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「テレビ」考



放送が地デジ化した時から、テレビを見なくなって数年たちましたが、まったく”見たい”と思いません。

これは、けっこうショッキングでしたね。

なにせ、完全な「テレビ世代」ですから、当然すぐに耐えられなくなって、テレビを買うんだろうなと思っていたんですよねぇ。
(私の場合、テレビを見られる契約は、なんにもしていません。見るとしたら「YOU TUBE」ぐらいですか?)


ところが、一か月たっても、二か月たっても、まったく見たくならなくて、『あれ?テレビって、なくてもイケルの??』っていう感じでしたね。

正直言って、あれば、見ていたと思います。
きっと、いまでも、あればスイッチを入れてしまうでしょうね。
でも、無いので見れないということですね。

でも、なぜか、まったく見たくならないんですね。
「おどろき」です。

考えてみると、『見たくない』のに、『あったらタブン見ちゃうだろう』っていうのも、おかしな話ですけどね。


確かに、『テレビがつまらない』と言うのはあります。
でも、そういう問題じゃないような気もします。

実際、つまらなくても見てきたわけだし、今でも、あればつけちゃうんでしょうから、『ツマラナイから見ない』~『見ないから買わない』と言うよりは、『無いから見たくならない』ということなのかなと。

逆に言うと、面白い番組がたくさんあっても、『無ければ、無いでいいのか?』って感じだと思います。


もともと、「テレビ」ってそういうものだったんじゃないのかなと思うわけです。

「コンビニ」とか「宅配」なんかもそうですけど、『あると、つい、使ってしまうモノ』っていうんですか?
裏を返せば、『無ければ、無いでどうってことないモノ』ですね。

それらは、すべて『労せずして~してくれるモノ』なわけです。

「テレビ」は「つけるだけ」
「コンビニ」は「2~3分歩くだけ」
「宅配」は「待ってるだけ、呼ぶだけ」

どれも、ホントに『労せずして』なわけです。


でも、これが、「便利」とはちょっと違うように感じる時があるわけです。
「便利の押し売り」的な感じですかね。
『それほどまでじゃなくても』っていうやつですね。


「テレビ離れ」が進んでいると言う話をよく聞きますけど、これは,必ずしも「テレビ」が”ツマラナイから”でもないんじゃないかと思うんですね。

確かに、”ツマラナイから”見なくなったという人は多いと思いますけど(私もそうです)、「見ないで居続けられる理由」は『無くてもいいことが分かったから』なんじゃないかなと。


それで、こういう展開だと、『テレビ、もういらないんじゃない?』と成りそうなんですけどね。


実は、最近になって、最終的に、また「テレビ」が必要になってくるんじゃないか?
と思うように成ってきたわけです。


よくよく、考えてみると、子供のころから見続けてきたわけですから、「テレビ」から得た知識の量と言ったら、他のモノでは到底補えないんじゃないかと思ってしまうほどの膨大さなわけです。
これに匹敵する量の知識を得ようと思ったら、相当な「労苦」を伴うんじゃないかと思いますねぇ。


そこで、話は『労せずして』に戻ってくるわけです。

その量の知識を『労せずして与えてくれた』のが「テレビ」だったのは間違いないことなんですねぇ。

取り敢えずつけているだけで、なんとなく、そこそこの知識が入ってくる仕組みになってるんですねぇ「テレビ」っていうのは。
だから、『労せずして』が特徴の「テレビ」と言うメディアは、これから「知識」や「情報」に特化していく方がイイんじゃないかと思うわけです。

たぶん、「テレビ」の影響力は「教育」に匹敵しますよね。


一見すると「情報量」で「インターネット」には勝てないようですけど、「ネット」の最大の欠点は、「疲れること」だと思います。
それに、ナンダカンダ言って時間がかかります。
それなのに、「ナガラ~」には向いていません。

要するに、「ネット」は『労せずして』じゃないわけですね。

さらに言うと、意外と労力を必要とする割に、『達成感を得られない』と言う感じもありますね。
何かにつけて、興味のない情報がズラーッていうのが多いっていうことですね。
つまり、「ネット情報」は「質より量」なんだと思うわけです。
だから、「充実感」や「達成感」が薄いんですね。


自分のことで言えば、「テレビ」が「自分に必用な情報を提供してくれるモノ」に成ったら、たぶん、「テレビ」に戻ると思います。
『つけるだけ』・『労せずして』の方に、どうしたって引き寄せられてしまうんじゃないでしょうか?

これは「面白い」ということとは,ぜんぜん違うことだと思いますね。
「面白いかどうか」ではなくて「必要かどうか」じゃないでしょうか?


このブログでは、「不便のススメ」みたいなことを書いていることがありますけど、それは、「不便」が切り捨てられ過ぎてるんじゃないかということで、なにもかも『不便な方がいい!』と言っているわけじゃありません。

それに「不便」が『”意外と”面白いですよ』と言っているだけで、『役に立つ』とは言ってませんので、あしからず。


さて、「テレビ」にとっての問題は、『その知識が必要かどうか』だと思います。


「テレビ」は「個人への必要な知識の供給の場」、「ネット」は「個人からの”ナニカ”の発信の場」と言う色分けはあり得るんじゃないでしょうか。
ついでに言うと「教育」は、「公的に与えられる情報の場」ですかね。


「ネット」の方は、もっと「個人」に特化していいんじゃないかと思いますね。


要するに、「テレビ」に求められているのは「必要なモノ」=「便利」で、「ネット」に求められていくのは、「不必要なモノ」=「不便」なんじゃないかなと。

 ※実際は、「ネット」には、その両方が求められていくんでしょうが、
  本当は、「ネットの便利さ」は、切り捨てた方がいいような気もします。
  「ネット」は、「無機質的」なんですね。
  だから、『利を追うと、利に走りすぎる』きらいがあるような気がしますね。


今は、「テレビ」が、見当違いで不必要な「面白いこと」を追いかけていて、その代りに「ネット」が、疲れて時間がかかる「必要なこと」を提供しています。


でも、「必要なこと」が、いつも「労せずして」得られて(テレビで)、時々、疲れてもいいなと思ったら、「不必要なこと」をのぞいてみる(ネットで)というのが、”ラク”なんじゃないかなと。

まぁ、『面白いかどうか』は『当たればラッキー』ということでいいような気がします。
「面白い」って、本当はそういうものなんじゃないかっていう気もしますしね。
要は、その辺が丁度いいんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に考えてみたわけです。




「時間」には、本当に「今」しかないのか?



「時間」とか「時代」と言うものを考える時に、「過去」や「未来」と言うのは、実際に「存在」しているわけではないから、実際に「存在」するのは、「現在」=「いま」だけなんだ、ということを言うことがあるわけです。

でも、本当にそうなんでしょうか?


確かに、「現在」以外の「時間」や「時代」と言うものは、どこにも「存在」はしていませんね。
でも、それは「時間」を「点」で捉えた考え方なんじゃないかと思うわけです。


実際の「時間」は、「点」ではないんじゃないかと思うのです。


まず、「時間」とか「時代」と言う「次元」を言葉に置き換える段階で、「線」として捉えているんだと思うんですね。
「過去」~「現在」~「未来」と言う「一本の線」ということですね。


その時に、「時間」と言う「次元」が、「点」でも、「線」でもないということが抜けてしまうんですね。


そこで、一本の「線」として捉えたときに、「現在」以外は「存在」していないということが出てきてしまうわけです。
「時間軸」という「線」の上を、「いま」という「点」が移動していくという感じでしょうか。

でも、実際には、「時間」は「点」でも「線」でもなくて、「時間」なんだと思うわけです。

それで、その「時間」と言う「次元」や「概念」には、「過去」も「未来」も、しっかりと「存在」していると言うのは、間違いのないことのように思われます。

つまり、それらを全部ヒックルメテ「時間」なんだと思うわけです。

言い換えれば、「いま」の中にも「過去」や「未来」が、歴然と存在しているのが、「時間」と言うモノなんじゃないでしょうか?
逆に言えば、「過去」や「未来」の中に「いま」も「存在」しているんでしょう。

それを、違う「次元」で捉えると、「存在」していないことに成ったりするということなんだと思います。


つまり、「三次元」までの「次元」で捉えた場合、「時間」には「いま」しか「存在」しませんが、それは、あくまで、物質的な「いま」でしょう。


確かに、目に見える「過去」や、手で触ることができる「未来」は、そこに「存在」していませんが、「時間」は、もともと目に見えるものでも、手に取ることができるものでもありませんから、それは、物質的な「過去」や「未来」であって、時間的な「過去」や「未来」ではないわけです。


もともと、「時間」と言うのは、何らかの「連続」によって捉えられるものですから、「いま」と言う「点」では捉えることが出来ないはずです。

分解写真のような「点」の断続では「時間」とは言えないような気がします。
やはり「過去」~「現在」~「未来」と言う「連続」があってこそ、初めて「時間」と言えるんではないでしょうか?
そういう「連続」があれば、人間が捉えやすいイメージとしての「線」に成ります。


そこでようやく「時間」とか「時代」として捉えることが可能に成りますけど、それは「考えるのが可能」なだけで、実際には、「時間」は「線」でも無くて「時間」ですから、物質的な「過去」や「未来」が「存在」していなくても、時間としての「過去」や「未来」は「存在」していると思うんですが、どうなんでしょう?


ということで、物質的な「存在」とは無関係に、「全ての時」を包括した概念が「時間」と言う「次元」なんではないのかなと。

よくわからないので、一応、その辺にしておきます。



2.≪喪失≫の実践について ②美術館の展示内容や企画について:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


こちらの項目では、美術館での≪芸術の20世紀喪失≫について書いています。


そうは言っても、美術館サイドで『只今より、≪芸術の20世紀≫を喪失しました』とはならないでしょうから、『「喪失」については、こちらの頭の中でやりますよ』ということなんですが、それでも、この≪芸術の20世紀喪失宣言≫を使うことで、展示企画が、興味深いものに成るんじゃないかと思っています。
(もし、使えばですけどね)


まず、「20世紀の芸術」を「サブカルチャー」として捉えるという見方ですね。
と言っても、もともと「サブカルチャー的」な性質があると考えられているようなものだけでなく、「20世紀の芸術」全体を「他の時代の芸術」との対比において「サブカルチャー」と考えるということですね。

つまり、「巨匠たち」も「サブカル」ということです。


言い換えれば、「20世紀の芸術」に「メイン」はないということです。
「中心」が無いんですね。

つまり、「メイン・ストリーム」がない、「サブカル」だけの「文化」が「20世紀芸術」だと言う見方をしていくわけです。


こういう見方をしていくと、「20世紀の芸術」が、急に実体として見えてきます。

もともと、「巨匠たち」も含めて、「20世紀芸術の流れ」は、常に「サブカルチャー的」な姿勢から生み出され続けたものだと思うわけです。


つまり、「アンチ・テーゼ」として存在することが目的だったのだと思うのです。


「脱・アカデミズム」に始まって、「脱・芸術」や「脱・技巧」や「脱・制作」や「脱・作品」と、あらゆるものから脱出しようとして、ありとあらゆるものに対する「アンチ・テーゼ」を生み出し続けたわけです。

その結果、「中心」を失ってしまったわけです。

要するに”カラッポ”なんですね。
「巨匠たち」のなかにも、そう言っている人が居るくらいですから、きっと、そうなんでしょう。

そこにこそ意味があったということだと思います。


でも、ご本人が言ってることなのに、まわりが、『これが新しい芸術の中心だ』と言って固めてしまうわけです。
それで、「中心」に成るモノが育たなくなってしまったわけですね。

すでに、「中心」に位置を占めているモノがありますから、後から来たモノは締め出されてしまうわけです。
でも、その本人が『自分は”カラッポ”だよ』と言っていたりするわけです。


こんな風に考えると、「中心」を失った「20世紀の芸術」にあって、その「カラッポな器」の表面に張り付けられた「レッテル」が「天才」であり、「巨匠」であったわけで、『巨匠たちが、なんで、こんな作品を作ったのか?』と言う問いに対する答えが、けっこうハッキリと見えてきます。


そこには、もう「難解さ」は無く成っているハズです。

つまりは、「アンチ・テーゼ」であること「サブカルチャー」であることこそが、「巨匠たち」の、そして≪芸術の20世紀≫の目標だったということです。

要するに、「アンチ〇〇」を追いかけて行った結果が「20世紀の芸術」であったというわけです。
言い換えると、「〇〇であること」ではなく、「〇〇でないこと」を求めていたということですね。
だから、「中心」が無く成ってしまったんですね。


こういったところを、上手く伝えられるような「展示企画」があれば、きっと興味を持つ人はいるんじゃないでしょうか?


昨今の美術展において、「広告宣伝力」に頼る傾向があるのは「悲しいこと」だと思います。

そういうことから抜け出して、『時代を100年間ほど巻き戻してみてはいかがでしょうか?』
そして、その、まっさらな「20世紀」に、たった今表れてきた「芸術」として、その当時の人たちの「驚き」や「違和感」や「不信感」をも再現するような形で、「20世紀の芸術」を捉えられるような企画があれば、きっと面白くなると思います。

『やっと現代美術が一般に受け入れられるようになってきたのに』と思うかもしれませんが、「20世紀の芸術」とは、「受け入れられては意味がなくなってしまう芸術」なんだと思うのです。

「アンチ・テーゼ」じゃなくなっちゃいますからね。


だから、その「違和感」や「不信感」が無く成ってしまうと、何も残らなくなってしまうんじゃないでしょうか?
「中心」には何もない「カラッポ」なんですから。

そして、そこにこそ意味を見出すべきものとして生み出されたものだったわけですから。


ここでは、こんなことを言っております。





2.≪喪失≫の実践について ③マスメディアとの関係 ④「宣言」の再検討 :の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


③はメディアについて、④は≪芸術の20世紀≫を再検証することについてです。


まず、③のメディアについてです。

これは、あまり大事なところではないので特に書くこともないんですが、取り敢えず、この「宣言」の主要な内容は、「数」的な問題ではなくて、「質」的な問題に関することだということです。

だから、「マスメディア」のような、容量の大きい情報の流れとは、『かなり離れたところにあるモノなんですよ』ということです。


ただ、「ブログ」と言う「ウェブ上の媒体」を使っているので、それも一種の「マスメディア」だとも言えるわけなんですが、「メディア(媒体)」としては大きくても、「情報の流れ」としては極めて小さいので、これは「マス・コミュニケーション」ではないでしょうから、やはり「個人的な宣言」なんだと思います。

まぁ、要するに、メディアに期待するようなことは、特にないということですね。


④は再検証についてに成ります。

これは、読んだ方には伝わりにくいのかも知れませんが、そもそも、この≪芸術の20世紀喪失宣言≫と言うのは、実際に≪芸術の20世紀≫を消去してしまおう、ということとも少し違って、「仮想現実的」な「喪失」を想定したものです。
つまり、「バーチャル」ですね。


あくまで、≪芸術の20世紀≫と言う「カラマッタ糸」を、一度切ってつなぎなおすことで、次世代の「芸術の場」を設定しようとするものなのです。


ですから、≪新生芸術の20世紀≫において、『これが、21世紀の芸術の場である』と言えるような環境が確保されたのちに、≪芸術の20世紀≫は、もとの位置に戻されるべきであると思っております。


もちろん、理想を言えば、こんなことをしないで、一つ一つ、「カラマッタ糸」を解いていければ一番いいのでしょうが、過去の例から判断して、それは無理だろうということで、このような手法を用いています。


それでも、やはり、「一つの時代」を消し去ってしまって、そのまま無かったことにするというのは、良くないでしょうから、時期を見て、それは、元に戻されることが望ましいと思っているわけです。

その時、「20世紀の芸術」は、一旦「喪失」されたことによって、スッキリと見通せるようになっていて、その時代の人が、「20世紀の芸術」が持っていた意味を考え直すことは、とても有意義なことに成るのではないかと思っています。


そして、その時には、もう、「20世紀の芸術」は難解で理解できないという人は、ほとんど居なくなっていることでしょう。


「カラマッタ糸」を一旦取り除くことで、「歴史のつながり」を取り戻し、その「歴史のつながり」の中の「一つの時代」として、≪芸術の20世紀≫を冷静に見渡すことが出来るように成ったその時代の人たちは、もう、「混迷の中」にはいません。

きっと、その「混迷の渦」の外側に立って、「芸術の20世紀」を「そんな時代」として客観的に捉えることが出来ると思います。
その時点で、≪芸術の20世紀≫が持っていた「考えさせる芸術」と言う性質は、「難解なモノ」から「思慮深いモノ」に変わっているでしょう。

その時には、きっと、「思考すること」を楽しむような「芸術の場」が出来上がっていることでしょう。


一つ前の項目で述べたこととも連動させる形で、こういったことを芸術の企画に持ち込むことが出来れば、きっと、それは、世界的な動向にも成っていくことだと思っています。


この項目には、こんなことが書いてあります。



「技術」に頼らず「技術」を使う



これは「芸術」に限ったことでもないんだと思いますけど、どんな分野でも、「技術」と言うのは、とても「堅実」な感じがするわけです。
だから、どうしても、そこに頼りたくなるのです。
でも、それが「芸術」にとっては、どうも良くないんだと思うわけです。


たしかに、「技術」は努力すると、その分、確実に身に付いてきますし、人からも理解されやすいですから、使いたいものなわけですね。
でも、使っているうちにいつの間にか、そこに頼るようになってしまうのも事実なわけです。

そこに、頼らないようにするために、一切「技術」を使わないようにすることは不可能だとしても、「技術」を出来るだけ遠ざけるということはそう難しいことでもないんだと思います。


20世紀以降の美術と言うのは、そうした「アンチ・技術」的なところに基本的な足場を置いてきたように思いますが、実際に必用だったのは、「技術を捨てること」ではなく、「技術に頼らず、技術を使うこと」だったんじゃないかと思うのです。

このことに限らない話ですけど、人間って、二つのことを同時に追求できないようにできているんだと思いますが、それでもなんとか、それをやろうとすることが必要だったんじゃないかと思うわけですね。


「技術」に頼っていると「安心感」があります。

「技術」を捨てようとすると「不安」に成ってきます。

でも、「技術」を完全に諦めてしまうと、また「安心」になれるんだと思います。


どっちかに寄ってしまうと”ラク”になれるんですね。


”ラク”な方がイイんですけどね。
でも、そこは「”ラク”しちゃいけない所」なんじゃないかと思うんですよね。


「技術」と「アンチ・技術」の間にしか、「芸術」は存在していないんだと思いますね。

だから、そこを”ラクして、どっちかに寄ってしまうと、「芸術以外のナニカ」には近づけるかもしれませんが、「芸術」からは遠くなってしまうんじゃないかと思うわけなんですね。


これは「技術」に限ったことではなくて、あらゆることの「両極の間」にあるのが「芸術」なんだと思うんですよね。
「極める」と言うのは、決して「極端」であることではないと思います。


「両極の間」での「試行錯誤」こそが、「芸術」なんだと思います。
『こうすれば、こうなる』と分かっているものは、「芸術」じゃないと思ってしまいますね。


そこで、なんとか「技術」も身に着けながら、それを使っても行きながら、それに頼ったりはせずに、「技術」と「アンチ・技術」の間の「いちばん濃い一滴」を絞り出すこと。

『ムズカシイ!』


本当にムズカシイと思います。

でも、「それをやろうとする」だけでもイイんじゃないかと思っているわけです。
そう思うと、少し「安心」して”ラク”に成るんですね。
そして、そこは「”ラク”してイイ所」なんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけですね。




「機能美」と「意匠美」



「デザイン」と言う言葉がありますけど、そもそも「デザイン」って何なんですか?と言われると、ちょっと困ったりもするわけです。


そこで、「デザイン」をまとめると、「機能美」と「意匠美」の二つに集約されるんじゃないかと思うんですね。


「機能」を追究していくと、「無駄のない美しさ」が生まれてきます。

それとは逆に、「機能」とは無関係の「意匠的な美しさ」を追究していくと、なぜか使いやすいものが出来てきたりもします。


もちろん、必ずそうなるというわけではありません。
でも、かなりの確率で、機能的なモノには「ある種の美しさ」がありますし、「美しい意匠」を凝らしたモノは「機能的」にできています。

そうなると、この二つは同じものなんじゃないか?と成るわけですが、やっぱり、どこかが違うわけですね。


まず、「機能美」の方は、無駄がないのでシンプルですね。
言い換えれば「簡素」です。

「意匠美」の方は、無駄があるんですね。
「簡素じゃない」わけですね。
良く言えば「コッテル」、悪く言えば「コテコテ」、もっと悪く言えば「ゴテゴテ」ですね。


単純化して言うと、「機能美」は「最小限の美しさ」で、「意匠美」は「最大限の美しさ」ですね。

どっちが好きかは、好みによって分かれるところだと思いますけど、私は、両方ともそれぞれイイと思うんですよね。
どっちも捨てがたいっていうんですか?


「一本の線の美しさ」みたいなのもイイし、「華美な装飾」みたいなのも”ハマッタ”時にはイイと思うわけですね。


この二つを融合することは出来ないのかも知れませんが、もしも、それができたら、さぞ美しいモノに成るんでしょうね。

そういうことをやろうとするのが、私にとっての「芸術」ですね。
そして、その時点で「デザイン」ではなくなるんだと思います。


そういうことを考えてみました。




2.≪喪失≫の実践について ⑤空想上の体験 :の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


この項目では、「空想」の中での≪芸術の20世紀喪失≫について書いています。

ここに来て、やっと確実にできそうなことに成ります。
つまり、やろうとしさえすれば誰にでもできる事であり、また、一人でも十分にできる範囲のことです。


やろうとするか否かは、その人次第ということですね。


この項目で、私が言いたかったのは、本当は誰でも「芸術のスグソバ」に居るんだということなんです。


現在は、「芸術家」と言うのは、「特殊な才能」があったり、「並外れた個性」や「感性」の持ち主であったりというような、いわゆる、「普通じゃない人」と言うようなことに成っているわけですが、そういうことが、世の中の人の誰にとっても、イイことには成っていないような気がするわけです。

つまり、「芸術」と言う分野が、今よりも、もう少し低い位置に置かれるべき時が来ているように思っているわけですね。
その為には、どうしても≪芸術の20世紀喪失≫が必要なんじゃないかということなんですね。

ここまでに述べてきたように、≪芸術の20世紀≫は「天才の時代」でもあったわけで、その「天才」と言う言葉が邪魔して「普通の人」が「芸術」に近寄れないように成ってしまっているんですね。


『そんなの、言い訳だろ!やりたいなら、自分の好きなように創作すればいいじゃないか!!』と、口で言うのは簡単ですけど、実際問題としては、いわゆる「普通の人」が、専門的な意味で「芸術」に関わることが出来る機会は、なかなかありません。


「21世紀」に成った今も、「天才の時代」は継続していますから、「普通の人」が「普通」のままで、「芸術」に関わろうとすれば、「普通の人の芸術」と言う「冴えない色のレッテル」を張り付けられて、「天才の芸術」と言う「金色のラベル」を張られたものとは区別されて、どうしても、一段低い位置に収められてしまうというシステムに成っているわけです。

つまり、「芸術」に関わることだけなら、簡単ですが、そこに専門的に関わりをもって、さらに、それを続けようとすると、いわゆる「普通じゃない人」に成るしかないというような仕組みに成っているということですね。


「自己を表現する」という「芸術」の持っている「機能」は、誰にとっても必要に成る可能性があるはずですし、そんなときに「芸術」の代わりに成るようなものは、他には、なかなか見つからないわけです。

ですから、「芸術」を、「特殊な才能」や「並外れた個性」の持ち主限定のものにしておいてはいけないんじゃないかと思うわけです。
(というか、「才能」も「個性」も、みんな、同じくらい持っているハズです)

その為には「天才の時代」である≪芸術の20世紀≫を「喪失」することが必要になってくるんじゃないか?ということですね。


「天才の時代」を「喪失」することで、「普通の人たち」が「芸術のスグソバ」に立つことが出来るようになれば、その時にこそ、≪新生芸術の20世紀≫が始まるのだと思っています。


そこでは、「天才の一瞬のヒラメキ」で表された「芸術」と、「普通の人の四苦八苦のアゲク」に表された「芸術」は、全く同じ高さに並べられ、人々の目に晒されます。

どちらをとるかは、見る人の自由ですし、どちらを目指すかも本人の自由です。


いずれにしても、そこにおいて行われる「芸術」に対する「生真面目な取り組み」を、私は賞賛するでしょうし、その「生真面目な取り組み」のないものは、きっと賞賛できないでしょう。

なぜなら、それは「芸術の中心」からは、遥かに離れてしまっているのだから。


こういったことが、ここに書いてあります。

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以上で、≪芸術の20世紀喪失宣言≫の説明は、「おしまい」です。

どうでしょうか?

ためしにひとつ、≪芸術の20世紀≫を「喪失」してみようか、という方はいらっしゃいましたでしょうか?


まぁ、なんでも「モノはタメシ」ですから、一つお試しになってみてください。

きっと、その時代には、”ナニカ”のヒントが、あるんじゃないかと思います。


もし、そこに、その”ナニカ”が落ちていたら、拾って行ってください。

なかったら、「ハズレ」ですね。

ザンネンでした。




「変わること」とは「変わり続けること」



人と言うものは、たいてい、人生の中のある時、自分が「変わって進歩した」と思っているんでしょうね。

自分のことを、『全然進歩していないなぁ』と思える人って、そんなに居ないように思います。
”言うだけ”の人は結構いるかもしれないですけどね。


でも、これが「変わり続けること」と言う話になると、『変わり続けていますよ』と言い切れる人は、これもまた、そんなには居ないように思うわけです。


そこで、思うことなんですけど、いま現在、「変わり続けていないもの」を『変わった』ということに意味があるのか?と言うことなんですね。

「前は、〇〇だったけど、今は△△だ。」と言うときに変わったということに成るわけですが、「前」と「今」が違うことに、どれほどの意味があるのか?ということですね。

何か「一つの目標」に向かっているという前提であれば、「前」よりも「今」が、その「目標」に近ければ、意味があるということに成るのでしょう。
それを「進歩」と言うわけですね。

でも、そういう「一つの目標」に向かっているということでないのであれば、「前」と「今」が違うということには、それほど意味がなくなってしまうんだと思うわけですね。

要するに、「進歩」ということ自体がほぼ無いということですね。


そして、そういう考え方をした場合、下から上へ登ろうとして「変わること」ではなくて、同じ平面上で、動き続けることとしての「変わり続けること」の方が、意味が大きいということに成るんじゃないかと思うのです。


何かのきっかけで『変わった』と言う話を聞くことが、けっこうありますけど、せっかく『変わった』のに、その場で止まってしまったら意味ないんじゃないですか?と言うケースが多いように思うわけです。


「一つの目標」に向かうことに、あまり意味がないという前提で言えば、現在「変わり続けていること」にしか意味はないと思うわけです。
つまり、その「方向性を持ったエネルギー」にこそ、意味があるわけで、いくら「前」と「今」が違っていても、「止まっているモノ」には、そういう「方向性を持ったエネルギー」は、もうなくなってしまっているわけです。


そもそも「変わること」というのは、そういうことなんじゃないかと思うんですよね。

その「エネルギー」のことを指して言っている言葉なんだと思うわけですね。


それで、『あの時から変わった』と言う人が居ると、『それで、今はどうなんですか?』と聞いてしまうわけですが、たいてい、すごく嫌な顔をされます。


止まっている時に、自分が「止まっていること」を認めないで、過去に「変わったこと」について語っていると、もう、それ以降は、変われなくなってしまうと思うんですね。


だから、いま停滞している時は、取り敢えず『自分は今止まっているけど、動きたいんだ!』と思うことがイイんじゃないかなと。
(いや、『動きたくないんだ!』でもいいんだと思いますよ)


そんな風に思っています。




「戻ること」



「戻ること」と言うと、どうしても「ネガティブ」な印象があると思うわけですけど、実際には、「戻ること」には「ポジティブ」な面もあると思うのです。


「戻る」と言うと「後戻り」=「マイナス」と言う感じがしますけど、「急がば回れ」と言う言葉もあるように、「進むこと」のためには、時には「戻ること」が必要になってくるわけです。


このブログでは「芸術」において「100年回帰」を提唱しているわけですが、「芸術」の話に限らず、「戻ること」が「進むこと」につながるケースは多いと思っています。


「工業化」や「経済優先」などの例を挙げるまでもなく、何事も「過ぎたるもの」には「戻ること」が有効なんじゃないかということですね。


そこで、「立ち止まること」と、言われることも多いわけですが、どうせなら戻った方がいいんじゃないかと思うんですね。


そういう時っていうのは、勢いがついてしまってますから、「立ち止まろう」とすると押し流されてしまうと思うんですね。
だから、力を使って「戻ろう」としないと、「立ち止まること」もできないんだと思います。


「戻った場所」で考えると、人間はけっこうイイことを考えるんじゃないかと思うわけです。

こういうことは、昔からずっとやってきたことなんだと思うんですけど、世界が見渡せるようになった現在は、国と国が、お互いに横にらみでけん制しあっている状態なので、「先に戻ったもん負け」的な空気が出来てしまっていて、それで、「戻ること」ができなくなってしまっているような気がします。

 ※実際には、人間が「戻ること」を選択することは、ほとんどありませんが、
  そういう考え方ぐらいはできるし、現にそうしてきたと思います。
  それが、現代に成ってから、その考え方すらもしなくなってしまっているよう
  な気がするわけですね。

これは、個人についても同じで、人と人が、常に「パワー・ゲーム」を演じてしまっていて、やっぱり「戻ったもん負け」なわけです。

でも、本当のところは「戻ったもん勝ち」なんじゃないかなと。


「パワー・ゲーム」から外れて、『戻っちまえば、こっちのもんさ!』と言って、「アッカンベー」をくれてやれば、それなりに吹っ切れるんじゃなのかなと。


そんな風に思って、やっているわけです。



「不便さ」考



「不便さ」が好きなんですねぇ、私は。
これには時として困ることもありますけど、直りませんねぇ、ぜんぜん。


なんで「不便さ」が好きになったんでしょうねぇ、わかりません。
さらに、いつから好きになったのかもよく覚えていないんですねぇ、自分のことなのに。


気が付いたら好きになってたんですねぇ、「不便さ」が。


いえ、「便利さ」が嫌いってわけじゃないんですよ、ぜんぜん。
と言うより『大好きです!』
「便利さ」も好きなんですねぇ、とっても。


ただね、「便利すぎる」っていうのが、チョット・キライなだけなんですね。
それで、「便利すぎるモノ」が、どんどん増えて来るもんだから、いつの間にか「不便さ」が、気持ちよく感じるようになってきてしまったんじゃないかと思うんですね。


正直言って、「不便さ」は、とてもイラつくんですね。
それなのに、また、その「不便さ」の方を選んでしまうんですねぇ、懲りずに。

そうやっていると、「不便さ」にだんだん慣れてきて、吸収してしまうんですね。
それで、妙な愛着みたいなものが出て来るんですね。

そこからは、もう手放せなく成ります。


自分がそんなだから言うわけじゃないんですけど、「不便さ」って、けっこう、これから見直されていくんじゃないかと思ってるんですよね。


なんて言うか「便利さ」って、ツマンナイっていう感じはあると思うんですね。
「飽きる」って言ってもいいと思いますけまぁ、要するに「フツー」なんでしょうね。


私は、人間については、「普通」なことこそオモシロイと思っているんですね。
つまり、人間は十分複雑ですから、「普通」ぐらで丁度いいっていうことなんでしょう。


でも、「物」については、「フツー」っていうのが、どうも、オモシロクはないんですね。

「物」は人間ほど複雑でもないですから、「ただ単に便利なもの」はオモシロクないんだと思います。


だから、「不便さ」を”ウリ”にするものがもっとあってもいいと思うわけです。
「不便だけど上質なモノ」がもう少し流通してほしいですね。


そんなことで、世の中が少しは豊かになるなら、イイんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。





「一億総精神疾患時代」



だいぶ昔の話になりますけど、「一億総ハクチ化時代」ということが言われたことがあったと記憶しています。

 ※「ハクチ」と言う言葉を使ってもいいものかどうかわかりませんが、
   差別的な意味は含まれていませんのでご容赦ください。


日本で、いわゆる「戦後」が長く続いて来て、「平和ボケ」のような状態に成っていたことを言っていたんだと思うわけですが、実際に、「考えない人」が増えたことは確かなことだったんでしょうね。

ただ、そういう人はある程度、いつの時代にも居たんじゃないかとも思います。
違うのは、それまでは”否定”されていた「考えないこと」が「時代」に”肯定”されてしまったことだと思います。


それはともかくとして、今や、時代は「一億総精神疾患時代」に突入したと思うわけです。
(もう「一億」をだいぶ超えているらしいですけど)

つまり、日本人全体が、何らかの「精神疾患」になっているように感じることがあるんですね。


しかも、「一億総ハクチ化時代」が、本当にみんな「ハクチ」になってしまったわけでもなかったのに対して、現在の「一億総精神疾患時代」は、本当です。

決してオーバーな話でもなくて、本当に「鬱病」や「〇〇症候群」の人は、身近にもたくさん居て、さらには、「自殺」までも、今では稀なことではなくなってしまいました。

また、一見すると精神的に健全にしか見えない人が、『朝起きると、涙が止まらないことがあるんですよぉ』なんて言っているのも聞いたことがあったりします。

本人は、まったく気づいていない場合もあるようですが、客観的に見ると『それ、どう見ても、ヤバイでしょ』と言う感じですよね。


また、いわゆる「バリバリ」側の人も、「精神疾患」から遠い位置にいるのかと言うと、必ずしもそうでもなくて、その時は「バリバリ」働いていても、いつの間にか「パリパリ」とコワレテ行ってしまうなんて言うケースもよくあったりします。
(「燃え尽き症候群」のような人ですね)

それから「バリバリ」から「ガリガリ」になって、しまいには「ゴリゴリ」になって、オカシクなっているのに、自分では止められないというタイプの人もよく見ます。
何かに憑りつかれてでもいるような感じですね。
(いわゆる「パワハラ上司タイプ」ですね)

そういう人は、いつも苛立っていて、周囲を自分の”フキゲン”に巻き込んでいってしまうので、周りの人も病んでいきます。
そして、また、その「病」が、発信元である本人に帰って行くわけですね。

いずれにしても、日本の社会全体に「精神疾患」を作り出す土壌が出来てしまっているんだと思います。
(これは日本だけでなく、世界的にも言えることだと思います)


だから、いま、たまたま「精神疾患」から距離のある位置に立っている人も、完全な「安全圏」に居るとは言えなくなってしまっているんだと思います。


そうはいっても、いま現在「病的な状態」にない人は、『たぶん、自分は大丈夫かなぁ・・・』と思うでしょうし、私もそう思っているところもあります。
でも、その思い込みが、たいした根拠のないものなんじゃないかとも思います。


とくに日本などの東洋の国の人は、現在、世界が「西洋基準」で回っていることで、必然的に、もともとの「東洋基準」との間に「ダブル・スタンダード」を抱えることに成っています。


「ダブル・スタンダード」は、なにも「東洋」と「西洋」に限ったことではありませんから、この状況は日本や東洋に限ったことでもないと思いますが、現在、東洋の主な(すべての?)国々では、「東洋基準」を残しながらも、常に、「西洋基準」が優位な状態です。
従って、「社会」が人に「ダブル・スタンダード」を強要していて、さらには、それらの「基準」が、常にその時々で恣意的に使い分けられてしまいますから、それは「ダブル・バインド」を生み出してしまっているわけです。

「精神医学」では、強い「ダブル・バインド」を加えられて育った子供は、「精神疾患」を発症する可能性が高いと言われるようですが、「社会全体」によって作られる「ダブル・バインド」ですから、これは、かなり強力なんだろうなと思うわけです。


そういうことで、「一億総精神疾患時代」が到来してしまっているわけですけど、その結果、本来は「精神疾患」から遠い位置にいるはずの人まで、「精神疾患」の最前線に放り込まれている状態になっているわけです。


本来は「社会の真ん中あたり」にいる人というのが、もっとも「精神疾患」から遠い位置にいるハズなんだと思うわけですが、その「社会の真ん中あたり」こそ、最も強力な「ダブル・バインド」に拘束されている場所でもあるわけですから、もう、「安全な場所」というのがなくなってしまったわけですね。


そうして、今に至って、最も重大な問題は、「精神疾患」自体というよりも、「病的な状態の人」が「主流」を占めるようになったことです。

あまりに数が多くなってしまったので、「主流」になってしまったわけですね。
それで、本人も気が付きにくくなっているんだと思います。

みんなが「精神疾患」ですから、「突出した逸脱」さえしなければ、本人も周りも、まったく気付かないでいられるわけですね。
(最近では、かなりの「逸脱」でも「正常」の範囲とされつつあるるように感じます)

そして、その結果、「精神疾患」を抱えた人が、それに気づくことすらない状態で、さらなる「精神疾患」の種をまき続けているわけです。

現在では、「精神疾患」の「自覚」がある人の方が、むしろ”マシ”で、「自覚」のない人の方が、状態は”シンコク”なのかも知れません。

この「現代の病」に対しては、「医学」も「宗教」もほとんど無力だと思います。

「医学」は「社会全体」を治療することはできませんから、根本的には改善しません。
むしろ「社会」に順応するための治療こそが「医学」の目的ですから、「社会全体」に「ダブル・バインド」がかかっている状況では、そこに順応しようとすれば、かえって悪くなる可能性も高いんじゃないでしょうか?


「宗教」は「信じる人」と「信じない人」に分かれてしまいますから、「信じない人」には無力ですし、「信じる人」にとっても、シェルターのような働きはするでしょうが、そのシェルターから出ると、元に戻ってしまいます。
つまり、「信じ続けるしかない」ということになってしまうわけです。

『信じ続ければいいじゃないか』と言われれば、そうかもしれませんが、「信じない人」は、ますます疎外されていくでしょう。
そうなると、『信じないといけない』になってしまいます。

それは、もう「宗教」でも「信仰」でもないでしょう。


病んでいるのは「社会全体」ですから、その「社会全体」に、何らかの方向転換が必要なんだと思います。
でも、「政治」は何も変えられませんから、もちろん論外でしょう。

「政治」には、「社会」の向いている「方向」に沿った枠組みを作ることはできますが、その「社会」の向いている「方向」を変えることはできないものでしょう。

というよりも、「政治」が「社会」の「方向」を決定することは非常に危険なことだと思います。


こういうことが出来るのは、「芸術」と「哲学」だけだと、私は思っていますが、その「芸術」や「哲学」もまた病んでしまっています。


キリがありませんね。

『話が長すぎ!』なので、次の記事に続けます。





「一億総精神疾患時代」(つづき)



前の記事からの「つづき」です。


いま、「一億総精神疾患時代」が来ているんじゃないか?
そして、それを抜け出すには「芸術」と「哲学」しかないんじゃないのか?

それなのに、その「芸術」や「哲学」も「病」に感染してしまっている状態なんじゃないか?ということです。


前の記事に書いたように、「一億総ハクチ化」した時から、「考えないこと」が肯定されてしまっていますから(実際は、もっと前からなんでしょうが、それが蔓延したということでしょうか)、「芸術」や「哲学」のような「考える分野」は、その時から病んでいるわけです。


本当のことを言えば、「芸術」や「哲学」であることが必要なのではなくて、「考えること」が必要なんだと思います。
「考えて行動する」という習慣が復活されれば、この状況から抜けられるんだと思います。

だから「宗教」でも、「考えること」が中心にあればいいんでしょうけど(「宗教哲学」みたいな視点ですね)、「宗教」には「信じる」という方向性がありますから、どうしても、そこだけは「考えること」が”スキップ”されてしまうわけですね。


「ダブル・スタンダード」や「ダブル・バインド」の矛盾は、「考えること」で、わりと簡単に見破れるはずですし(あきらかに矛盾していることが多いので)、それに巻き込まれることも少なくなるハズなんですが、今のように、みんなが「精神疾患」の状態では、「精神疾患」側が主流ですから、それもあまり意味がありません。

数の力で圧倒されてしまうわけですね。


要するに、「考える」側が、主流にならないことには、どうにも、そこから抜け出せないような状態になっているわけです。

もちろん、「精神疾患」=「考えない」ではありませんが、「精神疾患」の渦中にいる人は、そこから抜け出すために考えることで力を使い果たしてしまいますから、他のことを考える力は、もう残っていないわけです。
そのため、「考えること」をネジ曲げられてしまうので、結果的に、本来の自分の意思による答えとは、違う答えを導き出してしまうんですね。


そこで「芸術」と「哲学」なわけです。


「芸術」にも「哲学」にも、突き詰めていけば、「考えること」を”スキップ”するという局面が現れてくることがあるんだと思いますから、その点で、「宗教」との違いは、ほとんどないんでしょうけど、それが、”行きっぱなし”には、成らないというところが違うんじゃないかなと思うわけです。


「宗教」においては、「信じるか?信じないか?」という局面が現れてきたところからは、「考えること」は無意味化してしまいます。
「信じる」のに「理屈」は要らないわけですから、「考えること」は必要なくなってしまうわけですね。

要するに、「絶対的な存在」を「信じること」においては、「思考」は無力化してしまうわけですね。


そうした「高次元の無思考」を「悟り」と言っていたりするんだと思います。


でも、現実には、普通の人間は「考えること」をやめると「低次元の無思考」に陥ってしまうわけで、高次元か、低次元かというよりも、「考えること」で、ギリギリ「人間次元」を保っているんじゃないでしょうか?


「芸術」と「哲学」は、もともと「人間」をテーマにしているものだと思いますから、その「人間次元」の「考えること」に帰ってくるしかないんだと思うのです。

そこで”行きっぱなし”にならないで、戻ってこられるということですね。


現在の「芸術」が病んでいるのは、そういう「人間次元」を無視しているからなんじゃないかと思います。
しかも、そこに戻ろうとする力も、常に働いているにもかかわらず、あえて無視し続けているわけです。


「芸術」や「哲学」が持っている「極める」という性質がマイナスに作用しているんだと思います。
「極める」べきは「人間性」であったわけですが、その「人間性」が、表面上とても”チュートハンパ”なものに見えてしまうために、切り捨てられてしまうんだと思います。

でも、一見”チュートハンパ”な「人間性」でも、よく見れば、それが、”煮詰められた”「人間性」であるのか、”薄められた”「人間性」であるのかは、わかるハズなので、もう少しその辺を大切にして行ったほうがいいんだと思うのです。


まぁ、そういうようなことからも、「芸術」と「哲学」は、「健全さ」を取り戻す必要があるんだろうと。


そういう風に思っているわけです。





「起源」に帰ろう!



人でも物でも、全てのモノはいつも変わり続けているんだと思うのですが、その根底にある「元」みたいなものは、そう簡単には変わらないんじゃないかと思うわけです。


まぁ、物質で言えば「元素」みたいなものですか?
人で言えば、「ルーツ」や「遺伝子」みたいなものに成るんでしょうか?

そう言った、その物の原初の段階で、根底の部分に刻み込まれた「起源」のようなものは、なかなか変わらないし、変えることが出来ないものなのだと思っているわけです。


本当のことを言えば、そういうものも、すごくゆっくりと変わり続けているというのが正しいのかも知れませんけど、それは人間の尺度からすれば、ほとんど変わらないと言っていいんじゃないかということですね。


そして、人の場合、その「元」の部分こそが、その人の「オリジナル」まさに「起源」なのだと思うのです。


つまり、「オリジナリティ」とは、あえて創り出すものではなくて、もともと持っていて、変えることが出来ないような、むしろ、隠そうとしても出てきてしまうようなモノなんだと思うわけです。

「オリジナリティ」が放っておいても出てきてしまうのだとすれば、そこに力を使うのは無駄なんじゃないかと思うのです。


私は、むしろ「意味」を創り出すことに力を使いたいと思うのです。

そして「意味」を創り出していこうとする過程で、いやでも勝手に出てきてしまうのが「オリジナリティ」なんじゃないかと思っているわけです。
どちらかと言えば、それを、隠したくなる時にも隠さないようにすると言うのが、意外とできないということなんじゃないでしょうか?


どうせ隠せやしないんだとすれば、それを隠そうとすればするほど、隠そうとしていることだけが見えてしまうということに成るわけで、そういうのは避けたいということですよね。


いずれにしても、「起源」という変わらない部分があるということを意識すると、とても落ち着いた気持ちになれるわけです。

そのことを忘れてしまうと、いつも何かに追われているような気持に成るので、とても落ち着いていられません。


だから、創作する時は、自分の中には、変わらない「起源」があるんだということをなるべく意識するようにしています。

そうすることで、自由に「迷う」ことができるようになるんだと思います。


どんな風に迷っても、どこに流れて行っても、変わらない部分が残っていると思うことが、行き詰まりを止めてくれるような気がしています。


「起源」は変わらない!
「起源」は変えられない!!
そして「起源」に帰ろう!!!

そんな風に思うようにしています。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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