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「芸術表現」の「多重化」



「芸術表現」は、「多重化」の方向を取るように成って行くんじゃないかと思っているわけです。


現在、「表現形態」を交配(ミックス)することが盛んに行われていますけど、それも一種の「多重化」ではあると思うのですが、ここで言う「多重化」は、出来るだけ「表現形態」自体は広げずに(混ぜずに)、既存の「メディア」の中で「多重化」するという方向性のモノです。

 ※ここで言っている「メディア」とは、「表現形態」を指しています。
  「ミクスト・メディア」と言う場合は、「素材」の混合を意味することが多いと思い
  ますが、「表現形態」や「素材」をミックスするというのは、「多重化」と言うより
  は「多様化」に近いと思っています。

  私が考えるところの「多重化」とは、一つの「メディア=表現形態」の中で、異なる
  次元を創り出して、それを重ね合わせることになります。
  ただし、「額」や「題(タイトル)」のように、それ自体は主体性を持ったメディアとし
  て独立した評価を受けることがなく、作品の付属物とみなされているものは、その
  「メディア=表現形態」に従属する一部分として考えています。
 
どうして、「メディア」を広げないのか?と言えば、『薄まってしまうから』です。

つまり、「メディア」を広げていくということは、より広い領域に「表現」を投げ入れるということであって、その広い領域で表現されたものと言うのは、そのフィールドの広さによって薄められてしまうだろうと思うわけです。

だから、どうしても、初めて、その「ミックスされた表現形態」に出会ったときには、目を惹きつけられても、二度三度と見ているうちに、「そのミックス」に見慣れてくると、「その薄さ」だけが目に付くようになってしまい、けっきょくは見飽きてしまうような気がします。

要するに、「メディア=表現形態」をミックスするという形をとると、どうしても、「ミックス」が中心になって、「表現」が置いて行かれてしまう傾向があると思うわけです。


そこで、限られた「メディア」の中での「多重化」ということに成るわけですが、「絵画」なら「絵画」、「彫刻」なら「彫刻」と言う、完全に従来型の既存の「メディア」の枠をなるべく崩さずに、「多重化」していく方向を模索する必要があるんじゃないかと思うのです。

もちろん、「絵画」を「平面」と言い換えたっていいでしょうし、「彫刻」を「立体」と呼んでも、何の差支えもないわけですが、出来るだけ(あくまで、出来るだけです)、「表現形態の交配」自体を表現の中心にしないということですね。


つまり、同じことをするのでも、『ここに〇〇を使っているところがオモシロイ』とか、『〇〇と〇〇を掛け合わせているのが独創的』みたいに、「メディアの交配」自体が、その表現の一番の特徴になってしまうことは避けた方がイイと思うわけですね。


ここでいうところの「多重化」は、メディアの種類を重ねて表現の領域を広げることではなく、同じ広さの中で、『どこまで表現を重ねていかれるか』という方向に成ります。
つまり、「メディアの多重化」ではなく「表現の多重化」ということです。

なぜ、表現を「多重化」するのか?さらには、なぜ限られた「メディア」の中で「多重化」するのか?と聞かれれば、それは「密度を高めるため」と言うことでしょう。


美術の場合「作品」は、「物質」であるべきだと思っております。

 ※「コンセプト」や「パフォーマンス」などの「非物質」を「美術」とするのは、
  やや本質から外れているように思いますし、それは、「メディアの交配」と
  同じく「薄めること」につながると思っています。

「物質」と言うのは、「大きさ」と「密度」によって、「質量」が決まってくるわけで、基本的に「小さいわりに重いもの」つまり「密度の高いもの」が、「美術」には向いているんじゃないかと思います。

ただ、これを上手く説明する言葉はちょっと思いつきません。
上手い表現ではないかもしれませんが、「手ごたえ」とか「圧力」みたいなものでしょうか?


取り敢えず、「密度」を高めるためには、限定されたスペースの中での「多重化」ということに成るんだと思うわけです。
それで、いろいろな意味で、スペースを絞って、その中で、「重層的」にして行くことが求められるようになっていくと思うわけです。


単純に言って、「芸術作品」は、大きく成りすぎているような気がします。
また、、「メディアの交配」についても、それ自体を表現の中心にすることで、限りなくスぺースを広げてしまっています。
「芸術」に関する「イベント」なんかも、スペースを広げる傾向にあるように思います。

大きな「イベント」でも、どこか漠然としていて、集まった人たちに共通の意識がないというのは、良い面と悪い面があると思いますが、現状の、意識の希薄さはあまりイイモノでもないように思います。


そういったこと全体において、スペースを絞り込んでいくことが必要になってくるんじゃないかなと。
そして、その限られたスペースの中で、如何に「多重化」していくかということが問われていくようになるんじゃないなと。


そんな風に思っているわけです。・・・・・・次につづく



「芸術表現」の「多重化」(つづき)



前の記事からの続きに成ります。


「芸術の多重化」については、いろいろな形が考えられると思います。

前の記事で書いたように、私は、表現形態自体をミックスすることには積極的ではないんですけど、それも、人それぞれだとは思いますから、そういう意味も含めて、ありとあらゆる「多重化」が考えられると思うわけです。


そちらの、「多重化」は、いろいろな方向で試行錯誤されているようですが、私にとっての「多重化」は、それとは少し違って、限られたメディアの中での「多重化」に成ります。

さらに言えば、「既存のメディア」にこだわりたいという意識があります。


私の場合は「絵画」ということに成りますが、「多重化」に当たって、「額」を自作することを念頭に置いています。


私の場合、この「額」についての発想が先にあっての、創作衝動だと言ってもいいくらいなんですね。
つまり、「額」と「絵画空間」の重なりが見えてきた時に、『自分の作品を創りたい!』と思うように成ったというわけなんです。


もともと、私も「自分の作品を創りたい」と言う気持ちから「絵」を始めたわけですけど(私の場合30歳の時、絵を始めました)。

その後、たまたま「装飾美術」の仕事をすることに成って、いつの間にか、そちらに行ってしまって、「自己作品」のことが、おろそかになってしまったんですね(と言っても、ほとんどの期間は専業ではなくて、他の仕事もしてましたけど)。

そして、いつの間にか、『まぁ、ムキになってまで自分の作品を創らなくても・・・・』と言うところですね。


でも、そんなことを二十年近くもやってから、ようやく『なにか”コレ!”と言うものを残してから死にたいもんだなぁ』と漠然と思うように成ったわけです。


その時に、なぜか出てきたのが「額」なんですねぇ。


現在は、試行錯誤の結果、「絵の中での多重化」と「額の中での多重化」と言う二つの発想になっています。

さらに、「額の外の多重化」についても一応考えていますが、外に向かって広げていってしまうと際限がないので、考えるだけにとどめています。

 ※この「額の外へ向かう」と言う表現形態を時々見ることがありますが、今までに
  私が見たことがあるものは、結果的に「表現形態」を重ねていることが多く、や
  はり「スペース」を広げてしまっているように思いました。
  私の目指すところとしては、「スペース」を広げた分以上に、「多重化」していか
  ないと「密度を高めること」にはならないので、「外に向かう」というだけでは足
  りないかなと思っています。
  「外に向かった」場合は、その外へ拡散する力を引き戻して、中心に向かって圧
  縮するようなベクトルを持った多重化が必要に成ると思っています。


まず、「絵の中での多重化」ですが、「絵画空間」の中に「枠」を作ることで、「額」とは違った意味での「枠」を設定することが、「が、絵の中でも多重化」に成ると思っています。

ただし、この「絵の中の枠」を、完全に装飾的な「枠」にしてしまうと、「額」と似た様な意味になってしまいます。
それも「多重化」には違いないんですけど、「絵の中の多重化」と「額の中の多重化」を分けることで、その「多重化」同士の「多重化」が創り出せればと思って、なるべく、完全な装飾にならないようにしようと心がけています。


現在は、その「絵の中の枠」の中の絵画空間で、もう一段「多重化」したいというところで、止まっている段階ですね。
要素が多く成りすぎて、スペースが足りなくなるんですね。


そして、「額」の方ですが、こちらは、まだ、ロクなモノが出来てもいないので、構想だけの段階ですが、現時点で、一応、「二重額」と言う構想を持っています。

はじめは、一つの「額」で十分だと思っていたんですけど、それだと出来ることが限られてしまうので、ここでも「多重化」することに成りました。


ここで、「額」と「絵画」を両方とも「表現形態として使うことは、前の記事に書いた、「表現形態の交配」に当たるんじゃないか?と言う問題があるわけなんですね。

確かに、そういう考え方もあると思います。

しかし、「額」は表現形態と言うよりは、「絵画」の「枠」であって、「絵画の世界」を「外の世界」と区切る「境界線」でもあると思っていますので、それ自体が「純粋な表現形態」ではないと考えています。


そして、その「枠」である「額」に表現としての意味を与えるということも、一種の「多重化」なんだと思っています。

つまり、「境界としての額」と「表現としての額」が「多重化」することで、「絵画」を外の世界から「隔てる機能」と、「絵画」を外の世界と「つなげる機能」を、合わせた「枠」としての「多重化」ができるんじゃないかと思っているわけです。


まぁ、こんな事が、今私がやっている「多重化」ということに成ります。  

「不思議」と「可思議」



「不思議」があるなら、「可思議」だってあってもいいんじゃないかと思うわけです。


「不思議」があって、「不可思議」まであるのに、なんで、「可思議」だけないんでしょうね?
それこそ「不思議」ですよね。


ここで言う「可思議」は、要するに「わかっていること」ってことに成りますね。

まぁ、実際には「わかっている」ということにしているだけなんでしょうが、それでも、あまり問題にならないようなことと言うところでしょうか。


「不思議」と「可思議」には、それぞれ役割があると思うわけです。
だから、「不思議」なことを無理にわかろうとしたり、厳然とした動かしがたいことのように扱ってしまうことや、「可思議」をあまり極端に疑ってみることなどは、「不思議」や「可思議」の持っている役割をつぶしてしまうことであって、あまり有効なことでも無いような気がするわけですね。


そこで、「不思議なこと」を信じている人と信じていない人と言うのが居ると思うわけですけど、そもそも、「不思議」は「ワカラナイコト」なわけですから、信じることは出来ないと思うわけです。


それなのに、信じている人はモノスゴク信じてるし、反面、信じない人となると、これまたモノスゴク「絶対信じない!」っていうカマエに成っていて、その中間の「不思議本来の姿」、つまり「ワカラナイコトと言う姿」が、ほとんどなくなってしまっていると思うわけです。


今の時代にあっては、とにかく「神秘的なモノ」が好きな人は、「スピリチュアル」でも、「UFO」でも、「心霊現象」でも、「不思議なモノ」はなんでも大好きだし、嫌いな人は、そういうものをすべてメノカタキのように嫌っているように見えますね。


でも、そういう「不思議」は「不思議」と言う位置にあってこそ効果的に機能するものなんじゃないかと思うわけです。


それを「ワカッタコト」=「可思議」としてしまうと、せっかくの「不思議な領域」が無く成ってしまうわけですね。


とにかく、「不思議好き」の側の人たちも、「不思議嫌い」の側の人たちも、「不思議」に説明をつけようとし過ぎるんじゃないかと思うわけですよね。

そうまでして、どっちかに分類しなくてもいいんじゃないかと思うんですね。
どっちかに分けるんじゃなくて、「不思議」に分類する方がイイんじゃないですか?


誰が見ても明らかなことは、「可思議」で問題ないでしょうし(実際、世の中のほとんどのことは「可思議」だと思いますしね)、残りの、ごくわずかな「不思議」は、わからないままにしておいてもいいんじゃないのかなと。


ま、そんな風に思うわけですね。




「自明のこと」について



「自明のこと」というのがあると思っているわけです。
つまり、「人間が先天的にわかっていること」ですね。

「あると思っている」と言いましたが、本当は「あるということにしている」と言った方がいいと思います。


少なくとも、全ての話は、この「自明のこと」がないと始まらないと思うんですね。

何かを考えていって、最後に行き着くところに、この「自明のこと」がないと、どこまで言っても、話に終わりがないということですね。

しかも、終わりがないだけではなくて、始まりもないわけで、どんなことを言うにしても、何らかの基準を持って語られていないことと言うのは、ほとんど意味をなさなくなってしまうように思います。


本当のところを言えば、この「自明のこと」自体も、やや「無理矢理」な感じなんでしょうけど、それがあるということにしておかないと、何も話すことが出来なくなってしまうので、仕方がないと言ったところでしょうね。


たとえば、『なぜ、人を殺してはいけないのか?』と言う問いに対して、『自分も殺されたくないから』と答えれば、『じゃあ、殺されてもいいと思えば、殺してもいいのか?』と言うことになります。

また、『人の命はとても貴重なものだから』と答えれば、『じゃあ、人口が増えすぎた場合は殺してもいいのか?』ということに成ります。


つまり、こういうごく当たり前のように思われていること一つですら、なんの基準もなく、論証したり、説明したりすることは、非常に困難なことであって、それは、困難と言うよりむしろ、不可能と言ってもいいくらいなわけですね。


つまるところ、『人を殺してはいけない』ということは、初めから決まっていることだと言って、どこかで割り切るしかないわけですね。

そこを覆しての議論程意味のないものはないので、やめた方がイイということですね。

また、そこから先の議論の方にこそ意味があるので、そちらに力を使いましょうよということでしょうね。


つまり、ここだけは理屈抜きで決まっていることということにしてもいいんじゃないか?ということですね。
そういうことを設定することで、「思考」や「論理」は、楽しむものに成り得ると思います。


反対に、そこをナイガシロにしてしまうと、「思考」や「論理」は、ただただ、うっとうしいだけのモノになって行ってしまうでしょう。


そんなわけで、「自明のこと」ぐらいは、最初から決まっているということでいいのかな?


そんな風に思っています。




だいたいのことが『努力すればできる』・・・けど



世の中、だいたいのことは「努力すればできる」と思っているわけです。


だから、「芸術」だって、だいたいのことは「努力すればできる」と思うわけなのです。


でも、です。
やっぱり「できないこと」はあるわけで、『どう頑張ったって、こんなのできっこないよ!』っていうのもありますよね。

でも、でも、です。
『そのできないことを、やらないとダメなんじゃないの?』って言うことに成るわけですね。


つまり、「努力」とか「頑張る」っていうのは当然のこととして(いや、もちろんそれだって大変ですけどね、出来るかどうかとは別にですよ)、その先に行って、『できっこないこと』がたまたまできる時が出てくれば、そんなときに、「才能」なんてものがどれほどのモノなのかということに思い当たるんじゃないかと思います。


要するに、「上手い」とか、「丁寧」とか、「イイ」とかっていう、いわゆる「上等なこと」っていうのは、努力すれば、出来るような気がしているわけです。

ところが、「下手」とか「ダメ」とかいうような、いわゆる「上等じゃないこと」っていうのが、じつは、努力してもできないことなんじゃないかと思うわけですね。

つまり、「下手」にするだけならできても、「その下手さ」や「そのダメさ」を『やれ!』といわれると、『なかなか出来ない』ということがあるわけですね。


それは、一言でいうと「クセ」だと思うんですね。
その人の「クセ」は、その人にしか出せないんだと思います。

で、その「クセ」を出せばいいのか?っていうと、やっぱりそうでもなくて、叩いても、叩いても、執拗に出て来るような「クセ」を見つけ出して、出していくというのが、これまた『なかなか出来ない』わけなのです。


そして、そういう「クセ」を見つけ出すには、やっぱり数をたくさんこなしていくしかないんだと思いますけど、それでも、残った「クセ」には、きっと「自分らしさ」がよく表れているんじゃないかと思っているわけですね。


と言うわけで、『努力してもできないことを、やるために努力しましょう』というのが、本日の結論となりました。


『・・・・・ナニカ問題でも?』




いろんなものが「コマーシャル」に食いつぶされていく



とにかく「コマーシャル」が、現代の「害」になっていると思うわけです。
現在は、「コマーシャル」に全てのものが食いつぶされてしまう時代ですね。

とくに、「文化」についていえば、「コマーシャル」は「百害あって一利なし」と言うしかありませんね。


「テレビ」にしても、「ネット」にしても、現代の「マスコミ文化」は、みんな何らかの「コマーシャル媒体」として利用されていて、その「コマーシャル主(ぬし)」からの影響を免れることが出来なくなってしまっています。

その結果、「文化」はことごとく「コマーシャル」に食いつぶされて行き、「文化」としての活力を奪われてしまうわけです。

それは、結果的には「コマーシャル主」にとっても「トク」とは言えないわけですから、誰も「トク」しないということですね。


とにかく、「文化媒体」と「コマーシャル」を引き離さないとダメなんじゃないの?と思うわけです。


もともと、「文化」は、最も「人間的な分野」ですから、「人間」によって判断されたり選択されたりするハズのモノなわけで、「企業」によって判断されたり選択されたりすれば、当然、本来の姿を失っていくということでしょうね。


マスコミが、「文化媒体」に成っていること自体にも問題はあると思いますが、それ以前に、「文化」と「コマーシャル」が一体化してしまっていることは、「文化の衰退」に直結していますし、また、長期的な意味では、企業の活力をも奪っていくことにつながっていると思うわけです。
(現にそうなっていると思います)


単純に言って、「コマーシャル」と「文化」を引き離すことが出来れば、その時点で、「企業」は「まじめなモノづくり」に力を注ぐしかないわけで、それ以外に、同業者との差を伝える手段と言えるようなものは、そうたくさんはないわけです。

在るとすれば、せいぜい「価格競争」ぐらいでしょうが、「コマーシャル」抜きに「価格競争」を行えば、恐らくその企業は長くは持たないでしょう。


そんな風にして、「コマーシャル」と「文化」が引き離されれば、「文化」にとっても「企業」にとっても、また、「消費者」にとっても、少しイイんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思うわけなのです。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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