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「不便」の選択




「不便」と「便利」だったら「便利」を選ぶのが普通なわけですけど、そこで、敢えて「不便」の方を選んでいこうということなわけです。


人間の生活と言うのは、常に「不便」と「便利」の二者択一を迫られているのだと思うわけです。

一見すると、ほとんどの人が迷わずに「便利」を選択しているように見えるわけですけれど、実は人間の思考の中では、いつも「不便を選ぶこと」への誘惑との戦いがあるように思うわけです。


言葉の上で、「簡単で便利なこと」と「不便でやり難いこと」と言われれば誰だって、「簡単便利」をえらぶわけですが、実のところ、その「簡単便利」と言うのは、「お手頃廉価版」でもあるわけです。

要するに、「上等なもの」と言うのは、何かしら「不便」の要素を併せ持っている場合が非常に多いわけです。

そして、そういう「上質」なものの持っている「不便さ」には、ただ単に”使いにくい”と言うような「単純な不便さ」とは違った”あじ”があるわけです。

そう考えていくと、たまたま「上質なもの」が「不便さ」を持っているのではなくて、実は、「不便」そのものが一種の「質」なのではないかとすら思えて来る時があるわけです。


例えば、ゲームなんかでも、難しくて達成しにくいものの方がオモシロイのでしょう。
つまり、そこでは「不便」が一種の「質」であるわけです。

そんな風に考えていくと、無条件で「便利」を選んでしまうことは、ちょっと、”ソン”なようにも思えてくるわけで、どちらかと言うと、実際上やむを得ない場合に、仕方なく「便利」を選択しているというぐらいで丁度いいんじゃないかと思ってしまうわけです。


少なくとも、現在は世の中が「便利過ぎ」だと思うわけですよね。

「不便」の方がベースで「便利」の方がオプションなくらいでいいんじゃないのかなと。
それじゃないと「便利」の”有難み”もわからなくなってしまうような気もしますし、第一、人間が考えなくなってしまうんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。





「拘束」を解かなければ「解放」されることはない



現代社会で生きるということは、この世に生まれた時点から始まる、さまざまな「拘束」の中で生き続けるということなのだと思うのです。


人間を取り巻く「拘束」や「束縛」は、現代に限ったものでもないのでしょうが、「教育」がシステム化することによって生み出されている「拘束」が非常に多いと考えますので、その「教育の制度化」が進んだ現代においては、一段と「拘束」が生み出されてしまう比率が高くなっていると思うわけです。


人間はほかの動物と違って、制度化された「教育」を必要とする生き物になっているわけです。
人間としての最低限度のルールや道徳といったものを身に着けるだけでも、「なんとなく親が教える」だけだと追いつかなくなっているわけで、やはり、それはシステマチックな「教育」による以外ないということに成るわけです。

ところが、この「教育」によって刷り込まれる概念が、ある意味では、人間を「拘束」するようになってしまうわけです。


つまり、システマチックに「教育」されますから、どうしても、それぞれの過程を表面的な理解で通過していってしまうわけです。
単なるルールとしてならば、、それでいいのでしょうが、本質を理解されずに無条件に刷り込まれてしまうので、応用が利かなくなってしまうことがあるのだと思うわけです。


そうして、その「教育されたこと」が時と場合によっては「拘束」となってしまうということなのでしょうね。


しかし「教育」の場で、物事の本質に至るところまでを、「教育」するということは、なかなかできないのでしょうから、自分が「解放されたい」と思うならば、一人ひとりの人が、あえて「拘束」を解いていかなければならないのだと思うわけです。


かといって、もともと生きていくために必要があって、「教育」によって与えられた「拘束」ですから、むやみに解き放ってしまうと、社会から逸脱してしまうわけです。

そこで、独力で物事の本質を理解することが必要になってくるわけです。
理解したうえで、「必要なこと」だけを残して、「拘束」になっている部分を切り捨てていけばいいわけでしょう。


いずれにしても、自分で「拘束」を解くという意識を持たないと、無条件に刷り込まれて潜在化した「拘束」を解くことは難しいのかなと。

つまり、「自由」が与えられていても、「自由」になれないということですね。


そんな風に思っています。





「正しい」を増やさないほうがいいと思うのです



現代の社会というのは「規範」が多様化しているために、その社会の中で生きる人間たちは、常に複数の「規範」に縛り付けられて、「自由」でいることが難しく成ってしまっているわけです。


もともと、一つの社会に一つの「規範」で、ある程度、統一されていた時代ですら、人間が「自由」であることは難しかったのでしょうが、現代においては、様々な「規範」が錯綜した社会の中で、その都度立ち場の違う人から、その人の都合に合わせた「規範」を要求されてしまうために、常に複数の「規範」に締め付けられている状態になってしまっているわけです。

しかも、そういったことを、それぞれの人がお互いにやり合っている状態ですから、単純に『あの人が間違っているんだ』と決めつけることもできないわけで、結果的に、その状態が放置されてしまうわけです。


だから、できるだけ「正しい」は一つにしたほうがいいように思うわけです。
と言っても、これだけ「正しい」がふやされてしまっていますから、なかなか減らすことはできないので、せめて、一人の人の中では、一つの「正しい」を持っていたほうがいいように思うわけです。

つまり、自分の生き方の指針みたいなものですね。
現代人は、これを時と場合によって使い分けてしまっていることが多いんじゃないかと思いますね。


本当のことを言えば、「これが正しい」ということを規定することなどできないとも言えるわけで、それは、世の中をスムーズに運営していくための「便宜上の正しい」なわけですから、なにも、たくさんある必要はないんじゃないのかなと。

「便宜上の正しい」に振り回されてしまうことは、本末転倒なんじゃなかなと。


そんな風に思っているわけです。




芸術における「違和感」と「親和感」



芸術作品を見たときに、「違和感」を感じることは、よくあることだと思うわけです。
要するに、インパクトのある作品には、この「違和感」を感じることも多いということなのでしょう。


作者の表現しようとするところが突き詰められていって、凝縮していればいるほど、それは、第一印象としての「違和感」を与えやすいということがあるのだと思うのです。

だから、この「違和感」を毛嫌いしてしまうと、芸術の”肝(きも)”の部分を感じ取れなくなってしまうわけで、ちょっともったいないように思うわけです。


しかし、このことと、「違和感」自体が芸術の目的であるということとは、全く違うことなのだと思うわけです。

むしろ、芸術の本来の目的とするところは、「共感」であって、この「違和感」とは反対のものなわけですから、創作者は鑑賞者との間に「親和感」を生み出すことを目指しているはずなわけです。

もし、創作者が「違和感」を目指してしまっているのだとしたら、それは、言い換えるならば、「見る者を拒んでいる」ということに成ってしまうわけなのです。

だから、「見る者を出来る限り受け入れられる」ような許容量のある作品がイイんじゃないかなと。

「見る側の許容量を要求してくる」作品が持っている「違和感」と言うのは、チョット違うんじゃないかなと。


そんな風に思っています。



「長生き」について



「長生き」することは、無条件に”エライ”ことのような気がする”今日この頃”なわけです。


昔は、「長生き」することが特にエライことだとも思わなかったんですけど、今は、「長生き」な人を見ると『エライ!』と思ってしまうわけなのです。


とは言っても、「強欲な年寄り」なんて言う人を見ると、やっぱりガッカリはしますけどね。

でも、”普通”くらいなら十分に『こんなに長く生き続けて、エライなぁ』と思ってしまいますねぇ。
まして、「長生き」していて、しかも、ちょっとでも”イイ人”だなって思えたら、もう、それだけで「大尊敬」ですね。


なにが”エライ”って「生きること」だと思いますねぇ、最近は。

それを、人より何十年も長く続けている人は、”エライ”でしょう。やっぱり。


なんでだかはわかりませんけどね。
でも、今はそうとしか思えなくなりましたね。


そういうわけで、『長生きはエライ!!』
と思っています。




「不満」のモトは「好奇心」?



私なんかもそうなんですが、現代人と言うのは、とかく社会に対して「不満」を持ってしまう傾向があると思うのです。


現代人は、教育でいろいろなことを教え込まれていますし、その後の情報量も、昔とは比べものにならないぐらいに多くなっていますから、社会の”アラ”が、どうしても目に付いてしまうんだと思うのです。

しかし、自分のことを考えても、よくわかることですけれど、この「不満」を持って生きていると、あまりいいことがないわけです。

でも、だからと言って、それを全て「ポジティブ」に反転させてしまうのは、ちょっとオカシイんじゃないかなと、私は思っているので、なんとか目についてしまう社会の”アラ”を、無理して”イイモノ”に反転することなく、”アラ”のまま「不満」を持たずにいられないかと考えるわけです。


そこで、思い当たるのが、「好奇心」なのです。
要するに、なぜ”アラ”が目についてしまうのか?と言えば、人間には「好奇心」があるからなわけです。

「好奇心」があるから、『これはおかしいんじゃないの?』って具合になってしまうわけです。
それで、注目してしまうから、ついには”アラ”が見えてきてしまうわけですねぇ。

そして、そうなってくるとどうしたって、「不満」が出て来るというわけです。


そこで、これをもう一度「好奇心」の時点に巻き戻してみるわけです。
すると、それが”アラ”であるままなのに、「面白いもの」に見えて来るんですねぇ。


つまり、「社会観察」ですね。

「人間観察」なんかでもそうですけど(こんなこと言ってはなんですが)、「、お友達としては、チョット・・・」という人の方が圧倒的に面白いわけですね。

それと同じように、社会現象なんかでも、「難あり」なことの方が、明らかに面白いわけです。
そうなってくると、もう「不満」を持っている場合じゃなくて、”アラ”があることは憤りの対象どころか、、むしろ、面白いことの中の一つのパターンくらいにしか思えなくなってくるわけですよね。

それで、だいたいのことが、最終的には”笑い”の対象になってしまうわけです。

もちろん、深刻な場合には、ほとんどこれは通じません。
その場合は「不満」を持つことを選択するしかないと思っています。

そこで無理して「ポジティブ」にひっくり返そうとすると、その無理がどこかに現れて来るのだと思います。

自分に帰って来てしまう場合もあるでしょうし、他の誰かに回って行ってしまうこともあるでしょう。
でも、これは物理法則のようなもので消えてなくなることは無いと思っています。

自分が「深刻な不満」を、考え方一つで解消できたというときは、おそらく、それが誰かの所に回って行ったというだけなのだと思うのです。


まぁ、深刻な場合は仕方ないとして、そうでもないことについてだけでも、なんとかできればだいぶイイんじゃないかなと。

「面白いこと」はそれほど重要なことだとは思いませんが、「不満」を持って生きていくこととの二者択一であれば、「面白いこと」の方を選びますね。


これは何でもかんでも、「面白ければいい」と言うわけではありません。
「不満」との間での”差し引き”においての話に限ってですね。


非常にまじめな話としてですね。

そんな風な考え方でやっています。


ただ、「面白いこと」にも、やっぱり飽きてくるわけすね。
それで、『真面目にやらないと』って思うわけですね。
『やっぱり、そっちが基本だよなぁ』ということですよね。

そちらの方も、非常にまじめな話としてですね。

そんなことを考えてやっております。



「芸術の中心」と「芸術の外枠」




何かについて定義する時には、そのものの「外側の境界線」を示すというのが一般的なんだと思うわけです。
つまり、どこからどこまでを「〇〇」と言うのか?ということに成るわけでしょう。

ところが、現在の「芸術」に関しては、この「外枠」での規定が難しくなってしまっているわけです。
「芸術」をどこまでも自由にしようという発想から、「外枠」を取り払ってしまったわけですね。


「外枠」を規定するということは、その枠の中にそれを閉じ込めるということに成るわけですから、「自由」とは言えないのだと思います。

確かに、そのことによって、「芸術」はある意味で「際限のない自由」を獲得したという形にはなっているわけです。


しかし、この「際限のない自由」と引き換えに「定義」や「規定」と言った、その物が存続するために必要不可欠なものを失ってしまっているということも、また、事実だと言わざるを得ないわけです。

つまり、最も厳密な意味で言えば、現在「芸術」と言う分野は存在していないということです。


そこで、私はこのブログの冒頭に掲げております「宣言」の中で、「芸術の仮定義」として「芸術の外枠」については、最大限に拡大可能な状態を維持しつつ、「芸術の中心」として「真術」と言う新たな名称を設けることによって、「芸術」を何とか規定しようと考えたわけです。
(あくまで、自分自身の中での規定ですが)


それにつきましては、あくまで試みとして考えたことですから、『これが芸術の定義なんだ』とか、『こういう形で芸術が規定されるべきである』とかと言うつもりは毛頭ありません。

ただ、いま言えることとしては、「芸術の外枠」を失くした状態で、「芸術の中心」をも、規定しないままにしておけば、「芸術」と言う分野は存続できないだろうということです。


中心(核)も外枠(輪郭)も無いものを、存在していると言い続けることは出来ないでしょう。
今は、それが存在しているに違いないという、人々の中の固定観念によって、それが存続しているように見えているにすぎないのかも知れません。


「芸術の中心」を規定するということが、「芸術における自由」を害するものなのかどうかはまだわかりませんが、少なくとも、「外枠」で閉じ込めてしまうことに比べると「自由度」は高くなるように思います。


そんなわけで、「芸術の中心」から「芸術」を定義、または、規定していきたいなと。

そんな風に思っているわけです。
(あくまで、自分自身の中での話ですけどね)





全ての人が「ワン・アンド・オンリー」であるということ



「芸術の20世紀」においては、沢山の「~イズム」が生み出されたわけですが、それらの中で、今なお芸術としての活力を保っているものは無いのではないかと思うわけです。


しかし、このことは当然と言えば当然のことだったんだと思うのです。

もともとあった「アカデミズム」を捨てたことで、ある意味で「拘束」を解かれたわけですけれど、「アカデミズム」を「伝統」あるいは「正統」と解釈するならば、それを捨てたわけですから、すべての「~イズム」は、「ワン・アンド・オンリー」つまり「唯一無二」に成るはずであったわけです。

それを「~イズム」を名乗って「〇〇派」や「〇〇主義」ととして、グループを形成したことによって、そこに新たな「伝統」や「正統」が築かれることが期待されてしまったわけです。

でも、その「伝統」や「正統」を否定することから始まっているのが、20世紀の「~イズム」ですから、当然、そこには自己矛盾を生じてしまうわけで、結果的に、それらはすべて消滅せざるを得なくなってしまったわけでしょう。


はじめから、一人に一つの「~イズム」であれば、何の問題もなく、その人がその「~イズム」を作り上げて、その人と共にその「~イズム」も終わって行くという、ごく当たり前の流れができていたんじゃないかと思うわけです。


それでももちろん、誰かの「~イズム」に、他の誰かが影響を受けたり、それを受け継いだりするということはあるんだと思いますし、それはむしろ大切なことじゃないかと思うわけですが、それは、誰かの「~イズム」が「伝統」や「正統」として、広く受け継がれることとはだいぶ意味合いが違うと思うのです。


いずれにしても、芸術における「~イズム」は消滅してしまうものだということですけど、それが「一人の~イズム」であるということが重要なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「現在の芸術」においては、この自分一人の「~イズム」を創り出すことこそが、その人の表現であると言えるんじゃないかと思うわけです。


そこで、どうも、その「~イズム」が、『いかに特徴的なものであるか』とか、『いかに人がやったことがないことであるか』とかに、意識が集中しすぎているんじゃないかと思うのです。


そういう基準ではなく、『いかにその人らしいものであるのか』と言う基準で見る方がより「芸術の自由度」も高くなるんじゃないかなと。

そして、それこそが最も「唯一無二であること」すなわち、「ワン・アンド・オンリー」であることなんじゃなのかなと。


そういう風に思います。





「忘れること」



『人間は「忘れること」で生きていける』と言う話を、どこかで聞いたことがあるわけです。
(どこで聞いたのかは忘れてしまいましたが)


これを聞いたときは、確かにそうだなと思いましたし、実際、過去の全ての「記憶」がいつも頭の中で渦巻いていたら、『とてもじゃないけど、生きていけないだろうな』と思うわけですよね。


これとはちょっと違う話なんですけど、最近になって、「忘れること」っていうのは、「記憶が消えてしまうこと」とは違うんじゃないかと思うように成ってきたわけです。


そして、今に至っては、『本当は、人間の「記憶」が消えてなくなってしまうことは、ほとんど無いんじゃないのか?』とすら考えるように成りました。

『そんなことは無いだろう』と思っていたんですが、例えば、忘れていると思っていたことを、突然『ポンッ!』と思いだすことっていうのがあるじゃないですか?
それから、それとは逆に忘れているハズがないことを「ど忘れ」することもありますよね。


そういうことっていうのは、「記憶」が「不活性」な状態に成っていることと関係があるんだと思うわけです。

つまり、「忘れること」と言うのは、「記憶が消えてしまうこと」ではなくて、「記憶」が「不活性」な状態に成っているんだと思うわけです。


まぁ、たぶん、こういうことは「脳科学」なんかでは、説明されていることなんだと思うんですが(本を読んだりしたわけではないので、よくわかりませんけど)、それを、自分なりにナントナク実感できたということだと思います。


そこで、考える事なんですが、「記憶」と言うものは、一般的に考えられているよりも、ずっと「ハードウェア」なものなんじゃないだろうか?という感じがするんですね。

つまり、人間の「記憶」も、「記録」が刻まれたテープやフィルムと同じようにかなり「物質的」なものなんじゃないかということですね。

そして、それは「脳科学」なんかで説明されているような、デリケートで複雑なシステムではなくて、もっと、単純で頑丈なもののような気がしてしまうわけです。

脳と言うよりも、骨や筋肉と同じような感覚で捉えるべきものなんじゃないかと思えて来るわけですね。
(骨や筋肉だって複雑なんでしょうけど)

さらに言うと、そこが「記憶」と「思考」の”分かれ目”でもあるんじゃないかなと。


もちろん、「記憶」だって、脳で行われることなんでしょうが、「丸暗記」であればあるほど、それは「身体的」なものに近くなっていくんじゃないかと思うわけです。


つまり、脳内で本当の意味で「ソフトウェア」的に、「精神的」な作業として、行われているのは「思考」であって

「記憶」は、それとは根本的に違う「仕組み」で行われている、「身体的(物質的)」な作業なんじゃないかと思うわけです。


要するに、「記憶」は、場所としては脳内で行われる作業であっても、脳を、より「身体的」に使った作業なんじゃないかなと。
そして、「身体的」であるからこそ、頑丈で消えにくいんじゃないかと思うわけです。


よく、スポーツでは『体で覚えろ』と言われますけど、あれなんかも、脳を「身体的」に使っているんだと思うんですね。

要するに、反復練習することで、「思考」を通さずに反射的に反応出来る回路を脳内に作っているんでしょうね。
「記憶」にも、それと似た「身体性」があると思うわけです。



それで、何が言いたいかと申しますと(前置きが長い!)、いわゆる「認知症」についてなんですね。


「認知症」の人と言うのは、脳の機能が低下してしまって、記憶力や思考能力が衰えてしまっているということに成っているわけです。

でも、もともと「記憶」と言うものが「身体的」な作業であるならば、その機能低下と言うのには、「運動不足」のような性質があるんじゃないかと思うわけです。

また、「論理思考」についても、生活に必要な最低限の「論理思考」などは、「思考」と言うよりも、むしろスポーツの「反復練習」と同じように、この「身体的」な作業に入るという可能性もあるんじゃないかと思うわけです。


つまり、言われている「脳の委縮」みたいなものは、筋肉や骨格で言えば、「運動不足」で衰えている状態であって、歩いたりするような、日常の動作ができなくなるほどの機能障害と言うほどではないケースもけっこう多いんじゃないかと思うんですね。


違うのは「脳細胞は再生しない」と言われていることなんでしょうか?


でも、人間の脳は、むしろ大き過ぎるくらいですし、現代人は、その肥大化した「脳」に拘束されているとも言えるわけですから、多少の「萎縮」は、実は、そんなに大きな問題でもないような気もするんですね。


そういう「機能障害」とまでは言えないものまで、ほぼ同列に「認知症」とされてしまっているように思います。


症状の進行度合いとしては捉えられているんでしょうが、それが、ちょっと極端に単純化されていると思うんですよね。


「単なる運動不足」と「筋肉が委縮してしまう難病」みたいなものが、ダイレクトにつながってしまっているような違和感があるわけですね。

実際に、「認知症」で「記憶」が曖昧に成ったり、たった今やっていたことを忘れてしまったりする人が、昔の「記憶」や自分の好きなことについてはよく覚えていたりすることはよくあるでしょうし、また、「認知症」で意味のつながらないような話をしている人が、時として、思考的な水準の高い話にも対応できることもあるなんて言うことも聞いたことがありますし、「認知症」=「全体的な脳機能の低下」でもないような気がするわけです。


これは、私の勝手な憶測ですけれど、そもそも「認知症」と言うのは、「脳の身体的な使用」に関する「機能の不活性化」ではないかと思うのです。

つまり、必ずしも、本当の脳機能、すなわち「精神活動」における機能低下ではなく、むしろ、「身体的な活動」における機能不全に近い症状なのではないかと思うわけです。

ただ単に、その「身体的な活動」の場が「脳内」であるということなんじゃないのかなと。



そして、解り難くなって申し訳ないんですが、ここで話が一番初めの所に戻ります。


『人間は「忘れること」で生きていける』と言うところですね。

要するに、現在の高齢者の置かれている環境が、『忘れないと生きていけない!』ということなんじゃないですか?』と言いたいわけです。


つまり、現在の高齢者は脳機能全体が低下したことで「認知症」に成っているというよりも、むしろ、『忘れないと生きていけない』から、敢えて、「忘れること」=「記憶の不活性化」を選択しているんじゃないかと思うのです。

つまり、脳機能の一部を「不活性化」することで、「生きて行ける」ようにしているということですね。
そうやっているうちに、知らず知らずに「運動不足」に成って、「脳の身体的な使用に関する機能」が、急激に低下して行ってしまうというパターンが、実は、一番多いんじゃないかと言う気がするんですね。


これは、高齢者が、それを”ワザト”やているという話ではありません。
無意識のうちに、そういう状態に追いやられているということだと思います。


要するに、現在の高齢者が尊敬されていないということだと思います。
(身近な人からの尊敬と言うよりも、「社会一般」が高齢者を尊敬していないということですね)
それで、高齢者が人間としての尊厳をもって生きていける領域が狭くなってしまっているわけです。
だから、「脳を不活性化して」、「ギリギリの尊厳」を保とうとしているんじゃなかと思うのです。


それは、正しい選択とは言えないのかも知れません。
それによって、さらに”痴呆扱い”されてしまうわけですから。

でも、人間としての尊厳を与えられない人間と言うのは、往々にして、そうした”自暴自棄”な間違った判断を下してしまうものなのかも知れません。
(これも、意識してと言うことではなくてですね)


例えば、「社会的な差別」や「社会的な貧困」などのような、自分の力だけで抜け出すのが困難な問題を負わされた人は、『その環境の中でも最善を尽くす』という人と、「犯罪」や「依存症」のような”自暴自棄”に陥ってしまう人の両極に分かれてしまうものでしょう。
そういう時に、自暴自棄になるのは、むしろ当然の結果であって、それを責めることには意味がないと思うわけです。


もちろん、高齢者の場合は、それだけではないのだと思います。

年を取っていますから、当然、身体的に衰えているわけですし、それと同じように、身体の一部としての「脳」も衰えてはいるのでしょう。

でも、それだけだとも思えない兆候がたくさんあることも事実なんじゃないかと思うわけです。


そこで、またまた、話は変わりますが、「サヴァン症候群」と言われる人が居ますけれど、これもよくは知りませんが、彼らは、おそらく、「記憶」などの能力が突出してすぐれているというよりは、「記憶を不活性化する為のシステム」が機能していないのだと思います。

要するに、いつも過剰なまでに「活性化」した状態にあるわけでしょうね。

 
つまり、人間の「脳機能」は完全に「活性化」されれば、一般人の能力でも「サヴァン並」なのかも知れないということです。

また、それとは逆に、どんなに優れた能力を持っていても、それが「不活性化」されてしまえば、いわゆる”ボケた”ようにしか見えないでしょう。

そういうのが「認知症」と呼ばれているものなのではないかと思うわけです。


いずれにしても、全ての人が年を取るわけですから、年寄りが幸せでない社会と言うのは、全ての人が「いい死に方」ができないということです。


生きている時はともかくとして、全般的に「死ぬ時は不幸」と言うのはどんなもんなんでしょうね?


出来れば、自分が年寄りに成る前に「年寄りを尊敬すること」をおススメしたいですね。
やっぱり、自分が年を取ってから「尊敬しろ」と言ったんでは、自分の都合だけで『年寄りを尊敬しろ!』と言っていることに成ってしまいますからね。

それじゃあ、いくら『尊敬しろ!』と言っても尊敬されませんよね。

いま、そういう「悪循環」が起きているんじゃないでしょうか?


そんな風に思ってしまうわけなのです。




「認知症」について



4月19日の記事の続きに成ります。


「認知症」っていうのは、いま言われているのとは少し違うものなんじゃないかと思うわけです。

 ※前の記事で、高齢者が意図的に選択して”ワザト”「認知症」に成っている
  とも取れるような言い方になっていたかもしれませんが、そういうことではあ
  りません。
  あくまで、本人は無意識のうちに「認知症」と言う選択肢を選ばされてしまう
  という意味です。


まず、「認知症」と言うのは、いくつかの種類に分けられているようですが、「脳」が委縮したり、変性したりすることによって、「脳機能」が低下して、「認知障害」が現れるという点では、ほぼ共通なんだと思うわけです。

でも、前の記事で書いたことですけど、場合によっては、それが根本的な原因でもないんじゃないかと言う気がするんですね。


「脳の委縮」などによる「機能低下」、そういう医学的なことよりも、「社会的な影響」の方が大きいんじゃないかと思うんですよね。
むしろ、その結果として「脳機能」が低下するような状態に至ってしまうのではないかなと。

つまり、「認知症」のかなりの症例は、「医学」とともに「社会学」の守備範囲でもあるんじゃないかと思うわけです。
と言うよりも、ケースによっては「医学」をもって判断を下すこと自体が、”見当違い”な場合すらあるんじゃないかと思うんですね。


例えば、「すさんだ環境」で育った人間が、「すさんだ考え」を持ってしまうことが統計的に多かったとしても、それは、「医学」ではなく、「社会学」や「社会心理学」の範囲で考えるべきものでしょう。

もし、その「すさんだ考え」が「病的」と言えるほどのものであれば、それを、一種の「病理」と捉えることもできるでしょうが、あくまで「社会的現象」があっての「病」でしょう。


現在の「認知症」には、それと同じような性質があると、私は考えるわけですね。


そもそも、人間は、本来与えられるべきもの、例えば、「両親の愛情」とか、「最低限の環境」とか、「成長に必要な食糧」などですね、それらが与えられずに育った場合、必ずと言っていいほど、その人の人生に「影響」が現れてくるものでしょう。

それらのことを、全てその人の責任とは言えないでしょうし、その人本人の力だけでは、その「影響」を排除することは困難なのだと思います。
(稀には、それができる人もいるでしょうが、それはまた別の話でしょう)


そして、それと同じように、高齢者の「認知症」についても、高齢者に必要最低限の「尊敬」や「役割」が与えられていないから、その「影響」が出てきているのだと考えるわけなのです。

そして、そこから本人の力だけでは抜け出せなくなっているわけです。


『そういうのと、「脳の委縮」みたいなものは違うだろう』と言われるのかも知れませんが、実際に、幼い時期に「愛情」が与えられなかっただけでも、「脳の発達」に限らず「身体的な発達」にだって影響が出ることも、十分にあり得ることだとなんだと思うわけです。

違うのは、「子供は発達期間」にあるのに対して、「高齢者は衰退期間」にあるということです。
どちらも、状態として「壊れやすい期間」にあるということは同じなんじゃないでしょうか?

要するに、そういう「壊れやすい期間」に、必要な環境が与えられないことによる「影響」が、「認知症」として現れてきている症状なんじゃないかと思うわけです。


もちろん、「脳の萎縮」による「認知症」と言う側面はあるでしょう。

でも、それは、あくまで結果として「脳萎縮」が「加速度的進行」に至るということであって、原因としては、むしろ、社会の中で高齢者が置かれている立場による「[影響」の方が、大きいんじゃないかと思うわけです。


『頭を使っている人は”ボケ”ないんだ』などと言われていますけれど、それに当てはまらない事例はとても多いと思うのです。


私は、『歳をとることを心から”尊敬”している人が”ボケ”ないんだ』と思っています。
言い方を変えれば、『”ボケること”を”尊敬”していれば”ボケ”ない』ということなのかも知れません。

まぁ、”尊敬”していれば”ボケること”をコトサラニに恐れる必要も無く成るのかも知れないですけどね。


社会が「高齢者」を「尊敬」していない現在の状況の中では、個人としては尊敬されていて「頭を使っている人」でも、本人が「歳をとること」を「尊敬するべきもの」として捉えることが難しくなっているわけですね。


やはり、高齢者に対する「尊敬」と言うのは、「必要最低限のもの」と考えた方がいいんじゃないかと思うのです。


個人的に「尊敬できる人」もいれば「尊敬できない人」もいるのは”当たり前”ですが、やはり、「高齢者全般」は「社会全般」から「尊敬される存在」であった方がいいんじゃないかと思うわけです。


これが徹底されれば、「認知症」は減ると思いますし、それが出来なければ、「認知症」は減らないと思います。


もし、こういうことが社会的に徹底されて、

それでもなお、残った「認知症患者」が居れば、その人だけが、本当の意味での「認知症」なんじゃないのかなと。
(かなり、少なくなると思いますけど)


そんな風に思っています。





「幸福」について



現代における「幸福」って、いったい何なんでしょうね。


だいぶ前だったら、「お腹いっぱい食べられること」くらいでも、十分「幸福」だったんだと思うんですよね。

でも、いまだったら、それだけで十分「幸福」だと思える人の方が少ないかも知れませんね。

その前に、『そんなに食べたら、体に悪い!』とか、『ダイエットしなきゃ』とか、考えることが山ほどありますから、『お腹いっぱい食べられることって幸せだなぁ』なんて言っている余裕は無いというところでしょうか?


いずれにしても、現代においては、

「物質的な豊かさ」だけでは「幸福」を感じられなくなってきているんだと思うわけです。
つまり、「精神的な豊かさ」を求めているわけですね。


ところが、世の中、そう上手くはいかないもので、「精神的な豊かさ」と「物質的な豊かさ」が、なかなか両立しないわけです。
それで、現代人は「幸福」から遠い位置に立たされてしまっているように思うわけです。

両方手に入れたいという気持ちがありますから、どちらかを選択することで、もう一方を失ったように感じてしまうわけですよね。
だから、一方を得ていても、十分に「幸福」だとは思えないということでしょうね。

そこで、片方を”キッパリ”捨ててしまえばいいんだということですけど、やっぱり、『言うは易し、行うは難し』なわけです。


そんな中で、「現代の幸福」とは一体なんなんだろうかと。


おそらく、それは「人とのつながり」ではないかなと思うわけです。
「人間性」と「人間性」のかかわりですね。

要するに、「人間の表面」ではなくて、「人間の中心」に近い部分での「かかわり」ということですね。


おなじ「精神的な豊かさ」の中でも、唯一、「物質的な豊かさ」を犠牲にしても”オシイ”と思わないでいられるもの、それが「人とのつながり」だと思うのです。

これを、他の「精神的な豊かさ」と同等に扱ってしまうと、同じように見えてきてしまって、同じように”オシイ”になってしまうんだと思うのです。


この「人とのつながり」を失ってしまうと、どんなに、物質的に豊かになっても、また、他のことで精神的に豊かになっても、結果的に、「幸福」は得られないような気がするんですね。


だから、この「人間性」とか「人間的な関係」と言った「人とのつながり」を、その中でも、特に「人間の中心」における「人とのつながり」を他のこととはっきり区別して、重視していく必要があると思うわけです。


それだけでも、少しは「幸福」に近づけるんじゃないのかなと。


そんな風に思います。




「ブナン」と「マシ」



「ブナン」や「マシ」というと、両方ともあまりいいイメージがないと思いますけど、この二つには意外と大きな違いがあると思うわけです。


「ブナン」の方は、何かをする前に危険性の少ない方の選択肢を選ぶことで、「マシ」の方は、最終的に、それほど悪くはないけど良くもないという結果になってしまったということだと思うわけです。

つまり、「ブナン」は”チャレンジ”してないわけですね。
それに対して、「マシ」は、なんとなく”チャレンジ”している印象があるわけです。
「全力を尽くした感」が無くもないと思うんですね。

一所懸命やったんだけど、なんか”パッとしなかった”っていうんですか?
それで、どこか”不完全燃焼”ではあるんですけど、反面、どこか「やるだけはやった」っていう”晴れやかさ”もあったりするんじゃないかと思うわけです。

そんなところから、常に「マシ」を”良し”とする習慣を身に着けようと思っております。
(やるだけやった結果の”マシ”ということですけどね)


はじめから「マシ」を狙っちゃいけないと思うんですけどね。
それじゃ「ブナン」になっちゃいますからね。


でも、一所懸命にやって「マシ」ぐらいだったら、

『まぁ、いいんじゃないの?』

と、いつも思うようにしようかなと。

そんな風に思っています。






「〇〇主義」の盲点



「共産主義」や「社会主義」が、実質的に形を成さないものに成ってから久しいわけですが、実は、それらとともに「資本主義」や「自由主義」も崩壊していたのだと思うわけです。


まぁ、今のところ「替わるもの」が無いので、それを続けているのでしょうね。


取り敢えず、今の世界を見渡してみると、「共産主義」や「社会主義」を掲げている国でさえも、ほとんど「資本主義的」になっていて、かろうじて残っている政治体制にしがみついているだけのようにも見えるわけです。

そんな風に、世界中に蔓延している「資本主義」ですけれど、そこには、盲点があるように思えるわけです。


「資本主義」ですから当然なんですけど、「資本」に「権力」が与えられてしまうわけです。


つまり、「金の力」ですね。
「金にモノを言わせること」ができるようになっているということですね。


そこで、厄介なのは「金の力」を持っているのは「金を持っている人」と言うよりは、「金」そのものだということです。
人ではなく「金」=「資本」が「チカラ」を持っているという方が正確だと思うのです。

つまり、「人」は二の次ということですね。


「社会主義体制」の下では、「国家」や「社会」という「体制」が、

その「チカラ」を持つことに成って、やはり「人」が蔑ろにされるように成ってしまったんだと思います。


いずれにしろ、今は世界中で「人」以外の「チカラ」がまかり通るようになっているわけです。
つまり、『人を大切にしましょう』と言う「キレイゴトの通じない世の中」に成っているわけです。


「資本主義」においては「金のチカラ」がまかり通る世の中になってしまっています。
「社会主義」や「共産主義」でも、似たようなモンだったんじゃないかと思うんですけど、「キレイゴト言ってたわりに、やっぱり通じなかった」ってことなんじゃないでしょうか?

でも、やっぱり出来れば「キレイゴトが通じる世の中」を目指した方がいいんじゃないかと思うわけです。


要するに、これは『何も捨てられなかった』ということなんじゃないかと思うんですね。
どちらの体制も「欲張り」だったんでしょうね。


”ゴッソリト”何かを捨てる必要があったんじゃないかと思うんですよね。

「残すもの」だけが決まっていて、後は、それを残すために、なんでもいいから捨てていくという考え方が必要だったように思います。


「残すもの」は「人間性」だったと思うんですね。

でも、どちらの体制も、割とあっさりと、、そこを捨てて他の物をとってしまったんじゃないでしょうか?


”タクサンのナニカ”を提供できる社会が「イイ世の中」だと思っていたんでしょうね。


実際は、”タクサン”でなくてもよかったんじゃないかと思いますね。

「必要十分」が”アルテイド”満たされていればよかったのに、”モットモット”になってしまったような気がします。


みんな人間なんですから、「人間性」より大事なものなんてないと思うんですけどね。


「人間性重視の国」があれば、死ぬ時は、そこで死にたいものだなと。

今んとこ無いみたいですけどね。


なにも、完璧である必要はないんですけどね。

一応の「タテマエ」としてだけでもいいから、「人間」をもう少し「尊重」することが”マカリトオル”世の中であってほしいもんだなと。


現状は「タテマエ」ですらなくて「ミセカケ」ですね。


そんな風に思ってしまうわけなのです。




「普遍性」とは「鮮度」である



「普遍性」は、「芸術」に必要なものだと思うのです。
でも、その「普遍性」が、どうも軽視されているように思うわけです。


例えば、”いつの時代にも通じる”ことや、”誰にとってもイイ”と思えることと言うのは、大事なことなんじゃないのかなと思うわけです。


もちろん、それは全ての人に好かれるとか、どんな時代においても高く評価されるということではなく、全ての人に対して”何かを訴えられる”とか、どんな時代にあっても”何らかの意味を持ち続けられる”ということなんだと思っています。


「斬新さ」を追いすぎると”キヲテラッタ”ものになってしまって、「普遍性」を失うんだと思いますけど、実は、「普遍性」こそが、「鮮度」=「新しさ」なんだと思うのです。


つまり、「普遍性」と言うのは、「目新しい」ことではないのに、常に「新鮮」であることなんだと思うわけです。


同じものが、何度見ても「鮮度」を持ち続けられることこそが、「普遍性」なのだと思います。


当然のこととして、「芸術」は変わっていくものだと思いますけれど、それはすべてのことにも言える事であって、また、変わらずにいることなどできないということでもあるわけですから、「変化」や「目新しさ」に関しては、成り行きに任せて、「普遍性」を追究していくことに集中した方がイイような気がします。


追究したからって”できる”とは限らないですが、”やろうとしない”よりは少しはイイんじゃないのかなと。


否、”やろうとすること”にこそ価値があると。


そんな風に思って、やっています。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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