FC2ブログ

「文明は人の思考を停止する」・「文化はそれを再起動させる」

「文明」と「文化」の違いは、「物質的」と「精神的」と言う違いだといっていいんだと思うんですね。

そして、「文明」を生み出すためには、「文化」が必要だし、

「文化」を達成したり維持したりするのには、「文明」が不可欠だと言えるんじゃないでしょうか?


そうやって、関連し合って、進んでいるのが「文明」と「文化」なんだと思うわけですけど、

この二つには、「人の思考」のスイッチの「ON/OFF」を

切り替える機能もあるんじゃないかと思うんですね。


つまり、「文明」が高じて来ると、

その中にドップリとつかった人間は、「思考」を停止して、

余計なことは何も考えなくなってしまうのに対して、

人間が「文化」に触れると、

どんどん好奇心が湧いて来て、余計なことだろうが余計じゃないことだろうが、

ありとあらゆるものに興味を持って、貪欲に「智」を求めていくようになるんだと思うのです。


この「思考のスイッチ」が入れられたり切られたりしている状態と言うのが、

「人間の精神」を活性化させるんだと思うのです。


つまり、一時的に「思考」が停止しているということが”悪い”と言うわけではなくて、

次に「スイッチ」を入れたときのために、

気持ちを「リラックス」させるための「充電機能」ということなんじゃないでしょうか?


だから、やっぱり「文明」も「文化」も、人間にとって必要なモノだと思うわけですが、

今の時代は、この二つのバランスがちょっとクルッテいて、

実際には、ほとんど「文明至上的」な感じがするのに、

その反動なのか、取って付けたように、やたらと「文化」をアリガタガッテみたりするようなところもあって、

全体としては、不自然な感じがするわけです。


要するに、ほとんど「思考」が停止しっぱなしになっているということですね。

それを”ゴマカス”ように「文化」が使われているということでしょう。


もう少し、自然な感じで「文明」と「文化」の

「思考のスイッチ」が、入れたり切ったり出来るように成るといいんじゃないかなと。


そんなことを考えてみました。

「自我」

人間はごく幼い時期に「自分」と言う存在を意識するように成るみたいですね。

いわゆる「自我」ですね。


「我が強い」とか、「我を張る」なんて言い方もあったりしますけど、

そういうのなんかも、たぶん「自我」に含まれるんでしょうね。


この「自我」の使い方なんですけど、

「自我」には、使い方によって「プラスの作用」と「マイナスの作用」が

大きく分かれてしまう性質があるんだと思うんですよね。


さしづめ、「我が強い」や「我を張る」は「マイナスの作用」ということに成るんでしょうね。

じゃあ、「プラスの作用」の方は、どうなんだとなると、

要するに、「個性」と言われているものが、それに当たるんだと思うわけです。


これは、このブログの「個性と才能」と言うカテゴリで何度か書いていることなんですけど、

私は、現在の「個性」と言う言葉の使われ方に疑問を感じるところがあるので、

この言葉はあまり使わないようにしているんですね。

     ※「個性」がある人とない人、あるいは、「個性的」な人とそうじゃない人、
       と言う使い方があまりに多すぎて、
       「個性」が、誰でもみんな同じくらい持っているものであるという考え方が
       全く通じなくなってしまっているということですね。

でも、「個性」が「自我」の「プラスの作用」によるものだという考え方ならば、

何の問題も感じないで、この言葉を使うことが出来ると思います。


つまり、「自我」は、みんなが同じように持っているものであって、

おそらくは、かなり幼い時期に形成されている概念でもありますから、

「個性」が「自我」による作用の一種であるとすれば、

それが「ある人」と「ない人」が居るという話しが出てくる筈がないということですね。
(まぁ、それでも通じない人には通じないんでしょうけど)


実際には、「自我」がみんなに同じようにあるのと同様に、

「個性」や「才能」も、みんなにほとんど同じくらいの「量」が与えられているんだと思います。

ただ、それぞれの「個性」や「才能」の「質」が違うというだけのことでしょう。

そして、その「質」には「上・下の差」はないということなんじゃないでしょうか?


さて、「自我」に話を戻すと、

その「プラスの作用」と「マイナスの作用」の差が大きいんだと思うわけです。


人が「自我」の「マイナスの作用」にとらわれてしまうと、

「自己肥大化」によって、自分のことしか考えられなくなって、

まず、「他人」が見えなくなって、次には「自分」すらも見失ってしまうので、

結局、最終的には、どんなことも判断ができなくなって、

ものごとを理解するということが、ほとんど出来なくなってしまうわけです。


また、「自我」の「プラスの作用」について言えば、

「表現すること」・「創作すること」・「コミュニケーションをとること」

さらに言えば、「考えること」や「知ること」までも含めて、

この「自我」の「プラス作用」に当たるんだと思うわけですが、

これらは、人間の「精神活動」そのものと言ってもいいんじゃないでしょうか?


こんな感じですから、落差が大きいわけですね。

それなのに、この「プラスの作用」と「マイナスの作用」が容易には切り離せないわけです。

だから、どうしても「プラスの作用」を追っていくと、「マイナスの作用」もクッツイテくるんですね。

これが、とてもウットーシイわけです。


それで、「自我」を捨てて「解脱」に到達することを、

宗教などでは「至上の目標」とする傾向があるんでしょう。


もし、人間に「自我」を捨てることが出来るのだとしたら、

それも、一つの考え方として、「アリ」だと思いますが、

「自我」を捨てるということは、「個」としての「存在」でなくなるということですから、

「人間」と言う「個」に閉じ込められた形でしか存在できないモノには、

それは無理なんじゃないかと思うのですが、どうなんでしょうか?

それに、「自我」を捨てようとする気持ち自体も、また、かなり強い「自我」なんじゃないかと思いますから、

「自我」を捨てることよりも、「自我」の「プラスとマイナス」をどう使っていくかということの方が、

考え方としては有効なんじゃないかと思うのです。


まぁ、要するに、「プラス」ばかりを追い求めるのではなく、

一応「マイナス」も受け入れて、

「プラスとマイナス」の「バランス」をとることが”イイ”んじゃないかと思いますね。


取り敢えず出来ることと言えば、

「マイナス」にハマリそうになった時には、その辺にあまり固執しないようにすることくらいかなと。

それで十分だと思いますし、その辺でもけっこう”ラク”に成るんじゃないのかなと。

これは、「プラスの作用」についても、ある程度同じ様なことが言えるんじゃないかと思います。

要するに、どちらもハマってしまうと見えなくなってしまうということでしょうね。


たまには「我を張っても」いいんじゃないかと思うわけですね。

それもまた、人間的なことではありますし、必ずしも悪いことでもないんじゃないかと思うんですよね。

そういう「自分の自我」を受け入れるくらいが、人間には丁度いいんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っています。



スポーツは体にいいのか?

一般的に、「スポーツ」は体にいいということに成っているわけですけど、

必ずしも、「スポーツマン」が長生きだったり、病気をしなかったりということでもないようですし、

また、「スポーツ」をやっている人の方が短命だという説なんかも聞いたことがあるくらいですから、

「本当に、スポーツって体にいいの?」と思ってしまうわけなのです。


本当は、「体にいい」のは「運動」であって、「スポーツ」じゃないんじゃないかと思うんですね。

ほとんど同じものと考えられている「運動」と「スポーツ」が、

実は、だいぶ違うんじゃないか?ということなんですよね。


「運動」と「スポーツ」の違いを端的に言えば、「競技性の有無」ということでしょう。

要するに、「運動」の中で「競技性のあるもの」を「スポーツ」と言っているんだと思うわけです。


実際は、「スポーツ」だって、適度にやっていれば、それなりに「体にいい」んでしょうね。

でも、「競技」に成ると、人間って必ずやりすぎてしまうんですね。

それで、「競技性」のない「運動」の方が「体にいい」んじゃないかと思ってしまうわけなんですね。


ここから先は、私の勝手な持論ですから、参考にしないようにお勧めしておきますけど、

「するわけない?!・・・なるほど」

本当に「体にいい運動」のレベルは、一般的に考えられているよりもずっと低いんじゃないかと思うのです。


たとえば、「ジョギング」なんかで言うと、もっぱら「~キロ」と言う単位でしか語られませんけど、

「~百メートル」でも、いや、それどころか「~十メートル」でも、いいくらいなんじゃないかと思うんですね。


そう言うと、「いくらなんでも、それじゃあ何の効果もないんじゃないの?」と言われるかもしれませんけど、

じゃあ、実際に「この前50メートル走ったのはいつのことだろうか?」と考えると、

「数年前」だったり、ことによると「十年以上前」だったり、ということに成るわけで、

その間、毎日「50メートル走っていた人」と比べたら、きっとスゴイ差がついているんじゃないかと思うわけですね。


まぁ、そんな感じで、「ホントニチョットの運動」が一番「体にいい」んじゃないかと思うんですが、

「スポーツ」だと、これは難しいですよね。

「5分で終わるスポーツ」って、なかなか無いですからね。


これは、特に「スポーツ経験者」にとって、意外と難しいことだと思うんですね。

つまり、この「ホントニチョット」をキープするのが、意外とできないわけですよね。

どうしても、ヤリスギテしまうんですね。


「スポーツ寄りの人」は、ヤリスギテしまうし、

「アンチ・スポーツ寄りの人」は、ゼンゼンヤラナイになってしまうわけです。

それで、なかなか「ホントニチョット」がキープできないんでしょうね。


と言っても、「そんなに健康になってどうするっていうんだ」と言われれば、

「いえ、べつにどうもしませんけど」としか言えないんですけどね。


ただ、私の場合、「長生き」が近年の一つの目標になって来ているので、

こういうことを考えるということなんですね。


まぁ、「どうせ長生きするなら健康で長生きしたいなぁ」ということですね。


誰でもそんな風に思ってるでしょうけどね。

私も人並みに、そんな風に思っているというわけです。




芸術の高級化

「芸術は高級なものになってはいけない」

ずっと、そう思っていました。


でも、今はちょっと違ってきています。

今でも、「芸術」が”エラソー”にしてはいけないとは思っていますけど、

「上質なもの」を創らなければいけないという気持ちも、けっこう強くあります。


そして、そのためには労力を惜しまずに、働かないと”ダメ”なんじゃないかとも思っています。

少なくとも、私のような人間は、そうでもしないと

「きっと、なんにも残せやしないに違いない」と思います。


だから、「上質」と言う意味での「高級」なものを創り出すことを目標としているわけです。


そこで、見せ掛け倒しの「高級化」をしないように、最大限の注意を払っているつもりです。

つまり、「核」を見失わないようにしているということですね。


そもそも、「芸術が高級化してはいけない」と思っていた理由は、

「高級化」すると「芸術の核」が見えなく成ってしまうというように感じていたからなんだと思います。


でも、「美術作品」と言うのは、基本的に「物質」であって「モノ」ですから、

”ザツ”に創られてしまうと、その方がより一層、

「芸術の核」を見えなくしてしまうと思うように成って来たということですね。


これは、例えば「音楽」や「演劇」などのように、

表現の媒体が、ダイレクトな意味での「物質」ではない場合は、

それほど強く意識しなくてもいいことなんじゃないかと思います。


「美術作品」に置いても、「荒さ」は一つの有効な表現方法ではあるわけですが、

「荒さ」に依存してしまうと「モノ」としての「質」が失われて、

結果的には、単なる”ザツ”と同じものになってしまうような気がします。


これは、個人的な「好み」の問題なのかも知れませんが、

少なくとも、私の場合、

「音楽」の「荒さ」については、

最初に”イイ”と思ったものは、何度聞いても”イイ”のままであることが多くて、

むしろ、「荒さ」のない、いわゆる「よくできた曲」の方が、

何度か聞くうちに”鼻について来る”ということがあります。


反面、「美術作品」については、

「荒さ」が全面的に出ている作品は、

はじめに、引きつけられても、すぐに、その「荒さ」が気になって来て、

最終的に”ザツ”にしか見えなくなってしまうと言うことが多いですね。


そういうことから考えると、

「美術作品」の場合、精神的な面では「荒さ」を残しつつ、

物質的な面では、”ザツ”にならないように「質」を高めていくようにするのがイイんだと思っています。


そして、そのためには”労をいとわず”働かなければいけないわけですが、

その辺が、もともと、人間が「勤勉」に出来ていないので、

「なかなか、どうして」っていう感じですね。


そうは言っても、ヤラナイとナニモ出来てこないので、

自分にできる範囲の「最大限の勤勉さ」でもってやっております。


「あー、もう少しリッパな人に生まれたかった!」

「もしかして、人間自体が”ザツ”にできているのか?」

そんな風に思っています。



「風景画」・「静物画」・「人物画」

「具象絵画」の代表的なものと言えば、「風景画」・「静物画」・「人物画」ということに成るでしょう。


私の勝手な持論ですけど、「抽象絵画」と言うのは、

「風景画」でもあり、「静物画」でもあり、「人物画」でもあるというのがイイんじゃないかと思っているわけです。


つまり、これら三つの「いいところ」をあわせもっているのが「理想」ということですね。

当然、「現実的な話」ではないです。

    ※これら三つのどれでもないものが「抽象画」なんだという考えもあるかと思いますが、
      そう考えると、私には何もできなくなってしまうので、
      こちらの考え方でやっております。

「風景画」で惹きつけられるのは、「むこう側に抜けてゆく空間」と「横への広がり」ですね。

要するに、「風景画」が表現しているものは「広さ」なんだと思います。


「静物画」に感じるのは、「突き当りの密閉感」と「モノ」ですね。

世界が閉ざされている分、「物質感」が濃厚になるんでしょうね。

「静物画」が表わしているのは、「密度」だと思います。


「人物画」はいろんなタイプがありますけど、

実は、ほとんどの「人物画」が、作者の「自画像」と言ってもいいんだと思います。
(実際は、人物画でなくても絵はみんな「自画像」なのかも知れませんけど)

だから、「人物画」が表現しているのは、「作者自身の内面」と言っていいんじゃないでしょうか?


さて、そこで、「抽象画」ですけど、

「広がり」と「密度」と「自分」を同時に表現できたらいいなと言うのが

私にとっての「抽象画」ということに成るわけです。


いやいや、「風景の中に浮かんでいる部屋の中にいる自分を描く」と言う話ではないですよ。


そうじゃあなくて、「広がり」と「密度」を同時に現わせたら、”イイな”ということですね。

それで、さらに、そこに「自分」が自然に表現できていたら”もう言うことない”って言うことですね。

まぁ、出来ないですけどね。


でも、出来たら終わっちゃいますからね。

出来なくてイイんだと思っています。

少しでも近づければ十分ですね。


それにしても、「風景」を描かずに「広がり」を表現することや、

「密室」や「静物」を描かずに「密度」を表現することが、

なんとも、ムズカシイと感じてしまいますね。


実際には、それは「ムズカシイ」と言うよりも、

「確かめられない」ということですね。

「抽象表現」には「モト」になっている「モノ」がないので、

それが、良く表現できているのかどうかを確認するスベがないわけです。

だから、手ごたえを感じにくいんですね。


まぁ、それでも、これで行こうと決めたので、そこの所を変えるつもりはありませんから、

あとは、どこまで、そこに力を注ぎ込めるかということに成るんでしょう。


「なにか”コレ”と言うモノ、残したいなぁ」

そんな風に思っています。




「動く層」

油絵具の特徴は、なんといっても、

絵具を重ねていったときに出て来る複雑な色合いなんだと思っているわけです。


それで、その過程で、いろいろな「色の効果」が現れて来る瞬間が、

タマラナク好きなので、油絵具から離れられないと言うわけです。


そんな中で、絵具を溶く油(画用液)に工夫をしたり、

絵具を乗せる厚みを変えたりと言う作業工程が、発生してくるわけですね。


そういう工程のことを細かく言うのは

無意識でやっていることも多いので、とても無理なんですが、

そんな中で、最近、意識してやっているのが「動く層」を作ることです。


これは、今までも無意識には使っていたように思いますが、

今年に入ってからは、意識的に使うことが多くなりました。


私の場合、色を重ねる回数が多いので、

最後までの工程を最初から計画通りに進めるというのは

とても無理だと思って諦めています。


本当は、ある程度計画どうりに描き進めていきたいという気持ちもあるんですが、

2~3色ほど先の色までは決めている場合が多いですが、

その先となると、その時現れてきた色に合わせていかないと決められませんし、

一つの絵の中で何度か、大きく方向を変えることも多いので、

全く計画通りなんて有り得ないわけですね。


そんな中で、「動く層」を作ることだけはある程度、

「計画的」・「意図的」にやることがあります。


その「動く層」と私が呼んでいるのは、

ある程度、色が重ねられて来て、納得できるような色が出てきた画面の上に、

粘りのある画用液を上塗りして、乾かないうちに、

ほとんどなにも混ぜない(先に塗った画用液よりも、さらに粘度の高い状態の)絵具を乗せて、

さらに、その上から、また画用液を上掛けするというやり方で、

粘りのある画用液でサンドイッチ状に挟まれた濃い絵具の層が、

筆の動きに合わせて動くようにするというものです。

「揺らぐ」と言ったほうがいいのかも知れません。


画用液には、スタンド・オイルを多めに混ぜています。

色を混ぜる場合もありますし、色を混ぜない時もあります。

スタンド・オイルの割合によって「層の動き方」が違ってきます。

それから、真ん中に挟んだ絵具の「ネリ」の固さでも動き方が違いますし、

最初に塗る画用液と最後に塗る画用液の粘り気の差でも動き方が違ってきます。

最後の工程では、最初だけ画用液を含ませて

その後はほとんど何もつけない筆で層を動かす場合もあります。


暗い画面の上で、この描き方をすると、

時として水墨画のような濃淡のある画面が出来て来ることがあります。

ただ、いまのところこれを完全にはコントロールできていませんからうまくいかない時もあります。

上手くいかなかったときは、せっかく作った画面がほとんど台無しになってしまいますから、

あまり要領のいいやり方とは言えないかも知れませんね。


それから、ベネチア・テレピンを使おうとしたことがありましたが、

粘りが強すぎて、適度な粘り気にするのがムズカシイのでやめました。

また、ボイルド・ポピー・オイルを使ったときは粘り気が弱くてうまくいきませんでした。

それに、乾きが遅くて困ったので、これもやめてしまいました。
(これは、しばらくその絵に手が付けられなく成りそうな時に使っています。)

おそらく、ボイルド・リンシードならばスタンド・オイルと同じように使えるんじゃないかと思います。
(今度やってみるつもりですが、まだ試してはいません)

  ※追記:「ボイルド・リンシード」を使ってみたところ、「スタンド・オイル」のようにはいきませんでした。
    やはり、粘度が足りない感じですね。
    普通のリンシードオイルとそれほど違わないのかも知れません。
    でも、粘り具合を調整できるという利点はあるような気がしています。
    まだ、試行錯誤の段階ですが、「スタンド;オイル」との併用で使って行きたいと思っています。


この「動く層」の効果と言うのは、

要するに「ブレた写真」のような感じですね。


シャッター・スピードを調節して”ブレ”させたり、

ただ単に、失敗して「手ブレ」を起こしたりして、

”ブレ”た写真がオモシロイということはよくあると思いますけど、

そういうのと同じような効果だと思います。
(私は写真を撮らないのでよくわかりませんけど)


たぶん、「具象画」でも使えると思います。
(「一か八か」に成りますけどね)


真ん中の層に挟む絵具は、白を中心に混色した絵具が最も効果的です。

他の色でも「動く層」を作ることは出来るんですけど、

普通にぼかしたのと区別がつきにくい感じになる場合が多いです。

特に暗めの画面上で透明度の高い絵具を使うと、ほとんど効果が無く成ってしまうかもしれません。
(それはそれで、微妙な面白さが出るかもしれませんけど)

白の中では、シルバー・ホワイトが粘り具合が丁度よい感じでやり易いです。
(メーカーによってだいぶ差がありますけどね)


それから、絵具の「ネリ」が柔らかい時には、体質顔料を混ぜるとある程度カバーできますが、

滑らかになるまで練らないとうまくいきません。

また、紙に絵具の油分を吸わせるというやり方がありますけど、

絵具の固さの調節がむずかしくなるので、私は、この手法には使っていません。

どちらかと言うと、もともと「ネリ」の固いメーカーの絵具を使うのがいいと思います。


あと、しばらくしてから絵具がダレて来ることがあるので、

出来れば水平にして一日ぐらいは置いたほうがいいです。


この技法は、工夫次第で、もっといろんな効果が得られるんじゃないかと思っていますから、

これからも試していこうと思っています。

と言っても、あんまりやりすぎるのもどうかと思うので、

その辺は、「そこそこ」に、とも思います。


それでも、こういった抽象画を描くことから出てきた技法というのも、

もう少しくらいは、技法として確立されて行ってもいいんじゃないかとも思います。


こういう技法っていうのは、一つのものがあって、

さらに、その上に積み重ねられていくものだと思いますから、

下敷きになるようなものがあってもいいんじゃないかと思ったりもしますね。


まぁ、私みたいな者が言っても始まりませんけどね。

とりあえず、そんな風に思っています。




「理由」と「意味」

「抽象画」を描いていたりすると、ときどき人から

「この絵は何を現しているのか?」と聞かれることがあるわけですね。


でも、なかなか、それを言葉で言い表すことが出来ないんですよね。


そして、そういうときに感じるのは、

そういうことを聞く人が求めているのは、

たぶん、『その絵の「理由」』なんじゃないか?ということなんですね。


「具象画」だったら、

「〇〇の美しさに感動したから、その美しさを現したくて〇〇の絵を描きました」

と言うことが出来るんだと思います。

つまり、『その絵の「理由」』が、ある程度までは、言葉で言い現せるわけですね。


ところが「抽象画」の場合は、その「〇〇の絵」の「〇〇」に当たる部分が無いわけですね。

もともと無かった「ナニカ」を創り出して、それを現すのが「抽象」だと思っていますから、

その「ナニカ」には「名前」が無いということですね。


それで、『その絵の「理由」』を聞かれたときに、

答えられることと言えば、「こういう絵が描きたかったから」というような、

ショーモナイ言葉しか思いつかないので、

いつも、結果的には、何も答えられなくなってしまうわけなのです。


「抽象表現」に置いては、「理由」ではなく「意味」を伝えたいなと考えるわけですね。
(これは、本当は「具象表現」に置いても同じことなんだと思っています)


つまり、『その絵がそのように描かれた「理由」』ではなくて、

『その絵がそこに存在している「意味」』ですね。


たとえば、「インテリア」として存在している絵もありますし、

「説明図」として存在している絵もあります。

そして、「芸術」としてそこに存在している絵もあるというようなことですね。


完全に純粋に「芸術」である「絵」は無いでしょうし、

「インテリア」としての「絵」にも「芸術性」はありますから、

すべての「芸術」が、そういったものの間のどこかに位置しているわけでしょうが、

そういう「その作品の存在している位置」とでもいうようなことが、

『その作品の「意味」』に成るんだと思うわけです。


そして、そういう『その作品の「意味」』を中心に見ていくと、

その作品の「真の姿」が、見えて来るんじゃないかと思うんですね。


これは、「芸術」に限ったことでもないと思いますけど、

「理由」よりも「意味」の方を重視していったほうが、

その事柄の本質的な部分が見えやすいということは多いような気がします。


「理由」を追究することにも、十分に価値はありますが、

ダイレクトに「意味」を考えることにも、それと同じくらい大きな価値があると思っています。


そういうことが「抽象」の「意味」でもあり、「理由」でもあるんじゃないかなと。

そういう風に思っているわけです。




「人間のスペック」

パソコンの性能を表すときに、「スペック」と言う言葉を使うことが多いみたいですね。

「容量」みたいな意味なんでしょうか?


その辺はよくわかりませんけど、

要するに「性能」を数字に置き換えてわかりやすくしているということでしょう。


現代社会に置いては、この「スペック」に当たるものが、

「人間」に対しても当てはめられるケースが多くなっているように思うわけです。


つまり、「人間」が「性能」で判断されているということですね。


『これは、「高機能化した社会」に置いてはある程度仕方ないことなんだ』

という考え方もあるかもしれませんけど、

結果的に「人間」が「人間的」に暮らせるための「高機能化した社会」なわけですから、

「高機能」を優先して「人間」を切り捨ててしまっては、

本末転倒なわけで、「社会の機能」を少しぐらい低下させることに成るとしても、

やはり、「人間」を「性能」で判断するようなことはあってはならないことなんじゃないかと思うわけです。


増して、「性能」や「容量」を数字に置き換えた「スペック」のようなもので、

「人間」を判断しようとすることには、まったく無理があって、

本当の意味での「人間の性能」を完全に否定することにつながっていると思うわけです。


本来、「人間の性能」は、到底、数字に置き換えて測れるようなものではなく、

あまりに複雑であるために、

「人間の性能」でありながら「人間」にはとても判断がつかないようなものであるわけですから、

それを、「人間」が軽々に判断してはならないのではないでしょうか?


それは、「犯罪者を断じる」などの必要最低限の範囲にとどめておくべきであって、

それ以上の範囲に広げるべきではないように思います。


それなのに、現代社会に置いては

「人間の性能」を「スペック」的な数値に置き換えて判断しようとする傾向が強まる一方ですね。


「学歴社会」に始まって「資格」や「収入」や「職歴」など、

ありとあらゆる「スペック」にガンジガラメにされているように見えますね。


そもそも、こんなにもガンジガラメに縛られた状態で「高機能化した社会」と言えるんですかね。

技術の進歩などを抜きに考えた純粋な「社会の機能」だけで言うと、

むしろ、数十年前、いや、百年以上前の社会の方が機能的だったような気がしてくる時がありますね。


と言うよりも、「アリ」や「ハチ」の「社会」の方がはるかに「機能的」なんじゃないかと感じるわけですね。

彼らは絶対に「足の引っ張り合い」をしませんからね。


「人間のスペック」がそういう「足の引っ張り合い」に使われることも多いんじゃないでしょうか?


パソコンを選ぶときに、当然「スペック」のデータを見ますよね。

それで、「ハイ・スペック」=「高機能」  「ロー・スペック」=「低機能」ということに成るんでしょうね。

誰だって、「低機能」なものなんて欲しくないですよね。
(まぁ、ほとんどの場合、予算との折り合いをつけて決めることに成るんでしょうけどね)

そこで、「自分に必要な機能」や「そのためのスペック」がどんなものなのか?

ということが抜けてしまうことがあるんですよね。


つまり、「スペック」に「足を引っ張られて」

「自分に必要なこと」を見失ってしまうわけですね。


こういうことが、実際の「人間」にも起きていますね。


人間同士が「足を引っ張り合う」のは最も悲しいことなんじゃないでしょうか?

そういう社会であってほしくはないですね。

そんなことなら、いっそのこと「アリ」や「ハチ」に生まれたかった。


でも、そうは言いませんけどね。

「人間」が好きなんで。


「人間性」っていう言葉が、ひどく古臭く聞こえる時があります。

あまりに、現実とかけ離れていて、”嘘くさく”聞こえるんですね。

そんなハズないんですけどね。


『だって、みんな「人間」なんじゃなの?』

そんな風に思っています。



「芸術度」

現在、「芸術」と言うものを、規定したり定義したりすることは、なかなか出来ないものですけど、

そういった「規定」や「定義」が全く無いというのもどうかと思っているわけです。


それで、私は「芸術」を「度合い」で判断するのがいいんじゃないかと思っているわけです。

つまり、どのぐらい「芸術」であるのか?と言う「芸術度」ですね。


「芸術なんて言う名前にこだわらなくてもいいじゃないか?」と言う方もおられるんでしょうね。

その通りだとも思います。

でも、そういう話ができるのも、「芸術」と言う言葉に

何かしらの意味があってのことなわけですから、そこに最低限の拠りどころとなる意味くらいは

必要なんじゃないかとも思うわけですね。


とは言え、現在の「芸術」が置かれている位置は、

「限りなく自由であるべき」という

「自由なのか、不自由なのかよくわからない」場所であって、

どうも、そこからは逃れるすべが無いようなので、

「芸術」にキッパリとした「境界線」や固定的な「定義」をあたえることは、

ほぼ無理ではないかと思うのです。


そんなことから、「芸術」を「芸術度」でユルイ感じで規定できたらいいんじゃないかと思っているわけですね。


それには、まず「芸術の中心」を設定する必要があるわけですが、

たいていの場合、そこで、ショッパナからフリーズしてしまうんでしょうね。


「芸術の中心を設定すること」は、「芸術を定義すること」と大差ないですからね。

でも、「芸術の中心を設定すること」は「芸術を定義すること」よりも漠然としていてもいいんだと思いますし、
(この辺は、このブログの「宣言文」の中の「芸術の仮定義」と言うところで書いています)

意外と、ほとんどの人の中にある「芸術の中心」は、

それぞれ、そんなにかけ離れているものでもないんじゃないかと思うわけです。


実は、そういう「かけ離れた芸術」を持ち出してくるのは、

ほとんどの場合「ごく一部の専門家」に過ぎないのだと思います。


つまり、そういった方々が少し我慢してくれさえすれば、

「芸術」に一定の「意味」と「方向性」が与えられるということです。

そうすれば、「芸術」が生き延びられますし、

そうでなければ、「芸術」は消えていくと思います。


何らかの「美術的なモノ」は残るでしょうが、

それは、その時点で「芸術」ではなくなっているのではないかと思います。


「芸術の中心」が設定されれば、そこからの距離で「芸術度」が測定できるようになります。


もちろん、「芸術の中心」に近いものが「芸術度」の高いものということに成ります。

しかし、「芸術度」の高いものが、「イイもの」ということではなく、

「芸術度」が低くても「イイもの」はあります。

ただ、「イイ芸術」ではなく「イイナニカ」だということです。


逆に、「芸術度」が高くても「イイもの」とは限りません。

ただ単に、それが、「とっても芸術だ」というだけのことです。


これに相当するのが「芸術的」という言葉なんでしょうが、

「芸術的」と言う言葉には、既に「イイもの」と言う意味が含まれてしまっているために

この言葉は使えないわけですね。


こういった、「度合い」によるユルイ規定ができてくれば、

「芸術」が、今よりもストレートな分野に戻るんじゃないかと思っています。

現在の「芸術」は不必要にネジレテいると思うわけです。


ヒネルことで「人をビックリさせること」が「人を感動させること」と

取り違えられてしまっているんじゃないかと思ってしまうわけですね。


「芸術」は本来ストレートな分野であるハズなんだと思うのです。

と、かなりヒネクレタ人間が言ってみた。




「描くという姿勢」と「描かないという姿勢」

「抽象絵画」を描こうとすると、「描かない」と言う姿勢が必要になると思うわけです。

でも、私は「描くという姿勢」も捨てないほうがいいんじゃないかと思っているので、

この二つのバランスを意識するようにしています。


「描くこと」に執着すると、どうしても上手く描こうとしますから、

往々にして、ツマラナイものしか出来てきませんね。

これは、現実のモノと言う「拠り所」を持たない「抽象表現」に置いては、

より一層はっきりと出て来てしまうことが多いと思います。


それで、当然のように「描かないこと」に行くわけですね。

ところが、この「描かないこと」の方も、やっぱり執着してしまうとダメなんですね。


「どうでもよくなってしまう」って言うんですか?

自分でも気が付かないうちに「ナンデモアリ」に成ってしまうんですね。

どうしても、考え方が投げやりになって来て「ヤリッパナシ」に成りがちなんですね。


どんなことも、やっぱりバランスが大事なのかなと思うわけですが、

「描かないで、描く」と言うのは、人間にはできないことなので、

それを使い分けていかないとならないということに成るんでしょうね。


要するに、その辺でウロウロと行ったり来たりしているというわけですね。

「おいおい、そんなんでいいのかよ?」

まぁ、そういうのを自分のスタイルとしているようなスットコドッコイ(何語?)な奴も居るということですね。


私の場合は、こういう「迷い」こそが、最も人間的なことであり、

最もその人を現していることであり、

そして、最も「芸術的」なことでもあると思っているわけなんですね。


そういうわけで、こんな感じでやっております。



「考えること」≠「頭を使うこと」

「考えること」と「頭を使うこと」と言うのが微妙に違うと思っているわけなんです。


よく、「シゴトで動いているから運動なんかしなくても運動不足にならないんだ」

と言っている人が居ますけど、たぶん、間違っていますよね。


仕事でかなり動いていても、ほとんど「運動」の代わりにはならないと思います。

仕事は「労働」ではあっても「運動」ではないんでしょうね。


それと同じように、「〇〇で頭を使っているから」と言って、

「考えている」ということlにはならないような気がするわけです。


たとえば、仕事で頭を使っても、

それはほとんどの部分が、「ルーティン・ワーク」であって、

その都度、一から考えているというわけではないので、

「頭は使っていて」も、意外と「考えてはいない」んじゃないかと思うわけです。


それが、仕事以外のことであっても、

何かの必要に迫られて考えたことと言うのは、

実は、どこかが単純化されていて、「際限なく考える」ということがないわけで、

目的さえ達成されれば、それでいいわけですから、

「純粋な好奇心」から考えられたこととは違って、

意外なほど「単純な思考」しかしていないんじゃないでしょうか?

これは、「必要は発明の母」と言うのとはチョット違うことなんじゃないかと思いますね。
(こちらは一から考えているんでしょうね)


つまり、「考えること」が「脳の運動」に当たるものだとすれば、

「頭を使うこと」は「脳の労働」に当たるものということですね。

だとすれば、やっぱり「労働」では「運動」の代わりにはなりませんから、

「頭を使うこと」では「考えること」の代わりにはならないということに成るのでしょう。


この「脳の運動」が、「体の運動」の場合よりも、もっと区別されていないと思うわけです。

だから、「考える人」が少なく成っているような気がしますね。

「頭を使う人」はたくさん居るみたいなんですけどね。

    ※例えばの話ですが、「脳トレ」と言われているものがありますけど、
      あれは、たぶん「脳の運動」に当たるものということに成っているんでしょうが、
      実際には、どちらかと言うと「脳の労働」に近いものに
      成ってしまっている場合の方が多いような気がします。


現代人を見ていると、むしろ「考えないようにしている」と言う風に見えますね。

それなのに、「頭を使っている」から、「考えている」と思ってしまっているんですね。


「頭を使うこと」に追われていて、疲れてしまうので、

「考える」ヒマなんてないんですね。


だから、もう少し、脳も体も「ヒマ」にして、

考えたり運動したりする余裕を作ってやったほうがいいんじゃないのかなと。

そんな風に思いますね。


まぁ、メンドクサイですけどね。


現代人は「運動」や「考えること」自体よりも、

「ヒマ」を作ることがメンドクサイと思っているんじゃないか?と感じることがありますね。

「ヒマ」が「メンドクサイ」のっておかしいですよね。

「ヒマ」って一番メンドクサク”ナイ”ことのような気がするんですけどね。


「考えるヒマもなく働いている」のは、メンドクサク”ナイ”のに、

「ヒマ」に成ることは、メンドクサイと思われているみたいですね。


なんとなく、何かを避けているように思えるんですよね。

その為に、忙しくして「ヒマ」を作らないようにしているようにも思えて来るんですね。


まぁ、そういうのは、ウガッタ見方なんでしょうけど、

「考えること」と「頭を使うこと」は違うことだと思いますから、

頭に「運動」させるなら、無目的に「考えること」がイイんじゃないかと思います。

あんまり実利的な目的をもって「頭を使う」と「考えるヒマ」が無く成って、

けっきょく疲れるだけなのかなと。


そんな風にも考えられなくはないですね。



「批判」と「否定」

「批判」と「否定」は重なるところが多いので、混同してしまいがちなものだと思うんですが、

実際には、かなりの違いがあるんだと思います。


「批判」も「否定」も「ネガティブ」ということで、同じように扱われることが多いわけですけど、

「批判」はそこから何かを得ようとするもので、「否定」はそこには得るものがないと判断することなのでしょうね。


つまり、「批判」は「否定的」ではあっても、「全面的な否定」ではないということですよね。


逆に言うと、「否定」するということは、それを「全面的に否定」することということに成るわけです。

要するに、「存在」を「否定」するということに成るわけですね。


「存在しているもの」の「存在」を「否定」することは、

矛盾しますから、これにはやや無理があって、

本当に純粋な意味での「否定」と言うのは、有り得ないことのような気もします。


そうなると、全ての「否定形」は、本来「否定」ではなく「批判」だということに成るわけですけど、

その「矛盾や無理」を強引に乗り越えて「否定」しようとする人が居たりするわけですね。

それが「ネガティブ」と言われているものの「最も良くないカタチ」なんじゃないかと思います。


ところが、実は、これは「肯定」の場合も同じことで、

あまり強引に「肯定」しようとすると、やっぱり「最も良くないカタチ」に成るわけです。


言ってみれば、「否定」と「肯定」の間にあるのが「批判」だとも言えるんだと思います。

もちろん「批判」だけではなく、「研究」や「考察」などは

どれも皆、本来は「否定」と「肯定」の間にあると言うことなんだと思います。

問題なのは、「否定的」か「肯定的」かではなく、その「内容」ですね。


いま、インターネットやマスコミを通じて流される情報が(こういうブログなんかもそうですけど)、

とにかく「批判」の「存在」を「否定」しているわけです。


何でもかんでも、取り敢えず曖昧にすることが「良いこと」のように成っていて、

「イイ」と言っているのか「ワルイ」と言っているのかがよくわからない「情報」がとても多いんですね。

そのわりに、「内容のない否定」や「内容のない肯定」を、ミョウにキッパリと言い切ってしまうと、

そういうモノだけは比較的受け入れられやすいという、

とても不自然な状況になっているように思えるわけですね。


そういう情報と言うのは、

要するに、「情報」が「情報としての価値」を持っていない状態に成っているわけです。

それなのに、「ネット」や「マスコミ」を通じて一方的に大量に流されますから、

「情報としてのチカラ」だけは発生してしまうわけですね。


つまり、「価値」も「内容」もないものが「チカラ」だけは持っているという状態ですね。

だから、いろいろなことが「トンデモナイ方向」へ「暴走」してしまうことが頻繁に起きて来るんでしょう。


もう少し、「批判」を重視していかないと社会が行き詰ってしまうんじゃなんでしょうか?


今は、先人の遺してくれた「スバラシイ遺産」の上に立って、

それを、勝手気ままに使っていられるから成り立っているだけで、

こういう状態が続いて行けば、次の世紀の人間は、

『前世紀の人たちは、「スバラシイ遺産」は何も残していかなかった』と言うように成るでしょうね。


そういう世紀の住人ではありたくないものですね。

よく、「日本に嫌気がさしたから外国に行く」と言う人が居ますけど、

私は、「この時代に嫌気がさしたから、チガウ時代に行きたい!」と思ってしまいますね。


私は、今までに「本当にイイ時代」なんてなかったんじゃないかと思いますけど、

それは、ある意味当然のことで、時代に先駆けて「人間の期待値」が上がって行くわけですから、

常に、「いま」よりも「イイ時代」が期待されてしまうわけで、

そういう意味では、「イイ時代」は、これからもたぶん来ないんでしょうね。


そんな中でも、「いま」はとても「ヘンな時代」なんじゃないのかなと思いますね。


これは、太古から延々と続いてきた時代とは、全く違うものとして考える必要があるんじゃないでしょうか?

たった100年~200年ぐらいの間に、

人の生活や社会の様相がこれだけ変化したことは、かつてなかったわけで、

それに、人間が付いて行けていないのは当然と言えば当然のことでしょうから、

「時代」に歪みが生じて「ヘンな時代」に成っているのも当たり前のことなんじゃないでしょうか?


「ヒドイ時代」じゃないだけマシだろうという人もいるかもしれませんが、

けっこう「罪もないのにヒドイメにあっている人」は居ると思いますよ。

「そういう時代」を擁護する意味がわかりませんね。


このことに限りませんけど、

ちっとも「良くもないこと」を、敢えて「悪くはない」と言うことは、

ある種の「現実逃避」でしかないと思いますね。


これは「あえて悪い所を探し出してくる」と言うのとは、ハッキリと違う事ですね。


「良くはない」とわかっているのに、

自分の力では改善できないことだとわかると「批判」するのをやめて、

「悪くはない」と「肯定」してしまうのは、

それが、自分の力ではどうしようもないことだということを認めたくないと言うだけだと思いますね。

「自分の非力さ」と言う「現実」から「逃避」しているんじゃないでしょうか?


いつの間にか、トンデモナク話がそれてしまいましたが、

これなんかも、「ヘンな時代」の話しだからかなと。

そんな風に思っていたりするわけです。




芸術作品の「在り方」と「見せ方」

私は「絵」に合わせて「額」も作っていこうと考えているわけですが、
(まだ、できてませんけど)

「芸術作品」には、「見せ方」ということが必要になってくるんじゃないかと思っているわけです。


「芸術作品」と言うのは、それ自体がすべてであり、

単独で完結している必要があると言うべきなのかも知れませんが、

それでも、なおさらに、何か加えることは出来ないものだろうか?

と言う気持ちがあってもいいんじゃないかと、

そんな風に思って、「額」を作ろうと考えているわけです。

   ※ さらに言えば、「額」は「平面作品」を独立させるためのものでもあるとも思っているので、
     「単独」であるためにも必要なモノだと考えています。


たとえば、教会の祭壇画なども、教会にあるのと美術館にあるのとでは、

かなり根本的に意味が違ってくると思います。


純粋に「絵画」として見たときと、「宗教的なアイテム」としてみたときとでは、

当然、意味が違ってきますし、「見え方」も違ってくるということでしょうね。


これは、日本の襖絵や屏風絵などにも共通のことが言えていて、

家具や建築の中の一部としてみる場合と、その平面を「単独の絵画」としてみたときとでは、

「見え方」も「意味」も違ってくると言えるでしょう。


つまり、「見せ方」によって、「見え方」や「作品の意味」が違ってくるということに成るわけです。


本来、「芸術作品」と言うのは、独立して成り立っているものなのかも知れませんけど、

厳密な意味で「独立」した「作品」と言うものは無いということも事実なわけで、

そうした意味では、このように「見せ方」によって「作品」の「意味」や「見え方」が左右されるということも

当然と言えば当然のことなのかも知れませんね。


さて、そこで、この「芸術」の「見せ方」についてなんですけど、

これを、「演出」と言うのとは区別する必要があるんじゃないかと思っているわけです。


「見せ方」と言うのは「演出」に近い言葉だとは思うのですが、

「演出」と言うのは、その「作品」の根本的な「在り方」や「意味」を揺るがしてしまうようなものではなく、

あくまで、「モリアゲ効果」としての範囲にとどまるものであって、

それ以上に逸脱して、「作品」自体の「在り方」や「意味」に

影響を与えてしまってはならないモノなんだと思うわけです。


まぁ、そういう「過剰演出」を「エンターテイメント」の世界では「ヤラセ」と言ったりするということでしょうね。


つまり、その作品の本来の「在り方」を,変えることなく最大限に引き出すことを「演出」と言うのでしょう。


それに対して、ここで言う「見せ方」と言うのは、

その「作品」の根源的な「在り方」を変えてしまうような形で、

見る者の視点を転換することを言っているわけです。


たとえば、美術展で言うと、

「展示方法」や「作品の並べ方」などが「演出」に当たります。


それに対して、ここで言っている「見せ方」の部分に当たるのは、

美術展に行った時に、出口の先に「お土産コーナー」みたいなものが設けられていて、

その日、展覧会で見た「作品たち」が、いわゆる「グッズ」になって販売されていることが多いですが、

その「グッズ」に成った「作品たち」は、

もはや、「作品」とは言えなくなっていて、

マグカップはマグカップだし文房具は文房具なわけで、

そこに取り込まれた「作品」たちは、

マグカップの絵柄であり、文房具のデザインであるわけです。


つまり、「作品たち」の「在り方」が変わったわけですね。


こういうのは、「作品」から、むしろ遠ざかってしまっている例ですが、
(それが悪いということではありません)

それとは反対に、「作品」をより一層、その「作品」の目指すところに近づけるような「見せ方」

と言うのもあるんじゃないかと思っているわけです。


「近づける」と言うよりは、「補完し合って完結させる」と言う感じでしょうか。


少し前までは、「芸術」に、このような「見せ方」と言う考え方は必要ではなかったんだと思いますが、

現在は、「芸術」が確固たる拠り所を失ってしまっている時代なので、

それを何かの形で「補完」する必要が出てきているんじゃないかと思うわけですね。


それが、私の場合は「絵画」における「額」なわけですけど、

もちろん、他の「ナニカ」であってもいいでしょうが、

拠りどころを失くした「芸術」が「芸術」として「存在」するためには「ナニカ」が必要なんじゃないかなと。


まぁ、そんなことを考えてやっているというわけなのです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR