも、現在の状態のままの「民主主義・自由主義」では、現代社会の中で、それを正常に機能させることはできないのだと思うわけです。


ですから、最も重要なのは「民主主義」が正常に機能することができるような状態を作り出すことで、それには、形骸化してしまっている「多数決」を有効にしなくてはならないわけです。


私は、陪審員(裁判員)制度のような、少人数の無作為に選ばれた人による決議を採用する勇気が必要だと思っています。


これは「全員参加」という建前を無視しているわけですが、その他の建前も全体的に崩壊しているわけですから、そこだけ守っても、どうしようもないと思うわけです。


もちろん「全員参加」の領域も残さなければならないでしょうが、そこでの「全員参加」と「無作為抽出サンプル」の関係は、「参議院」と「衆議院」のような関係になるわけです。

それをもっと明確に色分けした形ということでしょう。


あまりに多くの人間が集まって、何か決めると”ロクデモナイ”ことしか出てこないというのは事実だと思います。


人間は「社会」の中でしか生きられないと思いますから、「社会」の影響を受けやすいと思うのです。
だから、「社会」の中に投入された人間は、その影響で歪んだ判断しか下せなくなってしまうわけです。


「三人寄れば文殊の知恵」と言うのは「三人」だからいいわけで、「百人」ではダメなんだと思います。

それはどちらかと言えば、「船頭多くして、船、山に登る」なわけです。


人が意見を出し合って何かを決める場合、「協調」すれば、「足し算」に、「共鳴」し合えば、「掛け算」に成りますが、「妥協」すれば「プラス・マイナス・ゼロ」に成るし、「競争」すれば「引き算」に、「敵対」すれば「割り算」に成ります。
(「競争」で高められるのは「個人の能力」であって、「組織の機能」ではないと思います)


集められる人の数が多ければ多いほど、「協調」や「共鳴」は難しくなるわけです。

「協調」や「共鳴」は、もともと、狭い範囲で起きるものであって、”たった一人”の発する「不協和音」がすべてを”ノイズ”に変えてしまいます。

人の数が増え過ぎると、その「不協和音」が、いかなるものであるのかを検討しきれなくなってしまいます。
それで、結果的に、たくさんの音がでたらめに鳴り響いている状態になってしまうわけです。

それでは、共鳴作用が起きるわけがありません。


そこで、「個人」としての人間の判断を生かしていくほうがいいように思うわけです。


だから、いろいろなことで「個人」を切り離していけるようになればいいように思います。
「社会」の規模が大きすぎて「個人」が消えてしまっているわけです。

「社会」を小さく切り取って「抽出」したサンプルの中では、「個人」がようやく見えてきます。


だいたい、教育の現場で「個性」と言われだしてきてから、日増しに「没個性化」しているように思えてなりません。

それは、「個性」と言う言葉で、「社会性」と「個人性」が、あたかも簡単に両立できるものであるような、幻想を人の心に植え付けてきたからだと思うわけです。


そして、「個性」「個性」と言いながら、実はそこで植えつけてきたのは、「社会性」という「個性」とは相反するものだったということだと思うのです。


「個人」でよかったんじゃないかと思います。

”社会的”であると同時に”個人的”であると言うことが、極めて困難なことであるということを、そして、その二つは反駁し合うものであることをもって、お互いを必要としていることを、教えるべきだったんじゃないかなと。

”社会的であるべき”という妄想が、「民衆」という「独裁者」を作り出してしまったのかなと。


そういう空想を抱いててみました。





現在の「多数決」は「伝言ゲーム」のように成っていると思うのです



前の記事で、「現在の多数決は機能していない」と書いたのですけれど、どう機能していないと思うのかについて書いてみたいと思います。


まず、「代議員制度」です。

これが、現在の国家規模での「多数決」のほとんどの部分を占めていると言ってもいいと思います。
しかし、この「代議員制度」には、かなり無理があると言わざるを得ません。


「民衆(国民)」は、自らの意思を反映させるために、選挙に投票します。
つまり、その「民衆の意思」は”票”と言う「伝言」となって伝えられるわけです。

その結果選ばれた代議員が、その”票”から受け取った「伝言」を議会に伝えます。
その議会でも、また「多数決」で議決が下され、そこで決定されたことが、さらに~、さらに~と延々と、受け継がれていった「伝言」が、人から人へと伝えられて行ったその最後の所にやっと「国家行政」が出て来るわけです。


これは、もう「伝言ゲーム」に成ってしまっているわけです。


もともと、「伝言ゲーム」が面白いのは、はじめの話が、思いもよらないほど”バカげた”ところに行き着いてしまうからなわけですが、それと同じようなことが「社会」や「政治」の場で行われているということに成るわけです。

そこでは、とても”一票の価値”などあったものではありません。

もともと、現在の巨大化した「社会」において”一票の価値”はあまりに希薄です。
そのあまりに希薄な価値ですら反映されないわけです。


だいたい、現状では”一票の価値”を実感できる機会は全くありません。
このような状態の中で、いくら『真面目に考えて投票しましょう』と言っても、それが意味のあるものに成ることは無いでしょう。

つまり、「多数決」と言っていますが、実際にやっているのは、「誰のものでもない意思」を作り出す「伝言ゲーム」に他ならないわけです。


そして、それを「民主主義」と言っているわけです。

いったいどこに「民衆」が居るのですか?

どこの所に「民衆」が参加しているといえるのでしょうか?


「世論」と言っているものだって、結局「与えられた教育」や「与えられた報道」と言ったマスメディアによって作られた半ば”お仕着せ”のもののように見えますし、そこには、本当の意味での「個人」が見えてこないわけです。


と、まぁ、こういう感じで「多数決」は機能していないんじゃないのかなと。

そんな風に思ってしまうわけですが、「個人の判断」に身を委ねる勇気を持つことが出来れば、そして、それが間違いを犯したときには、それは「必要な誤り」であると認めることができれば、「多数決」そして「民主主義」は、初めて意味を持つものとなるような気がします。


現在は、政治家が間違いを犯したことにしてしまいがちですが(そして実際にも、そうとしか言いようのないケースは多いわけですが)、「民衆が間違えること」が必要なのだと思うのです。

現状において、「民衆」には「正しい選択の権利」はおろか、「間違える権利」さえ与えられていないということです。


もともと、「民主主義」は成り立ってなどいなかったように思うのです。

それは、世界の中の”不均衡な力関係”に支えられていて、一見成り立っているかのような体を成してはいましたが、実体としては、「奴隷制」や「植民地政策」さらには「労働搾取」と言った、「民主主義」の理念とはどう見ても相反していると思われるようなものの上に成り立っていたのだと思うのです。


つまり、貧しい国から吸い上げた利益で潤った「先進国」では、「民主主義」や「多数決」に不備があっても、豊かさでカバーされていたということです。

そして、都合のよいことに、「豊かな国」からは「貧しい国」が見えず、「貧しい国」からは「豊かな国」が見えないようになっていたわけです。

ところが、それが、どちらからも見えるようになってきてしまったわけです。


そんな風にして、それらの”不均衡な力関係”が崩壊してきて「民主主義」自体も、そのメッキが剥がれてきたのだと思います。


実は、「民主主義」はこれから始まるのだと思っています。

そして、それは恐らく”ラクチン”なものではないように思うのです。

「自由」・「平等」と言うものは、そして「平和」でさえも、結構”ツライ”ものだと知るべき時が来ているのかも知れません。


それでも、それをやりますか?
それとも”野蛮”な時代に逆戻りしますか?

ということなのかなと。


そんな風に考えています。





「曖昧さ」という機能



随分前からですけれど、「ファジー」と言う言葉があるわけです。


「曖昧な」ということなのでしょうか?

言葉の意味はよく知りませんけれど、なんとなく、本来は「曖昧」ではない”ハズ”のことにおいての「曖昧さ」を指して「ファジー」と言っているように思うわけです。


要するに、コンピューターのような、「曖昧さが無いこと」が”ウリ”でもあり、その反面「融通が利かない」という感じがあったものに、
敢えて「曖昧さ」を取り入れて、人間との馴染みを良くしようとしたということだと思うわけです。


そして、これもなんとなくですが、コンピューターが「ファジー」に成りだしてから、もともと「曖昧」であった”ハズ”の人間が「ファジー」じゃなくなってきているように感じるのです。

どちらかと言うと、実際に人間が「ファジー」じゃなくなったというよりも、「ファジーじゃない人間」が求められているということでしょうね。

要するに、「カチッ」とした人間が求められているような、そんな感じがするわけです。
「間違える人」や「揺れ動く心理」を、一段低いものとして扱う傾向があるように思うわけですね。


私は、「迷うこと」が究極の「思考」でもあり、最良の「人間性」でもあると思っていますので、「迷わない人」を高く評価しようとは思えないのです。

「迷わないこと」は、一つの「能力」ではあると思いますけれど、機械に置き換えることが出来る「能力」でもあるわけです。


人工知能がここまで発達してきたわけですから、そういうのはそちらに任せて、人間は、もっと「迷う」方向に向かっていいんじゃないかと思うわけです。


そして、そういう「迷い」からこそ、本当の「個性」も見えてくるように思っています。

この「曖昧さ」と言う機能こそが、人間の可能性を広げるものだと思っているわけです。


「迷い」と言う状態はパソコンにとっては「バグ」や「フリーズ」に当たるものだと思うのです。
つまり、「曖昧」な機能は「バグ」を起こしやすいでしょうし、「迷え」ば「フリーズ」してしまいます。

要するに、コンピューターは、複雑な「曖昧さ」である「迷い」を処理できないわけです。


人間は「迷っても」完全に機能停止したりはしません。
つまり、人間は「迷い」続けられるわけです。


たぶん、今の原理に基づいたコンピューター・システムがいくら進化しても、「迷い」続けることが出来るようには成らないような気がします。


さらに、人間は、その「迷い」から、極めて強引に、そして時には適当に、とても「個性的な結論」を導き出すことがあるわけです。

そういう時に現れて来るのが本当の「人間の個人性」なのだと思っています。


だから、コンピューターは「ファジー」じゃなくてもいいから、人間においてこそ「曖昧さ」と言う機能を大切にしていった方がいいんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「迷い」について



前の記事の「迷い」の部分の続きです。


「迷い」は「芸術」においても”キーワード”になると思っています。
「迷うこと」は、これまで「芸術」の創作においては、マイナスと捉えられる傾向があったわけです。

と言っても、これは「芸術」に限ったことではなく、ほとんどのことにおいて、「迷うこと」がプラスと捉えられることはないと言えるでしょう。


確かに、「迷い」は非常に非効率的でもあり、「前進」とか「進歩」ということを約束してくれないものであるわけです。
むしろ、そういった「向上すること」をほとんど期待できないというべきかもしれません。


しかし、もう、その「向上」自体に意味がなくなってしまっているわけです。

一方向の「前進」や「進歩」と言った「向上すること」とは、一つの「完全」に向かって行くことに他ならないわけです。
そして、その「完全」は、もう何処にもないと思うのです。
現在「絶対的なもの」を設定することは誰にもできないと思うのです。

少なくとも「芸術」においては、そうした「原理」はもうなくなってしまっているし、それは無くなるべきものだったのだと思うわけです。


そんな状態の中で「迷わない」と言うのは、あり得ないことだと思うのです。
だから、もっと「迷う」べきなんじゃないかと思っているわけです。


「出口のない迷い」、つまり、答えを導き出すための「迷い」ではなく、「迷うこと自体」に意味があって、その中から現れて来るものこそが、その人にとっての「真実」なのだと思います。


その人にとっての「真実」を表現しなくて、何の意味があるというのでしょう?

『意味は必要ない』は、もう許されないと思っています。

『そこに意味を作り出さなければならなくなっている』と思うのです。


それでなければ、その絵がどんなに上手に描かれていても、それはただの平面に塗られた色に過ぎないのです。


それは上手なら褒められるし、下手なら貶されるというだけのものです。

「自己表現」である意味がないわけです。


「上手か下手か」なんてことじゃなくて、どこまでそれに”迫れるか”ということです。
「自分の中心」に”迫る”ということです。

そして、それが、その人に手が届く範囲で最も「真実に近いもの」ということです。


「迷い」のない所に「真実」はあり得無いわけです。
「真実」が無いということは、それは「嘘」ということに成ります。
「迷い」のないものには、必ず何処かに「嘘」が混じっています。


それが、例えほんの少しだったとしても、必ず「嘘」が混じってきます。
そして、そこからすべてが霧のように消えてしまうわけです。


「迷い」には、「誤り」や「未完」はつきものですが、「嘘」とは限りません。
「迷った」結果の「嘘」ですら、半分は「真実」かもしれません。


そんなわけで、「迷い」を「芸術」の”キーワード”と考えていると言うわけなのです。
「上手、下手」とかいう問題じゃないわけです。


そこを離れて、「迷い」を、どんな風に表現するかが大事なことに成って行くんじゃないのかなと。


そんな風に考えているわけです。




「現実」と「真実」の関係



私は「真実」と言う言葉を、わりとよく使うのですけれど、「真実」と言う言葉は、人によって随分違う意味で使われていることもあるように思うわけです。


「本当のこと」を「真実」とする考え方もあるでしょうし、「現に起きていること」を「真実」とする考え方もあるのでしょう。
それから、「哲学的な真理」を「真実」だと考える人もいるのだと思います。


さて、私が考える「真実」は、「本当のこと」や「現に起きていること」とはだいぶ違います。

それらは、私の中では「現実」に成ります。
そして、「現実」に隠されているところに「真実」があるという考え方を持っているわけです。


でも、だからと言って「現実」が「真実」でないというわけではなくて、「現実」も「現実」と言う「一つの真実」ではあるわけです。


例えば、「本当のこと」でないことは「嘘」(虚構)ということに成りますが、それも「嘘」と言う「真実」ではあるわけです。

それと同じように「現に起きていること」でないことも、そういうことが「真実」であると考えることもできるわけなのです。


『それじゃ、なんでも真実じゃないか』ということになってしまうわけですが、そう言うわけでもなくて、「嘘」は「嘘」と言う意味では「真実」ですが、「本当」と言う意味では「真実」ではありません。

当たり前ですけど、そういうことです。


要するに、私は、「真実」を”相対的なもの”と考えるわけです。


「哲学的真理」を「絶対的な真理」と捉えるのであれば、それとも一致しないのかもしれません。
(私は、こちらも相対的なものと考えてしまうわけですが)


つまり、「一つの視点」につき、各々「一つづつの真実」があるということに成ります。


「真実」とは、「そこにあるもの」ではなくて、「そこに見出されるもの」だと思っています。
そして、その時に「真実」を隠してしまうのが「現実」ということです。


「現実」には”実質的な力”がありますから、それを無視することは出来ないわけです。
そこで、「真実」が見えにくくなってしまうわけです。


そして、先ほど述べた様な「~と言う意味での真実」というのをすべて取り除いたあとに残るのが、「その人にとっての真実」だと思っています。


要するに、私はその「その人にとっての真実」を「真実」と呼んでいるということです。
どちらかと言うと、「~呼びたい」に近いかもしれませんけどね。


ここで、全ての人は「真実」を体現しているとも言えるわけです。

例えば、「嘘」をつくことは出来ますが、それは「嘘と言う、真実」を体現してしまってもいるわけです。
ただ、本人がそれを見つけ出していないということなのでしょう。

だから、「その人にとっての真実」には成っていないわけです。


もし、自分が「嘘」をついているという「真実」と同時に、それを自分が体現してしまっている、即ち『嘘つきです」』と告白してしまっていることを、見つけ出してしまったら、きっと、ほとんどの人が止めると思います。


でも、そこで『嘘にまんまと騙される人も居る』と言う「現実」が「真実」を隠してしまうわけです。
それで、すぐそこにある「真実」が見えなくなってしまうわけなのです。

だから、「嘘」をつくことをやめない人もいるわけですよね。


それから、これは私の感じ方なのですが、『自分のありのままの姿を受け入れる』と言うのとも少し違います。
『受け入れる』ではなくて、『見出す』と言う感覚でとらえています。

つまり、”受け身”ではなくて、自己の”働きかけ”によるものということです。


これは「芸術」や「創作」と結び付けて考えるからかもしれませんけれど、”受け身”で捉えることが出来るのは「~と言う意味での真実」までなのではないかと思うわけです。


以上のことを持ちまして、

『「真実」を見出していこう!』と思っているわけです。


ところが、すぐそこにあるはずの、そして自分が勝手に決めることができるはずの「自分にとっての真実」が、そう簡単には見出せません。


まったく、人間の目と言うのはどこまでクモっているのでしょうか?
『ほら、そこにあるじゃないか!目を開けて見ればいいだけなんだよ!!』


まったくもって、そんな風に思ってしまうわけなのです。




「芸術の再生」



「芸術」と言うジャンルは、現在、行き詰っていると思うわけです。
そして、それは「再生」されるべき時が来ていると思っているわけです。


こういうテーマについて、私のような権威のない人間が、何か言っても意味がないと考える人も居るかもしれませんが、私としては、言わないよりは言った方がマシだろうと思っているわけです。


「芸術の行き詰まり」については、人によって意見が分かれるところかと思われます。

ただ「現在の芸術」には、素直な気持ちだけで「スンナリと見通すことが出来ないような領域」があるということぐらいは言えるんじゃないかなと思うわけです。


人によって意見が分かれているのは、その「スンナリと見通すことが出来ないような領域」を、受け入れるかどうかと言うところだと思うのです。

つまり、そういう「スンナリと見通すことが出来ないような領域」について、それが”あった方がオモシロイ”と思う人と、そんなものは”無い方がイイ”と思う人が居るということなのではないのかなと。

でも、ここで私が言っている”行き詰り”とは、どちらが”よりイイか”でも、どちらが”よりオモシロイか”でもなくて、その「スンナリと見通すことが出来ないような領域」が”あるということそのもの”なわけです。


現在、「芸術」は一元的な方向性を捨てたことで、より自由で、無際限な方向性を与えられたといっていいと思うのですけれど、あまりに、一足飛びに「自由」や「無際限」が与えられてしまったために、現実の「創作者」や「鑑賞者」が付いて来れていないのだと思うわけです。

それどころか、実際には「芸術」の「創作者」や「鑑賞者」が、その「芸術」に置いて行かれて、どんどん「芸術」からの距離が離れて行っていると思います。
それで、「スンナリと見通すことが出来ないような領域」が生まれてしまっているのだと思うわけです。

ここで問題なのは、「創作者」自体が置いて行かれてしまっているという所だと思っています。

常に、「芸術」は加速しながら先へ先へと変化していますし、何らかの形で、その「変化」を捉えていないと「現在形の芸術」と看做されませんから、どうしても、「創作者」は現実に自分が居る位置よりも”先の位置”を読んで、つまり”ヤマを掛けて”創作するように成るわけです。

そのことが高じて、どんどん先へ先へと展開せざるを得なくなって、結果的に、自分自身が置いて行かれてしまうという理屈に合わないことが起きてしまっているというわけです。


私は、現在この状況から完全に逃れられている「創作者」と言うのは居ないと思っています。
結果的に、一番大変なのも「創作者」だと思います。

常に「新しい」を要求されますから、”ヤマを掛ける”しかなくなりますし、そうすれば、「本来の自分」と「自分の作品」が離れていくわけです。


「創作者」が、そういう状況なのだとすれば、「鑑賞者」としては、「芸術」を理解することは不可能でしょう。
と言うより、「芸術」を理解するという部分に関わる権利は与えられていないということに成ります。

つまり、「オモシロイ」か「オモシロクナイ」か、「スキ」か「キライ」かと言う短絡的な部分でしか「芸術」に関わることが出来ないということです。

そして、現にそう成っていると思うわけです。

※この点について、『芸術と言うモノは「好き・嫌い」しかないんだよ!』とか、
  『それ以外の基準なんて必要ない!』と言われることが非常に多いわけ
  ですが、この考え方は時代遅れだと思います。
  (こういうことを言う人に限って、芸術に上下を付けていたりしますしね)
  時代遅れと言うよりも、むしろ、そういう考え方自体には、はじめから無
  理があったと言わざるを得ないですね。
  そういう考え方は、基準を設定できなく成ったことに対する不安から逃れ
  るために捏造された「言い訳」のようなもので、「自己弁護」以外に何の根
  拠もないと思います。

これは、「鑑賞者」を責めるべきではなくて、「芸術」の置かれている位置がそういう所なのだということでしょう。

もちろん、そういう見方が悪いというわけではありませんが、”理解する”というかかわり方も、あるに越したことは無いと思いますし、その”理解する”の部分が、「芸術」を育てていくことにもなるように思われるのです。


以上のことから、「芸術の再生」が必要になっていると思うわけなのです。


つまり、「スンナリと見通すことが出来ないような領域」を、「スンナリと見通すことが”出来る”ように」するということです。
それ以前に、「なぜスンナリと見通すことが出来ないのか?」を考えるということでしょう。


その「なぜ?」に対して、いつも現れて来るのが「20世紀の芸術」だと思うわけです。

私の場合は、これに対峙してコンガラカッタ糸をすべて解きほぐすのは到底無理だと思ったので、「芸術の20世紀」を喪失してしまうことにしたわけですが、もし、それができる人が居るのであれば、そういう人がコンガラカッタ糸を解きほぐして、クリアに、そして「スンナリと見通せるように」なれば、それが理想だと思っています。


今でもまだ、「芸術」に「エンターテイメント」以外の何かを求めている人が居るのであれば、「芸術の再生」には意味があるのだと思います。


そうでないならば、「芸術の再生」は求められていないのかも知れません。
でも、求められていなくても「芸術の再生」は必要だと思っています。
人間には、まだ「芸術」が必要だと思うのです。


いま、「芸術」を失うと全てが間違った方向に行くような気がします。
だから、やっぱり「芸術の再生」は必要なのかなと。


そんなことを考えています。




「企業」の「公益性」



「企業」と言う言葉はあまり好きではありません。
どうしても、「儲け主義」と言う印象があるわけですね。


「企業」は「金儲け」のための機関なわけですから仕方ないとは思うのですけれど、「ガメツイこと」や「気前がよくないこと」、時には「ずる賢いこと」でさえ、「企業」の名の下に行われると「OK」になってしまうというのが納得できないわけなのです。

資本主義経済とはそういうものなのだと言われても、やはり、”腑に落ちない”部分は変わらないわけです。


そして、それは、「公益性」を示してくれる「企業」が少ないからだと思うのです。

「ガメツサ」や「ずる賢さ」はあるのに「公益性」は無い、つまり、自分のためには、とてもよく働くけど、人のためには、働かないということです。


現在は、「企業」は「金儲け」のための機関と言う感じになってしまっていますけれど、本来は「公益性」というのが「企業」の重要な要素だと思うのです。

つまり、「金を儲けること」よりも「金を循環させること」が企業の最も重要な役割だと思うわけです。

そして、それは「人のために働くこと」なわけです。


「企業」が金を循環させる過程で、そこに関わった人間に幸福がもたらされるというのが、本来の「資本主義の理念」だと思うわけです。


『そんな人のいいことを言っていたら、会社なんてみんな潰れちゃうよ』と言われるでしょうが、そういう状況がよくないと思うわけです。

”人のいい”ことを言っているような「企業」こそ生き残れるようにする方がいいと思うのです。


現在の「ガメツクテ」「ずる賢い」ような「資本主義」は誰のためにも成っていないように思います。

もう少し”人がいい”ような「資本主義」もあっていいように思ってしまうわけなのです。


そういう”ギスギスしていない”「資本主義」があれば、みんな、今より「資本主義」が好きに成るんじゃないのかなと。

今は、代わるものがないから”指示しているフリ”をしているだけなんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。





「芸術が愛されること」と「芸術が理解されること」



『世の中の人が、皆「芸術」を愛するようになれば、きっと平和な世界になるだろう』という話を聞くことがあるわけです。


でも、私は「芸術」にしても、「哲学」なんかにしても、”愛された”だけでは、そういう風にはならないような気がするのです。


実際、悪人だって「芸術」を”愛する”人もいれば、そうでない人もいますし、逆に、いい人だからって「芸術」を、こよなく”愛している”とは限らないわけです。

これは単なる「好み」の問題になるわけです。


私は、「芸術」や「哲学」が世の中に影響を与えるのは、”愛された時”ではなく、”理解された時”なのだと思うわけなのです。

 ※とは言っても、「愛」が「理解」を前提にしたものだという考え方もある
  でしょうから、その場合は、「理解」もされて、さらに「愛」されてもいると
  いうことになるので、十二分なのでしょう。
  ただ、「理解」されていれば、「愛」されていなくても、それで十分だとい
  うことですね。

そして、それは、一般的にいう所の「愛」が「個」へ向けられる性質があるのに対して、「理解」は「全般(普遍)」へ向けられる性質があるからだと思うわけです。

つまり、「愛」は一つのものへ、そして一つの物の中のさらに一つの部分へと、一点に集約されていく傾向がありますけれど、「理解」は一つの点から理解し始めて、「全般」を把握できた時に、初めて「理解」に到達するわけです。

だから、「愛」だけでは「個」に影響を与えることはあっても、「繋がりを持った世界」には影響を与えることはないように思うのです。


この話は、人間同士の「愛情」にも置き換えることができると思います。


誰かを”愛して”いても、「いさかい」は起きますし、”愛して”いることは、その「いさかい」を鎮めてくれるとも限りません。
むしろ”愛して”いることによって、その「愛情」が「憎しみ」に反転してしまうことも多いわけです。

でも、その人のことを”理解して”いる場合は、やはり「いさかい」は起きるのでしょうが、その「いさかい」は大方の場合、早々に鎮まってしまうでしょう。

ほとんどの人が「いいところ」も「悪いところ」も持っているわけですから、その人のことを理解していれば、もし、「悪いところ」と争いになっても、「いいところ」の部分も見えて来てしまいますから、それ以上に「憎むこと」ができないのだと思います。


ここで、話を「芸術」の話に戻すと、「芸術」は「美しさ」や「真実」といったものを求めるものですから(そのほかの定義でも、この話に大差はないと思います)、『それを”愛する”人同士が争うはずがない』ようにも思えるのですけれど、やっぱり、人間同士の「愛情」と同じで、求めている「美しさ」や「真実」自体に食い違いがあれば、「いさかい」は起きるわけです。

そして、やはり”愛している”ことでは、その「いさかい」を鎮めることはできないわけです。
というよりむしろ、「自分の美しさ」や「自分の真実」を愛すれば愛するほど、「違う美しさ」や「違う真実」を”憎む”ように成ってしまうわけです。

でも、「芸術」を十分に理解していれば、「その美しさ」と「この美しさ」が両方とも「美しさ」であることがわかってしまいますから、”違う”と思うことがあっても、”憎む”ことにまではならないと思うのです。

そして、「芸術」をどのぐらい理解していればそう成るのかといえば、多分、”理解しようとする”だけで十分なのだと思います。


以上のことから、『世の中の人が、皆「芸術」を”理解しようとする”ようになれば、きっと平和な世界になるだろう』
という風に思っているわけなのです。


ところで、【「愛しているもの」を”理解しようと”しないこと】、また、【「理解したもの」を”愛さずに”いられること】、そういうことが、”理解できない”なと。


そういう風にも思ってしまうわけなのです。




「理性」と「本能」はもう対語ではないと思うのです



「理性」と「本能」といえば、対語ということになっているわけですけれど、現在の人間においては、事実上、この二つが反対の意味ではなく成ってきているように思われるのです。


もちろん、今でも先天的、遺伝的に受け継がれたものを「本能」といい、その「本能」を抑制するものを「理性」と言っていることに変わりはないわけですから、対語である要素も十分に残ってはいるわけです。


しかし、その反面、「理性」とされてきた部分が「本能化」していると感じることがあるわけです。

たとえば「言語」ですが、人間は誰にも教わらなければ「言語」を使って話すことはないのでしょうが、「親」が「子」に話しかけることも、「子」がそこから「言語」を学び取ることも、もはや、極めて「本能」に近い行動ではないかと思われるわけです。


これは、何を「本能」として、何を「理性」とするかという学術的な話ではありません。

ただ単に、「親」が「子」の初めて歩く様子を見て、『立った、立った!』と言って喜ぶのと、初めてしゃべるのを見て『しゃべった、しゃべった!』と言って喜ぶのは同じ事だろうということです。

そこで、『「立つこと」は「本能」で「しゃべること」は「理性」である』ということには意味がないように思うということです。


これは、何も、今にしてそうなったということでもないと思うのですけれど、その「言語」によって、「論理」を構築することですら、「本能」に近づいてきているということになると、もう、そこに「本能」と「理性」を明確に分け隔てる線を行くことはできなく成ってしまうわけなのです。


つまり、かなり隔たりがあった「本能」と「理性」の間が接近してきていたり、その隔たりがいろいろな要素で埋められてきていて、分けることが難しくなってきているように思うのです。


少なくとも、様々な意味で、人間は「理性」がないと生きられなくなってきていると思うのです。

確かに、「理性」がなくても最低限の「生命維持」はできるでしょうが、それは、人間としての「生きる」ではなくなってしまうわけですから、その状態を、「本能」と呼ぶということは、「本能」だけでは、人間が人間として「生きられない」という矛盾が出てきてしまうわけです。

つまり、それは動物の種として見た「人間」が「理性」を必要とする種に成ったということだと思うのです。

要するに、「理性」も一つの「欲望」でもあり、「欲求」でもあるということです。
そして、それが「本能的な欲望や欲求」に近く成ってきているわけです。


それは、「本能的な欲望」を抑制している一方で、「本能化した理性」の要求を満たそうとする動きに他ならないわけです。

でも、これは崇高であった「理性」が、動物的な「本能」に成ってしまって残念だという話ではなくて、むしろ、「人間」が全体的に「理性的」に成ってきたんじゃないかという話なわけです。

そして、どうせなら、もう少し進めて「理智的」ぐらいに成ったらいいんじゃないかと思うわけです。


「理性」か「理智」かは、ただの言葉のアヤに過ぎないわけですが、せっかく、「人間」という「種」が身に着けてきた「理性」を使って、ものごとの「本質」を見ようとする意識を持てば、それが「理智」になるのかなと。

逆に言うと、「理性」ばかりで「智」を持とうともしないということは、

「理性」が「本能」に成った今となっては、「本能マルダシ」と言うのと変わらないことに成るのかなと。
(もしかすると、そういうのを「スノッブ」と言うのかもしれませんね)


そんな風に思います。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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