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「快楽物質」と「異常性」

「気持ちいいこと」は、とてもいいことだと思うのですが、

そういう「気持ちいい時」には、人間の脳内に「快楽」を生み出すような物質、

いわゆる「快楽物質」が出ていると言われているみたいですね。
(詳しいことはわかりませんけど)


たとえば、「パチンコ」にハマってしまう人は、

「大当たり」したときに、脳内に「快楽物質」が出ているらしいです。

そして、その「快楽」を求めて、また、「パチンコ屋」に吸い込まれていくということに成るわけです。


おそらく、「依存性」のあるもの全般で、同じようなことが起きているということなんでしょうね。

さらに言えば、その「依存的に成った快楽」が「異常性」に結びついていくこともあるわけです。


たとえば、「快楽殺人犯」や「性的犯罪者」などは、

おそらく、犯行時に「快楽物質」が出ていて、

そのために、常人には「快楽」と感じられないようなことを「快楽」と感じてしまい、

犯行を繰り返してしまうのでしょう。


「精神的」と言うよりも「物質的」ですから、抵抗できないんでしょうね。


まぁ、彼らのような人は、何らかの「病的な異常性」を持った人なんでしょうから、

それを、一般的な人間に当てはめて考えるのには、無理があると思いますけど、

「異常性」の一歩手前の「依存性」の段階までだと、確実に一般人にもあるものだと思います。


「快楽物質」が出ることで、人が幸せになるのはいいことなんでしょうが、

それが、こういった「異常性」と、隣りあわせのものだとは、やっぱり思いたくないですよね。


そこで、「快楽」と「異常な快楽」の間に、なんとか線を引きたいと思うわけですね。


おそらく、「異常」の一歩手前の「依存」が、その境界線に成るんだと思います。

純粋に、「やりたいから、やっている」ことが、

いつの間にか、「やりたい・やりたくない」に関係なく

「やらずにはいられなく」成った時点で「依存」に成るわけですが、

その時点からは、「純粋な快楽」と言うよりは、

ただ単に「快楽物質」が出ているだけと言う状態なんだと思います。


つまり、「快楽」であって「快楽」じゃない、

「快楽物質」に、身も心も乗っ取られた状態に成っているということなんでしょうね。


こういう「依存」の状態が、「快楽」と「異常な快楽」の間の、一つの境界線に成るんだと思うわけです。


それから、もう一つの境界線としては、人との「共感」が考えられると思うのです。


いわゆる「サイコパス」と言われる人は、

脳の機能の中の「人と共感する部分」が欠如していると言うのを聞いたことがあります。

こういうのも一種の「病的なもの」でしょうから、一般的な人とは違う話なんでしょうが、

ごく普通の人の中にも、「共感」を無視した行動をとる人は結構いるようなので、
(そういう人は、「共感」できる能力があるのに「共感」しようとしないということですから、タチ悪いですよね)

そういう人については、「共感」が「快楽」と「異常な快楽」の境界線になってくるんじゃないかと思うわけです。


と言っても、人間は誰でも「人と違う嗜好」を持っているわけですし、

そちらの方が、むしろ本来の姿なんでしょうから、

その「嗜好」が「異常性」の片鱗を持っていることは、決定的な問題でもないんじゃないかと思うのです。


それよりも、いっさい人と「共感」しようとしないことで、

「本来の快楽」には、「快楽物質」が分泌されなくなって、

「異常な快楽」にばかり、「快楽物質」が分泌されるようになって、

その「異常な快楽」が膨らんで、その他のことを押しつぶしてしまうことによって、

境界線を越えて、「異常性」の側に行ってしまうんじゃないかと思うわけです。


けっきょく、これも「快楽物質」に操られてしまっていますね。


まぁ、いずれにしても、「快楽物質」によって「快楽」が”与えられる”ということでもないんじゃないのかなと。

そういう受動的な考え方が、”ちょっと違う”んじゃないかと思うわけですね。


「快楽物質」が出るから「快楽」を感じるんだという考え方よりも、

人間が、自分の心(脳)の中に、「快楽」を生み出したときに、

その結果として、「快楽物質」が出て来るんだという考え方の方が、

「本当の快楽」に近いような気がしますね。

「本当の人間の快楽」ですね。


そもそも、人間は、「文化」や「文明」を発展させて行く過程で、「快楽」を発展させて来たんだと思うのです。


たとえば、人間に限らず、動物は食べることで「快楽」を感じるわけですが、

そこで、人間は料理を創作するという「文化」を持ったことによって、

「食べる」と言う行為の中に、「よりおいしくして食べる」と言う、

「新たな快楽の領域」を創り出しているわけです。


こういったことは、他のあらゆる「文化」や「文明」についても言えることですから、

いまや、「本当の人間の快楽」は、

「食べる」と言うだけの「単純な快楽」のようなものではなくなっていて、

もっと精神的な満足を求めるようなものに成っているんだと思うわけです。


でも、もちろん、物質的にも満足したいわけですから、

その両方が求められるわけですけどね。

ただ、「文化」や「文明」が進むのと並行して、

人間自身が創り出した「精神的な快楽」の比重が大きくなってきたということなんでしょう。


そういうわけで、「快楽物質」に乗っ取られて感じる「快楽」なんて、もういりません。

「そういう快楽」には、少し飽きてしまいました。

これからは、「快楽」を自分で創り出していきたいのです。

それこそが「本当に気もちいいこと」なんじゃないでしょうか?


そんな風に思います。




「あの世」の「不思議」

「あの世」と言うと、ほとんどの人が「天国」や「極楽浄土」のような、

いわゆる「いいところ」を思い浮かべるんじゃないかと思うわけです。


まぁ、それだけ、「自分は、ソコソコいい人だ」と思っている人が多いということなんでしょうね。

だから、「自分は地獄行きに違いない」なんて思っている人が少ないんだと思います。


それなのに、なんでほとんどの人が「死ぬこと」を、とても恐れているんでしょうね。

なんとなく、不思議な気がしますよね。


まぁ、人間は理屈じゃなくて「本能的」に、そう思うようにプログラムされているということなんでしょうけどね。

でも、その部分を抜きに考えたときにも、

やはり人間は「死ぬこと」を恐れないではいられないんじゃないかと思うわけです。


例えばの話、

「私は、死を恐れてはいますが、それはあくまで、本能的にであって、

その他に死を恐れるほどの理由は、何もありません。むしろ、早く死んで極楽に行きたいです。」

なんて言える人も、そんなにたくさんは居ないんじゃないかと思うわけですね。


こういうことを考えると、「あの世」っていう概念は、なかなか「不思議」なものだなぁと思うのです。


そもそも、「あの世」に行ったことがある人はいないわけだし、

「あの世」のイメージも、けっこう人によってマチマチだったりすると思うんですね。

それに、第一、「あの世がある」って、思ってる人ばかりでもないと思うんですけど、

なんで、「死んだら、あの世に行くんだ」っていうところだけは、

「共通の意識」に近いものになっているんでしょうね。


あくまで、自分のことで考えるとっていう話ですけど、

これは、「寂しいから」なんじゃないかと思うわけです。

「あの世」が「いいところ」だったら、死ぬ時に少し「寂しさ」が和らぐでしょうし、

「あの世」があって、死んだ後も「何も無く成ってしまうわけではない」んだとしたら、

やっぱり、どこか「安心」な気持ちになれるんだと思いますね。


逆に、「あの世」が「地獄」みたいな「ひどいところ」なんだとしたら、

きっと、ほとんどの人が「取り敢えず無かったこと」にするでしょうし、

「あの世」が無くて、死んだ後には何も無く成ってしまうというのも、

人間にとっては、かなり「寂しいこと」で、耐えられないんじゃないかと思います。


だから、みんな「あの世」があると思っていなくても、

なんとなく「死んだら、きっと天国みたいなあの世に行くんだろう」と言うところだけは、

けっこう強固な「共通意識」になっているんだと思います。


私としましては、こういう「解明不能な不思議」は、

「不思議」と言うカテゴリに分類しておくのがいいと思っているわけです。


要するに、確認されていないし、確認することは出来そうもないし、

もし確認出来たとしても、それを証明することは出来ないもの、

もっと言えば、確認すると意味がなくなってしまうものですね。

それが「不思議」と言うカテゴリなんだと思います。


そういう「不思議」は、あんまり「確信」しないほうがいいんじゃないのかなと思うわけです。

「不思議」なことを「確信」してしまうと、そこから抜け出せなくなるっていうんですか?


べつに、「死んだらあの世に行く」みたいなことを、いちいち疑わなくてもいいと思うんですけど、

いちいち「確信」しなくてもいいんだと思うわけですね。

それが、「不思議」と言うカテゴリの機能なんだと思うわけですね。


要するに、「曖昧」にしておく方がいいと思うんですね。


「曖昧」なことを”キッパリ”とさせてしまうと、

考えを変えにくくなってしまうんですね。

ただ、そこで「曖昧」だということだけを、確認しておけばいいんだと思うわけです。

そうしないと、前に進みにくくなってしまうんじゃないでしょうか?


たとえば、「天動説」のようなものは、昔の人には「確信」されていたわけですが、

それは、「大地は平らで、その端まで行くと崖のようになっている」

と言う「不思議」が「確信」されていたことに由来しているんだと思うわけです。
(これは天動説と言うより、その前にあった考えでしょうけど)


まぁ、その当時の人にしてみれば、「万有引力の法則」だって、

「いやいや、ニュートンさん、それは有り得ませんわぁ。」

と言う感じだったんでしょうから、

「まーるい地球に人間が、くっついて立っていて、それが宇宙空間に浮かんでいるんだぜぇ!」

「・・・・ごめんなさい、無理です。」

「しかも、それがすごい速さでぐるぐる回ってるらしいぜ!!」

「頼む、もうやめてくれ・・・」

と、成りますよね。


そこで、「大地が平板で、そのハジッコが崖」っていうのだって、

十分「有り得ないこと」だっていうのが抜けてしまうんですよね。

「海水」とか、どうしろって言うんでしょうね。

あと、「星空っていうのは、空に穴があいていて~」っていう「あの説」ね、

あれなんかも、相当”アナーキー”な考え方ですよね。

正に「穴あき」ですけどね。

一体、誰があけたっていうんでしょうね。


そんな感じで「不思議」は、「確信」されてしまうわけですが、

これは、過去から学ぶならば、やはり「不思議」と言うカテゴリを特設して、

「確信」せずに、そこに収める習慣をつけた方が、良いのではないかと思うわけです。


私などは、いまだに、どうしても「自分が地球にくっついている」と言う実感を持てないので、

一応、これを「不思議」に分類しております。

地球が丸いということも、この目で見るまでは、「確信」しないようにしておこうと思っています。

と言っても、「大地が平板で~」や「星空に穴が~」も

「コワすぎ!」なので、到底「確信」はできませんね。


そんなわけで、「あの世」も「不思議」に分類しているわけですが、

この「あの世」こそ、数ある「不思議」のなかでも最たるもの、

つまり「不思議」の中の「不思議」なんじゃないかと思うわけです。


ということは、最も「不思議」なところにカテゴライズしておく必要があるということですね。


そういうことですから、「あの世」って「不思議」だなぁ、

と言う風に思っているわけです。


すいません、それだけです。




「写実的な抽象」

「具象」と「写実」と言う二つの言葉を、

ほとんど同じような感覚で使ってしまうことがあるわけですが、

実は、この二つには、けっこう違う意味があると思うのです。


「具象」と言うのは、「物質の持っている力」を借りることだと思っています。

たとえば、「形」や「色」などを「物の形」や「物の色」から借りるということですね。


これは、基本的に、本来の目的は別にあって、その為に「借りる」ということなんだと思っているわけです。


一方、「写実」=「リアリズム」の方は、実は「物質」とは、必ずしも関係がなくて、

「物質」であっても「非物質」であっても、

その「何か」を忠実に再現しようとすることを指して言う言葉なんだと思うわけです。


たとえば、「文学」に置いては、「心理描写」も「リアリズム」に含まれるということですね。


ところが、これを「美術」に置き換えると、急に、「抽象的」になってきます。

「文学」や「演劇」では、「人間の感情」や「人間の心理」を、ある程度「写実的」に表現することが出来ますが、

「美術」に置いては、それが、チョットややこしいことに成るわけです。


つまり、「人間の感情」や「人間の心理」に具体的な「色や形」はありませんから、

それを、ダイレクトに「色や形」で現すということが出来ないわけですね。


それで、どうしても「物の形」や「物の色」の「力」を借りてきて、

それを使って、「感情」や「心理」を現そうとすることが多く成るわけですね。

だから、「具象」と「リアリズム」が、同じように思えてしまうということでしょう。
(実は、これは、「文学」や「演劇」でも同じことをやっているというだけなんですけどね)


でも、本来は、「具象」は「物質的」ではありますが、「写実的」とは限りませんし、

「リアリズム」は「写実的」ですが、「物質的」とは限りません。


これを、もう一歩進めて言うと、「抽象」でも「写実」=「リアリズム」は可能だということです。

と言っても、あくまで「理論的には可能」ということですけどね。

実際には、なかなか大変だと思います。


つまり、「物質の形」や「物質の色」ではない「創作された形」や「創作された色」を使って、

「非物質的なもの」を表現すればいいわけですね。
(これはどちらかと言うと、「非物質的」と言うよりも「非現実的」と言うべきかも知れません)


「非物質的なもの」を表現しようとするとき、

「形」=「具象性」を排除したくなったり、

それとは逆に、「物質の力」を使って説得力を持たせようとしてしまうわけですが、

そこを堪えて、自分の中で何らかの「形や色」を創り出すわけですね。

出来るだけ、「青は冷静」とか、「赤は怒り」とかと言うような、定型化した解釈にも頼らずに、

純粋に自分が表現したい「何か」を現すのに必要な「形と色」を探していくという作業に成るんだと思います。


口で言うのはともかくとして、

まぁ、ほとんどキビシイですよね。


でも、そちらの方向を向くことが、いま一番重要なことなんじゃないかと思うわけです。


ただ、そんなに悲観的なことでもないと思っているんですよね。

人間って、何かの拍子に、「トンデモナイ形」とか、「オモイモヨラナイ色」なんて言うのが、

唐突に、頭に浮かんでくることがあると思うんですよね。


それを、そのまま描くと「抽象絵画」に成ると思うわけですけど、

それを、もっと作り込んでいって、更にその作り込んだものを出来るだけ忠実に再現すれば、

「写実的な抽象絵画」ができるんだと思っているわけです。


と言っても、現実にないものを忠実に再現しても、「リアリズム」とは言わないのかも知れませんけど、

「写実”的”」ぐらいまでは言えるんじゃないかなと。


「抽象」はその辺を出来るだけ、「非・写実的」にしようとしてきたんだと思うわけですけど、

それをやめて「リアリズム」の方向に、近づけていこうということですね。


要するに、「ぼやかしてきたもの」を「ハッキリさせよう」ということです。


実は、こういうことは「抽象芸術」を目指している人は、

無意識にやっていることなんだと思うんですけど、

それを、もう少し積極的に意識してやろうということですね。


まぁ、一応そんな風に思ってやっています。



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日本は、まだ半分しか「開国」してない?

日本という国は、「明治維新」の時に、

「鎖国」を解いて「開国」したということに成っているわけです。


でも、今の日本人を見ていると、

「まだ、鎖国してるんじゃないか?」

と思うことがよくあるわけです。


要するに、「封建的」な人が多いということでしょうね。

なにか、こう、「開かれた感じ」がないんですよね。


別に、「鎖国」=「封建的」でもないんでしょうけど、

取り敢えず、「地位」とか「身分」とかを抜きに、

人間関係を考えられない人が、随分たくさんいるように見えますね。
(これは、とくに日本に限ったことでもないんでしょうが、日本しか知らないんで、日本の話ということで)


なんで、「赤ちゃん」から「年寄り」まで、

「貧乏人」から「大金持ち」まで、

「中卒」から「ノーベル賞受賞者」まで、

すべて、対等だということが、なかなか浸透しないんですかね。


きっと「ノーベル賞受賞者」と変わらないくらい賢い「中卒」なんてたくさんいると思いますよ。

ただ単に、「学者」は勉強ができることに自分の価値を置いていて、

「中卒」は勉強なんてできないくらいの方がイイと思っているというだけの違いだと思います。


私は、とても「差別」や「格差」が嫌いなので、

こういう、「段差」が気になってしょうがないんですねぇ。


要するに、日本人は、文化や文明の「開国」はしたけれど、

「人の心の開国」は、まだできていないんじゃないかと思うわけです。

つまり、日本人の心は、まだ「鎖国」状態なんじゃないか?ということですね。
(まぁ、これも日本人に限ったことでもないんでしょうけどね)


そもそも、日本は「明治維新」で「開国」したということに成っていますけど、

実際は、その後、日本に外国人がたくさん入ってきたというほどでもなかったでしょうし、
(一般庶民の目に触れる機会は少なかったんじゃないでしょうか?)

明治~大正~戦前ぐらいまでは、まだまだ、「和服」を着ている人も多かっでしょうし、

食事だって、「日本食」中心だったと思います。


つまり、「文化・文明の開国」ですら、

「第二次大戦後」に成って、「占領」されたことで強制的に「開国」させられた

と言うのが本当の所なんじゃないかと思うわけです。

日本にとっての「本当の黒船」は「GHQ」だったのかも知れませんね。


一見、トテツモナク大きく見える「江戸期」~「明治」への移行の時の「文化的ギャップ」よりも、

「戦前」~「戦後」への移行の時の「文化的ギャップ」の方が、

一般庶民の「カルチャー・ショック」としては、より大きいように思うわけですよね。

上手く説明できないんですが、

「明治のカルチャー・ショック」が、”楽しげ”なのに対して、

「戦後のカルチャー・ショック」は、”キュウクツ”な感じがするということですね。


「文化・文明の開国」ですらそうですから、「日本人の心の開国」についてとなると、

「明治維新」については、まだまだ「鎖国」に近かったのかも知れません。

おそらく、それは「武士階級だけの心の開国」だったんじゃないでしょうか?

「一般庶民」は、ほとんど「蚊帳の外」だったような気がします。


そして、この「明治~戦前」と言う「曖昧な開国」の期間と言うのが、

実は、日本人にとって、とても幸せな時間だったような気がしてならないのです。

「明治期」の「文学」や「大正ロマン」と言われる「文化」など、

とてもユッタリとしていて、内容的には”シリアス”なものでも、

どこか「人間的」で、追い詰められた感じがないというんでしょうか?

要するに「時代の空気を楽しんでいる」ように見えるわけですね。
(「文学」などに、詳しくないので、あくまで「そんな感じがする」と言う程度ですけど)


そして、それとは逆に、「戦後の日本文化」には、

どこか常に「追い詰められたような余裕の無さ」を感じてしまうわけなのです。

「伝統」を断ち切られて「迷走」するしか無く成ってしまったという感じですね。

当然それは、「人間性」が希薄になる傾向があって、

いつも”ギスギス”したものを押し付けて来るという印象があるわけです。


この「人間性の欠如」こそが、今の時代を最も締め付けている要因だと思うのですが、

それを、本来「時代や社会」にゆとりを与えるような役割を担うはずの「文化」が、

やってしまっているというのが現状なんじゃないかと思うわけですね。


この「開国」と言うキーワードは、「鎖国」をしていた日本に特有のものですが、

実は、世界的に見ても、「文化・文明の開国」と「人間の心の開国」

と言う考え方に、ほぼ当てはまるような出来事は、それぞれの国にあるのではないかと思うわけです。


たとえば、ヨーロッパやアメリカなどの欧米社会に置いては、

自由革命と産業革命が、それぞれ「人の心」と「文化・文明」の「開国」にあたるでしょうし、

また、共産主義諸国にとっては、「ベルリンの壁の崩壊」が、更にそれに続くものでしょう。


ここで、世界全体を一つの国と考えた場合、

なんと言っても「産業革命」が最も大きな出来事だったんじゃないかと思います。


その「産業革命」と言う「文化・文明の開国」がもたらした

「機械化」・「効率化」が結果的に「人間の心」を拘束してしまっています。

つまり、「文化・文明の開国」が「人の心の開国」を妨げて、

「鎖国」に逆戻りしようとしているわけです。


このような状況の中で、

「本当に鎖国していた国」である日本ができることはあるんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう?


その日本人が、いまだに「封建的」っていうのもどうなんだ?っていう感じがしてしまうわけですが、

せめて、「人間の身分なんて、気にも留めていないという人が主流」ぐらいにならないものかと。


「そんなの理想論だろ」

じゃなくて、

「そんなの当たり前でしょ」

とは成らないものなんでしょうか?


そんな風に思っているわけです。




「人が美しく見える時」と「人が醜く見える時」

「人間と言うのは美しいものだなぁ」と、つくづく思うときがありますけど、

逆に、「人間とはなんと醜いものか」と思うときもあったりします。


「美しいものだなぁ」の時は、涙が出るほどうれしく成りますが、

「なんと醜いものか」の時には、涙を流すほどの気力も削がれて、

堪えらえないほど悲しく成ります。


そこで、「人が美しく見える時」と「人が醜く見える時」とは、どんな時なのかと考えてみたわけです。


つらつらと考えてみたところ、私の場合は、

「人が美しく見える時」は、人の中に「自己犠牲」を感じたときです。

そして、「人が醜く見える時」は、人の中に「自己保身」が見えたときですね。


ただ、「自己犠牲」と言っても、

「キリストが人々の罪を背負って磔刑に成る」みたいな悲壮な感じじゃないです。

道に迷っている人に、「丁寧に道を教えてあげる人」くらいで十分美しいと思ってしまいます。
(こういうのが意外と少ないです)

そして、そういう人を見かけただけでも涙が出るくらいに嬉しく成ります。

何故なのかは、よくわかりません。


また、「自己保身」の方も、それほど厳密ではなくて、

普通レベルで「自分優先」なぐらいは、だいたい「OK」です。

でも、「自己保身のために他人を踏みつけにする人」を見ると、

本当に悲しくて堪えられなくなります。

これも、何故なのかはわかりません。


私のことはともかくとして、

「自己犠牲」が美しく見えて、「自己保身」が醜く見えるのは、

たぶん、「人間の本質」と関係があると思うわけです。


つまり、「自己犠牲」は「人間の本質」の中心に近い所のもので、

「自己保身」は「人間の本質」から外れたものなんじゃないかと思うわけですね。


これは、このことに限った話でもありませんけど、

「本質」を得たものは”美しい”と思いますし、

「本質」から外れたものと言うのは”美しくない”と思うのです。


ただ、ここで人間特有の「難解さ」が出てきます。

つまり、「自己保身」の方が、「動物としての人間」の「本質」には近いということがあるわけです。

当然、「自己犠牲」は「動物としての人間」の「本質」からは外れています。


つまり、純粋に「人間としての人間の本質」と、「動物としての人間の本質」が、

逆転しているわけですね。


人間は、人間である前に動物であるとも言えますから、

この「動物としての人間の本質」を優先したとしても間違いではないのかも知れません。

だから、「そういうのは偽善だ!」という人がいたりするんでしょうね。

でも、それでは「人間」が「人間」に成った意味が無く成ってしまうんじゃないでしょうか?

だとすれば、やはり、純粋に「人間としての人間の本質」に従った方が”人間らしい”んじゃないのかなと。


それから、ここにはもう一つ「言葉の仕掛け」が潜んでいるわけです。

そもそも、「美しい」とか「醜い」と言う言葉自体が、

「動物としての人間」ではなく「純粋に人間としての人間」が生み出したものだということです。

だから、当然「美しい」や「醜い」について言う場合、

純粋に「人間としての人間の本質」を基準に考える必要があるわけです。

当然、それは「偽善」についていうときにも同じことが言えるわけですね。


取り敢えず、こんなことで、

「自己犠牲」と「自己保身」が、私にとっての「美しい人」と「醜い人」の基準になっているようです。


なんとなく、最近「自己保身的な人」が多いような気がします。

「動物に逆戻りしちゃうんですか?」

「たぶん、それは出来ないと思いますよ」

「進化は前にしか進めないので」


そんな風に思っています。



「福祉」と「競争」

日本では、「年金制度」が崩壊しつつあるわけですが、

その原因としては、急激な「少子化」と「高齢化」があげられることが多いんでしょうね。


でも、本当のところを言えば、

「少子化」や「高齢化」が無かったとしても、

もともと、「年金制度」のような「社会福祉制度」と「自由主義」の方向性が一致していない

ということなんじゃないかと思うわけです。


「自由主義」を「経済」に偏重した使い方をすれば、

「競争」しか残らなくなってしまうということなんだと思いますけど、

「年金」に限らず、「社会福祉」と言うもの自体が、

ほとんどの場合、「自由競争の原理」に反しているわけです。


要するに、「弱い者を助けましょう」と言うのが「社会福祉」であって、

「弱いものを淘汰しましょう」と言うのが「自由競争」なわけですから、

ほぼ、正反対の方向を向いているということですね。

そこで、「一旦淘汰された弱者をもう一度回り込んで助けましょう」と言う、

非常に効率の悪いことをやろうというのが、

「自由主義の下での社会福祉」ということではないでしょうか?


これには、無理があるんだと思います。

どちらかを捨てないとならないんだと思うわけですね。


「経済優先」なら「競争原理」を取るように成るでしょうし、

「人間優先」なら「福祉」を取るしかないでしょうね。

両方は無理だと思います。

正反対ですからね。


その辺のところを、なんとなく”バランスを取り”ながら、

実のところ、なんとなく”ゴマカシテ”やっているのが、今の政治なんだと思いますね。


でも、もうそろそろ”ゴマカシ”ではなくて、

どちらか一方をキッパリと選ぶ時なんじゃないかと思いますね。


「あれもこれもやります!」と言う政治家はたくさんいらっしゃいますが、

「あれもこれも出来なく成ります!」と言う「スローガン」をあまり見たことがないんですね。

まぁ、そんなこと言えば、当然「選挙」で落選するんでしょうけどね。


でも、「現実」ってそういうもんだと思うんですけど、どうなんでしょう?

つまり、たった一つのことをやるために、いろんなことを諦めなければならなくなるということですね。

そこで、人々が如何に「気持ちよく諦められるようにするか」

というのが、これからの政治に求められて行くことのような気がします。


要するに「地球の容量」が見えてしまったんだと思うわけですね。

「資源」にしても「領土」にしても限度があって、それが足りなくなってきているわけですから、

「諦め」が必要になってきているのは間違いないでしょう。

「物質的な満足」を追い求めても、昔のようにはいかなくなったわけです。


そこで、「精神的な満足」を提供できる「政治」が必要になって来ているんだと思います。


なんだか、話がずれてしまいましたけど、

取り敢えず、「キッパリ切り捨てる」なら「人間」を切り捨てるのだけは、

「勘弁してくだせえ、お代官さま」

と言う風に思っているわけです。





「たぶん~だろう」と言う前提

「たぶん~だろう」と言う前提で、何かをすることは、だいたい危険なことだと思うわけです。


「ローン」を組むのに「たぶん払えるだろう」

知らない料理を注文するのに「たぶん美味しいだろう」

結婚相手を決めるのに「たぶん幸せに成るだろう」

どれも、非常に危険です。


ところが、国家や公共の事業を運営するにあたって、

かなりの場合に、この「たぶん~だろう」と言う前提が使われています。

そして、そのほとんどが、行き詰ってしまうわけです。


何かの制度を作るにしても、街づくりにしても、

ほとんどの場合、どこかが「たぶん~だろう」で出来ています。

「ギャンブル」みたいなものですね。

だいたい、最後は「スッカラカン」ですよね。


でも、誰も気にしません。

やってる人たちにとっては、所詮、「税金」なんて「他人の金」なんで。


これは、「他人の金」で「ギャンブル」をやっていると思えば当たり前のことだと思いますね。


「社会」が大きすぎて把握できないんですね。

把握しようとしてもできないんで、諦めてしまうんでしょう。

それで、「たぶん~だろう」で構想を立てるようになってしまうんでしょうね。


そして、ここでの一番厄介な問題は、「経済的な損失」と言うよりは、

その「”ザツ”な構想」で作られたものを、みんなで使い続けなければならなくなることでしょう。


はじめに挙げたことで言えば、

ろくに乗りもしない車のローンを払い続けるために、肝心な生活費の方を切り詰めなければならなかったり、

嫌いな料理を食べ続けなければならないので、隣の人が食べているおいしそうな料理を注文出来なかったり、

よく考えたら、そんなに好きでもない相手と暮らし続けて、

自分の人生の大半を、その相手との生活の調整に使わなければならなかったり、

ということですね。


こういう「”ザツ”な構想」で世の中が運営されていることはとても悲しいことですよね。


もっと、「丁寧な仕事」が評価されるようになって欲しいですね。

そういうモノなら、少しくらい気に入らなくても満足ですね。

「丁寧な仕事」で生み出された「モノ」や「関係」は、

もし「気に入らないところ」があっても慣れてきますし、

よくよく見ると、「いいところ」がたくさんあるので、それに気づけば手放せなくなります。


一方、「”ザツ”なモノ」の「ザラザラ感」には慣れられませんね。

それに、「いいところ」があっても「わるいところ」の方が多すぎて、

しまいには「これ、もういいわ」と言うことになってしまいます。


もうチョット、その辺のところ、なんとか成らないものかなと。

まぁ、そんな風に思いますね。




「性善説」・「性悪説」・「性人説」

「性善説」と「性悪説」と言うのがありますけど、どっちが本当なんでしょうね。

たぶん、どんなに議論しても結論は出ませんよね。


要するに、それだけ「人間」と言うものは、

「善」と「悪」の間でいつもウロウロしているものなんだと思うわけです。


「性善説」と「性悪説」のどちらか一方を選ぶのは難しいと思いますし、

それを強引に選ぶことに、それほどの意味はないように思いますけど、

この「善」と「悪」の間に居るのが「人間」なんだと言う考え方には、

けっこう意味があるんじゃないかと思っているわけです。


「性人間説」=「性人説」ですね。
(私が勝手に言ってるだけですけど)


つまり、「善」と「悪」のどちらか一方と言うと、

どちらを選んだ場合でも必ず「矛盾」が出てきますけど、

両方の間で、ウロウロしているということだと、一応「矛盾」はないわけです。


それから、こういう「中途半端さ」と言うのは、とても「人間的」なことであって、

人間にとって、実は「かなり心地よいこと」なんじゃないかと思うわけですね。

ただ、残念ながら「チョットカッコワルイ」と言うだけのことなんじゃないかと思います。


その「チョットカッコワルイ」に目をつぶれば、

これは、”ラク”だと思いますよ。

なんせ、”ドッチデモイイ”んですからね。

少しくらい”ワル”くてもいいし、もちろん”イイ”に越したことは無いでしょうから、

どう転んでも「ノー・プロブレム」なわけで、言うことなしです。


ただし、ここで「なんでもありなのか?」と言うと、そうではなくて、

「人間性」の範囲内に限って、「善」と「悪」のどちらでもいいということに成るんだと思います。

つまり、「ワルい」と言っても「ワル過ぎ」ては、「人間的」で無く成ってしまいますし、

あまり、無理して「イイ人」になろうとするのも、

ある意味で「人間的」じゃないっていうことですね。


「イイ:ワルイ」と言うよりも「人間の本質」が、そういうところなんじゃないか?ということですね。

つまり、「善」に成りきることも出来ないし、「悪」に徹することもできない、

それに、根本的に「善」でもないし、根本的に「悪」でもない

と言うのが「人間の本質」なんじゃないでしょうか?


まぁ、もっとも単純に言うと、

「人間の本質」は「人間であるということ」でしかないということなんだと思います。


そして、この「チョットカッコワル」くて、中途半端な「人間性」と言うものを、

「見栄」を捨てて、”受け入れること”が

「人間の心」を解放して、限りなく自由にするように思うのです。


たったそれだけのことで、そんなに自由になれるわけないだろうとも思うんですけど、

「そうならない理由」が思いつきません。


でも、なかなか「見栄」を捨てることは出来ないんですね。

だから、どうしても「イイ人」になろうとしたり、

「ワル」ぶったりするんですね。


だから、なかなか解放されないんですね。

と言っても、ここも「中途半端」でいいわけでしょうから、

そんなところで、いいんじゃないのかなと。


一応そういうことに成っております。私の中では。



「下から上」は見えるけど「上から下」は見えない

とかく「社会」と言うものは、自分と違う階層のことは見えにくいものなんだと思うわけです。

なかでも、「下から上」は、少しくらいなら見えるけれど、

「上から下」は、ほとんど何も見えないというのが現実なんじゃないでしょうか?


つまり、「一般庶民」は「エライ人たち」のことが、時々垣間見えることがあるけれど、

「エライ人たち」からは、「一般庶民」のことは、

まったくと言っていいくらいに見えていないということですね。

だから、「エライ人たち」は、よく「一般庶民」から見ると

”トンデモナイ”と思うようなことを言い出すんでしょうね。


と言っても、これは、昔に比べれば、だいぶ良く成ったんじゃないかとも思います。

「格差」のギャップが小さく成って来たんでしょうね。

希望的観測を少し多めに入れて言うと、

もう少しで必要な程度の「社会的フラット」に成るような気がします。

まぁ、あくまでも、「そうなればいいなぁ」と言う話ですけど。


でも、せっかく「社会」が「フラット」になっても、まだ、それを受け入れられない人が居るんですね。

しかも、実に、たくさん居るんですねぇ。


もう、とっくに「上も下もない世の中」になっているのに、

「上から下」が見えないという”フリ”をするんですね。


これは”卑怯”ですね。


別の言い方だと、「もー、ダメでしょ!この、オタンコ・ナス」(死語?)とも言います。

それにしても、「オタンコ・ナス」、ヒドイ言葉ですよね。

だいたい「オタンコ」って何なんでしょうね。

百歩譲って、「ナス」はわかるとしてもですよ。

まぁ、それぐらいヒドイってことが言いたいわけですね。


それから、こういうことを批判すると、「ネガティブ」と言う烙印を押される傾向がありますけど、

その手の「ポジティブ」も、また、”アサハカ”としか見えませんね。

『「批判すること」を批判すること』ほど意味のないことはありません。

それは、「権力」にヘツラッテいる自分の姿を

「見ないように」して、「自己正当化」しているにすぎないですね。

つまり、これもやっぱり「見えない”フリ”」ということですね。


それはともかく、「社会」がかなり「フラット」に成っていても、

「勝手に、自分がエライと思っている人」にとっては「フラット」になったら困るので、

勝手に自分の頭の中に「社会的な階層」を設定して、

その階層の中で「下」のことは「見えないこと」にしてしまうわけです。


そうした「バーチャル・ヒエラルキー」=「妄想上の階層」というのは、
(私が勝手に言っているだけですから、ほかで使うと恥をかきます)

正攻法ではなかなか崩せません。

一種の「自己洗脳」・「自己催眠」のような状態ですから、

それを解かないと崩れないわけですね。

まして、「社会」も、それをあえて突き崩そうと言う努力をしていませんから、

「洗脳」や「催眠」が一層強固なものになって行ってしまう傾向があるわけですね。


カルト宗教に「洗脳」された人を見ればわかりますが、

そこで「ポジティブ」だの「ネガティブ」だの言っても意味がありません。

とにかく、「手段を選ばない」ぐらいの覚悟で、徹底的に「否定」することで、

「洗脳」された頭から「教祖』や「教理」を追い出さないと、

その人の人生は、乗っ取られて潰されてしまうわけです。


まぁ、それと同じくらい「バーチャル・ヒエラルキー」は強固だということですね。

だから、絶対と言ってもいいくらいに「自浄作用」には期待できません。


これは周りの人も迷惑でしょうが、「カルト宗教」の場合と同じように

本当に破壊されてしまうのは「当人の人格」です。


やはり、「社会制度」や「教育」で、ある程度の強制力をもって、

その辺のところを修正していくしかないように思います。


これを、強制的で「自由じゃないこと」のように考えるのは、チガウと思いますね。


人間と言う生き物は、「教育」や「学び」によって、「成体」になる「生き物」なんだと思うわけです。

だから、その「教育」を放置して、「なるように成る」或は、「自発的に学ぶ」と言う考え方だと、

誰も「成人」=「成人間」に「羽化」できなくなってしまうということです。


こういうのを「自由」とは言わないですね。

まったくチガイますね。


そこから生まれるのは、

”動物的”な「無軌道」や「ワガママ」であって、

”人間的”な「自由」では有り得ないですね。


現在、「イイ学校を出た人」が「頭がイイ」と思っている人が山ほど居ますね。

「社会的な地位が高い人」を「エライ人」だと考えている人なんかも、大多数と言えるでしょう。

逆に、心底からそう思っていない人なんて、ほんの一握りしかいないんじゃないでしょうか?
(言うだけの人は沢山居るんですけどね)

そういうのが、現在の【「放置」と「自由」を取り違えた教育】がモタラシタモノだと思います。


やはり、「教育」に「社会が指し示した方向性」が与えられなければ、

それを「教育」と呼ぶ根拠すらなくなってしまうわけで、

その「単なる放置」を「自由な教育」と言っていたら、

「人間」は「類人猿」に戻って行ってしまうんじゃないでしょうか?


「類人猿」までは戻らないとしても、

ウワッツラだけ「ホモ・サピエンス」でナカミが「北京原人」だと、”チョット悲しい”ということでしょうね。
(「北京原人」が、分類上「類人猿」に近いのか、「人類」に近いのかは知りませんが)


最低限「人間がホモ・サピエンスに成れるだけの枠組み」を与えるのが、

「教育」の役目だと思いますがどうなんでしょうか?

「ホモ・サピエンス」は「知性あるヒト」みたいな意味だったとおもいます。

「自分がエライんだぞ!と思いこんでいるヒト」は、「知性あるヒト」では無いような気がしますね。


こういったことは、おそらく経済や、産業にもプラスに作用するんだと思います。

産業や、経済が行き止まった感じがある現在に置いて、

もう少し、発展しようとするならば、こういうところを攻めるしかないんじゃないのかなと。

「やや後退しながらの発展」ということに成るんでしょうけどね。


まぁ、本当は「経済」なんて、どうでもいいことなんだと思うんですけどね。

結果的に「人間」が気持ちよく暮らせる世の中なら、

「経済」もある程度、循環していくということじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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