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「伝えようとするメッセージ」と「伝わってしまうメッセージ」



子供っていうものは、なかなか親の思うような子にはなってくれないものなんだと思うわけです。
自分のことを考えても、親の思うような人間に成ろうと思ったことなどなかったような気がしますね。


とは言え、子供が育つ過程で一番影響を受けているのはと言うと、やっぱり、間違いなく「親」なんだと思うわけです。
それなのに、なんで「親」の思ったような人にならないんでしょうね?

親が子供を教育する時に、「こういう子供になってほしいな」と言うようなことを思うわけですが、必ずしも「そういう子」に成らないということは、つまり、「伝えようとしたメッセージ」は伝わらずに、それとは違う「伝わってしまったメッセージ」があったということなんでしょうね。


要するに、「言葉」で伝えようとしたことは伝わらずに、「親自身の行い」が伝わってしまうということなんじゃないでしょうか?


この「親の行動をマネる」と言う「成長のパターン」は、かなり「人間の本能」に近いものなんじゃないでしょうか?

実際、一見すると「親」とは違う「行動パターン」を持っているように見える人でも、その考え方や、行動の本質的な部分では、ほとんど例外なく「親」をマネていると言ってもいいんじゃないかと思いますね。

少なくとも、成長の過程で「親をマネる」ということから外れている人は、非常に稀な例だと思います。

実際は、大人に成ってからですら、「親の行動パターン」を抜け出して、「自分の行動パターン」を生み出していく人は、そんなに多くは無いような気もしますけどね。


いずれにしても、「親の行動」が「伝わってしまうメッセージ」に成るんだとしたら、「言葉で伝えようとするメッセージ」って意味あるんですかねぇ。


どうも「教育」と言うと、こちらの「言葉による教育」がメインに成っているようですけど、それが、ほとんど「伝わらないメッセージ」なんだとしたら、そんなにバカバカシイものはないと思うわけです。

どうせ伝わらないんだったら、いっそのこと、そちらはやめてしまったほうがいいような気もします。
そうすることで、「親」自身にも「子供」にも、「親の行動」がどんなものなのかということが、よりハッキリと浮き彫りになってくると思うわけです。


たとえば、「親」が「子供」に対して、『犯罪者に成ってはダメだよ。社会のルールは守らないといけないよ』と言っても、そこで、紙くずを「ポイッ」と投げ捨てれば、伝わってしまうのは「ポイッ」の方ですね。

それを、「子供」がちょっと発展させていけば、犯罪者にだってなりかねません。
(発展させるかどうかは、「子供」次第ですけどね)


でも、そこで、「言葉で伝えようとした部分」がなければ、つまり、何も言わずに、ただ単に「ポイッ」と言う行動だけがそこに在ったら、「親」自身にとっても「子供」にとっても、その行動の意味がはっきりせざるを得ないわけです。

当然、「子供」は「ごみを街中に捨ててもいいのか?」と聞いてくるでしょうね。
そこで、「親」としては、自身の行動を律していかざるを得なくなるわけです。


ところが、今は、「言葉による教育」と称して、「親」が「自分の行動」のイイワケをしてしまっているように見えるわけです。

どっち道、「伝わってしまうメッセージ」は「親の行動」の方だと決まっているわけですから、「行動」の方を改善することに力を使った方が、少しはいいんじゃないのかなと。


とは言え、「行動」を改善することなんて、ほとんどできませんから、まぁ、そういうときは、『すまん!お前は、私よりもう少し立派な人に成ってオクレ!』とお願いしてみるっていうのが、考えられる中では「マシな教育」なのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「必然」よりも「偶然」:「偶然性の時代」



ちょっと前までは、「偶然」と「必然」だったら、圧倒的に「必然」の方が「イイモノ」だと思われていたんじゃないかと思わけですが、現在は、それがやや違ってきているように思うわけです。


たとえば、「科学」と言うのを、言い換えれば、自然界に法則性を見つけ出して、「偶然」に見えていたものを「必然」であるように見せるためのモノだともいえるわけです。

ということは、「科学」が「イイモノ」であるならば、「必然」は「偶然」よりも「イイモノ」だということに成るわけですね。

ところが、「科学」=「イイモノ」でも無く成って来た現在、「必然」=「イイモノ」でも無く成って来たということなのかも知れませんね。


人間は長い歴史の中で、自然を克服することをもって「発展」としてきたという面があるわけですが、それが、どうも「頭打ち」になって来ているわけですね。

「科学」は相変わらず「発展」を続けてはいますが、その「発展」が「副作用」を伴うように成ってきたということでしょうね。


つまり、ある段階から、「発展」が「リスク」を伴うように成ってきたわけです。
現在においては、「リスク」のない「発展」などは、もう、ほとんど無いと言ってもいいかもしれないですね。


そこで、「必然」の「有効性」を追いかけることよりも、「偶然」との「出会い」を楽しむ時代になって来ているんじゃないかと思います。


昔から、「偶然」は「エンターテイメント性」を生み出すものとして使われていたと思います。

たとえば、ラグビー・ボールが楕円形をしていることで、「偶然性」が増して、「ラグビー」の「エンターテイメント性」が高くなっているというようなことですね。


スポーツにおいては、あくまで「実力」=「必然」が重視ですが、ギャンブルなどでは、より一層「偶然」が重視されていますよね。
「偶然性」が高いものほど「ギャンブル性」も高くなるというわけです。


現在では、そういった「エンターテイメント」の場だけでなく、「芸術」や「表現」においても、こういう「偶然」との「出会い」を楽しむ時代に成りつつあるような気がしています。


ただし、ここで言う「偶然」は「マグレ」とか「運」とは違うものを指しています。

「マグレ」や「運」は、その人とは無関係のところで起きることだと思いますが、ここで「偶然」と言っているものは、その人の能力や技術とは、関係が薄いんですが、「その人性(そのひとせい)」とは最も深く関係しているモノなんだと思っているわけです。
    
つまり、「偶然」とは言っていますが、「完全な偶然」ではなくて、「選び取られた偶然」であり、「創り出された偶然」ということですね。


たとえば、「スポーツ」において、いくら「偶然性」を取り入れることで「オモシロさ」が増すとしても、「マグレ」や「単なる運」ほど「ガッカリ」なものもないわけです。

「偶然」だと「手に汗握る」に成るのに、「マグレ」だと「ガッカリ」なんですね。


「偶然」と「マグレ」や「単なる運」との間には、そういうチガイがあるように思うわけです。


また、過去においても、「芸術」の場で「偶然」が重視されたことがあったように思いますが、それらは「選び取られた偶然」や「創り出された偶然」と言うよりは、「偶然性を利用した技巧」であったように思います。

要するに、「技巧」が「主」で「偶然」は「従」だったように思いますね。
その「主」と「従」の関係を、そろそろ逆転してもいいんじゃないか?ということですね。


さて、話を戻すと、「芸術」などの「表現」においても、「偶然」を楽しむように成って行くんじゃないか?と思うんですが、これは、裏を返せば、このブログで再三言っている『もう天才は居ない』ということにつながります。


常に完璧なまでの「必然」を生み出せる人が「天才」ですから、その「必然」に価値が無く成ってしまったのであれば、「天才」であることに意味はないということに成るわけですね。


これからは、「天才」であっても「凡人」であっても、同列に並べられる時代に成って行くんじゃないでしょうか?


そう成った時には、意外と「天才」の方を好む人ばかりでもないんじゃないのかなと。

そんな風に思ってみたりもするわけです。



「手段」は「手段」



「芸術」も「哲学」も、とにかくすべての「文化」や「学問」と言うのは、全部「手段」に過ぎなくて、それ自体が「目的」であるものは無いように思うわけです。


つまり、それを達成すること自体には、それほど大きな意味はないということですね。


じゃあ、何に意味があるのか?と言えば、けっきょく「人間の幸福」なんだと思うわけですね。

実際は、「人間の幸福」だって、「究極の目的」と言えるのか?と言われれば、なんともいえないところでしょうが、そこから先を考えるとキリがないので、まぁ、そういうことでいいんじゃないかと思うわけです。


さて、それじゃあ、何が「人間の幸福」なのか?と言えば、それは「楽しいこと」なんじゃないのかなと。
まぁ、そんな風に思うわけです。


それで、いま「楽しいこと」っていったいナニなんでしょうね?
「娯楽」でしょうか?
「豊かさ」でしょうか?
「学び」や「気づき」でしょうか?


「娯楽」が得られれば、「感情」を通じて「楽しい」と感じるでしょうし(芸術」による「感動」もこれに含まれるんでしょうね)、「物質的な豊かさ」が得られれば、「身体」や「本能」を通じて「楽しい」と感じるでしょうし、「学びや気付き」が得られれば、「思考」を通じて「楽しい」と感じるでしょう。
(「宗教」や「哲学」がこれに当たるのでしょう)

他にも、いろいろあるでしょうが、いずれにしても、「人間」は基本的に「欲張り」ですから、一つでは満足しないわけですね。
それどころか、なんでも全部欲しいと言った感じです。

でも、「全部」なんても無理ですから、いつも満足できないわけですね。


しかも、世の中が発達するにつれて、「情報」が増えていきますから、その分、「幸せの種類」が増えて、それなのに『全部ほしい』と言うところは変えようとしませんから、ドンドン、「満足」から遠ざかって行くわけですね。


そんな中で、唯一ほとんど変わらない「満足度NO.1」の「人間の幸福」と言えば、それは、「人間同士のつながり」なんじゃないかと思うわけです。

これだけは、「人間」が「人間」である限り、変わらないんじゃないでしょうか?

それなのに、現在は、「情報」に振り回されますから、そのことが、どうしても見えなくなるわけです。
それで、「人間性」をナイガシロにしてしまうことが、とても多くなっているわけですね。


だから、現在「芸術」にしても「哲学」にしても、とにかくすべての分野が、「人間性」を追究していく必要が出てきているんじゃないかと思うわけです。


そういった、「全ての分野」は、全部「手段」に過ぎないと思いますから、それら自体に「目的」を設定するのではなく、「手段」として活用するために、今、必要なのは「人間性の探求」なんじゃないのかなと。


さて、「芸術」で、「人間性を追究しよう!」と言う意識でやっている人って、どれくらいいるんでしょうかね?


「人間性」を大切にしている人が「芸術」をやっていることは多いんじゃないかと思いますけど、それなのに、その人が、必ずしも「芸術」で「人間性を追究しよう!」と思っているとも限らないような気がします。

今、全ての人に分け隔てなく「幸福」をもたらす可能性があるのは、「人間的なモノ」なんじゃないかと思うんですね。

そういう方向でやって行く人が、もう少し居てもいいのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「一所懸命」を極める



出来る限り、「一所懸命」を極めていきたいなと思っているわけなのです。


出来れば、いろいろなことで「一所懸命」にやって行きたいもんですけど、全てのことを「一所懸命」にするのは大変ですから、せめて、「芸術」に関することだけでも、「一所懸命」にやって行きたいもんだなと思うわけですね。


前にもこのブログに書いたことがあるんですが、その場だけでも「懸命にやる」のが「一所懸命」で、ずっと「懸命にやる」のが「一生懸命」なんだそうです。
(人に聞いたことなので、言葉の意味としては定かではありませんが)


取り敢えず、私の場合、「芸術」に関することだけでも『懸命にやっていこう!』と思っているということですね。


そして、さらに、最近になって、その「一所懸命」を極めて行きたいなと思うようになって来ているわけなのです。


もともと、私は「天才」と言う言葉ほど”フルクサクて”、”ツマラナクテ”、”クダラナイ”物はないと思っていますから、「才能」でやっていこうということは、微塵も思わないわけです。


それじゃあ、ナニでやって行こうか?となると、「一所懸命」でしょ!ということに成るわけです。
そして、どうせだったら、「一所懸命」を極めていこう!と思うわけですね。


そういう気持ちでやっていると、

「才能」の占める割合なんて、いかに小さいかと言う風に思えてくるわけです。

 ※この場合の「才能」とは、一般的に「イイモノ」とされているような「誰からも
  賞賛されるようなこと」に限っての「才能」です。
  人から見たら何の価値も無いような「才能」を含めた場合は、話が違ってくる
  でしょうね。
  でも、それを「才能」と呼んでいる人って、ほとんどいないですよね。


『才能が無いよりは有った方がイイに決まってるでしょ!』って言うことが、それはもう、本当に、とても意味がないことのように思えてくるわけですねぇ。

『全然、要らないですねぇ才能』

『いや、無い方がいいでしょ』

そんな感じです。


それに、こんな考え方で、一般人が「才能」なんかと全く関係なく、「芸術」に関わっていけるようになるといいなぁと思っているわけです。


これは、なにも「芸術」に限ったことではなくて、いろいろなことに当てはめて考えることが出来ると思います。

たとえば、「仕事ができる」ということを「エライこと」のように思っている人が、たくさん居ると言うのは、信じがたいことですし、また悲しいことだと思いますけど、「仕事を一所懸命にやる人」だったら、実際に、その人が「エライ」かどうかは別にして、その人を「エライ」と言ってもさしつかえないんじゃないかと思います。


「仕事ができる」と言っている時の「できる」とは、要するに、ちょっと効率がイイと言うだけのことです。

基本的に「仕事」は、誰にでもできるように出来ていますから、そこで「差」をつけるのは、効率ぐらいです。
そのチマチマした「差」を「エライ」と言っていることほど”ツマラナイ”ことはないと思いますし、「出来る、出来ない」に関わらず、「一所懸命」にやっている人を見て、心を動かされないということほど、”鈍感”なことは無いと思うわけです。


「芸術」において、「才能」と言う言葉が、この「仕事が出来る」のような意味になってしまっていて、『才能がなければダメ』とか、『才能が無いよりは有った方がイイに決まってる』と言うようなことに成ってしまっているわけです。
(これは「センス」と言う言葉に置き換えても同じようなことが言えるでしょう)

でも、実際に、人が心を動かされるのは「才能」なんかじゃないですね。
人は、何らかの「ひたむきさ」に心を動かされるんじゃないでしょうか?

ただ、それを、後から「才能」と呼びたがる人が多いというだけのことだと思います。


つまり、「一所懸命」にやって、世間的に認められなかった人を見ると、「才能」が無かったからだといい、「一所懸命」にやって、世間的に認められた人を見ると、「才能」があったからだと言っているだけですね。

でも、それで、「一所懸命さ」に感動する気持ちが見えなく成っていってしまうわけですね。


そんな状況ですから、「一所懸命」にやっていても、必ずしも”トク”でもないんでしょうが、そこの所で「上手くやろう」とは思いませんね。

自分の人生なのに、他人の基準で「上手くやろう」と言う気持ちは、もう無いですね。


そういうわけで、「才能」なんて無くてもいいし、少しでもあるんだったら、誰かに差し上げます。


その代りに、「一所懸命」を極めて行きたいなと。

そんな風に思っているわけです。



「芸術売買」と「芸術福祉」



私は、基本的に「芸術作品」というものは、「売ったり・買ったり」しない方がいいんじゃないかと思っているわけです。
(現実には無理でしょうが、あくまで、「本来は」ということです)


本来、「芸術の価値」と「金銭の価値」は、交換しない方がイイような気がするわけですね。


「芸術作品」というものは、「人の命」などと同じように、「金銭」に置き換えてはいけないモノなんじゃないかと思うのです。
それを「金銭」に置き換えることを続けていくと、「芸術」も「人の心」も荒廃していってしまうような気がします。

とは言え、それじゃあ、「芸術家」は生計を立てられないわでですから、それもどうかとは思いますけど、取り敢えず、「人身売買」と同じで、本当なら、「芸術売買」もやめたほうがいいんじゃないかと思っているわけです。

 ※絶対にダメって言うことは無いと思いますけど、の状態は明らかに行き
  過ぎていると思いますね。
  そう思う人ってあんまりいないんでしょうか?


昔は、「人身売買」だって、貧しい人たちにとっては、生計を立てる手段の一つのように成ってしまっていたわけで、それを誰かが『やめよう!』と言いださなければ、いまだに続いていたかもしれないわけです。
(と言うより、まだ完全に無く成ってないと言う話も聞きますすし)

だから、「芸術家」が困るからと言うことは、「芸術売買」を続ける理由にはならないと思います。

 ※自分のことで言えば、私が「作品」を売ろうとするときは、自分を「身売り」
  する覚悟で売るということです。
  まぁ、売れないから大丈夫ですけどね。


なぜ、「芸術売買」がいけないか?と言えば、それは、「純粋性」が保てなくなるからですね。


「芸術」にとって最も大事なものが「純粋性」だと思っていますから、それが、保てなくなるということは致命的なことだと思うわけですね。

 追記:言葉が足りなかったので補足いたします。

  現状では、「芸術」の社会的な保護が十分ではないので、「創作者」は「作品」
  を売る以外に生きていくすべがないわけで、そこを避けて通ることが難しく成
  っているわけです。
  しかし、こういうことを常に意識して「作品」の売買に臨む姿勢があるだけでも、
  最低限の「芸術の純粋性」は保たれるんじゃないかと思います。


昔は、専ら貴族や大きな寺院や教会などの、あまり細かい金勘定をする必要がない立場にいた人が「芸術の買い手」でしたから、そこに「経済競争」が入り込む余地が少なかったわけです。

つまり、貴族たちは、まったく好き勝手に、また、次に誰かに売ることなんて考えもしないで、「芸術」を所有して、勝手に満足していたんでしょうから、そこに「売買」と言う言葉が、必ずしも当てはまらなかったように思います。

「買う」だけで「売る」と言う意識は、ほとんどなかったんじゃないでしょうか?

つまり、個々の作品を買い上げていたというよりは、どちらかと言うと、「お気に入りの芸術家」を、王侯貴族が養っていたというのに近かったんだと思います。

ある意味で、「経済の枠組み」から外れていたんじゃないでしょうか?


そういうのは、かなり昔の話ですし、有名な芸術家に限ったことなのかも知れませんが、そうした流れがあったことは確かなことでしょうし、そういうことが芸術全体にも影響していたということはあるでしょう。


それが、時代とともに、徐々に「芸術の商品化」が進んできて、いまでは、完全に「芸術」が「経済」に取り込まれてしまっています。
現状では、「芸術」は「経済」を象徴する商品の一つと言ってもいいかもしれません。

「バブル経済」の中心に「芸術作品」が集まって行く傾向があるのは確かなことでしょう。

そんな中で、「芸術売買」を続ければ、「人身売買」の場合と同じく、「人の心」は荒廃していくでしょうし、「芸術」自体も廃れていってしまうでしょう。

見方によっては、現在の「芸術」の置かれている環境は、けっこう、「純粋性」が保たれにくい状態なのかも知れないということですね。


でも、「作品」を売ってはいけないんだとすると、「芸術家」はどうやって生活すればいいのか?ということですよね。


「芸術家」は、何らかの形で「社会福祉」の下に置かれるのが、今のところ一番”マシ”なことなんじゃないかと思います。
「障碍者福祉」や「生活保護」などと同じような、「芸術福祉」・「芸術者保護」ですね。


そうすることで、「芸術家」は「経済の枠組み」から外れることが出来ますし、「個人的な成功」を追いかける必要が無く成ります。
と言うより、「芸術」に置いては、「金銭面での成功」ということ自体が有り得無く成るということですね。
(それでも、最低限の「名声」や「評価」は残るでしょうが、それは絶対に悪いモノでもないと思います)

だから、「純粋に創りたいもの」を求めていけばいいわけです。


こういうことを言うと、『ナニを贅沢なことを言っているんだ!芸術家ばかりにそんな特別待遇が許されるわけないだろ!!』と言って怒る方もいらっしゃるでしょうが、それは、「芸術」が目に見えない形で社会に貢献しているということが認識されていないからだと思いますね。


実際には、「芸術」が「社会」に与えている影響は、間違いなく大きいですし、「芸術」が純粋性を失って行けば、確実に「社会」も荒廃していくことに成ると思うのです。


現代社会に置いては、「芸術」の「社会貢献性」を認めている人も認めていない人も、その影響からは逃れられないというのが現実だと思いますね。

 ※ここでは、主に「芸術のプラス要素」を言っていますが、実際に大きいのは、むし
  ろ「芸術のマイナス要素」の方で(近年に成って、マイナス要素の方が大きく成っ
  てきたということだと思います)、「芸術の純粋性」が失われていくことで、結果的
  に「社会」が荒廃していくということです。

要するに、「芸術」には「個人的」であると同時に、結果としての「社会貢献的」な面があるということですね。
(芸術家が、それを追究するというよりは、結果的にそうなるということだと思います)

だから、そこに、もう少し「税金」を使ってもいいんじゃないかと思うわけです。
いまは、「芸術」に税金を使うことが、「芸術の純粋性」につながっていないんじゃないかと思いますね。

だから、もう少し、そちらの方向に向けて行ってもいいんじゃないかと思うわけですね。


さて、そこで、「芸術売買」をやめたとして、どうするのか?
それは「レンタル」を中心にしていくことが望ましいように思います。


現在も、「有名作品」に関しては、「売買」よりも「レンタル」される機会の方がはるかに多いんでしょうが、それを、もう少し進めて、「芸術作品」に関しては、「有名作品か無名作品か」を問わず、「所有権」自体をなくしてしまうというところまで持って行ってもいいんじゃないかと思うわけです。

「誰かの所有物」ではなくて、「管理者」が「管理権」と「管理責任」だけを持っていて、「レンタル」や「保存」などの管理をするということでいいような気がします。

そして、そこから生まれた利益を「芸術家への福祉」に充てるということですね。


「作品」を「所有」したり、「売買」したりしたい人は、「芸術家」としての「福祉」を受けなければいいだけのことですね。


さて、そこで、「誰を芸術家として、福祉の対象にするのか?」と言う問題が出て来るわけですが、これは、意外と簡単なことで、ただ単に、「生活保護」の審査基準と同じくらいの基準を設けて、尚且つ、「生活保護」の支給額よりも少しだけ低い金額を支給すればいいんだと思いますね。

つまり、「芸術者」であろうとすることは、社会の底辺に身を置くことでもあるということです。
あえて「ソン」をしてまで、「芸術家」に成ろうという人は、かなり真面目に「芸術」に取り組むでしょうし、それ以上の「報酬」や「成功」を望む人に、「純粋な芸術」が生み出せるとは思えませんから、それで十分だと思いますね。


さらにダメ押しで言えば、「芸術福祉」を選択した人は、その後「生活保護」に転じた場合、支給額が減額されるし、一度「芸術福祉」を受けた人が、その後、それを断って「芸術売買」側にまわった場合、もう二度と「芸術福祉」を受けられないということにすれば、かなりイイように思いますね。


もしかしたら、受ける人がほとんど居なく成るかも知れませんね。

さて、これって、「贅沢な特別待遇」なんでしょうかね?


それでも、「芸術福祉」を受ける人はそれなりに出て来るでしょうが、「生活保護」を受ける人やその支給額が減れば、その分だけは「経費節減」に成るということです。

それでも、まぁ、けっこうお金はかかるでしょうね。


こんな事が実現できるかどうかは別として、もしも、こういう状況に成ったと仮定して、どっちの「作品」を見たいと思う人が多いんでしょうね?

つまり、「芸術福祉を受けている人のウリモノに成らないかも知れない作品」と、「福祉を受ける必要がないカネに成る作品」、どっちを見たいですか?って言うことですね。


前者は「どうしようもなく幼稚な作品」かも知れませんが「純粋な作品」である確率は高いですね。
後者は「人の目を楽しませる作品」でしょうが、「純粋な作品」である確率は低く成るわけです。


それから、芸術家はどっちの立場を選ぶんでしょうね?
つまり、どっちの立場を選ぶ人が、「本物の芸術家」なんでしょうね?


「貧乏でも、人や金のことに煩わされずに制作したい」と思う人と、「やっぱり金も欲しい」と思う人の、どっちが、≪芸術の中心≫に近い位置に立っているんでしょうね?


人ソレゾレでしょうし、スキズキって言うことなんでしょうね。


でも、少なくとも、こういう事を考えていくと、現在の「芸術がある位置」と言うのは、ずいぶんと”ズレ”ているんじゃないのかなと。


そういう風に思えてくるわけなのです。




「人が魅了されるモノ」



「芸術作品」を鑑賞する時に、人が惹きつけられているポイントってナニなんでしょうね?
それは、「自分にはないモノ」なんじゃないでしょうか?


つまり、「他者」ですね。
鑑賞者にとって、「自分」は「現実」であって、「他者」=「作者」は「異・現実」だと思うんですね。


そして、人は「自分」=「現実」に親近感を覚えますし、受け入れやすいわけですが、実は、「他者」=「異・現実」に惹きつけられているんだと思うわけです。

でも、惹きつけられてはいても、「他者」ですから、拒否感も強いわけで、抵抗があるんですね。


そこで、「作者」としては、その拒否感を乗り越えるために、より一層、鑑賞者にとっての「他者」であろうとするわけです。

つまり、「作者」が「自分性」を強く出せば出すほど、鑑賞者にとっては「他者性」が強く成るわけですね。
当然、拒否感も強く成るわけですけどね。


そうやって、「作者」の「自分性」が、鑑賞者の「拒否感」を超えたときに、人は魅了されるんだと思います。


そして、そういうやり取りこそが、「芸術の創り出す意味」なんじゃないのかなと。

そういう風に思うわけです。


だから、「自分性」をどこまで出すことが出来るのか?ということが、人を惹きつけるポイントであり、また、「芸術の創り出す意味」でもあるんじゃないかと思うわけですね。

要するに、「自分」を徹底的に見つめて、そこで見出した「自分性」を出来る限り表現していくということが、人を惹きつけることにつながるんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「完璧」の先の「不完璧」



「完璧」を求めようとは思わないんですねぇ。私は。
じゃあ、ナニを求めようというのか?と言うと、「不完璧」なんですねぇ。


だいたい「完璧なモノ」なんて、この世に何一つないわけですけど、もし、『ほとんど完璧だな!』と言うようなものがあったとしても、それを求めようとは思いませんね。


なぜかと言えば、『それじゃ、足りない!』と思うからです。

つまり、人間のすることの範囲で、『完璧だな!』と思うようなことって、たかが知れてるんじゃないかと思うわけです、


要するに、「完璧」なんて言っているようなものは、ただ単に、「欠点」が少ないということなんだと思います。

しかも、「大きな欠点」は無くても、「小さな欠点」はあるんでしょうから、そうなると、もう「完璧」でもなんでもなくて、『チマチマとまとまっている』というだけですね。


もちろん、他人が創ったもので『完璧だな!』と感じることはありますけど、それが、「イワユル完璧なモノ」でもないわけですね。

むしろ、どちらかと言うと、「崩れそうで崩れていないギリギリのところ」そんなモノの方を「完璧」と言いたくなってしまうわけですね。


まして、「イワユル完璧なモノ」を求める(ネラウ)ということは、結果的には、当たりはずれのない「”ブナン”なモノ」ぐらいしか出来て来ないような気がするわけですね。

だったら、初めから、「完璧」なんて捨ててしまって、「不完璧」を求めていこうと思うわけですね。
そして、どうせだったら、「完璧の向こう側にある不完璧」を探しに行ってみようじゃないかと思うわけです。


そんな、方向でやって行くと、上手くいっていなくても、『へっへっへっ、完璧に不完璧だぜ!』と言って、何とか立ち直れるというわけです。


ただ、残念ながら、その「不完璧」が、「完璧の向こう」にあるモノであるのかどうかはわかりません。


それでも、まぁ「ネラッタ・チマチマ」よりは”マシ”かなと。 

そういう風に思うことにしています。



「自由」は「イイモノ」なのか?



「自由」・「平等」・「平和」、近代社会の三原則ですよね。
でも、最近「自由」って、本当に「イイモノ」なんだろうか?と言う疑問を持っているわけです。


要するに、「自由」がとっても「不自由」に感じることがよくあるんですねぇ。
特に、最近、そういうことが増えたような気がしますね。


いま、自分が生きていて感じる限りで言うと「自由っていいなぁ!」と感じることが意外と少ないわけです。
それどころか、ほとんど無いっていうくらいかもしれないですね。
(「奴隷」と比べてとか、そういう極端な話じゃなくてですよ!)


これは、最初に挙げた「自由」・「平等」・「平和」の問題なんだと思うわけです。

この三つは、たぶんワン・セットなんですね。
三つがワン・セットじゃないと機能しないんじゃないかと思うわけです。


でも、例えば「平等」ですけど、今の世の中が「平等な社会」に成っていると思っている人っているんでしょうか?

もちろん、形の上では、一応「平等」だし、昔に比べれば、かなり格差は小さく成ったわけですが、本物の「平等」ということに成ると、『そんなもん、あるわけないじゃないですか!』と言う人の方が主流じゃないでしょうか?
っていうより、ゼンゼン「平等」なんかじゃないですよね。

まぁ、それが事実だと思います。


ところがですよ。

「平等じゃない社会」で、「自由」が与えられるということは、当然、その「自由」とは、「みんなにとっての自由」ではなくて、「権力者にとっての自由」なわけです。

いくら、「自由」があっても、それを都合よく使えるのが権力を持っている者だけだとすれば、それは、本当の意味で「自由なこと」だとは言えないわけですよね。
つまり、「自由」によって、「権力」が増幅されてしまうような仕組みになっているんですね。


こんな事を言うと、『それは被害妄想だろう』と言われるような気がしますけど、そんなことは、無いと思いますね。


たとえば、「報道の自由」と言うのがありますけど、実際に、「国家権力」は「マスコミ」や「報道」をコントロールすることも可能ですし、「国家権力」以上に強いのが、「経済のチカラ」です。

現在の社会で、「マスコミ」だろうが、「報道機関」だろうが、いや、それどころか「国家」ですら、
如何なるものも、「スポンサー」に逆らえるものは存在しません。

つまり、「スポンサー」の「資本力の大きさ」で「報道の影響力」」が決まってしまうわけですから、けっきょく、その「報道の自由」とは、「大資本のための自由」であって、一般人など「資本を持たない者のための自由」ではないということです。

と言うよりも、「自由の名」の下に、「一般人の自由」が踏みにじられることが、公認されてしまうわけですね。


その上、更に、たちが悪いことに、「一般人たち」は、その「自由」が自分たちを守ってくれるものだと信じ込まされていますから、じつは、自分たちを踏み潰すだけで、肝心な時には、あまり自分たちを守ってくれない「自由」を、必死になって、それはもう、命がけと言ってもいいくらいに懸命に守ろうとするわけです。

そして、「自由」を死守したことに満足してしまって、その「自由」が自分たちを縛り付けていることを、見過ごしてしまうわけです。

「権力」や「権力者」に問題があると思ってしまうんですね。
確かにそうではあるんですけどね。
でも、「自由」が、それを公認してしまっているわけです。


だから、「本物の平等」が確保されていない状況では、「自由」は、ほとんど機能しないと思っていたほうがいいんじゃないかと思うわけです。


今の世の中では、「本物の平等」を確保することこそが、最も大切なことで、その為には、「人権」が確立されなければならないわけです。

これは、「格差」を「ゼロ」にするということではなく(それは不可能でしょうし、そこまで厳密な「平等」に大きな価値があるとも思いません)、一人の人間の力で、ある程度の余裕をもって乗り越えられる範囲の「格差」に収めるということです。


それまでの間は、「自由」なんてほとんど役にも立ちませんから、あまり、懸命に成ってまで守らなくてもいいんじゃないのかなと。
と言うより、「権力者にとっての自由」を「権力者」が手放すはずないんで、ある程度、放っといても意外と「自由」は無く成らないと思いますね。

「自由」よりも「平等」を守る方に力を使った方がイイように思いますね。
「自由」は、まぁ、「スベリドメ」ぐらいのもんですか?


つまり、『あると、ヒジョーニ助かる』ではなくて、『無いと、もっとヒドイコトに成る』っていうぐらいですね。
要するに、「百姓は生かさず殺さず」みたいな感じですか?


そうは言っても、昔の方が「格差」や「身分の差」が大きかったのは事実なんでしょうが、「現在の自由な社会」で「自殺」や「イジメ」、「ヒキコモリ」、「鬱病」等々が、これだけたくさんあるということを考えると、果たして、どれほどよく成ったのか?と言う疑問があるのも事実ですよね。

要するに、「自由な社会」が実現したことで、手に入ったものはと言えば、こんな風に「自由について考えたり言ったりすることの自由」ぐらいということでしょうね。


そんな風に”自由に”思いますね。

『いや、”不自由に”か?』




「抽象表現」の現時点での目的はナニなのか?



「抽象表現」の目的っていったいナニなんでしょうね。

 ※『そんなことに目的などないんだ!』
  『イイかワルイか、好きか嫌いか、それだけで十分だろ!!』
  などと言って、このあたりのことを誤魔化してきたように思うわけですね。
       
  実際には「目的」はあるんだと思いますね。


現在、「具象表現」だけで、「芸術」を論じようとすることには、若干の、いや、「かなりの」と言うべきでしょうね、どっちにしても無理があるような感じがするわけですが(まぁ、「抽象」だけでも無理ですけどね)、『それはなぜなのか?』と問われると、なかなか答えられないということがあるように思うわけです。


なんで、「具象」だけで「芸術」を総括出来ないんでしょうね?
(「抽象」についても同じことが言えるでしょうが)

要するに、「抽象表現」がなぜ必要なのか?と言うより、「抽象表現」は「芸術」にとって、本当に必要不可欠なのか?と言う、そのあたりが、やや、漠然としているんじゃないかと思うわけですね。


現在言われているような「抽象表現」が現れてきた当時のことは、今となっては、想像の域を出ないので、はっきりとはわからないと思いますけど、「美術史の流れ」を追って推察すると、その時点での「抽象表現」の第一の目的は、「芸術」の行き詰まりを打開することだったのでしょう。
そして、もう一つの目的は、「芸術」をより「精神的なモノ」にすることだったんじゃないかと思うわけです。


さて、そこで、当初の目的に戻って考えると、もともとの目的であった「行き詰まりの打開」は出来たんでしょうか?
「芸術の精神性や純粋性」は確保されたのでしょうか?

確かに、一時的には「芸術」に「新たな展開」が見えたり、「芸術」が「純粋に精神的なもの」であるかのように見えて来たことがあったのかも知れませんが、現在振り返ると、どちらも”やや怪しい”という感じがするんですがどうなんでしょう?


それどころか、「抽象表現」は、「行き詰まりを打開する側」と言うよりも、その「行き詰まりの側」に成っていないでしょうか?

「抽象芸術」が「最も商業的、或は、娯楽的な芸術」に成りつつあると言えないでしょうか?


もしも、本来の目的が達成されないまま、百年以上も経ってしまっていて、現状が、本来の目的と大きくズレてしまっているんだとすれば、その「抽象表現」って、まだ必要なんでしょうか?

もしかしたら、「具象」に戻ってしまった方がイイんじゃないでしょうか?


いや、それでも、やっぱり「具象」に戻ってはダメなんじゃないかと思うわけです。
いえ、「具象」がイケナイという話ではないですよ。
「具象」と「抽象」の間の大きな隔たりは、もう必要ないように思いますし、「具象」と「抽象」は正反対のモノではないということも、すでに、わかっていることだと思うわけです。


つまり、「具象」がイケナイということではなくて、どのようなものでも、一か所に漫然ととどまっていてはイケナイんじゃないか?ということですね。

そして、「抽象」も、すでに一か所に漫然ととどまっているように見えるわけです。

実際、「抽象表現」にしても「現代美術全般」にしても、「新しいカード」が出尽くしてからでさえ、もう半世紀くらいは経っているんじゃないでしょうか?
(それ以前に、その「新しいカード」が「切り札」でもなかったような気もしますし)

このまま留まって居れば腐敗していくだけでしょう。


しかし、当初の目的である、「行き詰まりの打開」と「芸術の精神化・純粋化」が、宙に浮いてしまっていますから、そこに立ち返って、「芸術に新たなステージを開拓すること」と、「そこで芸術の純粋化・精神化を推し進めること」が必要に成ると思うわけですね。


その「新たなステージ」では、「具象を排除する必要」もないし、「抽象を極化する必要」もなく、「その二つを融合する必要」が生じて来ると思っています。


つまり、「芸術」を精神化して純粋性を高めるためには、「抽象性」が必要に成るでしょうし、それを表現としてより強く伝えていくためには、「具象性」と言う「肉体性を持った媒体」が必要になってくるわけです。

 ※これは、ただ単に「具象と抽象の折衷」ということではなく、「具象性」と
  「抽象性」を兼ね備えたような「表現」と言う意味ですが、必ずしも、「表
  現上のスタイル」ということではなくて、どちらかと言うと「意識」の問題だ
  と思います。


結論として、「抽象表現の現時点での目的」とは過去において、「具象性」を排除してしまったために、「肉体」を失って亡霊のように彷徨っている「抽象表現」に、「肉体性」を与え、「精神性」と「肉体性」を両立させることで、「具象」と「抽象」の分け隔てのない「芸術表現」としての、新たな芸術の領域を切り開くことだということです。

これは、「具象」と「抽象」を対極に置いて考えてしまうと成り立たない話だと思うわけです。


そして、こういう試行錯誤を続けることが、「現状に漫然と留まっていない」と言う、「芸術の姿勢」を示すことにも成るんだと思います。


「具象」であっても、「抽象」であっても、現在の状態に留まってしまうことと言うのは、「芸術表現としての腐敗」を意味するのではないでしょうか?


そんな風に思いますが、いかがでしょうか?




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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