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「職業」じゃない「シゴト」



【職業:専業主婦】とか 【職業:学生】とかっていうのに、ちょっと引っかかりがあるという人は、私だけでもないんじゃないかと思うわけです。


昔から思っていたんですけど、「専業主婦」とか「学生」って「職業」なんですかねぇ?
もし、そうだとしたら「主婦」は「家庭」に、「学生」なんて「学校」に就職したって話になりますけど(それは先生でしょ!)、そうなんでしょうか?


まぁ、そういうのはヘリクツなんでしょうけどね。
でも、「職業」ではない「シゴト」っていうのが、あってもいいんじゃないかっていうことが言いたいわけなんですね。

要するに、無理して何でも「職業」にしなくてもいいんじゃないかということですね。


「職業」っていう言葉をどう考えるかにもよりますけど、”収入がある”ということで考えれば、「主婦」や「学生」は外れてしまうわけですし、”本業とするところ”と考えれば、該当するように成るということなんでしょうか?


でも、一番わかり易い「職業」の解釈からすると、「収入を得ている仕事」ということなんだと思うわけです。
「主婦」や「学生」は、ただ単にメンドウだから、強引にそこに押し込まれていただけなんじゃないのかなと。


まぁ、ちょっと前までなら、「専業主婦」や「学生」ぐらいしか、そういう立場の人が居なかったでしょうし、そういう人たちも区別がしやすかったでしょうから、「専業主婦」と「学生」は「職業」に含めましょう、ということで問題なかったんだと思います。


でも、このところ、こういう「職業」じゃない「シゴト」の種類が、随分増えているんじゃないかと思うわけです。


私なんかもそうなんですけど、「創作活動」は収入のことを考えてやっているわけではないので、「職業」と言われても答えられるものがないんですが、意外と、それなりの「シゴト量」はコナシテいるんじゃないかと自分では思っているわけです。
(効率は良くないですけど)


他にも、「ボランティア」なども、そういう「職業じゃないシゴト」なんだと思います。
これなんかも、昔と比べるとかなり種類が増えたんじゃないかと思いますし、身内の介護をしていて「職業」に就けなくなっている人など、何らかの理由で、「職業」を休業中の人も増えているんだと思うわけです。

そういう人たちなんかは、「職業」を持っていた時よりも、よっぽどハードに「シゴト」をしているケースも多いんじゃないでしょうか?


それから、こういう「ブログ」を書く作業っていうのも、一種の「シゴト」ではあるのかも知れませんね。
まぁ、これなんかも「収入」を目指してやっている人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょうが、どっちにしても、何かしらの「シゴト」であるとは言えるんじゃないかと思います。


で、何が言いたいかと言うとですね。
このジャンルに名前がないわけです。

それでいつも、「職業」で困るわけですね。
どういう風に言っても、正しく伝わる気がしないわけですよね。


だから、誰かに、この「職業じゃないシゴト」の名前を付けてもらいたいと思っているわけです。

評論家でも、コピーライターの人でもいいですけど、なんかイイ名前を付けてほしいんですね。
『そうそう、自分がやってることって、そういうことなんだよね!』っていうようなヤツですね。


『「職業」ではないですが、「〇〇」として、これをけっこう一所懸命にやってますよ』

と言えるようにしてくれるとウレシイなと。


そんなことを思っています。





「時代」が動いて行く方向



「時代」が動いてゆく方向と言うのは、かなり先のことまで、前もって決まっているものなんじゃないかと思うのです。


そもそも、「時代」と言っていますけれども、その「時代」と言うものは、人間の意識の中にしかないわけで、時間や歴史と言う感覚を持っていないであろう人間以外の動物は、おそらく、「時代」ということも感じていないんだろうなと思うわけです。


要するに、「時代」は「社会」の中にしか存在しないんだと思うわけです。

群れを作る動物の集団にも、「社会」はあるのでしょうが、人間の目には、そこに「時代」が意識されるほどの大きな変化はないように見えてしまいます。


つまり、「時代」とは人間社会に固有の感覚だと言えるんじゃないかと思うわけです。


さて、そこで、「時代」が動いて行く方向ですが、それは、その「時代」を形成している「社会」の意識が向いている方向へ向かって行くわけです。
と言うよりも、むしろ「社会」が向いている方にしか行かないと言った方がいいかも知れません。

まぁ、「社会」が「時代」を作っているわけですから当然そうなるわけでしょうね。


そこで、「社会」の向きはどこで決まっているのかと言えば、たぶん、歴史の流れの中で、かなり前の時点で決められているように思うのです。


例えば、「コペルニクス」の百年前に「地動説」を唱える人が現れていても、

それは、「時代」に受け入れられることは無かったんだと思うわけです。

百年前にも、「コペルニクス」と同じぐらいすぐれた学者は居たんでしょうが、

その人は「その時代」が求める「ほかのこと」を研究していたんでしょうね。


だとすれば、「コペルニクス」が「地動説」を唱えたと考えることもできますが、

「時代」が「コペルニクス」と言う頭脳に働きかけて、

「地動説」を発見させたと考えることもできるわけです。


「社会」の意識は、そう簡単には変わりませんから、「大きな変化」が受け入れられるには、その前の前提となるような、「微妙な変化」の積み重ねが必要なわけです。

その「微妙な変化」が無ければ、それが受け入れられることはありませんし、その「微妙な変化」が積み重ねられて行けば、必ずそちらに「時代」が動いて行くということなんだと思います。

つまり、その「微妙な変化」の段階で、先に行って「時代」の流れとなるような「大きな変化」が、既に決まっているということでしょう。


ただ、「微妙な変化」の段階では、「大きな変化」が、いつ起きるのかとか、それがどんな形で現れるのかと言ったことが、なかなか分かりづらいということなんでしょうね。
それで、みんな「いま」に合わせて生きていくわけです。

そして、それは概ね正解なわけです。
それで、生きていくのに十分ではあるわけです。


でも、それだと、他の動物との違いがないわけです。
つまり、人間にしかない「時代感覚」が抜けているんでしょうね。


「いま」に合わせることは、一見「時代」を感じ取っているようですが、実は、その人が感じているのは「時代」ではなく、

あくまで「いま」であって、それは「時代」の表層に張り付けられた、ラベルのようなものにすぎませんから、中身のある「時代」を感じ取っているとは言えないのでしょう。


それだと、”生きていく”のには十分でも、”人間として生きていく”のには、やや不十分なのかも知れませんね。

もちろん、他の動物がダメだっていうことじゃありません。
それに、流行という「いま」を追ってはいけないということでもありませんが、それだけだと、飽きちゃうんじゃないかと思うわけです。

やっぱり、「人間」は「人間」と言う「種」ですから、より「人間]らしい方がよりいいんじゃないかと思うわけです。


だったら、「人間」だけが持っている「時代」を意識するという感覚は、持っていたほうがいいんじゃないのかなと。

そんな風に思ったりもするわけです。





「話」には「層」がある



「話」には「層」があると思うのです。
一つの「話」をしている時には、本来、一つの「層」の中で「話」をしている”ハズ”なんだと思うわけです。


例えば、「冗談」を言っている時には、「冗談」と言う「層」で言っているわけで、それに対して、誰かが、「冗談」以外の「層」で言葉を返すと、それが「冗談」として成り立たなくなってしまいます。


それと同じように、どんな「話」にも、それぞれ、その「話」に見合った「層」があって、それを無視すれば、その「話」はほとんど意味をなさないものに成ってしまうわけなのです。


ところが、とりわけ議論の場においては、この「話の層」をしっかりととらえて「話」を進めていくのが、なかなか難しいわけです。

そして、この「話の層」を外してしまうと、あっという間に、「不毛な言い争い」になってしまうということですね。


そうならない為には、どちらもお互いに「共通の層」に合わせて、「話」をしようとする気持ちが必要になってくるわけですけれど、議論の場においては、相手を論破しようという考えが出て来てしまい勝ちですから、むしろ、「相手の層」に合わせないようにしてしまうわけですね。

つまり、相手の足をスクオウとするわけですね。


でも、これは全くの本末転倒で、それだったら、はじめから議論なんてしない方がいいくらいかも知れません。

それは、相手の矛盾点を指摘し合っているだけで、その「言い争い」に「内容」と言えるものはあり得ません。


人間の言うことには、必ず「矛盾」が含まれていますから、それを指摘することはそれほど難しくはないでしょうが、「話の層」を外して、「矛盾」を指摘することは、「批判のための批判」であって、「実質的な意味を持った批判」とは言えないでしょう。


この「話の層」を外すことや、「話の層」をコロコロと変えて相手を撹乱することを、巧みなディベートだと言ってしまっている傾向があるように思いますが、そういう「言い争い」は、常に全くの不毛です。


「共通の層」に合わせて「話」をしつつ、そこで生まれた「批判」にこそ、価値があるのだと思っています。


「議論」をするには、先ず、「共通の層」の中で「話」をするということが大前提であって、そのうえで、「話」に参加する人が、共有できる「話の層」をしっかりと決めてから「話」を進めることが必要になってくるわけです。

そうすることで、その「話」の本当の内容がどんなものなのかが見えて来るんだと思います。

現在、ディベートにおいて巧者と考えられている人には、まったく「内容」の無い「話」しかしていない人が、かなりいるように思えるわけですが、そういうことが、世の中をツマラナイものにしていることは間違いないことかと思われますので、「話の層」は守った方がいいんじゃないのかなと。


そんな風に思います。





「抽象」は「偶像」を壊すことから始まるのだと思うのです



現在考えられているところの「抽象芸術」と言う概念が、出てきてから約一世紀ほど経ったわけです。


「抽象」は「具象」から抜け出して、新たな領域を開拓するために生み出されたんだと思うわけですが、その為か、「具象」を破壊することが目的になってしまって、その後、方向性を見失ってしまっているように思えるわけです。


もともと、「完全な具象」も「完全な抽象」も、現実に成り立たせることは不可能でしょうから、「抽象表現」には「具象性」が、「具象表現」には「抽象性」が必要に成るわけで、「具象」を完全に破壊してしまうことは、「抽象」をも成り立たなくさせてしまうことに成ってしまうわけです。

それで、現在「抽象表現」はハッキリした方向性を見い出せなくなってしまっているんだと思います。


それでも、まだなお「芸術」には「抽象表現」は必要だと思うのです。
そこにしか、行く方向が無いんだと思います。

また、もしほかの方向が見えてくるとしても、それは、「抽象表現」が現状よりも、もう少し確かなものとして把握されてからなんじゃないかと思うわけです。

要するに、「具象性」を排除することに力を使いすぎてしまったために、それができなくなってしまったんだと思うわけです。


実際には、破壊すべきものは「偶像」だったんじゃないかと思うのです。

一つの頂点に向かって行くこと、その「頂点」こそが「偶像」なんだと思います。
つまり、「具象」を完全に壊してしまう必要は始めから無くて、「頂点」にマツリアゲラレタ「偶像」を破壊して、「芸術」を手の届く位置に引き下げればよかったんだと思うわけです。

そうすれば、「抽象」は今ほど「解り難いもの」でもなくなるでしょうし、「抽象」と「具象」の間に、現状のような不自然な隔たりも無く成るんじゃないかと思っています。


そして、その「偶像」を破壊するという過程で、もし「芸術家」自身が高い位置に居たとするならば、自らその位置を引き下げて、平地に足を置く必要があったということなんだと思います。

そして、それをした人が居なかったんじゃないでしょうか?
(本人も周りの人も含めてですね)


まぁ、居たとしても誰も気が付いてくれなかったんでしょうけどね。
みんな、「頂点」の方ばかり見ていたわけですから、低い位置にいる人のことなんか見向きもしなかったんでしょう。


結果的に「天才」という「偶像」は、以前にもまして「崇拝」されて、平地に降りるどころか、ミルミルと高い位置へと舞い上がって行ってしまったということでしょう。


ようやく、一通りの「天才」が出尽くした今、一度リセットして「偶像」を破壊することから始めるというのがいいんじゃないかと思います。

そうすることで、ほぼ一世紀の間見えなくなっていた方向性が見えて来るんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。




「迷うこと」は美しい



「迷いが無いこと」は、だいたい「良いこと」と言われているんでしょうけど、これからの「芸術」においては、「迷うこと」が必要になるんだと思っているわけです。


と言うか、「迷わないこと」は、もうすでに「美しいこと」とは言えなくなってしまっていると思うわけです。


例えば、古典的な技法に基づいて絵を描くときには、努力や修練は必要ですが、「迷い」は必要とは言えないでしょう。
むしろ、迷わずに技法書に書いてある通りのことを練習するほうが、確実に上達するには、近道に違いありません。


もちろん、その絵を「より良い絵」にするには、さらに、自分なりの工夫や感性も必要になって、そこに「迷い」の余地もあるんでしょうが、古典技法そのものを「最善」と考えた場合は、「迷い」の領域は極めて小さいものになるわけです。

それは、それで一つの選択肢ではあると思いますけど、それが、果たして「美しい」のか?ということです。

昔は、それが「美しかった」んでしょう。
でも、それは「技法」自体が確立されていなかったことによる部分が大きいと思うのです。

つまり、人が確立した「技法」を習得するというよりは、「技法」を編み出しながら制作していく必要があったわけですから、当然そこに「迷い」が発生していたわけです。
そして、最終的にその「技法」にたどり着く「過程」が「美しいこと」だったわけです。


これは「芸術」を「精神的なもの」と考えるか、「物質的なもの」と考えるかで、見え方が違って来ることなのでしょう。


「物質的なもの」と考えれば、「美しい絵」は「美しい絵」に他ならないわけですから、その「過程」よりも「出来栄え」が重要になるのでしょう。

反面、「精神的なもの」と考えれば、その「出来栄えの美しい絵」は、「手の込んだ塗り絵」ということになるわけです。
「塗り絵」がダメだということではなくて、「塗り絵」は「精神性」を追求するものではないということでしょう。


実際には、「芸術」は「精神性」と「物質性」の両方を持っていなければ成り立たないものなわけですから、どちらか一方を捨ててしまえば、当然、「芸術として美しいもの」とは言えなくなってしまうわけなのです。


ほとんどの人が、「良くできた贋作」を「芸術として美しいもの」とは考えないでしょう。
「物質的なもの」としては、ソックリに描かれているわけですから、「本物」と同じ、またはそれに近い価値があるということになるわけですが、なぜ、そこには「芸術的な価値」を感じられないのでしょうか?

要するに、そこに「精神性」が欠如しているからでしょう。

極端な話、「本物」よりも「美しく」仕上がっていたとしても、そこに「精神性」がないために、それは「芸術」とはならないのです。

もし仮に、そこに「精神性」が導入されれば、その絵は、「本物」から離れて「贋作」としては成り立たなくなってしまうでしょう。
つまり、「芸術として美しいこと」と「贋作として美しいこと」は両立し得ないということです。


そして、その「芸術の精神性」と「迷い」が、深く関係していると思うわけです。


前述の、「古典的な絵」と「贋作」を一緒にするつもりはありませんが、「迷い」がない、あるいは「迷い」の領域が狭いという意味では、同じ性質があると思うのです。


これは、なにも「古典技法」に限ったことではありません。
どんな手法でも、そこに「迷い」がなければ「精神性」は生まれないのではないかと思います。


あえて、断言してしまえば、「芸術」における「精神性」の大部分が「迷い」ではないかと思っているわけです。
つまり、「迷うこと」こそ「美しいこと」なんだと思うのです。


ただし、先ほども述べましたように、「芸術」は「精神性」だけでも成り立ちませんから、「物質的な美しさ」も必要になるわけで、
そんな中で、「迷うこと」で遠ざかる「物質的な美しさ」を繋ぎ止めつつ、「迷い」という「精神的な美しさ」を手放さないようにすること、これが現在の「芸術」に課せられている課題なんだと思っているわけです。


『迷うことは美しい』

『いや、迷うことこそが美しい』


そんな風に思っています。





「お金」って「シゴトの報酬」に向いていないんじゃないでしょうか?



「シゴト」の「報酬」といえば、当然「お金」ということになっているわけですが、実は、「お金」は「シゴト」の「報酬」としては、けっこう不適切なものだと思うのです。


よく、『「お金」はあっても邪魔にはならないだろう』なんて言われますけど、要するに、それだけ、あれば便利なものだということでしょう。

確かに、置いておいても腐るわけでもなく、都合よく、なんにでも姿を変えてくれる「お金」は便利なものではあるわけです。


ところが、そんな「お金」にもできないことがあるわけで、「お金」は「精神的な満足」を生み出さないという性質があるわけです。


この点について、「お金で買ったもの」が生み出す「満足」を、「お金」が生み出していると思ってしまいがちなんですけど、それは、あくまで、「もの」が生み出した「満足」であって、「お金」が生み出した「満足」とは言えないと思います。


例えば、お腹がすいているときに「食べ物」を買うことができる「お金」は有効です。
でも、お腹がいっぱいの時に「食べ物」を買うことができる「お金」はアリガタ迷惑です。

『だったら違うものを買えばいいだろう!』

その通りですが、それじゃあ、「買いたいもの」がない人はどうしますか?
たとえば、「うつ状態」の人は何も欲しくないと言うかもしれません。

その人に必要なのは、「もの」でも「治療」でも「薬」でもなくて、「希望」や「意欲」でしょう。


「お金」は、それを生み出しません。


これは、「うつ状態」の人だと”わかりやすい”というだけで、健康な状態の人にも、ほぼ同じことが言えると思います。


実は、「お金」が姿を変えられるのは、「生活に必要なもの」ぐらいで、それ以上の「精神的な満足」を生み出すことができるものに、「お金」が姿を変えてくれることはないわけです。


『いやいや、贅沢品や芸術品などはお金で買えるし、精神的な満足を生み出してくれるだろう』


確かにそうですが、自分のほしくない「贅沢品」や好きでもない「芸術品」は、「精神的な満足」を生み出しません。

これは「うつ状態」の人が何も欲しくない時と同じでその人に必要なのは、「好奇心」や「感性」でしょう。


やっぱり、「お金」はそれを生み出しません。


実際には、「精神的な満足」を生み出しているのは、「もの」ですらなくて、その人自体でしょう。
その人の「心の状態」といえばいいんでしょうか?


そこで、「シゴト」の「報酬」なんですが、「シゴト」は、どんな「シゴト」でも結構大変ですから、みんな「報酬」が多いほうが嬉しいわけです。

でも、今言ったように「お金」は「生活に必要なもの」ぐらいしか与えてくれませんから、けっこう高い給料を貰っている人でも、いつも「不満」なわけです。

「お金」をたくさん貰っても、「精神的な満足」は与えられませんから、当然といえば当然ですね。

それで、ある人は「やる気」がなくなり、ある人は「もっと給料の高い仕事」を求めるようになるわけです。
要するに、物欲で埋め尽くすことで補おうとするわけですね。


しかし、それでは「精神的な満足」に近づくとは限りません。
「給料が高いこと」によって「精神的な満足」が得られるのではなくて、そこに「評価」や「賞賛」がついてくるから、それが得られているわけです。
「給料が高いこと」が「評価」を現す基準に成っているということでしょうね。

でも、実際には「給料」で「評価」を表す必要はないんじゃないかと思います。

ただ単に、今は「給料」=「評価」ということになっているために、「給料」が唯一の「評価」のための手段になっているわけですが、「お金」をいくら出しても「精神的な満足」が提供できないとすれば、その「お金」はほとんど無駄になるだけでしょう。


「お金」は「生活に必要なもの」を買える程度で、ほんとうの「報酬」は、その人が「精神的な満足」を得られるような「心の状態」でいられる環境として与えられるのがいいように思うのです。


そういうシステムで運営する企業が出てくれば、今ある「重大な社会的問題」がいくつか解消されるんじゃないかなと。


そんな風にも思いますね。




「ボヤケタモノ」を鮮明に描く



「抽象絵画」は「具象表現」から抜け出すこと、つまり、「形を崩すこと」や「形を使わないこと」に終始してきたんじゃないかと思うわけです。
でも、この考え方で絵を描こうとしていくと、どうしても方向性が見えなくなってきて、最終的には行き場を失ってしまうんじゃないかと思ったわけなのです。

『ここに居て、いくら頑張ってもダメなんじゃないか?』と感じてしまったわけですね。


でも、「抽象表現」は捨ててはいけないものだと思いましたし、実際、それを捨ててしまったら、それこそどこにも行き場がないと思ったんですね。


そこで、「形のあるもの」の「形」を排除しようとしたり、「形のないもの」を、そのまま「形のないもの」として描こうとするのはやめて、反対に、「形のないもの」や、自分には「形が見え難いもの」、言ってみれば、「ボヤケタモノ」を、何とかより鮮明に描こうとするという考え方でやってみようと思っているわけです。


要するに、「物質的なもの」を「非物質的に描く」とか、「非物質的なもの」を、そのまま「非物質的に描く」とかいうことをやめて、「非物質的なもの」を「物質的に描く」ようにしようということですね。


そうすることで、描き始めの「入り口」のところでは苦労するんですが、いつもナントナク「出口」が見えているという感じがあるんですね。

それで、少し「抽象表現」が”ラク”に成ったような気がしています。
自分だけが、勝手にそう思ってるだけなのかも知れませんけど、実体感のないものを、そのまま絵に描こうというのは、実は、はじめから不可能だったんじゃないかと思うんですよね。

それができれば理想なのかも知れませんけど、人間にはできないことなんじゃないかと言う気がするんですね。


それで、『「非物質的なもの」に「物質的な実体感」を与えるように描く』ということをやっているわけです。


もちろん、だからって”簡単”に成ったっていうわけでもないんですよ。
”気分的にラク”に成っただけなんですけどね。

でも、「出口」が見えていることで、「その先」があるんじゃないかなっていう気になれるんですよね。


今のところ、そういう考えでやっていこうかなと。


そんな風に思っているわけです。



「GOLDEN JUST PAINT」



「JUST PAINT」と言うのは、主にアクリル絵の具を作っている「ターナー社」のサイトに不定期で刊行されている、画材やターナー社のブランド「ゴールデン・アクリル絵の具」等についての、研究結果や分析などを公開したりしている情報マガジンです。


これが、とても読みごたえがあって、役に立つので時々利用させてもらっています。

このマガジンは役に立つのもいいんですですが、何よりいいのは、画材や絵具に対する作り手の愛情がこちらに伝わってくるところでなんすね。
(≪その色に何が起こったか?!≫と言う記事なんかイイですね。)


そこで、ちょくちょく見せてもらっていたんですが、唯一残念なのが、訳文が読みにくいことなんですね。
よくあることですが、日本語訳が、ちょっと”カタイ感じ”なこともあって、読むと疲れるので、なかなか一気には読めないんですよね。

それで、必要があるときに、それに関する記事だけをピックアップして読んでいるわけです。


自分が、今、まとめて組み上げた木枠にキャンバスを張って、下地を塗っているところなんで、その辺のところについての記事を読んでみると、目新しいことがいくつかあったんですねぇ。


まず、キャンバス張りについてですが、私は今まで、キャンバス(木枠)の中心から張っていたんですけど(たぶん、このやり方の人が多いと思いますが)、この「JUST PAINT」に、キャンバス(木枠)の角から張って行くやり方が出ていて、なんとなく、説得力を感じたので、半信半疑で試してみたんですが、これは正解だと思います。

前にも、一度だけ角から張ったことがあるんですけど、その時はうまく張れませんでした。
どう違うのかは忘れてしまいましたが、この「JUST・PAINT」に出ていたやり方だとスンナリとできました。
(かなり、いい加減にマネしたにもかかわらず!)


その記事にも書いてありましたけど、『今までのやり方に特に不満はなかったのに、もう前のやり方には戻れない』と思ってしまいましたねぇ。


それから、もう一つ、気に成ったことがあって、下地についての研究結果が出ていた≪油絵具をアクリル絵の具と使う≫という記事の中に、「イエロー・オーカー」などの土系顔料を下地に置くと、剥離の危険性が高くなるということが書いてあったんですね。

なんでも、土系の顔料は湿度などに対する反応性が高い(伸縮するらしい)のだそうです。
そうなると、高温多湿の日本では、マズイんじゃないの?ということに成るわけですよね。

『おいおい、待ってくれよ!』と成りますよね。

と言っても、それほど強い調子で書かれていたわけではないんですけどね、でも、わりと安心して使っていた「土系顔料の絵具」だけに、『そういうの、やめてよぉ!』ということですよね。


その記事には、どういった使い方なら大丈夫なのか?と言うようなことは書いてなかったので、まだ、それについては、「保留」ですけど、いずれにしても、この「JUST PAINT」には説得力のある記事が多いので、今後も参考にさせてもらうつもりです。


画材や絵具についての「常識」や「非常識」について、実験データや、様々な視点からの考察をもって、実際に検証して、説明してくれているので、とっても嬉しいですね。


と言うわけで、絵を描いている人は、ほとんど読んでいない(たぶん?)このブログですが、そのうちに見る人もいるだろうということで、一応、おススメしておきますです。ハイ。






「本当のことを言うこと」



「本当のことを言うこと」は、とても大事なことだと思うのです。
『そんなことは、当たり前だろう!』と言われてしまうかもしれませんが、これが、意外とできないということがあるわけです。


人間は、基本的に「本当のこと」を言われるのが嫌いです。
他人事としての「本当のこと」までは、なんとか受け入れるんですが、自分のことと成ると、ほとんどの人が、「本当のこと」を受け入れません。

単純に「自分の間違い」を認めることですら、ほとんど出来ないと言ってもいいと思います。
もちろん、「自分の間違い」を認めるときはありますが、大抵の場合、それは認めないと、『より一層”見っともない”ことに成るから』と言う理由からで、純粋に『それが間違っていたから』と言う理由で、それを認めているわけではないと思います。


要するに、なんとか「自分の間違い」を「正当化」できないものかと、いつも、頭を巡らせているわけですね。
私なんかもそうですけど、多くの人が、常日頃、そこにはかなり一所懸命に頭を使っていると思います。

実際に、表向きは「自分の間違い」を認めたフリをしていても、何か機会があれば、必ずと言っていいほど「言い訳」をしようとするのが普通です。

ほとんどの人がそういう状態ですから、「本当のことを言うこと」は、そうたやすいことでも、そう当たり前なことでもないわけです。

まぁ、だからこそ「本当のことを言うこと」が大事になってくるんでしょうね。
誰も「本当のこと」を認めたくないわけですから、それを言う人が居なければ、「本当のこと」は無く成って行くわけです。

そうすれば当然、「デタラメなこと」や「嘘のこと」や「意味のないこと」で、世の中が固まって行ってしまうわけです。
と言うより、人間の社会と言うのは、いつも、そういう状態だと言った方がいいのかも知れませんね。


そして、現実に、「本当のことを言うこと」が完全に排除されていったときには、その社会では、必ず「悲惨なこと」が起きてきたわけです。


ですから、「本当のことを言うこと」は、やはりとても大事なことだと思うわけですが、ここで、この「本当のことを言うこと」と似ているもので、「啓蒙」と言うのがあるわけです。
その「啓蒙」と「本当のことを言うこと」は区別されるべきだと思うのです。


「世の中を良くしよう」とか「自分の考えを世に広めよう」と言うのが、「啓蒙」なんだと思うんですが、これは、現在はもう必要ないものなんじゃないかと思うわけです。

世の中が、一つの方向性を持っていた時代には、この「啓蒙」と言う考えが、意味を持っていたのかも知れませんが、現在、世の中には多様な方向性があって、そのことによって、「個の自由」が確保されているわけですから、一つの基準に向かって、世の中を「啓蒙」するということには、もう意味が無く成ってしまっているわけです。


じゃあ、その二つはどう違うのか?ということに成るわけですね。
その違いは「当たり前のこと」と「当たり前ではないこと」だと思っています。

「本当のこと」は「当たり前のこと」で、「啓蒙」は「当たり前ではないこと」ですね。

つまり、「本当のことを言うこと」は、必ずしも当たり前ではないけれど、「本当のこと」自体は、当たり前なんですねぇ。


私はこれを、童話『裸の王様』に例えていますけど、『裸の王様』の話の中では、みんな「本当のことを言うこと」をしなくなっています。
そこで、一人の子供だけが、「本当のことを言うこと」をするわけですが、その子供は、別に「社会を啓蒙しようとした」わけではありません。

ただ単に「本当のこと」を言っただけです。


王様が裸だから、『王様は裸だ!』と言っただけで、『世の中を良くしよう』としたわけでもなければ、『世の中に良い考えを流布しよう』としたわけでもありません。

それどころか、その子供の考えたことですらないと言った方がいいくらいです。


つまり、見たままの「当たり前のこと」を、そのまま言っただけです。


「啓蒙」は、「王様の着ている服」について、『センスが良くない』とか『もっとノウハウにあった服装を選ぶべきだ』とかと言うことでしょう。


つまり、「当たり前”以上”のこと」を要求するのが、「啓蒙」だと思うのです。
それについても、まったく必要がないとは思いませんが、まぁ、無くてもどうってことないとも思います。


でも、「本当のことを言うこと」の方は、それが無く成ってしまうと、社会は確実に「悲惨」へ向かって行くように思います。


大袈裟なように聞こえるんでしょうが、これも一つの「本当のこと」です。
つまり「当たり前のこと」ですね。


そんなわけで、「啓蒙」よりは「本当のことを言うこと」が大事かなと。
ちなみに、このブログは「当たり前のこと」が中心です。

”見たまま”ってことですね。

でも、たまには「当たり前じゃないこと」も書いてあります。
それは「どっちでもいいこと」ってことですね。


そんな風に思っています。





「自己を拡大すること」と「自己を表現すること」



「現代の芸術」と言うは、一言で言えば「自己を表現すること」なんだと思っているわけです。


過去においては、「芸術」と「技術」の区別が、今よりも曖昧であったように思いますから、必ずしも「自己表現」としての比率が高いとは言えないものでも、「技術的」に高い水準に達していれば、「芸術」とみなされることが多かったんだと思います。


しかし、「現代」においては、ある程度「芸術」と「技術」は区別されて来ていますから、いくら高い「技術」を示したとしても、「自己表現」が示されていなければ、それを「芸術」と呼ぶことは出来なくなってきているのでしょう。
(と言っても、そこのところが、未だにはっきりと示されていないという問題が無いともいえないわけですが)


つまり、「芸術」を規定するために、最も重要な要素が、「自己を表現すること」だと思うわけです。


さて、ここで、「自己を表現すること」が、「芸術の最も重要な要素」だとして、「現在の芸術」が陥っている「落とし穴」の一つが、「自己を拡大すること」ではないかと思っているわけです。

つまり、現代に成って、芸術の最も重要な要素が「自己を表現すること」に、かなりのところまで限定されたことによって、その部分を強化しようとしたために、「自己を表現すること」と「自己を拡大すること」がすり替えられてしまったんだと思うわけです。

現在に至っては、その”すり替え”が、もはや公認のものとなりつつあって、「作家が自己を肥大化させること」こそが「芸術」であるかのような錯覚が生み出されてしまっていると言ってもいいでしょう。


しかし、「自己を表現すること」と言うのは、あくまで、「自己」を”そのまま”「表現」することであって、本来、如何に”そのまま”であるかが重要なハズなのに、「拡大」したり「肥大化」させたりしてしまったら、その時点で”そのまま”ではなくなってしまうわけです。

ですから、作り手の側はもちろんのことでしょうが、「芸術」を鑑賞する側の人も、「自己を肥大化させること」を「自己表現」と同じものと思ってしまうと、「落とし穴」にはまってしまうんだと思うわけです。

それは「自己表現」ではなくて「自己主張」だと思うのです。
まぁ、より正確に言えば「自己誇張」かも知れませんけどね。


でも、そういう「自己主張」ならば、なにも「芸術の場」でなくとも、社会の中にイヤと言うほど溢れています。
むしろ、そういうことから逃れるためにあるのが、「芸術」と言う「場」なのではないでしょうか?

そういうところが「現在の芸術の落とし穴」なんだと思います。


作り手は「自己を表現すること」を目指して、「自己を拡大すること」に成ってしまっています。
鑑賞者は「ストレートな自己表現」を求めて、「肥大化した自己主張」を見せられてしまっています。


だから、創作者は「自己を拡大すること」にとらわれてはいけないし、鑑賞者は「肥大化した自己」の威圧感に屈服してはいけないんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。





プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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