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「逆差別」≠「差別」



このブログでも何度か書いていますけれど、私は「差別」と言うものがとても嫌いなので、これについてはよく考えるわけです。


「差別」に対抗して「差別し返すこと」、つまり、「逆差別」は「差別」と同じだと言う考え方があると思います。
その考え方には確かに一理あると思うわけです。


「逆差別」をしてしまえば、そこからまた「逆・逆差別」が生まれるという連鎖になってしまうので、それは、避けられるならば避けた方がいいのでしょう。

ただ、その「差別」に、あまりにも圧倒的な上下関係があって、あまりにも理不尽な歴史がある場合は、それが当てはまらないと思っているわけです。


そういう場合でも、「逆差別」が新たなる「差別」を生んでしまうのは同じでしょうし、それが必ずしも解決に成るともいえないわけですが、それでも、圧倒的な「差別」を受けた側の人たちが、それをそのまま帳消しにしても、必ず遺恨が残ってしまうわけでしょうから、どっちにしても、解決にならないことに変わりはないわけです。


だったら、一回だけ、「差別」した側が「逆差別」を我慢するしかないんじゃないかと思うわけです。

そこで、少しでも対等に近くなった時点で、初めて、『「差別」の応酬はやめよう』ということに成るんじゃないかと思うわけです。
そうやって、少しづつ格差を埋めていくしかないように思うわけなのです。


例えば、リンカーンは奴隷を解放しましたが、彼らにアフリカに帰る権利や資金を保証したわけではないわけです。
(当然、アメリカに残る権利も与えられての話ですね)

対等と言う前提であれば、当然そう言う話に成るでしょう。
と言うよりも、それぐらいで済まされるとは思えないでしょうね。


そんな中で、「差別」された側の黒人に、その後も「差別」を受け続けながら(実際には、「黒人差別」は奴隷解放後に悲惨なものに成っていったと言う事実もあります)、全部帳消しにしろと言うのは無理があるように思うわけです。

そこには依然として、『奴隷解放してやったんだから、もういいだろう』と言う上下関係があるわけです。


つまり、リンカーンは形式的な意味での「差別」だけは解消しましたが、「逆差別」を設定することはしなかったわけです。


なにが言いたいかと言うと、「逆差別」を「差別」としてではなく「区別」として行うことが、唯一の「差別」を解消する手立てだと思うわけです。

アメリカの人種差別の例で言えば、白人の側は黒人の持っている文化や歴史的背景を知ったうえで自分たちとは違う人種であることを理解して、そこに一度”ひれ伏す”必要があったわけです。

 追記:これは「オレははじめから差別主義者じゃないから」とか「私は差別
     なんかしていなかったから」という個人の話とは違います。
     黒人は、アメリカで黒人に生まれたことに対峙せざるを得ません。
     逃れる権利も術も与えられていないわけです。
     それと同じように白人もアメリカで白人に生まれたなら、好むと好ま
     ざるとに関わらず、その立場に対峙せざるを得ないわけです。
     そして、その「白人と言う人種」が「黒人と言う人種」を差別していた
     わけです。
     これは、「イジメ」などにも言えることですが、傍観しているだけでも、
     その人は、そこに参加させられているわけです。

例えば、黒人に対して「教育」や「職業支援」などの優遇措置をとって、一世代のうちに、社会的地位が確実に対等になるような政策を施していたならば、「差別」の歴史は少しは解消されていたかもしれません。

機会を均等にするということではなく、不均衡に優遇するということです。
それで、はじめて均等だということだと思います。
(実際はそれでもマダだと思いますが)


人類の歴史の中に「逆差別」が「区別」として行われたことは無いように思いますが、「差別」が避けられないものならば、それを「区別」に転換していくのがいいように思うわけです。


相手を知ることで「区別」することが出来るようになります。
「区別」することで「差別」する必要がなくなります。


つまり、「上下の格差」すなわち「縦の差」を「種類の差」すなわち「横の差」に、置き換えればいいのだと思うわけです。
もちろん、初めから、それができるに越したことは無いでしょう。


アメリカの人種差別については、外側から見る限りでは、かなり希薄になったように見えます。

でも、もっともっと「差別」から遠く離れた社会に成るといいなと。


そんな風に思っているわけです。





『私のように黒い夜』



前の記事との関連で、昔読んだ本のことを思いだしたので書きます。


この『私のように黒い夜』と言う本は、ジョン・ハワード・グリフィンと言う人が書いた本です。

かなり前に読んだので、忘れてしまっている部分もあって、細かいところで間違ったことを書いてしまうことがあるかもしれません。
(図書館で借りて読んだため、手元にないのでお許しください)


著者はジャーナリスト出身の人だったと思います。
人種差別に反対する運動などをしていた人のようです。

この本は、白人である彼が1959年に、アメリカ南部の黒人社会に潜入して、その実体験を日記形式で綴ったものです。


驚いたのは、その手法で、なんと彼は黒人に成りすまして、非常に危険とされていた、アメリカ南部の黒人貧民層が住む地区に、黒人として潜入したのです。

バレたら、当然命の保証はなかったでしょう。


彼は、人種差別反対運動を通じて日ごろから、、『白人である自分には、差別されている人たちの本当の気持ちはわからないのではないか?』と言う疑問を持っていたのでしょう。

そこで、自分が黒人に成って、黒人の目を通して差別を見てみたいと思うように成ったようです。


そこからが驚いたところなんですが、運動を通して知り合った医師に頼んで、薬品の塗布(確か飲み薬も使っていたと思います)や紫外線の照射(今でいう「日焼けサロン」みたいな感じだと思います)を、繰り返して(数週間~1か月ぐらいだったと思います)、しかも、実際の潜入に際しては、全身の体毛を剃ってサングラスをかけて、、本当にパッと見だと黒人に見えるようにしてしまったんです。
(当時の写真が出てましたが、十分黒人に見えました)


そして、彼は黒人貧民街に潜入して、様々な体験をするわけです。
それを脚色せずに、淡々と日記形式で起きた出来事だけを書いています。


はっきり言って、たいしたことは起きませんでした。
ちょっと危ないこともあったと思いますが、確か大したことは無かったと記憶しています。

それなのに、なぜか”ゾクゾク”します。
なんと言うか、「差別」、それも1959年にアメリカ南部の黒人が受けていた「差別」が、”ビリビリ”と伝わってきます。

例えば、「黒人の彼」がバス停でバスを待っているときだったと思いますが、ただ、おとなしく黒人用の場所で待っているだけなのに、白人の上品そうな御婦人が、彼の方に蔑むような表情をあらわにして睨みつけてきます。
その表情は「白人の彼」には一度も向けられたことが無い表情だったそうです。

こういう些細な出来事が、繰り返し淡々とつづられていきます。
読んでいるとだんだん「差別」と言うものが恐ろしくなってきます。

そして、「希望」とか「意欲」と言うものが、削ぎ落されていく感じがしました。


そして、彼が印象的だったこととして書いていたんですが、意外なことに、白人であることがバレるんじゃないかと言う不安をあまり感じなかったそうです。

彼が言うには、白人たちも黒人たちも、彼を一瞥して黒人であると判断した途端、黒人としてしか扱わなかったというんです。

よく見れば、顔だちや体つきなど白人であることが隠せない部分はあったはずなのに(まつ毛とか)、誰一人として疑おうともしなかったようです。

要するに、肌の色が黒いと言うだけで、他のことは一切問題にされなかったということです。
それが「差別」と言うものなのかも知れません。

実際に、当時の南部では、ほんの少しでも黒人の血が入っている者は黒人としてしか扱われなかったと言います。
だから、髪の色が薄い黒人や、目だけがブルーがかった色の黒人などもけっこういたらしいんですが、彼らはすべて「黒人」以外の何者でもなく、例外なく「差別」されたと言います(「平等な差別」ですね)。


つまり、「黒人であるということ」は、それだけで全面否定を意味しますし、「白人であるということ」は、それだけで全面肯定を意味します。

それが「差別」なんだと思いました。


そして潜入から帰還した彼は、この本を出版しますが、その後、彼は「K・K・K」などの人種差別主義者から、執拗な脅迫や嫌がらせを受けることに成るというおまけもつていました。

とにかく、人間同士が「差別」するということは出来る限り早くなくなって欲しいですね。


『差別なんてものはなくならないさ』と言う考え方の人もいるでしょうけど、私はそうは思いません。

きっと、なくなると思っています。

なぜなら、そこに「意味」がないから。


あとは、『いつなくなるのか?』ということかなと。


そんな風に思います。


そこに「意味」を創り出すこと



私は「芸術」において成すべきことは、「意味」を創り出すことだと思っているわけです。
つまり、もともと「意味」のないところに、「意味」が創り出せたら『イイんじゃない』のかなと思っているわけです。


これは必ずしも「芸術」に限ったことではなくて、ほかの色々なことにも当てはまることなのだと思っております。


たとえば、経済活動には、「需要と供給の関係」と言う原則があるわけです。
つまり、初めから「需要」という「意味」があれば、そこに物を「供給」すれば儲かるわけです。
経済活動としてみた場合は、これで十分に成り立っているわけですし、均衡の取れた関係なのだと思います。


しかし、”よりイイ”か?というと、そうでもないようにも思うのです。


たとえば、砂漠の真ん中で、水も移動手段もなくて困っている人のところに、水を持っていって売れば、確実に儲かるでしょうし、それで、水を買った人たちも死なずに済むわけです。


ややアコギな商売ではあっても、命の値段だと思えば、高くはないのかもしれません。
そういう意味では均衡は保たれているともいえるでしょう。


でも、これでは、そこにあった「需要」=「意味」を利用して、そこに、物を「供給」しただけで、「意味」を創り出しているとは言えないわけです。

だから、”よりイイ”とは言えないと思うのです。
それで、人の心にわだかまりのようなものが生じるのだと思うわけです。


でも、そこで、とてもおいしい飲み物を無料で振る舞えば、その企業のイメージはグンと良くなるでしょうし、その商品の格好の宣伝にもなるでしょう。
そして、その商品が継続的に売れるようになれば、やはり結果的には儲かるでしょう。


今では、こういったことはどんな企業でも、よくやっているのだと思います。


ただ、現在行われているこうした企業活動は、常に、先回りして利益が計算されてしまう場合が多く、そうした損益の算段をすることなく、こうした活動をすることは、愚かなことだということになってしまっていると思うのです。

でも、それだとせっかく「意味」を創り出しているのに、また、元の形に戻ってしまっているわけです。

つまり、利益のありそうなところに、物を持って行って売るという形に戻ってしまっているわけです。
そこに、もう一つ工程が追加されただけです。

『のどが渇いている人のところに、水を持っていって差し出せば買うだろう』というのと、『そこで、飲み物を配れば後々儲かるだろう』というのが、ほぼ同じことになってしまっているわけですね)。


現状の経済というのは、こうした形でしか機能できないようになってしまっているわけですが、この「先回りして利益を計算すること」というのが、「意味」を生み出せなくなる最大の理由だと思うのです。


これは、もう一度、話を「芸術」に戻すとわかりやすいと思います。


「芸術」で利益を計算した作品に、人が惹きつけられるでしょうか?

前もって、流行るかどうか、売れるかどうか、コストパフォーマンスはいいか、と計算された作品と、純粋な「衝動」で生み出された作品のどちらに、人は惹きつけられるのでしょうか?

『そんなのは世間知らずの言うことだ』と言われればそうなのかもしれません。

でも、そう言う「世間知らず」な部分が、少し無くなり過ぎていることも確かなんじゃないのかと思うわけです。

昔の職人さんなどには、私など足元にも及ばないほどの「世間知らず」な人がいたような気もするのです。
そして、人の心を惹きつけるような魅力を持った品物というのは、決まってそういう人たちが創り出してきたわけです。

そして、その人たちも、なんとか生きて行ける世の中だったということです。


今となっては、もう、企業がそういう「損得抜き」「計算なし」で、「意味」のあるものを、創り出してくれるということには、だれも期待しなくなってしまいました。

だから、経済がインフレとデフレを繰り返しているのだと思います。

一言でいえば、景気が良くなれば高いもののほうが売れるし、景気が悪くなれば安いものしか売れなくなります。
つまり、物の「質」=「意味」で値段が決まるのではなく、すべてが景気で左右されてしまうわけです。


企業活動において、「意味」を創り出すことに「価値」が見い出されるようになれば、きっと、もう少し安定して、一般庶民が「ゆとり」を実感できるようになると思います。


そしてもちろん、「芸術」においても「意味」が問われるようになればいいんじゃないかなと。


そういうことを思っているわけです。




「本当の自分」



人間というのは、つくづく「本当の自分」を見ようとしないものだなと思うわけです。

そして、これは人間の最大の特徴である「言葉で考える」ということに依るところが大きいのだと思っているわけです。


「言葉」には「世界を二分する」という性質があるわけですね。

「A」といえば「A」と「Aでないもの」に「世界が二分され」ます。
その「二分割」を重ねていけば、そのたびに「世界が細分化」されていくわけです。

コンピューターのような、おそらく動物の脳よりもはるかに単純な機械が、動物や人間のように記憶したり判断したりできるのも、たぶん、このような「二分割」の積み重ね、即ち二進法による判断を使っているからなのでしょう。

そして、往々にして人間は、この性質に振り回されてしまうから、「本当の自分」を見ようとしなくなるのだと思っているわけです。

コンピューターには都合がいい「二分割」が、人間にとってはあまり都合よく働いてくれない時があるようです。


ほとんどの場合、「本当の自分」は世の中のどこかしら中庸にあるはずです。

例えば、「頭がいい」と言う言葉で、「頭がいい」と「頭がよくない」に「二分割」されたたとき、実際は、ほとんどの人がその中間に位置しているはずです。

でも、言葉の上では、その「中間」が表示されないわけです。
だから、「頭がいい」のか「頭がよくない」のかと言う、二者択一を迫られているような錯覚に陥ってしまい、「頭がよくない」方の自分を認めたくないがために、「頭がいい」方の自分しか見なくなってしまうわけです。


これは「頭がいい」ということに限らず、その人が認めたくない自分は見なくなり、認められる範囲の自分しか見なくなってしまうということです。
(当然、「頭がいい」方の自分を認められない人もいるわけです)


でも、実際には、ほとんどの場合「本当の自分」は、認めたくない範囲にもハミダシテいるわけです。

しかし、これは錯覚に基づいているわけです。
本当は、世界は「二分割」されているわけではなく、はじめから、「中間」も存在しているわけです。
ただ単に、言葉で表されている範囲で「二分割」されているだけです。

人間は機械じゃないんだから、無理にどちらか一方を選択しなくてもいいと思うのです。
機械は単純に出来てますから、「二分割」じゃないと処理できないというだけなんだと思うのです。

その「二分割」を積み重ねていくことでしか「中間」を生み出せないわけです。


でも、人間はけっこう複雑にできてますから、はじめから「中間」を把握する能力があるわけです。

だから、せっかくある能力を使って曖昧な領域を見て行ったらいいんじゃないかなと。
じっくりと自分をよく見て「中間」の中から「本当の自分」を見つけ出せばいいと思うわけです。

だいたい、人間はほとんどの場合「普通の人間」なんだし、どこか一部分が「極」にあるような人でも、他の部分は意外と「普通」だったりするわけです。
そして何よりも、どちらか一方の「極」に偏っていることよりも、「両極」を併せ持っていること、つまり「バランス」が重要なんだと思うわけです。

たとえ、その一方の「極」が「悪」であったとしても、対極する「善」を併せ持っていればいいわけです。


だから、もう、認めたくない「自分の中の反対の極」を隠す必要はないんじゃないのかなと。

そういう「人の本当の姿」にこそ、何か惹きつけられるものが潜んでいるようにも思うわけで、それを隠すなんて、何の意味もないことのように思えてくるわけです。

現在の世の中で”良い”とされていることが”イイ”と言う時代はもう過ぎてしまったように思うのです。そういう殻を捨てて「素(す)」の状態でいられるようになれれば、けっこう”イイ”んじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「ストレス社会」



「ストレス」は現代最悪の「病」だと思っています。

ほとんどすべての病気が「ストレス」と無関係ではないと思います。


そう言っても、ただ単なる「負荷」という意味で、この言葉を使っている場合もありますから、その場合は、これに当てはまらないこともあると思います。
でも、それとは違って、逃れられないような「ストレス」や、そこから逃れると、また違う「ストレス」が発生するような「ストレス」と言うのは、正に「万病の素」であって、『百害あって一利なし』だと思うわけです。


そして、恐ろしいことに現代と言う時代は、その「ストレス」がはびこった、まさに「ストレス社会」であると言わざるを得ないわけなのです。


社会や経済というものが、あまりにも効率や能率、採算性等を重視してきたために、「ユルサ」がまったく無くなってしまったわけです。

ある時点から、「ユルサ」をマイナスと捉えてしまったわけです。
それは、つまり工業化が始まってからではないかと思うのです。

まぁ、いわゆる「産業革命」が起きてからということだと思いますけど、全てのことが効率によって判断されるようになってしまったわけです。

要するに、機械化が進んで、機械の方が「主」に成り、人間の方が「従」になってしまったということです。
効率的である機械に、人間が合せさせられてしまっているんだと思うのです。


でも、「機械の正確さ」、「機械の速さ」、「機械の”疲れを知らなさ”」
そんなものに合わせていたら、人間は参ってしまうわけです。

人間が”楽”をするために機械を使ったはずなんですけど、いつの間にか、廻り巡って、人間が機械に合わせるような仕組みになってしまっているわけです。

それで「ストレス」が蔓延して、その「ストレス」が、また「ストレス」を生み出してしまっているわけです。


そして、現在はそういう「ストレス」を人になすり付けて、その瞬間に息を継いで、やっと生き延びているような状態なのだと思うのです。
なすり付けられたら、その人もまた誰か他の人を見つけてそれをなすなすり付ける。
そして息を継いで、やっと生き延びる。

そんな状態ではないでしょうか?


もし、受けた「ストレス」を人になすり付けずに、自分で受け止めてしまえば、一気に「病」へ引き込まれます。
それが現在の状態なのだと思うわけです。


要するに、機械と人間の主従関係を逆転させて、元に戻さなければいけないわけです。


なんと言っても「オートメーション」と言うのがいけないような気がします。

要するに「無人」であることがよくないと思います。
人が居ないと成り立たないシステムが必要なのです。

人が居なくても成り立ってしまうシステムを増やし過ぎたために、人が蔑(ないがし)ろにされるようになって、いつの間にか機械が「主」に成って、人間が「従」にされてしまったのだと思います。

その辺を、人間主導で調整していかなければいけないと思うわけです。


人が関わらずに運行されるようなシステムを制限する必要があるんじゃないでしょうか?
そうしなければ、決してこの「ストレス社会」から抜け出すことは出来ないように思います。

「ストレス」があるということは防ぎようのないことですが、それが社会の主流と成ってしまっていることは、防ぐことが出来る」ハズだと思います。


気が付いた時点でそれをやる。
それが人間にできる事なんじゃないのかなと。


そんな風に思います。







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「あやまる」の種類



「あやまる」と言うのは、一つの文化だと思っています。
そして、その「あやまる」にも種類があるように思うわけです。


前にも、ここで書いたことがあるのですが、「あやまる」と言うことには、その国や地域の文化的な特徴がよく出ていると思うのです。
でも、その文化的な違いとは、また違って、「あやまる」には種類があると思っているわけです。


これは、よくある「謝罪会見」と言うのを見た時に感じたことなんですけど、「謝罪会見」を見て、いつも思うのは、『かえって、イメージ悪くなったんじゃない?』と言うことなのです。

墓穴を掘るっていうんですか?

一生懸命謝れば謝るほどイメージが悪化していくという感じになってしまうことがとても多いと思うわけです。
そして、それは「あやまる」の種類を把握できていないことに因るんじゃないかと思うわけです。


「あやまる」には、大きく分けて三つの種類があると思っています。

一つ目は、「挨拶」のような「あやまる」で、これは、たいして悪くなくても謝ったり、謝られたときに謝り返したりするような、言ってみれば、「社交辞令的あやまる」です。

前に書いた記事では、この「社交辞令的あやまる」について、もっと見直されていいんじゃないかと言うようなことを書きました。


二つ目は、謝る側のための「あやまる」で、謝られる側に対して謝ってはいるわけですが、謝る側は謝られる側のことよりは、自分の側のことを心配しているというパターンです。
つまり、その「あやまる」は「自己保身的あやまる」ということになるわけです。

ついつい本音が出てしまうという感じなんでしょうか。
要するに、これが「謝罪会見」を最悪のものにしてしまっているということです。


そして、三つ目が謝られる側のための「あやまる」なんですが、これは、「あやまる」だけでは成立しない場合が多いわけです。
謝られる側と言うのは、何かしらの被害を受けているわけですから、それを解消してもらわなければ納得しないわけです。

ところが、ほとんどの場合「あやまる」だけでは何も解消されないわけですから、実際に何をどう弁財するかとか、その後どのような行動をとるかということにかかってくるわけで(例えば、同じような過失を繰り返さないようにするということですね)、「あやまる」こと以上に、そちらが重要になってくるわけでしょう。

要するに、これが、本物の「あやまる」で、「誠心誠意あやまる」ということになるわけですね。


ところが、企業などが「謝罪会見」を開くような場合と言うのは、ほとんどの場合、そこには「取り返しのつかない過失」があるわけで、弁財するにしても、その代価の大きさが計り知れないくらいに大きい場合もあるわけです。

そこで、企業としては出来る限り損失を少なくしたいわけですから、どうしても、「自己保身的あやまる」になってしまうわけです。
一言で言えば”守りに入る”わけですね。

これでは、謝られる側が納得するわけがないでしょう。


こういう「あやまる」の種類が把握されるようになれば、いくらなんでも、現在のような「自己保身」が”見え見え”の「謝罪会見」は無くなるんじゃないかなと。


そして、「誠心誠意あやまる」ことを考えたら、つまり、相手の望むように弁財することが如何に大きな代償を伴うかを考えれば、二度と「同じ過ち」を繰り返さなくなると思うのですが、いつも、あやふやな「あやまる」で乗り切ってしまうために、何度も同じような過失を繰り返してしまうのでしょう。

と言うわけで、「あやまる」と言う文化は、もっとよく考えられていいんじゃないのかなと。


そんなことを考えてみました。


いまも「信仰」は必要なのか?



「信仰」と言うものは、現代と言う時代の中で、どのような役割を担っているのでしょうか?


以下は、「信仰」を持たないような人間の考えることですので、「信仰」をお持ちの方は、お気になさらないでください。
と言っても、「宗教」がキライだというこが言いたいわけではありません。

また、「信仰」と言うものを悪いものだと捉える気持ちもありません。

私が言いたいことは、「絶対的なもの」と言うのは、つまり「神」ですね、今もまだ必要なのか?ということです。


そもそも、「絶対的なもの」と言うのは、人間の思考の範囲では把握できないと思うのです。
つまり、自分より大きなものと言うのは把握できないと思うわけです。

だから、人間に、それができるのであれば、人間自身が「絶対者」または「それ以上のもの」であるということになってしまうわけです。

でも、それはないのでしょう。


もともと、人間が自分たちには把握しきれないようなものを求めていたことから、、「信仰」が生み出されたように思うのです。

要するに、「畏怖」を持ちたかったのではないかと思うのです。

何かに対して「恐れおののくこと」で自己の不完全性に折り合いをつけようとしたのだと思います。
つまり、自分が不完全であることに理由を求めていった結果、『実は世の中には完全なものがあって、自分たちはまだそこに到達できないから不完全なんだ』という形に行き着いたのだと言う気がするのです。


動物は「信仰」を持っていないように見えます。
動物も「畏怖」は持っているように見えます。

動物はそれを自己の不完全性に置き換えることをしないので、敢えて、より強い「畏怖」を求める必要が無く、「信仰」を必要とすることもないのではないかと思うのです。

動物においては、「恐れ」は「恐れ」のまま受け止められて、過ぎ去れば忘れられてしまうのだと思います。


人間はそれに対して理由を求めてしまうわけです。

つまり、『「恐れ」があるのはなぜだろうか?』と言う問いが発生するわけです。
そして、自分たちの不完全性を発見してしまうわけなのです。

そこから、さらに「完全なもの」の存在が必要になってくるのだと思うわけです。


この話に限らず、「神」や「神秘」の話と言うのは、総じて逆説的であると感じることが多いのです。

「神」を前提にして、全てを構成した思想が「宗教」と言う体系に成ります。
すると、そこには秩序が出来上がっていますから、簡単には崩れません。

しかし、その「神」の根拠となると、『理由なんて必要ないぐらいに間違いないから』と言う無根拠がそこにあるわけです。


本当に間違いのないものであれば、逆説をとらなくてもそこに行き着くはずです。
つまり、「神」を前提としなくても、「神」を前提とした時と同じ理論が発生するはずですし、それは「神」に行き着くはずです。

でも、そうした「宗教論」や「宗教思想」に出会ったことは無いように思います。
特に勉強したわけではないので、そういったものもあるのかも知れませんけれど、そうなると、人間が「神」を把握できてしまうという、はじめの話に戻ってしまうわけです。


つまり、「神」を前提としないでも「神」に行き着くには、その過程で人間が「神」を把握する必要があるわけです。
そうなると、やはりそこには無理があるように思われてくるというわけです。


そうした諸々の逆説が、時代とともに矛盾として表出してきていると思うわけです。
そして「宗教」は、時代に合わせて形を少しづつ変化させながら、その矛盾を吸収してきているわけです。


でも、そこまでして「宗教」や「信仰」を存続させ続ける必要と言うのはあるのでしょうか?


もし仮に、新しく生まれてきた子供たちに、一切、「宗教」とか「神」とかいう概念を教育しなかったとしたら、そこに「宗教」は生み出されるのでしょうか?

もし、それが必要なものであれば、当然それは生み出されるはずです。

これと同じことを、過去の時代に行っていれば、きっとそうなるのでしょう。


しかし、現代となるとどうでしょうか?

「現代の社会」、「現代の教育」、「現代の文明」、「現代の文化」、「現代の人間」と言う前提で、考えた場合「新しい子供たち」は、「神」や「信仰」や「宗教」を選択するでしょうか?

それは、その後も支持を獲得し続けられるでしょうか?

こんなことは出来ることでもないので、言っても仕方がないことですけど、この「新しい子供たち」の選ぶものが「真実」なのだと思います。


そこで、それが出来ないものならばと、出来るだけ「新しい子供たち」に近い発想で考えてみると、私の場合は、「信仰」を必要としていないことに行き当たってしまうというわけなのです。


「信仰」をお持ちの方からすれば「残念な人」ということに成るのかも知れませんが、私は、その「残念な人」に成りたいのかも知れません。

そして、それは私の言葉では「普通の人」でもあります。


と、そんなことを考えてみました。



人間は”三つが限度”なのかな?



何かにつけて、人間には限界と言うものがあるわけですが、その限界と言うのは意外なほどすぐそこにあって、要するに、たいしたことは出来ないというのが実態なわけなのです。


そこで、思うことなんですけど、『人間は”三つが限度”なのかな?』と言うことを感じるわけなのです。

例えば「大・中・小」とか「松・竹・梅」とか、三つで区切ると、人間がそれを把握しやすくなるような気がするわけです。


これは、風景画を描くときに使われる「遠景・中景・近景」と言うのから思いついたんですが、いろいろなことを三段階で捉えたり表現したりすると、わかり易くなったり、やり易くなることがとても多いということに気が付いたわけです。

それで、いろいろなことを、ことあるごとに、これに当てはめて考えてみるわけですけれど、実際、二段階だと落差が大きすぎて埋めにくいし、四段階以上に成ると、細かくなりすぎてかえって掴みにくくなってしまうと言うことがあるわけです。


これは、いよいよ、『人間は”三つが限度”なのかな?』と考えるわけです。

『おい、おい、たった三つかよ、人間!』と思うのですが、やはり、人間の限界は、意外なほどに、すぐそこにあるんだなと。


そんな風に思うわけなのです。




「時代の芸術」



「古典」から何かを受け継ぐことや、それをさらに「継承」していくことは、とても重要なことだと思っているわけです。


現在においても、「古典芸術」やそのスタイルを「踏襲」している人や、それを愛好している人は沢山居るわけですが、この「踏襲」と「継承」の違いが大きいように思うのです。

私は、「芸術」においては、そこに「意味」を創り出すことが不可欠の要素だと思っているわけです。

「何の意味もないもの」を創作して、それを「芸術」と言ってはいけないのではないかと思っているわけです。
(とは言っても「何の意味もないもの」を創るのは不可能だとも思いますが)


要するに、「ただ単にキレイ」とか「ただ単にオモシロイ」とかですね。

そこにも「意味」はあると思いますが、それは、ただ単に、そこにある「意味」であって、作者によって創り出された「意味」ではないように思うわけです。


そして、その作者による「四苦八苦」・「悪戦苦闘」・「七転び八起き」等々があって、ようやく、そこに創り出された「意味」に、人が心を動かされるのだと思っているわけです。


『それって、精神論なんじゃないの?』と言われてしまいそうですが、確かに、その通りなのかもしれません。
でも、私は「芸術」そのものが「精神的な世界」だと思っていますから、それは当たり前だと思っているわけです。


そこで、「意味」のあるものを作るという前提で考えるわけですが、すでに出来上がってしまっている「古典」を「踏襲」することでは、そこに「意味」を作り出すことが出来る領域は極めて少なくなってしまうわけなのです。

これは「古典」に限ったことでもありませんけど、既に完成されたものの中で、作者が「意味」を創作することは極めて困難なことなわけです。

まぁ、既に出来ていますから「四苦八苦」する必要が無いということかと思います。
(困難じゃないから困難になるという、ややこしいことになりますが)


そこで、「技術」で人を納得させることを「芸術」と言ってはいけないように思うのです。
それは、あくまで「技術」であって「芸術」ではないわけですから。


「技術」を見せつけられれば、人は納得しますし感心してくれるわけです。
しかし、その「感心」と「感動」を、作者が意図的にすり替えてはいけないと思うわけです。


「技術」を習得するのにも、それなりの努力は必要だとは思いますけれど、それは、「芸術」において特別なことではなく、他のどんな分野においても同じことなわけです。

どんな分野でも「技術」や「熟練」はひとを「感心」させはしますが、「感動」させるとは限りません。
人を「感動」させるのは、やはり「技術ではない芸術」だと思います。


どんなものでも、「芸術」に成り得ると思います。
でも、どんなものでも「芸術」だとは思いません。

つまり、「技術ではない芸術」に踏み込めば、どんなものでも「芸術」に成ります。
そこに踏み込んでいなければ、それは「芸術ではない技術」です。


「古典」や「歴史」は「継承」されてこそ、「意味」を持つものだと思います。
そして、それを「継承」することから、新たな「意味」が創作されるのだと思っているわけです。

「継承」することとは、それを理解して、さらに自分の中で再構成してから現すことだと思っています。


それから、どんなスタイルも、その時代にあってこそ「意味」を持つのだと思います。
「古典」の鑑賞者は、「古典の時代」に連れていかれて、「古典の時代」の中で「感動」するのだと思います。

「現代芸術」の鑑賞者は、「今の時代」に居てそのまま「感動」しているわけです。
どちらを選ぶかは、単に好みの問題でしょう。


「今の時代」に居て、「古典」を鑑賞することから生まれるのは「ノスタルジー」です。
それは「感動」ではなく「郷愁」や「感傷」です。

「古典」で「感動」するためには、鑑賞者の側から、「その作品の時代」へ行かなければなりません。
それでなければ、「郷愁」や「感傷」は得られても、「感動」は得られないと思います。

それも、「芸術鑑賞」の一つの形ではあるでしょうが、それを「現在形の芸術」と同列に並べるのは、問題があると思います。

もちろん、そういう鑑賞が悪いということではありません。
そこのところが、区別できているならば、何の問題もないのだと思います。
ただ、そういう「小さなズレ」から、「芸術」が本来の姿を失いつつあるというのが、現在の状況なのだと思うわけです。


ですから、創作者は、後の世代の鑑賞者を「今の時代」に連れてこられるような作品を作る必要があるわけです。
そして、それには、「現在形の意味」を創り出す必要があると思うわけです。

要するに、それが普遍性だと思うのです。

それでなければ、即時的、刹那的なものにとどまってしまうわけです。
それでは、後世の人を「今の時代」=「その作品が作られた時代」に連れてくることは出来ません。

そういうものは「今しか通用しない」でしょう。


そこで、やはり「今の時代」にあってこその「意味」を作り出さないとならないんじゃないのかなと。


そんな考えを持っているわけです。



「ことば」に実体を与えること



「ことば」と言うのは「論理」や「思考」をあらわす手段なわけです。
その「論理」や「思考」には「意味」があります。
しかし、それは実体を持っているとは限らないと思うのです。


「論理」や「思考」には、「意味」がありますから、それが実体を持つような気がしてしまうわけですけれど、その「論理」や「思考」が実体を持つには、それを物質化することが必要であると思うのです。


要するに、家に住むには、家の設計図と言う「ことば」を、実際に家を建てて物質化しなければならないわけです。
つまり、「ことば」だけでは、それを説明してはいても、実体がないわけです。


「ことば」と言うのは「論理」や「思考」の表面を覆って形を成している膜のようなものだと思うのです。
だから、「ことば」だけで構成された「理論」は、とても脆いものだと思うわけです。

これは、「ことば」に限らず、すべての「記号化された表現」に当てはまることだと思います。
つまり、記号による表現は、「意味」を持ちますし、それはわかり易い表現ではありますが、そこには、まだ、実体がないわけです。


これは、逆も言えていて、「記号化」されたものは、なんでも、その実体を失います。

物質的な実体を持ったものであっても、ひとたび「記号化」されてしまうと、場合によっては、その物質としての実体が失われて、「記号」としての説明的な役割に転換されてしまうということもあるわけです。

 ※例えば、標識や信号などは、間違いなく「物質」ではありますが、「実体を
  持った物質としての性質」よりも、「記号=ことばとしての性質」の方が強い
  ということですね。

だから、「ことば」や「記号」による表現と言うのは、針の先でつついただけで消えてなくなってしまうような脆さがあるわけです。


そこに実体を与える作業が「意味」を創り出すという作業であると思っているわけです。


「ことば」だけでも、そこに「意味」はありますが、それはまだ「設計図」ですから、実体を持ちません。
それを物質化して、はじめて、実体と成るわけです。


そして、その「意味の創作」と「実体化」を、両方一人の人間がやったとき、それを「芸術」と言うのだと思っています。


「意味」だけだと「論理」です。

「実体化」だけだと「技術」です。

両方で「芸術」かなと。


そんな風に思っています。




「マイペースな時間」



世の中に、「マイペースな時間」と言うものが無くなってしまったような気がしてならないわけです。


社会の中で働いている時の人もそうですけど、家事労働などにおいても、あるいは時として、ただ単に道を歩いているだけでも、「マイペースな時間」で行動している人が少ないように思うわけですね。


例えばの話、家電製品の普及などによって、家事労働にかかる時間は飛躍的に短縮されたはずなのに、どう見ても、昔の人よりも今の人の方が”時間に追われている”ように見えるわけです。

これは自分自身にも言えることですが、どう考えても24時間が、”足りない”と感じてしまう時があるわけです。
一日で一日分の作業ができないというんでしょうか。


このことは、仕事などで時間的に拘束されていることとは、必ずしも関係が無いように思います。
むしろ、時間的な拘束のない主婦や自営業の人の方が、いっそう「マイペースな時間」を失っているように見える時も多いように思います。

逆に、仕事で拘束されている時間内の方が、かえって「マイペース」に成っている人と言うのも居たりするような気もします。


勤務時間中は、かなりな「マイペース」で仕事をしている人と言うのは結構たくさんいると思いますけど、その人が、タイムカードを押して時間的に自由になった途端に、明らかに「マイペースじゃない歩き方」に成るということは、よくあるんじゃないかと思うわけです。


たぶん、「マイペース」と言うのは、時間的な「ゆとり」ではないんじゃないのかなと思うわけです。

じゃあ、”ナニ的”な「ゆとり」なのかと言えば、「欲求」の「ゆとり」なのだと思うのです。
つまり、「欲張りな人」は、いつも「マイペース」ではいられなくなってしまい、「欲が無い人」は、どんな状態でも、だいたい「マイペース」です。


例えば、1時間かけてやっていた作業を、電化製品などを使うことで10分で終わらせることが出来るようになったとしても、「欲張りな人」は、余った時間をすぐに何かほかのことで埋めてしまうわけです。

やることは増えますけど、「マイペース」な時間は増えません。


「欲が無い人」は、逆に10分で終わるはずのことが1時間かかったとしても「マイペース」です。


そして、この「マイペース」な時間を持っている人が、少なくなっているように思うわけです。
つまり、「欲張りな人」が増えているということです。


でも、これが悪いことだとは思いません。

むしろ、「意欲的」という意味ではいいことなのかも知れません。
ただ、それがうまくコントロールできていないという感じはあるわけです。

要するに、いろんな「欲求」を植え付けられてしまっているわけです。
ただ、漫然と生きていてはいけないんだと思わされてしまっているわけです。

この”思わされて”がよくないように思うのです。


自分の基準で、ただ単に漫然と生きていてもいいように思いますし、かなりのところまで「欲張りな生き方」をしてもいいように思うわけです。


でも、それが人に植え付けられた基準に基づいたことだとすると、それが「マイペース」であっても「欲張りな生き方」であっても、どっちにしろ、それは、「マイペース」ではないんじゃないのかな?と思ってしまうわけです。


つまり、「マイペースなマイペース」もあるし「マイペースじゃないマイペース」もあるということです。
逆に言うと、「マイペースなマイペースじゃない」も
「マイペースじゃない、マイペースじゃない」もあるということに成ります。
(↑たぶん、イミガワカラナイでしょうが、三回読めばわかると思います。)


要するに、自分の基準で「そのマイペース」を把握できていればいいんじゃないかと思うわけです。

「そのマイペース」が”アウト”なら、止めちゃった方がいいと思いますし、
”セーフ”なら、続けてもやめても、どっちでもいいのかなと思うわけです。


ただ、「マイペース」が何か生み出すとも限りませんし、「欲張りな生き方」が何か生み出すというわけでもありませんから、その時々で好きな方を選んでいいんじゃないかなと。


『こんなの、どうせ、読んだ人には意味が解らないんでしょうねぇ』

『だから、なに?』

という「マイペース」など。



「人間の底」



人間には、それぞれに「人間の底」があると思っているわけなのです。
まぁ、一言で言えば「能力の限界」とでも言うんでしょうか。

そして、その「人間の底」が見えないタイプの人には、どこかミステリアスな魅力があったりするわけです。
また、そういう”底が見えない”タイプの人を「カリスマ」と呼んだりしているのだと思うわけです。
(宗教的な意味での「カリスマ」に限らずですね)


でも、この「カリスマ性」を、本当のその人の能力と見てしまうことは、間違いだと思うのです。

そもそも、ここで言う「カリスマ性」は”底が見えない”ということから生まれているわけですから、その場合、その人の「人間の底」はまだ確認できていないわけです。

そして、見えないと言うことで、それが”計り知れないほど”深い所にあるに違いないという印象を与えているわけです。
でも、逆に言えば、それは意外と浅い所にあるかもしれないということです。


そして現に、それは浅い所にあるわけです。

こんな言い方をすれば、『そんなことを、お前ごときが決めつけるな!』と言われるでしょうが、私は、「人間の底」はどんな人でも浅い所にしかないと思っているわけです。


まぁ、逆にどんな人でも深いところにあるとも言えるんですけどね。

要するに、”計り知れないほど”と言うのが問題で、それは、つまり「無限」を意味してしまうわけです。
どんな人でも、その人の持っている「人間の底」は、とても深い所にあるのだと思っていますが、それは「無限」ではないということです。

『まぁ、無限よりは浅いでしょう』というところですね。


やっぱり、人間のすることは「有限」であるわけですけれど、「人間の底」が見えないでいる間は、人の心の中に、それが「無限」であるかのような印象を創り出すことが出来るわけです。

そもそも、それが「カリスマ性」と言うものなんだと思うのです。


逆に言うと、その人の「人間の底」が見えてしまうと、「有限」であることが”バレて”しまうので、「カリスマ性」は失われて、魅力も半減してしまうと言うわけなのです。


でも、もう、人間はこういう「カリスマ」や「天才」と言う言葉の呪縛から解放されていいように思うのです。


「宗教」で言えば「神」、人間で言えば「カリスマ」や「天才」ということに成りますが、実は、これらはみな同じもので、言ってみればどれも「偶像」だと思うのです。
(「ことば」だけでも、十分「偶像」に成り得ると思っています)


もう、人間は自分たちの持っている「本当の魅力」に気が付かなければいけないように思うのです。
そして、それは、「無限性」ではなく「有限性」にあるわけです。

一人の人の「人間の底」は、その人にとっては「有限」ですけれど、その「有限性」こそが、他の人から見れば、一種の「無限」でもあるわけです。


つまり、人の心の中と言うのは、他の人からすれば、正に”計り知れないもの”に他ならないわけで、それが実際には取るに足らないようなものであっても、それを把握できる人は、本人を置いて他にはは居ないわけです。
(実際には、本人でも把握し切れないでしょう)


だから、「人間の底」を見えなくすることで生み出される「カリスマ」や「天才」に頼る必要は、もうないのだと思うのです。

本当ならば「人間の底」は、良く見えていた方が魅力があるはずのものなのだと思うのです。
そして、それこそが「底知れない魅力」に成るのだと思っています。


「無限」や「絶対」や「完全」を求めさえしなければ、その「有限」や「相対」や「不完全」が魅力的であることに気が付くのだと思うのです。
そして、それこそが「表現の自由」であり「自由な表現」でもあります。


「個」をつぶしてしまう「自由」などあり得ないわけです。
「個」と「個」の間に格差を作り出すような「自由」など何の意味もないのです。


すべての「個」が、同じ価値のものとして認め合うことが出来て、はじめて「自由」と呼べるのです。


そして、そうすれば「人間の底」は、もう隠して置くようなものではなくなって、みんなが「自分の底」を見せ合って生きられるようになるのかなと。


そんな風に思っています。




「人間の醜さ」を見続けること



人間は過去において、さまざまな「醜いこと」を行ってきたわけです。
そして、それらは今だに続いているようにも思えるわけです。


それでも、なんとなくですけど、人間がそれらの「醜いこと」から、これから先、徐々に抜け出していけるんじゃないかと言う”兆し”が見えてきていると思っているわけです。

 ※それは、「昔ながらの醜さ」から「新しい醜さ」への移行にすぎないのでしょうが、
  その「変化」には、意味があると思うわけですね。

これは「希望的な観測」なのかも知れませんけれど、私は、人間が過去の時代よりは”愚か”ではなくなっていくような気がするわけです。
(実際、人間は「文明」や「文化」を創り出したわけですし、それを完全否定できる人は、あまりいないと思いますので)


きっと、「差別」はなくなっていくと思っていますし、「戦争」のような「殺し合い」もなくなっていくように思います。
実際、これらについては、すでに歴史の中でのピークを過ぎているのではないかとも思います。

また、もう少し小さな視点で見ても「犯罪」や「イジメ」や「各種ハラスメント」なんかも(これらは、まだピークを登りきってすらいませんが)、将来的には「無効化」されていくように思っているわけです。


ただ、歴史のサイクルはとても長いので、それがいつになったら実現することなのかはわかりません。
それでも、きっと、いつかはそんな風になるんだと思います。


少なくとも、現在日本で生活している限りにおいては、「平和」と言ってもいいように思うのです。

もちろん、その「平和」の内容については、『こんな平和でいいのか?』と言いたいことは沢山あるわけですけど、それでも、『いま、日本は平和じゃないのか?』と言われれば、『いえ、確かに平和ではあります』と答えるのでしょう。


でも、そこで、その「平和」の中にあってこそ、「人間の醜さ」を見続けていくことは重要なことに成っていくんじゃないかと思っているわけです。


つまり、豊かな食糧に囲まれている時こそ、『今、昔のような飢饉が起きて食料の供給が途絶えたら、この隣人たちはどこまで醜くなるのだろうか?』というような問いを、そして、自国において戦争が起きていない時にこそ、『今、人が殺し合うような事態が発生した時に、百人のうち何人までが、人を殺さずにいられるのだろうか?』と言うような問いを持ち続けることは、「醜いこと」を無効化して行くうえで、とても重要なことだと思っているわけです。


人は「差別」がなくなれば「差別」をする「人間の姿」を見ようとしなくなります。

人は「戦争」がなくなれば「殺し合い」をする「人間の姿」を見ようとしなくなります。

要するに、それらが自分たちの中にある「醜さ」を見せつけて来るのです。
だから、せっかく平和になったのに、なんでわざわざそんな「醜さ」を引きずっていなければいけないのかと苛立つわけです。

そうして、喉元を過ぎたころに、また同じ「醜いこと」を行ってしまうということを繰り返して来たわけです。


これは「自分の中の醜さ」を認めてしまえばいいことなのだと思うのです。
実際には、その「醜さ」は大したものでもなくて、「小さな醜さ」なのだと思います。
それが、周囲の状況によって増幅されて「醜いこと」を行うに至るわけです。


だから、それを増幅しないようにするのがいいと思うわけです。
平和な時に、そんな「人間の醜さ」を見ていれば、周りが平和なだけに、それはとても非道なことに見えますから、

そんな風にはなりたくないと思うでしょう。


そう思っていることで、「醜いこと」から少し離れられるかもしれません。

そんなことが繰り返されていって、いつかはきっと「醜いこと」が少なくな成って行くんではないのかなと。


そういうことを考えてみたりもするわけです。



「名前」について



「名前」には「姓」と「名」があるわけです。
その二つはなぜ別個に存在するのでしょうか?


「姓」は家柄を示していて、「名」の方は個人を示しているわけですけれど、なぜ、「名」だけではいけないのでしょうか?
いったい何のために「姓」は必要なのでしょうか?


確かに氏素性を現すものとして、「姓」があることで、その人のいろいろなことがわかるようになっているわけですけれど、そういうことは、どこかで身分とか格差を生み出す”モト”に成っているんじゃないかと思うわけなのです。
と言うよりも、もともと身分や格差を生み出すために「姓」を作ったんでしょうね、たぶん。


「歴史」や「伝統」を受け継いでいくことは大事なことだと思っていますけれど、それは、「血筋」や「家系」として受け継がれる必要は無いんじゃないかと思うわけです。


「血筋」や「家系」から受け継がれているものの大半は、「地位」であり、「権威」であり「財産」であります。

もちろん、もっとダイレクトなことでは、「遺伝子」が受け継がれているわけですが、実際の影響としては、「地位」や「財産」の方が大きかったりもするわけです。


そうなると、もう「姓」は要らないんじゃないかなと。
「名」だけでいいと思うのです。


それを嫌がるのは、イイ家柄の出身の人たちでしょう。

せっかく、イイ家に生まれたのに、それを名乗れなくなるのは損した気分でしょうが、イイ家に生まれなかった人は、始めからそれを名乗れなかったわけです。


イイ家に生まれた人たちは、それでなくても、十分にそこから受け継いでいるものがあるわけですから、それで満足してもいいんじゃないかと思うわけです。


そういうフラットな社会を気持ちよく思えるように成ったら、、もう少し、いいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。
(まぁ、無理でしょうけどね)


「ブレ」



何かに焦点を絞っているつもりでも、いつの間にか、そこのところが「ブレ」てしまうということが非常に多いわけです。


例えば、絵を描いている時に、『ついこの前まで、チャント見えてたんだけどなぁ・・・』と言う感じですね。
そんな時は、『ブレないでハッキリ見え続けていたら、もっと楽に描けるんだけどなぁ』と思ったりもするわけです。


でも、そこで何とか持ちこたえようとするわけです。

『いや、これは違うぞ!この前まで見えていたのが本物だろ』と言う感じです。

ところが、何かが耳元でささやくわけです。
『いや、いや、これも悪くはないよ。もしかしたら、こっちの方がいいくらいなんじゃないか?』と言う風に。

『そうだよね、これぜんぜん悪くなんかないよね?いや、いいよ!きっといい!!』


これが「ブレ」だと思うわけです。


『ブレちゃダメだ!ブレちゃ意味がない』

そんな風に思うわけですが、そんなことを繰り返しているうちに、どれが「ブレ」でどれが「本物」なのかわからなくなって来て、どうにも手を加えるところが無くなってしまうわけなのです。


それが、私にとっての、その絵の「完成」です。
後で、冷静な目で見れば、たいてい「ブレ」てます。


でも、その何度も繰り返された「ブレ」には、何かの意味があって、その意味が「私の表現」に成るのだと思っているわけです。


だから、「ブレ」ないようにしながら、たくさん「ブレ」て行こうかなと。

『そういうのなら、まあまあ得意なんじゃないのか?自分』


そんな風に思ったりするわけなのです。
(いや、言い訳じゃなくて)



「無駄」の価値



「無駄」っていうことは、要するに価値が無いことなわけです。
でも、その『価値が無い』は、常に『まったく価値が無い』だとは限らないと思うのです。


つまり、時には「無駄」が価値を持つということです。

例えば、「ゆとり」だって「遊び」だって見方によっては「無駄」なわけですけど、そういう「無駄」も必要なわけです。
そして、もう少し、その「無駄の価値」の範囲を広げていった方がいいんじゃないかと思うのです。


世の中の工業化が進んできたのに合わせて、「無駄」は削られる一方で、その領域が狭くなりすぎてしまっているように思うのです。

昔の、建築や家具なんかを見ても、全く必要ない所にまで、手の込んだ装飾がしてあったり、意味もなく精密にできているものなんて言うのも、珍しくもなく普通にあったりするわけです。


そういう作り手側の遊び心が、使う側の心もどこかで癒していたりしたのだと思います。

それを「価値のあるもの」としてではなく、あくまでも、「無駄」として”愛する気持ち”がいいんじゃないかと思うわけです。


例えば、『ダメだなぁ、これ』っていうようなものが、何年かしてみて、『あれ?これって実はいいんじゃないの?』っていうことがあるわけですよね。

今は、そういう「ダメ」を「無駄」として、はじめの段階で全部切ってしまっているわけです。
そうなると、数年後の『あれ?いいんじゃないの?』はなくなってしまうわけですね。


それで、作為的に作られた「イイモノ」しかなくなってしまっているわけです。

実は、最初「無駄」だったものが、「イイモノ」に成る過程が必要なんじゃないかと思うんですよね。
その「イイモノの部分」が発見されるという感じでしょうか?

それに、もし「無駄」のまま終わっても、「愛すべき無駄」っていうのも”有り”なんじゃないかなと。

そんな風にも思うわけです。


それ以前に、「愛されないけど、価値だけはあるモノ」が嫌いです。





「宛名も差出人名もない書簡集」



「ブログ」っていうのは「宛名のない手紙」みたいなものだと思うのです。
さらに、有名人の「ブログ」でない場合は、「宛名も差出人名もない書簡集」ということに成るわけです。


つまり、『誰が書いているのかわからない』そして『誰が受け取るのかわからない』
そういう「誰か」から「誰か」へと、日々手紙が投函されていって、その手紙が集められて溜まっていく、そういう、ウェブ上に保管された「書簡集」が「ブログ」なんだと思うわけです。


なかには、非公開で「ブログ」を運営している場合もあるんでしょうが、それは「ブログ」と言う形をとってはいても、メール交換やメモ帳代わりに近いもので、「ブログらしいブログ」とは言えないと思うわけです。

つまり、完全にプライベートなものは「ブログ」らしくはないということなんでしょうね。
(もちろん、そういうのが悪いという話では、ぜんぜんないですよ)


しかし、また、その反対に、「プライベート性」が、まったく見えない「ブログ」と言うのも、「ブログ」らしい「ブログ」とは言えなくなるのではないかと思うのです。
(こちらも、悪いということではなくですね)


例えば、有名人の「ブログ」や、お店や会社の「ブログ」なんかにしても、書いている人の「個人的な性質」が現れていると、読んだ人が『ブログらしいなぁ』と感じられるように成るのだと思うわけです。

その逆に、公式見解みたいなものが書いてあるだけの「ブログ」は、「ブログらしさ」と言うことに限って言えば、「ブログ」らしくないのかなと。


要するに、「ブログらしさ」っていうのは、「プライベート」な性質がありながら、その「プライベート」が”開かれている”ということなんだと思うわけです。

そしてさらに、その「プライベート性」の「曖昧さ」と「偶然性」も「ブログ」の特徴だと思うのです。


例えば、ある「ブログ」を、一人も読まないかもしれないし、何万人もの人が読むのかも知れないわけです。

つまり、手紙で言えば、受取人が一人も居ない場合もあるし、何万人もいる居る場合もあるということです。
ただし「書簡集」ですから、最初は受取人が居なくても、それが後から読まれるということもあるわけです。

誰も受け取っていない段階では、それは「プライベート」な日記や備忘録のようなものですが、受け取る人が居て、初めてそれはメッセージになるわけです。

つまり、≪曖昧かつ偶然的に開かれている個人(プライベート)≫、これが「ブログ」なんじゃないかと思うわけです。


『だから、なんなんだ!』と言われてしまえば、それまでなんですけどね。


要するに、そういう≪社会の中に投げ込まれた「個人の独白」≫みたいなものを、「ブログ」の中の「ブログ性」と呼んでいこうと、私は思っているわけなんですよね。


何かの役に立つ「ブログ」や、有名な人の「ブログ」なんかは、とても人気があると思うんですけど、それとは別に、こういう「ブログ性(ブログらしさ)」っていうのがあってもんじゃないかと思うわけですね。


どうしても、「役に立つブログ」や「有名人のブログ」が一番注目されるわけですけれど、もう少し、「役に立たないブログ」の価値も考えられていいような気がするんですね。


いえ、自分のブログが役に立たないから言ってるわけじゃないんですよ。
ただ、ちょっと「実用性」や「娯楽性」に重心が傾きすぎてしまっているような気がするわけですよね。

それだと結局は、テレビやマスコミの延長だったり、実用書やノウハウ本の延長だったりして、「ブログ」というものが、独立した文化にはなれないような気がするんですよね。


そもそも、「ブログ」という媒体がここまで発展してきたのは、そういう既成のメディアにはない「個人性」や「無名性」「素人性」みたいなものが見直される必要があったからなんだと思うんですよね。

それなのに、いろんな意味で「プロっぽいブログ」ばっかりになってしまったら、テレビを見たり、実用書を読んだりしていたのに逆戻りなわけでしょ?


『お前のような奴に、そんな偉そうなことは言われたくないわ!』って言われそうですけどね。


取り敢えず、そんなことで「宛名も差出人名もない書簡集」というのを、このブログの「カテゴリ」として加えてみたというわけなのです。




「哲学を持った芸術」と「芸術を持った哲学」



「哲学」と「芸術」という二つは、人間の精神活動の中で、最も重要な二本の柱だと思うわけです。
そして、この二つの要素がないと、他のどんな分野においても、「人間の精神」にとっての価値が高いものは、生み出されないのだと思っているわけなのです。


つまり、「哲学のない〇〇」や「芸術のない〇〇」というのは、「人間の精神」に十分な満足を与えてくれるようなものにはならないと思うのです。


もちろん、「哲学」や「芸術」がなくても、実用性や功利性において価値のあるものはたくさんあるわけですけれど、それらが、さらに「人間の精神」を満足させるようなものと成るには、この二つがどうしても必要になってくるのだと思うのです。


そして、この二つを同時に兼ね備えたものが理想的だということなんでしょう。
さらに言えば、「哲学」には「芸術」が、「芸術」には「哲学」が必要なんだとも思うわけです。


つまり、「哲学を持った芸術」と「芸術を持った哲学」が、「芸術」と「哲学」の理想形であるということに成るわけです。


そして、これらのものがあらゆる物事にかかわっていくことで、「社会」や「文化」が豊かになっていくんじゃないかと思っているわけです。


そう考えると、現在の日本の「学問」や「教育」のあり方というのは、どう考えても、片手落ちな気がしてしまうわけです。

まず、「哲学」に関しては「学問」としても「教育」としても、一般的には、あまり重要視されているように思えませんし、「学問」全体の中で「哲学」は孤立してしまって、唯我独尊の立場にあるように見えます。

「芸術」に関しても、その作品自体や有名な作家のことについては知られていても、「芸術」自体のことを考えるというような、「芸術の核」に当たる部分については、ほとんど、重視されることがないように思われるわけです。


もし、これから世界が一つにまとまっていくということがあるならば、「芸術を持った哲学」と「哲学を持った芸術」が実現されていくような「世界」を作っていけたら、それは、「今より少しいい世界」に成るんじゃないのかなと思うわけです。


つまり、そんな「世界」になったら、「人間の精神」にとって居心地がよくなるんじゃないのかなと。

そんな風に空想してみるわけなのです。
(そんなに、うまくはいかないか?)




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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