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絵画空間における「ユガミ」



「ユガミ」のある絵が好きなんですねぇ、私は。

ナゼなんでしょうかね?わかりませんねぇ。


取り敢えず、完璧に描かれた絵もイイとは思いますけど、その「完璧」の中に「ユガミ」はないかと探してしまいますねぇ。
そして、それを見つけられたときには、その絵がより一層好きになるという感じですね。


「ユガミ」って、描いた人の「一番の特徴」なんじゃないかと思うんですよね。
だから、「ユガミ」のある絵を見ると、その人が、そこにいるような気がするんですね。


それが「技術的」な中での「ユガミ」なのか、単なる「ユガミ」なのかは、ともかくとして、「ユガミ」っていうのは、「下手」っていうのとはチョット違うと思うんですよね。


上手い人の「ユガミ」にも、上手くない人の「ユガミ」にも、共通の「ナニカ」があって、それで、それを「ユガミ」と感じるんじゃないかと思うんですよね。


たとえば、人間の顔を書くときに、上手い人が描くと、「ユガミ」のない顔に成りますが、下手な人が描けば「ユガミまくり」の顔に成ります。


でも、だからと言って、「ユガミ」=「下手」ではなくて、要するに、上手い人は「ユガミが少ない」ということに過ぎなくて、下手な人は「ユガミが多い」というだけのことなわけです。

そして、「ユガミ」においては、その「量」ではなくて、「質」が問題なんだと思うのです。


だから、「ユガミが多い下手な絵」か、「ユガミが少ない上手い絵」か、ということよりも、その「ユガミ」に、どれだけ「描いた人」が現れているか、ということが大事なんではないかと思うわけです。


そういうことですから、当然、「上手い人」が、無理して”下手っぽく”しても意味はないでしょうし、「下手な人」が、表面的な”上手さ”を追っても「いいユガミ」にはならないでしょう。

むしろ逆で、本当の「自分らしさ」を隠してしまうような「ナニカ」を排除していくことが大切なんじゃないかなと。
たとえ、それが、人から褒められるような「技術」であったとしても、それが自分らしいものでないならば、ということですね。

その結果出てきた「ユガミ」こそが、「いいユガミ」なんだと思うわけです。


そして、それは必ずしも、本人にとって気持ちのいいモノとは限らないということもあるわけです。
それで、どうしても隠したくなりますから、無理して「技術」を使ったりして、ゴマカシテしまうわけですね。

その方が、たいてい、人から褒められます。

でも、それは、その人がその絵を「イイ!」と思ったからではなくて、『このくらい上手く描いてあるんだから、褒めないと失礼かな?』とか、『こんなに上手に描かれているんだから”ウマイ”と言わないと、自分の方が恥をかくかも?』なんて言う風に思っただけということも多いわけです。

あとは、ただ単に「技術力」に圧倒されてしまったというパターンも多いですね。
「技術」に隠されて「芸術」が見えにくくなってしまうということですね。


じつは、人間は、「上手さ」よりも、「ユガミ」に惹きつけられる性質があると思いますね。


少なくとも、「上手さ」に惹きつけられているのは、その人の「後天的な部分」で、「ユガミ」に惹きつけられているのは、その人の「先天的な部分」と言っていいんじゃないかと思います。


言い換えれば、「後天的な部分」=「社会的な部分」「先天的な部分」=「個人的な部分」とも言えますね。
「個人的な部分」は「本能に近い部分」と言った方がいいかもしれませんね。


「芸術」においては、どっちが大切でしょうね?


人それぞれだとは思いますけど、私は、どうしても「個人的」で「本能的」なモノを求めてしまいますねぇ。


そういうわけで、

『ユガミのある絵が好きです』

ええ、それだけです。

『でも、ウネリも好き!』

ええ、似たようなモンです。

『でも、ヒネリは嫌い!!』

とまでは言わないけれど、好きではない!



「芸術における不満」



「不満」と言うと、いいイメージがないかも知れませんけど、じつは「不満」は、何かを追究するうえで、絶対に必要なモノと言っても過言ではないと思うのです。

 ※ここで言う「不満」は、「自分に対する不満」ということですね。
  社会や人など「自分以外に対する不満」は、これとは違うと思います。


「芸術」などにおいて、何かを追究することを考えた場合、「満足」と「不満」だったら、絶対的に「不満」の方が有効なんじゃないでしょうか?


人間と言うのは、やっぱり怠惰なもので、「満足」してしまうと、それ以上やらなくなってしまうと思うわけです。
「不満」があるからこそ、自分を叱咤激励できるんだと思います。

もちろん、そんなことしなくたって、自分に厳しくできる人もいるんでしょうが、私にはちょっと無理みたいなので、やっぱり「不満」が必要に成るわけです。


と言っても、必要だから、わざわざ「不満」を創り出そうというわけではないですけどね。
そんなことしなくたって、自分のすることにはいつも「不満」がありますから、「不満」には事欠きませんね。


何をしていたって、「不満」はありますね。
ただ、出来れば、その「不満」を生かしていきたいもんですけどね。

最近の風潮として、「不満」を持つことを「負の要素」として捉える傾向があるような気がするんですけど、実際は、「満足」してしまえば、そこでオシマイなんじゃないかと思いますね。

要するに、「不満」をどうつなげていくかということが問題なんだと思います。
「満足」は、その時はいいかもしれませんが、先につながるものがないという気がしますね。


現状に満足するというのが、「イイコト」なんだとしたら、みんなやってると思うんですね。
やっぱり、それじゃ何も生み出されないということで、「不満」を持つようになるんじゃないかと思います。


「満足すること」っていうのは、要するに「止まること」なんだと思うわけです。
だから、動きたい人は、「満足」しないでいた方がイイように思いますね。

もちろん、「止まること」が悪いということは無いと思いますけど、良いということもないと思います。


少なくとも、何かをするということを前提に考えた場合、「満足」して止まってしまうと、何もしなくなるのかなと。


そんなわけで、「不満」があってもいいじゃないかと。


『今日描いた絵なんて、もう最悪!』

『でも、その不満が、最高!!』


『そう、そう!そういう感じ。いいよ、いいよぉー!!』

自画自賛じゃなくて、自画不満。

・・・・っていう。




「芸術」に必要な「環境」



「芸術」を専門的にやってみようと思ったら、「環境」を整える必要があると思うわけです。

 ※ここで言う「専門的に」というのは、別に、「職業的に」ということではありません。
  「専門性」と「収入を得るための職業」は、一致しないと思っています。
  収入がなくても「専門性」が高い人は、それなりに居ると思いますし、収入を得て
  やっている人でも、「専門性レベル・中」ぐらいの人は、たくさんいらっしゃいます。

私の場合、三年ほど前までは、作品を制作するための「環境」が、全くと言っていいほど無かったんですが、『そんな中で、制作なんてできるわけないわ!』って言うことが、ある程度の「環境」を揃えてみて、初めてわかったという次第でございます。

まぁ、それ以前に『自分の作品を創ろう!』と言う意識も薄かったんですけどね。


『そういうのは、環境を言い訳にしているだけなんだよ』と言う人が居ますけど(私自身もそんな風に考えていたと思います)、そうでもないと思いますよ。


まぁ、学生とか、美大出たての人なんかだったら「イキオイでイケル」のかも知れませんけど、一度社会に出た人間が、『チョット本気で芸術でもやってみようか?』となった時には、どうしても「環境」を整える必要が出て来ると思います。

特に、「芸術畑」の出身でもない人間が、「芸術の世界」に入って行こうとする場合、『そういうのは、環境を言い訳にしているだけなんだよ』とか、『そんなに準備ばかりしていないで、作品を作ったら?』なんて言われても、いっさい気にしないで、初めの段階で、「環境」を整えるのに、時間と労力を使うべきだと思いますね。

もともと、「芸術」にかかわりのある立場に居たり、かつて、そういう立場にいたことがある人たちは(たとえば、「親が美術関係」とか「元美大生」と言うだけでもですね)、自分たちが知らず知らずのうちに、そういう「環境」を誰かから与えられていたり、自分で、そういう「環境」を、ある程度時間をかけて作り出していることに気が付いていないだけです。
だから、悪気で言っているんじゃないと思いますけど、ゼンゼン気にすることも無いと思いますね。


要するに、「環境」がないと、非常に消耗するんですね。
それで『もう、やってらんないわ!』になってしまうわけです。


「環境」を整えるのにも、かなり消耗しますが、「環境」の無い中で制作し続けるのは、不可能に近いと思います。


特別な「環境」を必要としない表現形態だったとしても、最低限の「制作スペース」や「道具類」と作品や道具の「保管場所」ぐらいは必要になってくるわけで、そういう「環境」がない中で、無理に制作を続けようとすれば、どうしても、なし崩し的に中途半端な創作姿勢が身について行ってしまうような気がします。


それよりは、はじめの段階で、少し大変かもしれませんが、「創作のための環境」を整えるのに力を使ってみる価値はあると思うわけです。

それに、「環境」を整えると引っ込みがつかなくなるっていうのもありますね。
これは、やや「邪道」かも知れませんけど、「言い訳」ができない状況を作ることも必要だと思いますね。

逆に言うと、「環境」があると、ある程度「ボー」っとしててもなんとなく「制作する習慣」が出来てきますね。


「外の世界」から「芸術の世界」に入って行くことは、けっこう”メンドクサイ”ことだと思います。
本当は、もうチョット、”メンドクサクなく”誰でも「芸術の世界」に入っていければいいと思うのですが、今は、そういう風にはなっていませんね。

なんとなく、手軽な手法で始めてしまうと、そこで終わってしまうのかなと思います。

 ※これも、よく言われることなんですけど、『取り敢えず手近なところから始
  めたらどうです?』っていうやつですね。
  気楽な気持ちで『ちょっとやってみようかな?』と言う場合は、それもいい
  でしょうが、本気でやりたいなら、そういうのも”丁重に無視”させていただ
  いていいんじゃないかと思いますね。

とにかく、自分が一番やりたいことをやれるような「環境」を作ることをおススメいたしますね。

まぁ、それが、たまたま「環境」を必要としないモノだったという人は、幸運なんでしょうが、まったく「環境」を必要としない「芸術」は非常に限られていると思います。


そこで、「外の世界」から、「芸術の世界」に入って行くときに、必要な「最低限の環境」を考えてみました。
(本当は、外も内もないんだと思いますけどね、そう言ってると、できないように成ってるんですね)

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【制作スペース】

場所がないと始まりませんね。
出来るだけ「制作専用の場所」があった方がイイですね。
出来れば、狭くても一部屋あった方がイイですが、部屋の中の一角だとしても、仕切りのようなもので区切るとか、そう言う工夫は必要かもしれませんね。

こういうことが大事だと思いますね。
「制作のための専用の環境」をもつことで、しっかりした態度で制作しようという姿勢が持てるようになるんだと思います。
私の場合、ワンルーム・マンションに住んでましたので、そのために一軒家に引っ越しました。
何かをあきらめて探せば、きっと安い物件はあると思いますよ。

【画架(イーゼル)】

これは絵を描く場合に限ってですけど、イーゼルはしっかりしたものでないと、後々、不便が出て来ることも多いので、大きくてしっかりしたものがあるといいですね。
少なくとも、絵を上下からしっかり固定できるものがいいと思います。
イーゼルは大きければ大きいほどいいと思っています。
欲を言えば、水平にできるものがいいですね。

私は、市販のモノで最も大きいものよりも、さらに一回り大きいものを自作しましたが、主に、20号程度までの絵を描いているのにも関わらず、その大きさで正解だったと思っています。
ちなみに、イーゼルの制作だけで、一か月以上かかりました。
(『あせらない、あせらない』と言うのは無理ですけどね。私はアホなので大丈夫でした)
      
【道具類とその保管場所】

これが意外と場所を取ります。
私の場合、額や木枠を作ったりしているので、工具などで、さらに場所をとっていますが、絵の道具類とイーゼルだけでも、たたみ一畳分ぐらいは必要だと思います。
油絵の場合、それプラス制作スペースで、たたみ三畳分くらいは欲しいでしょうね。

【作品の保管場所】

私は、たくさんの作品を同時期に制作したことがなかったので、考えたことがなかったんですが、油絵の場合だと、かなりのスペースを必要とします。(乾くのにも時間がかかるので)
しかも、油絵具が乾くまで重ねることが出来ませんから(乾いても重ねたくないですけどね)、かなり工夫が必要です。

私の場合、和室の押し入れを改造して、奥の壁にベニヤを固定して、そこに小さなエル・アングルを接着剤で接着して、それにキャンバス(木枠)の一辺のハジッコを挟むようにして、立てて保管できるようにしています。(震度4くらいの地震でも、今のところ倒れたりはしていません)
自作の木枠が、市販品よりもやや薄いこともあって、押し入れの一段に約60枚まで保管(30号ぐらい)できるように成っています。

その他に、「床の間」を改造して、絵を水平にして15枚(小さいサイズならもっと)ほど保管できる、棚のようなものも作りました。制作中の絵はここにおいています。
ここは、下の部分を道具置き場としても使っています。

【作業台】  

これは、私が「額」や「木枠」を制作しているために必要なモノですが、何かにつけて作業台があると便利ですし、無いと不便かも知れませんね。
立体作品を創りたい人には不可欠だと思います。

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最低限必要なモノだけでも、このくらいはあるという感じですね。
確かに、お金もかかりますし、手間もかかりますね。

私の場合、お金がないこともあって、これらほとんどを自作したので、『簡単ですよ』なんて言えないです。
道具類の自作も含めて、約半年くらいはかかっていると思います。

でも、この環境がまったくなくて『「気持ち」だけで、作品が創れるのか?』と言われたら、かなり厳しいですね。
短期間ならいけるでしょうが、たくさんの作品を制作するのは、まず無理でしょう。
まぁ、私の場合ってことですけどね。

もちろん、そんなこと気にもしないで「イケチャウ人」もいるんだと思います。
でも、少なくとも、「環境」がないっていうことから「なし崩し」になってしまう人は、それ以上に多いんじゃないかと思いますね。


まぁ、非常に人気ウスなこのブログに限って、そんなこともないと思いますけど、万が一、『専門的に芸術でもやってみようかな』と思っている方が、このブログを見るなんて言う奇遇なことがあれば、とにかく「環境を整えること」をおススメいたします。


いまのところ、私にもできていますから、『あなたにもきっとできますよ!』
でも、それでもできなかったら、『ゴメンネ!』

でも、そんな「経験」でも、一所懸命にやったことは、きっと何かの役に立つんじゃないかと思いますよ。
少なくとも、ナントナク始めて、ナントナク止めちゃったっていうよりは、「経験」としての重さはあるんじゃないかと思います。


そういうわけで、『環境を整えることをおススメいたします』

ソントク抜きでやってみようという方が居らっしゃればってことですけどね。



「抽象の幅」



「抽象表現」について、ナントナクその「抽象度」で種類を分けているような気がするんですがどうなんでしょう?


要するに、「すごくワケノワカラナイヤツ」と「すこしワケノワカラナイヤツ」みたいな感じで、あまり意味のない分け方をされていることが多いような気がするわけですね。


でも、実際には、「芸術表現」は、本来すべて「抽象と具象の間」にあるわけで、全てが、どこかしら「ワケノワカラナイヤツ」なわけですから、それを言ってもあまり意味がないんじゃないかと思ってしまうわけなのです。

むしろ、大事なのは、『その人がどのような「抽象性」を求めているのか?』とか、『”ナゼ”そこに「抽象表現」を使うのか?』と言うような方向性なんじゃないかと思うわけです。


過去において、そうした方向性を含めた「抽象表現の種類」について、あまりにも理論だけが先行して、実際の作品の方向性とは無関係に独り歩きしてしまったこともあり、現在においては、そういったことを論じるための「源」となるようなエネルギーが無く成ってしまったんだと思います。

しかし、だからこそ、そこのところを乗り越えていかないと、前に進めなくなっていることも事実なわけで、そこは、やっぱり真面目にやっていかないとダメなんじゃないの?と思うわけですね。


まず、すべての「表現」が「具象」と「抽象」の間にあるとすれば、「抽象表現」の幅は、かなり広いということに成りますね。
つまり、全ての「表現」には、多少の「抽象性」が含まれているということに成るわけです。

もちろん「具象性」も必ず含まれているということに成りますね。


その「抽象性」をほとんど意識せずに見ることが出来るようなものを、「具象」と呼んでいると言ってもいいんじゃないでしょうか?
その逆に、「抽象性」を意識せずには見られないようなものを「抽象」と呼んでいるわけですね。

そして、「具象性」をほとんど感じることが出来ないようなものを「抽象」の中でも、とくに「完全抽象」と言ったりしていて、「具象性」も感じることが出来て、尚且つ、「抽象性」も感じるようなものを、、「半抽象」と言ったりしているという感じでしょうか?


「半抽象」と言われるものについては、「抽象寄りな人たち」に言わせると、「そういうのは、抽象ではなくて、抽象的な具象でしょ」と言われる傾向があり、逆に、「具象寄りな人たち」に言わせれば、「それだって、やっぱり抽象の一種なんじゃないの?だって、具象としてはリアリティに欠けるでしょ」ということに成ってしまうわけなのです。

でも、実際は、それを言っている人たちのやっていることも、「抽象」と「具象」の間と言う意味では、「半抽象」と言えなくもないんじゃないかと思うわけです。


もちろん、こういう段階的な分け方もあっていいと思いますし、場合によっては、必要な分類なんだと思いますけど、この段階的な分け方のほかに、もう少し違った分け方もあっていいんじゃないかと思うわけです。

つまり、「現実に存在するナニカ」を”写し取ること”の「度合い」で区分するのではなく、、「そのナニカ」を”写し取らないこと”の「目的」で区別するということですね。


本来ならば、”写し取ること”の「目的」についても論じられるべきなんでしょうが、現実に存在しているモノには、議論を差し挟む余地がないほどの「必然性」があるので、あえて、それを論じるほどのこともないということなんでしょう。

逆に言えば、”写し取らないこと”の方は、敢えて、その「必然性」を無視するわけですから、より一層ハッキリした「目的意識」がないと、単なる「奇をてらったモノ」になってしまうということです。


要するに、その「抽象表現」が、”何のために”使われているのか?と言う分類が、もう少し明示されてもいいんじゃないのか?ということですね。


たとえば、「具象」と言う限られた枠組みから解放されたかったとか、現実にはないもので、どうしても描きたいものがあったとか、ほとんど「具象」でいいんだけど、もう少しナニカを加えたかったとか、その「目的」=「何のために」は、人それぞれなんでしょうが、そういう「何のために」で、分類するということは、もう少し行われていいんじゃないかと思いますね。


その辺ところが、一人一人の作家で少しづつ違うから、カテゴライズしにくいんだと思いますけど、実際は人間のやることはどこか「パターン化」しているわけで、ある程度、分けることは可能だと思うわけです。


こういうことが、あまり根気よくは行われないために、「抽象芸術」が、見る側にとっては不親切なものになっているんじゃないかと思うわけです。


最近は、昔ほど「抽象表現」を、毛嫌いする人は多くはないのかも知れませんが、実際の所としては、よくわからないままに、”丸呑み”させられたという感じもなくはないんじゃないでしょうか?


本当は、『「抽象」なんてワケノワカラナイモノは、嫌いだ!』と言いたくても、そう言ってしまうと、「洗練されたものごとが理解できないヤツ」だと思われてしまうので、取り敢えず「ワカッタフリ」、をしている人がほとんどだと思います。

『そんなヒネクレタものの見方をする必要はないだろ』と言う人もいるでしょうが、むしろ、「誰にでもわかるように説明されていないモノ」が、いつの間にか、みんなワカッテイルということの方が、よっぽど不自然なことなんじゃないかと思うわけです。


こういう「最低限の理解」と「その作品を完全に理解すること」が混同されていると思います。

ナニカにつけて、『芸術なんて理解するものじゃないんだから、好きか嫌いかで十分だろう』と言うような、「チカラズク理論」が多すぎると思うわけですね。


もともと「抽象表現」全体としての目的は、物事の「本質を抽出して現すこと」なんだと思うわけです。
だから、その人が、とくに何を「抽出」したかったのか?ということが、

この場合の「何のために」に当たることなんだと思うのです。


その「抽象表現」が、何を「抽出」しようとした結果であるのか?ということが解れば、見る側の人は、その「抽象芸術」を判断し易くなるんじゃないかと思うわけです。


『パッと見て、好きか嫌いか、それでいいんだよ!』と言われればそうなのかも知れませんけど、それは、英語が理解できないのに、英語で書かれた本を好きか嫌いか、見ただけで判断しろと言われているのに近いことだと思うわけです。

やっぱり、日本語訳が出版されて、初めて一般に理解されるのが普通ですよね。


これは、必ずしも「芸術」をムズカシイ理論で説明しようということではなく、『意味なんて無いですよぉ~』と言うのはやめたほうがいいんじゃないか?と言うだけのことです。

要するに「超・ムズカシイ理論」と『意味なんて無いですよぉ~』のどちらかで、その中間がないのは、おかしいんじゃないですか?ということですね。


こういう風に考えると、「抽象芸術」には、見る側に対してやや不親切な面があるということは、否めない所なんじゃないかと思うのですがどうでしょうか?


こういうカテゴライズを嫌う人もいるでしょうが、必要な区分や説明ならば、あってもいいんじゃないのかなと。
理解し易く成るなら、イイんじゃないですか?

かえって理解できなくなるような説明が、あまりにも多いということが問題なんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「言語の領域」が「本能の領域」を超えようとしている?



人間には「本能」と「理性」と言う拮抗する二つの領域があるということに成っていますが、実際には、その二つは分けることが出来ないもので、どこからが「本能」で、どこからが「理性」なのかは、誰にも線を引くことは出来ないんだと思うわけです。


そんな中で、もし仮に、この二つの領域に「境界線」があるとしての話ですが、人間にとっての「理性」に当たる「言語の領域」が、人間にとっての「本能の領域」を圧倒して、その「境界線」を越境しようとしているように感じることがあるわけです。


言い換えるならば、「理性」が「本能」の領域に食い込んできているということですね。

つまり、「言語の領域」が人間にとって、必要不可欠になり、さらに、無意識の領域に成りつつあるということです。

と言っても、もちろん人間は、教えられなければ「言語」を話せるようにはなりませんから、無意識とも言い切れないわけですが、少なくとも、親がしゃべっているのを聞いているだけで、ほとんどの人が言葉を覚えてしまいますし、覚えた後は、放っておいてもけっこう小難しいことを言い出だすように成るわけですから、かなり無意識に近いと言えるでしょう。


つまり、「言語」自体は「本能的」なものでないとしても、「言語」を与えられたうえでの「言語を使った思考」については、かなり「本能的」と言ってもいいような気がします。


実際、『考えるな!』と言われても、なかなか「考えないでいること」などできないモノですよね。
要するに、それくらい『無意識でやっている』ということなんじゃないでしょうか?

つまり、「言葉を話すこと」や「言葉で考えること」が、「人間の本能の一つ」に成りつつあると言ってもいいような気がするわけです。


そして、これは単なる「言語の領域」だけの問題ではなくて、その「言語」から派生しているあらゆる「思考」を含んだ話に成りますから、人間の精神活動の大部分が含まれると言ってもいいんじゃないでしょうか?

実際、人間の精神的な活動は「言語」を通して行われていることが多いでしょう。
逆に、「言語」を通さずに、何かの精神的な活動をしろと言われても、なかなか、できるものではありませんよね。


たとえば「芸術」や「音楽」には「言葉はいらない」なんて言われますけど、その「芸術」や「音楽」だって、まったく言葉を介さずに生み出されることはむしろ稀で、何らかの「言語的思考」の上に立って生み出されていることが多いんだと思いますね。
(これは「芸術の鑑賞」にも言えることだと思います)

それを、否定する人もいるかもしれませんけど、その人は、それを否定するにも「言語」を使わなければならないわけでしょうから、
「言語」から逃れているともいえないし、それを言うことにあまり意味も無いような気もします。


まぁ、要するに、それだけ「言語の領域」が、人間の精神活動に密着しているということだけは言えるんじゃないかと思いますね。


そして、その「言語の領域」が「本能の領域」に食い込んできているということは、もはや「純粋な本能の領域」と言えるものは、存在するのだろうか?と思ってしまうわけなのです。

つまり、本来ならば「本能」と対極にある「理性」を構築するための基本アイテムである「言語」が、「本能の領域」にクロスオーバーするということは、しかも、その「言語」が人間のほとんどの精神活動に関わっているということは、旧来の考え方で言うところの「本能」と言い切れるようなものが、無く成りつつあるということに成るわけです。


たとえば、人間には「性欲」と言う「本能」があるわけですけど、そこに「愛情」と言う「言語」が関わると、それが「純粋な本能」と言い切れなくなってきますし、さらに、「異性をゲットすること」を『ステータスとして捉える』というような、「性欲の言語化」に当たることが関係してくると、もはや、それは「純粋な本能ではない」と言わざるを得ないような気がします。


もちろん「愛情」も「ステータス欲求」も本能的なものだとも言えるわけですけど、そこには、かなり本能的ではない部分も関係しているということですね。

まして、そこに「ソントク勘定」のようなものや、その逆に「ソントク抜きの理性的な行い」が入ってくると、それは、「言語化」されていると言ってもいいんじゃないかと思うわけです。


結果的に、現在「純粋な性欲」ってあるんでしょうか?ということなわけです。
つまり、「ソントク勘定」や「ソントク抜き」が一切かかわらない「性欲」ですね。

そういう「性欲」ってごく普通に一般的な知識を持っている人にあり得るんでしょうか?
また、そういう「ムキダシの性欲」をもって生活していて、「性犯罪」などを犯さないでいられるものなんでしょうか?


「法」も一種の「言語」ですから、「法」を守って「犯罪」を犯さないということは、その「行い」は「言語化」されている、つまり、「それは純粋な本能ではない」と言えると思うんですがどうなんでしょう?

他の動物を見れば明らかなことですけど、人間だって、「法律」とか「道徳」と言う「言語」による拘束が全くなければ、異性に対して「性欲」を感じた時、当然、少しくらい強引にでも「性行為」に及ぼうとするでしょうし、それは、動物としてごく自然なことでしょう。


さて、そこで「どちらが人間の本質に近いことなんでしょうね?」ということになるわけです。


「本能」の赴くままに、「強姦魔」になることと、「言語化された理性」に従って、「性欲」も「理性的」に使用することと、どちらの方が、現在形の「人間の本能」に成るんでしょうか?


「性欲」が、間違いなく「本能」だとしても、「強姦」は、間違いなく「本能」だとまでは言えないんじゃないでしょうか?


人間以外の動物においては、それは間違いなく「本能」だと言えると思うわけです。
チガウのは、「強姦」と言う「言語」を持っているかどうかと言う点だけですね。

つまり、人間の場合、その分だけ「本能の領域」が「言語の領域」に食い込まれているわけです。


現在の人間においては、必ずしも、「強姦」=「自然な行い」=「本能的」でもないし、「理性的な性欲」=「不自然な行い」=「本能から遠い」でも無いような気がしますね。

むしろ、「理性」を一切含まない行為が「不自然」に見えることの方が多いんじゃないでしょうか?


要するに、それだけ人間が、「理性」を体得しつつあるということなんだと思います。


ただ、このことがあまり認識されていないために、「本能の領域」と「言語の領域」が融合できないことがとても多いように思うわけです。


既に、人間にとって、「理性」は「楽しむもの」に成りつつあると思いますし、それは「本能的な欲求」をしのいで、十分に余りある段階に達しているような気もするんですが、そのことが、あまり理解されていないために、いろいろなことが、「本能」と「理性」の二者択一であるかのようになってしまっているわけです。


実際には、もう人間はその位置に立っては居なくて、「純粋な本能」でも「純粋な理性」でもない、その二つを融合した「新たな領域」に立って居るんじゃないかと思うわけです。


そんな考え方をしていくと、「理性」=「ガマン」でもないし、「理性」=「本能の抑圧」でもなくて、「本能」=「抑圧からの解放」でも、「本能」=「自然」でもないわけで、その二つの間で、さまようことこそ、現在の人間にとって、「最も開放的な行為」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



『もう「一つのスタイル」では生きていけない?』



人には、それぞれ生きていく「スタイル」みたいなのが、あるんじゃないかと思うわけなんですね。

そして、その「スタイル」が、昔は一つで良かったように思うのですが、今は、一つでは足りなくなってきているんじゃないかと思うわけです。


たとえば、終身雇用制が崩壊しつつある中で(もう完全に崩壊している?)、意に反した転職を余儀なくされている人も多いと思いますし、会社や職業は同じでも、微妙に業務形態が変わってしまたり、また、技術職の人にも「営業努力」が求められるように成ったりと、本人が、もともと選択した「スタイル」の範囲では、カバーしきれないような「生き方」が必要になっているというケースは少なくないんじゃないかと思います。


でも、「生き方」に関する「スタイル」と言うのは、その人の「人生哲学」でもあり、「考え方の中心」になっている部分なんじゃないかと思うわけです。

その「スタイル」を、その時々の状況に応じて、いろいろと使い分けるというのは、その人の中身を、まるごと入れ替えるというのに近いようなことですから、そう簡単にできることでも無いんじゃないかと思うのです。

少なくとも、それができる人とできない人とに分かれてしまうことだけは間違いないことでしょう。


そんな状況の中で、その「スタイルの変換」を、「イイ転機」だと捉えている人も少なくはないと思いますけど、その考え方に、やや無理があるケースも、また少なくないような気がするわけなのです。


本当のことを言えば、やはり、人間の「スタイル」と言うのは、一貫性を持った「一つのスタイル」であるハズなんじゃないのかなと思うわけです。

少なくとも、周りの状況に合わせて、簡単に変えられてしまうようなものでも無いような気がするんですね。


そんな中で、自分の「本来のスタイル」を捨てて、「不慣れなスタイル」で生きていくことを余儀なくされている人も、結構いらっしゃるんじゃないかと思うわけですが、そういう人たちは、「不慣れなスタイル」に転換したところから、少し頭を切り替える必要があるような気がするわけですね。


要するに、「仕事」でも「生活」でも、なんでもそうですが、その「不慣れなスタイル」に慣れようとするよりも、それを、自分の人生の中での「主」に置くことをやめてしまえばいいような気がするんですね。

つまり、「仕事」が「主」だった人でも、「仕事」において、その手の変換を余儀なくされたときには、「仕事」を「主」から外して、「副」にした方がいいんじゃないかと思うわけです。


他のことを「主」に設定するにしろ、しないにしろ、取り敢えず「仕事」を「主」からは外してしまったほうがいいんじゃないかと思うわけですね。

そこで、ほとんどの人が、「主」に設定するようなものが思いつかずに、ナントナクそのまま「仕事」を「主」にとどめてしまうんじゃないかと思うんですがどうなんでしょうか?

そうすると、どうしても「不慣れなスタイル」の中でキュークツな思いをする羽目に成るような気がします。
そうではなくて、変わるものが何もなくてもいいから、取り敢えず、そこを切り替えてしまった方がイイと思うわけですね。


要するに、「仕事」を「どうでもいいモノ」の一つに混ぜてしまうということですね。

これは、「仕事」に限ったことでも無くて、生活形態なんかでも、同じだと思うわけですね。


たとえば、「専業主婦」や「主婦業メイン」の人なんかでも、最近の社会的な状況では、「仕事メイン」にチェンジするケースも増えていると思いますけど、そうなったときには、ちょっと頭を切り替えて、「手抜き主婦」に成ったほうがいいような気がするということですね。


要するに、男性では「仕事」、女性だと「子育て」と「主婦業」と言うのが、なかなか捨てられないモノの典型だと思うわけですね。


それらを、捨てたり、いい加減にしたりすることで、自己のアイデンティティを失ってしまうような気がするんだと思います。


そういう「喪失感」にいたたまれなく成って、不慣れな仕事でも、全力で取り組もうとしたり、仕事もしながら「子育て」や「家事」も完璧にこなそうとするから、どうしても”イライラ”して、そのイライラが周りに伝わってしまうということに成るんじゃないでしょうか?


それだと、頑張った割には、「仕事」や「母親」とか「主婦」と言ったアイデンティティも結果的に、守られないわけで、そんなことなら、いっそのこと、「清水の舞台から飛び降りる気持ち」で、そういう「主」だったことを「副」にしてしまった方が、少し「マシ」なんじゃないかなと思うわけですね。


ここで、「主」と「副」を入れ替えることこそ、「スタイル」を変えることだと思ってしまいがちなんですが、じつは、「主」と「副」を入れ替えることよりも、むしろ、「主」の中で「納得のいかない生き方」を強いられるということの方が、より大きな問題なんじゃないかと思うわけです。


単純に言って「副」だと気が楽なんですね。

それから、そうやっているうちに、自分にとっての「本当の主」に当たるモノが見えてきたりすることもあるんじゃないかなと思ったりもするんですがどうなんでしょうね。


まぁ、いずれにしても、今の世の中「一つのスタイル」だけでは生きていけなくなってきているということは、マイナスばかりでもないんじゃないかと思いますね。

自分自身のことを考えても、そうやって「スタイル」を変化させたり、「主」と「副」を入れ替えたりしているうちに、いろいろなことを学んでいるような気もします。
(かなりいろんなことをやって来てますんで)


まぁ、その割に、さほど進歩しないですけどね。
進歩するのっていうのは、けっこう大変なんだと思います。
でも、変化するだけだと、そんなに大変でもないんじゃないかなと。
(というか、「変化せずにいること」は不可能ですから)

だから、変化することを、なるべく気楽にできるようになれば、少しいいんじゃないのかなと。


そういう風に思うわけですね。





「お金」がないと生活できない?:「お金」を上回るナニカを持つこと



『お金がないと生きていけないでしょ』とよく言いますけど本当にお金がないと生きていけないモノなんでしょうか?


これを言うと、誰かに叱られそうなんですけど、たとえば「ホームレス」の人たちは、「お金」がなくても生きていますよね。
それから、「動物」達だって、「お金」なんて持ってませんね。
(あっても使わなそうですけど)


要するに、「お金」で生きてるのって、「一般的な社会生活をしている人間」だけなんですね。


現在の社会では、「お金」で買ったものでほとんどの「生活」が支えられているわけです。
だから、「お金」がないと生きていけないということに成るわけですね。

でも、これは、少し間違っていて、本当は『お金がないと、今の生活は維持できない』ということなんだと思うわけです。


まぁ、「ホームレス」まで「生活レベル」を下げれば、ほとんど「お金」がなくても生きていけますし、『あいつんち貧乏なんだぜ!』ぐらいでも、かなり少ない「お金」で生きていけます。


もちろん、『さぁ、みんなで貧乏になろう!』っていう話ではないです。
でも、少なくとも、『お金がないと生きていけない』と言う「常識」は、完全ではないということですね。

間違っているとも言えませんが、少し”ズレ”ているということなんじゃないかと思います。


それと同じで、『金さえあれば、なんとかなる』
これなんかも、少し”ズレ”ていると思いますね。


要するに、今の世の中は、ちょっと「お金」に偏っているんですね。
もう少し「人間」に偏っていてもいいんじゃないかと思うわけです。

「経済偏重」や「効率偏重」には、利益もあるでしょうが、弊害もあります。
でも、「人間偏重」だったら、弊害はほとんどないんじゃないでしょうか?


「経済上の利益」や「効率」が低下して、困るのは、実は「人間」ではなくて、「社会」と言う実体のない「構造」であって、その「社会」を構成している「人間」の意思とは無関係に「社会」が要求しているのが、「利益」や「効率」なんだと思います。


実際、人間は、今よりもはるかに社会の効率が悪かった時代に置いて、今よりも、はるかに非効率的な仕事のやり方をしていたわけで、それですら、ナントナク呑気にやっていたりしたわけですから、今だったら、かなりのんびり暮らせるハズなのに、ノンビリどころか、「社会機構」がシッカリしてくるにつれて、むしろ、「人間」が「社会」に服従させられてきているという感じがします。


だから、『お金がないと生きていけない』といつもきまり文句のように言うのではなくて、『お金なんて無くたっていいんだよ、まぁ、少しあれば、よりイイっていう程度のもんだね!』と言うぐらいのテキトーさもあっていいんじゃないのかなと。


それから、「お金を上回る”ナニカ”」を持てば、そこまで「お金」に固執することもないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



人は人を変えられない?:人にしか人を変えることは出来ない



カウンセリングなどの精神医学の分野では、『人を変えることは出来ませんよ』と言われたりするらしいですが、実は、人が変わることはありますし、そういうときに、何によって変わったのかと、よくよく考えていくと、ほとんどの場合「人」によって変わっているんじゃないかと思ってしまうわけなのです。


ここには、一種の「言葉の仕掛け」があって、『人は変えられない』と言っているのは、じつは、『人を自分の思い通りに変えることは出来ない』ということなんでしょう。

これ、よく読んでみると実に当たり前なんですねぇ。
そんな都合のいい話があるわけがないっていうようなことですよね。


でも、『人を変えることは出来ませんよ』とカウンセラーや精神科医に言われると、目から鱗が落ちたように、『あっ、そうか、人を変えようとしていた自分が間違っていたのか』ということに成って「人は変えられないと言う定説」が出来上がってしまうわけです。


しかし、です。

現実には、人が変わることは、めったに無いかも知れませんが、あります。
そして、それは、ほとんどの場合「人」によって変わるんじゃないかと思うのです。


そういうことって言うのは、「人と人の関係」において、「最もスバラシイ出来事」なんじゃないかと思うわけですけど、その前に『人は変えられない』を「定説」にしてしまうと、その「最もスバラシイ出来事」の機会が奪われてしまうような気がするわけですね。


だから、『人を変えることは出来ない』と言い切ってしまわないで、『人は自分の思いどうりには出来ない』
『でも、人との関わりで、変わる人が居るかもしれない』と言う風な感じにしておいてもいいんじゃないかと思いますね。


ちなみに、『人が変わる』のは、「自分のために犠牲を払う人」に出会ったときだと思いますね。

「小さい犠牲」で変わる人もいるでしょうし、「非常に大きな犠牲」を求める人もいるでしょうが、その「犠牲」が払われたときにしか『人は変わらない』ように思いますね。


そして、当然のことかもしれませんが、そういう「犠牲」を払う人は、ほとんどいませんから、『めったに人は変わらない』ということですね。


『人を変えることは出来ませんよ』と言われて、ほとんどの人が『そうか、自分が変わればいいんだ』と言う方向に促されるんじゃないかと思いますけど、ケッキョク、自分が変わるのも「誰かの犠牲に直面した時」ですから、自分だけでは、本当には変われないと思いますね。


変わったように見えても、すぐに元に戻っちゃうんですね。
「人間」って、そういうものだと思います。


やっぱり、本当の意味での「人間同士の関係」の中で、人は変わっていくモノなんだと思います。


そして、そういう関係をつくることこそが、人間が生きている唯一の「意味」なのかも知れないなと。

そんな風に思っているわけですね。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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