FC2ブログ

「芸術」に「肉体」を取り戻す



前の記事の続きの話に成ります。


現在の芸術に置いて、「抽象表現の目的」とは何なんだろうか?と言う話だったわけですが、それは、過去に置いて「抽象表現の目的」であったはずの「芸術の新たなステージ」を開拓することと、「芸術の純粋性・精神性」を確保すること、この二つを、改めて、やり直すことなんじゃないかと思うわけです。

そして、そのために必要に成るのが、【「芸術」に「肉体性」を取り戻すこと】なんじゃないかと思っているわけです。

 ※ここで言う「肉体性」とは、「肉体による表現」ということではなく、「芸術
  表現」における「実体感」や「物質性」のようなものです。
  「精神性」を獲得するためにこそ、「肉体性」は不可欠なものだと考える
  わけですね。

もともと、「現代芸術」は、それ以前の「伝統的な芸術」を破壊することから出発したんだと思うわけです。
そこで、あまりに「純粋性」や「精神性」を追究したために、すべてを「破壊」してしまい、「肉体性」=「具体性」を失って、「芸術表現」としての実体を失ってしまったんじゃないでしょうか?

それで、「芸術」が、「肉体を失って彷徨う亡霊」のような状態に成ってしまったんじゃないかと思うのです。


だから、「芸術の20世紀」に置いては、新しいスタイルが頻繁に生み出され続けたにもかかわらず、いつも、実体感が希薄で、どこかしら空虚な感じがあったのは否めないのではないでしょうか?
と言うよりも、その「空虚感」自体が「20世紀芸術」の魅力の一つであると捉えられているともいえるでしょう。


現在に至るまでに、「現代美術」が相当多くの人に受け入れられるように成って来たのは確かなことでしょうが、これまで、「現代美術」が、大多数の人に積極的に支持されたことは、まだないように思うわけです。
要するに、「なんとなく受け入れられるようになった」と言う印象があると思うわけですね。


もし仮に、現在、ほとんどの人が「現代芸術的な表現」を受け入れているとしても、なぜ百年もかかったのでしょうか?


よく言われることで、『現代美術を頑なに拒んでいるのは日本人ぐらいで、他の国の人たちは、とっくに受け入れていますよ!』ということがありますけど、そういう国でも、「現代美術」が受け入れられるのには、かなりの時間を必要としたことは確かなことででしょう。

しかし、そもそも、実体のあるものであれば、こんなに長い時間をかけずに受け入れられていたんじゃないでしょうか?

また、それ以前に、「芸術」というものは、「人の心を一発で虜にするようなもの」であるハズではないんでしょうか?
百年もかけて、やっとわかるものを「芸術」と呼んでいいのでしょうか?
また、「わかる人」と「わからない人」にクッキリと分かれてしまうものを「芸術」と言えるのでしょうか?

これらのことは、全て、「現代美術」が「肉体性」を失っていることに由来していると思うのです。


「芸術の20世紀」初頭に、「芸術」は「肉体」から切り離されて、その後、現在に至るまで、「肉体」を取り戻せずにいるんだと思うのです。
つまり、「芸術」の中の「精神的な部分」だけが切り取られて、「肉体的な部分」が切り捨てられてしまったということですね。


実際、「芸術」の「精神的な部分」を抜き出すことは必要だったんじゃないかと思います。
しかし、一旦抜き出してみた後に、『やはり「肉体」も必要なんだ』ということが認識されるべきだったんじゃないでしょうか?『さて、そこで、「肉体性」で「精神性」をどんなふうに表現したらいいんだろう?』という考え方が必要だったんじゃないかと覆うわけです。


もし、そこで「芸術」が「肉体」を取り戻していれば、その後の「現代美術」は、少しづつ違ったものに成って行ったように思います。
そう成っていれば、「現代美術」が「芸術」に特に興味がない人も含めた「みんな」に受け入れられるのに、百年もかかるというようなことは無かったんじゃないかと思うわけですね。


さて、そこで、「肉体」を取り戻すためには、どうすればいいのか?ということです。


ここで、長くなってしまったので、次の記事に続けます。



「芸術」に「肉体」を取り戻す(つづき)



前の記事からの続きです。


「芸術に肉体を取り戻すにはどうすればいいのか?」ということなんですが、そうは言っても、簡単なことではありませんから、『こんな風に考えてみました』と言う程度の話ですけどね。

でも、こういうところを「投げ出さない」ということが一番大切なことじゃないかと思っているので、「結論」なんか出なくたって、考えてみるわけです。


だいたい、こういう「創作に対する根本的な意識」の話に置いて、『そんなヘリクツこねてないで、いい作品を創りさえすればいいんだよ!!』と言う態度がよくないと思うわけです。

それでは、結局、『芸術の世界で権力を得た者が上からものを言う』という形から、いつまでたっても抜け出せなくなってしまいますからね。


それに、『そんなヘリクツこねてないで、いい作品を創りさえすればいいんだよ!!』と言うのは、『わかりません』とか『結論が出ませんでした』と言うのが悔しいから、言っているだけなんだと思いますね。
要するに、言い訳ですね。


『だって、考える時間ぐらいあるでしょ!?』

『自分が一番一所懸命にやってることについて考えないで、あなたナニ考えるって言うんですか!?』

『第一、それじゃ、あなたが言っている「”イイ”作品」っていうのは、何をもって”イイ”といっているのですか?』

という感じですね。


さて、話を戻すと、『芸術に肉体=実体を取り戻すためには、どうすればいいんだろうか?』と言う話です。


これは、やはり「具象性」をもう一度見直す必要があるのだと思うわけです。

と言っても、「具象表現」に戻ったのでは、単なる逆戻りになってしまうので、そこは、やはり、「変化」しないとならないわけでしょうね。


そもそも、「具象性」を破壊しつくしてしまったために、「芸術」が「肉体性」つまり「実体」を失ってしまったのでしょうから、「具象性」を取り戻せば、「芸術」に「肉体」を取り戻すこともできるのだと思うわけですね。


しかし、そうは言っても、「具象表現」に戻らずに、「具象性」を取り戻すにはどうすればいいんでしょう?
そこで、いきなり話が難しくなってしまうわけですね。

それで、「具象」は破壊されたまま、百年以上も放置されて続けているんでしょう。
やっぱり、「抽象性」と「具象性」は共存できないということなんでしょうか?


私は、そんなことは無いと思うんですよね。

これは、考え方や捉え方の問題だと思うんですが、「抽象性」と「具象性」は対立するものではなくて、常に、一体のモノなんじゃないかと思うわけです。

つまり、「芸術表現」に置いて、切っても切れない形で、一体化しているのが、この「具象性」と「抽象性」なんだと思います。

だから、「芸術の20世紀」に置いて、「具象性」の方だけを、破壊したことの方が、よほど「ムズカシイこと」であって、その為にかなり無理してきたんじゃないかとも思うわけです。

ということは、どちらかと言うと、「具象性」と「抽象性」が一体化している方が、「より自然なこと」のハズなわけですから、ただ単に、”無理しなければいい”んじゃないかと思うんですよね。


要するに、全ての「芸術表現」は「具象」と「抽象」の間にあるわけで、言い換えれば、その両方の性質を持っているわけです。
「持っている」と言うよりは、「持たざるを得ない」と言うべきかもしれませんね。


つまり、「具象性」がないと、何も伝わらなくなりますし、「抽象性」が全くないモノを「表現」とは呼べないでしょうから、どんな「作品」にも、それらは「必ず両立している」ともいえるわけで、二つのうちどちらかを失えば、それは「芸術表現」と言う枠からも外れてしまうんだと思います。

だから、この二つの性質を”持たざるを得ない”と言う風に思うわけですね。


19世紀あたりまでの「芸術」においては、その「両立の形」が「具象の中に抽象性を取り入れるという形」であったわけです。
つまり、全体的には「具象」で、そこに個々の作家たちが、独自の「抽象性」を取り入れていたということだと思います。

ただ、ここでの「抽象性」は「具象性」と対立するモノではなく、「具象表現」に独自の解釈を加えるというようなソフトなものであったために、あまり「抽象」として意識されることはなかったんだと思います。

そして、その「両立の形」に長い間固着してきたことに、ウップンがたまっていたんでしょうね。
それで、19世紀末から20世紀初頭にかけて、「具象性」を徹底的に破壊するというスタイルが現れて来て、しかも、それが受け入れられたんだと思います。

そして、そのスタイルがあまりに斬新で、革新的に見えたために、その過程で、「芸術」が「肉体性」を失って行ったことが見過ごされてしまったんじゃないでしょうか?

しかも、そのような形で、一旦、「芸術」が極化してしまったために、その後は、「肉体性」を持ったものは「古臭いモノ」にしか見えなくなってしまい、結果的に、更に「肉体性の希薄なモノ」へと傾倒していくしかなく成ってしまったんだと思うわけです。


つまり、「虚構」へ向かって行ってしまったわけですね。


と言うところで、ちょっと長く成ったので、また次の記事に続けます。



「芸術」に「肉体」を取り戻す(つづきのつづき)



前の記事からの続きに成ります。


「芸術の20世紀」に置いて、「芸術」は「肉体」を失ったために、「20世紀美術」は「虚構の世界」になってしまったんじゃないか?と言う話でした。


さて、「芸術」が失っている「肉体性」を取り戻すにはどうすればいいのか?と言うことですね。


前の記事で、「具象性」を取り戻すことで、「肉体性」も復活されるんじゃないか?と言いましたが、どのような形で、「具象性」を取り戻せばいいのかということです。


以下、まったくの身勝手な自説ですので、アシカラズ。


これも、前の記事で書いたことですけど、「具象性」が失われる前の「芸術」に置いても、「具象」と「抽象」は両立していたんだと思います。


それは、「具象」と言う枠の中に「抽象性」を取り込むという形で、両立していたんだと思うんですが、今度は、「抽象」と言う枠の中に「具象性」を取り込んでいけたらいいんじゃないかなと思っているわけです。


つまり、昔は、「具象」が中心で、その中にスパイスのようなものとして、「抽象性」が使われていたのに対して、今度は、「抽象」を中心に据えて、「具象性」をスパイスとして使っていけたらいいんじゃないかと思うわけですね。

と言っても、どうすればいいと言っているのかわからないでしょうが、それは当たり前のことで、その「どうすればいい」は個々の作家が考えて見つけ出すことですから、ここで「どう、こう」と言えるわけがないということです。


 ※以下、主に「絵画」についての話です

ここで言えることと言えば、これは、私が考えることにすぎませんけど、「具象性」とは「立体的な形による表現」を指しているんじゃないかと思うわけです。
その「形」が「現実のモノの形」であれば、いわゆる「具象表現」ということに成ります。

そして、その「形」が「非現実のモノの形」である場合は、「抽象表現の中に取り入れられた具象性」ということに成るんじゃないかと思っています。

さて、そこで、「芸術」に「肉体」を取り戻すことに対する、あくまで、私なりの勝手な結論をいわせていただければ、

 ※これも、主に「絵画」の話です。

1.「平面性」にヒキコモルのはやめて、「立体表現」を取り入れよう!

2.「現実の形」を写し取るのではなく「形」を創り出そう!

3.「色」を”上手くまとめる”のはやめて、「色」は”非常識な幅”で使って行こう!

4.どんなに伝えにくいことでも、伝えようとし続けよう!


「平面性」を重視した画面を作れば、その絵は「デザイン的」に成って、ある意味で”オシャレな絵”や”センスのいい絵”に成るんでしょうが、「肉体性」は失われていきます。

そこは「オシャレ」や「センス」を捨てて、「肉体」を取ろうということですね。


「現実の形」を使わずに、「形」自体を作って行くことで、そこに、「その作品の中にしかない”意味”」が生み出せるんじゃないかということです。


「色の幅」を広く取ることで、「表現の幅」も広げられるんじゃないかと思っているわけです。
つまり「創り出した意味」を更に「増幅」するということに成ります。


「ムズカシイこと」をやろうとする時に、出来なくても「やろうとし続けること」が、最も重要なことなんじゃないかと思うんですね。
私が考える範囲では、それが最も「芸術的なこと」ですね。


と、こんな感じで、私は考えております。



「死を恐れること」



世のなかのすべての「恐れ」の根源が「死を恐れること」なんじゃないかと思うわけですね。


とにかく、どんなことでも「死」を恐れないでいられたら、ほとんどのことを、恐れないでいられるようになるんじゃないかと思うわけです。

つまり、どんな「恐れ」でも、元をたどって行くと、最後には「死を恐れること」があって、そこから、すべての「恐れ」が発生しているように思えるということですね。


確かに、「病気に成ること」でも「怪我をすること」でも「飢えること」でも、ありとあらゆる「恐れ」が「死」に通じているようにも見えるんですね。


ところがですねぇ。

「生きていること」っていうのも、けっこう「恐ろしいこと」なんじゃないのかなと思ったりもするわけです。
と言うよりも、「生きていること」で「死を恐れること」も生まれているわけで、生きていなければ、「恐れること」もないわけですから、
「生きていること」が、唯一の「死を恐れること」を上回る「恐ろしいこと」なのかも知れませんね。


それなのに、どうして「生きていること」は「恐ろしいこと」だと言われることがほとんどないのでしょう?


これは、たぶん、『永遠に生き続けることは絶対にない』という前提があるからなんじゃないのかなと。


実際、「生きていること」と言った場合、それを、ちっとも「恐ろしい」と思わないのに、「永遠に生き続けさせられること」と言った場合には、突然、それは「底知れないほど恐ろしいこと」のような気がしてくるわけなのです。

だから、「不老不死」は人間の究極の願望だ、みたいなことをよく言いますけど、あれは、リアリティがないから言えることで、本当は、「究極の願望」どころか「究極の恐ろしいこと」なんじゃないかと思うわけですね。

そうなると、『自分が生かされていることに感謝しています』という言葉をよく聞きますけど、あれなんかも、『自分が永遠に生かされる』としたら、「感謝」できるんでしょうか?

いや、皮肉ではないですよ。
ただ、「生きていることの恐ろしさ」を知ったうえでこそ、本当の「生きることへの感謝」っていうのがあるんじゃないかと思うということですね。


まぁ、それはさておき、「死を恐れること」の方ですけど、取り敢えず、「生きることの恐ろしさ」の方は、なかなか「永遠に生きること」に現実味を感じられないので置いといて、やっぱり、「死を恐れること」が無く成れば、「怖いもん無し」なんじゃないかと思ってしまうわけですね。


よく『死ぬ気に成ったらなんだってできる』みたいなことを言いますけど、確かに、『死んでもイイや』と思ったら、ほとんどのことが、怖くなくなるんじゃないのかなと思います。


でもですね、『いや待てよ』と、もうひとつだけ、「恐ろしいこと」があると思うんですね。
それは、「恥をかくこと」なんですねぇ。

これは、人間だけの特徴なんでしょうが、人間は、「恥をかくこと」をとても恐れているんですねぇ。
と言っても、ちょっと恥ずかしいっていうんじゃなくて、自己のアイデンティティーを失ってしまうような「恥辱」ですね。

これは、ほとんどの人にとって「恐ろしいこと」と言えるんじゃないでしょうか?


ということで、「死を恐れること」と「生きることを恐れること」と「恥をかくことを恐れること」
この三つから逃れられれば、完全に「怖いもん無し」ですね。

『・・・・・・・無理ですね』




「才能に頼らない」と言う選択



これは「芸術」に限らない話ですけど、現在、どんな分野でも、「才能」と言う言葉がかなり絶対的なものに成っていて、何をするにも、「才能」を見つけ出したり、「才能」を伸ばしたり、「才能」を磨いたりと、ありとあらゆる形で、「才能」を引き出そうとするわけです。

でも、そういうの、もうやめたほうがいいんじゃないかと思うわけですね。


私の場合、「才能」と言う言葉自体、無くしてしまってもいいんじゃないかと思っているくらいなんですけど(「個性」と言う言葉も同じですね)、少なくとも、「才能に頼らない」と言う「選択肢」があってもいいんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


これは、このブログで何度も書いていることなんですけど、要するに、「才能」と言うと、「才能がある者」と「才能lがない者」と言う捉え方をする人が非常に多いんですね。

そういう考え方が、いろいろなものを『殺している』と思いますね。


言ってみれば、ナニカが「できないこと」も「一つの才能」なわけで、『「才能がない人」なんて居るわけない!』と思うんですがどうなんでしょう?

それを、ただ単に「社会にとって有用であるかどうか」ということで、「才能がある」と「才能がない」に分けているだけだと思いますね。


だったら、最初から「才能」なんて言う言葉じゃなくて、「社会にとって有用」とか、「誰かにとって有用」とかと言ったほうがいいんじゃないかと思いますね。
それを「才能」と言ってしまうから、「才能がある人」がエラクて、「才能がない人」はパッとしない、という感じに成ってしまうわけです。

要するに、「才能」という言葉が、「才能」をつぶしているということですね。


だから、現在、「芸術」に関わる人間は、「才能を持っている人」も「才能を持っていない人」も(「有用」っていう意味での「才能」ですね)、「才能に頼らない」と言う「選択肢」を持つべきではないのかなと。


所詮、「才能で描かれた絵」なんて、もう出尽くしてしまっているわけですね。
もう、トックノトウにスッカラカンに成ってます。

「コンセプト」や「ヒネリ」や「アイデア」なんかも全部ヒックルメテですね。
そこまで含めても、もう、とっくに「打ち止め」に成ってますよね。


だから、『今だけ売れたい!』って言うんなら、それでもいいのかも知れないですけど、ナニカ『これっ!』というものを残したいなぁと思うなら、「才能がある人」も「才能がない人」も(これも「有用」と言う意味の「才能」です)、「才能に頼らない創作」を心掛けてみるという「選択肢」が必要なんじゃないかと思うわけです。


いま、「才能に頼らないで創られたモノ」こそが、本当の「その人の作品」なんだと思いますね。
「才能で創られたモノ」は、「社会にとって有用な作品」ということです。

それが悪いということは無いですが、私はそれを「芸術の中心」から遠い位置にピン止めするということです。


そういう「才能に頼らない姿勢」で創作することで、自分の中の「自分性」や「自分力」と言うものが見えて来るんじゃないかと思っています。

要するに、「技術」や「センス」みたいな、ひとから「才能」と言われやすいモノを取り除いたときに、自分の中にどれだけのモノが残るのか?ということですね。


そして、どうせ「磨いたり、伸ばしたり」するんなら、そういうところを「磨いたり、伸ばしたり」したほうがいいんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけですね。



「創作や表現の本質」は「具象」にあり、「芸術の本質」は「抽象」にある



このブログを通じて、「抽象表現」についていろいろと書いてきたんですが、それらの記事を書くうちに、気が付いたことがいくつかあります。


たとえば、前に『「絵画の本質」は「具象性」にある』と書いたことがあったんですが、それについて、その後、気が付いたことがあるので、改めて書いてみたいと思います。

 ※そちらの記事は、この記事と重複する部分も多く、ここで新たに書いている
  内容が抜けているため、誤解を招くような気がしますので削除いたしました。


前の記事で言っていたことを、簡単に言うと『「具象性」がないと何も表せない』ということです。
つまり、「抽象性」を極めようとしていくと、最終的には必ず「無」に近づいていって、何も表せなくなってしまうということですね。

 ※これは「芸術の20世紀」が証明したことの一つだと思います。
  ただ、それを証明したハズの人たちが、『具象性を排除すれば、すべて無
  に帰してしまう』という「成果のない結論」に到達してしまったことを、自ら受
  け入れることなく”うやむや”にしてしまったことは、「悲しい結果」であると
  言わざるを得ませんけどね。


だから、「絵画」に限らず、あらゆる表現に置いて、「具象性」を全く使わないで、ナニカを現すことは出来ないんだと思うわけですね。

つまり、全ての、「作品」や「表現」については、本質的に「具象的」であるというべきなんだと思います。


ところが、もう一方で、実際の「作品」や「表現」ではなく、「芸術と言う概念」についてとなると、それとは、反対に、その本質は「抽象性」にあるんじゃなかと思ったわけです。

つまり、これが新たに気づいたことというわけです。


まぁ、要するに「芸術」を「表したり、伝えたり」することを、まったく考えないで、完全に、「頭の中での作業」と考えた場合は、本質的に「抽象的」であるということですね。

そして、今回さらに気が付いたことは、これらのことが非常に混同されやすいということなんですね。
少なくとも、私自身は、何となく漠然と捉えていて、その辺のところをハッキリとした言葉で理解していなかったと思います。
それで、一度はっきりした言葉に置き換えておこうと思ったわけですね。


実を言うと、「抽象芸術」と「具象芸術」があるのではなくて、「芸術」はすべて「抽象的」であり、「それを現す手段」(「作品」など)の方は、全て「具象的」であるということなんじゃないかと思うわけです。

そして、「芸術」と「それを現す手段」(「作品」など)が、常に、「一体のモノ」として捉えられているために、このことが混同されてしまうのだと思います。


誰しも、「芸術」と言えば、「芸術作品」を思い浮かべますし、「絵画」などの「作品」を見れば、それを『芸術なんだろう』と思ってしまうわけです。

しかし、実は、「芸術」は「絵画」などの「モノ」とは違って、「物質」ではないというのが本質的なことだと思うわけです。
ただ単に、便宜上「物質」を使って現しているというだけで、「芸術」自体は「非物質的なもの」と言っていいんじゃないでしょうか?


でも、そうなってくると、「抽象芸術」と「具象芸術」とか、「抽象表現」と「具象表現」とか、「抽象画」と「具象画」とかといったことが、全部、『ちょっと待ってくださいよ』ということになってくるわけなんですよねぇ。


まず、「芸術」と言った場合は、全てが「抽象」ですから、厳密に言えば、「具象芸術」と言うものは存在しないということに成りますし、「表現」とか「作品」と言った場合には、全てが「具象」に成りますから、完全な「抽象画」とか「抽象表現」は存在しないということに成ってしまうわけなのです。


もちろん、これは、あくまで「厳密に言えば」ということですから、目指す方向性としての「具象芸術」とか「抽象画」や「抽象表現」と言う言葉があっても、さほどの矛盾は感じませんし、そういう言葉がないとむしろ不便かなとも思いますけどね。


でも、少なくとも、「抽象性」と「具象性」は、それぞれ属しているところが違っているのであって、同じ領域の中で対立しているわけではないということぐらいは、頭に置いておいてもいいんじゃないのかなと。


まとめると、「抽象性」は「芸術的思考」に属していて、「具象性」は「創作」や「表現」などの「芸術的思考を具体化すること」に属している。
そして、その二つが両方揃わないと、「芸術表現」は成り立たないということなんじゃないのかなと。


という、そんなことに気が付きました。





「絵をイジリすぎる人」



「絵をイジリ過ぎる人」っていますよね。

『えぇ、私です。ハイ』


「絵」って、イジリ過ぎると「ドンドン・ダメ」になって行くんですよねぇ。

『えぇ、その通り、私です。ハイ』


でも、ですね。
私は、やめないで、これを続けていこうと思っているわけなんですよね。


『なんで、そんなことするの?ひょっとしてアホなんじゃないの?!』

『えぇ、確かに間違いございませんです。ハイ』


『なぜ?』と問われれば、『その先が見たいから』と答えますね。
要するに、「ドンドン・ダメ」に成ったその先が見たいわけですねぇ。


『あぁ、やっぱりアホや!』

『えぇ、私もそうじゃないかと思っておりますです。ハイ』


『なぜ、山に登るのか?』

『そこに山があるから!』


『なぜ「ドンドン・ダメ」を続けるのか?』

『そこに「ドンドン・ダメ」があるから』


えー、つまりですねぇ。
高いものがあると登りたくなる。
人間の根源的な欲求ですよね。

で、私の場合、「ダメなもの」があると、その先に何か「トンデモナイもの』があるんじゃないか?と見に行きたくなるわけなのです。

それで、「絵をイジリ過ぎている」わけですね。
つまり、『もういいかな』っていうときに、『いや、まだまだ』と戻すわけですね。
それで、「ドンドン・ダメ」に成って行くわけですが、そこから、諦めずに、「モット・ドンドン・ダメ」にして行くんですねぇ。

「アホ」です。


でもですね、私は「芸術」ってそういうもんなんじゃないかと思うんですよね。
つまり、『無駄に見えることを一所懸命に成ってやる』ってことですね。

少なくとも、今、「芸術」が置かれている位置はそういうところなんじゃないのかなと。
だから、やめないでこれを続けていこうかなと。


そんな風に思っているわけですね。




「秘題」と言う考え方



「芸術作品」のタイトルで「無題」と言うのがありますよね。
あれが、どうも好きになれないわけです。

『すごくイヤ!』っていうほどじゃないんですけど、『あぁ、無題ね』っていう感じで、もう見飽きちゃってるわけですよね。
(さすがに、最近少なくなったみたいですけどね。『それもまた流行りかよ!』って思います)


とは言え、ここまで言っておいてなんですが、いざ、『「題」をつけろ!』と言われれば、自分自身も困ってしまうという状態なわけなんです。

まぁ、要するに、「抽象画」なんかに「題」をつけにくいということは、頭ではわかっていても、「題」をつけないということが、どこか「潔くない」と言うウシロメタサみたいなものがあるということなんですね。


でも、最近に成って「秘題」と言う考え方ならいいかなと言う風に思っているわけです。


要するに、同じ「題名がない」ということでも、本当は「題があるんだけど、それが隠れている」ということですね。
或は、「題」はあるんだけど、それを「言葉にはできない」と言ってもいいでしょう。

 ※こういうの、他にも言っている人がいるんじゃないでしょうか?
  もし、そうなら、もう少し普及させてもいいんじゃないかと思いますね。


いずれにしても、「題が無い」じゃなくて、「題はある」んだけど、それが示されていないだけ、言い換えれば、「題名」は無いけど「題」はあると言う感じですね。
「題がある」ということで、少しイイんじゃないかと思うわけです。

『それって、単なる、言葉上の問題なんじゃないの?』と言われれば、『その通りです』ということなわけですが、でも、「言葉の問題」と言うよりは「意識の問題」と言ってほしいということですね。


自分のことで言えば、なんとなく「無題」と言われると拒絶されるような感じがあったんじゃないかと思います。


初めは、「抽象画」が「無題」なのは、むしろ当然のことだと思っていましたし、『この作品にタイトルをつけろと言う方が無理』っていうのも多いんでしょうから、どうとも思っていなかったと思うんですけど、あまりに繰り返し「無題」という「題」を見せられるので、だんだん、誤魔化されているような気分に成って来たということがあったんだと思います。

何をどう誤魔化されていると思ったのかは、自分でもわかりませんけどね。


それで、いつの間にか「無題」を見るたびに、心のどこかで、『なんか、タイトルをつけろよ!』って思うように成っていたような気がします。
(あと、どこがどう「作品」と結びついているのか「さっぱりわからない題」というのもよくある。)


「その作品の目指すところ」っていうんですか?
そういう、「その作品で作者が示したかったモノ」っていうのが、ほとんどの場合はあるんでしょうから、それをタイトルにした方が「潔い感じ」がするわけですね。

とは言え、やっぱり「抽象」に「題」をつけるのは難しいでしょうから、その辺で、「秘題」っていうのも「アリ」なんじゃないかと思うわけです。


「無題」と言うと、どこか見る者を拒絶しているようなところがあると思うんですが、まぁ、例えばの話、『勝手に具象みたいな解釈をつけないでください!!』とか、『これ〇〇みたいに見えるんですけど、どうなんですか?なんて言われても困ります!!』と言う感じで、見た人が率直に感じたままを言うと作者に叱られそうな気がするわけですね。

「無題という題」が、そういう「見る側の解釈」を拒んでいるように感じてしまうことがあるんですね。

でも、「秘題」だと、見た人が「題」(テーマ)について想像してもいいのかな?っていう気持ちに成れるような感じがするわけですね。
(まぁ、そううまくもいかないんでしょうが)


それに、「作者」が「無題」の作品に、ニックネームのようなものをつけて、自分の中だけで呼んでいることなんかもあるんじゃないかと思うわけです。
(私はあります)

そういうのって、まさに「秘題」ということなんじゃないかなと。


そんな感じで、『題名は無いけど、題はあるんですよ』と言う考え方もあっていいんじゃないのかなと。

そんな風なことを考えております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

追記

この記事を書いた後、しばらくしてから、「抽象画」にも「題」をつけられるんじゃないかと思うようになりました。
(これについては、「長い題=詩のような題」というカテゴリに書いています)

「作品のタイトル」と言うよりも、『見た人に語り掛ける言葉』というイメージです。

私は「腰の低い抽象芸術」と言うのを目指していますから(要するに、『できる範囲でわかりやすくするけど、出来ない範囲ではわかりやすくしない』と言うようなことです)、こういうことで、少しでもわかりやすく成ればいいかなと。

まぁ、そんな風に思ったというわけです。


最近の流行りとしては、抽象的な作品にも、やや無理をしてでもタイトルをつけるという感じに成っているようですが、『その「タイトル」が、またワカリニクイ』と言うことが多いんですねぇ。

要するに「タイトル」が一種の「ナゾナゾ」みたいになってるんですねぇ。


でも、どうせ「題」をつけるなら、見る人の立場に立ってつけようかなと。

そんな風に思うわけです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR