FC2ブログ

「エコロジー」と「人間の意識改革」の競争



「地球的資源の枯渇に対する危機」が叫ばれてから、既に相当な時間が経っていると思うわけですが、なかなか「資源の安定した確保」への道筋は見えて来ないという状況ですよね。


そこで、「エコロジー」と言う、なかなか気の利いた言葉が出てきたわけですが、「エコロジー」と言う概念が現れてきてからも、また更に、かなりの時が経ってしまい、もはや「エコロジー」も、やや「新鮮さ」を失いつつあるというところじゃないかと思うわけです。


そんな現在にあって、思うことは、「エコロジー」と言う考え方は、必ずしも「地球」を大事にするためだけのモノでもないんじゃないのかなということなんですね。


なんとなく、今の「エコロジー」には、「地球さん」のために、「人間さま」が少し我慢して、みたいなところがあるような気がするわけですが、実は、そうじゃなくて、今の「工業化」や「効率主義」で一番”キューキュー”しているのは、「人間さま」の方なんじゃないかと思うわけですね。

つまり、「資源消費」のペースを落とすことで、一番”ラク”になるのこそ「人間さま」の方で、実際は「地球環境」の問題とも限らないような気がするわけです。


現在まで、「上昇志向」一辺倒でやってきた、「工業化」や「効率主義」ですが、これが、「行き過ぎ」になっていることはほぼ間違いないことでしょうし、それ以前に、これ以上の「効率」の必要性がなくなってきてもいるわけですから、その速度を緩めることで、「人間さま」も”ラク”に成るなら、それに越したことはないんじゃないかということですね。


そういった方向で進んでいけば、もしかしたら、「地球資源」が完全に枯渇してしまう前に、何か有効な代替エネルギーが考え出されるということもあるのかなと。


今の方向で、考え続けていっても、また、いくら一生懸命「我慢するエコロジー」を続けていっても、所詮、「地球さん」の命を少し永らえさせることぐらいしかできないような気もします。


「自然のサイクル」と、そういう「人間の意識改革」の競争で、「人間の意識改革」の方が、より”ノンビリ”できたら、「自然のサイクル」が追い付いて来て、「資源」が回復するのかも知れませんね。

まぁ、”そーとーノンビリ”しないといけませんけどね。


いずれにしても、「早い方の競争」じゃなくて(今は「エコロジー」も含めて早い方の競争になっていますね)、「遅い方の競争」ということなんじゃないのかなと。


『それ、なんか”ラク”そう!』

そういう風に思いますね。



「イイ偶然」を固める



私は、絵を描くうえで、いつも『偶然をあてにしよう!』と思っているわけです。


それは、必ずしも、「テキトーにやって成るように成った状態」と言うのではなく、作品を、「自分の作為」から外れたところに持っていく、という作業なんだと思っています。


そして、いつも次から次へと現れては消えていく「偶然」のなかで、「イイ偶然」を見つけ出して、それを固定していこうという気持ちでやっています。


これは、20世紀の中ごろに行われていた「その手の手法」とは、少し違います。
まぁ、同じようなところもありますけどね。
少し違うというところです。

そちらは、「偶然」と言うよりは「技巧」の一種だったように思いますね。

要するに、絵具をにじませたり、流したりするのと同じように、「偶然性」を利用してはいますが、あくまで「技法」としての「偶然の利用」であって、「技術」のバリエーションであったように思いますね。


私の場合は、むしろ、「手法上の問題」ではなく、、制作の過程に「”意図せずに””現れてきた偶然」を、見つけ出して生かしていこうというものです。
(「意図的な偶然」は「技術」だと思いますが、「単なる偶然」は「非技術」だと思います)

その中でも、とくに「イイ偶然」を固定していこうということですね。


「偶然」と言うと”ユルイ印象”がありますけど、この「イイ偶然」を見つけ出すという作業は、意外と集中力を必要とするんじゃないかと思っています。


なんたって「偶然」ですから、いつ、どんな風に現れるかわかりませんし、ちょっと油断して見逃してしまうと「スッ」ッと消えていってしまうわけで、それを常に、集中して見つけ出さないとならないということですから、意外なほど緊張するわけですね。


「偶然」は、人間が意図的に作り出すものと違って、非常に壊れやすいですが、そこには「作為」が入らない、もっとも純粋な「自分」が現れているような気がしているわけです。


『でも、偶然なんだから、自分が創り出したモノじゃないんじゃないの?』という部分もあるんですが、そこで、「イイ偶然」を見つけ出すという作業が重要になってくるということです。

つまり、現れて来る「偶然」は「自分の創り出したもの」ではないのでしょうが(実は、そこにも「自分のクセ」は、意外なほどよく現れてくるものだと思いますけど)、それをよく見極めて、「イイ偶然」を見つけだして、それを固定していくという作業を繰り返していくことによって、「偶然」であって「偶然」でないモノが生み出されてくると思っています。


そこで、初めて、「作為」を排除した「最も自分らしいモノ」が現れて来るんじゃないかなと。

そういう風に思っているわけです。




「流行の素」



前に、このブログで【「ポピュラー性」について】と言う記事を書いたことがあるんですけど(2014年12月17日に書いています)、「流行するモノ」とはどういうものなんだろうか?とよく考えるわけです。
つまり、「流行の素」ですね。


正直言うと、私自身は、「流行するようなモノ」はあまり好きではない場合が多いみたいです。

「流行自体にあまり興味がない」と言うのもありますけど、「流行するようなモノに共通の”ナニカ”が好きになれない」と言うのもありますね。

そこで、「みんなが好きなモノ」なのに、なんで自分には、好きになれないんだろうかと、考えるというわけです。


以前の記事でも書いていますけど、「流行の素」になっているのは、「ワカリヤスサ」なんじゃないかと思うわけです。
誰でも「ワカリヤスイモノ」は取っ付きやすいですし、「ワカリニクイモノ」には取っ付きにくいわけですね。
だから、「ワカリヤスイモノ」は「ワカリニクイモノ」に比べて、最初の段階で、受け入れられる確立が高く成るわけですね。
それで、広く「流行」するということなんだと思います。

ここまでは、私も嫌いと言うほどではないんですね。


ただ、ここで、これも前の記事にも書いたことですけど、「流行」には、「みんなに愛される」と言う意味での「普遍性」はありますが、「長く愛される」とか「時代に関わらず愛される」と言う意味での「普遍性」があるとは限らないわけです。

つまり、「一過性の流行」と言うのもあるということですね。


さらに言えば、「ワカリヤスサ」を「シンプル」と言う言葉で表現することがありますけど、「ワカリヤスサ」には「ストレート」や「ピュア」もあるわけです。
(これは「そのものの核になっている部分についてのワカリヤスサ」と言った方がいいのかも知れません)

そういったモノの中で、「シンプル」が最も「流行の素」としての性質が強いような気がしますね。
(こちらは「表面に近い部分のワカリヤスサ」と言えるかもしれませんね)


そして、この「シンプル」が「一過性の流行」につながっているんじゃないかとも思うわけです。

「シンプル」なモノが、その上「ストレート」な場合も「ピュア」な場合もありますが、「シンプルなだけのモノ」と言うのが、「一過性の流行」の本質でもあると思うわけですね。


「シンプル・イズ・ベスト」などと言われますが、あれは、そういう「シンプルだけのモノ」ではなく、「ストレート」や「ピュア」を含んだ「シンプル」を指しているように思いますね。
(その辺のところを誤った使い方がされていることも多いのかも知れませんけどね)


そして、これはどちらがイイということではないですけど、私自身は、「シンプルじゃないモノ」=「ややワカリニクイモノ」の方が好きなんだと思います。

と言うか、「複雑なモノ」が好きなんですね。
言い換えると「深いモノ」ですね。

「シンプルと言うよりピュアでストレートなモノ」と言ってもいいと思います。


と言っても、あくまで、「ややワカリニクイモノ」ですね。
けっして、「ワカリニクイこと」自体が好きなわけではありません。
「複雑なモノ」や「深いモノ」は「ややワカリニクイ」場合が多いというだけです。


そして、「ピュアなモノ」や「ストレートなモノ」が、意外と「複雑なモノ」だったりすると考えているというわけです。

そして、その中で、「なるべくワカリヤスイモノ」というのが一番好きということに成ります。


つまり、「流行の素」に成るような「ワカリヤスサ」をある程度は持っていながら、それが複雑になっていることで「ややワカリニクイモノ」ということですね。

まぁ、そういうものがナントナク・オモシロイんじゃないかなと。
そういう風に思っているわけですね。


ところが、そういうものが年々少なく成っていく傾向があるわけです。

「マスコミ」が発達するにつれて、極端に大量で、極端に反復的な「ワカリヤスイモノ」が、世の中のあらゆる局面において、一方的に目まぐるしく提供され続けていますから、ちょっとでも「ワカリニクイモノ」は、本質(「核」)を理解される前に忘れ去られてしまうわけです。

これを続けていくと、たぶん「文化」は「文明」に乗っ取られて、その本質を失ってしまうんじゃないかと思うんですね。


つまり、「文明」=「文化」になってしまうように思うわけです。
それは、「物質」に「精神」が圧倒されてしまうということです。

私は、そうなっては”イヤ”なので、やっぱり「流行しているモノ」には反発していきたいと思ってしまうわけです。


要するに、「イイ・ワルイ」以前に「流行っているモノ」には取り敢えず反発していきたいなと。

そういう風に思っているわけですね。



「変わり者」と「変わり者じゃない者」



「変わり者」っていうと、あまり「いいイメージ」ないですよね。
でも、私といたしましては、「変わり者じゃない者」の方が、よっぽど「いいイメージ」ないわけです。


そもそも、「変わり者」っていってますけど、本来、「人間」って、全員「変わり者」であるハズなわけです。

その人が、その人自身の本来の姿であればあるほど、他の人から見たら「変わり者」に見えるハズなわけで、そんな中で、「変わり者じゃない者」が居るとすれば、それは、どこかで無理をしているということなわけですね。


日本人のような「農耕民族」は、「集団意識」が強いですから、「変わり者」を嫌うんでしょうが(一応そういうことに成っているという程度のことですけどね)、そうやって、無理に他人に合わせていくような社会には、もう限界が来ているんじゃないかと思うわけですね。

それでも、まだ、「変わり者じゃない者」達は、「変わり者」を排除しようとしますから、そういうことが、さらなるヒズミを生み出してきているわけです。


そして、常にそういう歪んだ力が働いていますから、「変わり者じゃない者」達は、より一層「集団意識」を強固にして、数のチカラで「変わり者」を排除して、「変わり者じゃない者」だけの均等な世界を作ろうとするわけです。

ところが、「変わり者じゃない者」も、本来は、どこかが少しは「変わり者」なわけですから、「変わり者じゃない者」同士の間でも、ほんの少しの「変わり者」が見つけ出されて、それが、また、排除されていくというわけです。


これが、いま起きている「イジメ」の構造じゃないでしょうか?


もう、現在の世の中に置いては、「農耕民族的な集団意識」は、「百害あって一利なし」とまではいわないまでも、確実に、「利益」よりも「不利益」の方が大きくなっていると思うわけです。


だから、もう、「変わり者」と言う言葉を、「いいイメージ」に変えていったほうがいいんじゃないかと思うわけですね。

「個性的」っていう言葉もありますけど、こちらは、「変わり者じゃない者」公認の「個性」に限定されますから、本当の意味での「個性」でも「変わり者」でも、全然ないわけです。


そういうわけで、

もう、「個性的」なんて言葉はやめて「変わり者」でいこう!

そんな風に思っているわけです。



「ソントク」より「カチマケ」



現代社会と言うのは、いろいろなことが、なんでも「勝負」になってしまうわけなのです。


「競争社会」ですね。
それで、とにかく、何でもかんでも「カチマケ」になってしまうわけですね。

こういう状態で、一番困るのは、何でもかんでも「カチマケ」ですから、そこにルールが設定されていませんし、それ以前に、そこで「勝負」が行われているのかどうかということ自体が、ハッキリしないということです。


片方の人が「勝負」なんてミジンも思っていないのに、もう片方が、一方的に「勝負」しているということがよくあるように思うわけですね。


現在では、ほとんどの人が、完全に子供のころから、「競争社会」の中で育ってきていますから、「勝負」が体の芯まで刷り込まれているんでしょうね。

だから、相手側に「競争意識」がなくても、また、そこに「ルール」が設定されていなくても、条件反射のように「とりあえず勝負」にしてしまう人が、けっこうたくさんいるんじゃないかと思います。


そして、更に言うと、「単なる競争」の時点までは、「カチマケ」は「ソントク」を基準にして成り立っていたわけですが、この「刷り込まれた勝負」が出てきたことで、「カチマケ」が「ソントク抜き」になって来ているんじゃないかと思うわけです。

つまり、ちょっと前までなら、「勝負」に勝っていたとしても、何かしら「ソン」に成るようなことになってしまうと、「カチ」とはならなかったような気がするんですけど、現時点では、あまりにも「カチマケ」を優先するあまりに、「ソン」をしていても、一方的な「勝負」でも、また、相手が「勝負」なんてしていなくても、『とにかく勝てばいい』と言うような、完全に「盲目的な勝負」と言うのが出て来たんじゃないかと思うわけです。


そういう「自己満足的な負けず嫌い」になっている人がとても増えているんじゃないかと思いますねぇ。


これは、とても困るんですねぇ。

どんな状況でも、一方的に「勝負」して、一方的に「勝ってしまう」わけですから、やっぱり困りますよね。
しかも、現在の日本では、こういうのが否定されないんですね。

ときどき、本当にビックリすることがありますけど、この「自己満足的な負けず嫌い」の人が、明らかに、誰も参加していない「勝負」を一方的に仕掛けて、明らかに、無理のある「勝利宣言」をして、『どーや?』と言わんばかりの状態なのに対して、まわりの人たちが、『パチパチパチ、お見事!』と言っていることがあったりします。


そういうのを、「ポジティブ」と言っている人をよく見ますが、「ポジティブ云々」以前に、『取り敢えず、否定しなさいよ!』と思ってしまうわけなのです。


そういう時に、「否定」するよりも相手にしない方が効果的だという人もいますが、その結果が、今の状況なんじゃないかと思いますね。

つまり、「野放し」ですね。


このこと以外のことでもそうですが、「イイ」と思っていないことを、「否定」しないのは「逃避」でしかないですね。


そういう「デタラメ」は放っておいても勝手に崩壊するんだ、と言うのは、『「警察」がなくても、「犯罪者」が勝手に滅んでいくから大丈夫』と言っているのと変わらないですね。

何事にも限度があるわけで、確かに放っておいても滅びてしまうようなものを、あえて、追究して、トッチメル必要はないでしょうが、明らかに「膨らんできている問題」を放置するのは、ただ単に、「それができないから」、そして、「それができないことを認めたくないから」に他ならないわけです。


「できる・できない」とは別に、「悪いもの」は「ワルイ」と「言葉」にして言った方がイイように思いますね。
それでないと、何が悪くて、何が悪くないのか、ということが無く成ってしまうんじゃないでしょうか?

 ※ここで言っている「悪いもの」というのは、究極的な「悪」の話ではなく、
  人それぞれの中にある「善悪」の中の「悪」です。
  ときに、『自分には「善悪の基準」はない』という人もいますが、実は、そ
  ういう人の中にも必ず何らかの「善悪の基準」はあると思います。
  それでないと、その人は何の行動もできないはずですから。

  その人が何かをするということは、それを「ワルイ」とは思っていないと言
  うことですからね。

現在の社会は、そう成りつつあるような気がすることがよくあります。
「善・悪の基準」が曖昧になって来ているということですね。


哲学的な思考に置いて、「善・悪」を考えることよりも、その前に、もっと当たり前のこととして、つまり、自明のこととしての「善・悪」を基準にしなければ、どんな話も成り立たないわけですから、そういう、当然の「悪」を「悪」と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょう?

 ※人間は、必ず何らかの「善・悪の基準」を「自明のこと」として、持ってい
  ると思いますね。
  それを持たないという人が居るんでしょうか?
  もし、「善・悪の基準」を持たない人が居るとしたら、
  その人は、何を基準に「思考」し、何を基準に「話す」のでしょうか?
  また、何の基準もなく「考えられたこと」を「思考」と呼べるのでしょうか?

また、それを言葉にして言わないことに、いったいどんな理由があるのでしょうか?

そんな風に聞きたくなってしまうわけなのです。




「長生き」が目標



今の自分の目標と言えば、取り敢えずは、「絵」を描くことで、次には「額」を作ることなんですけど、それとは別に、目標としているのが「長生き」なんですねぇ。

実際には、「それとは別に」と言うよりも「その前に」と言ってもいいくらいかもしれません。


これは、ここでも何度も書いているんですけど、「生きていること」っていうのが、唯一の「尊敬出来ること」なんじゃないのかなと思うんですよね。


でも、そうなると、みんな一応生きているわけですから、すべての人を「尊敬」しなきゃならなくなってしまうわけですけどね。


まぁ、そんなに厳密な意味ではないんですけど、「生きている」ってだけでも十分に「尊敬」に値するようなところもあるんじゃないかっていう気もするわけです。

まぁ、正直言えば、「尊敬」したくないなって人もいますけどね。


取り敢えず、何をどう言おうが、「存在している」っていうところが”スバラシイ”んじゃないの?って感じですね。


だから、これは「生きていること」に限らず、なんでも「そこに在る」ってことが、”スバラシイ”んじゃないかなと。

まぁ、そう思ったりしているわけですけど、そんな中でも、やっぱり「人間」ですから、「自分」に一番近い「人間」が「生きている」ってことが一番”スバラシイ”なって思っちゃうわけですね。


その上、さらに「長生き」ですから、『そりゃ、もう”スバラシイ”でしょ!』ということで、「目標」にしているわけですね。


まぁ、読んだ人は、何が”スバラシイ”なのかも、どうして「目標」なのかも、わからないかも知れませんけどね。


とにかく、どんなことでも「アル」って言うことが、始まりなんじゃないかと思うんですね。
「ナイ」って言うことからは、何も始められないんじゃないでしょうか?

取り敢えず、みんな「アル側」に居るわけですから、「ナイ側」の話からは、何も展開できないハズだと思うんですがどうなんでしょうね?


この「アル」を肯定することからすべてのことが生み出されているように思うんですね。

「アル」を否定したり、「ナイ」を肯定したりすると、最終的には、どこかで行き詰ってしまうよな気がしますね。
それでなければ、「ナニカをゴマカス」かになってしまうんじゃないでしょうか?


まぁ、「ナイ側」に居ないのに「ナイ側」の話をすることには、やや無理があるということだと思いますね。


ということで、

「生きること」=「アルこと」と

「死ぬこと」=「ナクナルこと」が、

人間にとって、最も「ゴマカシ」のない「事実」であって、

「自分」なんじゃないかと思うわけですね。


そこで、その「生きること」を長く続けることが出来れば、その毎日が、「自分の真実」ということなんじゃないかと思うわけです。
「死ぬこと」は、どっち道、一回しかできませんからね。


「ナイ側」の方は、「ナクナッテ」=「死んで」から考えればいいんじゃないのかなと。

『死んだら、考えられないでしょう!?』

『それなら、考えなくてイイってことなのかな?』


そんな風に思っているわけです。


「芸術とのかかわりが要求される社会」とは?



今の社会においては、「芸術」と言うモノは、誰でも自由に創作したり、しなかったり、また、誰でも自由に鑑賞したり、しなかったりするモノということに成っているわけですよね?


これは、一見すると、自由でいいようにも見えるんですが、こういう「自由」に、時として「疑問」を感じてしまうわけなのです。


何が言いたいのかと言うとですね。

要するに、「芸術」というモノは、人間にとっても社会にとっても必要不可欠なものだと思うわけです。
それを適当に『やってもやらなくてもいいですよ』なんて気軽に言ってもいいんだろうか?と思ってしまうわけなのです。


なにも、「芸術」に限った話ではないですけどね。
「哲学」も必要不可欠と言えるでしょうね。

もちろん、他にもたくさんそういう分野はありますが、この二つは、重要性とはあまりに裏腹に、軽視されていると言わざるを得ないでしょうね。

だとしたら、『やってもやらなくてもいいですよ』って”言っちゃダメ”なんじゃないかと思うんですけどどうなんでしょう?


少なくとも、日本の「教育」における「芸術」や「哲学」の占める位置は、あまりに、「適当」で「不均等」で「放任」ではないかと思うわけです。

たとえば、高校までは、「哲学」の授業なんてほとんどないでしょうし、「芸術」に関しても、極めて「適当」に扱われていて、『絵?描くなら描けば?』みたいな感じがあるのは否めないでしょう。

「音楽」についても、また、シカリですね。


私は、人間が社会の中で生きていくのに「最低限必要な芸術」や「最低限必要な哲学」というのがあると思うわけですね。

つまり、「社会的な道徳」や「最低限の法律的な知識」などと同じように、「最低限必要な芸術」や「最低限必要な哲学」もあるんじゃないかと思っているわけです。

そして、それが、ぜんぜん足りていないように思うということですね。


当然の結果として、現代社会には「芸術」も「哲学」もないモノが、あふれています。


実用的だけど、ちっとも人を幸せな気分にしないモノや、非常に効率的だけど、まったくもって美しくないモノや、なかなか”オサレ”だけど、人の心にゼンゼン響いてこないモノなど、一言で言ってしまえば、ドウッテことないモノですね。
(「オサレ」=「オシャレ」のオシャレじゃない言い方)

いや、そういうのだって、必要だと思います。
でも、そうでないものがあまりに少ないっていうのは問題だと思うわけです。


だから、もう少し、「一般的」・「平均的」・「義務的」に、人間の「芸術」や「哲学」とのかかわりを、社会が要求していった方がいいんじゃないかと思っているわけです。


最後の「義務的」と言うのに引っ掛かりを感じる人もいるでしょうが、「教育」だって「義務化」しているから、これだけ「均等性」を保っていられるわけで、「義務」でなかったら、つまり、「やってもやらなくてもいいですよ」と言っていたら、未だに、「読み書き」ができない人が居るというようなことに成ってしまうでしょう。


『それで何が悪いんだ?』と言われてしまえば、それまでですが、現にそうなったら、そう言っている人自身にも、何かしら「困ること」が出て来るというのも、また、現実なんじゃないでしょうか?


それと同じように、この「便利な文明社会」には、潜在化していて、見えにくくなっている「困ること」が、意外とたくさんあるように思うわけですね。

だからと言って、もちろん、みんな芸術家に成った方がイイと言う話ではなくてですよ。

むしろ、それとは逆で、「芸術」や「哲学」のようなものの知識を詰め込む必要なんて、まったくないと思います。
ただ、「芸術」とはどんなもので、どういう必要性があるのか?というようなことを学ぶこと、それから、「哲学」を通じて、「考えることを考える」と言うようなこと、そして、この二つがどういう風に社会の中で機能しているのかというようなことを知ること等は、好むと好まざるとに関わらず「文明化した社会」の中で生きるために必要不可欠な要素であって、それを「社会」の側から要求することは、そんなに悪いことでは無いような気がするんですがどうでしょうか?


でも、これは、あくまで「義務」ではあっても、「強制」とはチョット違いますから、それでも、『やらないよ』と言う人は、やらなくてもいいんじゃないかと思います。

それは、「教育」だって同じことでしょう。

ただ、「社会」の側が『やらなくても、やっても、どっちでもいいですよ』と言ってしまうのは、何らかの「放棄」を意味するだけなんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけですね。




「ブログの起承転結」



「ブログ」という文化(?)が生まれてから、どれぐらい経つんでしょうね。


私は、パソコンをいじり始めたのも、普通の人よりだいぶ遅い方だったし、いじれるようになってからも、この「ブログ」を始めるまでは、ほとんど「ブログ」を読んでいなかったので、その辺のところはよくわからないんですけど、世に出て来てから二十年前後、一般に普及してから十年前後と言うところなんでしょうか?

ということは、やっぱり、まだ歴史が浅いといえるんじゃないでしょうか?

だから、仕方がないことなのかもしれませんが、「モデル」がないんですね。
つまり、「ブログ」とはこんな風なモンだよ、という「モデル」ですね。


いや、「ブログ」の「形式」とか、「デザイン」とか「記事内容」とか、そういった話じゃないんですよ。
どちらかと言うと、「ブログの生涯」に当たることですね。

つまり、「ブログ」っていうのは、だいたい、こんな風に始まって、こんな風に展開していって、こんな風な終わり方をするモンなんだというような、「ブログの起承転結」に当たるモノが、まだ示されていないような気がするわけです。


他の方の「ブログ」を読むように成って、なんとなくわかりましたけど、「ブログ」を書いている人たちって、けっこうチャント書いてる人が多いような気がしますね。

人気がある「ブログ」でも、人気がない「ブログ」でも、今のところ、私はその辺にあまり差は感じませんね。


もちろん、書き始めてすぐにやめちゃう人なんかも多いんでしょうが、それはそれで、チャントやろうとした結果なんじゃないかなっていうような気がしてしまいますね。

とにかく、読んでいて、『この「ブログ」は嫌だな』っていう「ブログ」に当たったことは一度も無いと思います。
(当たってないだけなのかも知れませんけどね)
短い期間で、更新しなくなってしまった「ブログ」なんかでも好印象のモノはけっこうありますね。

その割に自分の「ブログ」が人から『嫌だな』って思われていることが、それなりにあるみたいなので、いつも悲しい気持ちでいますけどね。


それはともかくですね、皆さん「ブログ」に何かしらの可能性を感じて、始めるんじゃないかと思うわけです。


私の場合は、自分の「芸術に対する姿勢」を示して置きたかったんだと思っています。
だから、その「姿勢」は「芸術」をやって行く限り、変化しながらも生涯持ち続けていくことに成るでしょうが、それと、この「ブログ」を一生書き続けるというのはだいぶ違う話だとも思うわけですね。


いずれにしても、みなさん、それぞれに目的があって「ブログ」を始めるんだと思います。

それなのに、先行きがどうも不透明と言うか、これから自分の「ブログ」はどうなって行くのか?とか、あるいは、「ブログ」って、何時どんなふうにやめればいいんだろう?っていうような、展開や終末がよくわからないんじゃないかと思うわけです。


つまり、「起承転結」が見えないんですね。

そういうことで、やめてしまったりする人なんかも、結構多いんじゃないかと思うんですね。
『えー!?これ、死ぬまで書き続けなきゃいけないの?じゃあ、もういいわ!』みたいな感じですかね。

実際、結末みたいなものをハッキリと示した終わり方をしている「ブログ」は、今のところ見た記憶がないですね。
ナントナク終わってしまったんだろうな、と言うような感じで終わっていることが多いような気がします。

もしかしたら、また書くつもりなのかも知れませんけど、その時見た人にとっては「終わってるんだな」ということに成るでしょうし、その後、、書き始めたとしても、またその終わり方に成るんだととすれば、いつ「結末」がついているのかは、けっきょく、いつまでたってもわからないまま、ということになるわけです。


それに、今は、短い期間でやめてしまった「ブログ」は、なんとなく、価値が低いみたいな見方がされているような気がするんですけど、要するに、『根気がない!』とか『たいしてやる気なかったんでは?』みたいな感じですか?

でも、少ない記事でも内容のある「ブログ」だってあるでしょうし、長くやっているからと言って、それがすべてでもないんじゃないでしょうか?


確かに、日々更新され続けていくことは「ブログ」の特徴の一つだとは思いますが、『それだけでもないよな』とも思うわけですよね。
それに、『一生続けるっていうのも、どうなんでしょうね?』っていう感じもありますよね。


要するに、必ずしも「長く続けた」=「エライ」でもないでしょうし、「短い期間で終わった」=「ダメ」でもないと思うんですけど、どんなもんなんでしょうね?


そういう意味でも、「ブログの起承転結」についての「モデル」があると、私のような「閑古鳥ブログ」をやっている人間にとっては、ちょっとした救いに成るような気がします。


つまり、長く続けるにしても、そのうちいつかやめる時が来るにしても、そのパターンが「例」として示されていると、やや気が楽なわけですね。


だからと言って、それに乗っかって続けようとか、やめようとかって言うことでもないんですけどね。
まぁ、こういうパターンが普通っていうのがあると、少し安心なんですね。


例えばの話、書くことが無く成った時に、「ブツッ」って止めるっていうのはどうも気が進まないし、逆に、いつまでたっても書こうと思えば書けるから、なんとなく続けていくっていうのもどうかと思うわけですね。
(この「ブログ」には後者の傾向が出てきています)


今は、そのどちらかのパターンが多いような気がしますね。


私としては、ある程度の記事を書いたら、その「ブログ」に区切りをつけて、また、しばらくして書きたいことが出来たら、違う「ブログ」を立てるというのなんかもいいなと思うわけですね。

そういうやり方をしている人もいるんでしょうけど、私の場合、そうまでするほど、ネット関連にアクティブな方でもないんで、せいぜい、作品を展示する場所と、記事を書く場所を分けるぐらいでしょうか?


でも、今のところ、自分のスタイルを確立するのに手いっぱいで、作品の展示まで気が回らないし、『まぁ、このマンマなんとなく続けていれば、取り敢えずいいか?』と成ってしまうわけです。
(その前にデジカメとかも持ってないし、使い方もわかんないんですけどね)


その辺の「起承転結」をつける「型」があると、続けるにしても、どこかでやめるにしても、また、その「型」通りにやるにしても、「型」を破るにしても、何かしらのよりどころに成るんじゃないかと思うわけですね。


個人の「ブログ」って、書いている人の「人生」に密着しているので、「起承転結」がつけにくいんじゃないかと思うんですね。
極端に言うと、、『死なないとやめられない』みたいな、それで、やや「ダラダラ」な感じに成りがちなんじゃないかと思うわけです。


今はまだ、「ブログ」から、何らかの「利益」を得ている人の「ブログ」についての「型」しか示されていないと思うんですよね。

つまり、「利益」が無く成ったら「オシマイ」っていう「型」ですね。
「利益」が出ていれば「延々と続ける」って言う「型」でもあります。


でも、私は、「利益」と関係ない所で運営されている「ブログ」こそが、「ブログらしいブログ」なんじゃないかと思っていますから、それは、つまり「個人のブログ」って言うことに成るでしょうし、どちらかと言えば「カリスマ・ブログじゃないブログ」って言うことに成るでしょうから、

そちらの「型」=「モデル」も示されていてほしいなと思うわけです。


そんなわけで、できれば、FC2などのような「ブログ」を運営している会社の側で、そういう区切りをつけてくれるようなシステムがあるといいんじゃないの?と、都合のよいことを思ったりもするわけです。


つまり、一定の期間が過ぎたら新しい「ブログ」に乗り換えるように誘導するような仕組みとか、或は、一定の期間が過ぎた「ブログ」をそのまま続ける場合は、有料に成るとかですね。

新しい「ブログ」にすることでまた無料期間が延長されるという感じですね。


そんなことで、「ブログ」の世界が新鮮さを保てるということもあるんじゃないかと思うわけです。

それに、その「区切り」でやめた人なんかも、「どこか後ろめたい感じ」みたいなものを持たないでやめることが出来るんじゃないかと思います。


そして、その「区切り」まで、ある程度のペースで更新を続けた「ブログ」が、つまり、「無事終末を迎えたブログ」がですね、もう少し「残されていく」ようなシステムがあるといいんじゃないかとも思いますね。

今は、子供のおもちゃ箱のように、どんどん放り込まれていくだけなので、『残っていても、残らない』みたいになってるような気がします。
と、さらに都合のよいことを思ったりもするわけですね。


そういうことで、「ブログ」と言うメディアが実体として、確かなものになって行くんじゃないかと思うわけですね。


今は、「ブログ」から利益を得ている人以外では、「ブログ」っていうものが無く成って、すごく困る人も、すごく寂しいと思う人も少ないような気がしますね。
(なくなれば寂しいんでしょうが、すぐ慣れてしまう人の方が多いような気がしますね)

つまり、実体感が、やや希薄なんですね。


こんなこと言ったら怒られるのかもしれませんけど、一部の人を除いては、『あるから、やってる』みたいな感じですか?
そういう人が結構多いんじゃないかと思いますね。
(私はそういうところがありますね)


「ブログの起承転結」についての「モデル」が示されると、その辺の目的意識が、もう少し見えてくるんじゃないかなと。


そういう風に思いますね。



「迷わずに迷う」ということ



このブログでも何度か書いていることなんですけど、「迷うこと」は、「芸術」と根本的に関わりがあることなんじゃないかと思っているわけです。


そういう「迷い」ですから、そこに「躊躇」があってはいけないと思うわけですけど、「迷い」なのに、「迷ってはいけない」ということに成ると、どうすればいいんだ?と言うことに成るわけです。

でも、これは、そんなに複雑なことでもなくて、もともと「迷い」は、自然に発生するものですから、とくに「迷おうとする」必要もないし、「迷い」自体を追究する必要も全く無いわけです。

追究することは、ほかにあって、それを追究していると、どこかで必ず「迷い」が発生してくるということでしょう。

それを、敢えて排除しなくてもいいんじゃないか?というだけのことですね。
その『あえて、排除しない』という部分を『迷わずに』と言っているわけです。


そういう意味で「迷わずに迷う」ということを考えているわけですが、これは、『「迷うこと」が、「芸術」に置いて唯一の「迷わずにできること」である』と言い換えることもできるわけです。


「芸術」に置いては、「ナニカを追究すること」が求められると思っていますから、何を追究するかは、人それぞれなんでしょうが、必ず、ナニカは追究しなければならないんだと思っています。

そして、人間がナニカを追究すれば、必ず「迷い」が発生するんだと思うわけです。


そんな中で、「迷いがあってはならない」などと言うように、「迷い」を「マイナス方向の要素」として考えてしまうと、「迷わずにできること」が無く成ってしまうわけです。


「芸術」→「追究」→「迷い」と言う、必須の方程式の中で創作することから逃れられないのだとすれば、「迷い」は「脱出するべきもの」ではなく、「そこに留まり続けるべきもの」なんだと思うのです。

たとえ、一時的に「迷い」を「脱出」したとしても、必ず、また「迷い」は発生してきますから、「脱出すること」に力を使い果たしてしまうよりも、「追究」と「迷い」の繰り返しこそが「芸術」の本質であるということを認めて、そこに留まるという決断もあっていいんじゃないかと思うわけですね。


それ以前に、「迷い」無くして創作されたモノよりも、「迷い」の中から生み出されたモノの方が、必ずや、深い位置に行き着けるということもあるんだと思っております。


さらに言えば、「迷い」が現れているモノは、必ずや「美しいモノ」であると、「迷い」無く”描き割り”された「スバラシイ絵」などに何の「芸術的な意味」があるのかと。

そんな風に言いたいわけなのです。


「イイ・ワルイ」ということではなく、『それが、芸術の中心に近い所にあると言えるのか?』ということですね。


まぁ、あくまで、自分に対して言っているわけですけどね。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR