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【芸術の20世紀喪失宣言】:「宣言」について



このブログは、【芸術の20世紀喪失宣言】と【真術の紀元宣言】と言う、二つの「宣言文」をメイン・テーマとしております。
この二つの「宣言文」のうち、主に【芸術の20世紀喪失宣言】について、遅ればせながら、これから少しづつ説明を加えて行こうかと思っております。


まず、この二つの「宣言」は、私が自己作品の創作に当たっての「姿勢」を示したものです。


「宣言文」の中にも書いてある通り、私といたしましては、「宣言文」にあるようなことについて、そんな風に成って行くんじゃないかと思っていますし、そう成ることは、ある程度、必然的なことなんじゃないかとも思っておりますが、また、それは、既にそう成りつつあることだとも考えております。

つまり、予測や推測ではなく、もう事実だと言う前提で書いています。
(あくまで、私の中の事実ということです)
その結果として、断定的な言い方が多くなっておりますが、それらのことがすでに起きていることであると言うつもりで書いていますので、そこはお許しいただきたいと思っております。


さらには、「宣言」と言う形をとっていますので、全体的に強い口調で書かれています。
そのため、人に対して何かを要求するようなニュアンスにになっている部分があるかと思います。

実際に、人に対して呼びかけている場合もありますし、何かを求めている部分もありますが、それは、あくまで「芸術」と「人間」のことを、真剣に考えようという人に対しての「問いかけ」でもあり、また、最低限の必要性を感じたことから発した問題提起でもあります。
つまり、「芸術」においての必要最低限の方向性だけは、取り戻されなければならないだろうという考えから言っているものです。


また、それ以上に言えることは、ほとんどの重要な部分において、『要求している』のも、『要求されている』のも、実を言えば、私自身なのです。


私は、どのようなことであれ、それに関わる者には、「責任」が発生すると思っています。

「食」に関わる者は、「衛生上の責任」を負うことに成ります。
「住」に関わる者は、「建築物の安全上の責任」を追うことに成ります。
それらは「味」や「デザイン」などとは、また違う「最低限の責任」です。


当然のこととして、「芸術」に関わる者にも、そうした「創作」や「感性」とは違う「最低限の責任」があると思うのです。

それら「創作」や「感性」に関わる部分では、「芸術」には「特別な自由」が与えられていると思っていますし、そうあるべきだとも思っています。

しかし、それを「ナンデモアリ」と解釈してしまうことは、結果的に「芸術をもって芸術を殺すこと」にもなるのだと思うのです。
ですから、「芸術」に関わる者は、与えられている「自由」をどのように使っていくのかを、よくよく考えなければいけないのだと思うわけです。


そして、それこそが「宣言文」に記した「姿勢」でもあります。


さて、この「宣言文」における、私の目的といたしましては、まさに「それを言い切ること」であったわけです。
つまり、「宣言文」をここに投稿した段階で、目的はある程度達成されていると思っております。


しかしながら、私が「宣言文」に表明した「姿勢」については、『これを生涯を通じて持ち続けることに成るのだろう』と思っているものでもありますので、その道程が終わることは無いだろうとも思っております。


そんなことから、もう少し、ここに付け加えられることはあるだろうと思って、「宣言文」の他にも記事を書いています。
他の記事での目的も「それを言い切ること」であることは、ほぼ同じだと思っています。



それから、もう一つお断りしておきますが、私は、今のところ、ここに「自己作品」を投稿しておりません。
と言うよりも、このブログの中に「画像」は一つもありません。

 ※その後、デジタルカメラを購入したので、ブログのトップ画面とプロフィー
  ル画像に、習作として描いた絵(部分)を二点、「一枚だけの展示室」とい
  うカテゴリにおいて、常に一点だけの本作品を公開しています。


このブログを始めた当初、私は他の方のブログを見る機会がほとんどなかったので、「芸術」に関するブログでも、作品や画像のないものは沢山あるものと思っていました。

実際には、「芸術」のブログで、文章だけのブログはとても少ないようですが、どちらかと言えば、そういう状況を不自然に感じてしまいます。
むしろ、文章だけの「芸術」のブログがもう少しあってもいいように思っています。

私の中では、「芸術」とは「考えること」でもあるので、「文章だけ」でも成り立つということは、むしろ必要なことだと思っております。

それは、「作品だけ」で成り立つことと、私の中では矛盾いたしません。


言い換えれば、「文章だけで芸術を論じることを否定するということ」は、「作品だけで芸術が完結するということ」を否定することに成ると思っています。


この点について、私は、「思考」については、出来得る限り「言葉」だけで表現したいと思っていますし、「作品」については「その作品」だけで表現が完結されている方が望ましいことだと思っています。

あくまで、”できるだけ”ということですから、「言葉による表現」と「作品による表現」を絶対に混ぜないということではありませんが、
この二つを『できるだけ分けよう』と言う姿勢が必要なんじゃないかと思うわけです。


将来的には「未定」ですが、今すぐに「画像」をアップする予定はありません。
取り敢えず、「文章だけ」でやれるところまでやってみようと思っています。


この「宣言」と私の「自己作品」とは、共通の「姿勢」から出来ております。
従って、これを分け続けることには、やや無理があるようにも感じつつあります。

しかしながら、私には、『この「宣言」を、できるだけ多くの人の心に当てはめて、考えられるようなものにしておきたい』という気持ちがあります。

ですから、「作品の印象」で「宣言」の解釈が限定されることや、「宣言の内容」で「作品」の解釈が変わってしまうことは、あまりうれしくはないのです。

それ以前に、いま「私の作品」などよりも大事なことがあると思っていますし、それを「宣言文」に書いたつもりです。

そんなわけで、「未定」ということに成っています。


また単純に言って、デジカメを持っていれば「画像」をアップしていたかもしれませんが、私はデジカメを使ったことがありませんし、今のところ必要性も感じないので、「画像」が無い状態です。


いつか私が「作品」をアップするときには、『なーんだ、こんなものか』と言って見てやってくださいませ。
また、それまでの間は、『どーせ、大した絵なんか描いているわけないさ』と言いながら、この「ブログ」をお読みくださいませ。


と言うわけで、今後このカテゴリで、なるべく具体的に【芸術の20世紀喪失宣言】について、説明していこうと思っていますので、興味のある方は読んでみてください。

興味のない方も読んでみてください。

どうあっても読みたくない方は、読んでみないでください。


どうぞよろしく。



続きを読む

【芸術の20世紀喪失宣言】:「はじめに」の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリの最初の記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います)


「はじめに」と言う項目では、以下の「宣言文」が、なんの地位も立場もない「わたし」という人間が書いたものであるということ、そして、そんな「わたし」が「自己作品」を通して「芸術」に深く関わって行こうとしていること、その上で、どうしてもこれを「宣言する必要」があったということを述べたつもりです。


『「芸術」に関わる者には「人間や社会を解放する役割」がある』とか、『単なる「娯楽」であるとは思っていない』などと書いてありますが、これは、ほとんど「わたし自身」への言葉でもあり、また、「芸術の中心」を想定した上で、その「芸術の中心」に近づこうとする者への言葉でもあります。

これは、決して「芸術」を狭い範囲に閉じ込めようという考えや、「芸術」を自分の都合のいい所に位置づけようという考えで言っていることではありません。


「芸術」を自由な状態に設定するということは、「芸術の外郭」を解放した状態にするということです。

その時点で、「なんでも芸術たり得る」ということです。
そんな状態の中で、「芸術の中心」をも規定しなければ、そもそも「芸術」と言う分野自体が存続することは不可能です。


『なんでも芸術たり得る』けれど『芸術の中心に近いものと遠いものがある』と言う、最低限の設定が無ければ「芸術」は霧散して消失してしまうでしょう。

現に、今もって「芸術」が存続しているのは、『「芸術」がそこにあるハズ』と言う人々の思い込みによる所が大きく、実体としては、全ての人の中の「それぞれの芸術」が全部「違う芸術」となってしまっていると言えなくもないのです。

このことは、言葉の上ではとても自由でいいことのように聞こえてしまうかもしれませんが、まずもって、人と人が共通の「芸術」について論じ合うことが出来ないという致命的な状態であるともいえるわけで、そこでは、皆それぞれに『私はあれが好き』 『私はこれが嫌い』と勝手に言い合っているだけで、そこに「芸術」と言う共通言語はすでに失われてしまっていると言ってもいいほどなのです。

『それでいいじゃないか、どこが悪いんだ?』と言われれば、「悪い」とは言いません。
しかし、それはすでに「芸術」と言えるものではなく「なんとなく好きなアレ」であり「どことなく嫌いなソレ」にすぎないわけです。

「外郭」もなく「中心」もなければ「漠然とする」のは当然のことです。
そんな「”漠”としたもの」を誰が懸命になって創り出そうとするでしょうか?

必然的に、それは「適当に、あるいは軽い気持ちで創られたモノ」に成って行くでしょう。

『ウレルためなら、いくらだって懸命に成るさ!』と言う人も居るに違いありません。
しかし、そういうモノを「芸術」と呼ぶ必要はあるのでしょうか?

そんな風にして、「規定されないもの」と言うのは消えていくのだと思います。


そんな理由から、私はこの序文で、改めて、「芸術」の責任を問い直し、「芸術の中心」というものが「存在するに違いない」ということを明らかにしようと提言しているというわけなのです。



それから、ここで『この「宣言」に書いてあることが「あたりまえ」に成っていくと思っている』と書いていますが、これは、この「私の宣言」に限って言っていることではありません。

このような考え方は、すでに、その種子が人々の心の中に蒔かれていて、発芽するのを待っている状態なのだと思っています。
それらが発芽するのにつれて、必然的に、それは広まっていくものと思っておりますし、その流れが止まることもないと思っております。

そして、これは、将来に起こって行くことと言うよりは、すでに起こりつつあることであって、現状においてある程度進行していることだとも思っています。

ですから、この「私の宣言」は、そんな中の「一つの種」なのだと思っています。
それが『発芽しましたよ』と言っているわけですね。

ただ、誰一人『発芽しましたよ』と言わなかったら、また、せっかく芽が出ているのに「水をやること」すらしなかったら、その「新芽」は誰にも気付かれることなく、枯れてしまうかもしれません。

やはり、それぞれの人が”何か”をすることは必要なんだと思います。


その”何か”に当たるのが、私の場合、この「宣言」であったわけなのです。



最後に、それぞれの国の人が、自国を中心と考えることが出来るように成ればいいというようなことが書いてあります。


これは、決して自己中心的な考え方で言ったことではありません。
『自分を中心に据えて理解することで、はじめて他人のことを理解できるんじゃないですか?』
と言ったようなことです。

まだ、人間には、ダイレクトに「他者」を理解することは、できないような気がします。


ですから、必ずしも日本だけを特別扱いにしようというつもりはありませんが、いま、日本の社会や文化は「西洋」と「東洋」のちょうど「真ん中」に立たされているように思うのです。

その結果、日本の伝統的な文化や風習が寸断されてしまったことは残念なことですが、その代償として、日本人は「東西の二つの規範」を知る「立場」を手に入れたように思うのです。

現時点で、それは「中途半端な立場」にすぎませんし、今のところ、それは、むしろマイナス方向で作用していると思いますが、そこに「人間の迷う姿」と言う「意味」を加えることが出来れば、「二つのモノ」が融合されて、きっと「ナニカ」が生まれるんだと思います。


そして、それこそが、「いま芸術が追究するモノ」なんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけです。


長くなってしまいましたが、こんなことが、ここで私が伝えたかったことなのです。






ウェブ上に「常識」は形成されるのか?:ネット社会の「疑心暗鬼」



ネット社会と言うのは、とても「疑心暗鬼」を生みやすい仕組みになってしまっていると思うのです。


このブログを始めてから気が付いたんですけど、ウェブ上のコミュニケーションには、「常識」と言えるものが、まだ出来ていないように思うわけです。

まぁ、現実社会の「常識」ですら曖昧に成りつつあるようですから、当然と言えば当然かもしれないですけどね。


私は、このブログを始めるまで、「ウェブ上の常識」に当たるものが、もうすでに出来上がっていて、それに沿ってコミュニケーションが行われているものと思っていたんですが、しばらくやってみて、なんとなくその辺のところが曖昧な印象があるわけです。


だからと言うわけでもないんですが、私なんかは「内気な性格」なもんで、どうコミュニケーションをとっていいか全くわからずに、ひたすら記事を書くだけなわけです。

こういう人は、他にもいるんじゃないかと思うんですけど、こういうコミュニケーション不全が、ネット社会の「疑心暗鬼」を生み出しているんじゃないかと思うわけです。


はじめのうちは、自分が「ブログ」というものに慣れていないから、その辺のところが、見えていないんだろうと思っていたんですけど、最近になって、これは自分だけでもないんじゃないか?と思うように成ってきたわけです。


実際、「ブログ」に限らず、ウェブ上のコミュニケーションには、『これは言ってもいい』とか『これは言うと失礼』とかいうような、いわゆる「常識」に当たるものが形成されていないんじゃないかと思うのです。


例えば、現実に顔を見て相手と話をする時には、『どちらのご出身なんですか?』とか、『何のお仕事をされているんですか?』なんていう、個人情報に当たる質問でも、相手の様子によっては、何の抵抗もなくできてしまうわけです。

実際、初対面の相手ですら、そのぐらいは普通にやっていることがあると思います。


でも、これがウェブ上のコミュニケーションでとなると、そんなたわいもないことですら、なかなか聞けませんねぇ。
と言うか、まずそんなこと聞かないでしょうね。

要するに、相手にとって、「何が”嫌”」で「何が”歓迎”」なのかが、皆目見当がつかないんですね。
それで、どうしても「当たり障りのないこと」しか言わなくなるんでしょうね。
(それでいて、「いきなり喧嘩ごしな人」はけっこう居たりしますが)

もちろん、ウェブ上でも、もっと上手にコミュニケーションをとれている人もいらっしゃるんでしょうが、大多数の人たちが、「当たり障りのないこと」しか話さなくなっているんじゃないかと思います。

と言うよりは、そういう「ちょっと極端な当たり障りのないこと」を、いかに上手くやるかが「ネット社会のコミュニケーション上手に成るコツ」と言うような気もします。

だから、ネット社会の中のコミュニケーションから深い人間関係に発展するケースと言うのが、意外と少ないんじゃないかと思ってしまうわけですね。


そして、その「当たり障りのない状態」が、時間が経っても変わらないのが、ウェブ上のコミュニケーションの特徴のような気もします。


しつこいようですが、私なんかは「内気な性格」なもんですから、誰かに「ウェブ上のコミュニケーション」における「常識」を提示してもらいたいなと思うわけです。


なんとなく、「現実社会の常識」が、そのままでも使える”ハズ”と言う漠然とした根拠で、そこのところが、お座なりにされてきたんじゃないかと思うんですね。

確かに、人間同士のコミュニケーションであることは同じなわけですから、同じ原理が使えるのが理想ではあるのでしょうが、実際には、ネット社会やウェブ上の人間関係と言うのは、それ以前までのコミュニケーションの形態とは、感覚的な差がありすぎると思うんですね。

「現実社会の常識」を、そのまま当てはめて使うことに無理があることは、もう、はっきりしているんじゃないかと思いますので、それとは違う「ウェブ上の常識」を設定して欲しいなと思ってしまうわけです。


そうすれば、もう少しネット社会の「疑心暗鬼」が解消されて、もう少し、”内容のある”コミュニケーションをとれるように成って行くんじゃないのかなと。
ただ単に、”普通”のコミュニケーションということなんですけどね。

また、そういうコミュニケーションを望まない人にとっても、『私は望んでませんよ』ということを伝えるための「標準」や「指標」があった方がいいんじゃないのかなと。


なんとなく、ネット社会の中の「コミュニケーション」というのは、両極端に偏ってしまっているように見えるんですね。


例えば、自分のブログに「随分と乱暴なコメント」を入れられていても、”生真面目”にコメントを返している人が居るかと思うと、いきなり『~な人は見ないでください。迷惑です!!』なんて書いてあるのをよく見たりもします。

「中くらい」がないんですね。


それに、ブログへのコメントでは、あくまで管理人さんを立てたコメントをするのが「常識」のように成っていまけど、やや度を越しているように感じることもありますよね。

そうかと思うと、掲示板サイトなんかでは、かなり”デタラメ”なことでも、『ここは、そういう所でしょ』で済まされてしまっていますよね。
それに、ブログでも、どう考えても実生活では言えないようなことを平気で言ってしまう人も居るみたいだし、と言うか、どちらかと言うと、実生活においては、やや控えめな人の方が、ネット上では大胆になっているのかもしれませんね。


「常識」っていうのは本来「中間的なもの」なんじゃないかと思うんですね。

極端なもの(掲示板サイトでの意味不明の書き込みのようなものですね)を「そこでの常識」としてしまったら、「常識」が「常識」である意味がないと思うんですね。


だから、然るべき立場の人が、そういう「ウェブ上の常識」を「バシッ!」と打ち出してくれないかなぁと。

例えば、電話と言う「コミュニケーション手段」が導入されたときに、誰かが「『もしもし?と言って電話に出ましょう』という「常識」を提示してくれたようにですね。

そんな風に思ってしまいます。


『ところで、然るべき立場の人って誰なの?』
こういうところが、設定されていない状態で、先へ先へと言ってしまうところが、ネット社会の一番弱い所なんじゃないのかなと。


そんな風にも思っています。




(2)宣言の根拠1.≪芸術の20世紀≫は喪失していた:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


(1)「宣言文」は飛ばして、(2)宣言の根拠:から説明いたします。

1.≪芸術の20世紀≫は喪失していた:と言う項目から始めます。


まず、はじめに、≪芸術の20世紀≫においては、さまざまな「~イズム」が現れては消えていったことを書いています。
それらの「~イズム」について特定の名称を挙げることは避けております。

これは、この「宣言文」全体を通して言えることですが、特定の「主義・主張」や「団体や個人」など、いかなるものをも、個別に批判するものではありません。


過去において、一つ一つの「~イズム」や個々の「芸術家」を批判したことによって、ただ単なる「好き嫌いの言い合い」になってしまって、その批判が無力化するということが繰り返されてきたと思っております。

そのようなことを避けるために、敢えて「具体性」を犠牲にして、このような形をとりました。


あくまで、≪芸術の20世紀≫全体を一括りのものとして考えてています。
読んだ方が、どのような「~イズム」や「〇〇主義」また、「個々の芸術家」を当てはめて頂いても差支えないと思っています。

私が、ここに書いているのは、それらのすべてに当てはまる≪芸術の20世紀≫の「~イズム」や「芸術家」”すべて”についてです。


例えば、そこには私自身が好きな作家も含まれるでしょうし、私が、「主張」としては肯定的に捉えている「~イズム」もあるでしょう。

しかし、ここではそれらについて、『あれはいいけど、これはダメ』とか『これだけはベツ』と言うのはやめて(それをすれば、新たな「混迷」の種にしかならないでしょう)、個々の「~イズム」や「芸術家」の「功罪」については語らずに、それら、「20世紀の芸術」に現れた「すべての現象」を≪芸術の20世紀≫という「一つの現象」と捉え、その全体像としての「功罪」を問うているわけなのです。


次に、それらの「~イズム」のどれもが、比較的短命で、「その場の流行」ともとれるように、目まぐるしく入れ替わって行ったこと、そして、それは私の中の「芸術」と言う概念とは、どうしても一致しないということが書いてあります。


これは「芸術」と言うものを、どう捉えるかで大きく話が変わってしまうわけですが、少なくとも、「普遍性」を求めるのであれば、一つの「~イズム」が”流行ったり廃れたり”することはあり得ないわけですし、また、「オリジナリティ」を求めるのであれば、一つの「~イズム」が”流行っている”時に、それを、複数の芸術家がで共有する、つまり「~イズムのグループ」を形成するということもあり得ないわけです。


≪芸術の20世紀≫において、そのような「流行り廃り」や、「~イズムのグループ」が、常に「時代の中心」にあり、≪芸術の20世紀≫と言う「時代」を動かしていたことは間違いのない事実であります。

だとすれば、≪芸術の20世紀≫においては、「普遍性」や「本当のオリジナリティ」を追究する「芸術」は排除され続けたということです。

しかし、「宣言文」の中でも述べておりますが、私が≪芸術の20世紀≫を受け入れられるかどうか、また、私と同じようにそれを受け入れられずにいる人が、どれほどいるのか?と言うようなことは、ここでは問題にしません。


問題は、≪芸術の20世紀≫からの「継続」としての「現在と未来の芸術」なのです。

少なくとも、「普遍性」のないものは「未来」に繋がりません。
このことから、≪芸術の20世紀≫は、「芸術の歴史」の中で、初めて現れた「空転の時代」なのだと思っております。


「芸術」に限らないことですが、人間の生み出すものは、何らかの形で「過去からの継承」によって成り立っていると思うのです。

ところが、≪芸術の20世紀≫と言う「継承」と言う要素を含まない「時代」が、一世紀もの間続いてしまったために、「芸術における継承」が断ち切られてしまったわけです。


「時代」や「歴史」というものは連続していて、はじめて「継承」することが出来ます。
そこに≪芸術の20世紀≫と言う「カラッポの時代」、その「ポッカリ空いた穴」がある限り、決して、「継承」は生まれません。

その「穴」を埋めて「時代」をつなぎ合わせてやらない限り、「新しい時代」はやって来ないでしょう。


そこで≪芸術の20世紀≫は、「芸術の歴史」の中で「喪失」していたと言っているわけなのです。


「喪失していた時代」が、つまり「初めから無いもの」が、そこにあるという前提になってしまっているために、「継承」が生まれないわけですね。

ですから、≪喪失の世紀≫を一旦消して、歴史の上でも「喪失」することで、「芸術の歴史」をつなぎ合わせようというわけです。


『そんな回りくどいことをしなくても』と言われるでしょうが、他の方法は、私には思いつきませんでした。


このようなことを、ここに書いたつもりです。






「世間の基準」と「自分の基準」



「世間の基準」と「自分の基準」が一致していることってあるんでしょうか?

実際には、これは”ほとんど無い”と思うんですよね。


例えば、「いま流行って”イル”もの」を、もともと自分が好きな人っているんでしょうか?

もし、そうだったら、その人は、もしも、それが流行って”イナクテモ”それが好きなはずなんですけど、「いま流行って”イル”もの」が好きな人は、「いま流行って”イナイ”もの」は好きじゃないんだと思うんですね。

逆に、「いま流行って”イナイ”もの」が好きになるような人は、「いま流行って”イル”もの」を好きにならなかったりするんじゃないかと思うわけですね。
要するにややヒネクレテいるんでしょうね。


まぁ、その「ヒネクレ」の部分は抜きにしても、やはり、「世間の基準」と「自分の基準」が一致することって、そうそうあることじゃないんだと思うんですね。

だから、私は「世間の基準」と「自分の基準」が一致していると思ったときには、自分が「世間の基準」に「自分の基準」を合わせているんだなと思うようにしているんですね。


そうして、「それでもいいや」と思うことについては、そのままにして、『いや、これについては自分の基準でやりたい』と思うことについては、出来るだけ「世間の基準」を排除するようにしています。


「自分の基準」でやってると思っていたことが、「世間の基準」でやらされていたことだと思うと、相当”ソン”した気に成るので、そんな風にしています。


でも、「それでもいいや」の方のことについては、ぜんぜん”ソン”した気にならないし、むしろ”トク”したぐらいに思うこともあるので、『坊主じゃないけどマルモウケだな』と。

そんな風に思います。





いま「額」な理由と、いま「和」ではない理由



いま、私は「絵」とともに「額」を制作しようとしているわけなんですね。
と言っても、まだ納得のいくものは出来ていません。


しかも、木工作業に慣れていないこともあって、時間がかかってしまい、去年は、「絵」を描く時間が極端に少なくなったので、「絵」のほうでは、習作が三点、本作と言えるものは二点しか描けませんでした。

さらに言うと、そんなに時間をかけたにもかかわらず、「額」のほうは、試作品が二点と、途中まで作りかけてそのままになっているものが一点あるだけで、仕上がったものは、まだありません。

「額」と「木枠」を作る前の段階で、そのための道具を作るのにかなりの時間を割いたことで、そんなことに成ってしまいました。
しかも、今は「額」についての構想が、だいぶ変わってきてしまったので、それらの「額」が本作にまで発展することはないでしょう。

つまり、何も出来ていないに等しい状態ですね。

『なんと言うテイタラク!』


ところで、なぜ、そんなにまでして、「額」を作るのか?ということなんですけど、いま、「絵」には「額」が必要だと思ったわけなんですね。


現代美術の「平面作品」では、「額装」していないものが多いわけですが、私は、それではダメなんじゃないか?と思ったわけです。
「額」はやっぱり必要なものだったんだと思うんですね。

平面を平面として区切るためにも、そのことをはっきりと示す意味でも、「額」という境界線が必要だと思うんですね。


そして、それは「絵の世界」を、時間や空間などのしがらみのない、つまり、「現実の世界」とは違う「芸術の世界」として、そこに閉じ込めるための、「結界」としての作用も持っていると考えているわけです。

とは言っても、私自身も、もともとは「額装」に対して否定的な考え方を持っていました。
私の場合、「額」は「権威の象徴」だと思ったんですね。

でも、「無額」にも、いつもどこかモヤモヤした違和感を感じていたので、『額なんて無くていいんだ!』とも思えないでいました。

そこである時、思い至ったのが「茶室」だったんですねぇ。


そのことは、前に記事に書いたので、詳しくは、そちら(2014年3月31日の記事)をご覧いただきたいんですが、私は、「茶室」というのは、世界に類を見ないほど「手の込んだ額」だと思うのです。


そこに思いが至って以来、私は「茶室」のような「小宇宙」を、「額」と「絵」によって創り出したいと思うようになったわけなのです。


そして、そう考えるようになってからは、「額」抜きに「絵」を考えることはできなくなってしまったというわけです。


『だったら、茶室に飾るような絵を描けばいいじゃないか』と言われるかもしれませんけど、私は、油絵具が好きなんですね。

どのぐらい好きかというと、たぶん、油絵具がなければ絵は描きません。
そのくらいです。


でも、それよりも、もっと大きなな理由があります。

「茶の湯」のような純粋な日本文化というのは、もう完全に寸断されてしまって、「現在に生きた文化」ではなくなってしまっていると思うのです。

つまり、現在の日本人にとって、「茶室」や「茶道」は、むしろ、異文化であって、外国人にとってのそれらと何ら変わらない存在になってしまっているわけです。
それはもう、「生活に根差した文化」とは言えないと思うのです。
(まぁ、もともと「非日常的な文化」ではあるんでしょうけどね)


それについては異論もあると思いますが、少なくとも、私自身にとって、「茶室」は、生まれた時からすでに異文化であって、それは、私にとっては、ハナから取り返しのつかないことなのです。

ですから、私がそんな「茶室」に飾るべくして「絵」を描くということは、その「絵」が、私にとっての「真実」ではなくなってしまうということなのです。


と、まぁ、こんな感じで「額」を作っているわけです。


それから、キャンバスの木枠も作っているので、とても時間が足りません。

木枠の方は、ずいぶん時間が短縮できるようになったので(こちらは正確でありさえすればいいので)、今年は、「額」の制作を棚上げにして、「絵」をまとめて描いています。


ということで、私の「小宇宙」は、いったいいつになったらできるのでしょうか?


やり続ければ、きっと、いつかできるのかなと。

一応、そういうことになっております。



2. 21世紀以降の未来へ向けて、新たな芸術を創造することが可能な時代環境を改めて設定し直す必要がある:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


この項目から次の項目にかけては、「20世紀の芸術」において起きたあらゆることは、すべてが「混迷」そのものであり、その「混迷の渦」が、「現在の芸術」をも巻き込み続けているということ。

そして、その結果、現在の「芸術」という分野は、居場所も、その意味も失いつつあり、極めて「あやふや」な状態になってしまっているということが書いてあります。


そして、そのような状況を抜け出すには、時代を仕切りなおして、新たに設定された、ステージを用意する必要があるのではないか?ということを提言しています。


ここで、私が言いたかったのは、『本当に、このままでいいと思っている人がいるんですか?』ということです。
さらにいえば、『漫然とこの時代に突っ立っていて、芸術と言えるものが生み出せると思いますか?』と言うことでもあります。


私は、このブログの中で、いまの「芸術の世界」を(一般社会にも当てはまりますが)、童話『裸の王様』に例えているんですけど、いま、「芸術の世界」で起きていることは、まさに『裸の王様』の物語の中で起きていることそのものです。


それは、決して、今に始まったことではなくて、20世紀以降の「芸術の世界」において起きてきた様々な出来事は、すべて、そういった「虚構」を中心にして展開されてきたと言ってもいいと思っています。


ただし、ここでお断りしておかなければならないことは、これらのことは、「20世紀の芸術」を批判する目的で言っていることではないということです。

結果的には「20世紀の芸術」を否定しているように見えてしまうでしょうし、それが目的のようにも見えてしまうでしょうが、私は、「20世紀の芸術」が「虚構」の上に成り立っていたものであるという前提であっても、それは、必要な「過程」であったと思っていますし、その「過程」が無ければ、「次の展開」もないのだと思っています。


私は、「虚構」もひとつの「芸術の断面」ではあると思っています。
ただ、それは「断片」であり、それだけでは成就した「芸術」とは言えないというだけのことです。

ですから、「20世紀の芸術」を否定するつもりはありませんし、それを結果的に批判することがあったとしても、それは目的ではありません。


ただ単に、『王様は裸だ!』と言っているだけなのです。
王様に対して、『服を着ろ!』と言うつもりはありません。
でも、実際は裸なのに、服を着ているという話を続けていくことに意味があるとは思えないと言っているわけです。


さて、そこで、「20世紀の芸術」で最大の特徴は、「理論先行型」だということでしょう。

例えば、誰かが『こんなもの芸術じゃないだろう!』というようなものを、『いや、これこそ芸術なのだ!』と言って提示します。
これが『裸の王様』の「見えない服」に当たります。

すると、それは「芸術」じゃなければ「芸術」じゃないほど注目を集めます。
なぜなら、”バカバカしい”からです。

要するに”オモシロイ”わけですね。
この時点では、まだ「芸術」ではありません。

そして、そこに「理論」が登場します。
誰にもわからないような「難解な理論」や、「非論理的な理屈」で、その「芸術」が説明されます。

これは『裸の王様』の中で「この服は愚か者には見えないのです。」
と説明されるのにあたります。

誰にもわかりませんから、批判できません。
皆めんどくさくも成ってきます。

すると、誰かが『面白いなら芸術でいいんじゃない?』と言い出します。
その時点で、それが「芸術」に成ります。


『裸の王様』では、『これは賢い者にだけ見える服なのだよ』と言われて、誰かが『王様は素晴らしい服をお召しになっていらっしゃるぞ!』と言ってしまいます。

すると、みんな自分だけが「愚か者」だと思われたくない一心で、口々に『王様の服は素晴らしい!!』と言いだします。


「見えない服」が、見えるように成り、それどころか「スバラシイ服」になってしまいます。


そうして、≪芸術の20世紀≫には、どんなものでも「芸術」だと言えば、そして、その「理論」が運よく通れば、芸術」となってしまうように成ってしまったわけです。


現在、「芸術の世界」では、「髪の毛一本」であろうが、「石ころ一つ」であろうが、そこに「それらしい理論」をくっつけて提示すれば「芸術」として受け入れられます。

問題は、その「理論」が運よく通るかどうかだけなのです。


それらは、確かに「芸術の断片」=「芸術のカケラ」を持っているのかも知れません。

『裸の王様』の「見えない服」も「服という概念の断片」ではあるのかも知れません。

ただ、残念なことに、それは「芸術」とは言えないし、「服」ともいえないのです。


「服の概念の断片」では、着ていても暖かくありませんから、風邪をひいてしまうでしょうし、「芸術の断片」では「オモシロイ」だけで、心を動かされることまではありませんから、「感動」することはないでしょう。


このような私の話を読んだ人の多くは、『なんて、頭の固いやつなんだ!』と思うでしょう。
また、『あぁー、自分が理解できないから否定しようとしているんだ』と思うかもしれません。


断言しますが、私は、自己のアイデンティティが崩壊するようなものであっても、それが理解できないからと言う理由で、それを否定するつもりはありません。
(そういうことなら、こんなことはしていないでしょうしね)

でも、逆に考えてみると、まず、一旦「20世紀の芸術」を完全に頭から締め出したとして、そこから、何の予備知識もなく、改めて「20世紀の芸術」に出会ったとして、例えば、誰一人それを『芸術だ!』とも『スバラシイ!』とも言っていない状況で、もしかしたら、それを『芸術だ!』と言えば、あなたが人から『頭がおかしいんじゃないか?』と思われるかも知れない時に、果たして、あなたは それを『芸術だ!』と言える自信がありますか?と聞きたいのです。


たぶん、それなりの数の人が、『言えますよ』と答えるでしょう。

でも、減らないですか?
『芸術だ!』と断言できるものがですね。

その「減った分の芸術」が、いま私の言っているものです。


つまり、それらは「芸術のカケラ」であったものが『芸術だ!』とされていたというわけです。

もし、そのような状況でも、『自分にとっての芸術は、いっさい減りもしないし増えもしない』と言う人が居れば、その人にとっては、今のままでいいんでしょうね。


しかし、私は、『そういう人は非常に少ないんじゃないだろうか?』

『いや、本当はそんな人なんてほとんど居ないのかもしれない』

『だって、何も着ていないのにその服が見える人って、そんなに居ないでしょ』
と思っているということです。


やっぱり、『服と言う概念を着ている』ではなくて、『服を着ている』の方がいいんじゃないかと思います。

もしも、どうしても『服と言う概念を着ている』の方がいいんだ、と言う人が居るのであれば、それはそれでいいと思いますが、それを「中心」に据えるのはどうかと思うわけです。


そこで、やはり、一度「時代」を巻き戻すことで、リセットされた新たなステージを設けることが必要になってくるんじゃないかと思うのです。


ここでは、このようなことを言いたかったわけです。


3.現状に至って、時代を喪失させることが最良の策と判断した:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


この項目では、前の項目からのつづきで、≪芸術の20世紀≫に起きたことは「混迷」であって、それ以外の何ものでもないのではないか?ということ、そして、そこから抜け出すためには、その「混迷」を懇切丁寧に一つ一つ「ツブシテいく」と言うやり方では”ダメ”で、それらの「混迷「」を、一気に喪失してしまうしかないのではないか?と問い掛けています。


実際、「コンガラカッタ糸」を解くには、その部分を切ってしまうのが、どんな場合にも一番有効な手段ですし、そういう「コンガラカッタもの」を上手く解ければ、さぞスッキリすることでしょうけど、それは往々にして「自己満足」でしかないわけです。
ましてや、「もう糸を切ってしまうしかない」とわかっているのに、「延々とそれを解こうとし続けること」や、「解けないとわかると放り出してしまうこと」では、「次に繋げること」にはなりません。


≪芸術の20世紀≫と言う時代は、「延々とそれを解こうとし続けること」を、やり続けた世紀であったと思います。
しかし、解こうとする端から、また糸をモツレさせるようなことが起こりますから、とても追いつきません。


絡まった糸をほどくときのことを考えればわかることですが、糸が絡まってしまうのは、一瞬ですけど、それを解くのには、その何十倍も、時には何百倍もの時間がかかります。
つまり、やればやるほどコンガラカッテ行くということです。


そして、21世紀に入って(実際はもっと前からなんでしょうが)、とうとう、誰も「延々とそれを解こうとし続けること」をしなくなりました。
そして、今度は「解けないとわかると放り出してしまうこと」に移行したわけです。


≪芸術の20世紀≫が「継承」することのできないものであると言うことには、気が付いている人が多いのだと思います。
(それこそが「20世紀の芸術」が本質的に目指したものでもあると思いますので)

まぁ、一言で言えば、「行き詰っている」ということですけど、その「行き詰まり」を感じている人は沢山居ると思いますし、それは何十年も前から言われ続けてもいます。

また、それについては、「20世紀の芸術」を愛する人たちですら、その「行き詰まり」を認めている場合もあると思っています。


それなのに、どうしてその「行き詰まり」を抜け出せないのか?
それは、つまり、≪芸術の20世紀≫という、「継承出来得ない時代」が、そこに存在し続けているからに他ならないのです。

そのことによって「歴史」は寸断され、「継承するべきもの」が見えなくなっています。
つまり、抜け出そうにも、そのための「踏ん張ることが出来る足場」がないのです。

それで、抜け出そうとしても押し流されてしまうわけです。


そして、そういう状況の下では、抜け出そうという努力自体が「無駄」であるということが、ハッキリしてきた現在に至って、「解けないとわかると放り出してしまうこと」に移行してきたということです。


『「継承すること」を軽視すること』とは、『「拠って立つ足場」を失うこと』です。
『「継承」などしなくても、一人の人間が「独自の芸術」を創造すればいい』と言うのは、おごり高ぶった考えだと思います。


実際には、人間は何かを受け継がなければ、ほとんど何もできないと言ってもいいほどであって、孤立した一人の人間と言うのは、「独自の芸術」などと言うものからは、まだまだ程遠い存在であるというのが事実ではないでしょうか?


もしも、人間に「芸術の創造」と言う機会が与えられることがあるとすれば、それは、『「継承」と言う「拠って立つ足場」』に足を置いてのことに限られるのではないかと思います。


ただし、これは「伝統を踏襲すること」とは違います。

このブログを部分的に読んで、「伝統への回帰」や「ノスタルジックな感傷」と思う方がいらっしゃるかも知れませんが、むしろ、それとは対極にあるものだと考えて頂いてもいいのではないかと思います。


「踏襲すること」においては、「”そっくりそのまま”受け継ぐこと」にこそ意義があります。
「文化遺産」などは”そっくりそのまま”保存されたり、受け継がれたりすることが必要とされているわけです。

貴重な「文化遺産」を『こうした方がもっとよくなるから』と言って、勝手に手を加えることは許されないのでしょう。


対して、「継承すること」とは、”そっくりそのまま”受け継ぐことではなく、そこから「本質的なナニカ」を受け継ぐことです。
むしろ、受け継ぐ側が、それを自分のものにして、変化させることによって、本当の意味で受け継がれたともいえるのでしょう。


もし、その「継承」を、まったくせずに、あなたが、「洞くつの壁画」辺りから独自にやり直そう!と言うのであれば、「その孤高の戦い」に、私は拍手を送りますが、それを「芸術である」とは思えません。

なぜなら、現在に生きるあなたがそれをすることは、「あなたにとっての真実」ではないと思うからです。


以上のことをもって、私は≪芸術の20世期≫と言う時代を、一時的に頭の中から、喪失することが最良の策であると判断いたしました。


このようなことが、ここで言いたかったことなのです。





4.100年回帰の根拠:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


この項目では、主に≪芸術の20世紀≫を喪失するにあたって、時代を「100年回帰」することの理由を述べています。


前の項目からの続きに成りますが、≪芸術の20世紀≫に生み出された「コンガラカッタ糸」=「混迷の渦」は、すでに、それを解こうとする者を飲み込んで押し流してしまうだけの力をつけてしまっていて、そこに真っ向から立ち向かって行くことは、自然の脅威に対して歯向かうことのように無謀なことであるということ。

そして、「混迷」に惑わされずに「マトモな考え」で「判断」を下すためには、まだ、「混迷」に晒される以前の「時代的な規範」を取り戻す必要があるだろうということをこの項目で訴え掛けております。


そして、それに必要な「喪失」の期間として、「100年間の回帰」を提案しているわけです。


ただし、ここでは、「回帰の必要性」を訴えることを重視したために、あたかも、『「100年前の規範」がとても理想的なものであるから、そこに「回帰」すべきである』と言っているような文面になってしまっているかも知れませんが、実際は、「100年前の規範」が、理想的なものであったとは言っていません。


むしろ、伝統の中で「固着」してしまったようなものであったかもしれませんし、何より、それらが論理的に確かめられる機会などは、ほとんどなかったと思われますから(疑われること自体が無かったでしょうから、確かめられる必要もなかったと思われます)、「100年前の規範」もある意味ではかなり曖昧なものであったとも考えられます。


「宣言文」の中でも述べておりますが、そもそも、根本的な意味で『「芸術」とは何なのか?』と言う問いが発せられること自体が、あまり無かったのではないかと思います。

ですから、「100年前の規範」を、しっかりとした「根拠のある規範」とは言えないと思っています。


では、なぜそこに「回帰するのか?」ということですね。

やや、投げやりな言い方になってしまいますが、それは『それしか方法がないから』ということに成ります。
でも、それでいいんじゃないだろうかとも思っています。


『それしかない』と思うのは、つまり、現在までの「芸術の歴史」の中で、「芸術」がしっかりとした「定義」を持ったことは、まだ一度も無いと思っているからです。

「疑われることすらなかった時代」から、いきなり「ナンデモアリの時代」に一足飛びに急変してしまったために、「定義」が確立される暇がなかったということでしょう。

 ※「宣言文」の中では、この「疑われることすらなかった時代」と言う意味で、「確固たる規範があった時代」と言う言葉を使っています。
 これは誤解を生みやすい言葉だったかもしれません。


『そんな時代に「回帰」することに意味があるのか?』

『ある!』と私は思っています。


なぜなら、もともと「定義」と言うものは、必要に迫られて作られていくものだからです。
ですから、必要がなかった時代に、それが曖昧であったのは当然のことだと思うのです。
問題なのは、必要が出てきたときにも、それが作られなかったということの方なのです。


≪芸術の20世紀≫において、どう考えても、しっかりした「定義」や「規範」の必要性が生じていたにもかかわらず、個々の人間が「それぞれの芸術」を自己の中に勝手に設定するばかりで、それらをまとめ上げて、「時代の規範」となるような「定義」を導き出すことが出来なかったこと、つまりは、「共感」や「共有」するということに欠けていたことによって、「芸術」と言う分野をどう捉えたらいいのか?ということがだれにも言えなくなってしまったということです。

 ※『いいじゃないか、何が問題なんだ?』と言う人が居るかもしれませんけど、
  『それでは、あなたが、いま言っている「そのままででいい」とは、何につい
  て行っているのですか?』とお聞きしたいのです。
  
  個々の人間が「芸術」を、いくら自由に捉えても構わないと思います。
  しかし、それは『「芸術」とは何なのか?』ということが、何も設定されていない
  ということとは全く違うことなのだと思います。
  もしも、そういう「自由」を望む人が居るのであれば、その人は、何についても
  他人とは話すことが出来なくなるということです。
  「言葉」と言うものは、その「言葉」が指し示す「意味」を持って成り立っている
  わけですから、その「意味」を「規定」することを拒否するということは、「言葉」
  を否定することであり、それを放棄することであります。

  つまり、「言葉の意味」を、他の人と共有することを拒むということです。
  そのうえで、身勝手に「自分の言葉」で話すというのであれば、その人は、誰とも
  一切話をすることが出来ないということになります。

  もし、誰とも口を利かないというのなら、それはそれで仕方ないことでしょう。


さて、話を戻すと、≪芸術の20世紀≫において、その「必要な規範」が失われたために「定義」を設定する必要が生じていたにもかかわらず、それがなされなかった。
しかも、その状態で「約100年間」が過ぎてしまった。

そして、その間に「混迷の渦」が近寄るものを飲み込んでしまうような強大な力を持つようになってしまった。


そこで、一旦「定義など必要なかった時代」まで「回帰』して、普通に物事が「定義」される時と同じように、『さて、必要になったから「芸術に対する定義」について、根本からじっくり考えていきましょう』と言う過程を踏んでいこうということなのです。


この手法をとることを『かえってめんどくさい』と感じるかもしれませんが、「コンガラカッタ糸」を解くときを思い出してみてください。

『はさみを取りに行くのが、めんどくさい』
『切ってしまった糸をつなぐのが、かえってめんどくさい』
『もうちょっとやったら解けるんじゃないか?』

でも、実際に一番早いのは「糸を切ってからつなぐこと」です。


≪芸術の20世紀≫に現れては消えていったあらゆる「~イズム」や、それらを生み出した「天才たち」は、すでにその地位や評価を確立しています。

その強大な壁を一つ一つ乗り越えて、すべて乗り越えるには、何世紀かかるでしょう?


彼らはどこかが間違っていたのです。
いや、その時「間違えること」が必要だったのかも知れません。
彼らは、偉大であったからこそ、その「必要な間違い」を犯したのかも知れません。

今は、それだけで十分なんじゃないでしょうか?

後に成って、もう少し客観的な視点が持てるようになったなら、それについて、考え直せばいいんじゃないでしょうか。


さて、それでは何故「100年間」なのか?ということですが、「宣言文」の中では、長々と述べておりますが、これは、厳密な理由があってのことではありません。

先ほども述べた通り、「100年前の規範」とて、さほど当てにはなりません。
ですから、極端に言えばいつでもいいのです。

「確固たる規範」(この言葉が誤解を招き易かったかもしれませんね)があった時代、つまり、「疑われることすらなかった時代」でありさえすればいいだろうということですね。


ただ単に、イメージし易いことが重要だと思いましたので、区切りのいい「100年間」としました。

少なくとも、「芸術の歴史」の中に生み出されたと思われる「混迷」は、この「100年間」でだいたいカバーされるかと思います。


以上のようなことを持ちまして、「100年回帰」の根拠としております。





「学齢」を見直すこと



最近よく、「学齢」について、『どういう理由で、今の年齢で学校教育が設定されたんだろう?』と思うことがあるわけです。


義務教育の「6プラス3」に加えて、かなり多くの人が、その前の幼児教育から始まって、高校・大学と言う教育課程を受けるようになっていますから、それらを全部足すと18年~20年以上(浪人等する人もいますから)に成っているわけですけど、これは人生の中で、ちょっと長すぎやしないかと思うわけですね。

しかも、それから、さらに大学院や専門学校に行く人なんかも居たりして、どんどん就学年数が長くなっていく傾向もありますから、
人生の⅓~¼くらいの期間を、勉強に費やしているということですね。

その割に、あまり役に立つことは学ばれていないような気がするのは、私だけなんでしょうか?


『人生は、生涯勉強だ!』と言うのもわからなくもないんですけど、そういう話と、「なんとなく学校に行く期間」の話は、また別なんじゃないかとも思います。


それから、最近、いわゆる「不登校」の子が増えているということをよく聞きますけど、それには、「長すぎる学齢」と言うのも関係があるんじゃないかと思ったりもするわけです。

だいたいにおいて、不必要なものを存続させていると、その期間が長ければ長いほど、理不尽なことが起きてくるものです。

本当に必要な勉強だけを教えるための、最低限の年数の学校であったなら、「イジメ」が発生するようなことも少なくなって、「不登校」の子も少しは減るんじゃないかなと思えなくもないわけです。


それは、やや「出来過ぎな話」かも知れませんが、現在の「6・3・3制」のような、すべての人に対して均等な「学校制度」と言うものの歴史自体が意外と浅いわけで、もともと、昔の時代の「学校」や「学問」は庶民の為のものとは言えないものであったのでしょうね。

「読み書き」が底辺まで普及したのだって、せいぜい100年ぐらい前からなんじゃないでしょうか?
(全世界的には、もっと最近のことでしょう)


それ以前までは、比較的「学校」の歴史が長い(たぶん?)ヨーロッパでも、「学校」は、ごく一部の上級社会出身者のためのものであって、さらに、その中でも学究精神に長けたものだけが、「大学」などで学んでいたわけで、一般庶民が「学校教育」を受けるということ自体が稀であったんだろうと思います。

そうした、「限られた人のための教育」から、「全ての人のための教育」に、いつの間にかスライドしてしまったわけですが、その過程で、「教育機構」が「一般人向け」にシフト・チェンジされて来なかったんじゃないかと思うわけです。


”ナントナク”小学校は6年、

”ナントナク”中学は3年、

”ナントナク”義務教育はそこまで、

”ナントナク”高校ぐらいは出とこうよ、

”ナントナク”大学まで行きたいな。

っていう感じじゃないでしょうか?


で、そのように「教育機関」や「学校施設」、「教育者」をすべて揃えてしまったので、引っ込みがつかなくなっているような気もします。


でも、先ほどの「不登校」の話に限らず、このことは、現代社会にとって、とてつもなく大きな負担になっているように思います。


最もネガティブな言い方をするならば、現在「学校」は、ほとんどの人にとって、「本人には興味もやる気もなくて、尚且つ、大して役にも立たないことを20年かけて教える機関」に成ってしまっているということです。

そして、この「学齢20年分」の負担が社会全体を圧迫しているという面もあると思うのです。


いや、もちろん「勉強」に「興味」や「やる気」がある人もいるとは思いますけど、その「やる気」って、「就職に有利に成るから」とか、
「キャンパス・ライフを謳歌したいから」みたいな「勉強」とは関係ないことによる場合も多いんじゃないでしょうか?


純粋に「勉強したいから学校に行っています」っていう人がどれくらいいるのか?って言うことですよね。
そんなに多くは無いような気がするんですね。

要するに、「学校」が「教育機関」として成り立っていないようなところがあると思うわけです。


老人福祉費や、医療費などについてはよく論じられますけど、学校にかかっている公費について、「学齢」を見直すという形で論じられているのを聞いたことは無いような気がします。


こういうことを言うと、「学校」で得られる「友人」や「体験」などを理由に、『だから学校は大切』ということを言う人が居ますが、それらの「友人」や「体験」は「学校」が無かった時代にも、十分に貴重なものとして存在していたわけでしょうし、それらは、「学校」以外の体験からも生み出すことは出来るはずです。

まして、その「友人」や「体験」の中に、「イジメ」などの「子供にとって最悪の体験」が含まれてしまっている現状を考えれば(これはイジメている側にも同じことが言えるでしょう)、それらを、そこまで「大切なもの」と考える必要もないのかなと思います。


むしろ、今のような「長すぎる学齢」を見直すことで、社会全体が囚われている「縛り」から解放されるような所もあるんじゃないかと思うわけです。


「学齢」を大幅に短くすることで、「無意味な競争」から子供を解放して、「子供のストレス」を取り除いてやれば、そこから育った子供たちは、「脱・競争社会」を果たせるかもしれません。

そうすれば、社会全体としても「脱・ストレス社会」を実現できるかもしれません。

むしろ、そういう「解放された社会」で得られる「友人」や「体験」こそが、その人にとっての「大切なもの」に成って行くんじゃないかとも思います。


そもそも、「学校」での「体験」が貴重であったのは、「学校」こそが、そういう「解放された場」であったからで、いまの「学校」に、その「解放された場」は無いような気がしてしまいます。


そうそう上手くはいかないでしょが、少なくとも、現在の「学齢」には、それほどまでの必然性がないということぐらいは言えるのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「有利を選ばない」と言う「進化」



「生命の進化」と言うのは、基本的に「有利を選ぶこと」なんだと思うわけです。
でも、時には「有利を選ばない進化」と言うものもあるんじゃないかと思うのです。


例えば、わざわざ外敵に見つかりやすい派手な色をした鳥や動物はけっこういますし、『どう見ても、不便でしょ』と言うような「ツノ」を持っている動物なんかもいるわけです。


それもまた、「何らかの意味での有利」なのかも知れませんが、少なくとも「単なる有利」ではないように思います。


彼らにとっての、ナニがその「進化」に影響したのかはわかりませんけど、単純に考えられるような「有利を選ぶこと」とは違うような気がします。


そして、何が言いたいのかと言うと、この「有利を選ばない進化」が一番多いのが人間なんじゃないかということなわけですね。


人間の場合、見た目にわかりやすい「色」や「形」ではなく、「行動」や「思考」に、その「有利を選ばない進化」が出ていることが多いようです。


例えば、人間は「弱者」を見ると「助けたい」と思ったりしますけど、これは、自然界では「一種の命取り」ですよね。

実際、野生動物の世界では、同種属の中でも「弱者」は大抵の場合切り捨てられてしまうのでしょう。


でも、人間は、「道徳心」とか「正義感」と言うよりは、むしろ「本能的」に、「弱者」に対して『助けたい!』と言う気持ちを抱くのだと思います。
どちらかと言うと、そういう「本能的な反応」を、言葉に置き換えて説明したのが「道徳」や「正義」なんじゃないかと思うわけです。


”ドライ”な考え方の人は『「弱者を助けても誰のためにもならないんだ』と言うかもしれませんが、自分のすぐ横で、「弱者」達が累々と屍となって行っても、まだ、平然としていられる人と言うのは、そんなに居ないんじゃないかと思います。


結果的に、『助けたい!』と思った人の方が自然で、『助けても意味はない』と言う人の方が、むしろ無理をしているように見えてしまうことが多くなってしまうわけですね。

だとすれば、人間にとって『弱者を助けたい』ということの方が「本能」に近いということでしょう。
つまり、そこでは、人間が「有利を選ばない進化」をしてきたということなんだと思うわけです。


それから、この「有利を選ばない進化」と言うのが、これからの人間の方向性を指し示しているんじゃないかとも思うわけです。


もっと正確に言うと、「有利を選ぶ進化」と「有利を選ばない進化」のバランスですね。


過去にも、繁栄しすぎた「種」が滅びたということはあったのでしょうし、もう、そんなに繁栄しなくてもいいんじゃないかと言う気もしますから、「有利」と「不利」のバランスをとって行った方がいいんじゃないかと思うわけです。


また、人間にとっての「進化」が、そういう過程に差し掛かっているということなのかも知れませんね。


先ほどは、話の流れ上「弱者を助けること」=「有利を選ばない」のように言ってしまいましたが、実は、その二つはイコールではなくて、「進化」の過程が高じて来ると、物事が一元的に捉えられなくなってきますから、「有利」が「不利」になったり、「不利」が「有利」に成ったりすることが多く成って来るんだと思います。

つまり、「弱者を助けること」が「有利」に作用する場合も出て来るということですね。

だから、いまの時点で「不利」であっても「進化の先」に達した時点で「有利」になっているかもしれないし、その逆もあるわけですね。

その結果、「有利を選ぶ進化」と「有利を選ばない進化」のバランスをとることが、「大きなリスク」を減らすのに有効になってくるんだと思うわけです。


それから、もう一つ言うと、過去には「進化」に対して、「個体の意識」が直接影響するようなことはなかったのでしょうが、こういうことで、「進化」に対して「個体の意識」が影響するということも出て来るのかも知れませんね。

つまり、人間は、今、自分が考えていることが数万年後の人類の進化に影響しているという意識を持っているということですね。

と、まぁ、そんな風に思ったりもするわけです。




 ⑶具体的な≪喪失≫について 1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと/ 「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


ここでは、≪芸術の20世紀喪失≫に当たって、具体的に何をするのか?ということを書いています。


まず、はじめに、≪芸術の20世紀喪失≫の前の心の準備として、≪芸術の20世紀≫から学んだことを再確認しています。


一つは、「挑戦する姿勢」であり、これは、今後も必要なものとして継続することに成るだろうと思っています。


もう一つは、「天才神話」で、こちらについては、今後、これが弊害となることはあっても、いかなる「利」をもたらすこともないので、いっさい惑わされてはいけないと思っています。



そもそも、≪芸術の20世紀≫は「挑戦の時代」であったのだと思います。
それは、あらゆることに「挑戦」し、あらゆることを「破壊」した時代だったと言っていいのではないでしょうか?

そして、それ自体は、「貴重なチャレンジ」であったのでしょうし、また、その時代、一度そこに行くしかなかったのだとも言えるのでしょう。


しかし、現在の客観的な視点をもって見た場合、それらの「挑戦」の徹底ぶりは、大いに評価できるものだとしても、その「破壊」の後の、「再構築」については、それが極めて不完全なものであったと言わざるを得ないのです。

そもそもの目的が「挑戦すること」であったために、「再構築」されたものも、すべて「破壊の対象」にされてしまいますから、落ち着いて、「再構築」することが出来なかったんじゃないでしょうか?


「古典」からの転換期にあって、全てを一度クリアして、リセットする必要があったことは間違いがないことだったように思いますが、それは、その当時の「行き詰まり」を打開するための方法論であったはずです。

しかしながら、「挑戦」や「破壊」を目的としてしまったことで、その「挑戦」や「破壊」に呪縛されてしまって、本来、打開するべきであったはずの「行き詰まり」に逆戻りしてしまったということです。


従って、≪芸術の20世紀喪失≫に当たっては、この「挑戦する姿勢」を維持しながら、そこに呪縛されないように注意する必要があると思っています。


「時代を喪失する」と言う「チャレンジ」を実行しながらも、そこに新たな「時代」を構築していかなければ、「喪失」した意味がありません。
そして、その二つを両立させようとすることこそが、現在における「挑戦する姿勢」なのだと思っています。



また、≪芸術の20世紀≫は「天才の時代」でもあったと言えるでしょう。


たくさんの「天才」と呼ばれた人たちが現れて、彼らは、それぞれに一つ(または、それ以上)の「~イズム」を生み出していきました。

ここで、もともと「天才」とは「神に近い者」と言うような意味があると思うのです。
要するに、「人間以上の完全性を持った者」と言うような意味があるんじゃないかと思うのですがどうでしょう?

もし、「天才」が「神に近い者」だとすれば、それは、何らかの「一つの頂点」に向かっていることを前提にして成り立つ話になります。
それでなければ、人間の中での「完全性」と言う言葉の意味は成立しません。

おそらく「神に近い」と言う言葉の意味も、また、成立しなくなってしまうでしょう。


本当に「神」であれば別なんでしょうが、「神のような者」ではあっても、やっぱり人間ですから、何らかの形で「一つの頂点」に向かうことでしか、「完全性」を感じることは出来ないハズです。


しかしながら、その「一つの頂点」とは、それこそが≪芸術の20世紀≫において、打開されようとしていた「凝り固まった一元的な方向性」でもあったわけですから、それを「破壊する者」を、「天才」=「一つの頂点を極めた者」と呼ぶのは、明らかにチグハグなことに成るわけです。


まして、「破壊」すればするほど「天才」の名声は高まり、その「破壊」によって「天才」に祭り上げられたはずの「天才」達が、自分に冠せられた「天才と言う称号」=「神に代わる偶像」だけは「破壊」しなかったということは、まったく、不適切なことであったと言わざるを得ないのです。


実際には、「天才の時代」は、もうとっくに終わっていると思うわけです。
その現実を認めなければならない時期が来ているんじゃないでしょうか?

本来「天才」をはじめとする「偶像」は、一番初めに「破壊」されるべきものだったわけですから、すべてが「破壊」された時代にあって、それだけが、一世紀もの間、生き続けたことは全く信じ難いことですが、遅ればせながら、せめて、ここから「天才の時代」を終わらせて、「普通の人の時代」=「人間の時代」を築いていくべき時が来ているのでしょう。


もう、「天才神話」には意味がなくなっていくと思います。
なぜなら、もう「天才」なんてどこにも居ませんから。

だって、百年も前に「天才の時代」は終わっていたんですから。


ということが、ここに書いてあることです。





2.≪喪失≫の実践について(前置き):の説明

このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


この項目は少し長いので、いくつかに分けて説明していきます。


まず、はじめに、前置きとして(この「前置き」が長いんですが)、この「宣言」による≪芸術の20世紀喪失≫において、最も重視されるべきは「一人の意識」であって、「社会的な変革」などではないということを言っているつもりです。


これは、この「宣言」全体を通して言えることだと思うんですが、ちょっと見たところでは、「社会」を「啓蒙」しようというものに見えてしまうのかもしれません。
でも、それとはかなり違うものだと思ってやっています。

私といたしましては、見たことをそのまま書いているだけなんですね。


つまり、≪芸術の20世紀≫が間違っていたように見えるから、『それは、間違っていたように見えますね』と言っていますし、「その間違い」が、100年間エスカレートし続けて、もう、誰にも止めることができなくなっているように見えるから、『一度戻ってみてはどうでしょうか?』と提言しているつもりです。

「見たまま」です。


全く何のヘンテツもなく言っているつもりです。
それを、そのまま「宣言」したということです。

『そんな当たり前のことを、わざわざ宣言するな!』と言われてしまうのかもしれませんね。

『でも、誰も言ってくれなかったんで、言ってみました』ということです。
(言った人も居るんでしょうが、かき消されてしまっているようなので)


それから、もう一つの理由として、こういうことは「エライ人」が言うと、それこそ「啓蒙」になってしまうので、「エラクナイ人」が言うことが必要なんじゃないかと思ったんですね。

私は、「そーとーエラクナイ人」なので、言ってもいいんじゃないかと思ったということです。


「啓蒙」が悪いと言うことじゃないんですけど、そういうことから抜け出したかったわけなんで。
つまり、「エライ人」が言えば通ってしまう、というようなことから抜け出したかったということでしょうね。

『そういうことは、実力をつけて、それなりの地位についてから言わないと』みたいな話がありますけど、まったく逆で、これは、一定の地位にある人が言ったんじゃ意味がないことなのです。


ここでも、また「前置き」が長くなってしまいましたが、話しを戻すと、言いたかったのは、こういうことをひっくるめた意味で、「一人の意識」が重要だということなんです。

重要というよりも、それが全てといってもいいと思っています。


「宣言文」の中でも言っていますが、「一人の人間の意識」というのは、実は、トテツモナク大きなものであって、それは、数に換算されてしまうような小さな単位のものではなく、「意識」の単位は、一単位が「無限大」であると考えています。

一人でも「無限大」ですから、一億人でも百億人でも一人でも、おんなじなわけです。


『そんなのはヘリクツだろ!』と言われればそうなんでしょうね。
でも、「20世紀の芸術」も一種の「ヘリクツ」だと思いますから、「おあいこ」ですね。

問題は、その「ヘリクツ」に、「その先」があるかどうかだと思っています。


私は、「20世紀の芸術」を継承することは不可能だと思ったんですね。
(もともと「継承」を拒絶していますからね)

つまり、「その先」には何もないということです。

そして、その結果として「21世紀の芸術」は消えかけていると思うわけです。


もし仮に、「芸術」というものが消えていくのだとしても、それには、「終わり」が必要なんだと思っています。


私が感じている『≪芸術の20世紀≫は間違っていた』ということの方こそが間違っていて、『≪芸術の20世紀≫は正しかった』または、『そんなことはどっちでもいいことなんだよ』なのだとしたら、おそらく、「芸術」というものは「終わり」に近いところにいるのだと思います。

それもまた、私のカンチガイなのかもしれませんが、それを確かめる意味でも、一度戻ってみてもいいんじゃないかと思うのですがいかがでしょうか?


と、こんなことを書いたつもりなんですけど、どうもうまく説明できていませんね。

また、ここでも、どうにも説明ができていないので、読んだ方は解りにくいでしょうね。


とにかく、ここで私が言いたかったのは、「一人の意識」は、とても大きいということ、「その一人」が誰であっても、「その大きさ」が変わることはないということ、「その一人」として、『私はこの「宣言」をいたしました』ということ、「その一人」として、『あなたは、何をしますか?』ということだったわけなのです。





「人間の本能」と「社会の本能」



このブログでも何度か書いていることなんですが、「社会」や「組織」などの人間の集団には、ある種の「意思」が存在すると思うのです。

つまり、人が集まると一人一人の「意思」とは違う、全体の「意思」が生まれて来るということですね。

   ※2014年6月15日・2015年1月14~15日などの記事で書いています。


そう考えると、人間に「本能」があるように、「社会」にも「本能」が発生するんじゃないかと思えてくるんですね。


一人一人の「人間の本能」は、遺伝子などに組み込まれて受け継がれているということに成っているわけですけど、「社会の本能」は、情報や書物によって受け継がれているんだと思います。

まぁ、実際には、それらの情報に触れなければ、なにも伝達されないわけですから、それを先天的に受け継がれた「本能」と同じように考えるのは、厳密に言えば、「間違い」なんですけどね。


でも、「現代社会」においては、「その社会」に生まれた人は「その社会の情報」に触れずに育つことは、ほとんど不可能と言ってもいいくらいなわけです。

だから、それは選択の余地がないこととも言えるわけですし、それらの情報の多くは、ずいぶん前の世代から受け継がれているようなものなんでしょうから、「社会」を生き物のように考えた場合、それが先天的に受け継がれたものであるとも言えなくもないわけです。


いわゆる「お国柄」みたいなものによって、そこに住む人の「嗜好」がずいぶん違ったりすることがあると思いますけど(例えば、「異性」についての「嗜好」なんかですね)、、ある国では、太めの人がモテて、違う国では痩せていないとモテないなんていうパターンがありますよね。

そういうパターンには「その時代の流行」に近いものと、「時代を超えた伝統的」なものがあると思うのです。
その「時代を超えたもの」の方を「社会の本能」として捉えたら面白いんじゃないかと思うわけですね。

こういった「嗜好の違い」は、「食べ物」や「色」などいろんなところに出ていると思うんですが、ほとんど、「個人の嗜好」とは言えない場合も多くて、そういう場合は「社会の嗜好」なんだと思います。


つまり、「個人的な好み」を差し置いて、ある種の「逆らえない欲求」が生み出されているわけですね。
これは「本能的な欲求」にかなり近いものなんじゃないかと思うわけです。


そこで、これも前に書いたことなんですが、そういう「集団の意思」と言うものが、そこに属している「個人の意思」を完全に無視して暴走することがあると思うんですね。


よく、会社で会議なんかをやると、「みんなで話し合って決めたこと」のハズなのに、「誰も望んでいなかったこと」が結論になってしまうことがあると思うんですね。

しかも、そういう時の「結論」は大抵トンチンカンです。


そういうのは、「集団の意思」なんだと思いますね。
これは、必ずしも話し合いが不十分だったからとか、意思の疎通が取れていなかったからということではなくて、時には、話し合えば話し合うほど方向がズレてしまうということもあるんじゃないでしょうか?

つまり、話し合うたびに「集団の意思」が強化されていって、「個人の意思」が抵抗できなくなっていくということでしょう。


そうなると、「社会の本能」については、どうなのか?
要するに、「社会の本能」が「人間の本能」を圧迫していることもあるんじゃないか?ということですね。


なんだか、そういうこともありそうですね。


そもそも、「現代社会」においては、何が「本能」で、何が「本能」じゃないのかっていうことが、意外と見え難い状態になっているんじゃないかと思うんですね。


例えば「食欲」にしても、いま何が食べたいのか?っていうことが、今の時代は、とても解り難い状態なんだと思うわけです。

寿司屋さんに行って『なんでも好きなものを注文していいよ』と言われたら、「遠慮すること」を抜きに考えた場合、大抵の人が、まず、値段の高いものから頼むでしょう。


少しでも「トクしたい」という「欲」が働くわけですね。
「食欲」ほど「根源的な欲求」ではないにしても、この「トクしたい」と言う「欲」はかなり「本能的な欲求」と言えるでしょう。

「食欲」が「人間の本能」で、「トクしたい」が「社会的な本能」ということですね。

そこで、「人間の本能」が「社会の本能」に邪魔されて、何が本当に食べたいのかが解り難く成るわけです。


まぁ、そんなにアサマシイ人ばかりでもないでしょうが、そういう「人間の本能」なのかどうかがはっきりしないような「欲求」はほかにもたくさんあります。


今なら「ダイエット志向」がありますね。

何かにつけて、『太るものは食べたくない』という、一体どこから出てきたんだかわからない「欲求」が「人間の本能」である「食欲」を圧迫していることがよくあります。


それから「健康志向」もありますね。

『体に悪いものは食べたくない』
『体にいいものなら少しくらい不味くてもいい』

こういうのも「人間の本能」が圧迫されているような気がしますね。


こういう時には、「社会の意思」や「社会の本能」が関係しているんじゃないかと思うんですね。


それで何が言いたいかと言うと、『「社会の意思」や「社会の本能」に惑わされずに、「人間の意思」「人間の本能」に目覚めよう!!』ということなんですね。


これも前に書いたんですけど、人間と言うのは、「個人」では、おおむね「正しいこと」をする生き物なんだと思うんですが、「集団」や「組織」に成ると、おおむね「間違ったこと」をする生き物なんだと思うのです。
と言うよりも、そういう性質を持っているのは「社会という生き物」なのかも知れませんね。


その上、「個人」なら間違っても、被害の規模が小さいですけど、「集団」の間違いは取り返しのつかないことに成ることがあるので、やっぱり、「人間の本能」つまり「個人の意思」に従って行動した方がいいんじゃないのかなと。


そして「自分の人間としての本能」が何を求めているのかを、出来るだけ、見極めていった方がいいんじゃないかと思いますね。


まぁ、「集団」が「個人」にとっても有益な判断を下してくれれば、そんなこと考えなくてもいいんでしょうけどね。

「社会」のどこを見渡しても、いろんな意味で”期待ウス”な感じですね。


たぶん、一人一人は、みんなそれなりにイイ人なのにねぇ。

なんで群れると『えっ?!』っていうことが起きてしまうんですかねぇ。
(群れていない人でも、「社会」を意識しすぎるとそうなりますね)


と、そんな風に思うのです。




「脱マネー」「脱ホウリツ」:「金や法」を「有機的なもの」に還元すること



今の時代と言うのは、「経済」と「社会」が両方とも行き詰ってきていると思うのです。
そして、今後、この状況が長期的に上向きに転じることは無いのだと思います。


「経済」も「社会」も、過去においては、何らかの「格差」を抱えていたわけです。

そして、その「格差」の「下」から「上」への「一方向の利益の流れ」が、「上に居る国」の「景気」や、「社会的安定」を作っていたんだと思います。


つまり、「上に居る国」が「下に居る国」とのあいだの貿易上の「格差」や政治的・軍事的な「格差」を利用して、最終的な利益の落ち所が、自分の国に成るようにしていたということでしょうね。

しかし、徐々にではありますが、この「格差」が埋まりつつある現在、このような「下」から「上」への流れは作りにくくなっていて、景気が急に上向きになるのは、局地的な「バブル経済」においてのみであり、それもまた、その国の規模に見合った所で、必ずや終息するわけですから、長く続くことは無いわけです。


もともと、このような「一方向の利益の流れ」と言うのは、「弱いもの」から「強いもの」への一方的な「吸い上げ」でもあったわけで、それが、人類全体にとってどれほどのものだったのかと言えば、何のプラスでもマイナスでもなかったのだと思います。

「格差」が少なく成ったことはいいことのはずなのに、なんで、行き詰っているのか?ということですが、それは、たぶん、「格差」を前提とした「システム」を使い続けているからだと思うわけです。


要するに、「脱格差」のための「脱マネー」と「脱ホウリツ」を図る必要があるんだと思います。


ただ、ここで言う「脱マネー」とは、「脱通貨」とは少し違います。

「通貨」と言う言葉は、「代価」という意味が強いと思いますが、「マネー」は、「貨幣」や「紙幣」など、文字通りの「お金」ですね。
「マネー」も「代価」ですが、それはさらにある種の「絶対価」でもあるということで区別しています。


例えば、「不動産」や「証券」などは、ある程度「代価」としての価値を認められていると言えるでしょう。
その意味では「通貨」と同じ機能を持っているということもできると思います。
昔なら、「米(こめ)」だって「通貨」のような機能を持っていたんだと思います。

つまり、昔は「有機的な通貨」があったわけです。


そういった意味を含めて、「流通することが出来る価値」を、ここでは「通貨」と呼ぶことにいたします。


なんで、そんなマワリクドイ話になってしまうのかと言えば、「通貨」を「マネー」とは違う、「有機的」なものにしてほしいと言う考えからなんですね。

それから、ついでに言うと、「法」も、もう少し「有機的」にしてもらいたいと思っているわけです。
それを「脱ホウリツ」と、ここでは言っています。


現在の「お金」と「法律」が、あまりにも「無機質的過ぎる」ということだと思います。

   ※2014年5月21日及び2014年7月31日の記事で、
     これについて、もう少し具体的に書いています。


つまり、「マネー」=「お金」に関して言えば、「お金」が絶対的なものになってしまっていて、人間が「金の奴隷」と化しているわけです。


また、「法律」についても、「法の文面」や「判例」ばかりが重視されて、「法」に『天網恢恢疎にして漏らさず』の原理が成り立たなくなっているわけです。

その結果、「金がモノを言う世の中」に成り、表面上の「法」さえ守っていれば、「悪の精神」を持っている者でも、まかり通ってしまう世の中に成っているわけです。


この状況を打開するには、「金と法」の「無機質的な性質」を、「有機的」に還元する必要があると思うのです。


まず、「お金」は「無期限の価値」を与えられていることで、「絶対」となってしまっています。
「法」は偶然性を排除されていることで、「無機的」に成っています。


これまでは、「格差」を前提としてきたために、これらの「絶対価」や「無機質性」が、「上に居る者」にとって都合のいいものとして利用されてきたわけですが、もう「格差」を望む者は少なくなっていますし、それを望む者にとっても「格差」は有効な手段とは言えなくなってきているわけです。


まぁ、それで行き詰っているわけですが、この「絶対価」と「無機質性」が「有機的」なものになれば、おそらく、人間にとって、もう少し緩やかな世界が実現されるのではないかと思うのです。


もちろん、これは「濡れ手で粟」と言ったものではなく、あくまで、「そこそこ居心地の良い社会」ということでしょうが、もう、それで十分なんじゃないかと言う気もしますから、この辺が、今の時代の「落としどころ」なんじゃないかと思うわけです。


とにかく、「金と法」と言う、社会の状態を決定してしまう二つのものを、「格差」前提のスタイルから、「非格差」前提のスタイルへとシフト・チェンジすることで、社会全体が、だいぶユルイ感じになるんじゃないかと思っているわけです。


前に書いた記事でも言ったことなんですけど、残念ながら、私にはどうやるのかわからないんですが(たぶん、デジタルな感じ?)、「通貨」に、何らかの形で「ゆるやかな有効期限」が設定できたら、「通貨」は「有機的」な機能を持つことが出来るんじゃないかと思います。


早く使わないと「価値」が下がって行く「通貨」があれば、みんな早く使うでしょうし、いいものには惜しみなく「代価」を支払うでしょう。
逆に、質の悪いものには見向きもしなくなると思います。
そんなことをして、お金を残してもドンドン価値が下がっていってしまうわけですからね。

 ※この「期限付きの通貨」と言うのは、よくネット上で流通しているポイント
  のようなものとは根本的に違います。
  そういうことが出来るかどうかは、まったく抜きの話としてですが、「国が
  発行する通貨」と言うことです。
  さらに言えば、世界全体の「通貨」に対する概念の問題でもあります。
  いくら、「期限付きの通貨」があっても、他のところで「無期限の通貨」も流
  通していれば、どうしたって、そちらに食われてしまいますから、「通貨」と
  いうものは「期限があるものなんだ」ということが概念として確立されなけ
  れば、意味をなさないわけですね。

これは当然「労働」にも反映されていきますから、「質の高い仕事」が評価されるように成って行きますし、「質の低い仕事」は、少しぐらい効率が良くても評価されなくなるでしょう。


今の社会では、「そこそこの仕事」を「なんとなく要領よくこなした人」が「シゴトができる」と言われますが、意外なほど「質の高い仕事」は評価されていなかったりします。

その「質」が「非効率的」と判断されることが多くなるわけですね。
こういったことが、「社会」を停滞させて、「行き詰まり」を生んでいます。

要するに、「個人が持っている能力」が眠らされてしまうわけですね。


また、「法」に「偶然性」や「個別性」が導入出来たら、それもまた、「有機的」な性質を持つようになるでしょう。


「法律」としては「成文法」であったとしても、そのシステムのなかに「偶然性」や「個別性」を取り入れれば、「犯罪の抑止」にもつながるでしょうし、そこに「法の精神」は復活されるでしょう。


例えば、自分が犯罪者だとして、どの程度の犯罪を侵せば、どの程度の罪が下されるかが解っていれば、きっと、「チョロイモンだ」と思うでしょう。

でも、どんな罪が下されるか見当が付かなかったら、けっこう恐ろしいと思うでしょうね。
それに、自分が特に嫌なことで罪を償わされるとしたら、やっぱり、たまらないですよね。


それから、これと同じような感じで、刑法と民法の境界線もゆるい方がいいんじゃないかと思いますね。

今は、「刑事事件」にならないようなことだと、チョットくらい「悪いこと」でも平気でやる者が居ますからね。
「法律スレスレ」っていうやつですね。


それに、「警察の民事不介入」によって「犯罪」が「野放し化」していることも多いと思います。


そういうことで、「犯罪」や「悪事」が抑止できれば、今より少し平和になるかなと思います。
(これは「犯罪者」にとっても、結果的にはプラスだと思いますね)


「犯罪」や「悪事」が、あくまで未然に防がれなければ「法の機能」としては”ダメ”なんだと思うんですね。


現在の「法」は、「無機質化」しているために、根底にある「法の精神」が眠ってしまっているわけです。
それで、「個人の善意」も眠らされてしまっているんだと思います。
だから、「起きてしまった犯罪」にしか対応できないんだと思うのです。


そして、こういうことが、「人間の善意を呼び覚ましてくれたらなぁ」と期待したりもします。


以上のことから、「金と法」を「有機的なもの」に還元してくれる人がいたら、『その人はエライ!』と思います。

スイマセン、それだけです。





2.「喪失の実践」の具体例について ①教育の場において:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


ここからは、≪芸術の20世紀喪失宣言≫によって、具体的にはどのようなことをするのか?
ということが書いてあります。


ここで、一つお断りしておきますが、この項目に書いてあることは、「具体的な行動」についてですが、私が本当のところで言いたいことは、それぞれの人の「頭の中で行うこと」、つまり「意識の転換」が中心であって、外に表す「行動」については、それほど重視してはいません。


ですから、もちろん、『こうしろ、ああしろ』と指図するものではありませんし、そんなことに意味があるとも、まったく思っていません。


むしろ、私としては「実際の行動は、しなくてもいいんじゃないか?」と思っているくらいです。
「人の意識」が「転換」すれば、実際は、それを行動に移す必要すらないわけで、その「意識の転換」の方がはるかに大きいことだと思っているわけです。

この「意識の転換」を、より厳密に言えば「自分の本当の意識を受け入れること」です。


ですから、ここに書いてあることは、「宣言者」としての「私」の「こんな風に成れば気持ちいいですね」と言う「願望」と、結果として表れてくるものがあるとすれば、『こんなことなんじゃないでしょうか?』と言う「無期限の予測」と言ったようなものと言えばいいのかも知れません。

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それでは本題に移ります。


①は教育の場での話です。

想像するに、教育の場において≪芸術の20世紀≫は、かなり扱いにくいものになっているんじゃないか?と思うわけです。


もともと、「20世紀の芸術」は、学校教育がある程度尊守しなければならない「教育上の姿勢」を、根底から覆してしまうような要素を多く含んでいます。


「破壊」や「退行」などの、一般的には「負の要素」として捉えられていることに、取り組んでいることも多いので、それが良いか悪いかは別のこととして、「教育の場」においては、かなり、説明し辛いものに成っているのではないかと思います。


つまり、それを「肯定」してしまうと、他の授業で教えていることが成り立たなくなったり、道徳教育にさしさわりが出てきたりと言ったことが起きて来るんじゃないかと思うわけです。

それで、現在はそこのところを、「なんとなくスルー」しているんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう?


そういう曖昧な形をとるよりは、その時代に≪芸術の20世紀≫と言う名前を付けて、他の時代とは区別して扱えるようにした方が、子供たちはもちろん、現場の教育者の方も楽になるんじゃないかと思うわけです。

まして、日本では、「日本における西洋美術」の歴史自体が、実質的には「20世紀」に成ってからはじまったものですから、「20世紀の芸術」=「日本における西洋芸術の歴史」と言ってもいいでしょう。

要するに、とても「存在が大きい」わけですね。


それが、説明できないとなると、恐らく、ほとんど何も教えられなくなってしまうんじゃないかと思うわけです。


そこで、必ず出て来るのが、『芸術は教えられるものではない』と言う考え方ですね。

そんなことは、みんな知っています。
それから、それは「芸術」に限ったことでもなくて、どんなことだって「本当のところ」は教える事なんて出来やしません。
それでも、その中で、「教えられること」を教えるのが学校であり教育なんだと思うのです。

学校での「美術教育」は、いまよりも、もう少し具体的に「何か」を教えるべきなんじゃないかと思うわけです。


現状としては、『なんとなく絵を描かせられて終わり』なんじゃないかと思います。

その結果、「上手い」人は「才能がある」と言われて、「下手」な人は、『君は芸術には向いてないね』という感じでしょうか?


そこに、「上手い・下手」なんて、ぜんぜん関係ない「表現する」という「芸術の機能」があって、そのためには「芸術」を使って「表現する」しかないんだということが、まったく「教えられていない」わけです。


なぜ、それが「教えられない」のか?
それを、説明するときに「20世紀の芸術」を引き合いに出さなければならなくなるからではないかと思います。


そうすると、話は「百倍」難しくなりますから、避けざるを得ないわけでしょうね。

そんな状況を逃れるために≪芸術の20世紀喪失≫を使ってみることは、たぶん、出来るんじゃないかなと思っているわけです。


美術教育の現状は、物理の授業で「アインシュタイン」の理論を使わないと他のことが説明できなかったら、”キビシイだろうな”と言うのと同じくらい”キビシイことなんじゃないか”と思います。


それを、なんとなく”グチャグチャッ”とゴマカシタ感じで説明するのはやめて、ここは特殊だから取り敢えず抜かして考えましょうと言った方が、すこしはスッキリして”マシ”なんじゃないかということですね。


子供にとって、何が辛いって、理解できないものを理解しないといけない風な雰囲気だけがあって、それを、誰も説明はしてくれないということだと思います。


説明できないならば、せめて、『それは理解しなくてもいいよ』と言ってやるべきなんじゃないでしょうか?


ものごとが説明できない時に、『世の中には、説明できることと、できないことがあるんだよ』とか、『ワカラナイ奴にいくら説明したってわかりゃしないんだよ』と言うのは、大抵、それを言っている本人が、そのことを本当のところでは理解できていないからなわけです。


だから、「抽象芸術」などの「20世紀の芸術」が一通り説明できるものになってから、改めて「授業」で取り上げるようにしたらいいんじゃないかと思っています。
(個々の教師が理解していることではなく、一般的な理解が構成されていることが必要だと思います)


それまでの間、≪芸術の20世紀≫を≪喪失の世紀≫と呼んで、、「子供たちを(先生たちも)、その難解な時代から解放しよう!」と言うのが、私のお勧めです。


このようなことを、ここに書いたわけです。






プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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