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抽象だけど「形」重視



「抽象画」と言うと、「立体表現」を使わないことが多いと思うわけですけど、実は、「抽象画であること」と、「立体表現を使わないこと」とは、必ずしも、関係ないことだという考え方もあっていいんじゃないかと思うわけです。

 ※ここで言う「立体表現」とは、大雑把な言い方をすれば、光と影を使って
  形を現すというようなことです


私は、「抽象」とは「物事の本質を抽出して現すこと」だと思っているんですが、「本質」と「立体表現」が、相反しているということは無いと思います。
と言うよりも、現在言われているような「抽象」と言うのは、「抽象」と言う概念全体の中のごく一部の、言ってみれば「極」の部分で、そういう「極」の性質と、「立体表現」が相性が悪いということなんじゃないかと思うわけです。


「極」とは、つまり、同じ「抽象」でも、「この世界全体の本質を抽出するような表現」ですね。
そういう極端な「抽象」が、いま言われているところの「抽象」で、そういう絶対的な普遍性を求めた場合、「立体」と言う「限定された枠組み」が邪魔に成るということなんんじゃないかと思うわけです。


また、そういう「極」が悪いということは、もちろん、ないんですが、そういうのは、限りなく不可能に近いんじゃないかとも思うのです。
あまりに普遍的過ぎて、「何も表していないこと」とほとんど同じようになってしまうんだと思います。


つまり、世の中の全ての本質をまとめて現そうとすると、何も表すことが出来なくなってしまうということなんじゃないでしょうか?


ということで、私といたしましては、「立体表現」を積極的に使って行きたいなと思っているわけです。


もともと、いま言われているような「抽象」と言う概念が現れてきたときに、「精神性」や「普遍性」を追究するための手段として現れてきたことで、「物質性」や「現実性」が排除されてしまったんだと思います。

それ自体が間違っていたとは思いませんが、理論的には間違っていなくても、「実現できないモノ」や「表現として成り立たないモノ」を「抽象表現」と言うのは、やはりチョット・オカシイと思うわけですね。


私自身も、このブログの冒頭に掲げている「宣言文」の中で、「真術」と言う「芸術の中心」に位置する領域を、「ほとんど不可能に近いもの」と言う言い方をしている部分がありますが、それは、あくまで指標としての「芸術の中心」であって、実際には、中心を目指しながら、その途中で着地することをダメだとは思っていません。


それから、「絵画」に置いて、「立体表現」を使わないことは、「絵画」の持っている、「表現力」のかなり大きな部分を失うことに成ると思います。


そういうわけで、「抽象」でも「形・重視」と言う考え方でやっております。

ただし、その「形」をできるだけ、「自作」しようと思っているというわけです。


つまり、「世の中にないモノ」を「絵の中に創り出そう」と言うわけです。
悲しいかな、出来ているのかどうかわかりません。
「ないモノ」ですから、出来ている」かどうかが確認できないんですね。


まぁ、今のところ、『確認できないということは、ないモノということなんじゃないの?』と思うことにしています。

『そんな程度でも、なんかやってるだけ、少しイイんじゃないの?』と言う風に思っています。

『でも、どこかですごく間違ってるのかも?』と言う風にも思っています。




「長期間制作」:「スロー・アート」の時代



どうも、私は絵を描くのが遅いみたいなんですね。
それで、そのイイワケとして、「長期間制作」と言う方向性を考えてみたわけです。

と言っても、必ずしもイイワケだけでもなくて、現在「芸術」が求められているのも「長期間制作」と言う方向性なんじゃないかと思っているわけですね。


つまり、何事においても、

「短時間」で「手際よく」、そして「スマート」に達成されることの方がより優れていて、「長期間かかること」や、その間の「七転び八起き的な苦闘」は、やや劣るモノと言う時代が逆転して、「長期間かかること」や「スマートじゃないこと」の方が、求められるように成って行くんじゃないかということですね。


と言うよりも、そちらにしか進む方向がないだろうということなのかも知れませんけどね。


たとえば、「食」で言うと「スロー・フード」というのがありますけど、まぁ、そんな感じに近いことだと思います。

あれは、「ナチュラル・フード」でも「シンプル・フード」でもなくて、「スロー・フード」なんですねぇ。
要するに「スローなこと自体」に価値を求めているということなんだと思います。


それと同じように、「芸術」に置いても、「長期間かけて制作すること自体」が求められるように成って行くんじゃないのか?と思っているわけです。


「スロー・アート」ですね。

これ、別の言い方をすれば、「非効率の芸術」でもあると思うんですね。


「スロー・フード」でも、『本当に美味しいものが食べたいなら、じっくり時間をかけましょう』と言うよりも、むしろ、『なんてことない普通のスープを作るのに、わざわざじっくり時間をかけましょう』みたいなところがあるんじゃないかと思うんですね。


そういう「非効率」に価値を見つけようということが、方向性として、あってもいいんじゃないか?ということですよね。


これは、本来ならば、いち早く「芸術」がやるべきことだったような気がしているわけですが、遅まきながらでも、やらないよりはやった方が、少しイイんじゃないのかなと。


そんな風に思います。


でも、私の場合、『チョット・スロー過ぎ!』なので、もう少しなんとかならないものかなと。
いくら「スロー・フード」でも、3日に一回しかご飯食べられないっていうのもね。


そんな風にも思います。
(それくらい「スロー」なんで)



「流行を追うこと」は「今を演じること」



「流行を追う」という言い方がありますけど、現代において「流行を追いかけること」と言うのは、「今を演じること」なんだと思うわけです。


要するに、「演技」の一種なんじゃないかと思うわけですね。


もし、「流行を追うこと」が「演技」なのだとしたら、それは一種の「虚像」でもあると思うんですが、どうなんでしょうね?
つまり、演じている当人の意識とは関係なく、「今」と言う台本に沿って、「演技」しているということに成るわけです。


本来的には、「流行」と言うモノは、その時代の「民衆の意識」が向いている方向に沿った形で、現れて来る”ハズ”のモノなんだと思うわけですが、現代においては、その辺のところが、かなり逆転していて、「民衆の意識」に基づいて「流行」が形成されるのではなくて、「流行」に基づいて、「民衆」がソレを台本どうりに演じさせられているということに成っているように思うわけです。

結果的に、ソコには「民衆の意識とはかけ離れた流行」と「ソレを演じさせられている民衆」が居て、言い換えれば、「虚像」だけがあって、「実像」がないということに成っているわけです。


そこで、どうして、このような「虚構の世界」が出来て来てしまうのだろうかと考えてみるわけですね。


まず、考えられることは、現在、「流行」するモノが、「マスコミ」によって配信されるモノに限られてしまっているということがありますね。

つまり、そこで、「マスコミ」が「民衆の意識」を正確に捉えられていなければ、「民衆の意識から離れたモノ」が配信されてしまうわけです。
そして、一旦「マスコミ」によって配信されてしまうと、ソレは「民衆」によって演じられて、「流行」してしまうわけですね。


この「マスコミ」の影響は、けっこう見えやすいものだと思います。
しかし、見えていても抜けられないものでもあります。

「ソノ流行」が、「民衆の意識から離れたモノ」だとわかっていても、「ソノ今」を「演技」していないと、「時代」に置いて行かれてしまいますから、それで抜けられないわけですね。


それから、もう少し見えにくい原因もあって、こちらの方が、一層厄介な気もしますね。


こちらは、「流行」と言う言葉の根本的な意味にかかわることかもしれませんが、「民衆」の中に、『自分たちで流行を作ろう!』と言う意識がほとんど無く成ってしまっているんですね。

「流行」とは、「流行っているモノに乗っかることだ!」と思っている人が多いんじゃないでしょうか?


確かに、「流行」には、そういう「ハヤリモノ」としての性質もあるんだと思います。
でも、それは、「民衆の意識」を、誰かが代弁して、「ハヤラセル」ということであって、『そうそう、こういうのが欲しかったんだよね!』と言う「民衆側の共感」があってのことで、その上で、『流行に乗っかる』があるハズなわけです。


でも、「現代の流行」では、その『そうそう』に当たる部分が抜けているんじゃないかと思うわけですね。
つまり、自分たちの意識が代弁されているかどうかということは、どうでもよくて、とにかく「ハヤッテいるモノに乗っかる」ということ自体が重要なことのように成ってしまっているわけで、そのことによって、「流行」と「民衆の意識」の逆転が起きてしまうわけなのです。


そして、やはりソコには「今を演じさせられている人たち」と「民衆の意識からかけ離れた流行」と言う「虚構の世界」だけがあって、
実体のあるモノは何一つないと言ってもいいほどなのだと思うわけです。


もう少し、『流行とは民衆が創り出すモノだ!』という気持ちがあってもいいような気がしますし、『気に入らない流行は拒否する!』という気概があってもいいような気がします。


それから、「芸術」に置いてこのことを考えた場合なんですけど、「芸術家」が「今」を演じてしまうって言うのはどうなんですか?と思うわけです。

そういうのを、私は「芸術の中心」から最も遠い位置にピンで留めて置きたく成るということですね。


そんなことを考えてみました。




「人生の突き当り」



「人生」には、いろんなところに、「突き当り」や「行き止まり」や「袋小路」なんかがあって、だからこそ、『人生はオモシロイ』とも言えますし、だからこそ、『人生はヤッカイなものだ』とも言えるわけだと思いますけど、そういう「人生の突き当り」的なモノが、人間が生きていることを、なんとなく意味のあることのように感じさせてくれているんじゃないのかな?と言う風に思っているわけです。

そして、そういう時に、人の心の中に浮かび上がってくるのが「芸術」であり、「哲学」であり、また、人によっては「宗教」なんじゃないかと思うわけです。
(私は、現代は「宗教」では足りないと思っていますけどね)

まぁ、「突き当って」行き詰っている」わけですから、普通に考えたら、イイわけがないんですけど、そういう「ドン詰まり」が、「人生」に意味を感じられるようにしてくれているような気がしているわけです。

これは、逆説的に考えるとわかることですが、そういう「突き当り」がない「人生」を想像すると、どうも、なんとなく」楽しくない気がするわけですね。


もちろん、「突き当りばっかりの人生」は勘弁してほしいもんですけど、それと同じくらい、「突き当りのない人生」も味気ないような気がするわけですね。


ある意味、「贅沢」ではあるんでしょうけどね。
「文明国における贅沢」ですね。

そう言うと、かなりイヤラシイ感じに聞こえてしまうかも知れませんけど、同じ「贅沢」ならば「物質的な贅沢」じゃなくて「精神的な贅沢」の方をチョイスしたいなと。

そんな風に言うと、イヤラシサガが少し目減りするような気がします。


「こういう時代」・「こういう場所」に生まれたことが変えられないとするならば、その中で、少しマシなことを選んでいくのが、少しイイんじゃないかと思います。
(いや、別に「もっと非文明的な環境に生まれたかった」なんて言う希望は持ってませんけど)


それはともかくとして、こんな私でも、けっこう一所懸命に「芸術」なんかやっていますけど、そういう「突き当り」を感じたりすることが無ければ、こんなに一所懸命に成って、何かすることがあっただろうか?と思うわけです。

もっと、若いときならまだしも、この年に成って(50代です)あっただろうか?と。


まぁ、たぶん無かったでしょうね。
いや、絶対ないですね。

それでも、けっこう幸福だったような気もしますし。

だったら、突き当らないと、やるわけないですよね。
それに、その後、べつに幸福度がアップしたわけでもないしね。
ややアップしたのは納得度ぐらいでしょうか。


「突き当り」の無いような「人生」をチョイスする人が居ることは、チットモ悪いことだとは思いませんけど、私の場合は、モチットだけ「贅沢」だったんでしょう。

つまり、物足りなく成ったんですね。
それで、「突き当り」に突き当たってみたわけです。

「文明国の贅沢」です。

イヤラシイですね。
でも、「物質的な贅沢」じゃないですから。

「精神的な贅沢」ですから、少しイイじゃないですか?


こういう「人生の突き当り」から生み出されるモノっていうのが、けっこう好きだったりするんですね。

「赤裸々」っていうんですか?
「正直」と言ってもいいでしょうね。


だいたい、人間って、「嘘」が多いですよね。
普通にしていても、ごく自然に「小さい嘘」をついているような気がするんですね。
そういうのが、「大嘘」と、本当の所では、大差ないんじゃないかなと思うわけです。

でも、「正直」に生きようとすると、とても疲れるんですね。
だから、「人生」の中では、「小さい嘘」を重ねながら生きていくわけですけど、自分の中のどこかに「正直な場所」を残しておきたいわけです。

それで、真面目に「芸術」なんかやって見たわけですね。


今のところ、「よかった」と思ってます。

今のところ、「やめときゃよかった」と思ったことはありません。

今のところ、この「正直な場所」に「嘘」を持ち込むつもりはありません。


アトモドリはしないような気がしますね。
「人生の突き当り」ってそう言うモノなのかも知れませんね。


「よかった」と思っているのは、「芸術」をやったことよりも、「突き当り」に突き当たったことなのかもしれませんね。

要するに、そういうのが好きなんですね。


今のところ、ですけど、そんな風に思ってますよ。



「教育主義」の政治を希望します



「民主主義」とか「自由・平等・平和」とかじゃなくて、ましてや、「経済」や「外交」なんかでもなくて、「教育」にもっと力を入れていったほうがいいんじゃないかなと思っているわけです。

例えばの話、今よりも10倍じゃなくて100倍くらいですね。
(概算です。別に85倍でもいいと思います)


と言うよりも、実際は、「政治」が管理するのは「教育」だけでいいような気もしますね。

「教育」さえしっかりしていれば、「行政」も「立法」も「司法」も、かなり大雑把な感じでやっていたとしても、致命的な問題が起きないんじゃないかと思うわけですね。


つまり、「行政」も「立法」も「司法」も、公務員が事務的に行うだけでも十分なんじゃないかということですね。

『そんなことじゃ、大事なことを決められないだろ!』と言う方も居らっしゃるでしょうが、今やっている「政治」も、それと大きな違いはないでしょうから、意外と今と大差ないかもしれませんよ。


でも、それをやる「人間」で差をつけようというわけですね。
そういう「人間を作るような教育」をやってほしいなということですね。


どんなことも全部、それを、実行するのが「人間」だとすれば、その「人間」がマトモでありさえすれば、大きな問題は起きないでしょうし、どんなにキッチリした制度を作り上げたとしても、それを行う「人間」がキッチリしていなければ何の役にも立たなくなってしまうでしょう。
(そういうのが現在の状態ですね)

そういう「人間作り」は「教育」がしっかりしていれば、ある程度は可能なんじゃないかなと。
ただし、それには100倍しっかりしないといけないかな?ということですね。
(ええ、85倍でもいいと思います)


そういう、「教育主義の政治」を行っていけば、自然と「社会」は、全体的に緩やかにいい方向に向かうように成るんじゃないかと思うわけですね。


もしも、そうなったならば、「教育」以外の部分に「政治」のような「権力構造」は、もはや不要になるはずで、むしろ、それを残しておけば、せっかくの「人間の良さ」が失われて、また元の状態に戻ってしまうような気がします。


現在、絶対的に確立される必要があるのは「人権」だと思いますが、それは、現在の形態の「政治」には不可能だと思います。

まず、「教育」をこれまでの常識をドガエシして刷新して、その「教育」の中から出て来た「人間」によって、ごく当たり前のこととして「人権」が確立されるように成って行くという方向なんだと思いますね。


その「教育」ってどういうモノなんだ?って言うことなんですけど、要するに、「人間教育」ということだと思います。

「教育の場」で「人間」について教えられていないような気がするんですね。
だから、「人間性」が欠如していくわけです。
たまたま、「親」から「人間について教えられた人」だけが、「人間性」を持って生きていて、「そうでない人」は「人間性」を持たずに生きているというのが現在の状態だと思います。

それを、ごく幼い段階から、全ての子供に平均的に「公的教育」として教えるということですね。


『人間性なんて教えられるもんじゃないだろ!』と言われそうですけど、現実に、「人間性」は受け継がれてきましたし、それは、教えられたからに他ならないわけで、誰かが、教えて来たからこそ、それは存在しているわけです。


実際には、「人間性」を教えることは出来ると思います。
「人間」は「学習する動物」ですから必要な環境が与えられて、方向を示されれば、促された方向に進んでいくんだと思います。

しかし、「人間」が「人間」としては、まだ発展途上であるために、方向が示されていないと、ちょっと前までやっていた「人間以前」の行動に向かいがちなわけです。

それで、「教育」が必要なんだと思います。


それが、自然な流れだけでは受け継がれなくなてきたわけです。
だから、敢えて「公共の教育」で教えなければならなくなったということでしょうね。


幼い段階での「均等な人間教育」を確立できれば、その後の段階での「教育」は非常に有効に成って行くでしょうし、教育に費やされる期間も大幅に短縮されるようになるでしょう。


いずれにしても、全ての子供に必用なのは、「人間教育」だけで、「その他の教育」は、そこから先に行ってから、本人に選択させればいいように思いますね。

どう考えても、今の「教育」のように、すべての子供に、あらゆる科目で、かなり高度な学問を教えたり、要求するのには、無理がありますし、意味がないように思いますね。

そういうマイナス方向の意味でも、「教育主義の政治」をやってほしいもんだなと。

そんな風に思っているわけです。



「わかりたいと思うような絵」



「抽象画」って、本当のところで言うと、作者本人以外の人には、ほとんど伝わらないんじゃないかと思うんですよね。
まぁ、それを言ったら、モトもコもないんでしょうけどね。


確かに、それでも、一所懸命にやれば、ナニカシラは伝わるんだと思いますけど、本当のところで、『作者が伝えたいようなことが伝わるのか?』って言うことですよね。

伝わらないと思いますね。


『じゃあ、なんで「抽象画」なんてやってるんだよ!』って言われるんでしょうね。

まぁ、要するに、その辺からして伝わりにくいということなんだと思います。


でも、これは当然のことなんだと思うわけです。

「具象画」が「共通言語」で話しているんだとすれば、「抽象画」は、その人の「オリジナル言語」で話しているようなものですから、なかなか相手に伝わらないのは当たり前でしょう。


それで、「抽象芸術」においては、これまでずっと見る側の人に対して「ワカレ!」と言ってきたように思います。
割と、上から「ワカレ!」と言う場合と、割と、低姿勢で「ワカレ!」と言う場合があるだけで、ほとんどの場合、どこかしらに「ワカレ!」と言う姿勢があったように思います。


また、本人が「ワカレ!」と思っていなくても、抽象芸術を取り巻く空気の中に、そういう「ワカレ!」というプレッシャーが含まれてしまっているとすれば、あえて否定しないだけでも「ワカレ!」を使ったことに成ってしまうんだと思うわけです。

とは言え、「ワカルナ!」と言うのもオカシナことに成りますし、「ワカンナクテモいいんですよ~」というのも、決して自分の作品に対して真面目な態度とは言えないと思うわけです。


「芸術作品」と言うのは、やはり「一発でワカル」と言うのを目指してしまうわけですが、「抽象」の場合、それが難しいということですね。

もちろん、先にも述べたように、ナニカシラは伝わると思います。
ある意味では、「抽象」の方がインパクトがある場合もあるでしょう。

でも、それが、作者の意図するところと、大きく”ズレ”てしまっているとすれば、それは、『「一発でワカル」に当たるのか?』ということに成るわけです。


結果的に「抽象芸術」は、作者の「オリジナル言語」で表現しようとすれば、見る側にとっては、「ワカリニクイモノ」に成り、「ワカリヤスイモノ」を目指せば、「言語」の中では、もっとも単純な「叫び」とか「溜息」とか「泣き、笑い」のような、インパクトはあるが、意味性の希薄なものしか使えないというような、ジレンマに陥っているように思います。

 ※「叫び」や「泣き。笑い」などは、人間の長い進化の過程から生まれてきたもの
  ですから、言葉以上の「意味性」を持っている場合もありますが、それと比べる
  と「抽象芸術」の歴史はあまりに短すぎると思いますね。
  だから、「強烈に伝わる」ではなく「強烈なだけ」に成ってしまうんだと思います。

  また、「叫び」や「泣き笑い」などが「強烈な意味」を伝えられるのは、実は、「共
  通言語としての言葉」との併用と言う前提があるからで、「叫び=オリジナル言
  語」だけで伝えられるものというのは、限られてしまうんじゃないでしょうか?
                

表現の幅を広げるために「抽象化」したはずなのに、かえって、キュークツな部分が出てきてしまったわけですね。


このような状況の中で、「抽象表現」は、それが「ワカル人」と「ワカラナイ人」に分離してしまっていて、基本的に、「芸術に対して特別な知識や興味がある人のモノ」と言う感じに成ってしまっているように思うわけです。
(と言うよりも、「抽象がワカル」と言う事によって、「芸術に知識や興味がある人」だと思われたりします)

「抽象芸術」に対して、理解があるとされている国や地域では、「ワカル人」の比率が「ワカラナイ人」と比べて高く成るということはあるでしょうが、「抽象芸術」が「知識や興味のある人のモノ」になってしまっているということについては、ほとんど同じことが言えるんじゃないでしょうか?

つまり、そういう国では「ワカレ!」を受け入れる人が多いというだけの違いだと思いますね。

 ※「抽象がワカル人」と言うのは、何らかの形で、「ワカレ!」を受け入れた人だと思います。
  理解力や、感性の問題ではなく、どちらかと言えば、「柔軟性」の問題でしょうね。
  「柔軟性」と言うとイイモノのように聞こえますが、実を言えば「妥協的」であるということでも
  あるわけで、それを「芸術的な立場」とは言えないと思います。

  「ワカラナイからワカラナイ」と言っただけで、また、そういう姿勢をチョット頑なに続けたと言
  うだけで、「芸術がワカラナイ人」にされてしまうということが「芸術」を閉鎖的にしていると思
  います。


でも、私の場合は、芸術で伝えたいモノがあるとすれば、それを「ワカラナイ人」の側に伝えたいんですね。
つまり、「特別な知識や興味を持っていない人たち」ってことですね。

あくまで、「”特別な”知識や興味が無い人」です。
全く興味がない人に伝えようとまでは思わないんですが、「芸術」よりも「自分の人生」や「家族」や「友人」に興味がある人たちにこそ、伝えたいと思ってしまうわけですね。


要するに「人間」を重視している人に伝えたいんですね。

そういう人にこそ伝えないと意味を成さないようなこと、それが、私が芸術で伝えたいことなわけです。
つまり、私が伝えたいのは「人間の中身」と言うことです。

で、それが「具象表現」では伝えにくいモノだということなんですよね。

それで、「抽象表現」を使うわけですが、そこで、前述のジレンマが出てきます。
「伝えたい相手には伝わらない」ということですね。


で、取り敢えず「ワカルモノ」ではなく、「ワカリタイと思うモノ」を目指しているわけです。


ワカラナイけど、ミョウに気になるから、「ワカリタク成るモノ」ですね。

特に興味がない人でも、「ワカリタイ」と思ったら、その時点で、もう興味を持っているんだと思いますから、ナニカ伝わるようになるんじゃないかと思うんですねぇ。


そこで、「オリジナル言語」を使って表現するんだとすれば、やはり、相手に聞き取りやすいように、ハッキリ、ゆっくり、発音するのがいいんじゃないかなと。

そうすれば、ワカラナイ言葉でも、なんとかして聞き取ろうとする人も居るんじゃないか?ということですね。


それで、出来るだけ「クッキリと描く」ということをいつも考えています。
「一切ボカサナイ」ということではないですが、クッキリ描けるところは、出来るだけクッキリと、『浮き立つくらいにクッキリと!!』描くことで、まぁ、ナニカ言いたいことの片鱗くらいのモノは伝わるんじゃないのかなと。


そういう風に考えているわけです。



二種類の惹きつけられるもの



人間が「惹きつけられるもの」の中には、「正」と「負」の二種類の「惹きつけられるもの」があると思うのです。

「正」の方は、人間にとって「有益なモノ」で、「負」の方は、人間にとって「害に成るモノ」ということですね。


たとえば、「正」の方で言えば、「美味しそうな木の実」とか、「美しい花」とか、「素敵な異性」とかですね。

人間は、そういう利益があって、害は無いようなものに惹きつけられることで、「トク」しようとするように、遺伝子レベルで刷り込まれているんでしょうね。たぶん。

逆に、「負」の方で言うと、「毒のある植物や動物」とか、「危険な猛獣」とか、「素敵じゃない異性」とかですね。
(いや、外見じゃなくてですね)

そういう不利益や害に成るようなものに注意を向けて、それを避けるように、やっぱり遺伝子レベルで刷り込まれているんだと思います。


そして、この「二つの惹きつけられるもの」が芸術の場に持ち出された場合、区別しにくくなると思うわけです。

どちらも同じように「惹きつけられるもの」であるために、それが「正の惹きつけられるもの」なのか、それとも「負の惹きつけられるもの」なのかが、把握しにくいんでしょうね。


まして、芸術の場に置いては、あらゆる手法がありますし、技術的にスバラシイ作品だったりもしますから、そちらに目を奪われて、それが「正」であるか「負」であるかが、見落とされてしまうこともあるんだと思います。


でも、やっぱり、芸術に置いて、「負の惹きつけられるもの」の方を使うのには、少し慎重に成ったほうがいいような気がするわけです。


はじめに述べたように、遺伝子レベルで「惹きつけられるもの」が刷り込まれているんだとすれば、当然、「負」の方が強く惹きつけられるということが出て来るわけです。

サバイバル的な意味では、「危険回避」が最優先ですから、「負」に強い興味が行くのは当たり前と言えば当たり前のことでしょう。


確かに、「グロテスクなモノ」や「恐ろしいモノ」は、非常に強く人の意識を惹きつけますが、それは、本当の意味で好まれているのとは違うような気がします。


そうした「負の要素」を使ったとしても、最終的には「正」に着地したほうがいいんじゃないかと思うんですね。

芸術はやはり「正の惹きつけられるもの」であってほしいなと思うわけですね。


そして、鑑賞者の側も、それが「正の惹きつけられるもの」か「負の惹きつけられるもの」かを、判断の基準として、しっかり持っていたほうがいいんじゃないかと思います。


芸術の場合、この判断はとても難しいので、一概には言えませんけど、少なくとも、そういう「意識」があるのとないのとでは大きな差があると思いますね。


それでないと、なぜか芸術に触れるたびに気持ちが落ち込んで、気分が悪く成るなんてことにも成りかねないので、出来るだけ、「正の惹きつけられるもの」を使って行った方がいいんじゃないのかなと。


そんなような気がします。




「自分の補色」



「色」には「補色関係」と言うのがあるわけですけど、それは、必ずしも定型的なものではないんじゃないか?と最近思っているわけです。

ある「色」に対して、その「色」の正反対の「色」を「補色」と言っているわけですが、それが、言われているほど決まりきったものでもないんじゃないかなと思うんですね。

要するに、「その人の補色」と言うのがあってもいいように思うわけです。


「補色」と言う言葉を、光学上の、「補色」と考えれば、それは決まりきったものなのでしょうが、「補色」を隣り合わせに置いたときや、重ね合わせたときに「響き合う色」と考えれば、その「響き」の感じ方の違いによって、「補色関係」も変わって来るんじゃないかと思うわけですね。


つまり、「光学的な補色」と「絵画的な補色」を、それぞれ違うものとして捉えたら面白いんじゃないかということです。
(これは科学的な話ではなく、あくまで感覚的な話です)

少なくとも、そうすることで「自分の補色」と言う感覚が生まれますし、決まりきった色使いから逃れるためのヒントにもなるような気がしています。

まぁ、幅が広がるというようなことですね。


絵を描く人ならだれでも、『これは自分の色だな』と言う感覚でとらえている色があるんじゃないかと思うんですね。
それは、単色である場合もあるでしょうし、いくつかの色を混ぜ合わせた色である場合もあるんでしょう。

だったら、「補色関係」にも「自分の補色」があってもいいわけですし、それが、いわゆる「光学的な補色」と一致している場合もあるし、そうでない場合もあっていいような気がするわけです。


確かに、「光学的な補色」は理に適ったモノでしょうし、「自分の補色」は理に適っていないモノかも知れませんけど、そういう「理に適っていないモノ」にこそ、グッ!と惹きつけられたりもするわけです。


色だけに限ったことでも無く、画面の中で、そういう「自分の〇〇」を見つけ出すことこそが、「自分の絵」そのものなんじゃないのかなと。

「イワユル・イイ絵」を描くことにどれほどの意味があるのかと。

「自分の絵」を描くことが「自己満足」なのか?
それとも、「イイ絵」を描いて、人から褒められて「イイ気持」に成ることの方が「自己満足」なのか?

または、どっちもどっちなのか?

そんなことどうでもいいのか?


と、いつも考えている人ってアホでしょうか?

『あー、そういうのは完全にアホですね!』

「同意する」



「オプティカル・カラー(オプティカル・グレー)」



前の記事に関連したことに成ります。


自分にとっての「補色関係」をみつけだしていったら、いろいろな意味で、幅が広がっていいんじゃないか?ということなんですけど、その「自分の補色」ってどんなもんなんだ?と言う話です。


それは、つまり「響き合う色の関係」だと思うわけです。

隣り合わせに置いたときや、重ねていったときに、単色では表せないような「不思議」な「色の共鳴作用」のようなものが現れてくることがあるわけですね。

そういうのを「響き合う色」と言っているわけなんです。


そういう「響き」は、人によって感じ方がかなり違うような気がしますね。

ある「色の関係」を、ある人は非常に美しいと感じるのに、他の人にとっては、なんてことないようにしか思えないというようなことがあるようです。


要するに”ビミョー”なんですね。
だから、人によって反応が分かれるんだと思います。


その「”ビミョー”な感じ」や、「不思議な感じ」の色を「オプティカル・カラー」と呼ぶことがあるわけです。
「オプティカル」と言うのは「光学的な」とか「錯視的な」と言うような意味だと思います。

つまり、光の”ビミョー”な具合で、目が錯覚を起こすような不思議な見え方を誘うような色ということなんだと思います。


この「オプティカル・カラー」は、もともと、アカデミックな技法に置いても研究されていたようで、そちらでは、おもに「オプティカル・グレー」と呼ばれていたんだと思います。

なぜ、「グレー」なのかと言うと、色と色が”ビミョー”に反応した時に「オプティカルな色」が現れるわけなんですが、その”ビミョー”な感じを調整していると、ほとんどの場合、ややグレーがかった色に近づいていくということに成るわけですね。

それから、グレーがかった色が一番「目の錯覚」を誘いやすいということもあると思います。

ただ、これは必ずしもグレーを基調にして描いて行くことに限らないんじゃないかと思っています。
古典的な技法に置いては、

グレーがかった(彩度を抑えた)色を基本にした中間色を作って描いていくことで、「オプティカル・グレー」を作ることが多いと思いますけど、実際には、グレーをほとんど使わずに「オプティカルな色」を出すこともできるんだと思っています。


確かに、グレーがかった色を使うことで、「オプティカル効果」が生み出しやすく成りますし、ある程度、計算したとおりの「オプティカル効果」を作り出すことも可能になると思いますが、反面、それはある意味での「パターン化」であって、「よくあるセンスのいい配色」と言う「予定調和の演出的」な言い換えれば”決まりきった色使い”にもなりかねないわけで、そういう「パターン化」に陥らないためには、やはり、もうチョット不安定な、「イチかバチか」な感じの色を使って行く方が面白味があるんじゃないかなと。

さらには、そういうチャレンジこそ、「自分の補色」を探って行くことの意味なんじゃないのかなと。


そして、そういうことをやって行く中で、『なんでこんな色になったの?』と言うような色合いが生まれたときには、自負心などとは全く無関係に、心から、素直な気持ちで「自分の絵」を称賛したく成るわけです。

なぜだかわかりませんけど、私はそういうときが一番うれしく思うわけなのです。


唯一の欠点は、「同じことがもう一回出来ないこと」ですね。
同じような感じでもう一回描こうとしても、ほとんど同じように成りませんね。


それでも、少なくとも「自分の補色」をいろいろなパターンで持っていれば、そういう一期一会の「オプティカル・カラー」を生み出せる確率は高くなると思うわけですね。


一回しか使えない方がイイのかも知れませんね。
「二回目」はもう「パターン化」し始めているわけですから。

と言う風に思うことにしています。


出来れば三回ぐらいは使いたいもんですけどね。

と言う風には思わないようにしています。



プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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