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[20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」



「芸術」にとって、「20世紀」と言う時代が決定的な転機であったということは、多くの人が認めることだと思うわけです。


それで、何が変わったのでしょうか?

「20世紀以前」と「20世紀以降」とでの、”決定的なチガイ”って何なんでしょうね。
こういうのって、意外と考えないんですよね。

あまりにも”チガイ”過ぎるんで、どこが”決定的なチガイ”なのかなんて、どうでもよくなってしまうのかも知れませんね。


実際、「20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」は、『こんなにもチガウものを、同じ「芸術」とか「美術」として扱っていいんだろうか?』と思うほど、全く違う性質があるようにも見えるわけです。

だったら、その”決定的なチガイ”も簡単にわかるんだろうと思うわけですけど、それが、そうでもないんですね。


あまりに根本から違っているために、どこでどう違って、こんなにぜんぜん違うものになってしまったのかが、かえって解りにくく、そして説明し辛くなっているんでしょうね。

それで、どうしても「多様性」や「抽象性」といった、やや漠然とした言葉を使って説明してしまうために、いっそう、わからなくなって、けっきょく最後は、『そんなこと説明してもしょうがないだろ!』とか、『そういうことを考える暇があったら、自分の作品を作れ!』ということに成りがちなわけです。


でも、私の場合、その辺が漠然としていると、どうもスッキリしないタチなので、そこのところを考えてみるわけです。



まず、「芸術の20世紀以前」には、「芸術」にも、「枠」があったと思うのです。
つまり、「規定」ですね。


「絵画とはこういうモノ」、「彫刻とはこういうモノ」、「ここまでは芸術と言えるけど、ここからは芸術ではない」、と言う、一種の「暗黙の了解」が成立していたということでしょう。
(それ自体にもアヤフヤなところがあったのかも知れませんが)

これは「芸術」に限らず「社会全般」にも言えることだと思いますけど、19世紀から20世紀にかけて、様々なことで、それまで、「暗黙の裡に了解されていたこと」や、「無条件に信じられていたこと」が、覆されるという事態が起きてきて、ナントナク成り立っていた「枠」が成り立たなくなってきたんでしょうね。

それでもって、「メンドクサイから、枠なんて全部トッパラッチマオウ!」となったみたいです。


これが、いわゆる「多様性」に当たる部分だと思うわけです。
つまり、「なんでも芸術と言っていいですよ」ということに成ったわけですね。
それだけ「自由」に成ったのは確かでしょう。


実際、「芸術の20世紀」を通して、それまで「芸術」ではないと思われていたモノのなかに「芸術」を見つけ出すことや、「芸術性」を与えることといった「行為」を「芸術」と言う傾向はあったように思います。


ここで、前述の「あまりにもチガウ」に成ったんでしょうね。


また、ここで、少なくとも「美術」に関する限り、それまでは「作品」をもって「芸術」としてきたのに対して、「行為」自体を「芸術」とする考えが現れてきたことで、「芸術」が、より「精神的なもの」として考えられるように成って行ったわけでしょう。

つまり、「物質」の枠を抜け出して「精神性」を高めようとする傾向があったのだと思います。
おそらく、この「精神性」が「表現形態」としての「抽象」に至ったのでしょう。

この「抽象」と言う概念が「考える芸術」に発展して行くことに成ったということだと思います。


確かに、この「多様性」と「抽象性」の二つは、「20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」を分ける重要な要素なんだと思います。


しかし、それ以上に”決定的なチガイ”は、「創造の芸術」と「破壊の芸術」の違いです。


「20世紀以前の美術」に置いては、誰もが「創り出すこと」しか頭になかったと思います。
それが、やや凝り固まって、行き詰って行ったわけでしょう。
要するに、「アカデミズム」が、あまりに権威的になってしまったわけですね。


それで、一度「壊すこと」が必要になったんでしょうね。
ところが、今度は「壊すこと」しか頭になくなってしまったみたいですね。


どちらにおいても、結果的には、「創造~破壊~再生」という、自然界が持っている「サイクル」が失われてしまったわけです。


「20世紀以前の美術」=「創造の芸術」
これを言い換えれば、「創造に行き詰った芸術」とも言えるでしょうし、

「20世紀以降の美術」=「破壊の芸術」
これを言い換えれば、「破壊に行き詰った芸術」と言うこともできるでしょう。


つまり、「20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」の”決定的なチガイ”は、「破壊」と「創造」と言うチガイですが、その二つの共通点は、「それらを極めようとしたこと」で、どちらも、反対側の視点を失ってしまったために、最終的には行き詰ってしまったということでしょう。


そこで、この「行き詰まり」を脱して、次の世紀に生き残っていくには、「破壊」と「再生」を”ワン・セット”のものとして、一連の流れの中で考えていく必要があるんじゃないかなと。


こういった「思考」と「作業」の繰り返しが、今後の「芸術」に成るんだと思うわけですが、そこのところを、ハッキリさせずに漠然とやっていると、またしても、同じ轍を踏むことに成るような気がするので、そのへんを、ハッキリと意識していこうかなと。


そんな風に思うわけなのです。





「物語り」はソコにある



人の「人生」には、それぞれの「物語り」があると思うわけです。
でも、時々、そういう「人生の物語り」が、軽んじられているように感じてしまうことがあるわけですね。


つまり、何か特別なことをやり遂げた人の「人生」にある「物語り」と、ごく平穏な「人生」を送った人の持っている「物語り」の価値が、随分と違うものとして考えられているように感じてしまうわけですね。

でも、実際は、「物語り」と言うのは、「視点」の置き所で、まったく違うものに見えてくるわけで、その人の「人生」がどういう風なものだとしても、「視点」の置き所によっては、「オモシロイ物語り」にもなりますし、また、違う視点から見れば「ツマラナイ物語り」にしか見えなくなってしまうかもしれないのです。


たとえば、最近のドラマや映画の仕立てに「スピンオフ」と言うのがありますけど、全く目立たなかった脇役のキャラクターでも、その人を主役に立てたとたんに、その人はもう「主役」にしか見えなくなってしまうわけで、「スピンオフの物語り」と「元の物語り」のどちらがオモシロイかということは、単なる好みの問題で、その二つの「物語り」の価値にそれ程の差があるということは無く成ってしまうわけです。


これは、「ドラマ」や「映画」の中の登場人物だけでなく、現実の人の「人生」についても全く同じことが言えていて、その人を中心にして、その人の目を通してみれば、その人の「人生」が一番オモシロイに決まっているわけで、それ以上の「物語り」など存在するハズがないわけです。


要するに、どんなに「奇想天外な人生」でも、その「物語り」を聞いた人が、『ふーん・・・で、だから?』と言ってしまえば、それで、その「物語り」はオシマイだし、どんなに、「平凡な人生」でも、その「物語り」を聞いた人が、『へぇー、それで、その時どんな気持ちだったんです?』と聞き返せば、『あぁ、あの時はね、子供が生まれたばかりで、すごく嬉しくってねぇ』などと話が展開して、それこそが「物語りの始まり」と成るわけです。


「エンターテイメント」の中の「物語り」と言うのは、その辺を、やや無理矢理に演出して、誰もが興味を持つように仕立ててあるわけですけど、「人生の物語り」は「現実」ですから、「演出」はきかないわけで、『それで?だから、何なの?』と言われてしまえば、「イッカンの終わり」なわけですが、「聞く側」が、その「物語り」に興味を持つことで「物語り」として成立した時には、「エンターテイメント」にはない「リアリティ」をもって人の心を感動させたりもするわけです。


そういう、「ソコにある物語り」を見逃しているのって、ちょっとモッタイナイような気がするわけですね。


なにも「ドラマ」や「映画」を見なくても、

隣近所の「おじさんたち」や「おねえさま方」の持っている「物語り」を引き出しさえすれば、じゅうぶんに「話のネタ」には事欠かないんじゃないのかなと。


そんな風に思う、今日この頃であります。


『わるい作品なんてない!』・・・・でしょ?



「芸術作品」と言うと、どうしても「スバラシイ作品」と「マアマアの作品」と「ダメな作品」があって、「スバラシイ作品」を作った人は”エラクて”、それ以外の人は”ドウデモイイ”って言うことに成っているところがあるわけですけど、私は、基本的に「芸術をやろうと思うこと」自体が、すでに「スバラシイこと」なんだと思うわけです。
だから、その結果、出来てきた「作品」に「出来のイイモノ」と「出来のワルイモノ」があったとしても、それは「たまたま、そうなった」と言うだけのことであって、「わるい作品」なんて無いと思うわけです。


たぶん、全ての人が、純粋な気持ちで、『絵を描こう!』とか『芸術的な表現や鑑賞をしよう!』とかと思っていたら、いろんな意味で、世の中が今よりも楽しくなるんじゃないかと思うわけです。


だから、もっともっと、たくさんの人が「芸術」や「芸術的なこと」に対して、興味を持って、近づけるように成ったら、少しはいいんじゃないかなと思っているわけです。


出来るだけ、たくさんの人が「表現すること」や「鑑賞すること」に向かえるようになるためには、『この世の中に「わるい作品」なんてない!!』と言い切ることが必要なんじゃないのかなと。


どんな作品も『本当にスバラシイし、それよりなにより、そういうアナタが絶対にスバラシイ!!』と、みんなが言われていいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけなのです。



「最大の罪」と「最多の罪」



「罪」っていうのは、「悪いことをすること」ではなく、「悪いと思っていることをすること」なんだと思うわけですが、その「罪」の中に、「最大の罪」と「最多の罪」があると思っているわけです。

 ※本当の意味で「善悪」を追求していけば、そう簡単に答えが出せなくなりますが、
  「自分が悪いと思っていること」を、その人自身がやってし待った場合は、それを
  「悪くない」という理由がないように思いますので、それを「罪」と言ってもいいんじ
  ゃないかと思います。

そう考えた場合、「最も悪いと思っていること」をしてしまうのが「最大の罪」ですね。
それから、「悪いと思っていることを限りなく繰り返して」しまうのが「最多の罪」と言うわけです。


一般的にも、法律的にも「最大の罪」の方が重いということに成っているような気がするんですけど、私といたしましては、「最多の罪」の方がよほど重いように感じるわけですね。
(それ以前に、一般的にも法律的にも「自分が悪いと思っていること」が悪いということになってませんけどね)


法律的にも、重犯や常習犯は罪が重くなるということはあるんでしょうが、やはり、元になっている罪が重い方が、厳しく罰せられたりすることが多いんでしょうね。

たとえば、軽犯罪のようなものだと、繰り返してもさほどの罰則は下されないのだと思います。


でも、私は、たとえ軽い罪だったとしても、「罪を繰り返すこと」こそ、「とっても悪いこと」なんじゃないかと思うわけです。
要するに、「自らの行為を顧みない」ということですね。


人間なんて、所詮「その程度の人間」なわけだし、まだ「人間」にすら届いていないような気もするので、当然、「過ち」は犯すわけですが、そこで「その過ちを顧みること」だけは、「現状の人間」にもできることなんじゃないかと思うわけです。

その「唯一の出来ること」をしないということは、『どうしようもない!』ということですから、『やっぱり、かなり「罪」が重いんじゃないの?』と思うわけですね。


そういうわけで、出来るだけ、『自分の「罪の繰り返し」に気づいたら止める』ということをやっていこうと思っているんですけど、それが、なかなか出来ないわけですね。


自分の性質上ハマリやすい「罪」っていうのがあるみたいですね。
『ワカッチャいるけどヤメラレナイ』ってやつですね。

まぁ、「罪」って言っても大したことするわけでもないんで、気にしなきゃいいんでしょうけどね。
それこそが、「最多の罪」のような気もするわけですね。


毎回、顧みてはいるんですけどね。
そういう場合はどうすればいいんでしょうか?


いまの私の場合、そんな状態ですね。



「考える芸術」



「芸術」が考えるものに成ったのは、いつの時代からなんでしょうね?


少なくとも、ルネッサンスの時代の工房制作に置いては、「芸術」は「職人仕事」に近いものだったんだと思うわけです。
(職人が考えないということではないですけどね)

それが、徐々に専門性を高めていって、技術的な研究を通して、「考える」と言う要素が多く成って行ったんでしょうね。

そして、その後、「芸術」の中で、「作家個人の表現」と言う意味合いが強く成って行ったことで、「芸術」は「考える芸術」に成ったんじゃないかと思います。


現在においても、「技術」を重視した「芸術」は存在しますが、「思考」を重視した「芸術」が、次の時代につながって行く可能性は高いでしょう。
(と言うよりも、「芸術」の中で二分化していくのかも知れませんね)


もともと、「考える分野」としては、「ギリシャ時代」或はそれ以前から「哲学」がありました。


また、東洋に置いても、「芸術」とは別に「考える分野」はあったでしょうし、「工芸」や、現在で言うところの「芸術」に当たる分野が、「思考」よりも「技術」に重きを置いていたと言う点も、西洋とそれほど差はなかったんじゃないでしょうか?

そして、必ずしも「考える分野」ではなかった「芸術」が、「作家個人の表現」としての性質を持つように成ったことで、「考える芸術」に成ってきたということに置いても、「東洋」と「西洋」が、同じような道筋をたどってきたと言ってもいいんじゃないでしょうか?


そう考えると、「個人の表現」であるということが、「芸術」を「考える芸術」にしたということに成るわけですね。

また、そのことが、「哲学」における「考える」と、「芸術」における「考える」の”違い”になっているんだと思うわけです。

 ※「哲学」に置いても「自分」を表現することはあるでしょうし、「芸術」に置いても、
  「哲学的な思考」は必要なんでしょうが、どちらに重きを置くのか?ということで
  しょうね。

となると、「自分」のことを「考える」ということが最も重要になってくるんだと思うわけです。
「自分」の中の、「一番自分な部分」とは何なのか?ということが、表現するべきことのように思えるわけですね。


そういう、「自分」の中の最も根源的に刻み込まれたモノを表現できたらイイんじゃないのかなと。
つまり、「後から身に着けたようなモノ」じゃなくてですね。
言い換えると「考えてわかったこと」じゃなくて「考える前からわかっていたこと」とでもいうんでしょうか?

これは、先天的な能力と言う意味ではなくて、どちらかと言うと、「自分の中心」と言うような意味ですね。

そういう「考える前からわかっていたこと」=「自分の中心」について『考えましょう』

と思っているわけです。



「思い出」



ときどき、「思い出」って不思議なものだなぁ、と思うことがあるわけです。


昔のことでも、本当に昨日のことのように覚えていることもあれば、完全に記憶が抜け落ちてしまうようなこともあるし、どうでもいいようなことで、すごくリアルに覚えていることもあれば、大事なことや、いつもやっていたことなんかでも「コロッ」と忘れてしまうこともありますよね。


そういう「記憶の不思議」の中でも、一番不思議に思うのは、「イイ出来事」と「ワルイ出来事」が、ほとんど、どれも同じように「イイ思い出」に成ってしまうことですね。


たぶん、そこに「コンプレックス」や「トラウマ」みたいなものが関わっていると、それが、「イヤな思い出」になってしまうんだと思いますけど、そういう特別な「強い負の感情」がない場合は、「イイ出来事」でも「ワルイ出来事」でも、だいたい「イイ思い出」になってしまうような気がします。


『なんで、ワルイことなのにイイ思い出になってしまうのか?』
これは不思議ですねぇ。


本当は、人生で「ワルイ出来事」なんて何も起きていないって言うことなんですかねぇ。

でも、それで、同じ間違いを何度も繰り返したりすることが多いわけですけど、その時には、また、それを「ワルイ出来事」だと思うわけですよね。

だったら、はじめから、「ワルイ思い出」にしておけば、同じ間違いをしなくなるような気もするんですが、どんなもんなんでしょうね。


人間って、本当に懲りない生き物ですよね。


人間は、懲りた方がイイんでしょうか?
それとも、懲りない方がイイんでしょうか?

どっちなんでしょうね。


ナントナク、「懲りた」方が、無駄に疲れるような気がするし、「懲りない」には、「先がある」ような気もするわけですね。
いや、まったく逆なのかも知れませんけどね。


取り敢えず、いまのところ「懲りない人」で行こうかなと思うわけですが、出来れば、反省したり、顧みたりはするけど「でも、懲りない人」っていうのが理想かなと。

そんな風に思っています。

『無理か?』




「セルフ・ターミナルケア」



「死」を目前にして、医師から「余命」(三ヶ月くらい?)を宣告されたような人に対して、「残された日々」を、より良い形で過ごせるように施される医療や介護を「ターミナルケア」と呼んでいるそうです。


これを、非常に悲壮なものとして考えてしまうということもあるんですが、実は、そう悲惨なことではないような気もするわけです。


どっちにしろ、人間いつかは死ぬわけですし、言ってしまえば、生まれた瞬間から死ぬことが宣告された身の上なわけで、それを「あと〇ヶ月」と言われたことなんてのは、どうってことでもないんじゃないかなと、不謹慎にも思うわけですね。
(あくまで、不謹慎にもですけどね)


そう考えると、「ターミナルケア」を受けている時間と言うのは、その人にとって、とても有意義な時間なんじゃないのかなとも思えてくるわけです。


もちろん、病気や衰弱による痛みや苦痛と言うのはあるでしょうが、そのこととはまた別に、この「死を前にした時間」と言うのは、正に、人間が生まれた瞬間から、突き付けられている「生と死」という命題と、直に接する時でもあるように思えて来るんですね。


本来は、生まれたときに既に与えられている「問い」を、普段は、いつも見ないようにして、先送りにしているわけですが、それが、すぐ近くにあることで、「考えざるを得なくなる」ということですね。

それは、考えようによっては「自分自身によるターミナルケア」とも言えるんじゃないかと思うわけです。


そのことが、決して悲壮なこととは思えないんですよね。
まぁ、その立場に居ないから言えるのかも知れませんけどね。


これも、不謹慎ではありますけど、どちらかと言うと、楽しいことのような気がしてしまうわけなんですよね。


これは、死んだら楽になるんじゃないか?(たとえば天国に行って)と言うのとは違って、楽しいような気がするのは、どちらかと言うと「死ぬ前の時」であって、「死んだ後」ではないんですね。


そういう「自分が死ぬ時がだいたいわかっている期間」がいいんじゃないかと思うんですね。

なんと言うか、とても密度が濃い時間に成るんじゃないかと言う感じがするんですよね。
そういう濃密な時間と言うのは、人生の中で限られているように思うわけですね。


だからと言って、早くそういう状態に成りたいとは思わないですけどね。
と言うよりは、どちらかと言うと、遅い方がよくて、普段の時間を、「ターミナル期」の延長上と捉えていけば(余命何十年とか)、今からでも、「時間の密度」は濃く成るんじゃないかとも思ったりするんですよね。

つまり、長い方が”一層イイ”ということに成るわけですね。


そして、そう考えると、今日の自分の一日が、『実にウスい!」という感じがしてきて、やや、物足りない感もなくはないないですが、その「薄さ」に気づくというのもイイことなんじゃないのかなと。


そういう風に思っていたりもするわけです。





『人に迷惑をかけない』と言う発想



子供のころ、よく親や周りの大人から、『人に迷惑をかけてはいけないよ』とか、『人に迷惑をかけさえしなければ、それでいいんだよ』と言われていたと思うわけです。


要するに「人に迷惑をかけないこと」が、「道徳」の基本なんでしょうね。


でも、多くの人が、大人に成ってから気が付くことに成るわけですが、『人に迷惑をかけないと生きていけない』わけなんですねぇ。


これは、ある意味「衝撃的」ですよね。

『それだけは絶対に、やっちゃいけないよ』とか、『これさえやらなければ、ずべて”OK”なんだよ』と言われて、子供だから『そうなんだ』と完全に鵜呑みにしていたことが、それとは、まったく裏腹に、『それをしないと生きていけない』ようなことだったわけですからね。


人間は生きていくうえで、常に『人に迷惑をかけている』し、常に『人から迷惑をかけられている』わけですよね。


『人に迷惑をかけている量』や、『人に迷惑をかけられている量』の差し引きした総計は、

ほとんどの人が、ほぼ同じくらいなのかも知れませんね。


と言うよりは、「迷惑」っていうモノ自体がすごく「相対的なモノ」なんだと思うわけです。

つまり、絶対的な「量」として考えた場合の「迷惑」は、みんなが、同じくらいかけたりかけられたりしていると思いますが、それを「相対的」に捉えることで、「差」が出て来るということなんだと思うわけです。


たとえば、「子供」をとても愛している「親」にとって、「子供」にかけられる「迷惑」は、普通に考えるよりも随分小さくなってしまうモノなんでしょうそれは、「迷惑」ですらなくなってしまうことも多いのでしょう。


単純に言って、「子供」に食べ物を与えることは、多くの親が「迷惑」とも思わずにやっていますが、「他人」から、その人が大人に成るまで、20年間も食事を与え続けることを強要されたら、ほとんどの人が「非常に迷惑」だと感じるでしょうね。


まぁ、それだけ「迷惑」と言う概念が、人の中で、かなり極端に「相対的」に捉えられているということなんでしょう。


こういうことは、他のことでもよく起きていることだと思いますけど、一つの言葉の解釈が、あまりにも幅広くなってしまうことで、時によって、ぜんぜん意味が通じていないことがあるわけです。

つまり、この場合、「人に迷惑をかけてはいけない」と言う時の「迷惑」という言葉が、「絶対的な迷惑」のことなのか、それとも、「極端に相対的な迷惑」のことなのかが、わかり難いわけですね。


それで『人に迷惑をかけてはいけないよ』と言う大人の「教え」を、キッチリと守ろうとし過ぎて、社会の中で生きることが、辛くなってしまう人が居るんじゃないかと思います。


そこで、この『人に迷惑をかけない』を、もう少し詳しく読み解いてみようと思うわけです。


まず、もともと、この『人に迷惑をかけない』と言う言葉は、『”他人”に迷惑をかけない』だったように思います。

この「人」と「他人」が、日本語の場合、同じように「ひと」と読みますから、そこからして、すでに話が少しずれてくるわけですね。


「他人に迷惑をかけない」だと、「身内には少しくらい迷惑をかけてもいいだろう」と言う感じがありますから、そこに、少しは「相対的なニュアンス」が出て来るわけです。


そこには、「他人にかける迷惑」と「身内にかける迷惑」とでは、同じ「迷惑」でもベツモノという、「相対性」が出て来るわけですね。

そこで、「なるほど、身内になら少しくらいの迷惑をかけてもいいのか」ということで、少しだけは「ホッ」とするわけです。


でも、これは「身内」か「他人」か、と言う問題ではなくて、「迷惑」自体が、「極端に相対的」なモノだということですから、「身内かどうか」ということ以外のことでも同じで、要は、相手がそれを「迷惑」と感じなければいいわけですよね。


つまり、同じ「迷惑」でも、「かけられた側」が、れを「大きい迷惑」と感じるか「小さい迷惑」と感じるかで、その「迷惑」の大きさが決まっているわけですから、「かけられる側」が、「迷惑じゃない」と感じるところや、「小さい迷惑」と感じるところを狙って、どんどん「迷惑」をかけるようにしていけばいいわけです。


そう言うと、どうも「自分勝手」な感じになってしまうんですけど、それこそが、「人に迷惑をかけない」が間違って普及しているということなんじゃないかと思うわけです。


「相手が何を迷惑と感じるのか」ということに配慮すること自体が、むしろ、とても「人に気を使っている」ということですから、ぜんぜん「自分勝手」なことではないわけですね。
(「どんどん」は言い過ぎだとしてもね)


全体として、「人に迷惑をかけない」ということは、人それぞれの「迷惑」の感じ方に配慮し、それを調整して、出来るだけ人が「嫌だな」と感じるような「迷惑」を減らしていきましょう。
ということなんじゃないかと思うわけです。


つまり、「迷惑」を完全に無くそうということではなくて、「迷惑」の「落としどころ」を見つけていこうと言うことなんじゃないかと思うわけですね。


昔の時代には、「迷惑」にあまり個人差がなかったんでしょうね。
だから、その辺を、そんなに考えないで『人に迷惑をかけてはいけない』と言えたんでしょう。


でも、現代は、もう少し考える必要が出て来たって言うことでしょうかね。
それだけ「迷惑」にも個人差が出て来たって言うことなんでしょうね。


だから、「人に迷惑をかけない」と言う発想で、生きようとすると、どうやら、生きづらい感じになってしまうようですね。


「自分はぜんぜん人に迷惑をかけていない」と言う人は、

「迷惑」を自分の都合に合わせて解釈しているだけで、

実際には、誰かに対して、それなりにたくさんの「迷惑」をかけているんだと思います。


だから、自分が誰かに「迷惑」をかけていると思ったら、

その相手も必ず誰かに「迷惑」をかけているんだということを思い出して、

まぁ、デキレバその「迷惑」をチョットだけ「小さい迷惑」にする

と言うようなようなことを考えるという程度でいいんじゃないのかなと。


その方が、ただ単に「人に迷惑をかけない」と言う発想よりも、

もう少し「人間的」な感じがするのかなと。


そんな風に思います。



『いつの間にかひっくり返る』



「時代」には「流れ」があると思うわけです。
そして、その「時代の流れ」が、「いつの間にかひっくり返る」ということがあるわけですね。


『~ひっくり返ることがある』と言うよりも、むしろ、「時代の流れ」と言うのは、常に『ひっくり返り続けている』と言った方がいいのかも知れません。

「時間」とか「時代」と言うものは、いつも「ヨジレながら」進んでいるものなんじゃないでしょうか?


「メビウスの帯」のように、まっすぐ進んでいるつもりなのに、『いつの間にかひっくり返えされている』わけですね。
と言うか、『常にひっくり返され続けている』ということに成るわけですね。

それで、「常識」だったことが「非常識」になったり、「人気があったモノ」が「誰も見向きもしないモノ」になったりするということが起きて来るんでしょうね。


でも、『常にひっくり返され続けている』ということは、いま「常識」とされていることは、すでに「非常識」に成りかけているということに成るわけです。

そうなると、その「常識」は、いったい「常識」なのでしょうか?
それとも、もうすでに実体としては「非常識」になってしまっているんでしょうか?


「時代」や「世界」が常にヨジレて進んでいるとすれば、『ハイ、ここから「非常識」にひっくりかえりました』と言うポイントは存在しないわけで、人によって、それぞれ「非常識」に成ったと”思う時点”が違うだけ、ということに成るわけです。


実は、「時間」や「時代」に限らず、「存在」まで含めても、常に「世界」が反転しながら存在しているというのが、この「世界」の原理なのかも知れませんね。

もしかしたら、それだからこそ、いろいろな矛盾や、理不尽さを抱えたままでも、「世界」が存続できているのかも知れないですよね。


「万物は流転する」だけじゃなくて、「万物は常に反転しながら流転している」のかもしれないですね。


「矛盾」や「不合理」がどこかでヨジレて反転して、ナニカの「合理性」とつながっているということなんでしょう。

「たぶん」ですけどね。


こういうことを表現できる方法を知っている方が居らっしゃいましたら、教えてください。


と言う風に思っております。





「感情」は一つのモノ



「感情」と言うと、「喜怒哀楽」の四つと言われることが多いわけですが、実は、これは四つのモノではなくて、あくまで一つのモノなんじゃないかと思うわけです。

もちろん、一人の人間の「感情」なわけですから、一つのモノということもありますが、それだけではなくて、「喜び」と「悲しみ」や「怒り」と「楽しさ」などは、どれも、一つでは成り立たなくて、それらが一体化した「感情」としてこそ、成り立つものなんだろうと思うわけですね。


たとえば、「紙」のような、薄っぺらなものですら、「表と裏」があって、はじめて成り立っているわけですから、どのようなものでも「表側」や「裏側」が単独で成り立つということは無いわけです。
まぁ、例えば、文字は「表面」にしか書いていなくても、何も書いていない「裏面」があることで、その「紙」が存在できて、はじめて「表面」の文字を読むことができるというようなことでしょうか?

それと同じように、「感情」のような「非物質的」なモノでも、「喜怒哀楽」の中のどれか一つでは、「感情」として成り立たなくて、それらが一体となったモノだけが「感情」として、成り立つんだと思うわけですね。


どんなに温厚な人の中にも必ず「怒り」はあって、それによって「喜び」や「楽しさ」が輪郭をもって浮き出しているというような感じですね。

もしも、全てが「喜び」で満たされた「感情」を持った「心」があったら、それは、恐らく限りなく「無感情」な「心」に近いもので、ほとんど、何の「感情」もない状態ということになってしまうような気がします。

そうなれば、もう、それを「喜び」と呼ぶことすらできなくなってしまうのではないでしょうか?


つまり、真っ赤な壁面に打たれた「赤い点」は輪郭と言うものを持たないわけですから、存在していると言うことすらできないということですね。


とは言っても、誰でも「怒り」や「悲しみ」よりは、「喜び」や「楽しさ」の方がイイに決まっているわけで、どうしたって、「怒り」や「悲しみ」は無く成ればいいと思うでしょうし、「喜び」や「楽しさ」の方は、出来るだけたくさんあればいいなと思うのが人情と言うものでしょうね。


でも、やっぱり、「喜び」や「楽しさ」を追えば追うほど、「怒り」や「悲しみ」がクッツイテくるという仕組みになっているわけで、そういうのを、「ヒトゴト」として見ていると、『とっても「人間的」だよなぁ。』と思ったりもするわけです『。

でも、ひとたび「自分のこと」となれば、『この「怒り」はどうにかならないのか?』
『この「悲しみ」から、解放してくれ!』と思ってしまうわけなのです。


出来ることなら、そういう「自分」を見た誰かが、『あぁ、あの人、とっても「人間的」だよねぇ』と思ってくれれば、私としては、嬉しいですねと。

そういう風に思います。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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