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「神」への疑い



『「神」への疑い』についてです。

こういう話をすると、「信仰」をお持ちの方は、ご気分が悪いのかもせれませんが、宗教や信仰に対してケチをつけようというものではありませんので、また、私にとっても、一つの重要なテーマとして真面目に考えていますのでお許しください。


このブログの中でも何度か書いていますけど、私は、もう「神の時代」は終わっていると思うのです。
つまり、人間は「宗教」と言う概念を卒業して、自己責任で「人間」としてやっていく時が来ていると思うわけですね。


「神」などの「絶対的な存在」を設定して、それを中心にすべての観念を築き上げていくという世界観では、結果的には、人間がそこに依存してしまうことに成るように思うわけです。

つまり、何か「悪いこと」が起きても、それは「神のオボシメシ」ということになってしまいますし、「大自然の采配」ということになってしまいます。

これは「いいことが起きたとき」でも同じです。


必ずしも、安易な意味で、何でも「神様のセイ」にするということではありませんが、最後の最後の所では、どうしても、そこに持っていくことに成るでしょうし、また、そうでなければ、それは「神を信じていること」にならなくなってしまうような気がします。


確かに、「人間の遠く及ばない力」が存在していて、その力が、すべてを決定しているのは間違いがないことなのでしょう。
でも、それに人間が「神」などの「名前」を付けて、「信仰」の対象にしてしまうと、結果的に、それは「偶像化」して、その「偶像」に人間が依存することにしかならないように思います。

これは、その「絶対的な存在」を「神」と呼んでも、それ以外の「名前」で呼んでも同じことで、なんと呼ぼうと、それに「名前」が付けられて、「信仰」の対象になってしまうと、それは、「偶像化」してしまって、あとは、もう、それを「信じるか?信じないか?」しかなくなってしまうわけです。


敢えて「偶像」を作り出さなくても、「絶対的な存在」を設定すれば、それは、必ず「偶像」に成ると言うのが事実だと思うのです。

その過程で、「考えること」が抜けて、「信じること」にすり替わってしまいます。
「信じること」においては、「考えること」が、けっこうジャマになるんだと思います。


「考えること」は『「神」への疑い』を含んでいますから、「信仰心」が弱くなるんだと思います。

要するに、「無条件で信じる」というのが「信じること」としては一番強いわけですね。
しかし、それは「盲信」につながることに成りますから、カルト化してしまう傾向があります。

そこで、また、「考えること」に揺り戻されるということが繰り返されて来ています。


そうした過程の中から、「考える宗教」ということで現れてきているのが、「スピリチュアル」と言われているものなんだと思うんですが、「信じる」に近寄れば「考えること」は”スキップ”されますし、「考えること」は、必ずと言っていいほど『「神」への疑い』を生み出しますから、「信じる」からは、やや遠のいてしまうわけですね。


「信じる」ことで「考えること」が”スキップ”されてしまうと、「思考」は寸断されてしまいますから、「論理的」ではなくなってしまうわけです。

そういう「非論理性」は、結果として「考えないこと」に戻っていく可能性が高いように思うのです。
ひとたび”完全に信じて”しまうと、「考えること」は必要とは言えなくなってしまいますから、どうしてもナイガシロになっていくわけですね。

というよりも、「考えて信じること」よりも「考えないで信じること」のほうが、「信じる」の度合いが強いわけですね。

「考えて信じること」は、要するに「理解すること」と、ほとんど同じ事なので、「信じること」とは少し違うことになってしまうわけですね。

また、それ以前に、人間は「絶対的な存在」を「理解すること」はできませんから、そこで行き詰ってしまうわけですね。
それで、結局そこから先は「信じるか?信じないか?」に戻ってしまうということです。


せっかく「考える宗教」として表れてきた「スピリチュアル」も、「絶対的なものを信じる」という姿勢を、かなりのところまで捨てない限り、結果的には、「信じるか?信じないか?」という「二者択一」に帰結してしまうんじゃないでしょうか?


「スピリチュアル」は、もともと経典や教義のような形式を持ちませんから、その辺を、人それぞれに自由に解釈しているんだと思います。

一人一人の人が、『ここまでは”考える”で、ここからは”信じる”』という設定を変えることができるわけですね。
この「自由度の高さ」によって「スピリチュアル」が広まったんだと思います。


従来の「宗教」では、教義や経典に対する解釈の違いで、立場がはっきりと分かれてしまう傾向があって、それが争いの種にもなってきたわけですが、教義や経典を持たない「スピリチュアル」においては、言葉の上で、ナニを「絶対的な存在」とするかはあまり問題とされませんし、「無条件に信じる」の人と、「かなりのところまで疑う(=考える)」の人が共存できるということでしょう。


それは、「争いが減る」という意味ではイイことなんじゃないかと思いますが、最終的に、「信じるか?信じないか?」というところは残ります。


でも、本当の問題は「信じるか?信じないか?」ではなくて、「考えるか?考えないか?」なんじゃないかと思うわけです。
つまり、「考えること」の方に寄って行ったほうがいいんじゃないかと思うんですよね。


なにも、完全に「信じる」という「姿勢」を捨てる必要はないように思うのですが、その「信じる姿勢」が「絶対的な存在」に傾倒していくことには、やや問題を感じてしまうわけなのです。

そうなれば、どうしたって「考えること」を”スキップ”するように成ってしまうでしょうからね。


やはり、人間は「考える生き物」なんじゃないでしょうか?
というより、やっと考えられるようになってきたと言った方がいいのかもしれません。
むしろ、それすらも怪しくて、まだまだ、「言葉」すら使いこなせてはいないといってもいいくらいでしょう。

だから、もうちょっとシッカリ「考えること」ができるようになってから、次のステップへ進んだ方がいいんじゃないかと思うわけです。
そのとき、その次のステップが「信じること」であれば、それでいいんじゃないかと思います。

でも、たぶん、次にある「信じること」は、従来の「宗教」とはだいぶ違うものになっているんでしょうね。


いずれにしても、人間は、まだまだ本当の意味では「人間」にすら到達できていないと思いますから、「絶対的な存在」を、”見る”ことも”感じる”ことも”知る”ことも、そして、”信じる”こともできないと思うのです。

それは、まだ、人間には”高望み”なんじゃないかと思うわけですね。


つまり、いま現在、人間が卒業するべき「宗教」とは、「偶像崇拝」であり、かなり遠い将来になってから、人間が達成する「信じること」とは、「宗教」とは全く違うものなんだと思います。


現存するすべての「宗教」は、何らかの意味で「偶像崇拝」だと思います。
なぜなら、「偶像」がないと人間には、「信仰」の対象も根拠も見ることが出来ないからです。

「神」と言う「名前」だけでも、それは間違いなく「偶像」です。
”見る”ことも”感じる”ことも”知る”こともできないものを”信じる”ことは出来ないでしょう。
少なくとも、まだ、人間にはそれは出来ないと思います。


人間は、「見たもの」には「名前」を付けます。
「感じたもの」でも同じでしょう。

「名前」が付けられれば、十分に「偶像」と成り得るわけです。
そして、「偶像化」することで、人間が、それを見たり、信じたりすることが出来るように成るわけですね。


私は、こういったことから、「神の時代」を終わらせて、「人間の時代」を築いて行く時が来ているように思っているわけです。


それは、なにも、人間がエラクなって「神」に成り変わろうと言うことじゃありません。
むしろ、その反対で、弱さや不完全性を含めた「人間」を、人間自身が認めてやろうと言う話です。


そこで、やっと「イメージの中の人間」と「実際の人間」が一致して、人間が初めて「人間」として生きられるようになるんだと思います。

今は、いつも背伸びして、見栄を張って「立派な人間」のフリをしているんだと思うのです。

その「立派な人間」の「象徴化された似姿」というのが、、実は、「神のもう一つの本質」でもあるんだと思います。


そういう面からも「神の時代」を終わらせないと、進めないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「怒る人」と「チッチャイ自分」



「怒る人」って居ますよね。
いや、ちゃんとした理由があって怒るっていう話じゃなくてですね。
どちらかと言うと、ほとんど初めから怒っているというか、『怒るぞ!』っていう構えで生きているような人ですね。

短気な人っていうのとも、ちょっと違います。


要するに、そういう人っていうのは、『自信が無い』んだと思うんですね。

大抵の場合、むしろ「できる感じ」にしていたり、「強そう」にしていたりして、「自信満々」に見えるので、まさかこの人が『自信が無い』なんて、有り得ないんじゃないか?というように見えるんですけど、実を言えば、その「できる風」や「強そう」こそ『自信が無い』証拠でもあるわけですね。


実際、「できる風」や「強そう」をことさらに強調する人は、ほとんどの場合、心の底に臆病な「チッチャイ自分」を持っています。
と言っても、実は、この「チッチャイ自分」は誰の中にも居るんだと思います。

ただ、その「チッチャイ自分」が居ることを認めてあげる人と、そういう「チッチャイ自分」が許せなくて、いつもイライラしている人が居るんだと思います。

「チッチャイ自分」が認められない人は、だいたい完全主義的な人ですね。
つまり、自分の中の「不完全性」や「弱さ」が認められないんですね。
自分の中に、そういう弱い所やダメな所があるのが許せなくて、いつも苛立っているんですね。

だから、「芸術」なんかをやろうという人には、わりと多いんじゃないかと思いますね。
(そうとも限りませんか?)

まぁ、私なんかも、元々はどちらかといえば、そっち寄りだったような気がします。
今は、少し”マシ”かな?っていう所ですね。


ただ、私の場合、「チッチャイ自分」を認めたところから、「芸術」に向き合えるように成ったような気もしますから、「完全性」を捨てたことでかえって”楽”になったのかも知れません。


いずれにしても、イライラする所まではいいとしても、大抵の場合は、そこで止まっていなくて、そういう自分の中の「ダメ」を、正当化しようとしてしまうわけですよね。

「自己正当化」ですね。


そうなると、もう、後は、それを『ヒトノセイにする』更には、自分がイライラしていることも『ナニカノセイにする』ということに成って、それで、いつも初めから怒っているわけです。

でも、残念ながら怒っても、なんにもならないんですね。
まぁ、それでまたイライラするわけですけどね。


けっきょく、死ぬまでには「チッチャイ自分」を許してあげないとならないんじゃないですか?
と言うよりも、死ぬ時までに、そういう「自分の弱さ」を認められなかった人は、やっぱり不幸だと思いますね。

不幸と言うよりも、「幸せじゃない」ということでしょうね。


それを「すごく不幸なこと」だとは思いませんけど、「幸せじゃない」と思いますねぇ。

その人が生きてきたことが、全部「白黒写真」みたいに、「色のない世界」になってしまうような気がするんですね。
(いや、モノクロ写真が悪いって話じゃなくて、「例え」ですけどね)


この「チッチャイ自分」に限らず、自分のことが、少しでもわかってから死にたいですね。


そして、この「チッチャイ自分」を認めてやると、そこから、やっと少しづつ「自分の中」を見ることが出来るように成るんじゃないかと思いますね。

それまでは、自分の中を見ると、いつも絶対に見たくない「チッチャイ自分」がそこに居ますから、どうしても見なくなってしまうわけですね。


だから、自分が「怒る人」に成ってるなっていう人は、自分の中の「チッチャイ自分」を許してあげてもいいんじゃないですか?


その子は、とても小さくて弱いので、あなたに怒られて、いつも泣いています。

それが、あなたの姿です。

怒っているのは、あなたなんかじゃなくて、他の誰かです。

追い出すならそっちを追い出さないと、「チッチャイ自分」を追い出すことは、けっして出来ません。

だって、それが本当のあなたですから。


と言う風に、いつも自分に言っています。

 ※確か、何かの本で、こんなことが書いてあったのを読んだと思います。
  よく覚えていないので、自分の言葉も混ざってしまってますけど。




「意味の塊(カタマリ)」を創り出したいのです



私は、「創作」に当たって、いつも「意味を創り出すこと」を考えているわけです。
それで、その「意味」って何なんだ?ということです。


例えば、「花の絵」を描くときに、「その花」を、そのまま写し取ろうとすれば、「その花の美しさ」自体が、「その絵の意味」に成るんだと思います。


でも、そこで、「本物の花」よりも「もっと美しく」描こうとしたり、「もっと力強く」描こうとしたりする場合、「その絵の意味」は「その花の美しさ」だけではなくなってくるんだと思うわけです。

つまり、そこに「新たな意味」が創り出されたということに成るわけですね。


こう言うと、「写実」には「意味」がないという話に聞こえてしまうかもしれませんが、決してそういうことではなく、「写実」にも「意味を創り出す領域」はあると思いますが、その範囲が限定されるということでしょう。

逆に言えば、出来るだけ「モノの形」や「モノの色」に頼らなければ、その分、「意味を創り出す領域」が広くなるということではあると考えています。


そして、この「意味を創り出す領域」を広げることこそが、私の考えている「抽象芸術の目的」でもあるわけです。

つまり、出来るだけ「何もない状態」に近い所から「意味を創り出すこと」が出来れば、それが一番ウレシイということですね。


「現在の芸術」という分野は、「自己表現」のためにあるのだと思うわけです。

そして、「自己表現」のためには、「如何なる意味を創り出すのか?」ということが、大きな割合を占めるようになるんだと思っているわけです。


要するに「その花の絵」の中の、「その花」の部分よりも「その絵」の部分の方に、「自己表現」としての性質が強く現れて来るということでしょう。


そういう「意味」をコテコテに固めたような、「意味の塊(カタマリ)」を創り出したいわけなのです。


それができれば、それを人に評価されなくても、十分満足できるような気がしていますし、それさえやりきることが出来れば、心残りはないと思っています。


だから、何度失敗しても、”ヘン”な絵が出来上がって来てしまっても、また、コテコテと「意味」を塗りこめて、「意味の塊」を創り出そうとしているわけですね。


そう思っていると「上手く描こう」なんてことは、遠くの方にあることのように感じられます。


「自己表現」であればあるほど、他人からは理解されにくいのかも知れませんが、それを塗り固めていって「塊」にすれば、きっと、『なんか言いたかったんだな』っていうことぐらいは、伝わるんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「究極の快楽主義者」



「快楽主義者」と言うと、一般的には、取り敢えず「楽しいこと」や「好きなこと」を好んで、「辛いこと」や「嫌なこと」を好まない人のことを言う場合が多いと思うのですが、最終的には、「快楽」に溺れて「破滅的な末路」をたどるというようなイメージもあるんじゃないかと思うわけです。

でも、その結果、「辛いこと」や「嫌なこと」を強いられることに成るんだとしたら、『それって、本当に快楽主義なんでしょうか?』と思ってしまうわけなのです。


少なくとも、ほとんどの場合、「破滅的な末路」とまでは言えない場合でも、『あぁ、このままやっていると、結果的に苦しくなって行くんだろうな』ということぐらいは、どこかの時点で、本人にもわかっていると思うんですけど、それでも、「目先の快楽」を追い続ける人のことを、果たして「快楽主義者」と呼べるのだろうか?と言う疑問が出て来るわけです。

もしも、本人が十分に「辛いこと」や「嫌なこと」に成ると自覚していながらも、そこに向かって行くのだとしたら、それは「快楽主義」ではなくて、単なる「破滅型」ということなんじゃないかと思うわけですね。


そこで、「真の快楽主義者」とはどんな人なのかということに成るわけです。


「真の快楽主義者」とは、「最終的な結果」を「楽しいこと」や「楽なこと」に持っていこうとする人なんじゃないのかなと。

少なくとも、「最終的な結果」が予測された時点で、それに合わせて行動を修正する人が、「真の快楽主義者」なんじゃないかと思うわけです。


例えば、美味しいものをたくさん食べるという「快楽」は、毎回、お腹がすいてから食べれば、長続きできますけど、お腹がすいていないうちに食べていれば、どんなものも美味しく感じなくなってしまいますから、結果的に美味しいものが食べられなくなってしまうということですね。


これは、他のどんなパターンにも、だいたい当てはまっていて、適度な「苦痛」や「我慢」がないと「快楽」は継続できないんじゃないかと思うのです。


そして、その「苦痛」や「我慢」を、「快楽」のための「過程」として「楽しいこと」と捉えたり、「快楽」を増幅するための手段として捉えたりする人こそが、「真の快楽主義者」の中でも、更に「究極の快楽主義者」なんだと思うわけです。


例えば、のどが乾くまでジッと待ってから、良く冷えた飲み物を飲むときに(なんか、「例え」がかなり地味ですが)、その「ジッと、待っている時がとても楽しい」と思えるというようなことですね。
(まぁ、『遠足に行く前の日が一番好き』って言うことですね)

ただ、ここでハマリすぎてはいけないわけです。
あくまで、「修行」ではなく「快楽主義」ですから、「快楽」を追究していかないと、モトノモクアミですよね。

だから、その辺の所を、どのぐらい我慢するのが、一番キモチイイのか?と、バカバカしいくらいに真剣に研究したりするような、そういう人ですね。

出来ることなら、そんな「究極の快楽主義者」に成りたいなと。


そんな風に思うわけなのです。


受け入れ過ぎ?



何かについて抵抗したり抗議したりしている人に対して、『そんな風にジタバタしても、なんにも成らないんだから、現状を受け入れてしまった方が楽ですよ』と言うのを、よく耳にするわけですが、これは、今の時代には当てはまらないような気がするわけです。

まぁ、要するに、一言で言ってしまえば、時代遅れ(または時代錯誤)な感じがするわけですね。

とにかく、現代人と言うのは、何かにつけて「受け入れ過ぎ」だと思うのです。

と言っても、昔の人がどうだったのかは知りませんけど、少なくとも、今の時代は「国」とか「社会」とか「世間」とかと言った大きな単位から、「職場」や、時には「友人」や「家族」と言った小さな単位までの、ありとあらゆる形の「集合体」の「要求」が、すべて「個人」に対して集中してしまいますから、それを全部受け入れていたら、まったくもって”身がもたない”わけです。


これは「情報化社会」の特徴でもあり、また欠点でもあると思うのです。

「集合体」から発信される「情報」が異常なほど多くて、早く伝わるので、「個人」が、その「要求」に振り回されるわけですね。


それなのに「集合体」の側は、往々にして、「個人」からの「情報」を汲み上げるようなシステムを持ちませんから、「個人」が、一方的に「受け入れ過ぎ」になってしまうわけです。


そして、その結果「受け入れ過ぎ」に疲れ切った「個人」が、「集合体」の機能を低下させているというのが、現代の状況なんじゃないでしょうか?


例えば、「国」や「社会」は「労働者の権利」として、「8時間労働」や「有給休暇」を保証するという「情報」を流していますが、「企業」や「職場」は「人件費削減」と言う「情報」を流す場合があります。

そして、それらの「情報」は、どちらもほとんど流されたまま「ホッタラカシ」にされてしまうわけです。
すると、その時々で、一番力の強い「情報」が「個人」を振り回してしまうわけですね。


景気が上昇中の時には、、『どんどん働け!』と言われ、それが、安定してくると、『そんなに働くのは馬鹿だ』と言われ、景気が悪く成ってくると、『サービス残業も当たり前』になってしまいます。

それらに対して「個人」が反映されることは、ほとんどありません。


『もっと、働きたい』と言うのも、『残業したくない』と言うのも、どちらも、「個人」の正当な「要求」なハズなのに、それが、その時一番強い「要求」と一致していないと、通らなくなってしまうわけですね。
(「個人の要求」は、たいてい「集合体の要求」よりも弱いですからね)

これらは、どちらも「人のやる気」を削いでしまいますから、結果的には、何も生み出さないわけですね。


こういうことは、必ずしも現代に限ったことでもないとは思いますけれど、昔の方が「情報」が少なかったのは間違いがないことでしょうし、「情報」が伝わるスピードも、どんどん加速され続けているわけです。


そんな中で、一昔前と同じように「泰然自若」として「受け入れ」続けても、何も生み出されませんし、誰も”トク”しません。

昔は「情報」の量が適度だったので、「人情」で、その辺が調整できたということでしょう。


本来は、今も昔も人間が「受け入れる」べきものは「自分」であって、「外界からの要求」ではないんじゃないかと思うわけです。


「自分」の内的な世界を見つめて、それを「受け入れる」ことと、「外界からの要求」を「受け入れて”しまう”」こととは、全く違うことなんじゃないかと思うのです。
それは、むしろ反対のことと言うべきものなんだと思うのですが、どうでしょうか?


この二つを混同して『受け入れてしまった方が楽ですよ』と言ってしまうと、言われた側の人は、その二つの「正反対のこと」を同時に突き付けられますから、混乱して、どうしたらいいのか解らなくなてしまうわけです。


「自分を受け入れること」ができれば、確かに「楽」になれるように思います。
しかし、これは案外”ムズカシイ”ですね。

「外界からの要求を受け入れること」は、「その場に流されること」と、ほとんど同じ事ですから、ある意味で”カンタン”です。
でも、ちっとも「楽」になんかなりませんね。

ほとんどの場合、むしろ、受け入れれば受け入れるほど「辛く」なって行きます。


この相反する二つのことが区別されずに、一つの同じこととして、『受け入れた方が楽ですよ』と言われてしまいますから、困ってしまうわけです。


『受け入れた方が楽ですよ』と言っている側の人は、『自分を受け入れること』を”漠然と”想定して言っている場合が多いですね。
ただ、”漠然と”ですから、”ムズカシイ”の部分が抜けているんですね。
むしろ、それは”とてもカンタン”なことだと説明されてしまうケースが多いですね。
(確かに、やってしまえば”カンタン”なのかも知れませんが)

でも、それを、言われた側の人は、「外界からの要求を受け入れること」をイメージしてしまいます。
ほとんどの場合、そういうことを話しているわけですからね。
(「自分を受け入れること」を本気で考えている人は、それについて他人に相談したりはしないでしょうね)

言っている側の人と、言われている側の人の「話の層」が食い違ってしまっているんですね。
片や「楽にはなるけどムズカシイこと」を話していて、もう一方は「カンタンだけど楽にならないこと」を聞いているわけです。

そこで、「カンタン」と「楽」がすり替えられてしまうわけですね。
それで、ただ単に「カンタン」なだけの「外界からの要求を受け入れる」ことが、いかにも「楽に成ること」のようになってしまうわけです。


これをやると、その場に流されている分だけ「楽」に成ったように錯覚するので、初めのうちだけは、いいかもしれませんが、すぐに、「辛く」なってしまいますよね。


基本的に、人間が完全に「自分を受け入れる」ことは出来ないと思います。

でも、部分的にであっても、人間が「自分を受け入れた」場合、少なくとも、その分だけは、「外界からの要求」に抵抗できるように成るんじゃないかと思っています。


「自分を受け入れた」人は、「外界からの要求」に対して抵抗しない理由が少なく成るということかもしれません。

納得できないようなことに対して、人が抵抗しないのは、その抵抗が通らなかったときに「自分の弱さ」を見せつけられることに耐えられないからなんじゃないでしょうか?

そういう「自分の弱さ」を受け入れた人は、もし、たまたま「外界からの要求」と「自分の考えていること」が一致している場合でも、「外界からの要求」を、半ば強制的に「受け入れ”させられる”」という形には、抵抗するように成るハズなんじゃないでしょうか?


これは、「ワガママを通す」とか「自己愛的」という意味での「エゴイズム」とは違うと思います。


「エゴイズム」は、力の優劣とは無関係に「自分」を「要求する側」に置いて、『自分を通そうとする』性質のもので、「自分を受け入れている」とは言えないでしょう。

  ※「自我」と言う意味では一致している部分もあると思います。


「自分を受け入れた」上での「抵抗や抗議」は、おそらくその「抵抗や抗議」が通らないだろうという前提での「抵抗や抗議」です。

自分より力のある者に抵抗して、初めてそれが抵抗に成るわけですから(力の弱いものに対する抵抗は、抵抗と言うよりは「要求」に近いでしょう)、通らない確率が高いわけですね。


その「通らない」と言う「自分の非力さ」を「受け入れる」から、そこで、臆せずに抵抗できるように成るわけです。


「受け入れた方が楽ですよ」と言うと、一見、人生を「達観」しているように見えます。
しかし、実際には、「力関係」で上位の者に”コビヘツラッテ”いることに成ってしまっていますね。
さらには、それを、「達観」しているように見せてしまっているわけですから、「非力な自分」も「実際には達観できない自分」も誤魔化されてしまっています。

これは「自分を受け入れている」とは言えませんね。


むしろ、受け入れるべきなのは「そういう自分」なのではないのでしょうか?
「”コビヘツラッテ”いる自分」や「自分をよく見せようとしてしまっている自分」を認めて、それを「受け入れること」こそ必要なのではないでしょうか?

そこで、そういう「自分の弱さ」を受け入れた人は、自分が「受け入れるべき」と判断したことは、受け入れるでしょうが、「受け入れるべきでない」と判断したことには、抵抗するでしょう。


「受け入れるべきでない」と判断しているのに、抵抗しないのは、その人が「弱い」からではなくて、「その弱さを受け入れていない」からだと思うわけです。


要するに、そういう時に抵抗しないのは、「抵抗できないから」ではなくて、「抵抗しても通らなかったときに”カッコワルイ”から」なんだと思います。


そこで、「人情」すらも機能しなく成ってしまった現代においては、何かについて抵抗したり抗議したりしている人に対しては、『受け入れてしまえば楽ですよ』と言うのではなくて、

『その要求を受け入れる必要など、まったく無い!』

『その抵抗が無駄だとしても、そんなことは、どうでもいいんだ!』

と言うのが「人情」のある言葉なのかなと。


そんな風に思うのです。

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2019年5月に追記

読み返したら、自分でも意味がよくわかりませんでした。
たぶん、読んだ人には、理解不能だと思います。

自分では、読んでいるうちに、書いたときの気持ちを思い出してきて理解できるようになりましたが、人には伝わらないだろうなと思います。
なんとか、意味が伝わるように書き直そうと考えましたが、どうも無理そうなので諦めました。

いっそのこと、削除してしまおうかとも思いましたが、この記事は気に入っているので、一応残しました。


そういうわけで、読んだ方はご愁傷さまです。

さらに、この追記まで読んでしまった方には重ねて、お悔やみを申し上げます。


「受け入れがたいものを受け入れること」と「拒否しがたいものを拒否すること」



前の記事に関連したことに成ります。


前の記事では、現代人は、「外界からの要求」を「受け入れ過ぎ」なのではないか?

そして、本当に受け入れた方がいいのは、外界から要求されたり、突きつけられたりするものではなくて、自分自身の中の「弱さや不完全性」を含めた「本当の自分」なのではないか?と言うようなことを書いたわけです。


さて、それに近い話で、「受け入れがたいものを受け入れること」が人間を成長させる、と言う考え方があると思います。
こういう考え方においても、ほとんどの場合、その「受け入れがたいもの」とは「外界からの要求」なんだと思うわけです。


ただ、そこで、敢えて「受け入れがたいもの」と言っていることで、それが「受け入れるのが非常に困難なものの」であるという条件が付いているわけです。

それで、結果的には、その「受け入れがたいもの」を「受け入れる」には、「本当の自分」をも、受け入れなければならないだろうということで、それが、人を成長させるということに成るのだと思うわけです。


まぁ、やっぱり「非常に困難」ですから、それを「受け入れる」過程で、「なかなか受け入れられない自分」や、意識としては「受け入れているつもり」でも、実際の行動が付いてこない「ジレンマ」などを、受け入れる必要が出て来るということなんでしょうね。


確かに、それは「自分を受け入れること」に成るように思います。


さて、そこで、これとは正反対に、「拒否しがたいものを拒否すること」についてはどうなんでしょうか?


人生の中には、「受け入れがたいもの」もありますけど、「拒否しがたいもの」と言うのもあるわけですね。
ただ、ここでは「抵抗できない誘惑」のようなものとは違って、もっと「拒否できない」の圧力が強いものということですね。


例えば、第二次大戦中の日本で、『私は人を殺すのは嫌なので、戦争なんかには行きません』と言って、徴兵を拒否することは、非常に「拒否しがたいものを拒否すること」ですね。


確かに、本当の意味で、「受け入れがたいものを受け入れること」は、「自分を受け入れること」無くしては、達成できないことのように思われます。

でも、実は「拒否しがたいものを拒否すること」もやはり、「自分を受け入れること」ができないと、達成できないことなんじゃないかと思うわけです。

と言うよりも、むしろ、こちらの方がより一層「自分を受け入れること」の比率が高くなるんじゃないかとも思います。


前の記事でも書いたことですが、「自分を受け入れた人」は、「外界からの要求」に対して抵抗するようになるものだと思っています。


人間には「自我」がありますから、その「自我」を持っている「自分を認める」ということは、その「自我」を表出するということに成るんだと思いますが、どうでしょうか?

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※ 「自我」を消滅させることをもって「悟り」とする宗教的な考え方がありますが、
  その「悟り」と言うのは、不可能なことであるという前提で語られる「達成不能
  な完全」という話なんじゃないかと思うのです。

  これは個人的な考えですから、そのほかの考え方を否定するつもりはありま
  せんが、「空」とか「無」と言うような「悟り」的なものは、現実に、人間が追い求
  めるために設定されたものではなく、「人間が遠く及ばないもの」として設定され
  ているんだと思うのです。
  それは、「涅槃(ねはん)」のような、「現実とは違う所」にあるもので、現実の世
  界でそれを追い求めることは、ある意味、最もそれから遠いことになってしまう
  んじゃないかと思うわけです。

  敢えて言えば、そこには手がとどかないかないということを知るために、つまり、
  「自分の非力さ」を思い知るために追究するということなのかも知れませんね。

  これは仏教系の宗教以外でも、同じようなことが言えると思っています。

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いずれにしても、「自我」を消滅させることは、そう簡単にできることでもないので、取り敢えず、”ヌキ”に考えてもいいんじゃないかと思いますので、人間には、「自我」があるという前提で言うと、やっぱり、「自分を受け入れた人」は、「自我」を表出するように成って行くものなんじゃないのかなと。


そうなると、やはり、「外界からの要求」に対しては抵抗することが多くなるように思うのです。


それは、「受け入れがたいものを受け入れること」で言うと、「自分を受け入れた人」が「受け入れがたいものを受け入れること」を選択するのは、それが、一番”マシ”な時だと思うのです。


「自我の判断」は「拒否」であっても、抵抗したり拒否したりすることを試したうえで(頭の中で試考するだけの場合も含めて)、それが何も生み出さないと判断した時に、仕方なく、『受け入れがたいものを受け入れる』ということなんだと思います。

つまり、「自我」を抑え込んで、「ただ漫然と受け入れること」ではないということです。


「漫然と受け入れること」は、「受け入れた」のではなく、「耐えた」或は「我慢した」ということだと思います。


また、「拒否しがたいものを拒否すること」においては、「自我の判断」が「拒否」であることは同じですが、「拒否」するのが困難なために、「受け入れて」しまった方が”楽”な場合に、敢えて、「自我の判断」に従って、困難な方を選ぶということに成ります。

結果的に、「外界からの要求」に対して、それを「受け入れるか、拒否するか」ということは絶対的な問題ではなくて、本当の問題は、「自分」をどう扱うかなんだと思いますね。

それが、人間にできることの限度だと言ってもいいのかもしれませんね。


現時点で、人間にできるのは、「自分を知ること」ぐらいなんじゃないですか?
まだまだ、「涅槃」は遠いと思いますね。


「自分の中」をどこまで見つめられるのか?そして、その結果として、どんな「自分」を「本当の自分」とするのか?
さらには、その「本当の自分」を「受け入れられる」のか?
ということなんじゃないのかなと。


それだけで、じゅうぶん大変!


そんな風に思います。

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2019年5月に追記

前の記事に続いて、こちらも意味不明だと思いますが、自分が気に入っているという理由だけで残します。

どうもすいません。



「複雑明快」



「単純明快」と言う言葉がありますけど、「複雑難解」と言う言葉はないですね。


「単純明快」があるなら、「複雑難解」もあるだろうと。
それから、「単純難解」も「複雑明快」もあってもいいんじゃないのかなと。
そんな風に考えてみたわけです。


「単純」なものが、皆「明快」とは限らないですし、「複雑」なものでも、中には「解りやすい」ものもあるわけで、そう考えれば、「複雑明快」なものもあってもおかしくはないだろうということです。


要するに、自分の制作において、「複雑明快」を目指しているということなんです。


「単純明快」は「いいこと」のように成っていますけど、「芸術作品」としては「どうなの?」っていうところもあるわけですね。


必ずしも悪いことではないと思いますけど、やっぱり「複雑さ」もあったほうがいいかなっていう風に思うわけなんですね。
これは、ただ単に”好み”の問題だと思います。


要するに、自分が「複雑にすること」が好きなんですねぇ。
でも、だからと言って「難解」は嫌いなわけですよね。

だから「複雑明快」になってしまうんですねぇ。

「複雑」なものを「明快」に表わせたら”サイコー”だなって思ってしまうんですね。

他人のものだと、「単純明快」なものでも、”キマッタな”っていうのがありますけど、私の場合はめったにないですね。
自分の性質にあってないんでしょうね。


時々、これで、もう”キマッテル”んじゃないか?っていうときもあるにはありますけど、どうしても、もう一人の自分が出てきて、『いや、まだだろう?そんなはずはないだろう』と言うので、『そうですよね、じゃないかと思いましたよ、私も』となって、また「複雑」なものを求めていってしまうわけなのです。

でも、「難解」は嫌いですから、困ったもんですよね。


ちなみに、はじめに挙げた中で、”サイコー”が「複雑明快」ですが、”サイテー”は「単純難解」ですね。

『いや、単純なのに難解なものなんて無いだろ!?』

「あります!」
「けっこう、よくあります!!」

あくまで、私的な見解ですけどね。


まぁ、そんな風に思っています。




「人権」ってナニ?



「民主主義」は、「人権」を前提にして成り立っているわけですが、その「人権」って、いったいナニ?と言う話です。


そもそも、「基本的人権」と言っていますけど、あまりに当たり前すぎて、やや漠然としているという感じもするわけです。


百年も二百年も前ならば、「基本的人権」は光り輝いていたでしょうが、それは、その前の時代が、とても不平等であったということでしかないわけで、現代において、いまだに「基本的人権」さえあれば、それでいいということでもないんじゃないかと思うのです。

要するに、「基本的人権」は、ごくごく当たり前のことしか保証してくれないということですね。
まぁ、それだからこそ「基本的人権」は大事でもあるんでしょうけどね。

でも、やっぱり、「基本的人権」は当然のこととしたうえで、「現在形の人権」について考えていってもいいような気がするわけですね。


例えば、現在の労働環境に置いて、「労働者の人権」はあまり尊重されているとは言えません。

企業側や資本家の権利は手厚く守られていますが、「労働基準法」などは、実質的には労働者を守る法律になっているとは言えないでしょう。
そうでなければ、そもそも「ブラック企業」なんて存在すらできないハズですからね。


どちらかと言えば、「労働基準法」があることで、企業に『「それ以上のこと」はしなくてもいいですよ』と言う「お墨付き」を与えてしまっているところもあるように思います。


そして、さらには、違反しても明確な罰則規定がない場合も多いわけですから、むしろ、守られているのは「労働者」ではなくて、「企業側」と言ってもいいくらいでしょう。


また、過労死やパワハラなどの問題についても、被害者が出てからでないと機能しない法律と言うのは、法律として機能しているともいえないと思うわけです。
(実際は、命にかかわるような被害が出てからでないと、あまり役に立ちませんね)


それから、学校での「イジメ」について言えば、「子供の人権」も、まったく守られていません。

子供たち自身はもちろん、学校も、親も社会も、「子供のイジメ」をどうすることもできません。


昔なら、たかが「子供のイジメ」のハズだったのに、それが「自殺」などの「悲惨」と直結してしまっています。
一昔前のように、『たかが、子供の喧嘩だろ』と言っていられる状況でもないと思います。


「人権」ってナニ?って言いたくなりますよね。
そもそも、弱い側を守るのが「人権」の役割ではないかと思うのですがどうなんでしょう?

少なくとも現在は、社会的に強い側を守る「権利」は確立されていますが、弱い側を守る「権利」となると、急に『一応形だけは、ある』みたいな、極端にあやふやなものになってしまっているわけです。


しかし、はじめに書いたように、「民主主義」が「人権」を前提にしか成り立たないものであるのならば、この「あやふやさ」は、完全に「民主主義」自体の危機だと思うわけです。


今の政治家で、なんとしてでも「子供のイジメ」や「ブラック企業」を減らそうと、本気で尽力している人はいるんでしょうか?
「子供のイジメ」を減らすことすらできない人に、他の何ができるんでしょうね。

少なくとも、「自殺」に直結するような「イジメ」や「労働問題」を「しょうがないから」と言って放置しておいて、他に何ができると言うんですか?


もともと、「政治」と言う機構に、それ程の有効性はないというのが実態だと思っていますが、だからと言って『やろうともしない』というのは受け入れられませんね。


『政治がやる』のではなく『政治がやろうとする』ことによって、『社会がそっちの方向を向くようになる』ということじゃないでしょうか?
実際に有効性が現れるのは、さらにその後、ということだと思います。

だから、当然、「その政治家」が評価されることはありません。
効果が現れるのは「その政治家」が、「その尽力」をしたときではなくて、そのずっと後になってからで、しかも、思わぬ形で結果が現れて来るので、「その尽力」が原因であることはなかなかわからないわけですね。


いずれにしても、誰も『やろうともしない』なら、どうにも成るわけがないですよね。


そういうことを「やろうとした人たち」によって、作られてきたものの一つが「民主主義」なわけです。
その過程では、「革命」などにおいて、多くの血も流されています。

日本だって、開国に当たっては多くの人が命を失くしていたりもするわけです。


そうやって、やっと手に入れた「民主主義」なのに、「人権」一つ守れないというテイタラクは何なんですか?


とにかく「人権」を守らなければいけないと思います。
もっともっと、「人権」を尊重しなければ、「民主主義」も崩壊してしまいます。


「民主主義」が当たり前だと思って育った我々が、「民主主義」が崩壊した世の中で暮らすのはツライと思いますよ。


いま、戦争する勇気がある人はいるのかもしれませんが、「民主主義」が崩壊した世の中で暮らす勇気がある人っているんですかね。

自分が「奴隷」に成るかも知れないのに、それをやりますか?
そんな「チャレンジャー精神」はいらないですね。

私は無理ですね。

「権力者」の側に立つのもゴメンですね。
そうなったら、死ぬまでに何としてでも権力の座を離れますね。

死に切れませんからね。


間違いなく言えることだと思うんですけど、世の中で、今、一番大事なことは「人権」を確立することですね。


それ以外の「経済」や「軍事」や「国際関係」は、かなぐり捨ててでも、「人権」を確立するべきだと思いますね。


それができた国は、まだありません。
だからこそ、それをやる意味がありますね。

それでなくてどうしますか?
「民主主義」、無くなってもいいんですか?

他になんかあるんですか、替わりのモノが?


と言う風に思っています。




人が「真実」を恐れる理由



人は「真実」を嫌うものだと思うわけですけど、なぜ、「真実」をそんなに嫌うのだろうかと考えるわけです。


『いや、そんなことは無い!人間は真実を嫌ったりするとは言えない!!』と主張する人もいるかもしれませんよね。

そういう考えもあると思いますし、そういう人だっているとは思います。


でも、やはり、完璧な人間は居ないわけですから、その自分の中の「完璧じゃない部分」や、自分には「到底理解できないこと」があるということ、については、普通の人は見たくないものなんだと思うわけです。


と言うよりも、「見たくない」なんてナマヤサシイものじゃなくて、どちらかと言うと、「絶対に見たがらない」と言うのに近いんじゃないかと思います。

要するに、それは、「真実を恐れているから」なんだと思うわけです。


一体、何をそんなに恐れているのかと言えば、「自己のアイデンティティーが崩壊してしまうこと」なんだと思うのです。


つまり、人間は、「真実」を見てしまって、それを自分が認めてしまうと、自分の中の価値観が崩壊して、今立っている足場を失ってしまい、さらには、自分の存在すらも希薄になり、『生きている実感を失ってしまうに違いない』と思っているんだろうということですね。

たぶん、実際には、そんなことは起き無いんでしょうが、そう思っている人がとても多いとしか思えないほど、人が「真実」を恐れているのは確かなことでしょうね。

とは言っても、本人がそれを意識しているわけではなく、そう思っている人は、ごく当たり前のこととして、無意識に「真実」を忌避しているんだと思います。

そして、これがどうもよくないことなんじゃないのかなと思うわけなのです。


でも、これは当然と言えば当然のことだとも思います。

なにせ、ちょっと考えただけでも、『自分が存在している理由なんて、何もない』っていうことには、すぐに行き当ってしまいますし、『宇宙や世界の真理なんて、何もわからない』ということだって、みんなどこかで知っています。

そんな中で、目標を失わずに生きていくなんて、とても出来ないと思うのは当然と言えば当然のことですよね。


でも、実は、これはまったく恐れるようなことではないわけで、実を言えば、その『恐れる必要がない』ということも、みんなどこかでは知ってるんじゃないかと思うわけです。


ところが、その『恐れる必要がない』と言う部分が意識されることは、ほとんどありません。

その前に避けられてしまうために、なんとなく適当に『そんなこと考えたってしょうがないんだ』と言って「思考を停止」してしまうわけですね。

それで、「不完全な自分」や「理解できないこと」を「むやみに恐れること」だけが、意味もなく強く残ってしまうのでしょう。


確かに、「真実という箱」を開けてみたら、中は「真っ黒」だった。
しかも、いくら光を当てても全部吸い込まれてしまって何も見えない。

と言うのは、とても恐ろしいことでしょうから、あまり見たくないと思うのも当たり前かもしれませんが、その反面、いつでも「現実」はそこにあるわけで、そちらに目を戻しさえすれば、ちゃんと光を照り返してくれる世界がそこにあるわけです。
だから、ことさらに「真実」を恐れる必要もないわけで、また、ひたすら真っ暗な「真実という箱」の中をのぞき続けることにも大した意味はないのだと思うのです。


むしろ、そこで「真実」を恐れてしまって、「思考を停止」してしまって、まったく見ないようにしてしまうことによるマイナスが、とても大きいように思うわけです。


「現実」も、また、一つの「真実」なわけですから、ことさらに、「真実」を忌避していると、しまいには「現実」すらも見失ってしまうことにも成りかねないわけですから、出来ることなら、「真実」を恐れずに、少し気軽に見ていくのがいいんじゃないかなと。


そして、たまたま、「真っ黒なところ」に行き当たったら、一応確認する程度で、やり過ごしてやればいいんだと思うのです。


そこは、そこで、気が向いたら考えてみればいいと思いますけど、考えても、そこには結論など無いわけですし、それも、みんな知っていることなわけですから、そこに、力を使っても、なにかが得られるというわけでもないでしょう。


まぁ、「哲学的な真理」や「宗教的な悟り」を追究する人が、そこに取り組むことは無駄ではないと思いますが、その辺に全ての人が興味を持つわけでもないでしょうから、そういうことに特に興味がない人は、その「真っ黒な箱の中」をじっと見続ける必要はないと思うわけです。


それよりも、そこを忌避するがために、「思考を停止」してしまうことがよくないように思います。

先ほども述べたように、ちょっと考えただけで、すぐに「真っ黒な箱」に行き当たりますから、そこで「思考を停止」するということは、ほとんどなにも考えないことになってしまうわけで、それでは、「考える生き物」である人間としては、不十分なんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


そういうわけで、人が「真実」を恐れる理由なんて、もう、何もないと思うので、「自分の中の真実」を気軽に見られるように成ればいいんじゃないのかなと。


そして、それが「人間への入り口」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。




「上・下の差」と「平等」



「平等」と言うと、「上・下の差」が無いことなんでしょうね。

それが「平等」の意味なんだと思うわけですけど、どうも、「平等」と言われるときに、やや、そこから意味がずれている時が多いんじゃないかと思うわけです。


つまり、「上・下の差」が無いことではなくて、「上・下の差」を埋めることを「平等」と言っていることが多いんじゃないかと思うわけですね。


「上・下の差」は必ずあるものとして、「無いハズがないもの」と言う考えに基づいて、それでも、「平等」にしなければいけないから、無理にでも「上・下の差」を埋めて、その「段差」をなくす、ということを「平等」と言っている場合が非常に多いんじゃないかと思うわけです。


確かに、それでも、一応平均化することには違いないでしょうが、それは、「なんとなく均等」ではあっても「人間としての平等」とは言えないような気がするわけです。


実際には、人間社会に「平等」と言う考え方が必要になってきたのは、「上・下の差」があっても、なんとしてでも「均等」にする必要があったからではなくて、「上・下の差」と言うものは、実際には、ほとんどないということがわかってきたから、もしくは、「上・下の差」を判断することがほとんど不可能なほど、人間の価値基準が複雑になったからなんじゃないかと思うわけです。


人間が、もっと動物的であった時には(今も動物ではあるんですが)、おそらく人間の価値の基準は、かなり単純であったわけです。

例えば、「体が大きい」とか、「心身ともに丈夫である」とか、「生殖能力が優れている」などと言った、ある意味で単純な要素が価値基準のほとんどだったわけです。
(それだって、本当は複雑なんでしょうが、人間にとって把握し易いということなのでしょう)


ところが、人間が「知能」に特化した生き物に成った時から、人間の価値基準は、急激に複雑化して、それは、あまりにも、多岐にわたっているために、もはや、「上・下の差」を設定しきれないほどに成ってしまったわけです。

例え、そこに「上・下の差」が存在するのだとしても、複雑すぎて、誰にもそれを正確に判断することが出来ないし、敢えて、無理矢理に、その判断を下さなければならないほどの大きな差も無さそうだから、「すべて平等」ということにしてしまったほうが、わかりやすくていいだろう。

ということで「平等」と言う概念が確立されてきたんだと思います。


それなのに、いまだに、「平等」ということを、「上・下の差」を埋めることだと思ってしまうのは、なぜなんだろうか?と考えるわけです。


おそらく、それは、「社会のヒズミ」が創り出している「力の上・下の差」を、「人間の価値の上・下の差」と取り違えてしまうからなんじゃないかと思うわけです。


例えば、「レイ・チャールズ」や「スティービー・ワンダー」のような盲目のミュージシャンが居ますが、彼らが野生動物であれば、自然界の法則の下に、真っ先に淘汰されてしまったでしょう。

しかし、人間が「知能」や「知性」に特化した生き物であるために、彼らには「ミュージシャン」と言う仕事が与えられ、それによって、彼らは社会の中で成功して、「力の上・下の差」において、「上」に位置することが出来たわけです。

そこで、成功した彼らを低く見る人は多くはありません。
でも、彼らが、もし、紙一重の差で、ヒット曲を生み出せなかったら、どうだったでしょう。

黒人で盲目である彼らの選択肢は多くはなかったのかも知れません。
また、「力の上・下の差」に置いて、「上」に位置することも無かったんじゃないでしょうか?


「人間の価値の上・下の差」に置いては、ほとんど変わらないのに、社会の中での「力の上・下の差」に置いては、大きな差が出てしまうというわけですね。

そして、その二つが、混同されているということです。


このことは、人間が「知性の価値」を認めていることをあらわしてもいますが、反面、それを、正しく理解してはいないことをあらわしてもいます。


つまり、人間が「知性の価値」を認めているからこそ、一流ミュージシャンとしての「レイ・チャールズ」をバカにしたりはしません。

しかし、その「知性の価値」を、正しく理解してはいないから、売れないミュージシャンとしての「レイ・チャールズ」のことは、平気で低く見るというわけです。

むしろ、それは「当然のことだ」と言う考え方の人も多いのでしょう。


これは、何も彼らのような有名人に限ったことではなく、一般人に対しても同じことが言えていて、実際に「上・下の差」があるのは、社会の中での「力関係」に置いてであって、「人間の価値」に置いてではないわけです。

そこのところを取り違えたままで、「平等」などと、言葉だけで言っていても、そこには、ほとんど価値はありませんし、そういう中で、無理して「上・下の差」を埋めようとしても、すぐに本音が出てしまうわけですね。


つまり、そういう人は自分の中に「差別的な面」を持っているということですね。
と言うよりも、すべての人の中に、そういう「差別的な面」があるといってもいいのかも知れません。

その部分が、大きい人と小さい人が居るということなんでしょう。

それなのに、教育で「平等」を徹底的に刷り込まれていますから、そちらにも逆らえなくなっているわけです。


そこで、「上・下の差」はあるけれど、「それを無理にでも埋める」と言う方法論が導き出されてくるのでしょう。


そういう人は、無理して「平等」なんて言わずに、一度、自分の中の「差別的な面」を、受け入れてみたほうがいいように思うのです。


そして、その「差別的な面」が、簡単に受け入れられてしまうのであれば、それは、それで、その人にとっては仕方ないことなんだと思います。

その人は、もしかしたら、「差別主義者」としてやっていくしかないのかも知れませんね。


でも、もしも、それが受け入れられないのであれば(実際は、ほとんどの人が受け入れられないハズですけど)、「上・下の差」なんてものは、もう、とっくに存在しないということを、認めるしかないんだと思うわけですね。


少なくとも、人間同士の間にはですね、もうだいぶ前から、「上・下の差」を設定することには、意味が無く成っていると思うんですよね。

それなのに、なんで、そうまでして「上・下の差」があるということにしたいんですかねぇ。


要するに、『ここから下の相手に対しては、威張ってもいいんだ』とか、『ここより上の相手になら、ペコペコしても恥ずかしくはないのさ』と言う基準が欲しいんじゃないんですか?


『あなたは恥ずかしくないでしょうけど、傍で見ているとけっこう恥ずかしいもんですよ』


傍で見ているのは「人間の私」ですね。

見られているのは「動物の私」です。

もしも、両方とも「私」だったら、という「話」ですね。


そういう風に思います。



 

「動物の自信」と「人間の自信」



「自信」と言うと、一般的には「自分には〇〇が”できる”と確信していること」ということに成っているわけです。
でも、実は、この「〇〇が”できる”型」の「自信」と言うのは、「動物の自信」なんじゃないかと思うわけです。


たとえば、「サル山」のボス猿」は、常に「自信満々」ですよね。

それは、おそらく『オレ様は〇〇ができる』と思ってるんですね。
人間でも、そういう「お山の大将」系の人は、けっこうたくさん居るんだと思いますけど、どうも、これを「人間の自信」だとは思えないわけなのです。


一方、それとは反対に、いかにも頭の良さそうな人に、「それはわかりませんね」とか「そういうことは全然知らないんですよ」なんてミョウにキッパリと言われてしまうと、『この人は相当自信があるんだな』と感じてしまうことがあったりしますよね。

これは「〇〇ができない型」の「自信」ですね。


ただ、これは正確には、「〇〇ができないと”言う”自信」で、大抵の場合は、「他のナニカができる」という「自信」が裏付けになっているわけです。

だから、結局はこれも、「〇〇ができる型」の変形なんだと思うんですね。


それでも、やっぱり、『〇〇ができない』と言う言葉を使うことで、随分、「知的」な感じがしてくるというのはあるんじゃないでしょうか?


つまり、「〇〇ができる型」の「動物の自信」と比べると、「知性的」或は「精神的」な感じがする分だけ、「人間らしく」見えるのでしょうね。

「動物の自信」は「身体的」や「肉感的」ということに成るんででしょうか。
これは、どちらが上ということでもありませんが、人間はやはり「人間らしく」の方が合ってるんじゃないかと思いますので、

「人間の自信」を持つようにした方がいいんじゃないのかなと。


その場合の「人間の自信」は、やっぱり「〇〇ができない型」の「自信」に成ると思うわけです。
この場合は、先述の「裏付けのある自信」ではなくて、裏付けがなくても、『〇〇ができないことに自信を持つ』ということですね。

言ってみれば、「何もできないということの自信」ですね。

それは、言い換えれば、「自分の存在自体に対して自信を持つ」ということに成ります。
だから、もっと正確に言うなら、「”できる”・”できない”に関係ない自信」ですね。

つまり、「外から与えられた自信」ではなくて、自分の中で、「自家発電」のように創り出された「内なる自信」ですね。


それが、たぶん最も「精神的な自信」なんじゃないかと思うわけですね。


そして、それは、最も強い「自信」でもあるんだと思います。

「外から与えられた自信」は「外の状況」によって、左右されてしまいますが、「内なる自信」はそれほど、変化することがないと思いますし、何より、「人間」に合っていますからね。


だから、今、「自信」がある人もない人も、「動物の自信」に頼らず、前もって、「人間の自信」を自分の中に創っておいた方がいいんじゃないかなと。

そのうち、もしかしたら必要になるかも知れませんよ。


そういう風に思います。




「定型化」したもの




「芸術」の場で、「定型化」したものは「価値」が低いということに、表向きではなっているわけです。

でも、一般的に、「定型化」したものにこそ、安定した「価値」があるのは間違いのないことでしょう。
つまり、すでに試されて「価値」が確定しているわけですね。


そして、実は、「芸術」の場においても、常に、安定して評価されているのは、こうした「定型化」したものだったりもするわけです。


まぁ、大雑把に言えば、「抽象画」よりも「具象画」の方が売れる確率が高いし、「感性に頼った作品」よりも「技術に頼った作品」の方が、評価されやすいということに成りますね。

もちろん、「有名」になれば、話は違って来るんでしょうけどね。
その場合、「有名」と言うことが「一種の定型」に成っているということでしょう。

少なくとも、日本ではそんな状況だと思います。


なぜ、そういうことに成るのかと言えば、はじめに書いたように、「定型化」したものには、「確定した価値」があるからなんだと思います。

まぁ、皮肉な言い方をすれば、「人に自慢出来る芸術」或は「人から褒められる芸術」ということに成りますね。

もっと言えば、「売るときに高く売れる芸術」ですね。
「価値」が確定していますから、多くの人に共通の「価値」が、そこにあるということですね。


逆に、「確定した価値」を持たないものは、なかなか受け入れられにくいですね。

それもまた、当たり前のことですけど、「持ってると、人からバカにされる芸術」なんて、誰も欲しいと思わないですよね。
実際、「確定した価値」がないものと言うのは、持っているだけでも、そういう目に合う確率が非常に高いわけですからね。


ただ、ここで、大事なことは、「価値」は、「芸術」以外の分野でも生み出すことが出来るけれど、「意味」は「芸術」にしか生み出せないんじゃないか?ということなんです。


世の中に、「価値」のあるものは、たくさんありますし、人間が「価値」を生み出すことができる分野もいろいろとあるんだと思います。


しかし、世の中に「意味」のあるものは、いろいろとありますが、人間が「意味」を作り出すことが出来る分野と言うのは「芸術」だけなんじゃないかなと思うわけなのです。


そして、「定型化」したものには、「価値」はありますけど、「意味」は薄くなるんだと思うわけです。
つまり、すでに「価値が確定」していますから、どうしても「意味」が薄くなってしまうわけですね。


まぁ、例えて言うならば、まだ、一度も食べたことがないものをはじめて食べる時、「その食べ物」の「価値」は確定されていませんね。
従って、そういう「未知のメニュー」は注文される確率が非常に低くなります。

逆に、「定番メニュー」は人気がありますね。
「価値が確定」していますからね。


でも、ここで、「それを食べる意味」について考えた場合、どうでしょうか?

すでに、よく知っている味の「定番メニュー」を食べることと、どんな味なのか想像もつかない「未知のメニュー」を食べること、どちらの「意味」が大きいでしょうか?

”美味しい”とか、”好き”とかいう「価値」の部分を除いて考えたときですね。


おそらく、純粋な「意味」の部分だけで言うと、「未知のメニュー」の方が、「それを食べる意味」が大きくなると思うのですが、どうでしょうか?

そして、その「意味」が創作されると、「料理」も「芸術的」に成るんだと思うわけです。


「定番メニュー」を選ぶか、「未知のメニュー」を選ぶかも、「定型化した芸術」を選ぶか、「定型化していない芸術」を選ぶかも、最終的には「好み」の問題ですが、そこで、「価値」を選べば、「意味」はある程度捨てられてしまうということだけは、認識しておいたほうがいいんじゃないかと思います。

もしかすると、その部分こそが「芸術の中の最も芸術な部分」なのかなと。


そんな風に思っているわけです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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