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「人間性の信仰」



私は、このブログの中で、人間は「宗教」を一旦卒業したほうがいいんじゃないか?と言っているんですけど、それは、けっして「宗教」を否定しようということでもないんですね。

またいつか「宗教」が必要になるのかもせれませんしね。


「神」とか「宗教」とかって言うものは、すでに人間の意識の中に存在していますし、それを消してしまうことは出来ないわけですから、無理に否定しても、あまり意味もないと思っていますし(出来たとしてもしないと思いますけど)、取り立てて、否定する理由もないので、そんなつもりは毛頭ないんですね。

   ※ここで言う「神」は「絶対的な存在」で、「宗教」はそれを「確信すること」です。


じゃあ、なんで、『人間は「宗教」から卒業した方がイイ』なんて言うのか?と言うことなんですけど、それは、「歴史」とか、「時代」の流れを見る限り、『いまは宗教じゃないんじゃないか?』と思うということなんですね。


たとえば、ついこの前まで「科学万能」のような「時代」があったわけですけど、今は、そうでもなくなってきているというようなことがあるわけですね。


実際は、「科学万能」に見えていた「時代」の中でも、「科学」に疑問はいくらでもあったわけですし、「科学」に懐疑的な意見を持っている人も、それなりには居たんだと思います。

それでも、その「時代」は、やはり「科学の時代」であることに間違いはなくて、その「科学の時代」を通り過ぎてきたことで、「今の科学への疑い」があるということですね。

それは、「科学を否定(肯定)すること」とは無関係に、否定できないことなんだと思うわけです。


つまり、「疑い」が、数の上で増えてきたということは、もうすでに、その「時代」が終わりつつあるということに成るんだと思います。


「宗教の時代」には、「宗教」に疑問を持つ人は、あくまで少数派で、ほとんどの人が「神」を「確信」できていたんだと思います。


でも、今は「神」を「確信」できる人は、そんなに多くはないと思うわけです。

「宗教人口」はそれなりに多いんでしょうが、昔と同じように「神を確信できる人」がどれだけいるかと言えば、やはり、少ないと言わざるを得ないと思います。


「宗教の時代」には、スタートの時点で、「神への疑い」がほとんどなかったわけですから、現在のように、常に「神への疑い」と隣り合わせの世の中とは全く条件がチガウわけですね。

「時代の流れ」に関しては、「疑い」がそこにあるということ自体が大きいことなんだと思うわけですね。
それは、その「時代」がすでに終わりを告げていることを意味するんだと思うわけです。


たとえ、「特別な精神」を持つ人が、「神」を確信できたとしても、それは、「人間」と言う集合体にとっては、「時代」を指し示す方向とはなりませんし、また、その人が説く「神」や「不思議」が如何に「道理」を得たものであっても、それが「絶対的な真理」でない限り、常に「時代」は、「その道理」を押し流していってしまうでしょう。


そして「絶対的な真理」のようなものは、常に確信されていますし、疑われるようなことは無いハズですから、すでに、「不動の原理」として当たり前のこととして存在し、肯定されているでしょう。


「疑われる」ということ自体が「真理」ではないということに成るんだと思います。
「真理」であれば、「誰にも疑うことすらできない」ということに成るハズですね。


実際には、「不動の原理」や「唯一無二の真理」と言った「絶対的なモノ」があるのではなく、あらゆる「取るに足らないモノ」が、すべて”ズレ”ながら、反転し続けて、流れているというのが、「この世界の様相」なんじゃないでしょうか?


そういう中で、「時代」は「常にヨジレながら進んでいる」ということなんだと思うわけですが、その「時代」には、その時その時で「ピーク(頂点)」があると思うわけです。

これは「イイ・ワルイ」ということとは、必ずしも関係なく、ただ単に「ヤマバ」ということなんでしょうね。


最も多くの人が、最も自然に、「誰からも言われることなく確信していること」それが、その「時代」における「ピーク」にあるものなんだと思うのです。


「宗教の時代」に置いて、「キリスト」や「ブッダ」のような人たちが、それぞれの「宗教」を広めたとも言えますが、その逆に、「神仏を信じる」という「時代の要求」に導かれて、それらの「宗教的指導者」が現れたとも言えるんだと思います。


つまり、彼らの説いた「教義」や「思想」が素晴らしかったからそれらの「宗教」が広まったと言うよりも、「その時代」が「宗教の時代」であったから、彼らが「カリスマ」的な立場につくことに成ったということなんじゃないかとも思います。


そして、現在すでに「神への疑い」は、間違いなく多くの人間の心の中に存在しています。

これは、「神」や「宗教」と言う概念が、すでに人間の心の中に存在しているというのと同じように、事実なわけですから、否定してもあまり意味はないでしょう。


「神を疑うこと」の方が正しいのか?

「神を確信すること」の方が正しいのか?

と言うことではなく、「疑い」が多くの人の心の中にあるということが「時代」を終わらせてしまうわけです。


もちろん、現在「神への確信」も間違いなく存在しているわけですが、それと同時に、ほとんどの人の中に「神への疑い」も存在していますから、それは「時代の確信」とは言えなくなってしまうということです。

「確信」と「疑い」が一人の人間の中に同時に存在しているという考えも、成り立たなくはないのかも知れませんが、基本的に「確信」は「疑い」を含まないことで成り立ちますから、「疑い」が増えて来ると成立しにくくなってしまうわけです。


そうなると、やはり、現在「神」を「確信」出来るのは、「特別な精神」を持った人に限られてしまうということです。

そういう時代の中で、いま、一番自然に、「一般的な精神」によって「確信」されることと言ったら、「人間」なんじゃないかと思うわけです。


「人間」が「人間」であると言うことが、いま一番「ピーク」にあることなんじゃないかと思うわけですね。


ただし、これは「現在すでに受け入れられている」という意味ではありません。

「時代のピークにあるモノ」と「現在受け入れられているモノ」が一致するのは、そのモノの「流れのサイクル」が比較的短い場合に限られるわけです。

つまり、それは「流行り」であって、「時代」よりも周期が短いものだと思います。
(数十年~数百年ではなく数年~十数年と言うスパンですね)

「時代」の周期は長いですら、「その時代」になってから、それが受け入れられるまでに、かなりの時間がかかるということなんでしょうね。

だから、そこには、かなりの”ズレ”が生じることがほとんどであって、場合によっては、「ピーク」が過ぎた後から「受け入れられる」ということもあるわけですね。

これらのことは、歴史の中ですでに証明されていることと言ってもいいんじゃないでしょうか?

 ※「時代」と「流行り」の違いは、そのスパンの長さの違いだけではなく、
  「安定性の差」だと思います。
  要するに、ほとんど「疑い」を含まずに、存在しているようなものは、安
  定して多くの人に確信されていますから、「時代」に受け入れられてい
  るということに成るんだと思います。
  たとえば「引力の法則」は「時代」に受け入れられているんでしょう。
  だから、「疑われること」が少なくて、「安定」しているということですね。
  それに対して、「流行り」の方は、爆発的に流行っているものでも、必
  ず、相当の数の「疑い」を感じている人が居るということでしょう。
  (例えば、「オカルト」や「スピリチュアル」は、流行っているときでも、
  疑いを持っている人がかなりいますから、「時代」にはなりにくいという
  ことだと思います)
  その「疑い」が「まったくのデタラメ」でなければ、結果的に、その「流行
  り」は、「時代」とは成らずに、短い期間で終わってしまうということです
  ね。

  これは、あくまで「それが正しいか?」ということではなく、『それが「時
  代」となるか?』ということについての話ですけどね。


まだ「人間」は「人間であること」を受け入れられていないようですし、「人間」と言うのが、どの程度のものなのかも、まだ理解されていないんだと思うのです。

しかし、そういったことを「人間」が受け入れたり理解したりしないと、前へ進めなくなってきていることは、まず間違いないことですし、自分自身が「ナニモノ」なのかを知る必要があるのは間違いのないことでしょう。

つまり、「人間自身」が「人間の不完全さ」や「人間の性質」を、受けいれたり理解したりする時期が来ているということなんじゃないでしょうか?


そして、その「ダメなところ」も含めて、「確信」したうえで、自分自身で、『それで、よし!』と言ってやる必要が出てきているんだと思うわけです。


今まで、世の中で「悪いこと」が起きると、『神様が居るなら、なんでこんなひどいことが起きるのか?』と言ってきたわけです。

そして、それに対する答えは決まって、『それも神様の采配の一つで、廻り巡って、人間にとって必要なことなんだ』ということだったわけです。


でも、これからは、『悪いことが起きるのは、人間が不完全なんだから当然のことだ』
『でも、もう、いいんじゃないか?それが人間というモノなんだから』
ということに成るということですね。
(だからこそ、そこを戒める必要もあるわけですが)


『そんなの、当たり前じゃないか?とくに言うほどのことじゃないだろう!』
と言われてしまうかも知れませんね。

でも、実は、人間には、

自分が「完全」であろうとしたり、

自分を「完全」だと思おうとしたり、

自分が「完全」だと言う前提で行動したりする、

と言うような習性があるわけです。


また、それができないとなると、「自分の外」に「完全なモノ」を設定して、それを崇拝する形で、なんとかして「完全」と言う「頼みの綱」を維持してきたわけで、人間が「自分」の「不完全性」を「イイモノ」として受け入れたことなど、過去には無かったんじゃないでしょうか?

常に、「不完全性」は「ワルイモノ」だったわけですね。


そういう「人間性」を「確信すること」が「今の時代」が要求していることのような気がしますね。
そして、それが「宗教」に代わる「信仰」に成るんじゃないのかなと。


「不完全な人間」が対称になるわけですから、「信仰」と言う言葉は当てはまらないのかも知れませんけど、
「確信する」と言う意味では「信仰」と言えなくもないと思うわけです。

「信仰」としては、かなりタヨリナイ感じですけどね。
それでいいんじゃないでしょうか?


「頼れるモノ」=「絶対的なモノ」を「確信」するというような、「そういう時代」が終わろうとしているということなのかも知れませんね。


「絶対的なモノ」を「確信」すれば、全ての責任は、その「絶対的なモノ」に移譲されます。

「不完全なモノ」=「人間」を「確信」すれば、全ての責任は、その「人間自身」に戻ってきます。
そこで「自分で責任を取ること」が要求されることに成るわけですね。


つまり、「人間」が「責任」を取らないとならなく成ってきたということなんじゃないでしょうか?
それが人間ができる範囲で、一番”マシ”なことなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「本能」と「欲望」と「芸術」



私は、自分の「芸術に対する指針」の一つとして、『本能に近く、欲望からは遠い』ということを念頭に置いているわけなんですね。


要するに、人間の根源的な部分に訴えかけるようなものであって、尚且つ、それに溺れていないモノを目指しているわけです。


「性欲」や「食欲」や「睡眠欲」などは、人間の「本能」であると言われていますが、そうした「欲」が「欲望」に成る「変わり目」と言うのがあって、その「変わり目」を超えたモノは「本能」から遠ざかって「欲望」となり、最終的には、それすらも腐敗して、「邪気」のようなモノになってしまうのだと思っています。


まぁ、例えばの話、「美しい女性」を描けば、確実に男性の目を引くことは出来るでしょうが、そういった「エロティシズム」だけを追究していけば、そこで、満たされるものは、「欲望としての性欲」であって、「本能的な性欲」とは言えないと思うわけです。

つまり、それは、「芸術」と言うよりは「ポルノ」と言うべきモノでしょう。

「ポルノ」が悪いということではなくて、『「芸術」とは、求めるモノが少し違うんじゃないか?』ということですね。


ですから、出来ることなら、「本能」には近くて、「欲望」からは遠いモノを目指していきたいなと思っているわけです。

「本能」から離れてしまうと、「オモシロイモノ」は出来ても、人の心の深い部分を動かすことは出来ないんじゃないかと思っています。

また、「欲望」に近づきすぎてしまうと、人を誘惑したり陥れたりすることは出来ても、人を魅了することは出来ないんだと思うわけなのです。


とは言っても、必ずしも、たくさんの人の心を動かすとか、あらゆる人を魅了するとかということを目指すものではありません。


一人の人の心でも動かすことが出来れば、「上出来」だと思いますし、誰かを魅了するようなものができれば、「十分満足」です。


そこで、『もちろん、人数が多ければそれに越したことは無いですよ』ということは、なるべく言わないようにしています。
(つい言ってしまうこともありますけどね)

なぜなら、それが「欲望」になってしまいそうだからですね。


『誰か一人の人でもいい』と思い続けることが出来れば、「本能」に近く、「欲望」からは遠い「芸術」に成るんじゃないのかなと。


一応の目標として、

そういう風に思っているわけです。




「おそろしく長持ちなモノ」



最近、何かにつけて、耐久性に疑問がある商品が多いと感じる「今日この頃」ですよね。

そんな中でも、世の中には、『コイツは長持ちだなぁ』と思うものも、あるにはあるもんで、そういうモノに限っては、また、「おそろしく長持ち」だったりすることがあるわけです。


私は「消費者的な”ウツワ”」が非常に小さいタイプの人間なので、どんなものでも、品物は長持ちしてほしいと思っているわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『それは、貧乏だということですか?』

「いえ、全然違います」

『じゃあ、何なんですか?』

「お金があまり好きではないと言うだけです」

『ああ、なるほど、だいたいわかりました』

「さらに言うと、お金の方もこちらを好きではないようです」

『なるほど、さらに、よくわかりました』

「しかも、まわりの人からは、お金に縁がないヤツと言われています」

『はいはい、要するに貧乏なんですよね』

「いえ、全然違います」

『・・・・・・・ふぅ~、戻るのかよ』 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、最終的には、貧乏なんですけど、その辺の所は、「エコロジー」と言うと、なんとなくゴマカセルようなので、一応、「貧乏人風エコロジー」ということでお願いいたします(何を?)。


まぁ、こういった経済的な事情も無いとは言いませんが、私といたしましては、常に「モノ」に「愛着」を感じていたいのです。
つまり、「新品のモノ」よりも「自分に馴染んだモノ」が好きなんですねぇ。


この「愛着」っていうのは、それを所有していた時間とか、使った回数でしか生まれてこないので、やっぱり品物は、出来るだけ長持ちしてほしいなと、常日頃から思っているわけです。


たとえば、絵の道具なんですけど、「筆」にしても、すぐに使えなくなってしまうような「筆」もあれば、『いえいえ、そこまで長く持ちしていただかなくても・・・』と言うような「筆」まであるんですが、そういう「おそろしく長持ちな筆」が「使いやすい筆」であればいいんですけど、必ずしも、そうとも限りません。

「使いにくい筆」が「おそろしく長持ち」だと、嬉しくはないですよね。
なにしろ、ただでさえ「長持ち」なのに、「使いにくい」ということは、当然使いませんから、いつまでたっても、半永久的に存在し続けるわけです。

大して邪魔にもならないんで、捨てもしませんから、いつまでたっても「筆立て」の中に居続けるわけですね。ソイツが。


すると、こともあろうか、いつの間にか「愛着」が発生しているんですねぇ。

ろくに使いもしないのに、長い間目にしているだけで、「愛着」が出てきてしまうわけです。ソイツに。


そうなると、もう、絶対捨てられません。
まぁ、べつに困りませんけどね。


それから、家具とか調理道具とかに「おそろしく長持ちなモノ」が多いような気がしますね。

家具なんかだと、すごく気に入って手に入れたモノでも「長持ち」とは限らないし、何の気なしに、よく選びもせずに買ったモノが「おそろしく長持ち」の時もあったりします。

後になってから、『こんなモノが、実は「一生もの」だったとは!』と言う感じですね。
時には、『なんで、オマエが?!』ということもありますけど、それですら、「愛着」は、シッカリ発生していたりするわけです。


そういうものを、どんどん新しいものに買い替えていくという人は、要するに「消費者的な”ウツワ”が大きい人」ということに成るんでしょうが、私は、出来ないですね。

どんなにイイものでも、「愛着」が湧いてくるまでは、自分の中での位置づけが、どうしても「やや低」になっているみたいですね。
『コイツが、生き残ってきたことが嬉しい!』みたいな感じですか?


調理器具なんかだと、圧倒的にプロ用のモノが「長持ち」ですね。
これは、火にかけて使いますから、耐久性能が高い「プロ仕様」のものに勝るものはないということなんでしょう。


いずれにしても、気に入って買ったモノかどうかよりも、「愛着」が湧いてしまうことの方が、結果的に自分にとっては魅力的なんですね。


だから、取り敢えず、世の中に、「おそろしく長持ちなモノ」が、どんどん増えて欲しいものだなと。
(もう少し、モノが売れなくなってもいいんじゃないかとも思っていますし)

そんな風に思っているわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ということは、やっぱり、貧乏なんですよね?』

「はい」

おぉ~、認めたよ。





「気遣い」と「へつらい」



「気遣い」と「へつらい」はイメージの上では、随分違う感じがする言葉だと思うわけですけど、実体としては、けっこう近い意味があるんじゃないかと思うのです。


「気遣い」と言えば、「人に対する気配り」や「人に対する優しさ」を思い浮かべることが多いのだと思います。
それに対して、「へつらい」と言うと、力のある者に取り入ろうとしたり、媚を売って、ゴキゲンを取ろうとしたりするといった、いわゆる「卑怯者」のイメージがあると思うわけです。

しかし、この二つは、見ようによってはほとんど区別がつかないほど似通ったものとも言えると思うわけなのです。


たとえば、何か失敗をして落ち込んでいる人に『そんなに気にしなくてもいいんじゃない?』と言えば、「気遣い」でしょうが、同じ事を、「いつも威張りくさっている上司」みたいな人が失敗した時に言えば、これは「へつらい」に成るでしょうね。


これは、極端な例ですが、それほど極端でない場合でも、「権力」に対して向けられる「気遣い」と言うのは、ほとんどが、実体としては「へつらい」であると思うわけです。

もちろん、上司など「権力」を持っている人間の中にも「イイ人」も「ワルイ人」も居るわけですから、「イイ人」に対してなら、「気遣い」は成立するんじゃないか?とも思うのですが、実は、「気遣い」が成立するのは、「力の無い者」に対してであって、相手が「イイ人」かどうかは関係ないわけです。


「権力者」に対する「気遣い」も、理屈の上では成立しますし、本人が何の「へつらい」もなく「権力者」に対して、「気遣い」を行うこともあるでしょうが、それは、実行された途端に、実体としては「へつらい」になってしまうということでしょう。

つまり、「利害関係」があるところで、「金銭のやり取り」をすれば、それが、どういう”気持ち”で行われたとしても、結果的には「賄賂」になってしまうということですね。


昔の封建的な社会では、身分制度がありましたから、「上下関係」がはっきりしていたわけです。
それで、「気遣い」と「へつらい」が区別し易かったんでしょうね。

ところが、現代の社会では、「身分」と言う意味ではすべての人が「平等」ということに成っていて、建前上は「身分の差」はないハズなわけですが、実際には、社会的な「権力」や「地位」と言った「上下関係」がありますから、時によって、「平等な社会」なのか「格差社会」なのか分からなくなってしまうわけです。

それで、「平等」と言う建前で考えた場合「気遣い」であるはずのものが、「格差」を前提として考えると、「へつらい」であるということが出てきてしまうわけですね。


結果的に言うと、現代においては、全ての「力」に対する「気遣い」は「へつらい」であって、それを、「気遣い」とすることは、「権力」を膨張させることにしかならない。
ということだと思います。


また、「へつらい」自体は「悪事」とまでは言えないが、「へつらい」によって、「人間性」を切り捨てることは「悪事」である。

と言う風に思います。



「男女の役割分担」について

このブログでも何度も書いているんですけど、私は「差別」が、生理的に嫌いなので、チョットでも「差別的」な匂いがするモノには、
やや、過剰に反応してしまうわけです。

ところが、これも何度も書いているんですけど、「区別」は大好きなんですねぇ。

こう言うと、『実は、自分で気が付いていないだけで、けっこう、差別主義者だったりするんじゃないの?』と言われるんじゃないかと思ってしまうわけなのですが、そう言うわけでもなくて、私の場合、「差別」と「区別」は、むしろ「対極的なもの」として捉えているわけです。


要するに、「区別」がしっかりできていれば、「差別」が生まれにくいと思っているわけですね。
逆に、「区別」がイイカゲンだと、「差別」が生まれやすいということですね。


たとえば、「男女の区別」にしても、最近の傾向として、「男女同権」と言うときに、「男女」の間にチガイがあってはならないという感じがあると思うわけですが、こういうのは、まったくナンセンスだと思ってしまうわけです。


「男」と「女」が違う「性」であることは明確なわけで、そのチガイに基づいて、いろんな「差」が出て来るのは、むしろ当然のことですから、そこに、いちいち目くじらを立てても何の意味もないわけです。

その「差」を埋めて「同じ」にすることよりも、その「差」を尊重し合っていく方が、遥かに意味がありますし、それ以上に、「男女」両方とも”ラク”だと思いますね。


今の社会(日本しか知りませんけど)を見ていると、「女性」が無理に「オトコ」に成ろうとしているように見えてしまうんですね。
さらに言えば、そんな風に”仕向けられている”ようにすら見えるわけです。


いま、社会の中心に近い所で活動している「女性たち」を見ていると、アリエナイくらいに”苛立って”いるように見えてしまうことがとても多いのですが、これは、私のキノセイでしょうか?

そういう「女性たち」が、何も起きていないのに、常に”怒っている”ように見えてしまうし、いつも何かに追われているような、余裕のない感じを漂わせていて、まわりの人に対して、『そういう自分の状況を察しろ!』と要求しているように見えてしまうわけなのです。


これは、たぶん、無理に「オトコ」に成ろうとしていて、しかも、それが自分の望んだことだと思い込んでしまっているからなんじゃないかと思うわけです。


これは、決して、『女性はオトナシク家事をしていればよかったんじゃないか?』ということではなくて、すべてが、「オトコ」であることに合わせるように仕向けられているということが問題なわけです。


「オトコっぽく」仕事をこなせる「女性」がエライのではなく、「男女」を問わず、「その人らしい仕事」を感じさせてくれる人を見ると、誰でも嬉しくなるということなんじゃないでしょうか?


でも、「オトコっぽく」ないと、今の世の中では評価されませんから、それが悔しくて、「オトコっぽく」してしまうというような感じに仕組まれているわけですね。

そして、さらに、そういうのこそが「カッコイイ女性」なんだと、「できる女」のイメージを刷り込まれてしまっているわけです。


こういった刷り込みは「女性」に限ったことでもないでしょうが、それが自分には合っていない「性」に合わせることだとしたら、そりゃあ、”イライラ”するでしょうね。


「男女」の間に限ったことではありませんけど、いろいろな意味での「役割分担」が見直される必要があるんじゃないでしょうか?

そういうことって、昔話なんかに書いてあることだし、誰でも知っていることのハズなんですけどね。

要するに「お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に」と言う感じでしょうか?

 ※「芝刈り」と「洗濯」ならまだしも、『お婆さんがチェーンソーをもって大木を
  切り倒しに、お爺さんは家で編み物を』という話だと、やや問題が出てくる
  ような気がしますね。

実は「同じにすること」こそ、最も「差別的なこと」だということが、認識されるべきなんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「人間」と「機械」のワーク・シェア



「オートメーション」化が進んだことや「コンピューター」が「パソコン」として身近に成ったことで、「人間」がやっていた仕事をかなりの部分で「機械」が代行できるように成ったわけですけど、その「人間と機械の住み分け」がイマイチ出来ていないような気がする時があるわけです。


時には、「人間がやるべき仕事」を「機械」に横取りされているような気がすることがあるし、逆に、『こういうのこそ機械がやってくれよ!』と言うようなことで、相も変わらず「人間」がコキ使われていたりすることもあるような気がします。

要するに、いつの間にか、予想外のスピードで「機械」が”ノシテキタ”もんで、その「住み分け」を決めるヒマがなかったって言うことなんじゃないかと思うわけですね。


そこで、これからは「人間」と「機械」が「ワークシェア」していく必要が出て来ると思うわけですけど、昔と比べたら、「効率」は相当上がっているわけですから、もう、これ以上「効率」を上げる必要はないと思うわけです。


だから、「人間と機械のワークシェア」に置いては、如何に「喜び」を見出せるかということが重視されていった方がイイんだと思います。

つまり、人類史上初めて、「仕事を楽しむ時代」が来たんじゃないかなと思うわけです。


これまで「仕事が好き」と言っていた人は、ほとんどの場合、純粋に「仕事を楽しんでいた」のではなく、「仕事」から得られる名誉や収入が増えることを「楽しい」と言っていたわけでしょう。


また、ごく少数の「純粋に仕事を楽しんでいた人」は居たでしょうが、それも、そもそもの「シゴトの目的」が「楽しむこと」だったというわけではなかったのでしょう。


これからは、もう少し純粋な意味で「仕事」に「楽しさ」が導入されていくとイイんじゃないかと思うわけですね。


「パソコン」や「インターネット」のカタチが、いまより、もう少し良く成れば、いや、それよりなにより、社会を構成している人間の仕事に対する考え方がもう少し良く成れば、きっと、「仕事」は「楽しむためのモノ」になって行くんじゃないのかなと。


そんな形で「人間と機械のワークシェア」ができるように成ればいいんじゃないですかと。

そんなことを希望いたしておりますです。


「一つのモノ」と「二つのモノ」



どんな学問や思想でも、それを追究していくと、もっとも単純な「一つの考え」に行き着くか、または、研究がどんどん細かいことに細分化して言って、「無数の考え」に複雑化していくかの、どちらかに成るんだと思うわけです。


ところが、その「一つの考え」の向こうには、また、さらなる「無数の考え」への入り口が用意されていて、それとは反対に、「無数の考え」が現れて来ると、それを一括して説明できるような「一つの考え」が必要になってくるわけです。

その結果、いつも終わりのない研究が続けられることに成るわけで、それを、「学問」と呼んでいるということなんでしょうね。


と言うわけで、この「すべてを一つにすること」と「一つのモノを二つ以上に分けていくこと」が、「思考すること」の本質なのではないかと思っているわけです。


たとえば、地球上には無数のモノがありますが、それらすべてを「一つのモノ」として、「地球」と言う「一個の生命体」なのだということも出来るでしょう。

それは、更に宇宙にまで広げても、そのまた先まで広げても同じことでしょう。


要するに、そこに「名前」を付けてやれば、それを「一つのモノ」として説明することができると言うことなのではないでしょうか?


これとは逆に、どんなに分かちがたいと思われているものでも、それを、更に分化することが出来ないということは無いような気がしますし、今度は、そこに、「二つの名前」をつけてやりさえすれば、それは、もう二つに分けられていると言えなくはないと思うわけです。

 ※現在の研究では、それ以上分けることが出来ないと言われているものでも、
  きっと、そのうち分けられるようになるんじゃないかと思いますし、どうしても、
  分けることが出来ないならば、勝手に頭の中だけで分けたことにしてしまえ
  ば、一応、概念を分けたことには成ると思います。

つまり、「最も大きい一つのモノ」と「最も小さい無数のモノ」と言うのが「世界」を構成している要素なんだと思います。


宇宙の無限の広がりや、粒子の最小の単位を根本的に説明するのは大変だと思いますけど、そこまでいかなくても、「一つのモノ」と「二つのモノ」ということだけで、十分に「思考」を楽しむことは出来るんじゃないかと思うわけですね。


「一つのモノ」の中に「チガイ」を見つけ出して、「二つに分ける作業」や、「二つのモノ」の中に「共通の本質」を見つけ出して、「一つにまとめる作業」は、とても楽しい「思考作業」なんだと思うわけです。


ただし、はじめの話のように「一つのモノ」の向こうには、必ず「二つに分ける必要性」が出て来るでしょうし、「二つのモノ」が「無数」に広がった後には、それを「一つにまとめる必要性」が出てきますから、永遠に「終わり」や「達成」はないということですから、「結論」や「到達」を求めてしまうと「不毛」と感じてしまうでしょう。


昔、「思考」は何かを達成するためのモノだったわけですが、現在、「人間の思考」が置かれている位置では、「思考」は目的を達成するためだけのモノではなく、「楽しむためのモノ」でもあるんじゃないかと思います。

だから、「思考」に「結論」を求める必要性は、昔ほど、高くはないんじゃないかと思うわけです。


「一つのモノ」と「二つのモノ」の間で、彷徨い続けることこそ、現在の人間に与えられた、「究極の娯楽」ではないのかなと。


言葉で言うと、ぜんぜん面白くなさそうですが、

『実は凄くオモシロイ!!』

『いや、まぁ、そうでもない?』

そんな風に思っております。



ネット情報の「ダブりの壁」



インターネット上の情報で一番困るのが、「ダブり」が多いということなんですね。

なにか調べようとすると、やたらと同じ情報が羅列されてしまうので、気持ちの上でも”ウンザリ”しますし、なにより、時間がかかって仕方ないわけですね。


現在の「検索エンジン」はスバラシク・スグレテイルという話ですけど、この「ダブり」を排除してくれないと、到底スグレテイルとは言えないんじゃないのかなと思うわけです。


これが、単に「検索エンジンの精度」の問題なのか、それとも、誰かの都合で、そうなるようにされているのかはわかりませんけど、とにかく、まったく同じサイトにつながってしまう検索結果や、似たような情報しか載っていないものはズラリと出て来るのに、もうチョット・チガウ情報が欲しいなとなると、いきなり「パッタリ」ということがとても多いので、なんとかならないモノかなと、いつも思ってしまうわけですね。


そういうときでも、本当は、求めている情報が、ウェブ上のどこかにはあるんじゃないかと思うんですね。
それなのに、いつも「ダブりの壁」に阻まれてしまうんですね。

そして、もし、「ダブりの壁」を破ろうとすれば、その壁が厚いほど時間がかかってしまうと言うわけです。


まぁ、私の場合は少しヘンテコなことを調べたりすることも多いので、ある程度は仕方ないと思いますけど、この「壁の向こう側の情報」が”もったいない”なと思ってしまうわけです。
「壁の手前の情報」よりも、「壁の向こう側の情報」の方が、密度が濃かったりする場合も多いわけですからね。

それなのに、そういうのが出てこないことが非常に多いんですね。


実際、「壁の手前の情報」は、けっこう内容的には”スカスカ”で、また、判で押したような教科書的な情報も多いので、「内容的な密度」もさることながら、その「面白味」についても、「やや薄」な感があり、どちらかと言うと「時間の無駄」であったりするケースも少なくはなく、「壁の向こう側の情報」にこそ、「インターネット情報の真価」があると思うのですが、それは、見つけ出すのに時間がかかるという、”にっちもさっちも”の困った状況なわけなのです。


それに、こんな状態じゃ、結果的には、ものすごく画一化された情報を受け取らされているということに成るわけで、ネットの最大の利点であるはずの「情報の量」が全く生かされていないわけです。


検索するたびに、何十万件も検索されていても、実際に見られるのはその何千・何万分の一で、しかも、見られるのは、いつも決まりきった教科書的な情報ばかりであるならば、「壁の向こう側の何十万件」なんて、あってもなくても同じということに成りはしないでしょうか?


そういうわけで、なんとかこの「ダブりの壁」を壊してほしいものだなと思っているわけですが、そこで、言いたいことは、検索結果を、もう少し大胆な感じで、ランダムにしたり、シャッフルしたりしてほしいということですね。

つまり、何回か検索すると毎回違う結果が出て来ると嬉しいですね。

それから、「壁の向こう側の情報」と「壁の手前の情報」を、時々入れ替えてくれると、「壁の向こう側の情報」が手に入りやすくなるでしょうね。


こういうのって、私みたいな「ネット弱者系の人間」(最近は少しマシになってきたけど)しか思わないことなんでしょうか?


IT関連のことって、IT業界側からの「押し売り」が多いような気がするんですね。

しかも、このところIT業界の人たちが、日に日に傲慢になって来ているのが、『チョット・イヤデス』っていう感じ。


と思ったりもするわけです。



「現代の災害」



「災害」と言うと、まず「天災」を思い浮かべる人が多いんでしょうが、「現代の災害」は多様化していて、いろいろな「災害」があると思うわけです。


たとえば、「テロ」や「戦争」なんかも、被害者からすれば、一種の「災害」だと思いますし、火事や交通事故なんかも「巻き込まれた人」にとっては「災害」なんだと思います。


そんな、多様化した「現代の災害」の中でも、最も「現代的な災害」とは何なのか?と言えば、「経済的な災害」なんじゃないかと思っているわけです。


「インフレ」や「デフレ」、それから「経済不況」なんて言うのは、専門家でも予測合出来ない場合が多いみたいですし、そこから派生する「経済状況」なんて、もう、誰にも計り知れないものになってしまっているんじゃないかと思うわけです。

ということは、「天変地異」と同じように、「予測不能」の「人智の及ばないところのモノ」ということに成るわけで、これは「災害」と言っても差支えないんじゃないかと思うわけです。


現代社会には、そういった、「経済」にまつわる「災害」と言うのが、けっこうたくさんあるんじゃないかと思うわけですね。


直接的なものでは、「極端な不況」や「国家レベルでの経済破綻」などが、そういうのにあたると思うんですけど、「経済的な災害」には、間接的なものもあると思うわけです。


たとえば、「不況」で、お父さんの会社が潰れたことで、家族の誰かが病気になったりすることがあると思うんですけど、そういうのも、よくよく考えてみれば、一種の「経済的な災害」と言えなくはないのかも知れませんね。


まぁ、そこまで言ったらキリがないという気もしなくはないんですが、やはり、物事には「原因」があって「結果がある」と思いますから、その「原因」を探って行くことには意味があると思うわけですね。


そういう考えで、もっとシツコク考えていくと、たとえば、「自動車事故」で亡くなる人が、毎年結構いらっしゃいますが(日本だけで、年間4千人くらいみたいです)、これは、かなりの数なのに、なんで、誰もこれを止めようとしないんですかねぇ。


つまり、車の性能を極端に制限するとか、自動車税を極端に高くするとか、いろいろな策はあるんじゃないかと思いますけど、それを、「誰もやろうとしない理由」は、たぶん「経済」です。

つまり、今の世の中では、年間4,000人の命よりは「経済」の方が重いということに成っているわけですね。


「東日本大震災」での死者は約15,000人程だそうですが、4年ごとに、その数の人が亡く成っているわけですから、かなりの数だと思うんですけどねぇ。


「テロ」で被害者が出ると、かなりの騒ぎになったりしますし(平和な国で「テロ」の被害が出ると騒がれるということでしょうね)、「原発」が事故ると大問題になりますけど、「車」が事故っても、かなりの大事故とか、運転者がよほど悪質だったりとかでないとニュースにすらなりません。

でも、よく考えれば、自動車が走っている道を歩いているということは、武装したテロリストが潜伏している街を平気で歩き回っているのと、それほど違わないことと言えなくもないわけです。

ただ単に、その「テロリスト」が、まだ今のところ銃を構えてはいない、というだけのことです。


それらのことは、恐らくすべて「経済」を優先するために、そうなっているんだと思うわけですね。
だとすれば、これを「経済的な災害」と呼んでも、間違いとは言い切れないんじゃないのかなと。


まぁ、こういう例を挙げていったら、それこそキリがなくて、「飛行機事故」だってそうだし、「食品添加物の害」で癌に成った人なんかだって、言ってみれば、「災害」に遭ったようなものでしょう。


それらは、いずれも、被害者側には、ほとんど避けようのないものであって、「予測不能」なものでもあります。


車に乗らないでいることは出来ますが、後ろから近づいてくる車が「居眠り運転」か「酒酔い運転」かを予測する手立てはありませんからね。


そんなわけで、私なんかは「テロ」や「原発事故」や「天災」の報道を目にするたびに、『ところで、自動車事故はいいんですかい?』と思ってしまうわけなのです。

なんで、そんなに「経済」が大事なのかなと。


私にしてみれば、かなり不思議なわけですね。

まぁ、自分があんまりお金持ったことないんで。

そんな風に思うわけですね。



「収入ゼロの仕事」



前に、このブログの中で【「職業」じゃない「シゴト」】と言う記事を書いたことがあるんですけど、要するに、「収入」がなくても「仕事」と言う概念は成り立つんじゃないかと思っているわけですね。

     ※2015年5月3日の記事で書いています。


たとえば、「主婦業」が「仕事」として社会的に認められるように成って久しいわけですが、「収入」と「仕事」は必ずしも関係がないモノなんじゃないかと思うのです。

それどころか、「仕事」は「利益」とも関係なく、成立する概念なんじゃないかとすら思うわけです。

じゃあ、何と関係があるのかと言えば、「価値」だと思うんですね。
「価値」と「利益」は一致しないと思うわけです。
まぁ、「価値」や「利益」の解釈にもよりますけどね。


たとえば、両親にとって「子供の存在」には「価値」があると言えるでしょうが、それは「利益」とは必ずしも関係がないわけです。

「利益」を当て込んだ上で、「子供の存在」に「価値」を感じている、ということではないんじゃないかと思うわけですね。
(そういう親もいるでしょうが、そういう人は何かを見失っているんでしょうね)


つまり、「利益」がない所にも「価値」は発生する可能性があるということでしょう。


もちろん、「価値を得る」ということ自体が「利益」であるということはあるでしょうが、「利益」と言う言葉には、もう少し「直接的なトク」と言う意味があると思うわけです。

やはり、「両親」が「子供の存在」に感じている「価値」は、「ソン・トク抜き」と言うのが、言葉の上でピッタリくるような気がします。


そういった意味で、「仕事」に関しては、「利益」に当たるものの代表が「収入」に成るわけですよね。


当然、「収入」にも「価値」はありますが、「利益」を伴わない「価値」もあるハズだなと。
そういう、「ソン・トク抜きの価値」に当たるものは何なんだろうか?と考えるわけですね。


「収入」や「社会的地位」と言った「直接的な利益」を除いた場合の、「仕事」における「価値」とは、おそらく、「ナニカをやりきること」なんじゃないかと思うわけです。


「人生の中で何かをやりきること」を、「収入」とは無関係に「仕事」と言っても、なんらサシツカエないんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?


別に、大事業を成し遂げるということではなくて、なにか、たった一つのことでもいいから「やりきって」から死にたいモンだと思うわけなんですけど、これって、「思い上がり」なんでしょうか?


その為に、自分にも周りの人間にも、少なからず負担がかかってしまうこともあるでしょうが、それって、「自分勝手なこと」なんでしょうか?

もちろん、「収入」を得ることで、家計を支えて、その結果「ナニカを成し遂げる」ということだってあるでしょう。


でも、それと同じように、「収入」を切り捨てることで、「ナニカをやりきる」ということもあっていいんじゃないかと思っているわけです。


「収入」から得られるものでは、「自分にとっての”ナニカ”」を「やりきること」ができない場合は、「収入」をあきらめてでも、それを「やりきること」には、十分に「価値」があると思うのです。


その「価値」を共有してくれる人が居れば、幸運なことだと思いますが、それは、そんなに「自分勝手なこと」ではないんじゃないかと思うわけです。


もしも、そうだとすれば、それを「仕事」と呼んでもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。




「財産」



「財産」と言うものは、「持てる者」と「持てない者」の間に「格差」を生み出してしまうモノだと思うわけです。
そして、その「財産」こそが「資本主義」の根幹を成している「資本」と言っていいんだと思うわけです。
ということは、「資本主義社会」は「格差必定の社会」だということですね。


「資本主義」は「自由主義」や「民主主義」と結び付けて考えられることが多いですから、「平等」とも「セット」なような気がしてしまうわけですが、実は、もっと昔の「封建的な社会」に比べれば、「少し自由」だったり、「少し平等」に成ったというだけで、まだまだ、全然「自由」でも「平等」でもないというのが実態でしょうね。


たとえば、「遺産相続」と言うのがありますけど、あれは、どう考えても「平等」とは言えないわけで、少なくとも、「財産」が多い家に生まれた人と「財産」が少ない家に生まれた人は、金銭的には不平等だということでしょう。


「金銭」なんてどうでもいいことなのかも知れませんが、「社会」や「法」が規定できる「平等」とは、そういう「どうでもいいこと」の「格差」を埋めていくことぐらいなんじゃないかと思います。


さらに言えば、それをすることが重要だというよりは、それをしないで放っておくことが、人間の心を腐敗させてしまうということでしょう。


昔、アメリカで、ある黒人の女性がバスの座席に座っていたときに、白人から席を譲るように要求されて、それでも動かなかったことが、人種差別撤廃運動が起きる原因の一つに成ったのは有名な話ですが(アラバマバス事件)、その時、「バスの席に座ること」が重要だったわけではなく、「席に誰でも平等に座れるようにすること」が「社会が提供できる平等」だったということでしょう。


そういう意味で言えば、「遺産相続」なんて、必要ない制度なんじゃないかとすら思いますけど、なんでそれが無く成らないかと言えば、要するに、「お金持ち」が”ソン”するからですね。

そして、その「お金もち」がほとんどの法律を作っているわけですから、無く成るわけないですよね。


「財産」が、本人が死んだときに「すべて没収」だったら、きっと「国家財政」が随分潤うでしょうね。


これは、「社会主義」とか「共産主義」的な考えではなくて、ただ単に「遺産相続」だけについての話ですね。


それにしても、この「財産」ということについては、「平等」と言う建前が、あまりにも完全に無視されていると思うわけです。

まぁ、「資本主義」なわけですから、当然と言えば当然ですけどね。


でも、実際には、「資本主義」であるからこそ、そこを、一番重点的に「平等」にする必要があるハズなんじゃないんでしょうか?


だって、すべてのことが「資本」を基準にしてまわっているのが「資本主義」なわけですから、そこが「平等」でなければ、いくら他の所を「平等」にしても、あまり意味がないということでしょう。

少なくとも、経済面に限っては、「財産」に関することを「平等」にしなければ、「平等」はあり得ないということでしょうね。


実際上、できないことが多いのは当然ですが、出来ることでもやっていないことがたくさんあるのも事実だと思いますね。


いえ、決して自分に「お金」がないから言ってるんじゃないんですよ。

実は、「財産」に拘束されているのは「お金持ち」も同じなんじゃないかと思うわけです。
つまり、この「財産の格差」に、「持てる者」も「持てない者」も両方とも縛り付けられているんじゃないかと思うときがあるんですねぇ。


「本当は、そこにはない幸福」を追う羽目になっているっていうような感じがするんですね。


「お金」と「幸福」が必ずしも一致しないものだということは、みんな、なんとなく感じていても、実際に「お金」を持たされたり、持たされなかったりするから、そこに「価値」や「幸福」の「幻想」を作り出してしまうということなんじゃないでしょうか?


さっきの「アラバマバス事件」の話で言えば、バスの席に座って動かなかった女性は「席に座りたかった」というよりは、「人間としての尊厳」を望んだのでしょうが、「座れる人」と「座れない人」がいると、「席に座ること」と「自分の尊厳」が同じものにしか見えなくなってきてしまうわけです。
それで、「自分の尊厳」を取り戻すために、席を譲らなかったんだと思います。
席を譲ってしまえば、「尊厳」も取り上げられてしまうと思ったということでしょうね。
その立場に立てば、誰だってそう思うと思いますよ。
ただ、それを実行できる人が少ないというだけです。


実際には、「バスの席」が「平等」になっても、人の心から「差別意識」が無くならないのであれば、あまり意味がないわけですが、はじめから、そこに「不平等な席」が厳としてしてあると、双方が、「平等」の位置を見失ってしまい易いということなんじゃないでしょうか?


そういうことで、「資本主義」だからこそ、「財産」は死ぬ時には「没収」。

その「お金」を有効に使えば、きっとナニカいいことがありますよ。

そうすれば、「お亡くなりに成ったお金持ちの方々」も、さぞ満足なんじゃないのかなと。


『そんなことは無いと思います!』

『おしまい・・・・』


「覚えられること」と「覚えられないこと」



人間の脳と言うのは不思議なもので、何の苦も無くスンナリト「覚えられること」と、何度聞いても頭に入らないような「覚えられないこと」があるわけです。

で、「覚えにくいこと」が「覚えられないこと」なのかと言うと、そういうわけでもなくて、いくら「覚えやすい簡単なこと」でも「覚えられないこと」は、まったく「覚えられないこと」のままだし、「覚えにくい難しいこと」の中にも、スルッと「覚えられること」もあるわけです。


たぶん、こういうことの中で一番多いパターンは、好きなことだとすぐに「覚えられる」し、興味のないことだと、いつまでたっても「覚えられない」っていうことなんでしょうね。


そう考えると、要するに、「覚えられないこと」っていうのは、「覚えたくないこと」で、尚且つ、「覚える必要もないこと」で、さらには、「覚えても、どうせすぐに忘れてしまうこと」なんじゃないかなと。


そうだとすれば、「覚えられること」の方こそが、「覚える価値のあること」って言うことに成るわけですね。

それじゃあ、スルッと簡単に「覚えられること」だけ「覚えればイイ」って言うことで、すべて、いいこと尽くしということですね。


少なくとも、自分にとって「価値があること」っていうのは、人間は簡単に覚えてしまうくらいの能力を持っているんじゃないかと思うわけです。


だから、「覚えられないこと」が「覚えられない」なんてどうでもいいことなハズで、それなのに、「覚えられないことを覚えること」に価値を求めるのってどうなんでしょうね?

少なくとも、今の学校教育は、主に、そういうことで成り立っているわけですけど、それでは、若い時期の貴重な時間を、あまり意味のないことに費やしてしまうような気がしますね。


そういうのは、時間の無駄のような気がします。
それが、チョット行き過ぎているような気もします。


「覚えること」がいけないというよりも、「覚えること」にばかり時間が使われていて、「考える時間」が全く無く成ってしまっていますね。


「覚えること」よりも「考えること」を重視した教育が見直されるべきなんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。



「定年制」について



現在の「定年」は、だいたい65歳ぐらいなんでしょうか?
自分が、そういう規定のある仕事をしたことがほとんどないので、よくわかりませんけど、どう考えても、この「定年制」と言う考え方は、もう古いんじゃないかと思うわけです。


そもそも、「定年制」と言うものは、どちらかと言うと『長年お疲れさまでした』と言うような、『もう、十分に働いてもらったので、あとはゆっくりしてください』と言う制度だったんだと思うんですが、そういう「年配者への敬意」が、今でもあるんでしょうか?

どちらかと言うと、今では「定年制」は、「年寄りを邪魔者扱いするような制度」になってしまっているんじゃないでしょうか?
つまり、『使えなくなったから、お払い箱にする』と言う感じでしょうか?


でも、客観的に見ると、「経験豊富な人」の仕事と言うのは見ていても安定感がありますし、無理なリキミがない分、「受け手側」にとっては丁度良い場合が多いように思います。


それに比べると、「中堅どころの人」の仕事には、やや、自己主張が入りすぎるきらいがあるわけで、その人が、いくら「その職場内での実力者」であっても、と言うより、「その職場内での実力者」であればあるほど、その「実力」を誇示したり維持したりしようとするでしょうから、「受け手の側」からすると、やや「自分本位」と言うような「受け手側軽視」の感が否めないわけです。


もちろん、個人差はあるでしょうし、若くても「受け手側」にとっても「イイ仕事」をしている人もいるとは思いますが、少なくとも、年配者の仕事ぶりが「明らかに劣る」ということは無いような気がしますね。


平均寿命が飛躍的に伸びてきているわけですし、同じ年齢の人でも、年齢を重ねていく程に、いろいろな面での「個人差」が大きくなるということもありますから、一律に「定年の時期を延長する」と言うのもどうかと思います。

ということは、やっぱり「定年制」と言う考え方自体が、もう「現在」に適応できていないんじゃないのかなと思うわけですね。


これまで、「定年の年齢」を引き上げると言う発想しかなかったこと自体に、非常に盲目的な印象がありますね。


『定年制を廃止しよう!』といえば、『そんなことできるわけないだろ!』と言われるかもしれませんが、ほとんどの「役に立つこと」と言うのは、「できるわけないと思うようなこと」なわけで、『そんなことできるわけない』と言っていれば、「役に立つこと」なんて何もできなくなってしまうわけです。


そういう時は「それをやる」ということを先に決めて、「どうするか」は後から考えるべきでしょうね。


少なくとも、高齢化社会にあって、「定年制」が維持できなくなるのは必定なわけですから、早くやめた方がイイに決まっているわけで、それだけは、はっきりしているんじゃないでしょうか?

「制度」なんて後から考えればイイことだし、それに、どうせ前もって考えたってロクな「制度」ができたタメシはないんですから、こういう、「絶対必要なこと」に関しては、先回りして「制度」を検討するよりも、後から穴埋めしていくしかないんじゃないかと思いますね。


どう考えても、「定年制」という「制度」は、もう、長くはないんじゃないかと思いますね。
だとすれば、どう考えても、早くやった方がイイですよね。


それに、どう考えても、人間は、死ぬまで、何かの役割を担っているほうがいいんじゃないかと思いますね。

それが、その人にとっての「アイデンティティー」に成るようなことですね。
それが、「職業」である人もいるでしょうし、「職業ではないナニカ」である人もいるでしょう。

人間には、そういう「自分」を持って「死んでいく権利」があると思いますね。


そうやって「人が死ねる社会」だったら、「生きている人」も「幸せ」に少し近づけるような気がします。

少なくとも、「”自分を失って”死んでいかなければならない社会」だったら、どう考えても、「生きている人」も「不幸」なんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけなんですね。




「恩」



人に対して「恩」を感じると、なんとか「恩返し」がしたいと思うものですけど、そう思ったときには、その相手がそばに居なかったり、適当な「恩返しの形」が見つからなかったりということで、なかなか「恩」を返すのって難しいもんだなと、思ってしまうわけなのです。


そんな感じで、私などは、ほとんど人に「恩返し」ができたためしがないわけですけど、そうはいっても、いつも心のどこかで、『「あの人にもあの人にも恩返しがしたいなぁ』などと思っているわけですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『いや、ホントですよ』
『ウソじゃないです』

「あなた、そこまで言うと、かえってウソっぽいですよ」

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と言う感じですから、仕方なく(あくまで仕方なくですよ)、適当に、その辺に居る人に対して、時たま、何のいわれもなく「恩返し」をする時があるわけですねぇ。

相手にしてみれば、イミガワカラナイわけですけどね。
こちらにしてみれば、あくまで「恩返し」なわけなので、それで、まあまあ満足です。
要するに「自己満足」ですね。

でも、そんなことでも、何もしないよりは少し気が楽になるんですねぇ。


こういうのって「イイこと」に入るんですか?

それとも「ドウデモイイこと」に入るんでしょうか?

まぁ、「ワルイこと」には入らないんじゃないかなと。


私といたしましては、

『ジューブンです!』


と、思っています。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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