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「絵画」の「モノ化」



「絵画の歴史」を一番初めの段階まで遡っていくと、おそらく、地面や洞窟の壁なんかに描かれた絵に行き着くんだと思います。
そういう、おおもとのところで壁などに描れていたことから、古い時代の「絵」は建築装飾など、何かしらのデザインとしての「絵」であることが多いんだと思うわけです。


そういうナニカの「意匠としての絵」から、徐々に発展していって、いわゆる「タブロー(独立した表現としての絵)」としての「絵画」に成るのには、かなりの年月を要したんようですが、その「意匠としての絵」から「独立した絵画」への歴史と言うのは、「装飾の一種としての絵」から「芸術作品としての絵画」への歴史でもあると思うわけです。

つまり、作者の「自己表現」として独立していったということなんだと思います。


独立したから「自己表現」としての性格を持つようになったのか、「自己表現」の部分をを強く出したくて「独立した絵画」の方向に進んだのか、そこのところは、今となってはどちらなのかわかりませんけど、少なくとも、「独立すること」は「絵」が「芸術としての絵画」に成るためには必要なことだったと思うわけです。


つまり、それまでは「他のモノ」に何らかの形で依存していた「絵」が、「芸術作品」として独立して「モノ化」したわけですね。

 ※ここで言っているところの「芸術表現としてのモノ化」は、どちらかと言えば、
  むしろ「精神化」・「思考化」であって、「物質化」とは反対の方向性を持って
  いるということになります。
  つまり、その前の時代までは、「芸術」=「作者の自己表現」という方向性自
  体が希薄だったという前提で、その「芸術」が「自己表現」として確立されて、
  独立した「モノ」に成ったことを「モノ化」と言っているわけです。


ただし、これは「モノ化」と言っても、あくまで、「芸術というモノ」であって、「物質」と言う意味での「物」ではないわけです。
結果的に「モノ化」することで、かえって「精神性」が強調されたということであって、「物質的な性質」が強調されたと言うことではないと思うわけですね。


この「モノ化」には程度と言う問題もあるんだと思います。


つまり、更に「独立性」を高めていって、「世界と切り離された存在としての絵画」を目指すとか(例えば、見る者の理解を拒んでいる絵のような)、「物質」から抜け出して、「精神性」をさらに高めるために、「モノ化」自体を切り捨てるとか(こちらは「パフォーマンス」などの「非物質的な芸術表現」ということですね)と言った、「モノ化」のレベルにかなりの幅があると思うわけです。


しかし、この「モノ化」は、そこまで「極める」必要があるものでも無いような気がします。

要は、「独立」してさえいればいいわけで、それは一種の「約束事」として、『これは独立した芸術作品ですよ』と言う「約束」の下に、それが存在していることに意味があるわけです。

だから、その「約束」が成り立っていれば、それ以上「モノ化」の程度を、、高める必要はないんじゃないかと思うわけですね。


この「モノ化の程度」に必要以上に固執すると、どうも「芸術」としての方向性が見失われる傾向が、あるんじゃないかと思っているわけです。


「モノ化の程度」=「芸術の程度」と言う発想で考えていくと、結果的に、『より「芸術」でありさえすれば、内容なんて大した問題じゃないんだ!』と言うようなことが起きて来るように思います。


「モノ化」は、あくまで「芸術の独立」のためのものであって、「芸術」のためのものではないんだと思うわけです。
だから、「約束事」としての「独立性」が確保されていれば、それ以上に「モノ化」を極める必要はないんじゃないのかなと。

本当に、極めるべきは「自分」ではないのかなと。

極めるというよりも「見極める」と言うことなのかもしれませんね。

そんな風に思います。


 ※ここで言う「モノ化」には「独自化」の意味も含まれますから、「自分を見極めること」
  も含まれますが、それは「独自性」を「人と違うこと」と考えるか、それとも、「自分であ
  ること」と考えるかで、意味が違ってきます。
  「人と違うこと」は「ひと」が基準に成りますが、「自分であること」は「自分」が基準に
  成るわけです。
  必要以上に「モノ化」を追っていくと、どうしても「人と違うこと」をやらなければならなく
  成ってしまいます。
  それで、結果的に「芸術表現」としての「自己」を見失ってしまうこともあると思います。


「歳をとる」の種類



このブログでは、『歳をとることが、もっと尊敬されてもイイんじゃないか』と言っているんですが、それは、『歳をとった人はみんなエライ』ということでも無いわけです。


実際、歳をとっていても、『なんなんだ、こいつは!』っていう方はクサルホドいらっしゃいますよね。

そういう個々の人の話ではなくて、「歳をとること全般」の話として、『歳をとることは、もっと尊敬されてもイイんじゃないか』と言っているわけです。


少なくとも、誰でもみんな「歳をとる」わけですから、「歳をとること」が尊敬されないということは、『全ての人が死ぬ時には尊敬されない状態で死んでいく』ということに成るわけです。

まして、その「尊敬していなかった人たち」が、その後、年を取って行くわけですから、『全ての人が自分を否定した状態で死んでいくハメに成る』ということですね。


これは、ちょっとどうなんですか?
これを受け入れられる人っているんですかねぇ。

私には到底シンジラレナイわけです。
だから、「歳をとること」を劣化とみるような風潮があることは、とても愚かなこととしか思えないわけなんですよね。


そうは言っても、「尊敬できない年寄り」が居ることも、また否定はできないわけです。
それは、恐らく「歳をとるの種類」が、いろいろあるからなんだと思うわけです。


そもそも、「歳をとる」と言っていますけど、『ただ単に時間が経過すれば歳をとるのか?』って言う問題があるわけです。


まず、子供の場合だと、ほとんど「白紙」の状態から、いろんなことを吸収していきますから、日々色々と進歩しているわけですよね。
だから、ほとんどすべての子供は、時間とともに「歳をとって」大人に成るということですね。

でも、一旦大人に成ると、ほとんどの人が、必要最低限のことしか吸収しなくなって、必ずしも、「日々色々と進歩」するとは限らなく成るわけです。
だから、人によって「歳をとる」にチガイが出て来るんでしょうね。


その「チガイ」の部分が「歳をとるの種類」なんだと思います。


大人に成ってからは、精神的にまったく変化しなくなってしまう人もいますよね。
そういう人が、多いので、「歳をとること」の中の「肉体的な変化」だけが目についてしまって、「老化」=「劣化」ということに成ってしまうんだと思います。


でも、その反面、子供と同じぐらいに、いつも変化し続ける人もいます。
こちらも「肉体的な変化」に置いて、衰えていることに変わりはないんでしょうが、むしろ、全体としては成長しているように見えることが多いですね。

長い年月の中での、こういうチガイはとても大きいんじゃないかと思うわけですね。


ただ、必ずしも、「たくさん変化し続けた人がエライ」ということでも無いんじゃないかと思います。
ただ単に、「一切変化しない」と言うような、凝り固まった状態に成ってさえいなければ、そこでの時間の経過は「歳をとること」に成るんだと思っています。

そういう種類の「歳をとること」を、私は”エライ”と思ってしまうわけなのです。


そして、そういう「歳をとること」が社会の中で尊敬されるように成って行けば、今よりも、少しいいんじゃないのかなと。


そういう風に思っているわけですね。


 ※こういう形で「年を取った人」というのは、けっこうたくさんいるんだと思います。
  必ずしも、知識階級の人とは限らないと思います。
  例えば、生涯を通じて農業をやってきた人でも、日々工夫や研究を重ねている
  人もいますし、買ってきた種や肥料をまいているだけの人もいると思います。
  それとは逆に、研究者や学者であっても、誰かの学説を信奉して、それを踏襲し
  続けることで、学術的に高く評価されるようになる人もいるでしょうし、独自性の
  高い研究をした人でも評価せれない人もたくさんいるでしょう。

  つまり、私は、「ただ、種をまいたこと」や「ひたすら踏襲し続けたこと」を、「変化し
  た」とも「年を取った」とも言わないと思うわけですね。




「天才」も努力すれば、きっと「凡人」に成れるよ!



「凡人」も努力次第で「天才」に成れるのか?と聞かれれば、『成れません、無理です!』ということに成るんでしょうけど、じゃあ、「天才」は努力次第で「凡人」に成れるのか?ということだったらどうなんでしょうね?

『ハイ!もちろん成れますよ!』ということなんでしょうね、たぶん。


でも、待てよ。
やっぱり努力しないと成れないのか?
「天才」が「凡人」に成ればいいんだから、努力なんかしなくてもいいんじゃないの?


そうはいかないんですね。

「天才」は努力しなくても、”いろいろなことが出来てしまう”んですね。
それじゃあ、「凡人」には成れません。

だから、やっぱり努力しないと「凡人」にはなれないわけなのです。


同じことが同じようにできるにしても、「努力して出来る人」と「努力しないで出来る人」が居た場合、「努力しないでできる人」の方が「天才性」が高いというようなことですね。

だから、努力すれば、その分だけ「凡人」に近づくことが出来るというわけです。


何が言いたいかと言うと、過去に置いては、「凡人」と「天才」だったら、「天才」に成ることの方に、圧倒的に価値があったんでしょうが、現在においては、そうでもなくなってきているんじゃないか?ということなんですね。
と言うよりも、「天才」では足りなくなってきているということです。

つまり、過去に置いては「天才」で十分だったのに、現在に置いては、「天才」が不十分になって来ているんじゃないか?ということなんですね。

さて、そこで「不十分なもの」を「天才」と言えるのか?っていうことに成るわけです。
それで、私は「天才の時代は百年前に終わっている」と思うわけです。

実際には百年前に終わっていたことが、今になって現れてきたということですね。


それはともかく、何が不十分に成ったのかと言うと、単純に言って”飽きてきた”ということだと思います。


今は、まだ「天才」と言う言葉に、社会全体が依存してしまっていますから、”飽きている”ことが見えにくいということなんでしょうが、そもそも、「依存」と言うのは、そういうもので、実際には、もうウンザリしているのに止められないし、自分がそういうウンザリした状態に成っていることは、見えなくなっているということでしょう。


いま、本当に求められているのは、「凡人」がどこまでやるのか?って言うことなんじゃないかと思うわけです。


人間が「宇宙の存在」を知って、その広がりには際限がないことを意識するように成ってから、また、「時間と言う軸」の不思議には
人間は到底及ばないだろうということを考えるようになってからは、人間にとって、「高さ」や「速さ」などの、それまで「良い」とされてきたものは、競い合う意味のないものに成ったんじゃないかと思います。


つまり、それらの「不思議」に比べてしまうと、「人間の高さ」や「人間の速さ」はあまりにも小さくて『競い合うほどでもないんじゃないかな?』と思ったということじゃないでしょうか。


それで、そういう「一つの頂点」に向かう「天才」と言う存在にも、”飽きてきてる”んだと思います。
「ドングリの背比べ」の「天才」だったら「天才」と呼ぶ意味がないですからね。


あと、もう一つには、『天才にも普通の人として生きる権利を与えましょう』ということがあるわけです。

「天才」であることで「早死に」しなければいけなくなりますし(実を言えば、長生きした天才は沢山いますし、早死にした凡人はもっと沢山いますけどね)、「普通じゃないこと」をやらないといけなくなりますから、ナニカにつけて、不都合なこともあろうかと思いますので、「基本的人権」の一つとして、「天才」にも「普通の人として生きる権利」が与えられるべきなんじゃないかと思うわけですね。


そんなことからも、『「天才」も努力すれば、きっと「凡人」に成れるよ!』と言いたいわけなのです。

そうすれば、もしかしたら、「超・凡人」にだってなれるかもね。
まぁ、「超」がついても、つかなくても、「凡人」は「凡人」なんですけどね。

「超越」しちゃったら、また、「天才」に戻っちゃいますからね。


まぁ、もう少ししたら「凡人の時代」に成ると思いますよ。
取り敢えず、もう、「神の時代」も「天才の時代」も終わってますからね。


『それは、いつごろ来るんですか?』

「まぁ、そのうちにね、でも、成ってからじゃ間に合わないよ!」

『ナニに?』

「いろんなこと!」

と言う風に思います。



「パレット」を持って制作している人ってどのくらいいるんですか?



「パレット」を手で持って絵を描いている人って、どのくらい居るもんなんでしょうね?
「ベレー帽をかぶっている絵描きさん」と同じぐらいと言ったところでしょうか?

いずれにしても、「パレット」は「置きっぱなし」っていう人はかなり居るんじゃないかと思います。


何が言いたいかと言うと、「パレット」の「指穴」なんですね。
「指穴」って、ほとんどの「パレット」に空いてますよね。
(「紙パレ」にも空いてるくらいですからねぇ←あれ、使う人本当に居るんでしょうか?)


でも、正直言って、要らないです。
と言うか、ジャマでショウガナイですね。


あれは、とにかく、「パレット」を専ら置いて制作する人にとっては、「資源と手間の無駄遣い」でしかないと思いますね。

どうして、「指穴がないパレット」を普通に売ってくれないのか、理解に苦しむんですよね。


私の場合は、市販の「パレット」よりも大きなものが欲しかったので、厚手のシナベニヤに樹脂とリンシードオイルを塗って使っているんですけど、普段は、その上に「市販のパレット」を置いて、二重にして使っています。
(チューブから出した絵具は自作のパレットの方に置いて、混ぜる作業は市販パレットで行っています)


スペースが足りなくなったときに、「市販のパレット」の方をどかして、新しい色を置くスペースがつくれるので便利なんですね。
これだと、「市販のパレット」に出ていた色に戻ることもできます。


でも、どっちを使っている時も、基本的に「置きっぱなし」なので、「指穴」に指を通して制作することは、めったに無いですね。
(「穴」があると気に成るので、時々意味もなく指を通して見たくなりますけどね)

そういう「置きっぱなし派」にとっては、あの「指穴」が、とにかくジャマでしかないわけです。


人のことは、よくわかりませんけど、おそらく、今の絵画の制作スタイルからすれば、「パレット」を置いて制作する人も多いような気がするんですけど、どうして、「指穴」がない「パレット」が売ってないんでしょうね?

まったくもって、理解不能です。
(いきなり「大理石パレット」とかじゃなくて!)


いや、「指穴」のある「パレット」があったっていいと思うんですけど、『無いのもあっていいんじゃないの?』という気がするんですが、どうなんでしょう?

まさか、ただ単に、誰も作らないだけなんてことないですよねぇ?
「お客様の声」なんて言うの、無いんでしょうか?

「画材」って、こういうのが多いような気がするのは、私だけなんでしょうか?
旧態依然と言うんですか?

なんとなく古めかしいスタイルのモノが、イイような気がしてしまうんですね。
(私もそうですけど)


でも、明らかに変えた方がイイモノについては変えてほしいなと。

そういう風に思っているわけです。


追伸

ついでに、「油壷」も何とかして欲しい!
こちらも、「パレット」をもって使わない場合使いにくいし、なんといっても、全般的に小さい!

「100均」で売ってるような「単なるガラス容器」みたいなのじゃなくて(使ってますけどね)、『おぉ、これよくできてるわ、使いやすいよ!』
そういう、一工夫あるヤツ。

お願いします。
(いったい、誰に?)




「真実の手がかり」としての「美しさ」



私は、「真実」を追究して、それを現すことこそが、「芸術」の目的なんだと思っているわけですが、その「真実」は、到底、人間の手に届かないところにあるものなので、なかなか現すことが出来ないという現実があるわけです。

それで、「真実」を現すためには、何らかの「手がかり」を使って、それを、見極めたり表現したりする必要があるんじゃないかと思っているわけです。

そして、その「手がかり」として、最も有力と思えるのは、やっぱり「美しさ」なんじゃないかと思うわけですね。


とは言っても、「真実」への「手がかり」は、何も「美しさ」だけではなく、たとえば「醜さ」であっても、あるいは、もっと「中間的なもの」であっても、イイんだと思います。


「真実」はすべてを含んでいるハズですから、あらゆるもので現すことが出来るという風にも考えられるわけです。
(そのことによって、かえって「真実」を現すことが難しくなってしまうんでしょうけど)


その中で、どうして「美しさ」を「真実の手がかり」として使おうとするのかと言えば、私は、「本質に近いもの」は美しく、「本質から遠いモノ」は美しくないと思っているからなんですねぇ。


要するに、「本質に近いもの」は「真実」にも近いだろうということです。
そして、それは、きっと「美しいもの」なんじゃないかと思うわけですね。


また、それが一見すると、「醜いモノ」であっても、「本質に近い所の醜さ」であれば、自然と「美しさ」を帯びて来るんだろうと思うわけですね。
それは、「暗い感じの美しさ」なのかも知れませんけどね。
(そういうのも好きですね)


そういった意味で、「美しさ」が、「真実の手がかり」となって、それを伝えてくれるものなんじゃないかと思っているというわけです。

だから、全てのものの「本質」に迫るような「美しさ」を作り出してみたいものだなぁと、そんなことが出来たら、とっても嬉しいんじゃないかなぁと、いつも思っているわけなのです。


まぁ、出来ないですけどね。
出来たら、そこで終わっちゃいますから。
出来ないからこそ続けられるのかなと。


そんな風に思ってやっているわけです。



「サイン」と言う行為



私は、どうも、「作品」の片隅に「サイン」を入れるという、あの行為が好きになれないのです。
実際、今までに、「作品」に「サイン」を入れたことは一度もありません(たぶん)。


他人が「サイン」を入れることについて、とやかく言うつもりはありませんけど、自分のことに限って言うと、どうしても「サイン」を入れる気にはなれませんね。


どういえば、上手く説明できるのかわかりませんが、敢えて言えば、「サイン」を入れると、「自分がエライと言っていること」になってしまうような気がするわけです。

それで、「サインと言う行為」を受け付けられないというわけですね。
(まぁ、実際に偉く成るわけではないですけどね)

それとは全く逆に、『この作品についての責任は私が取りますよ』と言う意味で、「サイン」を入れるという人もいるのかも知れませんが、今のところ、私はそういう人に会ったことがありません。


けっきょく、「サイン」を入れる側がどう思っていても、絵を見た人はほとんど、「エライ」の方に近い意味で「サイン」を解釈するんだと思います。


それともう一つ、『絵でサインしたい!』ということもあります。


つまり、「絵」を見て誰の「作品」なのかがハッキリとわかるのならば、「サインと言う行為」は必要なく成るということです。


『誰の作品かがハッキリわかって』
『描こうとしても、他の誰にも描くことが出来ないような』
『そして、自分ですら、二度と同じものを描くことが出来ないような』

そんな「絵」を描きたいもんだなと思っているわけです。


そうすれば、「サイン」は必要なくなるんじゃないのかなと。

「サインと言う行為」を受け入れてしまうと、「そういうモノ」は描けなくなってしまうんじゃないのかなと。


そんな風に思っているというわけです。



「芸術」は「弱者の嗜み」だと思うのです



「芸術」って、「強い者」と「弱い者」で言ったら、「弱い者のモノ」なんじゃないかと思うわけです。


いや、別に「芸術」をやる人がみんな「弱い者」だというわけではないですよ。
それに、必ずしも、「弱い者」の方が「芸術」に向いていると言う話でもありません。


ただ、やっぱり、「芸術」は、どちらかと言えば、「優しい人」や「弱い者」の側にあって欲しいなと思ってしまうわけなのです。
たぶん、そういう人の方が「人間的」な感じがするということなんだと思います。

まぁ、私jは「芸術」にとって「人間性」が一番大事だと思っているんで。


もちろん「強い人」が悪いということはありませんし、「強さ」が無ければ「本当の優しさ」もないでしょうから、「弱いだけ」でもダメなんでしょうが、そういうことを全部ひっくるめたうえで、敢えて最後のところで言えば、どちらかと言うと「弱い者の側」ということですね。


何が言いたいかと言うとですね、「現代の芸術家」が「強い者」を演じているように思える時があるわけです。


本当は、どちらかと言えば「弱い側」なのに、無理に「強い側」であろうとしたり、「自分の強さ」と「作品の強さ」が比例しているというイメージを作り出そうとしているように見える時があるんですね。


でも、「芸術の強さ」は「弱さを認めると言う強さ」なんだと思うのです。
或は、「自分の弱さに踏み込む強さ」なのかも知れません。

だから「弱い側」に立たないと見えてこないものなんじゃないかなと。

つまり、「作者の強さ」と「作品の強さ」とは、むしろ、反比例するという傾向があるんじゃないかと思うわけです。


そこのところを、「過去の偉大な芸術家のイメージ」に振り回されて、「強い者」を演じているように見える時があるわけですね。


実のところ、「過去の偉大な芸術家」と言っても、歴史の中で作り上げられた「虚像」の部分を取り除いたら、意外と「弱い側」だったりすることも多いような気もするし、何かしら「ドロップ・アウト」した後で、傑作を生み出したケースなんかもあるようなので、そんなイメージに左右されることに意味はないでしょう。


まぁ、いずれにしても、「芸術」くらいは、「弱い者の嗜み」ということにしておいてもいいんじゃないのかなと。

そんなことは、通りませんでしょうか?



「没個性」と「消個性」



「没個性」と言う言葉がありますけど、「消個性」と言う考え方もあるんじゃないかと思うわけです。
つまり、「個性を消す」ということですね。


「没個性」の方は、「初めから個性が無い」と言う風に聞こえてしまうんですけど、実際に、「初めから個性が無い人」なんて、居ないと思うので(と言うか、もし居たら「かなり珍しい人」なので、むしろ「個性的」なんじゃないかと思いますね)、どちらかと言うと、「消個性」の方が正しいような気がしてしまうわけです。

 ※「没個性」は正確に言えば「埋没した個性」ということでしょうから、本人の意思
  とは無関係に、「全体の中に個が埋没した状態」ということに成るんでしょうね。
  「消個性」の方は「意識して消された個性」ですね。


だいたい、「個性」は、たいてい「イイモノ」ということに成っていますけど、じつは、「個性」の中で「イイ部分」と言うのは極わずかで、
本人にとっても、周りの人にとっても「イヤなモノ」の方が多いんじゃないかと思うわけです。

なにせ、その人の「その人な部分」が「個性」なわけですから、他人にとっては、受け入れにくいことが多いのは当然のことなんだと思います。

また、本人にとっても、「自分らしさ」が「イイモノ」とも限らないわけですから、「個性」=「イイモノ」と言う公式は必ずしも当てはまらないんじゃないかと思うのです。


そんな中で、「誰かにとって都合のイイモノ」をピックアップして、「個性」と呼んでいたりする傾向がありますけど、そんなものが「本物の個性」であるわけがないですね。

それどころか、そう言うモノこそ最も「没個性的なモノ」であると言わざるを得ないわけなのです。


そういう「人から褒められそうな個性」をネラッテいった結果が、まさに、ここで言う「消個性」なわけです。
つまり、「個性」の中で、「イヤなモノ」を”消して”「イイモノ」だけを人に見せようとする、そういう「小細工」を「個性」と呼んでいたりするわけです。


その「小細工」が上手くいけば「個性」、シクジッテ見透かされれば「没個性」ということに成っているわけですね。
しかし、実体としては、どちらも「没個性」であり、「消個性」でもあるわけです。


「本物の個性」とは、必ずしも「イイモノ」とは限らないということが、当たり前に成れば、「個性のある人」と「個性のない人」なんて言う分け方はあり得ないということもまた、当たり前になるんじゃないかなと。

それから、「個性を伸ばす」と言う言い方がありますけど、あれなんかも、どう考えてもオカシイわけで、「ナニもしなくても、その人の中にあるモノ」こそ「本物の個性」なわけですから、「伸ばそうというネライで伸ばしたモノ」が「本物の個性」であることは無いわけです。


だから、「個性」とは、好むと好まざるとに関わらず、全ての人の中にあって、むしろ、捨てることが出来ないモノなんだと思います。
ただ、それをまるごと人目にさらすのには、「少しの決断」が必要に成るということですね。


さて、こんなに回りくどい状態に成ってしまっている「個性」と言う言葉を、まだ、使い続けなければならないもんなんでしょうか?
(と言いながら使ってますけど)


私の中には、そういう疑問があるわけなのです。



「真面目さ」



なんたって、「真面目さ」が大事だと思うんですよね。
本質的な意味で「真面目さ」が無いようなものって、不要だと思ってしまいますねぇ。


と言っても、「不真面目」が嫌いと言うのとはチョット違います。
「不真面目なもの」が嫌いなんじゃなくて、「真面目さがないもの」が、無意味にしか思えないんですね。


もともと、「真面目」とか「不真面目」って、人間にしかないんじゃないかと思うわけです。

動物は、人間ほどは「論理思考」に縛られていませんから、かなり、本能に忠実に生きていられるわけですね。
だから、行動のほとんどか、すでに遺伝子レベルでプログラムされているわけで、その個体の「真面目さ」や「不真面目さ」が差し挟まれる余地があまりないんでしょう。


つまり、「真面目」や「不真面目」は「人間的」なんですね。
そういう点では、「真面目」も「不真面目」も、だいたい同じようなものなんじゃないでしょうか?

要するに、両方とも同じくらい「人間的」な感じがするわけですね。


ところが、「真面目さがないもの」については、あまり「人間的」な感じがしないわけです。
ある意味では、「不真面目さがないもの」についても同じかもしれませんね。


これは、「真面目さ」や「不真面目さ」が、「人間の本質」に近いものだということなんだと思います。

そして、そういう「真面目さ」や「不真面目さ」が”ない”ということは、「人間の本質」を失った状態なんだろうなと思うわけですね。


じゃあ、どういうものが「真面目さがないもの」なのか?と言うと、たぶん、「真面目さをバカにすること」なんじゃないかと思いますねぇ。

ということは、「不真面目さがないもの」の方は、「不真面目さをバカにすること」なのかと思うと、『いやいや、「不真面目さをバカにしないこと」でしょ!』と言う気もするので、こちらは、どうも、ややこしくなりそうなので、置いといて、取り敢えず、「真面目さがないもの」の方は、「真面目さをバカにすること」だろうということで。


「真面目さをバカにすること」には、まったく意味がないと思いますね。
と言うよりも、あらゆるものを「意味がないモノ」に変えてしまうような気がします。

「真面目さをバカにする」と、全てのモノが”シラッチャケテ”しまうんですね。
「真面目なモノ」には、必ず「色」があるわけです。
「不真面目なモノ」も同じですね。

でも、「真面目さをバカにする」と、いっぺんに「色」が無く成ってしまうわけですね。

全てのモノが、どうでもよく成って、オモシロクナイ、クダラナイ、シッタコッチャナイ、と言うような、何の意味もないモノのようにしか見えなくなってしまうわけなのです。


だから、「真面目さ」をバカにするようなことは、「百害あって一利なし」ですね。


そんな風に思います。






「子供」を「親」から引き離すという選択肢



現在の日本社会における、「幼児虐待」や子育て中の両親の「イライラ度」などを見ていると、「子育て」を両親に任せていて大丈夫なのか?と思ってしまうわけなのです。


「少子化」や様々な「文明の利器」によって、「子育て」や「家事労働」の「肉体労働的な部分」は、圧倒的に軽減されているハズなのに、それとは裏腹に、現在の「子育て中の親」は、常にに苛立っていて、その「八つ当たり」の対象は多くの場合「子供」なわけです。

そんな状況の中で、「児童虐待」の報道などを見るたびに思うことなんですが、そういうケースでは、どう考えても「親に育てられること」が「子供の不幸」と直結しているわけです。

あまりにも「不幸」なので、救いようがないと感じてしまうほどです。


そうなると、『本当に、子育てと言うのは両親がやらなければいけないモノなのか?と言う疑問が生じてくるわけです。

つまり、「虐待」などの個別のケースに対応するのではなく、初めからすべての子供について、「両親による子育て」を諦めて、国家や自治体が、ごく幼い時期の幼児の段階から、「両親」と「子供」を引き離して、「子育て」を公共団体が行うという選択肢も、視野に入れていかなくてはならなくなっていくんじゃないか?と言う気がしてしまうわけですね。


これは、もちろん、財源や運営方法など、「可能か?不可能か?」ということは抜きの話ですけど、それ以前に「両親から子供を引き離す」と言う選択肢が「アリか?ナシか?」ということですね。


まぁ、要するに、私は「アリ」だと思うんですよね。


非常識だとは思いますし、「親の愛情」云々と言うことを考えれば、当然無理もあるわけですけど、それを上回るくらいに、「親のイライラ度」が上がってしまっているんじゃないかと思うわけです。


それに、「施設で育った子供」が「出来が悪い」ということでも無いと思いますし、その子たちが「不幸」だとしたら、それは「施設で育てられた子供」と「親に育てられた子供」が居るから、その格差による部分もかなり大きいんじゃないかと思うんですね。

みんなが、同じように教育施設で育てられるように成れば、少なくとも、「差」は少なくなると思います。


もちろん、理想を言えば、「両親」が子育てをするのがイイんでしょうが、そういう理想論が空虚に感じられるほど、「親のイライラ度」が高まってしまっていて、実際に「ヒドイ虐待」を受けているようなケースでなくても、現在の日本社会で育てられる子供と言うのは、社会全体から「まんべんなく緩やかな虐待」を受けているようなものだと思うわけです。


ただ、教育施設で「虐待」が起きることもあるでしょうから、そこのところを、クリアするのは難しでしょうが、取り敢えず、「公による子育て」や「衆人環視の下での子育て」ということが必要になって来ているように思いますね。


そんなわけで、「子供」を「親」から引き離すという選択肢は「アリ」だと思います。


さて、話は違いますけど、そうなると、「少子化」はどちらに傾くんでしょうか?
「子育て」と言う「生きがい」を失って、より一層「少子化」へ向かうのか?
それとも、負担が軽くなって「子だくさん化」へ向かうのか?

また、どちらに転ぶとしても、それは「なぜ?」なんでしょうか?

見当もつかないですね。


いずれにしても、「現在の子育て」は個人には重すぎるのかも知れませんね。
「それが出来る人」もいるでしょうが、「それが出来ない人」が増えてきているということなんでしょうね。

この状況からは、簡単に抜け出せないような気がしますね。

悲しいことではありますけど。


まぁ、そんな風に思うわけですね。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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