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「命の重さ」と「精神の重さ」



「命の重さ」が、重いということは言うまでもないことなのでしょうが、それは「精神の重さ」と比べた場合どちらが重いんでしょうか?


例えば、人間としての「誇り」とか「尊厳」みたいなものと比べた場合に、「命の重さ」は、それらよりも重いのでしょうか?


それは、何も「誇り」や「尊厳」ほど大げさなことでなくても、その人の「好み」や「やりたいこと」のような、ごく日常的なことについても、同じことが言えるのだと思うわけですけれど、そういう、その人の「精神活動」の部分と、その人の「命」を秤にかけた場合、どちらが重くなるのかなと思うわけです。


例えば、すごくグルメな人が、医師に食事制限を命じられている場合、その人が、それで寿命が少しぐらい短くなってもいいから、食べたいものを食べようと思うことは、「命」を軽視していることに成るのでしょうか?

これは、お酒やたばこについても同じようなことがいえるのでしょう。


まぁ、実際は、医師の食事指導を守ったからと言って、長生きするとも限りませんし、酒やたばこを一切やらなかったとしても、それで長生きが保障されるわけでもありませんから(実は、私はこういう常識はほとんど信じていないんですけどね)、仮に、それで確実に長生きできるんだとしたらと言う仮定での話ですけどね。


こういうことには、そうそう結論は出せないんだと思いますけど、ただ、今は「命の重さ」が重視されるあまりに、「精神の重さ」が、捨てられ過ぎてしまっているように思うわけです。

つまり、「命の重さ」が重いのは言うまでもないことだとしても、「精神の重さ」もそれに見合うぐらい重いものなんだと思うわけです。


基本的には、好きなことをして生きて行って、その最期に死んだ時がその人の寿命なんじゃないかと思うわけです。

むしろ重要なのは、それが本当に、その人にとっての「好きなこと」や「やりたいこと」なのか?と言うことの方なんじゃないかと思うのです。


例えば、『酒を飲んでいる』のか『酒に飲まれている』のか、と言ったことですね。
好きな酒を『旨いなぁ』と言って飲んでいるのと、依存症のような状態で、美味いも不味いもなく飲んでいるのとは全く違うことでしょう。

それはともかくとして、もう少し「人間の精神」が重視されて、さらには、それが解放されて行ってもいいように思うわけです。


社会が作り出した「道徳」や「規律」は、理由があって出来上がってきたものでしょうから、それを守ることも大事なんでしょうが、「個人の精神」はそれに匹敵する程のものだとも思いますから、もう少し重要視されるように成ってもいいんじゃないかと思うわけなのです。


その「道徳」や「規律」を象徴しているのが、「命の重さ」なんだと思うわけです。
そして、「個人」を象徴しているのが「精神の重さ」なんでしょう。


どちらが重いかと言うよりは、『どちらも重いから、偏ってきたら戻す』と言いうことかなと。


そんな風に思います。


もう「天才」は「芸術」の領域ではないと思うのです



「天才」と言うと、「芸術」には付き物のように成っているわけですけど、実は、この「天才」というのは、もう「芸術」の領域ではなくなってしまっているんじゃないかと思うのです。


本当のことを言えば、「芸術」に限った話でもなくて、他のどんな分野においても、もう「天才」の領域は小さくなくなっているのだと思うわけです。

例えば「政治」の場において、いま「天才」は居るでしょうか?
『居ないと思います』

それは、これから先、現れて来るのでしょうか?
『現れてこないと思います』

それは、何故なんでしょうか?
『もう、そこに領域が無いからです』


かつては、「政治」の場においても、「カリスマ的指導者」と言われた人が居たわけですし、「芸術」においても、「天才」と言われる人たちが居たわけです。

しかし、それが”出現”しなく成って来ているわけです。


さらに言えば、「宗教」の場においても、時代を遡れば、「カリスマ」は、繰り返し現れて、その時、生み出された「宗教思想」が、現代の主な「宗教」や「宗派」の基盤に成っているわけです。


しかし、今後、またキリストやシャカやマホメッドのような「宗教的カリスマ」が現れたりすることがあるのでしょうか?

『無いと思います』

『なぜなら、もう、彼らの領域が無いからです』


いまの世の中に、彼らのような人間が現れたとしても、「カリスマ」や「天才」にはならないでしょう。
(狭い範囲で強く支持されることはあるでしょうが、それはいわゆる「カルト」でしょう)


確かに、彼らには人の心を動かすような”ナニカ”があったのでしょう。

しかし、その前に、世の中に、彼らを「カリスマ」として受け入れる領域があったということ無くしては、彼らが「カリスマ」と言われることも無かったのだと思うわけです。

そして、いま、その領域が限りなく小さくなっていると思うわけなのです。


と言っても、「天才」や「カリスマ」がもう現れなくなってしまって残念だという話ではありません。
むしろ、「天才」や「カリスマ」の領域が無くなりつつあるということは、人間が、そういう段階を卒業したということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、次なるステップへ向かうために、そういうものから抜け出して「新たな人間」として、道を模索するべきなんじゃないかと思うのです。


そして、そういう作業においては、「芸術」は、いち早く道を切り開いて行くべきものなんじゃないかと思っているわけです。

「芸術」には、かつて無いほどの「自由」が与えられていると思うのです。
その、言わば特権的に与えられてる「自由」を、そうしたことに向けて使う義務のようなものが、「芸術」にはあるのだと思っているわけです。

義務と言うと、ちょっと違うのかも知れませんが、どちらかと言えば、『そうせざるを得ない』と言うことなんじゃないかと思います。


世の中に「天才」の領域が無くなっているのに、その「天才」を追い求めていたんでは、「芸術」とは言えませんし、むしろ、まだその領域が残っているうちに、先駆けてその偶像を消し去ることこそが、「芸術」に与えられている役割なんじゃないかと思うわけです。

そういう意味では、かなり”遅まきながら”の感もありますけれど、そういうところに力を使って行くのがいいんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「美しさ」の追究



かなり昔まで(100年ぐらい前?)、「芸術」は「美しさ」を追究するものであったのだと思います。
しかし、その「常識」が崩されて、それと引き換えに「限りない自由」が与えられたわけです。


それは、それでよかったのだと思うのですが、なにも、ムキになってまで「美しさ」を捨てる必要はなかったんじゃないかと思うわけです。

確かに「既成の概念」を捨てることで「自由」に成ったのだと思うのですが、それは、目的ではなかったのだと思うのです。
「既成概念」を捨てた後も、そこに残った「美しさ」まで、なにも、そんなに律儀に捨てなくてもよかったんじゃないのかなと。

要らなくなった「既成概念」を捨てることが目的であったわけで、「美しさ」を捨てることは、決して目的ではなかったのだと思うわけです。

そして、凝り固まってしまった概念を捨てた後の状態から、「新たな美しさ」を創造することにも何の問題もないように思うわけです。


そう考えると、改めて、「美しさの追究」が、「芸術」の一つの「道」であるということは、疑いようのない自明のことなのではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「平等」と「均等」の違い



「平等」とは、【大きさや形や色】が違うさまざまなものを、同じ高さに並べることで、「均等」とは、全ての物の【大きさや形や色】を統一することだと思うわけです。


人間には「平等」が必要で「均等」は不必要だと思うのです。

「均等」であっても、並べられた位置の高さが違ってしまえば「不平等」ですから、その「均等」は、ただ単にキュウクツなだけで、何の意味もないと思います。


だから、「不均等」で「平等」なのが、一番いいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。

 ※あとは「公平」というのもありますが、そちらは「公が下々に与える平等」のこと
  だと思います。
  つまり、「上下関係を前提とした平等」ということになり、やや、矛盾しているよう
  な気がしますね。
  単純に、「みんな(公)が平等であること」ならいいんでしょうが、それだと「平等」と同
  じ意味に成ってしまうので、やはり、おかしいような気がしますね。


「狙った所に行かない」



どんなことでも、「狙った通り」に成ると言うのは気持ちいいもんですけど、それが、なかなかできないということに成っているわけです。


そこで、「狙った通り」に決められるような能力を持った人のことを「天才」と言っているんでしょう。

でも、もう見飽きてきているんだと思うわけです。
そういう「天才」の「狙い通り」がですね。
いくら「天才」でも、「狙い通り」では、やはり「想定内」の域を出ないわけです。

つまり、「意外性」に欠けるわけですね。
と言うか、多いのは「意外なんだけど想定内」ですね。

これからは、もう少し”失敗したい”と言う気がするんですよね。
つまり、「狙った通りに行かない」、いや、むしろ「行けない」ということかなと。

そういう「失敗」や「できない」が生み出す「本物の意外性」が必要に成って来るんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。


私の場合、それは得意です。




「拡散する方向性」と「引き留める力」



「自由」とは、言い換えるならば「拡散すること」だと思うわけです。
つまり、果てしなく広がって行くことこそ「自由」を象徴することなんじゃないのかなと。

そして、それを引き留めようとする力が、「拘束」に成るわけですけれど、その「拘束」のない所で、広がって行くことは「自由」なことではあっても、最も「自由」なことではないと思うのです。


本当の「自由」とは「拘束」からの「解放」であり「脱出」であり、「解脱」であるわけです。

繋ぎ止める力が強ければ強いほど、そこからの「開放感」も強いわけで、 「拘束」が無いと、本当の「自由」は得られないのかもしれません。

「拘束」のない「自由」は、ニュートラルな「自由」で、「拘束」からの「自由」は、「意志」や「方向性」を持った「自由」です。

「拘束」と「拡散」のどちらか一方では、「自由」も「芸術」も成立しないのかなと。
その二つを拮抗させることで、「自由な芸術」に成るのかなと。


そういう風に考えています。





「芸術」は「立場」によって作られる



「芸術」っていうのは、「絵が上手い」とか「手先が器用」とかということじゃないと思うわけです。


「じゃあ、どういうことなのか?」ということなんですけど、一つには、「立場」なんだと思うわけです。
『作者の立場が芸術を作る』という要素があると思っているわけなのです。


世界の中で、その人が立っている位置っていうのがあると思うんですよね。

例えば、会社や職場だと、役職や担当部署で「立ち位置」が分かれてくるので、わかり易いわけですが、広い意味での社会全体の中では、その人がどういう位置に立っているのかが見えにくく成るわけです。

それでも人間は、無意識に服装や髪形などの外見的なものから、言葉使いや仕草などの行動に至るまで、あらゆることで自分の「立ち位置」を示しているのだと思うのです。


そして、「芸術家」の「立ち位置」はと言うと、常に「中立」であるということなんじゃないかと思っているわけです。
つまり、「普遍的な位置」にいるということですね。


「中立」と言うと、なんとなく簡単そうですが、あらゆる局面で「中立」でいるということは意外と難しいことなんだと思います。

そして、そういう「中立的な立ち位置」に立っているということで、必然的に「普遍的な作品」が生まれてくるようになっているんじゃないかと思うわけです。


つまり、「芸術」は「普遍的な立ち位置」によって創られるのかなと。
と言うことは、極端な位置に立っていることは、決して「芸術的な位置取り」でもないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「ホームレス」と言う民族?



「ホームレス」と言うと、「社会のヒズミ」の象徴のように言われることが多いわけですけど、そういう側面とは別に、「ホームレス」には「民族」としての側面があるのではないかと思うことがあるわけです。
(そういう側面がもともとあったというよりも、新たにそういう性質が出てきたということかもしれませんが)


例えば、「遊牧民族」と言う人たちが居るわけですが、彼らが遊牧生活を営んでいる場所に、コンクリートのビルやアスファルトの地面や鉄道や自動車といった交通、そういった都会的なものが、進出してきたら、どうなるんでしょうか?

まぁ、実際には、かなりの時間がかかって都市化が進みますから、徐々に、「遊牧民」が「都会人」に成り変わってしまうというだけなんでしょうね。


でも、もし仮に「遊牧民」が、まったく「都会人」に成らずに、「遊牧民」のマンマだったら、テント(?)を持って移動しながら生活するようなスタイルを一切変えずに暮らし続けたら、コンクリートの中で、彼らは完全に浮き上がった存在になってしまうでしょう。

要するに、その彼等って「ホームレス」なんじゃないかと思うわけですよね。


一見すると、「都会」の中からはじき出された人が「ホームレス化」しているように見えるわけですけど、実は、彼らは「遊牧民」で「都会」の方が彼らの生活圏に進出してきたんじゃないかなと。

「ホームレス」の人たちは、別に羊なんかは飼ってませんから、「遊牧民」と言うのも違うと思いますけど、彼らは、ある意味では、「ホームレス」と言う”民族”なんじゃないかなと思うわけです。


もちろん、そんなことで「ホームレス」が急増している状況から目を背けようというわけじゃないんですけどね。

意外と「ホームレス」の人が、そんなに不幸そうでもないように見える時があるんですよね。
(あくまで、そう見えるときもある、という話ですけどね)

幸福そうと言うわけでもないですけどね。
かなりの人が、自分で選んでやってるんじゃないかなって感じる時があるんですよね。

確かに、抜け出したいのに抜け出せなくなっている人もたくさんいるんだろうと思います。
ただ、意外とストレスを感じないで生活している人もいるんじゃないかと思うわけです。
(髪ふさふさな人が多いような気がするんですが、気のせいでしょうか?)


どっちかって言うと、それを回りで見てる人たちが、ものすごく悲惨で可哀相なことだと決めつけて見ているような気もするんですよね。

要するに、自分の成れの果てみたいなものを見せつけられているようで、それを見たくないから、なんとかして「ホームレス」のいない世の中、つまり「ホームレス・レス社会」を作ろうとしているというところもあるのかなと。


でも、もし仮に「ホームレス」が一種の”民族”に近いものであるとしたら、彼らの「民族性」も、少しは理解されてもいいんじゃないかと思うんですね。

手を差し伸べて助けようとしてるのに、そんなこと言われたら、たまったもんじゃないでしょうけどね。


でも、ことさらに助けようとすることは、必ずしも助けにならないんじゃないかなと。

それから、そう考えると、勤労や納税の「義務」を果たしていないことを強く攻めることも、あまり意味がないのかもしれません。
「遊牧民」ならば、現金収入がなくても、自分たちの生活さえ回して行けていれば、責められることはないのでしょうから、もし「ホームレス」が一つの”民族”としての性質を持っているんだとしたら、それと同じように、彼らは自分の生活だけ回していければ、いいのかもしれません。


そういう意味を踏まえた上で、「民俗的共生」が実現すれば、いいんじゃないかなと思うわけです。

ということで、また、随分極端な話ではありますが、そんなことを考えたりもするわけです。



「遺伝された能力」と「個人の能力」



「人間の能力」には、「遺伝された能力」と「個人の能力」があると思っているわけです。


「遺伝された能力」とは、親や先祖から受け継いだものです。

ただし、肉体や脳などの「ハード・ウェア」的な部分だけでなく、文化や民族特性のような「ソフト・ウェア」的なものも含まれるのだと思うわけです。
また、両親や先祖から直に受け継いだものだけでなく、社会から受け継いだものも、広い意味での「遺伝」だと思っています。

要するに、教育や仕事から与えられる知識なんかですね。


そうなると「人間の能力」のほとんどが、「遺伝された能力」ということになるわけです。


「人間の能力」にとって、「受け継がれること」は非常に大きな役割を占めていると思うわけですけれど、その中で、ほんのわずかな部分でも「個人の能力」があれば、それは結構大変なことなんじゃないかなと、そんな風に思ってしまうわけなのです。

そして、その「個人の能力」とは、何なのかと言えば、「気まぐれ」や「偶然」や「マグレ」のような、「人の意識」とは無関係なものから生まれるものなんじゃないかと思うのです。


「人の意識」によるものは、必ず「遺伝された何か」に依存しています。
だから、それは「個人の能力」とは言えないと思うわけです。

「人の意識」が入り込む余地のない、「偶発的」なものだけが「個人の能力」に成り得るわけです。
ただし、「マグレ」だけでは、それを能力ということはできないでしょうから、「マグレ」や「偶然」をきっかけにして、そこから「何か」を作り出さなければならないわけです。

そして、そこに生み出された「何か」を、自分のものとして修得したものが「個人の能力」なんだと思うわけです。


ただ単に「遺伝された能力」を「個人の能力」と勘違いしてしまうことが多いんじゃないかと思うのです。
でも、それはちっとも「自分のもの」なんかじゃないわけです。

「偶然」がもたらす機会は、与えられたものですが、それを「発見」して、意味を「創作」して、それを「習得」することは、その人による、その人の「個人の能力」なんだと思います。


これがほんの少しでもあれば、なかなか大したことなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。


「教科書の中」でしか達成されていないこと



「教科書の中」では成立したことに成っていることでも、実は、まだ本当には実現していないことというのがあるんじゃないかと思っているわけです。


例えば、「教科書の中」では、いろいろな国で、それぞれいろいろな革命運動が起きて、「自由・平等・平和」が実現されたということになっているわけです。

でも、実際には、本当に「自由」で、本当に「平等」で、本当に「平和」な国なんて、まだ、どこにもないんじゃないかと思うわけです。


こういうようなことは、他にもあるんじゃないかと思いますが、それらのことが、「教科書の中」や「歴史の中」では達成されたことに成ってしまっているために、かえって、実現しなく成ってしまっているような気がするときがあるわけです。

つまり、建前としての「自由・平等・平和」が成立してしまっているために、現実の生活レベルでの「自由・平等・平和」が、お座なりの扱いになってしまっているということです。


でも、実際に重要なのは、どちらかと言えば、そういった生活レベルの「自由・平等・平和」であって、建前なんてどうでもいいと言うわけではないにしても、それが身近なところに生かされなければ、あまり意味が無いわけです。

だから、教科書に、「自由な国」も「平等な社会」も「平和な世界」も、まだ、どこにも実現されていないということを明記してほしいと思うわけです。


まず、そういうものが、まだ存在していないんだということが痛切にに理解されていないと、その「夢の国」が実現されることもないんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。
(『どっちにしろ無理でしょ?』というのは、また、別の話ということで)




「小さな自分」を確信すること



『宇宙の中で、人間の存在などと言うものは、小さい点のようなものなのだ』とはよく言われることですが、そう言っている時も、実は、なかなかどうして、そういう「小さな自分」は、確信されてはいないのではないかなと思うわけです。

つまり、それは「宇宙」や「自然」との対比でもって、「自分の小ささ」を認めざるを得ないというだけで、実態としては、相変わらず人間にとっての「自己」はとても肥大化しているように思うわけなのです。


そういう「肥大化した自己」を破壊して、「小さな自分」を再発見し、さらには、それを確信することで、人間は自己の中の人間性をも確信することが出来るようになるんじゃないかと思うのです。


そうすれば、「人間」にとって重要なのは、「人間性」であって、それ以外のものは、ほとんど必要ないということが見えて来るんじゃないかと思うわけです。


要するに、「人間の幸福」を生み出すのは、唯一「人間性」であって、他の物ではないということなんじゃないかなと。

だから、その「人間性」を重視しないということは、人間にとって「幸福」をあえて遠ざけているということに成るんじゃないのかなと。


「人間性」が「100」で、その他は「ゼロ」ですね。


そういう考えで、だいたいのことをやっております。




「絵画」と「塗装」



「絵画」と「塗装」の違いは、どこなんでしょうか?
いや、そもそもこの二つは違うものなんでしょうか?


色を塗ることで何らかの効果を生み出して、見た人の心を楽しませると言う点において、この二つに違うところは見当たらないわけです。


そうだとすると、「絵画」と言うのは、ただ単に『これは芸術家が描いた絵なんだぞ』といって、”エラソー”にしてるだけなんじゃないのか?と言う疑問が出て来るわけです。


実際、そういう捉え方をしている人も居なくはないのかも知れませんが、やはり、「絵画」と「塗装」には、なにか分け隔てるに値するような”チガイ”があるんじゃないかと思うわけです。

それ以前に、芸術家がキャンバスに描いたら「絵画」で、塗装屋さんがペンキで塗ったら「塗装」と言う考え方は、ツマラナイなと思ってしまうわけですね。


そこで、キャンバスに描くとか、建物に色を塗るとか、画家が描くとか、塗装屋さんが塗るとか、上手く描かれているとか、単純に塗り分けられただけとか、そういうことを全部抜きに考えていったときに、それでも、まだ、そこに残る「絵画」と「塗装」の”チガイ”を見つけてみようと考えるわけです。


さて、そこで、まず考えられるのは、それを描いたり塗ったりした人自身の意識です。
つまり、本人が「絵画」だと思って描いたのか、「塗装」だと思って塗ったのかということですね。


本人が、嘘偽りのない気持ちで「絵画」だと思って描いたのならば、それを「絵画」と呼んで差し支えないんじゃないかと思うわけです。

また、本人が「塗装」として塗っているという意識である限り、それをあえて「絵画」であると言う必要もないんじゃないかと思うのです。


ただし、この考え方だと、とても技巧的に描かれたものを「塗装」だと主張する人が現れたときに、本人の主張に従えば、それも「塗装」だということに成るわけですが、いくら本人がそう思っていても、見た人が、誰もそう思わないという矛盾が出てきてしまうわけです。

要するに、みんなが「絵画」だと思っているものを、本人だけが「塗装」だと言い張ることに、何の意味があるのかということですね。


そこで、もう一つの規準として、その描かれたり塗られたりしたものが、独立したものとして成り立っているかどうかということが考えられるわけです。


つまり「塗装」と言うのは、その「塗装」とは違う目的をもって成り立っているものに、付加価値的に色を付けるという作業なんだと思うわけです。

それに対して「絵画」と言うのは、「絵画」であること自体が目的であるわけです。


ですから、キャンバスに描こうと、どこに描こうと、独立した「絵画」であることを目的として描かれたものは「絵画」であるし、そうでないものは、「絵画」とは言えないと言うことに成るわけです。


でも、そうなるとインテリアとして部屋に飾ることを,第一目標として描かれた絵と言うのは、「絵画」とは言い切れなくなってしまうわけです。


キリがなさそうなので、このへんでやめますが、こんなに簡単そうなことでも説明できないとなると、自分が描いているのは果たして「絵画」であるのか、それともキャンバスに施された「塗装」であるのか、そんなことすら定かではないということに成ってしまうわけです。


一応、本人「絵画」だと思って描いております。

それから、独立した「絵」として描いています。


それでいいのかも知れませんが、本当はもっと明確に分ける根拠があるんじゃないかなと。


そんな風に思っています。




「芸術」は一人では達成できない?



「芸術」と言うのは、一人では、なかなか達成できないものだと思うわけです。


それで、昔から「パトロン」と言われる人が居て、「資金」や「制作のための環境」を提供してきたわけですが、そういう「パトロン」のほとんどが、貴族階級などの裕福な人だったわけです。

ただし、ここでひとつ大事なポイントがあると思うのです。
それは、昔の「芸術のパトロン」に成るような人たちは、単に「お金持ち」なだけではなくて、働かなくてもいいぐらいに「お金持ち」だったということです。


自分で働いて「お金持ち」に成った人と言うのは、どうしたって「お金の有難み」が解ってしまうわけです。
だから、「お金」を出すときに、必ずどこかで「見返り」を計算してしまうわけです。
もともとは、純粋に「芸術」が好きで、損得抜きに援助しようと思ったんだとしてもですね。

つまり、彼らにとって、その「お金」は「資本」であり、「芸術」は「投資の対象」になってしまうわけなのです。


だから、仕事で稼いだ人や、財産を守る為に頭を巡らせているような人というのは、たとえ、どんなに「お金持ち」でも、純粋に「”伊達や酔狂”のパトロン」にはなれないのです。

そして、必要なのは、その「”伊達や酔狂”のパトロン」なわけです。
それでないと、「芸術」に何かしらの影響が出てしまいますからね。

要するに、「経済の力」が加わってしまうわけですね。

『それでもいいじゃないか!どこが悪いんだ?』と言う人もいるのかも知れませんが、わたしは『それでいい』とは思わないということです。


つまり、「お金の有難み」が解らないような、昔の「お金持ち」みたいな人じゃないと、「芸術のパトロン」には成れないということです。

 ※宗教団体が「パトロン」の場合は、「お金持ち」のイメージはないですが、
  やはり不労所得(寄付など)が資金源ですし、貴族階級とも結びついてい
  たのでしょう。

ところが、その反面、そうした庶民感覚を一切持たない「パトロン」たちが、「芸術の真価」を判断できるのかとなると、それもまた難しいでしょう。

おそらく、昔は「お金」が使い切れずに余っている階層の人が、正に”金に糸目をつけず”に、芸術家に好き放題やらせていたということなんでしょう。
そして、そういうことが彼らにとっての「ステータス」でもあったのでしょう。

そういう「時代の空気」があって、それが、その時代に求められていた「芸術の方向性」とも一致していたということなのでしょう。


でも、今はもう、そんな「のんびりしたお金持ち」もいませんし、そんな「のんびりした時代」でもなさそうです。
さらには、現在の「芸術」に求められる方向性は、そんなに「のんびりしたした芸術」でもなさそうです。


要するに、「芸術」は基本的に一人で達成しなければならないものに成ったということです。

これは、むしろいいことだったのだと思います。
世の中の「格差」が小さくなって、「お金持ち」も働かなければならなくなったということなのでしょう。

巨大な資本を受け継いだ者でさえ、それを維持していくには頭を使わなければならなくなったということでしょう。

「のんびりした時代」まで、失われることもなかったんじゃないかなとも思いますけれど、取り敢えず、社会全体にとってはいいことだったんじゃないかと思うわけです。

 ※「のんびりした時代」も、また、与えられるものではなく成って、
   一人一人の人が、自分の中に創り出していかなければならな
   く成ったということかもしれませんね。
   そして、これもまた、いいことだったのかも知れません。


そこで、「芸術家」は、自ら「経済の力」から逃れるべく”孤立”しなくてはならなくなったわけです。

でも、これがかなり厳しいわけです。
「芸術を一人で達成すること」が、ですね。

私の場合、今は妻が協力してくれていますから「二人で~」ですが、庶民以下なので、とても「パトロン」とは言えませんね。

とにかく、時間も手間もかかりますし、他のことはあまりできませんから、生活が成り立たなくなるわけです。

私の場合は、「生活」まで含めて「芸術」だと思うようにしていますが、どうしても「生活」に拘束されていることで、”チカラ”が奪われるように感じてしまうことが出て来るわけです。

足りないのは、”チカラ”と言うよりも単純に「時間」かも知れませんね。


そこで何とか思いとどまって、『いや、コレも作品の一部なんだ』と自分に言い聞かせるわけです。


これからの「芸術」と言うのは、その辺を克服していかないとならなく成っていくのだと思っています。

それでないと、いつまでたっても、

「ウレてるもの」=「スバラシイもの」

「ウレてないもの」=「シケタもの」

と言う構図から抜け出せないと思うのです。


それにしても、もう少し「芸術」を一人で達成できるような、即ち、「パトロン」に代わるような、「経済効果抜きの社会的な環境」があってもいいんじゃないのかなと。


そんな風にも考えてしまうわけなのです。




「鑑賞者」が「芸術」に加えるもの



「芸術」における「鑑賞者」の位置については、それを”受け身”であると考える人もいるでしょうし、「鑑賞者」が、今よりもっと「芸術」に”参加”できるようにした方がいいと考える人もいるのだと思うわけです。


ただ、そこで、参加してしまったら、その人は、単なる「鑑賞者」ではなくなってしまうはずですから、それを、「鑑賞者」と呼ぶことは出来なくなってしまうと言う問題が出て来るわけです。

それは、「体験者」または「共同制作者」ということに成るわけですが、どちらにしても、それらは「芸術」を鑑賞するのとは、少し違うことに成ってしまうのではないかと思ってしまうわけなのです。

例えばの話、「鑑賞者が参加することで完結する芸術」というのがありますけれど、では、その「参加者」に著作権はあるのでしょうか?

著作権の話はともかくとしても、本当のところは、その人が”受け身”の立場であると言うことは変わっていないように思うのです。

そこで、あくまで第一創作者と第二次的に参加した参加者の間に「格差」が出来てしまうのであれば、それは本当の意味で参加したことに成るとは思えないわけです。


そんな風に、参加したような気にさせられるだけなら、むしろ、「鑑賞者」としての立場が確立されていたほうがいいような気がしてしまうわけです。

そこに「能動的な受け身」と言う考え方があってもいいんじゃないかと思うのです。
つまり、「鑑賞者」というのは「鑑賞者」のままでも、「芸術」に対して能動的に働きかける”力”があるのだと思うわけです。

「芸術」に対して敢えて参加しなくても、「鑑賞すること」だけで、そこには、その「芸術」に対する解釈や理解や共感が生み出されます。

そして、それらの感性は、あくまで「鑑賞者の側」のもので、「創作者の側」のものではないわけです。


そして、それらの「鑑賞者の側」で生み出されたものと、「創作者の側」で生み出されたもの(=作品)とが、対峙することによって、
「芸術」による「感動」が生まれるということだと思うわけです。


例えば、「鑑賞者の側」で「創作者の側」が考えもしなかった解釈を加えることだってあり得るわけですし、「創作者の側」が自分でも気づかなかった「芸術性」を発見することだってあり得るわけです。

つまり、「芸術」においては、「作品」によって「感動」が生み出されているのだとしても、実は、その「感動」は「創作者の側」が一方的に創り出しているわけでも、一方的にコントロールしているわけでもないということです。

「芸術」はともかくとして、「芸術による感動」については、間違いなく「鑑賞者の側」が加えるものによっても成り立っているわけです。


こうした「鑑賞者の側」による作業は、確かに”受け身”でもありますが”能動的”でもあるわけです。


また、このような「鑑賞者の側」から加えられたものを受けて、さらに「創作者の側」も変化します。
その時は、「創作者の側」も、また、”受け身”でもあり”能動的”でもあると言うわけです。

こうした、「能動的な受け身」と言う立場が、「鑑賞者の側」から剥奪されてしまったのは、現代美術が、「ヒネリ」を加えることに偏りすぎてしまったからだと思うのです。

人がやったことの無いことや、新しいこと、画期的なことを追い求めるあまりに、本質を見失って、『ヒネッテ、ヒネッテ、ヒネリまくって』その結果、今自分たちがどこに立っているのかが分からなくなってしまっているんじゃないかと思うわけです。


「創作者の側」が自分の立っている位置を見失っていますから、「鑑賞者の側」が、それに対して「ストレートな解釈や共感」を加えることもできないわけです。


そこで、「鑑賞者の側」からは「能動的な受け身」の立場が奪われてしまい、「鑑賞者の側」は、「ただただアリガタク鑑賞する」か、または、「イミガワカラナイので放置する」というように成ってしまっているんじゃないかと思うのです。

つまり、「完全に受動的な受け身」になってしまっているわけです。


それを、前述のような「芸術に対する参加」と言う形で、埋めてしまうのは、ゴマカシではないかと、私は考えるわけです。


もちろん、「参加型の芸術」というものが、”イケナイ”と言う話ではなくて、それを、「鑑賞者」の立場と置き換えることは出来ないんじゃないかということですね。


やはり、ベースとして「鑑賞者」は「鑑賞者」として「芸術」に対峙するべきなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「本能」に近く、「欲望」から遠い



私は、「芸術」に対する自分自身の一つの指針として、『「本能」に近く、「欲望」から遠い』ということを考えているわけです。


『「本能」に近い』というのは、人間の根源的な部分に近いということです。
「心の一番深い所で感じるもの」ということですね。
これによって「普遍性」が生まれると思っています。


「欲望」と言うのは、人間が持っている欲求の中で「美しくないもの」だと思うのです。

たとえ、それが「本能」に近い所から発生していても、人間が、それを肥大化させて、自らそれに溺れてしまうことで、「本能」が持っている「真実性」が損なわれて「根源的な美しさ」が失われてしまうわけなのです。

したがって、『「欲望」から遠い』というのは、人間が自己を肥大化させて、自分の欲求に溺れてしまっている状態から遠いということになるわけですね。

これによって「真実性」が保たれて「根源的な美しさ」が生み出されると思っています。


現在の「芸術の在り方」は、非常に『「本能」から遠ざかって』しまっているように思うわけです。
反面、『「欲望」には接近して』しまっている傾向もあるように思います。

これを一言で『面白ければいいんじゃないの?』と言っているんじゃないかと思うのです。


要するに、「芸術」が「作者の個人性」の中に埋め込まれてしまっているんじゃないかと思うのです。
当然、それは、他人には理解しにくいものになってしまうわけですね。

もっと、普遍的で根源的なもの、言い換えるならば「本能に近いもの」ですね。
そういうところに「芸術」を引っ張り出してしまった方がいいんじゃないかと思うわけです。

「本能」は、ほぼ万人に共通のものでしょうから、多くの人に理解可能なわけです。

 ※これは「万人受けするもの」を作るという話ではありません。
  そういう「好みの問題」と言うよりも、それ以前の段階で、人に理解できる
  範囲で創作するということです。
  表現と言うのは、もともとそうしたものだと思うのです。
  「ウケル」かどうかは、そのあとの話でしょう。

そうした中で「本能に近い」ところに立ちつつ、『いかに”欲望にマミレナイ”ものを創り出すか』と言うのが、「芸術の立場」だと思っているわけです。

そして、この「本能」と「欲望」の駆け引きにおいて現れてくるものこそが、その人の本当の「個性」なのだと思っているわけです。


現在の「芸術」は、「作家の個人性」の中に埋没してしまっていますから、「普遍性」を持つことができません。

しかも、「作家の個人的な”欲望の表出”」こそが、「個性」であるとされる傾向がありますから、純粋に人の心を魅了するような「根源的な美しさ」を持つこともできません。

つまり、作家の自己が肥大化して、作家自身がそれに溺れてしまっていますから、もう、そこに「真実性」はないわけです。


これでは、「心の中心から湧き出る感動」は生み出されないと思うわけです。
それでも、それを「感動」と呼ぶことは出来るでしょうが、その「感動」が、人の心の中に占める領域は、あまり広くはないと思うのです。


どちらかといえば、人の心に残るようなものを「芸術」と呼んだほうがいいんじゃないのかなと。

そっちの方向で追究していったらいいんじゃないのかなと。


そういう風に思います。




「見ること」・「知ること」・「言うこと」



「表現」と言うのは、「見ること」にはじまって、「知ること」を経て、「言うこと」に至るのだと思っているわけです。


その最後の「言うこと」だけを取り上げて「表現」と言ってしまいがちなわけですけれど、その前に「見ること」や「知ること」が無ければ、その「表現」は意味のあるものにはならないのだと思うわけです。


「見ること」において、大事なのは「見たくないものを見ること」でしょう。
「見たいもの」だけ見ていても「見たこと」にはならないでしょう。

そして、人間が一番見たくないものは、「自分の姿」だと思うわけです。
「自分の中の嫌な部分」が、人間にとって最も「見たくないもの」でしょう。


「知ること」は、「考えること」とも言い換えることが出来るでしょう。
「見たくないもの」を見つめて、それについて考えて、何かの「意味」を見つけ出したら、それは一つの「智」となるのだと思うわけです。


「言うこと」で大事なのは、臆することなく「言うこと」でしょう。

それは、つまり、何かに対して「配慮すること」と、誰かに対して「へつらうこと」を混同しないことでしょう。

「媚やへつらい」を「人への配慮」に置き換えて、「媚びへつらっている自分の姿」を「見ないように」してしまえば、はじめの「見ること」の段階に引き戻されてしまうわけです。


さて、そこで、

自分の中の嫌な部分をよくよく見つめて、

そのことをよくよく考えて、意味を見つけ出して、

さらに、それを何者にも臆せずに言う。


ゴメンナサイ、無理です。


まぁ、一応の目安ですね。
理想形としての目標ということで、一応置いとけばいいのかなと。
置いとくだけでも、少しはイイのかなと。


そんなところです。





「芸術」の位置を引き下げること



『芸術の高みに向かって登っていく』みたいな言い方を聞くことがあるわけですが、これは、ちょっと考え方として違うんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


かなり昔(100~200年ぐらい前?)までなら、一つの目標に向かっていましたから、それでよかったんじゃないかと思うのですが、もう、今は一つの頂点に向かっていくということがなくなっているわけですから、その「上昇志向」には意味がなくなっているハズなわけです。


今、向かうべきは「上」ではなく、「中心」だと思うのです。

そして、その手の届く位置にある「中心」に、高いところにある「芸術」を引き下げて、低い位置に持ってこなくてはならなく成っているんだと思うわけです。


「中心」というのは、それぞれの人の「自分の中心」なのでしょう。
そして、それこそが、それぞれの「芸術の中心」に成るわけです。


それぞれの創作者が「芸術の中心」を「自分の中心」に持ってくることができれば、「芸術」が、だれでも手の届く高さにあるようになるのでしょう。

”エラク”成っちゃったら、「芸術」じゃなく成っちゃうんだと思うんですよね。


そうすれば、みんなの隣に「芸術」があって、誰でも手が届くようになるんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「基本」は「初心者向き」ではないと思うのです



何においても、初心者は先ず「基本」からということになっているわけですけれど、これは本当に、いいやり方なんだろうかと思うことがあるわけです。


本当は、「基本」っていうのは一番難しいものなんじゃないかと思うわけです。


確かに、「基本」とされていることは、初心者にも手が出しやすいような、一見すると簡単に見えることが多いわけですけれど、実は、その道を極めた人が最後に辿り付くものも、また「基本」に違いないのです。


ですから、何においてもまず「基本」からと言う考え方は、むしろ、一番高度なものを、初心者に突き付けてしまっているとも言えるわけで、意外と、初心者がその分野に入って行き易くなっていない場合もあるように思えるのです。


むしろ、その分野の中で、いちばん面白そうに見える部分、要するに、子供がやりたがるような部分ですね、そういうところから入って行った方が、本当は入って行き易いんじゃないかなと思うわけです。


日本的(東洋的?)な考え方では、なんでも「修行」と考える傾向がありますから、真っ先に面白そうなことをやるというのが、否定的に捉えられてしまうことが多いように感じるわけです。

でも、どっち道、出来やしないわけです。
所詮、初心者が、そう簡単に面白いことなんかできるはずないんですから、最初に面白そうなことをやろうとして、当然出来なくて、それでも、どうしてもやりたいから夢中になってやろうとする、その結果、上達するっていうのがいいんじゃないかと思うわけです。


そして、最後にたどりつくのが「基本」だったりするということなんじゃないかと思うわけです。
さらには、それこそが「修行」でもあると言うこともできるんじゃないでしょうか?


だから、「基本」=「入り口」と言う考え方ではなくて、「基本」=「出口」的な考え方でもいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「センス」と言われているもの



「センス」と言われているものがあるわけですけれど、この「センス」っていったい何なんでしょうか?


『センスがイイ』とか『センスないよね』とかと言っている時の「センス」って、実体としては何なんでしょうねっていうのを、いつも考えてしまうわけなのです。


本来は、「センス」は「感覚」とか「感性」に当たるものだと思うわけですけど、いま、一般的に言われるところの「センス」は、それとは微妙に”ズレ”ているようにも感じられるわけです。

現在言われるところの「センス」に一番近いのは、「要領の良さ」とか「スマートさ」に当たるものなんじゃないかと思うのです。

同じことをやるにしても、”コテコテ”やるんじゃなくて”サラッと”やること、”ムダが無く”て、最小限に”シェイプされて”いること、
これが「現在のセンス」だと思うわけです。(日本だけ?)


こういう「センス」が、私は少し嫌いです。


前には好きになろうとしていたように思いますが、やっぱり好きになれません。

それは、それであっていいのかも知れませんけど、どちらかと言えば、”コテコテ”したものが好きですし、”ムダ”なものに惹きつけられます。


”ムダ”なものの方が、「純粋」なような気がしてしまいます。

”コテコテ”したものの方が、「人間的」に思えます。

そういうものこそ、「本当のセンス」だと考えます。


だから、「要領のいいセンス」は、どんどん捨てていきたいと思っています。
最初から、そんなに持ってませんけどね。
それで、”ムダ”なことをどんどん増やしていけば、「本当のセンス」も見えて来るんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。





「ポジティブなネガティブ」と「ネガティブなポジティブ」



このブログで、何度か言っていることなんですけど、現在の日本では(世界的にもその傾向はあると思いますが)、全ての考え方が、「ポジティブ」に偏りすぎていると思うわけです。


これは、とにかく行き過ぎていて『どう考えてもオカシイでしょ』と思っているわけです。

そんな中で、とくに『オカシイ』と思うことの一つが、一見すると「ポジティブ」な人が、実情はとても「ネガティブ」でも、「ポジティブ」の看板さえ出していれば「ポジティブ扱い」で通っていたり、「ネガティブ」を批判するときだけは、どんなに「ネガティブ」なことを言っても「ポジティブ扱い」になってしまっていたり、自分に関しては「ポジティブ」だけど、他人については「ネガティブ」と言う「ご都合主義」もひっくるめて「ポジティブ扱い」ということに成っていることなわけです。

つまり、「ポジティブなネガティブ」っていうのが、とても多いんじゃないかなと感じるわけですね。

もうちょっと言わせてもらえば、「ポジティブに成りすましたネガティブ」ですね。


本当の「ポジティブ」は悪いものではないと思っていますけれど、それですら、行き過ぎればバランスを欠いてしまうわけですよね。

これは、なんにでも言えることでしょうが、バランスを欠いたものが人間にとって”イイモノ”であるということは決してないわけです。


そして、その”バランスを欠いた”結果が「ポジティブに成りすましたネガティブ」なのだと思うのです。


要するに、「ポジティブ」と言いさえすればなんでも通ってしまうことが、”悪用”されてしまっているわけですね。


簡単です。

「ネガティブ」なことを言いたいときや、やりたいときは、それを『ポジティブだよ』と言えばいいわけです。

こんな風に言うと、『それは言い過ぎだろう』と言う人もいるでしょうが、事実です。


どんなに「ネガティブ」なことでも『私なんかとてもポジティブだから』と笑いながら言えば、だいたい「ポジティブ」で通ります。
誰一人として『それ、ちっとも「ポジティブ」じゃないですよね』と言うことはありません。
もし、そう言う人が居ても、その人が「ネガティブだ」ということに成ってしまうので大丈夫です。


これが「イジメの構造」でもあります。


みんなとちょっとでも違うことを言うと「ネガティブ扱い」になって「イジメ」の対象にされてしまいます。
「イジメてる側」は、笑いながら軽い調子で「ポジティブ」に「イジメ」ますから「ポジティブ扱い」です。


「イジメられてる側」は、どうしたって深刻ですから「ネガティブ扱い」です。
でも、実はこちらの方が「ポジティブ」である場合も多いわけです。

本当に「ポジティブ」な人は、正直にモノを言ってしまいがちですから、人と違うことを言ってしまいます。
すると、即「ネガティブ扱い」に成ります。
その結果、「イジメ」られます。

そうなれば、どうしたって「ネガティブな感じ」に成ります。
これが「ネガティブなポジティブ」です。


つまり、「ネガティブ」が「ポジティブ」に、「ポジティブ」が「ネガティブ」に、すべてがねじれて反転してしまうわけです。


こんな状況で、子供から大人まで、そして老人までも含めて、自殺者が後を絶たない中で、いったい何をもって「ポジティブ」と言っているのか、私には理解出来ないのです。


もしも、現在の「ポジティブ」が、一部の人にとっては”イイモノ”なのだとしても(私は、これ自体が錯覚だと思いますが)、そういう人たちは、そこを少しだけ”ガマン”した方がいいんじゃないかと思うわけです。


「ポジティブ」が強調されていけばいくほど、自殺や「イジメ」は増え続けると思います。


ええ、確かに、ここで私が言っていることが間違っているのかも知れませんし、「ポジティブ」をやめたら、もっと悪くなるのかも知れませんね。

だから、「ポジティブ」続けますか?


私はできません。


本当は「ポジティブ」が悪いわけではないのでしょう。
でも、「本当のポジティブ」はもう無く成っています。
あるのは、「ポジティブなネガティブ」と「ネガティブなポジティブ」です。

たとえ、自分の「ポジティブ」が「本当のポジティブ」でも、
そんなことはかき消されてしまいます。

それは結果的に”悪用”されてしまうのです。


だから、もう「ポジティブ」は当分の間、封印した方がいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているのです。


「仕事」にはならない「専門性」



「ブログ」というものから、かなり遠い位置にいた人間が、「ブログ」を始めて一年程たったわけですけど、こんな私でも「ブログ」について、よく考えるようになったわけです。


そんな中で、「ブログ」と言う媒体に期待したいことは、「専門性」なわけです。
と言ってもいわゆる「プロっぽさ」ではなく、『なんでこんなことに、こんなに詳しくなっちゃったんですか?あなた!』みたいな、絶対「仕事」にはならないような「専門性」ですね。

そういうものこそ「ブログ」の真骨頂なんじゃないかと思うわけです。


「仕事」に成るような「専門性」なら、他に沢山あるでしょうし、「商売」に成りますから、見ようとしなくても向こうから配信してくるわけで、『もうたくさん』なわけです。


何も、すごく面白くなくてもいいんじゃないかと思うんですよね。

『なんじゃこりゃ?』とか『なんなの、この人?』っていうのでもいいんだと思うわけですね。

そういうのが増えて行ったら、その「ブログ」自体は他人にとって面白いものでなくても、「ブログ」と言う媒体全体として面白い感じがしてくるんじゃないかと思うわけです。


そういうところが、「ブログ」が生き残る道なんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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