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「習作」を描くこと



このところ、「習作」を描くことが『とても役に立つなぁ』と思っているわけです。


以前は、『習作なんて何のために描くのか?』と思っていました。


有名な画家の作品の中に「習作」とされているものが混じっていることがありますけど、「本作」とそれほど出来栄えの変わらないようなものもあったりして、どこで「習作」と「本作」を分けているのかわからないことも多く、また、そもそも何のために「習作」にそこまで力を入れて描くのかが理解できませんでしたが、いざ、自分が本気で「作品」に取り組みだしたら、「習作」を描くことが、間違いなく有効だと感じるようになりました。


まず、私の場合で言うと、ある程度まで仕上がった作品に何か描き加えたいときに、『さすがに無謀な私にもイキナリは描けない』というケースが出てきて、それで、「習作」で試しに描いてみようと成るわけです。


それから、漠然としたイメージを固めるための「習作」と言うのもありますし、絵の中の「一部分」を「習作」で試すというのもあります。


そういったことで、「習作」を描くように成ったわけですけど、実は、一番『役に立つなぁ』と思っていることは、新しいことを、とても自由な気持ちで試すことが出来るということなんです。
(むしろ「習作」で試したいところとは関係ない所で、ということです)


これは、ただ単に、気持ちの問題なんだと思いますけど「習作」だと思うと、限りなく無責任な感じで、新しい手法を試せるんですね。

そして、それがまた、けっこう楽しいんですね。


私は、自分で言うのもなんですが、「くそまじめ」な人間なんで、「本作」と言う意識があると、どうしても「こんな絵にしたい」と言うような目標がありますから(具体的な目標と言う意味ではないですけどね)、漠然とした感じで、無責任にやったことがない描き方を試すというのがやり難くなってしまうわけですね。


そんなわけで、今は「習作」から見つけ出した、自分にとっての「新しい手法」を、出来るだけたくさん集めていきたいと思っています。


「芸術」は「技術」に頼ってはいけないと思っておりますが、「技術」を使わずには、何も表現できないとも思いますから、「技術」の持ち駒は、出来るだけ多い方がいいんじゃないのかなと。


それ以上に、これが、とにかく楽しい!
と言っても、「習作」ばっかり描いていても仕方ないんで、「本作」を仕上げなければと思うわけですが、これが、結構つらい!!


そういった感じですね。





「芸術」や「エンターテイメント」を「一般人」の手に取り戻そう!



今や、「芸術」と言えば「芸術家」のもの、「エンターテイメント」と言えば、「芸能人」などの一部の「エンターテナー」のもの、ということに成ってしまっているわけですが、これらを「一般人」の手に取り戻さなければならないと思うわけです。


もともと、「芸術」だって、「エンターテイメント」だって、昔は、きっと「一般人」のものだったんじゃないかと思うのです。


マスコミもなく、情報伝達手段も限られていた時代には、「芸術」や「エンターテイメント」は、確実に「一般人」の手の届く所にあったんじゃないでしょうか?


たとえば、デビューする前の演歌歌手の人なんかが、地元の「のど自慢」の賞を総ナメにしていたと言う話しがありますけど、その時点では「一般人」だった人が、「プロ」に成った途端に、「一般人」ではなくなってしまうわけです。

そういうことで、「歌」と言う「エンターテイメント」が「一般人」から奪い取られていってしまうというわけです。


もちろん、今でも、地方の「のど自慢」はあるんでしょうが、それは、常に、「素人芸」として見下されてしまうわけです。
そこで優勝しても「素人」ですが、「プロ」になると「エンターテナー」に成るわけです。


でも、そもそも、そういう「一般人の中の一番」を超えるような、「一番の上の一番」って、どれほど求められていたんでしょうか?


たとえば、「お笑い芸人さん」の「一番」を決めるような「〇〇グランプリ」みたいなのがありますけど、そこで言う「一番」って必要なんでしょうか?

だいたい、「一番オモシロイ」って誰に決められるんでしょうね。


それに、人をよく観察していると、一日に一人くらいは「かなりオモシロイ人」に出会いますから、なにも「全国的に一番」である必要なんてないんじゃないかと思ってしまうんですよね。


いづれにしても、こういったことで、「芸術」や「エンターテイメント」が、「一般人」の手の届かないところに持っていかれてしまっているんじゃないかと思うわけです。


「芸術」にしたって、「〇〇展入選」とか「〇〇展大賞受賞」とかということで、すべてが評価され過ぎているんじゃないかと思うわけですね。


そして、そのさらに先にプロの「芸術家」が居て、やっぱり、そこからは、もう「一般人」ではなくなってしまうわけなのです。

こういうことで、「一般人」の手の届かないところに持っていかれてしまったものたちを、「一般人」の手に取り戻さなければいけないと思うわけです。


やはり「芸術」にしても「エンターテイメント」にしても、それから「スポーツ」なんかでも、一般人も専門家も含めた、それぞれの人からの距離が、等しい状態がイイんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っていると言うわけです。


「現代美術」が「額」を拒否するに至った理由



「現在形の絵画」に置いては、「額」は拒否されていると言っても過言ではないように思うわけです。
でも、そもそも、なんで「額」は拒否されてしまったんでしょうか?


まず、私自身のことで言うと、「額」が「権威の象徴」のように感じられたということがあるんですね。


「額」と言うのは、けっこう高価なものですし、歴史的に見ても、ヨーロッパの王宮などを絢爛豪華に飾ることで、発展してきたものですから、「絵」をゴージャスな調度品のように見せる傾向があるわけです。

それで、「額」が、そうした「芸術にまつわる権威の象徴」のように成ってしまったんだと思うのです。


でも、実は、「額」が「権威」だったわけではなく、「権威的な額」が主流(ほぼ全て?)だったというだけなんじゃないかと、私の場合は考えるようになったわけです。


実際には、「額」の中の「絵」の方だって、「権威的な絵」が主流だったわけで(今でも主流なのかも知れませんけど)、「芸術家」には、ある程度与えられていた「創作の自由」が、「額職人」には、ほとんど与えられていなかったであろうことを考えれば、「額」が、権威の要求するところを強く反映したものに発展したことは、当然のことであったわけですし、また、やむを得ないことでもあったわけです。


「芸術家」や「芸術作品」を「権威」から離れたところのものにしたければ、「権威」を拒否した「創作姿勢」を貫けばいいわけで、それと同じように、「額」を「権威」から遠いものにしたければ、「そういう額」を作ればいいということなんじゃないかと思うように成ったわけですね。


また、必ずしも、自分で作らなければいけないというわけでもなくて、しっかりした「額装」のコンセプトを持っていさえすれば、他人の作ったものでも、問題ないんだと思います。


もちろん、「権威的云々」ということだけでもないんでしょうが、いずれにしても、何かしらの「エラソーな感じ」や「形式ばった感じ」と言うのが、『「現代美術」が「額」を拒否するに至った理由』なんじゃないかと考えるわけです。


つまり、『もっと自由に成りたかった』と言うことなんじゃないのかなと。
でも、その「自由な額」を作る人があまりいなかったということなんじゃないでしょうか?

たぶん、”そうまでして”作らなくでも許されたからと言うことなんじゃないかなと。

要するに、「無額」が”ナントナクそれらしかった”ので受け入れられてしまったために、「額」が拒否され続けてしまったように思うんですね。


さらに言うと、いつの間にか反転して、「無額」の方が「権威的」になってしまっていて、それが、割と自然だったために気づかれなかったということもあったんじゃないでしょうか?


私は、これからは「額装」まで含めた全体が、「作品」として考えられるように成っていけば、もう少し良く成る可能性があるんじゃないかと思っているんですけど、それにしても、「額」を拒否するのって、すぐに飽きられて終わってしまってもいいような「手法」だったんじゃないかと思うんですけど、なんで、ここまで長く続いているのか、とても不思議な気がしてしまうわけなのです。


その理由が、「額」がない方が”ナントナク「現代美術」っぽいから”っていうのもね。


そんなことも含めて、「額」は「現代美術」の視点からこそ、見直されていいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。




「死ぬ日」



『「死ぬ日」が幸せだったら、まぁ、けっこう「イイ」んじゃないかなぁ』と思ってしまうわけです。

少なくとも、そこまでの人生がそれなりに幸福でも、「死ぬ日」が不幸だったら、だいぶ「イヤ」なんじゃないかと思ってしまうんですよね。


それは、必ずしも最後にいいことがあるとか、すごく満たされて充実した気持ちで「死を迎える」といったことではなくて、どちらかと言うと、「スンナリト死んで行ける」と言う感じですか?


まぁ、そんな風に言うと「厭世的」に聞こえてしまうかもしれませんけど、そういうことではなくて、「心残り」みたいなものは、出来るだけ少なくしたいということだと思います。


ところが、なかなか「スンナリト死んで行く」のって出来ないんじゃないかと考えてしまいますね。


そして、この「死ぬ日」を意識して生きていると、わりと簡単に出来ることなのに、やっていないことが、実に多いことに気が付いてくるんですねぇ。

「大したことじゃない些細なこと」の場合もありますし、「人生の中で、ずっと気にかかっていたこと」なんて言う場合もあります。

どっちにしても、やる気さえあれば出来るようなことが多いですね。
と言うか、『できないことは、どっちみち出来ない』って言うことかもしれませんけどね。


要するに、「生きる日々」を中心に考える時と、「死ぬ日」を中心に考える時で、「やること」の「優先順位」が変わって来るって言うことなんでしょうね。

だから、「簡単に出来ること」が、後回しにされて、そのままホッタラカシになってしまっていたんでしょうね。


「生きる日々」から考えた場合、実際に「トクかどうか」が大事になりますけど、「死ぬ日」に至っては、今さら「トク」しても、あんまり意味ないんで、そういうことはどうでもよくなってきて、『スンナリト死んで行けるか?』ということが大事になってくるわけです。

つまり、「チョットした気がかり」なんかが、急にクローズアップされてくるわけですね。


それから、「生きる日々」から見ると、「できないこと」が「できたらいいのに」ということに成りますけど、「死ぬ日」から見ると、「できないことは今さら無理してもできない」ということで、出来なくても、あんまり「悔い」を残さないような気がするので、「出来るかどうか」は、ほとんどどうでもよく成ってくるということなんでしょうね。

諦めやすいって言うことでしょうね。


反面、出来るのにやらなかったことや、やろうともしなかったことがあると、とても気に成るんですねぇ。
むしろ、簡単にできることほど気に成るのかも知れません。


それから、とても多いのが、『本当はこっちの方が正しいことなんだけど、なんとなく周りの状況からして、こっちにしといた方が無難かな?』っていう、有りがちなパターンです。
これが、すごく気に成って来るんですね。


「死ぬ日」を中心に、物事を見るようにすると、『そんなことに何の意味があるのか?』と思えてくるわけですね。


なんで、そういう考え方に成ったかと言えば、「生きる日々」の中の「幸せ」って、チョット興味が薄く成って来ちゃったんですよね。


これもまた、「厭世的」に聞こえてしまうかもしれませんが、けっして『「幸せ」なんてもういらない』と言う話じゃなくて、「幸せ」は、相変わらず大好きなんですけど、「生きる日々」の中の「幸せ」は、意外と小さいような気がしてきたということかもしれないですね。


「幸せ」って、カゲロウみたいに「追うと逃げていくモノ」だと思うので、達成するって言うことは無いんだと思うわけですね。
でも、「死ぬ日」だけ「幸せ」ならイイっていう考え方だと、少し「達成」が見えて来るんじゃないかなと思えるわけですね。

しかも、それが、割と簡単にできることをするだけでいいとなれば、もう、これは、やらない手はないということに成るわけです。

しかも、そういう感じでやっていると、「生きる日々」の中でも、意外な満足感を得られたりするっていうのは不思議なことですね。


なんだか、これって、かなり「おトク」なんじゃないのかなと。

『おススメ・・・かな?』

『んっ?・・・そうでもないか?』

そんな感じ。





「自分がナニモノなのか」を見出す



私の場合、「自分がナニモノなのか」を見つけるのに、随分と時間がかかってしまいました。
と言っても、今でも「自分がナニモノなのか」がハッキリとわかったということではないですけどね。

まぁ、どちらかと言えば、今までがいかに見当違いだったかに気が付いたって感じですか?


とにかく、5年ほど前に50歳くらいになった頃、ようやく『自分はこんな人間なんじゃないの?』と言う感じでした。

でも、こういうの、私だけでもないんじゃないかと思うんですよね。
「自分がナニモノなのか」って言うことが若いうちからわかっている人って、意外と少ないんじゃないかと思うわけです。


少なくとも、「周りの環境」や、「理解者」に恵まれている人ばかりでもないでしょうから、若いうちに、それが見いだせる人は限られていて当たり前なんだと思うのです。


昔(封建的な時代)は、生まれた環境や両親の職業などで、その人の人生が決まってしまう部分が、かなりあったんでしょうから、あえて「自分がナニモノなのか」を見出す必要自体が、あまり無かったのかも知れません。

しかし、今は、自由になった分、全ての人が「自分を発見すること」を要求されているわけです。
まぁ、いわゆる「自分探し」っていうやつですね。


でも、そこで、あまりにも情報が過多ですから、迷ってしまうわけですね。
その結果、「どうでもよくなってしまう人」がとても多いような気がします。


どうでもよく成ると、人は迷わなくなりますから、「自分探し」からは解放されますが、「自分がナニモノなのか」は見出されません。

これでは、ある意味で「昔と同じ」ということでしょうね。


また、それとは逆に「自分探し」から抜け出せなくなってしまう人も、かなりたくさんいるように思うわけです。


今の時代は、ほとんどすべての人が情報に振り回されていますから、必ずしも、自分とは関係ない「情報の中」ばかり探して、「自分の中」を探さなくなってしまうんですね。

それで、「自分探し」から抜け出せなくなってしまうわけですね。


「自分探し」ですから「自分の中」にしか「答え」がないのは、みんなわかっているんですが、どうしても「金色の答え」を探してしまうんですね。
それで、「渋い感じの色の答え」しかないと、「チガウ」と思って、また「自分探し」を延々と続けることに成ってしまうわけです。


でも、もともと「色」に「上・下」なんてないわけで、「金色」はただ単に、色が「黄金」の色に似ているというだけのことで、本当の意味で、「色の上・下」なんて、はじめから無いわけです。


その辺が「情報」で惑わされてしまっているわけですけど、そういった「迷い」も含めた「自分の色」を受け入れると、自ずから「自分がナニモノなのか」を見出すことが出来るんじゃないかと思います。


実際は、「ナニ色か?」が問題なんじゃなくて、「その色」を如何に受け入れて、いかに表に向かって出すかが問題になってくるわけです。

もともと、「その色」とは「自分の色」ではあっても、表面に塗られた色に過ぎないわけで、例え金色でもメッキのようなものですから、「その色」がナニ色であっても、「本当の自分の中身」とは必ずしも関係なくて、「自分がナニモノなのか」を知れば、表面の色のことなど気にならなくなるんじゃないかと思うわけですね。


まぁ、所詮人間ですから、全身、金で出来ているわけないんで、「その色」に惑わされる必要もないのかなと。


そうして、「自分がナニモノなのか」を見出すことが出来れば、少し、良くなるんじゃないのかなと。

それでも「迷い」が無く成るわけじゃないですけどね。

その「迷い」は、

『いいんじゃないですか』と。


そんな風に思っているわけです。



「抽象」と言う言葉はもう古い?



いま、言われているような意味での「抽象」と言う概念が現れてきてからでも、もう、100年ほどはたっているんだと思うわけですけど、その間、この「抽象」と言う言葉は、なんとなく、その場その場で解釈されて、”ボーッとした状態”のまま維持されてきたという感じがしているわけです。

しかも、そんな状態のまま、「抽象」と言う言葉が、「芸術」の中で、やや「古クサイ感じ」にすらなって来ているんじゃないかと思うのです。


ちょっと前までなら、「抽象芸術」と言えば、どことなく「先端芸術」な感じがあったし、印象として、「現代美術」に、一生懸命に取り組んでいるという雰囲気があったように思うのです。


でも、今はと言うと、そういった、「一生懸命さ」には、ややドンクサイようなイメージがあって、「もっと、スマートに行こうよ」っていう感じがあるわけですね。


これは、「乗り越えられないこと」に対するゴマカシに過ぎないと思いますし、そういうゴマカシを「センス」と言っていることには何の意味も感じませんが、そもそも、「抽象」と言う言葉に、どれほどの意味があったのかということについては、考え直してみる時期なんじゃないかなとも思うわけです。


もともと、「抽象」と言う概念は、「具象表現の行き詰まり」から抜け出すための「アイテム」、つまり、「非具象」として、考え出されたものなんじゃないかと思うわけです。
(「抽象的な美術」自体は、かなり昔からあったんでしょうが、現在考えられているような概念としての「抽象」ということです)


それで、「具象ではないこと」と言う漠然とした規定で、概念が形成されたために、「具象ではない」ということだけがハッキリしていて、『じゃあ、どういうのが抽象なんだ?』って言うことが、ややおろそかにされてきた感があると思うのです。


実際は、おろそかにされたわけでもなくて、いくら考えても結論が出なかったから放置されてしまったと言うことだと思います。

 ※これは、「芸術の20世紀」の落とし穴の一つだと思います。
  「芸術の20世紀」に置いて、「抽象」と言う概念が、根本的に追及された
  り研究されたりする前に、「芸術の競争」が起きてしまったために、みんな
  が人より先んじようとして、付け焼刃の状態で 「先へ先へ」と急き立てら
  れて、「抽象の理解」がホッタラカシにされてしまったような気がします。
      
  本来、学ばれるべきは「抽象は達成できないことにこそ意義がある」
  ということだったんじゃないでしょうか?
     
現在、「抽象」と言う概念は、個々の作家が、作風に独自性を出すための「アイテム」のように成っているような気がします。


これは、「抽象」の始まりの時点で、「具象の行き詰まり」から脱出するための「アイテム」としてスタートしたことと、基本的には、ほとんど変わっていなくて、違いと言えば、始まりの時点では、「非具象」や「具象の破壊」が目標とされていたのに対して、現在では、「具象性やデザイン性との折り合いのつけ方」に「オリジナリティ」を見出そうとしているというところでしょうか?


でも、「具象」と「抽象」の折り合いをつけること自体は、ちっとも悪いことだと思わないのですけど、それを、「アイテム」として使うというのがどうもシックリこないわけです。


「具象」とか「抽象」とか、また、それらに「どこで折り合いをつけるか」と言ったことは、単なる「アイテム」などではなく、もっと根本的なところで、その人が「芸術」や「表現」と言うものを、どうとらえているか?と言うような、「核」に当たる部分なんじゃないかと思うわけです。


だから、本来は、「オリジナリティ」を出すための「アイテム」ではなくて、その「核」に当たる部分がどこに位置づけられるかで、自ずから、その人の「オリジナリティ」が決定されてくるということなんだと思うのです。

「順番が逆」って言う感じがするんですね。


自分のことで言えば、「抽象」と言う言葉を使う必要性は、徐々に感じなくなってきていますし、また、それに替わる言葉が必要な気も、あんまりしませんけど、『じゃあ、今まで「抽象」ということばで言ってきたことをどう言えばいいんだ?』となると、やや困ってしまうのも事実なわけで、そんな感じで、「抽象」と言う言葉はもう古いのか?

と言う自問については、「保留」ですね。


でも、取り敢えず、「抽象」と言う言葉の意味がどんどん希薄になって来ているということはあるんじゃないかと思っています。


そんな中で、「抽象」と言う言葉を使い続けるのか?と言われれば、

『もう、やめようかなぁ』と言う気もするわけです。


それで、今の時点では、

『「抽象」って、言葉はもう古いのかもね』

と言う風に感じています。


 ※その後、私自身は、「抽象表現」に代わる言葉として「異・現実のリアリズム」と
  いう言葉を使うようになりました。
  その辺は、「異・現実の世界」=「異リアリズム」というカテゴリに書いてあります。

  とはいえ、それは、個人的な言葉として使っているものですから、「抽象表現」
  =「異リアリズム」ということではありません。
  だから、まだ「抽象」という言葉を完全に捨ててしまったわけではなく、並行して
  使い続けております。

「殺生の境界線」



いろいろな理由で、「菜食主義」を実践している人が居らっしゃいますよね。
(私の個人的な知り合いには居ないですけど)


これは、おもに「宗教的(人道的)な菜食主義」と「健康のための菜食主義」の二つに分かれるんでしょうね。

「健康のための菜食主義」はともかく、

「宗教的(人道的)な菜食主義」に置いては、おそらく「殺生」と言う概念が関わっているんでしょうね。
(動物愛護的な立場の人も、方向性としては、これに近いんだと思います)


まぁ、「むやみに命を奪ってはならない」ということなんだと思います。


でも、「植物の命」は奪ってもいいんでしょうか?

いや、イチャモンつけようっていうわけじゃないんです。


でも、人それぞれに「殺生」には「境界線」があるんじゃないのかなと思うわけです。


つまり、「菜食主義者」にとっては、「動物と植物の間」が「殺生の境界線」なんだと思うわけですね。
(そう単純なものでもないのかも知れませんけどね)

それから、イスラム教徒なんかだと、宗派によって、食べていいものと、いけないものが違うなんて言うこともあるみたいですから、各宗派で、それぞれに、「殺生の境界線」が違うって言うことに成るんでしょうね。

と言っても、「殺生」と言う考え方自体が、「仏教的」なものみたいですから、「イスラム教徒」には当てはまらないのかも知れませんけどね。
「イスラム教」では、神聖な生き物とされているものを食べてはいけないということが、戒律になっているみたいですけど、これも一種の「殺生の境界線」ととれなくはないんじゃないでしょうか?


自分のことで言うと、基本的には「なんでも食べちゃいます」なんですけど、なんだかんだ言って、「犬」や「猫」は食べないでしょうね。
(そういう「食文化」が悪いとは思わないですけどね)

やっぱり、「ペット」として意識してしまうんでしょうね。


それから、「食べること」を抜きに考えた場合でも、「動物」だと殺せないですけど、「蚊」みたいな「小さい虫」だと、大した抵抗もなくコロシテしまいますよね。
「蚊」にしてみれば殺されてるわけですけど、こっちからすると、「殺す理由」は「カユイから」です。


こんな感じで、まったくもって理不尽で勝手気ままな「殺生の境界線」を、人は皆それぞれに持っているようなのですが、そういうのが生きるって言うことなんでしょうか?


よくわかりませんけど、そういうことなのかも知れませんね。


とにかく、「命」からエネルギーを貰わないと生きていけないというのは事実なんでしょう。

それを「殺生」と呼ぶかどうかに、それぞれ自分勝手な「境界線」を引いているんだろうと思うわけです。
さらに、これは、「動植物の命」に限ったことでもないんじゃないかと思います。


たとえば、「無生物」だけから栄養を取って生きていくとしても、それは、何らかの「エネルギー」の移動が行われていることに変わりはないわけで、先の、「動物」と「植物」の違いが、「生物」と「無生物」の違いに成っただけで、それは、最も究極的な意味では、一種の「殺生」に当たるんじゃないかと思います。

つまり、その場合、「生命から離れた所」に「殺生の境界線」があるということに成るわけですね。

生命を奪ってもいないのに「殺生」とは言わないんでしょうけど、そういう「エネルギーの移動」をも含めて「殺生」という解釈は成り立つと思います。


どこに「殺生の境界線」を置くかということよりも、その「境界線」を意識するすることの方が大事なことなのかも知れませんね。

そして、その「殺生」から得た「エネルギー」を有効に使うことを「生きる」と言うのかも知れません。


それを、「無駄」にしてしまうことは「生きることの逆」って言うことですね。
つまり、それこそが「殺生」ということなのかも知れませんね。


「何を食べるか」ということはともかくとして、「食べ物」を「無駄」にすることっていうのは、とっても「悲しいこと」なんじゃないのかなと。
(「食べ物」に限ったことでもないですけどね)


そういう風に思っているわけです。




いま、「スタイル」と言えるのは「クセ」だけかもしれない



「芸術」には、「オリジナリティ」があるに越したことは無いんでしょうね。


私自身は、「オリジナリティ」は絶対に必要なモノだとは思いませんし、どちらかと言うと、イヤでも現れてきてしまうモノなんだと思っていますから、なにも無理してまで、創り出さなくてもいいような気もするんですけどね。

だから、そういった「オリジナリティ」は、それぞれの人がもともと持ってはいるはずなんですが、ところが、それが、なかなかどうして「作品」を見た人に、スンナリトは伝わってくれないわけです。

どうしても、見る人はハッキリした「スタイル」の方に目が奪われてしまうので、本当の「オリジナリティ」よりも、そういう無理に作られた「スタイル」に持っていかれてしまうわけですね。


そこで、やっぱり「自分のスタイル」を身に着けていく必要があるんじゃないかと思うわけです。
まぁ、出来ることなら無理しないで出てきた、本当の「自分らしいスタイル」ですね。
そうすれば、「自分らしさ」が伝わり易いだろうということです。


それで、「自分のスタイル」を見つけるにはどうすればいいだろうと考えるわけですが、現在「芸術」に置いて、「新たなスタイル」に残されている領域は少ないといっていいでしょう。


少し前までは、「画期的な目の付け所」や「斬新な手法」や「誰も使っていなかった素材」と言った、「未開の地」が、まだまだ、たくさん残されていたわけです。
でも、みんなが競って、それをいち早く使おうとし続けて来たわけですから、残された「未開の地」の領域が、少なくなっているのは当然と言えば当然なんでしょうね。

で、いま、「スタイル」と呼べるものと言えば、そういう「新しさ」や「珍しさ」のように「ハッキリしたもの」ではなくて、もう少し「普通なもの」に成るんじゃないかと思うわけです。


もともと、「芸術」っていうものが、そこまで「画期的」である必要もなかったような気もしますし、もう少し「普通なもの」でよかったような気もするので、過去に置いては、「画期的」を、一応、一通りやってみる必要があったのだとしても、もう十分にやりつくされた感もあるわけですから、そろそろ、「普通なもの」を再発見していく時期なんじゃないかと思うわけです。


そこで、いま現在、「スタイル」と呼ぶのに、最も近い位置にあるのは、その人が生まれつき持っている「クセ」の部分なんじゃないかと思うわけです。


「クセ」は「技術」にとって邪魔になるということもありますし、「クセ」が出てしまうと、それが「アラ」に見えてしまう可能性も高いので、どうしても排除されてしまいがちですけど、そういう「クセ」をなんとかイイ方に向けて、「アラさ」を残しつつも、「質」を高めていくようにして、「クセ」を生かしていけたら、それが、いま現在「スタイル」と呼べるものに成るんじゃないかと思うわけですね。


そういう、自分の「クセ」を強く出した、言ってみれば「手癖の手法」を使って行けば、それが「自分のスタイル」に成るんじゃないかと思うわけです。


おそらく、それは、誰にもマネできないモノでしょうし、それ以前に、誰もマネしたがらないでしょう。

そういう「スタイル」だと、誰もが皆「唯一無二」なわけですから、マネする意味がないですからね。


「芸術」と言う分野は、突出した「スバラシイ作品」を鑑賞して、そういう「偉大な作品」の「与えてくれる感動」を享受するモノのように成っているような気がしますが、それも一つの側面ではあるとして、もう一つの面として、「誰にでもあるクセ」のような「普通なもの」の中に、見る側が、「感動を見つけ出すモノ」と言う側面もあるんじゃないのかなと。


そういう風にも思うわけです。

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※2019年7月に追記
 
ここで「スタイル」と呼んでいるのは、「形式」としての「スタイル」というよりは、
どちらかというと、「その人性」のようなものです。
「芸術作品」自体というよりも、その人の「芸術表現」において、「その人らし
さ」を表現するための要素として「スタイル」という言葉を使っています。

読み返してみて、ほかの記事との間に、意味の行き違いがあるように思えた
ので、追記しました。

「人間」は「親に教えられたこと」しかしない?

前にも同じようなことを書いたと思いますけど、「人間」と言うのは、「親に教えられたこと」から、なかなかどうして、抜け出せないわけです。


もちろん、これは必ずしも悪いということではないんでしょうね。
要するに、「親」が「イイこと」を教えていればいいんでしょう。
でも、やはり「人間」としての「自分を創る」ということを考えれば、いくら「イイこと」でも、一度は「親に教えられたこと」から抜け出す必要があるんじゃないかと思うわけです。


とにかく、「三つ子の魂、百まで」と言いますけど、幼いころに覚えたこと、中でも「親に教えられたこと」からは、そうとう歳をとっても、なかなか抜け出せない人がとても多いように思います。

そして、このことが、現代においては、チョット問題になってくるんじゃないかと思うわけです。


現代は「時代のサイクル」がとても短いわけですね。
だから、いくら「立派な親」が「イイこと」を教えたとしても、それが、大人に成るころには”使い物にならなく”なっている可能性が高くなってきているわけです。


それどころか、「親の教え」を守ろうとすればするほど、そういう「イイこと」や「正しいこと」が、その人本人を苦しめたり、周囲の人を抑圧したりすることも、珍しいことではなくなって来ているわけですね。


そんな状況の中でも、「人間」は、まだまだ「親に教えられたこと」しかしようとしないというのが実態だと思うわけですが、これは、おそらく「人間」と言う動物がそういうようにプログラムされていると言うことなんじゃないかと思います。
つまり、「時代のサイクル」に「人間の進化」が追い付けないということですね。

だから、「人間」は「人間の進化」に先立って、「人間の進歩」を要求されているということかも知れませんね。


実際、自分のことを考えても、子供のころに覚えたことからは、わかっていても、なかなか抜け出せないものです。


いずれにしても、「三つ子の魂、百まで」から抜け出さないと、今の「時代のサイクル」にはついていけないでしょうから、将来的に、その辺のところに、柔軟に対応出来るような、教育が考えられて欲しいと思いますねぇ。

と言うか、『時代のサイクルみじかスギ!』

そっちも、もうチョットなんとかならないんだろうか?

という風に思いますね。 



「洗練」とは?



「洗練」されているモノと言うと、「オシャレ」だったり、スッキリして「無駄のないモノ」だったり、そういう「最小限の美」と言うようなイメージがあると思うわけです。

確かに、「洗練」と言う言葉には、そういう意味があるんだと思います。


でも、いまの世の中で、そういう意味で「洗練」が使われているのを聞くと、『ちょっと待てよ』と言う風に感じることがあるわけですね。


「洗練」と言う言葉は、文字から察するところによれば、たぶん、「洗い清めて不純物を取り除いた」とか「鍛錬の末に仕上げた」とか、

とにかく、そういった、、『意外に執念深く、徹底的にネリアゲタ』と言うよな意味があるんだと思うのです。
(よくわかりませんが、鉄の鋳造や、刃物の鍛造からきている言葉でしょうか?)


つまり、そういう「執念」の”アゲクの果て”にたどり着く「最小限の美」なわけで、「そうヤスヤスとはいかないモノ」のハズなんだと思うわけですね。


ところが、この言葉を、今の時代の中で耳にすると、「スンナリト行ったモノ」を思い浮かべてしまうんですね。

つまり、そういう「執念」とか「鍛錬」とは対極的な、「スマートさ」や「上品なセンス」みたいなものですね。


そういうものは、そういうモノで、あってもいいとは思いますけど、チョット、「執念」や「鍛錬」の方が、軽視され過ぎているんじゃないかなとも思うんですね。

世の中から、そういうモノが無く成って、「オシャレ」で「センスのイイ」モノばかりになってしまうと、吹けば飛ぶような世の中になってしまうような感じがして、やや、心もとない気もして、でも、チットモ「洗練」されてる気はしないなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。



「満足度」と「納得度」



よく、企業の宣伝文句で「顧客満足度 NO.1」と言うのを見かけますけど、私の場合、これに似た言葉で「納得度」と言うのを重視しているわけなのです。
(こういう言葉があるのかどうか知りませんけど)


「満足」が提供されれば「満足度」が高く成るわけですが、「納得度」の方は、必ずしも「満足」しなくても、「納得」がいくような、説明や、理由が示されれば「納得度」が高く成るというわけです。


たとえば、「商品のクオリティ」が高ければ「満足度」は上がりますが、「値段」が高ければ、「満足度」は下がりますね。
それから、「アフターケアなどのサービス」が悪くても「満足度」は下がりますよね。


でも、「納得度」だと、たとえ「値段」が高くても、それが「商品のクオリティ」に見合っていれば、「納得度」は高く成るわけです。

それに、サービスの面で不備があった場合、いくら最高のフォローをしても「満足度」は、やや落ちることに成るでしょうが、気持ちよく謝罪してもらったり、原因を丁寧に説明してもらったりすれば、「納得度」としては、むしろ高く成ることもあり得るということですね。


まぁ、一言で言ってしまえば、「納得度」の方が、”やや甘い”ということですね。


で、こういう「甘さ」が、もう少し有ってもいいような気がするわけです。


企業なんかでも、「満足度」を上げようとすると、もう”キュウキュウ”なわけです。
でも、「納得度」ぐらいだったら、そんなでもないんじゃないかなと思うわけですね。

それに、本当に「顧客」が求めているのは、実は、この「納得度」の方なんじゃないかとも思うわけです。

そりゃあ、誰だって「良くて、さらに安い」に越したことは無いんでしょうけど、実際には、大半の人が、「良いモノ」を「見合った値段」で買えれば「十分」なんだと思うんですね。

でも、その辺がなかなか保証されませんから、つい「安いに越したことは無い」となってしまうんだと思うわけです。


世の中全般に、もう少し普通に「納得度」が提供されるように成って行けば、それ程までの「満足度」は求めなくてもいいように成って行くような気もします。


一部の企業だけが、「NO.1の満足度」を提供していても、結局、「満足度」は”一人勝ち状態”の企業にしか提供できないモノでしょうから、結果的に、生活全体の「満足度」が上がるとも限らないわけです。


むしろ、みんなでやれる程度の「納得度」でいった方がいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけですが、私の場合、自分の作品制作に対しても、この”やや、甘い”「納得度」でいっています。


見る人の「満足度」を上げるのは、”ちょっと大変”なので、そこは、まぁ、「納得度」ぐらいで、行こうかなと。

一応、自分の中では「満足度」を追究しているつもりですけどね。
そう考えると、「自分の中での満足度」こそ「納得度」に近いものなのかなと。

そんな風にも思いますね。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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